半月城通信
No.132 (2008.4.13)

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    目次

  1. 再び平和の島へ、済州島探訪記
  2. 再び平和の島へ、済州島宣言
  3. 外務省「竹島」パンフ批判(1)、古地図
  4. 外務省「竹島」パンフ批判(2)、竹島渡海
  5. 「竹島=独島問題ネットニュース」13、2008.3.31

  6. 再び平和の島へ、済州島探訪記  2008.3.30 メーリングリスト[zainichi:31041] 、[AML 18901]   半月城です。   済州島は、またの名を「三無島」と呼ばれました。乞食がいない、家に門がない、ド ロボーがいなかったからでした。そうなったのは三多、すなわち女が多く、風や石の多い 厳しい自然環境でお互いに助け合わなければ暮らせないので、相互扶助の精神が三無を生 んだのでした。   この平和な島に、第2次世界大戦末期に日本軍の要塞が続々と作られました。もし、 この島がアメリカ軍に占領されたら、日本は重大危機に陥るとの考えからでした。島が占 領され、朝鮮海峡や対馬海峡にアメリカの潜水艦が出没すれば、唯一の兵站基地として 残った朝鮮から日本への物資補給が途絶えたり、日本軍が分断されるので中国での戦争継 続は困難になることが明らかでした。   そうした事態を回避するために済州島は要塞の島に作りかえられました。その当時の 要塞の遺跡は現在でも多くみることができます。私はそうした遺跡をこのほどいくつか見 てきましたので、その探訪記を記します。また、資料の引用は主に塚崎昌之氏の論文によ ります(注1)。その際、カタカナは平仮名に変換しました。   1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸するや、日本軍は「本土決戦」への準備 を急ぎました。その対応マニュアルである「決号作戦」において、済州島は9カ所のアメ リカ軍上陸予想地点のひとつとされました。   他の上陸予想地点は、九州が3カ所、高知、遠州灘、相模湾、九十九里浜、鹿島灘な どですが、済州島は本土なみの位置づけでした。それほど済州島は戦略的に重要な拠点 だったわけです。   日本軍は済州島における決戦を想定して「決七号作戦」を立案しました。済州島には 「当初より有力なる兵力を配置し、独力を以て同島を確保せしむ」という方針で軍備増強 をはかりました。主力である第58軍(注2)の他に第96師団、第111師団、独立混成108旅 団、独立速射砲第32大隊、第1特設勤務隊などを配属することにしました。   その結果、45年2月にわずか 1,000名そこそこだった軍隊は、半年の間に 75,000名に ふくれあがりました。もともと人口は23万人なので、4人に1人は軍人という異様ぶり でした。さらに「本土決戦」に邪魔な住民は朝鮮本土への疎開がはかられました。   もし済州島での「本土決戦」が始まれば、島民はあるいは米軍に通じたり投降したり して日本軍の機密をもらす心配があるし、そうでなくても朝鮮人兵士が同胞住民の死を目 の当たりにして戦意を喪失したり、不測の事態を起こす可能性があるのを日本軍は憂慮し たのでした。   疎開は、銃後の支えに必要な島民を残し、主に「約5万の老幼婦女子」を陸地(朝鮮 本土)へ送りこむ予定でした。しかし、第1回避難民を乗せた船が木浦沖でアメリカの爆 撃で沈められ、不幸にも500名が遭難したため、計画は途中で放棄せざるを得ませんで した。   当時、戦局はますます悪化する一方だったので、島の要塞化には拍車がかかりました。 その際に島民は軍事要塞の建設にかり出されました。沖縄戦が始まったばかりの4月2日 には沖縄戦の教訓から「那覇方面の情勢に鑑み済州島向輸送は極力繰上げ実施の要ある」 とされ、軍需物資が続々と済州島へ運ばれました。   そうした物資の輸送などに島民が総動員されました。それが軍の記録にみえます。陸 軍の第58軍参謀長は5月2日、第17方面軍参謀長に「島民総出動に依り滞貨処置 本 日より開始」と報告しました。   強制労働は、こうした雑役にとどまらず、飛行場の建設や陣地構築などにもおよびま した。その代表例として済州島の西南端、大静邑にある海軍のモスルポ・アルトル飛行場 をあげることができます。塚崎昌之氏はこう記しました。        --------------------   米軍の空襲や砲爆撃で「重要」な人や物資を喪失しないように、それらを地下に格納 する工事が始まった。戦闘司令室、航空兵のための兵舎、弾薬庫、燃料庫、飛行機の修理 工場、魚雷調整庫、通信室等々、様々な施設の地下化が図られた。   また、飛行機は有蓋掩体(えんたい)に格納されることになった。有蓋掩体とは、厚 いコンクリートでドームを半分に割ったような屋根を作ったものである。その上には土を 被せ、上空から場所が判明しないように秘匿が図られた(注3)。   そのためのモスルポの済州島航空基地施設が行われ始めたのは一九四四年一〇月上旬 からである。・・・・『大静邑誌』では、この拡張工事に朝鮮人労働者が島内から動員さ れ、一日四千五百名働かされたことになっている。   地下壕を掘る作業は、壁に1mぐらいの細い穴を空け、そこにダイナマイトを押込み、 発破をかける。そして崩れた岩石、土砂をトロッコに積み、外に運びだす。トンネルの天 井、側面を鶴嘴(つるはし)等で整形をし、天井が崩落する危険性があるところには、坑 木を立てたり、コンクリートで巻いたりするという順で行う。   敗戦時に、設営隊がダイナマイト三一、八八一個、カーリット三二、五二〇個をもっ ていたことから、火薬はかなり潤沢にあったと考えられる。ただ、空気圧搾機が一台、削 岩機が二台、コンクリート混和機が二台などしかもっていなかったところを見ると、発破 をかける作業以外はほとんど人力での作業であったことがわかる。   ダイナマイトの不発弾や天井の崩壊の恐怖。トロッコ押しや鶴嘴を天井に向かって振 るう作業のきつさ。労働は厳しく、危険なものであったことに間違いない。また、日本軍 が食糧の備蓄に懸命になっているときに、朝鮮人労働者に潤沢な食事が与えられたはずも ない。        --------------------   海軍のモスルポ飛行場は 1937年の南京虐殺事件直前に行われた南京爆撃の出撃基地 でした。最初、南京爆撃は長崎県の大村から行われましたが、大村部隊が南京により近い 済州島に移り、そこから本格的な渡洋爆撃が行われたのでした。   そのモスルポ飛行場の要塞化に朝鮮人労働者が強制動員されましたが、その数を塚崎 氏は一日に1500人程度とみているようで『大静邑誌』と違っていますが、いずれにしても 突貫工事に大勢の朝鮮人労働者が強制的に動員されたようです。   海軍はこの飛行場のすぐ近くに特攻兵器の基地も設けました。モスルポ松岳山(ソン アクサン)ふもとの海岸に洞窟を掘り、特攻兵器の格納庫を設置しました(注4)。また、 その近くに「トンアル・オルム」地下壕を掘り、陣地を構築しました。   特攻兵器とは、人間魚雷の回天を始めとして、特殊潜航艇の咬龍、有翼潜水艇の海龍、 モーターボートの震洋などで、いずれも人間が運転して敵艦に激突し、爆薬を爆破させる 自爆兵器です。海軍は、もはや人間の命と引き替えにした自爆兵器でしか戦えないところ にまで追い込まれていたのでした。   余談ですが、松岳山ふもとの洞穴は、韓流ドラマで「チャングム」が韓国で初めて帝 王切開を行った場所とされ、現場にはドラマの主役であるイ・ヨンエを描いた看板が掲げ られました。ご存知の方も多いことでしょう。   この洞穴で実際に配備されたのは震洋のみで、他は配備が間に合わなかったようです が、こうした基地が済州島には全部で5カ所も設けられました。場所は、日の出の名所と して名高い東端の城山里日出峰(イルチユルボン、注5)や、リゾート地で有名な南部の 西帰浦三梅峰(サムメボン)、北村里犀山岳(ソウサンアク)、高山里水月峰(スウオル ボン)などです。   一方、陸軍はこのような海軍の要塞、とりわけモスルポ飛行場を冷ややかにみていま した。その実態を塚崎氏は次のように分析しました。        --------------------   陸軍と海軍の意志の疎通は図られず、別々の決戦準備が進められていた。日本陸軍と 海軍がことごとに対立していたことは有名な話である。   済州島でも陸軍はたびたび海軍の準備に対しクレームをつけた。四月二二日、第九六 師団長は「海軍特攻基地の洞窟は外海に正対し 外海より直視し得るもの多く観察せら る」と第五八軍参謀長に報告した。   六月一六日、東京から第一七方面軍参謀長に送られた済州島に関する指示事項の電報 文には「海軍飛行場の無用工事は中止する如く海軍に交渉中」とある。   また、七月三〇日の朝鮮軍管区司令部が出した「軍令部々員との連絡事項」には「海 軍の飛行部隊運用と勘案し 要度低き基地は成るべく事前に於て破壊致したく 特にモスル ポ」とあり、米軍の上陸予想地点の至近にあり、へたをすると直ぐに占領されてしまう可 能性が高い基地を陸軍が持て余していたことがわかる。ただし、同じようなロケーション にある陸軍の済州西飛行場に関する言及は無い。        --------------------   陸軍の方針は、済州西飛行場(現在の済州空港)を別にして、敵に発見されにくい地 下壕を掘り、要塞を作ることでした。地下壕の総延長は 50kmにも及ぼうかという大規模 なものでした。済州島は軽石のように小さな穴のあいた火山岩が多いので、長野県の松代 大本営に比べ、地下壕の構築は容易だったようでした。   陸軍は、1945年4月から6月にかけて内陸部に持久戦用の地下壕を数多く掘りました。 特に西南地区にあるカマ(釜)オルムの地下壕は大規模で、内部は迷路のように複雑であ り、司令官室や会議室など多くの小部屋まで作られました。   そうした軍事施設の強制労働にかり出された朝鮮人の証言の一部を塚崎氏は次のよう に記しました。        --------------------  (1)「城山浦は……全羅道の人々が徴用されてきていた。済州島の人じゃなかった。… …徴用された人々とは、和順(全羅南道-塚崎注)の炭鉱労働者だったとも伝えられてい る。」「韓国歴史漫歩」第33回『月刊韓国文化』  (2)「(済州島航空基地)第三次工事は……満十八歳以上の男子住民が一カ月交替で済 州島全域から動員されて強制労働させられました。」「韓国歴史漫歩」第34回  (3)「飛行場建設のために、島の一般住民である朝鮮人たちが戦時動員され、強制労働 をさせられた。それに対し、山岳地帯の陣地や、海岸の特攻基地建設などでは秘密保持を 理由に、一般住民ではなく兵隊たちが動員させられた。一九四五年八月の時点で、日本軍 の数は約六、七万人だったが、そのうち約二万人が朝鮮人の兵隊だった。漠奉山中腹の御 乗生(オスンセン)岳をはじめ、観音寺、鹿山場などの巨大な『陣地構築』にはすべて朝 鮮人の兵隊があてがわれたという。」『韓国 近い昔の旅』 二二一頁  (4)「御乗生岳の地下にぐるぐると螺旋状にトンネルを掘り、頂上のトーチカに連結さ せる工事だったんですよ。……とんでもない大工事だったよ。すべて人間の手でやったん だからね。……あまりの辛さに何度も逃げ出したいと思ったよ。一回の飯は飯盒(はんご う)の中盒一杯に、おかずはたくあん二切れ。もういつもいつも腹が減ってしかたがな かったよ。」  『韓国 近い昔の旅』 二二一頁  (5)「徴用、徴兵以外にも……飛行場建設、および陣地構築のための土掘作業に各村の 住民を強制動員させて労役をさせた。村別に人口数に比例して動員人数を割り当て労役期 間は二カ月ずつであった。農繁期には労働力不足を補うため十代半ばの少年たちが労役に 従事したりした。強制労役の対象者は十六~六十歳の間……」  『済州島四・三事件第一巻』二八頁  (6)「日帝が『国民能力申告令』によって強制動員した労務者の歳は、一般的には、満 十六~五十歳未満であった。しかし、済州島ではこの基準は守られなかった。下貴里住民 の主張では、人手が足りない場合には六十歳、ひいては七十歳のお爺さんまでも動員され ることがあったという。  チョントルとチントル、そしてモスルポのアルトルには、いわゆる〝ハンバ″という収 容所建物が数十軒ずつ建てられ、一所に一〇〇人から二〇〇人が詰め込まれて酷使された。 解放直後アルトルとチョントルの飯場で数十人、数百人の遺体が発見されたという話もあ る。」『済川島四・三事件第一巻』 二八頁  (7)「父も済川島の軍用飛行場の建設に強制動員されて、何週間も家に帰ってきません でした。やっとの思いで、夜中に帰ってきたと思ったら、今度は何日間も病床で過ごすよ うな状況だったことを覚えています。」『灯台No493-2001.10月号』一八頁  記述はバラバラで正確さを欠くところがあるが、様々な朝鮮人たちが日本軍の施設工事 に動員されたことはわかる。軍の兵士として、「陸地」からの軍属・徴用者として、済州 島の住民の勤労動員として、徴用・勤労動員でどれだけの人数が強制労働させられたかは、 全くたどる資料がない。  ただ、神谷氏が証言等から判断していることはほぼ正しいと思われる。済州島航空基地 や済州東飛行場の整地など一般的な工事は地元住民。陣地作りや地下壕掘削は、兵士や徴 用者、特に「陸地」からの朝鮮人が多かったと思われる。        --------------------   戦時中で軍隊による強制徴用となれば、さぞかし苛酷な状況下でいやおうなく働かさ れたことでしょう。そうした過去の歴史を明らかにすることにより、戦争の悲惨さや愚か しさを噛みしめ、平和のために何をすべきかを考える、そうした目的のために、カマ・オ ルム地下陣地脇に「平和博物館」が2004年に建てられました。同館の設立趣旨文はこう記 しました。        --------------------   ここは太平洋戦争当時、日本軍が駐屯していた坑道陣地である。後世の人達が戦争の 現場を訪ね、過去の歴史を正しく学び反省することによって和解の花が咲く平和の殿堂に なるだろう。二度とこの地に戦争の砲声が響かぬよう祈る心で、その証拠物を集め、ここ に博物館を建てる次第である。        --------------------   平和博物館はカマ・オルム地下要塞を維持・公開するとともに、戦争遺物や資料など を展示しています。先日訪れた時、意外なことに日本の平和憲法「九条の会」や「名古屋 三菱女子勤労挺身隊員 訴訟を支援する会」関連の特別展示がありました。平和を希求す る日韓連帯の動きとして注目されます。 (注1)塚崎昌之<済州島における日本軍の「本土決戦準備」>『青丘学術論集』   第22集,2003 (注2)第58軍司令部跡の写真 (注3)海軍のモスルポ、アルトル飛行場の掩体格納庫 (注4)海軍のモスルポ、松岳山の特攻兵器の格納庫 (注5)海軍の城山里日出峰(イルチユルボン)特攻兵器の格納庫 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 再び平和の島へ、済州島宣言  2008.4.2 メーリングリスト[zainichi:31045] 、[AML 18941]   半月城です。前回「再び平和の島へ、済州島探訪記」を記しましたが、その続編を記 します。   1945年、済州島が日本軍により要塞の島へ作りかえられたことは前回紹介したとおり で、日本はアメリカ軍の済州島への上陸を8月下旬以降と予測していました。もし、日本 の終戦が遅れていたら、済州島は戦禍で潰滅したかも知れません。   幸い、日本は8月15日に全面降伏したので、沖縄の二の舞は避けられました。それ もつかの間、済州島はその後の米ソ対立の影響をもろに受け、1948年には悲惨な4.3虐 殺事件が起き、不幸にも3万人以上の人が犠牲になりました(注1)。   このような不幸な歴史を再び繰りかえすまいという決意を新たにするため、済州島は 「世界平和の島」宣言を次のように行いました。        --------------------   大韓民国政府は済州道が三無精神の伝統を創造的に受け継いで、済州4.3の悲劇を 和解と相生で昇華させて平和定着のための頂上外交の精神を受け継いで世界平和に寄与す るように済州国際自由都市特別法 第12条の規定によって済州道を世界平和の島に指定す る。・・・・   大韓民国政府は「済州世界平和の島」指定をきっかけに世界平和増進に邁進すること を対内外に闡明(せんめい)する。  2005年1月27日          大統領 盧武鉉        --------------------   この宣言文は、日本の平和憲法前文をちょっと想起させます。ところが、最近、この 宣言に逆行するかのように、済州島を、かの話題豊富なイージス艦の母港とする海軍基地 の建設計画が持ちあがりました。その計画が「世界平和の島」宣言にとっていかに危うい か、「済民日報」(2007.5.17)はこう論評しました。        -------------------- 「誰に向けられた軍事基地か」   2005年 平和の島指定からわずか2年、中国をねらった軍事要塞化に   国際自由都市推進、特別自治道運営に障害も憂慮   済州は2005年、世界平和の島に指定され、2006年には国際自由都市として順調に発展 するよう「済州特別自治道」の地位を得た。しかし、海軍基地の建設は「世界平和の島」 指定の趣旨をそこなうことはもちろん、国際自由都市推進にも悪影響をおよぼすなど、済 州の特別な名誉と権限を失墜させると憂慮される。  ・・・・・   済州が韓国で唯一、政府の公式な平和都市に指定されたのは、済州がもつ地政学的な 位置や、無辜の道民の犠牲で点綴(てんてい)された苦難の歴史が背景にある。   これまでの済州島は、高麗時代に100年にわたり蒙古による占領期の試練を受けたり、 朝鮮王朝時代には配流の地に転落した悔しさを味わった。日帝時代には大陸進出のための 軍事要塞に様変わりし、太平洋戦争がもう少し長引いていたら、すんでのところで灰燼に 帰するところであった。多くの道民の犠牲をだした4.3は、韓国現代史の最大の悲劇で ある。  「平和の島」指定は、このような苦難と試練の歴史を経験した済州をこれ以上の紛争や 犠牲がない、東北アジアの平和地帯、世界平和地帯の再誕生をめざした趣旨であるという のが当時の政府、済州道の説明であった。   さらに、済州は大陸と海洋の交差点であり、東北アジアの中心に位置し、勢力緩衝の 役割と和解地帯をになった平和の島、国際自由都市としての役割を存分に遂行できると強 調した。 ○東北アジア「平和地帯」でなく「戦争地帯」になるのか   しかし、苦難の歴史に終止符を打ち、紛争のない平和の島として再びやっていこうと する道民の期待は、わずか2年で台無しになりそうである。道議会すら無視して、海軍基 地の建設強行という済州道当局の一方的な政策決定が強行されたのだ。   国防部・海軍によれば済州に造成される海軍基地は、今のところイージス艦1隻、駆 逐艦4隻以上を含む1箇機動戦団および2個潜水戦隊などを収容する12万坪の規模である。   ・・・・   道軍事反対対策委は、済州の海軍基地は中国に対する前哨基地としてアメリカの軍事 戦略上いつでもアメリカMD体系に編入されると指摘している。現行の韓米相互防衛条約 にしたがい、韓国はアメリカが基地提供を要求すれば拒否できないなど、どうあってもア メリカの軍事戦略と連動するしかないというのである。   また、済州海軍基地の建設計画について中国国営の新華通信などが何度も済州島南端 に予定される海軍基地の規模などを含め警戒の報道をしていることなどを考えあわせると、 済州の地政学的特性上、対中国の前哨基地になるのは不可避であるという指摘である。   このように、済州軍事要塞化政策が推進されると、道民はつい2年前の、東北アジア の平和と繁栄の「世界平和の島」になるという期待とは違って、済州が東北アジアの軍備 競争と紛争の中心地である「世界戦争の島」に陥るのではないかという憂慮をぬぐえない でいる。・・・・ ○国際自由都市をめざした特別自治道の出帆に「逆行」   済州海軍基地の建設は、平和の島は無論のこと、国際自由都市への跳躍にも障害にな ると憂慮される。しかも、基礎自治団体を廃して少なからぬ陣痛の末に出帆した特別自治 道の趣旨にも逆行するという指摘である。   2006年7月1日、済州が特別自治道の地位を得た理由は、高度の自治権・制度的基盤を 活用し、投資の誘致、地域開発の活性化で東北アジアのハブである国際自由都市として歩 みたいという趣旨である。   しかし、海軍基地の建設が強行された場合、特別自治道が最大の市場としてもくろん でいる中国などとの連携に少なからぬ障害になるという指摘がある。        --------------------   済州島に軍事基地を建設するのは「世界平和都市宣言」の精神にそぐわないし、その うえ、中国を暗黙のターゲットとしているのでは中国との交流が阻害されるし、国際自由 都市宣言にふさわしくないのは明らかです。   しかし、基地を建設すると経済的なメリットがあるので、その誘惑は断ちがたいよう です。日本の岩国基地の例を彷彿させます。   海軍基地問題は済州島の与論を二分しました。解決策として、現地で世論調査が行わ れました。調査は韓国ギャラップにより行われましたが、その結果は済州道全体では調査 対象1500名のうち、賛成が54.3%で反対の38.2%を上まわりました。また、基地の候補地3 カ所ではそれぞれ1000名を対象に調査が行われ、賛成率が高かったのは西帰浦市テチョン 洞カンジョン村で賛成が56%でした。   基地誘致に賛成したカンジョン村会の尹会長は「農産物の自由化で沈滞した景気がよ くなるとは思えない。海軍基地の誘致で村の発展の景気ができた」と、その思いを語りま した(注2)。   昨年、韓国は自由貿易協定をEUや多くの国と結び輸出を伸ばしましたが、そのしわ 寄せが農家を直撃したようでした。最近、農産物は安い中国産におされ、農家は苦しい生 活を強いられているようです。   そうした事態は充分に予測できただけに、自由貿易協定に対する農民の反対運動は根 強く、香港やワシントンにまでデモ隊が押しかけ、世界中にアピールしたのは記憶に新し いところです。   済州道当局は世論調査結果を大義名分に基地建設の受け入れを正式に決めました。そ れを受けて、海軍基地予算として174億ウォン(約17億円)が国会で認められました。   ただし、予算は反対派に配慮し、港を民間も活用できるように「軍民複合型寄港地活 用のクルーズ船舶活用に関する妥当性の予備調査および研究委託」という名目で認められ、 予算の実施は済州道との協議を経て執行するとの付帯条件が付けられました。このままい けば、残念なことに来年から「世界平和の島」に軍事基地の建設が始まりそうです。 (注1)済州島4.3事件  第二次世界大戦後、東アジアの新たな国際秩序が形成されるなか、米軍政下の朝鮮半島 南端済州島で、1948年4月3日、植民地支配の遺制や警察・右翼青年団の暴力、南朝鮮単独 選挙による朝鮮分断に抵抗する蜂起が発生した。  それに対する軍・警察の弾圧過程で発生した武力衝突と無差別虐殺により、漢撃山の禁 足令が解除される1954年までに3万人を超える島民が犠牲になった。  この四・三事件は長い間、暴力的に歴史の闇に葬られ、人びとの記憶までもが抹殺され た。しかし、1980年代以降、韓国および日本での四・三真相糾明運動は韓国の民主化運動 とともに本格化し、ついに1999年12月、金大中政権が「四・三特別法(済州四・三事件真 相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法)」を制定するに至った。  特別法に基づく国家次元の真相調査の結果、『済州四・三事件真相調査報告書』が発表 され、虐殺の責任は当時の李承晩政権と米軍政にあることが公式に認められた。それを受 け2003年10月31日、盧武鉉大統領は済州島に赴き、四・三事件における国家公権力の過ち に対して正式な謝罪を表明した。  現在は、済州国際空港をはじめとした集団殺戮現場での遺骸発掘が国家事業として進め られているほか、済州市の東側120万坪の敷地に1千億ウォンをかけ犠牲者を慰霊する四・ 三平和公園が造設され、今年4月には同敷地内に資料館が完成する。さらには、より一層 の真相究明、四・三平和財団の設立、遺族に対する補償問題、平和・人権教育への反映と いった取り組みが続いている。  (済州島四・三事件60周年事業実行委員会のパンフレットより転載)  四・三事件記念事業として済州民族芸術代表団来日公演や金石範氏の対談などが大阪(4 /19),東京(4/21)で行われます。詳細は 06-6754-4356、03-5689-4070まで。 (注2)東亜日報、2007.05.14 「済州道、カンジョン村に海軍基地建設を受けいれ」(韓国語) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 外務省「竹島」パンフ批判(1)、古地図  2008/ 4/12 Yahoo!掲示板「竹島」No.16407   半月城です。   外務省は、これまで北方領土問題に関するパンフレットは熱心に発行しても、竹島= 独島問題に関するパンフレットはまったく発行しませんでした。ところが今年2月、北東 アジア課が「竹島問題を理解するための10のポイント」と題してパンフレットを初めて 発行したので注目されます(注1)。   そのパンフレットで一番の注目は、竹島=独島を版図外とした明治政府の太政官指令 をどう記述するのかという点でした。しかし、その記述はなく、肩すかしに終りました。   かつて、外務省は韓国の通信社「聯合ニュース」から <日本政府は「獨島は日本と 関係がない」と結論付けた『太政官指令文』の内容をどのように評価されますか>との質 問を受けていました。   これに対して外務省は「太政官指令文の存在を知っている。この問題に対しては現在 調査中であり、現時点で答えることはできない」とか、「まだ調査中」との回答のまま現 在に至りました(注2)。   それから2年も経つのに、外務省が今回のパンフレットでも太政官指令にまったくふ れなかったのは、外務省にとって都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその 事実を内外にどう公表すべきかで結論がでなかったのか、ともかく煮え切らない態度です。   この太政官指令は同省の主張する「竹島は日本の固有領土」というキャッチフレーズ に反するだけに、同省にとってはアキレス腱的な存在になっているようです。   その点、島根県は潔く太政官指令を認める公式見解を出しました。それを『フォトし まね』161号「竹島特集」に見ることができます。同書は、<太政官は、同島(欝陵島) と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の 竹島とみられる>と記しました。   すなわち、島根県は太政官が竹島=独島を版図外にしたと解釈しました。いずれ外務 省も島根県の見解に賛成するのでしょうか。   外務省は、このように最も肝心なことを隠したままパンフレットを発行したのですが、 一事が万事、外務省にとって都合の悪い資料は公表しない姿勢で一貫しているようです。 その具体例はおいおい書くことにして、このシリーズではパンフレットを項目順に見るこ とにします。 1.古地図   外務省曰「日本は古くから竹島の存在を認識していました」   パンフレットは日本が竹島=独島を熟知していた例として長久保赤水の「改正日本輿 地路程全図」(赤水図)の1846年版を載せました。赤水図は7回出版されたのですが、 1846年版は6回目の出版であり、弘化版とよばれます。   パンフレットは、本文で赤水図の初版を1779年と紹介しながら、より資料価値の高い 初版である安永版の地図を載せず、かわりに弘化版をカラーで載せたのですが、これはど うもふに落ちません。   よく知られているように、安永版は諸国の色分けに際し、竹島・松島の色を隠岐国と は異なり、朝鮮と同様に無色にしました。もし、この安永版を載せたら、見る人に竹島・ 松島は日本領外であるとの印象を与えかねないので、わざわざ竹島・松島が隠岐国と同じ 色に彩色された弘化版を選んだのでしょうか。   さらに気になるのは、なぜ外務省は赤水図を持ちだしたのでしょうか。領有権論争に おいて重要なのは官撰書や官撰図であり、赤水図などの私撰図は単なる参考でしかありま せん。   そうした観点からすると、官撰書の『隠州視聴合紀』は、日本が竹島=独島の存在を 知っていた好例ですが、これにパンフレットは一言もふれていません。これらの問題につ いては第3回「領有権」のところで書く予定です。 (注1)外務省『竹島問題を理解するための10のポイント』 (注2)保坂祐二「<竹島問題研究会>「最終報告書」の問題点」『独島=竹島論争』  (韓国語)ポゴサ刊、2008、P244 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 韓国語版「外務省「竹島」パンフ批判」 外務省「竹島」パンフ批判(2)、朝鮮史書  2008/ 4/12 Yahoo!掲示板「竹島」No.16409 2.朝鮮史書   外務省曰「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」   パンフレットは、この表題につづけて韓国の主張をこう記しました。        --------------------   例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗実録地理誌』 (1454年)や『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要 覧』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから 認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張しています。        --------------------   外務省のいう「韓国側」とは何を指すのか不明ですが、少なくとも韓国政府が日本政 府に宛てた公式の反論に『三国史記』は登場しません(注1)。外務省は幻の主張に振り まわされる一方で、重要な『世宗実録』地理誌への反論はないようです。   同書に「于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明 であれば望見することができる」とありますが、この記事こそ「韓国が古くから竹島を認 識していたという根拠」として韓国政府が強く主張したのでした。   かつて、外務省の川上健三氏はその主張に反論するため、欝陵島から竹島=独島は見 えないと主張したくらいでした。その主張は、欝陵島で少し高いところへ行けば充分見え ると反論され、川上氏の努力は徒労に終りました。それほど重要な文献である『世宗実 録』地理誌にパンフレットは一言もないようです。   つぎに、パンフレットはこう記しました。        --------------------   また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された 『輿地志』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主 張しています。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島とし ており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではな いと批判する研究もあります。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性 の低い供述(5.参照)を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考』(『彊界誌』)、 1756年)を底本にしていると指摘しています。        --------------------   この文に外務省の調査不足が露呈しているようです。というのも、『輿地志』の本来 の記述は、決して「于山島と欝陵島は同一の島」としているのではなく、別々の島である と記述しているからです。ここにいう『輿地志』は柳馨遠『東国輿地志』とされますが、 同書の口語訳は下記の通りです(注2)。        -------------------- 于山島、欝陵島   一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわし く空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもと の砂浜、渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于 山、欝陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。        --------------------   この文は官撰書である『東国輿地勝覧』と完全に同じです。といっても剽窃ではあり ません。元来『輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的は『東国輿地勝 覧』の「増修」にありました。   当時、名著の『東国輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あっ たので、その増補を目的に『輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように 変動がない記述はそのままにされました。   つまり『東国輿地勝覧』も『輿地志』も于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を単 なる一説として書いたのでした。したがって、外務省の解釈は明らかに誤りです。   外務省がそのような初歩的な誤りを犯したのは、パンフレットが述べる、ある「研 究」をウノミにしたからでしょうか。その研究とは下條正男氏の研究を指すようです。下 條氏はこう記しました。        --------------------   オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島 の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していな かった、ということである(注3)。        --------------------   下條正男氏のように、資料の一部分だけを意図的に取りあげれば、資料の著者の見解 とは正反対の解釈すら可能です。『輿地志』は本説で于山島と欝陵島を別々の島にし、一 説で両島は本来一島としたのですが、下條氏は一説の記述のみをとりあげ、『輿地志』の 見解とは正反対の見解を、さも『輿地志』の見解であるかのように記しました。   これは下條氏のいつもながらの我田引水的な手法なので驚くにはあたらないのですが、 外務省はその誤った恣意的な解釈をそのまま信じ、原典を確認するという基本的な作業を 怠ったたようです。   その埋め合わせなのか、外務省は下條氏の見解を同省の公式見解とせず、そうした 「研究もある」と周到に逃げ道を用意してパンフレットを製作したようです。姑息なやり 方ではないでしょうか。   パンフレットの説明では『輿地志』と『彊界考』などの関係がわかりにくいのですが、 『輿地志』は申景濬により『疆界考』および官撰書である『東国文献備考』の分註に次の ように引用されました。 『疆界考』(1756)   按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 欝陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに  二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり 『東国文献備考』「輿地考」(1770)   輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島  なり   一般に、古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがっ て、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしま せん。   『輿地志』の原文を分析すると、『疆界考』の場合は下條氏がいうように「一説に于 山 欝陵は 本一島」が『輿地志』の引用文であり、それ以下は申景濬の見解であることが わかります。申景濬は『輿地志』や『東国輿地勝覧』に参考として書かれた一説(一島二 名説)を完全に否定するため、ことさら『疆界考』でその一説を特記したとみられます。 その一方、当時は本説である二島二名説は自明であったためか、分註で特にふれなかった と見られます。   つぎに『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、 それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが 『輿地志』からわかります。   一時、私は『東国文献備考』においての引用文献名を『疆界考』とすべきなのに申景 濬は誤って『輿地志』にしたのではないかと考えたこともありました。しかし、やはり上 記のように解釈するのが妥当ではないかと思います。もちろん、くだんの下條正男氏がい うような史書の「改竄」などはなかったというべきです。   両書において申景濬が分註の後半で「于山は倭の云う松島」という趣旨を書いたのは、 安龍福事件の影響とみられます。1696年(元禄9)、安龍福は竹島(欝陵島)から松島(子 山島)を経由して来日し、隠岐島などにおいて「江原道の内に子山と申す島があり、これ を松島という」と訴えました。   安龍福は同様の供述を朝鮮でもおこなっており、それが朝鮮で于山(子山)は日本の 松島であるとの認識を生み、上記の両書に反映されたようでした。安龍福の供述は虚実こ もごもですが、かれが松島(子山島)、すなわち竹島=独島を正しく把握していたことは 確かなことです。   おわりにパンフレットは『新増東国輿地勝覧』の付属絵図を批判しましたが、そもそ も絵図は地図と違って、不正確なのが特徴です。しかも『東国輿地勝覧』のように16世 紀の絵図とあっては、離島などはその位置や大きさなど、ほとんどデタラメに近くて当然 です。   外務省は、于山島は「鬱陵島よりはるかに小さな島として描かれるはずです」と記し ましたが、そうした批判は絵図でなく地図に向けられるべきです。   その点、外務省が竹島=独島を「的確に記載している地図」としている長久保赤水の 「地図」には外務省の批判がストレートに当てはまります。同図は竹島と松島を同じくら いの大きさで描いているので、外務省の「大きさ」批判にまったく耐えられません。さら に、同図における竹島・松島の位置は、もちろん実際とは違っています。   19世紀の赤水の地図ですらこのような有様です。ましてや16世紀の絵図を取りあ げて、何か議論すること自体、ほとんど無意味です。絵図は、単に当時の人々の空間認識 を絵で表現したにすぎません。   さきの『新増東国輿地勝覧』の付属絵図でいえば、これは単に東海に于山・欝陵の二 島が存在するという空間認識を表現したと理解すべきであり、それ以上の議論は本末転倒 です。 (注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両政府の見解」『レファレンス』2002.6月号 (注2)『東国輿地志』「于山島 欝陵島」の原文 (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 韓国語版「外務省「竹島」パンフ批判」 竹島=独島問題ネットニュース 13   2008.3.31                  竹島=独島問題研究ネット発行  記事一覧 1.独島キャラクターが登場 2.江原道、異斯夫将軍の宣揚事業を推進 3.寄付金を銀山保全などに活用 4.独島研究機関を統合した協議体、あす発足…慶北 5.竹島の日 まず関心持つことから 6.地元から声/風化ならぬ/問題意識低い 7.独島関連団体ら、「竹島の日」で島根県に抗議 8. 「竹島」条例の影響は沈静化 9.日韓市民座談会に100人 10.学校副教材作成へ 県予算案、関連事業1100万円計上 11.松江駅前で竹島広告塔除幕式 12.県土・竹島を守る会が街頭アピール 13.竹島返せ! 韓国総領事館前で抗議デモ 大阪 14.独島を韓国領と記した日本地図発見、保坂世宗大教授 15.韓国語の新刊書  記事詳細 1.独島キャラクターが登場  中央日報、2008.3.21 独島を所轄する慶尚北道(キョンサンブクド)は、独島領有権の広報に向けたキャラク ター開発事業のスタートから8カ月後の21日、独島の2つの島(東島・西島)を擬人化 したメインキャラクター「ドクトラン」と、そのメンバーとなる「アンジャングン(安竜 福将軍)」、「テジャングン(新羅の将軍)」、「ホンデジャン(洪淳七独島守備隊 長)」、「アラ(海獅子)」、「ドクトナレ(ウミネコ)」、以上5のキャラクターを完 成した、と発表した。 2.江原道、異斯夫将軍の宣揚事業を推進(韓国語)  毎日経済ニュースセンター、2008.3.9  江原道の環東海出張所は9日、現在の欝陵島である于山国と独島を新羅に帰属させた海 洋開拓の先駆者である異斯夫将軍の魂を宣揚するための事業を本格的に推進することにし たと明らかにした。 3.寄付金を銀山保全などに活用  中国新聞、2008/3/29  島根県は28日、国のふるさと納税制度導入を見越し、4月1日から受け付ける寄付金の 活用事業を公表した。世界遺産に登録された石見銀山遺跡(大田市)の保全や日韓両国が 領土権を主張する竹島(韓国名・独島(トクト))問題の啓発など7事業・計21項目。都 市部からの寄付や、他自治体との違いを意識した事業を盛り込んだ。 4.独島研究機関を統合した協議体、あす発足…慶北  聯合ニュース、2008/02/25 11:34 KST 【大邱25日聯合】独島の領有権を強化し、その地位と価値を確実なものとするため、 慶尚北道が26日、地域の大学を中心に分散している独島関連研究団体を統合した協議体 を発足させる。  現在、道内にある独島関連研究機関・団体は、慶北大学の鬱陵島・独島研究所や嶺南大 学の独島研究所など大学付属研究所5カ所と、大邱慶北研究院に入る鬱陵島・独島発展研 究会の、計6カ所。道は26日、各研究機関・団体関係者と「慶尚北道独島研究機関によ る統合協議体の相互協力に向けた協約書」を交わし、統合協議体を構成する。独島に関す る研究が体系的・総合的に行われるようにする方針だ。 5.竹島の日 まず関心持つことから  中国新聞、2008/2/22  竹島の日は、島根県が国に先んじて独自に条例制定した。国の及び腰もあり三年たって も竹島問題への理解が国民に浸透しているとはいえない。「固有の領土」と明言する以上、 領土問題は国が取り組むべき問題であろう。政府広報としてテレビや新聞でアピールする 「北方領土の日」に比べても政府の冷たさが際立つ。・・・・  県による昨夏の意識調査で竹島に「関心がある」県民は64・1%いるものの前年調査 より5・3ポイント減少。「関心がない」人も6・0ポイント増加したことだ。地元県以 外の関心度が気になる。 6.地元から声/風化ならぬ/問題意識低い  読売新聞、2008.2.23  3回目を迎えた竹島の日。式典会場では多くの県民が問題解決に向けた思いを新たにし た。一方、「国がもっと積極的に取り組むべき」「関心が低くなっている」との声も聞か れた。・・・  韓国の領土権を主張する、同国の民間団体メンバーが式典会場周辺で、「竹島の日は直 ちに廃棄せよ!」と書いた横断幕を掲げて行進。県庁前で「日本政府は『独島強奪の陰 謀』を直ちに中断せよ」と叫び、抗議文を県担当者に手渡した。 7.独島関連団体ら、「竹島の日」で島根県に抗議  聯合ニュース、2008/02/22  【ソウル22日聯合】2月22日を「竹島の日」に制定し記念行事を行っている日本の 島根県に対し、独島守護隊、独島義勇守備隊同志会、独島郷友会など独島関連団体らが、 「明白な独島侵略行為」とする内容の抗議文書を送った。独島守護隊関係者が22日に明 らかにした。同様の抗議文は駐韓日本大使館にも送付したという。 8.「竹島」条例の影響は沈静化  中国新聞、2008/2/22  日韓関係を揺さぶった島根県の「竹島の日」(2月22日)条例制定を受け、友好提携を 結ぶ韓国の自治体と交流中断などの影響があった中国地方の8県市町のうち、島根県と三 次市を除く6県市町で交流が回復している。22日に3度目の「竹島の日」を迎える中、竹 島=韓国名・独島(トクト)=問題による自治体交流への影響は沈静化しつつある。 9.日韓市民座談会に100人  朝日新聞、2008.2.22  県が条例で定めた「竹島の日」(22日)を前に、日韓両国の市民が竹島問題を話し合 う座談会が20日夜、市民ら約100人が参加して松江市内で開かれた。「両国の友好の ために共同管理してはどうか」とする日本側の意見に対し、韓国側は「領有権を決めるの が先だ」と主張。議論は平行線をたどったが、会場からは率直な話し合いを評価する声が 相次いだ。 10.学校副教材作成へ 県予算案、関連事業1100万円計上  毎日新聞 2008年2月23日  (島根)県は来年度の当初予算案に竹島関連事業として1100万円を計上し、広報啓 発に力を入れている。  県と県教委は、竹島問題を扱った小学校高学年や中学生向けの新しい副教材の作成に着 手する。隠岐の島町教委が昨年5月、独自に副教材を作り、竹島に関する授業を実施。こ れを全県に広げるのが狙いで、県作成の啓発ビデオも活用して郷土学習の一環として取り 上げる。教材の監修を務める「Web竹島問題研究所」のスタッフからは「教科書検定で 竹島が取り上げられたといってもほんの2~3行。とても授業できる状況ではない」など の意見が出た。 11.松江駅前で竹島広告塔除幕式  山陰中央新報、2008.2.21  島根県が竹島問題を啓発する広告塔が二十日、松江市朝日町のJR松江駅前に設置され た。現地で除幕式があり、関係者四十人が竹島(韓国名・独島)の早期領有権確立に向け、 決意を新たにした。  広告塔は高さ四メートル、幅〇・八五メートルの三面張り。各面に「竹島かえれ島と海」 「竹島は我が国固有の領土です」などと表示している。 12.県土・竹島を守る会が街頭アピール  山陰中央新報、2008.2.18 島根県が定めた「竹島の日」(22日)を前に、全国の有志でつくる「県土・竹島を守 る会」が17日、松江市朝日町のJR松江駅前で街頭活動を行い、竹島の日をアピールす るとともに、竹島問題の早期解決を訴えた。 13.竹島返せ! 韓国総領事館前で抗議デモ 大阪 産経新聞、2008.2.23  わが国固有の領土、竹島(島根県隠岐の島町)の不法占拠を続ける韓国政府に抗議しよ うと、「竹島を守る会関西」(西秀士代表)は23日、大阪市内でデモ行進を行い、約1 20人が韓国総領事館(中央区)前などで気勢を上げた。同会によると、竹島の領有権問 題をめぐり関西で抗議行動が行われるのは初めて。 14.独島を韓国領と記した日本地図発見、保坂世宗大教授  聯合ニュース、2008.2.22  保坂教授は、今月初めに日本国内のある図書館で1894年に発刊された「新撰朝鮮国 全図」という彩色地図を発見したとし、21日にカラーコピーを中央日報へ公開した。地 図には独島と鬱陵島が韓国の土地と表示されていると説明し、「日本人が19世紀末の明 治時代に、独島は朝鮮の領土との事実を知りながらも、無理を押し通したということを示 す明らかな証拠」と話した。 15.韓国語の新刊書  省略



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