半月城通信
No.108(2005.2.13)

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    目次

  1. 変質する脱北者支援
  2. 近代の日韓における攘夷
  3. 埼玉県と新羅郡
  4. スサノオと新羅
  5. スサノオの降臨地「ソシモリ」
  6. スサノオと埼玉県の氷川神社
  7. 高句麗から出雲および東国へ

  8. 変質する脱北者支援 2005.1.23 [zainichi:28512]   半月城です。   最近、北朝鮮を脱出する人、いわゆる脱北者が増えるにしたがい、脱北者への支援も 変質しつつあるようです。脱北者支援は今ではほとんどビジネス化していると同時に、国 際政治に翻弄されているようで気がかりです。   日本では安倍晋三・自民党幹事長代理が「脱北者を支援することで、現政権の変化を 助長する。レジーム・チェンジ(体制転覆)も念頭に法律をつくらなければならない」と 語り、アメリカをまねて日本版の「北朝鮮人権法案」をもくろんでいるようです(3)。   一方、韓国では逆に脱北者への支援を縮小する方向にあり、脱北者定着支援金を2800 万ウォン(約280万円)から1000万ウォンと大幅に引き下げようとしています。支援金が 重荷になっているようです。昨年は、脱北入国者が約2000名なので、支援金の支払いは50 億円くらいになるものとみられます。   支援金の引き下げには市民団体が反発しており、北韓民主化運動本部は「政府は海外 滞留脱北者の支援と保護に関して一言半句もないまま、ブローカーの商行為と企画脱北を 防ぐためというのは、脱北支援団体の人道的支援活動まで封鎖しようとする意図」との声 明を発表しました(4)。   同運動本部によれば「海外脱北者はブローカーの助けを借りてこそ入国できる」そう ですが、今や脱北者支援はほとんどブローカー中心のビジネスになった感があります。   一時はNGOによる「企画脱北」も盛んだったのですが、それは効果をねらいすぎた のがあだになったのか、企画脱北は韓国政府からすら忌避されるような存在になりさがっ てしまいました。   そこまで落ちてしまったのは「ボートピープル」事件が大きな転機になったのではな いかと思われます。2003年1月、韓国のNGO「トリハナ宣教会」とドイツのNGOは協 力して中国に潜む脱北者80名を中国山東省の煙台(エンタイ)港から密出国させる「ボー トピープル」計画を実行しようとしました。   その計画は中国の法律に大々的に挑戦する大胆なものだっただけに、あっけなく中国 の公安によって一網打尽になりました。もちろん、これを計画した崔氏や報道写真家など は中国での監獄暮らしを強いられました(5)。   この事件について日本のNGO「北朝鮮難民救援基金」の加藤博氏は「煙台の事件は 非常にバカげた事ですね。何のためにやったのかわからない」と酷評しました(1)。こう した派手な事件のたび毎に中国当局がNGOに警戒を強め、取り締まりを強化するように なったのはいうまでもありません。   うえのように語る加藤氏も一時は中国の公安に拘束され、2002年11月に国外追放の身 になりました。拘束されたのは加藤氏だけではありません。記憶に新しいところでは、同 基金の野口孝行氏も脱北者らとともに2003年12月に逮捕されました。その結果、NGOの 中国での活動はますます困難になりました。   こうした内外のNGOは脱北問題を広くアピールし、北朝鮮の体制変革をもくろむ政 治運動が主目的なのか、報道機関を積極的に活用しているようです。そうした努力の成果 なのか、日本でも脱北者たちが外国公館へかけこむ映像がしばしばテレビで流されました。 とくに印象的な映像としては下記の事件がありました。  2002.5.8. 瀋陽の日本領事館へハンミちゃん家族のかけこみ事件  2004.9.1 北京日本語学校への進入事件   これらの事件は報道機関と用意周到に打ち合わせて実行されたことはいうまでもあり ません。ブローカーはNGOの協力を得てか、韓国や日本の報道機関からお金を集めたよ うでした。   日本のテレビ局はかれらと覚書をかわし、脱北者の進入先が日本以外の外国公館の場 合は70-100万円を、日本の公館の場合は120-150万円を支払うとの約束をしたようでした (1)。まるで、日本の公館へ進入することをそそのかしているかのようです。   テレビ局は視聴率をあげるためにはお金に糸目をつけず、よりセンセーショナルな映 像を買いあさった結果なのでしょうが、テレビ局はブローカーの商行為を金銭援助したこ とになることはいうまでもありません。   これは「ヤラセ」まがいの行為ですが、テレビ局は真実を報道するという使命感どこ ろか、商業主義に徹しているようです。それを陰で支えているのはもちろん視聴者という ことになりますが。   ブローカーは商売なので、テレビ局以外にもちろん出国希望者からお金を集めるので すが、その額は一人当り55-65万円(日本円)が相場とされるようです。   昨年9月のカナダ大使館進入事件では、ブローカーは出国希望者を4組に分けました。 斡旋料が後払いの人は、先陣の第1組で塀をよじ登り鉄条網を切って進入路を切りひらく 役目をになうか、あるいは時間切れでつかまる危険があるシンガリの第4組に入れられま した。   一方、斡旋料を一部先払いした人は、より安全な第2組あるいは第3組に入れられまし た。何事もお金次第できまるようです(1)。   なお、亡命希望者がブローカーに払う費用ですが、多くの人は韓国へ到着してから支 払うという「覚書」を書かされているようです。これは、最初に紹介した韓国の脱北者定 着支援金が担保とされます。   斡旋費用ですが、中には「相場」を大きく上回って125万円を取られた人もいるよう です。お金を出さないと北へ残してきた家族の安全を保障しないといわれれば、脱北者た ちはブローカーの意のままになるしかないようです(1)。   このように、定着支援金がブローカーを太らせてきたともいえますが、中には悪質な ブローカーもいるようです。   昨年4月、24名の脱北者が一人当り40万円くらいを払い、ブローカーの斡旋でモンゴ ルへの越境を試みました。ところが、悪質なブローカーはかれらを国境のはるか手前で降 ろし、そのまま置き去りにしました(1)。詐欺まがいの行為です。   一行は雪の草原で方向もわからず、寒中を長時間さまよった末、やっと6名は越境に 成功しましたが、17名は逮捕されました。残る一人は逮捕の際に抵抗したのか、悲惨にも 中国の公安当局によって射殺されました。   亡命希望者ですが、以前は食うに食えず、生活苦から脱北した人が多かったのですが、 最近はお金を稼ぐため脱北し、ふたたび北朝鮮へ帰る人も多いとのことでした(1)。脱北 の目的も徐々に変わってきているようです。   そしてついには、そのように北朝鮮と韓国を行き来する人の中からスパイが現れ、衝 撃を与えました。昨年、ある男性は北朝鮮にもどった時に当局から韓国でスパイ活動をせ よとの指令を受けたと韓国当局へ自首しました。   この事件は、脱北者の中には最初からスパイ目的で韓国へやってきた人がいるかもし れないという疑惑を韓国社会にうえつける結果になりました。脱北者には寒風になるよう です。   以上のような事実を考慮する時、ここで脱北者を支援することの意味をあらためて慎 重に吟味する必要がありそうです。人道的な支援以外に副次的効果や副作用があまりにも 大きくなっているためです。   とくに昨年はアメリカの北朝鮮人権法が成立しただけにその影響は重大です。アメリ カが脱北者を支援する組織へ2000万ドルを拠出するというニュースが韓国に伝わるや、そ の拠出金目当てと思われる団体が増えたりしました(1)。   韓国政府は一応この人権法を歓迎はするものの、この法律は北朝鮮との対立を煽り、 核問題の解決に影響するとの懸念も政府内に出ているようです(2)。   一方、中国はアメリカの人権法に真っ向から対抗するようで、持田直武氏はこう観測 しました。        --------------------  中国外務省の章啓月 報道副局長は10月28日の記者会見で、脱北者の外国公館や外 国人学校への集団駆け込みを斡旋する組織やグループを「蛇頭」と呼び、今後取り締まり を強化すると述べた。  蛇頭は密入国を斡旋する犯罪組織の名称であり、章啓月副局長の発言は中国政府が脱北 者の支援組織も犯罪組織と同じに扱うという強い姿勢をあらたに打ち出したことを示して いる。  米国が北朝鮮人権法で脱北者の支援組織や個人に対して資金援助をするとの姿勢を打ち 出したのとは真っ向から対立することになる。  この章啓月副局長の発言に先立って、中国警察は26日北京市内のアパートを急襲し、 隠れていた脱北者62人と支援組織の韓国人2人を逮捕した。また、その後も別の場所に 隠れていた脱北者10人と支援組織の韓国人1人を逮捕したという。  章啓月副局長は28日の記者会見で、この脱北者たちの扱いについて「人道主義的精神 と国際法、国内法に基づいて適切に処理する」と述べ、脱北者については人道主義的な措 置を取る可能性を示唆した。  しかし、支援組織の韓国人に対しては、「密出入国を支援した疑いが明らかになれば処 罰する」との強い立場を示した(2)。        --------------------   中国政府は、昨年9月、韓国大使館へかけこみを狙っていた脱北者に銃を発砲したよ うですが、ここにも中国政府の覚悟のほどが現れているようです。そのうらには北朝鮮の 強い働きかけがあったことでしょう。同国はアメリカの人権法に猛反発していることはも ちろんです。   ここで日本がアメリカをまねて北朝鮮人権法を作るとなると、国際的な確執はさらに はげしくなることはまちがいないようです。関係各国の脱北者に対する取り組み姿勢はま さに国際政治の縮図ともいえます。   脱北問題の根本的解決は、もちろん北朝鮮住民が貧困苦から抜けだすことにあります。 北朝鮮政府にその解決が無理な現状において、国際社会はアメリカのように北朝鮮の体制 転覆をはかるのか、あるいは韓国や中国のように経済支援を模索するのか、二極分化しつ つあるようです。 (1)韓国MBC-TV番組、PD手帳「脱北させてあげます」2004.12.7  この番組は、下記に登録すれば視聴可能です。 <mbc番組アーカイブ> (2)<米制定の北朝鮮人権法をめぐる確執> (3)朝日新聞<自民、北朝鮮人権法案作成に着手 脱北者支援盛り込む>2005.1.12 (4)ハンギョレ新聞<脱北者団体、政府新政策に反発(韓国語)>2004.12.24 (5)朝鮮日報<脱北者支援中に拘束された夫を助けて>2004/08/27 定着支援金の額 [zainichi:28519] 2005.1.26   脱北者定着支援金ですが、2004年12月に改定になったようです。入国時に住宅賃貸費 用として750万ウォン(?)、以後は3か月毎に120万ウォンが5年間払われるようです。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    近代の日韓における攘夷 2005.1.10 メーリングリスト[zainichi:28477]   半月城です。   Re:[zainichi:28467] >わが国の近・現代史を読むとバカ先祖らの不甲斐なさというより百年前のあの旧守派儒  者(私のヴューでは何も考えてはいけないのが儒学)どもの破壊行為に恨みが募ります。   おそらく黄さんはちがうのでしょうが、わが国の植民地化をもっぱら守旧派指導者の 責任にする意見をよく耳にします。   その当時、先見の明をもった偉大な指導者がいて、国を正しい方向に導いたのなら、 韓国は不幸な結果にはならなかったことでしょう。しかし、もしそのような指導者がいた としたら、それはラッキーというものです。卓越した指導者は滅多にいるものではありま せん。   幕末の日本ですら、そのような指導者は存在しませんでした。それでも日本は植民地 にならずにすんだどころか、隣国を植民地にするような強大国になりました。   幕末の指導者たちは、先見の明をもっていたかというと、むしろ逆です。当初、かれ らは西欧文明に対し朝鮮と同じようにやみくもに攘夷を実行したくらいで、とても時代を 正しく読んでいたとはいえませんでした。   攘夷の強硬派である長州藩は信念の攘夷を実行した結果、外国から手痛い反撃を食 らったし、藩は内紛で混乱状態でした。いや、長州藩だけでなく、日本全体が血みどろの 犠牲を払って学習しました。日本はその巨大な代償の中から西欧列強の狼どもに対処する 方向を模索していきました。   それに反して朝鮮は狼どもを前にして、いかほどの犠牲を払ったでしょうか? 神の ような指導者が現れないかぎり、狼どもを前に血みどろの犠牲は必須だったと思います。 朝鮮の場合、その犠牲が植民地だったともいえるのではないでしょうか。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    埼玉県と新羅郡 2005.1.2 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#11301   半月城です。   埼玉県の高麗郡にひきつづいて、今度は新羅郡について書くことにします。武蔵国の 新羅郡は758年に設置されたことが『続日本紀』に記されました。   天平宝字2年(758) 8月24日 「帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を、武蔵国の未開発地に移住させた。こ こに初めて新羅郡を設置した」   僧など 70人そこそこの人を未開発地に移して新しい郡をつくるなんて、にわかには 信じがたい記事です。おそらく、その時点ですでに新羅郡の基礎ができあがっていて、そ れを発展させるために朝廷は新羅の帰化人を派遣し、郡を新たにもうけたと思われます。   それを裏づけるかのように、それ以前に新羅人が武蔵国へ移住させられたことが『日 本書紀』につぎのように記されました。   持統元年(687)4月10日条 「筑紫大宰が投化した新羅の僧尼および百姓(ひゃくせい)の男女22人を献じた。武蔵の 国に居住させた。田を分かち与え、穀物を授けて生業に安んじるようにした」   持統4年(690)2月25日条 「帰化した新羅の韓奈末(かんなま、役人)許満(こま)ら12人を武蔵の国に居住させた」   武蔵国のどこに新羅人が移されたかは明らかになっていませんが、おそらく冒頭に書 いた、のちの新羅郡ではないかとみられます。   その当時、日本はかつての敵国である唐とは外交関係を絶ちましたが、新羅とは友好 関係を回復して頻繁な交流をおこないました(注1)。7世紀末の白鳳時代、日本が外国の 先進文化を導入した先は新羅がすべてといっても過言ではありませんでした。   そうした交流の一例として、日本は新羅から僧をおおぜい受けいれて新羅仏教の興隆 をはかりましたが、そうした僧や、あるいは役人たちを武蔵国などへ配置したとみられま す。   そのようにして開発が進行したところへ新羅郡が設置されたと思われますが、その性 格について同郡をひきつぐ新座市の教育委員会HPはこう記しました。  「そのころ新座の周辺は、律令政治により先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわ れました。天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、市域はその郡下に属しま したが、生産技術や生活文化の面で大きな影響を受けたものと考えられます」 <新座の歩み>   ここで新座市のいう「政治的移住」の意味ですが、これは天平時代の新羅「征討」計 画と関係があるかも知れません。8世紀になると日本は政策転換して、敵国であった唐に 対してへりくだって朝貢を行うと同時に、新羅と対立していた渤海と国交を開き、新羅と は盛んな交流のかたわらで時には衝突するような間柄になりました。   対新羅関係の一端は、唐の玄宗皇帝への朝賀(753)における日本と新羅の席次争いと して『続日本紀』に記述されました。ただし、これは歴史的にはあり得ないこととして李 進煕氏が反論しています(注2,P97、注5)。   この後しばらくは『続日本紀』に新羅関係の記述がないので、表面的な対新羅関係は 平穏だったようです。そうした中、5年後の758年に冒頭の新羅郡が設置され、さらに 2年 後の4月28日「帰化した新羅人131人を武蔵国へ定住させた」とされました。   しかし、その裏で対新羅関係は年毎に悪化していったようで、その前後の成りゆきを 『埼玉県の地名』事典はこう記しました。        --------------------   天平年間(729-749)から新羅との関係は不調であったが、天平勝宝4年(752)新羅王子 金泰廉ら700余名もの大使節団が来日し、日本側は危機感をいだいた。   翌年正月には唐の玄宗皇帝のもとでの元日朝賀において、日本と新羅の席次争いが生 じた。このようなことから藤原仲麻呂政権は新羅征討を計画し、天平宝字3年(759)から軍 船の建造をはじめ、大宰府に諸準備を命令した。   このとき日本の戸籍に付されていた新羅人で帰国を願う者の送還も行っている。この ような政治情勢を背景として新羅郡が設置されたと考えられる。   また当時 武蔵守には高麗郡出身で藤原仲麻呂側近の有力者であった高麗福信が就任 しており、新羅郡の武蔵国への設置は福信の存在によることが大きかった。   仲麻呂は祖父 藤原不比等の時代に分立され、橘 諸兄政権のもとで合併された能登・ 安房・和泉の三ヵ国を再分立するなど、地方政治にも意欲をみせていたといわれ、新郡の 設置もその一環であったと思われる(注3,P85)。        --------------------   752年、新羅華厳経の精華とでもいうべき東大寺の大仏が完成しましたが(注4)、その 開眼供養に合わせるかのように新羅から王子の金泰廉がやって来ました。その大使節団は 国家貿易の性格を帯びていたのであり、日本側が危機感をいだくようなものではありませ んでした(注5)。   また、新羅への帰国希望者の送還ですが、これは開戦前に敵国人を送還するのとはだ いぶおもむきがちがうようで、『続日本紀』はこう記しました。        -------------------- 天平宝字3年(759)9月4日   天皇は大宰府に次のように勅した。   近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や 労役の苦しみをのがれるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中をおしは かると、どうして故郷を思わないことがあろうか。   よろしくそれらの人々に再三質問して、帰国したいと思う者があったら、食料を給し て自由に帰らせるように。        --------------------   このように「征討」の緊迫感はほとんどみられません。また「軍船」の建造にしても 三年計画ののんびりしたもので、『続日本紀』はこう記しました。        -------------------- 天平宝字3年(759)9月19日   船500艘を造ることになった。北陸道諸国に89艘、山陰道諸国に145艘、山陽道諸国に 161艘、南海道諸国に105艘で、いずれも農閑期をえらんで営造し、三年以内に完成させる こととした。新羅を征討するためである。        --------------------   悠長な計画はほかにもみられます。少年たちに新羅語を習わせるというもので、『続 日本紀』761年正月9日条に「美濃・武蔵二国の少年それぞれ30人宛に新羅語を習わせた。 新羅を征討するためである」と記されました。   この記事はどうも疑問です。新羅語を母語とする人の帰化が絶えることがないほど多 いはずなのに、どうしてわざわざ少年たちに新羅語を習わせる必要があるのでしょうか?   これは、渡来一世の帰化人は使えないが、来日して数世代を経た渡来人の少年たちな ら、新羅語が不自由でも使い道があるというのでしょうか?   また、当事者の少年たちですが、かれらは新羅語を習って日本に貢献するつもりだっ たのでしょうか? そうだとすると、新羅郡は反新羅国の雰囲気がまさっていたのかもし れません。   いろいろな疑問がわきますが、それはさておき、日本の新羅「征討」計画にはそれほ どの緊迫感がみられないので、あるいはこの計画の真のねらいは国内対策だったのかもし れません。李進煕氏はこう記しました。        --------------------   八世紀に入って、新羅と日本の関係が再び緊張するのは事実で、それは北方での渤海 の建国(713年)と南方からの倭寇の出没のせいだった。高句麗の後裔と称し、719年に第二 代王となった武芸は武力で渤海国の版図を拡大する。   そこで新羅は721年、人民を徴発して北辺に長城を築き、翌年には倭寇に備えて毛伐 郡に城を築く。いっぽう、唐、新羅と対立する渤海は 727年、高仁義を日本に派遣する (第一回渤海使)。新羅を牽制するのがねらいだったが、日本は翌年夏に一行を送り届け る送使として62人の使節を派遣する。   そして731年には倭寇(三百隻)が新羅の海岸を襲う。新羅の対日不信感を増大させ たのはいうまでもない。  『三国史記』の 742年十月条に、「日本国の使者がきたが、これを受けつけなかった」 とあり、753年八月条には「日本国の使者がきたが、彼らは傲慢でしかも無礼だったので、 王(景徳王)は会わずに追い返した」と記されている。  『続日本紀』をみると、この年の二月条に小野朝臣(あそん)田守を遣新羅使に任命し たと記すが、その後のことにはふれていない。その小野は 756年に遣渤海使として派遣さ れ、二年後に第四回渤海使・楊承慶と一緒に帰国する。   このとき、実力者の藤原仲麻呂は楊を自宅に招いて歓待し、翌年(759)六月には太宰 府に「新羅侵攻を準備せよ」と命じている。   この記事をもって、藤原は渤海と組んで南北から新羅を攻める計画を進めたと解釈す るけれども、本当のねらいは対外問題で国内の緊張をあおることにあって、新羅を攻撃で きる力など備えていなかった。   そのころ飢疫と蝦夷地支配の困難さが重なり、律令体制がゆらいでいたのである。そ して764年には藤原自ら反乱をおこすのだが、その鎮圧に檜前忌寸(ひのくまの いみき) 263人、秦(はた)忌寸31人が活躍したというのも見逃せない。いうまでもないことなが ら、檜前忌寸は高市郡を中心に居住する東漢(やまとのあや)氏であった(注2,P98)。        --------------------   日本は飢饉に疫病、それに朝廷の内紛や、ついには計画推進者である藤原仲麻呂の陰 謀までがくわわり、とても新羅「征討」どころではなくなったようです。   さて、「征討」計画後の新羅郡ですが、名前が新座(にいくら)郡になったことが 『倭名抄』(930年代)に記されました。さらに中、近世には新倉(にいくら)郡と書か れました。   新倉郡の範囲は、現在の埼玉県 新座市(にいざし)、和光市、朝霞市、保谷市(東 京)と、志木市の大部分および練馬区の一部を含む広大な地域になるようです(注3)。 また、新羅ゆかりの名前は現在でも新座、新倉のほかに、志木(しき)、志楽木(しら き)郷などの地名が残っているようです。   その一方で、この地方には新羅ゆかりの著名な古代神社はあまり知られていないよう です。しいてその痕跡をさがすと、和光市新倉の氷川八幡社あるいは熊野神社が該当する のでしょうか、出羽弘明氏はこう記しました。        --------------------  (氷川八幡社の)『神社の栞』によれば祭神は素佐嗚命(スサノオノミコト)と誉田別 (ホムタワケ)命の二神である。社殿は八幡神社社叢の森の中にある。本殿は切妻造。   氷川神社社の本殿の背後に、元宮と書かれた小さな祠(ほこら)がある。唐門付きの 屋根を持つ。鳥居が立ち特別の区画になっている。この祠は現在の氷川神社とは別の神を 祭ったものであろう。   地元の人々の伝承では「モトミヤサマ」と呼んでいる産土(うぶすな)神である。 『和光市史』に次のような説明がある。  「元宮なる社は元々の土着の神で早くから入植していた新羅の王子を祭っていたのでは ないだろうか。近隣の高麗川には高麗若光王を祭った高麗神社がある。その後 時代の変 遷と共に祭神の素戔嗚尊は氷川(肥川)の神 即ち出雲大社の神として残り、神仏習合の 思想の影響もあり八幡の神を祭ったのではあるまいか。あるいは秦氏族が当地にも入り八 幡信仰を崇拝したものか」。   いずれにしても、元宮は「新倉神社」または「新羅神社」であろう。  ・・・   和光市白子(しらこ)に熊野神社がある。元来は氷川神社であったと言われている。 白子は新羅の転訛したものであり、新羅の人々が拓いた村落の名称である。したがってこ の熊野神社も元々は白子(新羅)神社であろうか。   戦国時代の文書の中には、白子郷の名が見られる。元禄の頃(1688-1704)には白子 郷は上、下に分村したようである。   上白子は現在の東京都練馬区 北大泉のあたりで、下白子は和光市白子に当る。白子 川(旧新羅川)で区分されている。文明18年(1486)に三井寺の長吏道興が武蔵国を訪れて いる(埼玉県神社府『埼玉の神社』、『和光市史』ほか)(注6)        --------------------   新羅系の渡来人は、どこでも神社と格別に縁が深かったので、武蔵国の新羅人も神社 を祭っていたと思われますが、どうもはっきりしないようです。それが氷川神社だったの かもしれません。氷川神社が祭るスサノオは新羅と縁が深いことはいうまでもありません (注7)。 (注1)半月城通信<倭と新羅の関係> (注2)李進煕『日本文化と朝鮮』NHKブックス,1995,P98 (注3)『埼玉県の地名』平凡社,1993 (注4)半月城通信<東大寺の国際性> (注5)半月城通信<正倉院と国際交流> (注6)出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社, 2004,P138 (注7) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    スサノオと新羅 2005/ 1/10 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#11311   半月城です。   みなさんは初詣にどこの神社へいかれたでしょうか。各地にはスサノオを祭る神社が 多いので、スサノオに願をかけた人も少なからずいることでしょう。   Re:11306, kuronekodaiouさん >スサノオが朝鮮と関係が深いということですが、これはむしろ後の習合であって出雲の  神話ですよね。   スサノオと新羅とのかかわりは「出雲の神話」というより「ヤマトの神話」といった ほうが適切かもしれません。   出雲の神話は『出雲風土記』がもとになっていますが、そこにスサノオはあまり登場 しません。あの有名なヤマタノオロチ退治の説話すらありません。これらは記・紀に書か れているので、むしろヤマトの神話といえます。   主題の新羅との関係ですが、これは『日本書紀』のみに記されました。まずは、それ をピックアップすることにします。同書は、高天原(たかまがはら)を追放されたスサノ オが行った先は新羅であるとして、こう記しました。        --------------------  『日本書紀』神代、上   一書はいう、素戔嗚尊(スサノオノ ミコト)の行為は無軌道だった。神々は千もの 科料を課し、ついに追放した。このとき、スサノオはその子の五十猛命(イタケル)をつ れて新羅に降りていき、曾尸茂梨(ソシモリ)というところに居た。   そして「この地はおれの居たくないところ」とことあげした。とうとう埴土で船を造 り、それに乗って東に渡った。そして出雲の国の簸(ひ)の川のほとりにある鳥上の峯に 着いた。   ときに、そこには人を呑む大蛇がいた・・・。   はじめ五十猛命は天から降りるとき、たくさんの樹木の種子をもってくだった。しか し、韓の地には植えずにことごとく持って帰った。そして筑紫より始めて、およそ大八洲 (おおやしま)国の内は播殖して青山にしないところはなかった。   それゆえ、五十猛命を有功の神と称するのである。紀伊の国に鎮座の大神がこれであ る。   一書はいう、素戔嗚尊は「韓郷(からくに)の島には金銀がある。もしわが子の治め る国に(韓にわたる)舟がないとよくない」といい、すぐにひげを抜いて散らかした。杉 になった。   また胸毛を抜いて散らかした。これはヒノキになった。尻の毛はマキになった。眉の 毛はクスとなった。そしてその用途を定めてこうとなえた。  「杉とクス、この両樹は舟にせよ。ヒノキは美しい宮を造る材とせよ。マキは現世の人 民が奥城(墓)に臥す具をつくれ。また食べられるたくさんの木の種はすべてよく播いて はやしなさい」   素戔嗚尊の子を五十猛命といった・・・。この三神ともよく木の種を分布した。それ で紀伊の国に移し奉った。そのあとで素戔嗚尊は熊成の峯に居て、しまいには根国に入っ た。        --------------------   なお、スサノオが降った場所を『日本書紀』の他の一書は、出雲や安芸としてこう記 しました。  「一書はいう、スサノオは天より降って出雲の簸の川のほとりに到着した」  「一書はいう、この時、スサノオは下って安芸国の可愛の川のほとりに到着した」   こうした一書の記述から、スサノオが高天原から追放されて最初にどこへ降りたった のかが、相当古くから興味をもたれていたようです。これについて皇国史観論者の金沢庄 三郎はこう記しました。        --------------------   釈日本紀 巻七にも「祇園(京都八坂神社)は異国の神を号(なづ)くに然らざる か」という問いに対して、「先師申して云はく、素戔嗚の尊 初めて新羅に到る。日本に 帰りたまひて之の趣を記すに見当る、之に就きて異国の神の説有るか」とあって、まず新 羅国に降臨したことを認めている(注1,P70)。        --------------------   スサノオの降臨はどうせ説話なので、スサノオが高天原から日本へ直接来ようが、あ るいは新羅を経て日本へ来ようが、どちらでもいいようなものですが、ここの掲示板では 「スサノオが朝鮮と関係が深い?」などと目くじらをたてて、新羅とのかかわりを快しと しない人もいるようなので、ちょっと一節つけ加えてみました。   現在、日本でスサノオやその子孫を祭る神社は、おそらく数のうえで一、二を争うよ うですが、それほどスサノオは日本の精神世界にしっかり根づいているようです。そのス サノオが新羅から来たとあっては、心中穏やかでない人もいることでしょう。スサノオの 渡来を出羽弘明氏はこう書きました。        -------------------- 素戔嗚命の渡来   (滋賀県)三井寺の新羅神社の祭神は素戔嗚命である。日本の各地には素戔嗚命やそ の子神が沢山祭られている。素戔嗚命は新羅神社以外でも祭られている。   これは、平安時代以降、素戔嗚命が韓半島から渡来した人々の共通の神となっていく ためである。仏教との集合で牛頭(ごず)天王とも言われている。   大阪八尾市の許麻(こま)神社、枚方市の百済王神社なども牛頭天王を祭っている。 しかし、新羅神社について言えば、素戔嗚命を祭っていたのは新羅系の人々、あるいは源 氏の武将 新羅三郎義光の子孫に係わる人々である。素戔嗚命を祭った神社の数の多さは 渡来系の人々が如何に多かったかを物語っている。   素戔嗚命については、姫路市の広峯神社の説明によれば「素戔嗚命は武塔天神、武大 神、新羅国明神、白国明神、白国大明神、兵主神、牛頭王の異名を持つ。薬師如来の転身 である」という。   三井寺の『寺門伝記補録』や、丹波の溝谷神社の説明ではさらに多くの名称が挙げら れている。  『出雲風土記』には「神須佐能袁命の国を須佐と定めた」とあり神を冠している。藤貞 幹『衝口発』は新羅第二代の王、南解次次雄(なんかい じじゆう)と素戔嗚命とは古音 相通ずとし「辰韓は秦の亡人にして、素戔嗚命は辰韓の王なり」と述べている。   水野祐『入門・古風土記』は <素戔嗚命は新羅から出雲へ移動してきた移住者集団 が奉祀していた神である。古くは出雲や隠岐など日本海沿岸では須佐袁・須佐乎・須佐 雄・荒雄・雀雄というような字音をもって表す「スサヲ」の神という神の信仰があった。 さらに新羅第二代の王の「次次雄」は「スサング」と同義語で巫を意味する」>と説明し ている。   次次雄の時代は紀元4-42年であるので、素戔嗚命はその頃の神であろうか。李炳銑 『日本古代地名の研究』には須佐は「城を意味し 城主である男尊である」と説明してい る。   素戔嗚命は子神の五十猛命とともに新羅に降り、曾尸茂梨(新羅の首都)に住んだが、 そこにいることを望まず 出雲国の鳥上山に到ったと言われているので『記紀』に記載の 渡来神の中では渡来が最も古い。   当然、ニニギ命の降臨より古い。素戔嗚命は新羅の神(人)なのか、加耶あるいは倭 人なのかはっきりしないが、半島と倭国を自由に往来していたようである(注2,P9)。        --------------------   スサノオが実在したかどうかはともかく、スサノオは「新羅から出雲へ移動してきた 移住者集団が奉祀していた神」という水野氏の見方は注目されます。それが出雲にもっと も関係が深いのは、地理条件によるものでしょうか。   新羅あたりから海流にまかせて船出すると、難なく出雲近辺へ到着するようです。そ うした実験が戦時中になされたようで、中川友義氏はこう記しました。        --------------------   戦時中 釜山付近から200トンほどの船二艘に大豆を積んで無人で流したところ、五日 目に一隻は山口県仙崎に、一隻は鳥取県赤崎に着いたそうである。いわゆる裏日本でタマ カゼと称する西北季節風の吹く冬のことである。   しかし大陸からの季節風がなくとも朝鮮半島の西岸から南岸にかけては、北上した西 朝鮮海流の末流が南下しているから、裏日本への海流に乗ることはそれほどむずかしいこ とではないのである。   以上のことは次のことを証明している。 (1)帆を使うことを知らない“クリ舟”を操る民族であっても、潮流に乗れば海峡を渡 り山陰から北陸沿岸に上陸することができた。 (2)この海峡を渡った人びとは最初から九州北部に上陸したのではなくて、航海術の未 発達の時代においては、島根半島から東の若狭湾から能登半島に至る海岸であった。上陸 地点が九州になったのは相当のちのことである。 (3)山陰沿岸を西に進み、九州西岸五島列島にまで出れば、東朝鮮暖流に乗り、朝鮮半 島に上陸することも可能であった。 (4)近畿人の体質が現在も南朝鮮人に近いことは、北九州への半島からの流入が一時的 なものであり、いわゆる帰化人渡来以前に近畿への流入が相当長期間にわたって、この コースで行われたことを裏付けている(注3,P131)。        --------------------   中川氏は、九州北部へ上陸したのは「相当のちのこと」としました。しかし、九州北 部と朝鮮半島西南部および現在の金海付近とみられる狗邪韓国との往来ルートは、弥生時 代に邪馬台国の遣使が利用していたくらいであり、こちらのコースも相当古くから開けて いたようです。   それを裏づけるかのように、邪馬台国より数百年前とされる九州北部の板付や菜畑遺 跡の水田稲作は韓国西部の松菊里遺跡と強い類似性がみられるのをはじめ、両地域の文化 には共通したものが多くみられます。   本題にもどりますが、釜山あたりを出発した無人の舟が長門や出雲近辺へ到達したよ うように、帆掛け船のない時代にあって新羅からの渡来民は九州ではなく、出雲など山陰 地方へ渡来した可能性が強いようです。   さらに新羅は、金沢庄三郎によれば「神国」とされますが、古くから王などを神宮な どに祭る伝統があったようです(注4)。そうした伝統から、出雲へ移動してきた新羅の移 住者集団がスサノオを神として祭ったのかもしれません。 (注1)金沢庄三郎『日鮮同祖論』(復刻版)成甲書房,1978 (注2)出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社、2004 (注3)中川友義「渡来した神々」『日本文化と朝鮮』新人物往来社,1973 (注4)半月城通信<神社のルーツ> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    スサノオの降臨地「ソシモリ」 2005/ 1/23 22:37 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#11348   半月城です。   スサノオが最初に降臨した新羅の曾尸茂梨(そしもり)とは一体どこなのかについて 調べたいと思います。   RE:11344, kuronekodaiouさん >曾尸茂梨=新羅国というよりも、曾尸茂梨=楽浪郡と考えた方が良いということかな。  『日本書紀』に書かれた、スサノオ説話に登場する曾尸茂梨(そしもり)がどこなのか、 古くから興味がもたれていました。曾尸茂梨の「尸」は助辞とされるようなので、残りの ソ、モリが問題です。曾尸茂梨を牛頭に関連づける説について金沢庄三郎はこう記しまし た。        --------------------   一般にスナノヲの尊(みこと)をもってインド舎衛国 祇園精舎の守護神である牛頭 天王の垂迹であるとして、山城国 愛宕郡 八坂郷すなわち今の祇園の地に奉祀している。   一説には、牛頭天皇の名は曾尸茂梨の訳語である牛頭から出ており、元来は楽浪地方 の山の名であるとする。   それは朝鮮語の牛を so, 頭を meori というからで、新羅の牛頭方(欽明十三年紀)、 楽浪牛頭山城(三国史記 巻23)、牛頭州(三国史記 巻2)など日朝の史書に見えているの は、いずれも同語であって、仏書から出た名ではないという。   また星野(恒)博士は楽浪地方に牛頭山という山はないから、これは新羅の牛頭方す なわち今の江原道 春川府であろうといっている(史学会論叢)(注1,P67)。        --------------------   この説は、スサノオを祭る八坂神社がなぜ牛頭天王と結びつくのかをよく説明してお り、説得力があります。さらに牛頭天王は、釈迦が説法を説いた祇園精舎の守護神とされ るので、八坂神社一帯が古くから祇園とよばれた理由にもむすびつきます。   スサノオが牛頭天王と結びつくのは八坂神社だけではありません。百科事典『ウィキ ペディア(Wikipedia)』によれば「三重県の伊勢志摩地方ではスサノオ(素戔嗚尊)を 牛頭天王と呼ぶ」とされています(注2)。   こうした結びつきは、ソシモリ、ソモリ、牛頭という連関以外に説得力のある説明は 見当たらないようです。   この説が正しいとすると、楽浪に牛頭は存在しないので、曾尸茂梨は冬ソナ、ヨン様 ブームで一躍脚光をあびた江原道の春川(チュンチョン)ということになります。   しかし、金沢自身は、以上の諸説はいずれも誤りであって、曾尸茂梨は新羅の都であ ると主張しました。「新羅の都」説は、すでに平安時代からあったようで、『釈日本紀』 には次のようなことが書かれていたようです。        --------------------   陽成天皇 元慶二年(878)の日本紀講書の時、曾尸茂梨の地について、講師は遠蕃の地 であるからその詳しいことはわからないといったのを、惟良(これよし)の宿禰高尚が傍 から、これは今日の蘇之保留(そしほる)ではあるまいかといったので、講師はこの新設 を「甚だ驚くべし」と評し、摂政 藤原基経もわらってこれを賞賛したので、その後は公 卿大夫も皆この説に同調したというのである。   この惟良の宿禰高尚は百済人の子孫であるからおもしろい。蘇之保留の之は助辞で、 これを除いた蘇保留は、朝鮮史にあるいわゆる徐伐(so-peor)で、新羅国または新羅国の 都のことである(注1,P69)。        --------------------   金沢はこのように『釈日本紀』を紹介したうえで、さらに「曽尸茂梨の(助辞)尸を 除いたソモリは、徐伐(so-peor)すなわちソホリと音韻上一致するもので、モとホすなわ ちmp音の相通である(注1)」として、ソホリ、すなわち新羅の首都説をとりました。 ソホリが、現在の韓国語で首都を意味するソウルに転訛したことはすでに記したとおりで す(注3)。   惟良は百済人の子孫とのことですが、当時の百済系の人びとは百済寺および百済王神 社を祭っていました。現在、百済寺はなく、寺跡が大阪府の特別史蹟に指定されました。 百済寺に隣接する百済王神社は大阪府の枚方市に現存しますが、拝殿に「百済国王・牛頭 天王」と書かれた木版額がかかげられました。   このように、百済系の子孫は牛頭天王を祭っていたのですが、それにもかかわらず惟 良が曾尸茂梨の地名を牛頭に結びつけず、新羅の蘇之保留としたのは、それなりの根拠が あったのかもしれません。ただし、額は鎌倉時代のものなので、平安時代まで牛頭信仰が さかのぼるのかどうかははっきりしません。   このように、こちらのソフル説も決め手にはかけるものの、それなりの説得力があり そうです。しかし、この説ではなぜスサノオが牛頭天王と習合されたのかの説明がむずか しいのが難点です。   曾尸茂梨に関して、うえの二説以外にはたいした説はないようです。したがって、曾 尸茂梨は新羅の首都であるソフルか、春川ということになります。 (注1)金沢庄三郎『日鮮同祖論』(復刻版)成甲書房,1978 (注2)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (注3)半月城通信<ソウルの語源と天皇家の守護神> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    スサノオと埼玉県の氷川神社 2005/ 1/30 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#11354   半月城です。Yahoo!会議室、日本史「スサノオの多面的考察 」にアップした文を書 き直して投稿します。   スサノオと牛頭天王との結びつきですが、スサノオはかならずしも牛頭天王と習合さ れているわけではないようです。伊勢とちがって、埼玉県や東京に数百も存在する氷川 (ひかわ)神社ではスサノオだけを祭り、牛頭天王は祭らないようです。   日本の一部の神社でスサノオを牛頭天王と同一視したのは、おそらく『日本書紀』に 記述されたソシモリからソモリ、牛頭を連想した後世の付会であり、それ以前に広がった 武蔵の氷川神社などではそうした習合はないものと考えられます。   ところで、武蔵の氷川神社は出雲からきたことが知られていますが、なぜ武蔵にスサ ノオを祭る氷川神社がとりわけ多いのか興味のあるところです。そこで今回はこのナゾを とりあげることにします。   氷川神社の名は『新編 武蔵風土記稿』によれば、「出雲国 氷の川上に鎮座せる杵築 (きずき)大社をうつり祀りし故、氷川神社の神号を賜はれり」と書かれているので、出 雲の簸(ひ)川に由来するようです(注1)。   出雲の神がどのように武蔵国まできたのか不思議ですが、前回みたように、水野祐氏 によれば、新羅からの渡来人がスサノオを祭っていたとされるので、武蔵国でもスサノオ を祭る氷川神社は新羅からの渡来人と何らかのかかわりがあるものとみられます。   現在、さいたま市にある氷川神社は武蔵国の「一の宮」になっているので、歴史的に 武蔵の国造が奉祀したのはいうまでもないのですが、この国造がやはり渡来系であるとい う説を中島利一郎氏が展開しました。   同氏は特に武蔵の国造、笠原直 使主(おみ)に注目しましたが、使主は『日本書 紀』安閑天皇紀 元年条にこう書かれました。        --------------------   武蔵の国造の笠原直使主と、同族の小杵(おき)とが国造を相争い、数年を経ても決 めるのがむずかしかった。   小杵は性格がけわしく逆らうところがあった。高慢で順うことがなかった。ひそかに 上毛野君 小熊に助けを求めた。そして使主を殺そうと謀った。   使主は覚って走り出た。京に到着して状況を言上した。朝廷は断を下して、使主を国 造として、小杵を殺した。   国造の使主はじっとしていることができず、謹んで横淳、橘花、多氷、倉樔の4か処 に屯倉(みやけ)を奉った。        --------------------   使主は通常「オミ」と読まれることが多いのですが、吉川弘文館の『日本書紀』原文 では「オム」とフリガナが振られています。ふるく使主は「オム」と読まれる韓語であっ たようです。中島氏はこれに注目し、笠原直は「朝鮮帰化族」であろうとしてこう述べま した。        --------------------  (兄多毛比、えたもひ は)景行天皇、成務天皇の御宇の人で、成務朝に武蔵国造に任 ぜられたので、その祖神として、素戔嗚(スサノオ)尊、大国主神(大己貴命)ないし天 菩比命(天穂日命)を武蔵国内に祀ったのである。   それが武蔵大宮に於ける旧官幣大社 氷川神社であったり、武蔵府中に於ける旧官幣 中社、大国魂神社であったと見られる。この兄多毛比命の氏人としては、『安閑天皇紀』 に  元年・・・武蔵国造 笠原直使主、与同族 小杵 相争国造 とあるのは、特に注意すべきである。   この武蔵国造家の笠原直使主については、従来多く研究せられていないようであるが、 余は其の名によって、それが朝鮮帰化族から起ったものであると思うものである。それは、 使主という名から、それが考えられる次第で、使主は一に意彌(オミ)とも書かれ、   朝鮮語 Om-mo, Om-mu 大貴 の義であり、この名を得たものは、歴史的に、皆海外との交渉を有するものである。『新 撰姓氏録』その他によって余は、  百済系・・・阿麻意彌、太根使主、久爾能古使主、小高使主、佐布利智使主、        津留牙使主、努理使主、乃理使主、布須麻乃古意彌、彌奈曾富意彌  高句麗系・・・伊利須使主(伊利須意彌)、伊理和須使主、後部薬使主、多高子使主  新羅系・・・億斯富使主、燕努利使主  韓系・・・都留使主  漢系・・・阿祖使主、阿智使主、漢使主、伊須久牟治使主、都加使主、萬徳使主、       民使主首  呉系・・・善那使主、和薬使主福常、李牟意彌 等を検出し得たが、其の海外関係あるは何れも然りである。武蔵国造の笠原直使主も従っ て帰化系の出身であることが察せられる(注2)。        --------------------   このように、中島氏は武蔵国造が「帰化系」出身と論証しました。しかし、使主や小 杵が新羅系かどうかについては何も書いていないのですが、その一族が新羅系とすれば、 なぜ武蔵国に氷川神社が数百社もあるのかのナゾが解けることになります。兄多毛比の時 代に神社の地盤が築かれたのでしょう。   つぎの疑問は、こうした新羅系ないしは出雲系の人びとがどんなルートで武蔵へやっ て来たのかという点です。笠原一族が豪族として武蔵に君臨するからには、武蔵国造がひ とりでやってきたのではなく、集団でやってきたと考えられます。   まず考えられるのは東山道ルートです。そのルート上に出雲系の神を祭る神社として 信州の諏訪大社が存在しますが、その分社が埼玉県の北部に多数、および西部に少数あり ます。   その数は、北東部では本庄市に6社、深谷市に7社、上里町と熊谷市、行田市に各2社、 騎西町と久喜市に各4社、杉戸町と岩槻市に2社などとつながります。その一方、西部では 秩父連山の峠から入ったのか、荒川村に2社、秩父市と飯能市に4社などがみられます(注3)。   ただし、これらの諏訪神社も古代から存在したわけではありませんので、このルート が出雲からの渡来ルートと重なるかどうかははっきりしません。   他方、スサノオを祭る氷川神社は埼玉県の南部に多く、荒川支流である埼玉県の入間 川沿いでは戸田市に3社、和光市に2社、朝霞市に5社、新座市と志木市、所沢市に各4社、 富士見市に6社、川越市に14社、川島町に11社、東松山市に5社などと多数存在します(注3)。   しかし、何といっても密集しているのは南部の荒川沿いで、南から川口市に11社、旧 大宮市を含むさいたま市に30社、上尾市に10社、桶川市に7社、川島町に11社、北本市に4 社、鴻巣市に5社、吉見町に8社などがあります。   東京では北部の荒川沿いに多く、練馬区に6社、練馬区に8社、足立区の16社がとくに 目立ちます。しかし、同じ隅田川、荒川沿いでも荒川区、台東区、江東区、江戸川区など の南部には氷川神社はまったく存在せず、墨田区と葛飾区にわずか1社ずつ存在するだけ です(注4)。   こうした分布からすると、武蔵の氷川神社は、一の宮である旧大宮市の氷川神社を中 心にして広がったものとみられます。また、これらの神社も創建は奈良時代にはあまり遡 らないようです。そのため、結局は氷川神社の分布から渡来ルートをさぐるのはむずかし いようです。   渡来ルートとしては、上記以外に神奈川県の相模川をさかのぼるルートも考えられま すが、こちらはまだ考えがまとまっていないので保留にします。   しかし、相模川に沿って、後世の相模国府あたりから武蔵国府(府中市)へ入り、上 野の国府(前橋)にいたる東海道、東山道ルートは、荒竹清光氏によれば「渡来ゾーン (注5)」とされ、しかも古代の神社が多くみられるので、あるいはこちらのルートが新 羅・出雲系の渡来人が武蔵へ入った道だったのかも知れません。 (注1)岡田米夫『神社』東京堂出版、1997.P164 (注2)中島利一郎『日本地名学研究』日本地名学研究所、1959,P2 (注3)埼玉県神社庁<埼玉県神社紹介全県マップ> (注4)神社庁『全国神社名鑑』 (注5)荒竹清光『古代の日本と渡来文化』明石書店、2004,P10 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    高句麗から出雲および東国へ 2005/ 2/13 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#11378   半月城です。   kuronekodaiouさん、Re:11373 >そもそも出雲の人を渡来人と考えるのかという疑問もありますし。 越(高志)についても考える必要があるでしょう。   出雲(いずも)の人はもともと渡来人なのか、そうでないのか、弥生時代や古墳時代 に関する文献がほとんどないだけに判断は容易ではありません。文化面からいうと、出雲 の文化は高句麗系・新羅系の文化であるとして、水野祐氏はこう述べました。        --------------------   そういう(北九州)ルートだけで、日本に韓国の文化が入っているかというとそうで はなくて、いま一つ別なルートがありました。それはとくに高句麗や新羅、あるいはワイ、 貊文化なんですが、これは(朝鮮半島の)西海岸でなくて東海岸から入ってくる。   東海岸、とくに慶州の迎日湾あたりから入ってきますと、出雲の大社湾に入ってくる わけです。ですから出雲の神話の中には、スサノオノミコトの神話に、その間の事情が克 明に出ています。   出雲と朝鮮半島との関係は、想像以上に密接なもので、したがって出雲の文化は大和 の文化と違って新羅系、高句麗系の文化なんです(注1,P262)。        --------------------   出雲には高句麗系や新羅系の文化が明瞭に認められるので、渡来人が実際に多数やっ てきたことが推定されますが、文化だけでは決め手にはなりません。他に墓制など考古学 的な考察なども必要です。   墓制というと、ヤマトにまだ古墳がない時代、出雲地方にはすでに四角い形を基本と する方系墳という独特の古墳が築かれたのですが、これが渡来人とどう結びつくのかが焦 点になります。水野祐氏は、方系墳は高句麗、新羅系の文化であり、これが出雲ルートで 東国に広がったとみて次のように語りました。        --------------------   出雲の古墳文化の中で、方墳が非常に多いのです。それと前方後円墳のように丸い墳 丘と四角い墳丘がくっついたものではなく、四角い墳丘とが二つくっついた前方後方墳と いう形式の古墳があります。   この方墳、ならびに前方後方墳の分布は、出雲から山陰地方を通って、それから北陸、 そして信州、上州そして武蔵へという、ちょうど石田博士の言われる新羅系仏教文化の伝 播ルートと同じルートにのって分布しているのです。   ですから前方後方墳、あるいは方墳は、決して大和の古墳文化ではなくて、高句麗、 新羅の方墳系の文化が、出雲を通して日本に入り、そして出雲族が移動していく路線に 沿って、前方後方墳なり方墳が分布していたという説を立てたのです(注1,P262)。        --------------------   水野氏は方系墳の典型として、1987年現在で全国224基の前方後方墳の分布をリスト アップしましたが、水野説にはすこし疑問もあります。方系墳は高句麗、新羅系としてい ますが、これを高句麗系とするのは問題ないにしても、新羅では円墳が主なので、新羅系 というのはすこし疑問です。   ただし、初期の新羅は高句麗の属国に近く、新羅内に高句麗軍も駐屯していたので、 方系墳の伝播ルートとして新羅を含めるのは妥当かもしれません。出雲ほか多くの地域で は高句麗と新羅の文化が重層的に入っているようです。   なお、方系墳はヤマトの影響ではなく、高句麗系の影響であるとする点では上田正昭 氏も同じ意見です。同氏はこう記しました。        --------------------   出雲(島根県)の古墳で注意をひくのは、方系墳の分布が濃厚であることだ。前方後 円墳や円墳もあるが、方墳、前方後方墳の数は全国最多となっている。しかも出雲の方系 墳は古墳時代のはじめから終末期まで、出雲東部で根強く生きつづけて、出雲における古 墳文化の伝統を特色づけてやまない。   1973年(昭和48)のころには、出雲の古墳545基のうち、方墳は111基、前方後方墳は 17基とされていたが、最近の調査によれば、それをはるかに上まわって、方墳は約250基、 前方後方墳は約30基ぐらいにも及ぶという。   出雲の方墳のなかで、その初期に出現するものに、方形の四隅に突出部のある、いわ ゆる四隅突出型の墳丘墓がある。出雲を中心に、因幡、伯耆、石見、出雲よりの備後・安 芸にある。方形台状墓や方形周溝墓とはおもむきを異にし、古墳のすそに立形の列石や敷 石遺構がめぐらされ、斜面に貼り石がある。   なぜ、こうした四隅突出型方墳が出雲に突如として登場してくるのか。なぜ、方系墳 が出雲東部に集中的に存在するのか。そこには今後の検討課題に待たねばならぬいくつか の課題がひそむが、大陸の方系墳とのつながりも考慮に値しよう。   とりわけ高句麗などの古墳(たとえば蓮舞里二号墳など)との比較と吟味が必要とな ろう(注2,P20)。        --------------------   このように上田氏も方系墳のルーツを高句麗に求めました。妥当な説と思われます。 上田氏がとくに指摘した蓮舞里二号墳ですが、これは方形の積石塚とされます。これを森 浩一氏はこう紹介しました。        -------------------- 蓮舞里(ヨンムリ)二号墳(高句麗初期/慈江道 楚山郡 蓮舞里)   高句麗の積石塚のなかではじめて発見された、四隅に突出部分がある古墳である。遺 跡は楚山邑 西北側の鴨緑江左岸にひろがった平野のなかにある。   この墓は基壇がなく、石を積みあげてつくった無基壇積石塚である。墳丘は土と砂で 一定のかたちをつくったあと、その上に10cm前後の小さいものから40cm程度にいたる異 なった大きさの石を積んでつくっており、いちばん外側には 20cm-50cmの比較的大きな石 を積みあげている。   墳丘のいちばん外側の下段には大きな石を積み、列をなす。墓の平面形態は四面が直 線で、西南側一面のみは崩れ落ちたせいか曲線になっている。外形で特別に注目されるこ とは各隅ごとに突出部分があることである。これはある目的から、意図してつくられたも ので、よって平面構造上その部分が特別に強調されている。   この墓の規模は南北の長さが28m、東西の幅は16.5m、高さは2.5mである。墓の中 心から西南側に少しかたよって長さ3m、幅1.2mの墓槨があり、そのなかに骨製玉、青銅 製品、ガラスの破片、用途のわからない円筒形の土製品、土器の破片、鉄塊などの遺物と ノロ、ウシ、ブタの骨が出た(注3、Pvi)。        --------------------   高句麗の四隅突出型方墳は蓮舞里だけではありません。森浩一氏はNHK取材班と共 に北朝鮮を現地調査し、蓮舞里古墳群より上流の雲坪里(ウンピョンリ)古墳群でも四隅 突出型方墳などがあることを確認し、こう記しました(注6)。  「現地(雲坪里)を訪れてはじめて知ったのであるが、四角い古墳や長方形の古墳の隅 に張り出し部をもっているものがあることだった。墳丘の隅を強調するために、そこに大 きな石を置いているのだ(注3、P142)」   この古墳も高句麗の初期、紀元前後のころとみられるようです。これが出雲に伝わっ たようで、その意義を森浩一氏はこう記しました。        --------------------  (日本において)四隅突出型古墳の発見が戦後、重要な意味をもったのは、大和に古墳 が造られる以前、つまり弥生時代に、前方後円墳とまったく違うかたちの古墳が存在して いたことがわかったからなのである。   つまり、少なくとも古墳について、大和朝廷の勢力の進展に伴って日本列島の各地に 古墳が造営されるようになったという、それまでの定説的な考え方の図式が、四隅突出型 古墳の出現によって崩れたのである。   そして、今回の雲坪里でみたように、日本海沿岸地域に限られていた四隅突出型古墳 に類似する古墳が鴨緑江のほとりにもあったことで、より問題がふくらんだのである。し かもその雲坪里には、前方後円型と四隅突出型という、日本の古墳につながる二つの大き な要素が共存している(注3、P143)。        --------------------   ヤマトにまだ古墳がない弥生中期に出雲では大規模な四隅突出型古墳が築かれていた ようですが、それは「出雲王国」の存在をうかがわせるものです。その先進性は高句麗な どからの渡来人により形成されたようで、上田正昭氏はこう見ました。        --------------------   日本海沿岸地域とアジア大陸との関係は、まさに「一衣帯水」の間柄にある。北九州 のみが大陸の門戸ではなかった。渡来人とその文化は、日本海側からも流入してくる。   弥生時代の遺跡についていうなら、たとえば若狭(福井県)の高浜からは、朝鮮半島 でつくられたと考えられる石剣、石戈が見つかっており、丹後(京都府)の函石浜からは 中国(新)の王莽の貨泉(円形方孔で「貨泉」の二字のある硬貨)が出土している。   これらは、大和に伝来して、そこから若狭や丹後に入ったとするより、日本海ルート で伝わったとするほうが自然であろう(注2,P20)。        --------------------   このように上田氏は、朝鮮半島から文化の流入のみならず、人の流入もあったと述べ ましたが、それは出雲にかぎらず、若狭や越など北ツ海沿岸一体におよんだとみられます。   それをふまえて石川県小松市の地元では、小松は「高麗津(こまつ)」であるとささ やかれているようですが、そうかも知れません。このエピソードを森浩一氏はこう伝えま した。        --------------------   日本海側の小松にも継体擁立のころ、大きな勢力があったと思います。ひょっとした ら継体が越前に拠点をもっていたころの重要な港ではなかったかと思います。   前にもいいましたが、小松市教育委員会の方が「内々では小松は高麗の津だとささや き合っています」とおっしゃっていましたが、あれは重要な指摘です。よく考えてみたら 司馬遼太郎さんは『街道を行く』のなかでちゃんと書いているんです。   ただし司馬さんは円筒埴輪が朝鮮半島のものと似ているとか、オンドルの住居址があ るとかはご存じなかった。司馬さんは勘がいいのかなあと改めて感じました(注5,P291)。        --------------------   小松市あたりでは、高句麗系の墓制などに加え、オンドルなど暖房住居まであったと なると、もはや朝鮮半島からの渡来は疑うべくもありません。それに関連する資料として 水野氏は、北ツ海沿岸の前方後方墳を下記のように掲げました。   島根33、鳥取3、兵庫7、京都8、福井3、石川26、富山2   うえの数をみると、島根が多いのは予想どおりとしても、鳥取や福井は地形がやや陰 になっているせいか海岸線が長い割には高句麗系とみられる前方後方墳の数が少ないのが 意外です。とくに福井県の敦賀は、オホカラの王子とされるツヌガアラシトが地名の語源 になっているくらい渡来がきわだっているのに、前方後方墳が少ないのは予想外です。   福井などとは対照的に石川県で前方後方墳の多いのが目立ちます。石川県は能登半島 が北ツ海に突き出ているので、高句麗などからやってきた船が越の国へ容易に漂着する地 形であることから当然ともいえます。   こうして「出雲王国」を形づくった先進文化は、やがて東国へ波及し、はるばる武蔵 まで伝わるのですが、それを水野氏はこう記しました。        --------------------   出雲から入りました日本列島の日本海岸を東漸する文化は、新羅、高句麗系の文化な のですが、それがずっと東へ移動しまして、そして表日本の瀬戸内を通って大和へ入る百 済系の文化とは別に、信州から上州、群馬県のほうへ伝播します。   そして群馬へ入って、東国に波及した文化は、更にそこから南下するわけです。毛野 (けぬ)の国から武蔵へ入って、そして相模のほうへ行くのが一つのルートなのです(注 1,P262)。        --------------------   この説は、すでに戦前、仏教美術の立場から石田茂博士によってとなえられていたよ うで、水野氏はこう記しました。  「石田博士はご専門の仏教文化の上から、出雲の文化と信州、東国の文化は新羅系の仏 教文化である、それに対して大和の仏教文化は百済系である、ということを、仏像や寺院 配置や瓦の形などから指摘されておられるのです(注1,P262)」   これは意外な事実でした。この説にもとづいて水野氏は高句麗・新羅系の足跡を古墳 からもさがすことを試みました。同氏によれば、北ツ海の諸国から武蔵に至るルート上の 前方後方墳は下記のようになります。  岐阜1、長野5、群馬3、埼玉3   これをみると、内陸地方ではやはり前方後方墳の密度が急に薄くなって、すこし心も とないようです。それでも、特に長野県が高句麗からの渡来ルート上にあったことは容易 に想像されます。   その渡来ルートが5世紀以降も維持されたのか、長野県を中心に高句麗系の積石塚が 築かれたようで、森浩一氏はこう記しました。        --------------------   6-7世紀に典型的な積石塚が集中するのは長野と山梨の両県、そして少し年代が下が る東京都西部の奥多摩地域である。これらは地続きの一つの地域と考えられる。   とりわけ長野県には約900の積石塚があり、それも高井郡と埴科郡の二郡、長野県の 北東部に集中する。   なかでも長野市松代にある大室(おおむろ)古墳群には約500の古墳があり、その大 部分が積石塚である。石で積みあげてあるため部分的には壊れやすく、墳丘が真四角の方 墳か円墳かわかりにくいが、石だけで造営した典型的な積石塚であることは確かである。   長野県の積石塚のうち、出土遺物からみていちばん古いのは須坂市の鎧塚(よろいづ か)で、五世紀初めごろと推定されている。これ以後、七世紀まで次々と築かれていく。   この年代に関してかつて、長野県の積石塚と高句麗との関係をいうのは無理があると いう見方のされた時期があった。  ・・・   今回、(高句麗)雲坪里を訪れて、五世紀代に積石塚の造営がなおさかんであること がわかった。・・・雲坪里を訪れたあとの私の考えとして、年代的な問題に限ると、長野 県の積石塚は高句麗の影響を受けたものとみてよい(注3,P185)。        --------------------   積石塚は、新羅では積石木槨墓となり封土がかぶせられましたが、長野(信州)や山 梨(甲斐)では封土のない高句麗のオリジナルな形で残されたようです。そして少し年代 がさがって甲斐に隣接する武蔵の多摩などへ入ったようです。   実際、多摩や秩父地方には積石塚や胴張石室など高句麗系とみられる古墳が多数みつ かっています。また、それと関連するのか、多摩川沿いの狛江市には明確な高句麗系の古 墳である亀塚があるのはよく知られています。   その上、これらの地域、すなわち信州や甲斐・武蔵では高句麗文化を特徴づける 「駒」の飼育が盛んであったことは特筆に値します。   駒という語は高麗(こま)すなわち高句麗からきていることは前に書いたとおりです が、それらの地域では馬具など無数の遺物が残されていることはいうまでもありません。 同地域における渡来人のありようを森浩一氏はこう書きました。  「信濃と甲斐、そして武蔵野の一部は渡来人がそれぞれ疑似王国のような土地を作って いた可能性がある。といって大和朝廷とはまったく無関係ではなく、接触は緊密におこ なっていたであろう(注3,P194)」   高麗の名は山梨県の巨摩(こま)郡にその名が残されたようですが、そうした各地の 高句麗「疑似王国」は長年にわたってのたび重なる渡来の結果として形成されたと思われ ます。   話は遺物の関係でだいぶ高句麗に偏ってしまいましたが、高句麗人の切りひらいた渡 来の道を新羅系の人も重層的にたどり、その結果としてスサノオなど新羅にかかわりをも つ神が出雲や信州、武蔵などにも多く祭られるようになったのではないかと思われます。   他方、武蔵への渡来にはもう一つの可能性とされる東海道ルートのほうもみておきた いと思います。同ルートにおける前方後方墳は下記のようにそれなりの数があるようで、 こちらも渡来ルートとして重要だったと思われます。  京都8、奈良11、三重4、愛知6、静岡4、神奈川5、埼玉3   このような前方後方墳の分布からすれば、東海道ルートで出雲から武蔵へ渡来する ルートも可能と思われます。ただし、前方後方墳のみならず他の資料も検証することはも ちろん必要です。   後の時代になりますが、716年、東国各地の高麗人 1799人を集めて武蔵に高麗郡が創 設されたことが『続日本紀』に記されましたが、その出身地は駿河、甲斐、相模、上総、 下総、常陸、下野の七か国とされました(注4)。   これはもちろん、それ以前から高句麗系の渡来人がそれらの地域に居住していたこと になります。駿河や甲斐、そしておそらく上総や下総の高句麗人は東海道ルートで渡来し たと思われます。その一方、甲斐や常陸などへは東山道ルートで渡来したのでしょうか。   結局、東海道と東山道、その両ルートのありようが、後の時代、武蔵における北部の 諏訪神社系と、南部の氷川神社系として現れたのかも知れません。 (注1)水野祐「日本古代における帰化人とその文化」『渡来人は何をもたらしたか』   新人物往来社、1994 (注2)上田正昭「古代日本と渡来人」『渡来人は何をもたらしたか』新人物往来社,1994 (注3)森浩一『騎馬民族の道はるか』日本放送出版協会、1994 (注4)半月城通信<白髭神社と新羅(3), 埼玉県と高麗神社> (注5)森浩一・門脇禎二『継体王朝』大巧社、2000 (注6)半月城通信<前方後円墳、高句麗式古墳> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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