半月城通信
No.106(2004.11.6)

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    目次

  1. 韓国古墳の盗掘
  2. 白髭神社と新羅(1)、東京
  3. 白髭神社と新羅(2)、琵琶湖西岸
  4. 永久秘密裏(?)の日韓条約関連文書
  5. 青山里戦闘と金佐鎮将軍
  6. 「松島(竹島=独島)渡海免許」
  7. 下條正男氏への批判、安龍福と竹島=独島


韓国古墳の盗掘 ○ ***さんからの質問 2004.10.11 > 半月城 様 > > 半月城通信は毎日のように拝見しております。 > 実は、最近歴史にはまっており、とくに朝鮮半島と日本との関係歴史について > 参考にさせていただいております。 > > 下記の武寧王についての記事について、質問があります。 > 以下の記事で日本人の古墳の盗掘のことが記述されていますが、 > 朝鮮半島の古墳の盗掘というのは、日本人が行っていたのでしょうか? ○ ***さんへの回答 2004.10.15 半月城です。 私のHPをひいきにしてくださりありがとうございます。   ご存知かも知れませんが、朝鮮では儒教の影響が強いため、先祖の墓はとても大 事にします。そのため、植民地時代以前は墓を盗掘することはほとんどなかったと思 います。   それを一変させたのが伊藤博文たちだったようで、李亀烈氏はこう記しました (注)。        --------------------   伊藤が初代統監として統監府に君臨した1906年ごろ、韓国に渡ってきた日本人の 一人に三宅長策という弁護士がいた。かれは開城からもちだされた高麗青磁に日本で 出会い、所蔵もしていたようだ。  ・・・   つぎの引用文は、三宅が書いた「そのころの思い出、高麗古墳発掘時代」(『陶 磁』第6巻第6号、東洋陶磁研究所刊、1934年12月)という回想記からの抜粋である。  ・・・  「伊藤公も人に贈る目的で、盛んにあつめられた一人で、一時は、その数、数千点 以上にものぼったであろう。そのころ新田という人があった。公の宴席に侍して毎に 歌ったり踊ったりして座興を助けていた男だが、後に旅館を開業した。   ここに公は、暇があれば行かれて、新田の手でいくらでも高麗焼きを持ってこ い、あるだけ買ってやるといった調子で、どんどん買上げ、それを又、右から左へ三 十点、五十点と一気に人に贈って仕舞われた。或る時などは、近藤の店の高麗焼きを そっくりそのまま買い取られたことがあった。京城内、これがため一時、高麗焼きの 売品の影を絶つに至ったこともあった」  ・・・   このように伊藤が、高麗青磁を数千点以上買い取ったことから、みさかいのない 盗掘ブームが出現し、ソウルと本国の日本人の間で高麗青磁の商いと蒐集が一大盛況 となったありさまを、三宅はつぎのように書いている。  「(伊藤が骨董店の高麗青磁をまるごと買い取ったのち)この景気に刺戟されたも のか、ここに高麗青磁狂時代が出現して、一時、これによって生活するもの何千人と いわれ、従って盗掘された開城、江華島、海州方面の大小の古墳の数は驚くべきもの だとのことである。  ・・・   三宅以外の日本人の記録に、1930年代に平壌博物館長であった小泉顕夫のつぎの ような証言がある。  「(古墳が)近頃の様な惨状を呈するに至ったのは、何と云っても、併合前後か ら、内地人が朝鮮の田舎にまで入込む様になってからの事で、一攫千金を夢みて渡来 した彼らが、金のサバリ(茶碗)が埋められてあるとか、正月元旦には金の鶏が墓の 中で鳴くとかいう伝説の古墳を近頃流行の金山でも掘る様なつもりで掘り回ったらし い。   所に依っては、当時、各地に駐屯して居た憲兵にまで彼らと行動を共にする者が あったというのだから堪らない」(「古墳発掘漫談」『朝鮮』朝鮮総督府編、1936年 6月号)        --------------------   なお、実際の盗掘にあたった者は、あるいは朝鮮人が多かったのかも知れませ ん。もちろん彼らも悪事に走ったことになりますが、悪行の根源は内地人であること はいうまでもありません。   伊藤についで韓国に君臨した寺内正毅・初代朝鮮総督は、収集もしくは贈呈され た美術品や古書を日本へ持ち帰り、故郷の山口県萩市に「朝鮮館」と称する私設美術 館を建てたとされています。   なお、半月城通信に書いた<武寧王陵>は宋山里7号墳になりますが、6号墳は 公州高等普通学校で国語の教師をしていた軽部慈恩によって盗掘されたと李氏は記して います(注)。    (注)李亀裂『失われた朝鮮文化』新泉社、1993


白髭神社と新羅(1)、東京 2004/10/20 Yahoo!会議室「日本人は百済から来たのか?」#10602   半月城です。   全国各地の秋祭りもそろそろ終りですが、先日、私は千葉県松戸市の八柱駅近くにあ る白髭(しらひげ)神社の秋祭りを見てきました。   白髭明神を『広辞苑』で引くと、<猿田彦(さるたひこ)神といい、また、新羅の神 という。能「白鬚」に見えるものは滋賀県高島郡高島町の白髭神社をいう>とありました。 白髭神社は新羅とどんな関係にあるのでしょうか。   白髭明神について、和歌森太郎氏は「実態は新羅明神」であるとして、こう記しました。        --------------------   ぼくは「白髭明神考」なるものを研究発表したことがあるのだけれども、白髭は新羅 明神であると。日本では白髭の古老に対する崇敬、神様ののりうつりという観念があるも のだから、白髭といって納得させてきたけれども、実体は新羅明神なのですよ。   さきほども言ったように関東一円そうだが、武蔵にしても高句麗ばかりでなくて、か なりの(朝鮮)三国の系統のものが分布していた。そういうなかで新羅系のものが集団と して日本的な神を奉祭していたのが新羅明神から白髭神社と変わったのだと思っています がね(注1)」        --------------------   白髭神社は新羅系というのが定説のようです。白髭神社は地味なため、あまり目立た ないのですが、調べると全国各地に二百社くらい現存するようです(注2)。特に多いの が、静岡県や岐阜県ですが、静岡県の安倍川沿いの白髭神社について中日新聞はこう記し ました。  「巨木を訪ねて安倍川流域を歩いたとき、有東木、中平、平野、横山、中沢、俵沢の神 社はすべて白髭(しらひげ)神社でした。白髭神社は七世紀前後、大陸の先進的な技術を もたらした朝鮮半島からの渡来人が信仰した神と言われています(注3)」   安倍川流域に白髭神社が多いということは、渡来人が安倍川をさかのぼって住みつい たと考えられます。古代、河川はいうまでもなく交通路として重要な役割をはたしていま した。そのため、渡来人の足跡はえてして川沿いや海沿いに特に多いものです。それを出 羽弘明氏はこう記しました。  「古代には海人族(秦氏と思われる)が朝鮮半島から若狭に渡来し琵琶湖を渡り、尾張 の伊勢に進出し、・・・太平洋岸を東上する課程で木曽川、矢作(やはぎ)川、天竜川、 大井川、富士川、相模川などの上流にも入植をしたのでそれらの地方には渡来系の神社や 地名が多く残っている、という(注4,P133)」   渡来人はやがて関東地方にも入り、利根川をさかのぼり各地に住みついたようでした。 古代の利根川水系は現在のように太平洋へ直接流れるのではなく、埼玉県北部で南に大き く折れ曲がり、場所によっては入間川・荒川・江戸川・中川・隅田川などの別名をもちま すが、最終的には東京湾に流れ込む大河川でした。   古来、利根川水系はたびたび氾濫をおこしましたが、災厄ばかりでなく武蔵国では交 通・運輸の大動脈であり(注5)、多摩川水系とともに武蔵国の先進地域を形成していま した。それに大きく貢献したのが渡来人や渡来文化なのですが、それらの川をさかのぼっ て渡来人が東京などに住みついたようです。そのようすを出羽氏はこうつづけました。        --------------------   東京の新羅神社については調査を終了していないが、墨田区の神社を調べている時に、 古代の渡来氏族、主として秦氏の東進ルートの興味深い話を聞くことができたので敢えて 採りあげた。   それによれば、古代のこのあたりは海であり 外河原村、塩の河原、塩田などとも言 われた。また、古代には海人族が・・・太平洋沿岸に沿って静岡から武蔵国の墨田、千葉 まで移動し、一方は荒川沿いに北上し川口を通り 新座市から入間(いるま)、高麗(こ ま)など、現在の埼玉県に入植した。   また一方は利根川を北上し妻沼(めぬま)、深谷、太田市、本庄等 群馬県に入植を したという・・・   確かに宮司の話の通りであり調べてみると妻沼や本庄、深谷の周辺には渡来人 特に 新羅系と思われる地名や白髭神社などが多い(注4,P132)。        --------------------   東京で白髭神社は墨田区あたりに多いようで、目についたところだけでも、四ツ木白 髭神社、その親に当たる渋江白髭神社、立花の白髭神社などがあります。これらはやはり 旧利根川水系の旧中川あるいは綾瀬川沿いにあります。   それらの神社が称する「白髭」は口ひげですが、アゴヒゲのほうの「白鬚」神社がや はり墨田区の隅田川にかかる白鬚橋のたもとにあります。といっても、もちろん神社が先 で橋の名は後につけられました。   この神社は格式を誇ってか、神社発行のパンフレット「白鬚神社」では皇室とのつな がりをこう記しました。  「明治三十一年 一の鳥居改築の時 小松宮殿下より社号扁額の題字を賜り、同三十三年 にはご参拝になられた」   しかし、皇室とのつながりを狙われたのか、同神社は「平成二年 天皇陛下のご即位 式典や大嘗祭などに反対する過激派の放火により、江戸末期建設の社殿や末社などがこと ごと灰燼に帰した」のでした。   でも、この神社は力があるようで、すぐ災難を乗り越えて社殿などを再建しました。 そのため建物は新しいのですが、その歴史は相当古いようで、同パンフレットはこう記し ました。  「天暦五年(951年 村上天皇の御代)に慈恵大師(又は元三大師とも称す)が関東に 下った時、近江国 志賀郡 境内(今の滋賀県 滋賀郡 高島町)に鎮座する白鬚大明神の御 分霊をここに祀ったと伝えられる」   慈恵大師は正しくは慈慧大師(諡号)ですが、俗に、正月3日に没したので元三(がん さん)大師ともいわれます(注6)。大師は祈祷で円融天皇の病を治した功により、行基以 来はじめて大僧正に任じられた高僧でした。生前の名は良源で、第18代の天台座主として 比叡山 延暦寺の三塔十六谷を完成させ、延暦寺を盤石にする偉業を成し遂げた高僧でし た。   慈慧大師の足跡は千葉県にも及んでいたようです。冒頭に書いた八柱駅近くの日暮 (ひぐらし)にある白髭神社の由緒書きはこう記しました。  「第61代 朱雀天皇 承平5年(935)平将門 祖父 平国香を殺し 関八州を平定するとき 多くの武士を亡くした。この時の上人(慈恵)大師は下総国日暮村に貴賤尊卑の別なく幅 広く住民のために貢献され、猿田彦大神を祭祀されたと聞いています」   先日のお祭りでは、山車(だし)やミコシ、それに子どもミコシまで出て、数百人の 老若男女でにぎわっていました。歴史が古いだけに、しっかり地元の核になっているよう です。   歴史的にこの神社が慈慧大師に関係していたとなると、この神社もやはり近江の白鬚 神社と何らかの関係があると思われます。この白髭神社については次回記すことにします。 (注1)金達寿著「日本の中の朝鮮文化7」講談社文庫,1989,P100  <白髭神社は高句麗系?> (注2)小野迪夫「白髭神社について」『神道史研究』第33巻第4号、1985,P53より  各地の白髭神社(白鬚・白髯を含む)の数は、全国神社名鑑によれば、次の通りである。  岩手1、山形5、栃木2、埼玉20、東京6、神奈川1、長野1、新潟1、石川2、福井3、山梨2、  岐阜43、静岡61、愛知5、三重1、滋賀2、京都1、兵庫3、奈良2、鳥取1、島根1、岡山1、  高知6、福岡4、佐賀1、長崎1、大分4  (半月城注、このリストには千葉県などの数え洩れがあります) (注3)<白髭神社のケヤキ> (注4)出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社,2004 (注5)利根川の水運を物語るのが、足立区の伊興遺跡(いこういせき)です。そこから   は大型の舟の部材が発見されたようで「すみだ郷土文化資料館」はこう記しました。        -------------------- 『みやこどり』第12号   古墳時代の初めごろの旧利根川下流部の水上交通の様子を知る上でも、伊興遺跡は貴 重なてがかりを提供します。伊興遺跡からは、舟形という古墳時代の舟の形をした祭りの 道具や、古墳時代中ごろの刳舟(木の幹をくりぬいて作った舟)の部材が出土し、大型の舟 が旧利根川の下流部を行き交っていた状況が明らかになってきました。また、百済など朝 鮮半島で作られた土器もここに持ち込まれていました。  今から約1500年前の隅田川にも、様々な形をした大型の舟がヤマトや朝鮮半島の物 資を積んで、行き来していたのです。        -------------------- (注6)「良源」 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』より   966年第18代天台座主となった。良源は座主として,火災で焼失した東塔の諸堂の再 建にあたり,さらに西塔や横川の諸堂や僧房,経蔵,政所屋など,山内の施設を整備した。 延暦寺の三塔十六谷は良源のとき完成をみたのである。住山の僧も3000人といわれ,かつ てない盛況を示した・・・   良源の活動によって延暦寺は他の教団を圧し,末寺や荘園も増加し,世俗的にも強大 な存在となった・・・   その後981年(天元4)には円融天皇の病気を祈って験あり,行基以後はじめての大僧正 に任ぜられている・・・   987年(永延1)慈慧と諡号(しごう)されたが,正月3日に没したので俗に元三(がんさ ん)大師ともいう・・・ (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


白髭神社と新羅(2)、琵琶湖西岸 2004/10/31 Yahoo!会議室「日本人は百済から来たのか?」#10636   半月城です。   今回は、全国の白髭神社の本社とされる近江 高島郡の白鬚神社をとりあげます。こ の神社は「近江の厳島」ともよばれ、情熱歌人である与謝野晶子の短歌にも詠まれるほど 有名な神社です(注11)。さらに、それ以前にも観阿弥の能「白鬚」にもうたわれるほど 由緒ある神社でした(注12)。   この神社は、おもしろいことに鳥居が琵琶湖の中にあり、夕日に映える朱塗りの鳥居 は一幅の絵として見ごたえがあります。鳥居はもともと陸地にあったですが、1662年の琵 琶湖西岸地震(M7.6)の影響なのか、水中となってしまったようです。   神社の本殿(重要文化財)は国道をはさんで山側にありますが、その配置や規模から わかるように、かつての寺域は広大だったようです。時には権力者の援助があったようで、 1603年、今の本殿は豊臣秀吉の遺命により豊臣秀頼により建てられました。   ただし、神社の歴史はもっと古く、伝説では垂仁天皇の時代、すなわち新羅からの渡 来王子「天日槍」の時代にまでさかのぼります。その歴史を出羽弘明氏はこう記しました。        --------------------  (白鬚神社の)『社記』には「祭神は猿田彦命。別社名を白鬚明神、比良(ひら)明神 という。創建は不詳。垂仁天皇25年、皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)社殿を再建、 天武天皇 白鳳2年(674)勅旨を以って比良明神の号を賜る・・・」とある。  『日本三代実録』貞観7年(865)正月の条に「近江国 無位 比良明神に従四位下を授く」 とあるので、古くは比良明神と呼ばれていたことがわかる。福井県今庄の白鬚と同様にこ の白鬚は新羅であろう。比良は斯羅(しら)であり新羅である。  『七大寺巡礼私記』東大寺縁起に良弁(ろうべん)僧正の前に現れた老翁が「我当山の 地主、比羅(良)明神なり」と言ったという記事が見える(『高島町史』)。比良は新羅 に通じる(SHIRAから S が欠落したもの)(注1)。        --------------------   白鬚明神の古名が比良明神ということですが、比良明神は出羽氏がいうように東大寺 縁起にも登場します。その話はこうです。   百済系渡来人の後裔で東大寺四聖のひとりである良弁は、東大寺の大仏造営に使う金 を渇望して祈願していたのですが、ある時、啓示を受け、琵琶湖南岸の勢多(瀬田)へ行 き、そこで釣りをしていた老翁に出会いました。   尋ねると「私は、この背に続く山々の地主神 比良明神である。そして、ここは観世 音の霊地である」と言って消えました。良弁は、近くに庵(後の石山寺)を建てて祈願し たところ、東大寺の大仏造立に渇望していた金が東北で発掘されたとのことでした。比良 明神は大仏造立にひとかたならぬ貢献をした明神でした。   比良明神の名は白鬚神社の背後にひかえる比良山と符合するのですが、その「比良」 の語がどこから来たのか気になります。それを出羽氏は新羅の古名である斯羅の転訛とし ましたが、はたしてどうでしょうか。   たしかに、口語で「ひ」と「し」はよく混同されます。よく知られているように、江 戸っ子は「ひ」が苦手で「し」と発音しますが、逆に一部の関西人は「し」を嫌うのか 「七」を「ひち」と発音したりします。あるいは比良の語源は斯羅だったのかも知れない のですが、少し説得力にかけます。   語源の話はそこそこにして、新羅とのかかわりを史蹟からさぐることにします。その 前に、白髭神社が位置する高島郡の立地条件を見ておくことにします。古代の高島は、日 本海に面する越の国から敦賀を経てヤマトへ向かう北陸道と、若狭の国の小浜からヤマト へ向かう若狭道の合流点にあたり、交通の要衝になります。   まず北陸道ですが、敦賀は伝説でオホ加羅の王子であるツヌガアラシトが来たとされ る地で、駅前に王子の像が立っているくらい、加羅や新羅からの渡来人と深いかかわりが ありました。   そこから高島へ行くには、紫式部も通った北陸道の塩津山を越え、琵琶湖北辺の塩津 浜あたりから舟あるいは陸を琵琶湖西岸にそって進みます。塩津浜の近くには、天女の羽 衣伝説で名高い余呉(よご)の湖があります。   その余呉には新羅と縁がある鉛練日古(えれひこ)神社があります。神社の主祭神は 大山咋(おおやまくい)命で、相殿の神として新羅の王子とされる天日槍(あめのひぼ こ)が祀られています。しかし、本来の祭神は度会『神明帳考証』など諸書が説くように 天日槍だったようです(注9)。   また、付近には新羅崎神社の旧蹟や日槍(ひぼこ)塚、新羅の森などがあり、羽衣伝 説(注2)とあわせ、新羅などの渡来文化や渡来人の足跡が濃厚です。   つぎに若狭道ですが、倭の表玄関である小浜(おばま)には、かつて若狭の国府がお かれていました。そこは元小浜市長の鳥居氏によれば朝鮮半島からの「民族移動の通路」 でした(注3)。   小浜から高島郡を経て京都へいく道は「鯖(さば)の路」と呼ばれましたが、新羅あ たりからの渡来人はそのコースにしたがって、小浜から遠敷(おにゅう)川をさかのぼり、 山を越え安曇(あど)川をくだり、つい先日、熊の被害が出た朽木(くつき)村をへて、 高島郡へ入ったとみられます。   その道筋は遠敷川をはじめとして多くの渡来遺跡が残されました(注3)。また朽木 村には桑原という地名がありますが、この名は渡来系の桑原村主(すぐり)に由来します。   さらに、石原進氏によれば、安曇川町の南市東遺跡では「古墳時代の竪穴式住居跡で、 古代の朝鮮半島で普及していた移動式かまどを使用した形跡がみつかり、さらに、これも 朝鮮半島の影響を受けた取手付きのコーヒーカップのようの土器も出土、渡来文化の色彩 がきわめて濃い遺跡」とされます(注10)。   こうして琵琶湖西岸に居住するようになった渡来人は、さらには琵琶湖東南へと拡散 していったようですが(注4)、湖西にはかつて新羅系の渡来人がいたことを出羽氏はこ う記しました。        --------------------   古代の琵琶湖の西岸は新羅系の氏族の居住地であったと考えられる。安曇郷から滋賀 郡にかけてはそれらの遺跡が残っている。   穴太(あのう)、大友、錦織の村主(すぐり)等は、はじめから志賀津周辺にいたわ けではなく、一度定着した大和や河内から国家の企てによって、その後この地に配置され た(水野正好『古代を考える・近江』所収の山尾幸久「大津京の興亡」)とすれば、大津 京以前に新羅の人々が新羅の神を祭っていても不思議はない。   雄略天皇の時代に和邇氏を真野郷に移し、大友、錦織に穴太、大友、錦織らを編入し たといわれている(五世紀後半)。(注1,P189)        --------------------   湖西のルート上に残された重要遺跡のひとつが、高島町の白髭神社近くにある鴨稲荷 山(かも いなりやま)古墳です。この古墳はかつての志呂志(しろし)神社の境内にあ りましたが、この神社は渡来系の韓神や曾富理(そほり)神と兄弟神である白日神を祀っ たとして、大和岩雄氏はこう記しました。        --------------------   志呂志神社のかつての境内に、鴨稲荷山古墳がある(全長50メートルの前方後円墳)。 明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴石室から凝灰岩製家型石棺が発見 され、石棺から遺物が出土した。   更に大正十二年梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、 金銅製冠、双魚佩と沓(くつ)も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類のものが出土している。  ・・・環頭大刀、鹿角製刀子も、朝鮮半島に類似のものがある。棺外からは馬具と須恵 器が出土している。このような古墳が旧境内にあることも、志呂志神社が白日神を祀った 神社であることを推測させる(注5,P373)。        --------------------   鴨稲荷山古墳の副葬品は新羅、加耶のものと類似しているようですが、この地は継体 大王が生まれた地とされました。『日本書紀』継体紀はこう記しました。  「オホド(継体)天皇は、ホムダ(応神)天皇の五世の孫で、彦主人(ひこうし)王の 子である。母を振姫(ふるひめ)といった。振姫はイクメ(垂仁)天皇の七世の孫である。   継体天皇の父は、振姫が美人で、たいそう好い色(香)があると聞き、近江国の高島 郡の三尾の別業(宅)から、使いを遣って三国(福井県坂井郡)の坂中井で結納を差しだ して、妃とした。やがて天皇を産んだ。天皇は、幼年で父王が薨じた」   継体大王ですが、その周辺は渡来系との結びつきがあまりにも強いので、井上光貞な どは心証的に継体大王は渡来人かもしれないと考えていたふしがあります。それを森浩一 氏はこう記しました。        --------------------   私が三十代であったと思いますが、お亡くりになった東京大学の井上光貞先生が中央 公論社から『日本の歴史』の第1巻をお出しになったときに、考古学の分野をお手伝いし ました。   あるとき、井上先生とお酒を飲んでいると、先生が私に向かって「継体大王の家は渡 来人かもしれないね、君はどう思うかね。」とおっしゃいまして、私はびっくりしたこと を記憶しています。   井上先生は非常に学問に厳密な方で、不用意な発言はしない人でありますから、井上 先生の発言とはとても思えませんでした。あの当時、先生の頭の片隅にこうした考えがチ ラリとあったのでしょうね。本当に驚きました。   ただしそのことを先生は本にはお書きになってはいない。本にお書きになる場合には、 あくまでも文献史学者としての厳密な姿勢を崩されなかった。考古学の遺跡や遺物に対応 させ、あるいは日本海という土地柄を視野に入れての発言であったのでしょう。   井上先生がまだ助教授のころではなかったかと思います。そういう刺激もあって私も 徐々に継体大王について考えるようになりました(注6)。        --------------------   しかし、継体大王の家が渡来系であったかどうかは、継体大王に関するたしかな出自 が今となっては明らかにし得ないので、永久に不明とされることでしょう。それはともか く、このエピソードは何よりも白鬚神社がたてられた近江や、それにつらなる日本海がい かに朝鮮半島と密接なかかわりがあったかを物語っています。   近江にいた継体大王の家は三尾明神を祀っていたと思われますが、この三尾明神と比 良(白鬚)明神は同じではないかとみられます。大和岩雄氏はこう記しました。        --------------------   白鬚神社のある高島町には、式内社の水尾(三尾)神社と志呂志神社があり、三社を 結ぶ線はほぼ正三角形になる。   白鬚神社の近くに白蓮山長谷寺がある(高島町音羽)。この神社の縁起や、大和の長 谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』では、長谷観音像を刻む依木を運ぶ場面に、この依木を守 護する白鬚・白髪の老翁(三尾明神)が描かれている。   また『三尾大明神本土記』からも白鬚神社と水尾神社の密接な結びつきがうかがえる ことから、橋本鉄男は、老翁として示現する比良(白鬚)明神、三尾明神は「名を異にし てはいるものの、その主体は一つであることが知られる」と書いている(注7)。  ・・・   三尾明神は、新羅明神・白山明神と共に園城(おんじょう)寺の鎮守神になっている が、『寺門伝記補録』に、  三尾神、在於北道 現白山明神 彼此一体分身神也(中略)社司 秦河勝之胤 有臣国ト云 者 始任当社神職 自厥以来 秦氏連綿相継  とある。中世の記事ではあるが、三尾明神と白山明神が「一体分身神」で、秦氏が「連 綿相継」いで社司をつとめているというのは、白鬚神社と水(三)神社の関係、白神と秦 氏の関係からみても、無視できない(注5,P384)。        --------------------   三井寺(園城寺)の鎮守神は三尾明神、新羅明神、白山明神とされ、新羅系の秦氏が 神職を代々勤めたようですが、これらの神はほぼ同一の神でしかも渡来系とされるようで す。鎮守神は三井寺北隣の新羅善神堂(国宝)に祀られました。この神社は、ここで新羅 三郎義光が元服したことでよく知られています。   なお、三井寺の守護神の一座が白山明神ですが、これも元来が渡来神であるようで、 川口謙二氏はこう記しました。        --------------------   ちなみに、白鬚神社のように、白の字のつく神社は、白峰神社をはじめとして、白山 比咩(しらやまひめ)神社(白山神社)という大社のほか、京都の北の天神の末社の白太 夫神社などがある。   白山比咩神社はもちろん朝鮮渡来の神を祀っており、白鬚神社も新羅神が祭神である といわれているところから、朝鮮渡来神といえるだろう。   白の字がつく神や神社、たま宇佐八幡宮の祭神のように、白髭をたくわえた神を鍛治 翁(かじおう)というが、このような神を祀る神社は、およそ朝鮮渡来の神を祀っている といってよいであろう(注8)。        --------------------   このように三尾明神と白鬚明神が同一だとすると、なぜ多くの白鬚神社が猿田彦命を 祀るのかのナゾが理解できます。伝説では猿田彦は三尾大明神の名をニニギノミコトから 授かったようで、出羽氏はこう記しました。        --------------------  『三尾大明神本土記』に「そもそもこの地を山崎郷と名づけたのは、猿田彦の孫、山崎 命がここに住したことによるものである・・・   昔 猿田彦命はニニギノミコトが日本巡狩の際、比良山の地に鐙崎・吹御崎・鏡崎の 三つの尾崎があり通行の妨げとなっていたので押し崩し その手柄により三尾大明神の名 を賜った・・・その住む所を三尾郷と名づけた」とある。   高島町にある稲荷山古墳の石棺内には新羅製の金、銅の冠、沓、耳環等の副葬品とと もに祭具もあり、新羅系の渡来系氏族が居住したことを示している。三尾君氏の古墳と見 られているので、三尾氏は新羅系氏族ということになる(注2,P193)。        --------------------   結論ですが、飛鳥時代以前の湖西地域は、和邇氏や大友氏といった豪族以前に新羅系 渡来人などが日本海側の敦賀や小浜あたりから移住し、その先端文化の足跡が色濃く残さ れたようでした。また、南からは天日槍に代表される新羅系の渡来人などがヤマトから北 上したようでした。   そうした痕跡の一端が、継体大王が生まれた三尾の地を含む高島であり、そこに精神 的支柱として三尾明神や比良(白鬚)明神などが祀られたとみられます。それらや新羅明神 は一体分身神として示現したようです。そうした新羅明神や白鬚神社は全国各地へと拡散 していくのですが、その過程には新羅系の秦氏一族がかかわっていたようです。 (注1)出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社,2004 (注2)申来鉉『朝鮮の神話と伝説』太平出版社,1971 (注3)<東大寺お水取りと若狭、新羅> http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html#No.547 (注4) <琵琶湖東南の渡来人> http://www.han.org/a/half-moon/hm097.html#No.710 (注5)大和岩雄『秦氏の研究』大和書房,1993 (注6)森浩一「継体大王と樟葉宮」『継体大王と渡来人』大巧社、1998,P10 (注7)原著注、橋本鉄男「白鬚神社」『日本の神々・5』所収、白水社,1986 (注8)川口謙二「比良明神・白鬚神社」『日本神祇由来事典』柏書房,1993 (注9)西川丈雄「鉛練比古神社」『日本の神々』第5巻、白水社,2000 (注10)石原進他『古代近江の朝鮮』新人物往来社、1984,P200 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


永久秘密裏(?)の日韓条約関連文書 メーリングリスト[aml 41584] 2004/10/28   半月城です。   来年は、日韓条約40周年になります。また、韓国保護条約100周年にもあたりますが、 それにちなんで近ごろ日韓関係の歴史を見直す動きが出てきたようです。   韓国でも先月KBSがTV番組「秘密裏の韓日協定文書」を放送しましたが、番組は 韓国、日本をかけめぐって取材したのみならず、膨大なアメリカの公文書なども解明した とあって、新味にあふれた力作でした。   その番組でちょっと意外だったのは、東京大学の資料隠しでした。番組によれば、津 田塾大学の高崎宗司氏が東大で『韓日会談会議録』を見たいと申し出たら「資料自体があ りません」といってことわられたとのことでした。   同氏は「自分は前に見たことがある」と切りかえたら、東大はしぶしぶ「今はそうい うことになっています」と答えたとのことでした。高崎氏の話が本当とすれば、真理を探 求すべき東大がウソをついてまで資料を隠蔽したことになるのですが、日本の最高学府も 堕落したものです。   問題の『韓日会談会議録』は韓国外務部により作成されましたが、それをある日本の 教授が韓国の古本屋で90年代初めころ入手して東大に寄贈されたようです。その資料のコ ピーが、埼玉県川口市で姜徳相氏が主宰する「文化センター・アリラン」(注1)に部分 的に残されました。   東大の東洋学研究所は、最近になってKBS局の数回にわたる申し出を受け、やっと 問題資料の閲覧を許可しました。東大が資料隠しをしたのは、日本政府の意向だったので しょうか。かつて日本政府は、韓国政府が韓日会談資料を一部を公開しようとした動きを 阻止したほどで、40年たっても資料を徹底的に秘密のベールにつつんできました(注2)。   その理由は進行中の日朝交渉に悪影響を与えることなどですが、これは理解するとし ても、「在日韓国人の法的地位など国籍関連の文書公開に法務省が難色を示しているこ と」などは、理由としてとうてい納得できるものではありません。   しかし、よくよく考えてみると法務省のやり方からすれば、それは当然の成りゆきな のかもしれません。日韓条約締結当時(65年)の法務省は、在日韓国人について<国際法 上の原則から言うと「煮て食おうと焼いて食おうと自由」>などと、人食い人種まがいの 問題発言をしているくらいでした(注3)。   そんな精神をベースにして日韓条約交渉に臨んだのですから、その交渉過程で法務省 がどんな発言をしたのか、その真実が明らかになれば法務省は窮地に追い込まれるのは必 死と思われます。それが本当の理由でしょうか。   その法務省が、61年の日韓交渉で日本の強制動員による韓国人被害者に日本政府が直 接「個人補償」をすると韓国側に提案したとされるのは注目されます。これに対し韓国側 は「国内問題として措置する考えであり、人員数とか金額の問題があるが、ともかく支払 いは我々の手で行う」と発言したようでした。   しかし、具体的な人数や金額の根拠となると、韓国側に一次資料があるはずもなく、 話し合いはなかなか進まなかったようにKBSは紹介しました。番組はそれ以上深く追求 しなかったのですが、こうした交渉過程は今日の戦後補償問題を考えるとき重要なので、 それをすこし補足したいと思います。   韓国は1961年の時点でおおざっぱであれ、被害者の人数や金額について日本に提案を 行っていました。その内容について、かつて「韓日会談会議録」を検証した先の高崎氏は こう記しました。        --------------------   61年10月20日、第6次会談が開会された・・・   一般請求権小委員会は10月26日から年末にかけて八回開かれた。韓国側代表たちが八 項目の請求権要綱について具体的な数字をあげて詳しく説明し直し、質疑応答が行われた。   韓国側は、1909年から1945年までの間に日本に搬出された地金249トン余と地銀67ト ン余りの返還を特に強く要求した。それらの地金と地銀は約3億ドルに相当すると言われ ていた。   12月15日と21日の小委員会では、今日からみて最も重要な第五項「韓国法人あるいは 韓国自然人の日本国あるいは その他の請求権の返済」に関する説明と討議が行われた。 なお、第五項は次の六つに細分されている。 (1)日本の有価証券          87億6503万余円 (2)日本系通貨            15億2549万余円 (3)被徴用者の未収金         約2億5000万円 (4)戦争による被徴用者の被害に対する補償 約3億6400万ドル    (注=ここだけドルになっている。なお、当時1ドルは360円だった) (5)韓国人の対日本政府請求(恩給関係およびその他) 3億0619万余円 (6)韓国人の対日本あるいは法人請求  4億3800万円   このとき、韓国側は(4)について強制徴用された韓国人は、労務者66万7684名、軍 人軍属36万5000名、その合計は103万2684名に達し、そのうち労務者1万9603名と軍人・軍 属8万3000名、合計10万2603名が負傷あるいは死亡した」として、  生存者一人当たり 200ドル、  死亡者一人当たり1650ドル、  負傷者一人当たり2000ドル、 すなわち  生存者全体で1億8600余万ドル、  死亡者全体で1億2800余万ドル、  負傷者全体で 5000万ドル 総計 3億6400万ドルを請求した。死亡者の数を7万7684人、負傷者の数を2万5000人として 計算した金額である(注4,P121)。        --------------------   死者に対する補償要求がたったの1650ドル、当時のお金で60万円とは驚きました。数 字の桁を1ケタまちがえたのではないかと疑いたくなります。   また、上記の有価証券類の金額は戦前の額面金額と思われますが、これらを含めて韓 国側は総額30億ドルを賠償請求したとKBS番組は紹介していました。   ただし、これらの中には「従軍慰安婦」などに対する補償は考慮されていないことは 特記に値します。当時、「慰安婦」の存在はまだ知られていませんでした。また、つい数日 前に東京地裁で第1回口頭弁論が開かれた韓国ハンセン病患者に対する補償なども含まれ ていないことはいうまでもありません。   その他、被爆者に対する補償など、当時は知られていなかった被害者に対する補償は まったく考慮されていないのですが、こうした事態を予測して韓国政府は第6次会談でこ う主張しました。  「韓国人(自然人および法人)の日本政府あるいは日本人(自然人および法人)に対す る権利として、以上の要綱 第一項から第五項に含まれないものは、韓日会談成立後で あっても個別的に行使することができることを認めること。この場合には、国交が正常化 されるときまで時効は進行しないものとすること(注4,P122)」   しかし、こうした韓国の主張は結局とおりませんでした。最終的に「請求権及び経済 協力協定」第二条で「両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに 両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が・・・完全かつ最終的に解決されるこ ととなることを確認」したとされました。   また金額については、第1条で 3億ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」 を無償で韓国に供与することを確認しました。30億ドルの要求が3億ドルに減額された結 果になりました。   この3億ドルの性格を韓国政府は日本の「賠償金」として自国民に説明しました。他 方の日本政府は「独立お祝い金」および「経済協力金」であり、植民地支配に対する賠償 金や補償金ではないと自国民に説明しました。もちろん、植民地支配や不法行為に対する 謝罪などもありませんでした。   なお、3億ドルという金額はアメリカの介入により決定されたようでした。KBS局 は米国公文書館の膨大な文書の解明を民族問題研究所に依頼し、分析した結果を紹介しま したが、アメリカの国務省が具体的に3億ー3億5千万という数字を日韓両国に提示し、最 終的に「金ー大平メモ」の3億ドルで決着しました。   アメリカが日韓に圧力をかけ、妥結を急がせたのにはわけがあります。当時のアメリ カは泥沼のベトナム戦争をかかえ、アジアの自由主義陣営が結束する必要に迫られていた からでした。一方、それにアメリカの要請に応じた日韓両国もそれぞれの事情をかかえて いました。   韓国は貧困から抜けだすために、経済発展の呼び水となるドルを渇望していました。 そのためにはベトナム戦争にアメリカの傭兵として軍隊を派遣していたくらいでした。そ うした事情から、たとえ大幅に値切られた3億ドルでも、ノドから手が出るほど欲しかっ たにちがいありません。   他方の日本、特に産業界は3億ドル相当の「日本国の生産物及び日本人の役務」の提 供を基盤にして韓国への経済進出をもくろんでいました。そのためには韓国の与党である 民主共和党に巨額の献金までしていたのですが、それを民族問題研究所が資料のうえで明 らかにしました。同所は 1966年にアメリカCIAが作成した内部文書を解明したのです が、そこにはこう記されていました。  「日本企業の主張によれば、かれらは61-65年の間に民主共和党予算の2/3を提供し た。6企業が6600万ドル(237億円)を支払い、企業別では100万ー2千万ドルに達するとい う」  「金鍾泌は、韓日会談を推進した対価と、日本企業から韓国で独占権を行使できるよう にとする対価を受取った」   こうした裏金は当時からうわさされていたのですが、CIAはこれには十分な根拠が あるとわざわざ特記しました。CIA文書は企業名についてはふれていないようですが、 それらの企業は日韓国交正常化で汚い投資の見返りを何倍にもして、十分もうけたことで しょう。   CIA文書に名前があがった金鍾泌氏は、不正資金の受領をめぐって朴正煕大統領と 何らかの軋轢があったのか、裏交渉の主役から一時はずされそうになったようでした。し かし、駐韓米大使が国務省に送った書簡によれば、かれは自民党の大野伴睦の反対で罷免 をまぬがれたとされました。両者の癒着ぶりをうかがわせます。   こうして米日韓の利害がかみあって日韓条約が結ばれました。締結によりアメリカと 日本はおおいに満足したようですが、韓国には「屈辱外交」のしこりが残りました。過去 の歴史が清算されるべきなのに、条約には日本による植民地支配に対する言及すらなく、 ましてや謝罪の言葉などみる影もありませんでした。   また、うらみの日韓併合条約などは「もはや無効であることが確認される」の一言で 片づけられ、当初から無効とはされませんでした(注5)。さらには、賠償金額が低かっ たことにも不満がうっ積しているようです。   一方、韓国人被害者も十分な補償も得られませんでした。韓国政府はかつての発言を 実行すべく、75年に被害者に補償を行いましたが、それにはもちろん「慰安婦」がふくまれ ないなど限定的なものであり、しかも必ずしも十分な広報がなされなかったようで、5年 間の請求期間を知らない人もいたようでした。   韓国政府はこのような内部事情をかかえる上、国内の猛反対を軍事力で鎮圧し、外務 大臣が売国奴の汚名をきてまで条約を締結しただけに、交渉過程が全面的に明るみにでれ ば屈辱外交を裏づけることにもなりかねないとみられます。そのため、資料公開は日本へ 提案したような部分公開はできても、全面的な公開は困難な状況にあるようです。   こうした事情のため、日韓交渉の真実はいつになっても明らかにされない模様です。 それとともに清算されるべき歴史問題も同じ運命とみられます。   その一方で日韓基本条約はじきに改定を迫られることになりそうです。最近、日朝交 渉は頓挫しているようですが、日韓基本条約第3条で大韓民国政府は「朝鮮にある唯一の 合法的な政府であることが確認される」とうたわれたので、もし日朝交渉が成立するとき にこの条の書き替えは必定となります。   その改定の機会に、日韓基本条約の見直しがなされ、過去の不幸な歴史が十分に清算 され、戦後補償問題が納得いくように解決されることを願ってやみません。 (注1)<特定非営利活動法人 文化センターアリラン> (注2)<日韓交渉資料の非公開申し入れ> (注3)池上努『法的地位200の質問』京文社、1965,P167 (注4)高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、1996 (注5)<日韓基本条約> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


青山里戦闘と金佐鎮将軍 (1)青山里戦勝記念日 メーリングリスト[zainichi:28333] 2004/10/25   半月城です。   きょう10月25日は、青山里戦闘の戦勝記念日です。朝のKBSテレビは、金佐鎮 将軍の殉難碑や将軍が住んでいた家などを放映していました。家の内部は昔のままに 残され、ちょっとした観光地になっているようです。   さらにテレビは、韓国政府が25億ウォンかけて作ったハイリン市の「韓中友誼公 園」や、近々オープンする展示館などを紹介していました。展示館には金佐鎮将軍や 伊藤博文を暗殺した安重根義士の資料を陳列するとのことでした。 (2)金佐鎮将軍の映画 メーリングリスト[zainichi:28327] 2004/10/24   半月城です。***さん、還暦記念?の出版がんばってください。   以前、韓国のテレビでアクション番組「将軍の息子」がありましたが、この将軍 とは独立軍の金佐鎮将軍をさすくらい、韓国で金佐鎮将軍はよく知られているのです が、日本ではほとんど無名に近いようです。   もっとも、最近の韓国では「息子」のおかげで、金佐鎮将軍が忘れさられない存 在になっているといったほうが適切かも知れません。日本でもスカパーで放映されま したが、TV番組「野人時代」で息子の金斗漢は、植民地時代は反日暴力組織の親 分、解放後は反共、反独裁の英雄としてまつりあげられました。   こうしたメディアや映画などをとおして、金佐鎮将軍は伝説の将軍として韓国人 の心に刻まれているようです。そうした映画が日本でも近々上映されますので、下記 にご案内します。        -------------------- <韓 国 映 画 鑑 賞 会> ●『一松亭の青松は』 ◇日 時 : 2004年11月16日(火)18:30~ ◇監 督 : 李長鎬(イ・ジャンホ) ◇出 演 : 尹良河(ユン・ヤンハ)、李甫姫(イ・ボヒ) ◇製作年度 : 1983年(120分) 日本語字幕 ◇内 容 : 1920年、金佐鎭将軍の独立軍が少数の兵力で日本軍に対し伝説的な  勝利を収めた青山里独立戦争を 描いた物語。安重根が伊藤博文を暗殺した事件から  10年、3・1運動では日本の憲兵に老いも若きも 殺されてしまう。満州などに逃れる  ものを多かったが主人公は北間道に行き抗日運動に参加する。そして 独立軍のもと  に各地から志願兵が続々と集まり・・・。 ◆ 入場無料 : 先着150 名(予約不要)   ○ 本編に先立ち文化映画を18:00より上映 ○ 交通:地下鉄南北線、大江戸線「麻布十番」駅より徒歩3分、都営バス「二の  橋」停留所より徒歩1分 ○場所&主催:駐日韓国大使館 韓国文化院 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「松島(竹島=独島)渡海免許」 2002.10.2 メーリングリスト[zainichi:28280]   半月城です。   めずらしいことがあるものです。ここのメーリングリストで竹島=独島問題に関する 私の書き込みに反応があったのは何年ぶりでしょうか。   RE:[zainichi:28275] >読ませて頂いてちょっと分からない点ですが、川上健三氏の「渡海免許」というのは何  を根拠にしているのでしょうか?   外務省の官僚であった川上健三氏は、江戸時代に「竹島渡海免許」を受けて竹島(欝陵島)へ渡航していた大谷(おおや)家に伝わる古文献を引用し、我田引水的に「松島 (竹島=独島)渡海免許」をひねりだしました。   その背景や妥当性を名古屋大学の池内敏氏がうまくまとめていますので、それを紹介 することにします。        -------------------- 「寛文元年 松島渡海免許」   延宝九(1681)年、幕府巡検使に対する請書のなかで三代目 大谷九右衛門(勝信)は、 「竹嶋之道筋ニ 弐十町斗廻り申小嶋」を「二十四 五年以前、阿部四郎五郎様 御取持を 以 拝領、船渡海仕候」と述べる。   ここにいう「小嶋」とはおそらく松島(現在の竹島/独島)であり、この史料から、 1650年代半ばころから松島渡海の始まったことが知られる。   こののち、四代目 大谷九右衛門(勝房)は元文 元(1740)年四月、寺社奉行に提出し た請書のなかで三代目 九右衛門とほぼ同文によって松島拝領と渡海について述べる。   川上健三は、この三代、四代ふたりの九右衛門の記述を根拠にして松島渡海免許が幕 府によって出されたことが明白だとする。その上で川上は、万治二(1659)年に阿部四郎五 郎が松島渡海に関する幕府の内意を得、寛文 元(1661)年から大谷家の松島渡海が始まっ たと推測する。   ところで、三代目 大谷九右衛門は松島拝領と渡海について述べるものの、「寛文初 年 竹嶋渡海免許」のごとき文書の存在には言及しない。   また、寛文六(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査がなされた 際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるものは見当たらない。   発行からわずか十年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったの だろうか(注1,P34)。        --------------------   池内氏はこうした素朴な疑問から出発して史料を検証しました。その一端は下記に紹 介したとおりです。 「松島(竹島=独島)渡海免許」   結論として池内氏はこう記しました。        --------------------   以上を要するに、「松島渡海免許」なるものは存在しないのである。万治~寛文の交 に現れた自体は新たな渡海免許の発行ではなく、渡海をめぐる大谷・村川両家の利害調整 に過ぎなかった。寛文六年、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年 竹島渡海免 許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかったのは蓋(けだ)し当然であった (注1,P38)。        --------------------   史料を丹念に検討すれば「松島渡海免許」は存在しないという結論が妥当なところを、 川上健三氏は「竹島日本領説」に執着するあまり「松島渡海免許」を創作してしまったよ うです。ありもしないものを創作する行為、これは捏造といっても過言ではありません。   川上健三説には「竹島日本領派」の学者も公然と疑義をとなえました。具体的にいう と、国会図書館の塚本孝氏は遠慮がちに「松島(今日の竹島)については“竹島”の場合 のような渡海許可の公文書は残っていない(恐らく出されなかった)(注2)」と記しま した。   川上健三氏の意見が日本政府の主張の根幹になったようですが、そうした架空の免許 を基礎に外務省は「竹島は日本の固有領土」という主張を続けてきたことになります。   なお、最近の竹島=独島に関する日本の本は「松島渡海免許」についてまったくふれ ていないようです。内藤正中氏や大西俊輝氏、はては下條正男氏までもが「松島渡海免 許」にソッポを向いているようです。   その一方で、韓国の代表的な論者である愼鏞廈氏が「松島渡海免許」を信じているよ うで、まったく皮肉なものです。 (注1)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』鳥取地域史研究会発行,1999 (注2)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、   国会図書館,1996, P2 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


下條正男氏への批判、安龍福と竹島=独島 2004/11/ 3 Yahoo!掲示板「竹島」#6057   半月城です。   下條正男氏に対する批判をつづけたいと思います。   net_browneyさん、RE:5732 >この事件の主役である安は、干山島を「すこぶる大きな島」と称している。彼が示して  いる鬱陵島からの方角といい、この島は竹島ではなく隠岐と考えるのが妥当だと過去に  も再三指摘されたと思いますけど。   これは下條正男氏の説をウノミにして書いているのでしょうが、はたして下條氏の説 が成り立つのかどうか検証が必要です。まずは下條氏の主張をみることにします。同氏は 1693年に朝鮮の漁民である安龍福が村川家により日本へ連行されたときのことをこう記し ました。        --------------------   安龍福が于山島というものの存在を知ったのは、鳥取藩に密航する三年前の1693(元 禄6)年4月、「鮑(あわび)と和布(わかめ)かせぎ」のため鬱陵島に渡ったときである。 『竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、次のような供述を残している。   この度 参候(まいりそうろう)島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗 留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候 通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。   鬱陵島に初めて渡り、島の地理に詳しくなかった安龍福は、同行の朝鮮人から、于山 島の存在を教えられていたのである。   では、安龍福が「ようやく二度、見た」という于山島はどの辺りにあったのだろうか。 鬱陵島の「北東」にあると証言しているところからすると、この于山島は今日の竹島とは 無縁である。今日 領有権が争われている竹島は、鬱陵島の東南に位置しているからだ (注1)。        --------------------   下條氏は地図の見方を知らないとみえて、まちがいをおかしています。下條氏は「今 日 領有権が争われている竹島は、欝陵島の東南に位置している」と書いていますが、実 際のところ、竹島=独島は欝陵島の真東からわずか南寄りに位置します。   下條氏は安龍福のいう「北東」との違いを強調するためか、竹島=独島の方向を16方 位でなく、8方位の区分で欝陵島の東南としましたが、地球が丸いという事実を忘れてい るようです。二点間の東西南北を知るには地球儀でなければなりません。   たとえば、欝陵島の真東というと、平面図ではサンフランシスコあたりになりますが、 地球儀では南米チリのサンチアゴ近辺になります。ある地点における真の東西方向は南北 を結ぶ子午線に直角な大円(大圏)になります。   竹島=独島の場合、球面三角法を修正した Hubenyの拡張式で方向を正確に計算する と、欝陵島の中心である聖人峰からみたとき、竹島=独島は真東の南18度の方角になりま す(注3)。この方向を下條氏のように東南とみるのは誤りであり、下條式に8方位の区分 でいえば東になります。   したがって、竹島=独島が「欝陵島の東南」だから「于山島は今日の竹島とは無縁」 という下條氏の主張は誤りであり、安龍福のいう「欝陵島の北東」は、大きな誤りという ほどずれているわけでもありません。冬に吹く風を時には西風であっても北風というよう なものです。   ここでも下條氏はヤブヘビになった感がありますが、『竹嶋紀事』の記事はさらにそ れを強調する結果になりかねません。『竹嶋紀事』で、かの地すなわち欝陵島に安龍福が 逗留する間に于山島をようやく二度見たことがあり、その島は朝鮮人の間で于山島として 知られていたことが記されました。   この記述は『世宗実録』地理志にある記述「二島、相去ること遠くなく、天候が清明 なら、すなわち望み見ることができる」を実証するものにほかなりません。   さらに『竹島紀事』によれば、于山島は欝陵島から一日の航路にあるので、距離的に も竹島=独島に合致します。   問題は「大きなる嶋」ですが、島の大きさに関する表現は相対的、主観的なものです。 欝陵島近辺で大きな島というと、現在の竹島=独島と観音島、それに韓国名でいう竹島の 三島しかなく、他はすべて小さな岩嶼なので、松島(竹島=独島)を大きな島という表現 は妥当です。   おまけに安龍福の自供はすべて手柄話の口調であり、随所に誇張や虚偽がみられるの で、それを十分検証して読む必要があります。しかるに下條氏は、安龍福の自供は偽りや 誇張が多いことを十分知りながら、なぜ「大きな嶋」だけは誇張とせず、あたかも真実で あるかのように解釈したのでしょうか?   その理由ですが、下條氏は、于山島は竹島=独島に無関係という誤った結論にたって、 一日の航路にある「大きな島」を地図上でひねりだし、むりやり于山島を隠岐島であると いう結論を導きたかったためでしょうか? そのためか、同氏の主張は矛盾だらけです。   第一に、欝陵島から隠岐島までの路程は一日でなく、当時は二日かかるのでやはり下 條氏の主張には無理があります。   第二に、隠岐島は方角が竹島=独島よりもっと南であり、それこそ下條流の「欝陵島 の東南」にある島は無関係という論法でいえば、隠岐島は于山島とは一層無関係です。そ の下條流の証明法を同じ本の同じ節のなかで完全に無視して、欝陵島の東南にある隠岐島 を「于山島」であるなどと結論をだすにいたってはあきれるばかりです。   第三に、安龍福は于山島には「終(つい)に参りたる事はこれ無く」と述べ、于山島 に上陸したことはないとしました。一方で安龍福は隠岐島へは 1693年に連行されて上陸 したことが記録されているので、やはり隠岐島は于山島でなかったことになります。   このように下條氏の上記の主張にはことごとく無理がありますが、そうした主張こそ 同氏のいう「我田引水的 文献解釈」そのものと思われます。同氏はそうした手法で竹島 =独島をむりやり日本領にこじつけているようです。しかし、それが時には裏目に出てい るようです。   下條氏は著書『竹島は日韓どちらのものか』の帯封で「韓国側の領有権主張に根拠が ないこれだけの理由」と書きましたが、その著書でわざわざ取りあげた『竹嶋紀事』のみ ならず、すでにここの会議室で詳述した『隠州視聴合記』なども同氏の意図とは逆にヤブ ヘビになってしまいました。   文献を冷静に見るとき、同氏が特記した『竹島紀事』こそが、朝鮮人が竹島=独島を 位置や距離で正しく認識していた格好の資料ということになります。   ちなみに、同じ「竹島日本領派」の塚本氏は、もう少し冷静に安龍福と竹島=独島の 関係をみているようで、こう記しました。        --------------------   なお、安龍福は前述のとおり元禄6年に日本へ連れ帰られているが、同人を連れ返っ た(ママ)船は松島(今日の竹島)に立ち寄っている。したがって、同人は記録上 今日 の竹島に赴いた最初の朝鮮人ということになる。   同人はその際 今日の竹島を見、その名称(松島)を聞いたと考えるのが自然である が、そうであれば後に同人が「松島はすなわち于山である」と述べたのは、この時の体験 に欝陵島・于山島があるという朝鮮における伝承を当てはめた結果であると考えられる。   すなわち、朝鮮古文献にみえる于山(島)はその実は鬱陵島にあった于山(国)に由 来する観念上の存在であったが(前記1)、安龍福は朝鮮人として初めて松島(今日の竹 島)を実見し、鬱陵島以外に島があるとすれば于山島であると考えたものと思われる(注2)。        --------------------   塚本氏は客観的に于山島をみようとしているようです。しかし、『竹島紀事』によれ ば、安龍福は于山島の存在を「彼島を存じたるもの」から聞いていたので、安龍福以前に 「松島(今日の竹島)を実見」した朝鮮人がいたことになります。   したがって、同氏がつづけて述べた一節「同人が松島=于山という認識をもってたと しても、それゆえに彼以前の、古文献中の于山島が今日の竹島であるということにはなら ない(注2)」というのも妥当ではありません。もちろん、安龍福を于山島の最初の実見 者という見方は妥当ではありません。   日本の文献『竹島紀事』でも確認されるように、安龍福以前にも于山島は正しく認識 されていました。それが『世宗実録』地理志の記述に反映されたとみるべきです。   なお、朝鮮政府は安龍福が連行された翌年に張漢相を欝陵島の調査に派遣しましたが、 その時、張漢相は欝陵島の東南東 300里(120km)のところにある島を目撃したことを 「欝陵島事績」に記しました。島名は記されませんでしたが、方向や距離からみて于山島 以外ありえません。このように、政府レベルでも竹島=独島がきちんと認識されたことは 下記に記したとおりです。 <朝鮮の「竹島一件」対応> (注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P70 (注2)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,1996,P3 (注3)2点間の距離と方位計算ツール (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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