半月城通信
No. 97(2003.7.24)

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  1. 現代版の創氏改名
  2. 突然の日本国籍剥奪
  3. 在日韓国人のそれぞれの道
  4. 少数民族対策?
  5. 琵琶湖東南の渡来人
  6. 任那と任那日本府
  7. 高松塚壁画と襟の左前
  8. 摂津の百済寺
  9. 江藤隆美発言と日韓併合条約


現代版の創氏改名 メーリングリスト[zainichi:26092] 2003.6.18   半月城です。   ***さん、拙文<麻生太郎「創氏改名」発言の背景>を熟読していただ きありがとうございます。   ソウル大学が麻生氏を講演に招待した件ですが、ぜひ受けてほしいと私は 麻生氏に手紙を書きました。麻生氏がそれを受けてたち、学生たちと主張はち がっても堂々と議論できるなら、かれはあるいは総理大臣の器かもしれません。 しかし、麻生氏は東大での講演で「向こうには言わせておけばいい。こっちは 堂々と自分の話をすればいい」と語っているので、おそらく単なる内弁慶にす ぎないようです。   私は、先の原稿を書きながら現代版の創氏改名が気になっていました。帰 化時における日本名のことです。そこで法務局へ行き、書類「帰化許可申請の てびき」をもらい説明を受けてきました。   てびきの中にある「帰化許可申請書」をみると、やはり「帰化後の氏名」 欄がありました。応対した相談員に「帰化後の氏名ですが、今までの名前を継 続して使ってはいけないのでしょうか?」と尋ねたら、その人は「日本人にな るのだから、日本人らしい名前にする必要があります」と答えました。   やはり帰化するには、韓国式の名前を捨て「創氏改名」することが期待さ れているようです。身近な例ですが、私の妹が帰化した場合は「創氏」だけし ました。「名」はもともと日本式だったので「改名」する必要はなかったので す。   次に帰化書類中の「宣誓書」をみて、なるほどと思いました。宣誓文に 「私は、法律を守り善良な国民となることを誓います」と書かれていました。 日本人になる以上「善良な国民」になるのは当然と思われます。   しかし、宣誓文の下の欄は注目されます。型どおりの年月日欄と氏名欄な ので一見すると何の問題もないように見えるので、そのときは気がつかなかっ たのですが、帰ってよく見ると氏名欄にのみ小細工がしてありました。小さな 字で「氏名は、申請受付の際に記入するので、あらかじめ記入しないこと」と の注意書きがしてありました。   これをどう解釈すべきでしょうか? 氏名は帰化許可後の氏名を書くので しょうか? 年月日欄にはとくに注意書きがないので、ここには申請時点の日 付をいれるようです。そうなると、申請日には許可後の氏名はまだ存在しない ので、その書類自体が無効で、意味がなくなりそうです。それとも「通名=帰 化後の氏名」の前提で通名を書き入れるのでしょうか? ふしぎな書類です。   ここでちょっとおことわりしますが、私はあえて「帰化」という用語を使 用します。ここでの議論に「帰化」という用語を捨て「国籍取得」を使おうと いう意見がありますが、現状をみるかぎり「帰化」のほうが語感としてふさわ しいのではないかと思います。   といっても「帰化」を古代のように「君王の徳化に帰服すること」という 意味で使用しているのではありません。この用法はいまや一部の右翼くらいに しか用いられず、ほとんど死語に近いといえます。   私が「国籍取得」という語を使用しようとしないのは、日本の場合の帰化 は、外国人が日本人に成りきることを要求されているように思えるからです。 その象徴が現代版の創氏改名ではないかと思います。   前に書いたように、かつて戦前の植民地・朝鮮において、創氏改名が総督 府の末端行政当局によって皇民化行政の成績を誇示する手段として強制されま したが、まさしく創氏改名こそが日本人になったかどうかの重要な指標のひと つでした。   それと同工異曲か、日本はこれまでの帰化行政において帰化者に日本名を 名乗らせることに重点をおいていました。具体的にいうと、以前はすくなくと も創氏は帰化の絶対条件でした。そのために、民族名にこだわったソフトバン クの孫正義社長はなかなか帰化が許可されませんでした。そこで、かれは法務 省との攻防で秘策を練り、日本人である奥さんの姓を変えるなどして「孫」姓 を勝ち取りました。 <孫正義と帰化>   この創氏改名の伝統はいまでも生きているようで、私が訪れた法務局の相 談員にしっかりと受けつがれているようでした。一方、帰化を希望する人の側 も多くは日本での差別を逃れるため日本人として装い、日帝時代の創氏改名の 遺産を受けつぎ日本式の通名を日ごろ名乗っているので、結果的に法務省の路 線と合致するようです。   私の妹の場合も、帰化の目的が、子どもが就職時に不利益にならないよう にということだったので、帰化時にはもちろん進んで韓国姓を捨てました。   私はそれを責めるつもりは毛頭ありません。妹の子どもがよほど優秀なら、 就職差別など容易に乗り越えられるのでしょうが、残念ながらその水準ではな かったようなので、差別から逃れるための帰化はやむを得なかったと思います。   結局、差別から逃れるために創氏改名をするという構図は、日帝時代も現 在もあまり変わらないようです。そうした構図をすこしでも緩和したいと願い、 私自身は日常的に本名を使い続けています。そうすることにより、在日韓国人 に対する差別はほとんど日本人の杞憂であると暗に訴えているつもりです。   おわりに、だいぶ前に帰化について書いた文をリンクしておきます。 <帰化と差別>


突然の日本国籍剥奪 2003.6.20 メーリングリスト[zainichi:26159]   半月城です。   RE:[zainichi:26119] >確かに、国がもともと「自国民」とみなしている人たちには「届出による国 籍取得」が認められ、自由意志で帰化したい外国人には「申請による帰化」が 認められているのですよね。   日本の場合、もともと「自国民」とみなしている人であっても、ある日、 突然「外国人」にしてしまったことがありました。その実例がこの私です。   私は、日本の法律上は日本人として、日本で生まれました。しかし、対日 講和条約発効を機に、強制的に日本の国籍を剥奪されました。それは法律によ ってではなく、次の一片の民事局長の通達によってでした。  「朝鮮および台湾は、条約の発効の日から、日本国の領土から分離すること になるので、これに伴い、朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含め て、全て日本の国籍を喪失する」(1952年4月19日付民事、甲、第438号、民事 局通達)。   この措置は本人の意思とは関係なしに行われ、しかも本人には何の連絡も しないままでした。この一方的な措置は、のちに国籍問題や補償問題を引き起 こしたのですが、それに関して以前に書いた文がありますので下記に2本引用 します。 <在日朝鮮・台湾人の国籍>   日本政府は在日朝鮮・台湾人の国籍を52年、サンフランシスコ平和条約 までは日本人としましたが、この措置について各方面から次のように疑問がだ されました。 A.一片の局長通達で、在日朝鮮・韓国人の日本国籍を勝手に剥奪したのは憲 法違反ではないのか(注1)。 B.終戦後も引き続き在日朝鮮・台湾人が日本国籍を持つとした政策は正しか ったのか。   この指摘は、そもそも誰が日本国民であり、誰が日本国民でないのかとい う根源的な問いにも関連しており、「日本国民」の定義にかかわる重要な問題 です。言葉をかえていえば、「日本国民」の意味を真に理解するためには、在 日朝鮮・台湾人の歴史的存在の理解が欠かせないと思います。   こうした重要性を考えて、上の指摘をくわしく紹介します。 A.日本国籍剥奪   前々回、#1768に紹介したように、大沼教授は「日本国籍剥奪」は憲 法違反ではないかと疑問を出しましたが、当事者からも同じように疑問の声が あがりました。その一人、京都の宋斗会さんを紹介します。宋さんは、日本政 府の措置を不当であるとして1960年に「日本国籍確認訴訟」を最初におこ しました。宋さんの主張は明快です。   「かって自分たちは大日本帝国から日本人であることを強要され、私は日 本人として生活してきた。私は、日本の中で日本人としてより生きてはいけな い」   宋さんは、自分が勝手に外国人にされて差別されるのは納得できないとい う基本的な考えに立ち、自分が外国人登録証を持つのは理不尽であるとして、 刑罰を覚悟で自分の外国人登録証を法務省の玄関先で燃やし、日本政府の措置 を告発しました。   宋さんの訴えは最高裁で却下されましたが、時にはこうした訴えに理解を 寄せる判決もありました。広島高裁は90年、趙健治さんの「日本国籍確認訴 訟」で日本国籍自体は認めなかったものの趙さんの訴えに理解を示し、日本政 府の、過去の歴史を考慮しない立法政策や内外人差別政策の誤りを責めました (注2)。   こうした政策の妥当性の追求もさることながら、日本国籍の一斉喪失とい う政策の妥当性も検討する必要があります。   在日朝鮮・台湾人の日本国籍剥奪は、形式的には法務府・民事局長の一片 の通達によりなされましたが、官僚にはこのような重大な問題を決定する力量 はもちろんなく、これは政治決着を反映したに過ぎません。   こうした結果について、東京大学の大沼教授は「この措置は第2次大戦後 の植民地独立に伴う国籍処理のなかできわめて異例のものである」と主張して いますが、外国では、旧植民地出身者がどのように法的に扱われたかを参考の ためにみることにします(引用書、田中宏「在日外国人」岩波新書)。 イギリス   1948年のイギリス国籍法によると、新独立国の国民は「英連邦市民」 という地位をもち、イギリス本国では「外国人」とは扱われなかった。こうし た状態が1962年までつづき、その後、徐々に改められ、1971年の「移 民法」になって、初めて出入国についても一般外国人と同様に扱われることに なった。 フランス   アルジェリアのフランスからの独立は、民族解放戦争をへて、1962年 の「エビアン協定」によって達成された。同協定の付属文書には、フランスに おけるアルジェリア人は、政治的権利を除いてフランス人と同様の権利を有す る、とうたわれている。 西ドイツ   朝鮮の独立は、日本と朝鮮との関係で達成されたのではなく、日本の敗戦 の結果として実現したのである。その点は、ドイツの敗戦とオーストリアの独 立が、日本によく似た事例といえよう。   1956年5月、国籍問題規制法を制定して問題の解決をはかっている。 それによると、併合により付与された「ドイツ国籍」は、オーストリア独立の 前日にすべて消滅すると定めるとともに、一方で、ドイツ国内に居住するオー ストリア人は、意志表示によりドイツ国籍を回復する権利をもつ、すなわち 「国籍選択権」が認められたのである。   さて、日本では「国籍選択」はどのように扱われたのでしょうか。関係者 の発言は次の通りです。 <堀内内相>45年12月5日、衆議院選挙法改正委員会   「内地に在留する朝鮮人に対しては、日本の国籍を選択しうることになる のが、これまでの例であり、今度もおそらくそうなると考えています」 <川村外務政務次官>49年12月21日、衆議院外務委員会   「(国籍選択については)だいたい本人の希望次第決定される、ことにな るという見通しをもっている」 <吉田茂首相>51年10月29日、衆議院平和条約特別委員会   「(朝鮮人の)名前まで改めさせるなど、日本化に力を入れた結果、朝鮮 人として日本に長く『土着』した人もいれば、また、日本人になりきった人も いる。   同時にまた何か騒動が起きると必ずその手先になって、地方の騒擾その他 に参加する者も少なくない。いいのと悪いのと両方あるので、その選択は非常 に・・・、選択して国籍を与えるわけではありませんけれども、朝鮮人に禍を 受ける半面もあり、またいい面もある。・・・   特に、朝鮮人に日本国籍を与えるについても、よほど考えねばならないこ とは、あなた(曾根議員)の言われるような少数民族問題が起こって、随分他 国では困難をきたしている例も少なくないので、この問題については慎重に考 えたいと思います」 <西村条約局長>51年11月5日、同上   「かって独立国であったものが、合併によって日本の領土の一部になった。 その朝鮮が独立を回復する場合には、朝鮮人であったものは当然従前持ってい た朝鮮の国籍を回復すると考えるのが通念でございます。   ですから、この(平和条約)第2条(A)には国籍関係は全然入っていな いわけであります。日本に相当数の朝鮮人諸君が住んでおられます。これらの 諸君のために、特に日本人としていたいとの希望を持っておられる諸君のため に、特別の条件を平和条約に設けることの可否という問題になるわけです。   その点を研究しました結果、今日の国籍法による帰化の方式によって、在 留朝鮮人諸君の希望を満足できるとの結論に達しましたので、特に国籍選択と いうような条項を設けることを(連合国側に)要請しないことにしたわけです」   こうした動きについて、田中宏・一橋大教授は次のように日本の排他性を 批判しました。   「在日朝鮮人の国籍問題は、第一次大戦後のベルサイユ条約にある国籍選 択方式を念頭に置きながら、やがては日本国籍の一斉喪失へ、そして、それ以 降の日本国籍取得は『帰化』によって対処する、その際も、『日本国民であっ た者』とも『日本国籍を失った者』とも扱わないことによって完結した。   それは、かって帝国臣民たることを強制した者を、一般外国人と全く同じ 条件で帰化審査に付すことを意味し、みごとに『歴史の抹消』がなされたと言 えよう。   そもそも、帰化というのは、日本国家がまったく自己の好みによって相手 を自由に『選択』できる制度なのである。前にみた西ドイツにおける国籍選択 は、オーストリア人の選択に西ドイツが従う制度であり、日本とはまるで正反 対である。   かくして、いったん『外国人』にしてしまえば、後は日本国民でないこと を理由に国外追放も可能なら、さまざまな『排除』や『差別』も、ことごとく 国籍を持ち出すことによって『正当化』され、それが基本的には今日も続いて いるのである」   かって「帝国臣民」であった者を「日本国民」であった者としないという 通達は、在日朝鮮・台湾人の帰化を極力避けるためなら過去の歴史すら抹消し ようとする排外主義のなせるわざでしょうか。それとも大和民族の血を重視す る純血主義・国粋主義の表れでしょうか。 (注1)法務府・民事局長通達(1952.4.19、民事甲438)要旨 1.朝鮮人および台湾人は、内地に在住している者も含めてすべて日本国籍を  喪失する。 2.もと朝鮮人または台湾人であった者でも、条約発効前に身分行為(婚姻、  養子、縁組など)により内地の戸籍に入った者は、引き続き日本国籍を有す  る。 3.もと内地人であった者でも、条約発効前の身分行為により、内地戸籍から  除かれた者は、日本の戸籍を喪失する。 4.朝鮮人および台湾人が日本の国籍を取得するには、一般の外国人と同様に  帰化の手続きによること。その場合、朝鮮人および台湾人は、国籍法にいう  「日本国民であった者」および「日本の国籍を失った者」には該当しない。 (注2)広島高裁、判決理由(1990.11.29、民事第2部)   「在日朝鮮人が、その歴史的経緯により日本において置かれている特殊の 地位にもかかわらず、日本人が憲法ないし法律で与えられている多くの権利な いし法的地位を享有し得ず、法的、社会的に差別され、劣悪な地位に置かれて いることは事実であるが、右は在日朝鮮人が日本国籍を有しないためでなく、 主として日本の植民地支配の誤りにより在日朝鮮人が置かれた立場を考慮せず、 日本人が享有している権利ないし法的地位を在日朝鮮人に与えようとしなかっ た立法政策の誤りに基因する」        -------------------- <忘れられた皇軍、戦後補償>   1944年5月、マーシャル群島で米軍機の機銃掃射を受けて右腕を切断 した元海軍軍属の石成基(ソクソンギ)さん(76)と、45年4月、船員と して乗船中に米軍機の爆撃を受け左足を切断した故・陳石一さんの遺族たちは 援護法の適用を求めて裁判を起こしました。   石さんや陳さんら傷痍軍人は引揚げ後、片手や片足がない状態で人並みに 働けないのに加えて、日本国籍を剥奪され、しかも日本国籍がないという理由 で戦傷病者特別援護法も受けられず、その生活は困難をきわめました。   一時は、東京・上野公園などで白衣に身を包み、片手片足がない痛ましい 姿を人前にさらし、哀愁を帯びた軍歌などを奏でながら、街頭募金で道行く人 の情けにすがって生きながらえる日々を過ごしたこともありました。   そうした姿はテレビで「忘れられた皇軍」(1963.8.15)として放映され、 一躍注目を浴びましたが、いっこうに問題は解決されませんでした。一時は、 政権が交代すれば何とかなるだろうという淡い期待もあったのですが、社会党 連立政権になっても事情は同じでした。その不満を石成基氏はこうぶつけまし た(注2)。  「戦争中は、日本国民だ、天皇の赤子(せきし)だといって、戦場にかりだ しておいて、戦後は韓国人だ、朝鮮人だという理由で補償をしない。これが通 用しますか。   私は濡(ぬれ)雑巾のようなものです。必要なときは日本国民だとおだて られ、必要がなくなれば、ボロボロにされ捨てられる」   戦争で傷つき「用済み」になるや、日本政府は援護を避ける口実、国籍条 項とやらをひねりだし、日本のために働いた「臣民」を切り捨てるなんて、あ まりにも冷酷で非人道的です。こうしたやり方は、国際的な基準にほど遠いの はもちろんのこと、極論をいえば「やくざ」の仁義にすらもとる狡猾な仕打ち です。   国際的にはこうした場合、軍人を雇った国が当然補償すべきとされていま す。たとえば、石さんと似たケースにセネガル兵の補償問題がありますが、こ れについて、田中宏教授はこう記しています(注3)。        -------------------------------------   セネガル人フランス兵の国連・規約人権委員会への申し立てと同委の判定 も興味ある事例である。フランスが75年から年金額を据え置いたことについ て、同委は89年4月、フランスの措置は国際人権規約(B規約)26条「平 等事項」に違反している、との結論を出した。   いわく、「国籍の変更はそれ自体別異の取り扱いを正当化する根拠とはな りえない。何故ならば、年金支給の根拠は軍務を提供したことにあるのであり、 セネガル人もフランス人も提供した軍務は同じであるから」と。   きわめて明解である。セネガル人の場合は途中から据え置かれたことが問 題とされたが、日本ではまったく除外されているのである。   日本も同規約の加入国であり、定期的に国連に「報告」を行っている。9 3年10月、その第3次報告が審査に付されたが、その「最終コメント」は、 「朝鮮半島や台湾出身者で、旧日本軍に従事し、現在は日本国籍を持たない者 は、その恩給などにおいて差別されている」と指摘し、「日本にいまなお残る 差別的な法律や慣習は、規約26条に合致するように廃止されるべきである」 と勧告したことが注目される。        -------------------------------------   この勧告を日本政府は聞き流したままだったので、昨年の規約委員会報告 書でさらに厳しい指摘を受けたことは前回記したとおりです。   このような行政・立法の不作為を見かねて、東京高裁も注文をつけました。 昨年9月、石さんたちが、援護法の国籍条項を理由に障害年金を受けられない のは憲法の法の下の平等に反するとして年金支給を求めた訴訟の控訴審判決に おいて、筧裁判長は請求そのものは認めませんでしたが、次のように援護法適 用の道を開くよう強くうながしました(朝日新聞、1998.9.29)。       ----------------------------------------   今次の戦争において、戦争犠牲または戦争損害を受けた軍人・軍属または その遺族のうち、日本国籍を有する者は戦傷病者戦没者遺族等援護法により、 在日韓国人以外の韓国人は、韓国の国内法により、いずれもその補償を受けて いる。   それに対し、原告ら在日韓国人は、日韓両国のいずれからも何らの補償を 受けられないまま、いわば放置された状態になっている。   このような事態に至っていることについて、サンフランシスコ平和条約の 発効に伴い国籍選択の道を与えられないまま、いわば一方的に日本国籍を喪失 させられた在日韓国人側において何らの落ち度も責任もない上、在日韓国人の 側からは補償を受けるために採るべきすべは何も与えられていないことを考え ると、原告が焦燥の思いで本訴を提訴するに至った心情については十分に理解 でき、同情を禁じえない。   人道的な見地からしても、また、国連の規約人権委員会からの関心課題 (懸念事項)として指摘されていることに照らしても、速やかに適切な対応を 図ることが我が国に課せられた政治的、行政的責務でもあるというべきである。   在日韓国人は、日本国籍を有し、日本の軍人・軍属として戦争に従事した もので、援護法の適用開始時においては日本国籍を有していたと解されるから、 その立場は日本国籍を有する者に近いものであったというべきである。   在日韓国人の右のような立場及び現に日本において居住していること等を 考慮すると、日韓両国の外交交渉を通じて、日韓請求権協定の解釈の相違を解 消し、適切な対応を図る努力をするとともに、援護法の国籍条項及び本件付則 を改廃して、在日韓国人にも同法適用の道を開くなどの立法をすること、また は在日韓国人の戦傷病者についてこれに相応する行政上の特別措置を採ること が、強く望まれる。       ---------------------------------------   この高裁の指摘は、日本政府にとって文句のつけようがないものとみえて、 規約人権委員会に対し「同判決で、この問題に対し速やかな対応をはかること が強く望まれるというコメントがなされたことは承知しており、この点につい ては現在政府部内で判決内容を詳細に検討している」と回答したくらいでした (注4)。   この発言は、それほどまやかしでもなかったようで、その後のフォローと して、今年3月9日、野中広務官房長官は衆院内閣委員会で、旧日本軍の軍人、 軍属として働きながら恩給を支給されていない在日韓国人にふれ「今世紀末に、 どういう処置がお互いの気持ちをやわらげるのか、われわれの責任を果たせる か、検討していく」と述べ、政府として何らかの補償措置を検討する考えを示 しました(朝日新聞、1999.3.10)。   官房長官は、そのあとの記者会見でも「韓国にいる旧日本軍人や軍属の 方々には韓国政府によって補償が行われたが、在日の方々には補償が行われな いまま今日に至っている。これからのアジアを考えると、韓国政府等と十分に 話し合いながら解決に向かって努力をするのが、内閣の大きな責務であると考 える」と強調し、韓国政府とも協議しながら問題解決を目指すという考えを明 らかにしました。  また、台湾や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の在住者で旧日本軍人や軍 属だった人々についても、それぞれの経緯で難しい問題があるとしながらも、 「検討をしていかなくてはならない」と述べました。ここに来て日本政府もや っと重い腰をすこしはあげたようです。   一方、同じように裁判所から求められている立法措置のほうですが、立法 府の反応が希薄なのは気がかりなところです。これについて、田中宏教授はこ う指摘しました(朝日新聞、98.8.9)。        --------------------------------------   日本の裁判所は立法府の裁量を大幅に認める「司法消極主義」を取り、戦 争損害に関する訴訟で請求を認めた例はほとんどない。   日本人が起こした訴訟の場合も、被爆者や在外財産の喪失者、シベリア抑 留者らがいずれも敗訴したが、判決によって問題点が指摘されるなどし、空襲 被害者を除いては立法解決が図られた。   このところ相次いだ戦後補償裁判の判決は「立法不作為の状況」「違憲の 疑い」などと指摘しており、関釜裁判では立法不作為の違法性が認められた。 なぜ立法府が反応しないのか疑問だ。   補償を求める人には様々な類型があり、相互に十分協議を重ねて立法を目 指すべき時を迎えている。        ---------------------------------------   裁判所や国連など、内外の真摯な声に行政や立法が遅ればせながらどう答 えるのか、それが今あらためて注目を集めています。この機会を逃すようであ れば、日本政府への不信感は国際的にますます増大するのみではないかと思い ます。 (注1)大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済   協力に関する協定(1965年6月22日調印)  第2条 1.・・・ 2.この条文の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれ締約国 が執った特別の措置の対象となったものを除く)に影響を及ぼすものではない。 (a) 一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日(1965.6. 22)までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益。 (注2)戦後補償問題研究会編「在日韓国・朝鮮人戦傷者の訴え」  『在日韓国・朝鮮人の戦後補償』明石書店、1991 (注3)粟谷憲太郎他『戦争責任・戦後責任』朝日選書、1994 (注4)岡本雅享「規約人権委の日本政府報告書審議」      http://www2u.biglobe.ne.jp/~krg/newpage211.htm   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


在日韓国人のそれぞれの道 2003.6.21 メーリングリスト[zainichi:26179]   半月城です。   RE:[zainichi:26138] >私は通名を使うことは、差別の多い国でスムーズな社会生活を営む為の一つ  手段だと思っているいます。   たしかにその通りです。そう思って通名を使用している人も多いと思いま すが、これが時には深刻な問題を引き起こすようです。通名の相手をてっきり 日本人だと思ってつきあって好きになったところ実は韓国人だった、いろいろ 悩む中、なんとかそれを乗り越えて結婚を決意し、両親に話したら猛反対され たというのはたまにあるケースです。   これは本人にとってはとても深刻な問題です。恋人と両親のはざまで悩み つづけ、あきらめようかそれとも恋人のところへ走ろうか、食事もノドを通ら ず、ノイローゼ気味におちいったという人の話を私もたまに耳にします。   また別の深刻なケースは就職問題です。はなはだしくは、通名で採用通知 を受けたが、入社直前になって韓国人とわかり採用を取り消された例もありま した。それまで本人は日本の学校に通い、日本人と変わらない生活を送り、日 本人のように就職しようとした矢先の青天霹靂、あきらめようにもあきらめき れるものではありません。この人はとうとう裁判にまで訴えました。 <日立就職差別事件>   Lee@英国さんの、かつての職場での体験も程度の差はあっても、基本的 には通名使用から派生したできごとのように思われます。問題は通名を使用せ ざるをえない社会構造にあるのですが、その対応は差別される人の肩に重くの しかかります。 >この結論として、日本で永住するのには帰化は最良の方途かも知れないですね。   たしかに帰化も有力な選択肢ですが、何が最良かは人によってさまざまだ と思います。私の兄弟姉妹でも対応の仕方が大きく違うように、在日韓国人は それぞれの置かれた状況に応じて生き方は千差万別ではないかと思います。   私の場合は本来のままに韓国人として本名を名乗ることを最良と考えてい ます。この道の選択は、ときには「韓国」の看板を背負っているように感じる ものですが、そのために次第に日本の社会で後ろ指をさされないよう心がける ようになりました。ただし、そうした受動的な面ばかりではありません。   韓国関係に自然と関心が向かう習性から、折にふれ自分なりに日韓の橋渡 しを心がけるようになりました。たとえば麻生妄言に対する批判などです。先 に書いた批判文は、日本の戦争責任資料センター『Let’s』に転載されま したが、このように日韓の複眼思考がすこしでも役に立つならさいわいです。


少数民族対策? 2003.6.22 メーリングリスト[zainichi:26196]   半月城です。   ******さん、私の書き込みをすべて自由に転載してください。   RE:26170 >国籍の選択権を認めなければ、後々大きな問題になることは明白なのに、 >何で、こんな馬鹿な決定が行なわれたのでしょう???    後日、問題になるかも知れないことなど無視して日本政府は在日朝鮮・台 湾人の日本籍を剥奪したようですが、その理由は吉田首相の「少数民族」発言 にうかがうことができそうです。   もし、在日朝鮮人が大量に日本国籍を取得し、共産主義運動の先頭に立つ とか、あるいは議員に当選し天皇制廃止などを叫んだり過激な反政府活動をす るのをもっとも警戒していたのではないかと思います。   それ以外にも、戦争被害者に対する補償問題や貧困者対策など、当時の貧 乏な日本では無視できない財政問題があったかも知れないし、また、将来「朝 鮮族」日本人による民族問題が起きる可能性を憂慮したのかもしれません。   その当時の在日朝鮮人は、独立・建国の気概から韓国や朝鮮の在外国民と しての道を選択していたので、日本人になろうとした人は少数だったと思われ ます。ましてや日本国籍を取得して左翼活動をしようとした人はほとんどいな かったことでしょう。   それにもかかわらず、日本は一律に在日朝鮮人の日本国籍を剥奪しました。 したがって、日本国家のためにつくした人たちまですべて冷酷に切り捨ててし まいました。   在日朝鮮・台湾人をいったん外国人にしてしまえば、外国人を大義名分に 国外追放することも可能だし、当然すべき補償にほおかぶりすることも可能で した。それを如実に示すかのように、法務省官吏は当時どころか65年時点で も外国人をこうみていました。  <はじめから言っているように、外国人は自国以外の他国に住む「権利」は ないのである。だからどんな理由をつけても(国際法上はその理由すらいらな いとされている)追い出すことはできる(注)>  外国人は、<「国際法上の原則から言うと「煮て食おうと焼いて食おうと自 由」なのである(注)>   当時、日本にいた外国人の大多数は、かつて日本人であったうえ、ある日 突然に日本国籍を剥奪された人たちでした。そうした人たちを「煮て食おうと 焼いて食おうと自由」といってはばからないのが日本の法務省でした。外国人 の基本的人権など完全無視でした。ましてや補償問題が起きることなど念頭に もなかったことでしょう。   結局、日本政府は「少数民族」を増やすよりは、「煮て食おうと焼いて食 おうと自由」な外国人を増やす排外主義の道を選び、日本国籍の剥奪を断行し たようです。 (注)池上努『法的地位200の質問』京文社、1965


琵琶湖東南の渡来人 2003.6.29 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7296   半月城です。   飛鳥時代、男女の愛情表現はあけっぴろげだったようです。歌会などで女 性の側からも公然と愛の告白がなされました。   天智7年(668)、この年にやっと即位した天智天皇は、端午の節句に近江 蒲生(がもう)の標野(しめの、遊猟場)で大々的な薬猟を開きましたが(注 1)、そのとき、額田王(ぬかだのおおきみ)は皇弟の大海人皇子に当時とし ては熱烈な相聞歌を贈りました。  <あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る>   蒲生野は、ヤケドに効く蒲(ガマ)が多く自生していたことから名づけら れたようですが、ここには宮廷の薬園がおかれ、薬草の紫草などが栽培されて いました。その紫野での宴で才媛の額田王は、のちの天武天皇にラブコールを 送ったのでした。彼女は情熱的な万葉歌人だったようです。   伝説によれば、額田王は鏡王の娘とされ、この王族が住んでいた蒲生野の 鏡には古くから新羅系の渡来人が多く住んでいたようでした。鏡の名は今に伝 わり、現在でも鏡神社や鏡山がありますが、歴史的には『日本書紀』にこう記 されました。  「(垂仁)3年春3月、新羅王の子 天日槍(あめのひぼこ)が来帰し た・・・ 天日槍は宇治川をさかのぼって、北は近江の国の吾名邑(あなむら)に入って しばらく住んだ。またさらに近江から若狭の国を経て、西は但馬の国に到着し 住む処を定めた。こういうわけで、近江の国の鏡谷の陶人(すえひと)は天日 槍の従人である」   このように蒲生の鏡で天日槍の従人が陶器作りを行ったと記しました。し かし、このころの『日本書紀』の記述はほとんど物語に近いので、天日槍の記 述も虚実こもごもの説話と考えられ、どこまで信頼できるかもちろん疑問です。 この伝承が実際とどの程度符合するのかについて石原進氏はこう記しました。        --------------------   天日槍は、すでに触れたように伝承の世界では、新羅の王子ということに なっていて、要するに代表的な渡来人である。その従人の陶人とは、須恵器を 焼いた陶工のことであろう。また近江国鏡谷はいまでいう蒲生(がもう)郡 竜王町鏡あたりであることは、間違いないだろう。   何しろこの地域には、伝承を地でいくような遺跡がたくさん残っているの だ。鏡の地には、鏡山という小高い丘がある。そのふもとには、鏡神社という 小さな神社がたたずんでいる。   神社の祭神は天日槍で、境内の由緒記には「王子(天日槍)は大勢の技術 者を従えて医師、薬師、陶師、金工師、建築、造船、農耕に至るまで広く昔の 日本に貢献して下さった神である」と記されている・・・   草津市の安羅神社で“医術の祖神”としてあがめられていた天日槍は、こ こでは陶工、薬師、金工師などあらゆる先進技術の祖ということになっている。   とりわけ陶工の伝承というのが面白い。というのは、神社の近くでは須恵 器の窯跡が多数見つかっているのだ。窯跡は6世紀から7世紀ごろのもの。須 恵器は古墳時代の中期の5世紀ごろに朝鮮半島から日本に伝えられ朝鮮式土器 とも呼ばれている。須恵器は全国各地で見つかっているが、窯跡がここほどま とまっている例は決して多くはない。まさに須恵器の大生産地で、朝鮮渡来の 陶工たちの集落が近くにあったのかもしれない(注2)。        --------------------   天日槍は、その伝説が近江のみならず播磨や但馬、若狭など西日本に広範 囲に広がっていることから、かれを一人の人物とみるよりは当時の新羅系渡来 人の代名詞と考えるべきかもしれません。そして額田王はそうした新羅系渡来 人が住むムラの出身だったのかもしれません。   そうしたムラが隣郡の草津にもあったのでしょうか、そこには天日槍を祀 る安羅神社があります。おもしろいことに、ここの「ご神体」は小判型の黒い 石です。これは医術に使う温石(おんじゃく)と考えられ、同神社の由緒記は こう記しました。        -------------------- 日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する                     安羅神社由緒記   安羅神社は安羅(良)明神とも申し上げ、その創祀年代はつまびらかでは ないが、古来この地に鎮座され、他にも分祠されている。日韓古代史の権威者 三品彰英博士(前大阪市立博物館長)も御祭神を新羅国王子 天日槍なりと考 証されている。   天日槍来帰のことはすでに古典に記され、殊に正史である日本書紀垂仁天 皇条によると、新羅国王子 天日槍は日本永住を決意して来帰し、諸国を遍歴、 菟道(宇治)川を遡って近江国吾名(あな)邑に入り暫住、ここには住人をと どめ、さらに近江から若狭を経て但馬国に到ってついに住み処に定めたと。   按ずるに天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類をとどめ、そ れらの人々がかれを祖神(おやがみ)として、その恩徳を慕うて神とし、神社 を建てたとすべく、いまにその遺跡伝承をたどることができる。安羅神社も亦 その一つである。   天日槍の終焉地、但馬国出石(いずし、いま兵庫県)には古来 国土開発 の大神として延喜式内名神で旧国弊中社 出石神社が鎮座し、そのもたらされ た八種神宝を霊代(みたましろ)として、いまも人々の厚い尊崇をうけられて いる。   安羅神社の安羅の由来については諸説が行われている。或いは、韓国の安 羅(阿羅にもつくり、それはいまの慶尚南道咸安の地に比定される)の地名と も、また新羅国王都の六停(停は軍団の意)の一つである官阿良支停(また北 阿良ともいう)に由来するともいわれる。安羅、阿羅、阿良は通音。この近江 国に安羅、穴が使われたのもうなずかれよう。いずれこの地にはとどまった天 日槍の族人・党類の人々が命(みこと)の故国に因縁の深い名称を残したので あろう。   天日槍の御治績はまことに広大無辺といい得よう。先ずそれぞれの開発経 営に大功を致されたことは申すまでもなく、特に鎮魂術をよくせられて人々の 心身の病苦を解消し、救世済民の実を挙げられ、人々の崇敬をうけられた。   またここに特記したいのは神功皇后の御母家はついには但馬国に栄えた天 日槍の後裔であられることは、古事記応神段に明記されている。   その党類には農耕に巧みな者あり、この湖国平野も開拓されたであろう。 また陶芸、鍛治、医術等々の特殊技能をもった者も多く、それらの人々によっ て近江、若狭、越前、但馬の諸国に余徳を伝えたことが拾われる。   なお当社の社宝として古来神殿深く蔵されている数十個の小判型黒色の小 石は従来その由来が判明しなかったが京大の松木進 理学博士や民俗学の有識 者等によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ、その黒 色をなしているのは火にあぶって温め(温石、おんじゃくとして)患部にあて、 治療に使用したものと断定された。さらにこのことは今日の鍼灸の原型をなす 医術であるとされ、中央アジア辺でも行われた故事にも関連を思わせると。   また小石を載せた神卓は鉋(カンナ)を用いずに造作されたものであるの で、よほど古いものと推定される。さらに本殿内陣の扉に貼られている左右大 臣(随身)画像も関西随一の珍しいものとされる。   思うに安羅神社の祭神である天日槍命は、日本医術の祖神であり、地方開 発の大神であられ、わが国社会文化産業発展史上 甚大な貢献を致された恩人 の神霊なりと申すことができる。幸い祭神が往昔足跡を印せられた土地に生を 享けた我々は命(みこと)を大恩ある祖神とあがめ、日夕 報本反始の赤誠を 捧ぐべきであろう。        --------------------   天日槍に代表される新羅系渡来人は、近江にも医術や須恵器づくりなどの 先進技術をもたらしたようですが、冒頭に述べた蒲生野の薬園もその医術の伝 統を受けついだと思われます。   一方、国境管理などがなかった古代は人々の往来が自由だったので、近江 にも新羅系のみならず高句麗系の渡来人なども渡来し、その地の開拓に一役買 ったと思われます。それを示すかのように「狛(こま)の長者」伝説が蒲生に こう残されました。  「その昔、狛の長者と呼ばれる人たちが住んでいた。狛の長者は、朝鮮半島 から渡って来た渡来人。運河をつくり、鈴鹿山系から切り出した木材を筏(い かだ)にして運び、館を建てた。要するに優れた技術を駆使して、蒲生野を開 拓したわけだ。   狛の長者は、持仏の金銅の聖観音を金柱宮にまつった。金柱宮はかつて村 人の深い信仰を集めていた(注2)」   現在、金柱宮はなく「金柱宮之趾」の石碑のみ残されました。しかしなが ら「狛の長者」の氏寺とされる高麗寺のほうは現存します。この寺は現在「こ うらい寺」と呼ばれていますが、もちろん10世紀に成立した高麗国とは無関 係であり、昔は「こまでら」と呼ばれていたようです。   一般に、日本で高句麗は往々にして高麗と表記され「コマ」とよばれまし た。その発音から表記として狛、駒なども用いられました。たとえば神社の狛 犬などです。ちなみに、高麗寺の所在地は今でも駒寺町になっています。   こうした遺跡からすると、このあたりに高句麗系の渡来人が住んでいたこ とはたしかなようです。さらに隣の栗太郡栗東町には狛坂(こまさか)寺があ り、渡来人がつくったとされる磨崖仏が存在します。   さて、新羅系、高句麗系渡来人もさりながら、何といっても琵琶湖東南で 特筆すべきは百済からの渡来人です。その足跡が豊富に残されました。まず目 につくのは蒲生の東、湖東三山のひとつである百済(ひゃくさい)寺です。   推古14年(606)に建てられたとする百済寺は久太良寺とも書かれたので、 昔はクダラ寺とよばれたようです。規模は、現在でもうっそうとした山全体と いう広大なものですが、ひところは三百余坊の建物を誇るほど栄えていました。 寺の縁起を石原氏はこう記しました。  「寺伝によると、寺を創建したのは聖徳太子で、十一面観音菩薩を本尊に、 百済の竜雲寺を模して御堂を建てたという。その落慶にあたっては、百済の渡 来僧、道欽らが供養をし、このため百済寺の寺号が生まれた、といわれる。寺 には、道欽のほか同じく百済の高僧、恵聡、勧勒らが住職を務め、当代一流の 高僧をそろえて寺は大いに繁栄した(注2)」   寺は百済仏教を教義の中心にし、飛鳥朝廷の庇護を受けおおいに栄えたよ うです。しかし、火災やたび重なる戦乱で何度も焼けてしまい、渡来文化を伝 えるものは今日まったくないようです。わずかに百済寺の地名などが付近に残 りました。しかし、この寺の所在地である愛知(えち)郡には古墳など渡来人 の遺跡が残されているようで、石原氏はこう記しました。  「愛知郡は、愛知(朴市)秦氏の一族が繁栄した所である。愛知秦氏は渡来 氏族で、平安中期まで愛知郡司を一族で世襲するほどだった。愛知秦氏出身の 朴市秦田来津(えちはたたきつ)は、白村江の戦い(663)で活躍したことで有 名である。   愛知郡秦荘町には、愛知秦氏と関係が深いといわれる羨道をもった横穴式 石室古墳が100基余り見つかっている。渡来人の里に建てられた百済寺は、 渡来系の人々の文化的な拠点だったと想像される(注2)」   愛知秦氏は依智秦氏あるいは依知秦氏などとかかれ、いずれも「えちは た」と読みますが、この氏族に関係した寺には松尾寺(金剛輪寺)や畑田廃寺 などがあります。しかし、これを書き出すときりがないのでここでは省略しま す。他にも渡来系の寺としては、百済の阿直岐に関係した阿自岐神社などもあ り興味をそそりますが、これも割愛します。   こうした百済の遺跡に加えて、天智2年(663)、百済・倭連合軍が白村江 で羅唐軍に大敗した結果、多くの百済の亡命者がヤマト朝廷に仕えるようにな り、近江に百済からの渡来人が多く住むようになりました。   そうした百済人たちの象徴が蒲生にある石塔寺(いしどうじ)の三重塔と いえそうです。作家の司馬遼太郎は著書『歴史を紀行する』でこう記しました。  「ぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などとい うものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこに立っているようで ある」   日本の石造物はたいてい加工しやすい凝灰岩でできているのですが、石塔 寺の三重塔は朝鮮でよくもちいられた硬い花崗岩でつくられました。石丸正運 氏は「当時、花崗岩を加工できる技術を持っていたのは、渡来人以外には考え られない」と語りましたが、この塔は、渡来人が立てたとする説が有力です (注2)。   加工技術もさりながら、巨石を山の上に持ちあげる労力はさぞかし大変だ ったことでしょう。それを成し遂げた人びとについて瀬川欣一氏はこう述べま した。        --------------------   奈良時代の大昔です。この丘の上へ、どうしてあの巨石を引き上げ、どん な手法で高く積み上げていったのかと思いますと、それこそ、その頃の日本人 では到底考えも力も及ばなかった進んだ技術が、彼等にあったならこそだと気 が付きますし、蒲生郡に移り住んだ百済人達の高い文化性が偲ばれてくるので す。   その塔が建つ丘の近くには、綺田(かばた)村があり、鋳物師村がありま す。この二つの村ともが渡来人が住んだ村名と考えられます。綺田の綺(あ や)とは、高級衣料の綾衣(あやぎぬ)を表す字と言葉であり、鋳物師はもち ろん製鉄者の集団を意味します。   進んだ機織(はたおり)技術や、優れた鉄づくり技術を身に付けた百済人 達が、この辺り一帯に住んでいたならこその村の名となったと思われますし、 あの巨大な石塔寺の塔もそれらの優れた文化と技術と信仰を受け継いだ人々に よって建てられたのでしょう(注3)。        --------------------   三重塔の外観は、百済 夫余の定林寺 五重塔を連想させますが、そうした 「優れた文化と技術と信仰」がスケールダウンして蒲生野に受け継がれたよう でした。そうした歴史的背景を頭に入れてこそ、司馬遼太郎の「朝鮮人そのも のの具象化された姿」という意味深長な文学的表現がやっと理解できそうです。   さて『街道をゆく』シリーズで近江の渡来文化をまっ先に訪ね歩いた司馬 遼太郎は、さらに蒲生の鬼室集斯に関連してこう書きました。        --------------------   百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移って きたであろう。私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、 鬼室集斯(きしつしゅうし)のような王族の場合は一族郎党をひきいて朝廷を 通してやってきたにちがいない。・・・   鬼室集斯については、「天智紀」の8年の項に、  「男女七百余人ヲ以テ、近江国ノ蒲生郡ニ遷シ居ク」   と出ているのである。・・・   なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平 余自信(よ・じしん)と いう王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいな い。   なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、天智紀の記 述のごとく、  「鬼室福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下を授ク」   として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位 下に相当する。さらに、この天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら(建物も あったのかどうか)はじめて大学寮が設けられており、百済から逃げてきた鬼 室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられてい るのである。   この国はすでに日本という国号を号していたとはいえ、国家制度はまだと とのわず、社会状態も文化の実状もまだ「倭」という部族連合国家的な姿から 十分に抜けきっていなかった。   しかしながら海をへだてて隣接する大陸にすでに大唐帝国という統一国家 が出現し、白村江でその大帝国の外征軍と戦って惨敗した以上、その大帝国に 対抗せねばならぬという外的事情と、その外的事情を内的事情に転化して古代 的土着勢力を一掃して強力な統一国家を確立すべき必要に迫られていた。   それにはまず、官僚育成のために必要な大学をつくらねばならないのであ る。そのための総長が必要であった。鬼室集斯がどれだけの学者であったかは 不明だが、かれ以外にはその適任者がなかったに相違なく、それによって日本 最初の大学総長が百済人であったという歴史が出発するのである(注4)。        --------------------  「文部大臣兼大学総長」に相当する学識頭(ふみのつかさのかみ)に任命さ れた鬼室集斯は何語で大学の講義をしていたのか、ふと疑問になりました。倭 に来てまもないので倭語に堪能であったとは思えませんし、渡来早々 重要な ポストに任命されたところを見るとおそらく百済語で講義していたのかもしれ ません。飛鳥時代の言語事情について、小室直樹氏はこう記しました。  「日本の指導階層の人びとは、朝鮮語を自由に話せた。・・・日本の貴族に とって朝鮮語とは、ロシア貴族におけるフランス語の位置を占めていた(注5)」   帝政ロシアの宮廷ではフランス語のみが公用語だったのですが、それと同 じように倭において百済語は公用語だったのでしょうか。ありうるかも知れま せん。   今日、鬼室集斯を祀る鬼室神社が日野町小野(この)にあり、地元で敬愛 を受けているようです。神社への道すがら「老若男女で気さくに話が弾む鬼室 様の里」と書かれた看板があるくらいで、鬼室様はとても大事にされているよ うです。この鬼室神社が縁で日野町は韓国の恩山面と姉妹都市を結びました。  「日野商人と花のまち」をキャッチフレーズにしている日野町でもパンフレ ット「鬼室神社」を発行しているくらいです。そこには韓国語でもこう書かれ ました。        --------------------   約1300年の昔、近江朝廷が大津に都を定めていた頃、現在の大韓民国(当 時の百済国)から我が国へ渡来した多数の人のなかの優れた文化人であった鬼 室集斯という高官の墓が、この神社の本殿裏の石洞に祀られているところから、 この神社の名が付けられました。   古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇敬されてきた社で あり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。   また、今日では鬼室集斯の父、福信将軍が大韓民国 忠清道 扶餘軍 恩山 面の恩山別神堂にお祀りされていることから姉妹都市としての交流が盛んに行 われています。        --------------------   鬼室集斯の墓ですが、一説では隣郡の野洲にあるとされています。しかし、 たとえそうであるにせよ『日本書紀』に「鬼室集斯ら男女七百余人を近江国 蒲生に住まわせた」と書かれているので、日野町が鬼室神社を祀るのはごく自 然です。   司馬遼太郎はこの神社を探し当てるのにすこし手間どったようですが、今 ではありがたいことに鬼室神社のパンフレットをはじめ、韓国語の道案内板ま で随所に立てられ、山奥の神社を簡単にさがせるようになりました。   神社は、ウグイスがさえずる小さな森の中に社殿と祠が牧歌的にたたずん でいました。無人の社殿に無造作に芳名録が置かれていたので、それをめくる と呉徳洙氏の名がありました。同氏は、たしか映画「在日」の監督だったよう に記憶しています。その芳名録に半月城の名が付け加えられたのはいうまでも ありません。 (注1)薬猟(くすりがり)、『世界大百科事典』デジタル平凡社より   5月5日に,鹿の若角や薬草を摘んだ日本古代の習俗。・・668年(天智7)に は蒲生野(がもうの)(滋賀県近江八幡市から八日市市にかけての一帯)で薬猟が 行われている。・・藥猟は,百済を経由して伝えられたこの古代中国の民間習 俗と,高句麗の宮廷で3月3日に行われていた鹿狩りの風習が併せて取り入れら れ,推古朝に宮廷行事として成立したらしい (注2)石原進・丸山竜平『古代近江の朝鮮』新人物往来社、1984 (注3)瀬川欣一『鬼室集斯小伝』新日野新聞社40周年記念誌 (注4)司馬遼太郎「近江の鬼室集斯」『街道をゆく2、韓のくに紀行』   朝日新聞社、1972 (注5)小室直樹『韓国の悲劇』光文社、1985   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


任那と任那日本府 2003.7.6 メーリングリスト[zainichi:26392]   ***さん、私の書き込みを熱心によんでいただきありがとうございます。   任那(みまな)ですが、「弁韓-カラ-任那」という皇国史観はいまや無 理でも、「狗邪韓国-任那-金官加羅」という図式はそれほど無理でないよう です。   朝鮮側の史料に任那の語は、有名な高句麗の「広開土王碑」など三例登場 します。そのひとつ「真鏡大師宝月凌空塔碑」によると、三国統一の一等功臣 であった新羅の金ユ信将軍は「任那王族」の後裔だったようです。   また、統一過程の困難な羅唐関係のなかで、巧みな外交文書を作成し、唐 を駆逐するのに多大な貢献をした強首は「任那加良」出身であると『三国史記』 に書かれました。これら朝鮮の史書における任那の用例について、田中俊明氏 はこう述べました。        --------------------   任那という語は、『日本書紀』においては、加耶諸国全般を指すこともあ り、また倭が朝鮮半島においたという直轄支配地『任那官家(みやつけ)』を 指すこともある。しかし結論的にいえば、狭義では、加耶諸国の中の一国の名 であり、別に金官国ともいう。かっての狗邪国の後身である。   朝鮮において「任那」がどのように用いられていたか、その用例をみると、 最も古いのは『広開土王碑』にみえる「任那加羅」である。「任那加羅」は、 第二面第九行に一例登場する。永楽10年(400)に、先にふれたように、新羅 の救援要請を受けて新羅に進軍した高句麗軍が、新羅の領内、王都に侵入して いた倭軍をおいはらい、さらに「任那加羅」まで追撃する、というくだりであ る。   この「任那加羅」がどこであるかについては、これまで、金官国説と高霊 の大伽耶説とで意見が分かれているが、大伽耶説は、任那=高霊説に引きずら れたものであり、かならずしも碑文のみからえられた結論ではない。   新羅の王都に侵入した倭軍が、北からの高句麗軍に逐われて退却するルー トとしては、南下したとみるのが無理がない。つまり金官国のほうへ退却した とするのが、もっとも考えやすい。倭と金官国は四世紀には、上記のように、 友好関係が成立していた。「任那加羅」は金官国を指すと考えてよい。   次の用例は、ずっとくだって、924年に崔仁〓が撰した『真鏡大師宝月凌 空塔碑』である。大師、諱は審希、俗姓は新金氏。其の先は任那の王族にし て・・・我が國に投ず。遠祖の興武大王・・・終に二敵(百済・高句麗)を平 らぐ」とある。   新金氏は、金官国最後の王 仇亥(仇衡)が新羅に来投したのち与えられ た姓である金氏に対していうもので、興武大王とはその曾孫にあたり、新羅の 三国統一に活躍した金ユ信の追封号である。ここにみえる「任那」が金官国を 指すことはまったく問題ない。  『三国史記』にも、一例みえている。それは巻46・強首伝にみえるもので、 文章の才で知られた強首(注1)が新羅の太宗武烈王に問われて「臣、本(も と)任那加良人なり」と答えている。   この場合、それ自体では判断できない。やはり金官国説と大伽耶説がある が、さきの二例、とくに後者の明確な例からすると、金官国を指しているとみ るべきであろう。そう考えて矛盾はない。   以上、朝鮮古代の資料では「任那」が登場するのはこれら三例のみである。 そしておよそ金官国を指していっているものと理解して、とくに問題はない。 少なくとも、加耶諸国全体を指す、汎称としての用例はないといってよい(注2)。  ・・・   朝鮮や中国の例をとおしてみれば、「任那」を加耶諸国の汎称としてもち いることはない。ということになる。しかも「任那」とは、金官国をさすもの であるとみて、ほぼよさそうである。  『日本書紀』には、金官国をはじめ特定の一国を指すと考えられるもののほ か、汎称としての用法はたしかにある。しかし、朝鮮や中国の例をみたいま、 それは、『日本書紀』の独特な用法であるといわなけれればならない。「任那」 とは、ほんらいは金官国のことを指す語であったのである。   日本の学会では、『賀洛国記』に首露王妃がはじめて船で来着した「主浦 村」 の「主浦」を朝鮮の訓でよむとニムナ nim-naeとなるから、それが「任那」に 通じる、という鮎貝房之進氏の説をうけいれることが多い。それが正しいかど うかよくわからないが、金官国はいくつかの邑のあつまりであり、そのひとつ が「任那」であったとしてもおかしくはない。   日本列島とははやくから交流があったのは、おそらく、朝鮮半島東南端の この金官国であろう。そして友好な関係がながくつづいたのである。その結果、 「任那」の語がひろがりをもつようになったのであろう。「カラ」がいつしか、 中国の唐をよぶことばとしてもちいられるようになったのと同じように。        --------------------   朝鮮、中国の史書に登場する任那が金官加羅(加耶)をさすことはほぼ間 違いないようです。その前身である狗邪韓国は『魏志倭人伝』の冒頭に登場し 「倭の北岸」と記されたのですが、そこが倭族の一国であったかどうかは別に して、倭と密接な関係にあったことだけはたしかなようです。そうした関係の 深さを任那日本府に結びつけたのが皇国史観ですが、それと正反対の立場で江 上波夫氏は任那日本府をこうみています。        --------------------   加羅(任那)に都した辰王朝本家は日本征服に乗りだし、まず目の前の対 馬を取り、次に壱岐を取り、さらに北九州に上陸して筑紫を取った。   この段階で本拠の加羅とあわせて、対馬海峡の両岸にまたがる韓倭連合王 国が成立し、それに冠する国号として、加羅からみて東南の太陽の昇る方向の 筑紫を取ったことで「日本」と称したのである。そして、本拠の加羅にあった 辰王の都を「日本府」とよんだのである。   こうした私の説は、日本史の学者がふつう考えているところの、大和朝廷 が朝鮮半島に進出して日本府を設置したという説とまったく逆である。   やがて、倭人の中枢部である摂津・河内に進出し、名実ともに倭国の王と なった辰王家は、中国に対して倭国王を名乗るようになる(大化改新後にまた 日本と称する)。   しかしながら、辰王朝発祥の地としての任那(加羅)には、辰王家の直轄 領(官家、みやけ)としての日本府という名前が残ったのである。それゆえ、 『日本書紀』において、「日本天皇」「日本軍人」あるいは「日本府」といっ た名称は日本側にはなく、ずべて『百済本紀』など朝鮮側の所伝にのみ見える のである(注3)。        --------------------   江上氏は大家なればこそ壮大なスケールも迫力があるのですが、これが新 進学者だったらほとんど見向きもされなかったかも知れません。   任那は依然としてホットな研究課題になっていますが、より実証的な任那 日本府の研究レビューを下記にリンクします。   <皇国史観と任那「日本府」(1)> <皇国史観と任那「日本府」(2)> (注1)「強首」、デジタル平凡社『世界大百科事典』より   朝鮮,7世紀の新羅の文人。生没年不詳。加羅(耶)系貴族の出身で,中原 京(忠州)の人。儒学にこころざして官途につき,新羅史上初の本格的な儒学者 として薛聡(せつそう)とならび,文章にすぐれる。武烈王のとき唐から来た難 解な国書を解読し,その答書をも書いて王の信任をえた。文武王代にわたる複 雑な国際関係のなかで,巧みに外交文書をあやつり,新羅の三国統一に貢献し た (注2)田中俊明「倭の五王と朝鮮」『姜徳相先生古希・退職記念、日朝関係  史論集』新幹社,2003 (注3)江上波夫「騎馬民族説は実証された」『月刊 Asahi』1991.6 http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.554   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


高松塚壁画と襟の左前 2003.7.12 メーリングリスト[zainichi:26431]   半月城です。   **さん、RE:[zainichi:26427] >養老律令の条文には、私が知る限りでは、「右前」「左前」を定めた条文は >ありません   古代では冠や衣などに細かい規定があるので、右前も律令で決められたと 思っていたのですが、これは私の早とちりでした。NHK文化講演会で国立歴 史民俗博物館の副館長(当時)である白石太一郎氏が語った内容をもう一度聞 き直したら、養老律令ではなく、単に719年の「法令」としてこう述べていま した。  「養老3年、719年に左前(さじん)を改めて右前(うじん)とすることが 法令で定められております。これは要するに、それまでの朝鮮半島風の服装を 中国の唐風に改めようとしたのに他ならないのです。   高松塚の人物群像が、高句麗古墳の壁画に描かれております人物の服装に 非常によく似ているので、高松塚の壁画について高句麗の影響を考える説もた くさん提起されたわけですが、しかし、高句麗というのはすでに 668年に亡び ておるわけでして、にもかかわらず、高松塚の服装はまだ朝鮮半島風であって、 左前になっておるわけです。   それが養老3年に唐風にしたがって、すなわち右前に改められるわけでし て、この点から高松塚の下限が 719年に抑えられる」   結局、養老3年の「法令」とは、どいさんが書かれた布告のようです。 『続日本紀』養老3年2月3日条にこう書かれました。  「初めて全国の人々に衣服の襟を右前にさせ、職事(しきじ)官の四等官以 上のものに笏(しゃく)をもたせた・・・」   笏とは細長い板で、今でも神官が用いますが、この時から高級公務員には 笏の携帯も義務付けられたようです。同時に襟の右前も官吏などには義務付け られ、普及が始まったようです。なお、襟が右前になったきっかけは、遣唐使 が天皇に拝謁した時の衣裳だったのではないかと思われます。『続日本紀』同 年1月10日条にこう書かれました。  「遣唐使らが(天皇に)拝謁した。みな唐国から授けられた朝服(朝廷に出 仕する時の正服)を着用した」   遣唐使の帰国はヤマト朝廷の政策に少なからぬ影響を与えたのであり、襟 の右前もその一環とみることができそうです。つまり「右前」はヤマト朝廷が 唐志向を強めたあかしとみることができそうです。その裏返しが新羅との関係 の冷却で、それを如実に示すのが遣唐使船のコースです。   遣唐使船は 702年に約30年ぶりに復活し、717年にも派遣されましたが、 それらのコースは朝鮮半島沿いの安全な「北路」を避け、東シナ海を横断する 危険な「南路」に切り替えられました。新羅との関係悪化が原因とされていま す。   こうした唐志向と新羅離れを私は比喩的に「結局、右前は日本が朝鮮半島 と疎遠になったことを意味します」と書きました。   8世紀、日本・新羅の友好関係が悪化したとはいっても、両国の交流、と くに貿易は盛んで、新羅物が大量に日本へ流入したことは下記に書いたとおり です。 <正倉院と国際交流>


摂津の百済寺 2003.7.13 メーリングリスト[zainichi:26436]   半月城です。   ***さん、RE:[zainichi:26385] >先日、民団新聞の渡来文化に関する記者懇親会で、講師役の前田憲二監督が 「初代百済寺は生野区の寺田町駅の東側にあった」と断言されていました。   百済寺の位置ですが、枚方の百済寺を発掘調査した藤沢一夫氏は天王寺付 近の百済寺の場所をJR桃谷駅の西方、天王寺区 堂が芝とみているようでこ う述べました。        --------------------   明治21年(1888)の大阪実測図というものがありまして、そこにはみな小字 (あざ)名が書いてあるのです。堂が芝の字名と一緒に百済寺という字名もあ って、そこが百済寺の跡だといいうことは決定的だと思います。・・・   天王寺区 堂が芝町に豊川閣観音寺というお寺がありまして、赤い鳥居が 建っていて一般には豊川稲荷さんと言われていますが、そこの本道の裏に土壇 がありまして瓦などが出るんです。・・・その寺が百済寺だと思うんです(注 1)。        --------------------   百済寺の場所にくい違いがあるようですが、どうやら百済寺は移転してい るようで、前田氏はおそらく創建当時の場所をさしているのだろうと思われま す。一方、百済寺の名称も古くは大別王寺(おおわけおうじ)だったようで、 藤沢氏はこう記しました。        --------------------   後の百済郡の地には、百済王族を取巻く人たちが群居して、大別王の個人 的住宅仏殿の域をでなかったものであったに違いないが、百済王族とその寺院 とを中心として一族が群集していたものと思われる。日本に初めて造仏工等の 献上渡来があり、彼等が同寺に安置されて、三宝興隆のための造寺造仏活動の 根拠地となったのであろう。   しかし同寺に、造瓦工の献上は記されていないから、瓦葺の本格的造寺は できなかったとしても、爾後における難波の大別王寺を中心とする造寺の開始 と、仏教の興隆とが考えられる。しかるときは、難波の大別王寺は難波の百済 寺の前身ということになるであろう。   この大別王寺の所在地を中心とする地区は国郡制度が成立して、百済郡と なった。『倭名抄』国郡部によれば、百済郡には東部、西部、南部の三郷があ った。郷数からすれば、小郡に属すべきものである。   それはそれとして東部、西部、南部という郷名は全国の他郡に全く類例を みない地名らしからぬものである。  ・・・   ここにおいて百済王族を中心とする百済系諸氏族が群居し、後に百済郡と なった土地に彼らが故国の五方五部を想起しながら、これに擬したものを再現 しようとの心情から、東部、西部、南部という三郷を設置したものと考えられ る。もちろん百済郡の大領に任ぜられてその指導的立場にあったのは、百済王 族その人たちであったと思われる(注2)。        --------------------   小さな郡にも匹敵する東部、西部、南部の三郷を有する百済郡は相当な広 がりをもっていたようです。現在、JR貨物駅になっている百済駅あたりなど も百済郡に属していたのでしょう。なお、郡は「こほり」と読まれ、古くは 「評」と書かれました。この語源は、本居宣長や白鳥庫吉によれば朝鮮語とさ れています。   さて、難波の百済郡では大別王がキーワードになりますが、この王は『日 本書紀』にこう書かれました。        -------------------- 敏達天皇、6年(577)   夏5月5日、大別王と小黒吉士とを遣わして、百済国に宰(みこともち) した。(・・・韓に宰となるというのは、思うに古の典か。今は使いというの である。余もみなこれにならえ。大別王は出自が未詳である)   冬11月1日、百済国王(威徳王)は、還使の大別王らに付して、経論を 若干巻、また律師、禅師、比丘尼(びくに)、呪禁師、造仏工、造寺工、六人 を献った。けっきょく難波の大別王寺に安置した。        --------------------   この当時、百済と倭との関係は非常に緊密で、敏達天皇は即位するや宮廷 を「百済の大井」に造営したくらいでした。百済の大井は、現在の河内あるい や奈良県の広陵町と考えられていますが、いずれにしても百済からの渡来人が 多く住むところだったと考えられます。百済人の群居地に宮を造営したことか ら、天皇の基盤をおしはかることができそうです。   敏達天皇の使いとして百済へ渡った大別王は、帰りに寺を造営し運営する のに必要な人材を同行したのですが、そうした人材や技術は大別王寺の建立に 役立てられたことでしょう。同寺は、倭で最初の本格的な百済様式の寺だった のではないかと思われます。   大別王はその出自が未詳とされましたが、四天王寺本の『太子伝古今月録 抄』では「大別王の事、余昌か、大唐の人なり」と書かれました。「大唐の人」 ということになると、当時はまだ唐は建国されていないので、大加耶(加羅) の人をさすのかもしれません。   他方、余昌は百済の王子、後の威徳王なので、余昌と大別王はもちろん別 人ということになります。余昌が大別王ではないにしても、その弟である余恵 なら少しは可能性があります。『日本書紀』によれば、余恵は欽明16年 (555)に百済から倭へ渡来し、翌年もどったことになっています。大別王は余 恵かその周辺の百済王族だったかもしれません。   さらに『太子伝古今月録抄』は、百済寺を「四天王寺の末寺別院」と記し ました。四天王寺は、よく知られているように聖徳太子が物部守屋討伐のとき 四天王に戦勝を祈願して寺院の建立を発願し,593年(推古1)難波の荒陵(あら はか)に造ったと伝えられている寺です。   百済寺がどのような経緯で四天王寺の末寺になったのか、まだまだ不明な 点も多いようです。それにもまして私が疑問に思うのは、四天王寺をなぜ飛鳥 や聖徳太子の地盤である斑鳩(いかるが)に建てずに、わざわざ百済郡あたり に創建したのかという疑問です。ここに百済寺との関連が何かありそうです。 (注1)司馬遼太郎他『朝鮮と古代日本文化』(中公文庫)1982,P49 (注2)金達寿『日本の中の朝鮮文化2』講談社文庫、1983   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


江藤隆美発言と日韓併合条約 メーリングリスト[aml 35062] 2003.7.21   半月城です。   先日「百済の里」へ行って来ました。宮崎県の南郷村ですが、そこは元総 務庁長官である江藤隆美氏の選挙区です。南郷村は、東大寺の正倉院に保管さ れている古代鏡の踏み返し鏡が同村で発見されたのにちなんで、とてつもない 「西の正倉院」や「百済の館」を建てました。 <日向の「百済の里」>   百済の館は、南郷村のホームページによれば<日韓友好のシンボル、百済 の里のイメージづくりを目指し、百済古都「扶餘」の百済王宮跡に建つ「客舎」 をモデルに韓国から瓦や敷石を取り寄せて、本場の職人の手による極彩色の丹 青が美しく施されています>とされています。   そこを拠点にして南郷村は韓国と地道な交流をつづけてきましたが、そう した活動に泥水をかけるような発言が地元のドンからなされました。江藤議員 は日韓併合について「両国が調印して国連が無条件で承認したものが、90年 たったらどうして植民地支配になるのか」と語りました。   しかし、この発言には明らかな間違いがあります。国際連盟が発足したの は 1920年で日韓併合(1910)の後であり「国連が無条件で承認」するのは時代 的に不可能です。また、併合が合法だろうが非合法だろうが、一国が主権を失 い、他国により政治的、経済的、軍事的、文化的に支配される状態は「植民地」 と呼ばれます。   こうした初歩的な間違いに加えて、江藤氏は「新宿の歌舞伎町は第三国人 が支配する無法地帯。最近は、中国や韓国やその他の国々の不法滞在者が群れ をなして強盗をしている」(7.12)と排外主義をあおる発言をしました。   これについてAP通信は、江藤氏の発言は小泉政権にとって「恥ずかしい 問題」になりかねないと報道しましたが、私たち在日外国人にとっては見過ご すことのできない発言です。 <南京虐殺、日韓併合について江藤氏発言 中韓が批判 >   自民党、江藤・亀井派の「師志会」を率いる江藤隆美会長は、これまでに もたびたび問題発言を起こしてきました。95年には日本の朝鮮植民地支配に ついて「よいこともした」などと韓国人の心情を逆なでするようなことを語り、 韓国などから猛反発を買いました。その結果、総務庁長官を辞任する一幕もあ りました。   また、97年には日韓併合について「国と国が条約を結んで決めたことの どこが侵略なのか。言葉は悪いが町村合併といかほどの差があるのか」と語り ました。国家が主権を失う重大事を町村合併と比較するなど、その論法は稚拙 ですが、それはともかく江藤会長は、日韓併合条約は対等な立場で合意して結 ばれたとする信念で一貫しているようです。   しかし、こうした見方はひとり江藤会長にかぎらず、意外に根深いものが あります。首相では、故・佐藤栄作が日韓併合条約は「対等な立場で、また自 由意志でこの条約が締結された」(1965.11.5)と語りました。   自民党どころか社会党の村山富市首相すら、官僚の作文を棒読みする形と はいえ「日韓併合条約は法的に有効に締結された」(1995.10.5)と国会で述べ ました。村山氏は批判の声に押されるや、発言を補足し「併合条約の不平等性 や、背景に間接的な威嚇があった」と釈明しました。   村山発言を契機に、日韓併合条約の不平等性や背景の威嚇や脅迫に対する 時代認識はだいぶ浸透してきたようです。今や、従来の教科書を「自虐的」と 批判する「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書すら「日本は韓国内の 反対を、武力を背景におさえて併合を断行した」と書いているくらいです。   その一方で、村山首相は「条約は有効に締結された」という政府見解を結 局は変えなかったようでした。条約が有効かどうかは、現在の日朝交渉におい て争点になっている重要な問題であるだけに、その当否をここであらためて考 えたいと思います。   なお、この問題に関しては、5,6年前に某大学の周平氏=平田一郎氏 (ハンドルネーム)と2,3カ月間も議論したことがありますので、ここでは それらを元に書きたいと思います。 <日韓関係>   1910年8月22日「韓国併合に関する条約」が大韓帝国の首相・李完用と 日本帝国の統監・寺内正毅との間で結ばれ、韓国政府は消滅しました。この条 約はわりあい平穏に締結されたのですが、それは日本がそれ以前に帝国主義的 方法で韓国を日本の保護国となし、反日義兵闘争を武力で鎮圧し、反日勢力を 弾圧する一方で傀儡政権をつくりあげた結果にほかなりません。   韓国が牙を抜かれた状態であれば、日本が併合条約を結ぶのはほとんど自 作自演に近いくらい容易なことでした。したがって、併合条約の当否を考える とき、併合条約自体よりもそれ以前の条約などの成立過程がどうであったのか が重要になります。とくに併合条約の不法性を論じるときは、1905年の保護条 約、すなわち第2次日韓協約がカギになります。   もし、この保護条約(乙巳条約)が不法なら、それを基盤にした日本の統 監や統監政治も無効であるので、併合条約の署名者である統監・寺内正毅は全 権の資格を失い、併合条約は当初から無効になります。   保護条約の内容は、日本は韓国の外交権を剥奪し、その一方で外国におけ る韓国の臣民および利益を保護するというのが骨子であり、そのために外交関 係を管理する「統監」をおくという建前でした。   しかし、実際の運用はそんな生やさしいものではありませんでした。勅令 「統監府 及 理事庁官制」によれば、天皇に直隷する統監は、統監府令の公布、 韓国政府傭聘の日本人官吏(財政・外交・宮内府・軍部・警察顧問等)の監督、 条約または法令に違反する所轄官庁の命令・処分の停止や取り消しなどの絶大 な権限も与えられました。   この保護条約を機に日本は韓国への内政干渉を強め、それに比例して韓国 は独立国の体面を急速に失っていきました。初代統監の伊藤博文は、反日義兵 闘争を鎮圧するのみならず、保護条約にあくまで反対だった皇帝の高宗を強制 退位させるなど、天皇の名代(みょうだい)として韓国に君臨しました。保護 条約はまさに亡国条約といえます。   そのように国家の存亡を左右する重大な条約が伊藤博文や林公使らの脅迫 のもとに強制されたのですが、その模様はロンドンタイムスなどでも報道され、 国際的な関心をよびました。また、ロンドンデイリーメイル紙の記者マッケン ジーは、著書『朝鮮の悲劇』(東洋文庫)で保護条約締結の推移などを詳細に 記しました。 <韓国保護条約(1)>   それによると、保護条約に反対であった参政大臣(首相)は露骨に殺すと 脅されたようですが、それでもほかの大臣に「死を賭して抵抗しようと激励」 したようでした。伊藤博文らの脅迫は尋常ではなかったようです。   そうした流れを整理して、海野福寿氏は締結日(11/18)前後の「協約の無 効を証拠づける武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為」をこう列挙しました。        -------------------- <武力的脅迫> 1.ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18日両日は王城前、鐘路  付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。 2.17日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長を  帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。  ・・・   要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その  中で最後の交渉が行われたのである。 3.17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に召集して予備会商を開  いた後、「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開催を要求し、午後  三時ごろ閣僚に同道して参内した。   その際、護衛と称して逃亡を防止するため憲兵に「途中逃げださぬように  監視」させた。事実上の拉致、連行である。 <脅迫的言辞> 4.15日、午後三時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国は如  何にして今日に生存することを得たるや、将又韓国の独立は何人の賜ものな  るや」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国に於ける対外関係  いわゆる外交を貴国政府の委任を受け、我政府自ら代って之をおこなう」こ  とを申し入れた。   これに対し回答を留保する皇帝に向かい、伊藤は「本案は・・・断じて動  かすあたわざる帝国政府の確定議なれば、今日の要は唯だ陛下の御決心如何  に存す。之を御承諾あるとも、又或は御拒みあるとも御勝手たりといえども、  もし御拒み相成らんか、帝国政府はすでに決心する所あり。其結果は果して  那辺に達すべきか、けだし貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難な  る境遇に座し、一層不利なる結果を覚悟せられざるべからず」と暴言を吐き、  威嚇した。 5.同席上、逡巡する皇帝が「一般人民の意向を察するの要あり」と述べたの  をとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主である韓国の皇帝  が「人民意向云々とあるも、定めて是れ人民を煽動し、日本の提案に反抗を  試みんとの御思召と推せらる。是れ容易ならざる責任を陛下自ら執らせらる  るに至らん」と威嚇した。 6.17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其衝に当  り妥協を遂ぐることは敢てせざる」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻  をとらえた伊藤は、巧妙に誘導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定し  た。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対であることを  認めなかった。 7.同席を終始主導した伊藤は、韓圭ソル参政、閔泳綺度相の二人の反対のほ  かは、六人の大臣が賛成と判断し、「採決の常規として多数決」による閣議  決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可をうるよう促し、拒否するならば  「余は我天皇陛下の使命を奉じて此任にあたる。諸君に愚弄せられて黙する  ものにあらず」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退を決  し、謹で大罪を待つの外なかるべし」と涕泣しながら辞意を漏らし、やがて  退室した。   韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、  と大きな声でささやいた」という。肉体的・精神的拘束を加えた上での威嚇  である。 <不法行為> 8.17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って参内した  伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から「協  約案に至ては朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめん」との勅諚を引き出  し、閣僚との交渉を開始した。   これは韓国閣議の形式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが  出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表でない伊藤  の外交交渉への直接参加も違法である。 9.協約への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、調印は「外部大臣之章」と  刻まれている邸璽(職印)であるが、その邸璽は公使館員らによりもたらさ  れた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、『遂に憲兵隊を外部大  臣官邸に派し、翌18日午前1時、外交官補 沼野は其官印を奪い宮中に帰  り、紛擾の末、同1時半日本全権等は檀に之を取極書に押捺し」た、との   ソウル発電報を掲載している(注1)。            -----------------------   伊藤博文は明治の元勲とされ紙幣にも登場しましたが、かれは軍事力を背 景に、韓国皇帝や大臣を脅迫し、韓国の閣議をみずから主導し、参政大臣(首 相)を「駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ」と恫喝するなど、帝国主義者 の本性をよく体現しているようです。そのきわみが、閣議の大勢を決すること になった伊藤のある一言だったようで、坂元茂樹氏はこう記しました。  「参政大臣は依然として姿を見せない。そこで誰かがこれを訝ると、伊藤侯 は呟く様に『殺っただろう』と澄ましている。列席の閣僚中には日本語を解す る者が二、三人居て、これを聞くとたちまち其隣へ其隣へとささやき伝えて、 調印は難なくバタバタと終ってしまった(注2)」   この話が本当とすれば何とも情けない大臣たちです。何人かの大臣は、戻 らぬ参政大臣の二の舞になりたくないという恐怖心から亡国条約をしぶしぶ受 け入れたのかもしれません。かれらの脳裏にはおそらく十年前に日本軍が王宮 に乱入して王妃を殺害した閔妃暗殺事件(1895)がうかんだことでしょう。   このように条約調印に際して強制や脅迫があったことは明白なのですが、 これが個人に対する脅迫だったのか国家に対する脅迫だったのか、その区別は 当時の狼どもの国際法では重要です。   現在ではどちらであれ国際法(条約法に関するウィーン条約)違反ですが、 弱肉強食時代の国際法(万国公法)は木戸孝允がいうように「万国公法は小国 を奪う一道具」であり、帝国主義国家の野欲が優先し、国家に対する脅迫は合 法とされました。それのみか武力による征服すら合法とされました。   そうした時代解釈をふまえて、海野教授は「前述のような強制行為が国際 法上、国家の代表者個人に対する脅迫なのか、いずれに該当するかの判断基準 は必ずしも明確ではない、とする坂元茂樹の指摘」があることを考慮しました。   そのうえで、同教授は結論として「1905年『第二次日韓協約』の強制 調印は、国際法に違反する不当なものである、とみなす点で本書執筆者は一致 している(注1)」と記しました。   その一方で同教授はこうも記しました。  「にわか勉強のわたしがたどりついた結論は、共和国の歴史学者の主張とは やや異なる。韓国併合は形式的適法性を有していた。つまり国際法上合法であ り、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である、という平凡な見解で ある。   だが誤解しないでほしい。合法であることは、日本の韓国併合や植民地支 配が正当であることをいささかも意味しない(注3)」   海野氏はこのように保護条約の合法・不当論を述べましたが、そのかたわ ら結論を法学者にふってこうも記しました。  「旧条約無効論は、法律的にも歴史学的にも無効を立証するには、なお不十 分と言わざるをえない。無効論は日本の歴史学界にはなじんでいない」  「現在では歴史学が蓄積した豊富な情報を共有している。その資料を利用し て国際法学者があらためて「第二次日韓協約」締結の適法性の有無を検討され ることを期待したい(注4)」   他方、法学者の坂元氏は結論を逆に歴史学者にふってこう記しました。  「大韓帝国に国家の存亡に関わる圧力が日本からもたらされたことは誰の目 にも明らかであるが、問題は、国家代表者に国際法が禁ずるような形で強制が 行われたかどうかという点であろう。歴史学者ではない筆者には、その事実認 定は能力を超えるところがある(注2)」   国際的な認識ですが、第2次日韓協約は国連でも取りあげられました。 1963年、国連国際法委員会(ILC)の定期報告書(ウォルドック第二報告 書)に、第二次日韓協約が国の代表者に対する脅迫により結ばれた無効条約の 例としてあげられました(注5)。   この報告書は、パリ大学やハーバード大学の研究を基礎にしていますが、 それらはかならずしも韓国保護条約を十分研究しつくしたとはいえないようで す。それでもともかく報告書が正式な国連文書として発刊されるにいたり、韓 国保護条約が無効であるという国際的な認識がさらに広がったのではないかと 思われます。   アメリカの朝鮮史研究者、コロンビア大学のゲアリ・レドヤード教授もそ のようにとらえているようです。同氏は週刊誌「ニューズウィーク」(95.6. 21)の取材にこう答えました。 (問)韓国を保護国としたことは合法だったのか。 (答)合法性に疑念をもつ専門家は多い。当時の皇帝は、条約への御璽の押印   を拒んだからだ。   おわりに日本政府の立場ですが、日本政府は第6回日朝交渉で保護条約に 関し<北朝鮮側に「条約を正当だったとする根拠は何か」と質問されて、日本 政府は、「国際法上有効とは言ったが、正当とは言っていない」と回答した (注2)>と伝えられています。保護条約は正当ではないが有効であったとい うのが日本政府の見解のようです。しかし、こうした日本政府の見解は世界的 にみて少数意見であることはたしかなようです。 (注1)海野福寿編『日韓協約と韓国併合』明石書店、1995 (注2)坂元茂樹「日韓保護条約の効力」『関西大学法学論集』   第44巻4,5合併号,1995 (注3)海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995 (注4)海野福寿「『韓国併合条約』無効論をめぐって」『戦争責任研究』   第12号,1996 (注5)毎日新聞記事(93.2.16)   従軍慰安婦問題、スイスの人権組織「日韓保護条約は無効」   63年、国連委が報告書  【ジュネーブ15日伊藤芳明】スイスの国際的な人権組織「国際和解団体」(IF OR、レネ・ワドロー代表)は十五日、ジュネーブの国連人権委に、従軍慰安婦問題 に関し日本政府の対応を非難する報告書を提出。日韓併合の足がかりとなった日韓保 護条約(一九〇五年)について国連の「国際法委員会」が無効との見解を発表してい ることを明らかにした。保護条約の無効性が明確になれば、戦前の日本による朝鮮半 島支配は国際法上違法な軍事占領となり、慰安婦ばかりでなく朝鮮半島からの軍人、 軍属徴用の根拠が問題になる可能性もある。当面の日本と朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)との国交正常化交渉への影響もあり、日本は新たな難問を突きつけられた 形となる。  ・・・  国際法委員会の六三年の報告は、国際慣行を法文化した「条約法に関するウィーン 条約」の原案を国連総会に提示したもので、「条約の署名、批准を得るために個人に 強制、脅迫を加えられた場合、国家が条約の無効を主張するのが正当であることは一 般に認められている」と明記。  日韓併合(一九一〇年)の基礎となった保護条約にまでさかのぼり、旧日本軍の行 為の国際法上の違法性が指摘されたのは異例のこと。しかも国連の常設委で無効との 見解が出されていることは、日本にとって今後重い足かせになるのは必至だ。 (以下省略)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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