半月城通信
No. 93(2003.3.7)

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  1. はだかの「慰安婦」(続)
  2. 高樹のぶ子「寒雷のように」
  3. 朝鮮の近代地図「大東輿地図」
  4. <竹島=独島問題>

  5. 江戸時代の竹島(欝陵島)編入
  6. 「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応
  7. 竹島=独島の戦後に関する韓国の見解
  8. 朝鮮の松島(于山島)認識と扱い
  9. 『三国史記』における于山の記述
  10. 『高麗史』における于山の記述
  11. 『太宗実録』と于山島
  12. 『世宗実録』と于山島
  13. 『世宗実録 地理志』と于山島
  14. 『成宗実録』と三峰島探索


はだかの「慰安婦」(続) メーリングリスト[aml 31666] 2003.01.11   半月城です。   私の書き込み<はだかの「慰安婦」>は、いくつかのMLに転載していた だいたためか、私のところに有益なコメントがいくつかよせられました。あり がとうございます。そのいくつかを簡単に紹介します。   まず、「慰安婦」の妊娠ですが、これは台湾など他でもそれなりにあった という情報です。卑近な例では宮城県にお住まいの元「慰安婦」宋神道さんも 数回妊娠しました。   つぎにテレビ局への批判ですが、はだかの写真をあまりに出しすぎではな いかという点です。たしかに私もそのように感じました。視聴率をすこしでも 高めたい商業放送では陥りやすい誘惑です。   また、これは私の書き方の問題ですが、朴永心さんの名前が判明したのは アメリカ公文書館の写真からではなく、別の資料からであるという指摘でした。 その資料とは「1945年中国昆明・捕虜収容所の捕虜審問報告書」です。   最近、この資料に関連した記事を韓国の朝鮮日報が報道しましたので一部 を下記に紹介します。全文を知りたい方は下記のURLからたどってください。 http://srch.chosun.com/cgi-bin/japan/search?CD=32767&SH=1&FD=1&OP=3&q=%88%D4%88%C0%95w        -------------------- 【三井・三菱など「企業慰安所」運営していた】 朝鮮日報、2003.01.03 太平洋戦争当時、日本軍だけでなく、日本企業も韓国人女性を利用し「企業 慰安所」を運営していた事実を証明する各種の文書記録や写真などが3日、国 内外の学者によって公開された。  ソウル大学の鄭鎭星(チョン・ジンソン)教授と米リバーサイドカリフォ ルニア大学のチャン・テハン教授はこの日行った記者会見で、過去6カ月間、 韓米日の10人の学者が共同で発掘した慰安婦関連の各種の文書記録と写真など を公開し、「日本の三井、三菱といった企業らが日本政府の奨励の下、労働者 を相手にした企業慰安所を日本本土で運営した」と明らかにした。 (途中省略)  1942年の大東亜省企画院の閣議決定(官僚会議)文書でも、「労務者のため に慰安所を設置すること」を指示したと、鄭教授は明らかにした。日本政府は 企業に洗濯婦などの名義を使い、合法に偽ることも指示した。  企業慰安所の存在は1992年、日本の市民団体が提起したが、軍慰安所問題に 埋もれ、関心を集められなかった。鄭教授は「慰安所を運営したことが明らか になった企業を対象に、責任を問う訴訟を進める」と話した。  一方、チャン・テハン教授は昨年8月から、米国立文書保管所(NARA)から 発掘した「米情報部隊(OSS)の「1945年中国昆明・捕虜収容所の捕虜審問 報告書」など、米国の秘密文書を提示しながら、「慰安婦が『強制と詐欺』に よって連れて来られたことが初めて公式記録でもって確認された」と主張した。  韓国女性23人など100人あまりの陳述を総合したこの報告書には、「韓国女 性たちが強圧と詐欺によって慰安婦として駆り出された。この他の韓国女性 300人あまりは、『シンガポールにある日本の工場に就職させる』という新聞 広告に騙された」と書かれている。  同文書は米軍の秘密文書で、最近秘密から解除された。チャン教授はまた、 NARAから身元カードが発見された46人の慰安婦の名簿も一緒に公開した。 米軍が45年に作成した慰安婦の身元カードには、写真と指紋、故郷、職業など が記されている。  チャン教授はNARAから発見された中国書籍『ビルマ戦線従軍記』の日本 軍連隊長タカミの手帳内容を提示しながら、英国やフランス女性も日本軍慰安 婦として利用されたと明らかにした。 鄭佑相(チョン・ウサン)記者        --------------------   アメリカの資料公開は「日本帝国政府記録情報公開法」により促進された ものと思われますが、その成果が期待されます。ところで、共同研究に参加し た日本の学者とは「日本の戦争責任資料センター」のスタッフと思われますが、 会誌『戦争責任研究』にはまだ上記のニュース自体は掲載されていないようで す。ただ、林博史氏が第36号で「日本軍“慰安婦”性暴力に関する資料状 況」と題して各国の資料についてふれていたことをつけ加えます。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


高樹のぶ子「寒雷のように」 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#6363 2003年1月08日   半月城です。   総山孝雄氏は「賢い人」にはちがいないのですが・・・。   RE:6339 >「半島人も好んで日本名を名乗り」とありますよね。 >植民地人として生きて行く上で、日本名を名乗ることを「好んで」と表現し  てますよね。   創氏改名が好んでなされたのではないことは、すでに半月城通信に書いた ので、ここには書かないことにします。 http://www.han.org/a/half-moon/hm017.html#No.148   総山孝雄氏の論ですが、相変わらず我田引水が多いようです。『正論』か らの転載記事はナナメ読みなのですが、同氏の主張は、日本は朝鮮を併合した のであり、植民地支配したのではないというのが持論ではないでしょうか。こ うした発言は、日韓会談における下記の「久保田発言」の系譜につながるもの と思われます。  「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりしたし、大蔵 省は、当時、多い年で二千万円も持ちだしていた」   当時、この発言に韓国側は怒り、日韓会談はすぐ決裂しました。この久保 田発言には意外にもサンケイがこう批判しました(注1)。  <「一千万円とか、二千万円とかの補助は韓人のために出したのではなく、 日本人のために出したので、その金で警察や刑務所をつくったではないか」と いう韓国代表の発言に軍配を上げざるを得ない>『週刊サンケイ』1953.11.8   企業であれ、国であれ、植民地に投資するのは自社のため、自国のためで あるのは洋の東西を問いません。それを「韓人のため、原住民のため」と強弁 するのは帝国主義者の偽善ではないでしょうか。   しかし、個人のなかには純粋な気持ちで朝鮮人と接していた人がいたこと もたしかです。芥川賞受賞作家の高樹のぶ子さんは、そんな祖父を小説に書い ているようです(注2)。        --------------------   平壌宣言がなされた時、私は祖父のことを思いだした。旧制中学の教頭を していた祖父は昭和十年代近隣のアジア諸国から日本に留学した学生たちの父 親がわりとして、彼らを上の学校で勉強させる援助をしていた。中国、台湾、 朝鮮半島からの学生が、常時二、三人我が家で寝起きしていたという。   その中の一人、劉さんは韓国に帰り、やがて石炭公社総裁や関釜フェリー の初代社長になって、私が中学生のころ、新聞記者を引き連れ、たくさんの土 産と共に祖父を訪ねてきた。このときのことは「寒雷のように」という小説に 書いたが、まさに寒雷のような出来事だった。   宴の中で劉さんは祖父への感謝の言葉と共に、日本のせいで韓国の発展は 50年遅れましたと言った。そのときの祖父の複雑な表情を思い出す。   祖父が預かった学生の中で一番優秀だったのは、金シンゲンという朝鮮半 島北部から来た青年だった。彼は祖国の発展のために人生を捧げます、と言っ て北に戻っていった。        --------------------   劉さんも総山氏にいわせれば、まちがいなく「忘恩」の人になるでしょう。 (注1)高崎宗司『日韓会談』岩波新書,1996,P61 (注2)高樹のぶ子「時代の風、平壌宣言は一瞬の夢か」朝日新聞2003.1.5


朝鮮の近代地図「大東輿地図」 Yahoo!掲示板「竹島」#1326 2003/ 2/26   半月城です。   RE:1099 >朝鮮について補足しますと、朝鮮王国時代には大韓帝國期を含めて、一度も 正確な全国図は作製されなかったのでないでしょうか。   何が「正確」なのか定義はむずかしいのですが、すくなくとも金正浩『大 東輿地圖』(1861)は特筆にあたいします。世界的に権威ある『世界地図学史』 (全8巻、英文)において『大東輿地圖』は精巧で優秀な伝統地図と絶賛され ました。韓国でも宝物850号に登録されました。   全体の大きさがなんと6.6メートルにもなるこの大地図の精度は、北辺 が少しずれるくらいで、複雑な南海岸などはほとんど狂いがありません。伊能 忠敬の地図に匹敵するできばえです。   一方、地図の実用性に関しては伊能図をはるかに凌駕しています。『大東 輿地圖』は山脈や河川まで詳細に記入し、さらに主要道路も直線ながら記入し ました。しかし単なる直線では里程がわからないので、それを補うために10 里ごとにマークを入れました。そのため、交通や物流にとってたいへん重宝な 地図でした。また地図は携帯に便利なようにコンパクトな帙に収められ、常用 に優れていました。   そればかりか、地図には国家の非常時にすぐ即応体制が組めるように、記 号を用いて営衙や城池、烽燧、駅站、鎮堡なども完璧に記入しました。そのた め、日清戦争で日本、清ともに軍事作戦に『大東輿地圖』を利用したくらいで した(注1)。日本軍の場合は独自に測量図「漢江近海図」などをすでに作成 していましたが、それでも『大東輿地圖』は有用だったようです。   このように、『大東輿地圖』は政治や経済、軍事面で有用な地図なのに、 不思議なことにこれは官撰地図ではありませんでした。これほど詳細で膨大な 情報を満載した大地図が国家事業ではなく、金正浩個人によっていかに作成さ れたのか未だにほとんどナゾとされています。   かろうじてわかっているのは、かれは地図を作成するにあたり、申ホンの 協力により奎章閣の図書を閲覧できたということくらいです。その知識をもと に全国を歩き回り『大東輿地圖』を完成させたようでした。   したがって、かれは『世宗実録』地理志や『東国輿地勝覧』など地理志の 伝統を受けついだことだけはたしかで、そうした趣旨がかれの著書『大東地 誌』『輿國備志』『東輿圖地誌』などにうかがえます。なお、申ホンはのちに アメリカによる江華島攻撃事件(辛未洋擾,1871)交渉の際に朝鮮側全権をつ とめた人ですが、かれの影響か、金正浩は国防の観点から軍事施設を重視した ものと思われます。   ナゾは地図作成方法だけではありません。かれの人生もナゾです。私は # 1077で「金正浩は地図出版の罪により刑死しました」と書きましたが、それも どうやらあやふやで否定説も根強いようです。そればかりか、生まれも育ち、 身分などもほとんど情報がないようです。わずかにかれは中人の身分であった らしいということが『里郷見聞録』により推定されます。いきおい、かれを題 材にした映画や物語はほとんどフィクションといっても過言ではありません。 それほど、長い間ほとんど忘れられた存在でした。   それが日帝時代に他ならぬ朝鮮総督府からにわかに評価され『朝鮮語讀 本』に掲載されました。地図が日清戦争に活用されたくらいなので、総督府は その価値を誰よりもよく知っていたに違いありません。   しかし『朝鮮語讀本』の記述はあまり信用できないようです。かれの地図 版木はすべて押収されて焼却されたと書かれましたが、1990年代になって焼却 されたはずの版木が11枚(22面)も見つかりました。大発見です。   ちなみに、この地図で竹島=独島は記載されませんでした。個人の力や執 念もここまでです。朝鮮周辺の数百、数千もある小島すべてを個人的に踏査す るなんて至難なのは自明です。 (注1)東亜日報、1925.10.8     『大東輿地図』再認識 Yahoo!掲示板「竹島」#1396 2003年3月08日   半月城です。   以前、金正浩『大東輿地圖』に于山島は記載されなかったと書いたのです が、実は于山島が記載されている版もあることが判明しました。ちょっとした 発見です。塚本氏によれば、国会図書館所蔵の筆彩本(1861頃)第14帖には于 山島が描かれているとのことでした(注1)。おそらく最新版なのでしょう。 塚本氏はさすが同図書館のプロです。   塚本氏のコピーをみると、于山島は大きさが欝陵島の1/15くらい、位 置は欝陵島の東に、形はやや人形のように描かれました。一方、欝陵島の形は 楕円に近く描かれており、いずれも実際の踏査は行われなかったようです。   それにしても『大東輿地圖』が日本で大切に所蔵されていたとは意外でし た。これは陸軍省あるいは朝鮮総督府あたりから受けついだのでしょうか。 (注1)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図(下)」『レファレンス』  1985,5月号,P100、国会図書館の請求記号は 292.1038-Ki 229d


江戸時代の竹島(欝陵島)編入 Yahoo!掲示板「竹島」#661 2003/ 1/10 22:40   半月城です。   nagashorjpさん、#609 >位置関係から言って、松島(現竹島)は隠岐国か、お世辞でも出雲・石見(両 国でほぼ現在の島根県本州部分)のどちらかである。松島(現竹島)が因幡・伯 耆(両国でほぼ現在の鳥取県)の所属であると考える方に無理がある。   単に地図だけでみると、たしかにそのとおりです。しかし、それにもかか わらず幕府が竹島(欝陵島)および近辺の島を鳥取藩に問い合わせたのは、そ うするのがベストだったのだろうと容易に察しがつきそうなものですが。   それもそのはずです。幕府が鳥取藩の米子商人に竹島(欝陵島)渡海免許 を出したのは鳥取藩を通じてであり、この前後から鳥取藩は竹島、松島と深く 関わりました。幕府の問い合わせは至極もっともなところです。   その一方、隠岐国および出雲国には竹島・松島は自国領という意識は当初 はありませんでした。それを『隠州視聴合記』(1667)にみることができます。 1667年、隠岐を統治していたのは出雲藩ですが、出雲藩士・斎藤豊仙が書いた 『隠州視聴合記』は日韓間で論争になっていることもあり、まずはこれを取り あげることにします。まず、同書の読みくだし文をかかげます。 斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)(注1)   隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美穂関まで は35里、東南は伯州赤碕浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北か ら東は住むべき地がない。西北に一泊二日行くと松島がある。また一日ほどで 竹島がある(俗に磯竹島という。竹や魚、アシカが多く、案ずるに神話にいう ところのイソタケルから来ている)。   この二島は無人の地である。高麗を見るに雲州より隠州を望むごとくであ る。しかるにすなわち日本の西北は「この州」をもって限りとなす。   上記では隠州から南へ行くと雲州、東南へ行くと伯州、西南へ行くと石州、 北や東は住むべき土地がない、北西へ行くと松島、竹島があるという書き方に なっています。すなわち、隠州の東西南北は隠州でないので、松島、竹島も隠 州ではないということになります。   話は飛びますが、松島・竹島が隠州に属さないということでは現在の日本、 韓国政府ともに見解が一致しているようです。すなわち、日本の西北の限りで ある「此州」を隠州と読むのか(韓国側)、州を訓読みで「しま」とよんで 「此州」を竹島(欝陵島)と読むのか(日本側)という論争が両国で未解決に なっています。もし、松島、竹島が隠州に含まれるのなら、どちらにせよ竹島 (欝陵島)が日本の限りになるので、このような論争はありえないことはいう までもありません。   結局、『隠州視聴合記』が書かれたころは松島(竹島=独島)に一番近い 隠岐国や出雲国は同島を自国領とみなしていなかったことが明白です。したが って、幕府の問い合わせ先が鳥取藩だったことは正しかったことになります。   ところで「日本の西北の限り」をめぐる日韓の論争ですが、今までは両国 の解釈を補強する材料が双方ともなく平行線のままでした。   ここで補足ですが、同書で「高麗を見るに雲州より隠州を望むごとくであ る」とあるので、一見すると高麗を見ている竹島・松島は朝鮮の地ではないと いう解釈が成り立つようにみえます。しかし、高麗は滅んでから300年近く たつので、同書でいう高麗はもちろん国の名前ではありません。朝鮮本土くら いの軽い意味です。   さて、平行線であった両国の解釈にヒントとなる資料が 今は閉鎖されて しまった LYCOS掲示板で提示されました。水戸黄門こと水戸光圀が編纂を始め た水戸藩の『大日本史』です。同書は竹島・松島を次のように記し、両島を事 情不明ながら隠岐国の所属と考えました。        -------------------- 『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡(注2)  隠岐の国、下、(延喜式、一に淤岐、あるいは意岐とする)。  また隱伎三子島という(古事記、案ずるに国は海中にあるゆえ名がついた。 邦をいうに、海洋でいう澳をなす。隠岐はすなわち澳である)。  およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は1 79で、総称して隠岐小島という)。  別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地 郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。 韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図 となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。        --------------------   この一文は重要な内容を含んでいます。   第一点ですが、竹島・松島を日本の版図にした文献の根拠が『隠州視聴合 記』でなく、隠岐古記などだったことです。言いかえれば『隠州視聴合記』か らは竹島・松島が日本の版図であるという解釈ができなかったことを意味して います。   これはとりもなおさず『隠州視聴合記』で「此州」の解釈は竹島・松島で はなく隠州であり、そこが「日本の西北の限り」であったということになり、 韓国側の主張を補強することになりそうです。   第二点ですが、竹島および松島を日本の版図となしたということは、それ までは両島は日本の版図でなく、暗に韓人の地であったことを示唆しています。 それがいつのまにか事情がよくわからないまま日本の版図になったと同書は記 しました。   元来、竹島・松島は日本領ではなかったという認識は『隠州視聴合記』か ら生まれたのかもしれません。あるいは次の「潜商」事件から生じたのかもし れません。幕府も竹島(欝陵島)渡海事業以前は、竹島(欝陵島)が朝鮮領で あることを認めていました。幕府の外交文書を集めた『通航一覧』巻之百二十 九はこう記しました。  「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島 朝鮮國属島 に於て潜商 のもの二人を捕へて、京師に送る」  「朝鮮國属島」の文字は注釈を示すかのように小さな字で書かれていますが、 この記述により幕府および対馬藩の竹島(欝陵島)に対する認識は明らかです。 この事実を池内氏はこう記しました。        --------------------   慶長19(1614)年、朝鮮政府(東莱府)と対馬藩とのあいだで、朝鮮領であ る竹島(鬱陵島)への日本人渡航・入居が禁止事項であると確認された。   また元和6(1620)年には、竹島に居住していた鷺坂弥左衛門親子が幕命を 受けた対馬藩によって捕縛された。   さらに寛永14(1637)年に村川船が竹島渡海後に朝鮮半島へ漂着した際、倭 館の対馬藩士は、日本人の竹島渡海は「公儀御法度」と承知していると述べた。   したがって、現在の視点にたって文献資料を眺める限りでは、17世紀初 頭の江戸幕府・対馬藩はいずれも、竹島は日本人の渡航・居住が禁止された朝 鮮領であると確認していたこととなる(注3)。        --------------------   このように、幕府は竹島(欝陵島)を朝鮮領と知りながら竹島(欝陵島) 渡海免許をだしました。他方、問題の松島(竹島=独島)ですが、竹島一件の 処理にみられるように幕府はこの島をそもそも知らなかったので問題外でした。 認識がないなら領有意識もなかったことはいうまでもありません。   それはともかく、竹島(欝陵島)渡海事業が水戸藩には竹島・松島を「我 が版図となした」と映ったようです。水戸藩ばかりか、竹島(欝陵島)に関す るかぎり幕府もそのつもりだったのかもしれません。しかし、それも長くは続 きませんでした。竹島一件をめぐる日朝交渉で幕府は竹島(欝陵島)を放棄し ました。   時代はくだりますが、その史実から明治政府は幕府が松島(竹島=独島) も同時に日本の版図外にしたと解釈しました。   歴史は繰り返すなんていう法則があるわけではないのでしょうが、明治時 代、日本政府は松島(竹島=独島)が日本の版図外であると結論をだしておき ながら、軍事的必要から同島を日本領に編入しました。それが SCAPIN 677号 で日本の統治から切り離されて今日にいたっているのが現状です。江戸時代の 流れと一脈つうじるものがあります。 (注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)  隠州在北海中故云隠岐島 従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦 四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松 島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書所謂五十猛歟)此二島無人 之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣 (注2)『大日本史』巻三百八,志三、隠岐國四郡     (ふりがなや返り点は省略) 隱岐國、下、(延喜式○一作淤岐、或意岐)、又曰隱伎三子島、(古事記○按 國在海中、故名、邦言謂海洋爲澳。隱岐即澳也)、 凡四島、分曰島前、島後、 (隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小島)、別有松島、 竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡福浦、至松島海上六十九里、 至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智 者而知也、附以備考) ・・・ (注3)池内敏「竹島一件の再検討-元禄六~九年の日朝交渉」『名古屋大学   文学部研究論集、史学47』2001,P3   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応 Yahoo!掲示板「竹島」#805 2003/ 1/21   半月城です。   明治政府による竹島・松島放棄を「竹島=独島日本領派」の研究者はどう 対応しているのかについてふれたいと思います。具体的には、塚本孝氏と芹田 健太郎氏のふたりを取りあげます。  まず、塚本氏ですが,明治政府が竹島=独島を日本の版図外にしたという史 実を同氏が認めた画期的な文章は下記のとおりです。        -------------------- 8.元禄以降明治までの状況   明治9年10月内務省地理寮の係官が島根県を巡回した際、旧藩時代の竹 島渡海についての情報に接し、島根県地籍編製係に詳細を照会した。島根県令 (代理)はこれをうけて大谷家の記録等に基づき「日本海内竹島外一島地籍編 纂方伺」を内務卿あてに提出した。(一件書類は『公文録』明治十年三月内務 省之部一に収録されている。)   この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海 した松島すなわち今日の竹島のことである。島根県が両島を地籍に編入する方 向で指示を仰いだのは、“竹島”については、現地(大谷家)では元禄9年の 渡海禁止(前記3)を、朝鮮から“竹島”(鬱陵島)の日本領であることを認 める証文を取り付けた上での措置であったと認識していたこと(上記『公文 録』収録の文書、また『竹島渡海由来記抜書控』)によると考えられ、“ほか 一島”について地籍を編制するなら松島も忘れてはならないというような考え であったと思われる。   島根県からの「伺」を受けて、内務省は、翌明治10年(1877年)3月、 元禄年間の日朝交渉の記録に基づき、「竹島所轄之儀ニ付島根県ヨリ別紙伺出 取調候処該島之儀ハ・・・本邦関係無之相聞候得共版図之取捨ハ重大之事件ニ 付島根県ヨリ別紙相添為念此段相伺候也」として右大臣に伺いをたてた。右大 臣は、同3月29日付で、内務省案のとおり、「伺之趣竹島外一島之儀本邦関 係無之儀ト心得事」と指示した。   以上要するに、島根県は“竹島(鬱陵島)”について内務省から照会を受 け、県としては地籍を編纂する方向で「竹島外一島」の地籍編纂方伺いを提出 し、内務省は“竹島”(鬱陵島)をめぐる元禄の記録に基づいて「竹島は本邦 無関係」であると考え、右大臣は「竹島外一島」が本邦無関係と指示した。   この結果、元禄の日朝交渉で松島(今日の竹島)が話題になったことはな く(前記3)、内務省が検討し右大臣への伺いに別紙として添付した日朝交渉 関係文書ももっぱら“竹島”(鬱陵島)に関するものであったにもかかわらず、 形式的には、松島(今日の竹島)もまた「本邦無関係」とされることになった のである。『公文録』所収の一件資料は、韓国側の竹島領有主張を支持する日 本人研究者によって紹介された(注1)。        --------------------   塚本氏のいう「韓国側の竹島領有主張を支持する日本人研究者」とは堀和 生氏を指すと思われますが、そうであれば、それは堀氏を誤解しています。同 氏自身は、国際法上の領有権問題は歴史的な領有とは別問題であると述べたの を私はたしか新聞で読んだ記憶があります。   そのとおりだと思います。歴史的に領有がいかに正当であっても、侵略戦 争を合法的と考える「狼どもの国際法」如何によっては一夜にして領有権者が ひっくり返ることもあるので当然です。   戦後のポーランドやドイツなどでは、ドイツの侵略戦争にたいする賠償の 意味もあってか、国境が大きく変動しました。こうした国では、ついぞ歴史的 な「固有領土」の主張をあまり耳にしません。国境変動が当たり前の国々では 「固有領土」の主張はあまり意味がないのでしょうか。   さて、堀氏自身は国際法を同論文にこう記しました。        --------------------   現実にある領土紛争を、実際に処理できる手だては国際法である。しかし、 その国際法を関係国が納得するように適用するためには、まず紛争についての 事実認識自体に共通の基盤がなければならない。とすれば、現在双方の現実の 国益と国民感情のために膠着状態にある日本の領土問題についても、その紛争 地域の歴史を具体的客観的に解明していくことは、何らかの進歩的な刺戟を与 えることになるのではなかろうか(注2)。        --------------------   堀氏の思惑通り、堀論文は研究者に刺戟を与えました。いまでは、研究者 の間で堀氏が解明した明治政府の「竹島・松島放棄」に異議をとなえる人はだ れもいないようです。といっても、その史実にふれる学者は少ないようですが。 やけどを恐れて、あえて火中の栗を拾おうとしないのでしょうか。   下條正男氏などはいろいろ文を書いても、堀論文については沈黙している ようなので、あるいは堀論文の存在すら知らないのかもしれません。   一方、なかには堀論文をさんざん批判しても、堀氏の一大成果である「明 治政府の竹島・松島放棄」から目をそらしたままで領土を論じる学者もいるか ら驚きます。   その人は前回すこし紹介した芹田健太郎氏です。同氏は著書で日本の松島 (竹島=独島)経営を竹島渡海免許や、今では否定されている「松島渡海免 許」から説きおこし、明治期の「松島開拓願い」や軍艦天城の派遣など含めて 概観しましたが、なぜか肝心の明治政府による「竹島ほか一島放棄」について は一言半句もふれせんでした。   そのあげく「このようにして、竹島に対する日本の実効的支配は第二次大 戦の終了まで平穏に続けられた」と締めくくりました(注3)。日本に不利に なりそうな所だけを徹底的に無視すれば、どのような結論も可能ですが、その ときは研究者として失格であることはいうまでもありません。単なるデマゴ ギーにすぎません。   カイロ宣言があるかぎり、明治政府の松島(竹島=独島)放棄が今日の領 有権問題にまったく無関係であるとは、私にはとうてい信じられません。 (注1)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、   国会図書館,1996, P5 (注2)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第二四号、1987 (注3)芹田健太郎『日本の領土』中公叢書,2002,P162   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島の戦後に関する韓国の見解 Yahoo!掲示板「竹島」#614 2003/1/1   半月城です。   gintetu1963さん、#603 >もともとSCAPIN NO. 677自体、領土問題に関するものではありません。 >占領政策遂行のため日本の主権を一時的に制限・停止する措置を示したもの  だから。 >ところが韓国政府は、これをもって竹島の帰属が決まった、としています。   生半可な知識や推論をひけらかすのは恥をかくだけです。韓国側の主張は 下記のとおりです。        -------------------- 1956.9.20 独島に関する日本政府の見解に反駁する大韓民国政府の見解  (韓国政府見解3)  ・・・ 6.おわりに、我々は独島問題解決に重要な鍵になる連合国の日本領土処理方 針とその基本方針に言及したい。連合国の日本領土の処理は「カイロ」宣言と 対日平和条約にいたる一連の国際文書に依拠する。   1943年11月27日の「カイロ」宣言で米、英、中三大国は韓国人民の奴 隷状態に留意し、適当な経路をふんで韓国を自由独立国家とする決意であると 規定した後、さらに「三大連合国の目的は1914年の第1次世界大戦の開始以降 に日本国が奪取したか、または占領したあらゆる太平洋諸島を日本国から剥奪 すること、そして・・・日本国が清国から盗取したあらゆる地域を中華民国へ 返還するところにある」とし、また「日本国は、また、暴力および強力により 略取したその他あらゆる地域から駆逐される」と規定した。   この「カイロ」宣言は、日本による「ポツダム」宣言の受諾と同時に同宣 言第8条により日本を厳然と拘束する文書になった。このように連合国の日本 領土処理に関する基本方針は日本領土を清日戦争以前の状態に還元しようとす るのが明白であり、1905年日本が韓国政府に外交顧問を派遣し財政顧問と警務 顧問まで派遣しておいて、島根県告示という一地方自治体の告示で編入したと される独島の取得は、まさに「暴力と強力による略取」であることが明白であ り、日本はまさにこのような地域から駆逐されなければならない。   また、独島は「SCAPIN」第677号により非隣接島嶼として隣接諸小島と は明白に区別され、1947年6月19日、日本に対する降伏後の基本政策により 日本の領土は隣接島嶼にだけ局限され、日本からの独島の分離はこれで確定し た。したがって対日平和条約に独島を日本に編入するという積極的な規定がな いかぎり、日本から分離が確定した地位には何らの変動もありえないのである。   このように独島の処理は「ボツダム」宣言から「日本の降伏後の基本政 策」にいたる一連の文書により統一的に理解されるべきであり、そのような用 意なしに「SCAPIN」第677号の第6項だけで全体を歪曲しようとする日本側 の態度は不当である。   特に留意すべき点は韓国は対日平和条約に先立ち、すでに1948年8月に独 立を達成して以来、独島の管理統治を回復し、そのような状態下で対日平和条 約当事国から正式承認をうけていたという事実である。この事実は独島が韓国 の領土であることを明白にしているものである。   独島は連合国最高司令官が管理する周辺小島でもなく、また韓国独立後、 合衆国の立法および司法権の行使に留保した地域でもなかった。さらに独島に 関して日本のいわゆる「残存主権」が設定されたこともないのである。 7.・・・(注)        --------------------   gintetu1963さん、この見解に日本はどのように反論したかわかりますか? (注)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求 第4巻』(韓国語)独島研究保全協会,   2001,P386   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮の松島(于山島)認識と扱い Yahoo!掲示板「竹島」#798 2003/ 1/20   半月城です。   hakkoda1297さんの質問には、以前、Lycos掲示板に書いた文を中心に回答 します。   朝鮮政府は『新増東国輿地勝覧』(1531)にみられるように、東海には欝陵 島と于山島の二島があると認識していました。そして朝鮮領の欝陵島は日本名 が磯竹島、あるいは竹島であるという認識が「竹島一件」交渉過程において日 朝双方で確立しました。   一方、松島(竹島=独島)のほうはどうでしょうか。松島の名が記された 朝鮮の文献は柳馨遠の「輿地志」(1656)が初出のようです。ただし、この本は 現存しません。それを引用した本に『疆界考』と『東国文献備考』「輿地考」 があります。『疆界考』も「輿地考」も申景濬が編纂しました。  『疆界考』(1756)は朝鮮歴代国家の領域を中心に記したもので、筆写本が高 麗大学図書館にあるようです。一方『東国文献備考』(1770)ですが、これは王 命により編纂された百科全書風の文献で文物や制度を解説したものでした。資 料価値が高い文献です。   この本も現存しませんが、これを増補、出版した『増補文献備考』(1908) は日本の国会図書館にもあります。その本で増補した部分が明確にされていま すが、「輿地志」于山島条は増補した部分には入っていません。したがって、 于山島を引用した部分は「輿地志」記述のままではないかと思われます。松島 はこう記されました。  「輿地志がいうには、欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいう ところの松島である(注1)」   この認識は「輿地志」(1656)の見方であると同時に、『増補文献備考』が 発刊された1908年当時の認識でもあるといえます。   次に松島が朝鮮の史料に登場したのは「竹島一件」のころでした。この時 期は前に書いたように、張漢相「蔚陵島事蹟」で東海にある二島の認識が確定 すると同時に、日本へ抗議のため渡航した安龍福の証言などもあって、実見者 による地理上の知識が豊富になった時期でした。   記録上の松島ですが、安龍福の証言をそのまま掲載する形で『粛宗実録』 に記され、粛宗22年9月戊寅条に「松島即子山島 此亦我國地」と書かれま した。なお、安の証言は基本的には手柄話なので、細部までそれをそっくり事 実とみなすわけにはいきません。内藤氏がいうように十分な検証が必要です (注2)。   それはさておき、隠岐の沖合には二島しかなく、その朝鮮名が欝陵島、于 山島、日本名が竹島、松島であり、しかも竹島が欝陵島ということになると于 山島は必然的に松島になります。   日本でも当然そのように理解されました。1696年、渡日した安龍福の船が 掲げた船験「朝欝兩島監税將 臣 安同知騎」の意味を鳥取藩ではこう理解しま した(注2)。< >内は小さな字で書かれていたことを示します。     「朝欝両島ハ欝陵島<日本ニテ是ヲ竹島ト称ス>子山島<日本ニテ松島ト呼 フ>是ナリ、其トキノ船長ヲ安同知ト呼フ」。   なお、当時の幕府は松島を認識していなかったので、幕府の理解は問題外 です。こうした事情が明治政府による竹島、松島放棄(1877)につながったこと はいうまでもありません。   朝鮮のほうでは、これ以後、松島=于山島という認識がすっかり定着した ようで、宋炳基氏はこう記しました。        --------------------  「東国文献備考」に続いて19世紀はじめ(1808・純祖8年頃)には王命に より『萬機要覧』が編纂された。そしてその軍政編4,海防東海条には『増補 文献備考』に載せられた「東国文献備考」蔚珍条の附録記事、すなわち欝陵 島・于山島の位置と沿革、欝陵島領有権紛糾、安龍福渡日事件等を加減無くそ のまま転載している。   これは、于山島は朝鮮領で日本側から呼ばれる松島というのは「東国文献 備考」の見解を『萬機要覧』でもそのまま継承使用していたことを意味してい るのである。『萬機要覧』は国王が座右に置いて参考にする目的で編纂された 政務指針書であった(注3)。        --------------------   結局「竹島一件」でいやおうなく対応を迫られた朝鮮政府は、それ以降、 朝鮮領の欝陵島は日本名の竹島、同じく朝鮮領の于山島は日本名の松島である と確信するようになったのでした。   RE:794, hakkoda1297さん >また、この事実をもって国際法的に韓国に領有権があるとするためには、李 氏朝鮮政府が松島(=竹島)の所在を認識するだけでなく、実効的な支配を及 ぼしたことが必要であると思うのですが、そのような事実はあったのでしょう か?   近代以前において、近代法の概念である「実効支配」を持ちだすのはいか がなものでしょうか? まず「実効支配」の定義すら困難ではないでしょう か? また「竹島日本領派」の法学者ですらそのような発言はしません。日本 政府の領土問題ブレーン?である芹田健太郎氏はこう記しました。        --------------------   日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっ ては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを 争わなければ、それで領有するには充分であった、と認められる、というもの である。        --------------------   これを朝鮮の于山島(竹島=独島)にあてはめるとどうでしょうか。竹島 一件から西欧への開国以前、朝鮮は松島すなわち于山島を我国の地と考え、正 史などでそう扱いました。さらに、松島(竹島=独島)をめぐって日本との間 にはまったく争いがなかったばかりか、日本でも松島・竹島は朝鮮領と考えて いたので、文句なしに朝鮮が領有していたということになるのではないでしょ うか。 (注1)『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条 「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注3)内藤浩之訳「宋炳基『朝鮮後期の欝陵島経営』」『北東アジア文化研   究』第10号、鳥取女子短期大学北東アジア文化総合研究所,1999 (注4)芹田健太郎『日本の領土』中公叢書,2002,P159   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『三国史記』における于山の記述 Yahoo!掲示板「竹島」#886 2003/ 1/26   半月城です。   江戸時代から明治政府による竹島=独島放棄までの事情がクリアになった ところで、同時期、朝鮮の認識がどうであったのかについてレビューしておき たいと思います。これはいうまでもなく「韓国の固有領土」説が妥当であるの かどうかにつながります。   かってライコス掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」で連載を始めたので すが、そこがライコスの都合で閉鎖になってしまい『粛宗実録』の直前で未完 になっていました。それを継続したいと思います。そのために、まずそこに書 いたレビューを紹介します。ただし、適宜修正して転載します。        --------------------  「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのように信じ られていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの「韓国 の固有領土」説を検証したいと思います。   その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する 場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同している かたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめ にはっきりさせておきたいと思います。   この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし 「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、欝陵島と于山 島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島で ある(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりまし た。これをあらためて書くと下記のようになります。  于山国=于山島(松島)+欝陵島   さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史 記』が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山 国はこう記述されました(注2)。        -------------------- 三国史記巻四 智證王  13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢 ぎ物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を欝陵島 という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたの みとして服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。か れは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させ られないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこ で)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、 偽って次のように言った。 「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」 (このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。        --------------------   tihiroさんによれば、欝陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるの で、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてた ようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。   この当時、于山国はまたの名を欝陵島とされましたが、于山国のなかに于 山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響 で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。   日本でも韓国でも欝陵島と竹島=独島を一対と考える傾向が強いので、そ れも無理からぬところがあります。   一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記 述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげな いことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するか たがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいもので す。 (注1)「輿地志云 欝陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)三国史記巻四 智證麻立干  十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州正東海島、或名 欝陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于 山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其國海岸、誑 告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降 (注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」   に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『高麗史』における于山の記述 Yahoo!掲示板「竹島」#887 2003/ 1/26   前回書いたように、新羅時代の認識は于山国=欝陵島であり、于山島の名 は登場しませんでした。この図式は初期の高麗にそのまま受けつがれました。 于山国について、高麗史は女真族との関連でこう記述しました。  「顕宗9年(1018)、于山国が東北の女真の侵略をうけ農業がすたれたので、 李元亀を派遣して農機具を下賜した(注1)」   初期の高麗にとって最大の敵は女真族でした。かれらが建国した契丹は、 高麗の盟邦である渤海を滅ぼしたうえ、しばしば高麗に侵入してきました。か れらは北方の国境地帯のみならず、欝陵島にまで侵入しました。遊牧騎馬民族 であるかれらが海を渡って欝陵島に侵略するとは意外です。   それはさておき、于山島の名前は高麗史にはじめて登場しました(注2)。        -------------------- 『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣  欝陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、 ときに羽陵ともいう。島は百里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。 (高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣わし、貢ぎ物を献 上した。  ・・・   一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清 明であれば望み見ることができる。        --------------------   于山島の名が一説の形で書かれたところをみると、当時、于山島の認識は 確固たるものではなかったようです。その于山島の比定ですが、一説の内容か らすると于山島は竹島=独島をさすものと思われます。   欝陵島の近辺でめぼしい島は、現在の韓国名で竹島と観音島しかありませ んが、それらは欝陵島からの距離がそれぞれ2km, 数十メートルと近く天気が 清明でなくても十分見えますので、これらは該当しないようです。そうなると、 残る島は竹島=独島しかありえないことになります。 (注1)『高麗史』巻四世家、顯宗九年十一月丙寅  以于山國 被東北女眞所寇 廢農業 遣李元龜 賜農器 (注2)『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣 欝陵島 在縣正東海中 新羅時稱于山國 一云武陵 一云羽陵 地方百里 智證王 十二年(ママ)來降 太祖十三年 其島人使白吉土豆 献方物 毅宗十一年 王聞 欝陵 地廣土肥 舊有州縣 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 柔立回奏云 島中有大山從山頂 向東行至海一萬余歩 向西行一萬三千余歩 向南行一萬五千余歩 向北八千余歩 有村落基址七所 有石佛鉄鍾石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寢其議 一云于山武陵本二島 相距不遠 風日清明 則可望見   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『太宗実録』と于山島 Yahoo!掲示板「竹島」#1058 2003/ 2/ 2   高麗末期、倭寇討伐などで英雄になった李成桂は 1392年、高麗王朝にか わり朝鮮王朝を建国しました。そのころになると倭寇の勢力もだいぶ弱まりま したが、消滅したわけではありませんでした。   それから11年後の1403年、3代目の太宗は倭寇を警戒、江原道観察使の 建議をいれ「武陵島居民」に島を出て本土に移るよう命令をだしました。武陵 島とは欝陵島をさします。   しかし、この命令はどこまで徹底したのか疑問でした。1412年、太宗は欝 陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二 名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、 その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました (注1)。流山(ユサン)国とは、新羅時代の于山(ウサン)国の名が転訛し たものです。   政府は、白加勿たちが武陵島に逃げ帰ることをおそれ、かれらを通州など に分けて居住させ、空島方針を堅持しました。1416年、空島方針は下記のよう に政策として決定されました(注2)。        -------------------- 『太宗実録』太宗16年9月庚寅條  金麟雨を武陵等處按撫使となす。戸曹参判 朴習は王にこう奏上した。  「かって臣が江原道の観察使だったときに聞いた話では、武陵島は周囲が7 息で、傍らに小島があります。その田は50余結で、入る道は人ひとりがやっ と通れるくらいで、ふたりが並ぶことはできません。昔、方之用という者が1 5家族を引率して入って住み、時には倭人を装って本土を侵したりしました。 その島を知る者が三陟にいますので、その者を派遣し調査させてください」  王は許可した。三陟人の前萬戸・金麟雨を呼び、武陵島のことを尋ねた。金 麟雨は「三陟人、李萬がかって武陵島に渡りその島をよく知っています」と述 べた。そこで李萬を呼んだ。金麟雨はまた奏上した。  「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わないので、軍役を避ける者や逃亡 者が島に入ることがあります。もし、この島に多くの人が入れば、ついには倭 寇がかならず入り、ひいては江原道を侵すでしょう」  王はうなずき、金麟雨を武陵等處按撫使に、李萬を伴人として、兵船二隻に 抄工二名、引海二名、それに火砲や火薬、食糧を与え、その島に渡り頭目を説 得し連れてくるよう命じ、金麟雨に衣服や帽子、靴などをたまわった。        --------------------   この段階ではまだ于山島の名前は登場しませんでした。この当時『高麗 史』はまだ発刊されておらず、欝陵島に関するかぎり当時存在した資料は『三 国史記』しかありませんでした。ちなみに『三国史記』の認識は「于山国は溟 州の真東の海上にある島国で、別名を欝陵島という」ものでした。   その一方で「傍らに小島があります」という実録の記述が注目されます。 これについては後にふれることにして、翌年の金麟雨の帰還記事をさきにみる ことにします(注3)。  『太宗実録』太宗17年2月條  「按撫使の金麟雨は于山島から帰った。おみやげに大竹、水牛の皮、からむ し、綿子、検樸木などを献納し、かつ三名を連れて来た。その島は戸数はおよ そ15家族、男女86人である。金麟雨は途中で二度も台風に遭い、やっと生 きて帰った」   これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。  <于山島は『太宗実録』では欝陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が 「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、 古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>   下條氏は、実録にある「傍らの小島」を于山島と決めつけていますが、こ れは憶測に過ぎず『太宗実録』にはそのような記述はありません。   つぎに下條氏は「島の入り口がわずかに一人を通じて並行すべからず」と 書かれている島を「傍らの小島」=于山島としていますが、これは誤読です。 文脈からして朴習の奏上は武陵島の説明に終始していることは明らかです。も し奏上で「その田は50余結」とされている島を「傍らの小島」にしてしまう と、本題である武陵島の説明が皆無になってしまうので、文脈上あきらかに無 理です。下條氏は相変わらず思いこみが激しいようです。   さて、実録の記事だけを客観的に整理すると下記のようになります。 1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる 1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。 2.また、武陵島の傍らに小島がある。 3.于山島から帰った武陵島等處 按撫使の金麟雨は3名を連れ帰った。その島  には15家族、86名が住んでいる。   ここで于山島に15家族が住んでいると書かれていることが注目されます。 その一方、武陵島に15家族、あるいは11家族が住んでいるとされているの で、どうやら于山島と武陵島は同じ島をさしているようです。   これは、太宗が武陵島の調査に派遣した金麟雨が武陵島ではなく于山島か ら帰ってきたと記述されているので、両島は同一の島をさしている可能性がま すます強くなります。本来なら金麟雨を武陵島に派遣したので、武陵島から帰 って来たと記述するのがあたりまえです。そう書かないのは于山島を于山国と 混同したか、あるいは武陵島と混同していた可能性が高くなります。   その一方で、于山島を「傍らの小島」と考えていた可能性も考えられます が、その場合はその小島に15家族も住んでいたかどうかの検証が別途必要に なります。   他方、ここで注目されるのは、江原道の観察使が武陵島の傍らに「小島」 があると認識していたことです。これは竹島=独島かもしれないし、あるいは 現在の竹嶼であるかもしれません。   要するにいろいろな可能性が考えられますが、『太宗実録』では流山国や 于山島、武陵島、「傍らの小島」相互の関係はあいまいなままです。1403年と いうと、日本では室町時代初期、足利義満の時代になりますが、当時は欝陵島 を記した地図もなかったようであり、離れ小島の認識があいまいなのも無理は ありません。   そうした初期のあいまいな資料だけをことさら取りあげて、今日の領有権 問題に直結する下條氏の手法ははなはだ疑問です。   太宗期のあいまいさも時代がくだるにつれ次第に認識が正確になり、竹島 一件により確定的になりますが、これについてはおいおい書くことにします。 (注1)『太宗実録』太宗12年4月己巳條 命議政府 議處流山國島人 江原道觀察使報云 流山國島人 白加勿等十二名 來泊高 城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十餘 今移居本島 是島 自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗・・・ (注2)『太宗実録』太宗16年9月庚寅條  以金麟雨爲武陵等處安撫使 戸曹參判朴習啓 臣嘗爲江原道觀察使 聞武陵島 周回七息 傍有小島 其田可五十餘結 所入之路 纔通一人 不可並行 昔有方之用 者 率十五家入居 或時假倭爲寇 知其島者 在三陟 請使之往見 上可之 乃召三 陟人 前萬戸金麟雨 問武陵島事 麟雨言 三陟人李萬 嘗往武陵而還 詳知其島之 事 即召李萬 麟雨又啓 武陵島遙在海中 人不相通 故避軍役者 或逃入焉 若此島 多接人則 倭終必入寇 因此而侵於江原道矣 上此然 以金麟雨爲武陵等處安撫使 以萬爲伴人 給兵舩二隻 抄工二名 引海二名 火[火甬]火藥及糧 往其島 諭其頭目人 以來 賜麟雨及萬衣笠靴 (注3)『太宗実録』太宗17年2月壬戌條 按撫使金麟雨還自于山島 獻土産大竹水牛皮生苧綿子檢樸木等物 且率居人三名 以來 其島戸凡十五口 男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颱風 僅得其生 (注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『世宗実録』と于山島 Yahoo!掲示板「竹島」#1067 2003/ 2/ 5   太宗時代に武陵(欝陵)島を空島にする方針が決定され、島民はしばしば 本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る人 は絶えなかったようでした。   太宗の三男で第四代国王の世宗は、先王の時に武陵島へ派遣された金麟雨 をふたたび按撫使に任命し、島民を連れ戻したことが『世宗実録』に記録され ました。時は1425年、日本では足利義量の時代です。 『世宗実録』世宗7年10月乙酉條(注1)   于山 武陵等處 按撫使、金麟雨が本島に役を避けた男女20人を捜索、捕 らえて復命した。最初、麟雨は兵船二隻で茂陵(ムルン)島に入ったが、船軍 46人を乗せた1隻はつむじ風にあい、行方不明になった。   王は諸卿に「麟雨は20余人を捕らえたが、40余人を失ったので、何の 益があろうか」と言った。   この島は別に特産物もなく、逃亡者の動機はもっぱら賦役を逃れようとす ることにある。礼曹参判・金自知は、今回捕らえた逃亡者を法律にしたがって 処罰するよう述べた。   王は「かれらは他国へ密航したのではない。また前にも赦したことがある ので処罰は適当でない」として、兵曹に命じてかれらを忠清道の奥深い山郡に 移し、ふたたび逃げ帰れないようにしたうえで3年間賦役を免除した。        --------------------   このとき遭難した乗組員は36人が死亡し、10人が日本の石見(いわ み)長浜に漂着し、のちに朝鮮に送り返されたと実録に記録されました。   さて、うえの記事で注目されるのは「于山 武陵等處 按撫使」という記述 です。「等」という字から于山と武陵は別々な存在、すなわちそれらは二島と して認識されていたことがわかります。   これは『世宗実録』に付属した地理志をみるともっと明瞭になります。こ の地理志は1432年に完成し、1454年に若干改定されましたが、そこに于山はこ う記述されました。  「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くな く、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。 一に欝陵島ともいう。その地の大きさは百里である」(注3)   この一節にみえる于山島を韓国側は現在の竹島=独島とみています。欝陵 島周辺で天候が清明なときだけ見える島というと欝陵島と竹島=独島の間、ま たは本土と欝陵島との間しかなく、本土から竹島=独島はみえませんので、文 脈からみて韓国側の解釈は妥当なところです。   しかし、これを何としても認めたがらない人がいます。下條教授です。前 回書いたように、同氏は太宗実録に関して<于山島は『太宗実録』では欝陵島 の傍らに有る小島とされ>などと事実無根を書いたり、また「傍らの小島」に ついても誤読をおかしました。   同氏は、ほかの資料でも韓国語の「形便」を「形状」と誤訳して珍説を展 開したりするなど、とかくきちんとした論証に欠ける人です。 http://www.han.org/a/half-moon/hm085.html#No.593   その下條氏がまたもや無理な解釈をしているようです。地理志の「二島相 去不遠 風日清明 則可望見」とある部分です。同氏は「風日清明」の前に恣意 的に「武陵島」を補い「武陵島は風日清明なれば、すなわち(陸地)から望み 見るべし」と読みました(注4)。   このように途中で恣意的に主語を変えて読むのも勝手ですが、そうすると 「風日清明 則可望見」の一節がその直前の「二島相去不遠」と切れてしまい 文章がうまくつながらず唐突で不自然です。無理な我田引水といわざるをえま せん。   話が横道にそれましたが、朝鮮王朝は空島政策を堅持すべく、またも武陵 島民を連れ戻したのですが、それもつかのまで十年も経つと島へ渡る人がまた 続出しました。そのうち、島は特産物が多く、土地は肥え、しかも逃亡者がい るとのうわさもあり、朝廷も放っておけず南薈、曺敏を茂陵島巡審敬差官とし て派遣し、島民を連れ戻したことが実録に記録されました。 『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條(注5)   護軍の南薈、司直の曺敏が茂陵等から帰り復命した。男女66人を捕らえ、 島で産出する砂鉄や鍾乳石、生アワビ、大竹などを進呈した。   いわく、船で発って島に一日一夜で到着した。暁に人家を襲ったが、反抗 する者はいなかった。皆本国人である。かれらがいうには、この地は肥沃で豊 饒と聞いて一年前の春に密航してきた。   その島は四面がみな石で雑木と竹が林をなしている。西海岸に一箇所碇泊 できるところがある。東西は一日くらい、南北は一日半ほどの距離である。   たまに空島政策は島の放棄であると誤解する人がいるようですが、これは もちろん版図の放棄ではありません。世宗の言葉にみられるように、放棄した 島は他国領ではなく自国領であり、また自国領であるから空島であれ政策をし くことが可能になります。他国領に空島「政策」をしくことは不可能です。 (注1)『世宗実録』世宗7(1425)年10月乙酉條  于山武陵等處安撫使金麟雨 搜捕本島避役男婦二十人 來復命 初麟雨領兵舩 二艘 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄風不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十 餘人 而失四十餘人 何益哉 此島別無異産 所以逃入者 專以窺免賦役 禮曹參判 金自知啓曰 今此捕還逃民 請論如律 上曰 此人非潛從他國 且赦前所犯 不可加 罪 仍命兵曹置于忠清道深遠山郡 使勿復逃 限三年復戸 (注2)『世宗実録』世宗18(1436)年閏6月甲申條  江原道監司柳季聞啓 武陵島牛山 土沃多産 東西南北各五十餘里 沿海四面 石壁周回 又有可泊船隻之處 請募民實之 仍置萬戸守令 實爲久長之策 不允 (注3)『世宗実録地理志』江原道蔚珍縣條(1454)  于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于 山國 一云欝陵島 地方百里 (注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5 (注5)『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條  護軍南薈 司直曺敏 回自茂陵島復命 進所捕男婦共六十六及産出沙鐵石鍾乳生 鮑大竹等物 仍啓曰 發船一日一夜乃至 日未明 掩襲人家 無有拒者 皆本國人也 自言聞此地沃饒 年前春 潛逃而來 其島四面皆石 雑木與竹成林 西面一處可泊 舟楫 東西一日程 南北一日半程   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『世宗実録 地理志』と于山島 Yahoo!掲示板「竹島」#1069 2003/ 2/ 5   今回は、竹島=独島領有問題の重要文献である『世宗実録地理志』の成り 立ちなどを補足することにします。この地理志は世宗6(1424)年に編纂が開始 されましたが、二段階で制作されたことが序文から読みとれます。 1.東国の地理志は三国史に簡単に記されているのみで、他にこれといった文   献がない。 2.そのため世宗大王は尹維、申檣たちに州郡沿革を考察させ、この本を編纂   させた。時は世宗14(1432)年となった。 3.その後、行政区域の変動があった。 4.とくに北方の両界地域の新設された州鎮などであるが、それらを該当する   道の末尾に変動事項として追加した。   1432年に完成した原本は『新撰八道地理志』とよばれていますが、こ れは現在『慶尚道地理志』以外は現存しません。   地理志の編纂ですが、王命をうけた戸曹と礼曹は記述に統一性をもたせる ため一定の規式を地方官庁に提示し、その回答を編纂する形式で制作されまし た。   規式は12項目からなりますが、島に関係する部分を見ると「諸島の陸地 を去る水路の息数(距離)および前に入民、接居の事実と農作の有無」と書か れています(注1)。しかし、于山島はこれに反して簡単にこう記述されまし た。 『世宗実録地理志』江原道蔚珍県  「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くな く、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。 一に欝陵島ともいう。その地の大きさは百里である」   規式にしたがえば、于山島や武陵島は蔚珍県からどれくらい離れているか をまず記述すべきですが、そうしなかったのは両島が遠すぎて、実際の距離が よくわからなかったためと思われます。   この規式をたてに下條氏は「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」中の「二島相去不遠」を「二島が近くにある事実を示し た」にすぎないと解釈しました(注2)。   しかし同氏は、二島がどこの近くにあるのかは明記しませんでした。同氏 は規式をたてにしているので、おそらく二島は陸地から遠くないと解釈してい るものと思われます。   しかしながらこれは無理です。文中に「相」の字が挿入されているので、 遠くないのは二島間の関係であり「二島はお互いに相去ること遠くなく」とし か読むことができません。もし二島が陸地から遠くないと書くなら、「相」を 落として単に「二島去不遠」で十分です。   一方、もし下條氏が「二島相去不遠」を「二島はお互いに相去ること遠く なく」と解釈しているのなら、つぎにつづく「風日清明 則可望見」の主語は とうぜん二島ということになり、欝陵、于山島はおたがいに天候がいいときだ け望み見ることができるという解釈になります。   それが前回書いたように、誤読の多い同氏はこれを否定して、主語を恣意 的に欝陵島(蔚陵島)にしてしまい<陸地の蔚珍縣から鬱陵島は望み見える 「距離」にある、と解釈せねばならない>と主張しました(注2)。   しかし、なぜ主語が二島のうち欝陵島(蔚陵島)一島だけなのでしょう か? 同氏の「規式」解釈からすれば、主語は于山島かもしれないし、あるい はむしろ于山島、蔚陵島の二島を主語にするほうが理にかなっています。それ にもかかわらず、于山島を抜きにして主語を蔚陵島のみと断定する根拠は文脈 上なにもありません。   これは、陸地から欝陵島は見えても竹島=独島は見えないので、同氏にと って、主語は蔚陵島単独にしないと具合が悪いためかもしれません。したがっ て、我田引水でも何でも主語を蔚陵島とするしかないようです。何とも浅まし い姿です。   さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完 成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。そのため改訂作 業はたえず継続する必要があります。  『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠 之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しまし た。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらは もちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につなが りました。 (注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シンギュ文化社,2001 (注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『成宗実録』と三峰島 Yahoo!掲示板「竹島」#1078 2003/ 2/ 8   半月城です。朝鮮史料シリーズをつづけます。   1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたよ うで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成 させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、 成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて 退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。   成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの 「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りまし た。   朝廷は三峰島を蔚陵島(欝陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬 差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のう ち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見 つけたものの、居住民を発見できませんでした。   その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考える ようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年 に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派 遣しました。   1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を 望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これら の記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。   しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわし い調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、 さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周 たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録に こう記録されました。 『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)   25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次 に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島があ る。みな海水が通じて流れている。   また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさの ため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。   島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知るこ とができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川 上健三氏はこう記しました(注4)。        --------------------   高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今 の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に 三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいった ものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島 の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむし ろ欝陵島に比定する方が、一層自然である。   すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、 西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の 竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩 礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。   金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石など の付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比 定することは適当でない。   さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立し ているという光景である。これは、欝陵島北端近くの三本立の奇勝を指してい ると考える方が、より適切である。   三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あた かも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているか らである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、 一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。        --------------------  「三石列立」と表現された景観は、欝陵島がふさわしいのか、竹島=独島が ふさわしいのかは、両島を見比べてみないと何ともいえないところです。しか し、そのほかの描写からして問題の島を欝陵島とするのは種々の点で無理では ないかと思われます。   まず、金自周が欝陵島を描写するとしたら、北海岸の大巌柱付近しか説明 しないのはあまりにも不自然で考えにくいところです。その一方で、周囲が数 十kmもある大きな島を説明するのに、小さな「巌石(がんせき)」まで取りあ げるのは不自然といわざるをえません。   これは、金自周たちが描いた島はそのような大きな島ではなく、小さな島 を描写したので小さな巌石まで記述したとみるのが自然なようです。また「海 水が通じて流れている」という表現も竹島=独島のほうがより真に迫っている こともたしかです。   一方、川上氏は竹島=独島で最大の島を「中島とするのはあたらない」と 書いていますが、その島が最大であるのなら、私にはさして不自然な表現には 思えません。むしろ、川上説にしたがえば、欝陵島本島が「中島」、観音崎や 一本立島が「小島」、孔岩が「巌石」に相当することになりますが、そうなる と「中島」は小島とは比較にならないくらい巨大でありすぎて、中島という表 現自体が成り立たず、川上説はもっと「あたらない」ことになります。   また川上氏は、小島の「観音崎」を大巌柱の付近としていますが、10万 分の1の地図でそのあたりには小島は見当たりません。わずかに孔岩という岩 があるのみです。   一方、島の東なら至近距離に観音島がありますが、この小島は欝陵島の西 側からはもちろんみえません。金自周は船を島の西に碇泊して観察しているの で、たとえ方向を多少変えたところで観音島は本島に重なり、その間に海水が 通じて流れていると認識することは不可能に思われます。   さらに、もし金自周たちがたどりついた島が三峰(欝陵)島なら、同島に 二度も行ったことのある金漢京たちが気がつかないはずはありません。とくに、 この島には「海から顕著な目標」になっているほどの3本の大巌柱があるとの ことなので見逃すはずはないと考えられます。それにもかかわらず、実録に目 的とする三峰島に行ったとの記述がないのは、やはり金自周は同島でなくほか の島を見たためと思われます。   以上のように川上氏の反論は根拠が薄弱なようです。やはり金自周がみた 島は今日の竹島=独島と見るべきと思われます。   余談ですが、川上氏は外務省の調査官として竹島=独島を日本領とすべく 竹島=独島の史料を調査研究し前掲の著書を出版しましたが、そのなかでなぜ か明治政府が竹島、松島を放棄した重要な太政官指令だけはまったくふれませ んでした(注4)。それを公表すると日本に不利になるので、故意に資料隠し をしたのではないかと疑われます。そうした著書であるだけに読むときは細心 の注意が必要です。 (注1)朴永圭『朝鮮王朝実録』新潮社、1997 (注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條 下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月 漂泊三峯島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許 望見阻風 竟不得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壯健可信人三人 同漢京等入送捜覓 (注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條 兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峯島尋覓事 遣自周及宋永老 與前 日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚舩五隻入送 去九月一六日 於 鏡城地瓮仇未 發舩向島 同日到宿富寧地青巌 十七日 到宿會寧地加麟串 十八 日到宿慶源地末應大 二十五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人 形 別立者三十 因疑惧 不得直到 畫島形而来 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發 舩遭風 不至而還 今漢京等 發舩於鏡城瓮仇未 再由此路出入 至畫島形而來 今 若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之 (注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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