筑紫の筥崎(はこざき)八幡宮
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2002年6月22日
筥崎宮の社宝になっている「敵国降伏」の書ですが、明秀さんご推測のと
おり元寇のときのものです。筥崎宮は最初の蒙古襲来のとき焼失しましたが、
書は再建時に亀山上皇が紺紙に金泥で書いたものとされています。敵国とはも
ちろん、侵略者である蒙古および傭兵の高麗をさします。未曾有の国難に対処
するには精神面の武装も不可欠だったことでしょう。
その後、筥崎宮は3度焼失し、現在の社殿は室町時代に大内義隆が再建し
ました。大内氏は朝鮮や明と交易して富を築きましたが、大内氏は百済出身を
自任しているくらい朝鮮半島と縁が深く『日本歴史大事典』にもこう書かれま
した(注1)。
『系図に推古天皇19年、百済聖明王の第三子琳聖(りんしょう)太子が周
防国(山口県)多々良浜に着岸し、その子孫が同国大内村に住んだので、姓を
多々良、氏を大内と称したとある。
16代盛房が周防権介に任じてから代々これを世襲し、24代弘世は初め
て山口に住んだ。爾来英主がつづいて出て、盛んに明や朝鮮と交易し、産業を
興し、学術工芸を奨励した」
琳聖太子が着岸した多々良浜の地名ですが、これは古代製鉄の「たたら」
を連想させます。平凡社の『世界大百科事典』は「鉄製錬技術をもち半島から
帰化した氏族であろう」と記しましたが、技術者集団だったと思われます。
大内氏が再建した筥崎宮ですが、またの名を筥崎八幡宮と称し、宇佐、石
清水(いわしみず、京都)とともに三大八幡宮にかぞえられます。筥崎宮は総
本山である宇佐の託宣により創建されました。
宇佐八幡宮の成り立ちですが、八幡宮は下記のように韓国(からくに)の
新羅から韓神(からかみ)が渡来して日本の神になったと考えられます。
「新羅の国の神、みずからわたり来たりて、この河原に住みき。すなわち、
名づけて鹿春の神という」(豊前国風土記逸文)
「辛国(からくに)の城(き)に、始めて八流の幡(はた)を天降して、我
は日本の神となれり」(宇佐託宣集)
<ナゾの秦王国と宇佐八幡宮>
詳細は上記「ナゾの秦王国と宇佐八幡宮」に書きましたが「辛国の城」は
神武天皇ともかかわりがあり『宇佐託宣集』によれば、神武は「辛国の城」出
身とされるようです。
江上波夫氏などは、神話で九州から東征し奈良で初代の天皇に即位したと
される神武を、九州生まれとされる応神天皇に結びつけていますが、応神やそ
の母親とされる神功皇后の伝説は筑紫にも多く残りました。宇佐八幡宮や筥崎
八幡宮は両者をともに祭神にしています。さらに筥崎宮は下記のような伝説を
もちます。
「その昔、神功皇后三韓征伐の後凱旋せられ、筑紫野蚊田の里(現在の福岡
県粕屋郡宇美町)で応神天皇を出産され、その御胞衣を筥(はこ)に容れ白砂
青松のこの地に納められ、その上に標(しるし)として松を植えられ、やがて
地名を筥崎と改められた」(注2)
神功皇后は『日本書紀』の編者が邪馬台国の女王卑弥呼の年代にあわせて
無理に記述したものとされていますが、いまではさすがに「三韓征伐」を信じ
る学者はひとりもいないようで、神功皇后を架空視する人が多いようです。
一方、応神天皇は征服王朝説とからんで、その実在がひろく信じられてい
るようです。韓国(からくに)からの先進文明を武器に、九州から征服王朝を
打ち立てたというストーリーは私もありうるかもしれないと考えています。
(注1)金達寿『日本の中の朝鮮文化10』講談社文庫,1993
(注2)『日本「神社」総覧』新人物往来社,1996
韓国の前方後円墳、倭韓交渉1
Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」
2002/ 8/15 メッセージ: 5487 / 5489
半月城です。
継体天皇の出自が話題になっているようなので、これに関連して「韓国の
前方後円墳シリーズ」をつづけることにします。今回、紹介するのは韓国、慶
北大学の朴天秀助教授が書かれた倭韓交渉に関する論文です。
全体の構成は下記のとおりですが、これを全文紹介するわけにはいかない
ので最後の一節のみにとどめます(注1)。
「三国・古墳時代における韓・日交渉」
一.本稿の目的
二.3世紀ー4世紀における韓日間の文物交流
三.5世紀における韓日間の文物交流
四、6世紀における韓日間の文物交流
五、古代の韓半島と日本列島の相互作用
(1)文物交流からみた金官伽耶と河内政権
(2)対倭交渉からみた大伽耶圏の成立前後の伽耶勢力の動向
(3)6世紀における百済、栄山江流域と倭の政治的動向
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(3)6世紀における百済、栄山江流域と倭の政治的動向
475年百済は高句麗の攻撃を受けて王都漢城が陥落し、蓋鹵王が殺される
危機に直面する。その後、百済は遷都後の混乱を克服し、領域拡張のために栄
山江流域に進出することになる。また、百済は、南方進出と同時に東南方の伽
耶地域に対する攻略を本格化する。
ところで、百済が栄山江流域と伽耶地域に本格的に進出する6世紀前半台
になると、従来の伽耶系文物の波が弱くなり、百済系文物が本格的に(倭へ)
渡来することが注目される。たとえば、熊本県江田船山古墳の副葬品は2時期
に分かれていることが指摘されてきた(注2)が、その前半期のものは本稿で
考察したとおり大伽耶系であり、その後半期の冠、耳飾、飾履などは百済系で
ある(注3、図10)。
また、群馬県綿貫観音山古墳の副葬品においても、前半期の突起付冑と環
頭大刀は大加耶系であるが、その後半期の金属容器などは百済系である。観音
山古墳出土の薄肉獣帯鏡は武寧王陵出土品と同型鏡(樋口1972)であり、武寧
王陵の木棺は、高野槇で製作された可能性が高いもの(朴相珍・姜愛慶1991)
である。
この時期に加耶と倭の交易関係に何らかの変動が起こったと考えられる。
500年を前後に渡来系の文物の舶載地が大伽耶から百済に転換し、倭系文物
が洛東江流域から百済と関係が深い栄山江流域へと交代するように集中するよ
うになる。
この時期こそ、先史時代以来の伝統的な伽耶地域と倭の日常交易を乗り越
えて、4世紀後半倭との交渉をはじめた百済が、対倭交易の主導権を握ること
になるのである。
この時期の情況は和歌山県隅田八幡宮に伝えられている人物画像鏡にもあ
らわれている。この人物画像鏡の斯麻という人名は、武寧王陵出土誌石にみる
「寧東大将軍百済斯麻王」と一致するものであり、その銘文のなかには即位前
の継体の名が登場している。
この鏡の製作時期を表す癸未年に比定されており、癸未年は東城王が廃さ
れ、武寧王が即位した502年の翌年にあたる。このように八幡神社鏡の銘文
はこの時期の前後における百済と継体朝との密接な外交関係を示すものである
(注4)
その後、すなわち継体7年(513年『日本書紀』以降、百済は諸博士を
頻繁に倭に派遣している。その当時百済は蟾津江水系における大伽耶の対倭交
易路上の結節点に位置する己モン(南原)地域とその交易路である帯沙(河
東)地域の領有をめぐって大伽耶と戦っており、倭への博士派遣はそのような
状況における百済の外交戦略下で行われたと考えられる。
この時期に百済からの諸博士と文物は、これまでの伽耶地域からの生産工
人と文物とは異なって仏教という高等宗教と関連していたものであり、その当
時の倭王権が望んでいた国家整備に必要不可欠のものであった(注4)。
このような百済と倭の本格的な交易は、継体朝になって始まっており、ま
た継体朝出現の背景には百済との活発な交渉となんらかの関わりが求められる。
さて、継体一族は近江に本拠地を置き、琵琶湖の湖上交通と敦賀を支配す
ることによって広域の交易ルートを掌握して富を蓄積し、それを母体とした継
体は交易を媒介とし、近畿北部から越前、尾張へかけての豪族の連合を背景に
前代の河内王朝を打倒して王位を簒奪したといわれている(岡田1972)。
若狭湾周辺の渡来系文物は主に若狭街道と琵琶湖岸の交通路上に集中する
傾向が認められる(注5)。またこれらの渡来系の文物は主に若狭街道と河内
地域の間に空白地帯が存在することからその輸入ルートは瀬戸内海をとおして
畿内を経由したのではなく若狭湾周辺をとおして独自的に導入した可能性がき
わめて高い。
さらに注目されるのは、鴨稲荷山古墳と十善の森古墳などでみるように6
世紀前半代以降この地域に百済系の文物が集中し、滋賀県に百済系の大壁住居
が集中することである。このように継体一族は近江に本拠地を置き、以前から
若狭湾を通じて韓半島との交易をふくめた交渉を行ってきたが、やがて6世紀
前葉になって百済との交渉を主導することによって王権を掌握したと想定され
る。
(注1)朴天秀「三国・古墳時代における韓・日交渉」『渡来文化の波』和歌
山市立博物館、2001
(注2)穴沢・馬目「船山古墳出土品の年代と系譜」『日本のなかの朝鮮文
化』32,朝鮮文化社1976
(注3)朴天秀「大伽耶圏墳墓の編年」『韓国考古学報』39,韓国考古学会
(韓国語)1998
(注4)山尾幸久『古代の日朝関係』塙書房、1989
(注5)古墳時代の若狭湾周辺を通した韓半島との交渉をあらわす遺跡は以下
のとおりである。
若狭湾の西側に位置する京都府弥栄町奈具丘1号墳は全長60mの前方後
円墳で、第1主体部の周辺から昌原周辺地域と考えられる陶質土器、初期須恵
器が出土した。
北川北岸の尾根上に立地し、若狭街道上に近江への要路を見下ろす所に位
置する前方後円墳である福井県向山1号墳では、大伽耶様式の兵庫鎖と中空飾
の組み合わせた長形式の金製垂飾付耳飾が出土した。
そして、若狭街道上に位置する前方後円墳である福井県西塚古墳でも同じ
系譜の金製垂飾付耳飾と龍文のカ板をもち鈴を垂下した帯金具が出土した。福
井平野の松岡丘陵に位置する二本松古墳からは、高霊池山洞32号墳出土の金
銅製冠にその系譜が求められる二つの冠が出土した。
若狭湾上に位置する十善の森古墳は全長67mの前方後円墳で、横穴式石
室から百済地域の益山笠店里1号墳出土品の系譜につながる金銅製の冠と大伽
耶圏にその系譜が求められる鈴付鏡板轡と鈴付剣菱型杏葉が出土し、とくに最
近確認された鈴付剣菱型杏葉は高霊池山洞44号墳出土品ときわめて類似する
ものである。
琵琶湖東岸の楽浪路上に位置する全長60mの前方後円墳である鴨稲荷山
古墳からは、百済地域の益山笠店里1号墳出土冠の系譜をひく金銅製の冠(毛
利光1995)、百済系耳飾、鞜、鏡板轡、環頭大刀などが出土した。
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(つづく)
韓国の前方後円墳、倭韓交渉2
Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」
2002/ 8/15 メッセージ: 5514
さて、百済が栄山江流域と大伽耶圏に対する攻略を本格化していた、この
時期百済地域の南方に位置する栄山江流域において前方後円墳が造営されるこ
とになるのが注目される(注6)。
ところで、栄山江流域をふくめた全南地域の前方後円墳は6世紀前半のほ
ぼ1世代に限定された時期に築造されており、またそれらがまとまって中心勢
力化されたのではなく、一つの盆地に月桂洞古墳の例以外には基本的に1基ず
つ分散して分布しているのが特徴である(図11)。したがって、全南地域の
前方後円墳は、4世紀以降、韓半島の南部を支配していたとする、いわゆる
「任那日本府」説とはなんの関わりも想定できない産物である。
しかし、栄山江流域における前方後円墳の被葬者は墳丘、石室、埴輪祭祀、
倭系の副葬品から倭人の可能性が高い。ところが、前方後円墳である新徳古墳
では銀張鉄釘が使われた装飾木棺、金層ガラス玉と雁木玉をはじめ非常に装飾
性が高い頸飾、冠飾など百済系文物の出土が目立ち興味深い。
すなわち、金層ガラス玉、雁木玉など頸飾は武寧王陵から出土しており、
装飾木棺は百済地域で使われたものである。したがって、これらは百済中央と
の関係なしには入手することができないものであり、装飾木棺をふくめたこれ
らの文物は、間違いなく百済王室からの下賜品と判断される。
また、光州の明花洞の前方後円墳では蕨状の装飾がついた百済系の筒型器
台が出土したことが、この器台は首長墓における埋葬葬礼に使われており、首
長同士の関係をあらわす祭器であることを考えると、百済首長層とのなんらか
の関わりが想定される。
したがって、新徳古墳と明花洞古墳の被葬者と百済王権とのなんらかの関
係が想定でき、いまだ発掘調査されていない前方後円墳の被葬者においてもそ
のような関係が推定できる。
ところで、彼らの出自が九州地域である可能性の高いのが興味深い。すな
わち、前方後円墳の被葬者であるこれらの倭人は石室の系統から九州地域から
渡来した人物である可能性が指摘されてきており、このことは最近宜寧地域の
雲谷里第1号墳と景山里1号墳、および固城地域の松鶴洞1号墳の横穴式石室
も九州地域の石室の系統をひくものと判断され、その可能性が一層高くなった。
ここで注目されるのは、479年『日本書紀』雄略23年、三斤王が死去
したとき、東城王を護衛して帰国した軍士500人が筑紫国の出身である記録
と考古学資料の内容が符合する事実である。
彼らはこの地域における前方後円墳の造営時期が520年前後から550
年前後までであることから、470年代前後における百済に渡った九州の首長
が帰国せず、新徳古墳の被葬者(の)ように百済王権に仕えてから、栄山江流
域で埋葬されたと推定される。
したがって、栄山江流域における前方後円墳の被葬者を含めた倭系の百済
関連人物は、すでに指摘(朱1999)されているように、この地域における土着
勢力を牽制するため百済中央から派遣された人物と推定される。
このことは副葬品のみでなく、前方後円墳の分布のありかたからも、その
被葬者が栄山江流域の土着勢力を牽制するためにその流域をふくめた全南地域
に配置された倭系の百済関連人物である可能性が指摘できる。
全南地域の前方後円墳はまとまりをもたず、栄山江流域の最大の土着勢力
の拠点である羅州潘南地域を外郭から包囲するように配置されている。すなわ
ち、羅州潘南地域を囲むように北方の光州地域、南方の霊岩地域、西北方の咸
平地域に分布しているのである。
とくに、前方後円墳が栄山江流域の外郭である霊光地域と海南地域に配置
されていることは注目される。その理由は、霊光地域の前方後円墳であるウォ
ルゲ古墳は山脈をこえて百済の影響力がより強い、栄山江水域から離れた北方
に位置しているためであり、また海南地域の前方後円墳である方山里と龍頭里
古墳は栄山江流域と伽耶地域を結ぶ南海上の交通の要衝に立地しているためで
ある。
このように栄山江流域をふくめた全南地域に倭系の百済関連人物が派遣さ
れたのは、福岡県西新町遺跡における栄山江流域産の土器の存在が象徴するよ
うに、すくなくとも4世紀初頭以降、交通の要衝に位置したその地域と倭が交
渉しており、百済地域より伝統的に倭と密接な関係にあったためと考えられる。
さて、栄山江流域では百済系と倭系のみでなく明花洞古墳の蓋、造山古墳
のf字型鏡板轡と剣菱型杏葉、伏岩里3号墳の96年発掘石室の心葉型の鏡板
轡と杏葉、新徳古墳の伏鉢付冑のような大伽耶系と判断される文物が出土して
注目される。
このようなことは栄山江流域における倭系の百済関連勢力は雲谷里1号墳、
景山里1号墳、松鶴洞古墳の被葬者のように伽耶地域で活動していた倭人と関
わっていた可能性が指摘できる。
すなわち、彼らは栄山江流域のみでなく、6世紀前半百済と大伽耶が、倭
との交易と領土をめぐり、錦江上流域と蟾津江中上流域の己モン(注7)地域
と蟾津江の下流域の港であるが帯沙(注8)を領有する戦いをおこなっていた
際、百済の対大伽耶交渉にも従事していた可能性が指摘される。
栄山江流域における前方後円墳は百済の538年泗ヒ遷都によるその地域
の直接支配と6世紀前半における己モンと帯沙の領有のような百済の対大伽耶
攻略が一段落する情況のなかで消滅するようになる。
(注6)原文注
百済と栄山江流域との関係は、5世紀4/4半期に編年される百済の威信
財を保有した新村里9号墳、大安里9号墳の被葬者が活動した時期である5世
紀中・後半頃に、在地の首長を通した関係が形成されていたと推定される。
また百済が考古資料のみでなく、この地域を完全に領域化していないこと
は百済による512年のいわゆる任那四県割譲要請からも傍証できる。
これは百済が栄山江流域から蟾津江流域の求礼に相当する四県領有の承認、
ないし支持を同盟関係の倭に求めることである。この記事はその後、513年
百済己モン・帯沙の領有を倭に要請する記事と類似するもので注目される。
すなわち、513年の記事は考古学資料でみると、本来大伽耶領域であっ
た蟾津江、錦江上流域の南原、長水地域と蟾津江河口の河東を百済が領域化す
ることを示す。
これを参考にすると512年の記事は本来百済に領域化されなかった栄山
江流域と蟾津江流域の領有をあらわすことと判断される。したがって、この記
事は百済がこの地域を6世紀第1/4分期になってからこそ、領域化を達成し
たことを示すであろう。
(注7)モンは、サンズイに文
(注8)原文は多沙であるが、これは翻訳ミスで帯沙が正しいと思われる。以
下同様。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
ロスのコリアタウン焼き討ち十周年
メーリングリスト[zainichi:22489]
2002.6.28
半月城です。ロスのコリアタウンについて質問された学生さんは、プレゼ
ンが来週だそうですが、彼女からつぎのようなお礼のメールをいただきました。
「あせっていましたが、半月城さんとZAINICHIに参加されてるみな
さんのおかげで、LAのコリアタウンについてもちゃんと発表できそうです!」
皆さんのメールは私にも勉強になりました。これを機に、10年前のコリ
アタウン焼き討ち事件を読んでみると、いかに私のとらえかたがいい加減だっ
たかがわかりました。
私のあやふやな理解は、あの事件では韓国人だけが犠牲になったというも
のでしたが、実情はかなりちがうようです。公表された犠牲者数でいうと韓国
人は1人なのに対し、黒人は25人、ヒスパニックは19人でした(注)。
焼き討ちは、黒人対韓国人という単純な図式ではなく、ヒスパニックがか
なりかんだ事件だったようです。逮捕者でいうと、むしろヒスパニックのほう
が多かったくらいで、かれらラティーノも略奪や破壊に多く加わったようでし
た。かれらとコリアンとの接点を野村氏はこう記しました(注)。
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コリアンと他の民族との関係で、最も密接にして日常的な関係は、コリア
ンの商店主とヒスパニックの従業員という組み合わせである。ヒスパニックよ
り概して高賃金で権利意識も高い黒人がコリアンの商店に雇われていることは、
滅多にない。
そして身も蓋もない言い方をすれば、コリアン商店主はヒスパニック従業
員を低賃金でこき使い、陰では「ケーセッキ」(犬畜生の子)などと蔑んで、
同列の人間とはみなさない。
ときに店の品物をヒスパニック従業員がくすねたりすると、「この恩知ら
ずが!」と即座にクビを切ってしまう。ヒスパニックのほうも、とりわけ暴動
以降、自分たちが「泥棒」呼ばわりされていることに気づいてはいるものの、
ほかに職がないからコリアンの下で働かざるをえない。怒りは屈折し内向する。
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この説明でヒスパニックがからんだ理由が半分わかった気がするのですが、
そうなると黒人対コリアンとの関係がぼやけてきます。その一端を、あるヒス
パニックのつぎの発言にみることができるでしょうか。
「国に帰らない理由? 帰ったって仕事がないんだよ。アメリカにいるほう
がみじめじゃないかって? ああ、そのとおり俺たちはみじめさ。でもな、あ
のネグロ(黒人)の連中よりはましだぜ」(注)
みじめな生活をおくっているヒスパニックが、より生活水準が高いはずの
黒人よりマシだと自覚しているなんて意外です。このエピソードは私の昔の体
験を思い出させます。
ある在日朝鮮人の教授が、学生時代の在日コリアンに対する就職差別を
「就職口がなく、冗談ではなく暴力団員か学者になるしかなかった」と『ニ
ューズウィーク』誌に語りましたが、その当時をほうふつとさせます。
<天皇「ゆかり」発言>
当時の私たち永住外国人の多くは、日本の社会で差別されて当たり前、就
職口がなくて当たり前となかばあきらめていました。しかし、同じ日本人であ
る沖縄やアイヌ出身者、なかんずく部落出身者の場合はどうでしょうか。差別
されて「当たり前」とあきらめられるでしょうか。また、あきらめて一体どこ
へ行けるでしょうか? 多くの場合、塞がれた道に「怒りは屈折し内向」する
ことでしょう。
ロサンゼルスで英語を話せないニューカマーのヒスパニックに対し、英語
しか話せない黒人はアメリカ人という自覚以外にアイデンティティのもちよう
がありません。そのかれらがアメリカ社会で差別され、行き場のない姿をまの
あたりにして、ヒスパニックは「ネグロよりまし」とみずからを慰めているの
ではないでしょうか。
ま、黒人がヒスパニックに憐れまれるような存在かどうかは別にしても、
かれらの多くは「怒りは屈折し内向」することでしょう。それがときに爆発す
ると暴動につながります。65年に空前の暴動が起きました。
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移民法が改正された65年は、アメリカの黒人にとって悲劇的な年となっ
た。黒人ゲットーの出身で、貧困階層の黒人から圧倒的な支持を集めていた黒
人解放運動指導者のマルコムXが暗殺され、黒人と白人とのいざこざが頻発す
る中、ロサンゼルスのワッツ地区で起きた黒人青年と白人警官との衝突は、ア
メリカ史上空前の大暴動に発展する。
この「ワッツ暴動」で焼き討ちと略奪に遭い、最も被害をこうむったのは、
サウス・セントラルなどの黒人居住区で商売していたユダヤ人やイタリア人た
ちだった。暴動後、彼らはこの地に見切りをつけ、郊外や別の街に移っていっ
た。
こうして生じた小売業の空白地帯に、韓国人移民が吸い寄せられる。潮が
引くように、かってのミドル・マイノリティ(ユダヤ人やイタリア人)は去っ
ていき、その分韓国人の波が押し寄せて、街は急速にハングルで塗りつぶされ
た。
競争相手の少なさ、家賃や地代の安さ、手っとり早く日銭のはいる商売、
いずれも彼らには魅力的な条件に映った。それが危険と裏腹であることに彼ら
はやがて気がつくのだが、その危険の背後にはどれほど根深いアメリカ社会の
病巣が広がっているかには無頓着だった。
このような職業選択の過程は在日と重なり合うところがあるものの、その
大きな促進要因となった民族差別の度合には、戦後のアメリカと戦前の日本と
では雲泥の差があった(注)。
--------------------
かっての黒人暴動の地にコリアタウンが形成され、新たなミドル・マイノ
リティが育ち、歴史は繰り返すのか、その街がまた黒人の鬱憤のはけ口がわり
に焼き討ちにされた、こんな見方も一面の真実かもしれません。
(注)野村進『コリアン世界の旅』講談社、1996
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
綺羅星、呂運享1
メーリングリスト[zainichi:22933]
2002.8.15
呂運亨のご子女が北朝鮮の高官として活躍しているとは意外でした。
RE:[zainichi:22922]
>特に北朝鮮側からは、呂鴛九(ヨ・ウォング)最高人民会
議副議長が父親である呂運亨(ヨ・ウンヒョン)建国準備委
員長のソウル牛耳洞(ウイドン)墓地に参拝させて欲しいと
要請してきたが、政府は北朝鮮側関係者の身辺安全のため、
これを許可しないことにした。
今、ちょうど『呂運享 評伝』を読んでいるところですが、この人はとてつもな
く懐の深い人物だったようです。きょうは光復節なので、それにちなんで呂運享にす
こしふれてみたいと思います。
著者の姜徳相氏は、呂の人となりをこう記しました(注)。
「あの困難な植民地時代の政治家として、孫文、レーニン、ホーチミン、汪精衛、
原敬、宇垣一成、近衛文麿、大川周明など周辺諸国の指導者と昵懇(じっこん)で互
いに率直な意見の交換をなしえた人物はこの人しかいない。換言すれば綺羅星のよう
な独立運動家の群像の中で一等星、それが呂運享であると思えるようになった」
姜氏はさりげなく「率直な意見の交換」と書いていますが、上記のなかで帝国主
義を支える日本人と独立運動家が「意見の交換」をすること自体困難です。それに加
えて「率直」に語るなんて、これは命がけです。
それを呂運享は本当にやったようです。デジタル平凡社の『世界大百科事典』に
よると、「(1919年)三・一独立運動に際して 19年4月大韓民国臨時政府樹立に
参加。同年末日本に渡り陸軍大臣田中義一らに会い,記者会見でも朝鮮独立を主張し
て日本政界に物議をかもした」とありました。
そのとき、まだ年若い呂運享は田中との会見で次のようなやりとりをしたと評伝
は記しました。
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田中義一陸相との会見
田中陸相はなかば威嚇の言辞が多かった。田中は「日本は三百万の兵力を有する。
朝鮮に一戦の勇気があるのか。朝鮮は自治をめざし、日本と相連係するのが第一に賢
明なことである」とのべ、所謂(いわゆる)「田中プラン」という南北進出政策を率
直に話した。
そのうえ再度、「朝鮮は日本と提携すれば豊かになるが、そうでなければ無慈悲な
弾圧があるのみである。万歳を叫ぶこと一つで独立がなるのか。また日本が許諾する
と思うのか」といった。
呂運享は反駁して「少し前『ハイルスタ』という汽船が大西洋で水面に百分の九し
か出ていない氷山をちいさいと軽く見て水面下の十倍以上の氷塊を考えずに突進して
ぶつかって沈没してしまった。朝鮮人が火をつけた独立万歳運動は水面下にみえる小
さな氷山であるが悔視はできないのである。軽視すれば世界人類の正義に衝突し日本
は滅亡するだろう」といった。
呂運享は「朝鮮に『草家三間、みな燃えてもにくらしい南京虫の死ぬことを望む』
という俗談がある。東洋が破滅しても日本の亡ぶことを朝鮮人は痛快に思うかもしれ
ない」といった。
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日本の陸軍大臣を前にして日本を南京虫にたとえるとは、呂運享はよほど肝っ玉
のすわった人物だったようです。それだけに、呂の実力は敵からもそうとう評価され
たようでした。朝鮮総督府は、ポツダム宣言受諾発表を前に呂運亨に治安維持への協
力を要請したようですが、そんなエピソードもうなずけます。姜氏が惚れ込んで評伝
を執筆したのもよく理解できます。そんな綺羅星が李承晩派(?)に暗殺されたのは
まことに惜しまれる不幸な事件でした。
ときに、呂運享は北朝鮮ではどのように評価されているのでしょうか?
(注)姜徳相『呂運享 評伝』新幹社、2002
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
綺羅星、呂運享2
メーリングリスト[zainichi:22956]
2002.8.19
半月城です。まず訂正です。
呂運享は「李承晩派?により暗殺された」と書いたのですが、暗殺者は Yahoo!
韓国百科事典によると李承晩派ではなく、中道左派系の韓智根とされています。
<呂運亨>
上の「呂運享」を読むと、かれはおよそ独立運動家とは思えぬような経歴の持ち
主です。平壌神学校を出て、南京の金陵大学で英文学を学んだなんてちょっと意外で
す。そうかと思うと、高麗共産党に入ったりしました。また、日帝下で出獄後は朝鮮
中央日報社社長を務めるかとおもうと、朝鮮体育会会長としてデンマーク体操の普及
に努めるなど波瀾万丈です。
『呂運享 評伝』の著者、姜徳相氏のいうように、呂は、知れば知るほど興味を
そそられる人物です。
それにしても現在、韓国でも北朝鮮でもある程度評価されている独立運動家と
いったら呂運享くらいでしょうか。韓国でかれは高校の教科書にこう書かれました。
「光復を迎えると、呂運享は建国準備委員会を組織し、独立国家の基盤を準備した
が、理念の違いによる左・右翼の分裂と未成熟な政治意識によって、政治、社会、経
済などさまざまな方面で混乱状態が続いた。この時、共産主義者らは民族を分裂させ
る行動をとり続け、社会秩序はますます乱れていった」
国定教科書では呂の建準をそれなりに評価しているようです。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
于山国の歴史、太宗実録
LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2187
2002.6.24
前回書いたように、倭寇討伐などで英雄になった李成桂は 1392年、高麗
王朝にかわり朝鮮王朝を建国しました。そのころになると倭寇の勢力もだいぶ
弱まりましたが、消滅したわけではありませんでした。
それから11年後の1403年、3代目の太宗は倭寇を警戒、江原道観察使の
建議をいれ「武陵島居民」に島を出て本土に移るよう命令をだしました。武陵
島とは鬱陵島をさします。
しかし、この命令はどこまで徹底したのか疑問でした。1412年、太宗は鬱
陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二
名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、
その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました
(注1)。流山(ユサン)国とは、新羅時代の于山(ウサン)国の名が転訛し
たものです。
政府は、白加勿たちが武陵島に逃げ帰ることをおそれ、かれらを通州など
に分けて居住させ、空島方針を堅持しました。1416年、空島方針は下記のよう
に政策として確立されました(注2)。
--------------------
『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
金麟雨を武陵等處按撫使となす。戸曹参判 朴習は王にこう奏上した。
「かって臣が江原道の観察使だったときに聞いた話では、武陵島は周囲が7
息で、傍らに小島があります。その田は50余結で、入る道は人ひとりがやっ
と通れるくらいで、ふたりが並ぶことはできません。昔、方之用という者が1
5家族を引率して入って住み、時には倭人を装って本土を侵したりしました。
その島を知る者が三陟にいますので、その者を派遣し調査させてください」
王は許可した。三陟人の前萬戸・金麟雨を呼び、武陵島のことを尋ねた。金
麟雨は「三陟人、李萬がかって武陵島に渡りその島をよく知っています」と述
べた。そこで李萬を呼んだ。金麟雨はまた奏上した。
「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わないので、軍役を避ける者や逃亡
者が島に入ることがあります。もし、この島に多くの人が入れば、ついには倭
寇がかならず入り、ひいては江原道を侵すでしょう」
王はうなずき、金麟雨を武陵等處按撫使に、李萬を伴人として、兵船二隻に
抄工二名、引海二名、それに火砲や火薬、食糧を与え、その島に渡り頭目を説
得し連れてくるよう命じ、金麟雨に衣服や帽子、靴などをたまわった。
--------------------
この段階ではまだ于山島の名前は登場しませんでした。この当時『高麗
史』はまだ発刊されておらず、鬱陵島に関するかぎり現存する資料は『三国史
記』しかありません。『三国史記』の認識は「于山国は溟州の真東の海上にあ
る島国で、別名を鬱陵島という」ものでした。
その一方で「傍らに小島があります」という実録の記述が注目されます。
これについては後にふれることにして、翌年の金麟雨の帰還記事をさきにみる
ことにします(注3)。
『太宗実録』太宗17年2月條
「按撫使の金麟雨は于山島から帰った。おみやげに大竹、水牛の皮、からむし、
綿子、検樸木などを献納し、かつ三名を連れて来た。その島は戸数はおよそ1
5家族、男女86人である。金麟雨は途中で二度も台風に遭い、やっと生きて
帰った」
これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。
<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が
「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、
古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>
下條氏は、実録にある「傍らの小島」を于山島と決めつけていますが、こ
れは憶測に過ぎず『太宗実録』にはそのような記述はありません。
つぎに下條氏は「島の入り口がわずかに一人を通じて並行すべからず」と
書かれている島を「傍らの小島」としていますが、これは誤読です。文脈から
して朴習の奏上は武陵島の説明に終始していることは明らかです。それを「傍
らの小島」だけが説明され、本題の武陵島の説明はなかったとするのはとうて
い無理です。
実録の記事だけを客観的に整理すると下記のようになります。
1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる
1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。
2.また、武陵島の傍らに小島がある。
3.金麟雨が行った于山島には15家族、86名が住んでいる。3名を連れ帰った。
ここで于山島に15家族が住んでいると書かれていることが注目されます。
その一方、武陵島に15家族、あるいは11家族が住んでいるとされているの
で、于山島と武陵島は同じ島をさしているかもしれません。
これは、太宗が武陵島の調査に金麟雨を派遣し、その金麟雨が于山島から
帰って来たと記述されているので、両島は同一の島をさしている可能性がます
ます強くなります。本来なら金麟雨を武陵島に派遣したので、武陵島から帰っ
て来たと記述するのがあたりまえです。そう書かないのは于山島を于山国と混
同したか、あるいは武陵島と混同していた可能性が高くなります。
その一方で、于山島を「傍らの小島」と考えていた可能性も考えられます
が、その場合はその小島に15家族も住んでいたかどうかの検証が別途必要に
なります。
他方、ここで注目されるのは、江原道の観察使が武陵島の傍らに「小島」
があると認識していたことです。これは竹島=独島かもしれないし、あるいは
現在の竹嶼であるかもしれません。
要するにいろいろな可能性が考えられますが、『太宗実録』では流山国や
于山島、武陵島、「傍らの小島」相互の関係はあいまいなままです。当時は、
鬱陵島を記した地図もなかったようなので無理もありません。
ややもすると、そうしたあいまいな資料を我田引水で解釈しがちですが、
下條氏も要注意です。
太宗期のあいまいさも時代がくだるにつれ次第に認識が正確になり、竹島
一件により確定的になりますが、これについてはおいおい書くことにします。
(注1)『太宗実録』太宗12年4月己巳條
命議政府 議處流山國島人 江原道觀察使報云 流山國 白加勿等十二名 來泊高
城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十餘 今移居本島 是島
自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗・・・
(注2)『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
以金麟雨爲武陵等處按撫使 戸曹參判朴習啓 臣嘗爲江原道觀察使 聞武陵島
周回七息 傍有小島 其田可五十餘結 所入之路 纔通一人 不可竝行 昔有方之用
者 率十五家入居 或時假倭爲寇 知其島者 在三陟 請使之往見 上可之 乃召三
陟人 前萬戸金麟雨 問武陵島事 麟雨言 三陟人李萬 嘗往武陵而還 詳知其島之
事 召李萬 麟雨又啓 武陵島遙在海中 人不相通 故避軍役者 或逃入焉 若此島
多接人則 倭終必入寇 因此而侵於江原道矣 上此然 以金麟雨爲武陵等處按撫使
以萬爲伴人 給兵船二隻 抄工二名 引海二名 火〓火藥及糧 往其島諭其頭目人
以來 賜麟雨及萬衣笠靴
(注3)『太宗実録』太宗17年2月壬戌條
按撫使金麟雨還自于山島 獻土産大竹水牛皮生苧綿子檢樸木等物 且率居人三名
以來 其島戸凡十五口 男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颱風 僅得其生
(注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
于山国の歴史、世宗実録
LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2193
02/06/30
太宗時代に武陵(ムルン)島を空島にする方針が決定され、島民はしばし
ば本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る
人は絶えなかったようでした。
太宗の三男で第四代国王の世宗は、先王の時に武陵島へ派遣された金麟雨
をふたたび按撫使に任命し、島民を連れ戻したことが『世宗実録』に記録され
ました。
『世宗実録』世宗7(1425)年10月乙酉條(注1)
于山武陵等處按撫使、金麟雨が本島に役を避けた男女20人を捜索、捕ら
えて復命した。最初、麟雨は兵船二隻で茂陵(ムルン)島に入ったが、船軍4
6人を乗せた1隻はつむじ風にあい、行方不明になった。
王は諸卿に「麟雨は20余人を捕らえたが、40余人を失ったので、何の
益があろうか」と言った。
この島は別に特産物もなく、逃亡者の動機はもっぱら賦役を逃れようとす
ることにある。礼曹参判・金自知は、今回捕らえた逃亡者を法律にしたがって
処罰するよう述べた。 王は「かれらは他国へ密航したのではない。また前
にも赦したことがあるので処罰は適当でない」として、兵曹に命じてかれらを
忠清道の奥深い山郡に移し、ふたたび逃げ帰れないようにしたうえで3年間賦
役を免除した。
このとき遭難した乗組員は36人が死亡し、10人が石見(いわみ)の長
浜に漂着し、のちに朝鮮に送り返されたと実録に記録されました。
さて、うえの記事で注目されるのは「于山武陵等處按撫使」という官職に
于山の名が登場したことです。さらに世宗18年にも牛山(ウサン)の名が登
場しました。
『世宗実録』世宗18(1436)年閏6月甲申條(注2)
江原道観察使の柳季聞は奏上して「武陵島牛山は土地が肥沃で多産です。東
西南北はそれぞれ50余里、四面は海で周囲は石壁になっています。また、船
が碇泊できるところもあります。どうか民を募集しこの島に住まわせ、萬戸や
守令をおき、長期的な施策をとってください」と述べた。しかし、王はこれを
許可しなかった。
太宗実録で于山は流山国、于山島と書かれ、国なのか島なのかあいまいで
したが、世宗実録の于山や牛山はほぼ于山島をさすものと思われます。これは
『世宗実録地理志』をみるとはっきりします。この地理志は1432年に完成し、
1454年に若干改定されましたが、そこにこう記述されました。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くな
く、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。
一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」(注3)
この一節にある于山島を韓国側は現在の竹島=独島とみています。鬱陵島
周辺で天候が清明なときだけ見える島というと鬱陵島と竹島=独島の間、また
は本土と鬱陵島との間しかありませんので、文脈からみて韓国側の解釈は妥当
なところです。
しかし、これを何としても認めたがらない人がいます。下條教授です。前
回書いたように、同氏は太宗実録に関して<于山島は『太宗実録』では鬱陵島
の傍らに有る小島とされ>などと事実無根を書いたり、また「傍らの小島」に
ついても誤読をおかしました。
<太宗実録>
同氏は、ほかの資料でも韓国語の「形便」を「形状」と誤訳して珍説を展
開したりもしました。
<島根県告示と保護条約>
その下條氏がまたもや無理な解釈をしているようです。地理志の「二島相
去不遠 風日清明 則可望見」とある部分です。同氏は「風日清明」の前に「武
陵島」を補い「武陵島は風日清明なれば、すなわち(陸地)から望み見るべ
し」と読みました(注4)。
このように途中で恣意的に主語を変えて読むのも勝手ですが、そうすると
「風日清明 則可望見」の一節が「二島相去不遠」と切れてしまい文章がうま
くつながらず唐突で不自然です。無理な我田引水といわざるをえません。
話が横道にそれましたが、朝鮮王朝は空島政策を堅持すべく、またも武陵
島民を連れ戻したのですが、それもつかのまで十年も経つと島へ渡る人がまた
続出しました。島は特産物が多く、土地は肥え、しかも逃亡者がいるとのうわ
さもあり、朝廷も放っておけず南薈、曺敏を茂陵島巡審敬差官として派遣し、
島民を連れ戻したことが実録に記録されました。
『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條(注5)
護軍の南薈、司直の曺敏が茂陵等から帰り復命した。男女66人を捕らえ、
島で産出する砂鉄や鍾乳石、生アワビ、大竹などを進呈した。
いわく、船で発って島に一日一夜で到着した。暁に人家を襲ったが、反抗
する者はいなかった。皆本国人である。かれらがいうには、この地は肥沃で豊
饒と聞いて一年前の春に密航してきた。
その島は四面がみな石で雑木と竹が林をなしている。西海岸に一箇所碇泊
できるところがある。東西は一日くらい、南北は一日半ほどの距離である。
たまに空島政策は島の放棄であると誤解する人がいるようですが、これは
もちろん版図の放棄ではありません。世宗の言葉にみられるように、放棄した
島は他国領ではなく自国領であり、また自国領であるから空島であれ政策をし
くことが可能になります。他国領に空島「政策」をしくことは不可能です。
(注1)『世宗実録』世宗7(1425)年10月乙酉條
于山武陵等處按撫使金麟雨 搜捕本島避役男婦二十人 來復命 初麟雨領兵船
二隻 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十
餘人 而失四十餘人 何益哉 此島別無異産 所以逃入者 專以窺免賦役 禮曹參判
金自知啓曰 今此捕還逃民 請論如律 上曰 此人非潛從他國 且赦前所犯 不可加
罪 仍命兵曹置于忠清道深遠山郡 使勿復逃 限三年復戸
(注2)『世宗実録』世宗18(1436)年閏6月甲申條(注2)
江原道監司柳季聞啓 武陵島牛山 土沃多産 東西南北各五十餘里 沿海四面
石壁周回 又有可泊船隻之處 請募民實之 仍置萬戸守令 實爲久長之策 不允
(注3)『世宗実録地理志』江原道蔚珍縣條(1432,1454)
于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于
山國 一云鬱陵島 地方百里
(注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(注5)『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條
護軍南薈 司直曺敏 回自茂陵島復命 進所捕男婦六十六及産出沙鐵石鍾乳生
鮑大竹等物 仍啓曰 發船一日一夜乃至 日未明 掩襲人家 無有拒者 皆本國人也
自言聞此地沃饒 年前春 潛逃而來 其島四面皆石 雑木與竹成林 西面一處可泊
舟楫 東西一日程 南北一日半程
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
于山国の歴史、世宗実録地理志
LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2196
02/07/07
今回は、竹島=独島領有問題の重要文献である『世宗実録地理志』の成り
立ちなどを補足することにします。
この地理志は世宗6年(1424)に編纂が開始されましたが、二段階で制作さ
れたことが序文から読みとれます。
1.東国の地理志は三国史に簡単に記されているのみで、他にこれといった文
献がない。2.そのため世宗大王は尹維、申檣たちに州郡沿革を考察させ、こ
の本を編纂させた。時は世宗14(1432)年となった。
3.その後、行政区域の変動があった。
4.とくに北方の両界地域の新設された州鎮などであるが、それらを該当する
道の末尾に変動事項として追加した。
1432年に完成した原本は『新撰八道地理志』とよばれていますが、こ
れは現在『慶尚道地理志』以外は現存しません。
地理志の編纂ですが、王命をうけた戸曹と礼曹は記述に統一性をもたせる
ため一定の規式を地方官庁に提示し、その回答を編纂する形式で制作されまし
た。
規式は12項目からなりますが、島に関係する部分を見ると「諸島の陸地
を去る水路の息数(距離)および前に入民、接居の事実と農作の有無」と書か
れています(注1)。しかし、于山島はこれに反して簡単にこう記述されまし
た。
『世宗実録地理志』江原道蔚珍県
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くな
く、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。
一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」
規式にしたがえば、于山島や武陵島は蔚珍県からどれくらい離れているか
をまず記述すべきですが、そうしなかったのは両島が遠すぎて、実際の距離が
よくわからなかったためと思われます。
この規式をたてに下條氏は「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠
風日清明 則可望見」中の「二島相去不遠」を「二島が近くにある事実を示し
た」にすぎないと解釈しました(注2)。
しかし同氏は、二島がどこの近くにあるのかは明記しませんでした。同氏
は規式をたてにしているので、おそらく二島は陸地から遠くないと解釈してい
るものと思われます。 しかしながらこれは無理です。文中に「相」の字が
挿入されているので、遠くないのは二島間の関係であり「二島はお互いに相去
ること遠くなく」としか読むことができません。もし二島が陸地から遠くない
と書くなら、「相」を落として単に「二島去不遠」で十分です。
一方、もし下條氏が「二島相去不遠」を「二島はお互いに相去ること遠く
なく」と解釈しているのなら、つぎにつづく「風日清明 則可望見」の主語は
とうぜん二島ということになり、鬱陵、于山島はおたがいに天候がいいときだ
け望み見ることができるという解釈になります。
それが前回書いたように、誤読の多い同氏はこれを否定して、主語を恣意
的に鬱陵島(蔚陵島)にしてしまい<陸地の蔚珍縣から鬱陵島は望み見える
「距離」にある、と解釈せねばならない>と主張しました(注2)。
しかし、なぜ主語が二島のうち鬱陵島(蔚陵島)一島だけなのでしょう
か? 同氏の「規式」解釈からすれば、主語は于山島かもしれないし、あるい
はむしろ于山島、蔚陵島の二島を主語にするほうが理にかなっています。それ
にもかかわらず、于山島を抜きにして主語を蔚陵島のみと断定する根拠は文章
上なにもありません。
これは、陸地から鬱陵島は見えても竹島=独島は見えないので、同氏にと
って、主語は蔚陵島単独以外では具合が悪いためかもしれません。したがって、
我田引水でも何でも主語を蔚陵島とするしかないようです。何とも浅ましい曲
学阿世です。
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完
成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。そのため改訂作
業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠
之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しまし
た。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらは
もちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につなが
りました。
(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シンギュ文化社,2001
(注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
于山国の歴史、成宗実録
LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2199
02/07/14
竹島=独島の記録は、世宗実録についで成宗実録にも登場しました。成宗
は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたようで儒教思想によ
る王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、そ
の意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝
鮮開国以来もっとも平和な時代で、後期には退廃的な雰囲気も生まれるほどで
した(注1)。
成宗元年(1470)、朝廷に東海岸の永安(咸鏡)道観察使から、賦役逃れの
「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りまし
た。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬
差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のう
ち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見
つけたものの、居住民を発見できませんでした。
蔚陵島に人がいなかったという報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はち
がうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。
観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し、島民とじかに接したことのある鏡
城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)のところで島を望見する
ことができましたが、風のため上陸しませんでした。これらの記録からすると、
蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわし
い調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、
さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを加えて調査させました。金
自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実
録にはこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
・・・25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、
次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島が
ある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさの
ため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知るこ
とができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川
上健三氏はこう記しました(注4)。
--------------------
高麗大学校申教授は、上述のように、「金自周の語った三峯島の形状は、
今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方
に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいっ
たものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西
島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむ
しろ鬱陵島に比定する方が、一層自然である。
すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、
西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の
竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩
礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石など
の付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比
定することは適当でない。
さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立し
ているという光景である。これは、鬱陵島北端近くの三本立の奇勝を指してい
ると考える方が、より適切である。
三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あた
かも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているか
らである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、
一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
--------------------
「三石列立」と表現された景観は、鬱陵島がふさわしいのか竹島=独島がふ
さわしいのかは、両島を見比べてみないと何ともいえないところです。しかし、
ほかの描写から問題の島を鬱陵島とするのは種々の点で無理ではないかと思わ
れます。
まず、金自周が鬱陵島を描写するとしたら、北海岸の大巌柱付近しか説明
しないのはあまりにも不自然で考えにくいところです。その一方で、周囲が数
十kmもある大きな島を説明するのに、小さな「巌石(がんせき)」にわざわざ
ふれるのは不可解といわざるをえません。
これは、金自周たちが描いた島はそのような大きな島ではなく、小さな島
を描写したとするのが適切なようです。また「海水が通じて流れている」とい
う表現も竹島=独島のほうがより真に迫っていることもたしかです。
一方、川上氏は竹島=独島で最大の島を「中島とするのはあたらない」と
書いていますが、その島が最大であるのなら、私にはさして不自然な表現には
思えません。むしろ、川上説にしたがえば、鬱陵島本島が「中島」、観音崎や
一本立島が「小島」、孔岩が「巌石」に相当することになりますが、そうなる
と「中島」は小島とは比較にならないくらい巨大でありすぎて、中島という表
現自体が成り立たず、川上説はもっと「あたらない」ことになります。
また川上氏は、小島の「観音崎」を大巌柱の付近としていますが、10万
分の1の地図でそのあたりには孔岩以外に小島は見当たりません。島の東なら
至近距離に観音島がありますが、この小島は鬱陵島の西側からはもちろんみえ
ません。金自周は船を島の西に碇泊して観察しているので、たとえ方向を多少
変えたところで観音島は本島に重なり、間に海水が通じて流れている島として
認識することは不可能と思われます。
さらに、もし金自周たちがたどりついた島が三峰(鬱陵)島なら、同島に
二度も行ったことのある金漢京たちが気がつかないはずはありません。とくに、
この島には「海から顕著な目標」になっているほどの3本の大巌柱があるとの
ことなので見逃すはずはないと考えられます。それにもかかわらず、実録に目
的とする三峰島に行ったとの記述がないのは、やはり金自周は同島でなくほか
の島を見たためと思われます。
以上のように川上氏の反論は根拠が薄弱で、やや我田引水にすぎるようで
す。やはり金自周がみた島は今日の竹島=独島と思われます。
余談ですが、川上氏は外務省の調査官として竹島=独島を日本領とすべく
竹島=独島の史料を調査研究し前掲の著書を出版しましたが、そのなかでなぜ
か明治政府が竹島、松島を放棄した重要な太政官指令関係だけはまったくふれ
ませんでした(注4)。それを公表すると日本に不利になるので、故意に資料
隠しをしたのではないかと疑われます。そうした著書であるだけに読むときは
細心の注意が必要です。
(注1)朴永圭『朝鮮王朝実録』新潮社、1997
(注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條
下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月 漂泊三峰
島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許 望見阻風 竟不
得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壮健可信人三人 同漢京等入送捜覓
(注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前
日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於
鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串 一八
日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立
次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人
形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發
船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今
若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
于山国の歴史、東国輿地勝覧
LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2208
02/07/28
最初におわびですが、#2197の最後の部分を下記のように訂正します。
>『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠
之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しまし
た。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらは
もちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につなが
りました。
画期的な『八道地理志』に付属した地図は朝鮮の八道に限りませんでした。
周辺の日本や明、遼東図なども添付されたようでした。この地理志はすぐれて
資料価値が高かったようで、それゆえに軍事上の観点から取り扱いが問題にな
りました。朝廷で「地理志と地図は官衙で保管すべきで、民間に流布してはな
らない」とされ、一般には流通しませんでした。そのため発行部数も少なく、
戦乱などで散逸してしまったのか現在に残りませんでした。わずかに、地方志
の『慶尚道續撰地理志』だけが伝わりました。
付属の地図も伝わりませんでしたが、朝鮮の地図だけは『東国輿地勝覧』
に引き継がれたとされています。『東国輿地勝覧』は八道地理志の直後から編
纂が開始され、成宗12(1481)に完成しました。残念ながらこの本も現在は伝
わっていません。かわりに第四版にあたる『新増東国輿地勝覧』(1531)が残り
ましたが、これは第1級の史料とされているようです。『三国史記』や『三国
遺事』についで古書としては三番目に朝鮮史學會から1930年に復刊されました。
『東国輿地勝覧』の性格ですが、これは自然地理書というよりは人文地理に
近く、故事古典が豊富に記載され、歴史地理書あるいは読史地理書のように読
みやすいのが特徴です。これは中央集権という政治体制の必要性からきたよう
でした。
当時の地方行政ですが、地方長官などは科挙に合格した官吏が中央から派
遣されました。任期は、腐敗や地方勢力の肥大化を防ぐため、監察使(道長
官)は1年、守令は5年と短く設定されていました。しかも地元出身者を避け
ていましたので、観察使はその地方の事情に疎くて当然でした。そうした地方
長官や、かれらを統括する中央の官吏が地方の事情を把握するのに役立つよう
『東国輿地勝覧』は編纂されました(注1)。
前置きが長くなりましたが、『新増東国輿地勝覧』(輿地勝覧と略す)に
于山島、鬱陵島はこう記されました(注2)。
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『新増東国輿地勝覧』蔚珍縣 于山島、鬱陵島
一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が
高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のて
っぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二
日で到着できる。一説によると于山、鬱陵島は本来一島という。その地の大き
さは百里である。
新羅の時、その地がけわしいことをたのみにして服属しなかった。智證王
十二(511)年、異斯夫が何瑟羅の軍主となった。異斯夫はこういった。于山国
の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、
計略をもってすれば、服属させることができる。そこで木製の獅子像を多く作
り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくや、こう偽りを言った。
「お前たちがもし服属しないのならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
これを聞いて、その国の人々は恐れおののいて降伏した。
高麗太祖13(930)年、その島民の使いである白吉と土豆が貢ぎ物をもっ
てきた。
毅宗13(1159)年、王が聞くところでは、鬱陵の地は広く土地が肥え、民
が居住できるとのことだった。そこで溟州道(江原道)監倉使の金柔立を派遣
し調査させた。金が島から帰って奏上した。島には大山があり、山頂から東に
行くと1万余歩、西には1万3千歩、南には1万5千歩、北には8千余歩で海
に至る。村落の跡が7か所あり、石仏や鉄の鐘、石塔がある。柴胡藁本石南草
が多くはえている。
時代はくだって、武臣政権の崔忠獻が、武陵島は土壌が肥え、珍木や海産
物が多いと発議した。人を派遣し調査させた。破損した家屋がみつかった。い
つのころのものか判然としない。ここに東郡民を移し実際に住まわせた。遣使
は帰り、珍木や海産物を進呈した。その後、しばしば風濤のため舟は転覆し犠
牲者が多く出た。よって居住民を引きあげさせた。
朝鮮王朝の太宗時代、その島に逃げる流民がはなはだ多いと聞く。再び三
陟の金麟雨を按撫使に命じ島民を連れ戻した。その地は空になった。金麟雨は
いった。土地は肥え豊饒である。竹は旗竿のように大きく、ネズミは猫のよう
に大きく、桃は升のように大きい。すべて物はこんな具合である。
世宗20(1438)年、県人で萬戸職の南顥を派遣した。数百人をひきいて逃
亡民を捜査させた。盡俘金丸等70余人を連れ戻した。その地は遂に空島とな
った。
成宗2(1471)年、三峯島に人がいると告げる者あり。そこで朴宗元を派遣
し探索させたが、風濤のため行けずに戻った。同行の一船が鬱陵島に到達し、
大竹やアワビなどを持ち帰った。島に居住民はいないと奏上した。
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以上が于山島の項に関する記述のすべてですが、内容は『三国史記』や
『高麗史』『朝鮮王朝実録』などの引用が大半です。したがってエピソードの
内容はほとんど同じです。その一方、それらの史料には食いちがいがあるので、
輿地勝覧はそれらをクリアーにする必要に迫られました。
最大の問題は東海にある島の数で、一島なのか二島なのかでした。『高麗
史』は「一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気
が清明であれば望み見ることができる」として、一島説を本説に採用しました。
<高麗史>
ところが『世宗実録地理志』は二島説を本説に採用し「于山、武陵二島は
県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれ
ば望み見ることができる」と記述しました。
ふたつの史料の食い違いですが、輿地勝覧は『世宗実録地理志』の二島説
を本説に採用し『高麗史』の一島説を一説として紹介するにとどめました。こ
れはその後の史実を加味したためと思われます。
前回書いたように、成宗の時、朝廷にとって未知の島である「三峯島」探
索が行われました。その際、金自周の一行は「三峯島」に行ったことがある金
漢京も知らない島を発見し、図形を記録して持ち帰りました。こうした史実を
加味してか輿地勝覧は二島説を本説にし、二島二名としました。
こうした歴史の進展をみようとしない人がいます。前回紹介した川上健三
ですが、史書では高麗史の一島説が古く正しく、他の史料はそれを若干修正し
たにすぎないと主張しました(注3)。その結果が、金自周の描写した島を無
理に鬱陵島に当てはめるという愚挙をおかしました。また、史料の古さを厳密
にいえば、堀和生によれば『世宗実録地理志』がわずかに『高麗史』より成立
が古いようで、この点からも川上健三の主張はまちがっているようです。
輿地勝覧の二島二名は具体的に地図にも表現されました。付属地図の「八
道総図」です。そこで于山島は鬱陵島よりやや小さめに、しかも鬱陵島の西側
に描かれました。于山島の位置や大きさをよく知らないままで地図が作成され
たようでした。
これを今日の視点からみるといかにも信頼性が低い地図に見えますが、そ
れでも八道総図は同じ時期の日本地図と比べると、むしろその正確さには驚か
されるくらいです。
輿地勝覧と同年代の日本地図は存在しないようですが、それから半世紀後
の安土桃山時代に描かれた日本の代表的な地図に「日本地図屏風(二曲一隻)」
があります(注4)。そこには対馬と壱岐はほぼ同じ大きさに描かれているの
をはじめ、千葉県の東に佐渡島と同じくらいの大きさの島がふたつ描かれまし
た。さらに本州は東西に伸びた形に描かれました。16世紀の地図はえてして
この程度で、不正確で当たり前です。
そうした時代の制約を考慮するとき、輿地勝覧でとくに重要なのは、朝鮮
王朝は1531年以前に東海に于山島と鬱陵島の二島を認識していたという事実で
す。
(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シング文化社,2001
(注2)『新增東國輿地勝覧』巻之四十五、復刻版は朝鮮史學会発行,1930
(句読点は復刻版のまま)
蔚珍縣 于山島、鬱陵島。
一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌〓1〓2空。南峯稍卑。風日
清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二日可到。一説于山、鬱陵島
本一島。地方百里。
新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫為何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。
難以威来。可以計服。乃多以木造獅子。分載戦船。抵其國誑之曰。汝若不服。
則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。
毅宗十三年。王聞鬱陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立
回奏云。島中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向
南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多
生柴胡藁本石南草。
後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。
不知何代人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風
濤所蕩覆舟。人多物故。因還其居民。
本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空
其地。麟雨言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。
世宗二十年。遣縣人萬戸南顥。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。
其地遂空。
成宗二年有告。別有三峯島者。及遣朴宗元往〓3。因風濤不得泊而還。同行
一船。泊鬱陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。
〓1、やまかんむりに業、ぎょう
〓2、てへんに掌、とう
〓3、不の下に見、べき
(注3)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000
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