半月城通信
No. 86

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  1. 紀の国への渡来(1)
  2. 紀の国への渡来(2)
  3. 紀の国の漁民
  4. クナシリ、エトロフの帰属
  5. サンフランシスコ条約の代償
  6. 天皇の「沖縄メッセージ」
  7. 「不審船」対応への疑問


紀の国への渡来(1) Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか? 2001年11月11日、メッセージ:4118   前回は3本足のカラスをとおして、紀の国・和歌山が高句麗などと関係が あることをほのめかしましたが、今回からはそれを具体的にマイペースで書く 予定です。   まずは、神話の世界から始めることにします。和歌山市内に初詣の地とし ては三本の指に入る伊太祁曽(いたきそ)神社があります。ここは木の神であ るイタケルを祭神にしていますが、同神社の由緒略記は新羅との関係をこう記 しました。  <五十猛命(イタケルノミコト)は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御子に して、父神に従い天降りました時、多く樹種を持って最初新羅国すなわち韓地 (からくに)に天降り、播種植林に当たられたが、この地はふさわしい地では ないとおぼしめされ、我が大八洲(おおやしま、日本)に持ち帰り、筑紫より 始めて我が国全土に播種植林せられたもうたのである。  ・・・   また、鎮座せられたこの地を木の国(のちに紀伊に改む)と称するに至る。 すなわち「紀伊国の祖神」ともたたうべき神であらせられる>   この物語は日本書紀(720年)神代巻上の一書がもとになりました。それに よると、高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉をはたらいたスサノオは、そこを 追放され、新羅のソシモリに息子のイタケルとともに移りました。   そのうちにスサノオは出雲に渡りましたが、息子のイタケルは筑紫に渡り ました。イタケルは、新羅には植えなかった樹木の種をそこから植え始め、や がて大八洲を青山にしました。のちに、かれは紀伊の紀ノ川流域に鎮座しまし た。   最初に落ち着いたのが、これも三大初詣の地として人気のある市内の日前 神宮でした。この神社の呼び方ですが、近くにある私鉄の駅「日前宮」がニチ ゼングウと呼ばれているためか、ニチゼンの読み方が一般的になってしまいま した。しかし、正しくはヒノクマ神宮といいます。   日前神宮は、かってこの地方の豪族であった紀氏がまつっていた神社です が、日前と書いてなぜヒノクマとよぶのか不思議です。ここで bodihi2002さ んが神格の熊にえらくこだわっているようなので、それに合わせて熊との関連 をといた高階成章氏の「日本書紀における熊野」を紹介します(注1)。  <紀伊国の異郷的性格は、何としても朝鮮半島の文物の大和国への伝播通路 上の拠点というところに発生した。そしてその第一次地帯は、紀伊国でも西方 の名草郡(和歌山市あたり)がその中心となった。   名草地方が朝鮮半島との往還の要地となる以前から紀伊国の主宰神的性格 をもっていたのが日前・国懸(くにかがす)の両社であったようである。日前 と書いて「ヒノクマ」と訓(よ)ましているのは、日の神という古い称え方が 神聖なものを「クマ」と称える韓国の言葉に影響された結果であろう>   高階氏は熊を神格化した檀君神話を念頭に書いているようですが、その妥 当性はひとまずおくとして、こういう説が生まれるくらい紀の国は韓国と関係 が深かったのはたしかなようです。   伝説でしょうが、日本書紀によれば、紀臣(きのおみ)彌麻沙は百済の高 官・奈率(なそち、ナジョル)として縦横無尽の活躍をしました。その出身で すが、欽明条に「紀臣奈率とは、たぶん紀臣が韓(から)の女をめとって生ま れ、それで百済に留まって、奈率となったものである。その父は不詳。他もみ なこれにならう」と記されました。   伝説の真偽はともかく、こうしたエピソードが生まれるくらい、紀の国は 百済などと密接な関係にありました。当然、百済などから高度の文化がもたら されました。それについてはおいおいと書いていきますが、そのあらましを和 歌山市博物館で開催中の特別展「渡来文化の波」から引用します(注2)。        -------------------- ごあいさつ   モノが、技術が、そしてヒトが動きました。   1600年ほど前、中国大陸から朝鮮半島から、この和歌山の地に、大きな文 化の流れが押し寄せました。   大和(奈良)につながる紀ノ川の河口には、新しい文化の一つの入口とし て、重要な交通路として、それに関係する多くの遺跡・遺物が残されています。   高句麗壁画に描かれた騎馬戦に見られる馬冑(うまかぶと)・馬甲(うま よろい)など、多くの馬具を出土した楠見大谷古墳、日本国内で唯一の金製勾 玉(まがたま)を出土した木ノ本(きのもと)車駕之古址(しゃかのこし)古 墳、窯で焼かれた古い土器を出土した鳴滝遺跡や鳴神遺跡群など、朝鮮半島の 文化によく似た多くの遺跡や遺物は、和歌山と半島との深いつながりを示して います。   今回の特別展は、渡来人と深い関係があると考えられている日本各地の遺 跡・遺物との比較によって、紀ノ川河口の和歌山平野を中心とする紀伊国にお ける大陸からの渡来文化の実像に迫りたいと企画いたしました。  ・・・        --------------------   特別展では熊本江田船山古墳の金製耳飾りや、埼玉稲荷山古墳の銘文入り 鉄剣など、日本全国の渡来文化に関係した主要な遺物をほとんど展示していま す。   bodihi2002さん、これは韓国からも見にくるだけの価値はあると思います。 場所は和歌山市駅の近くで関西空港から30分くらいのところにあります。1 1月25日までですので、どなたもお見逃しのないよう。 (注1)金達寿『日本の中の朝鮮文化』講談社文庫,1984 (注2)和歌山市立博物館『渡来文化の波』2001 和歌山市教育委員会 (TEL 073-432-0001)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


紀の国への渡来(2) Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか? 2001年11月17日、メッセージ: 4181   神話で初代天皇とされる神武天皇は、九州からの東征で紀伊国から大和に 入り即位したとされますが、最近の研究によれば、5世紀代に渡来文化は紀ノ 川ルートをへて大和に伝わったともいわれているようです(注1)。   渡来文化が瀬戸内海から奈良へ伝わるには、大阪の大和川沿いに「近つ飛 鳥」とよばれた河内の羽曳野市あたりから入るか、あるいは紀ノ川沿いに葛城 とよばれた御所(ごせ)市などから入ることになります。前者はいうにおよば ず、後者のルートも経路には葛城の室宮山古墳など渡来系遺物を多く出土して おり、大和へ渡来文化の伝達をになったようでした。   このような影響を与えるくらい、5世紀の紀ノ川流域は先進の渡来文化に 満ちみちていました。人口密集地帯であった同地域の文化の特徴は、なんとい っても鉄剣や鉄器をもった騎馬文化でした。なかでも古墳密集地帯にある大谷 古墳で発掘された鉄製の馬冑(うまかぶと)や馬甲(うまよろい)はとくに目 をひきます。   馬の目にあたる部分をくりぬいた戦闘用の馬冑は高句麗の三室塚の古墳壁 画などにも描かれましたが、ふしぎなことに騎馬民族国家であるはずの高句麗 で馬冑や馬甲は一例も発見されませんでした(注2)。   これは同地域の開発がすすまず発掘が盛んでないためかもしれませんが、 とにかく意外です。馬冑や馬甲が発見された17か所は、ほとんどが朝鮮半島 南部の金官伽耶や大伽耶でした。さすがは鉄の王国です。そのほか韓国ではわ ずか一例ずつ新羅と安羅伽耶から出土しました。   日本では大谷(おおたに)古墳と遠く埼玉(さきたま)古墳群の将軍山古 墳から馬冑が一例ずつ、滋賀県の甲山古墳から馬甲が発見されました。これら は渡来品とみられます。   大谷古墳からはほかにも金銅製の鞍や鈴がついた剣菱型の杏葉(ぎょうよ う)、f字型の鏡板付クツワなどみごとな馬具が発掘されました。さらに、椒 (はじかみ)古墳からは蒙古鉢型カブトまで出土しました。いずれも渡来品と みられます。   さらに、鳴神遺跡の円墳や方墳の溝からは馬の歯が数か所でみつかりまし た。同地では歯以外に骨は残っていないのですが、埋められていた溝の幅から するとそこには馬の頭部だけが埋められたようでした。これは大阪河内の例か らみて、馬の頭を切り落として祭祀に使ったものとみられます。   さて、馬の飼育には多量の塩が必要になるそうですが、紀ノ川河口で全国 でも最大級の製塩遺跡が見つかりました。これらを総合して和歌山市立博物館 はこう記しました(注2)。  「周辺からは製塩土器や韓式系土器・陶質土器も多く出土することから、河 内地方と同様に渡来系の人々による馬の飼育と馬の頭部を使った祭りが執り行 われていたと推定される」   土器についていえば、流域の西庄遺跡や岩橋(いわせ)千塚古墳群、六十 谷などから杯や高坏(たかつき)、家型はそう、壺、紡錘車など朝鮮からもた らされた多くの陶質土器や韓式系土器が発掘されました。   また、これらをもとに流域の砂羅谷では大阪の陶邑(すえむら)とならん で早くから須恵器窯が築かれ、初期須恵器が焼かれました。さらに驚いたこと にそれらを収納する7棟の大形倉庫群まで建てられました。その付近は須恵器 製造・流通の拠点だったようです。   そうした土と火の技術に関連してか、この地方には早くから渡来文化であ るカマドが普及しました。日本で西日本はカマド、東日本は囲炉裏(いろり) が主流になりましたが、カマドはつぎのように炊事に変革をもたらしたようで した(注2)。        --------------------   縄文時代から弥生時代には、竪穴住居の真ん中に火処としての炉がつくら れるのが一般的だったが、古墳時代中期に壁際の炉のまわりに土をドーム型に 盛り上げて築く竈(かまど)が伝えられた。   竈では甕(かめ)や鍋の底に直接火を当てることができ、熱を逃がさずに 効率良く使うことができる。本格的に蒸すことのできる甑(こしき)も同時に 伝わった事により、調理方法が大きく変化した。   和歌山市田屋遺跡では全国的にみても早い段階の5世紀中頃の竈をもつ住 居跡が発見されており、短いながらも煙道が壁際にのびるオンドル状の竈をも つ例もみられる。オンドルとは朝鮮半島及び中国東北部でみられる床暖房の施 設で、炊事用の竈から床下に煙道を伸ばし、燃焼の煙で床を暖める寒さ対策の 施設である。        --------------------   紀伊国は気候が暖かかったためか、結局ここでもオンドルは普及しません でした。その一方でカマドは韓竈(からかまど)とよばれ、西日本に広く普及 しました。   なお、渡来文化の影響は死後の世界にまでおよびました。大陸に起源をも つ横穴式石室の墓制が紀ノ川流域に早くから伝わりました(注2)。  「5世紀中~末頃の当地方の首長墓としては、紀ノ川の北岸に展開する車駕 之古址(しゃかのこし)古墳や大谷古墳があげられる。また同じ頃、それまで の埋葬方法とは全く異なる横穴石室が、橋本市陵山古墳、有田市椒古墳、岩橋 千塚古墳群中の大谷山6号墳で築かれている。   横穴式石室の採用は九州からは遅れるものの近畿地方のなかでは早い段階 に位置づけられる。この墓制も源流は中国や朝鮮半島の百済にたどることので きるものであり、直接的ではないかもしれないが、渡来系の要素をもった埋葬 方法と理解される」   百済の墓制でもあった横穴式石室が紀ノ川流域に早くから取り入れられた のは、この地方の豪族でかつ日本書紀で百済の高官とされた紀臣彌麻沙(きの おみみまさ)もどきの人物が存在し、あるいは渡来したためかもしれません。   日本書紀以外にも紀伊国と朝鮮との密接な関係は文献に残りました。岸俊 男氏はこう記しました(注3)。        --------------------   日本霊異記の一つの説話の中心人物になっている老僧観規(かんき)は、 紀伊国名草郡の人で、俗姓を三間名(みまな、任那)干岐(かんき)といった 旨が伝えられている。   さらに播磨国(はりまのくに)風土記には呉勝(くれのすぐり)が韓国 (からくに)から渡来して、はじめ紀伊国名草郡大田村に住みついたという伝 えがみえる。名草郡は紀ノ川の下流、現在の和歌山市を含む地域で、さきに考 察したように、そこは紀氏の分布の濃厚に認められるところである。   以上の史料はいずれも紀氏に直接関係したものではないが、間接的にその 地と朝鮮との結びつきが推定される以上、それらを紀氏と朝鮮との特殊関係を 推測する傍証としても、あながち附会の説とはいえないであろう。        --------------------   このように、文献からも遺物からも紀伊国には朝鮮半島から「モノが、技 術が、そしてヒトが」渡来して先進文化地域をなしたようでした。しかし、そ の度合も6世紀になると相対的にうすれていったようでした。それは多くの地 で渡来文化が定着し、紀伊国の特異性が目立たなくなったためだったようで、 市立博物館はこう記しました(注2)。        --------------------   6世紀にはそれまでの5世紀代に較べて渡来系遺物の姿は目立たなくなる。 しかし、国内の各地で須恵器窯が開かれ、国産の馬具も全国各地の古墳から出 土するようになる。その意味では渡来文化が浸透し、定着した時期であったと 言える。   6世紀前半頃に築かれた県内で最大級の前方後円墳である和歌山市井辺 (いんべ)八幡山古墳(全長88m)からは装飾付須恵器、力士埴輪、鷹型埴 輪など、大陸の習俗と関連する遺物群が出土している。   また、さらに新しい6世紀後半~7世紀前半頃の横穴式石室からはミニチ ュア炊飯具がセットで出土する例がある。これらの遺物から古墳時代後期の葬 送儀礼における渡来文化の様相をみてみたい。 1.相撲・・・ 2.角杯・・・ 3.鷹狩り・・・ 4.装飾のある須恵器・・・ 5.ミニチュア炊飯具の副葬・・・        --------------------   7世紀になると、紀ノ川流域でも須恵器窯の数が急増しましたが、それと 同時に須恵器はもはや渡来文化の範疇には入らなくなりました。日本化の達成 といえます。   同時に渡来文化も単純なモノからやがて学問や仏教、建築、美術など高度 なものへと変容していきましたが、これらの面で紀ノ川流域は先進的な役割を 果たすことはありませんでした。それどころか、しだいに時代に遅れをとるよ うになってしまいました。 (注1)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998 (注2)和歌山市立博物館『渡来文化の波』和歌山市教育委員会,2001 (注3)金達寿『日本の中の朝鮮文化4』講談社文庫、1984   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


紀の国の漁民 Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか? 2001年11月18日、メッセージ: 4194   半月城です。   紀州の人が移住した地とは南房総の勝浦でしょうか? ケースは違うので すが、たしか戦時中に勝浦近辺へ済州島から海女が移住しました。紀州の漁民 はどうして移住したのか興味あるところです。   そこに移住した紀州人の形質が独特とのことですが、南紀あたりは黒潮の 流れに乗って南方系の形質をもった人の渡来があっても不思議はありません。 一般的には古墳時代すでに紀南まで畿内古墳人が進出したため、紀州人は弥生 タイプの畿内人とほとんど変わりないとされています。   しかし、田辺市磯間岩陰で発掘された人骨からすると、古墳時代、南紀の 一部地域には古い形質が残されたようでした。ただ磯間岩陰人も個人差が大き くバラエティに富んでいるようです。そのなかで、特別興味ある形質をもった 古墳人を池田氏はこう記しました(注)。        --------------------   大和政権との関わりを示す副葬品をともなって葬られていた男性は、この 地方の漁民集団の長だったと考えている。30代後半と推定されるこの人物の 特徴は、顔・鼻・眼窩とも広く低く、また鼻根部の隆起が強いなど、その顔は 前から見ても横から見ても縄文人に酷似し、身長も低く、四肢骨の形態も縄文 的だった。   4世紀末には、海部(あまべ)直とか海部首(おびと)とよばれる氏族に ひきいられ、古代国家の体制にくみいれられた漁民集団がすでに存在したとい われている。   磯間の漁民集団のような世襲的・同族的な職業集団は弥生時代の漁労集団 の後身であり、なかにはその系譜が縄文時代までたどれるものもいたにちがい ない。        --------------------   移住した紀州人は、この記述にすこしはあてはまるでしょうか?   話かわってスサノオですが、新羅のソシモリから倭に渡ったとかのエピ ソードは韓国の伝説にまったく登場しないようです。韓国で古代の伝説は『三 国遺事』あるいは『三国史記』につきるようですが、そこには日本の神話との 接点はあまりないようです。 (注)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998


クナシリ、エトロフの帰属 Lycos 掲示板167「日本の領土問題」 http://board.lycos.co.jp/society_mass_media/abroad/board/index.php3?qid=167&cn=54 01/12/24 #37   日本はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄しましたが、そのなか に北方4島が入っているのかどうかは領土問題を考えるうえで非常に重要であ り、願望とは別に冷静に判断すべきです。   まず、4島が入っていないとする見方ですが、アメリカ政府はこの立場に たちます。1954年、北海道付近でアメリカの飛行機が撃墜されるという事件が 起こりましたが、これに関連してアメリカはソ連に下記の書簡を送りました。  <これら(ヤルタ協定やサンフランシスコ条約)の文書における「千島列 島」という辞句は、従来常に日本本土の一部であったものであり従って正義上 日本の主権下にあるものと認められるべき歯舞諸島、色丹島又は国後島、択捉 島を含んでもいなければ含むように意図されもしなかったということを繰り返 し言明する(注1)>   この書簡は、冷戦時代にあって自国の勢力圏を拡大するため世界のいたる ところで鋭く対立していた米ソの政治的かけひきの産物であり、アメリカは北 方4島が千島列島に属さないとする裏づけ資料や文献など何も示さず、一方的 な解釈を述べたものでした。   さりながら、サンフランシスコ条約で主導的な役割を果たしたアメリカが 日本の肩を持って、千島列島に北方4島が含まれないと判断したことは日本に 追い風になりました。現在、日本の外務省がこの見解をとっています。   しかし、外務省とてそれを証明しうるような材料はほとんど持ち合わせて いないようです。それどころか、日本に不利な材料が多々残されました。   まずは吉田発言です。サンフランシスコ平和会議に全権として出席した当 時の吉田茂首相は次のように発言し、公式に北方4島のうちクナシリ、エトロ フは「千島南部」であることを言明しました。  「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることに ついては、帝政ロシアもなんら異議をはさまなかったのであります(注1)」   吉田元首相がこう語るのも無理はありません。地図ではどうみてもクナシ リ、エトロフは千島列島の一部にみえます。そのうえ、さらに千島列島の範囲 を示唆する国際的な取り決めがあります。GHQ指令 SCAPIN 677号です。   1946年、占領軍の連合国総司令部(GHQ)は指令「若干の外郭地域の日 本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書(SCAPIN 677 号)」を発令しましたが、そのなかで日本をこう規定しました。 SCAPIN 677号  3.この指令において日本とは、日本の主要4島(北海道、本州、九州、四 国)及び約1000の隣接諸小島を含むものと規定する。上記の隣接諸小島は、 対馬諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含み、次 の諸島を含まない。 (a)鬱陵島、リアンクール岩(竹島)、済州島 (b)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆、南方、小 笠原及び火山(硫黄)群島ならびに大東諸島、沖之鳥島、南鳥島、中之鳥島を 含む他の全ての外郭太平洋全諸島 (c)千島列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)及び 色丹島   この指令は領土を最終的に決定するものではありませんが、クナシリ、エ トロフが千島列島に入るかどうかを知るには重要な資料になります。両島は条 文に明示されていませんが、両島も指令全体にいう諸小島に含まれることは指 令の趣旨や文脈から明らかであることと思います。GHQが日本に隣接した諸 小島を規定するのに多楽島のような小島まで記述する一方で、大きなクナシリ、 エトロフだけを抜かしたとはとうてい考えられないからです。そうなると北方 4島は(c)項に入ることになります。すると、ハボマイ、シコタンは千島列 島に入らないが、クナシリ、エトロフは千島列島に入るとするのが国際的な理 解になります。   こうした過去の国際的取り決めからすれば、アメリカの政治的発言はとも かく、日本政府の<国後、択捉両島は、日本の固有領土であって、サンフラン シスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれない>という公式見解の後 半は無理であるし、とうてい国際社会には通用しそうにありません。   もっとはっきり書くと、日本はサンフランシスコ条約でクナシリ、エトロ フを放棄したといえます。なお念のために書くと、私は、北方4島は最終的に 日本に帰属すべきであると考えていることをつけ加えます。 (注1)『われらの北方領土』2000年版、外務省国内広報課


サンフランシスコ条約の代償 Lycos 掲示板167「日本の領土問題」 http://board.lycos.co.jp/society_mass_media/abroad/board/index.php3?qid=167&cn=54 01/12/29, #49   北方領土が重要かどうかは比較の問題になります。サンフランシスコ条約 で千島列島の一部をなすクナシリ、エトロフを放棄したのは、さして重要でな いという判断があったからと思われます。両島を重要視するなら、日本はサン フランシスコ条約に調印しなかったはずです。   日本が両島を放棄してでも得たかったのは、占領軍からの独立でした。し かし、それは両島の放棄だけで達成できるような性質のものではありませんで した。悲願達成のために、もっと大きな琉球列島の長期放棄まで容認しました。 ただ、こちらの放棄は「天皇メッセージ」の既定路線に従ったまでですが。   結局、北ではソ連の占領を、南ではアメリカの占領を容認する形で日本は サンフランシスコ条約を結びました。すべて犠牲を覚悟し、納得済みで行った ことです。   その後、琉球列島は大きな犠牲や代償の末に取りもどしました。北方領土 についても、今さら条約改定などは思いもよらないので、両島を取りもどすに はそれなりの大きな代償や努力、妥協などが必要なのはいうまでもありません。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


天皇の「沖縄メッセージ」 Lycos 掲示板167「日本の領土問題」 http://board.lycos.co.jp/society_mass_media/abroad/board/index.php3?qid=167&cn=54 01/12/31, #54  「天皇メッセージ」について補足します。これはアメリカ国務省に昭和天皇 のメッセージとして記録されているものですが、ルートは宮内庁の御用掛であ った寺崎英成が昭和天皇の意向として、下記の内容を占領軍GHQのシーボル トに伝えたとされています(1947.9.20)。  「沖縄に対する米軍の占領は、ソ連の脅威に備えるとともに、日本国内の治 安維持のためにも重要で、アメリカと日本双方の利益にもなる。   琉球列島の軍事占領方法は、主権を日本に残し、25年から50年あるい はそれ以上の期間をアメリカが租借することが望ましい(注)」   これを伝えた寺崎英成は、日米のハーフ「マリコ」の父親としてしられて いますが、戦前はアメリカの日本大使館員として日米開戦をなんとかくい止め ようと必死に努力した外交官でした。戦後はそうした経歴が買われ宮内庁の御 用掛になり、皇室とGHQとの連絡・調整に手腕を発揮し、GHQ内の友人フ ェラーズ准将と協力し、天皇が戦犯扱いされるのをくい止めるため必死で努力 した人でした。   その一貫として、天皇から戦争に関する聞き取りを行い、天皇の開戦責任 は弱いとする『天皇独白録』をまとめ、関係筋の了承を得て一部分を英訳して GHQのフェラーズに提出しました。そうした経歴をもつ人物が「天皇メッ セージ」を伝達しただけに、資料の信頼性は高いものと思われます。   また、当時の状況からも「天皇メッセージ」が重要な役割をはたしたこと が裏づけられると思います。1946年1月、琉球列島はGHQの SCAPIN 677号 指令により、暫定的に日本の統治から切り離されましたが、アメリカは同島に 確固たる方針をもっていたわけではありませんでした。当初、アメリカ国務省 はむしろ沖縄の軍事基地の恒久化には反対していたくらいでした(注)。   そのうち「鉄のカーテン」に象徴されるように、東西の冷戦が深刻になり、 米ソは鋭く対立するようになるとともに、アジアで中華人民共和国が成立、台 頭するや、沖縄の戦略的価値が重要視されるようになりました。そうした情勢 に加え「天皇メッセージ」が寄せられたことが影響したのか、アメリカは沖縄 を直接統治することや軍事基地を恒久化することを決定し、その方向でサンフ ランシスコ条約を結びました。   天皇がGHQに沖縄の長期放棄を提案したとは衝撃的ですが、その意図や 解釈は次のようなことが取りざたされています(注)。 (1)沖縄を米軍に提供することで天皇制の維持をはかろうとした。 (2)アメリカの沖縄占領に対し、その主権だけは日本に残すようにした。 (3)アメリカの沖縄の長期保有決定になんらかの影響を与えた。   しかしながら、真相は昭和天皇なき今となっては永久に不明と思われます (注)沖縄歴史教育研究会『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画,1997   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「不審船」対応への疑問 メーリングリスト[aml 25844] 2001年12月30日   半月城です。ML[aml],[zainichi]に投稿します。   私も今回の不審船をめぐる一連の動きや報道には重大な疑問をもっていま す。海上保安庁が不審船を射撃の上、沈没させるにまでいたった一連の過剰行 動もさることながら、<海上自衛隊が「威嚇の目的」(首相周辺)でイージス 護衛艦を現場に向かわせる>という軍事対応がとても気になりました(12/23 朝日)。   イージス艦と言えば、アメリカが台湾に輸出するのをためらうくらいの最 新鋭、最強の軍艦ですが、それが「威嚇の目的」で出動するなんて、一体だれ を威嚇しようというのでしょうか? こうした過剰な軍事行動は、靖国神社参 拝以来一貫して右傾化を強めているいまの内閣ではさもありなんと半ばあきれ 顔です。   それに輪をかけて懸念しているのは、そうした一連の動きに批判や歯止め がないように見えることです。きのう29日の朝日新聞を見て驚きました。 「検証 不審船」と題してつぎのような見出しがおどっていました。 >出遅れた重装備船 >防弾装備ない「あまみ」接舷 >領海外射撃「ためらわず承認」 >逃走用に半潜水艇準備の見方   まるで軍備増強を促すかのような見出しです。また、それに劣らず記事内 容も刺激的でした。  <「領海外でも危害射撃を認めるべきだ」との声が出始めている>   私には、まるで世論を誘導するかのような書き方に見えました。さらに、 外国の反応を紹介する記事にいたっては、報道機関の使命である正確な報道の 姿勢すら放棄しているようにうつりました。同新聞は韓国の反応をこう伝えま した。  <(前半省略)   27日、国家安全保障会議開催。不審船は北朝鮮船との見方が強まる中、 事件は日朝関係や米朝、ひいては南北朝鮮関係にも響き、「決して韓国の利益 にならない」との認識で一致した。「北の行動は、結果的に日本を助けてい る」と、韓国政府関係者は逆説的にいう。   98年の「テポドン」発射時と同様に、日本がこれまで躊躇してきた行動 の枠が次々と破られるからだ>   この内容で、はたして韓国報道機関がいだいている軍事大国・日本への脅 威をどれだけ読みとれるでしょうか?   韓国ではやや右寄りとされる代表的な新聞「朝鮮日報」は下記に紹介する ように、日本は「軍事力行使に足かせになってきた要素の取り除き作業を始め ている」として軍事的警戒心を強めています。   同じく代表的な新聞「東亜日報」にいたっては、もっとはっきり「日本の 軍事拡大を懸念する」とのオピニオンを掲載しました。日本と韓国の新聞とで は日本の軍事力にたいし、こうも温度差が違うものかと驚愕させられました。   平和には敏感なはずの日本が、最近は軍事拡大に寛容になりつつある一方 で、周辺国の懸念には鈍感になりつつあるのではないでしょうか。        -------------------- 1.韓国「朝鮮日報」社説(2001.12.24) 日本の「過剰」と「傲慢」 http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2001/12/24/20011224000023.html (前半省略)  我々はこの船舶が北朝鮮の工作船か否かという問題とは別に、日本当局が取 った措置が日本の右傾化に対する懸念を増幅していると見る。ひとつは過剰対 応の問題だ。小泉首相は事件後、日本の巡視船の銃撃が「正当防衛」だったと 主張したが、そのように見ることができない幾つかの状況が明らかになってい る。正当防衛とは相手側の攻撃に対して自分を守るために取る措置だが、今回 の事件では日本の巡視船が先に攻撃をし、それも3度も攻撃した後になって怪 船舶が応射したことが明らかになっている。  日本海上保安庁が船体に先制発砲したのは1953年以来48年ぶりのことである だけではなく、発砲地域も中国と日本のEEZ(排他的経済水域)であるか中国の EEZだった。日本は99年3月に北朝鮮の工作船と推定される船舶が日本の領海に 侵入した際、「威嚇射撃」だけ行い拿捕に失敗したことから、領海内では先制 射撃が可能になるよう海上保安庁法を改定したが、それはEEZでは通用しない。 そのために日本の野党内でも「適切な対応だったのか十分に検討する必要があ る」という声があがっているという。  ふたつ目は日本のEEZでもない中国のEEZで船舶を撃沈したことには問題の余 地があるという点だ。日本政府は国連の海洋法条約で「自国EEZに侵入した船 舶に対して、多国の領海内に入る前までは追跡権を認めている」という点をあ げ、国際法上の問題がないと主張している。例え国際法に問題がなかったとし ても、他国のEEZで、それも十分に拿捕が可能であったにもかかわらず撃沈し たのは説得力がない。中国政府が即刻、「東中国の海域で日本が軍事力を使用 したことに対し懸念している」と遺憾を表明したことを見ても、周辺国がどん なに神経を使っているかが分かる。  日本は米国の9・11テロ事件以降、戦後56年間タブーとなってきた自衛隊の海 外派兵を行っただけでなく、最近に入ってから軍事力行使に足かせになってき た要素の取り除き作業を始めている。その延長線上で出たのが今回の日本の行 為である。日本は今回の事件に対する徹底した調査と共に、周辺国の「懸念」 が日本の国益にもプラスにならないことを直視しなければならない。 2.韓国「東亜日報」オピニオン(2001.12.28) 日本の軍事拡大を懸念する http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=100000&biid=2001122872668 東シナ海で不審船が日本の海上保安庁の巡視船の銃撃をうけて沈没した事件は、 軍事大国日本がさらに対外的に力を広げる契機となった。日本は1998年8 月、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がテポドンミサイルの発射実験を行っ た時、待ってましたとばかりに米国との戦域ミサイル防衛(TMD)体制の共 同研究を発表し、2002年までに地上にある1㎡以下の物体を識別できる軍 事偵察衛星4基を打ち上げることを決めた。日本の国会は1969年、国会の 名で「宇宙に平和的目的でないいかなる物体も打ち上げない」という決議をし ているが、その決議を覆すための名分を探していたところに北朝鮮が決定的口 実を作ってあげた形となった。 その後、北朝鮮の工作船と推定される不審船が1999年3月に日本領海を侵 犯し、北朝鮮内の港に入港した事件を機に、今年秋、日本領海を侵犯した不審 船に対して射撃を加えられるよう海上保安法も改正した。 しかも、米国の対テロ戦争を理由に日本の自衛隊が戦後初めて海外に派遣され るなど、望ましくない動きが続いているところに、日本の巡視船が戦後初めて 追跡中の不審船に機関砲を発射したことで「初めての記録」はまたもや更新さ れた。 日本は今回の事件を機に、さらに領海外でも船体に対する威嚇射撃を可能にす るために法律を再整備しようといち早く動き出している様子だ。したがって、 この船が北朝鮮の南浦(ナムポ)港を出港したという米偵察衛星の情報と、北 朝鮮と無線通信をしあっていたという報道が事実と確認されれば、北朝鮮はも う一度、戦後日本の対外軍事的拡大を手助けする格好になる。北朝鮮は日本の 海外派兵と軍事拡大を非難しているが、かえって自ら日本の軍事拡大を手助け しているという事実を直視する必要がある。 不審船事件のもうひとつの意味は、日本の海上保安庁の巡視船が中国の排他的 経済水域(EEZ)内に入り船体射撃を加えたという点だ。日本はこれまで、 中国の船舶が日本領海内に入り調査活動をしているとし、中国政府に対して数 度にわたり厳しく警告してきた。ところが、今回は日本の巡視船が中国のEE Z境界線を越え、追撃と射撃を加えたのだ。日本の右傾化に対する警戒の声が 高まっている中、日本側が見せたこのような攻勢的行動を、懸念せずにはいら れない。 ただでさえ、領海侵犯問題で中国と日本がもめている中、今回の事件が日中間 の海洋をめぐる対立の先例になってしまうのではないかと懸念される。 日本列島周辺に危機が発生した場合、米国を助けて参戦することになっている 日米新ガイドラインは、朝鮮半島の有事の際を想定しているが、実際は台湾海 峡も想定内に含まれている。 したがって、日本のこのような攻勢的武力対応が今後東アジア全体の平和と安 定に悪影響を及ぼす可能性に注意を向ける必要がある。 一方、今回の事件で日本は恐るべき偵察能力をまたもや見せつけた。旧ソ連戦 闘機による大韓航空旅客機撃墜事件当時、ソ連の戦闘機操縦士と大韓航空操縦 士の間で行われた対話内容を高い精度で録音し、情報収集能力が世界でもトッ プクラスであることを示した日本は、今回も不審船と北朝鮮との無線交信をキ ャッチし、再びその能力を立証したのだ。 日本はすでに1997年1月、統合幕僚会議の陸上、海上、航空自衛隊の情報 関連部門を統合して「情報本部」を発足させ、偵察衛星の保有を念頭に入れて 衛星から送ってきた地球観測データを分析する画像部まで設置するなど、すで に情報大国への道を歩んでいる。 北朝鮮ヨンビョンに核施設があるという事実を全世界に公表した日本の坂田教 授は、日本が保有する民間衛星でも、軍事偵察衛星に劣らない情報獲得力があ ると証言しているが、すでにこのような能力を持つ日本が偵察衛星まで打ち上 げることになれば、名実共に情報大国になり、朝鮮半島はますます丸見えにな ってしまうだろう。 (途中省略) 金慶敏(キム・ギョンミン)漢陽大教授(国際政治)        --------------------   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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