紀の国への渡来(1)
Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp
ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか?
2001年11月11日、メッセージ:4118
前回は3本足のカラスをとおして、紀の国・和歌山が高句麗などと関係が
あることをほのめかしましたが、今回からはそれを具体的にマイペースで書く
予定です。
まずは、神話の世界から始めることにします。和歌山市内に初詣の地とし
ては三本の指に入る伊太祁曽(いたきそ)神社があります。ここは木の神であ
るイタケルを祭神にしていますが、同神社の由緒略記は新羅との関係をこう記
しました。
<五十猛命(イタケルノミコト)は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御子に
して、父神に従い天降りました時、多く樹種を持って最初新羅国すなわち韓地
(からくに)に天降り、播種植林に当たられたが、この地はふさわしい地では
ないとおぼしめされ、我が大八洲(おおやしま、日本)に持ち帰り、筑紫より
始めて我が国全土に播種植林せられたもうたのである。
・・・
また、鎮座せられたこの地を木の国(のちに紀伊に改む)と称するに至る。
すなわち「紀伊国の祖神」ともたたうべき神であらせられる>
この物語は日本書紀(720年)神代巻上の一書がもとになりました。それに
よると、高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉をはたらいたスサノオは、そこを
追放され、新羅のソシモリに息子のイタケルとともに移りました。
そのうちにスサノオは出雲に渡りましたが、息子のイタケルは筑紫に渡り
ました。イタケルは、新羅には植えなかった樹木の種をそこから植え始め、や
がて大八洲を青山にしました。のちに、かれは紀伊の紀ノ川流域に鎮座しまし
た。
最初に落ち着いたのが、これも三大初詣の地として人気のある市内の日前
神宮でした。この神社の呼び方ですが、近くにある私鉄の駅「日前宮」がニチ
ゼングウと呼ばれているためか、ニチゼンの読み方が一般的になってしまいま
した。しかし、正しくはヒノクマ神宮といいます。
日前神宮は、かってこの地方の豪族であった紀氏がまつっていた神社です
が、日前と書いてなぜヒノクマとよぶのか不思議です。ここで bodihi2002さ
んが神格の熊にえらくこだわっているようなので、それに合わせて熊との関連
をといた高階成章氏の「日本書紀における熊野」を紹介します(注1)。
<紀伊国の異郷的性格は、何としても朝鮮半島の文物の大和国への伝播通路
上の拠点というところに発生した。そしてその第一次地帯は、紀伊国でも西方
の名草郡(和歌山市あたり)がその中心となった。
名草地方が朝鮮半島との往還の要地となる以前から紀伊国の主宰神的性格
をもっていたのが日前・国懸(くにかがす)の両社であったようである。日前
と書いて「ヒノクマ」と訓(よ)ましているのは、日の神という古い称え方が
神聖なものを「クマ」と称える韓国の言葉に影響された結果であろう>
高階氏は熊を神格化した檀君神話を念頭に書いているようですが、その妥
当性はひとまずおくとして、こういう説が生まれるくらい紀の国は韓国と関係
が深かったのはたしかなようです。
伝説でしょうが、日本書紀によれば、紀臣(きのおみ)彌麻沙は百済の高
官・奈率(なそち、ナジョル)として縦横無尽の活躍をしました。その出身で
すが、欽明条に「紀臣奈率とは、たぶん紀臣が韓(から)の女をめとって生ま
れ、それで百済に留まって、奈率となったものである。その父は不詳。他もみ
なこれにならう」と記されました。
伝説の真偽はともかく、こうしたエピソードが生まれるくらい、紀の国は
百済などと密接な関係にありました。当然、百済などから高度の文化がもたら
されました。それについてはおいおいと書いていきますが、そのあらましを和
歌山市博物館で開催中の特別展「渡来文化の波」から引用します(注2)。
--------------------
ごあいさつ
モノが、技術が、そしてヒトが動きました。
1600年ほど前、中国大陸から朝鮮半島から、この和歌山の地に、大きな文
化の流れが押し寄せました。
大和(奈良)につながる紀ノ川の河口には、新しい文化の一つの入口とし
て、重要な交通路として、それに関係する多くの遺跡・遺物が残されています。
高句麗壁画に描かれた騎馬戦に見られる馬冑(うまかぶと)・馬甲(うま
よろい)など、多くの馬具を出土した楠見大谷古墳、日本国内で唯一の金製勾
玉(まがたま)を出土した木ノ本(きのもと)車駕之古址(しゃかのこし)古
墳、窯で焼かれた古い土器を出土した鳴滝遺跡や鳴神遺跡群など、朝鮮半島の
文化によく似た多くの遺跡や遺物は、和歌山と半島との深いつながりを示して
います。
今回の特別展は、渡来人と深い関係があると考えられている日本各地の遺
跡・遺物との比較によって、紀ノ川河口の和歌山平野を中心とする紀伊国にお
ける大陸からの渡来文化の実像に迫りたいと企画いたしました。
・・・
--------------------
特別展では熊本江田船山古墳の金製耳飾りや、埼玉稲荷山古墳の銘文入り
鉄剣など、日本全国の渡来文化に関係した主要な遺物をほとんど展示していま
す。
bodihi2002さん、これは韓国からも見にくるだけの価値はあると思います。
場所は和歌山市駅の近くで関西空港から30分くらいのところにあります。1
1月25日までですので、どなたもお見逃しのないよう。
(注1)金達寿『日本の中の朝鮮文化』講談社文庫,1984
(注2)和歌山市立博物館『渡来文化の波』2001 和歌山市教育委員会
(TEL 073-432-0001)
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
紀の国への渡来(2)
Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp
ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか?
2001年11月17日、メッセージ: 4181
神話で初代天皇とされる神武天皇は、九州からの東征で紀伊国から大和に
入り即位したとされますが、最近の研究によれば、5世紀代に渡来文化は紀ノ
川ルートをへて大和に伝わったともいわれているようです(注1)。
渡来文化が瀬戸内海から奈良へ伝わるには、大阪の大和川沿いに「近つ飛
鳥」とよばれた河内の羽曳野市あたりから入るか、あるいは紀ノ川沿いに葛城
とよばれた御所(ごせ)市などから入ることになります。前者はいうにおよば
ず、後者のルートも経路には葛城の室宮山古墳など渡来系遺物を多く出土して
おり、大和へ渡来文化の伝達をになったようでした。
このような影響を与えるくらい、5世紀の紀ノ川流域は先進の渡来文化に
満ちみちていました。人口密集地帯であった同地域の文化の特徴は、なんとい
っても鉄剣や鉄器をもった騎馬文化でした。なかでも古墳密集地帯にある大谷
古墳で発掘された鉄製の馬冑(うまかぶと)や馬甲(うまよろい)はとくに目
をひきます。
馬の目にあたる部分をくりぬいた戦闘用の馬冑は高句麗の三室塚の古墳壁
画などにも描かれましたが、ふしぎなことに騎馬民族国家であるはずの高句麗
で馬冑や馬甲は一例も発見されませんでした(注2)。
これは同地域の開発がすすまず発掘が盛んでないためかもしれませんが、
とにかく意外です。馬冑や馬甲が発見された17か所は、ほとんどが朝鮮半島
南部の金官伽耶や大伽耶でした。さすがは鉄の王国です。そのほか韓国ではわ
ずか一例ずつ新羅と安羅伽耶から出土しました。
日本では大谷(おおたに)古墳と遠く埼玉(さきたま)古墳群の将軍山古
墳から馬冑が一例ずつ、滋賀県の甲山古墳から馬甲が発見されました。これら
は渡来品とみられます。
大谷古墳からはほかにも金銅製の鞍や鈴がついた剣菱型の杏葉(ぎょうよ
う)、f字型の鏡板付クツワなどみごとな馬具が発掘されました。さらに、椒
(はじかみ)古墳からは蒙古鉢型カブトまで出土しました。いずれも渡来品と
みられます。
さらに、鳴神遺跡の円墳や方墳の溝からは馬の歯が数か所でみつかりまし
た。同地では歯以外に骨は残っていないのですが、埋められていた溝の幅から
するとそこには馬の頭部だけが埋められたようでした。これは大阪河内の例か
らみて、馬の頭を切り落として祭祀に使ったものとみられます。
さて、馬の飼育には多量の塩が必要になるそうですが、紀ノ川河口で全国
でも最大級の製塩遺跡が見つかりました。これらを総合して和歌山市立博物館
はこう記しました(注2)。
「周辺からは製塩土器や韓式系土器・陶質土器も多く出土することから、河
内地方と同様に渡来系の人々による馬の飼育と馬の頭部を使った祭りが執り行
われていたと推定される」
土器についていえば、流域の西庄遺跡や岩橋(いわせ)千塚古墳群、六十
谷などから杯や高坏(たかつき)、家型はそう、壺、紡錘車など朝鮮からもた
らされた多くの陶質土器や韓式系土器が発掘されました。
また、これらをもとに流域の砂羅谷では大阪の陶邑(すえむら)とならん
で早くから須恵器窯が築かれ、初期須恵器が焼かれました。さらに驚いたこと
にそれらを収納する7棟の大形倉庫群まで建てられました。その付近は須恵器
製造・流通の拠点だったようです。
そうした土と火の技術に関連してか、この地方には早くから渡来文化であ
るカマドが普及しました。日本で西日本はカマド、東日本は囲炉裏(いろり)
が主流になりましたが、カマドはつぎのように炊事に変革をもたらしたようで
した(注2)。
--------------------
縄文時代から弥生時代には、竪穴住居の真ん中に火処としての炉がつくら
れるのが一般的だったが、古墳時代中期に壁際の炉のまわりに土をドーム型に
盛り上げて築く竈(かまど)が伝えられた。
竈では甕(かめ)や鍋の底に直接火を当てることができ、熱を逃がさずに
効率良く使うことができる。本格的に蒸すことのできる甑(こしき)も同時に
伝わった事により、調理方法が大きく変化した。
和歌山市田屋遺跡では全国的にみても早い段階の5世紀中頃の竈をもつ住
居跡が発見されており、短いながらも煙道が壁際にのびるオンドル状の竈をも
つ例もみられる。オンドルとは朝鮮半島及び中国東北部でみられる床暖房の施
設で、炊事用の竈から床下に煙道を伸ばし、燃焼の煙で床を暖める寒さ対策の
施設である。
--------------------
紀伊国は気候が暖かかったためか、結局ここでもオンドルは普及しません
でした。その一方でカマドは韓竈(からかまど)とよばれ、西日本に広く普及
しました。
なお、渡来文化の影響は死後の世界にまでおよびました。大陸に起源をも
つ横穴式石室の墓制が紀ノ川流域に早くから伝わりました(注2)。
「5世紀中~末頃の当地方の首長墓としては、紀ノ川の北岸に展開する車駕
之古址(しゃかのこし)古墳や大谷古墳があげられる。また同じ頃、それまで
の埋葬方法とは全く異なる横穴石室が、橋本市陵山古墳、有田市椒古墳、岩橋
千塚古墳群中の大谷山6号墳で築かれている。
横穴式石室の採用は九州からは遅れるものの近畿地方のなかでは早い段階
に位置づけられる。この墓制も源流は中国や朝鮮半島の百済にたどることので
きるものであり、直接的ではないかもしれないが、渡来系の要素をもった埋葬
方法と理解される」
百済の墓制でもあった横穴式石室が紀ノ川流域に早くから取り入れられた
のは、この地方の豪族でかつ日本書紀で百済の高官とされた紀臣彌麻沙(きの
おみみまさ)もどきの人物が存在し、あるいは渡来したためかもしれません。
日本書紀以外にも紀伊国と朝鮮との密接な関係は文献に残りました。岸俊
男氏はこう記しました(注3)。
--------------------
日本霊異記の一つの説話の中心人物になっている老僧観規(かんき)は、
紀伊国名草郡の人で、俗姓を三間名(みまな、任那)干岐(かんき)といった
旨が伝えられている。
さらに播磨国(はりまのくに)風土記には呉勝(くれのすぐり)が韓国
(からくに)から渡来して、はじめ紀伊国名草郡大田村に住みついたという伝
えがみえる。名草郡は紀ノ川の下流、現在の和歌山市を含む地域で、さきに考
察したように、そこは紀氏の分布の濃厚に認められるところである。
以上の史料はいずれも紀氏に直接関係したものではないが、間接的にその
地と朝鮮との結びつきが推定される以上、それらを紀氏と朝鮮との特殊関係を
推測する傍証としても、あながち附会の説とはいえないであろう。
--------------------
このように、文献からも遺物からも紀伊国には朝鮮半島から「モノが、技
術が、そしてヒトが」渡来して先進文化地域をなしたようでした。しかし、そ
の度合も6世紀になると相対的にうすれていったようでした。それは多くの地
で渡来文化が定着し、紀伊国の特異性が目立たなくなったためだったようで、
市立博物館はこう記しました(注2)。
--------------------
6世紀にはそれまでの5世紀代に較べて渡来系遺物の姿は目立たなくなる。
しかし、国内の各地で須恵器窯が開かれ、国産の馬具も全国各地の古墳から出
土するようになる。その意味では渡来文化が浸透し、定着した時期であったと
言える。
6世紀前半頃に築かれた県内で最大級の前方後円墳である和歌山市井辺
(いんべ)八幡山古墳(全長88m)からは装飾付須恵器、力士埴輪、鷹型埴
輪など、大陸の習俗と関連する遺物群が出土している。
また、さらに新しい6世紀後半~7世紀前半頃の横穴式石室からはミニチ
ュア炊飯具がセットで出土する例がある。これらの遺物から古墳時代後期の葬
送儀礼における渡来文化の様相をみてみたい。
1.相撲・・・
2.角杯・・・
3.鷹狩り・・・
4.装飾のある須恵器・・・
5.ミニチュア炊飯具の副葬・・・
--------------------
7世紀になると、紀ノ川流域でも須恵器窯の数が急増しましたが、それと
同時に須恵器はもはや渡来文化の範疇には入らなくなりました。日本化の達成
といえます。
同時に渡来文化も単純なモノからやがて学問や仏教、建築、美術など高度
なものへと変容していきましたが、これらの面で紀ノ川流域は先進的な役割を
果たすことはありませんでした。それどころか、しだいに時代に遅れをとるよ
うになってしまいました。
(注1)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998
(注2)和歌山市立博物館『渡来文化の波』和歌山市教育委員会,2001
(注3)金達寿『日本の中の朝鮮文化4』講談社文庫、1984
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
紀の国の漁民
Yahoo! 掲示板、http://yahoo.co.jp
ホーム>地域情報>世界の国と地域>大韓民国>日本人は百済から来たのか?
2001年11月18日、メッセージ: 4194
半月城です。
紀州の人が移住した地とは南房総の勝浦でしょうか? ケースは違うので
すが、たしか戦時中に勝浦近辺へ済州島から海女が移住しました。紀州の漁民
はどうして移住したのか興味あるところです。
そこに移住した紀州人の形質が独特とのことですが、南紀あたりは黒潮の
流れに乗って南方系の形質をもった人の渡来があっても不思議はありません。
一般的には古墳時代すでに紀南まで畿内古墳人が進出したため、紀州人は弥生
タイプの畿内人とほとんど変わりないとされています。
しかし、田辺市磯間岩陰で発掘された人骨からすると、古墳時代、南紀の
一部地域には古い形質が残されたようでした。ただ磯間岩陰人も個人差が大き
くバラエティに富んでいるようです。そのなかで、特別興味ある形質をもった
古墳人を池田氏はこう記しました(注)。
--------------------
大和政権との関わりを示す副葬品をともなって葬られていた男性は、この
地方の漁民集団の長だったと考えている。30代後半と推定されるこの人物の
特徴は、顔・鼻・眼窩とも広く低く、また鼻根部の隆起が強いなど、その顔は
前から見ても横から見ても縄文人に酷似し、身長も低く、四肢骨の形態も縄文
的だった。
4世紀末には、海部(あまべ)直とか海部首(おびと)とよばれる氏族に
ひきいられ、古代国家の体制にくみいれられた漁民集団がすでに存在したとい
われている。
磯間の漁民集団のような世襲的・同族的な職業集団は弥生時代の漁労集団
の後身であり、なかにはその系譜が縄文時代までたどれるものもいたにちがい
ない。
--------------------
移住した紀州人は、この記述にすこしはあてはまるでしょうか?
話かわってスサノオですが、新羅のソシモリから倭に渡ったとかのエピ
ソードは韓国の伝説にまったく登場しないようです。韓国で古代の伝説は『三
国遺事』あるいは『三国史記』につきるようですが、そこには日本の神話との
接点はあまりないようです。
(注)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998
クナシリ、エトロフの帰属
Lycos 掲示板167「日本の領土問題」
http://board.lycos.co.jp/society_mass_media/abroad/board/index.php3?qid=167&cn=54
01/12/24 #37
日本はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄しましたが、そのなか
に北方4島が入っているのかどうかは領土問題を考えるうえで非常に重要であ
り、願望とは別に冷静に判断すべきです。
まず、4島が入っていないとする見方ですが、アメリカ政府はこの立場に
たちます。1954年、北海道付近でアメリカの飛行機が撃墜されるという事件が
起こりましたが、これに関連してアメリカはソ連に下記の書簡を送りました。
<これら(ヤルタ協定やサンフランシスコ条約)の文書における「千島列
島」という辞句は、従来常に日本本土の一部であったものであり従って正義上
日本の主権下にあるものと認められるべき歯舞諸島、色丹島又は国後島、択捉
島を含んでもいなければ含むように意図されもしなかったということを繰り返
し言明する(注1)>
この書簡は、冷戦時代にあって自国の勢力圏を拡大するため世界のいたる
ところで鋭く対立していた米ソの政治的かけひきの産物であり、アメリカは北
方4島が千島列島に属さないとする裏づけ資料や文献など何も示さず、一方的
な解釈を述べたものでした。
さりながら、サンフランシスコ条約で主導的な役割を果たしたアメリカが
日本の肩を持って、千島列島に北方4島が含まれないと判断したことは日本に
追い風になりました。現在、日本の外務省がこの見解をとっています。
しかし、外務省とてそれを証明しうるような材料はほとんど持ち合わせて
いないようです。それどころか、日本に不利な材料が多々残されました。
まずは吉田発言です。サンフランシスコ平和会議に全権として出席した当
時の吉田茂首相は次のように発言し、公式に北方4島のうちクナシリ、エトロ
フは「千島南部」であることを言明しました。
「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることに
ついては、帝政ロシアもなんら異議をはさまなかったのであります(注1)」
吉田元首相がこう語るのも無理はありません。地図ではどうみてもクナシ
リ、エトロフは千島列島の一部にみえます。そのうえ、さらに千島列島の範囲
を示唆する国際的な取り決めがあります。GHQ指令 SCAPIN 677号です。
1946年、占領軍の連合国総司令部(GHQ)は指令「若干の外郭地域の日
本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書(SCAPIN 677
号)」を発令しましたが、そのなかで日本をこう規定しました。
SCAPIN 677号
3.この指令において日本とは、日本の主要4島(北海道、本州、九州、四
国)及び約1000の隣接諸小島を含むものと規定する。上記の隣接諸小島は、
対馬諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含み、次
の諸島を含まない。
(a)鬱陵島、リアンクール岩(竹島)、済州島
(b)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆、南方、小
笠原及び火山(硫黄)群島ならびに大東諸島、沖之鳥島、南鳥島、中之鳥島を
含む他の全ての外郭太平洋全諸島
(c)千島列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)及び
色丹島
この指令は領土を最終的に決定するものではありませんが、クナシリ、エ
トロフが千島列島に入るかどうかを知るには重要な資料になります。両島は条
文に明示されていませんが、両島も指令全体にいう諸小島に含まれることは指
令の趣旨や文脈から明らかであることと思います。GHQが日本に隣接した諸
小島を規定するのに多楽島のような小島まで記述する一方で、大きなクナシリ、
エトロフだけを抜かしたとはとうてい考えられないからです。そうなると北方
4島は(c)項に入ることになります。すると、ハボマイ、シコタンは千島列
島に入らないが、クナシリ、エトロフは千島列島に入るとするのが国際的な理
解になります。
こうした過去の国際的取り決めからすれば、アメリカの政治的発言はとも
かく、日本政府の<国後、択捉両島は、日本の固有領土であって、サンフラン
シスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれない>という公式見解の後
半は無理であるし、とうてい国際社会には通用しそうにありません。
もっとはっきり書くと、日本はサンフランシスコ条約でクナシリ、エトロ
フを放棄したといえます。なお念のために書くと、私は、北方4島は最終的に
日本に帰属すべきであると考えていることをつけ加えます。
(注1)『われらの北方領土』2000年版、外務省国内広報課
サンフランシスコ条約の代償
Lycos 掲示板167「日本の領土問題」
http://board.lycos.co.jp/society_mass_media/abroad/board/index.php3?qid=167&cn=54
01/12/29, #49
北方領土が重要かどうかは比較の問題になります。サンフランシスコ条約
で千島列島の一部をなすクナシリ、エトロフを放棄したのは、さして重要でな
いという判断があったからと思われます。両島を重要視するなら、日本はサン
フランシスコ条約に調印しなかったはずです。
日本が両島を放棄してでも得たかったのは、占領軍からの独立でした。し
かし、それは両島の放棄だけで達成できるような性質のものではありませんで
した。悲願達成のために、もっと大きな琉球列島の長期放棄まで容認しました。
ただ、こちらの放棄は「天皇メッセージ」の既定路線に従ったまでですが。
結局、北ではソ連の占領を、南ではアメリカの占領を容認する形で日本は
サンフランシスコ条約を結びました。すべて犠牲を覚悟し、納得済みで行った
ことです。
その後、琉球列島は大きな犠牲や代償の末に取りもどしました。北方領土
についても、今さら条約改定などは思いもよらないので、両島を取りもどすに
はそれなりの大きな代償や努力、妥協などが必要なのはいうまでもありません。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。