半月城通信
No. 85

[ トップ画面 ]


  1. 人生相談、結婚
  2. 人生相談、就職
  3. 二重国籍のメリット
  4. 3本足のカラス
  5. 竹島=独島貸下願
  6. 竹島=独島領土編入の閣議決定
  7. 竹島=独島と日本の軍事侵略
  8. 明治期の竹島=独島、鬱陵島年表
  9. 島根県告示と保護条約
  10. 「竹島掲示板」の閉鎖


【人生相談回答集】   ふだんは日本人とほとんど変わりないようにみえる在日韓国・朝鮮人も、 いざ就職や日本人との結婚ともなると思わぬ問題が起こることがあります。時 にその問題の根は深く、関係者は深刻になりがちです。   私はそうした相談をたまにメールで受けますが、同じような問題を抱えて おられる方々にとってそうした相談例は参考になるのではないかと考え、ここ に代表的な私の回答を紹介します。なお、プライバシー保護のため、文中で名 前は伏せ字にしました。 【在日韓国人との結婚(1)】  結婚問題となると、ご両親はあれこれ心配し、時には猛反対して当然と思い ます。ましてや、外国人との結婚ともなれば心配の種はつきないでしょう。 その親を説得できるのかどうか、試練のときだと思います。  ご心配されている風習の違いですが、在日韓国人3世ともなれば見かけは日 本人と変わらないのですが、極端なケースでは、青森県の人と鹿児島の人が結 婚するくらいの違いはあると思います。  一番の感覚の相違は親戚づきあいと思われます。2世のとらえ方では親戚を 文字どおり親戚として大事にします。ざっくばらんにいうと、はとこくらいの 遠い親戚を、日本の感覚でいうと、いとこくらいに近く感じるのが普通です。 したがって、3世でも嫁さんより親を大事にするようなケースもあり得るかも しれません。  こうした風習の違いもさることながら、問題は在日韓国人にたいする社会の 侮蔑意識にあると思われます。結婚はいうに及ばず、部屋を借りるときや、就 職のとき、あるいは子どもの籍などにそれが如実にあらわれます。くわしいこ とは「半月城通信」に書いたとおりです。そのURLは下記です。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/  そうした問題に対してどうハラをくくるのかがポイントになります。将来そ んな場面に遭遇したときに在日韓国人との結婚を後悔するようであれば、本人 だけでなく配偶者にとっても親にとっても周囲の人すべてにマイナスになりま す。その懸念があるうちは、結婚は見合わせたほうがいいのではないかと思い ます。  なお、ケースは違うのですが、日本人男性との結婚を控えた在日韓国人女性、 Kaeさんの話などが読売新聞に紹介されていますので、下記に紹介します。 このシリーズでは在日韓国人関係の話題やホームページがいろいろ紹介されて いますので、きっとご参考になると思います。 http://osaka.yomiuri.co.jp/oh_net/nakama2.htm 【在日韓国人との結婚(2)】   半月城です。文面からすると相当お苦しみのようですね。ふだんは見えな い韓国・朝鮮人差別も結婚や就職になると、日本人の深層にある差別意識をひ きだし無慈悲なものになりがちです。   とくに結婚の場合、差別をする人が家族の幸せを願う両親や肉親で、愛情 を出発点にしているだけに解決はなかなかむずかしいようです。この点、** さんの認識は甘かったようです。   **さんの年齢からすると、両親の世代は今より数倍ひどい差別意識をも っている人たちなので、よほどしっかりした作戦を練らないと説得は困難だと 思われます。おまけに問題が暗礁に乗り上げた後だけになおさらです。   この状況でどうするかですが、つまるところ、**さんの決心次第です。 決意が固いのであれば、硬軟両様、つまりご両親の説得を冷静に継続する一方、 自分の決意を実行に移す姿を示す必要があるのではないかと思います。   その際、重要なのは、自分の決意は一時的、衝動的なものではなく、冷静 に熟慮した結果であることを、ご両親はもちろん自分自身も納得することです。 この原点をしっかりもたないと、将来、歯車が狂ったときに短慮を後悔し、自 分自身の人生を後悔し、後ろ向きに生きることになりかねません。これは家族 全員をも不幸にしてしまうものです。   障害をどう乗り越えるのか、その対処過程は人間的に一段と成長するチャ ンスです。それを乗り越えて、**さんが幸せになれば、それはご両親の喜び に変わることでしょう。私はそのようなカップルの実例を多くまのあたりにし ています。   おわりに、他人のメールは公開するようなことはしませんので、ご安心く ださい。


【在日韓国人の就職(1)】   半月城です。とりいそぎ簡単に返事を書きます。 突然の内定取り消しでさぞや気が動転していることと思います。こんな時はま ず結論を急がないことが重要ではないかと思います。   考えらることをいくつかあげて見ます。 1.***さんには何ら落ち度はないようです。会社規定云々は内定取り消し  の理由にはならず、突然の取り消しは常識的に理不尽です。また法的にもお  そらく取り消しは不可能なはずです。 2.秘書課勤務が規定に合わないのなら、他の部署に配属してもらう。  ただし、この場合は将来、陰険にいびりだされる可能性がありそうです。 3.条件をつけ、会社に見切りをつける。  このようにすこし常軌を逸した会社に無理に就職しても、自分にプラスにな る可能性は薄いかもしれません。金銭的に解決するのも一法です。 4.弁護士に相談する。  私は弁護士ではありません。一介の会社員です。こうした相談に適当な 弁護士としては、金敬得氏が思いつきます。この人については書籍、  良知会編『100人の在日コリアン』三五館発行 に紹介されています。連絡先は第二東京弁護士会(電話番号は104に問い合 わせ)で教えてくれます。 5.月曜に会社に連絡するときは、「弁護士に相談してみる」旨を相手に伝え たほうがいいと思います。その時、上記の弁護士の名前を明らかにすることは どんな選択肢の場合でもそれなりの効果があります。実際に弁護士に頼むかど うかは相手の反応をみて、さらに弁護士に費用を相談して決めればいいと思い ます。 6.この問題は民族差別の問題があるいはからんでいるのかもしれません。日 立就職差別事件(半月城通信、1.差別問題、参照)を連想させます。もし、 そうだとしたら、そうした不正義を許さないという心構えで対処したほうがい いかもしれません。 7.泣き寝入りをする。  この場合、あなたの人生に敗北感を傷として残すかもしれません。  この出来事はあなたを成長させる一つの試練です。それを活かせるかどうか 落ち着いて対処してください。 【在日韓国人の就職(2)】   大学を卒業してまったく就職がないとは、聞いて胸が痛みます。今でも就 職差別が激しいのでしょうか。彼氏も、あなたもさぞかし困っていることでし ょうね。どうすべきかあまりいい知恵もないのですが、多少自分の希望にそぐ わなくても、ともかく就職できるところを探すしかないと思います。   現在は昔と違って、えり好みさえしなければ就職口はいくらでもあるので はないかと思います。私の若いころはともかくまともな就職口はほとんどあり ませんでした{半月城通信、2.市民権、<6.帰化と差別(2)>}。   一般に自分が不利な状況に置かれたら、人一倍努力しないと自分のハンデ を克服できません。たとえば、専門知識を身につけるとか、外国語に堪能にな り差別のすくない外資系の会社をねらうとか、なにか一工夫必要ではないかと 思います。それが何であるかは人それぞれですが。


二重国籍のメリット メーリングリスト[zainichi:20505] 2001年10月22日   半月城です。リムさん、いろいろ回答をありがとうございました。   日本や韓国などは、今は成人の二重国籍を認めなくとも、いずれは西欧諸国のよ うに認める方向に転換するだろうと思います。   これは釈迦に説法でしょうが、かって西欧諸国でも二重国籍は回避すべきもので あり、1963年には重国籍削減協定が結ばれたほどでした。それは二重国籍を認めると 次のようなデメリットがあると考えられたからでした(注1)。 国家のデメリット (1)戦争や緊急事態において、国民の忠誠心を欠くおそれがある。 (2)国家の裁判所の決定から逃れる者がいる可能性がある。 (3)両国での二重投票のおそれがある。 個人のデメリット (4)両国が保護義務を感じなければ、外国で外交保護を受けられない。 (5)結婚、離婚、相続権などで複雑な法的状態を招く。 (6)複数の国で兵役義務を課されるおそれがある。   西欧諸国でこれらの問題点はすでにクリアーになったのですが、日韓の場合どう なるでしょうか。もし、在日韓国人が日本国籍も取得した場合、上記の(2),(3),(6) はその可能性がなく問題になりません。(4)と(5)は国際的に処理方法が確立されてい るようで問題はないようです(注2)。   残るのは(1)の忠誠心ですが、これは東京都の石原慎太郎知事あたりが一番問題 にするところです。西欧諸国はこの問題をクリアーした結果、1997年にヨーロッパ国 籍条約を結び、EU市民権を導入しました。   その論理ですが、一つの国への排他的な忠誠の観念は時代遅れであり、EU市民 権の導入は人の国際移動、国際結婚、平等原理の貫徹からもたらされる不可避の結果 であり、二世や三世にとっては二つの国家の人々との交流と忠誠の法的表明でありう るとされました(注1)。   西欧諸国ほど国際化が進んでいない日本の現状は、石原知事のいうような排他的 な忠誠心の要求が幅を利かせていますが、私は両方の国に愛着を感じる二重国籍者の 存在はむしろ友好や安全保障の観点から好ましいのではないかと思います。   つまるところ、両国が友好的になるよう切実に願うのが二重国籍者であり、とき には両国の架け橋たらんと積極的に行動する可能性が一番高いのが二重国籍者ではな いかと思います。こう考えれば、日韓両国にとって日韓の二重国籍者はむしろ歓迎す べき存在であるように思われます。   こうしたメリットに加え、一般に二重国籍の容認は、国家にとって外国で活躍す る自国人の有為な人材の囲い込みという実利もあるのではないかと思います。外国で 活躍しているスポーツ選手やノーベル賞級学者などを二重国籍容認により自国籍人と して確保しておけば、いつかその人が故郷に帰国して錦をかざる可能性があります。   卑近な例でいえば、ノーベル賞の江崎氏や利根川氏などは長年の外国生活のすえ に帰国しました。もし、かれらが途中で米国籍に切り替わってしまっていたら、日本 にとって損失だったにちがいありません。そんなとき、二重国籍容認は安全弁になり ます。   こうした人材は希有な存在なので一般論には不向きですが、もちろん庶民レベル の人材でもそれなりの役割は可能です。現状では、元在日韓国・朝鮮人の帰化した人 は、多くは韓国・朝鮮と遠ざかる方向にいってしまいがちですが、もし、韓国・朝鮮 も二重国籍を認めるなら、そうした人々の目を自国に向けつづけさせるのに役立つ し、その中からいずれは自国に貢献する人も現れることでしょう。   一方、日本はこれから少子高齢化時代を迎え、いずれ外国人労働者の移入が不可 避ですが、かれらとの関連も考慮する必要があります。かれらを異邦人として労働力 だけつまみ食いするのか、地域社会に融合させるべく地方「参政権」を付与するの か、それとも日本の国籍を与え自国民として統合する方向に進むのか、将来のビジョ ンがそろそろ問われます。   その際、一世はともかく、生まれてきた二世などを法的な差別なしに平等に処遇 するとなると、その子どもに日本国籍を与えるしかないことはいうまでもありませ ん。したがって、平等原理の貫徹のためにも二世、三世には無条件で日本国籍を与え るべきです。この面からも重国籍は容認されるべきです。 (注1)近藤敦『外国人参政権と国籍』明石書店、2001 (注2)上記の近藤氏はこう記しています。  <一般には、(4)の外交的保護と(5)の法制度の抵触の問題は、国際法上、その者が 一方の国籍国にあるときには、その国の国籍に基づき、第三国にあるときには「その 者が平常かつ主として居住している国か、その者と事実上もっとも関係の深い国の国 籍」である「実効的国籍」概念にもとづいて処理される>   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


三本足のカラス Yahoo! 掲示板「日本人は百済から来たのか?」 http://messages.yahoo.co.jp/ メッセージ: 4076 2001年11月04日   bodihiさん、こんばんは。半月城です。   三本足の烏ですが、広辞苑によれば、太陽の中にいるという三本足の赤色 の烏を八咫烏(やたがらす)といい、太陽を金烏(きんう)といいます。   八咫烏は、伝説では初代天皇である神武天皇の軍が熊野,吉野を越えて大 和へ入ろうとするとき,ヤタガラスが日の神であるアマテラス大神(古事記で は高木大神)の命で派遣され,先導をつとめたとされます。   これに由来してか、いまでも天皇の礼服の紋章や、あるいは天皇の即位や 元旦朝賀の儀式の幢(はた)には三本足の烏が描かれているそうです(注)。   一方、熊野ではこの故事にならってか熊野神社の御神紋は三足烏とされま した。熊野神社は、平安時代になると「熊野詣で」が流行し一層栄えましたが、 そのとき東京にも熊野神社が陰陽師(おんみょうじ)の安部清明により創建さ れたようです。同神社では三足烏の御神紋をこう説明しています。        --------------------   御神紋について                       熊野神社   この烏は、八咫烏(ヤタガラス)と言われ神武天皇に関する「古事記」 「日本書紀」の神話にあるカラスの名称です。神武天皇が熊野から大和へ向う 途路、山路が険悪で道に迷った時、アマテラス大神が夢に現われ、八咫烏を先 導とすることが教えられ、この烏の先導により無事大和に入ることができたと 言われ、以来このカラスを神の御使とされました。  ・・・   また三本足の烏は、シナ(ママ)では、太陽に棲む瑞鳥(めでたい鳥)と され、わが国最初の日章旗の日像には、三本足の烏が描かれていた。この旗は、 明治天皇即位の大礼を期に、今日の日章旗に改められる迄、天皇即位式に掲げ られてきました。        --------------------   三本足の烏は天皇関係以外でもけっこう使用されているようです。萩原氏 が調べたなかから主なものをあげてみます。  日本サッカー協会の旗、校章、疱瘡よけのお札、雑賀衆(さいがしゅう)の 軍旗、棟方志功の絵、玉虫厨子の須弥山図、日天菩薩、十二天図などの仏像、 祇園祭(京都、土浦、成田)などの鉾(ほこ)、勿来(なこそ)田楽、鹿島踊 り、天道念仏、祭礼・・シシテンガイなどー高句麗の装飾古墳、・・・   このように三本足の烏は日本にある程度定着しましたが、bodihiさん、韓 国ではいかがでしょうか? 単に、高句麗古墳の中だけでしょうか? (注)萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島貸下願 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2494 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年10月8日   半月城です。前回は、1900年ころの明治政府関係機関のすべてと島根県が リエンコールト岩(竹島=独島)を朝鮮領とみていたことを記しましたが、こ うした認識は官公庁のみならず、民間にも浸透していました。   1905年、地理学者の田渕友彦は『韓国新地理』を出版しましたが、そのな かの江原道鬱陵島の項目でとくに竹島=独島にふれ、同島を「ヤンコ島」とし てこう紹介しました(注1)。  「本島(鬱陵島)より東南方約三十里、我が隠岐島との殆ど中央に当り無人 の一島あり。俗に之をヤンコ島と称す。長さ殆ど十町余、沿岸の屈曲極めて多 く、漁船を泊するに宜しと雖(いえども)、薪材及び飲料水を得るに困難にし て、地上を穿(うが)つも数尺の間容易に水を得ず。此附近には海馬(アシ カ)多く棲息し又海産に饒(ゆたか)なりといふ」   リエンコールト(リヤンコ)が韓国領という認識は、さらに島根県の漁師 にも浸透していたようでした。後日、結果的に日本がリヤンコ島を領土編入す るきっかけをつくった島根県の漁師・中井養三郎は、この島でのアシカ猟独占 をめざし、同島の貸し下げ願いを当初は日本政府ではなく朝鮮政府に提出しよ うとしたようでした。のちに中井の話を聞いた奥原は『竹島及鬱陵島』(1907) でこう記しました(注2)。  「中井養三郎氏はリヤンコ島を以て朝鮮の領土と信じ、同国政府に貸下請願 の決心を起し、三十七年(1904)の漁期終るや、直ちに上京して、隠岐出身なる 農商務省水産局員 藤田勘太郎氏に図り、牧水産局長に面会して陳述するとこ ろありき。同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リヤンコ島の所属を確 めしむ。   中井氏即ち肝付水路部長に面会して、同島の所属は確乎たる徴証なく、こ とに、日韓両本国よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し、加ふるに日本 人にして、同島経営に従事せるもののある以上は、日本領に編入する方 然 (しか)るべしとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リヤンコ島領土編入 並に貸下願を、内務 外務 農商務三大臣に提出せり」   中井が当初はリヤンコ島が朝鮮領であると思いこんでいたことは、かれ自 身が書いた履歴書のなかでも下記のように確認されます(注2)。  「本島(リヤンコ)ノ鬱陵島ニ付属シテ韓国ノ所領ナリト思ハルルヲ以テ、 将(まさ)ニ(韓国)統監府ニ就テ為ス所アラントシ上京シテ種々画策中、時 ノ水産局長 牧朴眞ノ注意ニ由リテ必ズシモ韓国領ニ属セザルノ疑イ生ジ、其 ノ調査ノ為メ種々奔走ノ末、時ノ水路部長 肝付将軍断定ニ頼リテ本島ノ全ク 無所属ナルコトヲ確カメタリ」   これらの資料から、リヤンコ島が朝鮮領であるという中井の認識が転換し たのは肝付・水路部長の同島は「無所属」というアドバイスによるものである ことが明らかにされました。   水路部は、前回書いたように、『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』を編纂し、 すくなくとも1899年時点ではリヤンコ島を朝鮮領と認識していたのですが、日 露戦争(1904)を機に大きく方針転換をしたようでした。   元来、水路部とは海軍に属し、平時は一般水路情報の整備に従事しますが、 ひとたび戦時になれば直接軍事行動に必要な情報を提供する戦略機関となりま す。   肝付部長は一貫してそこに在籍し、日本水路行政を確立した専門官僚です が、日露戦争当時は朝鮮・満州沿海での軍略遂行のための作業に没頭していま した(注2)。したがって、リヤンコ島の戦略的な重要性をよく知っていた人 物だけにリヤンコ島の領土編入に積極的なようでした。   この助言に力を得た中井は方針を転換し、リヤンコ島の日本領への編入と 貸し下げ願いをまず内務省に提出しました。ところがここで強硬に反対された ようで、それを先の履歴書はこうつづけました。  「経営上必要ナル理由ヲ具陳シテ、本島ヲ本邦領土ニ編入シ且ツ貸付セラレ ンコトヲ内務外務農商務省ノ三大臣ニ願出テ、願書ヲ内務省ニ提出シタルニ、 内務当局者ハ此時局ニ際シ韓国領地ノ疑イアル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁ヲ収メ テ、環視ノ諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑ヲ大ナラシムルハ、利 益ノ極メテ小ナルニ反シテ事体決シテ容易ナラズトテ、如何ニ陳弁スルモ願出 ハ将ニ却下セラレントシタリ」   何度も書いたように、1877年、内務省は松島(竹島=独島)を版図外と判 断し、そのお墨付きである太政大臣の指令書を島根県に伝達していたので、リ ヤンコ島(竹島=独島)を韓国領と考えていたのは当然な成りゆきでした。   その「莫荒たる不毛の岩礁」を一民間人のために日本領に編入するのは、 水面下の外交を知らない内務省としては、日露戦争という時節柄、国際的な反 発を引きおこす可能性もあると考え、貸下願却下の判断はもっともなところで す。   この内務省の判断に中井がひるんでいたら、竹島=独島の歴史は変わって いたのでしょうが、かれはあきらめずに外務省に走りました。かれはそこで山 座圓次郎・政務局長に会いました。   山座は国家主義・大アジア主義をめざす玄洋社の影響を強く受け、省内に おいて小村寿太郎とならんで対外強硬・大陸進出の推進者として知られていま した。また、局長就任前、かれ自身ひさしく朝鮮の領事・公使館にあって、日 本の利権獲得のため画策奔走していた人物でした(注2)。こうした経歴から 予想されるように、かれは内務省とは正反対の時局論をもっていたようで、中 井の履歴書はこうつづけました。  「斯クテ挫折スベキニアラザルヲ以テ、直ニ外務省ニ走リ、時ノ政務局長 山座円二郎(ママ)氏ニ就キ大ニ論陳スル所アリタリ。   氏は時局ナレバコソ其領土編入ヲ急要トスルナリ、望楼ヲ建築シ無線若 (もし)クハ海底電信ヲ設置セバ敵艦監視上極メテ屈竟ナラズヤ、特ニ外交上 内務ノ如キ顧慮ヲ要スルコトナシ、須(すべか)ラク速カニ願書ヲ本省ニ回附 セシムベシト意気軒昂タリ。此ノ如クニシテ、本島ハ竟ニ本邦領土ニ編入セラ レタリ」   山座は、内務省とは反対に日露戦争という時局なればこそ竹島=独島に軍 事上の望楼を建設したり、電信施設を設置する戦略を重視し、領土編入を積極 的に推進したのでした。当時の戦況との関連を内藤氏はこう記しました(注1)。        --------------------   中井は、1904年(明治37)9月29日に「貸下願」を内務省地方局に提出 する。すでに日露戦争はこの年2月10日の宣戦布告で開幕している。そして 6月25日には対馬海峡で陸軍輸送船 常陸丸が撃沈されるなど、ウラジオス トック艦隊が日本海を南下して緊張が高まっていた。   このため日本海軍は、韓国東部と南部の海岸に望楼をもつ監視所を設置し て海底電信線で結ぶこととし、鬱陵島にも二か所が建設され、9月25日には 海底電信線が開通した。   それは2月に締結した日韓議定書において、「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収 用スルコトヲ得」と定めたことにより、日本陸海軍は韓国のどこにでも軍事施 設を設置することができたのである。   リヤンコ島にも、11月13日に海軍司令部は軍艦対馬を派遣して、電信 所設置の可否を調査させている。これは、リヤンコ島に鬱陵島と海底電信線で 連結することができる望楼が建設できるかどうかを調べたもので、日本政府に よる最初の本格的な調査であった。   望楼設置・電信所開設をリヤンコ島に必要とさせたものは、軍事的要請か らであることはいうまでもない。しかし冬季の建設工事は不可能ということで 着工が延期されている間に、翌年5月になってバルチック艦隊との日本海海戦 を迎えるのであった。   日本海海戦では、鬱陵島とリヤンコ島の周辺海域は主戦場になった。それ だけにリヤンコ島がもつ戦略的価値はあらためて重要視され、開戦直後の5月 30日に海軍は望楼建設を計画することにして、さらに詳細な調査を行った上 で、鬱陵島北部に大規模な望楼と無線電信所を建設、リヤンコ島には四人を配 置する望楼を建設して、隠岐の望楼まで海底電信線で結ぶ計画を作成したので ある。   リヤンコ島の望楼は7月25日に着工し、8月19日から活動を開始する。 ただし海底電信線は9月に日露講和条約が成立したため、当初に計画された隠 岐と結ぶことをやめて、松江と結ばれるかたちで11月9日に工事を完了する。 これにより、朝鮮本土(竹辺)と松江とは、鬱陵島とリヤンコ島を経由するこ とで軍用通信線で結ばれたのである。   このように、日本海軍が鬱陵島とともにリヤンコ島について、その戦略的 役割を注目していた時期に、中井によるリヤンコ島「貸下願」が提出されたの である。中井が内務省に提出した1904年(明治37)9月29日は、前述したよ うに鬱陵島に海底電信線が開通した直後の時期であり、つづいてリヤンコ島に 延長する計画が具体化されようとした時期であることに、特に注目しておかな ければならない。        --------------------   外務省が強気に領土編入を推し進めた背景には、欧米列強にたいする対策 がかなり進んでいたことがあったようでした。9年前、日本帝国は狼どもに仁 義を切るのを怠ったゆえに、欧米列強の干渉に屈して遼東半島を清国に還付し ましたが、その教訓からか狼どもとの協調も怠りなく進めていました。   1902年にはイギリスとの間に日英同盟を結ぶ一方、アメリカとも協調をす すめ、韓国とフィリッピンを天秤にかけた「桂タフト密約」(1905)の地盤作り を進めていました。その結果、内務省のいうような列強の目を気にする必要は もはや薄れていました。   こうした狼どもの野合をバックに日本は韓国にたいする侵略を強め、うえ に書かれたように1904年2月には日韓議定書を強要し「軍略上必要ノ地点ヲ臨 機収用スルコトヲ得」るようにしました。   さらに同年8月、第1次日韓協約を押しつけ、韓国政府内に日本人の財政 顧問をおき、日本経済に好都合な政策を強制しました。そればかりか、協約で 日本の推薦する外国人の外交顧問をおくことを認めさせるとともに、重要な外 交案件は日本政府と協議するよう規定しました。着々と韓国にたいする侵略を すすめていきました。   このような情勢であれば、リヤンコ島(竹島=独島)を無所属と強弁し、 そこでの中井の数年にわたる操業実績から「無主地の先占」を口実に領土編入 することはいともたやすいことでした。   こうした展開で今日重要なのは、このときの日本はリヤンコ島を「日本の 領土」として認識していなかった点です。そのために「領土編入」という用語 が閣議でわざわざ使用されたのですが、これは次回に記します。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24号'87


竹島=独島領土編入の閣議決定 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2505 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年10月14日   半月城です。<「松島」伺い>などと架空の文書を捏造するようなことを する人とのこれ以上の対話は無益なので、裁判ごっこにつきあうのもこの辺で やめにし、引き続き明治期の真実を追究するシリーズに重点をおきたいと思い ます。   かって、kunitakaさんはこう記しました。 >竹島も尖閣諸島と同様に、戦争と因果関係があると思います。   この言葉にふさわしく、日露戦争の真っ最中に大日本帝国はリヤンコ島 (竹島=独島)の軍事的価値に注目し、同島の「領土編入」を決定しました。   1904年(明治37)9月、明治政府は中井養三郎から内務・外務・農商務三 大臣に申請された「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を受理しました。これを 実行すべく、内務大臣は翌年1月リヤンコ島の領土編入を閣議に提出し承認さ れました(注1)。   そのときの論理は、「無主地」である竹島=独島に 1903年来、中井が 「移住」したので、これを国際法上の占領と認め、日本の領土に編入、名前を 「竹島」とし、所管を島根県隠岐島司とするというものでした(注2)。   かって、内務省は中井の「貸下願」にたいし「韓国領地の疑いある」と考 え強硬に反対していました。それが「戦時下なればこそ」という外務省の主張 を受け入れ、一転してリヤンコ島を無主地とみなし、貸下願を受理、許可する 方針に転換しました。kunitakaさんのいうように、戦争との因果関係は濃厚で す。   また、閣議決定では中井の「移住」をもって「無主地」の占領としていま すが、竹島=独島は民間人が居住できるような島ではなく、一時滞在はともか く、中井が竹島=独島に本格的に居住した事実はありませんでした(注5)。   それはさておき、この閣議決定で重要なのは、明治政府はそれまで竹島= 独島をみじんも日本の領土とは考えていなかった点です。竹島=独島に領土意 識がなかったことは、私がこれまで書いてきた江戸・明治時代の歴史的経緯か らすれば当然の帰結といえます。   元禄時代から日露戦争まで実に200年以上も日本は竹島=独島を日本の 領土とは考えていなかったのにもかかわらず、現在、外務省が「竹島は日本の 固有領土」と主張しつづけているのは、欺瞞的な行為といわざるを得ません。   この言動が日本国民の認識を誤らせたばかりか、時として首相までがその 尻馬に乗り「竹島は一点の疑いもなき日本固有領土」と日本国民をあおり立て るような発言をして、結果的に日韓間に竹島=独島問題の第三次緊張(1977)を もたらしました(注3)。罪作りな話です。   ま、外務省は「無主地」と「固有領土」の主張はおたがいに矛盾すること はわかってはいても、「固有領土」の主張をしないことには、竹島=独島はカ イロ宣言(1943)に該当する島であるという主張に抗弁することがむずかしくな りますので、そうするしか仕方がないのかもしれません。   カイロ宣言ですが、日本はこれをポツダム宣言受諾で間接的に受け入れま したので、これをもちろん順守する義務があります。同宣言はこう規定しまし た(注4)。  「右同盟国の目的は日本国より1914年の第1次世界戦争の開始以降に於て日 本が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること 並に満 州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国 に返還することに在り 日本国は又暴力及貪欲(どんよく)に依り日本国の略 取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」   明治時代、竹島=独島は「韓国領地の疑いある」としていたのに、それを 軍事施設をつくるためもあって同島を「無主地」と強弁し、小笠原諸島の場合 のような関係国との協議もなく領土編入した竹島=独島は「暴力及貪欲に依り 日本国の略取したる」島とのそしりをうけかねません。   日本の外務省はこうした歴史が明確になるのをきらってか、竹島=独島に 関する広報活動は活発に行っていないようです。わずかにホームページにおざ なりの解説をのせているくらいでしょうか。   これは、北方領土問題では100ページあまりの広報資料(注4)を積極 的に無料配付している姿勢に比べると、あまりにも対照的で熱の入れ方が格段 に違います。最近の外務省は竹島=独島問題では自信を喪失しているのでしょ うか。   外務省は竹島=独島の歴史をもっと広くアピールして、竹島=独島問題の 真実をもっと公開すべきではないかと思います。とくに明治期における閣議決 定の内容や太政大臣の松島・竹島放棄など、語られなかった歴史を積極的に取 りあげるべきではないかと思います。   ただ、こうした方向は外務相自身の首を絞めることになりかねないので、 官僚の事なかれ主義の本性からすると不可能かもしれません。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注2)「領土編入」の閣議決定(1905.1.28)、(注1)より引用   別紙内務大臣請議 無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ 右ハ北緯三十七度 九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ隔ル西北八十五浬ニ在ル無人島 ハ 他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク 一昨三十六年 本邦人 中井 養三郎ナル者ニ於テ 漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘテ海驢(あしか)猟ニ 着手シ 今回領土編入並に貸下を請願セシ所 此際所属及島名ヲ確定スルノ必要 アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ 自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントスト 謂フニ在リ 依テ審査スルニ 明治三十六年以来中井養三郎ナル者 該島ニ移住 シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実 アルモノト認メ 之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ 差支無之 儀ト思考ス 依テ請議ノ通 閣議決定相成可然ト認ム (注3)梶村秀樹「竹島=独島問題と日本国家」『朝鮮史と日本人』明石書店, 1992 (注4)外務省国内広報課『われらの北方領土』2000年版 (注5)島根県調査団の奥原碧雲は『竹島及鬱陵島』(1907)にこう記しました。  両大嶼相対する処、東嶼の沿岸に狭小なる砂礫浜あり。夏期漁猟者の仮住す る処にして、漁舟はすべて、この砂礫上に引き揚げおくなり。されど、風浪激 烈なる時は、往々破砕流失することあり。  また岩石崩壊して危害を及ぼさんとすることあり。されど、この処を措きて、 全島中猟小屋を構ふべき地なく、内地より輸送せる食物飲料水により僅に生活 するなり。もし飲料水欠乏する時は、やむを得ず東嶼の滴水を用ふることあれ ど、脚気症を誘致するの恐ありといふ。  要するに、衣食住の材料悉く欠乏せるを以て、従来居住せしものなく、ただ 数年前より海驢(アシカ)猟者の時々渡航せると、潜水器漁業者の鮑(アワ ビ)採集のため寄航せるにすぎず。  また曾って海軍望楼の設置ありて、巌角を開鑿して島径を通じ、長城に営造 物を建設し職員の居住せしことありしも、現今は引き払はれて人影なし。


竹島=独島と日本の軍事侵略 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2519 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年10月21日   半月城です。   前回書いたように、日露戦争中に日本は「韓国領地の疑いある」リヤンコ 島(竹島=独島)を無主地とこじつけ「時局なればこそ、その領土編入を急要 とするなり」という軍事的判断のもとに、日本は関係国に一切はからず領土編 入の閣議決定をおこないました。   RE:2505 >日本が武力を用いて朝鮮から独島を奪ったことはあきらかです。 >1905年の時点で朝鮮は日本から武力による干渉を受けており。 >その中で日本は独島の編入を決めました。   こうした行為が、日本は帝国主義的方法で竹島=独島を奪取したと韓国か ら非難されているのですが、今回はその武力による干渉を具体的にみていきた いと思います。   日清戦争後、清国の勢力を韓国から追い出した日本は、韓国での権益をめ ぐってロシアと対立や野合をくりかえしました。しかし、1904年ついに両国の 談合「満韓交換」交渉は決裂し、戦争は不可避になりました。   この事態に大韓帝国は1月、戦時局外中立を宣言しました。これには英・ 仏・独・伊・清など諸外国からの支持が得られましたが、侵略当事者である日 露からは承認されませんでした。それどころか、その宣言は日本によってひと たまりもなく踏みにじられました。   日本は2月10日の宣戦布告に先立って、2月8日、旅順に停泊中のロシ ア艦隊に奇襲攻撃をかけると同時に、韓国の仁川沖ではロシア軍艦2隻を撃沈 しました。さらに臨時派遣隊が仁川から上陸し漢城(ソウル)に入り、首都を 制圧するなど軍事行動を起こし、韓国の中立宣言を無残に蹂躙しました。   そうした軍事的威圧のもとに、日本は韓国に日韓議定書を強要し「軍略上 必要の地点を臨機収用することを得る」との条文を強制しました。これは先行 した軍事侵略の追認を韓国に強制するものでした。   こうした兵力を背景にしたやり方に韓国で反対の声が当然まきおこったの ですが、その勢力を日本は力で押さえつけました。具体的には、日本軍は度支 部(財務)大臣の李容翊を拉致し「遊覧」の名目で日本に移送し、10か月間 も軟禁しました。ほかにも鎮衛第4連隊長・吉永洙など、反日派の主な人々を 武力で漢城から追放しました。   日本軍の強引なやり方に広範な抗議行動が高まったのはいうまでもありま せん。漢城の騒然とした空気を海野氏はこう記しました(注1)。  <韓国内では反対の声がたかまり、中枢院(内閣諮問機関)副議長李裕寅ら は上疏して李址鎔ら議定書推進者を弾劾した。李址鎔らの私邸には爆弾が投げ こまれ、漢城の町は騒然とした空気につつまれた。   こうした抵抗を威圧するかのように、3月17日枢密院議長伊藤博文が特 派大使として漢城にのりこんだ。名目は天皇名代の韓国皇室慰問である。   18日、慶運宮で皇帝に謁見した伊藤は、「日韓議定書」の履行と、それ を妨害するものの排除を強要した。宮内府大臣・閔丙ソクを通じて奏達した文 中には、韓国兵の反抗があれば敵国とみなすとか、韓国の態度が不鮮明であれ ば兵力を数倍にするとか、威嚇する言辞がある>   伊藤博文は帝国主義者の本性をむきだしにして軍事力で韓国を恫喝し、日 韓議定書の履行をせまったのですが、実はこの履行を根本からないがしろにし ていたのは他ならぬ日本自身でした。   日韓議定書では「大日本帝国は大韓帝国の独立及領土の保全を確実に保障 すること」とうたっていたのですが、日本は日露戦争の本格化にともない、韓 国の独立を保証するどころか、数カ月もしないうちに逆に韓国を半植民地化す る対韓施設綱領を閣議決定し、9月には第1次日韓協約などで実行にうつしま した(注2)。   綱領の閣議決定直後、朝鮮海峡でロシア艦隊により日本の輸送船が次々に 沈められ、戦況に緊張がはしり、日本海での軍事戦略が緊急の課題となりまし た。すると必然的にリヤンコ島(竹島=独島)の戦略的価値が重要視されだし ました。それを堀氏はこう記しました(注3)。        --------------------   1904年6月ロシアのウラジオ艦隊が朝鮮海峡に出現し、日本の輸送船を 次々と沈めたことから、この海域の緊張が一挙に高まった。   日本海軍は、九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、 蔚山、巨文島、済州島等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結し ていった。   朝鮮内の望楼は約20か所にもおよび、それらはすべて有無をいわせぬ軍 事占領であった。そしてそれらの措置の一環として、7月5日鬱陵島に望楼を 建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地(ていはくち)竹辺湾との間を軍 用海底電信線で結ぶことが決定された。   鬱陵島の望楼は、東南部(松島東望楼、配員6人)と西北部(松島西望楼、 配員6人)の2か所で、8月3日に建設着工、9月2日から活動を始めた。海 底電信線の方は、9月8日からウラジオ艦隊に脅かされながら敷設が進められ、 同月25日に完成した。   これによって、鬱陵島の望楼は朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府 と直接交信できることになった。そして鬱陵島における日本軍の駐留は、既に 以前から日本人が優位を占めていた同島で、朝鮮側の主権がより一層甚だしく 侵害されたことを意味している。   日本海軍は、この鬱陵島における一連の工事と補給活動のなかで、またこ の海域での哨戒活動によって、隣接する竹島について多くの情報を得ることに なった。   つまり、中井養三郎が政府に働きかける前に、海軍は既に竹島の利用価値 について注目するようになっていた。日本政府が公的に同島の領土編入を決め る前に、海軍は行動を起こしていた。   1904年11月13日、海軍軍令部は軍艦対馬に対して、「『リヤンコルド』島 ハ電信所(無線電信所ニ非ズ)設置ニ適スルヤ否ヤヲ視察スルコト」を命じた。 つまり、鬱陵島と海底電信線で連結する望楼建設の可否の調査である。   軍艦対馬は同月20日リャンクール島に赴いたが、これこそ日本政府によ る最初の竹島=独島調査なのであった。そして対馬の艦長は地形的な困難はあ るが、その東島なれば建造物の構築は可能であろうと報告した。つまり、日本 政府がこの時期竹島に対していだいていた関心は、まさしくその軍事的な利用 価値にほかならなかったのである。   竹島での冬期の建設工事は絶対に不可能だったので、実際には着工のされ ないままに、バルチック艦隊との決戦を迎えることとなった。ところが、その 日本海海戦において、鬱陵島と竹島の周辺海域が一つの主戦場となったことか ら、竹島の軍事的価値が改めて高く評価された。   海軍は海戦直後の(1905年)5月30日に計画をたて、6月13日に軍艦橋 立を同島に派遣して、さらに詳細な調査をおこなわせた。そのうえで、海軍は 6月24日鬱陵島、竹島を含めた日本海同水域の総合施設計画をうちだした。   その計画とは、まず鬱陵島北部にいまひとつ大規模な望楼(松島北望楼、 配員9人)と無線電信所を建設する。また、竹島に懸案の望楼(配員4人)を 建設する。そして、それらの両島の望楼を海底電信線で結んだうえで、さらに その電信線を隠岐の望楼まで延長するという計画であった。   まさしく、国境など意に介さない軍用施設である。鬱陵島の新望楼は7月 14日に起工し、8月16日から活動を始めた。   竹島の望楼は7月25日に着工し、8月19日から活動に入った。海底電 信線の方は、9月に講和が成立したため当初の計画が変更され、竹島と隠岐と ではなく竹島と松江の間に敷設されることになった。   この工事は10月末に開始され、鬱陵島から竹島を経て、11月9日松江 との結合が完了した。つまり、1905年、朝鮮本土(竹辺)から鬱陵島、竹島、 松江に到る一連の軍用通信線の体系がつくりあげられたわけである。   以上、要するに、日本政府にとって、日本海中の竹島とは軍事的な利用対 象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占領と密接不可 分なものであったのである。        --------------------   このように韓国各地における日本の軍事占領の一環として、リヤンコ島に 関して「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し無線 もしくは海底電信を設置せば敵艦監視上きわめて屈竟」と判断し「無主地」と こじつけたリヤンコ島の編入を閣議決定しました。そのやり方は、やはり帝国 主義的方法であったといわざるを得ません。 (注1)海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995 (注2)対韓施設綱領(1904.5.31 閣議決定)、引用は(注1)より  【軍事】戦争終了後の日本軍の韓国常駐、軍用施設収用は、韓国の独立およ び領土保全を保障した「日韓議定書」第3条による日本の権利である、とする。  【外交】韓国政府がおこなう外国との条約締結などの重要案件の処理を日本 政府の事前承認制とし、そのために外交業務と外国人への特権譲与業務を外部 衙門に集中し、そこに日本公使が監督する外国人顧問団を入れ、外交政務の実 権を掌握する。  【財政】日本人顧問団を入れ、徴税法や幣制改革、財政再建をおこない、財 務の実権を掌握する。  【交通】主として軍事的観点から建設中の京釜鉄道(漢城ー釜山)と京義鉄 道(漢城ー義州)の完成をはじめ、漢城ー元山ー雄基湾間、馬山ー三浪津間の 鉄道敷設権を獲得する。  【通信】韓国政府から日本政府に郵便電信、電話事業の管理を委託させ、日 本の通信事業との合同をはかる。  【産業】韓国内の日本人の土地所有権、用地権、豆満江、鴨緑江沿岸の森林 伐採権、鉱山採掘権、全道の漁業権取得などによる産業開発をおこなう。 (注3)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24号'87   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治期の竹島=独島、鬱陵島年表 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2557 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年10月28日   半月城です。竹島=独島死守派と目される方の依頼により、明治期におけ る竹島=独島、鬱陵島関係の年表を記します。 1870(M03)  外務省報告書「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」         『朝鮮国交際始末内探書』 1876(M09)07.  武藤平學「松島開拓之儀」 1876(M09)07.13 「児玉貞易建白」(松島開拓願) 1876(M09)10.16 島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」 1877(M09)01.27 戸田敬義「竹島渡海之願」 1877(M10)03.17 内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」 1877(M10)03.29 太政大臣「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」 1880(M13)07. 軍艦「天城」を廻航、松島の所在調査 1881(M14)11.29 内務省が外務省に鬱陵島照会 1881(M14)06.  朝鮮政府、日本に鬱陵島渡航禁止を要求 1882(M15)05.  朝鮮政府、検察使・李奎遠を鬱陵島に派遣、調査 1882(M15)12.  朝鮮政府、鬱陵島開拓令 1883(M16)03.  内務省、司法省「鬱陵島渡航禁止」内達 1883(M16)09.  鬱陵島の日本人、強制帰国 1898(M31) 遠洋漁業奨励法 1900(M33)12.  大韓帝国勅令41号、鬱島郡守「鬱陵全島、竹島、石島」管轄 1902(M35) 外国領海水産組合法 1902(M35)03. 鬱陵島に日本人警官常駐 1903(M36) 中井養三郎、リヤンコ島にてアシカ猟開始 1904(M37)02.08 日露戦争(奇襲攻撃) 1904(M37)02.27 日韓議定書 1904(M37)06.  ロシアのウラジオ艦隊が朝鮮海峡に出現 1904(M37)09.05 第1次日韓協約を官報公表 1904(M37)09.25 軍艦「新高」日誌、「韓人之ヲ独島ト書シ」と記す 1904(M37)09.29 中井養三郎「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」提出 1904(M37)11.13 軍艦「対馬」をリヤンコ島に派遣、望楼工事調査 1905(M38)01.28 リヤンコ島の領土編入を閣議決定(公表せず) 1905(M39)02.22 島根県告示第40号、リヤンコ島を所管、竹島と命名 1905(M38)06.13 軍艦「橋立」を竹島=独島に派遣、望楼工事調査 1905(M38)07.25 竹島=独島の望楼着工、8月19日完成、10月24日撤去 1905(M38)11.23 第2次日韓協約(乙巳保護条約)を官報公表 1906(M39)03.28 島根県「竹島調査団」鬱陵島に寄港 1907(M40)07.25 第3次日韓協約を官報公表 1910(M43)08.29 韓国併合に関する条約を官報公表   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


島根県告示と保護条約 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年11月03日 メッセージ: 2565   半月城です。   これまで書いてきたように、日本帝国は日露戦争の真っ最中にリヤンコ島 (竹島=独島)の軍事的価値に着目、同島を領土編入し「竹島」と名づけるこ とを閣議決定しました(1905.1.28)。   この決定は内務省から島根県に訓令され、それを受けた島根県は告示で竹 島の命名と所管を公表しました。   ここで重要なのは、領土編入という国家の重大事を政府の官報で公示せず、 一地方自治体の告示で所管を公表したという異例なやり方です。これは小笠原 諸島の領土編入に比べると破格なようで、それを堀氏はこう記しました(注1)  「1905年2月22日 島根県は県告示40号で、リャンクール島を竹島 と命名し、同島を隠岐島司の所管とすると公示した。日本政府は、この決定を 官報に掲載して政府レベルで公示する措置をとらなかった。   日本政府が、外国が関わりをもつ島嶼において領土主権を確立した事例と して、1876年の小笠原島の場合があげられる。その時日本政府は、同島に関係 の深い英国・米国と幾度も折衝し、その了解を得たうえで決定をした。   そしてさらに、欧米12ヶ国に対して、日本の同島管治を通告したのであ った。竹島の領土編入に際しては、日本政府内に同島が朝鮮領ではないかとい う見解さえあったのに、その朝鮮政府に照会はおろか、通告さえおこなってい ない。既に日本政府は、朝鮮を対等の主権国家とは認めていなかったのである」   日本は韓国をまったく無視したという堀氏の見方もさることながら、これ に加えるに、日本政府は当時の国際情勢を考慮して官報による公示を意図的に さけたのではないかと思われます。   かって、内務省は中井養三郎の「リヤンコ島領土編入並に貸下願」にたい して外国の猜疑心を招くとして強硬に反対したことがありましたが、閣議決定 の時点では日本は韓国を勢力圏とすることにかならずしも諸外国の了解は得ら れていませんでした。   前にも書いたように、諸外国は日露戦争直前に韓国の局外中立宣言を承認 していたくらいなので、もし日本が竹島=独島の編入を公表したら諸外国はど う反応するか不明で、場合によってはヤブヘビになりかねませんでした。その ためか日本政府は官報による公示をおこなわず、外国に知られないようこっそ り島根県の告示で済ませたのではないかと思われます。   日本による竹島=独島の領土編入をつゆ知らずにいた韓国がその事実を知 ったのは、翌年の1906年3月でした。島根県事務官・神西由太郎ら一行が、竹 島=独島が島根県の所管になったのを機に同島を視察調査し、その帰途鬱陵島 に寄港しましたが、そのとき領土編入の件を鬱陵島郡守に告げました。   この意外な話に驚いた郡守の沈興澤は、翌日ただちに中央につぎのような 報告を送りました(注2)。  「本郡所属の独島は本部外洋にあり、100余里も離れている。本月4日 (陽暦3月28日)午前8時頃 輪船一隻がやって来て島内道浦に碇泊したり。 日本官人一行が役所を訪れていうには、独島が此度日本領地に編入されたので、 視察に来てその途中でここを訪れた。   一行は日本島根県隠岐島司 東文輔、及事務官 神西由太郎、税務監督局長 吉田平吾、分署長警部 影山岩八郎、巡査一人、会議員一人、医師技士各一人、 其外随員十余人であった。   まず質問したことは、戸数人口と土地の生産物の多少、次いで諸般の事務 に人員と経費がどれほどかかっているかを調べて記録した。ここにその事実を 報告し対策を検討することを願う」   この公文書で「本郡所属の独島」と記されているのが目をひきます。これ はいうまでもなく、韓国の行政機構が竹島=独島を韓国領と認識していたこと を意味します。また、独島の名前が韓国の公文書にはじめて登場したのも注目 されます。   独島の名は、日本では二年前にすでに確認されました。軍艦「新高」の日 誌(1904.9.25)に「松島ニ於テ『リアンコルド』岩実見者ヨリ聴取シタル情 報」として「『リアンコルド』岩 韓人之ヲ独島ト書シ 本邦漁夫等 畧シテ 『リヤンコ』島ト呼称セリ」と記録されていました(注1)。   これらを総合すると、島根県の告示に先立って韓国でも竹島=独島はきち んと認識されており、しかも同島は韓国の行政機構により少なくとも1906年3 月以前に韓国領と認識されていたことになります。   さて、沈郡守の報告を受けた韓国政府の対応ですが、参政大臣(総理)は 「独島領地の説はまったく無根」であるとし、成りゆきを調査報告するよう下 記の指令第3号を発しました(注3)。  「来報は閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行 動如何をさらに調査報告すること」   この文にある「形便」は韓国語で「成りゆき」とか「事の次第」などを意 味します。ところが、拓殖大学の下條教授はこれをなんと「形状」と誤訳し、 そこから珍説をこう展開しました(注4)。  <「本郡所属の獨島」と記された報告を受けた中央政府が、新たな属島の出 現に困惑し、改めて島の形状を報告するよう江原道府に命じた・・・つまりこ の時、中央政府では「勅令41号」の石島と「本郡所属の獨島(竹島)」とを、 全く別の島として認識していたのである>   中央政府は日本の措置に困惑したのであり、べつに「新たな属島の出現」 に困惑したわけではないし、また「改めて島の形状を報告するよう」求めた事 実もありません。   下條氏は勅令41号に書かれた「石島」を竹島=独島でなく、どうしても 観音島にしたてて、韓国は竹島=独島の領有意識をもっていなかったと主張し たいがための曲解のようです。こっけいです。同氏は日韓文化協会の常務理事 も務めましたが、その立場からしても重大な誤りと指摘せざるをえません。   下條氏がこだわる勅令41号ですが、大韓帝国は、1900年10月22日、鬱陵 島を郡に昇格させ、その管轄区域を鬱陵全島と竹島、石島としました(注5)。 韓国側では竹島は竹嶼であり、石島は竹島=独島だとしています(注3)。そ うであれば、竹島=独島領有の明確化は韓国のほうが日本より5年も早かった ことになります。   話はもどりますが、沈報告は韓国で大きな反響を巻き起こしました。代表 的な新聞の皇城新聞は大きな見出しで沈報告をそのまま報道しました。また大 韓毎日申報は沈報告を要約したうえで「独島が日本領になったということは全 く理屈に合わない」で論評しました。こうして官民あげて日本の竹島=独島編 入を非難しました。   しかし、韓国はこれを外交問題にすることはありませんでした。これをと らえて、ここの会議室で韓国が抗議すらしなかったのは竹島=独島領有の意思 がなかったからだと短絡的に主張する人が時おりみられるようです。   そこでこの背景についてふれたいと思います。結論からいうと、当時の韓 国は外交的に抗議できる立場にありませんでした。   前に書いたように、1904年5月、韓国を半植民地化する対韓施設綱領を閣 議決定した日本は、9月には第1次日韓協約で実行にとりかかりました。その 一方で、日本は韓国を日本の保護国とするため列強に承認を働きかけました。   というのも、当時の韓国の首都にはアメリカやイギリスなど列強の公使館 がおかれていたので、たとえ日本が韓国の保護国化を宣言しても、それらの公 使館が韓国と外交関係をつづけるかぎり、保護国宣言は実効をともわないもの になります。   そのために、保護国化のために列強の承認は不可欠でした。7月、日本は まずアメリカとの間に韓国とフィリッピンをテンビンにかけた「桂・タフト密 約」を結びました。   ついで、8月、日本は第2回日英同盟を結びました。これは前年の日韓議 定書に違反するものであったので韓国から抗議を受けましたが、日本はイグノ ヲア、つまり無視を決めこみました。力によるごり押しといえます。   さらに9月ロシアとの間に終戦処理であるポーツマス条約を調印し、韓国 保護国化を承認させました。   こうした周到な準備のすえ、1905年、日本は韓国に乙巳(いつし)保護条 約、すなわち第二次日韓協約を強要しました。この条約は韓国にとって日韓併 合条約に劣らず亡国的なものでした。   これにたいする韓国民の悲しみがいかに深かったか、当時の「皇城新聞」 は「この日たるや放声大哭す」と題し、怒りをこめてこう嘆きました。   「ああ痛ましいかな! ああ憤ろしいかな! わが二千万同胞。生か死か。 檀君・箕子いらい四千年の国民精神は、一夜の間に滅亡してしまった! 痛ま しいかな! 痛ましいかな! 同胞よ! 同胞よ!」   このように痛哭の哀悼文を書いた皇城新聞は、日本によりたちまち発禁処 分になってしました。   この嘆きにたがわず、韓国は保護条約により確実に亡国の道を余儀なくさ れました。条約により、大韓帝国は外交権を完全に剥奪され、日本の保護国に され、日本の統監府が置かれ、事実上日本に支配されました。   外交権は、国家が国際法上の権利能力や法的人格を有することを示す最大 の主権ですから、外交権を失えば、もはや国家は国際法上の主体ではなくなり ます。その結果、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえなくな ります。   このように重大な意味を持つ保護条約が、どのような状況で結ばれたのか、 明治大学・海野福寿教授は当日の状況を次のように記述しました。           --------------------------- 銃剣で威嚇しつつ調印  (1905年)11月17-18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き 通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡 回し市民をおびやかした。   17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使 館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前 会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の 名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。   御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいた らなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得 策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時こ ろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開 を求めた。   しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひら かれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、 不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。   慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄 桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばに あらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたこと だろう。   伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政(閣議責任者、 半月城注)と閔泳綺・度支相(蔵相、同)は明確に反対を表明した。朴斉純外 相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘 導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人 の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。   こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛 成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁 可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此 任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。   しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退 室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁 いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声 でいった、という意味だろうか。   協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記 名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印 を捺印した。18日午前1時半ころである。           ----------------------------   日本では明治の元勲とされ、紙幣にも登場した伊藤博文ですが、韓国では 武力を背景に「あまりダダをこねるようだったら、殺(や)ってしまえ」と他 国の総理を脅迫する人物であり、そのさまは帝国主義の本性むきだしといえま す。   余談ですが、結局かれは韓国民にとって憎悪の的となり、安重根により暗 殺されたのはよく知られているとおりです。   こうして、脅迫で保護条約を強制された韓国は日本の保護国になってしま い外交権を剥奪されました。このような状況下では日本による竹島=独島の領 土編入を知ったところで、もちろんなんら抗議できる状態ではありませんでし た。 (注1)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注3)愼鏞廈『独島の民族領土史研究』(韓国語)知識産業社,1996 (注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5 (注5)勅令41号(韓国語)    鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正する件  第1条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、  官制に編入し、郡等級は五等とすること  第2条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島とすること  第3条ー第5条 省略 (注5)海野福寿『韓国併合』岩波新書,1995   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島掲示板」の閉鎖 Yahoo!掲示板「竹島問題を考える」 2001年11月03日 メッセージ: 2570   半月城です。トピ主の田中邦貴さんは、ついに「竹島掲示板」閉鎖の本音 を吐露したようです。   kunitaka_さん、RE:2549 >私が掲示板を削除したい理由は、半月さんの偏った見方に基づく思想拡大を >くい止めるためです。 >この掲示板は、現在あなたのHP拡大に利用されているに過ぎません。 >これをくい止める為には、この掲示板を削除するのが一番と思ったからです。   私のHP「半月城通信」の拡大をくい止めるために、よりによって事務局 が太鼓判を押すほど利用者の多い「竹島掲示板」の閉鎖を決意するとはあきれ ました。しかも、この掲示板は「半年はつづく」と公言していたのに、それを くつがえしてまで閉鎖したいなんて、田中さんは二枚舌ですか?。   また、それほどまでに私の「偏った見方に基づく思想拡大」や半月城通信 を脅威とお思いですか?   ここで、私の考えは偏っていないなどというつもりは毛頭ありません。キ リストであれ誰であれ、思想は本来偏っていて当たり前です。それとも、田中 さんはご自分のホームページは偏っていないというつもりでしょうか。   さらに、田中さんは掲示板をつづけるための取引条件を提示されましたが、 これはいかがなものでしょうか。もし私がそれを拒否して、結果的に半月城通 信の影響力が「竹島日本領派」の拠点である「竹島掲示板」を自殺に追い込ん だという構図になれば、私にとってはこれにまさる醍醐味はまたとないことで しょう。   一方、これは田中さんにとっても宣伝効果は絶大かもしれません。どこか のサイトで竹島=独島の議論が始まったとき、田中邦貴さんの名前が「掲示板 の自殺者」として特筆大書されるかもしれません。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



半月城の連絡先は
half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。

[ トップ画面 ]