半月城通信
No. 84

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  1. 韓国のベトナム戦争「謝過」
  2. 韓国のベトナムへの償い
  3. 日韓両方のパスポート
  4. 「竹島一件」の決着
  5. 明治政府の竹島=独島放棄
  6. 竹島、松島の島名混乱
  7. 明治期における外務省の竹島=独島認識
  8. 明治政府関係機関の竹島=独島認識
  9. 日朝両国の于山島(竹島=独島)認識


韓国のベトナム戦争「謝過」 メーリングリスト[zainichi:20118] http://www.tcp-ip.or.jp/~axson/zainichi/ 2001.9.12   半月城です。「問答有用会議室」#9621に書いた文を一部訂正して転載します。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain   かって、ここの会議室で韓国がベトナムでしでかした残虐行為や非人道的な行為 を追求しない韓国人に、旧日本軍の「慰安婦」問題などを非難する資格があるのかと いうニュアンスの書き込みがあったように記憶しています。   その趣旨が、もし「残虐行為は日本だけではない、韓国もやっているではない か」と強調することにより日本の戦争責任を希釈しようとする目的なら、それはもち ろん聞くに値しないものです。   しかし、趣旨が日本の残虐行為はもちろんのこと、韓国もアメリカも非人道的残 虐行為はそれ相応に償われなければならないという普遍的な人道主義的立場に立つも のなら、それは真剣に追求すべき問題であることはいうまでもありません。   韓国ではこうした反省が99年ころからなされ始め、ハンギョレ新聞や人権団体 の努力により、韓国軍はベトナム戦争でどのような残虐行為をしでかしたのか、その 実態が次第に明らかにされてきました。   ベトナム戦争において韓国はアメリカの要請をうけ、反共・自由主義陣営への 「恩返し」を大義名分に 65年から73年まで南ベトナムに約30万名の軍隊を派遣して 参戦しました。   この戦争で韓国軍は4960余名が戦死、10余万名が負傷しました。その反面、若者 の血の代償であがなった経済的利益も大きいものがありました。かって敗戦国・日本 が朝鮮戦争(1950)の特需で立ち直ったように、アメリカ軍の丸抱えであった韓国軍は 戦争で外貨を稼ぎ、同時期、日韓条約(1965)による日本からの「独立お祝い金」とあ わせて経済発展の基礎を築いたといっても過言ではありません。 その一方「泣く子もだまる韓国軍」は敵軍のベトナム人を4万1450名も殺害した とされていますが、その中には多くの民間人も含まれていました。ベトナム戦争は前 線がはっきりしない泥沼戦争だっただけに、米韓側の作戦はいきおいベトコン(ゲリ ラ)の根拠地を捜索、破壊することにおかれました。   そのさい、対象となった村の住人がベトコンのシンパであることも多かったた め、米韓側からすれば女性や子どもすら危険な存在でした。そのため米韓の軍事行動 は、ときには無差別の虐殺行為に発展しました。   その一例ですが、ハンギョレ新聞によれば、1965年12月22日, 韓国軍作戦兵力2 個大隊はビンディンソン、クィニョン市に 500余発もの大砲を撃ち込んだ後、日本軍 の「三光作戦」さながら“きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する” というスローガンのもと「ベトコン捜索・掃討作戦」をくり広げました。   結局、韓国軍はこの村で12歳以下の22人の子供、22人の女性、3名の妊産婦、70 歳以上6名の老人を含む 50余名を超える村民を虐殺しました。アメリカ軍のソンミ村 虐殺事件顔負けの虐殺行為でした。   このような過去にたいし、韓国のハンギョレ新聞によれば、金大中大統領はベト ナムにはじめて「謝過」発言をしました。この発言を日本では朝日新聞が「謝罪」、 日本経済新聞が「遺憾の意の表明」と報道するなど、メディアによって大きな違いが みられました。   この画期的なニュースをハンギョレ新聞社が週刊誌で取りあげていましたので、 以下にそれを紹介します。文中でキーになる「謝過」は適当な訳語がないので韓国語 のままにしました。これは文字どおり「あやまちを謝る」ですが、韓国語の「謝罪」 とは微妙にニュアンスが異なります。        -------------------- <大統領も「申しわけないベトナム」>    韓国週刊誌『ハンギョレ21』2001年08月28日 第374号 http://www.hani.co.kr/section-021025000/2001/08/021025000200108280374066.htm l <ベトナム戦争後、初の「謝過」発言・・・300万ドルを投じ民間人虐殺被害地域 に病院建設も>  「私たちは、不幸な戦争(ベトナム戦争)に参加し、本意でなくベトナム国民に苦 痛を与えたことを申しわけなく思い、慰労の言葉を申しあげます」  金大中大統領は、3年前の「遺憾」発言からさらに一歩踏み込んで、韓国軍のベト ナム戦争参戦に関してベトナムに「謝過」した。  金大統領は去る8月23日午前、青瓦台(大統領官邸)でもたれたベトナムのチャ ン・ドク・ルオン国家主席との頂上会談の席でこのように明らかにして、「雨降って 地固まるという韓国のことわざにあるように、過去の不幸があったので韓国はベトナ ムに一層深い関心をもって理解と協力を求めていく考え」であると話した。 <一回の謝過で終わることではない>  金大統領の今回の発言は非常に破格的なことと受けとめられている。頂上会談直後 「心から歓迎する」と論評をだした「ベトナム戦真実委員会」(常任代表・李ヘド ン)関係者も、これほど早くなされるとは予想していなかった。保守陣営の反発など 政治的負担が大きい問題を大統領があえて引っ張り出すとは見ていなかったためであ る。  ところで、金大統領は具体的にベトナム戦参戦に関して何を謝過したのか。「本意 でなくベトナム国民が被った苦痛」とは何か。大統領はこれを直視しなかった。しか し、同じ日の午後、国賓晩餐会の席で行った別な発言からおして推測することはでき る。  大統領はこの席でチャン主席に「ベトナム中部5省に病院を建てたい」との意志を 明らかにした。「中部5省」とはクアンウンアイ、クアンナム、プユェン、ビンディ ン、カンホアでベトナム戦当時、青龍・猛虎・白馬部隊がベトコン探索・掃討作戦を 展開したところだ。  総額300万ドル規模の予算が策定されたこの病院建設事業は、来年から約3年に わたり遂行される。政府はすでに昨年も中部5省に200万ドルを投じ40カ所の小 学校を建てることを決定して、現在20校の建設を完工した状態である。  ベトナム中部5省は、韓国とベトナムの「暗い過去史」を象徴する。『ハンギョレ 21』が去る99年5月から繰り返し報道し始めた「ベトナム戦民間人虐殺」関連記 事は、中部5省の被害者たちとその場で作戦を行った韓国軍の証言を土台にしたもの であった。  その過程で発足した「ベトナム戦真実委員会」は平和音楽祭など多彩なプログラム で「謝過世論」をかもしだして政府に迫った。大統領の「謝過発言」と中部5省支援 事業はその延長上にある。  ホーチミン市でも「申しわけないベトナム」のレコードが発売される。  もちろん限界はある。聖公会大学ハン・ホング教授(韓国現代史)は「今回の謝過 で終わるものではない」となで切りにした。  「私たちは日本のようにうやむやに済ませないということを外向けに誇示した点で は賞賛される価値はある。しかし、謝過をしようとすれば、私たちがどのような苦痛 を与えたのか、徹底的に糾明したのちになさればならないのにその過程がない。大統 領だけの謝過でなく、全国民的謝過運動が必要である」  対照的な批判もある。ハンナラ党のクォン・チョルヒョン代弁人は「金大統領の主 張は<アメリカの傭兵としてのベトナム戦争参戦>という運動圏主思派(主体思想 派)の論理と酷似している」とし、「枯葉剤の被害患者がどれだけ多いのかを考えれ ば軽率な話」という論評をだした。  また(朴正煕元大統領の長女)朴槿恵議員は、自分のホームページで<これは6・ 25(朝鮮戦争)のとき、大韓民国の自由民主主義を守るために戦った16カ国の将 軍や指導者が金正日委員長に「不幸な戦争に参加して北韓国民に苦痛を与えたことを 謝過する」というのと同じくらいとんでもないこと>と批判した。ベトナム戦戦友会 など一部の参戦軍人組織も「妄言」として反発する態勢をとっている。  ともあれ、このような論争のなかで国内人権団体のベトナムもうでは継続してい る。韓国キリスト教協議会(KNCC)人権委員会(委員長・金ジョンミョン)は、 10日ごろベトナム中部5省地域を訪問し「民間人被害実態」を調査する予定だ。 <ベトナム側も消極的だけではない>  ホーチミン市の「サイゴン音盤社」は、韓国の「ベトナム戦真実委員会」が一年前 に製作したレコード「申しわけないベトナム」をベトナム語に翻訳して今年末に発売 する計画である。「サイゴン音盤社」グェン・カッ・ビ社長は「レコード発売がベト ナム社会に大きな共鳴を呼び起こす」として「韓国の人道主義・平和運動がますます 発展するのをいのる」と立場を明らかにした。  韓国とベトナムは今回の頂上会談を契機に、自然開発と情報技術分野での協力を強 化する、いわゆる「21世紀包括的同伴者関係」を闡明にした。両国は共同の大規模 油田開発に成功したし、SKテレコム社など国内移動通信業者はCDMA事業進出で ベトナム政府の承認を得た。「真の謝過と容赦」がなされれば、二つの国は「もっと も親しい友人」になるだろう。        --------------------   ベトナムにたいする謝過は「全国民的謝過」であるべきというハン教授の指摘は 正鵠です。ハンギョレ新聞社のキャンペーンに賛同したある「慰安婦」は韓国政府か ら支給された支援金を、同社のベトナム「誠金募金」に寄付しました。   立場かわって、今度はその「慰安婦」に日本はどうこたえるのか・・・。「慰安 婦」のCDでも出す発想は日本にはなかったのでしょうか。ともあれ「真の謝過と容 赦」が求められているのは、韓越間のみならず日韓間、日中間でもしかりです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国のベトナムへの償い メーリングリスト[zainichi:20151] http://www.tcp-ip.or.jp/~axson/zainichi/ 2001.9.15   半月城です。私の書き込み<韓国のベトナム戦争「謝過」>にたいするコメント をありがとうございます。   RE:[zainichi:20124] >韓国が病院や学校を建設したからといってヴェトナムの友好国です >というわけではないでしょう。 > >「ベトナム戦真実委員会」もきっともっと将来をみていると思います。   たしかに、病院や学校を建て放しにしたのでは、ほとんど友好になりません。と くに、償いの意味あいが濃いときには、その事業にどれだけ誠意がこもっているかが 重要です。この点、韓国は日本の二の舞を演じてはならないと思います。   そのためにも、韓国はこうした事業や償いをどのように進めるのか、国民的関心 と関与が必要であることはいうまでもありません。そうした前提で、私は手始めの事 業として病院や学校を建設することに賛成しています。   こうした事業は、けっして韓国政府だけの発想ではありません。ベトナム戦争反 省のキャンペーンをはっているハンギョレ新聞社がやはり病院建設のために募金を集 めています。そのURLを記します。 ハンギョレ新聞社<ベトナム戦キャンペーン>  「恥ずかしい歴史に赦しを乞おう、ベトナムに病院を建てます」 (韓国語)http://www.hani.co.kr/h21/vietnam/campain_sub.html (英語)http://www.hani.co.kr/h21/vietnam/campain.html#english   同社のキャンペーンに賛同したアメリカ在住の一韓国人が同社に投稿していまし たが、その内容は在日韓国人の立場に一脈つうじるところがありますので、それを紹 介します。なお、この投稿は金大統領の「謝過」発言の前に書かれたものです。これ は上記のURLからもたどれます。        -------------------- 週刊誌『ハンギョレ21』299号   私はアメリカに住んでいる在米同胞です。(朝鮮戦争当時の)老斤里における民 間人虐殺事件が世間に知られたとき、ここでも韓国人団体が抗議のデモを行ったりし ました。   ところでどこをさがしても、韓国政府が、ベトナム戦争当時の韓国軍がしでかし た蛮行にたいし何か行動を起こしたのかがみつかりませんでした。すべて総選挙の熱 気のなかで生き残るためにもがいているようでした。   わが民族は、外侵を多く受け、受難の渦の中で暮らしてきました。万一、韓国人 たちがこの事件の真相究明を要求せず、そのまま時とともに忘れ去ろうとするなら、 私たちは日帝時代の挺身隊(「慰安婦」)はなかったと語る日本人とかわりがなく、 また、老斤里事件の真相を明らかにするため委員会を派遣したアメリカ政府から何も 学ぶことがなくなってしまいます。   さらに、この事件にたいする韓国政府の沈黙は、挺身隊で犠牲になった韓国人女 性たちと老斤里で消えた善良な市民たちにたいする冒涜以外の何ものでもありませ ん。   容赦を求める勇気が真の勇気ではないでしょうか?とくに他人が物理的に力で容 赦を要求しないとき・・・。        --------------------   この投稿者も、大統領のベトナム「謝過」発言を耳にして、おそらく人一倍喜ん でいることと思われます。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


日韓両方のパスポート メーリングリスト[zainichi:20310] http://www.tcp-ip.or.jp/~axson/zainichi/ 2001.9.22   半月城です。私も日本国籍取得緩和のゆくえには注目しています。   すでに書かれているように、この法案の発想自体はさもしいものであっても、内 容次第では革新的なことが起こりそうで、チッペルレさんがめざす成人重国籍容認に つながるとか、あるいは夫婦別姓制度の導入につながるとか、画期的な突破口を開く 可能性があります。   まず、法案のいきさつですが、周知のように定住外国人の地方「参政権」議論の なかで、自民党のナショナリストを中心に浮上しました。その代表的な見解を荒木氏 にみることができます。もう一年にもなりますが、朝日新聞 e-デモクラシーに荒木 氏あてのこんな私の投稿が採用されました。        -------------------- 荒木和博氏へ  荒木氏がこだわる「実態が日本人で、国籍だけが外国人という不正常な状 態」を作りだしているのは、血統主義にもとづく日本の法律です。日本は在日 4世であれ5世であれ、日本国籍を付与せず異邦人にしてしまい、住民として の権利である地方自治選挙権に難色を示しているのが現状です。・・・        --------------------   荒木氏にみられるように、参政権がほしいのなら定住外国人は帰化すべきであ り、そのために日本は帰化条件を簡略化すべきだという意見が今年になり急速に強ま りました。   この背景ですが、将来の少子高齢化にともなう労働力不足対策として外国人労働 者の移入が不可避ですが、そんなとき大量の外国人に地方参政権を与えて「国民国 家」の原則がゆらぐような懸念はないだろうか、それよりはいっそのこと帰化要件を 簡略にして、外国人を日本国民にしてしまうほうが基本原則が堅持されるのでベター であるという思惑が働いているようです。   つまり、地方参政権法案をつぶすために国籍緩和法案が考えられました。そし て、その対象はおもに在日韓国人などの2世、3世であり、「実態が日本人」である かれらに無条件で日本国籍を与えてもさほど弊害はなかろうというわけで、届出制に よる日本国籍取得が提唱されました。   この届出制は、従来の日本の諸原則を大きく変えるアイディアです。これまで日 本国籍の取得、すなわち帰化の条件には外国籍を放棄することが求められていまし た。それが、単なる届出制であれば、もちろんそのような交換条件を求められること はありません。すなわち、重国籍になるかどうかは日本政府の関知しないところにな るので、日本は重国籍を黙認する形になります。   ただ、現実には韓国などが重国籍を認めていないので、在日韓国人の場合、日本 国籍取得者が日韓の重国籍になる、あるいは両国のパスポートを持つことは困難なよ うです。   しかし、ヨーロッパなど世界の潮流からすると重国籍は容認される方向に進んで いるので、いずれ日本や韓国もそのような方向にいくだろうと思われます。   つぎに日本の帰化行政への影響ですが、いままでは裁量帰化一本槍だったのです が、届出制が認められれば、これに権利帰化も併用されることになり、大きな転換に なります。   それ以上にインパクトが大きいのが、日本戸籍における民族名の継続使用です。 これまでは日本国籍取得後の姓名の使用に制限がありました。人名漢字以外は使えな いとか、夫婦同姓制度などにもとづく強制的な改姓でした。それが無条件の届出制に よる日本国籍取得なら、夫婦別姓である韓国人が民族名の継続使用を届け出た場合、 夫婦同姓の原則に抵触することになるので、おそらく日本は夫婦別姓制度の導入を余 儀なくされると思われます。   こうした数々の変革をおこなってまで日本は、西欧の新潮流である「届出制」に よる国籍取得をはたして認めるでしょうか?   あんがい、これは戦後処理の問題がからんで進むのかもしれません。政策的に 「届出制」という「大盤振る舞い」を装って、過去の在日韓国人などにたいする政策 の誤りを帳消しにする意図が働く可能性はあります。   これまでたびたび書いてきましたが、1952年、日本は独立の数日前、法務府・民 事局長の一片の通達のみで日本人であった在日韓国人などの日本国籍を一方的に剥奪 し、本人には何らの通知すらだしませんでした。   そして私たちを「外国人」にすることにより、後は日本国民でないことを理由に 国外追放や、さまざまな排除、差別を正当化してきました。はなはだしくは、帝国軍 人として日本のために闘って戦死あるいは負傷した「元皇軍兵士」を、外国人を理由 に切り捨て、一切の補償にほおかむりをしてきました。   さすがにこれらは広島高等裁判所などから「立法政策の誤り」と指摘されました が、そんな誤りを是正する意味あいから届出制による日本国籍取得を推進するかもし れません。丹羽雅雄弁護士は「今回の動きは入管特例法と国籍取得特例法、この二つ によって日本の植民地支配を清算してしまうということです」と指摘しました。   以上のように何かと問題の多い日本籍取得緩和ですが、それでも、もし私たちが 原則的に日本と韓国両方のパスポートを持てる時代がきたら、日本国籍取得もそれほ ど悪くはないと考えはじめているこのごろです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島一件」の決着 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2390 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年8月21日   前回、江戸幕府が竹島(鬱陵島)への渡海禁止を決定し、朝鮮への窓口で あった対馬藩へそれを申しわたしたことを書きましたが、今回はその後の対馬 藩と朝鮮との交渉過程を主に記します。   その交渉において日本は朝鮮に竹島(鬱陵島)放棄を伝え、竹島一件は終 了しました。交渉のあらましは、内務省伺い書の付属文書に明らかにされてい るのですが、この文書は難解で専門的すぎるので、かわりにここでは内藤氏の 要約文を紹介します(注1)。        -------------------- 対馬藩から東莱府使への口上書   対馬藩から朝鮮国東莱(トンネ)府使への竹島渡海禁止の通告は、1696年 (元禄9)10月16日、死去した前藩主の弔問に対馬を訪れた訳官に、新藩主た ちが対面して口上書を手渡しました。   口上書は二通あり、藩主からのものでは、幕府が伯耆の米子町人に竹島渡 海を禁止したことを指示した旨を伝えています。   ただそれでは、過去三回にわたる対馬藩の主張が通らなかったことを認め ることになりますので、対馬藩としては、藩主の尽力で幕府の老中を説得した 結果であることを示す内容にしたものと思われます。そのため、竹島の所属に ついても、因幡、伯耆に属する島でもなく、ましてや「日本に取候」という島 でもないと明言しています。   ただ、空島であったから伯耆の者が出漁したまでであり、もともと朝鮮に 近く伯耆からは遠いところであるので、渡海しないようにと命ずることにし た、という内容になっています。   いま一つは老臣からのものとされ、「朝鮮筋御用之議は此方一手」という 対馬藩の立場から記してあります。そこでは訴訟することがあるといって朝鮮 人が因幡に出かけたのを幕府から聞いて驚いているとして、外交ルートを逸脱 した安龍福らの行動をきびしく批判して、朝鮮王朝に善処を求める内容になっ ています。   以上について、対馬藩は10月16日付で東莱府に伝えたことを幕府に報 告しました。一方で対馬藩に来ていた東莱府の訳官両名は、日本文になってい る口上書を漢文に書き改めることを求めたため、対馬藩では漢文に直し、年寄 六名が連署したものを渡し、翌1697年(元禄10)10月10日に帰国して東莱府に 報告しました。 竹島一件の決着   朝鮮王朝では、東莱府使からの報告にもとづいて政府部内で対馬藩からの 口上書について検討し、備辺使から回答させることにします。   日本が渡海禁止のことを申し出てきたことは、対馬藩が斡旋したためであ ると、対馬藩主の功労を評価し、4月27日には礼曹参議から対馬藩主に一件 落着したことについての謝辞が送られました。   しかし対馬藩は、その書状の文言に注文をつけて、二度にわたって修正を 求めます。そして一年後の1698年(元禄11)5月になって、ようやく対馬藩も 了承します。対馬藩としては、日本と朝鮮との間の外交窓口として果たす役割 が大きいことを朝鮮政府に示すねらいがあってのことでした。   ともあれ、7月には幕府老中・阿部豊後守に朝鮮王朝からの書状が差し出 されます。そして翌年1月には、江戸幕府が了承したことを対馬藩は東莱府に 伝えました。   さらにこの時、老中・阿部豊後守の指示で、対馬藩は竹島一件の経過をま とめた「口上之覚」を作成して、東莱府に贈っています。この年10月19日、対 馬藩主・宗刑部大輔は「竹島之一件無残相済」と幕府に報告、幕府は12月31日 付で老中・阿部豊後守が了承したことを対馬藩主に伝えて、1692年(元禄5) から始まった竹島一件は、1699年(元禄12)をもって落着をみました。        --------------------   日本は78年間の長きにわたり、それまで空島であった竹島(鬱陵島)を 有効利用してきましたが、結局、朝鮮側の「弊境之蔚陵島」という主張などを 考慮して竹島(鬱陵島)の継続利用を放棄し、同島への渡海を禁止しました。   かって、hakkoda_1297さんから #2131で「いわゆる空島政策というのは、 国際法上の主権の行使として認められるのでしょうか?」と質問がありまし た。   これに対し、私は #2153で「空島政策であれ何であれ、何らかの政策をし くのは主権の行使になる一方、関係国がその島の所属国について一致した認識 をもつかぎり、その島をどれだけ有効活用したかなどは内政問題であり対外的 には問題になりません」と回答しました。   竹島一件の場合、朝鮮側は基本的に竹島(鬱陵島)は朝鮮領という認識で ある一方、前々回書いたように、日本側は老中・阿部豊後守の認識にみられる ように、すくなくとも有効利用をする以前の竹島(鬱陵島)は朝鮮領であった と考えていました。この共通認識が基礎になって竹島一件は円満に解決しまし た。   さて、うえに書かれた「口上之覚」ですが、これは対馬藩が老中の指示で 竹島一件の外交交渉を要約し朝鮮に渡したのですが、この文書が明治政府に竹 島(鬱陵島)および外一島(竹島=独島)を放棄させた決め手のひとつになり ました。   また、うえの文に韓国の英雄・安龍福が登場しますが、かれの2回目の来 日、すなわち抗議行動は竹島一件をめぐる外交交渉にはほとんど影響しません でした。かれが抗議のために日本へ乗り込んだのは1696年6月でしたが、すで にその前の1月に江戸幕府は渡海禁止令をだしており、日本国内では決着済み でした。   しかしながら、かれの行動は今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えま した。それは、日本でいう竹島は朝鮮の鬱陵島、松島は于山島という認識を日 本および朝鮮で定着させました。   安龍福(安同知)は日本へ抗議に来たとき、船に「朝鬱両島 監税将臣 安 同知 騎」と墨書した旗をかかげました。これにより日本では「朝鬱両島ハ鬱陵 島<日本ニテ竹島ト称ス> 子山島<日本ニテ松島ト称ス>是ナリ」と理解されまし た(注2)。   子山島はもちろん于山島をさします。また、朝鮮側でも『粛宗実録』で「松 島即子山島 此亦我國地」と記録されました。   于山島は、とかく昔の古地図で位置や大きさが不自然だったりするので、 日本において于山島は竹島=独島ではないと主張する人がいますが、江戸時 代、両国の理解は于山島=松島であり、かつ、松島は今日の竹島=独島をさし たことは確実です。   こうして安龍福の活動や竹島一件の結果、松島・竹島の一対の島は朝鮮領 と認識され、それが江戸時代を代表する本格的な地図、長久保赤水の『日本輿 地路程全図』で具体的に示されました。 (注1)内藤正中他『韓国江原道と鳥取県』富士書店、1999 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   < >内は小さな字で書かれていることを示します。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治政府の竹島=独島放棄 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2404 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年8月26日   半月城です。前回までに内務省が竹島外一島、すなわち竹島(鬱陵島)お よび松島(竹島=独島)の放棄を内定し、領土問題のため念をいれ伺い書を太 政官に提出するにいたった過程を紹介しましたが、今回はこれを受けた太政官 の決定および指令について書きたいと思います。   内務省から提出された伺い書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」は太政 官調査局で審査された結果、内務省の見解がそのまま認められ、1877年3月2 0日、次の文章が同局で起草されました(注1、2)。文中で( )内は小さ な字の書き込みをあらわします。                     (二十七日来)      明治十年三月二十日 大臣                    本局  参議   卿輔 別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府 該國ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段 申立候上ハ伺之趣御聞置 左之通 御指令相成可然哉 此段相伺候也     御指令按   (伺之趣)   書面竹島外一嶋之義 本邦関係無之義ト可相心得事     (明治十年三月二十九日) (現代語訳)   別紙、内務省からの伺い書「日本海内竹島外一島 地籍編纂」の件ですが、 これは元禄五年、朝鮮人が入島して以来、旧政府(江戸幕府)が朝鮮とやりと りした末、ついに本邦とは関係ないと聞いているという申し立てに関して、伺 い書のおもむきをお聞きになり、下記のように御指令をくだされるよう、この 段をお伺いします。    御指令案  伺い書のおもむき、書面「竹島外一島」の件は、本邦と関係ないと心得るべ きこと。   この文書は明治政府首脳間で稟議(りんぎ)に回され、右大臣・岩倉具視 (ともみ)、参議・大隈重信、同じく寺島宗則、大木喬任らにより承認、捺印 されました。   すなわち「当時の日本の最高国家機関たる太政官は、島根県と内務省が上 申してきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を 日本領に非ずと公的に宣言」しました(注1)。   1877年3月29日、この決定を伝えられた内務省は、同省の伺い書控に 「伺之趣 竹島外一島之儀 本邦関係無之儀ト可相心得事 明治十年三月二九 日」と朱筆で加筆しました。さらに、4月9日付けで島根県にも伝えられ、現 地でもこの問題に決着がつけられました。   このように、竹島(鬱陵島)および松島(竹島=独島)が明治政府により 明確に放棄されたにもかかわらず、これを記述した書籍やホームページはほと んどないのが現状です。わずかに内藤氏の学術書が書いているくらいです(注 3)。kunitakaさんのホームページはいかがですか?   外務省のホームページもこの重要事実をふせたまま、竹島=独島の領有問 題を解説して「竹島は日本の固有領土」などと日本国民をあおっていますが、 その姿は欺瞞的としかいいようがありません。また、そうした一方的な情報に 踊らされ、やみくもに「日本の固有領土」をさけんでいる人の姿はこっけいで 哀れです。   そうした姿勢がこうじてか、あるいはディベートのあがきからか、ここの 会議室でもあらぬことをいいだす人がいるようなので、ここで念のため内務省 や太政官が放棄した外(ほか)一島とはどんな島だったのかもう一度記すこと にします。その島は島根県伺い書にわずかにこう書かれました。  「次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路に ある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。ま た、魚や獣(アシカか)を産する」   松島は竹島と同じ船路とされましたが、これは松島が竹島への航路途中に あることをさします。この島の記述は、実際に松島へも渡航した大谷家の伝承 をもとに書かれていますが、それらの距離を要約すると下記のようになりま す。  隠岐--80里(320km)--松島--40里(160km)--竹島   この距離は、ずっと時代がくだって1814年、岡嶋正義『竹島考』所収の 「竹島考圖説 竹島松島之圖」でもそれぞれ70里、40里となっており、ほと んどかわりありません(注3)。また、他の江戸時代の資料でも距離の記述は ほとんど大同小異です。   ただ、実際の距離は隠岐と竹島=独島間が160km、竹島=独島と鬱陵島間が 92kmなので上記の約半分です。このちがいは、当時の未熟な航海技術からきた ものと思われます。   いずれにしても、相対的な距離関係や島の大きさなどが現在の竹島=独 島、鬱陵島に大筋で適合するので、外一島とされた松島が竹島=独島に合致す るのはまちがいありません。 (注1)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』  24号、1987 (注2)太政官指令公文書のコピーが下記に掲載されています。  愼ヨンハ『独島の民族領土史研究』(韓国語)知識産業社、1996 (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島、松島の島名混乱 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2423 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年9月02日   江戸時代、幕府による竹島(鬱陵島)渡海禁止令の結果、竹島、松島(竹 島=独島)の一対の島は朝鮮領と認識されました。引き続き明治時代に入って もこの政策は堅持され、1877年、両島は太政官により「本邦に関係なし」と宣 言されました。   その間、日本では松島、竹島への渡航は密漁などをのぞき途絶えたため、 明治期になると両島の所在にかんする認識がゆらぎだし、欧米の不正確な知識 の流入にまどわされ、ついには松島、竹島の正確な所在がわからなくなる事態 に発展しました。これは、両島に対する「実効支配」や領有意識が失われたの で自然な成りゆきでした。今回は、この混乱ぶりを太政官指令のあった1877年 時点で見ていきたいと思います。   混乱の遠因は、1789年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を本 来より朝鮮寄りに見誤ったことにありました。かれはそれをアルゴノート島と 名づけましたが、この誤った地図がのちに大きな影響を与えました。   鬱陵島は、欧米ではすでに二年前にフランスの軍艦により確認されてお り、発見者にちなんでダジュレー島と命名されていました。結果的に、ひとつ の島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまったのでした。   やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号によ り1854年に確認されました。この確認に、じつに65年もの歳月がかかりまし た。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、19世紀なかばになっても容易 ではなかったようでした。   その確認がなされる前に、日本でおなじみのシーボルトはそれらを別々の 島と考え、あわせて古来の日本地図にてらし、朝鮮寄りとされた架空の島を 「タカシマ アルゴノート」、本来の竹島(鬱陵島)を「マツシマ ダジュ レー」と記入した誤った地図を1840年に作成しました。   当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボル トの比定はやむを得ませんでした。しかし、この誤りが島名の混乱に拍車をか けたことはいうまでもありません。   一方、竹島=独島ですが、欧米では1849年、フランスの捕鯨船リアンクー ル号によりはじめて確認されました。ついで1855年イギリスのホーネット号で も確認されました。これにより、同島はのちにホーネットとかリエンコールト (リャンコ)などと呼ばれるようになりました。こちらは位置の測定が正確だ ったのか、別々な島として認識されることはありませんでした。   こうした知識は、日本遠征をもとに1855年に作成されたペリー提督やハイ ネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二島)は「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネット 1855」と記入されました。 ここでも竹島の名前が松島に入れ替わってしまいました。   しかし、ペリーたちの情報はかなり正確なほうで、ほかの欧米地図では架 空のアルゴノートが1894年ころまで存在し続けたものもありました。ちなみ に、これらの地図では島の領有国にかんしては何の示唆も与えませんでした。   そうしたまちがった欧米の地図に影響され、日本でも鬱陵島を松島、架空 のアルゴノートを竹島とした地図がでまわるようになりました。それらをAグ ループとしてまとめると、1877年時点で下記のようになります(注1)。  Aグループ(欧米系誤謬地図) 1867年、勝海舟「大日本国沿海略図」 リエンコールト記載 1870年、橋本玉蘭「大日本四神全図」 リエンコールト記載 1874年、沖冠嶺「大日本及支那朝鮮図」竹島=独島の認識なし 1875年、陸軍参謀局「朝鮮全図」   竹島=独島の認識なし 1877年、文部省「日本全図」     竹島=独島の認識なし   ここで、文部省の官製地図「日本全図」が竹島=独島を認識していなかっ たのは注目にあたいします。しかし、ここの会議室でもよくあることですが、 こうした一枚や二枚の地図でもって領有権を云々するのはもちろんナンセンス であることはいうまでもありません。   さて、Aグループの地図では勝海舟と橋本玉蘭の地図のみが竹島=独島を リエンコールトとして記載していますが、かれらはこの島をもちろん日本の 「固有領土」と認識していたわけではありません。外国が発見した島を外国の 認識どおり記載しているにすぎなかったのはいうまでもありません。   こうした地図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を 松島と正しく記した地図も下記Bグループのようにありました。これらは、江 戸時代を代表する長久保赤水の『日本輿地路程全図』によるものです。ちなみ に赤水は、竹島一件の結果を反映してか、松島、竹島を朝鮮領と認識していた のはすでに記したとおりです。  Bグループ(正統日本地図) 1864年、恵比寿屋「大日本海陸全図」 1869年、葎〓貞雅「大日本海陸全図」 1872年、中島彭「日本輿地全図」 1875年、中島彭「日本輿地全図」   このほかに、アルゴノート島を記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島 と記した地図も下記Cグループのようにありました。  Cグループ(和洋折衷地図) 1861年、佐藤政養「新刊輿地全図」  竹島=独島の認識なし 1876年、大後秀勝「大日本海路全図」 竹島=独島をメネライ・ヲリウツ(ロ シア名)と記述する。   以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島をさしたり、架空のアルゴノート 島をさしたりしました。同時に、松島は竹島=独島をさしたり、鬱陵島をさし たりしました。明治期すら絶海にある無人島の正確な認識はいかに容易でない かを示したものといえます。   ちなみに、内務省や太政官が1877年に放棄した松島は、島根県の伺い書 で周囲30町(3.3km)と記載されているので、現在の竹島=独島をさすことに疑 問の余地はありません。また、同時に放棄した竹島は、周囲およそ10里 (40km)と記されているので、現在の鬱陵島をさすことはまちがいありません。 正統日本地図の認識を引き継いでいたといえます。   ところでここの会議室ではワラにもすがる思いからか、あるいはつまらぬ 裁判ごっこのいきがかりからか、明治政府は架空の島を含んだ松島、竹島を放 棄したと主張している人がいますが、荒唐無稽です。   内務省や太政官は架空の島を放棄するほどいい加減でもないし、愚かで もありません。版図(領土)の取捨は「重大事件」との認識から、両島の位置 や大きさなどを把握し、具体的に樹木の有無や種類、島の産物などを知ったう えで、慎重に竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)の放棄を決定しました。こ の事実は、偏狭な「竹島死守派」にとってはなかなか認めがたいようです。 (注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治期における外務省の竹島=独島認識 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2452 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年9月16日   松島、竹島の歴史を本格的にたどって、江戸時代から明治初期まできまし たが、今回、前回につづいて松島、竹島の島名混乱をさらにみていくことにし ます。   元禄時代の松島、竹島放棄以来、両島への渡航は密漁などを除き途絶えた のですが、明治期になって鬱陵島は民間人により再発見されるようになり、同 島の開拓願いが東京府や外務省に出されるようになりました。   1877(明治10)年、太政官が松島、竹島を放棄したこの年、島根県士族の 戸田敬義は「竹島渡海願」を東京府に申請しました。ここで戸田がいう竹島で すが、申請書で米子町人による竹島渡海事業や石見国浜田の会津屋八右衛門の 密航などにもふれ「徳川氏執権之時ハ殊ニ厳禁之海路」と書いていましたの で、竹島は従来の呼び名のとおり鬱陵島をさしていました。   この申請を受けた知事は、中央政府に照会するまでもなく「書面竹島渡航 願之儀 難聞届候事」とすげなく却下しました。竹島は朝鮮領の鬱陵島であると 認識していたためと思われます。   この前年、ロシアのウラジオストック在留の青森県士族・武藤平学は、鬱 陵島の材木伐採や鉱山開発などの計画をたて、外務省に「松島開拓之議」を提 出しました。ここにいう松島はもちろん鬱陵島をさしますが、これは欧米系の 誤謬地図に惑わされた結果でした。   これを知った児玉貞易は同じ年に、斉藤七郎兵衛は翌年に相次いでウラジ オストックの日本領事館に「松島開拓願」を提出しました。これらの「松島」 開拓願いを受けた外務省は、松島なる島がはたしてどこにある島かをめぐって 混乱し、数年間かかってもなんら結論を出すことができませんでした。   かって、外務省は朝鮮視察(1870)におもむいた同省の佐田白茅の報告「朝 鮮国交際始末内探書」にあるように、両島を朝鮮領と認識し「竹島 松島 朝鮮 付属ニ相成候始末」と題する報告書を作成していました。   同報告書に書かれた松島ですが、「松島ハ竹島ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付是 迄掲載セシ書留モ無之」と簡単に書かれました。たしかに、当時は松島につい て書かれた入手可能な資料は地図以外皆無でした。   地図ですが、前にも書いたように、古来の日本地図では松島は竹島=独島 をさしますが、欧米系の誤った地図では鬱陵島をさしました。これ以外に松島 の所在を比定した地図は皆無でした。ましてや、松島を架空のアルゴノート島 に比定した地図は存在しませんでした。   また、同報告書において外務省は竹島について「元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮 ヨリ居留ノ為 差遣置候」と竹島一件の出来事を認識していたので、竹島は鬱陵 島であり、隣島の松島は竹島=独島であると認識していたのは疑問の余地があ りません。   この認識もやがて一片の松島開拓願いで揺らぎだしました。元禄時代以 来、90年近く松島、竹島の領有意識が失われ、渡航もほとんど途絶えてしま ったので無理からぬことでした。   松島開拓願いは外務省で議論を呼び、数年間諸説ふんぷんでした。まず、 代表的な意見として記録局長・渡邊洪基の認識をあげることができます(注1)。        -------------------- (1)古来わが国で「竹島」と称したのは、朝鮮の鬱陵島のことである。 (2)デラセ島(ダジュレー島)を松島としているが、それは本来の竹島であり、 鬱陵島である。 (3)わが国で古来松島としているのは、ホルネットロックス(ホーネット・ロッ クス)のことである。 (4)ヨーロッパ人は、古来の竹島を松島となし、さらに烏有の島(アルゴナウト 島)に対し竹島を想起したもののごとくである。        --------------------   このように渡邊は、古来の竹島はダジュレー島、松島はホーネット・ロッ クス(竹島=独島)と正しく考えていたようでした。しかし、その渡邊も隠岐 島の沖合にある島は2島なのか3島なのか確信がもてなかったようで「若(も し)竹島以外ニアル松島ナレバ我ニ属セザルヲ得ザルモ 之ヲ決論スル者無シ」 と提案書に記しました。   渡邊は、古来の竹島(鬱陵島)や松島(ホーネット・ロックス)以外に武 藤らの申請書にいう「松島」があるのかどうかわからないけれど、もしあるな らそれは日本領であると主張するあたりは帝国主義の官僚にふさわしい発想と いえます。   さらに同じ発想で、古来の松島(竹島=独島)にかんして「ホルトネット ロックスノ我国に属スルハ各国ノ地図皆然リ」と書きましたが、ホルトネット ロックスを日本領とする各国の地図が存在しなかったのはいうまでもありませ ん。   一方、古来の松島(竹島=独島)の所属を朝鮮領と考える伝統は外務省内 でもちろん生きつづけていました。その例を公信局長・田邊太一の意見書にみ ることができます。かれは意見書でこう述べました(原文は注2)。  「松島は、わが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮 蔚陵島に属する于山であ る。蔚陵島が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、文書 を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史書に ある」   田邊も渡邊と同様に、古来の松島は竹島=独島であると正しく認識してい たのですが、しかし開拓願いに書かれた「松島」がどこであるかについてはや はり確信がありませんでした。   その一方で田邊は、元禄の「竹島一件」の結果、古来の松島は朝鮮領の蔚 陵島(鬱陵島)に付属する于山島であると正しく認識していましたので、その 帰結として、かれは朝鮮領である松島に調査や巡視の船を派遣すべきではない として、渡邊の意見に反対し、こう書きました(原文は注2)。  「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数える といういうものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と 韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除か れていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌 み嫌うところである」   こうして松島を実地調査する案は保留になり、同時に松島開拓願いも保留 になりました。その後、1880(明治13)年になって軍艦・天城を廻航して、やっ と開拓願いに書かれた「松島」の実地調査が行われました。その結果、「松 島」は朝鮮の鬱陵島であることが判明し、外務省はこう結論づけました(注3)。  「明治13年、天城艦を松島に廻航して、その地に至って測量し、はじめて 松島は鬱陵島で、その他竹島なるものは1個の岩石にすぎないことを知り、こ とは初めて明らかになった。さすれば、今日の松島はすなわち元禄12年にい うところの竹島であり、古来、日本の版図外の地であることを知るべきである」   この調査報告書により、鬱陵島を意味した竹島の名前はついに松島に置き かわってしまいました。そして竹島の名前は、鬱陵島近辺の竹嶼に与えられて しまったようでした。これは今日の竹島=独島と無関係であることはいうまで もありません。   これを機に、1905年にいたるまで次第に鬱陵島は松島、竹島=独島はリエ ンコールト(リャンコ)とよばれるようになりました。しかし、完全に島名の 混乱がおさまったわけではありませんでした。1900年に発刊された『日清韓三 国大地図』では依然として古来の伝統的な名称である松島、竹島の名が使用さ れました。 (注1)川上健三『竹島の歴史地理的研究』古今書院,1996 (注2)「松島巡視要否ノ議」  「・・・松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮 蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我 有トセサルヲ約シ 載テ両国ノ史ニ在リ 今 故ナク人ヲ遣テ コレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ宝ヲ數フトイフ 況ンヤ跡 隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カ サルニ際シ 如此一挙ヨリシテ再ビ一隙ヲ開カンコト 尤交際家ノ忌ム所ナルベ シ・・・」 (注3)北沢正誠『竹島考證』明治14年、エムテイ出版(復刻版)1996  「明治13年 天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ 其地ニ至リ測量シ 始テ松島ハ 鬱陵島ニシテ 其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ 事始テ了然 タリ 然ルトキハ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年 称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版 図外ノ地タルヤ知ルヘシ」   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治政府関係機関の竹島=独島認識 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2461 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年9月24日   半月城です。今回は、明治政府の関係諸機関が竹島=独島を1905年以前に どのように認識していたのかを見ていきたいと思います。   まず、内務省ですが、これまでの書き込みで明らかなように、竹島(鬱陵 島)、松島(竹島=独島)を日本の版図外と決定し、政府の最高意志決定機関 である太政官の指令を得て、1877年、島根県にその決定、指令を通達しまし た。   その後、1881年、内務省は竹島と松島を版図外とした太政官の指令書を 付して外務省に鬱陵島の現状を照会したことがありました(注1)。これにた いして、外務省からはとくに異論の申したてはありませんでした(注2)。   これは外務省の動きからみて当然でした。外務省は早くも 1870年、報告書 「朝鮮国交際始末内探書」で「竹島 松島 朝鮮付属ニ相成候」と認識していま した。   それから6、7年後に同省では、前回書いたように、同省に提出された 「松島開拓願い」で竹島、松島の位置が一時問題になりましたが、結局、古来 の竹島は朝鮮の鬱陵島であり、古来の松島はホルネットロックスあるいは鬱陵 島付属の于山島であるという認識は変わりませんでした。すなわち古来の松島 は、今日の竹島=独島であると一貫して理解していました。   その一方で、同省は受理した開拓願いの「松島」はどこにあるのか、上記 二島以外に別な島があるのかどうかなどについて誰もはっきりした確信をもて ませんでした。   そこで、1880年に軍艦・天城を回航して調査した結果、開拓願いの「松 島」は古来の竹島、すなわち朝鮮の鬱陵島であることがやっと判明しました。   さて、同省の竹島=独島にたいする領有意識ですが、省内には「ホルトネ ットロックスノ我国に属スルハ各国ノ地図皆然リ」とありもしないことを強弁 した局長もいましたが、他方で同島は「朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ」という 認識が強くありました。   結局、上にのべたように、1881年、外務省は竹島と松島を版図外とした太 政大臣の指令書になんら異論を申したてませんでしたので、竹島、松島放棄を 再確認したといえます。   一方、明治政府内では竹島=独島に密接なかかわりがあった機関が上記以 外にもうひとつありました。1880年、竹島(鬱陵島)に軍艦・天城を回航した 海軍です。この海軍が竹島=独島をどのように認識していたのかは、堀氏の研 究により明らかにされました。   同氏は、短絡的に海軍水路部の日本地図にリアンコールト列岩が載ってい るから、それは日本領であるというような単純思考をさけ、諸資料を分析して こう記しました(注2)。        --------------------   海軍については、当時の原文書が残されていないので、その出版物から当 局の認識をうかがうしかない。日本の海軍水路部が主に依拠していた英国版の 海図では、60年代既に二島の所在が確定していた。   そのため、日本の海軍も70年代末にはその点を充分認識していたよう で、80年代の日本製の海図には二島が正確に画かれていた。   しかし、海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属につい ては、その解説書たる水路誌を重視しなければならない。   日本海軍は、80年3月より全世界を対象とした『寰瀛(かんえい)水路 誌』の編纂を始めた。そのうちの露韓編である第二巻第二版(1886年)には、鬱 陵島とリヤンコールト列岩が載せられている。しかし、これは世界の水路誌で あるが故に、その所属の決め手にはならない。   ところが、89年3月その『寰瀛水路誌』の編纂は中止され、日本を中心 とした東北アジア海域を重視する方針に転換した。まず、日本領海を他と区別 して『日本水路誌』として独立させ、92年から順次発刊していった。   この水路誌には、95年の下関条約による日本の新領土 台湾や澎湖島、さ らには千島列島北端の占守島まで載せられているが、反面台湾の対岸やカムチ ャッカ半島は全然含まれていない。   すなわち、この『日本水路誌』の扱う範囲は、あくまで日本の領土・領海 に限定されていたのである。そして重視すべきは、その水路誌の日本海のとこ ろで、リャンクール島=独島に全く触れていない点である。   当時の日本の海図には、同島は正確に位置づけられており、その所在を知 らなかったわけではない。図2(掲載不能)のとおり、この水路誌の1897 年の付図と、同島を日本に領土編入した後の水路誌の付図を対照させれば事態 は明白である。   即ち、1900年時点で日本の海軍水路部当局は、明らかに同島を日本領から 除いていたのである。そして他方、日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年版と99年 版には、鬱陵島と並んでリヤンコールト列岩が載せられている。   つまり、19世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領と認 識していたことは、疑いのないところである。        --------------------   19世紀末、日本海軍がリヤンコールト列岩(竹島=独島)を『日本水路 誌』にのせず『朝鮮水路誌』のほうに掲載した事実は、堀氏のいうように、日 本海軍は竹島=独島を朝鮮領と認識していたとみることができます。   海軍以外に竹島=独島にすこしでも関係がありそうな部署をしいてあげれ ば文部省があります。同省は1877年に教育用のためか「日本全図」を作製しま した。   しかし、この地図には、前々回書いたように、松島、竹島の名前はあるも のの、竹島を架空の島であるアルゴノート島に、松島を鬱陵島にあてる一方、 竹島=独島は認識していなかったとみえて、地図に竹島=独島はのっていませ んでした。   以上を要約すると、明治政府の関係諸機関は、文部省を別にすれば、竹島 =独島を程度の差はあっても朝鮮領とみていたことは明らかです。結論として 堀氏はこう記しました(注2)。  「明治維新以後日本の政府が、竹島=独島に独自の関心を示したことは全く なかった。そして、認識の程度に強弱はあっても、日本政府の関係諸機関のす べてが、同島を鬱陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明らかなことであ る」   堀氏の研究により、明治政府は竹島=独島を放棄した結果、明治維新 (1868)から1905年まで明治政府の関係諸機関は竹島=独島に領有意識をもって いなかったことが明らかになりました。   さらに、竹島=独島放棄の理由が元禄時代の竹島(鬱陵島)放棄に由来す るだけに、日本は元禄時代から1905年まで二百年以上も竹島=独島に領有意識 をもっていなかったことになります。したがって、日本外務省のいう「竹島は 日本の固有領土」という主張が誤りであることは明白です。 (注1)「内務書記官 西村捨三の外務書記官宛照会」外務省記録3824、外 務省外交史料館蔵 (注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24号'87   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


日朝両国の于山島(竹島=独島)認識 Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2477 http://messages.yahoo.co.jp/ 2001年9月30日   半月城です。purachakaさんとは何カ月ぶりでしょうか。   RE:2476 >パルマス島事件の判例だと「地図に載ってるから我が国の領土である」とい う主張はダメみたいですね。   たしかに地図は領土紛争において参考資料にしかすぎない場合が多いよう です。とくに測量技術が未熟であった中世や近世の地図は不正確で「証拠価 値」にほど遠いのが通例です。   さらに近世どころか、近代になっても絶海にある島の位置や大きさなどを 正確に記録することは困難をともないました。七つの海を制覇したイギリスで すら鬱陵島の位置を誤り、架空のアルゴノート島として記録するほどでした。 しかもその誤りは正されるのにじつに50年以上もかかりました。   地図が決定打にならないとすると、問題は関係国が紛争地を領土としてど のように認識していたかに帰着することになります。ただし、関係国の認識が 衝突しないかぎり領土紛争は起こりようがないことはいうまでもありません。 竹島一件決着後の竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)がそうでした。   竹島一件当時の1696年、安龍福(安同知)が抗議のため来日したとき、船 に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげたことから、日本で は「朝鬱両島ハ鬱陵島<日本ニテ竹島ト称ス> 子山島<日本ニテ松島ト称ス>是 ナリ」と明確に認識されるようになりました(注1)。   子山島とはいうまでもなく于山島をさすのですが、うえの二島の対応関係 はしごく妥当でした。隠岐の沖合には二島しか存在しないので、これ以外に対 応のつけようがありません。   したがって明治時代になっても、外務省の田邊局長が意見書に古来の松島 は「朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ」としたのも自然な流れでした(注5)。な お、同書で于山島を鬱陵島に「属する」としたのは、古来、日本で竹島と松島 は一対という認識が長久保赤水の地図などですっかり定着していたためでした。   松の木など1本もない松島(竹島=独島)が竹島(鬱陵島)と一対である という認識のゆえに、江戸時代の竹島放棄は同時に松島(竹島=独島)も放棄 したと考えられました。その認識が明治時代になっても外務省の報告書や内務 省伺い書、日本海軍、太政官の指令書など政府の全関係部署に反映され、松 島(竹島=独島)が日本の版図外とされたのはすでに記したとおりです。   一方、朝鮮の認識ですが、官製資料『粛宗実録』(1728)が安龍福の発言を のせるかたちで「松島すなわち子山島、これまた我が国の地」「鬱陵、子山島 をもって、朝鮮の地界と定める」と記されました(注2)。   さらに『東国文献備考』でも分註で「輿地志に云う、鬱陵、于山皆于山国 の地。于山(島)は則ち倭のいわゆる松島なり」と書かれました(注3)。こ この会議室には于山島と于山国を混同している半可通もいるようですが、于山 国とは新羅の智證王が 512年に征服したクニの名前でした(注6)。   この松島が于山であるという認識は、もっと時代がくだって『増補文献備 考』輿地考でも輿地志の記述を再確認したうえで「松島即芋山島」と歴史上の 記述がなされました(注4)。芋山島はもちろん于山島をさします。   このように竹島一件以後、竹島は鬱陵島であり「古来」の松島は于山島で あり、ともに朝鮮領であるという認識が日本と朝鮮で一致していました。した がって、両国間に領土紛争は存在しませんでした。この場合、竹島=独島が正 確にどこにあるかなどはさして問題になりません。隠岐の沖合にある一対の二 島は朝鮮領であるという両国の共通認識のみが重要です。   時代がくだって 1905年、日本帝国は軍事上の必要からリャンコ島(竹島= 独島)の領土編入を閣議決定したのですが、このとき日本は「同島は無主地」 であるということを口実にしました。   つまり、日本はリャンコ島を日本の領土とは考えず「無主地」であるから 日本の領土に編入するという論法でした。したがって、同島は日本の「固有領 土」だという現在の日本外務省のような認識はこれっぽちもありませんでし た。これらについては次回以降おいおいと記すことにします。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   < >内は小さな字で書かれていることを示します。 (注2)「松島即子山島 此亦我国地」「以鬱陵子山等島 定以朝鮮地界」 (注3)「鬱陵 于山皆于山国地、于山則倭所謂松島也」 (注4)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24号'87 (注5)北澤正誠『竹島考證』1881、エムティ出版(復刻版)1996 (注6)『三国史記』巻第四十四 列伝 第四 異斯夫(1145年刊)  異斯夫(或云苔宗)姓金氏 奈勿王四世孫 智度路王時 為沿邊官 襲居道権謀 以 馬戯誤加耶(或云加羅)國取之 至十三年壬辰 為阿〓羅州軍主 謀〓于山國 謂其 國人愚悍 難以威降 可以計服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其國海岸 詐告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 其人恐懼規降 <現代語訳>  異斯夫(イサブ) (苔宗ともいう)の姓は金氏であり、奈勿王の四世孫である。 智度路王(=智證王)の治世の時に延辺官となり、居道の権謀を踏襲し、馬遊び で欺いて加耶(加羅ともいう)の国を手中にした。13年(512)には阿〓羅州の軍主 となり、于山(ウサン)国を併合しようと謀った。「その国の人々は愚鈍だが精 悍であり、威力で降伏させるのは難しいので、計略によって降伏させよう」と 言い、獅子(しし、ライオン)の木像を数多く作らせ、軍船に積み込み、その 国の海岸に着いて「もしお前達が降伏しなければこの猛獣を放ってお前達を踏 み殺させるぞ」と騙して脅すと、その国の人々は恐れをなして降伏した。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


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