大国への事大主義と竹島=独島
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メッセージ: 1716 http://www.yahoo.co.jp
2001年2月24日
半月城です。Torazo_xxxさんの文は往々にして核心部分があいまいなよう
です。
RE:1624
> このような経緯から、講和条約において、竹島(リアンクル岩)を日本の
領土となすべく起草され、締結されたことがわかります。
結局、Torazo_xxxさんは何がいいたいのですか? サンフランシスコ講和
条約の結果、竹島=独島を日本から切り離したSCAPIN 677は改定され、竹島=
独島は日本の領土であることが国際的に認定されたと主張したいのでしょうか?
もしそう考えるなら、ハボマイ・シコタンをどのようにお考えですか?
前に書いたように、これらの島も竹島=独島と同じようにSCAPIN 677で日本か
ら切り離され、同じようにサンフランシスコ講和条約では一切の記述がないの
ですが、これらも竹島=独島と同じように条約で日本領であることが国際的に
認定されたとお考えですか?
もしそうなら講和条約直後、日本はソ連の「不法残留」を国際世論に訴え
れば、冷戦下の当時は自由主義陣営から拍手喝采で歓迎されたでしょうに、そ
のような動きは微塵もありませんでした。ということは、どだい認定されたと
考えるのは我田引水ではないでしょうか。
RE:1624
> 講和条約においては、「暴力及び強欲により日本国が略取」したとされる
>全ての領域が日本の領土から分離される如く列挙されました。その中に列挙
>されなかった竹島(リアンクル岩)は、紛れもなく「日本の固有の領土」な
>のです。
>如何なる曲解や憶測を加えても、決して揺るがない事実なのです。
おや、Torazo_xxxさんはクナシリ・エトロフを放棄したのですか? 以下
の事情をよく吟味して動揺をおさえてください。
1946年、千島列島も SCAPIN 677で日本から切り離される島の一覧にこう
記されました。
「(C)千島列島、歯舞(はぼまい)群島(小晶、勇留、秋勇留、志葵、多楽
島などを含む)、色丹(しこたん)島」
この条項にクナシリ・エトロフの名はありませんが、これらは文脈からみ
て千島列島に含まれるのは明らかです。その千島列島は講和条約において下記
のように日本から明確に切り離されました。国際法上は完璧なソ連領になり、
日本もそれを承認しました。
「日本国は千島列島ならびに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結
果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべて
の権利、権限および請求権を放棄する」
Torazo_xxxさん式の、講和条約に列挙されなかったから「固有領土」とい
う狭量な論理では、逆にいうと条約に規定されたクナシリ・エトロフは「固有
領土」でないという論理になりかねません。本来、条約に列挙されるされない
は「固有領土」の認定とは関係ないとみるべきではないでしょうか。
そもそも竹島=独島の場合、連合軍に「固有領土」の認定などできるはず
がありません。というのも、主導的役割をはたしたアメリカにしろ竹島=独島
の歴史について熟知していたとはとうてい考えられないからです。
たとえば、アメリカどころか韓国さえも初期の明治政府が竹島、松島を朝
鮮領と考え太政官布告でそれらを放棄し「固有領土」の認識などこれっぽちも
なかった事実など当時は知るよしもなかったのです。
さらに戦後のアメリカの対応をみると、アメリカは竹島=独島の帰属に関
し、いかに場当たり的な対応をとってきたのかがはっきりします。それを梶村
氏はこう記しました(注1)。
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戦後のこの問題には、連合軍の名で日・韓両国を占領したアメリカがコミ
ットしている。しかし、アメリカははなはだ首尾一貫しない場当たりの対応を
した末、サンフランシスコ条約以後、両国の折衝にまかせてこの問題から逃げ
てしまっている。・・・
今日にいたるまで、日韓双方にアメリカの見解が竹島=独島の帰属を左右
する力をもつとする幻想ないし事大主義の発想があって、アメリカの場当たり
な態度を自国に有利に解して水掛け論をぶっつけあうということが続いている
が、もともとアメリカの見解は決して決定的な意味はもたない。
・・・
1948年6月30日、竹島=独島に出漁中の韓国漁夫30名が米軍の爆撃演
習にあい死者16名重軽傷6名の犠牲をだすという事件が突発した。
発足後の韓国政府の抗議に対し米第5空軍は、演習場として指定していな
かったことを認め陳謝した。韓国側はこれを米軍が韓国の領有権を認めたもの
とみなしている。
・・・
1952年7月26日、日米安保条約の実施のため日米合同委員会が、日米行
政協定2条に基づき、竹島=独島を米軍の演習区域に指定するということがあ
った。
これを日本側は「アメリカが日本領と認めたことだ」と宣伝したが、韓国
政府の抗議に応じて53年2月27日、米空軍は竹島=独島を演習区域から除
外したと公表し日本側の主張は意味をなさなくなった。
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どうも日本、韓国ともにアメリカの言動に一喜一憂しすぎた感があります
が、アメリカは世界の検察官でも裁判官でもありません。日韓は事大主義的発
想を捨て、アメリカのご都合主義から解放されるべきではないかと思います。
それはともかく、アメリカ一国の考えでサンフランシスコ講和条約の解釈
が左右されるものではありません。結局、サンフランシスコ講和条約に竹島=
独島やハボマイ・シコタンがまったく記述されなかったのは、連合軍はこれら
の島、なかんずくハボマイ・シコタンはソ連との関係から帰属問題を保留にし
たと見るべきではないでしょうか。
このように、竹島=独島とハボマイ・シコタンは似た事情にもかかわらず、
竹島=独島に対しては銃撃戦までやったのに、同じころ、力を入れていたハボ
マイ・シコタンに対しては借りてきた猫のように音無しなのは、大国、ソ連に
たいする事大主義とでもいえるのでしょうか。
(注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店,1992
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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古代史】東大寺お水取りと若狭、新羅
BIGLOBE日本史ボード 9096
2001年03月08日 SPM07550
奈良に春を呼ぶとされる、東大寺二月堂のお水取りがまもなく始まろうと
しています。この聖なる「お水」サンスクリット語で閼伽(あか)を汲む東大
寺の井戸はふしぎなことに若狭井と名づけられています。
東大寺と若狭、ふしぎな取り合わせですが、両者は因縁浅からぬものがあ
るようです。それらのエピソードをとおして、東大寺と若狭、はては新羅との
関係をさぐりたいと思います。
東大寺は聖武天皇の発願をもとに、百済渡来系の行基や良弁(ろうべん)
により開かれました。良弁は歌舞伎の出し物「二月堂良弁杉の由来」で有名で
すが、そこでは赤子の時に鷲にさらわれ、東大寺二月堂の杉の木に落ちたのち、
高僧に育てられたとされています。
良弁がさらわれた場所は、若狭の昔話では小浜の里「白石(しらいし)」
とされています(注1)。小浜といってもピンとこないでしょうが、そこは奈
良時代、国府や国分寺がおかれた若狭地方の中心地でした。それどころか、小
浜はかって日本の表玄関のひとつでした。元小浜市長の鳥居氏はこう語りまし
た(注7)。
「小浜は民族移動の通路だったのですよ。北方民族が新羅を通じて小浜から
大和に入っていったのではないでしょうか。人も物もここを通ったのです。京
都の出町柳は、若狭から物資が出る町という意味なんです」
京都や大和と新羅を結ぶほどのかなめの地、小浜なら良弁のような高僧を
輩出したとしてもふしぎはないのですが、どうも良弁杉の信憑性は疑わしいよ
うです。良弁が鷲にさらわれたとするのは物語としても、良弁の出身地が小浜
という話はどうも信用できないようです。
『世界大百科事典』(注9)によると、良弁は「百済系渡来人の後裔。近
江あるいは相模出身」とされています。そこから奈良へのぼり、同じ百済渡来
系の義淵に師事したとされています。
さて、本題のお水取りですが、こちらのほうは小浜とのつながりが濃厚で
す。天平勝宝4年(752)、東大寺において大仏の開眼供養が盛大に催されまし
たが、一般にはこの年からお水取りが始まったとされています。
お水取り、正しくは十一面悔過(けか)の行法は、当初、旧暦2月1日か
ら二七(にしち、14)日間おこなわれたので、またの名を修二月会、あるい
は修二会(しゅにえ)などと呼ばれました。
十一面悔過の行法とは、僧たちが十一面観音の名号(みょうごう)を唱え、
懺悔行道し御利益(ごりやく)を得るものですが、そのクライマックスで十一
面観音にお水をそなえます。その水は香水(こうずい)あるいは閼伽とよばれ、
修二会においてもっとも重要な儀式のひとつとされます。
二月堂の修二会は、言い伝えによれば、良弁の高弟である実忠によりはじ
められました。しかし、これも厳密にはちがうかもしれません。それはさてお
き、修二会で実忠は神名帳を読んで諸神を勧請したのですが、若狭の遠敷(お
にゅう)明神は漁に忙しく遅れてやって来ました。
遠敷は、お詫びのしるしに十一面観音にお供えする閼伽水を送ろうと約束
しました。その方法は神通力を発揮し、二月堂の下まで若狭の水を導き、大地
をうがって白と黒の二羽の鵜を飛び出させました。そして、その二つの穴から
香水を湧き出させました。
漁に関係した遠敷明神が鵜を飛び出させたエピソードは、すぐさま鵜飼い
を連想させます。日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満
州の北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも鵜飼い
は見られます(注9)。
日本の鵜飼いは『隋書倭国伝』にも紹介されていますが、その昔、遠敷川
で鵜飼いが行われていたという伝承もあるので、遠敷明神の漁とはあるいは鵜
飼いだったのかもしれません。
こうして、遠敷明神が閼伽をわき出させたところは若狭井と呼ばれるよう
になりました。これがお水取りの起源です。東大寺は遠敷明神の功績をたたえ、
二月堂横に遠敷神社を祀りました。
物語のうえでは聖なるお水の源は若狭ですが、くしくもそこは良弁僧正の
「出身地」白石の遠敷川とされます。お水取りの期間中、遠敷川は水が涸れ、
水音がしないので音無河ともよばれました。
川の途中に伝説にちなんで名づけられたのか「鵜の瀬」とよばれるところ
がありますが、そこに遠敷明神をまつる神宮寺が建てられました。そこでは今
でも東大寺にお水を送る送水(そうずい)の儀式が行われています。
この由緒ある神宮寺がだしている寺誌に「お水送りとお水取り」というパ
ンフレットがありますが、そこに若狭や寺の由来がこう書かれています(注2)。
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お水送りとお水取り
若狭神宮寺から奈良東大寺へ
若狭の語源は朝鮮語ワカソ(注3)が和加佐となまって、後世さらに若狭
と宛字されたものであり、奈良もまた朝鮮語のナラ(注4)を語源とし、後に
奈良と宛字されたものである。
このように若狭と奈良とは同じく朝鮮語を母語としてできた地名であるが、
これを立証するのも若狭と奈良との歴史的、地理的な関係である
飛鳥朝の古代から若狭地方の遠敷(注5)の地は、新羅氏(白石になまっ
ている)が根来(ねごり、注6)に根拠地をかまえていた部落国家の勢力とも
いうべく、現代一般が称している「海のあるナラ」であったのである。
その地理的な理由となるのは、若狭湾がさらに湾入した青戸入江の古津が
古代朝鮮と大和奈良を結ぶ海と陸の接点であったのである。
これを物語る地理的な条件は、対馬海流と呼ぶ暖流が朝鮮半島の南端から、
山陰海岸の沖や若狭湾の沖から北陸海岸の沖を流れ、佐渡の東方まで至ってい
る。その潮流に乗れば小舟などは漕がずとも、一昼夜たらずで朝鮮半島の南端
から若狭湾の沖に流れ着くのである。
この潮に乗って来て、若狭湾の青戸入江の古津に着岸した渡来者は、遠敷
川の谷間を奥へまっすぐ南へ向かって山を越え、百キロほど進めば大和国や奈
良の都であった。当時としてはまことに便利なルートであり、古代朝鮮の新羅
の文化を奈良の都へ運ぶ便利な中継地であって、多くの文化や人材が若狭から
奈良へ運ばれたのである。
奈良時代に仏教が伝来したが、一世紀ほどは蘇我氏の私寺仏教で、ようや
く飛鳥末期の舒明天皇に至って官寺仏教に発展したが、それが白鳳期に入って
からも地方一般庶民の間で未だ仏教の最盛は見られず、むしろ朝廷中央の間に
も道教的な神仙思想が重宝され、一般民衆の間には導士的な山岳修行が流行し、
役の小角(えんのおづぬ)を始めとする山岳行者が各地に群生したが、その白
鳳期の末期(西暦 700年前後)には、この若狭地方にも山岳信仰が発達して、
若狭の祖、遠敷明神若狭彦の直孫で祝部(はふりべ、神主)の和の赤麿公も山
岳修行者として・・・苦修練行したのである。
・・・
赤麿公は寺院を建て、薬師如来と十一面観音を安置して仏堂に祭り、さら
に根来(ねごり)から白石明神をお迎えして仏堂の横に社殿を建て、遠敷明神
として祀り、薬師如来の化身が遠敷明神の若狭彦、十一面観音の化身が若狭姫
であるとの神仏合体の寺院を建てて、鈴応山神願寺と名付け国土安穏諸人安楽
五穀豊穣を祈願した。
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神願寺はやがて神宮寺と名前を変えるのですが、これほど朝鮮との関係を
強調した古寺は稀です。若狭や根来という語は朝鮮語がなまったという説など
には作家の金達寿氏もタジタジなようです。
ただ、奈良が朝鮮語のナラであるとの説は、かなり根拠があるようです。
また、白石(しらいし)は新羅がなまったという説はかねてから金達寿氏など
が主張していますが、これには小浜市観光協会も同じ見解です(注1)。
ともかくも地元では朝鮮とのつながりは密接だったと固く信じられている
ようです。近くの敦賀(つるが)は、崇神天皇のときに額に角のある大加羅国
の王子ツヌガアラシトが来たので角鹿(つぬが)と名づけられたいわれがあり
ます。
また、垂仁天皇のとき、新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)は近江から
若狭を経て西の但馬に住みつきました。その子孫は但馬氏や田道間守(たじま
もり)をなのる豪族でした。
このように、物語のうえで北陸や丹後地方は朝鮮と深いかかわりがありま
した。北陸のみか、山陰の出雲もクニを新羅から引っ張ってくるなど、対馬海
流にそって朝鮮半島から人も物も流れて来たようでした。これは遺跡のうえか
らも確認されます。
若狭の遺跡に限定すれば、遠敷郡上中町西塚古墳は「帰化人文化の痕跡」
とされているようですが、ここから鉄製馬具や四獣鏡、勾玉、金製耳飾りなど
が発掘されました。金製耳飾りというと新羅との関連が濃厚です。
また、近くの末野(すえの)は朝鮮半島から伝わった須恵器の一大産地だ
ったようで、武藤正典氏の『若狭文学散歩』に「末野の窯跡」としてこう記さ
れました(注7)。
<古くから窯業が行われた窯跡の分布地域として知られ、昔は「陶(すえ)」
焼きの場所として、「陶」の字名が、現在の「末」に変わったとも伝えられ、
山腹の須部(すべ)神社は延喜式内社で「須恵」に関係があるようで養老3年
(719)の勧請という。神社には付近の出土品が保存されている>
土器に一大変革をもたらした須恵器ですが、若狭の技術は、天日槍伝説の
通り道にひっかければ、新羅から直接伝わったのではなく近江から来たのかも
しれません。それというのも、日本書紀で近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者
であるとされています。
話はまた小浜にもどりますが、小浜には遠敷明神と称する神社が他にもあ
りました。神宮寺近くにある若狭一宮の若狭彦神社です。この神社は上社、下
社からなりますが、この下社は古来、若狭姫神社、遠敷神社(遠敷明神)とも
よばれました(注8)。これは遠敷明神=若狭姫ということでしょうか? 漁
師が女性とは合点がいきそうにありません。
その後、遠敷神社は明治初年に国弊中社に指定され、官祭を行うようにな
り、名前は若狭姫神社または若狭彦神社下社と公称されるようになりました。
国家神道に新羅の白石明神系はふさわしくないということで遠敷明神の名が消
されたのでしょうか?
現在、上社は山幸彦(やまさちひこ)のヒコホホデミノミコト、下社は山
幸彦と結婚した豊玉姫を祭神にしています(注8)。豊玉姫は、記紀神話では
出産のとき、海辺の産屋でワニの姿で苦しんでいるところをのぞき見されて怒
り,子をおいて海底の国に帰ってしまう薄情な母で名高いミコトです。
かって、遠敷明神をともに祀っていた神宮寺と若狭彦神社は、神宮寺の説
明にあるように神仏合体の寺院でした。それが1871年(明治4)の神仏分離令
で別々にされました。
そのとき、神宮寺では遠敷明神のご神体を差し出したことになっています
が、実はそれは身代わりで、本物の遠敷明神は神宮寺に現存するそうです。こ
こに神宮寺が「お水送り」をする正統性があります。
(注1)福井県小浜市・小浜市観光協会発行パンフレット「お水おくり」
(注2)若狭神宮寺別当尊護記『お水送りとお水取り』
(注3)ワカソの原著注、<ワッソ=来るとカッソ=行くとの合成語>
(注4)ナラの原著注、<国という意味でまたナラして開けた土地すなわち都
という意味にもなる>
(注5)遠敷の原著注、<朝鮮語ウォンヌー=遠くへやるとか遠くへ来て敷く
意味の語が訛って乎尓布(おにふ)となった>
(注6)根来の原著注、<朝鮮語ネコール=我々の古里の意味で新羅系発音で、
紀州の根来(ねごろ)は高句麗系の発音のネコール>
(注7)金達寿『日本の中の朝鮮文化5』講談社,1984
(注8)若狭彦神社社務所『若狭国一宮若狭彦神社由緒記』
(注9)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998
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古代史】東大寺の国際性
BIGLOBE日本史ボード 9119
2001年03月18日 SPM07550
高さ16mに達する東大寺の大仏は、バーミヤン石仏にはおよびませんが、
銅製としては世界最大を誇ります。
この大仏の製造を担当したのは、造仏長官の国中(くになかの)公麻呂で
した。公麻呂は、百済滅亡のおりに亡命した百済の技術者国骨富(くにのこつ
ふ)の孫ですが、天平時代、鋳師の高市大国とともに八段の鋳継ぎという独特
の製法を考案し、類例のない大仏すなわち盧舎那仏(るしゃなぶつ)を鋳造で
製作しました。この高市大国も大和高市(たけち)郡の名から連想されるよう
に渡来人の子孫でした(注1)。
鋳造には2年かかりましたが、それにもまして困難だったのは金メッキで
した。現在の大仏はくすんだ色をしていますが、建立当時は燦然と輝く存在で
した。そもそも華厳経で盧舎那仏は大光明を放って十万の世界を照らし、その
光明によって衆生を解脱せしめるので、それを具現する大仏は燦然と光り輝く
必要があり、そのために金メッキはぜひとも必要な技法でした。
それなのにメッキに必要な黄金が払底していました。一時は唐から朝貢貿
易で仕入れることも検討されましたが、そんなおり、陸奥国司の百済王敬福か
ら朗報が届きました。小田郡(宮城県湧谷町)で砂金が発見されたのでした。
百済王敬福は、滅亡した百済最後の王である義慈王の4代目にあたります。
朗報とは、陸奥で産する縞模様のモチ石に砂金が含まれていることが判明
したのでした。ここから400kg にものぼる黄金が献上されました。今日のデフ
レ相場でも4億円にはなりましょうか。
余談ですが、当時の金メッキは水銀アマルガム法といい、金を溶かした水
銀を表面に塗った後、水銀を熱で蒸発させ表面に金を残しました。当時、これ
は大変な水銀公害を引き起こしたようでした。
752年(天平勝宝4)、聖武天皇の発願から9年、国家の一大事業である盧舎
那仏はついに完成しました。そのときには聖武天皇や、大仏を勧進(募財)し
た百済渡来系の高僧行基(ぎょうき)はもうこの世の人ではありませんでした。
大仏の開眼供養は、東洋の雅楽、すなわち唐楽や高麗(こま)楽、林邑
(中南部ベトナム)楽、日本の久米舞などが奏でられるなか、インドからの渡
来僧である菩提僊那(ぼだいせんな)が導師になり盛大に催されました。
菩提僊那は南インドのバラモン階級の出身とされますが、中国五台山に学
んでいたところを入唐僧の玄昉にスカウトされ、林邑僧の仏哲や唐僧の道弱
(どうせん)らとともに736年(天平8)日本へ渡来しました。
菩提僊那は難波津で行基の出迎えをうけ、平城京の大安寺に入り華厳経を
説きました。大安寺は、639年(舒明11)百済宮の近くに建てられた百済大寺に
始まりますが、移転などで名前を高市(たけち)大寺、大官大寺などと変えた後、
716年(霊亀2)平城遷都にともない移転して大安寺と称されました。
この寺では早くから新羅の義湘門下に華厳教を学んだ審詳(しんじょう)
が活躍していました。審詳は、百済渡来系の良弁(ろうべん)の招きに応じ,
740年(天平12)より3年間,東大寺の前身である金鐘寺において華厳経60巻(旧
訳)を講じ、東大寺大仏造立の教理的基礎を築きました。その基盤にたち、聖
武天皇は749年(天平勝宝1)に15大寺に対して「華厳を以て本と為す」の勅旨を
くだし、華厳経を国家仏教の中心としました(注3)。
ところで審詳の出身ですが、かれは新羅学生とされているので新羅からの
渡来人と考える研究者も多いようですが、奈良大学の堀池氏によれば審詳は新
羅に留学した日本人だったようです(注2)。
審詳は新羅留学中に元暁,義湘,大行,義寂などの著書を書写して持ち帰
りましたが,それらは光明皇后の写経所,東大寺写経所などでさらに書写され
ました。その所蔵本目録は審詳師経録といわれ,今日170部645巻を数えること
ができるとのことです(注3)。審詳、ひいては新羅の影響力は絶大だったよ
うでした。
その背景ですが、天平期にさきだつ白鳳時代、日本はかっての敵国である
唐との関係が疎遠になるなかで新羅に近づき、多くの学問僧を新羅に留学させ
ました。それを田村圓澄氏はこう記しました(注4)。
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天武・持統・文武朝、すなわち白鳳時代には、日本と新羅との友好関係が
つづいた。日本の仏教界は新羅に学ぶことにおいて積極的であった。史料にあ
きらかな限り、白鳳時代に唐に赴いたのは道慈および弁正の二人であるのにた
いし、新羅学問僧は、観常・雲観・智隆・明聡・観智・弁通・神叡・行善・義
法・義基・惣集・慈定・浄達の13名をかぞえる。
この時期の新羅の仏教界では、多数の著述を残した元暁や、初めて華厳宗
を説いた義湘などが活躍している。とくに還俗してもなお民衆に感化影響を与
えた元暁の消息についても、新羅学問僧を通じ、日本の仏教界や知識層には知
らされていたであろう。
・・・
日本仏教史の流れは、法隆寺焼亡の670年頃を境として、注目すべき変
化を示している。私は、飛鳥時代と白鳳時代の境を、670年に求めるのであ
るが、飛鳥時代は、豪族層を直接の受容者とする「氏族仏教」の段階であった
のにたいし、白鳳時代は、国家の擁護を志向する「国家仏教」の段階であった。
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古く推古朝のころは百済仏教が中心で、新羅仏教関連は広隆寺の弥勒菩薩
など数えるほどしかありませんでしたが、白鳳期に入り新羅仏教は急速に日本
に普及したようでした。
数の比較でいうと“推古天皇のころには、寺院は畿内を中心に50カ寺ほ
どでしたが、「国家仏教」の天武・持統朝になりますと、530の寺々が、東
は関東地方から西は九州に至るほぼ全国に分布”するほど広がりをみせました
(注6)。
新羅仏教のなかで元暁と義湘はとくに名高く、日本でもその名は鎌倉時代
にいたっても華厳宗祖師としてあがめられました。京都高山寺の明恵上人は、
ふたりの伝記を「華厳縁起」として絵巻にして残しました。
このように隆盛を誇った華厳経が大仏の教理として導入されたのですが、
それには華厳経が律令国家支配に都合がよかったことも一因だったようでした。
李氏はこう記しました(注1)。
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華厳経は、事法界、理法界、事理無礙(むげ)法界、事々無礙法界の四つ
の法界をたてる。事法界は唯物論的なもので、理法界は唯心論的なものである。
事理無礙法界では、物と心は互いに無関係ではないという。
事々無礙法界については、物と物とは個別的なものとみられがちだが、本
来は個別的なものではなく、個別のものが合わさって一つのものが営まれてい
き、重々無尽につながるのだと説き、それを重々無尽因陀羅網(いんだらも
う)という。そしてインドの神がもっている網の結び目には水晶の玉がついて
いるが、ひとつの玉を見るとそこに全部の玉が映っている。したがって、ひと
つの玉に疵がつくとすべての玉に疵がつくのだというのである。
これを人間世界にあてはめて国家と個人とは一つのものとみなし、国がよ
くなれば個人も幸せになると説く。これが華厳の根本であって、国家が民衆を
支配するにはもっとも都合のよいものであるが、それは三国の統一をめざす新
羅においてすでに実験されたことである。
--------------------
インドに起源を持つ華厳経、それを国家仏教の枠組みに採りいれたのは新
羅で、日本はそれを新羅から学んだようでした。ちなみに唐では道教が国教的
地位をしめていました(注7)。
現在の日本では進んだ文化や技術は遣唐使をとおしてすべて唐から直接学
んだと思われがちですが、時にはそこに落とし穴があります。
たとえば、律令制度もその一例です。日本における律令国家の基礎は大宝
律令(701)ですが、これは30年間も唐との交流が途絶えたなかで制定されま
した。
これから推察されるように、制度は唐から直接学んだのではなく、新羅か
ら学びました。両国の交流は、遣唐使不在の30年間に日本からの遣新羅使は
10回、新羅使節の渡来は32回を数えるほど盛んでした(注5)。
こうした活発な交流をつうじて先進文物や文化が入り日本に変革をもたら
したので、新羅の存在はもっと重視されてしかるべきです。東大寺にしてもそ
うした観点から照明を当ててはじめて全体像が明らかになるのではないかと思
われます。田村氏はこう記しました(注4)。
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東大寺は8世紀において突如として出現したのであろうか。
東大寺の造営について、中国竜門の奉先寺の盧舎那大石仏を先蹤としてあ
げる意見がある。そして二十余年に及ぶ唐留学を終え、735年(天平7)に帰国
した玄昉が、東大寺の建立について積極的な役割を果たしたとも説かれる。こ
の見解によれば、東大寺は八世紀の時点で、いわば自己完結の形で誕生し、そ
して直接、中国仏教・中国文化とのかかわりあいで成立したと解されやすい。
竜門奉先寺の盧舎那大石仏もさることながら、私は『続日本紀』天平勝宝
元年(749)12月条に載せる宣命に注目する。そこには聖武天皇が(天平12年に)
河内の智識寺の盧舎那仏を礼し、大仏建立を思い立ったという。
また、これに呼応して、宇佐八幡が大仏造立の援助を表明したことが明記
されている。河内の智識寺も豊前の宇佐八幡も、朝鮮半島に関係があったこと
はすでに述べた。
私が本書であきらかにしたかったのは、仏教の日本伝来以降約二世紀近く
の間、朝鮮半島から絶えず人々や文物・文化の伝来があり、また日本からも朝
鮮半島諸国に赴いて意欲的に仏教や仏教文化を学んだ事実があったということ
である。
こうして約二世紀間に及ぶ飛鳥・白鳳文化が成立したが、それはまた東大
寺建立の「前史」でもあった。この二世紀近くの間に受け継がれ、蓄積された
文化や技術の重みは、東大寺建立の歴史的理解において、軽視されてはならな
いであろう。
それだけではない。八世紀の現史に立ちかえるならば、東大寺造営の技術
的な面はいうまでもなく、財政面においても、さらに仏教学の面においても、
渡来系の人々が先頭に立っている事実があきらかとなった。
しかも史上に名をとどめたのは、一部の指導者とういうべきであり、かれ
らに率いられたより多くの渡来系の人々が、東大寺造営に参加したことは推察
に難くない。
・・・
大仏殿をはじめとする東大寺の七堂伽藍がおおむね完成するのは、783年
(延暦2)前後の頃であるが、伽藍造営の中心となったのは大工の猪名部百世で
ある。木工技術の伝統を継承する猪名部氏は、新羅系渡来氏族であった。
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東大寺は着工から完成まで渡来人が中心的役割をはたしたようです。設立
の直接のきっかけとされる河内の智識寺ですが、この寺は白鳳時代の創建で、
新羅の双塔式伽藍配置を模し、金堂には盧舎那仏が安置されていました。新羅
の華厳宗が智識寺に伝えられたと考えられます。
名前の「智識」は、仏教に縁を結ばせる物とか人をさす「善智識」からき
ていますが、智識寺はそれまでの氏寺とちがい、名もなき民衆の力を結集して
建てられたようです。田村氏によれば「民衆の主力は朝鮮半島からの渡来人で
あったとみるべき」とのことですが、ここを訪れた聖武天皇の胸中を田村氏は
こう推測しました(注6)。
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聖武天皇が大仏建立を思い立ったときに、その寺を自分の私寺、自分の氏
寺と考えていたとは思われません。また自分の力のみによって建てようとは考
えていなかったと思うのです。
聖武天皇が河内の智識寺に参詣して大仏造立を思い立ったという意味は、
智識寺方式といいますか、民衆の力に頼り、民衆のための寺を立てることを思
い立ったということであったと考えます。聖武天皇が智識寺に参詣して大仏造
立を発願したときに、聖武は初めて民衆に出会い、そして民衆の仏教を発見し
たのです。
それだけではありません。智識寺の壮麗な伽藍が示しているように、財政
的にも大仏造立は可能であるという見通しを得たでしょう。さらに技術的にも、
大仏は可能であるという決断に達することができたと思います。智識寺の盧舎
那仏は規模が大きかったといわれています。
つまり智識寺の周辺には大仏造立の技術者がおり、その技術のレベルから
みて、聖武天皇に大仏造立の技術面での自信を与えたのであります。智識寺に
参詣した聖武天皇は、ここに居住している渡来系集団の文化・技術の水準の高
さをみずからの目によって確かめることができました。
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民衆のための寺を建てるという聖武天皇の発想、もしこれが本当なら、こ
れは行基の行き方にうまくマッチしたと思われます。かって、行基は民衆の寄
進や協力で49の寺を開き社会事業に献身しました。そうした活動のためか、
行基は一時弾圧されましたが、結局、朝廷はかれの民衆への絶大な影響力を活
用するため東大寺の勧進役に任命しました。
民衆に根ざした行基の活動は、あるいは新羅の元暁の生き方に影響を受け
たのかもしれません。元暁は民衆への布教につとめ,民衆仏教の形成に果たし
た役割は大きいものがあったようです。
(注1)李進煕『日本文化と朝鮮』NHKブックス,1995
(注2)司馬遼太郎他『日本の渡来文化』中央公論社,1975
(注3)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』,1998
(注4)田村圓澄『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館,1980
(注5)井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院,1991
(注6)田村圓澄『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫,1996
(注7)東野治之『遣唐使と正倉院』岩波書店,1992
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