半月城通信
No. 80

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  1. 大国への事大主義と竹島=独島
  2. 東大寺お水取りと若狭、新羅
  3. 東大寺の国際性
  4. 行基と河内の渡来人
  5. 正倉院と国際交流


大国への事大主義と竹島=独島 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:竹島問題を考える メッセージ: 1716  http://www.yahoo.co.jp 2001年2月24日   半月城です。Torazo_xxxさんの文は往々にして核心部分があいまいなよう です。   RE:1624 > このような経緯から、講和条約において、竹島(リアンクル岩)を日本の 領土となすべく起草され、締結されたことがわかります。   結局、Torazo_xxxさんは何がいいたいのですか? サンフランシスコ講和 条約の結果、竹島=独島を日本から切り離したSCAPIN 677は改定され、竹島= 独島は日本の領土であることが国際的に認定されたと主張したいのでしょうか?   もしそう考えるなら、ハボマイ・シコタンをどのようにお考えですか?  前に書いたように、これらの島も竹島=独島と同じようにSCAPIN 677で日本か ら切り離され、同じようにサンフランシスコ講和条約では一切の記述がないの ですが、これらも竹島=独島と同じように条約で日本領であることが国際的に 認定されたとお考えですか?   もしそうなら講和条約直後、日本はソ連の「不法残留」を国際世論に訴え れば、冷戦下の当時は自由主義陣営から拍手喝采で歓迎されたでしょうに、そ のような動きは微塵もありませんでした。ということは、どだい認定されたと 考えるのは我田引水ではないでしょうか。   RE:1624 > 講和条約においては、「暴力及び強欲により日本国が略取」したとされる >全ての領域が日本の領土から分離される如く列挙されました。その中に列挙 >されなかった竹島(リアンクル岩)は、紛れもなく「日本の固有の領土」な >のです。 >如何なる曲解や憶測を加えても、決して揺るがない事実なのです。   おや、Torazo_xxxさんはクナシリ・エトロフを放棄したのですか? 以下 の事情をよく吟味して動揺をおさえてください。   1946年、千島列島も SCAPIN 677で日本から切り離される島の一覧にこう 記されました。  「(C)千島列島、歯舞(はぼまい)群島(小晶、勇留、秋勇留、志葵、多楽 島などを含む)、色丹(しこたん)島」   この条項にクナシリ・エトロフの名はありませんが、これらは文脈からみ て千島列島に含まれるのは明らかです。その千島列島は講和条約において下記 のように日本から明確に切り離されました。国際法上は完璧なソ連領になり、 日本もそれを承認しました。  「日本国は千島列島ならびに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結 果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべて の権利、権限および請求権を放棄する」   Torazo_xxxさん式の、講和条約に列挙されなかったから「固有領土」とい う狭量な論理では、逆にいうと条約に規定されたクナシリ・エトロフは「固有 領土」でないという論理になりかねません。本来、条約に列挙されるされない は「固有領土」の認定とは関係ないとみるべきではないでしょうか。   そもそも竹島=独島の場合、連合軍に「固有領土」の認定などできるはず がありません。というのも、主導的役割をはたしたアメリカにしろ竹島=独島 の歴史について熟知していたとはとうてい考えられないからです。   たとえば、アメリカどころか韓国さえも初期の明治政府が竹島、松島を朝 鮮領と考え太政官布告でそれらを放棄し「固有領土」の認識などこれっぽちも なかった事実など当時は知るよしもなかったのです。   さらに戦後のアメリカの対応をみると、アメリカは竹島=独島の帰属に関 し、いかに場当たり的な対応をとってきたのかがはっきりします。それを梶村 氏はこう記しました(注1)。        --------------------   戦後のこの問題には、連合軍の名で日・韓両国を占領したアメリカがコミ ットしている。しかし、アメリカははなはだ首尾一貫しない場当たりの対応を した末、サンフランシスコ条約以後、両国の折衝にまかせてこの問題から逃げ てしまっている。・・・   今日にいたるまで、日韓双方にアメリカの見解が竹島=独島の帰属を左右 する力をもつとする幻想ないし事大主義の発想があって、アメリカの場当たり な態度を自国に有利に解して水掛け論をぶっつけあうということが続いている が、もともとアメリカの見解は決して決定的な意味はもたない。  ・・・   1948年6月30日、竹島=独島に出漁中の韓国漁夫30名が米軍の爆撃演 習にあい死者16名重軽傷6名の犠牲をだすという事件が突発した。   発足後の韓国政府の抗議に対し米第5空軍は、演習場として指定していな かったことを認め陳謝した。韓国側はこれを米軍が韓国の領有権を認めたもの とみなしている。  ・・・   1952年7月26日、日米安保条約の実施のため日米合同委員会が、日米行 政協定2条に基づき、竹島=独島を米軍の演習区域に指定するということがあ った。   これを日本側は「アメリカが日本領と認めたことだ」と宣伝したが、韓国 政府の抗議に応じて53年2月27日、米空軍は竹島=独島を演習区域から除 外したと公表し日本側の主張は意味をなさなくなった。        --------------------   どうも日本、韓国ともにアメリカの言動に一喜一憂しすぎた感があります が、アメリカは世界の検察官でも裁判官でもありません。日韓は事大主義的発 想を捨て、アメリカのご都合主義から解放されるべきではないかと思います。   それはともかく、アメリカ一国の考えでサンフランシスコ講和条約の解釈 が左右されるものではありません。結局、サンフランシスコ講和条約に竹島= 独島やハボマイ・シコタンがまったく記述されなかったのは、連合軍はこれら の島、なかんずくハボマイ・シコタンはソ連との関係から帰属問題を保留にし たと見るべきではないでしょうか。  このように、竹島=独島とハボマイ・シコタンは似た事情にもかかわらず、 竹島=独島に対しては銃撃戦までやったのに、同じころ、力を入れていたハボ マイ・シコタンに対しては借りてきた猫のように音無しなのは、大国、ソ連に たいする事大主義とでもいえるのでしょうか。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店,1992   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


古代史】東大寺お水取りと若狭、新羅 BIGLOBE日本史ボード  9096 2001年03月08日  SPM07550   奈良に春を呼ぶとされる、東大寺二月堂のお水取りがまもなく始まろうと しています。この聖なる「お水」サンスクリット語で閼伽(あか)を汲む東大 寺の井戸はふしぎなことに若狭井と名づけられています。   東大寺と若狭、ふしぎな取り合わせですが、両者は因縁浅からぬものがあ るようです。それらのエピソードをとおして、東大寺と若狭、はては新羅との 関係をさぐりたいと思います。   東大寺は聖武天皇の発願をもとに、百済渡来系の行基や良弁(ろうべん) により開かれました。良弁は歌舞伎の出し物「二月堂良弁杉の由来」で有名で すが、そこでは赤子の時に鷲にさらわれ、東大寺二月堂の杉の木に落ちたのち、 高僧に育てられたとされています。   良弁がさらわれた場所は、若狭の昔話では小浜の里「白石(しらいし)」 とされています(注1)。小浜といってもピンとこないでしょうが、そこは奈 良時代、国府や国分寺がおかれた若狭地方の中心地でした。それどころか、小 浜はかって日本の表玄関のひとつでした。元小浜市長の鳥居氏はこう語りまし た(注7)。  「小浜は民族移動の通路だったのですよ。北方民族が新羅を通じて小浜から 大和に入っていったのではないでしょうか。人も物もここを通ったのです。京 都の出町柳は、若狭から物資が出る町という意味なんです」   京都や大和と新羅を結ぶほどのかなめの地、小浜なら良弁のような高僧を 輩出したとしてもふしぎはないのですが、どうも良弁杉の信憑性は疑わしいよ うです。良弁が鷲にさらわれたとするのは物語としても、良弁の出身地が小浜 という話はどうも信用できないようです。   『世界大百科事典』(注9)によると、良弁は「百済系渡来人の後裔。近 江あるいは相模出身」とされています。そこから奈良へのぼり、同じ百済渡来 系の義淵に師事したとされています。   さて、本題のお水取りですが、こちらのほうは小浜とのつながりが濃厚で す。天平勝宝4年(752)、東大寺において大仏の開眼供養が盛大に催されまし たが、一般にはこの年からお水取りが始まったとされています。   お水取り、正しくは十一面悔過(けか)の行法は、当初、旧暦2月1日か ら二七(にしち、14)日間おこなわれたので、またの名を修二月会、あるい は修二会(しゅにえ)などと呼ばれました。   十一面悔過の行法とは、僧たちが十一面観音の名号(みょうごう)を唱え、 懺悔行道し御利益(ごりやく)を得るものですが、そのクライマックスで十一 面観音にお水をそなえます。その水は香水(こうずい)あるいは閼伽とよばれ、 修二会においてもっとも重要な儀式のひとつとされます。   二月堂の修二会は、言い伝えによれば、良弁の高弟である実忠によりはじ められました。しかし、これも厳密にはちがうかもしれません。それはさてお き、修二会で実忠は神名帳を読んで諸神を勧請したのですが、若狭の遠敷(お にゅう)明神は漁に忙しく遅れてやって来ました。   遠敷は、お詫びのしるしに十一面観音にお供えする閼伽水を送ろうと約束 しました。その方法は神通力を発揮し、二月堂の下まで若狭の水を導き、大地 をうがって白と黒の二羽の鵜を飛び出させました。そして、その二つの穴から 香水を湧き出させました。   漁に関係した遠敷明神が鵜を飛び出させたエピソードは、すぐさま鵜飼い を連想させます。日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満 州の北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも鵜飼い は見られます(注9)。   日本の鵜飼いは『隋書倭国伝』にも紹介されていますが、その昔、遠敷川 で鵜飼いが行われていたという伝承もあるので、遠敷明神の漁とはあるいは鵜 飼いだったのかもしれません。   こうして、遠敷明神が閼伽をわき出させたところは若狭井と呼ばれるよう になりました。これがお水取りの起源です。東大寺は遠敷明神の功績をたたえ、 二月堂横に遠敷神社を祀りました。   物語のうえでは聖なるお水の源は若狭ですが、くしくもそこは良弁僧正の 「出身地」白石の遠敷川とされます。お水取りの期間中、遠敷川は水が涸れ、 水音がしないので音無河ともよばれました。   川の途中に伝説にちなんで名づけられたのか「鵜の瀬」とよばれるところ がありますが、そこに遠敷明神をまつる神宮寺が建てられました。そこでは今 でも東大寺にお水を送る送水(そうずい)の儀式が行われています。   この由緒ある神宮寺がだしている寺誌に「お水送りとお水取り」というパ ンフレットがありますが、そこに若狭や寺の由来がこう書かれています(注2)。        -------------------- お水送りとお水取り                  若狭神宮寺から奈良東大寺へ   若狭の語源は朝鮮語ワカソ(注3)が和加佐となまって、後世さらに若狭 と宛字されたものであり、奈良もまた朝鮮語のナラ(注4)を語源とし、後に 奈良と宛字されたものである。   このように若狭と奈良とは同じく朝鮮語を母語としてできた地名であるが、 これを立証するのも若狭と奈良との歴史的、地理的な関係である   飛鳥朝の古代から若狭地方の遠敷(注5)の地は、新羅氏(白石になまっ ている)が根来(ねごり、注6)に根拠地をかまえていた部落国家の勢力とも いうべく、現代一般が称している「海のあるナラ」であったのである。   その地理的な理由となるのは、若狭湾がさらに湾入した青戸入江の古津が 古代朝鮮と大和奈良を結ぶ海と陸の接点であったのである。   これを物語る地理的な条件は、対馬海流と呼ぶ暖流が朝鮮半島の南端から、 山陰海岸の沖や若狭湾の沖から北陸海岸の沖を流れ、佐渡の東方まで至ってい る。その潮流に乗れば小舟などは漕がずとも、一昼夜たらずで朝鮮半島の南端 から若狭湾の沖に流れ着くのである。   この潮に乗って来て、若狭湾の青戸入江の古津に着岸した渡来者は、遠敷 川の谷間を奥へまっすぐ南へ向かって山を越え、百キロほど進めば大和国や奈 良の都であった。当時としてはまことに便利なルートであり、古代朝鮮の新羅 の文化を奈良の都へ運ぶ便利な中継地であって、多くの文化や人材が若狭から 奈良へ運ばれたのである。   奈良時代に仏教が伝来したが、一世紀ほどは蘇我氏の私寺仏教で、ようや く飛鳥末期の舒明天皇に至って官寺仏教に発展したが、それが白鳳期に入って からも地方一般庶民の間で未だ仏教の最盛は見られず、むしろ朝廷中央の間に も道教的な神仙思想が重宝され、一般民衆の間には導士的な山岳修行が流行し、 役の小角(えんのおづぬ)を始めとする山岳行者が各地に群生したが、その白 鳳期の末期(西暦 700年前後)には、この若狭地方にも山岳信仰が発達して、 若狭の祖、遠敷明神若狭彦の直孫で祝部(はふりべ、神主)の和の赤麿公も山 岳修行者として・・・苦修練行したのである。  ・・・   赤麿公は寺院を建て、薬師如来と十一面観音を安置して仏堂に祭り、さら に根来(ねごり)から白石明神をお迎えして仏堂の横に社殿を建て、遠敷明神 として祀り、薬師如来の化身が遠敷明神の若狭彦、十一面観音の化身が若狭姫 であるとの神仏合体の寺院を建てて、鈴応山神願寺と名付け国土安穏諸人安楽 五穀豊穣を祈願した。        --------------------   神願寺はやがて神宮寺と名前を変えるのですが、これほど朝鮮との関係を 強調した古寺は稀です。若狭や根来という語は朝鮮語がなまったという説など には作家の金達寿氏もタジタジなようです。   ただ、奈良が朝鮮語のナラであるとの説は、かなり根拠があるようです。 また、白石(しらいし)は新羅がなまったという説はかねてから金達寿氏など が主張していますが、これには小浜市観光協会も同じ見解です(注1)。   ともかくも地元では朝鮮とのつながりは密接だったと固く信じられている ようです。近くの敦賀(つるが)は、崇神天皇のときに額に角のある大加羅国 の王子ツヌガアラシトが来たので角鹿(つぬが)と名づけられたいわれがあり ます。   また、垂仁天皇のとき、新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)は近江から 若狭を経て西の但馬に住みつきました。その子孫は但馬氏や田道間守(たじま もり)をなのる豪族でした。   このように、物語のうえで北陸や丹後地方は朝鮮と深いかかわりがありま した。北陸のみか、山陰の出雲もクニを新羅から引っ張ってくるなど、対馬海 流にそって朝鮮半島から人も物も流れて来たようでした。これは遺跡のうえか らも確認されます。   若狭の遺跡に限定すれば、遠敷郡上中町西塚古墳は「帰化人文化の痕跡」 とされているようですが、ここから鉄製馬具や四獣鏡、勾玉、金製耳飾りなど が発掘されました。金製耳飾りというと新羅との関連が濃厚です。   また、近くの末野(すえの)は朝鮮半島から伝わった須恵器の一大産地だ ったようで、武藤正典氏の『若狭文学散歩』に「末野の窯跡」としてこう記さ れました(注7)。  <古くから窯業が行われた窯跡の分布地域として知られ、昔は「陶(すえ)」 焼きの場所として、「陶」の字名が、現在の「末」に変わったとも伝えられ、 山腹の須部(すべ)神社は延喜式内社で「須恵」に関係があるようで養老3年 (719)の勧請という。神社には付近の出土品が保存されている>   土器に一大変革をもたらした須恵器ですが、若狭の技術は、天日槍伝説の 通り道にひっかければ、新羅から直接伝わったのではなく近江から来たのかも しれません。それというのも、日本書紀で近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者 であるとされています。   話はまた小浜にもどりますが、小浜には遠敷明神と称する神社が他にもあ りました。神宮寺近くにある若狭一宮の若狭彦神社です。この神社は上社、下 社からなりますが、この下社は古来、若狭姫神社、遠敷神社(遠敷明神)とも よばれました(注8)。これは遠敷明神=若狭姫ということでしょうか? 漁 師が女性とは合点がいきそうにありません。   その後、遠敷神社は明治初年に国弊中社に指定され、官祭を行うようにな り、名前は若狭姫神社または若狭彦神社下社と公称されるようになりました。 国家神道に新羅の白石明神系はふさわしくないということで遠敷明神の名が消 されたのでしょうか?   現在、上社は山幸彦(やまさちひこ)のヒコホホデミノミコト、下社は山 幸彦と結婚した豊玉姫を祭神にしています(注8)。豊玉姫は、記紀神話では 出産のとき、海辺の産屋でワニの姿で苦しんでいるところをのぞき見されて怒 り,子をおいて海底の国に帰ってしまう薄情な母で名高いミコトです。   かって、遠敷明神をともに祀っていた神宮寺と若狭彦神社は、神宮寺の説 明にあるように神仏合体の寺院でした。それが1871年(明治4)の神仏分離令 で別々にされました。   そのとき、神宮寺では遠敷明神のご神体を差し出したことになっています が、実はそれは身代わりで、本物の遠敷明神は神宮寺に現存するそうです。こ こに神宮寺が「お水送り」をする正統性があります。 (注1)福井県小浜市・小浜市観光協会発行パンフレット「お水おくり」 (注2)若狭神宮寺別当尊護記『お水送りとお水取り』 (注3)ワカソの原著注、<ワッソ=来るとカッソ=行くとの合成語> (注4)ナラの原著注、<国という意味でまたナラして開けた土地すなわち都   という意味にもなる> (注5)遠敷の原著注、<朝鮮語ウォンヌー=遠くへやるとか遠くへ来て敷く   意味の語が訛って乎尓布(おにふ)となった> (注6)根来の原著注、<朝鮮語ネコール=我々の古里の意味で新羅系発音で、   紀州の根来(ねごろ)は高句麗系の発音のネコール> (注7)金達寿『日本の中の朝鮮文化5』講談社,1984 (注8)若狭彦神社社務所『若狭国一宮若狭彦神社由緒記』 (注9)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


古代史】東大寺の国際性 BIGLOBE日本史ボード  9119 2001年03月18日  SPM07550   高さ16mに達する東大寺の大仏は、バーミヤン石仏にはおよびませんが、 銅製としては世界最大を誇ります。   この大仏の製造を担当したのは、造仏長官の国中(くになかの)公麻呂で した。公麻呂は、百済滅亡のおりに亡命した百済の技術者国骨富(くにのこつ ふ)の孫ですが、天平時代、鋳師の高市大国とともに八段の鋳継ぎという独特 の製法を考案し、類例のない大仏すなわち盧舎那仏(るしゃなぶつ)を鋳造で 製作しました。この高市大国も大和高市(たけち)郡の名から連想されるよう に渡来人の子孫でした(注1)。   鋳造には2年かかりましたが、それにもまして困難だったのは金メッキで した。現在の大仏はくすんだ色をしていますが、建立当時は燦然と輝く存在で した。そもそも華厳経で盧舎那仏は大光明を放って十万の世界を照らし、その 光明によって衆生を解脱せしめるので、それを具現する大仏は燦然と光り輝く 必要があり、そのために金メッキはぜひとも必要な技法でした。   それなのにメッキに必要な黄金が払底していました。一時は唐から朝貢貿 易で仕入れることも検討されましたが、そんなおり、陸奥国司の百済王敬福か ら朗報が届きました。小田郡(宮城県湧谷町)で砂金が発見されたのでした。 百済王敬福は、滅亡した百済最後の王である義慈王の4代目にあたります。   朗報とは、陸奥で産する縞模様のモチ石に砂金が含まれていることが判明 したのでした。ここから400kg にものぼる黄金が献上されました。今日のデフ レ相場でも4億円にはなりましょうか。   余談ですが、当時の金メッキは水銀アマルガム法といい、金を溶かした水 銀を表面に塗った後、水銀を熱で蒸発させ表面に金を残しました。当時、これ は大変な水銀公害を引き起こしたようでした。   752年(天平勝宝4)、聖武天皇の発願から9年、国家の一大事業である盧舎 那仏はついに完成しました。そのときには聖武天皇や、大仏を勧進(募財)し た百済渡来系の高僧行基(ぎょうき)はもうこの世の人ではありませんでした。   大仏の開眼供養は、東洋の雅楽、すなわち唐楽や高麗(こま)楽、林邑 (中南部ベトナム)楽、日本の久米舞などが奏でられるなか、インドからの渡 来僧である菩提僊那(ぼだいせんな)が導師になり盛大に催されました。   菩提僊那は南インドのバラモン階級の出身とされますが、中国五台山に学 んでいたところを入唐僧の玄昉にスカウトされ、林邑僧の仏哲や唐僧の道弱 (どうせん)らとともに736年(天平8)日本へ渡来しました。   菩提僊那は難波津で行基の出迎えをうけ、平城京の大安寺に入り華厳経を 説きました。大安寺は、639年(舒明11)百済宮の近くに建てられた百済大寺に 始まりますが、移転などで名前を高市(たけち)大寺、大官大寺などと変えた後、 716年(霊亀2)平城遷都にともない移転して大安寺と称されました。   この寺では早くから新羅の義湘門下に華厳教を学んだ審詳(しんじょう) が活躍していました。審詳は、百済渡来系の良弁(ろうべん)の招きに応じ, 740年(天平12)より3年間,東大寺の前身である金鐘寺において華厳経60巻(旧 訳)を講じ、東大寺大仏造立の教理的基礎を築きました。その基盤にたち、聖 武天皇は749年(天平勝宝1)に15大寺に対して「華厳を以て本と為す」の勅旨を くだし、華厳経を国家仏教の中心としました(注3)。   ところで審詳の出身ですが、かれは新羅学生とされているので新羅からの 渡来人と考える研究者も多いようですが、奈良大学の堀池氏によれば審詳は新 羅に留学した日本人だったようです(注2)。   審詳は新羅留学中に元暁,義湘,大行,義寂などの著書を書写して持ち帰 りましたが,それらは光明皇后の写経所,東大寺写経所などでさらに書写され ました。その所蔵本目録は審詳師経録といわれ,今日170部645巻を数えること ができるとのことです(注3)。審詳、ひいては新羅の影響力は絶大だったよ うでした。   その背景ですが、天平期にさきだつ白鳳時代、日本はかっての敵国である 唐との関係が疎遠になるなかで新羅に近づき、多くの学問僧を新羅に留学させ ました。それを田村圓澄氏はこう記しました(注4)。        --------------------   天武・持統・文武朝、すなわち白鳳時代には、日本と新羅との友好関係が つづいた。日本の仏教界は新羅に学ぶことにおいて積極的であった。史料にあ きらかな限り、白鳳時代に唐に赴いたのは道慈および弁正の二人であるのにた いし、新羅学問僧は、観常・雲観・智隆・明聡・観智・弁通・神叡・行善・義 法・義基・惣集・慈定・浄達の13名をかぞえる。   この時期の新羅の仏教界では、多数の著述を残した元暁や、初めて華厳宗 を説いた義湘などが活躍している。とくに還俗してもなお民衆に感化影響を与 えた元暁の消息についても、新羅学問僧を通じ、日本の仏教界や知識層には知 らされていたであろう。  ・・・   日本仏教史の流れは、法隆寺焼亡の670年頃を境として、注目すべき変 化を示している。私は、飛鳥時代と白鳳時代の境を、670年に求めるのであ るが、飛鳥時代は、豪族層を直接の受容者とする「氏族仏教」の段階であった のにたいし、白鳳時代は、国家の擁護を志向する「国家仏教」の段階であった。        --------------------   古く推古朝のころは百済仏教が中心で、新羅仏教関連は広隆寺の弥勒菩薩 など数えるほどしかありませんでしたが、白鳳期に入り新羅仏教は急速に日本 に普及したようでした。   数の比較でいうと“推古天皇のころには、寺院は畿内を中心に50カ寺ほ どでしたが、「国家仏教」の天武・持統朝になりますと、530の寺々が、東 は関東地方から西は九州に至るほぼ全国に分布”するほど広がりをみせました (注6)。   新羅仏教のなかで元暁と義湘はとくに名高く、日本でもその名は鎌倉時代 にいたっても華厳宗祖師としてあがめられました。京都高山寺の明恵上人は、 ふたりの伝記を「華厳縁起」として絵巻にして残しました。   このように隆盛を誇った華厳経が大仏の教理として導入されたのですが、 それには華厳経が律令国家支配に都合がよかったことも一因だったようでした。 李氏はこう記しました(注1)。        --------------------   華厳経は、事法界、理法界、事理無礙(むげ)法界、事々無礙法界の四つ の法界をたてる。事法界は唯物論的なもので、理法界は唯心論的なものである。 事理無礙法界では、物と心は互いに無関係ではないという。   事々無礙法界については、物と物とは個別的なものとみられがちだが、本 来は個別的なものではなく、個別のものが合わさって一つのものが営まれてい き、重々無尽につながるのだと説き、それを重々無尽因陀羅網(いんだらも う)という。そしてインドの神がもっている網の結び目には水晶の玉がついて いるが、ひとつの玉を見るとそこに全部の玉が映っている。したがって、ひと つの玉に疵がつくとすべての玉に疵がつくのだというのである。   これを人間世界にあてはめて国家と個人とは一つのものとみなし、国がよ くなれば個人も幸せになると説く。これが華厳の根本であって、国家が民衆を 支配するにはもっとも都合のよいものであるが、それは三国の統一をめざす新 羅においてすでに実験されたことである。        --------------------   インドに起源を持つ華厳経、それを国家仏教の枠組みに採りいれたのは新 羅で、日本はそれを新羅から学んだようでした。ちなみに唐では道教が国教的 地位をしめていました(注7)。   現在の日本では進んだ文化や技術は遣唐使をとおしてすべて唐から直接学 んだと思われがちですが、時にはそこに落とし穴があります。   たとえば、律令制度もその一例です。日本における律令国家の基礎は大宝 律令(701)ですが、これは30年間も唐との交流が途絶えたなかで制定されま した。   これから推察されるように、制度は唐から直接学んだのではなく、新羅か ら学びました。両国の交流は、遣唐使不在の30年間に日本からの遣新羅使は 10回、新羅使節の渡来は32回を数えるほど盛んでした(注5)。   こうした活発な交流をつうじて先進文物や文化が入り日本に変革をもたら したので、新羅の存在はもっと重視されてしかるべきです。東大寺にしてもそ うした観点から照明を当ててはじめて全体像が明らかになるのではないかと思 われます。田村氏はこう記しました(注4)。        --------------------   東大寺は8世紀において突如として出現したのであろうか。   東大寺の造営について、中国竜門の奉先寺の盧舎那大石仏を先蹤としてあ げる意見がある。そして二十余年に及ぶ唐留学を終え、735年(天平7)に帰国 した玄昉が、東大寺の建立について積極的な役割を果たしたとも説かれる。こ の見解によれば、東大寺は八世紀の時点で、いわば自己完結の形で誕生し、そ して直接、中国仏教・中国文化とのかかわりあいで成立したと解されやすい。   竜門奉先寺の盧舎那大石仏もさることながら、私は『続日本紀』天平勝宝 元年(749)12月条に載せる宣命に注目する。そこには聖武天皇が(天平12年に) 河内の智識寺の盧舎那仏を礼し、大仏建立を思い立ったという。   また、これに呼応して、宇佐八幡が大仏造立の援助を表明したことが明記 されている。河内の智識寺も豊前の宇佐八幡も、朝鮮半島に関係があったこと はすでに述べた。   私が本書であきらかにしたかったのは、仏教の日本伝来以降約二世紀近く の間、朝鮮半島から絶えず人々や文物・文化の伝来があり、また日本からも朝 鮮半島諸国に赴いて意欲的に仏教や仏教文化を学んだ事実があったということ である。   こうして約二世紀間に及ぶ飛鳥・白鳳文化が成立したが、それはまた東大 寺建立の「前史」でもあった。この二世紀近くの間に受け継がれ、蓄積された 文化や技術の重みは、東大寺建立の歴史的理解において、軽視されてはならな いであろう。   それだけではない。八世紀の現史に立ちかえるならば、東大寺造営の技術 的な面はいうまでもなく、財政面においても、さらに仏教学の面においても、 渡来系の人々が先頭に立っている事実があきらかとなった。   しかも史上に名をとどめたのは、一部の指導者とういうべきであり、かれ らに率いられたより多くの渡来系の人々が、東大寺造営に参加したことは推察 に難くない。  ・・・   大仏殿をはじめとする東大寺の七堂伽藍がおおむね完成するのは、783年 (延暦2)前後の頃であるが、伽藍造営の中心となったのは大工の猪名部百世で ある。木工技術の伝統を継承する猪名部氏は、新羅系渡来氏族であった。        --------------------   東大寺は着工から完成まで渡来人が中心的役割をはたしたようです。設立 の直接のきっかけとされる河内の智識寺ですが、この寺は白鳳時代の創建で、 新羅の双塔式伽藍配置を模し、金堂には盧舎那仏が安置されていました。新羅 の華厳宗が智識寺に伝えられたと考えられます。   名前の「智識」は、仏教に縁を結ばせる物とか人をさす「善智識」からき ていますが、智識寺はそれまでの氏寺とちがい、名もなき民衆の力を結集して 建てられたようです。田村氏によれば「民衆の主力は朝鮮半島からの渡来人で あったとみるべき」とのことですが、ここを訪れた聖武天皇の胸中を田村氏は こう推測しました(注6)。        --------------------   聖武天皇が大仏建立を思い立ったときに、その寺を自分の私寺、自分の氏 寺と考えていたとは思われません。また自分の力のみによって建てようとは考 えていなかったと思うのです。   聖武天皇が河内の智識寺に参詣して大仏造立を思い立ったという意味は、 智識寺方式といいますか、民衆の力に頼り、民衆のための寺を立てることを思 い立ったということであったと考えます。聖武天皇が智識寺に参詣して大仏造 立を発願したときに、聖武は初めて民衆に出会い、そして民衆の仏教を発見し たのです。   それだけではありません。智識寺の壮麗な伽藍が示しているように、財政 的にも大仏造立は可能であるという見通しを得たでしょう。さらに技術的にも、 大仏は可能であるという決断に達することができたと思います。智識寺の盧舎 那仏は規模が大きかったといわれています。   つまり智識寺の周辺には大仏造立の技術者がおり、その技術のレベルから みて、聖武天皇に大仏造立の技術面での自信を与えたのであります。智識寺に 参詣した聖武天皇は、ここに居住している渡来系集団の文化・技術の水準の高 さをみずからの目によって確かめることができました。        --------------------   民衆のための寺を建てるという聖武天皇の発想、もしこれが本当なら、こ れは行基の行き方にうまくマッチしたと思われます。かって、行基は民衆の寄 進や協力で49の寺を開き社会事業に献身しました。そうした活動のためか、 行基は一時弾圧されましたが、結局、朝廷はかれの民衆への絶大な影響力を活 用するため東大寺の勧進役に任命しました。   民衆に根ざした行基の活動は、あるいは新羅の元暁の生き方に影響を受け たのかもしれません。元暁は民衆への布教につとめ,民衆仏教の形成に果たし た役割は大きいものがあったようです。 (注1)李進煕『日本文化と朝鮮』NHKブックス,1995 (注2)司馬遼太郎他『日本の渡来文化』中央公論社,1975 (注3)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』,1998 (注4)田村圓澄『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館,1980 (注5)井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院,1991 (注6)田村圓澄『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫,1996 (注7)東野治之『遣唐使と正倉院』岩波書店,1992   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


行基と河内の渡来人   Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」   http://messages.yahoo.co.jp/yahoo/index.html   半月城です。前回の延長で行基とその周辺をとりあげます。   東大寺四聖のひとりにたたえられる行基は、奈良駅前に銅像が立つほど親 しまれていますが、それというのも民衆のなかに仏教をひろめ、民衆とともに 行動した実績が買われたのでしょうか。その偉大な行基ですが、その出自に私 もいささか関心をもっています。   RE:1866 >「行基の父の高志才智は王仁の子孫と称し、……」   行基は王仁の子孫というより、西文(かわちのふみ)氏の分派といったほ うが適切ではないかと思われます。行基の出身を池田氏はこう記しました(注 1)。  「行基の父は、高志才智(こしのさいち),母は蜂田古爾比売(はちたのこに ひめ)で、ともに和泉国大鳥郡に本拠を置く中下級渡来氏族であった。   父方の高志氏の居住地は大鳥郡高石で、現在高石神社があり王仁を祭って いる。これは高志氏の宗族が、河内国古市郡に本貫を置く書首(ふみのおび と)氏(西文氏)であることと関連している。   よく知られているように、書首氏の祖は5世紀のはじめに百済から千字文 をもたらした王仁といわれているが、高志氏はこの書首氏から分派した氏族で ある」   行基の宗家である書首ですが、日本書紀の応神天皇条に書首の祖が王仁で あるとたしかに書かれています。しかし、周知のように応神天皇のころの説話 はマユツバが多いものです。たとえば、その時代の百済王を日本書紀は阿花王 としていますが、古事記では肖古王としており食い違いがあります。   さらに上田氏によれば、千字文がつくられたのは梁の武帝(在位502-549) 時代であり、応神天皇朝では早すぎるとのことです(注2)。日本史の教科書 のなかには書き直しが必要なものもあるようです。   このように王仁の伝承にはすこし疑問があるにしても、西文氏の祖が朝鮮 半島からきて、ヤマト朝廷において長らく活躍したことはたしかなようです。 それを上田氏はこう記しました(注2)。        --------------------  (王仁の)説話は、『記紀』の編者が西文氏の家の所伝をもとにつけ加えた ものであって、西文氏の祖が朝鮮よりきたことや、これが大王家を主軸とする 朝廷の文筆活動に活躍したことまでを否定するのはゆきすぎであろう。   というのは、6世紀後半以降になると文筆活動においては船史(ふねのふ ひと)らが活躍するようになって文氏はしだいに力を失っゆくが、それでも文 氏は、702(大宝2)年の場合にもみられるように、大祓(おおはらい)には祓 刀をとり呪文を奏する伝統をもっていたし、またその伝統は十世紀はじめの 『延喜式』のころにおいても持続されているというように長く保たれているか らである。   また、律令の段階において大学への入学資格は五位以上の子孫と八位以上 の請願者に限られていたが、文氏を中心とする史(ふひと)らは古くより史官 となり、博士となった家柄の者であることを記しているからである。   宮廷祭祀において中臣氏が祭官として登場してくるのは六世紀前後からで あるが、文氏らが中臣氏らとともに呪文のことなどにたずさわるようになるの は、けっして七・八世紀のことではないであろう。  『記紀』の原史料として存在した『帝紀』は、王位継承のことを中心として いたが、その王位継承を確認する場は、宮廷儀礼の祭場であって、『帝紀』の 筆録に文氏らが参加した可能性は、当時の筆録者層が外来の人々あるいはその 後裔の人々であったことからしてある程度推測できることであり、文氏らが宮 廷のまつりにもつながりをもつ必然性はありえたといわねばならぬだろう。   史(ふひと)に関する記録上の初見は「履中天皇紀」にみえる「国史」を 諸国に設置したという記事であるが、この記事は、中国史籍によって『紀(日 本書紀)』の編纂者が文飾したもので史実性は疑わしい。   しかし「雄略天皇紀」にみえる史の記事は、氏姓制や部民制の整備拡充し てゆく画期が、このころであることからしてもかなりの信頼度のたかいもので ある。そして彼らは、大王家とのつながりをもち、政府の機能の一部を分掌す るようになっていたのである。しかも史の出自が、帰化系かどうか疑わしい若 干の例を除くと、すべて帰化系氏族をもって構成されていたことが明らかであ る。   まさしく文明の基礎となる文字の使用は、五世紀前後の外来人たちによっ てになわれ、しかもそれを日本風化してゆく努力が彼らの間でつみかさねられ て、文化の発展に大いに寄与することになったのである。そしてその主な荷担 層には当時の史らがあり、その活躍に負うところがきわめて大きかった。        --------------------   文字や文章をつかさどったのが書人(ふみひと)、縮めて史(ふひと)と よばれたのですが、千字文など文字は外来文化であるだけに、初期においてそ れをになったのが渡来人であったのは自然な成りゆきといえます。やがて史は、 その職務の重要性から姓(かばね)のひとつになりました。   その二大勢力が西文氏と東文(やまとのふみ)氏でしたが、かれらは百済 からの新しい渡来人である今来漢人(いまきのあやひと)を大勢迎えて発展分 化していきました。ここでは行基に関連ある西文氏についてその成長ぶりをみ ることにします。平野氏はこう記しました(注3)。        --------------------   西文氏はのち西漢(かわちのあや)氏ともよばれた。この本系は、やはり 応神天皇のとき百済王の貢進した王仁にはじまるといい、おなじ百済系の東漢 (やまとのあや)氏と性格を共通にする点が多いがそれには一歩を譲っていた。  ・・・   西文氏の本系は、西文・武生(たけふ)・蔵(くら)の三氏に分かれ、と もに河内古市(ふるいち)・丹比(たちひ)二郡を中心に集住していた。武生 はもと河内馬飼の後裔で、馬氏を称した。・・・   蔵氏も、川原蔵人(河内高安郡)、河内蔵人(同)、高安倉人(同)、葦 屋倉人(摂津郡兎原郡葦屋郷)などを従えていたものであろう。   しかし、ともかくこの西漢氏の活躍は、五世紀末に今来漢人を百済より迎 え入れてからであり、むしろ今来漢人が百済の貴須(きす)王の子孫亥陽(が いよう)君から出たというのは、百済王の貢進した王仁を祖とするという西文 の本系より、高位の祖先伝承をもつといえる。   今来漢人は、亥陽君の子午定(ごてい)君の三男味砂(みさ)・辰爾(し んに)・麻呂から出で、それぞれ白猪(葛井)・船(ふな)・津(菅野)の三 氏になったという。   このうち王辰爾に関する伝承がとくに多く、六世紀、敏達天皇に高句麗の たてまつった烏羽の表を、飯気で蒸し、帛(きぬ)をもって羽に印し、その文 字を判読しえたとあるのは、漢氏の本系にたいする今来漢人の技術的優位をし めし、また彼は蘇我稲目のもとで船賦(ふねのみつき)を数録し、船史姓を賜 ったともある。   その甥胆津(いつ)は、稲目・馬子のもとで、吉備白猪屯倉(しらいのみ やけ)経営にあたり、田部の丁籍を記録したので、白猪史の姓を賜わり、その 弟牛(うし)は関税を司ったので、津史を賜ったという。また大化改新のとき、 焼失する蘇我蝦夷の邸から、国記(こっき)を持ちだしたのも船氏であった。   このように、彼らは文筆、とくに朝廷の財政収支の計算・記録を専業とし たのである。さきに述べた東漢配下の今来漢人が、朝廷で織物・武器の生産な ど、手工業を専業にしたのとおなじで、ともに先進技術をしめす。   この今来の葛井(ふじい)・船・津の三氏は、やがて本系三氏より優位に たつ。        --------------------   行基が生まれたのは和泉ですが、当時はそこも河内でした。以前、河内は 応神天皇以来、伝仁徳陵古墳などの巨大古墳に象徴される河内王朝が築かれた 地ですが、そこは応神朝に渡来した人が多く住んでいたところでした。その渡 来人のなかで西文氏は学問があっただけに、政治的・文化的地位は高かったよ うです。   それゆえに西文氏の分派から出た行基には、一般には許されないエリート コースである僧への道が開かれたようでした。そのかげには師である道昭の力 もあったのかもしれません。道昭はうえに書いた船氏の出身だったようで、池 田氏はこう記しました(注1)。  「道昭の生まれたのは船氏本拠地の丹比郡でなく、現大阪市東住吉区瓜破で、 今も道昭地の地名がある。船氏の一派がその地に移住したらしく、明治維新の 頃まで“船戸講”がのこっていたという。後に河内国交野(かたの)郡に移り、 東大寺大仏に黄金を送った百済王敬福の祖族は、すぐこの近く百済郷に住んで いた。いたるところ、朝鮮からの渡来人が住んでいた。   道昭は白雉4年入唐、玄奘三蔵から法相宗を学び、斉明七年に帰国してか らは高市(たけち)郡の飛鳥寺にいた。高市郡は以前今来郡と呼ばれ、朝鮮か ら渡来した阿知使主(あちのおみ)らの住んでいたところである。この飛鳥寺 で行基は出家したのだろう」   道昭が孫悟空の物語で有名な玄奘から法相宗を学んだというのは、東大寺 の学僧凝然以来の定説になっていますが、田村氏によれば正しくは摂論宗だっ たようです(注5)。   その後、道昭は飛鳥寺に入りましたが、この寺のある高市郡、現在の明日 香村は東漢氏の本拠地でした。そこは続日本紀に記された坂上刈田麻呂の上表 文によれば、「およそ高市郡内には檜前忌寸(ひのくまのいみき)の一族と (渡来した)17県の人民が全土いたるところに居住しており、他姓の者は十 のうち一、二割程度しかありません」(注4)とされるくらい百済からの渡来 人が多いところでした。   ここはもと百済寺、後の大官大寺=大安寺が建てられ、新羅で学んだ審詳 が東大寺教理の基礎である華厳経を開いたことは前に記したとおりですが、高 市郡は学問のみならず、今来の漢人により最新の技術がもたらされた地でもあ りました。東大寺大仏の鋳造師である高市大国がそこの出身であったのもけっ して偶然ではなかったようです。   行基はそのような土地に学んだからこそ、灌漑池など土木工事に辣腕をふ るうことができたのではないかと思われます。師匠の道昭も宇治川に橋をかけ たりするなど社会的な活躍をしていました。そうした民衆救済の伝統が行基に 受け継がれたといえます。   こうした師弟関係もさりながら、田村氏は、行基は新羅の元暁(がんぎょ う)により強い影響を受けたのではないかと推測しているようです(注6)。        --------------------   行基が道昭の弟子だという通説にわたしが疑問を持ったのは、道昭が諸国 を歩いて橋をつくったり、井戸を掘ったり、船着場をもうけたりしたことはた しかですけれども、民衆と密着した場面は、意外に少ないのですね。道昭はむ しろ堂にこもって座禅の指導にあたったというような形で出てくるのです。   行基はどうかというと、まず民衆の救済者としてあらわれ、その後は交通、 灌漑の施設をつくっていますね。このように民衆のなかに入り、民衆とともに 生きるような生き方はどこから学ばれたかということで、新羅の元暁を考えて いるわけです。   元暁は寺をとび出して、千村万洛のなかにとけこんでいった人でしょう。 学僧ではあったのですけれど、民衆とともに仏教を求めた人であり、つまり新 羅の民衆仏教の確立者です。   行基の時代に、元暁のことは、飛鳥寺などを通じて日本でも知られていた と思うのですよ。元暁の学問的影響は中世までつづきますが、わたしが注目す るのは、その生き方ですね。これが間接に行基の生き方に示唆を与えているよ うな気がします。        --------------------   元暁は『広辞苑』によれば「入唐を志したが途中で止め、妻帯して俗人の ような生活を送りながら、華厳経・大乗起信論の注釈など多くの著作を著し た」とされますが、歌舞念仏を通じて民衆への布教につとめるなど破天荒な僧 で、その思想は日本のみならず中国仏教にも影響を与えたようです。 (注1)池田信雄他「行基の足跡」『日本文化と朝鮮』新人物往来社,1973 (注2)上田正昭『帰化人』中公新書,1965 (注3)平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館,1993 (注4)宇治谷孟『続日本紀』講談社学術文庫,1995 (注5)田村圓澄『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館,1980 (注6)司馬遼太郎他『日本の渡来分化』中央公論社,1975   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


正倉院と国際交流 BIGLOBE日本史ボード #9147 2001年04月01日   東大寺シリーズも4回目になりますが、今回は正倉院をとりあげます。前 回書いたように、東大寺の成り立ちが国際性をもつなら、その宝物庫である正 倉院の品々もこれまた国際色豊かです。ローマングラスやペルシャの楽器など 豊富な品々はいずれも逸品ぞろいです。   宝物は、聖武天皇の遺愛品を光明皇后が大仏に寄進したのを皮切りに、東 大寺の寺宝・文書など九千余点にのぼりますが、それらは日本のみならず唐や 新羅をはじめアジア文化の粋といえます。今回は、それらの品々がどのように 日本にもたらされたのかをとおして、古代日本における国際交易の姿にせまり たいと思います。   まず、宝物がもたらされたルートですが、すぐ頭に浮かぶのが遣唐使ルー トです。東野氏によれば「遣唐使の派遣が朝貢という形をとった一種の貿易活 動であったことは周知のところ」とされるように(注1)、陸のシルクロード の終点である長安(西安)を訪れた日本の使節に唐から多くの宝物が与えられ ました。   朝貢は、中国周辺の「野蛮」国からするとエビでタイを釣るようなもので した。貢ぎ物をたずさえて唐の皇帝をたてまつりさえすれば、回賜(かいし) で朝貢品をはるかに上回る品々をもらえたので、たいへんなメリットがありま した。   しかし、この方式は世界の中心が唐であるという中華思想を強要するもの であるため、日本はその世界観を受け入れるのに時間がかかりました。この方 式に甘んじるようになった時期は8世紀に入ってからだったようでした。   それまでの誇り高き「日いずるところの天子」は朝貢どころか、唐・新羅 を相手に白村江で戦争までしたくらいで、中華思想を受け入れるどころではあ りませんでした。   これは白村江の敗戦(663)で唐の実力をまのあたりにしても基本的に変わ りませんでした。戦争直後、唐の使者を送り迎えする程度のささやかな交流は あったものの、それすらすぐ途絶え、白鳳時代は唐に対する防備を固め、30 年も唐との交流が空白になりました。   その後どのような政策転換があったのか、大宝元年(701)に遣唐使は再開 されました。この遣唐使の性格についてはいろいろ議論があるようですが、東 野氏の<日本が唐の世界観に折り合ったとしか考えられない。大宝の遣唐使は、 律令体制の完成を唐に告げる使命をもっていたとする意見もあるが、日本の君 主を、「天子」「皇帝」と位置づけた律令を唐に示せるわけはない>という主 張がともかくも説得力をもつようです(注2)。   かくして日本の朝貢貿易がスタートしましたが、こののち正式な遣唐使は 7回派遣されました。この時期の遣唐使船は、日本・新羅関係の悪化から新羅 沿岸を避けた東シナ海を横断する南路をとったため、しばしば遭難や難破にあ いました。   それを物語るエピソードとして鑑真の来日があげられます。唐の鑑真は来 日するのに5,6回も遭難したのはあまりにも有名ですが、遣唐使船が宝船に なるのか遭難船になるのかは紙一重でした。運よく遣唐使の帰国船が日本にた どりつけば、それは先進文物の宝の山でした。その一部の品々が正倉院にも残 ったでしょうが、遣唐使船の回数からすると、ほんの一部にすぎなかったよう に思われます。   では多くの宝物はどうやって日本にもたらされたのでしょうか。その鍵は 新羅でした。白鳳時代、新羅と日本間の往来が頻繁であったことは前に記した とおりですが、新羅との頻繁な国家間交流は8世紀末までつづきました。それ を含めて、李成市氏は国際交流を具体的に数字として次のようにまとめました。  年代   唐    新羅    渤海 670-701 0/0 11/25 -- 702-794 6/(2) 15/20 9/11 795-919 2/0 6/1 4/22   数字は(日本からの遣使)/(日本への遣使)回数を示しますが、唐との 交流にくらべ、新羅や渤海との交流が圧倒的に多いのが目を引きます。その背 景を李氏はこう記しました(注3)。        --------------------  (白村江の戦い以降)新羅は唐との交戦(注4)もあって、こうした対唐関 係をにらんで日本へ頻繁に使節を派遣している。これに対して、日本もまた、 白村江の戦いで百済に荷担して新羅・唐の連合軍と戦って敗れたという経緯も あり、新羅に強硬な姿勢を示すことなく新羅の使節を受け入れ、また新羅にも 積極的に使節を派遣した。   このような両国の使節の往来は35回におよび、新羅が唐との関係を修 復・強化する7世紀末まで続いた。この間、日本は唐への使節(遣唐使)を一 度も派遣していない。   やがて8世紀にはいると新羅は、国内政治の充実と安定した対唐関係を背 景に、辞を低くして日本外交をおこなう意味が薄れ、日本との間でしばしば摩 擦を起こしている。   それでも新羅はたびたび百人を越える規模の使節を派遣するなど、両国の 公的交流は779年まで継続された。そのため、この時期の交流の特徴は、政 治的な緊張を増大させながらも、新羅の使節が大規模化するところにあると指 摘されてきた。   一方、698年に高句麗の故地に興起した渤海は、727年に初めて日本へ使節 を派遣して以来、10世紀初頭の滅亡まで、日本との間に頻繁な使節の交換を 行っている。・・・   まず727年から759年まで(前期)は、唐・新羅との対立によって引き起こ された大陸での孤立状況を打開すべく、日本への軍事戦略上の外交がおこなわ れた時期であり、政治目的の使節が日本へ送られたとみられている。日本側も これに呼応し、この頃日本は、しばしば新羅を軍事的に牽制している。   ところが、762年を境に、渤海は唐との関係を修復し、緊密な関係を形成 すると、新羅との軍事的な緊張は急速に薄れていった。すると、今度は交易を 目的とする大規模な使節が送られ、日本側も賓客というよりは通商を目的とす る「商旅」とみられるようになっていた。これが経済を目的とする後期の交流 である。こうした交流は基本的には渤海滅亡まで続けられた。        --------------------   新羅や渤海の使節は、その性格がその時々の国際情勢により大きく左右さ れたようでした。とくに新羅の場合、唐との長期にわたる戦争や、渤海との敵 対関係などから後背地の日本と敵対関係になることを恐れ、ある時期までは日 本のご機嫌伺いを重視していたようでした。   それも天平期になるとその必要がなくなったのか、続日本紀によると天平 6年(734)に入京した新羅使はみずからの国を「王城国」と称し、日本側を刺 激したようでした。そのために新羅使は追い返されたとされますが、続日本紀 の記事もどこまで信用できるのか検証が必要です。   たとえば 753年の唐における記事です。正月、唐の玄宗皇帝が百官諸蕃の 朝賀の儀式を受けるとき、新羅使が日本より上席だったので、遣唐副使の大伴 古麻呂が「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本に朝貢しております。とこ ろが今、(新羅は)東の組の第一の上につらなり、我は逆にそれより下位に置 かれています」と抗議したら、唐は席を新羅と入れ替えてくれたと続日本紀は 記しました。   日本ではこの記述を多くの人が無批判に受け入れていますが、これはどう も疑問で、李進煕氏はこう記しました(注6)。  「ところが、この年の日本の遣唐使は二組に分かれて長安に到着していて、 入朝したのは正月一日ではなくて三月と六月だった。また大伴古麻呂一行が玄 宗に謁見したとき、同席したのはショウ河、疎勒、渤海の使節で、新羅使は参 席していない。   また、実際問題として、朝賀の儀の折に席次のことで抗議などできるもの ではない。これは、古麻呂が嘘の報告をしたのではなくて、『続日本紀』の編 者が勝手に捏造した話とみるべきだろう」   日本書紀にしても続日本紀にしても編纂には、前回みたように、おそらく 百済渡来系の史(ふひと)が深くかかわっただけに、かっての敵国であった新 羅に対する怨念が渦巻いていた可能性はあります。そのうえに、新羅との関係 悪化という情勢が加わると、いきおい捏造もあり得るかもしれません。当時の 情勢を李進煕氏はこう分析しました(注6)。        --------------------   八世紀に入って、新羅と日本の関係が再び緊張するのは事実で、それは北 方での渤海の建国(713)と南方からの倭寇の出没のせいだった。高句麗の後裔 と称し、719年に第二代王となった武芸は武力で渤海国の版図を拡大する。   そこで新羅は 712年、人民を徴発して北辺に長城を築き、翌年には倭寇に 備えて毛伐郡に城を築く。いっぽう、唐、新羅と対立する渤海は 727年、高仁 義を日本に派遣する(第一回渤海使)。新羅を牽制するのがねらいだったが、 日本は翌年夏に一行を送り届ける送使として62人の使節を派遣する。そして 731年には倭寇(三百隻)が新羅の海岸を襲う。新羅の対日不信感を増大させ たのはいうまでもない。  『三国史記』の 742年十月条に、「日本国の使者がきたが、これを受けつけ なかった」とあり、753年八月条には「日本国の使者がきたが、彼らは傲慢で しかも無礼だったので、王(景徳王)は会わずに追い返した」と記されている。  『続日本紀』をみると、この年の二月条に小野朝臣(あそん)田守を遣新羅 使に任命したと記すが、その後のことにはふれていない。その小野は 756年に 遣渤海使として派遣され、二年後に第四回渤海使・楊承慶と一緒に帰国する。        --------------------   双方の史書に相手の使者を追い返したとあるので、日本と新羅との関係が 悪かったことだけはたしかなようです。それにもかかわらず、752年に双方の 使者の往来がありました。1月、日本で遣新羅使が任命されました。この要請 をうけてか、3月、新羅から金泰廉王子をはじめ、じつに700人規模の使節が 到来したことが続日本紀に記されました。この年は日本の国家行事である大仏 開眼にあたりますので、これを機に友好を取りもどそうと双方が努力した結果 かもしれません。   新羅使は3月23日、太宰府に到着、海路で難波に入り、停泊地である新 羅江(現在の天満橋)から上陸し、客館である難波館に入りました。6月14 日、孝謙天皇に謁見し外交辞令をのべたのですが、注目されるのはこのころ日 本側の交易希望品目を書いた公文書、買新羅物解(ばいしらぎものげ)が作成 されたことです。   この文書は意外なところで発見されました。正倉院にある鳥毛立女屏風 (とりげりつじょびょうぶ)からでした。この文書は交易後に廃棄され、鳥毛 を貼り付けた美人画屏風の下張りに利用されたようでした。   なお、解(げ)とは役所での上申書をさしますが、この解からわかったこ とは、新羅物の購入は申請が必要であったのですが、その申請者は「ほとんど が五位以上の上級官人と推定され、なかには藤原北家や釆女から差出された解 も存在する」ことでした(注1)。そうした貴族の購入希望をおそらく大蔵省 がまとめ、新羅の対応する役所「倭典」と交渉したようでした。これは国家間 の貿易そのものです。   さて、買物解のリストですが、品目は香料や薬品、顔料、調度品など日本 では手に入らないような贅沢品でした。これからすると交易は「日本の貴族の 嗜好をねらった新羅主導型の貿易であることを物語るものであろう」と推測さ れます(注1)。   これらの多くは新羅でもとれないので、新羅による中継貿易品と考えられ ますが、なかには新羅特産もあったようでした。たとえば朝鮮人参や松の実な どですが、特筆すべきは佐波理(さはり)です。   サハリとはおわんを意味する朝鮮語のサバルがなまったものと考えられま すが、銅合金製のおわんが四百余点、皿やさじをあわせると千点以上の食器が 正倉院に残りました。これらはその包装紙から新羅の公の工房でつくられたこ とが判明しています。   これ以外にも正倉院には「新羅武家上墨」「新羅楊家上墨」と銘の入った 墨なども残りました。また、琴のルーツと思われる新羅琴もニ張残りました。 ほかにもロウソクの燭台や芯切り、羊毛の敷物・毛氈(もうせん)約50枚も 残りましたが、毛氈は、李氏の最近の研究によれば新羅貴族の工房で製作され たようでした(注3)。   これらのなかで注目されるのはロウソクの芯切りハサミで、同型のものが 新羅宮苑跡の雁鴨池で発見されました。それまで正倉院ではなぞの器具で、そ の用途が不明でした(注5)。   ハサミ以外にも正倉院の宝物と酷似する宮廷の日常生活用品が75年に雁 鴨池で発見され、日本考古学会の注目を集めました。こうした事実は、8世紀 における新羅と日本との間で文物の交流が盛んであったことを示すものといえ ます。   それを可能にしたのが東アジア一帯で活躍した新羅商人の存在でした。唐 と太いパイプをもつ新羅では8世紀から唐に集団移住が増え、新羅坊とよばれ る居留地が東シナ海沿岸の要地である楚州,徐州,登州などに形成されました。   海のシルクロードの終点は揚子江河口の揚州であるとされますが、それを 新羅や博多まで延長し、いわば新羅ロードを形成したのが新羅商人といえます。 そうした海路を通じて南国産のクジャクが新羅にもたらされたり、新羅僧の義 浄がスマトラへでかけました。   また、日本最後の遣唐使も新羅船9隻を雇って帰国するなど、新羅商人の 活躍は目をみはるものがありました。こうした新羅商人の活躍の一端は入唐 僧・円仁(慈覚大師)の旅行記『入唐求法(にっとうぐほう)巡礼行記』に記さ れているとおりです。 (注1)東野治之『遣唐使と正倉院』岩波書店,1992 (注2)東野治之『遣唐使船』朝日選書,1999 (注3)李成市『東アジアの王権と交易』青木書店,1997 (注4)原著では674-676年とありますが、デジタル平凡社の『世界大百科事  典』では 670-676年とされており、こちらが正しいと思われます。 (注5)朝日新聞「なぞの器具はろうそくのしん切り」1992.9.5 (注6)李進煕『日本文化と朝鮮』NHKブックス,1995   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


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