半月城通信
No. 75

[ トップ画面 ]


  1. 民族意識の変遷
  2. 弥生時代の人口爆発
  3. 渡来弥生人の規模
  4. 弥生時代人の源流
  5. 渡来系弥生人の広がり
  6. 縄文の東西差
  7. 弥生時代の渡来人口
  8. 第7回曽谷縄文まつり


#8586/8586 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 9/ 9 20:26 ( 52) 民族意識の変遷             半月城 ★内容   ATTILAさん、こんばんは。RE:8568 > 半月城さんとすれば日本国に帰属 >意識を持つ人が日本民族となりましょうね。   私は何度も「日本は単一民族国家ではない」と書いたうえで、日本国に帰 属意識をもつアイヌ「民族」を紹介したのですが、そうした民族と国家に関す る一連の書き込みをATTILAさんは見落とされてるようですね。   ただ、少数民族はいつも自国に帰属意識をもつとはかぎらず、ときには政 策にたいする不満などから自国に反旗をひるがえし、民族独立運動を展開する のが東チモールなど昨今の風潮であり、国家と民族は対立すらします。その点、 日本の少数民族問題は、時の中曽根首相が忘れる(?)くらいおだやかな存在 だったようでした。   その軌跡を振り返ると、近代において日本は新たな統一民族の概念を模索 し、一大帝国を築こうとしたことは前に記したとおりです。この共同幻想の試 みは一部成功したといえそうです。   たとえば、ウチナンチュウ、琉球民族を取り込むことに成功しました。そ の成果のうえに、今やアイヌも混血の進行とともに統一民族に組み込みつつあ ります。その過程で陰に陽にアイヌ文化や言語の抑圧があったことはいうまで もありませんが。 > DNAルーツも家系ルーツも、半月城さんの民族には直接関係ないということ >でよろしいかと思います。   私は#8567で、<民族とは終局的には「自分は何々民族」であるとい う個人の主観により決定されるのではないかと思われます>と書いたのですが、 ATTILAさんはその意味をおわかりですか?   「終局的」に民族意識が定まるためにはそれなりの背景が必要で、言語や 文化の共有意識、あるいは歴史的変遷にくわえ、DNAや家系ルーツも重要な 要素になることはいうまでもありません。   それらの要素のなかでルーツ意識はもっとも頑固で、しばしば新たな民族 統合の邪魔になります。早い話が、アメリカ人である日系人は、いつになった らアメリカ民族という共同幻想をもつようになるのか、ちょっとはかりかねま す。   とくにアメリカの場合、現時点ではアメリカ民族という共同幻想が存在し ないので、それは数世紀かかるかもしれません。それに反しペルーの場合、フ ジモリ大統領は二世(厳密には一世?)でありながら、すでに日本民族という アイデンティティを失ってしまったのかもしれません。いや、民族とかの共同 幻想を克服したのかもしれません。   それはともかく、共同幻想がいったん成立すると、DNAやルーツは少々 異なっていても単一民族国家の共同幻想が成立するのですが、これには長い年 月が必要です。韓国もその一例です。広嗣さんもふれていましたが、歴史的に みれば韓国ではさまざまな「言語族」が行き交い、長い年月のあいだにそれら が融合し、単一民族国家が成り立ちました。   融合の過程では、混血すなわちDNAの交配が有力な手段であったことは 容易に想像されます。日本でも奈良時代、東北の蝦夷や九州の隼人など大和朝 廷に「まつろわぬ」人びとが、結局は「大和民族」になったのもその好例とい えます。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


#8588/8588 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 9/10 23: 6 ( 92) 古代史】弥生時代の人口爆発       半月城 ★内容   ATTILAさん、こんばんは。RE:8563 > 半月城さん説?を無理矢理読みくだけば、縄文時代晩期(弥生時代始期)の >列島三島人口は20万人ほど、うち東日本に9割、西日本に1割という知見か >ら、無人に等しい荒野に稲作開拓民が入植し、縄文時代人を排除駆逐しながら >弥生時代を通して増殖し、後の大和奈良政権&文化の支配層になったと言われ >ているのではないでしょうか?   弥生人が縄文人を排除駆逐したかどうかは疑問ですが、縄文時代、西日本 の人口は極端に少なかったと小山修三氏は主張しています。同氏の表現によれ ば「東日本が過密で、西日本がガラ空き」です。   その根拠として、小山氏は各時期の遺跡を総点検し、コンピューター処理 により初めて縄文各期の人口を具体的に割りだました。そのなかで、人口がも っとも少なくなった縄文晩期および人口が急増した弥生時代の人口密度(100 平方kmあたり)や人口総数を下記のように推定しました(注1)。      密度(100km^2)         人口総数     縄文 / 弥生        縄文 / 弥生 東北 59人 / 50人   39,500人/ 33,400人 関東 24人 /309人    7,700人/ 99,000人 北陸 20人 / 83人    5,100人/ 20,700人 中部 20人 /281人    6,000人/ 84,200人 東海 47人 /395人    6,600人/ 55,300人 近畿  7人 /338人    2,100人/108,300人 中国  6人 /184人    2,000人/ 58,800人 四国  3人 /158人      500人/ 30,100人 九州 15人 /250人    6,300人/105,100人 全国 26人 /203人   75,800人/594,900人   縄文時代中期には26万人だった人口も晩期には1/3の7万6千人に漸 減したようですが、とくに近畿以西はまばらで全体の1/7しか住んでいなか ったようでした。   表で縄文晩期に近畿地方の密度は7人となっていますが、これを感覚的に とらえると、現在の神戸市街の広さが東西20km, 南北4kmなので、それくらい の地域にわずか7人しか住んでいなかったということになります。   これでは、近畿以西はほとんど無人の荒野といっても差しつかえないと思 います。この原因は、前に記したように西日本は気候が温暖なため、冬場の保 存食になるような食用に適した木の実が少なかったためではないかとの説が有 力です。   そのような「ガラ空き」の西日本に弥生人が渡来し、そこで数十倍の「人 口爆発」をもたらしたのですが、その際、縄文人とのトラブルは比較的少なか ったのではないかと思われます。   というのも、弥生人の生活空間は水田に適した湿地なのにたいし、縄文人 の生活空間は貝塚に代表されるような海辺や狩猟に適した山地で、おのずとテ リトリーがちがいます。そのため、弥生人は縄文人を「排除駆逐」する必要性 は考えにくいところです。   とくに、北九州地方の縄文人に関していえば、かれらは古くから朝鮮半島 と往来しており、釣り針や曽畑式土器などに見られるように、朝鮮半島から文 化的な影響をうけていました。そのため、朝鮮半島から弥生人が渡来しても違 和感は少なかったことでしょう。   実際、北九州では縄文人と弥生人の関係が友好的だったと想像される遺跡 がいくつかあります。福岡県の新町遺跡では、朝鮮半島の農耕社会で発展した 墓制である支石墓からモミ痕のついた壷や、弥生人の人骨14体が発掘されま した。   この遺跡は縄文・弥生移行期にあたるため、被葬者は渡来人と予想されて いましたが、意外にも弥生人の典型的な長身体型とはことなっていました。さ らに、全員に縄文式の抜歯がみられました。   これは、低顔・低身の渡来人が縄文式の抜歯を採り入れたとみることもで きますが、おおかたの見方は、縄文人が近くの初期農耕民の影響を受け、稲作 を生活の一部に取り入れたのだろうとしています。   同じく北九州の曲り田遺跡では、縄文時代とされる山ノ寺式土器とともに 朝鮮式の無文土器が発掘されました。詳細は省きますが、家根氏はムラの住民 のおよそ1/3を渡来人と推定しました。おそらく、縄文人と渡来の弥生人は 共存共栄していたと思われます。   一方、なかにはこうした遺跡は、縄文人が渡来文化を採り入れ小進化した 結果であり、弥生人の渡来はほとんどなかったと考える人も依然としておられ るのではないかと思います。   こうした小進化説は、西日本の弥生遺跡の研究、とりわけ人骨の研究など から否定されつつあるようです。その動向を池田氏はこう記しました(注2)。   <1980年、私が司会をつとめたシンポジウム「骨から見た日本人の起 源」を契機にして、渡来説を肯定する声は急速に高まり、小進化説の提唱者で ある鈴木でさえも、小進化説と渡来説とはあい矛盾するものではないという、 かっての金関の提言に賛意を表するまでになった。   1985年にふたたび私が司会したシンポジウム「国家成立前後の日本人 --古墳時代人骨を中心にして」では、古墳人の地域性が渡来人との関連で論 じられたが、最大の収穫はアジア大陸からの遺伝的影響が西日本にとどまらず 関東地方にまで波及していたという山口敏の報告だった。   このように、渡来説は古人骨研究からも絶大な支持を受けて容認され、今 や探索の的は渡来人の原郷に絞られている>   最近は古人骨の形態学みならず、ミトコンドリアDNAの解析により弥生 人の渡来説は不動になったようです。 (注1)小山修三「縄文晩期の人口の減少、弥生期の人口の大爆発は何を意味   するのか?」『日本人のルーツ ここまでわかった!』洋泉社,1998 (注2)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


#8616/8616 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 9/17 22:25 (104) 古代史】渡来弥生人の規模        半月城 ★内容   広嗣さん、こんばんは。RE:8601, > 私は弥生時代に全くコリアから人が来なかったというつもりはありません。しか >し、それまで住んでいたところから別の場所に移ろうとするには、新しい土地にそ >れなりに夢や希望なり行こうと思わせるものがなければできないことなのではない >でしょうか。   そのとおりです。昔であれ今であれ、新天地へ移住するにはよほどしっか りした動機がないと無理だと思います。とくに集団移住となればなおさらです。   その動機は征服でもないかぎり、徐福伝説のような夢や希望を求めてとい うより、現状にうちひしがれて新天地を求めるか、あるいは追い立てられるよ うに逃げ出すか強制連行のようなケースのほうが多いのではないでしょうか。   世界的にゲルマン族やフン族の移動、あるいは古代中国における倭族の移 動、近代では華人・華僑・客家の移住もおおかたそのようなたぐいではないか と思われます。   弥生人の渡来も私はそのようなものと考えています。日本でも邪馬台国の ころは大乱の時代でしたが、日本の弥生時代が始まるころ、古朝鮮では中国の 戦国時代(BC403-221)の影響を受け、多くの避難民が流れ込んだと考えられます。   RE:8601 >紀元前 206年に秦が滅びると多くの人がコリアに逃れてきました。この中に紀元 >前 195年に部下1000人と共に逃れてきた衛満がいました。   もうすこしくわしく書くと、古朝鮮の準王は衛満に西の辺境に住むことを 許したのですが、ひさしを貸して母屋を取られるたとえのように、BC194年、 衛満に本丸の王倹城を攻められ、命からがら南に逃げたようでした。   それからまもなく、ソウルの漢江以南に辰が建国されましたが、この韓王 は準王の新しい姿でした。辰は漢とも交易するほど発展したのですが、その交 易はしばしば衛満朝鮮に妨げられたようでした。   一方、衛満朝鮮は力をつけるにしたがい、漢と対立するようになりました が、漢との対決をめぐり内紛が起こり、漢の武帝に攻められ BC108年に滅亡し ました。   漢は古朝鮮の一部地域に郡県を設置し支配しましたが、地域土着民は加重 する抑圧と収奪を避けるために移住したり、団結して郡県に対抗するなど戦乱 は絶えなかったようでした。   漢の支配がほとんどおよばなかった漢江以南では、多くの流移民によって もたらされた新たな文化が辰の土着文化と融合し社会を発展させ、やがて馬韓 54か国、辰韓12か国、弁韓12か国の連盟体が現れるようになりました (注1)。   しかし、平和は長続きせず、馬韓は BC18年に建国された百済により次第 に併合されたのをはじめ、辰韓は BC57年に建国した新羅につぎつぎに征服さ れました。   これらに加え、北では高句麗と漢の楽浪郡との争いもあり、弥生時代、朝 鮮半島は戦乱が絶えることはなかったようでした。そのたびに多くの流移民を 生み、その一部は日本へも渡来したものと思われます。   結局、風が吹けば桶屋がもうかる式にいえば、中国における覇権争いが玉 突きのように波及し、日本に弥生時代をもたらしたといえます。   RE:8604, コンコンさん >ここのSIGでも弥生人=渡来人説は、疑問視されています。   前回紹介したように、最近の考古学会は池田氏によれば<渡来説は古人骨 研究からも絶大な支持を受けて容認され、今や探索の的は渡来人の原郷に絞ら れている>とのことなので、コンコンさんの見方が正しければ、ここの会議室 は学会の趨勢にそぐわないようです。   学会では渡来人の原郷さがしとともに、弥生時代のどの時期、どの地方に どれくらいの渡来人がいたかが興味の対象になっているようです。といっても、 日本は全般的に火山灰による酸性土壌のため、弥生人骨が残されている地方は 限られますが。   そうした最近の研究を池田次郎氏はこうまとめました。(注2)。        --------------------   上顔高が 70mm, 身長が 162cmを超える渡来系弥生人の骨は、(山口県) 響灘(ひびきなだ)沿岸部・島根半島など西中国沿岸部の砂丘遺跡と、福岡平 野・筑紫平野・熊本平野など遠賀川以西の北部九州平野部に分布するかめ棺墓 遺跡から出ているが、これらの渡来系弥生人の特徴にも地域差があることがわ かっている。   個々の骨を渡来人タイプと縄文人タイプに分けて地域ごとの比率を調べた 中橋孝博によれば、響灘沿岸部では渡来人タイプが全体の75%を占めるのに たいし、北部九州平野部ではそれより10%ほど多く、島根半島では響灘より 10%ほど少ないという。        --------------------   渡来人タイプの割合を数値化するなど、考古学も進歩したものです。渡来 人タイプの割合がやや低い島根県古浦遺跡は弥生前期と考えられているようで すが、弥生時代は古くさかのぼるほど縄文の割合が大きいようです。その一例 として、古浦遺跡では抜歯の風習も縄文式と渡来式が入り乱れているようです。   時代がくだり、前期末から中期と考えられている響灘遺跡では渡来人の割 合も高くなり、抜歯もほとんど渡来式だったようです。さらに中期から後期と 考えられている北部九州の遺跡では、一段と渡来度が高くなるとともに、抜歯 の風習もすたれつつあったようです。   これらの結論として、池田氏はこう結びました(注2)。        --------------------   三地域の渡来系弥生人集団のあいだにみられる渡来形質の濃淡、抜歯の施 行率と様式の違いは、このように時期差で説明でき、金属器が北部九州に出現 する時期は、渡来形質と渡来系様式の抜歯を特徴とする弥生人が響灘・玄界灘 沿岸部一帯で急増する時期にあたる。   したがって、これらの金属器とその製作技術を持ち込んだのは、前期末か ら中期初頭にかけて渡来した朝鮮半島の無文土器時代人であり、渡来人の規模 は縄文弥生移行期にくらべてはるかに大きかったと考えられる。        --------------------   どうやら西日本における人口爆発は、弥生前期末から中期初頭から始まっ たようでした。渡来の波は7世紀まで約千年間つづきましたが、前に書いたよ うに、その結果が「本土日本人の遺伝子プールの約 65% は,弥生時代以後に 大陸からもたらされた遺伝子に由来している」という宝来氏の推論をもたらし たようです。 (注1)宋連玉他『国定韓国高等学校歴史教科書 韓国の歴史』明石書店1997 (注2)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書、1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


#8645/8645 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 9/24 22:42 ( 97) 古代史】弥生時代人の源流        半月城 ★内容   アコさん、こんばんは。RE:8634, >「弥生人」の形成に関する金関丈夫氏の説(=渡来説)は、“山口県を含む >北九州で、少数の渡来人との混血があった”とするものだったと理解しています。   この理解は金関説のほんの一部にすぎず、全体像から大きくかけ離れてい るといっても過言ではありません。金関氏の渡来説は二系統論から成り立つも ので、池田氏はこう要約しています(注1)。        -------------------- 金関の渡来人二系統論   日本に渡来した(朝鮮半島の)櫛目文土器時代人に二系統を認めた金関の 仮説を要約してみよう。   二系統の一つは、縄文晩期に北部九州・山口地方のごく限られた地域に一 時的に移住して縄文人と混血したが、その数が縄文人より少なかったために、 古墳時代までには土着の縄文人に吸収されてしまった一団である。コメ作りを 日本にもちこんだのはこの系統だった。   もう一つの系統は、北部九州・山口地方への渡来に遅れて、近畿地方に到 着した一団で、彼らは弥生・古墳時代を通じてあい次いで押しよせ、畿内住民 の体質を一変させてしまったというのである。   金関はこの二系統の渡来人が、体質的にも文化的にも元来別々の集団に属 していたと考え、それぞれを朝鮮半島北部の櫛目文土器時代人の二つのタイプ に対応させた。   彼の仮説を順を追って説明しよう。まず、(朝鮮半島)雄基・鳳儀の人骨 を短頭のタイプ1と長頭のタイプ2に分けて主な頭蓋計測値をくらべると、そ の大小関係が近畿古墳人と北部九州を含む西日本古墳人のあいだにみられる大 小関係とほぼ完全に一致する。   そこで北部九州・山口地方へは長頭のタイプ2が、近畿地方へは短頭のタ イプ1が渡来したと推理する。   次に、この二つのタイプの渡来人の文化の違いを弥生時代の青銅器が示し ていると考え、タイプ1の文化に近畿を中心に分布する銅鐸文化を、タイプ2 の文化に北部九州を中心とし、西日本一帯に広がる銅矛銅剣文化をあてる。   朝鮮半島の北部では混在していた二つのタイプが、南部までくると単なる 要素としてではなく、別々の系統として存在し、あい前後して海をこえ、北部 九州と近畿に移住したというのが金関の二系統論の骨子である。        --------------------   金関氏の渡来説は発表からすでに40年たっているので、もちろん今では このまま通用するわけではありません。   たとえば、金関氏は山口県土井ヶ浜の弥生人渡来を弥生前期末と推定しま したが、80年代の発掘調査の結果、渡来の時期は前期後半、前期末、中期中 葉の三期に分かれることが判明しました。しかも、前期人骨より中期人骨のほ うが多いことも判明しました。   そうした細かい点は別にして、金関説の骨子である渡来人の系統は単一で なく、系統の違う集団が朝鮮半島から別々の時期に渡ってきたというアイデア は先覚的な着眼点であったようでした。金関説はおおくの人により発展・継承 されました。   ここでは、近畿地方の「畿内住民の体質を一変させてしまった」ほどの渡 来については別の機会に書くことにして、話を北九州・山口地方にしぼること にします。   福岡大学の小田富士雄氏によれば、弥生社会を飛躍的に発展させる原動力 になった渡来の波は二回あったようでした。   第一の画期は、朝鮮半島に源流をもつ水稲稲作と支石墓が西北九州沿岸と その離島に最初に出現する縄文・弥生移行期ですが、渡来は緩慢かつ浸透的に 進行し、その効果は徐々に発現したようでした。   これにたいし第二の画期に流入したのは、青銅器と鉄器の文化で、時期的 には弥生前期後半から継続的になされ、その影響は中期になって効果を発揮し はじめたようでした。これらの文物をもちこんだのは北九州や土井ヶ浜などに 到着した渡来人ですが、その規模は第一の画期にくらべ大きく、衝撃も大きか ったようでした。   問題は、渡来人の出身地です。その遺跡から円形粘土帯土器という朝鮮半 島の無文土器時代後期前半(前3-2世紀)の土器が出ていることから、金関 氏が想定したように朝鮮半島北部からきた可能性があるようです。   そのシナリオを池田氏ら考古学者は次のように描いています(注1)。        --------------------   森貞次郎(元九州産業大学)は、朝鮮半島北部の無文土器時代人の南進、 渡来に関連する事件として、燕の遼東方面への進出によっておきた民族移動を あげている。   春成秀爾は森の解釈を引用して、弥生前期末、前二世紀前半に、東胡-朝 鮮系の青銅器・石槨墓をもつ人々が北部九州へ渡ってきたが、この渡来は東胡 の一部の朝鮮半島西北部への侵入をきっかけとして、朝鮮半島の各地で武力闘 争が激化するようになり、農民のなかには故郷を捨てて海を渡ったものがいた と推量している。   森や春成の推測どおり、北部から南下した人たちがたんなる移住者ではな く、戦禍を避けた難民、流民のたぐいだったならば、彼らは玉突き式に移動し たのではなく、朝鮮半島を長駆、縦断して南部に達したと思われる。   南部へ流入した大部分の人たちは、この地に落ち着き、すでに北からの影 響を受けていた先住民と融和して(朝鮮南部)礼安里古墳人の祖系となる集団 を誕生させるが、一部の人たちは海峡をこえて北部九州へ渡った。   弥生前期末に円形粘土帯土器を北部九州へもたらし、弥生文化の発展に尽 くした農耕民がそれで、朝鮮半島からの渡来の主力部隊は、無文土器時代後半 の北部出身者で構成されている。   大胆な言いかたをすれば、この系統の渡来人にとって南部は滞在地ではあ ったが、出発地ではなかったのである。このように考えれば、第二の画期の渡 来が衝撃的におきたことも理解できる。        --------------------   うえのシナリオに礼安里古墳が登場しますが、これは時代がくだって4- 7世紀に南部の金官伽耶に築造された古墳で、210体にものぼる被葬者の大 部分が在地の庶民とされています。   北部九州・山口地方の弥生人や古墳人は、これら礼安里人にきわめて近い とされていますが、それに劣らず渡来系弥生人は咸鏡北道の櫛目文土器時代人 に近いとされているようです。やはり弥生人の源流といえましょうか。 (注1)池田次郎『日本人のきた道』朝日選書,1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


#8668/8668 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 9/30 20:46 ( 82) 古代史】渡来系弥生人の広がり      半月城 ★内容   コンコンさん、こんばんは。RE:8625, > 半月城さんは御存知ですか?戦前の徴兵検査の合格基準は?身長155セ >ンチですよ。昭和15年には150センチ以上となりました。現在の平均身 >長は170センチ。   戦後、若者の背が高くなったように、平均身長はたしかに食生活などに大 きく左右されます。それを百も承知で、考古学者は高身長の弥生人を渡来系と 主張しています。   つまり、学者は単純に身長が高いことだけで渡来系と断定するのではなく、 他の身体的特徴や、同時代における朝鮮半島の人骨などと比較検討し、総合的 に結論をだしました。   ただ、弥生人はすべてが渡来系というわけではありません。内藤氏によれ ば、西北九州でみつかった背の低い弥生人は在来系で、縄文人が移行したのだ ろうとのことでした。   さて渡来系弥生人ですが、高身長以外にもいろいろ特徴があります。山口 県土井ヶ浜で発掘された背の高い弥生人は、顔は面長で鼻は低く、四肢骨の 扁平性や大腿骨の柱状性が弱いなど縄文人とはかなりちがうようです。   こうした特徴以外に渡来系弥生人は歯にも数々の特徴があります。奥歯や 犬歯は予想に反して渡来系弥生人の方が大きく複雑であるとか、前歯の裏側が シャベル型になっているなど縄文人とはかなりちがうようです。   国立科学博物館の松村氏によれば、こうした歯の特徴で縄文人と渡来系弥 生人は90%以上の確率で分類できるとのことです(注)。   そうなると歯による判別は有力な手段になります。というのも、歯は人体 でもっとも硬い部分なので骨にくらべ残りやすく、資料が豊富にえられるため です。   この手法で、邪馬台国の楼閣かと話題になった唐古・鍵遺跡から出土され た人骨は渡来系弥生人と判定されました。それ以前にも骨の判定からその人骨 は長身なので渡来系だろうと推定されていたのですが、それが歯の分析でほぼ 確定したようでした。   松村氏はさらに各地の人骨も渡来系かどうか判定しました。その結果をま とめるとつぎのようになります(注)。  北九州・山口県   ほぼ完全に渡来系(多数)  島根県砂丘遺跡   ほぼ完全に渡来系(多数)  広島県帝釈名越   渡来系(1体)  奈良県唐古・鍵   渡来系(2体)  静岡県瀬名・長沢  渡来系(6体)  神奈川県毘沙門洞穴 渡来系(2体)、縄文系(1体)  長野県伊勢宮    渡来系(6体)、縄文系(1体)  長野県篠ノ井    縄文系(3体)  群馬県岩津保洞穴  縄文系(1体)、渡来系(1体)  千葉県佐野洞穴・安房神社 縄文系(5体)  愛媛県釈迦面山      縄文系(1体)   こうした結果から松村氏は「弥生中期には中部山岳地帯や関東西部の太平 洋沿いあたりまで渡来系弥生人が入っていて、混血が進んだ」と記しました。   どうやら渡来系弥生人は北九州や山口県に局限されず、近畿はむろん、関 東地方にまで進出したようでした。こうした事実からも弥生時代の渡来は少数 であったとはいいがたいようです。   なおアジアのスケールでいうと、歯は東南アジア系の「スンダドント」と 中国からシベリアにかけての「シノドント」に大別されるようですが、松村氏 はそれに縄文・弥生人をこうあてはめました。  <縄文人は前者であり、弥生人は明らかに後者の系統です。ですから日本列 島に移入してきた人類については、大筋では埴原和郎さんの「二重構造モデ ル」説が有効であるといえます>   埴原氏の二重構造モデル、すなわち日本人は在来系の縄文人と渡来系の弥 生人からなり、両者は次第に混血していったという説は歯の分類からも支持さ れたようです。   さらに松村氏は現代人の歯についても研究してますが、その一端をこう述 べました。  「私はその判別分析の方法を、現代日本人の歯にあてはめるとどうなるかと いう論文をいま書いている最中なんですが、現代の関東地方の日本人では7対 3の比率で弥生型と縄文型の歯を持っている人がいるという結果が得られまし た。   この比率は想像を逞しくすると、両者の混血率を裏付けているといえるの ではないでしょうか。縄文人と弥生人が入れ替わったというよりは、混血が進 んでその後の日本人には両者の形質が混じっているという感じです」   松村氏の、関東地方で渡来系7割という見方は、宝来氏のミトコンドリア DNAを分析した結果に通じるものがありそうです。 (注)松村博文「歯の裏側が平らなら縄文系・シャベル状なら弥生系」   『日本人のルーツがわかる本』洋泉社、1999   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


#8691/8692 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/10/ 8 18:28 ( 57) 古代史】縄文の東西差          半月城 ★内容   国勢調査のなかった古代において、小山氏の人口データーはたしかに重宝 です。私もこれをもとに、次の書き込みのように弥生時代における渡来人の規 模を計算してみました。それに先だって、小山説にたいする疑問を払拭したい と思います。    RE:8639, > それにしても、小山修三氏の人口データを利用されている研究者が多数いるに >も関らず、追試したとか、修正したといった話が伝わってこないのはなぜ?   考古学にかぎらず、もし小山氏のような大家の説に有効に反論できれば、 その人は学会でがぜん評価されるので、多くの研究者が大家の説にどこか欠点 や欠陥がないかどうか一生懸命さがすのが学会というところではないでしょう か。   それにもかかわらず小山説に疑問の声があまり聞かれないのは、その説が 正しいかどうかは別にして、それだけ優れているためといえます。   しかし、小山説にたいしまったく疑問の声がなかったわけではありません。 たとえば、こんな裏話を埴原氏は記しました(注1)。        --------------------  (縄文)中期の東日本(中部地方以東)の人口は約25.2万、これに対し て西日本では四国と九州を含めても1万足らずである。したがって全人口の実 に96%が東日本に住んでいたことになる。   なお山内(清男)が推定した約30万という人口は、小山による中期の人 口にほぼ一致しており、また東日本の人口が圧倒的に多いという指摘も正しい。   これは、当時のデーターが少なかったことを考えれば、山内の推定法がま ことに合理的であったことを裏書きしている。   右のように、山内と小山は、すでに発掘されている遺跡の数と規模から人 口を推定した。ところがこれに対して疑問をもつ人がいる。それは次のような 理由による。   --遺跡の発掘密度は地域によって異なる。東日本ではたまたま研究者が 多く、またそれにつれて発掘の密度も高いので多くの遺跡が知られているので ある。西日本で実際にはもっと多くの遺跡があるのではないか?   この見解は一応もっともらしい。しかし佐原真は次のように反論する。   --発掘の密度が違うというが、実は本州を縦断して巨大なトレンチ(試 掘濠)が掘られているのである。それは新幹線と高速道路の工事である。その 工事に引っかかった遺跡を数えても、東日本は西日本に比べて圧倒的に多いの だ・・・。   要するに、縄文人の人口が東日本に偏っていたということは事実として認 めなくてはならないだろう。そしてこれも自然環境の違いを反映した現象にほ かならない。        --------------------   このように一般にはさりげなくみえる学説でも、その裏では≪追試≫どこ ろか徹底糾明がなされることが多いものです。   小山説も78年に発表されて以来、種々の批判にさらされたのですが、小 山氏自身その説を昨年もほとんどそのままリピートしているところをみると (注2)、その説はほぼ定着したのではないかと思われます。   なお、こうした東西差を生み出した「自然環境の違い」ですが、これもよ く研究されており、気候による東日本の落葉樹林帯と西日本の照葉樹林帯との 違いがクリ、クルミなどの食糧差をもたらし、ひいては人口差になったとされ ています。この説もほぼ定着したようです。 (注1)埴原和郎『日本人の成り立ち』人文書院、1995 (注2) 小山修三「縄文晩期の人口の減少、弥生期の人口の大爆発は何を意   味するのか?」『日本人のルーツがわかる本』洋泉社,1999


NIFTY - FREKI MES(15):【考古学の部屋】    考古学最前線 00/10/11 - 08401/08401 PFG00017 半月城 弥生時代の渡来人口 (15) 00/10/11 22:06   先日、PCVANの歴史会議室に書いたものにすこし手を加え、ご参考にUP します。        ************   埴原氏のいわゆる百万人渡来説は、発表当時だいぶ学会をにぎわしたよう です。縄文晩期、人口はたかだか10万たらずだったところへ、朝鮮半島など から古墳時代にかけて100万人にものぼる渡来があったというから、唖然と する人が多かったのも無理ありません。   この説を私なりに再検討し、弥生時代にどれくらいの人が渡来したのかす こし試算してみました。その結果、古墳時代はともかく、弥生時代の渡来はた かだか10-20万人くらいではないだろうかという結論を得ましたので紹介 します。   さて、埴原説ですが、発表直後からいろいろ反論がなされました。そのひ とつとに下記のような反論もありました。 >渡来系の人々が水田稲作により、それ以前の在来者と比較して異常 >に増加した可能性が考慮されていません   たしかにこの指摘は重要です。埴原氏は、在来縄文人も渡来人も同じ人口 増加率をもつとして計算しましたが、渡来人の人口増加率が高ければ、渡来人 口は極端に少なくなります。   実際、在来縄文人の人口増加率はあまり高くなかったことが考えられます。 たとえば東北地方です。東北地方は、弥生時代に渡来人が入らなかったとされ るので、在来縄文人のみと考えられますが、ここでは小山氏によれば、人口が 増加するどころか他の地方とは逆に減少しました。これからわかるように、在 来縄文人の人口増加率は渡来人のそれより低いというのはたしかなようです。   しかし、それは東北地方特有のものではないかと思われます。東北地方は 青森県の垂柳遺跡の水田遺構でしられるように、在来縄文人も水田稲作をおこ なっていたようですが、ここは寒冷な気候のためか稲作はメインにならず、そ のために人口が増えかったのではないかと思われます。   それにたいし近畿などでは、在来系縄文人のほとんどが高い生産性をもつ 稲作をメインにした結果、人口はかなり増加したのではないかと思われます。   これらを考慮して、私は縄文人を二つのグループに分けてみました。一つ は稲作により生活に革新が起きた「革新縄文人」(K)で、もうひとつは革新 が起きなかった東北地方などの「保守縄文人」(H)です。   これらに渡来系弥生人(T)を加えたものが弥生時代全体の人口Yなので、 次の式になります。    Y(弥生人)=H(保守)+K(革新)+T(渡来)   Yの値は594,900人であることが小山氏の研究によりしられていますが、 上記の式から私は弥生時代に渡来系はどれくらいいたかを試算してみました。 その際、具体的な数はすべて小山氏によりました(注1)。   Hとしては東北地方以外にも南九州の隼人なども考えられるかもしれませ んが、その実態ははっきりしないので、ここでは数字のはっきりしている東北 地方の人口、33,400人を採用しました。したがって、Hは少な目な数字になり ます。   つぎにKですが、縄文晩期における東北地方以外の縄文人36,300人が50 0年間に人口増加率 Pで増えたと仮定します。すると、    K=36,300*(1+P)**500 となります(**はベキ乗)。こちらは、Hをすくなく見積もった分だけ多めの 数字になります。これらを整理するとつぎのようになります。   594,900 = 33,400 + 36,300*(1+P)**500 + T   これから渡来系人口(T)や、渡来系/在来系人口比 T/(H+K)は、 革新縄文人の人口増加率 Pで次のように変わります。 P(人口増加率) T(渡来系) 渡来系/在来系 渡来数(1年当)  0.1%    501,667人    5.4    774人  0.2%    462,924人    3.5    540人  0.3%    399,181人    2.0    345人  0.4%    294,347人    1.0    185人  0.5%    122,023人    0.26    55人  0.6%    理論上不可   人口増加率が0.6%と高くなると、革新縄文人の人口が594,900人を超 えてしまうので理論的にあり得ません。   また、表で渡来数(1年当)とあるのは、渡来者が毎年一定数やってきて、 しかも渡来者も革新縄文人と同じ人口増加率で増えてTに達したと仮定した場 合の1年あたりの渡来者数です。計算式は、銀行定期預金の受取額に対する毎 月の積立額算出法と同じです(注2)。   もし、渡来系の人口増加率が革新縄文人のそれより高ければ、1年あたり の渡来者数はもっと少なくなりますが、その場合でも渡来系人口や渡来系/在 来系の人口比にはまったく影響がないことは特筆にあたいします。   また将来、新発見の縄文遺跡が増えても、同じ割合で東西の縄文遺跡や弥 生遺跡が増えるかぎり、渡来系/在来系の人口比は変わりません。ただし、渡 来系人口や毎年の渡来者数は新発見の増加割合に比例して増えます。   それよりも問題は、革新縄文人の人口増加率です。これが変わると渡来系 弥生人の割合もかなり変化します。人口増加率として、埴原氏は0.2%くら いが妥当としましたが、そうなると上の表から弥生人の78%は渡来系になり、 若干多すぎるような気がします。   宝来氏のDNA分析によれば「本土日本人の遺伝子プールの約65% は, 弥生時代以後に大陸からもたらされた遺伝子に由来していることが示唆」され ました。これに見合う革新縄文人の人口増加率は0.3%で、渡来系の比率は 67%になります。毎年の渡来者数は345人、500年の合計で 172,500人 になります。   これでもまだ渡来者数は多いのかもしれません。というのも、古墳時代以 降も騎馬民族など渡来の波が何回かあったことを考えれば、弥生時代における 渡来系の比率は50%台でもつじつまが合うのかもしれません。   それに見合う人口増加率は0.4%になります。この場合、渡来系の比率 はちょうど50%になります。このケースでは平均すると毎年185人が渡来 したことになります。500年間の合計では 92,500人になります。   いずれにせよ、弥生時代、平均して毎年数百人の渡来者があったという試 算は、当たらずといえども遠からずではないかと自画自賛しています。 (注1)小山修三「縄文晩期の人口の減少、弥生期の人口の大爆発は何を意味   するのか?」『日本人のルーツがわかる本』洋泉社,1999 (注2)渡来数(1年当)=P*T/((1+P)**500-1)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】   縄文期を巡る話題 00/10/08 - 02134/02134 PFG00017 半月城 RE:第7回曽谷縄文まつり (14) 00/10/08 22:23 02132へのコメント   かまくらさん、吉崎さん、こんばんは。きょう、千葉県市川市の曽谷縄文 まつりに行って来ました。   会場では、縄文風の貫頭衣やお祭りのハッピをきた人などが大勢いて、予 想外ににぎやかでした。金魚すくいや伝承遊び、野菜やおもちゃの露店などま さに町内会のお祭りでした。   縄文に関していえば、曽谷貝塚の説明展示や市川考古博物館が所蔵する土 器類の展示、土面作り、アクセサリー作りなど一般向けに趣向をこらしていま した。   また、うれしいことに縄文ナベをふるまっていました。アサリとジャガイ モ、わかめの入ったスープでなかなかいい味でした。   スープをたべながら三択式クイズに挑戦したのですが、なかには難問があ りました。第3問です。 クイズ 1.曽谷貝塚はいつ頃か? 2.曽谷貝塚から出てきたものは? 3.縄文人の平均寿命は? 4.当時、多く食べられたものは? 5.縄文人に飼われていた動物は? 6.当時の住居は? 7.曽谷貝塚は、どんな形をしている? 8.縄文人のアクセサリーに使われたものは? 9.編布(あんぎん)に使われた植物は? 10.火おこしで早く火がつきやすい木は何の木?   第3問の回答として、(1)15才くらい、(2)50才くらい、(3)80才く らいが用意されていました。展示では30才くらいと書かれており、私もその ように記憶していたのですが、どうやら正解は(1)15才くらいのようです。 縄文時代は乳幼児の死亡率が相当高かったようです。   この貝塚は3-4千年前の遺跡で、1935年、山内清男により発掘され、曽 谷式土器の名称が提唱されました。千葉県では10大貝塚のひとつに数えられ ます。   広さは4万平米のU字型で、20体の人骨も発掘されました。竪穴住居跡 は40くらいありますが、遺跡の半分以上が未発掘なので、発掘にしたがいそ の数はもっと増えそうです。   帰り道にふと疑問になったのですが、路傍や貝塚の公園にころがっている 貝殻を拾うのは法にふれることなのでしょうか?


ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は
half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。