- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】 縄文期を巡る話題 00/08/11 -
01973/01973 PFG00017 半月城 アイヌとアンデス先住民
(14) 00/08/11 23:34 01967へのコメント
早傘さんは、各アメリカ先住民はすべて近縁、すなわち似通っていると思
われているのでしょうか。
RE:1967,
>上記(宝来教授)の図が手元にあるならば、「アメリカ先住民」がアイヌと相
>当離れていることはわかるはずなんだが。アンデスの先住民は他のアメリカ先
>住民と異なる起源だとでも思っているのでしょうか?
なるほど宝来教授の人類集団間の相関図をみると、アメリカ先住民はアイ
ヌをはじめ、東アジアの人類集団とはかなりかけ離れているようです(注1)。
しかし、これは平均の話なので特殊例を埋没させてしまいます。世の中に
は遠く離れていても、あんがい遺伝的に近い人類集団はいるものです。
たとえば、浦和1号とよばれる縄文時代人のミトコンドリアDNAが、解
読された範囲において、現代インドネシアの二人とピタリと一致しました(注
2)。
こう書くと、これはある縄文人ひとりの例で、縄文人一般がインドネシア
人と近い関係にあるとはいえない、特殊例を一般化して考えてはならないとい
う声が聞こえてきそうです。
そのとおりです。それでもあえてこうした例をあげるのは、それしかサン
プルあるいは情報がない場合、その少ないデーターから何かを読みとり推論の
手だてにしようとするからです。
今の場合、DNAが解読された縄文人はわずか5体しかありません。した
がって、この制約のなかで縄文人の約20%は現代インドネシア人と何らかの
関係があったのかもしれないと推論したとしても、それは妥当ではないかと思
われます。
こうした推論は、もちろん現時点の限られたデーターや情報をもとにする
かぎりという条件づきであることはいうまでもありません。
本論にもどりアンデスの特殊性ですが、宝来教授たちがわざわざアンデス
の住民を選んだのはもちろんそれなりの理由があります。それは、ここの住民
が日本人にわりあい近いからです。宝来教授といっしょにアンデス調査におも
むいたウィルス学の田島氏はこう述べました(注2)。
<コロンビアといえば、ゲート・オブ・サウスアメリカと言われるように、
まさに南米の入り口ですから、とっかかりとしては最適だったわけです。
コロンビアでもとくにわれわれが興味をもったのはアンデスで、現地の人
びとの顔を見た最初の印象が、「これはもうわれわれ日本人と兄弟じゃない
か」ということです。
このころからです。モンゴロイドのルーツを探るというテーマを明確に持
ったのは>
このように研究者の好奇心をかりたてるくらい、アンデスの住民は日本人
と似ているようです。なかにはそれがこうじたのか「コロンビアやエクアドル
の土器は縄文土器である。南米と日本は縄文時代に交流があったのだ」とびっ
くりするような仮説をとなえる研究者が内外を問わずいるようです(注2)。
その妥当性はともかく、日本にとってアンデスは魅惑の地ですが、一口に
アンデスといっても広大で、その住民はもちろん一様ではありません。そうし
たなかで、とりわけアイヌに近かったのがクスコの住民だったようです。
前にも書いたようにNHKによれば、世界中のサンプル「 27,000 人のう
ち、ラウルさんに最も近いのが、縄文を受け継ぐアイヌ」ということになりま
す。
この結論にたいして早傘さんは<「アイヌ」ではなく「あるアイヌ」と表
現するのが正しいですね>と書かれましたが、この意図は、暗に「あるアイ
ヌ」はかなり特殊例かもしれないと疑ってるからでしょうか?
もし、NHKが平均からかけ離れたアイヌをことさらとりあげ、そこから
上記の結論をだしているのでしたら詐欺まがいですが、宝来教授も出演してい
る番組でもあるし、私はそうでないと素直に信じます。
こう信じるのは、もうひとつ理由があります。アンデス住民とアイヌが最
後に分かれたのは、どうやら 12,000年前後で、おそらく琉球人との分かれより
新しいのかもしれないと思うからです。
アンデス住民の祖先は、陸橋化したベーリング海峡、ベーリンジアを渡っ
た古モンゴロイドとされていますが、この海峡は深いところでも42mしかな
く、渡来可能期間は宗谷海峡の場合より長かったようです。
言葉をかえれば、宗谷海峡が陸橋化した時代、新しいところでは 12,000
年前から 30,000年前まで北海道からアンデスまで陸続きでした。
しかし、古モンゴロイドはベーリンジアを渡れても、カナダ地方をおおう
氷床は渡れなかったようで、アメリカにおけるかれらのたしかな痕跡は、今の
ところ、カナダに狭い無氷回廊が形成された時期(13,000-12,000年前)以降と
されるようです(注3)。
その人たちはパレオ(旧)インディアンとよばれますが、現在のインディ
アンとのつながりは不明なようです。
NHKがいうように、もしアイヌとアンデス先住民が近いとしたら、この
パレオインディアンこそがカギをにぎっているのかもしれません。それ以外に
は縄文人のアンデス移住説を持ちだすしかなさそうですが、私はパスします。
その後のベーリング海峡ですが、約9,000年前に陸橋が消えました。しかし、
岡田氏によれば、陸橋が消えても厳冬期になるとシベリアからアラスカへ海氷
上を歩いて渡れる場所があるので、寒冷適応を完全にとげたモンゴロイドにと
っては、海峡はそれほど重大な障害ではなかったのかもしれないとのことでし
た(注3)。
もし後続部隊があったら、彼らがアメリカ大陸の先住民とどれくらいのつ
ながりがあるのか興味はつきません。
(注1)宝来聡『DNA人類進化学』岩波書店,1997
この著書をもとに、人類集団間の遺伝距離(千分比)をめのこで下記のよ
うに訂正します。
本土日本人: 韓国人( 0), 琉球人(25), 中国人(25), アイヌ(35)
アイヌ: 韓国人(50), 琉球人(53), 中国人(70)
琉球人: 韓国人(25), 中国人(65)
(注2)田島和雄「南米インディオと現代日本人の一部は共通の先祖を持って
いた!」『日本人のルーツ、ここまでわかった!』洋泉社MOOK,1998
(注3)岡田宏明「最初のアメリカ人」『モンゴロイドの道』朝日新聞社,
1995
- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】NIFTY 縄文期を巡る話題 00/08/13 -
01982/01982 PFG00017 半月城 琉球人の渡来
(14) 00/08/13 21:12 01961へのコメント
前に書いたように、宝来教授は琉球人について「少なくとも 12,000年前、
縄文時代の最初の頃からアイヌと琉球人の祖先は別々の集団として存在してい
たと考えられる」と明言し、元来、両者は別々の集団だった可能性があると述
べました(注1)。
両者が分かれた時期を推定すると、もし琉球人の祖先が九州から渡ったと
すれば、対馬海峡がほぼ陸橋になり、九州の人口が増えだした20,000年前ころ
と思われます。
このころの九州では韓国と共通する石器がみられので、朝鮮半島と往来が
あったことはたしかなようです。とくに、大分県にある津留遺跡の剥片尖頭器
が韓国スヤンゲ遺跡のそれとそっくり似ているのは素人目にも明らかです(注
2)。
一方、琉球人の祖先が南方から渡来した可能性も否定できません。沖縄で
発見された18,000年前の港川(みなとがわ)人は、北京近くの上洞人よりむし
ろ中国南部の柳江人に近いとされています。
このことから、港川人を南方起源であると考える学者は埴原氏をはじめと
して多いようです。これに対し尾本氏は、縄文人およびその先祖と考えられる
港川人は北方起源であると主張し、一石を投じました(注3)。
ただ、起源がかりに南方だとしても、埴原氏が指摘するように、これはた
だちに港川人の渡来ルートも南方であることを意味しません。九州との関連か
ら、主流は北方ルートで渡来した可能性の方が強いのかもしれません。
いずれにせよ、縄文人と関連づけられる沖縄の港川人がすでに18,000年前
に存在していたことから、琉球人とアイヌが分かれたのは、それ以前というこ
とになりそうです。
そうなると、両者の分かれは、アイヌとアンデス住民との分かれより古く
なりそうです。アンデス住民の祖先がベーリンジアおよび無氷回廊を渡ったの
は、前回書いたように12,000年前ころと考えられますが、もしその数千年前く
らいまでにアイヌと分かれたのなら、アイヌと琉球人との遺伝距離のほうがよ
り遠くなる可能性があります。
(注1)宝来聡「ジャワ原人は日本人の遠い先祖ではなかった」
『日本人のルーツ、ここまでわかった』洋泉社MOOK,1998
(注2)『海を渡って来た人と文化』京都文化博物館,1989
(注3)尾本恵市『日本人の起源』裳華房,1996
(本記事はML[aml]および下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
01989/01989 PFG00017 半月城 アイヌと中南米先住民
(14) 00/08/19 21:26 01981へのコメント
どんたくさん、貴重な情報をありがとうございます。かってのシパンやシ
カン王国の墓で、アイヌとDNAが一致する人がいたというのは、私には容易
に納得できます。
RE:1981
>この墓に葬られていた王様、神官、それに殉葬者達の歯からDNAを取り出し
>て、日本の佐賀医大で調べたところ、次のようなことが判ったそうです。
>(ミトコンドリアDNAのDループを調べたらしい。)
>◎一人の王様と、もう一人の王様と、DNAが一致した。
>◎殉葬者の中に、王様とDNAが一致する人が何人か見つかった。
>◎シカン時代の殉葬者の中に、他の人たちとは違った形のDNAの人が
> 2,3人いた。
> ところが、この人たちは、アイヌとDNAが一致した。
>「ミトコンドリアDNAが一致するということは、母系が同じということを意
>味する」という解説もありました。
この報道を早傘さんはどうとらえますか? また「個人間の関係と集団間
の関係は別の概念です」という自明の理をくりかえし、依然としてアイヌ集団
と中南米の「局所的」な人類集団との近縁関係に否定的なままでしょうか?
早傘さんがこうまで否定的になる根拠といえば、宝来氏のサンプルになっ
ている「先住民の主な居住地はアンデス」であるにもかかわらず、大枠でアメ
リカ先住民とアイヌとの「平均」の遺伝距離が遠いからだけでしょうか?
大枠では人類集団同士の遺伝距離が遠いなかで、具体例は前回書いたので
省略しますが、数少ない情報のなかから局所的な人類集団同士の近縁関係をさ
ぐり、そこから弥生人のルーツを山東半島としたり、あるいは縄文人のルーツ
を東南アジアと推定しているのが現状なのですが、早傘さんはこうした方法論
にも懐疑的なのでしょうか?
先史時代は情報やデーターが少ないので、とかく論議は飛躍しがちですが、
そんななかで本物を見抜く眼力が重要ではないでしょうか。眼力さえたしかな
ら、ミッシングリンクや補強材料はいずれでてくるものです。
シパン・シカンとアイヌのDNAに関するどんたくさんの書き込みを読ん
で、その感を強くしました。
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
#8506/8506 日本史ボード (BIGLOBE)
★タイトル (SPM07550) 00/ 8/16 20: 5 (104)
日本「単一民族」論の系譜 半月城
★内容
RE:8488
1986年当時の中曽根首相が「日本は単一民族国家」と発言したとき、アイ
ヌの存在などはおそらく同氏の眼中になかったことでしょう。
戦前は海軍将校だった同氏のこと、私は中曽根発言を、「万世一系」の天
皇を中心とした「大和民族」の純血を信じての復古発言だと考えていました。
しかし、これは誤解かもしれません。というのも、戦前は単一民族説はむ
しろ少数派で、日本民族は「混ざっている」という「混合民族説」がどうやら
主流だったようです。
その出発点は小熊氏によれば、明治時代、お雇い外国人学者のモースやベ
ルツにあったようでした。彼らにより学問的に日本民族のルーツが最初に考察
されたのですが、そのときから混合民族論が優勢だったようです。
それ以来、日本民族のルーツがどのように考えられてきたのか、慶応大学、
小熊英二氏の説を自己流に紹介します(注1)。
<モースは大森貝塚の発掘調査から、古代人は現代日本民族の先祖とはいえ
ないという結論を出してしまった。『古事記』や『日本書紀』といった記紀神
話の天孫降臨も、天皇の祖先が渡来して先住民族を征服したことを物語ってい
ると主張したわけです。
ベルツは顔色や容貌などから、アイヌ以外に「日本人」には長頭細身の
「長州型」と短頭ずんぐり型の「薩摩」型があるという論を出しています。
そしてこの「薩摩型」はマレー系の南方民族、「長州型」は大陸系の北方
民族の血統をついでおり、この両者が混合して現代日本人ができているという
のが彼の説でした>
明治時代、この教えを受けた人類学者の見解は、意外なことに国体論の単
一民族論を圧倒しました。国体論とは、日本は天皇を親とし、国民を子とする
家族国家であるという思想で、ひいては国民の団結にじゃまになるような異質
者の存在は認めない論理であり、当然単一民族論につながりました。
これにたいして、人類学者は「人類学のほうが先進的で科学的である以上、
それを取り入れないと、国家の独立が保てない」と国体論を一蹴しました。
これに古代史学者も加わり、日本には古代にも多くの渡来人がやって来た
が、そうした異人種を同化して日本人にしてきた歴史があり、その経験は台湾
や朝鮮の同化に生かせるといいはじめました。
こうして、むしろ混合民族論のほうが帝国主義的領土拡張の時流にかなう
ものになりました。その極致が「日鮮同祖論」でした。
日鮮同祖論は、小熊氏によれば「もともと、天皇家の祖先が朝鮮半島から
渡来してきたという説だったのですが、そのうちに日本列島と朝鮮半島は古代
は一つの国で、言語的にも人種的にも同じだったのだから、ふたたび朝鮮と日
本を一つの国にして天皇家の領土に組み込むのは当然だというような論調に変
形」されました。これが日本の韓国併合に利用されたことはいうまでもありま
せん。
台湾についで朝鮮を植民地にした結果、「日本国籍」の3割近くを台湾人
や朝鮮人がしめるようになりました。そうなると、新たな「日本人」のよりど
ころを構築する必要が生じました。
このあたりは先進帝国主義のイギリスなどと違うところで、植民地の存在
により「日本人」を模索した結果、国体論自体が変化しました。
かっての家族国家論が、天皇家を先祖と仰ぐ直接的な血統の結びつきを強
調したものだったのに対して、大正期以降の新しい国体論は、祖先が違ってい
ても同祖を自覚することで同じ民族になることができるというものに変化した
とのことでした。
こうして混合民族論は、先住民征服論から同祖意識の確立へと向かったの
ですが、そのかたわら、日本人は純粋な単一民族だという論がおもに優生学者
により1920年代ころ細々と提唱されました。
京都帝大医学部の清野謙次は、石器時代の発掘人骨は現代アイヌにも現代
「日本人」にも似ていないが、その後の進化と南北隣接の人種との混血により
現代日本民族になったとし、その後、次第に石器時代人は「日本人の先祖」だ
と主張するようになりました。
清野の説は、小熊氏によれば、マルクス主義系歴史学者である禰津正志に
支持されたようです。その動機は記・紀神話打破にあったようですが。
同時に、それまで朝鮮や台湾など眼中にない「日本文化論」系の和辻哲郎
や柳田国男らは、風土や民俗論の立場から日本の独自文化を強調し、戦前の単
一民族論の補強に寄与しました。
戦後、敗戦により植民地を失った日本は、もちろん日鮮同祖論や混合民族
論をとなえる政治的必要がなくなったのですが、それとうらはらに単一民族説
が台頭したようでした。
清野の単一民族説や津田左右吉の記・紀神話論がマルクス主義者に高い評
価を受けていたことも追い風になったようでした。
それに抗するかのように、江上波夫は天皇騎馬民族説を提唱し、一大衝撃
を与えたのですが、混合民族論は時代遅れという風潮のなかで、江上説はなか
なか学会には受け入れられませんでした。
その後、単一民族論に対する本格的な批判は1980年代に始まりました。
そのきっかけは、80年に日本が人権規約委員会に提出した報告書ではないか
と思います。
日本は規約を批准してまもないころとあって、マイノリティの解釈をまち
がえたのか、報告書のなかでアイヌなどはマイノリティに該当しないと報告し、
これが内外の批判をあびました(注2)。
このあたりから本格的な議論がまきおこったのですが、その中心は、おも
に日本の国際化や、在日韓国・朝鮮人ならびに外国人労働者の人権問題を考え
る人たちでした。
そんな渦中に、当時の中曽根首相の「単一民族」発言がなされました。首
相の一挙手一投足は注目をあびるものです。それが非常識発言であればなおさ
らです。当然のごとく批判や非難が猛然と起こりました。
なかには、保守系寄りの人びとも批判を始めたようでした。この背景には
日本の海外経済進出があり、経済大国として中曽根首相の「単一民族」発言や
「黒人」発言は有害であるという計算が働いたことはいうまでもありません。
これを機に、「単一民族」説はほとんど姿を消したのではないかと思いま
す。
それを象徴するかのように、混合民族説の江上氏は91年に文化勲章を受
章しました。これを小熊氏は、騎馬民族説の当否はともかく、その発想が政府
に事実上認められたのだと解釈しました。
(注1)小熊英二「日本人の“ルーツ探し”130年の歴史をたどる」
『日本人のルーツ ここまでわかった』洋泉社、1998
(注2)岡本雅亨「自由権規約第27条に関する“一般的意見”と日本におけ
る意義」『法学セミナー』1994.9
(本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:ある特攻隊員の「快挙」
[zainichi:16688]
Date: Sun, 20 Aug 2000 20:41:48 +0900
半月城です。遅ればせながら「在日」旧軍人軍属の補償問題にコメントを
記します。
RE:[zainichi:16676]
> 今年の5月にようやく「補償」が決定されたこと、その「補償」
> が日本人に対する補償に比べ微々たるものであることが
> 解説されていました。一体、金額等の面でどのように補償の
> 内容が違うのでしょうか。
「在日」旧軍人軍属に弔慰金などを支給する法律がさる5月31日に可決、
成立しました(注1)。
これは日本に永住する「在日」旧軍人軍属を対象に、戦死者遺族に弔慰金
260万円、重度戦傷病者に見舞金200万円と老後生活設計支援特別給付金
200万円の計400万円を支給するものです。
これは「見舞金」などの名称が示すように、もちろん補償ではありません。
そのため、旧日本軍人にたいする補償との比較は性格上無理ですが、ご要望な
のであえて比較してみます。
その例として、陳石一さんをとりあげます。陳さんは94年に亡くなられ
ましたが、法律で遺族に260万円支給されることになりました。陳さんは、
生前はもちろん戦傷病者としてのお金は一切もらえませんでした。
陳さんは戦争で片足を失いましたが、もし日本人だったら、戦傷病者特別
援護法により亡くなるまでおそらく5千万円以上のお金をもらっていたことで
しょう。
陳さんたちはそうした援護に無縁なうえ、片足がないとあって働くに働け
ず、どん底生活を送らざるを得ませんでした。ときには上野公園で傷痍軍人の
白衣を着て哀愁を帯びた軍歌を奏で、道行く人のお情けにすがるような生活を
送ったこともありました。
そうした姿は、大島渚監督のTV番組「忘れられた皇軍」として紹介され
ましたので、ご存じの方も多いことと思います(注2)。
このような艱難辛苦への報いが、差別的な数百万円の見舞金で終わるとし
たら、とうてい容認できるものではありません。戦傷病者のなかには、見舞金
の受け取りすら拒否する人もいるようです。姜富中さんがそのようです(注3)。
その気持ちはわかる気がします。今回、法律が成立したことにより「在日」
旧軍人軍属の補償問題が解決したというムードになったのでは、とうてい怒り
がおさまるはずはないと思います。
戦時中、姜さんはともかく「日本人」として働きました。それにもかかわ
らず、戦後のある日、突然一方的に日本人ではないとされ、しかも今度は日本
人でないという理由で切り捨てられ、しかるべき補償をまったく受けられませ
んでした。これでは、あまりにもむごい!
それに追い打ちをかけるかのように、彼らのなかには韓国で「売国奴」だ
とされ、その遺骨すら韓国に受け入れてもらえない人たちもいます。二重の悲
劇ではないでしょうか。
そのひとりが盧龍愚、日本名、河田清治大尉ですが、その功績は当時の報
道によれば「身をもって皇土防衛の任を達成した」とされ、「帝国軍人の亀鑑
(きかん)」でした。こうまで賞讃されるのも無理はありません。
河田は、日本を空襲で恐怖のどん底に突き落とした憎きB29にカミカゼ
特攻機で体当たりし、みごと撃墜し絶賛されたのでした。この「快挙」にふる
いたった皇国少年少女はゴマンといたようでした。そうした精神的遺産を残し、
かれ自身はもちろん散華しました。
河田大尉のように、皇軍将校として輝かしい戦果をあげればあげるほど、
それに比例して韓国では「売国奴」の悪名がなり響くことになります。そんな
非難の嵐を恐れたのか、河田大尉の遺骨は兄弟にすら受け取りを拒否されたよ
うでした(注4)。
そのような遺骨 1,136人分が今でも東京目黒の祐天寺に眠っていますが、
この人たちの魂は、はたして260万円で救われるでしょうか。
(注1)正式名称は「平和条約国籍離脱者の戦没者遺族への弔慰金等支給法」
(注2)半月城通信「忘れられた皇軍、戦後補償(2)」
http://www.han.org/a/half-moon/hm059.html#No.383
(注3)姜富中さんのプロフィール
「在日の戦後補償を求める会」(支援を募っています)より転載
http://www.twics.com/~hobbs/
年齢 1920年5月生まれ(80歳)
出身地 韓国・慶尚南道
徴用状況 1942年11月、国民徴用令により呉に集合、同月末に海軍軍属として、
呉海軍建築部普通工員に採用された。ソロモン諸島等で飛行場建設等に従事し
た後、ブカ島で警備勤務。
1945年2月、伝馬船で弾薬輸送中敵戦闘機の機銃掃射を受け、負傷。被害状況
右手を母指を残し全部切断・右目の視力ほとんどなし(第5項症該当)
裁判 提訴 1993年8月26日
裁判所 大津地裁
事件番号 93年(行ウ)第2号損害賠償請求事件
被告 国
請求趣旨 (1) 遺族等援護法の援護を受ける地位にあることの確認
(2) 9200万円の損害賠償
(注4)「朝鮮人兵 遺骨帰らず」朝日新聞,2000.8.8
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半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。