半月城通信
No. 73

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  1. 天皇陵の主
  2. 倭族の渡来
  3. 縄文人の渡来
  4. 縄文人の渡来(旧石器時代)
  5. 日本人の遺伝子
  6. 東西の交流
  7. 陸稲による稲作
  8. アイヌと琉球人


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 00/06/18 - 02270/02270 PFG00017 半月城 天皇陵の主 ( 9) 00/06/17 17:59 02268へのコメント ARATAさん、こんばんは。RE:2268 > 難しい話は抜きにして、子孫が明確な形で現存している >天皇陵を発掘して良いのでしょうか。  「子孫が明確な形で現存」するためには、陵に葬られた人が誰であるのか明 確になっている必要があります。   古代天皇陵の場合、陵の主がはっきりしているのは、天智天皇と天武・持 統合葬陵のみという人すらいるようです。   井沢元彦は、これにあと三つくらいは確実であろうとみています。いずれ にせよ、そんなところでしょう。 >           私の先祖と分かっている >墓を学術的意味で掘りたいと言われたら、私は拒否するでしょう。   祖先の墓を丁重に祀るのは、もちろん意義のあることです。しかし、もし 祖先の墓を取り違えていたらどうでしょうか? かりに、ほんとうは蘇我馬子 の墓かもしれないところへいって「崇峻天皇様、安らかにお眠りください」と 祈ったら、あの世の崇峻天皇はかんかんに怒り出すのではないでしょうか。   それくらいならまだしも、とくに神武から始まる欠史9代の、存在しない とされている「天皇」の「陵」へいって「神武天皇様」なんておがんだらマン ガ的光景です。しかし、それが現状です。   古墳や陵は、主をはっきりさせるためにも、きちんと調べて丁重に祀るほ うが礼にかなっているのではないでしょうか。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


倭族の渡来      hangetsu_joh Yahoo!(http://www.yahoo.co.jp/)掲示板 2000年7月16日 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:日本人は百済から来たのか? #187   ure417_appleさん、こんばんは。RE:144 > 稲作とともに大陸系摩製石器や支石墓などの朝鮮半島の文化要素がみられ >ることから水田での稲作農耕技術は朝鮮半島経由で伝播したとみるのが妥当 >だと思います。   ure417_appleさんのような考古学関係者は、日本の弥生時代を朝鮮半島と の関連でとらえる人が多いようです。それに反し文化人類学者のほうは、 kurukuruchokiさんの書き込みにその一端がみられるように、弥生文化を中国 の江南地方と直接比較することに重点をおく傾向にあるようです。その結果、 朝鮮半島が視野から抜けおちてしまいがちです。   両者の視点を統合するかのようなフォーラムが93年、学習院大学東洋文 化研究所でもたれました。その報告書はなかなか興味深いものです(注1)。   それによると、中国の史書にしばしば登場する倭族は、もともと雲南地方 あたりに住んでいましたが、次第に揚子江をくだり下流に移動するようになり ました。その倭族たちは水稲稲作をおこなっていたことが、河姆渡(ホムト) 遺跡などから判明しています。   倭族の移動は黄海に達したのち南北に分かれました。北上したグループは、 揚子江河口から山東半島にかけて住んでいたようで、鳥越氏はこう記しました (注1)。        --------------------   揚子江下流域に達した倭族の中で、さらに山東半島に向けて北上したのも います。漢族は彼らを東夷と呼びましたが、その東夷から殷(商)が出て建国 しますし、また周代には淮・徐・タン・キョ・エン・莱などの倭族の国のあっ たことがみえます(注2)。   彼らは粟・黍(きび)を主食とする大モン口文化の土着の民族を討ちなが ら北上したものとみられます。   しかしこれらの倭族の国々は、周により、また斉によってしばしば討たれ、 最後に北部は斉に、南部は呉の領土となります。実は『国語』(巻第六)斉語 に、我が国古代の言語と共通するものが多いことも注目してよいことでしょう。   その呉は、『史記』呉太伯世家によると、太伯(たいはく)は周王の子で あったが、父王は末弟の季歴を王位につけようとしていることを知り、身の危 険を感じて弟の仲雍とともに南方の荊蛮の地に逃れ、倭族の風俗にしたがって 文身断髪したと記されています。   その後、太伯は呉の国を建てますが、その傘下に集まったという千余家は、 いうまでもなく倭族です。   その呉のことで述べたいのは、『晋書』に我国の倭人が「自ら太伯の後 (すえ)なり」といったということがみえることです。   これまでの史学では、単なる伝説として無視してきましたが、あながちに 否定することはできないと思っています。  ・・・   しかし(倭人は)大陸から直接、日本列島に渡来したのではなく、朝鮮半 島を経由したものとみています。しかも朝鮮半島の北部、現在の平壌の近くま で強盛な燕の勢力がのびていましたので、中南部の西海岸にたどり着きました。 そして先住のワイ・貊(ばく)を征して、その地に辰国を建てます。   その辰国は後に馬韓を母体として辰韓・弁韓に分立しますが、その辰国に 属することを嫌った半島南部の倭族もいました。彼らは古来の文身(入れ墨) を守っている部族で、しかもその多くが北部九州に移住したこともあって、彼 らは辰国に属さず、倭国に属していました。『三国志』魏志倭人伝と『後漢 書』東夷伝では左のようにみえます。  ・・・   つまり朝鮮半島南部の狗邪韓国は、「其の北岸」とあるように倭国の領域 の北岸であり、北部九州の奴国が南端でありました。そのころまで朝鮮半島の 南部地域は倭国に属していたのです。   その狗邪韓国は現在の金海を中心とした地域とみられますが、文身の習俗 を止めた辰国の倭族とは、同じ倭族でも異なる部族であったとみてよいでしょ う。   また朝鮮半島では無文土器ですが、北部九州に渡来した倭族たちは、先住 の縄文人がつくる土器文様に魅せられて文様をつけます。ところが奴国の住民 は間もなく文様を捨てて無文土器になりますが、遠賀川流域の住民は土器文様 にいたく興味をもち、美しい木の葉文土器をつくります。両者には精神面にお いて文化的差があったといえます。   倭族は日本列島に渡来しましたが、必ずしも一様でなく、それぞれが異な る個性をもついくつかの部族であったとみられます。それがいくつに分類でき、 またその特性を明らかにすることも、今後研究しなければならない問題だと思 っています。        -------------   鳥越氏の倭族渡来説を裏づけるかのように、弥生人に似た人骨が揚子江下 流域や山東省などから発見されました(注3)。   歴史的に山東省には東夷とよばれたキョや莱などが住んでいたのですが、 倭族の国であった越は同じく倭族の国であった呉を滅ぼした後、山東半島の南 にある青島市の西南方の琅邪山に都を移しました。   その越もやがて斉や楚に滅ぼされるのですが、こうした戦乱のたびに、多 くの難民が流浪の旅に出たことでしょう。学習院大学の諏訪教授は、これら倭 族は航海技術にすぐれていたので、容易に山東半島から朝鮮半島に渡ったと推 定し、こう記しました(注1)。  「ここ(山東半島)からは海峡をへだてて朝鮮半島は目と鼻の間にあります。 のちにみるように越人は航海にすぐれた才能をもっていた人たちですから、す ぐ朝鮮半島にわたり、その南の端に自分たちの故郷と似た環境の地を発見して 住みつき、さらに環境条件のよく似た日本へも移住して海岸の低地に住んだと 思われます。   また紀元前334年には越の国も楚によって滅ぼされます。この時にも大 量の越人が、朝鮮半島や日本へ渡ったと考えられます。これが日本や朝鮮の倭 人の始まりだったと思います」   倭族は、山東半島から海路で朝鮮半島中部以南に直接渡ったためか、稲作 農耕地帯によくみられるしめ縄の文化は朝鮮半島北部に残らなかったようです (注4)。   そうした倭族たちは、朝鮮で辰国を建てたかどうかはさらに検討が必要で しょうが、ともかく玄界灘をはさんで狗邪韓国や奴国に倭人が住んでいたとい うのはほぼ妥当ではないかと思われます。   北部九州における倭人も文化的には多様なようで、鳥越氏によれば「地域 ごとに文化的内容が少しずつ異なっていることが、遺跡や遺物の上でみられ る」ようです(注1)。これは弥生人の渡来期間が5ー600年もの長期にわ たったので当然ではないかと思います。   このような渡来の結果、宝来氏によれば、現在、本州にいる日本人の遺伝 子に朝鮮タイプが24%、中国(台湾本省人)タイプが26%も占めるようで す。その反面、本州日本人固有のタイプは、わずか5%にすぎないとは驚くば かりです(注5)。   もっとも、朝鮮からの渡来は、その後も百済滅亡まで4ー500年も続く ので、その分だけ弥生時代における朝鮮タイプ遺伝子の比率は下がるのではな いかと思われます(注5)。 (注1)諏訪春雄編『倭族と古代日本』雄山閣、1993 (注2)「タン」は炎におおざと、「キョ」はくさかんむりに呂、「エン」は  俺からにんべんを取った字、「エン」はさんずいに文、「ワイ」はさんずい  に歳。 (注3)朝日新聞ニュース速報、[1999-03-18]  ◇長江流域で初めて「渡来系弥生人」を確認◇  大陸から稲作や金属器など弥生文化を伝え、現代日本人の成立に も大きな影響を与えたとされる渡来系弥生人にそっくりな人骨を中 国長江(揚子江)流域で初めて確認したと、日中共同調査団(日本 側団長、山口敏・国立科学博物館名誉研究員、中国側団長、鄒厚本 ・南京博物院考古研究所長)が十八日、発表した。  北方系とされてきた渡来系弥生人の故郷のひとつが長江下流域に もあったことをうかがわせる発見で、朝鮮半島経由ルートと江南ル ートに分かれて論争が続く弥生文化の伝播(でんぱ)をめぐっても 大きな関心を集めそうだ。  中国・江蘇省の梁王城、胡場などから出土した古人骨を対象に、 一九九六年度から人類学者グループが南京博物院と調査を進めてい たもの。日本の弥生時代とその直前にあたる春秋戦国時代から前漢 代の人骨約二十体の頭がい骨や四肢骨、歯を計測。併せてDNAも 調べた。その結果、北部九州や山口県で見つかる、背が高く面長で のっぺりした顔立ちの渡来系弥生人と姿形が酷似し、遺伝的にも近 いことがわかった。また、弥生時代にみられる抜歯の風習も確認さ れた。  日本人の成立については、南方系とされる彫りが深く低身長の縄 文人に、大陸北部の北方系の渡来系弥生人が混血したという見方が 有力。九〇年代に入り中国では、黄河下流域の山東省や内陸部の青 海省などでも渡来系弥生人に似る骨が確認されているが、長江下流 域では知られていなかった。山口団長は「稲作文化の中心は長江流 域。渡来系弥生人を北アジア的とする通説に修正が必要ではないか 」と話している。  近年、長江流域は、中国古代文明を代表する黄河文明とは別に、 独自の高度な文明を持っていたとして注目を集めている。春秋戦国 時代には呉・越や楚などの国が興った。畑作地域の華北とは異なる 稲作圏であることから、稲作中心の弥生文化は直接ここから日本列 島に流入したとする説があり、有力な朝鮮半島経由説と対立してい る。(以下略) (注4)http://www.han.org/a/half-moon/hm043.html#No.286 (注5)http://www.han.org/a/half-moon/hm072.html#No.481


縄文人の渡来   hangetsu_joh Yahoo!(http://www.yahoo.co.jp/)掲示板 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:日本人は百済から来たのか? #269 2000年7月23日   bosintangさん、こんばんは。RE:216 >埴原は、謎の民族とされていたアイヌが、欧米の学者のいうようなコーカソ >イドでも、またソ連の学者のいうようなアボリジニーでもなく、モンゴロイ >ドであるということを、縄文人の人骨とアイヌとの類似から証明しました。   この「証明」は、人骨などの形態は環境によって大きく変化するというこ とで、その有効性に疑問をもつ人にはあまり通用しないようです。しかし、形 態人類学も科学を名乗る以上、それなりの信頼性があることはいうまでもあり ません。   それを物語るかのように、埴原和郎のアイヌ、縄文人関連説は遺伝子レベ ルで正しいことが証明されたようです。   宝来聡氏の研究によれば、埼玉県戸田市から発掘された5900年前の縄 文人のミトコンドリアDNA配列が、解読された564文字において現代のア イヌとみごとに一致したようでした(注1)。   DNA配列は、同じ本土日本人でも564文字中ふつう6文字くらいは違 うのに、1文字の違いもないというのは驚異的な一致度です。これから、アイ ヌは縄文人の子孫といっても大過ないと思われます。   さらに驚いたことに現代アイヌは、ペルーのクスコに住むラウルさんのD NA配列とわずか2文字しか違いがないとのことなので、両者は親類筋にあた るといっても過言ではないと思われます。   世界的な規模で調査した現代人27,000人のなかで、アンデス住民に もっとも近いのがアイヌとのことでした。   クスコはいうまでもなく、古代インカの首都・マチュピチュに近い場所に あり、ラウルさんは古代インカの子孫とされています。実際、ラウルさんのD NA配列は、6000年前のインカのミイラ12体と一致したようでした。   こうした事実から、縄文人も古代インカの人びとも祖先は同じであったこ とがDNA配列でうらづけられました。その祖先は、約1万年前にシベリアか ら陸地化したベーリング海峡や宗谷海峡を渡ったものとみられています。   宗谷海峡は深いところでも30-70mしかないので、地球が寒冷化した 6万年前や4-5万年前、1.3-3万年前、長期間にわたりサハリンから北 海道へ歩いて渡れたものとみられています。   一方、津軽海峡は意外に深く130mもあるので、北海道から本州へ歩い て渡れたのは、2万年前のごく短期間に限られたようです(注2)。   その後、縄文時代が始まろうとする1万年前、両海峡は海でしたが、この ときもかなりの気候変動があり、寒冷化のため海面は十数mも低下し、現在よ り45mくらい低下していました。   このとき、気候変動にたえられれず、北海道や本州に渡来した人たちがい た可能性があります。このころ、バイカル湖周辺を起源とする細石刃文化が日 本の北半や日本海側をおおいましたが、あるいはこの人たちが縄文文化を築い たのかもしれません。   他方、対馬海峡は、深さはがいして津軽海峡と同じくらいなのですが、西 水道すなわち朝鮮海峡に深さ200mの浸食谷があるので、歩いては渡れなか ったものとみられます(注3)。しかし、これは川のようなもので、丸木船て いどで渡来は十分可能だったのではないかと思われます。   しかしながら、そうしたハードルにくわえて西日本は食糧に乏しかったの か、西日本は旧石器時代の人びとや縄文人には住みにくかったようです。前に も書いたように、縄文時代、西の人口は東にくらべ極端に希薄でした。   食糧事情からいうと温暖な西日本は照葉樹林帯に属しており、そのために 木の実はアクが強く、そのままでは食べられなかったようでした。それに反し 広葉樹林帯の東北日本の木の実は、栗やくるみなどそのままで食べられるので、 冬の保存食として最適だったようでした。   このような事情のためか、九州の一部の人はさらに南下し、島づたいに琉 球列島に住みついたのではないかと思われます。沖縄では、18,000年前といわ れている港川(みなとがわ)人の化石が発見されましたが、形態学的には縄文 人に近いようです。   また、現在の本州日本人が沖縄タイプのDNA配列を16%ももつという 宝来氏の研究も、西日本の縄文人の南下をうらづけているのではないかと思わ れます。   なお、宝来氏が沖縄タイプとアイヌタイプのDNA配列を分けているのは 特筆にあたいします(注1)。二重構造説の埴原氏は、当時の学問水準の限界 から縄文人を明確には分類しなかったようですが、宝来氏の研究により、縄文 人はすくなくともアイヌと沖縄タイプに分類すべきであることが示されました。   この分類は、東日本タイプと西日本タイプ縄文人と言いかえてもいいのか もしれません。両者は天然の障壁であるフォッサマグナ(糸魚川ー静岡構造 線)にさえぎられ、陸路での移動は困難だったようです。   また、海路での移動も海流の関係から、西から東へは容易でも東から西へ の航海はむずかしかったのではないかと思われます。   いずれにせよ、両者のDNA配列における距離が、アイヌとクスコの住民 より遠いとは、事実は小説より奇なりです。 (注1)NHK-TV「日本人のルーツをさぐれ」1999.5.4 (注2)京都文化博物館編『海を渡って来た人と文化』1989 (注3)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998


- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】   縄文期を巡る話題 00/07/27 - 01945/01945 PFG00017 半月城 RE:Re:縄文人の渡来(旧石器時代) (14) 00/07/27 21:36 01936へのコメント   大三元さん、かまくらさん、吉崎さん、こんばんは。   現代アイヌとクスコ住民のミトコンドリアDNAがほとんど一致したとい う記事の出典は、前の(注1)に示したNHKのTV番組です。   この番組のシナリオは、下記インターネットのサイトで見られます。   http://www.nhk.or.jp/dna/ (第3集) ただ、シナリオは150分割されているので、全部を読むのは容易ではありま せん。   RE:1937 >縄文人について、DNAレベルからいろいろわかってきていて「そうだったん >だア~」とびっくりさせられたり、妙に納得したりしております。(^o^)   まったく同感です。アイヌとアンデス山脈に住む人が、限られたデーター の範囲とはいえ、地球上で一番近いなんて奇想天外です。縄文人ないし古モン ゴロイドを世界的なスケールでとらえる発想があらためて必要なようです。そ こでシベリアの細石刃文化との関連ですが、   RE:1941 >最近,北海道の細石刃文化例えば千歳市の柏台遺跡では年代測定の結果2万年を >越す古さであることが確認されています.バイカルから細石刃文化がやってきた >とすると年代の関係はどうなるとお考えですか.   私が引用した京都文化博物館の資料は10年前とあってやや古く、バイカ ル湖周辺というのは視野が狭かったのかもしれません。最近の百科事典ではモ ンゴル型と分類されており、しかも、細石刃は日本の北半のみか、九州からも 発見されているようです。   九州型と北海道型は直接の関係があるのかどうか、これまた奥が深そうで す。デジタル平凡社の大百科事典にはこうあります。  「日本の細石器は分布圏としてはモンゴル型細石器に属し,全国的に発見さ れる。北海道を中心にした細石刃づくりには湧別技法が知られ,九州にはそれ に近い西海技法があり,中間帯には舟底形石核や日本の細石器文化研究の足が かりとなった矢出川遺跡の細石核などがある。   ただ九州地方では複雑な様相を示し,上場(うわば)遺跡ではナイフ形石器, 台形石器,細石刃が共伴することが知られた。ナイフ形石器は先行する時代か ら引き継いだものであり,台形石器は形の上では幾何学形細石器に似たもので ある。さらに細石器類が縄文時代草創期の土器の一群に伴って発見されること も福井洞穴の調査から知られるようになった」   私は縄文もまったくの素人なので、これからおいおい学んでいきたいと思 っています。おわりに、自己紹介がわりに私のホームページを紹介します。     <半月城通信> http://www.han.org/a/half-moon/  「在日韓国人の立場から、韓国・朝鮮に関する歴史上の様々な問題への論考 を公開しているサイト。その内容は、古代史から現代史、人権問題から文芸作 品にまで及ぶ。ダウンロード用に論考の圧縮ファイルも用意されていて便利だ」  (日経ネットナビ『インターネットホームページ2001年版ベストブック マーク』の歴史編より引用)


- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】   縄文期を巡る話題 00/07/29 - 01947/01947 PFG00017 半月城 日本人の遺伝子 (14) 00/07/29 19:26 01944へのコメント   MAKOTO.Sさん、人種という言葉を持ちだすと、議論はとたんにややこしく なります。    RE:1944 > まず「ミトコンドリアDNA配列」が、同じ日本人でも564文字中3文 >字位は違ってしまうとのことですが、そうなると3文字位異なっていても同 >じ人種といえるというある程度の幅があるものということでよいのでしょう >か?   かって、当時の中曽根首相は、日本は単一民族国家であると発言して笑わ れましたが、日本人は民族的、人種的にそう単純ではなさそうです。   そのひとつにアイヌの存在があります。アイヌは、日本が地質的にアジア 大陸から離れて島になる2万年以前に渡来した古モンゴロイドの子孫と考えら れるますが、MAKOTO.Sさんは、アイヌは弥生時代以降に日本列島へ渡来した新 モンゴロイドと人種が違うとお考えでしょうか?   かりに、両者を違う人種だとした場合、両者の混血である北海道や東北に 住む現代日本人や、平安時代に蝦夷とよばれた人たちの人種をどのようにお考 えですか?   混血した人のなかには、かぎりなく血統的に純粋なアイヌに近い人もいれ ば、逆に新モンゴロイドに近い人も存在し、人種による分類は困難ではないで しょうか。   こうしたややこしさは、人種を民族と置きかえても事情はかわりません。 いや、話はさらにややこしくなるかもしれません。   最近、アイヌ民族という言葉は使われなくなりましたが、これはアイヌが 民族の名のもとにひとくくりにできる存在ではないためです。人により混血の 割合がことなるうえに、本人の意識や自覚の問題が加わるので、アイヌ民族と いう線引きは困難です。   それに純粋とされるアイヌも、その中にはいくつもの「民族」的ないし 「部族」的集団が含まれていたと考えられています(注1)。   こうした事情から、最近は多くの人が民族や人種などの用語に慎重になり つつあります。そのうえ、最近の学説では、人類はアフリカに単一の起源をも つという学説が主流になりつつあります。   それによると、各地の原人、北京原人やジャワ原人などはそれぞれ途絶え ててしまい、かわりに現在各地に住む人は20万年前にアフリカから拡散した 同じ祖先をもつ単一の集団ということになっているようです(注2)。   そして、肌の色や形態など「人種」がことなるようにみえるのは、単にそ の土地に適応した結果にすぎないというものです。   このような背景からか、宝来教授は人種や民族という言葉を避け、人類集 団という言葉を使用しているようです。   人類集団における「ミトコンドリアDNA配列」の違いですが、宝来教授 の研究の一部を要約したサイトがありますので、それを紹介することにします (注3)。        --------------------   本土日本人,アイヌ,琉球人,韓国人,中国人を含む東アジアの5人類集 団について,ミトコンドリアDNAのDループ領域の塩基配列を分析した.293人 の東アジア人について,482 bpの塩基配列を比較したところ,207の異なる配 列のタイプが見られた.   これらのうち189タイプは,それぞれの集団に特有のものであり,残りの 18タイプは集団間に共通して見られた.   共通のタイプのうち8タイプは本土日本人と韓国人とに共通して見られ, 比較した中での最大数であった.系統樹分析によって,東アジア人は少なくと も18個の単系統クラスターに分類されるが,5集団からの系統は各クラスター 中に完全に混じりあっていた.   各クラスターの中で最大数の個体が由来した集団を基にして,18のうち14 のクラスターに関してはその特異性を割りあてることが可能であった.   注目すべきは,琉球人やアイヌでは大陸由来の特異性をもつ割合は 20% 以下であるのに対し,本土日本人の 50% が,中国人や韓国人が多数を占める 大陸由来の特異性をもっていることである.   アフリカ人,ヨーロッパ人およびアメリカ先住民を含む現代人全体の系統 分析からも,本土日本人と韓国人は遺伝的に最も近い関係にあることが明らか になった.これらの結果は,現代日本人の起源についての縄文・弥生混血説と 合い入れるものである.   さらに本土日本人の遺伝子プールの約 65% は,弥生時代以後に大陸から もたらされた遺伝子に由来していることが示唆された.        -------------------- (注1)原尻英樹『世界の民族』放送大学教育振興会,1998 (注2)NHK-TV「日本人はどこから来たか」1999.5.4    http://www.nhk.or.jp/dna/ (第3集) (注3)「伽耶ページ」http://www.din.or.jp/~tommy/Kaya.htm    および、http://www.nig.ac.jp/labs/AR97ja/index.html   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FREKI MES(14):【縄文時代の部屋】   縄文期を巡る話題 00/07/29 - 01946/01947 PFG00017 半月城 東西の交流 (14) 00/07/29 19:25 01944へのコメント   MAKOTO.Sさん、こんばんは。RE:1944, > フォッサマグナ(糸魚川-静岡構造線)によって陸路での移動が困難であ >ったとのことですが、旧石器時代においては瀬戸内技法と呼ばれる技法が関 >東まで持ち込まれていますし、北海道・有珠10遺跡から沖縄地方産のイモガ >イ・ゴホウラガイの腕輪が発見されているという事実についてはどのように >お考えでしょうか。   こうした交流は、ほとんどが海路によって細々となされたのではないかと 思います。縄文時代に街道はもちろん存在しなかったわけですが、けもの道を たどって東西の交流をしたとは考えにくいところです。   江戸時代においてすら、東西の交通は陸路より海路が便利な場合が多かっ たようです。米や昆布を北前船や菱垣廻船で運んでいたのは、陸路より安くて 早かったからです。また、わりあい平坦な西日本においてすら、朝鮮通信使は 瀬戸内海を航行しました。   奈良時代にさかのぼると、千葉県の中南部は上総とよばれましたが、これ は北部の下総より都に近かったためです。すなわち、千葉へわたるには海路が 使われました。   このように歴史時代ですら、陸路より海路が便利でした。ましてや旧石器 時代、原野をかきわけ、けもの道をさがし東西の交流をしたとは考えられない のではないでしょうか。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


#8469/8469 日本史ボード コメント数(0) ★タイトル (SPM07550) 00/ 7/31 22: 2 ( 45) 古代史】陸稲による稲作         半月城 ★内容   attilaさん、こんばんは。RE:8462 > 現在でも、南西諸島から南九州で栽培される品種にはジャワニカ >(熱帯ジャポニカ)の混交種が見られますので、稲は南or南西からも >来たことは植物学の分野では既定のことです。 > 河中河北、朝鮮半島はジャワニカ(熱帯ジャポニカ)の栽培不適です。   河中・河北や朝鮮半島で熱帯ジャポニカ米が栽培に適さないのは、単に気 温が低いためとお考えでしょうか?   attilaさんが引用されたと思われる朝日新聞の記事に、青森県の高 樋遺跡からも熱帯ジャポニカの炭化米が発見されたとありましたが(注)、こ れをどう解釈されるのでしょうか? 気温なら、青森と河中や韓国はそれほど 変わらないと思いますが。   熱帯ジャポニカの、陸稲による稲作はそれほどの技術もいらず簡単なので、 縄文時代にはじまっていたのではないかと思っているのですが、報道記事をみ るかぎり、縄文時代の明確な遺跡はまだ発見されていないようです。 (注)登呂遺跡からも熱帯ジャポニカ米 弥生時代に陸稲栽培か (2000.7.29)    http://www.asahi.com/0729/past/pnational29007.html  弥生時代後期(紀元前1―3世紀)の登呂遺跡(静岡市)から出土した炭化 米が、東南アジアの焼き畑で栽培されている陸稲の「熱帯ジャポニカ米」であ ることが、静岡大農学部の佐藤洋一郎助教授(植物遺伝学)によるDNA分析 で分かった。日本の稲作は、縄文末期から弥生初期にかけて中国大陸から水田 耕作の技術と共に水稲が伝わったのが始まりとされるが、最近は弥生期のほか の遺跡でも熱帯ジャポニカ米が確認されている。  大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は「弥生の稲作が、水田だけでなく陸 稲による畑作でも行われていた可能性が高い。縄文時代の稲作は水田跡が見つ からないために否定されてきたが、畑作という形態だったなら可能性があり、 縄文稲作説にもつながる」と話している。  登呂遺跡の発掘調査をしている静岡市教委によると、炭化米は住居群を囲っ ていたと考えられる溝跡から、20粒ほど出土した。佐藤助教授がこのうち1 粒について遺伝子の塩基配列を調べたところ、水田栽培に適した温帯ジャポニ カ米ではなく、陸稲の熱帯ジャポニカ米と判明した。  佐藤助教授は一昨年6月に、弥生中期の高樋遺跡(青森県田舎館村)から出 土した炭化米が熱帯ジャポニカ米であることを初めて確認。その後も、弥生時 代の4つの遺跡でも陸稲の炭化米を確認した。分析結果は考古学の学会などで も発表され、水稲のみとされてきた弥生時代の稲作の定説を覆す説として、学 者間で論議を呼んでいる。 (以下略)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


01961/01961 PFG00017 半月城 アイヌと琉球人 (14) 00/08/04 23:45 01950へのコメント(一部訂正)   大三元さん、RE:1950 > ひがめかも知れませんが、NHKの取り上げ方って、一文字しか違わない >アイヌ:琉球を遠いもののように書き、二文字違いのペルー人とアイヌ人を >とんでもなく近いもののように書いているような気がします。   早傘さんからもコメントがありましたが、ひょっとすると私はNHKのセ ンセーショナルな映像表現に幻惑されたのかもしれません。しかしながら、宝 来教授は現代アイヌと琉球人の関係をかなり遠いものとみているのも事実です。   アイヌ(51人)と琉球人(50人)では、大三元さんが書かれたように 「最も近い物(者)で一つの塩基が違っている」ようですが、両者の塩基配列 の違いは平均すると一つどころか、かなり大きいのかもしれません。   同じ本土日本人(62人)でも早傘さんの引用 (#1955)によれば、塩基配 列は平均で7文字くらいちがっているので、アイヌと琉球人とでは平均でそれ 以上ちがうのかもしれません。   この違いにくらべると、アイヌとアンデスの住人、あるいは両者の祖先で ある縄文人とアンデスミイラは、NHKがいうようにかなり近い関係なのかも しれません。   NHKは両者で一番近いものを選んだのでしょうが、現代アイヌのひとり と、58体のアンデスミイラのうち12体(=ラウルさんと同じ配列)との塩 基配列の違いはたった2文字とのことでした。   そのうえNHKは、世界中のサンプル「27,000人のうち、ラウルさんに最 も近いのが、縄文を受け継ぐアイヌ」と解説していました。   こうした背景から、私は「いずれにせよ、両者(アイヌと沖縄)のDNA配 列における距離が、アイヌとクスコの住民より遠いとは、事実は小説より奇な り」と書きました。勘違いしているとは思えません。   もちろん、これは限られた少数のデーターなので、研究の進展いかんでは 違った結論がでる可能性があることはいうまでもありません。   ともかく、宝来教授の図でアイヌは中国人や韓国人とは実線でつながって も、琉球人とは実線でつながらないくらい遠いようです。   こうして同氏は「少なくとも 12,000年前、縄文時代の最初の頃からアイ ヌと琉球人の祖先は別々の集団として存在していたと考えられる」と明言し、 元来、両者は別々の集団だった可能性があると述べました(注)。  「少なくとも」12,000年前以前に分かれたとなると、縄文・アイヌの祖先が アンデスのインディオと分かれたのもおそらく 12,000年前以前なので、どち らが時期的に早かったのか即断はできないものと思われます。いずれにせよ、 アイヌと琉球人の遺伝距離はかなり遠いようです。 (注)宝来聡「ジャワ原人は日本人の遠い先祖ではなかった」   『日本人のルーツ、ここまでわかった』洋泉社MOOK,1998   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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