天皇の起源
「歴史会議室」(http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain)#1970
2000/05/28 半月城
今度は森総理の「国体」発言が問題になっているようです。戦前であれ、
戦後であれ「国体」問題には天皇が関係するのはいうまでもありません。
そこで今回は、天皇をすこしでも理解するために、神話に彩られた天皇の
起源をめぐる話題について書きたいと思います。
天皇の起源については、天皇=現人(あらひと)神の信仰が否定された戦
後になってやっと議論が可能になりましたが、天皇の起源を韓国の加耶や百済
に求める人は、江上波夫氏をはじめとして今でもあとをたたないようです。
RE:#1856
> このへん井沢元彦は「百済は天皇家のノルマンディ
>ではないか?」(註:旧イギリス王家の出が、フラン
>スのノルマンディだったことを例にしている)。また
>彼は、「賛否いずれにせよ、それを確かめるには天皇
>陵を発掘することだ」と主張している。まことにもっ
>ともだと言えよう。
おっしゃるとおり、天皇家の起源を確かめるには天皇陵を発掘するのが一
番だと思います。ただ天皇陵といっても、きちんと天皇の陵墓と確定している
のはきわめてわずかで、天皇陵に指定された古墳の大部分は学問的裏付けがと
ぼしく、多くは皇国史観確立のため政策的に指定されたものでした。
天皇陵を管理する宮内庁は、陵の発掘はおろか外観の調査すら許可せず、
戦前に適当になされた神武天皇陵、綏靖天皇陵・・・などの指定をそのまま踏
襲し、それに対する批判にはまったく耳をかさないようです。
こうしたかたくなな姿勢がかえって憶測を呼び、事情通のあいだで「天皇
陵を発掘すると、天皇家と朝鮮半島との関係が明らかになるから、反対してい
るのだ」とか、「天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来したことの証拠が出てくる
恐れがあるからだ」と、まことしとやかにささやかれているようです(注1)
これには一理あります。過去、天皇陵から朝鮮半島とのかかわりを示す証
拠が実際に出たようでした。
1872年、仁徳陵古墳が水害でくずれて内部が露出しましたが、そこか
ら出土されたとされる銅鏡や環頭太刀などがアメリカのボストン美術館に所蔵
されました。
この鏡は、同心円上に丸い突起が七つあることから七子(ななつこの)鏡
とよばれますが、これが民族派の懸念(?)どおり、百済武寧王陵の宜子孫獣
帯鏡とそっくりなことが韓国でのコンピューター画像解析により最近判明しま
した。
銅鏡の大きさはもちろんのこと、白虎や青龍など四神の紋様があることや、
全体の姿かたちなど瓜二つです。同志社大の森浩一教授によれば、それらはい
わば兄弟鏡で、日本か百済で作られたのだろうとのことでした(注2)。
この史実に関係ありそうな記述としては日本書紀があります。神功皇后の
記事にはこう書かれました。
「52年、秋9月10日、久テイらが、千熊長彦に従ってやってきた。そし
て七枝刀(ななさやのたち)一口(ひとふり)、七子鏡一面、それにさまざま
の重宝を献上した」
この記事は、もちろんそのまま信用するわけにはいきませんが、ある程度
は何らかの史実を反映しているようです。たとえば、百済から贈られた七支刀
も実際に存在し、国宝として石上神宮に保管されています。不思議な形をした
この刀は、もちろん百済製です(注3)。
同様に、七子鏡のほうも中国との関連は薄いので、かりにこの鏡が百済で
製作され倭に贈られ、最終的に仁徳陵古墳に埋葬されたとしても、とくに不自
然な点はないようです。
さらに、同古墳から出たとされるもう一つの遺物の環頭太刀について記す
と、これは武寧王陵の遺物に比べれば装飾的にシンプルですが、ともかく似て
おり、森氏によれば、両者はいわば叔父・甥くらいの関係になるそうです。
一方、仁徳陵古墳の近くには渡来氏族の船氏や飛鳥部氏など有力な豪族が
住んでいたことが知られており、同古墳周辺は百済の影響が絶大だったようで
す。
その名残は現在でも地名などに残り、百済駅、百済大橋、南百済小学校な
どが現存します。おまけに百済姓を名のる人もいるくらいです。
仁徳陵古墳の主が仁徳大王かどうかは別にして、ともかく天皇の陵墓と考
えられているので、当時、倭の天皇(大王)は百済王と特別な関係にあったよ
うです。井沢元彦がいうように、あるいは天皇の祖先は百済からきたとしても
荒唐無稽ではないようです。
もともと日本と韓国は、百済以前「同種」であったようですが、北畠親房
によれば、その記録は平安時代に燃やされたとのことでした(注1)。
<「太平記」の時代、後醍醐天皇の側近・北畠親房の書いた『神皇正統記』
には「昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代に焼き
すてられしなり」と書いてある>
北畠親房の記述が正しいとすれば、平安時代初期、韓国との関係を否定す
る歴史の隠蔽が大々的に行われたようです。しかし、隠蔽が桓武天皇の代にな
されたとはすこし意外で、私は疑問すらおぼえます。
というのも、桓武天皇自身「朕の外戚は百済なり」と公言していたので、
むしろ百済との関係を肯定的にとらえていたのではないかと思われるからです。
実際、信仰面でいうと、このころの皇室は「韓神(からのかみ)」も崇拝の中
心にすえていました。
この記録までは燃やされなかったようで、韓神のことは『広辞苑』にまで
残されました。
から‐の‐かみ【韓神】
(朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に祀られていた神。大己貴
(オオナムチ)・少彦名(スクナビコナ)二神をさすという。
一般にある民族が外来の神を受け入れるというのは、相当な抵抗があるも
のです。倭でも仏教を受け入れるかどうかをめぐって内乱が起きたくらいです
が、天皇家が韓神を受け入れるのにほとんど困難はなかったようでした。
もともと、神社や神宮は韓国や中国からの借用であっただけに当然かもし
れません。井沢元彦流にいえば、韓神は外来の神というより、天皇家の出身地
そのものの神だったのかもしれません。それに加えて、当時、韓神は倭にすで
に深く浸透していたようでした。
韓神を祀った園韓神社は、もともと藤原氏の創建になるものとされていま
すが、祭神の大己貴、別名、大国主(オオクニヌシ)命などは外来の神という
意識すら薄くなっていたのかもしれません。オオクニヌシ、少彦名はいうまで
もなく、新羅から出雲に渡ったとされる素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子孫
とされています。
平安時代、この韓神とともに園神(そののかみ)も一緒に祀られていたよ
うでした。この神も渡来の神だったようです。井上正昭教授によれば「韓神と
は百済系の神、園神とは新羅系の神ということになる。ともにわが国に渡来し
てきた、いわゆる今来(いまき)の神であった」とされました(注4)。
天皇家がこのような過去をもつと理解したとき、極右の民族派は天皇中心
の「国体」をどのように理解するのか興味のあるところです。
(注1)井沢元彦『逆説の日本史1』小学館文庫、1999
(注2)http://www.kbs.co.kr/history/review_txt/990515.txt(韓国語)、
機械翻訳はhttp://trans.allkorea.co.jp/cgi-bin/unisoft_tg.cgi?URLNAME=
www.kbs.co.kr/history/review.htm、99.5.15「台本」青銅鏡の秘密 日本天皇
は百済人か。
(注3)半月城通信 http://www.han.org/a/half-moon/hm067.html#No.439
(注4)半月城通信 http://www.han.org/a/half-moon/hm041.html#No.318
文書名:皇国史観の残渣
[aml 18082] Date: Sat, 17 Jun 2000
RE:[aml:18026]、コメントありがとうございます。
>半月城さんが、仁徳陵古墳ということを「 」をつけずに用いておられる
>のは少なくとも、古代史についての歴史認識からいって、かなり迂闊では
>ないかと思います。
>皇国史観を除いて通常は、大山古墳と呼んでいると思います。
「仁徳陵古墳」という言葉を最初に用いた学者をご存じでしょうか? それ
は「仁徳陵」という名称に異議をとなえた森浩一教授です。そのきっかけを同
氏はこう語りました(注1)。
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(仁徳陵などと)従来のような陵墓名を使うことにためらいを覚え、ささや
かな実践として“仁徳陵古墳”という遺跡名を工夫した。それは「宮内庁が仁
徳陵に指定している古墳」という現状をのべたものであり、「本来の仁徳陵か
どうかは別、未証明」というおもいを言外にあらわそうとした。
「仁徳陵古墳」とか「雄略陵古墳」という名称は、幸い学会の一部でも使う
人があらわれ、なによりも高校の教科書もその表現に従いだした。
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仁徳陵古墳という名称はこうして普及しだしました。しかし、森氏はさら
に「仁徳陵古墳」のなかに仁徳とか陵とか、学問的にあいまいさが残る言葉が
あるのをきらって、最近はもっぱら大山古墳の名称を使っているようです。
当初、私はこうした事情を考慮して教科書風に「大山古墳(仁徳陵古墳)」
と書こうかなとも思ったのですが、学術論文でもないので簡潔さを重視し、あ
えて仁徳陵古墳とカッコなしで用いました。この用法は書き込みの趣旨からし
て許容範囲内ではないかと思っていますが、いかがでしょうか。
>それから、井沢元彦なんていう、からっぽのいうことまでいくらか頼りに
>するなどは、ほとんど噴飯ものです。
>右翼言論人だからだめだなどというつもりはありませんが、井沢なんか、
>右翼思想どころか、まるで勉強していないですね。勉強もせず、研究も
>せずに思いつきでホラ吹いているような手合いです。
>「逆説の日本史」なんか、西尾幹二と五十歩百歩です。
西尾幹二や井沢元彦の発言は、私にとってときには重宝です。私の議論相
手は皇国史観論者や自衛隊幹部、はてはレイシストなど多士済々です。そうし
た相手と議論しようと思ったら、ときには相手に波長を合わせる必要がありま
す。というわけで、私は藤岡信勝の言なども活用しています。
> とりわけ古代史で朝鮮との関係を考えるときにひとつ困ったことがあって、
>そこに強烈なナショナリズムが入り込んでくることです。
>あるがままに見つめるということは、容易なことではないと思います。
「あるがまま」が何であり、何が事実なのかが判然としないのが古代史だと
思います。今では、戦前の皇国史観をちらつかせている森首相もさすがに世論
の袋叩きにあいましたが、アカデミックな歴史学者もどれだけ皇国史観から脱
却できたのか、その判断は数十年後でないとわからないのではないかと思いま
す。
その例として井上光貞氏をあげることができるようです。1960年代、
皇国史観をそれなりに打破した旗手ともいえる当時の井上光貞氏も、今日の眼
でみると皇国史観の残渣がみてとれるようです。それを李進煕氏はこう批判し
ました(注2)。
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問題の「任那日本府」説
四世紀の日本が「謎の世紀」といわれて久しい。それは『日本書紀』や
『古事記』の記事からは四世紀の日本列島のことがほとんどわからないことに
由来する。
ところが、二十年ほど前まで、ヤマト政権が四世紀後半に朝鮮に出兵し、
加耶地方を二世紀にわたって支配したのは「動かない史実」だとみなされてい
た。そうして高校の『日本史教科書』でも、「出兵と支配」が断定調で書かれ
たのだった。
「出兵と支配」が通説になると、その目的と結果について説明しなければな
らないが、古代史家や考古学者は、先進技術を身につけた人びとと農耕具や武
器の素材である鉄の地金(鉄てい)を略奪するのが目的だったと説明した。
そうしてその地金をヤマト政権が独占することによって、他の豪族よりも
武力を強めたばかりか、豊富な地金で農耕具をつくり、先進技術者を使って河
内地方を開拓して生産力を決定的に高めたと解釈した。
たとえば日本古代史研究をリードした井上光貞(東京大学教授)は196
0年に『日本国家の起源』(岩波新書)を著し、そのなかで、
「朝鮮出兵は、朝鮮の先進文化地帯の技術とともに豊富な労働力をもたらし
た。いくつかの伝説の伝えているように、このような灌漑事業も、その技術や
労働力によって可能になった。
それは大和朝廷の農業生産力をたかめ、国家の直領地たる屯倉(みやけ)
や、諸豪族の田荘を集中的に発達させただろう。それが大和朝廷の権力を、地
方諸国家と質的に異なった高さのものとした。
朝鮮出兵は大和朝廷の鉄製武器を豊富にしたばかりでなく、その灌漑事業
を飛躍的に発達させ、両々あいまって国家権力の確立に役立ったのである」
と説いた。こうした解釈は通説にもとづいて、高校の『日本史教科書』では
「仁徳天皇陵」とピラミッドの平面図を対比させ、強大なヤマト政権像を印象
づけたのだった。
しかし、冷静に考えればいくつかの疑問が生じる。・・・
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井上光貞の説は、60年当時は順当な多数説だったようですが、今ではさ
すがに井上氏のように「国家」を口にする人は少ないようで、せいぜいのとこ
ろ豪族「連合」として大和政権や河内王朝を理解しているようです。
こうした認識の変化はもちろん歴史学の発展によるものですが、今日でも
同じように、あるがままに見つめているつもりの多数説や「常識的な」見方は、
数十年後には誤りとされるかもしれません。
そうした激変をもたらす可能性があるのは、未発掘の「天皇陵古墳」や韓
国の遺跡などではないかと思います。
なお、ご希望なら、議論の続きはML[zainichi]あたりでのんびり行いた
いと思いますが、いかがでしょうか。
(注1)森浩一『考古学と古代日本』中央公論社、1994
(注2)李進煕『新版 日本文化と朝鮮』日本放送出版協会、1995
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 00/06/11 -
02269/02269 PFG00017 半月城 出雲の渡来人
( 9) 00/06/11 23:04 02267へのコメント
>ふ~むそうすると上古三十六丈もの超高層木像建築の出雲大社をして海に向け
>て階段を延ばしていたのは、
>朝鮮半島からの海路、灯台代わりの出雲大社を見て海岸にのびた階段を見せて
>「ようこそお待ちしていました」と言う上古からの日本の権力者の意識の現れ
>であったのかも知れませんねぇ。
私はかならずしも朝鮮のみを意識して海岸に建てられたのではないと思い
ます。出雲と交流があったのは、新羅、加羅のみならず、越の国(北陸)や筑
紫など環日本海のスケールで広がっていました。
そのためか出雲大社は海を重視し、日本海にのぞんで西向きにたてられた
のではないかと思います。そうした交流の深さを示すかのように、出雲には筑
紫社や韓竈(からかまど)神社、韓国(からくに)伊大テ神社などがたてられ
ました。
そうしたつながりが『出雲国風土記』の国引き神話に反映したとみること
ができそうです。出雲は国が狭いので、新羅などであまった土地を引いて来て
国作りをしたという神話は何とも壮大です。
朝鮮半島とのつながりは『出雲風土記』のみならず『日本書紀』垂仁条に
も記されました(注1)。
<ミマキ(崇神)天皇の代に、額に角のある人が船に乗って、越(こし)国
の笥飯(けひ)浦(敦賀気比神社)に泊まった。それでそこを角鹿(つぬが)
と名づけた。
「どこの国の人か」と問うと、「大加羅国王の子で、名はツヌガアラシト、
またの名はウシキアリシチ干岐という・・・北の海から廻って、出雲の国を経
てここについた」>
この話はもちろんこのまま信じるわけにいかないのですが、それでも加羅
などから集団で渡来したことだけはたしかなようです。物語でツヌガアラシト
は出雲には立ち寄っただけでしたが、かれの出身地である加羅と出雲は、ひん
ぱんな往来があったようでした。
とくに加羅の前身である弁韓は鉄の産地として名高く、魏志東夷伝の弁辰
条にも「国、鉄を出ず。韓、ワイ、倭、皆従って之を取る」と記されたくらい
日本との相互交流がふかい国でした。
この時代、鉄は鉄剣など強力な武器や、画期的な農耕具として重要である
ばかりでなく、貨幣としての役割もはたしました。時代区分上も鉄器時代とい
う用語が生まれるも妥当といえます。さらに、鉄は倭と朝鮮半島との交流を考
えるうえでのキーワードになりそうです。
その際に意外な事実を見落とせません。古代の製鉄はたいへんな森林破壊
だったようで、鉄10トンを作るのに、山林1町歩の木が必要だったようでし
た。この事実は意外な影響をもたらすかもしれません。
司馬遼太郎は、朝鮮半島の製鉄技術者は故国での森林を食いつくし、あら
たな森林を求めて出雲にやって来たのではないかと考えているようです。興味
ある話なので、長くなりますがそれを紹介します(注2)。
--------------------
スサノオの故地だったという辰韓(新羅)の地について(木炭銑工場の)
並河氏はそれを訪ねて先年、慶州に行ったという。
「慶州の浜側です。そこに砂鉄をとっている所がありまして見学しましたが、
ここ(出雲)と品質がかわらないですね」
ともいわれた。
この話は興味深かった。
慶州に近い迎日湾からの水路が出雲にもっとも近いのである。水野祐氏(早
大)の説のように、スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団
であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。
その慶州の浜の砂鉄は、この(八岐大蛇伝説の)鳥上の砂鉄と同質である。
-チタンやリン、硫黄などがすくない-という。
かれらが自分の故地と同質の砂鉄を求めて鳥上山を見つけたのも、あるいは
当然だったかもしれない。
かれらが移動してきた理由は、ひょっとすると韓国(からくに)の採鉄場付
近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。
『日本書紀』では、かの地の曽尸茂梨(ソシモリ)にいた素戔嗚尊(スサノ
オノミコト)が、卒然として「此の地、吾(われ)居ることを欲せず」といっ
て、出雲にくるのである。
水野氏の説に妄想を加えることをゆるされるとすれば、木がなくなってしま
ったということが想像できるように思える。
17,8世紀のイギリスの例でもそうだが、木炭による製鉄業者はつねに森
林のそばへそばへと移動する。一つのその森林を食いつくしてしまうと他の森
林へ移動し、たとえばウェールズ地方のディーンの森などは18世紀には丸裸
に近くなったという。
古代、鍛治(かぬち)とよばれた製鉄業者も、同様の運動律をもっている。
韓(から)鍛治の出雲の森林地帯への集団渡来も、そういう引力にひかれての、
ほとんど自動的といえるような動きだったにちがいない。
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司馬遼太郎の想像が正しいとすれば、豊かな森林資源などを求めて出雲に
渡来した集団は、故地の神であるスサノオや、日本書紀ではその子とされるオ
オクニヌシをあがめて出雲大社に祀ったのかもしれません。
科学技術が未熟な古代では製鉄はかなりむずかしく、100%の成功はお
ぼつかなかったようで、しぜん技術者は神にたよったようでした。そのため、
彼らにとって神や神社は想像以上に重要な存在だったようでした。
そうした精神世界の中心にあった出雲大社ですが、中世から近世初期にか
けて祭神はオオクニヌシからスサノオに変更されたようで注目されます(注3)。
祭神が子から親に変わり、さらにまた子にもどるとはめまぐるしいものです。
(注1)山田宗睦訳『日本書紀(上)』教育社、1992
(注2)司馬遼太郎「鉄と古代 砂鉄のみち」『街道をゆく七』
朝日新聞社,1976
(注3)島根県教育委員会『古代出雲文化展』朝日新聞社,1997
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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