半月城通信
No. 70
2000.5.7

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 無主地(竹島=独島)の編入
  2. 長久保赤水図のいろいろ
  3. 江戸幕府の竹島(独島)認識
  4. 朝鮮王朝の竹島(独島)記録
  5. 英文「日本国憲法」は素晴らしい
  6. 憲法と人権
  7. RE:英語を公用語に
  8. 日本文化とは?


無主地の編入 hangetsu_joh 2000年4月23日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#580   そろそろ、竹島(独島)問題の論議も枝葉末節なことに移りつつあるよう です。   くにたかさん、#563 > いえ、竹島(鬱陵島)は放棄しました。この(大谷家)古文書 >には松島(竹島)に関する事も書いており、地図も在ります。そ >の現竹島の実効支配を最初にしたのは日本であり、大谷家なのです。   くにたかさんが大谷家文書に執着するのは、同家などが幕府から渡海免許 を受け、竹島(鬱陵島)とともに松島(竹島=独島)を一時的に利用したこと を「実効支配」であったとして、それを現時点における領有の根拠のひとつに しているからでしょうか。   たしかに、日本は元禄期の「竹島一件」以前、竹島(鬱陵島)の行き帰り に松島(竹島=独島)をある程度利用していたことはまちがいないようです。 しかし、200年も前の古い実績をタイムトンネルさながら現在の領有問題に 直結するというのはどんなもんでしょうか。   大谷家などの限定された松島(竹島=独島)利用も長続きせず、日朝間の 紛争「竹島一件」を機に日本で竹島(鬱陵島)が放棄されるや、同島もほとん ど放棄されました。しかも、何度も書いたように、明治時代になって首相格の 太政官までが公式に同島の放棄を確認しました。   この時点で、過去のささやかな「実効支配」はすべて水泡に帰したのでは ないでしょうか? それを明治政府はよく理解していたとみえ、竹島(独島) 領有の閣議決定に際し、200年も前の「実効支配」の実績はおくびにも出さ なかったようでした。かわりに「無主地の先占」論法を建前に領有を決定した ようでした。   しかし、明治政府のホンネは、私が今まで記したように、竹島(独島)は 「無主地」どころか朝鮮領と考えていたようですが、それにもかかわらず日露 戦争勝利という軍事的必要性から竹島(独島)を編入し、同島を軍事的に占領 しました。   結局、日本の竹島(独島)編入は、歴史的帰結からではなく帝国主義的配 慮からであったといえます。


赤水図のいろいろ hangetsu_joh 2000年4月23日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#583   長久保赤水の地図で竹島(独島)がどのように着色されているのかは、領 有意識と関係するだけに興味あるところです。 > クニタカさんが東大の教師に照会したところによると、この >「色を塗っていない」ということ自体がはっきり確認できない。 >(色を塗っているのも塗っていないのもあるとのことでした。)   諸資料をもとに、赤水図を整理すると下記のようになります。 1773  日本輿地路程全図 1775  新刻日本輿地路程全図     着色(半月城確認) 1778.2 (地図発刊の官許を得る) 1778  日本路程輿地図        無着色(原氏確認) 1779  改正日本輿地路程全図、初刻? 無着色(クリリンさん確認) 1791  同上         二刻? 1811  同上         三刻? 1883.10 新刻日本輿地路程全図、四刻 無着色(半月城確認)   この事実から推測すると、竹島(独島)が着色されているのは初期の赤水 図だけのようです。その1775年版では、竹島(独島)の色は対馬や朝鮮の 彩色とは違う色でした。この地図では、藩単位以下でこまかく色別けされてい ますが、この地図からは、もちろん領有意識をうかがい知ることはできません。   その後、官許を得た後の改正図では、どうやら竹島(独島)は朝鮮ととも に無着色のようです。なお、上記で私が確認した地図は、京文社から発行され た復刻版によりました。   結局、官許後の赤水図では純官撰地図とともに竹島(独島)は日本領では なかったとみるべきではないでしょうか? そして、これが江戸幕府の見方で はないでしょうか?


江戸幕府の認識(一部訂正) hangetsu_joh Yahoo!掲示板 2000年5月1日 ホーム > 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:竹島問題を考える。   竹島一件以後も江戸幕府が竹島(独島)の領有意識を持っていたとする、 ひたちなか太郎さんの唯一の根拠は会津屋事件の判決文と見受けられます。 > 会津屋八右衛門の判決は重要なのです。判決の中で、 >幕府は松島の領有については全く疑っていません。幕府 >が松島を自国領と見なしていたことは確実なのです。   判決文にある「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」という問題のく だりですが、これは、密航者側の言い逃れをそのまま記録したものにすぎない ので、これから判決が松島(竹島=独島)渡航は合法と判断したと解釈するの は早計です。   そもそも浜田藩、のちの鳥取藩に松島・竹島は自藩領であるという意識は なかったとみるべきです。その根拠ですが、江戸時代、幕府は各藩に地図を作 製させ、それを集大成し国絵図としてまとめましたが、浜田藩はもちろん、い ずれの藩も松島・竹島を自国領に編入しませんでした。   もし、浜田藩が松島(竹島=独島)だけでも自国領と考えていたなら、そ れは官撰図の国絵図に当然描かれていたことでしょう。また、両島は幕府の直 轄地でもなかったので、各藩も幕府も竹島一件以降は、松島・竹島の領有意識 をもっていなかったといえます。   さらにいうならば、前に記したように竹島一件以前であっても鳥取藩など は竹島(鬱陵島)の領有意識すらもっていなかったことが、幕府の外交文書を 集めた『通航一覧』から明らかです。   同時に、松島・竹島は一対との認識が強かったので、同藩は竹島一件以前 から竹島とともに松島の領有意識もなかったと考えられます。   こうした背景から、幕府公認の赤水図に描かれている「一対」の松島・竹 島は、その色分けのとおり日本領でないと考えるのが妥当といえます。 (注)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992  (本記事は下記のホームページ「半月城通信」に転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮王朝の竹島(独島)記録 hangetsu_joh Yahoo!掲示板 2000年5月3日 ホーム > 地域情報 > 世界の国と地域 > 大韓民国:竹島問題を考える。   ひたちなか太郎さん、RE:577 > 前々から、ぼくやクニタカさんが言っているように、 >朝鮮人が竹島に行ったという記録はありません。   江戸幕府と朝鮮王朝がともに松島、竹島を朝鮮のものであると認識してい るのであれば、領有問題において朝鮮人が竹島(独島)に行った記録があるか ないかはさしたる問題ではないと思います。   それでもひたちなか太郎さんは、この些末なことにこだわり続けておられ るようなので、数百枚の地図以外にどんな記録があるのか関連するものを紹介 したいと思います。 1.可支島   李朝の王朝年代記『正宗実録』に可支島の名前が登場します。名前の由来 はアシカをさす可支魚のようです。   鬱陵島からこの島へは3日で往復するとされており、これに相当する島は 竹島(独島)以外には考えられないようです。 2.三峯島   次に三峯島ですが、これは李朝9代王・成宗のときにナゾの島でした。こ の島に税や軍役を逃れるため流民が移り住んでいるという報告が朝鮮王朝に入 り問題になりました。王は、その真偽を確かめるため調査隊や捜討隊を何度か 派遣しました。   しかし、調査隊の多くは悪天候にはばまれ目的を果たすことができません でしたが、金自周の調査隊だけ島を確認したという報告を行いました。李朝 『成宗実録』にこう記されました。  「25日に島の西方7,8里(2.8-3.2km)に到着し停泊して観察しました。 島の北側に三つの岩が並び立ち、次には小島、次には巌石が並び立ち、次には 中島があります。   中島の西側にはまた小島があり、全て海水が通じ流れています。また、海 と島の間には人形のようなものが30ほど並び立っており、不思議に思い恐れ て直には接岸できず、島の形を絵に描いて持ち帰りました」   残念ながら、調査隊が書いた島の絵は発見されていませんが、記述は、ソ ウル大学の慎教授によれば、現在の竹島(独島)に瓜二つなようです(注1)。 その文中にある「人形のようなもの」という記述は、同じ『成宗実録』の別な 条では「有人30余列立」と記録されました。   いずれにしても、このように人影があったらしいという報告にもとづき、 さらに捜討隊が派遣されました。しかし悪天候のためか、問題の島を確認する ことができませんでした。   そのため、ナゾは依然として残されたままですが、報告にある人影という のは人間ではないようです。何しろ3km先の遠くから見ているのですから、人 間を確認するのは無理ではないかと思います。   それはともかく、島の形状をてらしあわせると捜討隊がみたのは竹島(独 島)だったようです。 3.子山島   元禄期(1696)、朝鮮では鬱陵島に空島政策が布かれていましたが、そうし た中、慶尚道の漁民、安龍福が鬱陵島・子山島、さらに日本に行ったことが李 朝『粛宗実録』で明らかにされています。   安は帰国後、備辺司の取調を受けましたが、その時こう供述しました(注 2)。  <(鬱陵)島には多くの倭船が来ており、仲間は近づくのを恐れたが、安龍 福は「ここは我が境域である。何故倭人が越境侵犯しているのか、お前たちを 縛ってやる」と大声で怒鳴りました。   倭人たちは「我々は松島に住んでいる者で、たまたま魚を採りにきている だけで、いま帰ろうとしているところだ」と答えました。   そこで安龍福は「松島は子山島で、そこも我が国のものだ、お前たちはど うしてそこに住んでいるのか」とさらに問いました。   翌朝になって船で子山島に行ってみると、倭人たちは大釜を並べて魚を煮 ているところでした。安龍福は杖でたたいて釜を破り、大声で叱ったので、倭 人たちは釜を片づけて船に乗せ、帆をあげて去っていった>   安の供述は虚実入り乱れており、そのまま信用するわけにはいきません。 たとえば、松島(竹島=独島)は人が住めるような島でないのでつじつまが合 いません。   そうした信憑性はともかく、この後、安は日本漁民の漁に抗議するため 「鬱陵子山両島監税将」と詐称して伯耆へ行き、藩と交渉をおこなったことは 確かなようです。子山はいうまでもなく、于山島をさします。   日本側の資料によると、伯耆藩では安の威儀にすっかりだまされてしまっ たようで、急使を走らせ幕府の老中に口上書を提出するやら、安の馳走役まで 任命するやら対応におおわらわでした。   このとき、安は徳川幕府宛の上訴文を用意したようですが、これがどうな ったのか、記録は埋もれてしまったようです。   結局『粛宗実録』によれば、安は伯耆藩の「二つの島はすでに朝鮮の領 土」という言質に妥協して帰国したようでした。これはあり得るかもしれませ ん。   すでに幕府は、3年前にも安龍福が日本人漁民と衝突した「竹島一件」処 理をめぐって、この年(1696),竹島(鬱陵島)への渡航禁止をすでに布告して いました。   この事件を処理する過程で、安龍福の主張する于山島は松島であるという 理解が伯耆藩や幕府に確立したようでした。朝鮮も同様で、その後の文献に于 山島=松島と記録されました。 4.『鬱陵島事績』   竹島一件をきっかけに朝鮮では鬱陵島の備禦策が問題になり、調査官・張 漢相が派遣されました。このとき張が竹島(独島)を確認していることは注目 にあたいします。張は『鬱陵島事績』にこう記しました(注3)。  「(鬱陵島)東側5里(2km)ほどに一つの小さな島がある・・・山に入って 中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三 峯という。   西側を眺めると大関嶺のくねくねした姿が見え、東側を眺めると海の中に 一つの島が見えるがはるかに辰(たつ)方に位置して、その大きさは蔚島の三 分の一未満で(距離は)三百余里(120km)に過ぎない」   このころは望遠鏡がない時代でしたが、肉眼で鬱陵島近辺の竹嶼島から辰 (東南東)の方角に竹島(独島)を確認したことは、あらためて『世宗実録』 の記事の正しさを証明しているようです。   しかも驚異なのは、竹島(独島)までの距離を120kmと推定したことです。 実際の距離は 90kmですが、目測でこのように遠距離の推定が可能でしょう か? よほど航海術にたけていたのか、それともあらかじめ竹島(独島)の位 置に関する予備知識があったのか興味のあるところです。   その一方、張は島までの距離を過大にとったためか、島の大きさを100 倍も大きく見積もってしまいました。目測では仕方ありません。   その後も1714年に竹島(独島)を確認した公式報告がなされました (注2)。江原道御史・趙錫命の報告に「鬱陵之東、島嶼相望、接于倭境」と あり、東方に島をはるかに望み、日本との境界になっているというものでした。 この島は竹島(独島)と解するのが妥当なようです。   このころになると、朝鮮王朝の空島政策も有名無実になり、幕府の『通航 一覧』に記されたように鬱陵島民が日本漁船を銃で追い払うまでになりました。   そうした島民にしてみれば、鬱陵島から竹島(独島)が実際に見えるので、 竹島(独島)へ行き、時には漁をしたであろうことは想像にかたくありません。 (注1)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559)1997 (注2)内藤正中「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」   『韓国江原道と鳥取県』富士書店 (0857-23-7271) 1999 (注3)宋炳基「朝鮮後期の鬱陵島経営」   鳥取女子短期大学北東アジア文化総合研究所(翻訳出版),1999  (本記事は下記のホームページ「半月城通信」に転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/


文書名:英文「日本国憲法」は素晴らしい! [aml 17601] Date: Fri, 05 May 2000   半月城です。憲法施行53周年にちなんで、問答有用会議室 (http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain)に書いた記事を修正し投稿します。        --------------------   私たち在日外国人にとって、日本文の「日本国憲法」は腹立たしいもので す。重点が「国民」におかれ、在日外国人は基本的人権すら保障されていませ ん。   具体的にいうと、第11条にはこう書かれています。  「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保 障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の 国民に与へられる」   基本的人権すらこのありさまなので、他の権利はおして知るべしです(注 1)。ざっと見るとこんな具合です。  「すべて国民は、個人として尊重される・・・」「すべて国民は、法の下に 平等であって、人種、信条、性別・・・」「すべて国民は、健康で文化的な最 低限度の生活を営む権利を有する」   これらは単に言葉の表現上の問題ではありませんでした。法律は憲法の精 神にしたがい「国民」のための国民年金法や国民健康保険法、国民金融公庫法 などが制定され、初期にはその対象から当然のごとく「国民」でない在日外国 人は排除されました。   しかしこれはまだ序の口で、はなはだしくは、外国人は「煮て食おうと焼 いて食おうと自由」との固い信念を持った法務官僚が幅を利かせ(注2)、親 子すら引き離すようなむごい外国人行政を強行した時代もありました。   このような外国人の人権すら認めない冷酷な行政の根源は、いうまでもな く日本文の日本国憲法にありました。   しかし不思議なことに、こうした冷淡さは英文「日本国憲法」では事情が 多少違うようです。たとえば、さきの第11条はこう翻訳されました(注3)。 Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.   なんと、英文「日本国憲法」では国民が "The people"とされました。こ れはGHQにも承認された公式の英文ですが、他の該当個所も同様です。ただ 一箇所だけ国民が "Japanese national"と訳されました。それは第10条で、 「日本国民たる要件は法律でこれを定める」の国民だけは "people"とされま せんでした。   それ以外、国民はすべて "The people"とされました。この言葉ですが、 "The people"は、リンカン大統領の名演説 "Government of the people, by the people, for the people" を引くまでもなく、日本では人民と訳されるの が普通です(注4)。   日本国憲法の場合、官僚が慎重に検討したうえで "The people"=国民 と したので、それはかならずしも間違いではないのでしょうが、あまり適切では ないようです。これに関連してアメリカのニューヨーク・タイムスは、浜松の 外国人入店拒否をめぐる記事のなかでこう述べました(注5)。  「1946年、軍事占領下でほとんどがアメリカの官僚により書かれた英語 版の憲法では "all of the people are equal under the law..."とされた。 しかし、"all of the people" は、日本語版の憲法では本質的にすべての日本 人を意味する<コクミン>とされた」   このような米ジャーナリストの指摘があるところをみると、やはり"The people"=国民 は不自然なようで、"The people"は国民のみかすべての居住者 を含むと解するのが妥当なようです。   そうなると、外国人居住者にも基本的人権をはじめ法の下の平等、健康で 文化的な最低限度の生活の保障などが認められることになり、私たち在日外国 人居住者にとって申し分のない条文になります。   そのうえ、さらに日本国憲法には非の打ち所のない平和理念が加わります。 世界に比類なき戦争放棄をうたった第9条は世界的にも注目を集めており、ア メリカではオーバビー氏により「憲法9条を広める会」までつくられました。   そればかりか、昨年、92年ぶりに開かれたハーグ平和市民会議で日本国 憲法は高い評価を受けました。なんと第9条は、次のように「21世紀の平和 と正義を求める基本10原則」の筆頭にかかげられました(注6)。  「各国の議会が日本国憲法にならって、政府の戦争行為を禁じる決議を採択 するように呼びかけていく」   憲法第9条こそ、21世紀の世界的な平和憲法の指針になるものです。そ の平和理念と人権思想に関するかぎり、英文の「日本国憲法」はほんとうに素 晴らしいものです。その一方で、日本文「日本国憲法」はトゲが多すぎます。 (注1)<半月城通信>「憲法と国際条約」  http://www.han.org/a/half-moon/hm002.html#no.16 (注2)池上努『法的地位200の質問』京文社、1965 (注3)http://www.urban.ne.jp/home/nob/econst.html (注4)デジタル日立平凡社『世界大百科事典』 (注5)The New York Times (1999.11.15) 「'Japanese Only' Policy Takes Body Blow in Court」 (注6)井上ひさし『二つの憲法』こまつ座(03-3851-6180),1999


憲法と人権 半月城 問答有用会議室(http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain) #1462 2000/05/06   クマさん、こんばんは。 > そうすると、新しい憲法では「The people」の部分を >どのように日本語で表現すればいいと思いますか?・・・   人権の章に関するかぎり "The people"は世界人権宣言にあるように「す べての人間」とするのがいいのではないでしょうか。その第1条はこう書かれ ました。  「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利に ついて平等である・・・」   この精神はドイツ憲法にみごとに反映されました。しかし惜しいかな日本 国憲法の場合、時期的に世界人権宣言の前年に作成されたためか、あるいはも ともと日本は旧植民地人に対する人権意識が希薄だったせいか、そうした表現 はとられませんでした。   最初、GHQは平等思想にもとづき「外国人は法の平等な保護を受ける」 とする「マッカーサー憲法草案」を日本側に手渡したようでした。   それが協議過程で後退し「すべての自然人は、その日本国民であると否と を問わず、法律の下に平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分もしくは 門閥または国籍により・・・差別せらるることなし」とされました(注)。   しかし、これも日本の官僚にこっぱ微塵にされてしまったようで、結局、 現在のように「すべて国民は・・・」という文言になり、外国人の人権や権利 は跡形もなく消え去ったのでした。   この「国民」という日本文をGHQはどうとらえていたのか興味あるとこ ろです。それにはあえて目をつぶり、日本側から手渡された "The people" と いう表現で満足し、それ以上詮索しようとしなかったのかもしれません。 (注)田中宏『在日外国人』岩波新書、1991


RE:英語を公用語に            半月城 (原題:RE:英文「日本国憲法は素晴らしい」) 問答有用会議室 #1454         2000/05/05   フナずしさんは、英語を公用語にすると、日本がアメリカの植民地にされ る口実になるとお考えですか?   たしかに、日本は外交面などでアメリカべったりのきらいはありますが、 国連の常任理事国をめざすほどの日本が植民地にされる可能性はあるのでしょ うか? フナずしさんのいう植民地は、あるいは意味が違うのかもしれません。   私には、英語を公用語に加えたシンガポールなど、とてもその口実になっ ているとも思えませんが。   多数の国で通用する技術規格が世界的なスタンダードになったように、い まや英語はコミュニケーションのグローバルスタンダードになったといっても 過言ではないと思います。   今回の石原知事も、もし英語で発言してたらどうなったでしょうか。日本 国内の投書は、石原知事支持が7,8割をしめるそうですが、これはおそらく 逆転することでしょう。   そればかりか、okotshaさんが書かれたように、ドイツなどから石原知事 は差別を助長する犯罪者であるとの抗議が都庁に舞い込み、あらためて差別と は何であるのか真剣に考えるきっかけになるのではないかと思います。


日本文化とは?              半月城 問答有用会議室 #1463 2000/05/06 19:36   文化や言語について、クマさんにすこし辛口の反論を書きます。これを凌 駕する反論を期待します。   クマさん、#1461 > 言語とはその文化の核心だと思うのですね。 >つまり、日本文化の核心が日本語であると。   クマさんがお考えになる日本文化とは何でしょうか?   昔、新渡戸稲造が欧米人から「キリスト教的な伝統がわれわれにあるが、 日本には何があるのか」と聞かれたときに、言葉に詰まったそうでした(注 1)。   伝統と同様に、日本文化なるものもつきつめていくとラッキョウの皮みた いなもので、実体はあるのかないのか判然としないのではないでしょうか?   日本文化をもとめて外国人までもがよく京都を訪れますが、当の京都人は 京都をこう語っています(注2)。  「まだ大陸と陸続きであった頃にやって来た人々から、日本の歴史が始まり ました。日本文化の基調となった米づくりも、海を越えてもたらされました。   その後も進んだ技術や高い文化が幾重もの波として渡って来て、日本の文 化に深く浸透し、古代の日本は私たちが知るような姿になってきました。   京都はまもなく平安遷都1200年を迎えます。この地に平安京を築いた 桓武天皇の母の高野新笠は渡来系の氏族の出であったといいます。   京都盆地の開発を進め、平安京の造営に大きな役割を果たした秦氏もまた 渡来系の氏族でした。   日本の古代史が平安京にたどりつくまでの道程は、こうした渡来系の人々 の存在と彼らがもたらした文化の影響抜きには語れないといっても過言ではあ りません」   これは日本文化にかぎらずどこの国でもそうでしょうが、文化は他国とふ れあう歴史の中で形成されており、「純粋」な自国の文化などというのはどこ にも存在しないのではないでしょうか?   言語とてしかりです。日本語は漢字という中華文化がなかったら文化を語 ることすら不可能です。さらにそこにカタカナの欧米の言語や文化が加わった のが日本語であり、外国語や外国文化を抜きにした「純粋」な日本語や日本文 化というのは、その影が薄いのではないでしょうか?   その例として、クマさんがこだわるEメールの件をとりあげますが、これ を「電便」と「漢字」で書くと日本語になるのでしょうか?   クマさんが「電便」にこだわる背景には「日本語は美しく論理的な言語」 という思いがあるのでしょうが、どこの民族も自国語を同じように感じていま す。   それは自己の意思表示に自分が慣れた言語が最適だからです。したがって、 高級な言語とか低級な言語とかいった比較は、しょせん自国の言語が最高であ るという思いこみからくるのではないでしょうか。   地球家族の一員としてコミニュケーションを大切にするのなら、多くの人 が話す言語も公用語にするのが一番ではないでしょうか。といっても、日本で 日本語を公用語からはずせというものではありませんので、念のため申し添え ます。 (注1)青木保「日本文化は混成の極み、未来広げる水平の視点」朝日新聞, 2000.3.29 (注2)京都文化博物館『海を渡って来た人と文化』1989