竹島「外一島」とは hangetsu_joh
2000年3月20日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #508
KUNITAKA2001さんが書かれたなかで、疑問視されるのは下記と「通報」の
みです。ほかはほぼ事実と思われます。
>鬱陵島は朝鮮領土であり日本地籍に含まれないとの決定を内務省に送付。
>ただし「外一島」については不明。
#455に書きましたが、明治政府は「外一島」が不明なまま領土を放棄
するほど愚かではありません。太政官決定に際して、「外一島」が竹島(独
島)であると認識されていたことは伺書の付属文書から明らかなようです。
堀氏によれば<付属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その
位置と形状も正しく記述されていた>とされています(注)。
これからすると、1877(明治10)年、竹島および松島は同時に日本
領から放棄されたことになります。
(注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
第24号、1987
軍艦「天城」の調査 hangetsu_joh
2000年3月20日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #505
半月城です。koukokutenboさんが書かれた<「鳥取県の還日本海交流」
1996年8月20日(株式会社富士書店発行)>ですが、「還日本海」は
「環日本海」の変換ミスのようですね。
> その64ページに『(19)80年に軍艦松島を派遣して鬱陵島を調査し、
>竹島とか松島とかいわれている島が朝鮮領であることを確認した。』と記さ
>れていますが(関連44~67ページ)その内容は全て鬱陵島における出来
>事のことであり、現竹島については全く考察されていません。
(19)80年は1880年の誤りと簡単にわかるのですが、「軍艦松島」
は「軍艦天城」の間違いではないでしょうか。
あなたは、これらの出来事をすべて鬱陵島とされていますが、軍艦天城が
明らかにした島は鬱陵島以外に「竹嶼」「北亭嶼」などがあり、決して鬱陵島
だけの話ではありません(注)。
江戸時代、日本では代表的な赤水図にみられるように、隠岐の沖合にある
島は松島・竹島の一対のみで、ほかに島はないと認識されてきました。
その後、明治になって島名の混乱が生じ、それを整理するため軍艦天城が
派遣され、その測量の結果をもとに次の重要な結論をだされました。
「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知
り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島
にして、古来我版図外の地たるや知るべし」
この時点で、内藤教授がいうように、松島・竹島は朝鮮領という認識がで
きあがったのですが、問題は「一個の岩石たる」竹島とはどの島をさすのかで
す。
これを現在の竹島(独島)であるとするのは早計かもしれません。どうや
ら軍艦天城が現在の竹島(独島)を認識して、そこまで調査にいった形跡はな
いようです。
次の可能性として、天城が測量した鬱陵島近辺の竹嶼(現韓国名・竹島)
を明治政府が「一個の岩石たる」竹島と判断した可能性が高くなります。しか
しこの場合、明治政府はそれ以外の島が隠岐の沖合にあることを認識していな
かったので、明治政府において「現竹島については全く考察されていません」
という結論になります。竹島(独島)の認識がなければ、領有意識ももちろん
生まれません。
認識がなかったことは、明治政府が、フランス軍艦により命名された「リ
アンクール岩」(俗称リャンコ岩)をそのころは新島と考えたのか、その名を
正式に採用し、1905年まで政府刊行物などで使用していたことからもうか
がい知ることができます。そのころ、松島、竹島はともに鬱陵島のこととされ
ました。
(注)北澤正誠『竹島考證』エムティ出版,1996(復刻版)
(本記事は下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
竹島(独島)に関する韓国勅令 hangetsu_joh
2000年3月4日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #440
Am_I_AHOさん、はじめまして。
>それから、勘違いしないで頂きたいのは、獨島は1900年韓國勅令及び官
>報で領土に編入していますから、無主地ではないのですよ。
正確にいうと勅令41号は領土編入の手続きではなく、単に行政区分の変
更です。つまり鬱陵島を鬱島と改名したうえで郡に格上げし、それにともない
島監に変え郡守をおくようになりました。
さらに、管轄区域を鬱陵島、竹島、石島と明示しました。このなかで、石
島が今日の竹島(独島)であるとされているようです。
この勅令発布の際、鬱陵島や石島(独島)は韓国の版図であるという前提
があることはいうまでもありません。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
小笠原諸島の領土編入 hangetsu_joh
2000年3月4日 17時22分
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#438
hitatinakatarouさんは、小笠原諸島は1675年以来継続して日本領であっ
たと考えておられるわけではないでしょうね。
>小笠原の話が出てますけど、1675年に日本が小笠原を領有したときには
>「告示」なんてしてない。
>それでも国際的には日本に領有の意志ありと認められたわけです。
小笠原諸島の領有は日米英の間で揺れ動きました。1675年、江戸幕府は同
島の開拓をはかりましたが失敗したうえに,1727年(享保12)小笠原貞任の一族
が渡島を試みたが帰還せず,同諸島は長く無人島のまま放置されました(日立
デジタル平凡社『世界大百科事典』)。
その間、1823年(文政6)アメリカの船員が小笠原諸島の母島に上陸しまし
た。また,1827年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言しました。
次いで1830年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつ
れて移住し,1853年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーを
アメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行いました。このた
め米英間に諸島の帰属問題をめぐって紛議が生じたようでした。
幕府は1862年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たることを宣
言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとしました。しかし、
これもまた失敗しました。
その後,1873年(明治6)に同諸島の本格的経営が廟議決定し、1875年に日本
領再回収を宣言しました。このころ、日本は同島に関係の深い米国、英国と何
度も折衝し、その了解を得ました。さらに1876年、欧米12か国に対して日本
の同諸島管治を通告しました(注)。
こうした進め方は竹島(独島)と比べると雲泥の差です。竹島(独島)の
場合、日本帝国政府内に同島は朝鮮領ではないかという見解さえあったのに、
朝鮮政府に対しては照会はおろか通告さえ行いませんでした。
(注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
第24号、1987
領土編入の通告 hangetsu_joh
2000年3月4日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#434
hitatinakatarouさん、はじめまして。
領土の領有通告に関してコメントします。
>さらに言うなら、外国への通知も不要です。(今だに通知が無かったから竹
>島の編入は無効だ、なんていう人がいるので困りますね。)
インターネットなどで竹島(独島)を日本領と主張する方は、希望的観測
からか領土編入の際、外国への通告は必要ないと即断されるケースが多いよう
です。この問題を私は半月城通信<竹島(独島)と明治政府>に書きましたの
で、それを4回に分けて要約します。
通告も、領土関係の国際法が一般的にそうであるように、明確な規定はあ
りません。条約や先例、慣習法の積み重ねが判断のもとになっています。
通告が歴史的に問題になったのは、帝国主義国家間によるアフリカ沿岸の
領土編入がきっかけでした。欧州の列強、すなわち狼たちは内輪もめをふせぐ
ため、1885年、会議を開きルールをつくりました。それが西アフリカ会議
宣言、すなわちベルリン議定書ですが、ここでアフリカ海岸の無主地域を先占
する際の国家の通告義務を規定しました。
この議定書をきっかけに、多くの法学者は、通告は国際法の一般原則とし
て解することが望ましいと考えるようになり、1888年の国際法学会宣言は
その帰結であると解し、結局、通告を一般国際法上の先占の要件と解する学者
が多くなったようでした。
韓国明知大学・金明基教授の調べによると、日本では前原光雄、大沢章、
田岡良一などが通告を先占の要件と解しているようです(注1)。しかし、学
者の中にはこれを慣習法でないと考える一言居士もいることはたしかです。
金教授によれば、通告が争われた例として、フランスによるクリッパート
ン島の先占に関する仲裁裁判(1931)がありますが、これは同島に対するフラン
スの主権宣言(1858)がベルリン議定書(1885)以前の話であり、その当時は通告
の必要はなかったとされ、メキシコの敗訴に終わりました。狼の勝利といえま
す。
これがベルリン議定書後のことであったら、どのような判断が下されたか
は予断を許しません。
この例にみられるように、国際法は領土問題に関してははなはだ心もとな
く、しかも、狼たちの申し合わせの名残で大国に有利に働きます。国際法のそ
もそもの出発点は、19世紀、帝国主義列強などいわば「狼」たちの領土分割
に関する申し合わせがきっかけでした。そのため、第三世界からは白い目で見
られがちです。
たとえば、インドによるポルトガル領のゴア接収(1961)ですが、これは
「既存の国際法に従うなら、これを肯定しうる論拠はどこにもない」とされて
います。それにもかかわらず、インドの行為は「反植民地主義の直接行動とし
て新興国から広く支持された」ようで、この場合、国際法上の違法行為が道義
的には正当と評価されたようでした(注2)。
この例から察するに、国際法はこと領土問題に関する限り、大国の栄光や
利益を温存し、帝国主義時代の慣行を引きずっているため、新興国の立場から
すると、ときには道義に反した判断をする可能性もあり、その正当性にはおの
ずと限界があります。
近年の国際法は、特に人権問題で国際的にいちじるしい成果をあげてきま
した。しかし、植民地や領土関係の国際法のみは、ときには時代の潮流にそぐ
わないので、ここで竹島(独島)の領有権を国際法の面から論じることにどれ
だけ意味があるのか、私自身は疑問に思っています。
また「北方領土」問題なども国際法による解決が不適当なのではないかと
思います。北方領土は本来的にはともかく、現時点で国際法上ロシア領である
ことは明白なので、日本も竹島(独島)と違って、国際司法裁判所に提訴して
いないのは周知のとおりです(注3)。
(注1)金明基『独島と国際法』(韓国語)華学社、1991
(注2)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992
(注3)半月城通信<竹島(独島)と国際司法裁判所>
http://www.han.org/a/half-moon/
国際法学会 hangetsu_joh
2000年3月5日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#447
hitatinakatarouさん、こんばんは。
>ベルリン議定書より後、先占の要件として外国への通告義務が国際慣習とし
>て確立した、などという事実はおそらくありません。
ベルリン議定書を発展させ、1888年、国際法学会で「領土先占に関する国
際宣言の草案」が出されました。これをふまえて金明基教授は前掲書でこう記
しました。
「日本政府側は1956年9月20日の覚書を通じて、通告は国際法上の先占の
要件ではなく、1905年2月22日の島根県告示第40号により日本が独島を先
占したと主張してきたが、以上で検討したとおり国際判例は通告を先占の要件
と解しており、多くの学者も通告の義務を規定した1885年のベルリン議定書の
ような特別の協約がない場合にも通告を先占の要件と解している。
ただ、通告の義務を規定したベルリン議定書が一般国際法化したのか、あ
るいは一般国際法がベルリン議定書として成文化したのかに関して意見の相違
があるのみである。
また、1888年の国際法学会の<領土の先占に関する国際宣言の草案>も通
告を先占の要件として明示しており、少なくとも、日本が独島を島根県告示第
40号により日本領土に編入した1905年当時、通告が先占の要件であることが
一般国際法であったということができる。
したがって、日本政府側の独島先占説は成立の余地がなく、1956年9月2
0日の日本側覚書に含まれる通告の義務がないという主張はその根拠がない」
私は領土関係のみ国際法を信頼していないので、学説の争いにあまり関心
がありませんが、金氏の著書を読むかぎり、通告の義務は多数説であるように
みえます。
http://www.han.org/a/half-moon/
島根県告示の通報 hangetsu_joh
2000年3月20日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #509
KUNITAKA2001さん
>1906年 前年の島根県告示を大韓帝国政府に通報
通報した相手は大韓帝国政府ではなく、鬱陵島郡守です。郡守の沈興澤は、
島根県事務官・神西由太郎からこの話を聞くや、中央に日本人官人が来訪し
「本郡所属独島」が日本領地になったと告げにきたことを報告しました。
この報告にたいし参政大臣・朴齋純は、独島が日本領になったという話は
根拠のないことだが、独島に関する事情を詳細に調べ、日本が独島でなにをし
たかを報告せよと指示しました。
その一方で、このニュースはマスコミに報道され、韓国民の憤激を買った
ようでした。しかし、このころ韓国は日本の保護国とされ外交権を剥奪された
状態であったためか、日本への抗議は及びもつかなかったようでした。
国全体が奪われ消滅させられていくなかで、一岩嶼の領有問題など消し飛
んでしまったようでした。
竹島(独島)と日露戦争 hangetsu_joh
2000年4月2日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #550
半月城です。くにたかさんと珍しく意見が一致したようです。
>竹島も尖閣諸島と同様に、戦争と因果関係があると思います。
リャンクール島(竹島=独島)は日露戦争の最中、日本領に編入されまし
たが、堀氏によれば、そのいきさつは軍事的な必要性が強かったようでした
(注)。
1904年2月開戦した日露戦争は、6月になるとロシアのウラジオ艦隊
が朝鮮海峡に出現し、日本の輸送船を次々と沈めました。
そこで日本海軍は軍事力強化のために、九州・中国地方の沿岸各地と並行
して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島、鬱陵島に望楼を建設し、
それらを海底電信線で連結していきました。
朝鮮内の望楼は約20カ所におよびましたが、それらはすべて有無をいわ
せぬ軍事占領でした。
問題のリャンクール島には11月20日、軍艦対馬を派遣し、まず望楼の
建設が可能であることを確認しました。建設は、冬季は不可能だったことやバ
ルチック艦隊との決戦のため遅れ、翌年の7月25日に着工し、8月19日か
ら運用を開始しました。
このようにリャンクール島は軍事的に注目されるなか、海軍水路部の指導
のもと、漁師の中井養三郎は「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を1904年
9月29日内務・外務・農商務の三省に提出しました。
中井はこのころ同島でアシカ猟をしており、同島の事情をよく知っていた
人物ですが、かれは「本島の鬱陵島を(ママ)付属して韓国の所領なりと思は
るる」としており、竹島(独島)を朝鮮領と認識していたことは注目されます。
中井によれば、同じような認識を内務省ももっていたようで、こう記しま
した。
「内務当局者は此時局に際し(日露開戦中)韓国領地の疑ある莫荒たる一箇
不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大
ならしむるは、利益の極めて小なるに反して、事体決して容易ならず」
さきに内務省および太政官は、1877年に竹島(独島)を暗に朝鮮領と
確定していましたが、その見解がこの時も継承されていたようで、リャンクー
ル島の領土編入には否定的でした。
一方、内務省の反対をよそに、外務省の政務局長・山座円次郎は領土編入
にたいへん乗り気でした。
「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し無線若(も
し)くは海底電信を設置せば敵艦隊監視上極めて届竟ならずや」
日露戦争に勝つために、リャンクール島に望楼など軍事施設を建設するの
は急務だったようでした。結局、日本政府は中井の申請を認める形でリャン
クール島の領土編入を閣議決定(1905.1.28)しました。
これを受けて島根県は県告示40号(1905.2.22)で、リャンクール島を竹
島と命名し、隠岐島の島司の所管にすると公示しました。一連の措置で政府レ
ベルでの公示や朝鮮への通告は一切ありませんでした。
そうした公示があろうがなかろうが、竹島(独島)を軍事占拠し「実効支
配」を40年間継続したことは、帝国主義時代の国際法では合法と認められる
ことになるのでしょうが、これが韓国から「帝国主義的強奪」と非難されてい
るのは周知のとおりです。
(注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24
号(1987)
(本記事は下記ホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/
日韓条約 hangetsu_joh
2000年4月1日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #544
半月城です。くにたかさんは外交上の「紛争」という言葉を誤解されてお
られるのではないでしょうか。
くにたかさん、
> 国と国との条約は、神聖なものであって守らなければならない。しかし韓
>国は、この交換公文に反して国際裁判に臨む気は無い。このような不誠実な
>態度は悔い改めなければならない
日韓条約の交換公文で、外交的に紛争を「解決することが出来なかった場
合は、両国が合意する手続きにしたがい調停によって、解決を図るものとす
る」とされましたが、日本はこの条約の規定にもとづいて韓国に調停を「公式
に」提案した事実はなかったのではないでしょうか?
梶村氏によれば、そもそも日韓交渉で「竹島=独島問題が議事録に残るよ
うな形で公式の議題にとりあげられたことは一度もなかった」とされます。
日本外務省の姿勢 hangetsu_joh
2000年3月5日
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #446
旧朝鮮総督府の文書は、自治省などの倉庫に未整理のまま山積みされ、非
公開になっているので、外務省といえどもそう簡単に資料をさがすことはでき
ないと思います。
こうした資料の調査研究は、竹島(独島)問題にかぎらず日韓・日中間の
諸懸案解決に不可欠だと思います。
そのいい例が、#416に記した太政官指令書(1877)ではないかと思います。
この文書は1987年、研究者の堀氏により発掘されましたが、これは外務省の
「竹島(独島)は日本固有の領土」という主張を根底からくつがえすものです。
こうした事実が明らかになっても、外務省は今までのいきがかりから「固
有領土」の主張を変えるわけにはいかないとみえて、昨年の外交青書でも「歴
史的にも国際法上も日本の固有領土」という立場をくり返しました。
これには同情すらおぼえます。もし、外務省が最近の研究成果をとりいれ、
明治初期に日本は竹島(独島)を放棄していたなどと公表しようものなら一大
事で、非難が集中することは目に見えています。したがって、外務省としては
事実を隠蔽するしかないのかもしれません。
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#455
>韓国が太政官指令書を根拠に領有権を主張することは出来ないですよ。
>地図が混乱していて、幕末には松島の名はすでに鬱稜島にうつっているのです。
おっしゃるとおりですが、同時に、このときの明治政府が松島と竹島を本
邦に関係なしとして放棄したのも歴史的事実ではないでしょうか。
明治政府は、松島や竹島がどこにあるのか混乱したまま同島を放棄するほ
ど愚かではありませでした。「版図の取捨は重大之事件」として慎重に検討し
て太政官指令書(1877)を発しました。
その決定に際して、松島・竹島の位置と形状は正しく認識されていたこと
は伺書の付属文書から明らかです。
一方、島名ですが、その当時提出されていた開拓願いなどで混乱していた
島名を整理するため、1880年、軍艦天城を派遣して測量まで行いました。その
結果、江戸時代の竹島(現在の鬱陵島)が開拓願いの出されていた松島である
と判明する一方、いまひとつの竹島は全く不毛な岩嶼にすぎないとわかり、何
ら関心の対象になりえませんでした。
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#464
軍艦による調査の翌年、内務省は念をいれ領土の確認を行いました。外務
省あてに、松島と竹島を版図外とした先の太政官指令書を付して鬱陵島の現状
を照会しました。
それに対して、外務省は何らまったく異議をとなえませんでした。外務省
は、すでに1870年に朝鮮を視察したうえで「竹島松島朝鮮付属」という認
識を「朝鮮国交際始末内探書」にまとめていましたので当然といえます(注)。
これ以降1905年、竹島(独島)編入の閣議決定にいたるまで、竹島
(独島)が日本領であるという認識は記録上、明治政府になかったようでした。
こうした事実が最近明らかになったことを知りつつ、外務省は「竹島は日
本の固有領土」と繰り返し、結果的に日本国民をあざむいているのではないか
と思います。
(注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
第24号、1987
(本記事は下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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