半月城通信
No. 69
2000.4.22
[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 竹島外一島とは
  2. 軍艦「天城」の調査
  3. 竹島(独島)に関する韓国勅令
  4. 小笠原諸島の領土編入
  5. 領土編入の通告
  6. 国際法学会
  7. 島根県告示の通報
  8. 竹島(独島)と日露戦争
  9. 日韓条約
  10. 日本外務省の姿勢
  11. 韓国に関する情報源
  12. 石原都知事と大震災



竹島「外一島」とは hangetsu_joh 2000年3月20日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #508   KUNITAKA2001さんが書かれたなかで、疑問視されるのは下記と「通報」の みです。ほかはほぼ事実と思われます。 >鬱陵島は朝鮮領土であり日本地籍に含まれないとの決定を内務省に送付。 >ただし「外一島」については不明。   #455に書きましたが、明治政府は「外一島」が不明なまま領土を放棄 するほど愚かではありません。太政官決定に際して、「外一島」が竹島(独 島)であると認識されていたことは伺書の付属文書から明らかなようです。   堀氏によれば<付属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その 位置と形状も正しく記述されていた>とされています(注)。   これからすると、1877(明治10)年、竹島および松島は同時に日本 領から放棄されたことになります。 (注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987


軍艦「天城」の調査 hangetsu_joh 2000年3月20日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #505   半月城です。koukokutenboさんが書かれた<「鳥取県の還日本海交流」 1996年8月20日(株式会社富士書店発行)>ですが、「還日本海」は 「環日本海」の変換ミスのようですね。 > その64ページに『(19)80年に軍艦松島を派遣して鬱陵島を調査し、 >竹島とか松島とかいわれている島が朝鮮領であることを確認した。』と記さ >れていますが(関連44~67ページ)その内容は全て鬱陵島における出来 >事のことであり、現竹島については全く考察されていません。  (19)80年は1880年の誤りと簡単にわかるのですが、「軍艦松島」 は「軍艦天城」の間違いではないでしょうか。   あなたは、これらの出来事をすべて鬱陵島とされていますが、軍艦天城が 明らかにした島は鬱陵島以外に「竹嶼」「北亭嶼」などがあり、決して鬱陵島 だけの話ではありません(注)。   江戸時代、日本では代表的な赤水図にみられるように、隠岐の沖合にある 島は松島・竹島の一対のみで、ほかに島はないと認識されてきました。   その後、明治になって島名の混乱が生じ、それを整理するため軍艦天城が 派遣され、その測量の結果をもとに次の重要な結論をだされました。  「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知 り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島 にして、古来我版図外の地たるや知るべし」   この時点で、内藤教授がいうように、松島・竹島は朝鮮領という認識がで きあがったのですが、問題は「一個の岩石たる」竹島とはどの島をさすのかで す。   これを現在の竹島(独島)であるとするのは早計かもしれません。どうや ら軍艦天城が現在の竹島(独島)を認識して、そこまで調査にいった形跡はな いようです。   次の可能性として、天城が測量した鬱陵島近辺の竹嶼(現韓国名・竹島) を明治政府が「一個の岩石たる」竹島と判断した可能性が高くなります。しか しこの場合、明治政府はそれ以外の島が隠岐の沖合にあることを認識していな かったので、明治政府において「現竹島については全く考察されていません」 という結論になります。竹島(独島)の認識がなければ、領有意識ももちろん 生まれません。   認識がなかったことは、明治政府が、フランス軍艦により命名された「リ アンクール岩」(俗称リャンコ岩)をそのころは新島と考えたのか、その名を 正式に採用し、1905年まで政府刊行物などで使用していたことからもうか がい知ることができます。そのころ、松島、竹島はともに鬱陵島のこととされ ました。 (注)北澤正誠『竹島考證』エムティ出版,1996(復刻版)  (本記事は下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


竹島(独島)に関する韓国勅令 hangetsu_joh 2000年3月4日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #440   Am_I_AHOさん、はじめまして。 >それから、勘違いしないで頂きたいのは、獨島は1900年韓國勅令及び官 >報で領土に編入していますから、無主地ではないのですよ。   正確にいうと勅令41号は領土編入の手続きではなく、単に行政区分の変 更です。つまり鬱陵島を鬱島と改名したうえで郡に格上げし、それにともない 島監に変え郡守をおくようになりました。   さらに、管轄区域を鬱陵島、竹島、石島と明示しました。このなかで、石 島が今日の竹島(独島)であるとされているようです。   この勅令発布の際、鬱陵島や石島(独島)は韓国の版図であるという前提 があることはいうまでもありません。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


小笠原諸島の領土編入           hangetsu_joh 2000年3月4日 17時22分 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#438   hitatinakatarouさんは、小笠原諸島は1675年以来継続して日本領であっ たと考えておられるわけではないでしょうね。 >小笠原の話が出てますけど、1675年に日本が小笠原を領有したときには >「告示」なんてしてない。 >それでも国際的には日本に領有の意志ありと認められたわけです。   小笠原諸島の領有は日米英の間で揺れ動きました。1675年、江戸幕府は同 島の開拓をはかりましたが失敗したうえに,1727年(享保12)小笠原貞任の一族 が渡島を試みたが帰還せず,同諸島は長く無人島のまま放置されました(日立 デジタル平凡社『世界大百科事典』)。   その間、1823年(文政6)アメリカの船員が小笠原諸島の母島に上陸しまし た。また,1827年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言しました。   次いで1830年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつ れて移住し,1853年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーを アメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行いました。このた め米英間に諸島の帰属問題をめぐって紛議が生じたようでした。   幕府は1862年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たることを宣 言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとしました。しかし、 これもまた失敗しました。   その後,1873年(明治6)に同諸島の本格的経営が廟議決定し、1875年に日本 領再回収を宣言しました。このころ、日本は同島に関係の深い米国、英国と何 度も折衝し、その了解を得ました。さらに1876年、欧米12か国に対して日本 の同諸島管治を通告しました(注)。   こうした進め方は竹島(独島)と比べると雲泥の差です。竹島(独島)の 場合、日本帝国政府内に同島は朝鮮領ではないかという見解さえあったのに、 朝鮮政府に対しては照会はおろか通告さえ行いませんでした。 (注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987


領土編入の通告              hangetsu_joh 2000年3月4日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#434   hitatinakatarouさん、はじめまして。   領土の領有通告に関してコメントします。 >さらに言うなら、外国への通知も不要です。(今だに通知が無かったから竹 >島の編入は無効だ、なんていう人がいるので困りますね。)   インターネットなどで竹島(独島)を日本領と主張する方は、希望的観測 からか領土編入の際、外国への通告は必要ないと即断されるケースが多いよう です。この問題を私は半月城通信<竹島(独島)と明治政府>に書きましたの で、それを4回に分けて要約します。   通告も、領土関係の国際法が一般的にそうであるように、明確な規定はあ りません。条約や先例、慣習法の積み重ねが判断のもとになっています。   通告が歴史的に問題になったのは、帝国主義国家間によるアフリカ沿岸の 領土編入がきっかけでした。欧州の列強、すなわち狼たちは内輪もめをふせぐ ため、1885年、会議を開きルールをつくりました。それが西アフリカ会議 宣言、すなわちベルリン議定書ですが、ここでアフリカ海岸の無主地域を先占 する際の国家の通告義務を規定しました。   この議定書をきっかけに、多くの法学者は、通告は国際法の一般原則とし て解することが望ましいと考えるようになり、1888年の国際法学会宣言は その帰結であると解し、結局、通告を一般国際法上の先占の要件と解する学者 が多くなったようでした。   韓国明知大学・金明基教授の調べによると、日本では前原光雄、大沢章、 田岡良一などが通告を先占の要件と解しているようです(注1)。しかし、学 者の中にはこれを慣習法でないと考える一言居士もいることはたしかです。   金教授によれば、通告が争われた例として、フランスによるクリッパート ン島の先占に関する仲裁裁判(1931)がありますが、これは同島に対するフラン スの主権宣言(1858)がベルリン議定書(1885)以前の話であり、その当時は通告 の必要はなかったとされ、メキシコの敗訴に終わりました。狼の勝利といえま す。   これがベルリン議定書後のことであったら、どのような判断が下されたか は予断を許しません。   この例にみられるように、国際法は領土問題に関してははなはだ心もとな く、しかも、狼たちの申し合わせの名残で大国に有利に働きます。国際法のそ もそもの出発点は、19世紀、帝国主義列強などいわば「狼」たちの領土分割 に関する申し合わせがきっかけでした。そのため、第三世界からは白い目で見 られがちです。   たとえば、インドによるポルトガル領のゴア接収(1961)ですが、これは 「既存の国際法に従うなら、これを肯定しうる論拠はどこにもない」とされて います。それにもかかわらず、インドの行為は「反植民地主義の直接行動とし て新興国から広く支持された」ようで、この場合、国際法上の違法行為が道義 的には正当と評価されたようでした(注2)。   この例から察するに、国際法はこと領土問題に関する限り、大国の栄光や 利益を温存し、帝国主義時代の慣行を引きずっているため、新興国の立場から すると、ときには道義に反した判断をする可能性もあり、その正当性にはおの ずと限界があります。   近年の国際法は、特に人権問題で国際的にいちじるしい成果をあげてきま した。しかし、植民地や領土関係の国際法のみは、ときには時代の潮流にそぐ わないので、ここで竹島(独島)の領有権を国際法の面から論じることにどれ だけ意味があるのか、私自身は疑問に思っています。   また「北方領土」問題なども国際法による解決が不適当なのではないかと 思います。北方領土は本来的にはともかく、現時点で国際法上ロシア領である ことは明白なので、日本も竹島(独島)と違って、国際司法裁判所に提訴して いないのは周知のとおりです(注3)。 (注1)金明基『独島と国際法』(韓国語)華学社、1991 (注2)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992 (注3)半月城通信<竹島(独島)と国際司法裁判所>   http://www.han.org/a/half-moon/


国際法学会 hangetsu_joh 2000年3月5日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#447   hitatinakatarouさん、こんばんは。 >ベルリン議定書より後、先占の要件として外国への通告義務が国際慣習とし >て確立した、などという事実はおそらくありません。   ベルリン議定書を発展させ、1888年、国際法学会で「領土先占に関する国 際宣言の草案」が出されました。これをふまえて金明基教授は前掲書でこう記 しました。  「日本政府側は1956年9月20日の覚書を通じて、通告は国際法上の先占の 要件ではなく、1905年2月22日の島根県告示第40号により日本が独島を先 占したと主張してきたが、以上で検討したとおり国際判例は通告を先占の要件 と解しており、多くの学者も通告の義務を規定した1885年のベルリン議定書の ような特別の協約がない場合にも通告を先占の要件と解している。   ただ、通告の義務を規定したベルリン議定書が一般国際法化したのか、あ るいは一般国際法がベルリン議定書として成文化したのかに関して意見の相違 があるのみである。   また、1888年の国際法学会の<領土の先占に関する国際宣言の草案>も通 告を先占の要件として明示しており、少なくとも、日本が独島を島根県告示第 40号により日本領土に編入した1905年当時、通告が先占の要件であることが 一般国際法であったということができる。   したがって、日本政府側の独島先占説は成立の余地がなく、1956年9月2 0日の日本側覚書に含まれる通告の義務がないという主張はその根拠がない」   私は領土関係のみ国際法を信頼していないので、学説の争いにあまり関心 がありませんが、金氏の著書を読むかぎり、通告の義務は多数説であるように みえます。   http://www.han.org/a/half-moon/


島根県告示の通報 hangetsu_joh 2000年3月20日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #509 KUNITAKA2001さん >1906年 前年の島根県告示を大韓帝国政府に通報   通報した相手は大韓帝国政府ではなく、鬱陵島郡守です。郡守の沈興澤は、 島根県事務官・神西由太郎からこの話を聞くや、中央に日本人官人が来訪し 「本郡所属独島」が日本領地になったと告げにきたことを報告しました。   この報告にたいし参政大臣・朴齋純は、独島が日本領になったという話は 根拠のないことだが、独島に関する事情を詳細に調べ、日本が独島でなにをし たかを報告せよと指示しました。   その一方で、このニュースはマスコミに報道され、韓国民の憤激を買った ようでした。しかし、このころ韓国は日本の保護国とされ外交権を剥奪された 状態であったためか、日本への抗議は及びもつかなかったようでした。   国全体が奪われ消滅させられていくなかで、一岩嶼の領有問題など消し飛 んでしまったようでした。


竹島(独島)と日露戦争 hangetsu_joh 2000年4月2日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #550   半月城です。くにたかさんと珍しく意見が一致したようです。 >竹島も尖閣諸島と同様に、戦争と因果関係があると思います。   リャンクール島(竹島=独島)は日露戦争の最中、日本領に編入されまし たが、堀氏によれば、そのいきさつは軍事的な必要性が強かったようでした (注)。   1904年2月開戦した日露戦争は、6月になるとロシアのウラジオ艦隊 が朝鮮海峡に出現し、日本の輸送船を次々と沈めました。   そこで日本海軍は軍事力強化のために、九州・中国地方の沿岸各地と並行 して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島、鬱陵島に望楼を建設し、 それらを海底電信線で連結していきました。   朝鮮内の望楼は約20カ所におよびましたが、それらはすべて有無をいわ せぬ軍事占領でした。   問題のリャンクール島には11月20日、軍艦対馬を派遣し、まず望楼の 建設が可能であることを確認しました。建設は、冬季は不可能だったことやバ ルチック艦隊との決戦のため遅れ、翌年の7月25日に着工し、8月19日か ら運用を開始しました。   このようにリャンクール島は軍事的に注目されるなか、海軍水路部の指導 のもと、漁師の中井養三郎は「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を1904年 9月29日内務・外務・農商務の三省に提出しました。   中井はこのころ同島でアシカ猟をしており、同島の事情をよく知っていた 人物ですが、かれは「本島の鬱陵島を(ママ)付属して韓国の所領なりと思は るる」としており、竹島(独島)を朝鮮領と認識していたことは注目されます。   中井によれば、同じような認識を内務省ももっていたようで、こう記しま した。  「内務当局者は此時局に際し(日露開戦中)韓国領地の疑ある莫荒たる一箇 不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大 ならしむるは、利益の極めて小なるに反して、事体決して容易ならず」   さきに内務省および太政官は、1877年に竹島(独島)を暗に朝鮮領と 確定していましたが、その見解がこの時も継承されていたようで、リャンクー ル島の領土編入には否定的でした。   一方、内務省の反対をよそに、外務省の政務局長・山座円次郎は領土編入 にたいへん乗り気でした。  「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し無線若(も し)くは海底電信を設置せば敵艦隊監視上極めて届竟ならずや」   日露戦争に勝つために、リャンクール島に望楼など軍事施設を建設するの は急務だったようでした。結局、日本政府は中井の申請を認める形でリャン クール島の領土編入を閣議決定(1905.1.28)しました。   これを受けて島根県は県告示40号(1905.2.22)で、リャンクール島を竹 島と命名し、隠岐島の島司の所管にすると公示しました。一連の措置で政府レ ベルでの公示や朝鮮への通告は一切ありませんでした。   そうした公示があろうがなかろうが、竹島(独島)を軍事占拠し「実効支 配」を40年間継続したことは、帝国主義時代の国際法では合法と認められる ことになるのでしょうが、これが韓国から「帝国主義的強奪」と非難されてい るのは周知のとおりです。 (注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24  号(1987)  (本記事は下記ホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/


日韓条約 hangetsu_joh 2000年4月1日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #544   半月城です。くにたかさんは外交上の「紛争」という言葉を誤解されてお られるのではないでしょうか。   くにたかさん、 > 国と国との条約は、神聖なものであって守らなければならない。しかし韓 >国は、この交換公文に反して国際裁判に臨む気は無い。このような不誠実な >態度は悔い改めなければならない   日韓条約の交換公文で、外交的に紛争を「解決することが出来なかった場 合は、両国が合意する手続きにしたがい調停によって、解決を図るものとす る」とされましたが、日本はこの条約の規定にもとづいて韓国に調停を「公式 に」提案した事実はなかったのではないでしょうか?   梶村氏によれば、そもそも日韓交渉で「竹島=独島問題が議事録に残るよ うな形で公式の議題にとりあげられたことは一度もなかった」とされます。


日本外務省の姿勢             hangetsu_joh 2000年3月5日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #446   旧朝鮮総督府の文書は、自治省などの倉庫に未整理のまま山積みされ、非 公開になっているので、外務省といえどもそう簡単に資料をさがすことはでき ないと思います。   こうした資料の調査研究は、竹島(独島)問題にかぎらず日韓・日中間の 諸懸案解決に不可欠だと思います。   そのいい例が、#416に記した太政官指令書(1877)ではないかと思います。 この文書は1987年、研究者の堀氏により発掘されましたが、これは外務省の 「竹島(独島)は日本固有の領土」という主張を根底からくつがえすものです。   こうした事実が明らかになっても、外務省は今までのいきがかりから「固 有領土」の主張を変えるわけにはいかないとみえて、昨年の外交青書でも「歴 史的にも国際法上も日本の固有領土」という立場をくり返しました。   これには同情すらおぼえます。もし、外務省が最近の研究成果をとりいれ、 明治初期に日本は竹島(独島)を放棄していたなどと公表しようものなら一大 事で、非難が集中することは目に見えています。したがって、外務省としては 事実を隠蔽するしかないのかもしれません。 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#455 >韓国が太政官指令書を根拠に領有権を主張することは出来ないですよ。 >地図が混乱していて、幕末には松島の名はすでに鬱稜島にうつっているのです。   おっしゃるとおりですが、同時に、このときの明治政府が松島と竹島を本 邦に関係なしとして放棄したのも歴史的事実ではないでしょうか。   明治政府は、松島や竹島がどこにあるのか混乱したまま同島を放棄するほ ど愚かではありませでした。「版図の取捨は重大之事件」として慎重に検討し て太政官指令書(1877)を発しました。   その決定に際して、松島・竹島の位置と形状は正しく認識されていたこと は伺書の付属文書から明らかです。   一方、島名ですが、その当時提出されていた開拓願いなどで混乱していた 島名を整理するため、1880年、軍艦天城を派遣して測量まで行いました。その 結果、江戸時代の竹島(現在の鬱陵島)が開拓願いの出されていた松島である と判明する一方、いまひとつの竹島は全く不毛な岩嶼にすぎないとわかり、何 ら関心の対象になりえませんでした。 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#464   軍艦による調査の翌年、内務省は念をいれ領土の確認を行いました。外務 省あてに、松島と竹島を版図外とした先の太政官指令書を付して鬱陵島の現状 を照会しました。   それに対して、外務省は何らまったく異議をとなえませんでした。外務省 は、すでに1870年に朝鮮を視察したうえで「竹島松島朝鮮付属」という認 識を「朝鮮国交際始末内探書」にまとめていましたので当然といえます(注)。   これ以降1905年、竹島(独島)編入の閣議決定にいたるまで、竹島 (独島)が日本領であるという認識は記録上、明治政府になかったようでした。   こうした事実が最近明らかになったことを知りつつ、外務省は「竹島は日 本の固有領土」と繰り返し、結果的に日本国民をあざむいているのではないか と思います。 (注)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987  (本記事は下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


韓国に関する情報源 hangetsu_joh 2000年4月15日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #573   明治時代に竹島(独島)を放棄した太政官通達は、国立公文書館にいけば 見られるそうですが、私はコピーで十分なので現物までは確認していません。   くにたかさんの文から察すると、このコピーが愼教授の『独島(竹島)』 (インター出版,075-212-6559)に掲載されているのをご存じないようですね。 この本は誤植がすこしありますが、韓国側の主張を知るには最適な本です。な にしろ、愼教授が「独島学会」会長ですから。   この本には、くにたかさんが一生懸命さがしておられた林子平の地図や、 韓国の主張をうらづける地図や資料なども掲載されています。ただし、長久保 赤水の地図は、愼教授も竹島(独島)が朝鮮同様に無着色にされた地図があっ たことまでは知らなかったとみえて、同氏の著書『独島』(日本語)には掲載 されていません。   それにしても、この本すら知らないでよく議論ができましたね。ここの会 議室で韓国をさかんに感情的に非難している人がおりますが、韓国の主張を一 体どれだけ正しく知っているのでしょうか? 韓国に関する情報源が産経、読 売新聞、外務省だけだとしたら、見方がいびつになって当然です。


石原都知事と大震災            半月城 2000/04/15 ○問答有用掲示板(http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain) #876   はじめまして、半月城です。   私たち在日外国人にとって空恐ろしい人が首都の知事になったものです。 石原都知事は、大地震などの災害時には「三国人」による大きな騒擾が想定さ れるとかたくなに信じているようです。   芥川賞作家の都知事は「三国人」なる言葉の用法については不適切だった と認め遺憾の意を表しましたが、依然として「一部の不良外国人」による騒擾 の可能性について知事の信念は変わっていないようです。   私は石原発言を聞いて、とっさに関東大震災時の赤池警視総監を思い出し ました。震災後、赤池は当時の思い出をこう語りました(注1)。  「一部の不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行ふだろうが、大部分の鮮人が団 結して組織ある暴動をなすが如きは断じてないと思ふた」   このように赤池は「不逞鮮人」はかならず暴動をおこすという予断を持っ て対処しましたが、赤池のいう「不逞鮮人」を「三国人」に置きかえると、今 回の石原発言に似かよったものになりそうです。   その赤池は第二震の最中にもかかわらず、すぐ正装し職務そっちのけで皇 居に駆けつけ、摂政(昭和天皇)の「ご機嫌を奉伺」しました。   そこで治安責任者の内務大臣や警保局長と協議したうえで、赤池は「警察 のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために「衛戌総督に出兵を要 求すると同時に、後藤警保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言」し たのでした。  「暴動」を予防するために「軍隊」の治安出動をすぐさま想いえがくところ まで、石原知事は赤池に瓜二つといえます。   さて、赤池から進言をうけた内務省の警保局長ですが、次のようなとてつ もない電報を各都道府県の長官宛に流しました(注1)。  「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せん とし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。   既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密な る視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」   後藤局長は、取締りを一部の「不逞鮮人」にかぎらず、赤池が無害と信じ ている「大部分の鮮人」にまで広げました。これは治安当局にしてみれば必至 なようです。わざわざ「不良外国人」と看板をぶらさげて歩くような人はいな いでしょうから、対象はすべての外国人になるのは当然です。   警保局長が打った電報の内容は、後日になってまったくの事実無根と判明 するのですが、このように治安当局がうわさに火をつけたものですからたまっ たものではありません。「不逞鮮人」暴動の流言飛語は、燎原の火のごとく首 都圏一帯に燃え広がりました。   そうしたデマを率直に信じていきり立った「善良」な民衆は殺人鬼に豹変 し、朝鮮人とみれば見境なく竹槍で突き刺すなどして血祭りにあげたのでした。   このとき、俳優の千田是也さんも朝鮮人にまちがえられそうになり、危う く命を落とすところでした。千田さんは九死に一生をえましたが、不幸にも朝 鮮人・中国人にまちがえられた日本人も続出しました。こうして約6千人の朝 鮮人が自警団や軍隊・警察により犬コロのようにむごたらしく虐殺されました (注2)。   このときの恐怖は、私たち在日韓国・朝鮮人にとって、半世紀たっても容 易に消えるものではありません。芥川賞作家の李良枝さんは、その思いをこう 記しました(注3)。  「また関東大震災のような大きな地震が起こったら、朝鮮人は虐殺されるか しら。一円五十銭、十円五十銭と言わされて竹槍で突つかれるかしら。でも今 度はそんなこと起こらないと思うの、あの頃とは世の中の事情が違っているも の。それにほとんどが日本人と全く同じように発音できるもの」   彼女の予測どおり、95年の阪神・淡路大地震では在日朝鮮人が竹槍でつ つかれることはありませんでした。   それもそのはずで、心の片隅で関東大震災の悪夢を心配した在日韓国・朝 鮮人は「不逞鮮人」でないことを証明するかのように、すすんで被災者に避難 所として東神戸朝鮮初中級学校などを開放し親身の救援活動を行うなどして、 全面的に地域の信頼を得ていましたので、悪夢の再来はありませんでした(注 4)。   その一方で、日本人と全く同じように発音できない外国人に対しては「イ ラン人強盗団」とか「中国人窃盗団」などと悪質なデマが飛びかいました。こ こに石原知事の発想と同種の妄想がありそうです。   そもそも、外国人との共存に不慣れな日本で、しかも石原知事のように外 国人に「潜在的犯罪者」という偏見を持つ人たちが多く住む日本で、災害時に 外国人が騒擾を起こすこと自体、無理な話といえます。それどころか、そんな ときは逆に自分にとって危険な流言飛語がいつ起こりはせぬかと不安になるの が先です。   こう書くと、いや日本はそんなひどい国ではないという声が聞こえてきそ うです。しかし、昨今の外国人に対する偏見や差別の実状からするとそれほど 楽観もできません。日本は口々に国際化を叫んでいても、いざ外国人が身近な ところに来ると、態度が一変することがあります。   そのような日本人のアンビバレンスこそが石原発言に反映したのだと、ア メリカのニューヨークタイムズ紙(4/11) は指摘しました。同じような見解を イギリス、ガーディアン紙のワッツ特派員も語りました(朝日新聞 4/14)。  「石原氏自身には差別という意識がないようだ。人種問題について、日本人 の認識の浅さを示していると思った」   ワッツ氏がこう語る背景には、次のように同氏なりの分析があります。                         (The Guardian 4/13)        --------------------   最近の国連の研究によれば、日本は低出生率と世界的に急速に進んでいる 高齢化社会に適応するために、2050年までに60万人の移入労働者を必要 としている。   しかし、ガイジンの必要性は多くの日本人を当惑させている。彼らは一般 に外国人、とくに不法移住者のせいとされる犯罪が増加する傾向を恐れるので ある。   政府も外国人労働者をもっと増やさなければならないと考えているが、そ れにともなって必要な社会的対応は議論すら始まっていない。また、人種差別 主義を禁止する法律すらない。   不動産業者は外国人に部屋を貸すのをあからさまに拒否するし、いくつか の浴場はガイジンを禁止している。   これまで、この問題はほとんど議論されてこなかった。しかし、自分は人 種差別主義者ではないとする石原氏は、はからずもそうした状況を変えた。        --------------------   今後、日本は本格的な少子高齢化社会を迎え、やがて本格的な外国人移民 が必要になりそうですが、それにふさわしい在日外国人との共生社会をどのよ うに築くのかが重要な課題として切迫しているようです。   そんなおり、石原流の「三国人」を潜在的に犯罪者扱いする姿勢では、い たずらに国内外で摩擦を増すだけで前向きなものは何も得られないようです。 そうした批判が、同じように国際化の必要性を痛感している隣の韓国からあり ましたので、おわりにそれを紹介します。        -------------------- 石原という病原菌(デジタル朝鮮日報、社説 4/11)                   http://japan.chosun.com/  作家出身の石原慎太郎東京都知事が数日前、陸上自衛隊の創隊記念式典の場 で「不法入国した多くの“3国人”と外国人が凶悪犯罪を犯している」とし 「大きな災害が発生すれば彼らが騒動を起こす可能性がある」と発言した。  われわれは率直に言って一介の都知事の主観的見解に対応する価値を感じな い。ただ、われわれは軽蔑する気持ちと同じぐらい、日本の狂信的な極右がい までも存在している事実に唖然とさせられる。  彼がいうところの「3国人」が在日韓国人と台湾人を指すのかどうかには関 係がない。われわれがあきれていることは、一部といっても日本の官僚や知識 人が他者をみる視線にあり、あまりにも偏狭であまりにも自己中心的だという 点だ。  石原の発言は自国の国民は立派で外国人は「潜在的犯罪者」という考えだ。 世界が一つの共同体へと進んでいる最近の状況で、どの国であれ外国人と共に 住むのが当然なのに「外国人を敵」としてみていることは、国粋主義を超え国 際社会で日本を孤立させ自らを滅ぼす行為だ。  日本のマスコミや知識人の憂慮もそこに由来する。『毎日新聞』は「現職知 事の発言は外国人差別として映る」と報道した。『朝日新聞』は「在日外国人 を中心に強い批判が起きている」と伝え、『読売新聞』は「在日韓国人をはじ め外国人を蔑視する発言」と指摘している。  われわれは外国人との共存を考える知事が、かえって「旧時代的な発想に基 づいた穏当ではない発言をしたことに憤怒とともに危険性を持たざるをえな い」と在日民団の見解に全面的に同意する。  帝国主義日本は1923年9月、関東大震災が発生、「朝鮮人が暴動を起こし た」「井戸に毒を投げ入れた」とまったくの流言飛語を流し、軍と警察、そし て自警団を動員して朝鮮人を銃剣と竹槍で虐殺した。被害者は日本当局の公式 集計では6000人を超えるならば、謝罪はできないのに旧悪をまた繰り返すとい うのは厚顔無恥も甚だしい。  国際化社会では他者をみつめる視覚にも倫理があるべきで、それは他人を包 み込み理解しようとする真摯な気持ちと柔軟性を持ち合わせる時にだけ可能だ。  日本の知識人は口を開けば「アジア的つながりと共存」を叫ぶが、極右はや やもすると周辺国を蔑視する妄言を常に持っている。日本の大衆文化の開放を 拡大するなど韓日関係はどの時よりも友好的だが、日本の狂信者による落胆さ せる行為は腹立たしいというよりはかえって哀れなだけだ。  ・・・        -------------------- (注1)姜徳相他『現代史資料6,関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963 (注2)ホームページ「半月城通信」<関東大震災>     http://www.han.org/a/half-moon/ (注3)李良枝『かずきめ』講談社、1983 (注4)「被災した在日朝鮮人と日本人 朝鮮学校で共に寝泊まり」朝日新聞 1995.1.27


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