半月城通信
No. 67

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 皇国史観と「任那日本府」
  2. 皇国史観と「任那日本府」(2)
  3. 皇国史観と神功皇后伝説
  4. 皇国史観と七支刀
  5. 南京虐殺(9)、「ニセ写真」
  6. 南京虐殺(10)、死体の行方
  7. 南京虐殺(11)、黒客事件


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/02 - 09306/09306 PFG00017 半月城 皇国史観と「任那日本府」 ( 8) 00/01/02 21:50 09231へのコメント   NOVOさんが引用した吉田氏の著書『日本の誕生』は、日本書紀の記述 を無批判に信じた戦前の皇国史観をそのまま引きずっているようにみえます。   RE:9231 >大化2年7月( 646)、倭国政府は国博士の高向玄理を新羅に派遣し、「質」 >を差し出す条件で(かねて懸案だった)「任那の調」を廃止するのに合意した。 >このとき新羅が送って来たのは王族の金春秋(後の武烈王)だったが、彼の大 >人の風格は倭の朝廷の人々に好感を持たれた。   倭国政府とはおそらく大和朝廷を指すのでしょうが、かって四世紀後半以 降、大和朝廷が朝鮮南部の加耶(加羅)地方に「任那(みまな)日本府」なる 機関を設置したとか、そこを拠点に任那から税(調)を徴収するなど倭国内の ミヤケと同様な直轄支配をしたとかいう、かっての皇国史観は今でも中高年層 を中心に信者が多いようです。   こうした見方は、戦前の日本による朝鮮の植民地支配を当然視するため、 「日鮮同祖論」をかかげ古代でも天皇が「任那日本府」を拠点に朝鮮半島を支 配したという皇国史観の系譜につながるものです。   しかし、いまではこうした皇国史観は学会でほぼ否定されました。それを 反映して最近の高校教科書から「任那日本府」の記述はほとんど消えたようで す(注1)。ここではそうした最近の流れを紹介したいと思います。   日本における「任那日本府」関係の最近の説を、鈴木氏の論文から引用し、 それに適宜私のコメントをつけ加えたいと思います(注2)。 1.井上秀雄説(注3)   井上秀雄「任那日本府と倭」は、中国、朝鮮史書の倭記事の検討から、そ れらの史書にいう倭は加耶の別称であるとの結論を導き出し、「任那日本府」 とは加耶在地の豪族によって構成された合議体であり、倭王権のみならず日本 列島の勢力とは全く無関係であるとした。  (コメント)朝鮮南部にも倭があったなどというと荒唐無稽に思われるかた も多いのではないかと思います。しかし『魏志韓伝』によれば「韓は帯方の南、 東西は海を以て限となし、南は倭と接す」と書かれてあり、朝鮮南部にも倭が あったように認識されています。   同様に、かの『魏志倭人伝』でも倭の北岸は狗邪韓国、現在の金海市とさ れており、弥生時代に朝鮮半島にも倭があったのは間違いがないと思われます (注4)。   こうした史書の記事は皇国史観にとって都合が悪いのか、いままでほとん ど無視されてきたので、井上説を意外に思われるかたも多いのではないかと思 います。 2.請田正幸説(注5)  「日本府」の実態究明に重点をおいた研究としては請田正幸「六世紀前半の 日朝関係-任那『日本府』を中心として-」が、「日本府」とは政治的機関・ 機構ではなく、使者の意味であり、実体は倭王権が派遣した官人であるとした。 3.奥田尚説(注6)   奥田尚「任那日本府と新羅倭典」は『三国史記』記載の新羅倭典が対倭外 交機関であることから敷衍して「任那日本府」とは加耶諸国が対倭外交のため に設置した外交機関であるとの見解を提起した。 4.吉田晶説(注7)   吉田晶「古代国家の形成」は倭国の国家形成と加耶諸国の関連を論じ、倭 国の国家形成にとって海外の異種族を領土的に支配する必然性はなく、国家形 成の主体勢力としての畿内勢力が朝鮮諸国の先進文物を独占することに主眼が あったとし、「日本府」は倭王権がら派遣される府卿と加羅諸国の旱岐層ある いは上級貴族から構成され、加羅諸国がその連合を実現する場としてもってい た外交などの重要事項を論議する会議が実体である、とした。 5.鬼頭清明説   鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』は、「任那日本府」は倭が派 遣した官人が構成するとしながらも、その支配とは貢物を得る間接支配=「貢 納受領体制」と理解し、倭とはヤマト王権ではなく、それに先行する倭国内の 別個の政治勢力であるとした。  (コメント)その後、鬼頭氏は次のように書いており、うえの文とはニュア ンスがかなり異なります(注11)。        --------------------   実際に日本府があったと書いてあるのは安羅(加耶の一国)ですが、安羅 の地元の豪族が倭府という呼称のもとに存在していて、それがある程度加耶諸 国の政治的な決定、あるいは百済からの諮問に対するきちんとした回答を出す 際に、重要なメンバーとして参加していたことは、認めていいのではないかと 思います。   かってのように、「任那日本府」があって、大和の大王家の命令のままに 動くというような支配機構があったという考えは、すでに克服されているので、 そういう説を言う方はあまりいないと思います。  『日本書紀』は、「任那の調」の起源を語るために、こういう編纂をしたわ けですが、その中を読んでいくことによって、「任那日本府」は、任那から調 を取り立てるための機関といえるようなものでもなく、任那を中心とする洛東 江の沿岸を直接支配しているかのように理解することが事実でないということ は、確認していいのではないかと思っています。        -------------------- 6.山尾幸久説   山尾幸久『日本国家の形成』、『日本古代王権形成史論』は、四、五世紀 に倭王権が朝鮮半島南部を支配したことはないとし、「任那日本府」とは倭王 権が加耶地方に派遣した官人であるとした。   また、官人派遣の史的起源については、百済人木満致が五世紀前半に加耶 を支配した事実があり、彼の倭国移住によって倭王が加耶支配権を継承したこ とに起因すると論じた。  (コメント)木満致は『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』にも登場する百済 の高級官僚ですが、門脇禎二氏によれば、かれは日本に渡来し、大和の曽我に 住んだので蘇我満致と呼ばれるようになったとのことです。   蘇我満致の子孫は韓子、高麗、稲目、馬子、堅塩媛、用明天皇、聖徳太子 と続きますが、子や孫に渡来系の名があるのはその傍証になるとのことです (注8)。 7.大山誠一説(注9)   大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」は「任那日本府」は、加 耶諸国が独立を維持するために加耶諸国の王と日本府官人が一種の合議体を構 成したもので、その成立は六世紀前半の継体朝の時代であるとした。 8.鈴木靖民説(注10)   鈴木靖民「東アジア諸民族の国家形成と大和王権」は倭王権から派遣され た「倭臣」と現地倭人系から構成された集団が「日本府」で軍事外交的機能を もつとする。   それは、加耶諸国の旱岐層から構成された合議体とは相対的に区別される が、百済の外圧を受ける加耶諸国は「日本府」の調停能力に依存したとする。   この研究は、従来漠然と論じられていた倭の官人と加耶諸国の合議体との 関連をより深く論じた点に成果があるといえよう。 9.金鉉球説   金鉉球『大和政権の対外関係研究』は、「任那日本府」は百済が加耶地域 統治のために設置した機関であるが、『日本書紀』があたかも倭王権の機関で あるかのごとく改竄したとみる。  「日本府」を構成した倭人は百済に任命された官人、傭兵であり、ことごと く百済の統制下にあったとする。   従来、倭王権と加耶との関係からのみ論じられてきた研究に百済からの視 点を提起した点に意義が認められる。   これらの説を総合すると、大和朝廷の“ミヤケ”に類似した直轄支配はな かったということができます。つまり「任那日本府」は大和朝廷の行政機関で はなかったということになります。   その構成も単なる使人とみるか、あるいは未熟にせよ「官制」的な人的集 団としてみるのか、これは依然として争点として残されています。   さらに、その構成主体は倭王権の官人とみるのか、加耶在住の豪族とみる のか、あるいは両者の合議体とみるのか争点は残されているものの、日本の学 会は加耶在地勢力の主体性・自立性を重視する方向にあります。   一方、成立時期ですが、戦前に喧伝された4世紀説を採用する歴史学者は ほとんどなく、5世紀説すら少数であり、おおかたの共通認識は6世紀説のよ うです。   そもそも「日本府」の日本という名称ですが、これが国名として対外的に 使われだしたのは670年ころで、それより160年も前の継体3年になぜ突 然「任那日本県」という名称がでてくるのか、まったくナゾです。   これは、『旧唐書』の日本国伝に「日本国はもと小国だったが、倭国の地 を併せたのだ」と書かれていることと、もしかすると関係があるのかもしれま せん(注12)。   もし、旧唐書にいう「倭の別種」である日本国が加耶で誕生し、海を越え て倭国を併せて大和政権をつくったとすると、江上氏の天皇騎馬民族説の一部 になりそうです。   その征服過程で日本国は、出身地である加耶と一体感をもち、高句麗好太 王の碑文にあるように新羅などを攻めたりしたのかもしれません。   同時に精神的支えとして加耶の天孫降臨神話を借用したり、あるいは蘇我 氏などが中心になって、日本書紀のタネ本になった天皇記や国記でことさら 「任那日本府」を特筆大書したのかもしれません。 (注1)たとえば、実教出版『日本史B』1997、日本書籍『日本史』1997、   自由書房『新日本史B』1997など (注2)鈴木英夫「加耶・百済と倭 -『任那日本府』論-」   『朝鮮史研究会論文集』第29集,1991 (注3)井上秀雄『任那日本府と倭』東出版、1972 (注4)『魏志倭人伝』岩波文庫、1951  (帯方)郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、ある  いは南しあるいは東し、その北岸・狗邪(くや)韓国に至る7千余里。始め  て一海をわたる千余里、対馬国に至る。 (注5)請田正幸「6世紀前半の日朝関係-任那『日本府』を中心として-」   『朝鮮史研究会論文集』11号 (注6)奥田尚「任那日本府と新羅倭典」『古代国家の形成と展開』 (注7)吉田晶「古代国家の形成」『新岩波講座・日本歴史2』 (注8)京都文化博物館編、門脇禎二他『古代豪族と朝鮮』新人物往来社,1991 (注9)大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」   『古代文化』260,262,263 (注10)鈴木靖民「東アジア諸民族の国家形成と大和王権」   『新岩波講座・日本歴史』原始・古代1 (注11)鬼頭清明他『加耶はなぜほろんだか』大和書房、1991 (注12)『旧唐書倭国日本伝』岩波文庫、1956  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


#8115/8115 日本史ボード(PCVAN) ★タイトル (SPM07550) 00/ 1/30 23:16 (145) 古代史】皇国史観と「任那日本府」(2)   半月城 ★内容   がんもさん、どうもレスが遅くなりました。  「任那日本府」の名称ですが、それが唯一記述されている日本書紀では、日 本府があったとされたのは安羅であり、そのうえ日本府執事が任那執事と区別 されていることから、任那日本府はむしろ安羅日本府と呼んだほうがいいのか もしれません。   その安羅日本府も、時には安羅諸倭臣と書かれたりしており、そもそもそ れは単なる倭臣の集まりなのか、あるいは機関なのかすらあいまいで、専門家 を悩ませているようです。   RE:8089 >『日本書紀』には、欽明15年(554年)12月条に当時の百済王・聖明王 >が大和朝廷に奉った上表文が乗っています。それによると >「百済王臣明(=聖明王)及在安羅諸倭臣等、任那諸国旱岐等奏(以下略)」 >とあります。この文には「日本府」の文字は見えません。そのかわり「安羅諸 >倭臣等」という集団が、百済王や任那諸国の王に並ぶ位置と見なされていたこ >とが分かります。   日本書紀が記す百済と日本府あるいは諸倭臣との関係ですが、上に引用さ れた欽明15年条で両者は一見同列のようにみえます。   しかし、同書によると日本府の名称がはじめて登場する欽明2年(540)4月、 天皇の意を受けた百済は、安羅や加羅、多羅の諸旱岐らとともに任那日本府吉 備臣を呼んで任那復興会議を招集したことになっていますので、日本府はある 程度百済の影響下にあったようです。   しかし、その影響力には限界があったとみえ、同年7月、日本府自身は百 済につくよりも新羅につくほうが有利と判断したのか、日本府の河内直は新羅 に内通したと同書は記しました。   RE:8089 >「百済は安羅日本府が新羅とはかりごとを通じたことを聞いた。そこで重臣を >安羅に使わして、新羅に行った任那の執事を招いて任那を再建する相談をし >た。・・・」   その後、日本書紀の記述によれば、欽明5年にも百済はしばしば日本府な どを呼び復興会議を招集しました。そこにおいて、がんもさんが書かれたよう に日本府は倭王権の外交権を体現しているわけでもないので、百済側からみる と日本府は百済が主宰する復興会議の一メンバーという位置づけにすぎないよ うです。   こうした事情から、日本府は百済の機関であるという金鉉球氏の説が生ま れたようです。しかし、この説を鈴木英夫氏はこう批判しました(注1)。        --------------------   『日本書紀』欽明二年、同五年のいわゆる「任那復興会議」をみると、百 済王が「諸倭臣」、加耶諸国の使者・代表を招集して、「南加羅」・「金官加 耶」の復興策について協議しているのであるが、「任那日本府」を倭王権の外 交機関や、加耶諸国を統制・支配する機関とみると不可解な点がいくつかある。   第一は、百済王が会議を主催していること、第二に「諸倭臣」が倭王権の 外交権を体現していないこと、第三には第二点と関連するが、「諸倭臣」「任 那」諸旱岐が百済王を通じて倭王の意志・命令を伝達されていることである。   倭王権の、「諸倭臣」や「任那」諸旱岐への影響が意外に小さく、むしろ 百済の統制力が無視できないのであり、そうした面を極端に重視するならば、 「日本府」は倭王権とは全く無関係の在地豪族の合議体とする井上秀雄氏の説 や「日本府」は百済が加耶支配を目的として設置した機関だとする金鉉球氏の 最近の研究のような結論が導かれることになる。   しかし、両説ともに「任那復興会議」の一側面を固定的かつ過大に評価し ているといわざるをえない。結論的にのべるならば、「任那復興会議」は百済 が加耶連合を主宰する立場、すなわち「盟主」の地位を継承して招集したもの と考えられる。   百済王は531年以降に加耶諸国内に軍官を派遣して軍事支配を実現する とともに、本来、加耶連合の合議の場であったものを百済の加耶支配の一機構 として存続・再編したのである。   前述のように加耶諸国は531年以降は単独では倭王権に遣使しておらず、 百済との共同として記されているのであるが、これは外交意志を形成する場が 百済に掌握されたためと考えられる。   さらに、「在安羅諸倭臣」が倭王の命令を百済王を通じて指示されている ことも合理的に解釈される。すなわち、「在安羅諸倭臣」も加耶諸国と同様に 百済の支配秩序に編入されたのであり、もはや倭王権の外交を体現する機能は 失われている。   従って、531年の百済の安羅制圧、加耶諸地域の軍事支配の成立は「任 那日本府」すなわち「在安羅諸倭臣」や加耶連合・加耶諸国の政治的立場を一 変させたのであり、「任那復興会議」を「任那日本府」の実態と見て、それを 基礎にして立論するのはかなり問題があると思われる。        --------------------   日本書紀の論理にしたがうかぎり、うえの説はそれなりに説得力があるの ですが、そもそも日本書紀自体それなりのバイアスがかかっていることはいう までもありません。   日本書紀編纂の目的はよく知られているように、律令による天皇の支配を 正当化するために、律令国家を人格的に体現する天皇の神性的権威の根源を歴 史的に説くことにあります。   具体的にいうと、対内的には律令国家に組織編成された諸氏族が歴史的に 天皇に奉仕してきたことを系譜的に主張することにあります。   また対外的には、周辺国を蕃国・夷狄とさげすみ、それらに対する優位性 すなわち中華的観念の根拠を史的に説明することにあります。   こうした目的のために、今は失われた百済本記など百済三書を引用したの ですが、百済三書は百済滅亡後の亡命百済人が大和朝廷に奉仕する目的で書か れたようで、その信憑性にはおのずと限界があります。百済三書が生まれた時 代背景を鈴木氏はこう記しました(注1)。        --------------------   百済や加耶を「官家(みやけ)」として服属国視する認識は六世紀代の史 実に基づくものではなく、八世紀代の律令国家支配層の新羅観・国際観から派 生したものとみてよいだろう。   そこには新羅を「蕃国」としてはずかしめながらも、新羅の態度によって はいつでも容易に崩壊する脆弱さをもつがゆえの不安感と新羅への警戒感が示 されているといえるだろう。   ところで「百済本記」は「官家」を「弥移居」と表記するが、六世紀代に 実際に用いられていたわけではなく、「日本」、「天皇」、「三韓」など七世 紀以降に出現する用語と併出していることからみるならば、「百済本記」ある いは『日本書紀』編纂時の改変と考えるのが妥当である。   もちろん、このような改変は編者の恣意のままになされるわけではなく、 何らかの史的背景をもつはずである。おそらく、かかる新羅観・百済観・「任 那」観が醸成された直接の契機は七世紀後半の百済滅亡と百済への出兵・新羅 との交戦があると思われる。   百済救援の役の時に百済王子豊璋を「百済王」に冊立し、倭王権の官人組 織に組み込んだのは事実であり、その時点をみれば、百済を付庸国視し「官 家」とみなすのが全く虚構というわけではない。   こうした七世紀後半以降の百済観を六世紀の歴史にまで遡及して投影・反 映させるうえで史料的根拠となったのが、いわゆる「百済三書」である。「百 済三書」が最終的に編纂されたのは百済滅亡後の亡命百済人が『日本書紀』編 纂のために倭王権に史書を提出する必要が生じたことによるのであろう。  「百済三書」において倭王への従属と奉仕が語られるのは他の氏族の場合と 同様であり、何ら不自然なことはないであろう。   こうした性格をもつ「百済三書」の記述を核にして、さらに潤色を加えて、 百済・「任那」を「官家」視する史観が形成されたのである。        --------------------   鈴木氏はこのように百済三書の性格を分析したうえで、任那日本府につい て次のように結論をだしました。        -------------------- (1) 四ー五世紀に倭王権が朝鮮半島を支配したことは金石史料、中国史料から は証明できず、『日本書紀』の記載内容も信頼するわけにはいかない。ただ、 『広開土王碑』によれば、百済と結んで倭王権が何度か出兵した事実はある。 (2) 五世紀代に高句麗の勢力は朝鮮半島南端地域に及び、倭王は反高句麗勢力 を結集して対峙せしめんとの意志をもったのは確かであるが、朝鮮半島南部地 域を実際に支配したわけではない。 (3) 倭王権の安羅進出が百済の進駐によって集結すると百済は加耶の「盟主」 の地位を掌握した。百済が「盟主」として主宰した会議がいわゆる「任那復興 会議」である。   この後、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済 の「傭兵」的性格に変質することになった。 (4) (3)の事実が『日本書紀』編纂時に八世紀代律令国家の新羅蕃国視によっ て誇張・拡大され、「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任 那」の従属を核とする内容の史的構想が成立した。        --------------------   この説は大筋において無難なように思えますが、ただ倭王権が安羅に進出 したのか、あるいは逆に安羅や金官加耶あたりから倭に進出したのか、判断は 保留にしたいと思います。 (注1)鈴木英夫「加耶・百済と倭 -『任那日本府』論-」   『朝鮮史研究会論文集』第29集,1991  (本記事は下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/12 - 09433/09433 PFG00017 半月城 皇国史観と神功皇后伝説 ( 8) 00/01/12 22:12   前回は「任那日本府」をめぐる皇国史観をとりあげましたが、この出発点 は神功皇后の新羅「征討」または「三韓征伐」におかれるのが通例なようです。 そこで今回は、その伝説の実体を明らかにしたいと思います。   まず神功皇后(別名オキナガタラシヒメ)については、あらためて説明は 不要かとおもいますが、日本書紀では天皇なみに独立の章がもうけられるなど、 破格な扱いをうけている女性です。   皇后の出自は『古事記』によれば、父方の五代前の先祖が開化天皇、母方 の六代前が新羅の王子・天日矛(あめのひぼこ)とされています(注1)。ま、 両者ともその実在は疑わしいようですが、名目的な血統からすれば国際人とい えます。   次に皇后伝説ですが、古事記や日本書紀に書かれた業績は『大百科事典』 (日立デジタル平凡社)によれば、次のとおりです。        -------------------- [神功皇后伝説の大要]   熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を 授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い, 神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝 鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。   再度皇后に神が憑(つ)き,こんどは胎中の子にそれを授けようと託宣する。 憑いた神は住吉大神(すみのえのおおみかみ)であった。神言に従って神功皇后 はみごもったまま新羅を攻める。神助を得て船は一挙に新羅に至り,国王は恐 懼(きようく)して服従を誓った。   帰国後九州で生まれた〈御子〉とともに大和に帰還し,〈御子〉の異母兄 弟で謀叛を謀った忍熊王(おしくまのみこ)を滅ぼす。こののち皇子は武内宿禰 にともなわれて角鹿(つぬが)でみそぎをし名を変える。のちの応神天皇である。   成人して帰った子を,神功は〈御祖(みおや)〉として待ち迎え祝福する。 神功皇后は,以上の話の前半では巫女的存在,後半では〈御祖〉という二面の 造型を与えられている。        --------------------   神功皇后は宝の国、新羅を攻めるとき身ごもっていたのですが、途中で出 産しないよう腰に石を縛りつけて出陣したそうでマンガになりそうな光景です。   このように奇想天外なエピソード以外にも、皇后に恐れおののいて降伏し た新羅王を従者さながらに飼部(うまかいべ)にしたとか、神功伝説にはおと ぎ話もどきが多いのが特徴です。   それでも古事記、日本書紀は日本最古の文献とあって、そんなおとぎ話か らすこしでも史実をなんとか読みとろうとする研究が津田左右吉をはじめとし てなされてきました。   戦前、津田は著書『日本古典の研究』で、皇后伝説は後世に付けたされた ものがすこぶる多く「歴史的事実を語っていない」と断言しました。   なかでも新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たもので はなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、 物語として構想せられたものらしい」と推測しました。そのうえで伝説の成立 時期を六世紀の継体朝や欽明朝としました。   このような津田の著書は、当時、皇国史観に害があるとして問題になり、 戦前のファッシズムにより発禁処分になりました。   戦後、ファッシズムの崩壊によりやっと神功皇后伝説の研究も自由にでき るようになりました。そのなかで、直木孝次郎氏は津田の研究を発展させ注目 すべき説を発表しました。   同氏は伝説の成立時期を、倭が新羅を決定的に憎悪するようになった七世 紀以降と考え、こう記しました(注1)。        --------------------   もとより伝説の全体が一挙に作成されたのではなく、仲哀天皇死去のこと は斉明天皇の急死の事実から、新羅王の降伏は推古朝における新羅征討の事実 から、応神天皇の誕生は草壁王子の誕生の事実から、あるいは神功皇后の女帝 的地位は、推古朝以降における女帝の頻出という一般的情勢から、というふう に徐々に形成され、新羅打倒について六世紀以来、朝廷内部にひきつづいて存 したはげしい願望が原動力となって、一つのはなばなしい新羅征討の物語にま とめあげられたのであろう。   単に願望だけではない。こうした物語の成立は、日本による新羅支配の正 当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征の将士の士気を鼓舞するために も、実際上必要である。   対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、こ うした物語の形成を促進したものと思う。   持統朝でも、その三年五月に、来朝した新羅使に下した詔(みことのり) のなかで、新羅の服属の歴史をのべ忠勤をはげむべきことを命じている。物語 を発展させる空気は持統の朝廷でも濃厚であったのである。  『記・紀』に定着するまでには、そのほかたとえば、津守氏と住吉神社に関 係ある物語や香椎宮のことなど、いろいろの伝説・伝承が加えられたことであ ろう。   こうしてできあがった物語が、応神以前のこととされ、中心人物が応神の 母とされたのは、新羅に対して日本の優越する関係の成立がかなり古く、当時 存在が確実に知らされていた最古の天皇である応神天皇以前にさかのぼるとい う漠然たる知識が存していたからであろう。   なお個々の部分については多少の疑問は残るが、神功伝説の大綱は、この ように主として七世紀以降に成り、神功皇后は推古・斉明(皇極)・持統三女 帝をモデルとして構想されたものとみて、大過はないと考える。        --------------------   直木説によれば、倭は新羅を憎むあまり、過去に新羅を攻めた記憶をこと さら脚色し、女帝をモデルにして、神功皇后伝説を作りあげたということにな ります。   一方、この伝説を違った角度からみて、伝説は倭における初代王の誕生を 権威づけるために脚色されたとする説などもあります。さきの『大百科事典』 の執筆者である倉塚樺子氏は、うえの文に続けてこう記しました。        -------------------- [背景と意味,古代王権と朝鮮]   前半はかつて〈神功皇后三韓征伐〉などと喧伝された話だが,よくよむと 胎中の応神を主役とした話だといえる。瓊瓊杵(ににぎ)尊が天照大神(あまて らすおおかみ)から葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治権を授かったのと 同様に,住吉大神から応神が母の胎内にいながら先進文明国朝鮮の統治権を授 かった話とよめるのである。この応神の代から文明時代は始まると《古事記》 は語る。皇子が試練を経て成人するという後半の話にはあきらかに成年式儀礼 の投射がみられ,前半を上のようによめば,以上の話は文明時代を開いた初代 王誕生の物語として前後半を統一的によむことができる。かかる初代王の誕生 に神功皇后は欠かせない存在であった。        --------------------   古事記や日本書紀は、応神天皇の代になってやっと天皇の実在感が出てく るのですが、正史である日本書紀は「初代王」応神天皇の権威を高めるため、 それなりに脚色したという説はそれなりに説得力があります。   そのスケープゴートになったのが新羅王といえます。飼部になり朝貢する ことを誓ったと書くなど、日本書紀は小中華意識をあらわにしました。   そうした荒唐無稽な作り話が、戦前、日本による朝鮮の植民地支配を当然 視するための基盤に活用されました。   現在ではこの皇国史観をそのまま信じる人はまずいないでしょうが、それ でも神功皇后の新羅征討伝説は、倭の新羅攻撃という史実を形を変えて反映し たものではないかとみる人は今でもけっこういるようです。 (注1)直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学芸文庫,1988  (本記事はML[zainichi]および下記ホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/23 - 09493/09493 PFG00017 半月城 皇国史観と七支刀 ( 8) 00/01/23 19:28   前回書いたように、神功皇后伝説は6,7世紀になって創られたとするの が歴史学者の大方の見方ですが、そのなかで「新羅征討」伝説は何らかの歴史 的事実を反映したものではないかと考える研究者はけっこういるものです。   たとえば、鈴木靖民氏もそのひとりです。同氏は、日本書紀では時々ある ように神宮皇后伝説も干支で二運、すなわち120年ずらすと朝鮮半島での歴 史的事実にうまく合うと考えているようで、倭の朝鮮出兵についてこう語りま した(注1)。        --------------------   石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)は、369年と371年 の高句麗・百済戦争に倭が百済に味方して出兵した記念品といわれていますが、 その七支刀自体に直接(倭の)出兵のことが記されているわけではないんです。   では、どこに出兵の根拠があるかというと、この戦争のことは『三国史 記』の369年と371年の記事に出ていますし、『日本書紀』の「神宮皇后 紀」にもあります。  『日本書紀』は大変に古い出来事にしていますが、干支を(二運)くり下げ ますと364年、367年になります。そういうものをお互いに補って、百済 と倭の関係の成立ということが考えられます。   その関係の実態として、七支刀の銘文に「倭王」とありますから、列島に は王がいるんだから倭にまとまりをもった政治権力が構成されていただろう、 であればたぶん百済側に味方して出兵しただろうと考えるわけです。        --------------------   たしかに、当時の朝鮮半島では百済と高句麗が熾烈な戦争をしている最中 でしたが、そこに倭が出兵したかどうかは史料からするとどうやら裏付けがな いようで、推測の域をでません。   なお、当時の朝鮮半島の戦局ですが、百済ー高句麗戦争で百済の近肖古王 は強大国である高句麗の侵入を二度も退けたうえ、371年には凍てつく平壌 を逆に急襲するという自滅になりかねない危険な作戦をあえて敢行し、高句麗 の故国原王を戦死させるなど華々しい戦果をあげました。   しかし、高句麗はこのような屈辱に甘んじるような国ではありませんでし た。復讐にいきり立ち、375年、高句麗は百済北辺の水谷城を攻めおとしま した。   このように、両者は食うか食われるか熾烈な死闘を繰りひろげましたが、 これらの戦闘に倭が加わった可能性はあるいは高いのかもしれません。その動 機について鈴木氏はこう続けました。        --------------------   (倭は)『日本書紀』の任那記事のように侵略するために出兵したという のではなくて、海を隔てておりますけれども、倭と加耶、百済との間に政治的、 外交的利害が一致するところがあり、多くの場合、むしろ加耶や百済の主導下 に、軍事行動を起こしたのではないかと思います。  ・・・  『日本書紀』などから見た五世紀段階の研究からいえば、加耶諸国や百済が 倭兵導入策を何回かとっているんです。ですから倭兵導入はたぶん歴史事実だ と思います。   これは現代風にいえば外人部隊、外国の傭兵ですね。軍事的云々というこ との実体としては、こういうことは充分考えられるだろうということをつけく わえたいと思います。        --------------------   倭は外人部隊として朝鮮に出兵したという鈴木説は目をひきますが、これ はありうるかもしれません。とくに倭と加耶との関係でいうと、交易のために 外人部隊を派遣するのは有力な取引材料になりそうです。   加耶は古く狗邪(くや)韓国の時代から、倭や新羅、楽浪郡などに古代の 通貨にも匹敵する鉄を供給する中心地でした。   その鉄を求めて倭の各地の豪族たちは加耶と直接交易を行っていたようで すが、それについて韓国で加耶遺跡発掘の第一人者である申敬澈氏はこう記し ました(注1)。        --------------------   大和勢力は鉄を入手するかわり、加耶に何かをやらなければならない。で は、それは何だったのか。率直に申しますと、その頃の加耶と倭の水準から見 ますと、倭製のもので加耶が必要としたものは全くありませんでした。   ですから加耶の側では、倭の支配者の象徴的所有物だけもらったんだと思 います。それが巴型銅器だとか碧玉製石製品だった。   それ以外には、ちょっと日本の方々には失礼な言い方になりますけれども、 人間しか日本にはなかったんです。鈴木先生がいわれる四世紀半ば以降の画期 や、韓半島への倭の出兵などにつきましても、こうしたことはふまえておく必 要があると思います。   もちろん、倭に強い軍事力があったとして、倭と加耶の交流に軍事的意味 あいを強調し、倭系遺物は政治・軍事同盟のしるしであったと考えることも可 能です。しかし、そう主張するには、考古学的な裏付け資料がいるのではない か。   加耶では(三世紀末の)古墳出現と同時に、定型化した鉄製甲冑(かっち ゅう)が大量に出てきます。   一方、日本の前記古墳の場合、鉄製甲冑は出るには出ますが、わずかな上 に、定型化していなくてバラバラです。あるいは当時の日本では鉄製甲冑は重 要ではなかったのかもしれません。甲冑には鉄製だけでなく革製や木製もあり ますから。   いずれにせよ、日本で鉄製甲冑が定型化するのは四世紀の終わりか五世紀 以後、だいたい古墳時代中期からです。ですから、四世紀中頃以後の倭と加耶 との交流に軍事的意味あいがあったとしても、それは対等な関係ではなかった と思います。        --------------------   申教授も倭は鉄や鉄製武具を入手するために、人やそれなりの物を提供し ていたとみているようです。日本では巴型銅器や碧玉製の石製品といった倭系 遺物は、首長の墳墓や前方後円墳などから副葬品として出る、いわば支配層の 権威のシンボルですが、大塚初重教授によれば、加耶ではそれらはステイタス の低い人の墓からも出てくるとのことです(注1)。   一方、四世紀における百済と倭との関係ですが、両者をつなぐ確実な史料 や遺物は、奇妙な形の七支刀以外にほとんどなく、推測の域をでません。   七支刀にしても、それがもたらされた経緯は不明ですが、神宮皇后伝説を そのまま信じた戦前の皇国史観では、この刀は百済から倭王に献上されたもの とされ、百済王が倭王に服従していた物的証拠とされました。   このように、七支刀は皇国史観を支える第一級の数少ない金石文史料だっ たのですが、その根幹となる「献上」の根拠は後に見るように七支刀の銘文に はなく、天皇中心の皇国史観が克服されつつある現在、献上説はほぼ否定され ました。   それどころか逆に銘文に書かれた「候王」が百済の諸侯を意味することか ら、七支刀は百済王から候王のひとりである倭王に下賜されたものだという有 力な説もだされました。   しかし、日本の学会では候王を一種の吉祥句・慣用句とする見解が有力に なりつつあるようで、両者は対等な立場に立っているという見方が強いようで す(注2)。   七支刀には他にもまだいろいろ謎があります。七支刀を贈られた人物です が、七支刀には「為倭王旨造」とあり「旨」が贈られた倭王の名前と考えられ ています。しかし、この名前は記・紀には見あたりません。   日本書紀では神功皇后52年条に「(百済人)久ていが、千熊長彦に従っ てやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、それにさまざまの重宝を献上 した」と記述されています(注3)。しかし、倭王旨を女性の神功皇后と考え るのはもちろん無理です。したがって贈られた倭王の正体は不明なままです。   また、贈られた年、泰和4年についても、369年説、480年説、46 8年説などさまざまな説があります。贈った人も百済の貴須王子なのかどうか、 これにも異論があります(注4)。   このようにまだまだ研究の余地が残されている七支刀ですが、通説で銘文 はこう解釈されています(注4)。  「泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を 造った。すすんでは百たびの戦いを避け、恭(うやうや)しい候王(が帯びる の)にふさわしい。   先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子・貴須は、 特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである」   七支刀は、美術工芸品としてもすばらしいものですが、この刀に象徴され る鉄器文明や鉄製武具、騎馬文化などが4世紀末に朝鮮半島からとうとうと日 本に入り、古墳時代の性格を一変させたのは周知のとおりです。ここから皇国 史観を真っ向からひっくり返す江上波夫氏の天皇騎馬民族説が生まれたのはい うまでもありません。 (注1)文芸春秋編『幻の加耶と古代日本』文春文庫 (注2)鈴木英夫「加耶・百済と倭 -『任那日本府』論-」   『朝鮮史研究会論文集』第29集,1991 (注3)久ていの「てい」は、「抵」からてへんを取った字。   引用は山田宗睦訳『日本書紀』教育社新書,1992 (注4)佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』岩波文庫,1998  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00/02/06 - 10887/10887 PFG00017 半月城 南京虐殺(9)「ニセ写真」 ( 7) 00/02/06 22:00   最近、大阪の博物館「ピースおおさか」で開かれた大虐殺否定派の「南京 大虐殺の徹底検証」集会は、中国をいたく刺激したようです。中国外務省から 抗議があったのをはじめ、意外にも運輸省など中央省庁のホームページ書きか え事件に飛び火したようで、また日中間の巨大な焼けぼっくいがくすぶりだし たようです。   このような世相にあわせ、久しぶりに南京虐殺事件シリーズの続きを書き たいと思います。今回は大虐殺否定派がさかんに批判する「ニセ写真」問題に ついて、手紙形式でまとめてみました。        ********************* Yさん、はじめまして。   最近は南京事件の「ニセ写真」問題がかまびすしいようで、岩波新書『南 京事件』のように、写真の誤用が一枚でもあると、さもその著書全体がデタラ メであるかのようなキャンペーンが雑誌『SAPIO』などで繰りひろげられ ているようです(注1)。   しかし、そうしたメディアが問題にしている「ニセ写真」は、多くは南京 事件と特定できないだけで、もちろんヤラセ写真や偽造ではなく、それどころ か、それらは日中戦争のひとこまを記録する貴重な資料ではないかと思います。   そうした写真をYさんは「ニセ写真」と決めつけておられるようですね。 >あなたのサイトを見た一高校生の意見なんですけど南京事件を証明するのに >「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」を出すのはちょっと、変です。 >あの資料は誤報で出来たようなもので、使用されている写真はほとんどが >ニセ写真なんですが・・・ >ニセ写真と言えば小林よしのり氏の「戦争論」にも一つありました   私のサイト、半月城通信は南京事件を証明しようとしたホームページでは ありません。それは、世界的に知れわたった南京事件とはどのようなものであ ったのか、その真実にすこしでも迫るつもりで真剣にかわした議論を転載した 私の意見集です。   そこで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』とその著者アイリス・チャンを数 カ所引用したのは確かですが、それはもちろん「証明」に結びつくものではあ りません。   私はまだ『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』を見ていないので、その写真に ついてはコメントできないのですが、こうした写真のとらえ方について、先の 誤用事件の当事者である笠原氏はこう記しました(注2)。        --------------------   南京安全区国際委員たちが南京事件の一端を撮影した写真の多くは、イ ェール大学神学図書館に所蔵されていて、拙著『南京難民区の百日-虐殺を見 た外国人』(岩波書店、1995年)でも何枚か紹介した。   ラーベ日記にも国際委員たちが撮影した多くの写真が収録され、中国語版 にはそのまま掲載されているが、日本語版『南京の真実』(講談社、1997年) では残念ながら相当枚数省略されている。   ラーベがヒトラーに宛てた報告書の附属文書には、安全区国際委員(主に マギー牧師)が撮影した南京事件関係の写真80枚がそれぞれにラーベの丁寧 な解説をつけて収録されている。撮影者と出所と撮影現場が特定できる貴重な 南京事件写真資料である。  ・・・   日中戦争において日本軍が引き起こした多くの侵略、残虐事件の中で、こ れだけフィルムと写真の資料が残されたのは、むしろまれな例であるといえる。   それは、量的にも規模的にもはるかに被害が膨大であった「三光作戦」の 現場写真がいかに少ないかを想起すれば、容易に理解できよう。   日本軍当局は、侵略、残虐事件の写真、フィルムを厳格周到に取締って撮 影させず、たとえ撮影したものがあれば、兵士個人の日記、郵便物、持ち物ま で含めて厳密に検査、検閲したのである。   いっぽう、被害者の中国人側には、戦火、戦場において、日本軍の残虐行 為を撮影、記録できる条件は皆無に等しかった。        --------------------   軍人がオールマイティであった軍国主義時代、日本人や中国人が皇軍兵士 の残虐行為を撮影することなど自殺行為に近かったようです。当時、陸軍は検 閲制度をもうけ「新聞掲載事項許否判定要領」で下記に該当する記事や写真は 不許可にしました(注2)。  ・・・ (12)我軍に不利なる写真 (13)支那兵または支那人尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)  あるもの (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支  えなし   これでは虐殺写真が残るはずがありません。残るのは「我軍に有利」なヤ ラセ写真になりがちです。そのようすを南京安全区国際委員のマッカラム氏は こう記しました。  「1938年1月9日-難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、 ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影 していた。   こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入 して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった(『南 京事件資料集1』青木書店、1992」   また、報道管制とならんで言論弾圧も厳しいものがありました。その一端 を笠原氏は、作家の石川達三を例にあげ次のように記しました(注3)。石川 氏は、たそがれ小説「48歳の抵抗」で一躍有名になった作家です。        --------------------   ここでは報道管制と弾圧の一事例だけを紹介する。作家の石川達三は、中 央公論特派員として占領直後の南京に滞在、兵士からの取材をもとに、南京攻 略戦に参加した日本兵たちの捕虜、民間人の殺害、婦女暴行などの行為をリア ルに描いた「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)を執筆した。   同号は即日販売禁止となり、石川は禁固四か月執行猶予三年の判決を受け た。同氏の編集長も起訴され、退社を余儀なくされた。   弾圧に弱い日本のマスメディアにたいしてこの処分が脅しの意味をもち、 日本のマスメディアは南京事件を報道しなくなったのである。   南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南 京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている(『南京戦史資料集 2』偕行社)。   南京事件が東京裁判でデッチ上げられたのではない証拠に、石川達三は 「裁かれる残虐『南京事件』」と題して、自分の見聞した残虐事件を述べ、 「南京の大量殺害というのは実にむごたらしいものだった。私たちの同胞によ ってこのことが行われたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を 意義あらしめたいと思う」と語っている(『読売新聞』1946年5月9日)。        --------------------   日本人や中国人にとって、南京にかぎらず虐殺現場の写真を撮ることは至 難なことだったようです。そのため残された写真は、日本軍の統制が利きにく い欧米人によるものか、あるいは皇軍兵士が「勇猛果敢」を誇示する目的で撮 ったものに限られるようです。   皇軍兵士がとった写真は写真屋で現像の際にこっそり残され、それが現在 中国に残っているようです。そうした写真はいきおい撮影場所や時間があいま いにならざるをえません。そうした事情を笠原氏はこう続けました(注2)。        --------------------   アイリス・チャンの本も含めて、世に出ている南京事件大虐殺写真には、 厳密な意味で南京虐殺の現場の写真でないものも多い。   ただし、それらの多くは南京事件の最中に撮影されて現場写真と特定でき ないだけで、首切りの瞬間や、中国人の刺殺場面、強姦被害の女性、中国人の 虐殺死体等々の写真が語る日本軍の残虐行為そのものは事実である場合が多い。 否定派の攻撃する「ニセ写真」とは意味が違う。南京事件とは違う場所と時間 の写真を南京大虐殺の写真であると「誤用」したのであり、他の場所で日本軍 の行った残虐行為の写真材料としての価値はあるのである。  「ニセ写真」とは、被写体が現実とはまったく違い「ヤラセ」「合成」「創 作」などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真のことである。   中国側の発行する南京大虐殺写真集に掲載されている南京事件と特定でき ない日本軍の残虐写真には、日本兵が南京の写真屋に現像・焼き増しを頼んだ ものが中国人側にわたり、戦後の南京事件法廷で証拠写真として提出されたも のもある。  ・・・   さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国 人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。   日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中 国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示 されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮 影者が特定できないものが多い。   しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録し た写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首して いる将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分かったという話を聞いている。   小林よしのり氏が「南京大虐殺はニセ写真の宝庫」というのはウソである。 「ニセ写真」ではなく、南京事件そのものと特定できない写真や他の場所の写 真が使われているものがある、ということである。        --------------------   やはり多くの写真は本物のようです。しかし、撮影場所と時間がはっきり しないと資料価値が問題になり、博物館などに展示すると思わぬ非難にさらさ れることになります。   非難する人たちは、多くの写真が真実かもしれないということには意識的 に目をつぶり、疑わしい数枚の写真の検証のみに汲々としているようです。そ うした木を見て森を見ない流儀で、なかには南京虐殺は「まぼろし」であった と短絡的に結論をだし、中国の憤激を買うありさまです。   そんな輩の雑音を防ぐため、南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念 館」では笠原氏たちのアドバイスを受け入れ、出展がはっきりしない写真は差 し替えられたようです。   一方、調査が進むにつれ新たな写真や資料が発見される可能性はまだまだ あります。つい3,4年前にラーベの日記がアイリス・チャンにより発見され たのは記憶に新しいところですが、先日も南京関係の写真が中国・長春市で発 見されたとの報道があったくらいでした(注4)。今後もこうした発掘が続く ことでしょう。 (注1)「謀略の“南京大虐殺”キャンペーン」『SAPIO』1999.7.14号 (注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999 (注3)笠原十九司「日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たち   へ」『SAPIO』1998.12.23号 (注4)長春市で日本軍の南京大虐殺における新しい証拠を発見     (ホームページ「中国情報局」http://searchina.ne.jpより引用)   発信: 2000/2/3(木) 14:38  新華社長春は「日本の右翼勢力が大阪の南京大虐を否定し、やかましく騒ぎ たてる中、長春日刊新聞は南京大虐殺の現場を記録する8枚の写真を掲載し、 歴史のために証言した。」と報道した。  《近代の百年の史》の画報が吉林長春市で偶然発見され、画集の上で当時の 日本の従軍記者が南京大虐殺の現場を撮影し、掲載した物が如実に当時の状況 を物語っていた。  “南京が大いに虐殺する”を標題に掲載された8枚の写真は、中国の平民が 自動車で刑場に送られる様子を撮影した物、死体の血をすする猫を撮影した物 など思わず目を背けたくなるような写真ばかりであったようだ。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00/02/12 - 10921/10922 PFG00017 半月城 南京虐殺(10),死体の行方 ( 7) 00/02/12 20:49 10897へのコメント   RE:10897, > 南京大虐殺が実在すれば、虐殺された死体が出てくるはずですね。物証がないの >に写真だけで議論できるはずが無いし、写真などあるわけがないポルポトの大虐殺 >は白骨という物証がありました。 > ということで、写真で議論しても無意味だと思いますよ。   こう書かれる真意がよく読みとれないのですが、南京事件では虐殺された 死体があまり出てこなかったので大虐殺はなかったと言いたいのでしょうか?  それとも虐殺の写真を云々する前に、もっと重要な「物証」である死体はど うなったのか、しっかり検証しろという趣旨でしょうか?    いずれにせよ、死体はどうなったのかについて記したいと思います。その まえに虐殺の写真ですが、メーリングリスト[aml] で日本人兵士により虐殺の 決定的証拠が撮影されたきわめて貴重な写真があるとのアドバイスがありまし たので補足します(注4)。   さて、本題の死体ですが、日本軍にとって虐殺の「物証」である死体をい つまでもさらけだしたままでは南京占領統治上、好ましいはずはありません。 死体を見るたびに中国人の日本軍に対する憎しみがかき立てられることは容易 に想像されます。   それに死体は長く放置すれば腐って悪臭を放つし、伝染病のまん延など衛 生上も問題があります。そのためか、日本の南京特務機関は新興宗教団体「道 院」の社会事業実行団体である紅卍(まんじ)字会をこっそり指導し、遺体の 埋葬を進めたようでした。   その報告書『華中宣撫工作資料』(1938.2)には「紅卍字会屍体埋葬隊(隊 員約600名)は一月上旬来、特務機関の指導下に城内外に渉(わた)り連日 屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を 挙げつつあり」とあり、意外にも日本軍の特務機関が関与していました(注1)。   これからわかるように、虐殺後2,3か月たって急ピッチで遺体の埋葬が 行われたようでした。しかしながら虐殺は大規模であったために、遺体は3月 の段階でもかなり放置されていたようでした。   そのようすは、盛文治という民間人が「南京市自治委員会救済組」にあて た要請書に赤裸々にこう記されました(注2)。        --------------------   私はこのたび郊外から(南京)城内にやって来ましたが、3月になるとい うのに途中の馬家店・大定坊・鉄心橋は左右両側、人の死体と馬の骨が野に遍 (あまね)しという有様でした。   ある者は小高いところで仰向けになって目を見開き口を開け、ある者は田 のあぜに伏せて肉と骨をさらしており、屍は鷹や犬の餌になっています。   完全なものは少なく、足や腕がなかったり、頭がとれていたりで、たとえ 五体満足なものでも、黒褐色を呈し腐乱しはじめています。   そのうえ悪臭が鼻をついて人をむかつかせ、伝染病を避けるため、現地の 人はみな鼻をおさえて歩いています。   まだ日差しも弱く高くありませんが、もし炎熱多湿の気候になったらと思 うと、想像もできません。        --------------------   まったく目を覆いたくなるような惨状です。しかしながらこうした証言も、 中国側の資料と聞いただけで拒否反応を示し信憑性を疑うマボロシ派も多いよ うなので、日本側の資料も添えます。先の特務機関の3月分資料にはこう書か れました(注1)。  「尚、各城外地区に散在せる屍体も尠(すくな)からず、然(しか)して積 極的作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を以て既に 城内より 1,793, 城外より29,998 計 31,791体を城外下関地区並(ならび)上 新河地区方面の指定地に収容せり」   この資料を補強するかのように『大阪朝日新聞』の「北支版」(1938.4. 16)も紅卍字会の活動を記事にしました。同紙は、紅卍字会と南京市自治委員 会、日本山妙法寺の僧侶たちが遺体埋葬した実績をこう記しました(注2)。  「最近までに城内で 1,793体、城外で 30,311体を片づけた。約 11,000円の 入費となってゐる。苦力(クーリー)も延5,6万人は動いている。しかしな ほ城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真 夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」   うえに紹介した紅卍字会の活動以外にも、惨状を見るに見かね、さまざま な団体が遺体の埋葬に当たったようでした。最近、こうした研究も進んでいる ようで、その成果の一端は南京事件60周年にあたる97年、東京で開かれた シンポジウムの席上、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏により発表されました。   報告によると、遺体の埋葬は下記のようになされました。ただし、この中 には戦死した兵士も含まれるし、遺体収容・処理の重複もあると、孫氏はこと わっています(注3)。  国際委員会     30,000体  紅卍字会      43,123体  崇善堂      112,267体  赤十字社      22,683体  同善堂        7,000体  湖南の材木商    28,730体  城南市民       7,000体  南京市第1区役場   1,233体  南京市下関区役場   3,240体  南京市衛生局     3,000体  安達少佐     100,000体 長江に投棄や江北にて焼却・埋める  南京侵攻部隊    50,000体   合計      408,276体 (ただし、重複あり)        --------------------   こうした研究を総合すると、東中野氏が「五等資料」とさげずむ極東国際 軍事裁判(東京裁判)の下記判決文は、その正当性があらためて浮きぼりにさ れるのではないかと思います(注2)。  「後日の見積もりによれば、日本軍が占領した最初の6週間に、南京とその 周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示され ている。   これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した 死骸が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている。・・・   これらの数字は日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ 込まれたり、または他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである」   虐殺数20万人が正当かどうかは別にして、大虐殺があったことはあらゆ る資料から明らかなのですが、それにもかかわらず大虐殺を否定するマボロシ 派の主張は、世界各国から日本の「過去への反省」にたいする疑念をますます 強固なものにし、いたずらに中国などを怒らせるだけで、得るところはまった くないように思えます。 (注1)井上久士編『華中宣撫工作資料』(15年戦争極秘資料集13)     不二出版、1989 (注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999 (注3)半月城通信<南京虐殺60周年(6),中国の主張> (注4)井上久士氏は虐殺を撮影した日本軍兵士についてこう記しました(注   2)。   南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順に したがって、自己規制的に南京事件の場面や現場を撮影しなかったなかで、日 本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。   兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は 自分の中隊の各将兵の写真を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵の家 族に送らせていた。   戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較 的自由に撮影でき、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立 場にいた。   『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録-私の従軍中国戦線』(日 本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京で の集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。   これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国 人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪 と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明す るものである。   その中に「虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほ とんどが平服の民間人でした」というキャプションの写真が三枚ある。   冒頭に引用した小林よしのり『戦争論』で「厳密な資料批判に耐え『これ が日本軍による民間人大量虐殺の証拠』といえる写真はまだ一枚も出てきてい ない」と、氏としては珍しく逃げ道を用意した慎重な言い方をしているが、そ れもウソであることを村瀬氏の写真は証明している。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00/02/12 - 10922/10922 PFG00017 半月城 南京虐殺(11),黒客事件 ( 7) 00/02/12 20:50 10892へのコメント   RE:10922 >半月城さん、今回の黒客事件はどう思いはる?   これは毎日新聞に寄せられたメールにあるように、やはり中国人黒客(ハ ッカー)が「南京大虐殺を否定する集会に憤り、中国人民の気持ち」を運輸省 などのホームページに表現した不法な「電脳恐怖活動」ではないかと思います (注1)。   RE:10892, >一市民団体が開く集会がそこまで大騒ぎされるなんぞ、中国もいよいよ「大人の >国」というイメージをかなぐり捨てて、凶悪な言論弾圧、覇権主義、軍国主義の >本性、そして周辺国家を見下している体質を日本や、その他の国々に印象付けた >事件だなというのが正直な感想です。   南京事件を、ナチのユダヤ人虐殺になぞらえる人もいるようですが、もし、 ドイツでユダヤ人虐殺を否定するような集会が開かれたらどうでしょうか。   イスラエルやドイツのみならず、世界的にアメリカあたりでも糾弾する声 で大騒ぎになるのではないでしょうか。もっとも、そうした集会はドイツでは 法的に禁止されていますので、ありえないとは思えますが。   今回の大虐殺否定集会は、「ピースおおさか」という平和を目的とする施 設で開かれただけによけい神経を逆なでします。「ピースおおさか」は軍国主 義にたいする歴史的反省から生まれた施設で、設置理念は「中国をはじめアジ ア・太平洋地域の人々、また植民地化の朝鮮・台湾の人々にも多大の危害を与 えたことを、私たちは忘れません」となっています。   そのような施設で「多大な危害を与えたこと」をヒステリックに否定する ような集会を開くことに内外から多くの批判が集まって当然です。とくにドイ ツとの比較において日本は「過去の克服」の努力がおざなりにされていると批 判されても仕方ないといえます。 (注1)毎日新聞、2000.2.1 <運輸省ハッカー?の「犯行声明」メール届く--毎日新聞台北支局に>  運輸省のホームページが書き換えられた事件で、毎日新聞が画面に記載されたアド レスをたどって電子メールを送ったところ、中国語で「南京大虐殺を否定する集会に 憤り、中国人民の気持ちを書いた」と「犯行声明」ともとれる返信メールが本社台北 支局に31日までに寄せられた。  このメールは「私たちは普通の中国のネット市民だ」としながらも、「1月23日 に大阪で開かれた南京大虐殺の集会を知り、憤った」と、動機を記している。  そのうえで「友人が運輸省のホームページに穴を発見したと教えてくれた。我々は 中国人民の気持ちを書いた。これを知って、多くの中国人がとてもうれしく思った」 などと書いている。メールは「日本政府が誠心誠意アジアの人々に謝罪することを希 望する」と結ばれ、末尾に「中国人:自由飛天」の署名があった。  ハッカーの訳語として、台湾で使われる「駭客」で質問したところ、中国大陸で使 われる「黒客」という言葉で返信してきたため、返信者は大陸に住んでいる可能性も ある。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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