半月城通信
No. 62

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 竹島(独島)と国際法
  2. 竹島(独島)と明治政府
  3. 竹島(独島)と固有領土の認識
  4. 韓国の学生運動
  5. 戦後補償(7)、金順吉・三菱重工裁判
  6. 環日本海フォーラム


【タイトル】竹島(独島)と国際法 インターネット「歴史会議室」 【名  前】半月城 【メッセージ】1999 07/11 18:18   Tetsuさん、三浦次楼さん、こんばんは。お二人への反論は、とても一行 コメントにおさまりきれないので、新しいタイトルで書くことにします。   おふたりとも、竹島(独島)に関し国際法に重点をおいているようなので、 今回はこれを中心に記します。そのため、安龍福や島の歴史的利用などについ ては別に書きたいと思います。   近年の国際法は、特に人権問題で国際的にいちじるしい成果をあげてきま した。しかし、国際法のそもそもの出発点は、19世紀、帝国主義列強などい わば「狼」たちの領土分割に関する申し合わせがきっかけでした。   そのため、現代でもその名残が領土問題などではかなり強く、それを今日 の領土問題にただちに適用するのはかならずしも妥当ではないかもしれません。   たとえば、インドによるポルトガル領のゴア接収(1961)ですが、これは 「既存の国際法に従うなら、これを肯定しうる論拠はどこにもない」とされて います。それにもかかわらず、インドの行為は「反植民地主義の直接行動とし て新興国から広く支持された」ようで、この場合、国際法上の違法行為が道義 的には正当と評価されたようでした(注1)。   この例から察するに、国際法はこと領土問題に関する限り、大国の栄光や 利益を温存し、帝国主義時代の慣行を引きずっているため、新興国の立場から すると、ときには道義に反した判断をする可能性もあり、その正当性にはおの ずと限界があります。   このように植民地や領土関係の国際法のみは、ときには時代の潮流にそぐ わないので、ここで竹島(独島)の領有権を国際法の面から論じることにどれ だけ意味があるのかわかりませんが、一応はみておきたいと思います。   国際法に関連して、Tetsuさんは「国際法上重視されるのは、どちらの国 民が実際竹島を使用していたかです」と書かれていますが、このことばに象徴 されるように、領土に関するかぎり、国際法では判断の基礎となるきちんとし た成文法体系がないのは周知のとおりです。   素人である私の聞きかじりでは、国際法上の領有権は、無主の地を国家が 領土編入の意思表示をし、実効的支配を継続して認められるものであると理解 しています。   現在、竹島(独島)はよく知られているように、韓国が国際法を意識して か、1952年以来「実効支配」してきました。それが正当かどうか、もし国 際法をもとに考えるなら、過去、韓国による領土編入の意思表示が歴史的にど のようなものであったかにかかっていると思います。同時に、日本による領土 編入の意思ももちろん重要な要素になります。   竹島(独島)に関していえば、私が先に紹介した内藤教授は「1877年 の太政官達は『本邦関係無之(これなし)』と紹介しており(注2)、この時 点で日本は領土編入の意思を放棄したようでした。   しかしながら、三浦次楼さんは内藤教授の説に疑問をもたれ「あなたの挙 げた歴史学者の学説が学会ではどの程度の信頼性・通用性があるかを提示して 下さい」と書かれていますので、一応その信頼性について説明したいと思いま す。   まず、太政官が裁決した問題の公文書は、日本の国立公文書館に保管され ているようで、コリアニュースはこう伝えています(注3)。ただし、このニ ュースは機械翻訳のためか、言い回しがすこしおかしいようです。        -------------------- 題目 : 明治直後 日国家最高機関 大政官 '独島(竹島)は 朝鮮領土'認                     発行日:97年5月23日  明治維新の直後、日本の国家最高機関の大政官が、独島(竹島)は朝鮮領土で あることを認めたという事実が日本の公文書を通じ確認になった。  愼鏞廈ソウル大教授(社会学)は、23日にソウル韓国プレスセンター19階の会 議室で独島(竹島)研究保全協会の主催で開いた '独島(竹島)領有の歴史と国際 関係' というセミナーでこのような事実を発表した。  愼教授は '独島(竹島)に対する日本の1905年の領土編入の不法性と不当性' という論文で、大政官は1877年3月20日 '竹島(鬱陵島)外の一島(独島(竹島)指 摘)件に対して、本邦(日本)は関係がないということを心得する(悟って周知 する)こと' という指令文を作成, 内務省に送ったと明らかにした。  右大臣・岩倉具視の印鑑が押されているこの公文書は、現在<公文録>に収 録になり日本国立公文書館に保管されているという。  大政官のこのような決定背景に対して愼教授は、地籍調査及び地図編制作業 中の島根県について鬱陵島と独島(竹島)を日本に編制させることに対する質疑 を受けた日本内務省が5ケ月間調査を繰り広げた末に、鬱陵島と独島(竹島)は 朝鮮の領土という結論を下したが、慎重を期するために国家最高機関の大政官 に再び質疑書を提出しながらなされたことだと伝えたと愼教授は話した。  これとともに釜山に入って調査を繰り広げた外務省の管理(官吏の誤り、半 月城注)森山茂等3人が1870年外務省に報告した '朝鮮国交際始末内探書' と いう文書も独島(竹島)が朝鮮の土地であることを認めているというのが、愼教 授の説明。  この文書は '独島(竹島)は鬱陵島の附属島であり鬱陵島の場合、朝鮮政府が 朝鮮人を居留させたが、空島政策(住民居住及び滞留を禁止した政策)により現 在は無人島状態' だと記述しているということだ。  外務省に提出になったこの報告書は '日本外交文書' 第3巻に文書番号87号 に収録なっていて、誰でも閲覧が可能だと愼教授は話した。  この他に日本海軍省が1876年に編纂した '朝鮮東海岸図' も独島(竹島)を朝 鮮の領土に表示していて、海軍省水路国やはり独島(竹島)をリアンコルド列岩 という名前で '朝鮮水路誌' に含めたと愼教授は指摘した。  愼教授は "我が方の文書のみだけでなく、日本側の公文書らもこのように独 島(竹島)を朝鮮の領土に確認しているだけ、日本の独島(竹島)領有権の主張は 根拠がないこと" だと表明した。 (以下省略)        --------------------   上記のように太政官の裁決書や、外務省官吏の報告書はその存在がきちん と確認されており、愼教授や内藤教授の論文の信頼性はゆるぎないものと思わ れます。この証拠からすると、1880年当時、日本は竹島(独島)を日本の 領土ではないと結論をだしていたことは間違いないようです。   その後、富国強兵で列強の仲間入りをはたし、植民地獲得をめざした日本 は、1905年、竹島(独島)を閣議で竹島と命名し、隠岐島司の所管としま した。これが韓国から帝国主義的領土編入と非難されているのはよく知られて いるとおりです。これについては後述します。   一方、韓国による領土編入意思ですが、桃山学院大学の徐龍達教授はこう 述べました(注4)。        -------------------- (前半省略)  まず、領土編入の意思表明として古文書、地図などがよく援用される。独島 が新羅時代の512年に于山国(鬱陵島)の一部として編入された文献がある。 日本より200年以上も早い、1432年の「世宗実録地理志」への記載など は、国家の正史中の地理志だからそのまま国家の領有意思を示す。ほかに「肅 宗実録」(1728)など関連の地図や記録は多い。  日本の地図で独島を朝鮮の領土と認めたものには、豊臣秀吉の侵略時、九 鬼喜隆の製作「八道総図」(1592)、林子平「三国通覧図説」(178 5)、高橋景保江戸幕府測地所長「日本辺界略図」(1809)、樺井達之輔 「明治大日本地見新細図全」(1886)、田渕友彦「韓国新地志」(190 5)などがある。また、1941年発行の要塞司令部許可「大日本分県地図併 地名総攬」などは独島を島根県に加えていない。従って、独島日本領土説は文 献上の論拠に乏しい。  次に、韓国は1900年10月27日に独島の韓国管轄権を明示し官報で 公表した。 日本側は1905年、島根県編入の史実を強調しているが、編入 請願者の中井養三郎が独島を「朝鮮の領土と思ひ同国政府に貸下請願の決心を 起し……牧水産局長に面会して陳述」したこと(島根県教育会「郷土資料島根 叢書」竹島沿革考1933年)を 隠蔽している。独島に詳しい中井の日本領 土否定を軍事上の必要から政府がわい曲し文書を作らせた作為がある。  朝鮮の宗主権を争った日清戦争勝利の後、三浦梧樓駐韓公使らによる閔妃虐 殺が1895年、日露開戦と日韓議定書の強要による日本の軍政支配が190 4年、そして、1905年に外交権も剥奪した乙巳条約、翌年の統監府設置 (伊藤博文統監)で行政の全権を奪った。その過程での一方的な島根県編入の 強調は、大臣たちによる侵略否定などの妄言とともに、韓国併合の暗黒史を想 起させずにはおくまい。良識ある日本人の再考を促したい。        --------------------   徐教授は「独島日本領土説は文献上の論拠に乏しい」として、Tetsuさん の意見「ほとんどの地図には竹島が日本領として記載されています」とは逆の 見方をしているようです。   Tetsuさん、1905年以前の地図で竹島(独島)を日本領とした地図に はどのようなものがあるのでしょうか? 鳥取県立博物館所蔵の竹島考圖説・ 竹島松島之圖(1828年)では、島根半島から隠岐を通って竹島(独島)、 鬱陵島(すぐ横に朝鮮国と記載)へ行く道順を記したポンチ絵になっています が、これなども竹島(独島)を日本領と記したとみるのはむずかしいのではな いかと思います。   一方、国による領有の意思表示ですが、どうやら韓国は日本より古く、1 900年に竹島(独島)の韓国管轄権を明示し官報で公表していたようでした (注5)。   他方、1905年、日本による竹島(独島)編入は徐教授の指摘のように 問題の多いところですが、これについて故・梶村秀樹はこう記しました(注1)。        -------------------- 帝国主義的な1905年の日本編入   日本政府は、1905年1月28日にいたって、竹島=独島を「竹島」と 名づけ「本邦所属」とすることを閣議決定し、その指示に従って島根県知事が 同年2月22日付島根県告示40号をもって「自今本県所属隠岐島司の所管」 と公示する形で、はじめて日本領土に編入した。逆にいえばそれまでは日本領 土ではなかったのである。   現在の国際法慣行にてらして考えるとき、この1905年という時点での 日本編入が帝国主義的侵略行為であったかいなかは、最大の争点の一つである が、韓国・朝鮮側が明白な朝鮮固有領土の侵略と想定しているのに対し、日本 外務省は「竹島編入を侵略行為とするが如き主権国家への重大な非難を・・・ 韓国が全然事実に反する独断をもって行うことは断然容認できない」と応答し ているのだそうである!(注6)   しかし、すでに山辺健太郎氏が詳論しているように、日本人の立場からし ても、「帝国主義の領土拡張欲の歴史の問題」としてとらえなければならない ことは明白である。   日本側は、この編入行為に対して戦後にいたるまで何らの国際抗議も受け なかったとしらばくれているのだが、抗議すべきこの1905年の時点の朝鮮 は、果たして抗議できる状況にあったのか?   周知のとおり、日本はすでに朝鮮全体の侵略を目的とする日露戦争を開始 しており、朝鮮全土を軍事占領下におき、軍事力を背景に1904年2月の 「日韓議定書」を強要して実質上の保護国体制下におき、さらに同年8月の 「第1次日韓協約」によって朝鮮政府内に顧問官を送りこんで内政を牛耳らせ ていた。   現に外交顧問として、日本の推薦したアメリカ人スチーブンスが入って日 本の意図に従って動いていた。他の顧問は全て日本人なのに、外交顧問だけわ ざとアメリカ人にしたのは、国際世論に対するカモフラージュのためであった。  「日本は韓国の外交権に干渉した事実はない」などという主張をみて怒らな い韓国・朝鮮人がいたとしたら、どうかしていよう。実際、朝鮮人官吏の中に は後述のように抗議の意図はあったのだが、こうした体制に妨げられて実行で きなかったのである。   日本編入に当たって島根県編入という形式をとり、政府レベルの公示ない し通告をして異議の有無を確認することもしなかった編入手続きも問題である。   このような形では、たとえ朝鮮自体が前記のような状況になかったとして も、松江に領事館があるわけでもない以上、朝鮮政府が即座に情報をキャッチ して抗議することは無理だっただろう。   いわばこっそり編入しておいて、気づかなかったのは相手が悪いとするの が、日本側の論理なのである。現在の国際法慣行は、帝国主義的「実効的占 有」論のなごりをとどめ、公示の形式はどんな形でもいいとしているが、それ は常識的にみて紛争のおそれがないばあいに限るだろう。   また、人の住む島であれば、当然すぐ住民が何らかの形で気づくであろう が、本来的無人島ではそういうこともありえない。   実際、朝鮮側がこの島根県編入の事実を知ったのは、約一年後の1906 年3月に島根県第三部長・神西由太郎以下44名の一行が、竹島=独島をへて 鬱陵島にいたり、郡守・沈興沢にそのことを告げたからである。   沈氏は儒者らしく突然の無礼な使客にも丁寧に応対していたが、驚いてた だちに中央政府に「本郡所属独島について日本官人が、いま日本領地になった といってきた。照亮されんことを務望す」と注意を促す報告書を送った。  「本邦所属独島」の文言は、前項の1900年の勅令に符合し、郡守が竹島 =独島を明確に管轄内と意識していたことを示している。   また、もし朝鮮政府部内にこれ以前に日本編入の情報が入っていたいたな ら、沈氏は職務上まっさきにその旨を伝えていなければならない人だが、全く 初耳だった様子である。   つまりこの時点まで、朝鮮政府は島根県編入の事実を知るすべも持てずに いたと推定されるのである。そしてこの時は1年前より一段と侵略が進んでお り、すでに乙巳保護条約が強要され、外交権は完全に剥奪され、日本の設けた 「韓国統監府」が機能しはじめており、実質上の植民地統治期に入った後であ る。朝鮮側は単にぼんやりしていたのではないのである。   1906年から45年までの間、朝鮮人民が抗議の権利すらも奪われてい たことについては、今日誰しも異論はないだろう。   日本側は、この領土編入が、帝国主義的詐術でなく正当な行為であると主 張するためには、何故編入実施後一年間も、関係が深いことが分かりきってい る朝鮮に通告することすらも怠っていたのかを説明できなければならない。   ところで、この1905年の日本編入の直接のきっかけとなったのは隠岐 の人・中井養三郎が1904年9月に日本政府に提出した「りゃんこ島領土編 入並に貸下願」であった。   中井は1903年(本格的には04年)から竹島=独島でアシカ猟を行い はじめていた。その数年前から日本人が散発的に竹島=独島でアシカをとりは じめていた記録があらわれるが、それはまだ遭難のついでに猟をこころみると いうような偶然的なものであった。中井の願書自体がそのことを物語っている。   中井はいわば竹島=独島だけを目的に大規模・計画的に出漁したはじめて の日本人だったのである。願書の標題でも分かるようにその中井にして、竹島 =独島を日本の固有領土であると思っていなかったばかりではなく、当初はむ しろ朝鮮の領土であると認識して朝鮮政府に貸下願を出すつもりでいた。  それが日本政府への領土編入願いに変わったのは海軍水路部長・肝付兼行の 示唆による。つまり、中井という一個人の行動を利用し、背後で操作したのは 実は軍であった。帝国主義者が「竹島=独島は朝鮮領である」とする日本国民 の通念を意識的に抹殺しようとしたのである。   しかし、1905年以後、日帝時代にいたっても、こうした通念は消滅せ ず、韓国側で例証しているように竹島をあいかわらず朝鮮に属せしめた日本の 本が相当多いのである。   もっとも、植民地化の竹島=独島はいずれにせよ帝国主義権力に庇護され た日本人の独壇場(といっても軍以外で実際に利用したのはアシカ猟のためだ けで、それも昭和に入る頃にはすでに乱獲で衰えていたが)であったから、実 質的な意味のちがいはなかったし、それ故日本政府もそういう記述を放任した のだろう。   つまり「竹島は日本の固有領土」という通念が日本国民の間に定着したの は実は1945年以後のことなのである。        --------------------   中井の貸下願に端を発した竹島(独島)の領土編入は、やはり軍が一役買 い、帝国主義的方法でなされたようでした。   しかし、こうした帝国主義的領土編入が国際法でどのように判断されるの かは予断を許しません。武力による領土編入を違法とした場合、列強中心だっ たかっての世界秩序が随所で否定され、混乱するおそれがあるので、とかく植 民地や領土に関する国際法では道義や正義は尻込みしがちなためです。   それ以外の論点、たとえば固有領土の主張などでは、太政官裁決書の発見 なども新たに加わり、故・梶村や内藤教授の説のように、日本の主張は分がな いように思われます。   かって福田元首相は「竹島は一点の疑いもなき日本固有の領土」と発言し、 日韓間に緊張をもたらしましたが、研究成果を無視したショービニズム的な発 言だけは日韓ともに慎まなければならないと思います。   そのためには日本でも竹島(独島)研究会を設立するなど、学問的研究を もっと活発にし、その研究成果を広め、お互いの誤解をとくことが何よりも重 要ではないかと思います。   そうして竹島(独島)に関する研究が進むにつれ、領有権論争は学問的に 解決されるのではないかと想像されます。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992 (注2)内藤正中『韓国江原道と鳥取県』富士書店(鳥取市)、1999 (注3)http://www1.mesh.ne.jp/KODENSHA/knew/d02/970527~2.htm (注4)朝日新聞、1996.4.10 (注5)1900年10月25日付、韓国政府勅令41号第2条  「(鬱陵)郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵全島と竹島・石島を管轄と  す」(引用は注1)   この法文中の「竹島」とは鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、 「石島」はもう一つの小属島である観音島をさすとは地形からしても沿革から しても考え難く、今の竹島=独島をさすと解するのが最も自然であろう。 (注6)李漢基『韓国の領土』   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


【タイトル】竹島(独島)と明治政府 インターネット「歴史会議室」 【名  前】半月城 【メッセージ】1999 07/18 17:48   竹島(独島)領有権に関し、数人の方からコメントが寄せられましたが、 この問題は奥が深いだけに、これらすべてに短時間でこたえるのは困難です。 そこで今回も焦点を絞り、 Tetsu さんへの反論を中心に書きたいと思います。   まず、明治時代に外務省高官が朝鮮に出張したときの報告(1870)に関する Tetsu さんの書き込みに反論したいと思います。 Tetsu さん、 >さらに、「独島(竹島)は鬱陵島の附属島であり…」というのも、おかしな表 >現です、日本なら「独島」などという言葉は使わないはずです。 >そこには、「竹嶼は鬱陵島の附属島であり…」と書かれている筈です。 >この「竹嶼」と「竹島」を混同するのも、韓国が使うトリックの一つです。   韓国の新聞記事解説とちがって、日本の外務省高官の報告書にはもちろん 独島などとは書かれていません。この点だけはご指摘のとおりですが、他の推 測は見当違いなようです。   愼教授が言わんとしたことは下記のとおりです(注1)。        --------------------   1868年に徳川幕府を倒した明治政府は、1869年(朝鮮高宗6年、 明治2年)12月に朝鮮の内情を調査するために、外務省高官である左田白茅、 森山茂、斉藤栄らを朝鮮の釜山に派遣した。   当時、外務省の調査事項の中で“竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮に 属していること”(竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末)を含めて太政官(総理大 臣)に結論を求めていたが、太政官はそれらを調査するよう指示していたので ある。   この指示を受けて、外務省高官が朝鮮の内情を調査して出した報告書が、 1870年(明治3年)の<朝鮮国交際始末内探書>である。   ここには、鬱陵島と独島が朝鮮に属した領土であることを認めた、次のよ うな文面の報告がある。 --竹島と松島が朝鮮に属している顛末   この件は、松島は竹島の隣島で、松島の件については今まで掲載された文 書もない。竹島の件については、元禄年度後しばらくの間、朝鮮からの居留の ため人を派遣したことがある。   当時は以前と同じ無人島であった。竹木また竹をはじめとして、大きな葭 (あし)が繁茂し、人参などがとれる。それ以外、漁産にも適しているとのこ とである・・・(注2)  ・・・   日本外務省と当時の最高機関である太政官は、明治初期に (1)鬱陵島と独島が朝鮮領土であること、 (2)決して主人のはっきりしない島ではないということ、 (3)独島は鬱陵島に隣り合わせの島で、鬱陵島の付属島であること、 (4)独島と鬱陵島がすべて日本の領土ではないこと などをよく認識しており、これらを日本政府の公式文書である『日本外交文 書』に収録しているのである。        --------------------   松島(現・竹島=独島)は竹島(現・鬱陵島)と隣同士で、「一対」ある いは属島という認識は、日本や朝鮮で古くから根強くあったようでした。   そもそも名前からして竹島(独島)は、松や竹などが一本もない岩島にも かかわらず、日本で松島という名前がつけられたのは、そのような「一対」の 認識によるものと思われます。   そのためか、竹島(鬱陵島)が朝鮮領なので、松島(現・竹島=独島)も 自然に朝鮮領になると外務省は考えたようです。   竹島(独島)が朝鮮領であるという認識は、外務省のみならず日本の陸軍 省ももっていました。1875年に陸軍参謀局が作成した「朝鮮全図」に竹島 (現・鬱陵島)と松島(現・竹島=独島)が明確に記入されました(注6)。 これは陸軍が、竹島(独島)は朝鮮領であると考えていたことを示すものとい えます。   この地図は軍用に作っただけに位置関係など比較的正確ですが、ただ松島 (現・竹島=独島)が大きく竹島と同じくらいに描かれており、島の認識に限 界があったことがわかります。   さらに、海軍省も竹島が朝鮮領土であることを確認していたようでした。 愼教授は、ソウル大学に保管されている「朝鮮東海岸図」についてこう解説し ました(注1)。        --------------------   海軍省水路部は、ロシア軍艦とイギリス軍艦が測量し、作成した地図を生 かしながら1876年に「朝鮮東海岸図」を製作したが、この地図で海軍省は、 独島を朝鮮領土に含ませているだけでなく、ロシア軍艦が独島を3.5海里北 方に描いた絵、北西10度の方向に5海里の地点に描いた絵、北西61度の方 向に14海里の地点に描いた絵を、まるで写真で撮ったかのように正確、かつ 鮮明に描き、地図の右側の中間あたりに載せている。  ・・・   海軍省水路部はその後、1887年に<朝鮮東海岸図>の再販を刊行した し、その後も再販を重ねて、1905年まで独島を朝鮮領土と認めていたので ある。        --------------------   こうしてみると、明治政府は、竹島(独島)が朝鮮領であると一致した見 解をもっていたようでした。さらに、内務省や太政官・岩倉具視は歴史的経過 を慎重に吟味し、現・竹島は「本邦に関係なし」と、日本政府としての結論を 出したようでした。   しかるに Tetsu さんの下記見解は、結論をすこし急ぎすぎているようで す。 >   岩倉具視が押印したという公文書に記述されている「竹島(鬱陵島) >外一島」の「外一島」が竹島(当時松島)である証拠は何もなく、韓国サイ >ドが勝手にそれを竹島と推測しているに過ぎません。 >寧ろ、この「外一島」は鬱陵島の属島である「竹嶼」であると判断するのが >妥当ではないでしょうか。   「外(ほか)一島」という表現が、属島であるかのようなニュアンスをも つだけに、これを Tetsu さんは鬱陵島の属島である「竹嶼」と判断されたよ うですが、その希望的観測に反し、太政官のいう「外一島」は竹島(独島)を さすようです。その根拠を愼教授はこう記しました (注1)。        --------------------   内務省は、1876年に日本国土の地籍を調査し、地図を作製する過程に おいて、1876年10月16日付の公文書で島根県の地図に鬱陵島と独島を 含めるべきか、含めるべきでないかについて、島根県当局から質疑書を受け取 った。   内務省が、島根県の提出した付随文書だけでなく、17世紀末(粛宗の時 代、日本は元禄時代)朝鮮と交わした関係文書を5カ月に渡って徹底的に調査 をしたところ、鬱陵島と独島は朝鮮の領土であり、日本と関係なしと結論する に至った。   しかし“版図の取捨は重大案件であるので、これを内務省のみで決定せず、 太政官の決定を仰ぐことにし、翌年1877年(明治10年)3月17日、次 のような稟議書を太政官に提出した。      日本海内竹島外一島の地籍編纂に対する伺い書   竹島所轄の件に対して島根県から別紙の稟議書が回ってきて調査をしたと ころ、該島の件は、元禄5年朝鮮人(安龍福、原著者注)が入島して以来、別 紙書類に抜き書きしたように、元禄9年正月の第1号の旧政府の評議の主旨に よると、第2号訳官に与えた達書(通達)、第3号該国から来た公簡、第4号 本邦回答及び口上書などと同じであり、すなわち元禄12年になって双方から の書状の交換が終了し、本邦は関係がないと聞いていますが、版図の取捨は重 大案件である故、別紙の書類を添付し、指示をお願いします。                 明治10年3月17日                   内務卿 大久保利通代理                   内務少輔 前島密   右大臣 岩倉具視殿(注3)   日本外務省は、この稟議書において、鬱陵島は名前を挙げて、独島につい ては“以外の一島(外一島)”と竹島の付属島として名前を記さず取扱い、稟 議書に添付した別紙の書類で“外一島”を説明し、“他にひとつ島があるが、 松島と呼ぶ。広さは30町歩であり、竹島と同一線上にある”とし、他の一島 が松島であることを明らかにしている(注4)。   つまり、当時において日本の内務省が問題にしたのは、鬱陵島であった。 鬱陵島の付属島であり、人が住めない小さな岩島である独島は名前を挙げるほ どでもないことから、“竹島外一島”と表現したのであろう。  ・・・   国家の最高機関である太政官(右大臣・岩倉具視)は内務省の稟議書を検 討した結果、1870(77の誤植、半月城注)年3月20日付で、“稟議趣 旨の竹島外一島に対して本邦(日本-原著者)は関係なしと心得る”と次のよ うな指令文を作成し、決定した。  ・・・ 明治10年3月20日 大臣 岩倉具視の印      別紙内務省稟議の日本海内竹島外一島地籍編纂之件   右の件は元禄5年朝鮮人(安龍福-原著者)が入島以来、旧政府と該国 (朝鮮-原著者注)との往復の結果、本邦とは関係なしと聞き、申し立ての稟 議の趣旨を聞き、次のような指令を作成し、この件に対し稟議する。      指令案  稟議趣旨の竹島外一島の件に対して、本邦は関係なしと心得るものなり。 (注5)        --------------------   この資料からすると、「外一島」はまぎれもなく竹島(独島)であり、明 治初期、日本は鬱陵島とともに竹島(独島)の領有を放棄していたようでした。   これを外務省や島根県のホームページではどのように扱っているのか覗い てみましたが、一言半句の記述もありませんでした。重要事実をいつまでも伏 せる姿勢では、問題の解決が遠いのではないかと懸念されます。   さて次は、告示の問題に移りたいと思います。李氏朝鮮が1900年に官 報で竹島(独島)の管轄権を明示したのは前回ふれたとおりですが、この告示 が竹島(独島)をさすのかどうかは、Tetsu さんの下記指摘のように、たしか に疑問の残るところです。 >>1900年に竹島(独島)の韓国管轄権を明示し官報で公表していた >…この表現は正しくありません。 >1900年の時点では「独島」という呼称はまだ無かったはずです。 >「独島」という呼称が始めて韓国の文書に登場するのは1906年以降です。 >1900年の時点では「石島」と表現されており、その「石島」が竹島であると >いう証拠はありません。   この問題は日韓政府間の争点にもなったようで、韓国政府は日本に口述書 を送ってまで、「石島」が竹島(独島)であることを主張しました。同時に、 この問題は日韓でかなり研究されているようで、その一端を愼教授はこう記し ました(注1)。  「従来の韓日の往復書簡と学界の研究では、二つの大きな岩から成る于山島 (うさんとう)が“石島”(トルソム)であることから、鬱陵島に住みついた 全羅道出身者の発音“独島(トクソム)を当時の有識者が漢字で“独島”と表 記したということが定説になっており、他の例はあげられていない」   独島という呼び方は、地元では1906年以前からあったようで、日本の 報告書(軍艦新高行動日誌,1904)にも「リアンクル岩を韓人は独島と表記し、 本邦の漁民は“リアンクル島”と呼んでいる」と記されています。   これらの研究からすると、石島=独島は定説かどうかは別にしても、この 説にそれほどの難点はないようです。   他方、日本による領土編入ですが、日清・日露戦争などで帝国主義的領土 拡張をめざした日本は、中井の独島漁業権申請をきっかけに、軍事的必要性も からめて、1904年、島根県告示という形で竹島(独島)の編入を行ったよ うでした。   中井はその申請時に、竹島(独島)は朝鮮領であるという認識をもってい たことは前回書いたとおりです。これに関し、クリリンさんから下記のような 反論がありましたが、クリリンさんは古い研究をもとに、結論を急ぎすぎてい るのではないでしょうか。 >それから、中井養三郎のくだりですがこれは1923年発行の島根県志の記 >事を基に書いたのでしょうが、これも証拠はありません。中井の件について >は、「島根県竹島の新研究」(田村清三郎著)で明確に否定されています。   クリリンさんが求める「証拠」について、ソウル大学の愼教授はこう述べ ました(注1)。        --------------------   彼(中井)が1910年に島根県に提出するために作成した履歴書と、彼 が直接書いた事業計画書概要は、その時点で、独島が韓国領土であると知って いたことを証明している。   また、政府高官に取り入って独島を日本領土に編入する画策を行っていた ということが、次の文からも伺える。 (独島が1905年2月に日帝に奪われ、その5年ほど後に書かれた文である ので、独島の名前は“リアンクル島”ではなく、“竹島”になっている)           (事業計画概要)   竹島に海驢(アシカ)がたくさん住んでいる事実は鬱陵島周辺の漁民はよ く知っていることであるが、・・・本島(独島-原著者注)が鬱陵島に属し、 韓国領であることを考慮し、将来、統監府(朝鮮総督府の前身、半月城注)に 行って話し合うこともあるのではないかと思って上京し、いろいろ努力した。   そして当時の水産局長・牧朴真氏の助言によって、本島が必ずしも韓国領 でないのではないかという疑問が生じた。   その調査のためいろいろ動き回った末、当時の水路局長・肝付兼行将軍の 判断を求めた。そして本島が全くどこにも属していないという確信を持つよう になった。   そこで事業経営上で必要な要件を全て申し上げ、本島を本邦領土に編入し、 そして私に貸していただけるよう、内務、外務、農商部の三大臣にお頼みし、 要望書を内務省に提出した。   すると内務当局は、この時局において(日露戦争中)韓国の領土の疑いが ある大海の一滴のような岩礁ひとつのことで、目を光らせている諸外国から日 本が韓国に対する領土の野心があると疑われては何の得にもならないので、は なはだ難しい案件だとして却下されるところでした。   そこでここで引いてはならぬと思って外務省に走り、当時の政務局長・山 座円次郎に会い、大いに話し合いました。   山座氏は、時局が時局だけに本島の本邦への編入は全く急を要する案件だ と答えてくれました。本島に監視所を設置し、無線及び海底電信を通せば、敵 艦の動きを監視するのになおさら良いではないか。特に外交上、内務省のよう に考慮する必要はない。したがって即刻、要望書を本省にまわしておく方がよ ろしい、と意欲満々でした。   こういう具合に結局、本島は本邦の領土に編入されたのです(注8)。  ・・・   また、1923年に島根県教育会が編纂した『島根県誌』は確固たる実証 に基づいて、“竹島の項目では明治37年、いろいろな所からの乱獲競争によ りトラブルが発生する状況であった。ちょうどその折、中井養三郎はこの島を 朝鮮領土と考え、上京して農商務省に、朝鮮政府に貸与を要請すべく依頼しよ うとした”と記録してある。        --------------------   これらの資料を総合すると、日露戦争の前までは、日本では政府も中井や 地理学者など関係民間人も竹島(独島)は朝鮮領であるという認識をもってい たことになります。   そうしたなか、領土拡張期にあった日本帝国は、諸外国の目を気にしてか、 島根県告示という目立ちにくい方法で、竹島(独島)の編入を決定しました。   この領土編入の告示、通告について、Tetsu さんは下記のように、国際法 では必要ではないとお考えのようです。 >それから、領土取得の際の「通告」は特に必要とされません。 >実際、国際的には通告された例の方が稀です。 >ほとんどの「学説」でも「判例」でも通告が必要などとしていません。 >日本は、遅れながらも、通告しただけまだマシです。   私としては前回書いたように、国際法による裁定は、領土問題のみ適当で ないと考えているのですが、それを含めて、通告について書くことにします。   通告も、領土関係の国際法が一般的にそうであるように、明確な規定はあ りません。条約や先例、慣習法の積み重ねが判断のもとになっています。   通告が歴史的に問題になったのは、帝国主義国家間によるアフリカ沿岸の 領土編入がきっかけでした。狼たちは内輪もめをふせぐため、1885年、会 議を開きルールをつくりました。それが西アフリカ会議宣言、すなわちベルリ ン議定書ですが、ここでアフリカ海岸の無主地域を先占する際の国家の通告義 務を規定しました。   この議定書をきっかけに、多くの法学者は、通告は国際法の一般原則とし て解することが望ましいと考えるようになり、1888年の国際法学会宣言は その帰結であると解し、結局、通告を一般国際法上の先占の要件と解する学者 が多くなったようでした。   韓国明知大学・金明基教授の調べによると、日本では前原光雄、大沢章、 田岡良一などが通告を先占の要件と解しているようです(注7)。しかし、学 者の中にはこれを慣習法でないと考える一言居士もいることはたしかです。   金教授によれば、通告が争われた例として、フランスによるクリッパート ン島の先占に関する仲裁裁判(1931)がありますが、これは同島に対するフラン スの主権宣言(1858)がベルリン議定書(1885)以前の話であり、その当時は通告 の必要はなかったとされ、メキシコの敗訴に終わりました。狼の勝利といえま す。   これがベルリン議定書後のことであったら、どのような判断が下されたか は予断を許しません。   この例にみられるように、国際法は領土問題に関してははなはだ心もとな く、しかも、狼たちの申し合わせの名残で大国に有利に働きます。そのため、 第三世界からは白い目で見られがちです。また、現実問題としても、頻発する 領土紛争解決にはほとんど無力でした。   そうした事情から、前回書いたように、インドによるポルトガル領のゴア 接収(1961)を現在でも不当と考える領土関係の国際法に、竹島(独島)問題の 解決をゆだねるのはいかがなものかと思います。   ここの会議室は、領土問題に関しても国際法や国際司法裁判所にこだわる 方が多いようですが、雷小僧さん、インドのゴア接収をどうお考えですか?  さらに、日本・ロシア間の北方領土問題も国際司法裁判所により解決すべきと お考えでしょうか? (注1)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559),1997 (注2、原著者注)『日本外交文書』第3巻、事項6,文書番号87,   1870年4月15日付(以下に引用された原文は省略) (注3、原著者注)『公文録』内務省之部一、   1877年3月17日条、“日本海内竹島外一島地籍編纂方伺”参照   (以下に引用された原文は省略) (注4、原著者注)『公文録』前資料別紙文書 (注5、原著者注)『公文録』内務省之部一、   1877年3月20日条太政官指令文書 (注6)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966) (注7)金明基『独島と国際法』(韓国語)華学社、1991 (注8)<中井養三郎事業計画概要>、中井養三郎履歴書附属文書(1910年 中井養三郎作成)、島根県広報課編、『竹島関係資料』第1巻,1953   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


【タイトル】竹島(独島)と固有領土の認識 インターネット「歴史会議室」 (http://hyper2.amuser-net.ne.jp/~auto/b19/usr/cha2maru3/brd1/bbs.cgi) 【名  前】半月城 【メッセージ】1999 07/25 01:00 クリリンさん、Tetsu さん、こんばんは。   人権問題とちがい、領土関係の国際法の議論に関するかぎり、私は前回書 いたような理由で消極的なので、今回はこれにふれないことにし、引き続き明 治政府の竹島(独島)認識について反論したいと思います。   クリリンさん、 > 明治はじめの政府の対応については、判断が難しいところである。小 >生は、当時の明治政府が領土問題に関する認識の低さなどから、正確な >情報を持たぬまま軽率な決定を下した可能性は否定しない。   クリリンさんは、明治政府が、竹島(独島)は「本邦に関係なし」という 決定をした可能性をお認めになっているようですが、Tetsuさんはどうやらこ れに異議をとなえておられるようです。 >愼教授が「外一島」を説明しているという稟議書は、「外一島」を説明して >いるのではなく、「竹島外一島の他にひとつ島があるが、松島と呼ぶ。… >(以下省略)」という説明だと思います。   これは、ソウル大学・愼教授が間違って資料の引用や解釈をしたと、 Tetsu さんは推測するものでしょうか? こうした憶測は、初期の明治政府が 竹島(独島)の領有をあきらめたことを認めたがらない Tetsu さんの、実証 抜きの思考方式をあらわにしたものといえます。   一方、クリリンさんの「明治政府の決定が正確な情報のもとになされたと は到底考えられない」という推測は、それなりに説得力があります。   初期の明治政府にしてみれば、ささやかな領土問題より、完全統治の及ば なかった北海道の中北部や沖縄などを新たに新政府の支配に組み入れるのに忙 しく、ちっぽけな岩島である竹島(独島)にはほとんど関心も知識もなかった とみえます。   そのため、松島(竹島=独島)を「外(ほか)一島」と軽く表記し、鬱陵 島の付属島くらいにしか考えていなかったようです。   のちになると、竹島(独島)はアシカ猟で多少の利用価値がでてきました が、その当時はほとんど価値がなかったようで、梶村氏はこう記しています (注1)。  「明治10-20年代を通じて、(鬱陵島への)渡航の主目的はやはり伐木 が第一で、アワビ・テングサを目的とする漁民も若干いたが、アシカとりはい なかった。   この間、いまの竹島=独島については、鬱陵島への往復の途中で立ち寄っ た例は一、二あるが、それ自体を目的とする渡航は依然絶無であったことが確 認される」   こうした無関心が一般的ななかで、外務省・渡辺局長の日本領説は当時と しては、むしろ稀だったのではないかと思います。   その渡辺局長も竹島(独島)にそれほど通じていたわけでもないようで、 竹島(独島)が日本に属している理由を「各国の地図皆然り」と事実に反する ことを記すのみで、具体的な根拠は何も記しませんでした。   もともと、渡辺の意見書の目的は、名称が混乱していた松島、竹島の実態 をはっきりさせるためには、島根県に照会するとともに艦船を現地に派遣して 調査すべきであるという提言にあり、竹島(独島)の領有権を論じるのが主眼 ではありませんでした。したがって、渡辺の日本領説は取るに足らないものと いえます。   さて、日本でも竹島(独島)が朝鮮領であるという認識は、竹島(独島) の島根県への帝国主義的編入以後も根強く残りました。それを韓国「独島学 会」会長の愼教授は次のように記しています(注2)。        -------------------- 日帝下の独島(トクト)   日帝が1910年8月、韓国を植民地にした後、独島は、韓国の領土内の 島として扱われた。日本は独島を竹島と呼び、形式的には島根県に属するとし たが、歴史的には朝鮮に属するものと考えていたので、朝鮮領に属する島とし て扱ったのである。   ここで独島を朝鮮に属するものとして扱ったいくつかの資料を挙げてみよ う。 1.日本海軍省水路部『日本水路誌』第6巻(1911年) 2.日本海軍省水路部『日本水路誌』第10巻(1920年) 3.『歴史地理』第55巻第6号の桶畑雪湖の論文「日本海にある竹島の日鮮   関係について」(1930年) 4.日本海軍省水路部『朝鮮沿岸水路誌』第1巻(1933年) 5.芝葛盛『新編日本歴史地図』(1933年)、(文部省検定済、半月城    注) 6.釈尾*『朝鮮と満州案内』(1935年) 7.日本陸軍参謀部陸地調査部『地図区域一覧図、其一』(1936年)   この中でも特に注目に値する資料は、日本陸軍参謀本部、陸地測量部の 『地図区域一覧図』である。   日本陸軍参謀本部は、1936年3月現在の大日本帝国(日本本州、朝鮮、 台湾、関東州、樺太を含む)の『地域一覧図』を同年4月に刊行したのだが、 この地図の目的は大日本帝国に属する全地域を、本州、朝鮮、関東州、台湾、 樺太、千島列島、南西諸島、小笠原諸島などにグループ分類することであった。   日本陸軍参謀本部は、この『地図区域図』で、独島を日本本州に含める空 間がたっぷりあるのにもかかわらず、独島を鬱陵島と共に“朝鮮区域”に含め、 竹島の右側に“朝鮮区域”と“日本の本州区域”を区分する墨で線引きした。   この『地図区域一覧図』は、日本陸軍省が敗戦など眼中になく、大日本帝 国の永遠の存続を信じていた1936年に製作した地域別地図だけに、決定的 に重要な資料である。   この資料で独島が朝鮮と日本のどちらに入れられるのかは非常に重要な問 題である。なぜならば、もし大日本帝国が外的圧力によって崩壊するようなこ とになれば、独島の帰属問題に決定的な影響を与えるからである。   ところが日本の陸軍参謀本部は、独島を“朝鮮区域”に入れたのである。 陸軍省は、独島が鬱陵島の付属島であり、朝鮮領であることをよく知っていた からに他ならない。   日本帝国主義が1945年に降伏し、連合国が大日本帝国を解体するにお よんで、この『地図区域一覧図』が最も重要な資料のひとつになったことは言 うまでもない。   なぜなら連合国最高司令部(GHQ、半月城注)がそれまでの大日本帝国 領の特定区域に対して、日本政府の政治的行政的権利の行使およびその停止を 命じる最高司令部の命令第677号を公布したとき、特定区域のグループ分類 がこの『地図区域一覧図』とほとんど100%一致したからである。   上の資料が教えているように、日帝治下で独島が行政上島根県に属してい たとしても、日本国民はもちろん、日本政府でさえもが実際、形式的にも実質 的にも、独島を朝鮮領とみなしていた。   いわんや韓国人にとっては、日帝治下においてさえも独島が朝鮮領である ことに変わりはなかった。   日帝治下においても独島は、鬱陵島漁民の活動区域であった。中井養三郎 が海驢(あしか)とりで特許をとり、活動した1905-1914年までの9 年間を除いても、独島は鬱陵島漁民の重要な漁労地域であった。ただ第2次世 界大戦の末期には慶尚南道鎮海湾と全く同じように、独島は日本海軍の完全な 統制地域となった。        --------------------   植民地統治下では、竹島(独島)を朝鮮所属としても、どのみち日本領に は変わりなく、日本にとっては無害なので、文部省はともかく、軍部もついホ ンネが出たようです。   また、民間でも朝鮮所属という見方をしていた地理学者がけっこういるの は注目されます。前に書いたように、田渕友彦著『韓国新地理』(1905)が、竹 島(独島)を江原道鬱陵島の項で記していたのをはじめ、他にも博愛館発行の 地図でも竹島(独島)は朝鮮に入っていたようです。   先日、それに関し、この会議室で五番街さんが「竹島(独島)の帰属につ いて」と題して、こう紹介されました。        -------------------- 文書名:[zainichi:9201]韓国ニュース04-12to13 [独島] 日本人が作った1910年版地図にも『独島は韓国の地』 日本が独島の領有権を主張するために押し出していた根拠をひっくり返す1910 年版の日本人製作の地図が初めて発見された。 独島領有権問題を研究してきたフランスリヨン3大学のイジンミョン教授(53・ 韓国学)は12日、フランス国立図書館に保管中の50枚分量の<大日本分県地図帳> に並べて載せられていた『朝鮮全図』と『日本島根県全図』を公開した。 李教授が公開した地図帳は、韓日合邦直後の1910年に日本の博愛館出版社が製 作したもので、朝鮮全図には独島を称する『竹島』が鬱陵島の附属島嶼として 表記されているが、日本島根県全図からは独島が抜けている。  ・・・ 李教授は「日本の権威ある地図製作者の伊藤セイゾウが地図帳を作り、東京で 発行した点から推して当時の日本人の間に『独島は朝鮮の土』という認識が広 範囲に広まっていたという事実を暗示する」と話した。 記事登録時刻 1999年04月12日22時39分 インターネットハンギョレ www.hani.co.kr 提供 記事情報提供・問い合わせ・意見society@mail.hani.co.kr http://www.hani.co.kr/han/data/L990412/08aa4coc.html        --------------------   この竹島を Tetsu さんは例のごとく憶測で鬱陵島直近の竹嶼とみている ようですが、この時代の地図は正確なだけに、そのようなあやふやな解釈はあ り得ないのではないでしょうか。   それはともかく、上記のような事実からすると、戦前に竹島(独島)は日 本領土という認識はあまり定着しなかったようです。するとやはり、梶村氏が 指摘したように、「竹島は日本固有の領土」という通念が日本国民に定着した のは、実は1945年以後のことだったようです(注1)。   戦後に関連して書くと、GHQは日本政府に命令(SCAPIN-667,46.1.29)を 発し、竹島を日本領から切り離しましたが、さらにその後、SCAPIN-1033(46.6. 29)で“日本人の漁業および捕鯨業の許可区域”、通称マッカーサーラインを 設定しました。その第3項で、日本人の竹島への接近を次のように禁止しまし た。  「日本の船舶および乗務員は今後、北緯37度15分、東経131度53分 にあるリアンクル岩(独島、竹島-原著者注)の12カイリ以内に接近しては ならず、また同島への接近はいかなる場合においても禁止する」   韓国はGHQの一連の措置で、竹島(独島)が韓国に返還されたと確信し たことはいうまでもありません。そこで韓国は、GHQの日本統治が終わる直 前、漁業など自然資源を保護するためマッカーサーラインを引き継ぐかのよう に「隣接海洋の主権に対する大統領宣言」、通称「平和線宣言」を発布しまし た。   この平和線は、日本では「李承晩ライン」と呼ばれ、日本漁船が拿捕され、 両国に対立を引き起こしたのは記憶に新しいところです。同時に領土問題が両 国の懸案事項になりました。   さて、領土問題の解決策ですが、かねがね国際法や国際司法裁判所による 解決を主張していた Tetsu さんは、意外にも北方領土ではこの方式の解決法 は念頭にないようです。 >北方領土についてですが、北方領土については、その帰属を証明する条約が >存在しており、これこそ韓国ではありませんが、裁判で争うまでもなく、日 >本の領土なのです。   北方領土の帰属を証明する条約とは、文面からすると下田条約をさすよう ですが、Tetsu さんは、千島列島を放棄したサンフランシスコ条約を国際法上、 どのようにお考えですか?   また、その条約にいう千島列島に歯舞、色丹島は含まれるのか、あるいは 吉田元首相のいうように含まれないのか、国際的に議論のあるところではない でしょうか?   それにもかかわらず、国際法や国際司法裁判所による解決を考えないのは、 Tetsu さんの従来の主張からすると豹変した印象を受け、首をかしげざるを得 ません。   クリリンさん、 > 半月城氏は領土問題を国際司法裁判所に委ねることに反対のようだ >が、では他にどのような方法があるのか教えて頂きたいものである。   私は、北方領土にせよ竹島(独島)にせよ、話し合いにより解決すべきで あると思います。とくに竹島(独島)問題の場合は、未解決の問題点もまだあ るだけに、一層の研究が必要ではないかと思います。   この点、先に紹介した地図の発見など、韓国の学者による新資料の発掘が 続いているだけに、これからも研究者による解明が不可欠ではないかと思いま す。同時にその研究成果の一般への周知も必要ではないかと思います。   たとえば、太政官の裁定書に関する愼教授の結論にしても、この問題にく わしい Tetsu さんすら納得していないだけに、国際的な研究成果を日本で容 易に入手できるようなシステムが待たれます。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992 (注2)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559),1997   (本記事は下記ホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/06/20 - 06513/06514 PFG00017 半月城 韓国の学生運動 ( 8) 99/06/20 18:03 06407へのコメント   南さん、こんばんは。RE:6407, > で、質問なのですが、ご自分で謙遜なさるところの「同人誌もどき『鳳仙花 >文芸』(1970)」や4・19学生革命9周年を記念した、ソウル大学での宣言 >文(1969年4月19日)から随分歳月が経っていますが、今の韓国の世論 >はどうなってるのでしょうか。大学からより社会全般に広まったのか、又はそ >の逆なのか。 > 例えば日本の左翼運動でも、60年代と今では、隔世の感があります。自己 >正当化してなければ良いなあとは思いますが。   韓国の学生運動について、私はくわしくないのですが、ご要望に応じて私 なりにまとめてみたいと思います。白手乾達さん、かんさん、もし間違ってい たら、訂正をお願いします。   韓国の学生運動も、最近は60年代後半とさま変わりで、すっかり少数先 鋭化した感があります。この変化は、ソウルオリンピック(1988)のころから始 まったのではないかと思います。   韓国で行われたオリンピックは単にスポーツの祭典にとどまらず、対外的 にはソ連と対話を開始するなど国際関係に劇的な変革をもたらしましたが、同 時に対内的にも大きな変化をもたらしました。   スポーツを楽しむ余裕が生まれたということは、それだけ社会が成熟した ことを物語っていますが、そのころから韓国ではものがだいぶ自由にいえる社 会になりました。   そうした雰囲気は、学生運動や反体制運動に目に見える変化をもたらしま した。   この年、刑期を終えたにもかかわらず、非転向の思想犯として保安監護処 分の名のもとに長く収監されていた元在日韓国人学生・徐俊植氏が17年ぶり に仮釈放され、話題をよびました。   また、翌年には全大協の代表として女子大生・林秀卿さんが北朝鮮で開か れた「世界青年学生祭典」に公然と参加し、しかも帰りは逮捕覚悟で南北軍事 境界線を通って韓国にもどりました。   これは衝撃でした。反共が国是で、反米革命闘争を鼓舞する歌をうたうだ けでも犯罪とされる韓国において(注1)、北朝鮮を許可なしに訪問するとい うのはたいへん衝撃的な出来事でした。朴大統領の時代だったら、死刑は免れ なかったのではないかと思います。   この訪北に見られるように、全大協が北朝鮮の主張に一部賛同し行動する という路線を踏み出したことは、反面では、勝共を名分に戦争を二度までしで かした韓国社会において、大衆の支持を失いはじめることを意味しました。   時は移り、93年に初めて軍人出身でない民間人の金泳三氏が大統領に就 任したころ、いま焦点になっている韓総連(韓国大学総学生会連合)が「生活・ 学問・闘争の共同体」をスローガンにかかげ、スタートを切りました。   金政権のもと、消費ブームや民主化の進行とともに、学生たちも次第に 「脱政治」の傾向を強めていきました。しかし、韓総連はそれに歯止めをかけ るかのように政治スローガンを重視し、次第に先鋭化していきました。 97年8月、韓総連は北朝鮮の呼びかけに呼応して、南北統一集会を決行 しようとしました。しかし、学生たちは戦闘警察にはばまれ、統一集会のかわ りにソウルの延世大学を占拠・ろう城しました。韓国版・東大安田講堂事件と いえましょうか。この攻防で学生5899人が逮捕されました。このとき、指 導部の韓総連は利敵・暴力団体、非合法組織とされました。   しかし、このような措置に押しつぶされるような韓総連ではありませんで した。4.19学生革命以来、伝統的に政治に強い影響を与えてきたと自負す る学生たちは、劣勢をはねのけるべく組織力充実に力を入れ、受験戦争から解 放されたばかりの新入生を重点的に獲得していきました。   これについて、産経新聞はこう伝えました(97.6.6)。  「当局は昨年の延世大ろう城事件を機に「韓総連」を北朝鮮に同調する「利 敵・暴力組織」として非合法化し、集会禁止の措置をとってきたが、それでも 今回、ソウルには全国から一万人以上の学生が集結し警備陣と激しい衝突を繰 り返してきた。   韓総連が少数化しながらも学生をとらえているのは、民族主義と階級的正 義感のせいといわれる。とくに受験戦争から解放されたばかりの新入生には新 鮮味があり、世代的な反抗意識も手伝ってかえって北朝鮮の主張に関心を示す という」   この記事にあるように、韓総連は戦闘警察(別名、白骨団)と熾烈な衝突 をくり返し、火炎ビンまで投げつけました。このような激突の結果、ついには 警備当局や市民に死者をだすほど過激になりました。   さらに戦闘的な学生たちは勢い余って、ある労働者を当局のスパイ容疑で 査問、リンチにかけ、死亡させる不幸な事件(97.6)まで引き起こしてしまいま した。   この事件を機に、当局は韓総連のせん滅にのりだし、国家保安法をたてに、 韓総連から脱退しない学生を共謀共同正犯とみなし、一斉検挙にのりだしまし た。そのため、活動家たちは地下にもぐることを余儀なくされました。   そんな状況下で、韓総連は第6期代議員大会を敢行しました。そのようす を、人権問題をとくに重視しているハンギョレ新聞はこう伝えました。        -------------------- [韓総連] 奇襲代議員大会6期議長にソン・ジュンヒュク氏を選出               インターネット・ハンギョレ(1998.5.23)  韓国大学総学生会連合(韓総連)は22日、第6期議長選出のための代議員大会を 地域総学生会別に開き、ソン・ジュンヒュク臨時長(26・嶺南大総学生会長)を議 長に選出した。  警察の源泉封鎖を避け、この日各地域総学生会別に奇襲的に代議員大会を開 催した韓総連は、在籍代議員1145名中、675人が参加したこの日の投票の結果、 民族解放(NL)強硬派系列のソン氏が556票を獲得、NL穏健派系列の韓国外大ヨン インキャンパス総学会長・高HEICHUL氏(24、114票)を押さえて第6期韓総連議長 に当選したとパソコン通信Hitelとナウヌリなどを通じ明らかにした。  これに伴い、韓総連は近い将来第6期スタート式を開催することと予想され る。  しかし韓総連は、さる96年の延世大事態と昨年の漢陽大事態を契機に、相当 数の大学総学生会が既に韓総連を脱退したうえ、今回の議長選出過程でも内部 の反発が強かった点等から推測して学生運動で例年と同じ影響力を維持するこ とは難しいと予想される。  一方検察と警察は韓総連を完全瓦解させるという方針の下、今回新しく選出 できた韓総連中央執行部に対する検挙に主力を注いている。   (http://www.hani.co.kr/han/data/L980523/00523032.html)        --------------------   新執行部は、北朝鮮が98年8月に開いた統一大祝典に、政府の許可なし に、女子大生・黄ソンさんたちを参加させるなど、大胆な活動を継続しました。   ちなみに、このときの統一大祝典には学生とは別に平壌をおとずれた宗教 団体の司祭団9人のうち2人が、韓国政府の許可範囲をこえて参加しました。 その神父・文奎鉉氏などは帰国後、国家安全企画部の調査を受け、国家保安法 違反の容疑で拘束されたのはいうまでもありません。   さて、先鋭的な韓総連に対し、当局は引き続き第6期韓総連の活動家も全 員逮捕する方針で臨みました。しかし、このやり方はすこし強引すぎるようで、 のちに、裁判所は韓総連の活動家という理由だけでは国家保安法を適用できな いと、次のように判断をくだしました。        -------------------- [判決] 「韓総連、利敵団体ではない」                インターネット・ハンギョレ(1999.6.23) 韓国大学総学生会連合(韓総連)を利敵団体と見ることはできず、この団体に加 入して活動したという理由だけでは、国家保安法違反罪を適用できないという 法院判決が出てきた。 この判決は96年の『延世大事態』以後、韓総連を利敵団体と規定し、韓総連未 脱退者等に国家保安法違反嫌疑を適用してきた検察の方針を正面から否定する こととして注目される。 大田地方法院刑事合意4部(裁判長ハン・サンゴン部長判事)は6日、国家保安法違 反(称揚、鼓舞など)などの嫌疑で拘束起訴された前忠南大総サークル連合会長 の金某(26)氏など、第六期韓総連代議員の2人に対する宣告公判で、「国家保 安法違反罪部分は無罪」と宣告した。 裁判府は判決文で「金氏などが所属した第6期韓総連は、一部北韓の主張と一 致する綱領を持っているが、国家存立・安全や自由民主主義の基本秩序に実質 的な害を及ぼす危険性がある利敵団体と認めるだけの証拠は足りない」とし、 このように明らかにした。 裁判府はまた「韓総連路線は幹部陣の構成と指向によって変わり、第5期韓総 連が利敵団体と規定されていたからといって第6期も利敵団体と見ることはで きず、金氏などの言行も国民情緒に合わないが北韓(北朝鮮)を讃揚・鼓舞する 利敵目的があったと見るのは難しい」と付け加えた。 ハン・サンゴン部長判事は「今回の判決では、国家保安法改正の動きがあり、憲 法裁判所と国連人権理事会などが反国家活動性が明白な場合だけに国家保安法 を適用しなければならないという判決と見解を明らかにした点などを勘案した」 と話した。 しかし、裁判府は総長室占拠座り込みなど、彼らの大学業務妨害嫌疑は認めて 懲役1年6月に執行猶予2年を各々宣告した。 これらの被告人は、昨年、忠南大で韓総連代議員職を引き受けた後、各種のデ モを主導し、検察が利敵団体と規定した韓総連を脱退しない嫌疑で拘束、起訴 されて先月末、それぞれ懲役3年が求刑になった。                    大田/ハソク、イ・ジョンギュ記者   (http://www.hani.co.kr/han/data/L990406/098e4797.html)        --------------------   こうした判決にもかかわらず、韓総連は依然として当局に徹底的にマーク され、インターネット接続が遮断されるなど、その活動はいちじるしく制約さ れました。それと同時に、騒動のあった延世大学をはじめ、韓総連を離れる大 学自治会も多く、総学生連合会としての機能がかなり失われているのが現状と といえます。 (注1)『千里馬歌団』裁判                 インターネット・ハンギョレ(99.3.18) [判決] 利敵活動にも組織粗雑なら利敵団体ではない 学生運動サークルが北韓(北朝鮮、半月城注)を讃揚する等『利敵活動』を行っ たとしても、組織的体系をそなえていなければ『利敵団体』と見ることができ ないという判決が出てきた。 ソウル高法刑事5部(裁判長蔡YUNGSU部長判事)は17日、大学生連合サークルの 『千里馬歌団』に加入し、北韓を讃揚する歌を歌った嫌疑で起訴された金某 (27・大学生)氏に、国家保安法の利敵団体構成嫌疑に対して無罪を宣告し、 称揚鼓舞罪だけを適用し懲役8ケ月、執行猶予1年を宣告した。 裁判府は判決文で「金氏がうたった歌が反米革命闘争を煽動し、結局、北韓の 対南赤化統一路線に符合した点が認定される」としながら「しかし金氏が加担 した千里馬歌団が上下関係を規律する組織指揮体系を備えておらず、利敵団体 構成罪を適用できない」と明らかにした。 金氏は去る94年に結成され、韓総連傘下の京畿南部総連代議員大会で特別機構 として承認された千里馬歌団に加入し、活動した嫌疑で起訴され、一審で懲役 1年6ケ月に執行猶予3年を宣告を受けた。                           イム・ミン記者   (http://www.hani.co.kr/han/data/L990318/08ad3h01.html)  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/07/04 - 06837/06837 PFG00017 半月城 金順吉・三菱重工裁判 ( 8) 99/07/04 21:26 06717へのコメント   かんさん、周平さん、こんばんは。   国家公務員が違法行為をしても、国は賠償責任を持たない戦前のいわゆる 国家無答責ですが、昨年のフィリピン「慰安婦」判決では問題にならなかった と思います。   そのときの焦点は、個人がハーグ条約をもとに国に損害賠償を請求できる かどうかでした。そのため、国際条約違反が争点なので、被告の国はさすがに 国家無答責を持ちだすわけにはいきませんでした。   その一方、国家無答責を正面から振りかざした判決としては、金順吉・三 菱重工裁判があります。   このときの長崎地裁判決は、日本国の不法行為そのものは認めましたが、 同時に明治憲法の国家無答責をもちだし、原告である金順吉氏の請求を次のよ うに却下しました(注1)。        --------------------  一、本件徴用の実態                      1944(昭和19)年12月下旬、原告に対し国民徴用令に基 づく徴用令書が発せられた。原告は家族が心配で母親の実家へ逃れ 潜んでいたが、その数日後、一人の日本人巡査が来て徴用に応じな かった場合に受ける不利益を聞かされ、巡査に従った。       翌日、他の被徴用者と共に関釜連絡船に乗せられ、下関まで連行 され、さらに汽車で長崎まで連行された。平戸小屋寮では、海軍の 兵員が二十四時間体制で監視を続け、逃亡した徴用工に対しては、 捜索の上、暴行が加えられることもあった。             昭和20年8月9日、原告は、作業中に原爆投下に遭った。その 後長崎を脱出し、釜山に帰り着いた。               ・・・  一、被告国の不法行為責任                   被告国の被用者であった巡査が原告に対して採った徴用の手段は 、違法なものであったといわざるを得ず、また平戸小屋寮では海軍 の兵員が原告ら徴用工の監視役を果たしていたから、ここでも公務 員が違法行為をしていたことになる。               しかし旧憲法下においては、国の公法上の行為のうち権力作用に よる個人の損害については国家無答責論が妥当するとされており、 当裁判所も同様の解釈に立つ。そして、本件で原告に対して採られ た徴用も国の権力作用にあたるから、国が原告に対し民法上の不法 行為責任を負うことはない。                         --------------------   被告である日本国が国家無答責をもちだした理由ですが、金順吉さんが所 有していた192ページにもおよぶ徴用時の秘密日記によって、三菱および海 軍軍人が徴用工を監視・軟禁していたなど、国の不法行為は明らかでした。そ こで国は賠償責任だけはなんとか免れようと、伝家の宝刀の国家無答責を持ち だしたものと思われます。   この例のように、国は裁判で賠償責任を免れるためとあらば、国際的な体 面を無視し、最後の手段としてなりふりかまわず国家無答責を持ちだすのでは ないかと思います。   さりながら今回のように、たとえ日本国の不法行為が証明されても、旧憲 法の規定により日本は賠償責任を負わないという身勝手な論理は、日本では通 用しても、国際的には非難ものではないかと思います。   このように明らかに道理の通らない規定があるなら、それを救済する何ら かの手だてを考慮してしかるべきです。それを行わないのは、行政や立法の怠 慢としかいいようがありません。   次に、海軍軍人が企業に密着し、タコ部屋まがいの監視人をしていた事実 ですが、これは三菱重工・長崎造船所の性格からすると容易に想像されます。   同造船所は、民間で日本最初の軍艦「霧島」を手がけたのを始め、多くの 航空母艦や駆逐艦、さらには戦艦「武蔵」などを建造しました。また兵器工場 として、真珠湾奇襲攻撃に使用された魚雷などもここで製造しました。   このように、長崎造船所は兵器生産の最前線に位置していたからこそ、軍 事機密保持のため、特に朝鮮人宿舎には海軍の監視がつけられたのでしょう。 また、三菱重工がそのように侵略戦争を遂行する重要な兵器工場であったため に、アメリカの非人道的な原爆の標的にされたくらいでした(注2)。   さて、兵器産業の雄である三菱重工は、戦争とともにいかに急成長してき たか、かっての長崎造船所所長は正直にこう語りました(注3)。  「三菱は戦争とともに発展してきた。第1ドックは西南戦役、第2ドックは 日清戦争、第3ドックは日露戦争、ガントリークレーンや造機拡張も戦争のお かげだ。戦後は、朝鮮とスエズの動乱で再建した」   当事者本人が、戦争を糧に発展を遂げてきた三菱の姿を語ると、さすがに 迫力があるものです。そんな三菱について、金順吉裁判を支援する会の久保田 達郎氏はこう記しました(注3)。        --------------------   被爆都市長崎は兵器生産の街である。防衛庁向け契約高上位10社のトッ プには常に三菱重工の名がある。例えば、1991年度三菱の契約高3545 億円は、防衛庁総契約高1兆4168億円のほぼ1/4(25%)を占める。   アメリカでの兵器生産トップ企業はロッキード社だが、その占有率は4~ 5%でしかないことからみても、日本における三菱の異常さがわかる。  「死の商人」「三菱兵器廠」「三菱一社あれば戦争ができる」等と称される この実態は、戦前・戦中そして戦後を通して一貫している。        --------------------  「三菱兵器廠」とまでいわれた三菱重工は、戦時中、金順吉さんをはじめ、 強制連行などによる朝鮮人1万3749名を、会社および海軍軍人による軟禁 のもとに兵器生産に従事させていました。この軟禁はもちろん違法行為で、長 崎地裁もそれをこう指摘しました(注1)。        --------------------  一、被告会社の責任                      旧三菱工業株式会社は、原告らを監視体制の下で半ば軟禁状態に 近い状態にし、労働に従事させていたものであって、国民徴用令に 基づく徴用でも許容されない違法なものであったといわざるを得ず 、その限りで旧三菱重工には不法行為責任がある。したがって、そ れによって被った原告の精神的損害について、不法行為に基づく損 害賠償責任を負う。未払い賃金五十円については支払債務を負う。        --------------------   裁判所はこのように三菱の不法行為や未払い賃金に対し、賠償責任や支払 い義務を認めました。しかし、その義務を負うのは「旧三菱重工」で現在の三 菱重工には責任がないとしました。   たしかに戦前の三菱は財閥解体により分割され、現在の三菱とは別会社で すが、その後ふたたび合併し、元の姿にもどりました。それにもかかわらず、 現在の三菱が未払い給与などを引きついでいないという説明には誰しも首をか しげるところです。   そうした説明もさることながら、現在の三菱が、ドックなど旧三菱の設備 や資産などを引きつぎながら、未払い給与などは引きついでいないという姿勢 をとるのでは、あまりにもさもしいかぎりです。   新日鉄や日本鋼管がそうした別会社の論理を引っ込めて、被害者と和解し たのに、三菱重工があくまでもそれにこだわるのは、「死の商人」の冷徹な論 理からでしょうか?   こうした三菱の流儀は、日本では通用しても韓国やアジア諸国で今後、ど れだけ通用するでしょうか? かりに現在通用しても、将来、世界的に非難の 的になる心配はないでしょうか?   最近、フォルクスワーゲンなどドイツ企業は戦時中の強制労働に対し、相 応の補償をすることを決定しました。そんな潮流のなか、世界にビジネスを展 開する三菱として、未払い賃金を支払わないスタンスは、はたして国際的に受 け入れられるでしょうか。   わずかばかりの未払い賃金の支払いをケチって、世界的に大きなものを失 うのではないかと懸念されます。   おわりに、金順吉裁判のその後ですが、金順吉氏は原爆の後遺症のためか、 98年2月他界され、長男の金鍾文さんが裁判を引き継ぎました。裁判は福岡 高裁での控訴審が結審し、来る10月1日に判決の予定です。   控訴審で金さんは「強制連行では旧会社も加担した。この加担を原判決が 否定したのは誤り」と主張しており、これを高裁がどう判断するか注目されま す。 (注1)共同通信ニュース速報、97.12.2 (注2)長崎への原爆投下   マンハッタン計画(原爆製造計画)の総指揮官であったレスリー・R・グ ローブスは、その著『原爆はこうして作られた』のなかで、こう書いています (引用は注3)。  「長崎の方は、日本最大の造船ならびに修理施設の中心の一つだった。それ は海軍兵器(魚雷)の生産の面でも同様に重要な地位を占めていた。・・・ (原爆の照準点は)浦上川の谷にむかって1マイル半(約2.4km)北よりの地点 を狙い、二つの三菱兵器工場の谷間に落下して軍需資材の生産工場を二つとも 根こそぎ壊滅させた」 (注3)古庄正『強制連行の企業責任』創史社、1993  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


【タイトル】環日本海フォーラム インターネット「歴史会議室」 【名  前】半月城 【メッセージ】1999 07/15 21:37   kokako-laさん、こんばんは。   まもなく開かれる環日本海フォーラム米子会議に、アメリカのスカラピー ノ教授が講演するとは、すこし驚きました。このフォーラムにかける関係者の 意気込みを感じさせます。   敦賀など、今は原発銀座になるくらいさびれた感のある裏日本も、かって は日本の表玄関として活躍した時代があったそうですが、また状況が変われば 環日本海の共存・共栄もあながち夢ではないというのが関係者の共通理解なの でしょうね。   しかし、共存・共栄にいたるハードルはかなり高いようです。たった一発 のテポドンにショックを受け、日本海は再び冷戦の海に逆戻りした感がありま す。   よく、日米の友好は損なわれても一日で回復するが、日韓・日朝関係など は長年の友好も一日で損なわれると言われますが、テポドンの騒ぎをみると、 まさに図星です。   ともかく環日本海は、国際政治、経済、歴史認識など、そのどれをとりあ げても問題は山積みなだけに、北風に吹き飛ばされないよう一歩ずつ前進する 地道な努力が必要なようです。   そうした心構えを、内藤教授の論文「地域に根ざす歴史認識」は強調して いるようです。視点を自県や自地域中心、一国主義でみるのでなく、環日本海 という広い立場に立脚すべきであると説いておられます。   その主張を前回はほとんど紹介できませんでした。そこで今回は、前に省 略した部分を、内藤教授の了解を得て、下記に転載します。        -------------------- 「地域に根ざす歴史認識」          島根大学名誉教授・鳥取女子短期大学教授 内藤正中 1.自治体主導の環日本海交流  「地域の国際化」がいわれるなかで、日本海沿岸地域の自治体では、対岸諸 地域との自治体間交流が進められてきた。   かってのとき、米ソ対立の冷戦下にあっては、冷戦の最前線になっていた のが日本海であった。それが冷戦構造崩壊を受けて、1990年代に入ると日 本海をめぐる沿岸諸国、すなわちソ連、中国、北朝鮮、韓国、モンゴル、そし て日本との間で、新しい国際秩序をつくりだそうという取り組みがはじまった。   日本海を「平和と友好の海」にしようという新しい取り組みは、政治より も経済を、国益よりも地域振興を優先し、地域住民の福祉向上を第一義的な課 題にした。その限りで、交流の主体は自治体と住民になる。   ナショナリズムに侵された度合が少ない都市間交流が中心になることによ って、関係地域の安全保障に寄与できるのではないかと考えられている。一対 一の二地域間交流であったものが、いまや多地域間交流へと進んできている。   こうした環日本海地域での国際交流は、各国中央政府間での取り決めにも とづくものではなく、自治体と住民の手によって進められている自治体外交、 民際外交ということに最大の特徴を見ることができるのである。   かっての時代、対岸諸国を「仮想敵国」とみて日本海が緊張した時、新潟 や金沢はソ連のハバロフスクやイルクーツクと友好提携して、経済や文化の交 流をつづけてきた。その実績がいま開花したのである。   鳥取県境港市は北朝鮮の元山市と友好都市縁組みを結んでいる。北朝鮮が 対岸で唯一残された「仮想敵国」であり、国交正常化交渉は中断されたままで 再開の目途さえも立っていないことは周知のとおりである。政府間にはこえら れない壁があっても、それを越えて交流しているのが自治体外交であり、環日 本海交流の特徴である。 2.環日本海交流と歴史認識   しかしながら、対岸の朝鮮半島、中国大陸、シベリアは、近代にあっては いずれもが、日本帝国主義により侵略の対象にされていたところである。当然 に私たちは「負の遺産」を受継いでいることを明確に認識しておかなければな らないはずである。   明治以降の近代100年の間に、日清戦争、日露戦争を通じて大韓帝国を 併合し、36年間にわたる朝鮮での植民地支配をつづけてきた。シベリア出兵、 中国東北部での利権獲得と満州国の建国、中国全土に対する十五年戦争、そし て太平洋戦争など、日本帝国主義の大陸進出、軍国主義の侵略について、私た ちは直視しなければならないのである。   しかも、そうした国ぐにに対して日本政府はキチンとした戦後処理をしな いままできていることも忘れては成らない。韓国との間では1965年に国交 の正常化をしたが、朝鮮半島の北半部を支配する北朝鮮に対しては、いまなお 不正常のままである。   中国については、1972年に国交を正常化し、78年に平和友好条約を 締結したが、去る(98年)11月に来日した江沢民主席から改めて歴史認識 が問われている。ロシアとの間では、1956年に国交が回復されたものの、 北方領土問題は解決せず、平和条約も締結にいたっていない。   もっとも早く国交を結び、強いパートナーになっているはずの韓国の場合 でさえ、日本政府の謝罪が問題になっていることは周知の通りである。去る (98年)10月に来日した金大中大統領と小渕首相の共同宣言で、「過去の 一時期韓国国民に対し、植民地支配により多大な損害と苦痛を与えたという歴 史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べ た」という文言を明文化したことで政府間では結着したというが、政府与党内 では異論が相次いだという。   異論の主なものは植民地による損害を認めると、将来において請求権問題 が起こる可能性がある、日韓問題は1965年の日韓基本条約で解決済みであ るとする立場である。   ここではしなくも日韓基本条約の矛盾が噴出したわけである。同条約第2 条は、1910年に締結した韓国併合条約を「もはや無効である」と定めたが、 いつから無効であるかは明確にしなかった。   韓国政府では当初から無効であり、日本植民地支配は非合法なものであっ て、日本からの5億ドルの供与と借款は「賠償の意味も含まれる」と解釈して いる。   これに対して日本政府は併合条約は1948年8月15日の大韓民国の成 立まで有効であり、植民地支配は合法的なものとし、5億ドルは「経済援助」 だという。そして韓国政府が5億ドルと引き換えに対日請求権を放棄したこと から、強制連行や従軍慰安婦などの補償についても、解決済みとする態度を日 本政府にとらせることになった。   しかしながら、韓国併合条約は日本政府がいっているように、両国の「自 由な意思」で「対等な立場」で締結されたといえるだろうか。1996年10 月、村山首相は参議院で質問に答えるかたちで「(併合条約は)当時の国際関 係等の歴史的事情のなかで、法的に友好に締結されたものと認識している」と 述べている。併合条約が法的に有効という以上、その条約にもとづく植民地支 配も合法的ということになる。   これでは韓国も北朝鮮も納得できない。そこで村山首相は、「政府として は、朝鮮半島地域のすべての人々に対し、過去の一時期、わが国の行為により 耐えがたい苦しみと悲しみを体験させたことについて、深い反省と遺憾の意を 従来より表明してきたところである」と言及した。前述した小渕首相の共同宣 言における文言も同じである。   根本のところで認識の相異があるのだから、それを解決しない限りは、天 皇と歴代首相が謝罪をくりかえしても、韓国政府も国民もそれで納得するもの ではない。当然ながら、真の意味での日韓正常化にはつながらない。 3.北東アジアのなかでの地域史の見直し   必要なことは、過去の事実に正面から向き合う姿勢である。歴史に対する 誠実さこそが、国境を越えて共有されるべきであろう。   それは、日本史全体についてきびしく総括されるべき課題であるが、同時 に環日本海交流を進めている各地域ごとに、地域レベルでの日朝関係史を明ら かにすることを通じて、歴史認識を確かなものにしてゆく課題でもある。   地域レベルで取り組まれていることにその特徴をもつ環日本海交流であれ ばこそ、その地域の対岸との関係史、それは近代史としては侵略の歴史になる が、地域が侵略にどのように加担したかを明らかにしてゆく必要に迫られるは ずである。   いま各県の県史や市町村史をひもとくとき、それらがあまりにも自県中心 主義でまとめられていることに気がつく。県史だから自分の県の歴史を記す、 自分の県が日本史全体のなかでどのような歴史をつくってきたかを明らかにす ることは当然でもある。   しかし日本海に面している日本海沿岸地域である以上、一衣帯水の地理的 環境から、対岸とは何らかの関係があったと思う。対岸諸地域との関係史を通 じて北東アジアのなかで、それぞれの地域史を見直す必要があるはずである。 それは、地域史における一国主義史観の脱却という課題につながることである。   日清戦争、日露戦争と地域とのかかわりは、郷土部隊が朝鮮を戦場にして 転戦したとか、郷土出身者として誰が戦死したかということだけではない。日 本帝国主義が朝鮮を植民地にしていく過程で、地域住民もそれにまきこまれて いったはずである。直接的に侵略の担い手になった例もあるし、侵略に加担し ていったことは多い。   鳥取県では1907(明治40)年刊の県による『因伯記要』のなかで、 「朝鮮鬱陵島占領事業」を特筆大書して、かって江戸期に米子町人が行ってい た「竹島渡海事業」を朝鮮植民地化の先駆としてとらえているのである。   島根県では、松江商業と浜田水産に外国語として韓語科を特設し、商人と 漁民の朝鮮進出を支援し、1907年からは県費でもって植民地経営会社を創 立して県民の朝鮮進出を勧奨している。   朝鮮を植民地にし、大陸進出ということで中国を侵略していくなかで、地 域ぐるみで日本人のアジア蔑視の世界観、とりわけて歪んだ朝鮮認識をつくっ てゆく。在日韓国・朝鮮人に対する根強い差別意識がつくられる直接的な原因 が、ここで形成されていったのである。   1930(昭和5)年の在日朝鮮人は約30万人であった。この年、朝鮮 在住の日本人は約50万人である。島根県についてみても、在日の1,538 人に対して、在朝の県人は9,642人になる   このことからいえば、多数の日本人が朝鮮に押しかけたことによって、朝 鮮人が故郷から押し出されていった姿をみてとることができるといわなければ ならない。   在日韓国・朝鮮人の「特別な歴史」がこうしてはじまるのである。歴史の 生き証人である一世は在日全体のなかでは2割以下になっている。2世3世が 在日の中心になったわけであるが、日本社会のなかでどのように共生してゆく かが問われているのである。   私はかって山陰という地域にこだわりながら『日本海地域の在日朝鮮人』 (多賀出版、1988年)という本を書いた。日本経済史を研究していながら 在日の存在を完全に欠落させていたことに対する反省と、地域に根ざす歴史認 識をたしかなものにすることを考えたからである。   同書で試みた県内在住の韓国・朝鮮人に対する就業実態調査が、民団と総 聯の理解と協力で実施できたことがきっかけで、1991年には島根県文化国 際室が在日韓国・朝鮮人実態調査を行って、『もう一つの国際化』のパンフを まとめ、「在日韓国・朝鮮人問題をご存じですか」と県民に呼びかけた。   こうして1995年に策定した島根県の国際化推進基本構想において、 「内なる国際化」ということで、定住外国人への施策が取り上げられるにいた るのであった。歴史と向き合うことによって自治体の姿勢も変わるのである。 4.竹島は日本固有の領土か  (紹介済みのため省略)           (『アリラン通信』 No.20 (1999)、発行人:姜徳相)        --------------------   内藤教授は鳥取女子短期大学・北東アジア文化総合研究所の所長として、 鳥取県国際交流財団からの研究助成を得て、韓国江原道の歴史と文化について 現地調査を含めて研究をすすめてこられました。   このように同教授は国際交流において第一線での実践者であるだけに、同 教授の語る交流は、大地に根を張った盤石の重みを感じさせます。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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