半月城通信
No. 61
(1999.6.20)

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 出生地主義
  2. トキと出生地主義
  3. 王仁と和珥
  4. 新日鐵裁判の和解
  5. 竹島(独島)は日本の固有領土か?
  6. 故・朴大統領記念館


文書名:出生地主義 [zainichi:9693] Date: Tue, 18 May 1999 21:20:52 +0900   ニフティ FNETD MES(8) #5291、半月城 >>  日韓とも、そろそろ自民族の血へのこだわりを捨てるべきではないかと思 >>います。その具体的なステップとして、血統主義をあらため、国際標準の出生 >>地主義に移行すべきではないかと思います。   RE:5301、かんさん >これは賛成ですね。もっと言えば、単に血統主義を出生地主義に改めるだけでなく、 >事後的な国籍取得の用件をもっと簡略化しても良いでしょう(最低限、アメリカく >らいには)。 > 尤も、これを施行すると、在日は半世紀後には殆どが日本国籍になってしまいま >すが、このことは、半月城さんは構わないんですか??   これを受けて、私はニフティで下記のように記しましたので紹介します (#5570)。        -----------------------------------------   このように質問されるかんさんは、まさか「(半月城の)思考や行動様式 は此処の日本人右翼連中と驚く程似てる」と思いこんでのことではないでしょ うね。   結論をいうと、私はかまいません。日本がもし出生地主義を採用したら、 在日韓国人の国籍はほとんど日本になってしまうことを承知の上で、私は出生 地主義を主張しています。   日本や韓国が出生地主義に移行するためには、いくつかの高いハードルを 乗り越えなければならないのですが、その過程でアジア系の人たちに対する差 別や偏見は確実に薄まっていくのではないかと思います。そうした社会が到来 したとき、本国との距離が遠い在日韓国人四世や五世が先祖伝来の韓国籍にこ だわる理由は何もないと思います。   現在、一世や二世が国籍にこだわらざるを得ない理由のひとつは、日本社 会での差別や偏見からのがれるために、負け犬のようなやり方で日本国籍を取 得したところで、なんら根本的な問題は解決されないという意識が重なってい ることにあると思います。   もし、日本がアメリカのようにもう少し包容力のある社会、たとえばニ ューカマーで英語が下手な異民族でも、キッシンジャーのように国務長官にな れるような社会になれば、在日韓国人のルサンチマンやハンは急速に消えてい くことでしょう。そんな社会が到来することを私は夢見ています。   しかるに現実の日本は、次のように語る石原慎太郎氏が都知事になるよう なご時世で、それは夢物語に近いのかもしれません(注5)。  「帰化した人間が代議士になるのは、差別や偏見に関係なく問題があると思 います。たとえば、日韓関係に摩擦が生じたとき、彼はどちらの国益を優先さ せるのか。   帰化したといっても、祖国に対して愛着があるのは自然だから、二つの国 の板挟みになる本人もつらいことになると思いますよ」   このような偏狭なショービニズムが植え付けられたためか、石原氏の元秘 書は衆議院選挙で票の取り合いになったとき、石原氏の競合相手である故・新 井将敬のポスターに「北朝鮮からの帰化」と黒いシールを貼りました(注)。 こうした手法や発想が白昼まかりとおるうちは、出生地主義への道は険しいよ うです。 (注)古舘嫌二「新井将敬が否応なくひきずられた「在日」」『論座』98.8   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:トキと出生地主義 [zainichi:9772] Date: Sun, 23 May 1999 17:29:16 +0900   Ernestoさん、heyさん、こんにちは。半月城です。RE:9750, > 新聞によると、20日午後小淵首相は記者会見中、 >記者団から「佐渡のトキが産んだ卵がかえりそうだ。訪中の >良いみやげ話になるのでは」と問われ、 >「明るい話だね。戸籍はあるのか。戸籍を作ってやるか。 >日本で生まれたんだからな」と答えた。   日本で生まれたトキに日本の戸籍をつくるというのは、たしかに出生地主 義といえますが、発想は血統主義ですね。そもそも出生地主義の国では戸籍は ありませんから。   最近、私は出生地主義の発想をまざまざと思い知らされるできごとがあり ました。   今年のエイプリルフールに朝日新聞は、「首相、閣僚に外国人登用」と題 して、小渕さんが“ビッグバン法案”を提出し、ゴルバチョフやサッチャーの 入閣を検討しているという記事を載せました。   朝日はよくもこんな夢物語を思いついたものだと感心して読みましたが、 何とこの記事にまんまとだまされた人がいました。在日アメリカ人の、デーブ・ スペクターさんです。   出生地主義のアメリカは、元ドイツ人のキッシンジャーが国務長官になる ような国ですから、スペクターさんにとって朝日の記事は、何の不審もない注 目すべき報道だったようです。発想の違いはおそろしいものです。   もし、スペクターさんがイメージしているような国に日本がなったら、私 は在日韓国人は何ら韓国籍にこだわる必要はないと思っています。それどころ か、日本に帰化した人の中から外務大臣が誕生するような国になってほしいと 思っています。世界をマルチな視点で見ることのできる帰化人こそ、国務大臣 や外務大臣にふさわしいと思います。   昔、遣隋使に選ばれた渡来人系の小野妹子など、そのいい例ではないかと 思います。小野妹子は、漢字を伝えたとされる和珥氏の末裔で、倭語や百済語 はもちろん隋の言葉にも通じていたばかりでなく、外交官としてそれなりの国 際感覚をもっていたことでしょう。   この小野一族について、下記のような報道がありましたので、ご参考に添 付します。        -------------------- 読売新聞ニュース速報、[1997-04-10-20:18] ◆小野妹子の孫の寺跡で大規模塔跡出土  遣隋使・小野妹子(おののいもこ)の孫で、遣新羅使に任命された白鳳期(七世紀末 -八世紀初め)の高官、小野毛野(けぬ)の創建とされる奈良県天理市和爾町の願興寺 (がんごうじ)跡で、法隆寺(同県斑鳩町)の五重塔に匹敵する規模の塔跡が出土した 。発掘した同県立橿原考古学研究所は十日、「小野氏は古墳時代の豪族・和珥(わに) 氏の末えいで、外交官の家柄。先進文化をいち早く受容し、仏教寺院の建設にも積極的 だったことを裏付けた」と発表した。  県営農道の建設に伴い、二千平方メートルを発掘したところ、藤原宮(六九四~七一 〇年)と同じ八葉複弁蓮華文の軒丸瓦とともに、一辺十二・七メートルの正方形の基壇 (建物の土台)跡が確認された。中央には東西五・五メートル、南北四メートルの心礎 跡があり、同研究所は法隆寺五重塔(一辺十二・六メートル)クラスだったと推定して いる。  塔の南と北に砂利敷き参道を設け、参道南端には石燈籠(とうろう)を建立。奈良時 代(八世紀)までには塔を囲むように築地塀を建設するなど、荘厳なたたずまいだった こともわかった。  塔の北隣には金堂跡とみられる東西五十メートル、南北四十メートル、高さ三メート ルの土壇があり、周囲から七世紀後半の瓦やレンガ状に焼いた土でレリーフした仏像の 破片などが見つかった。寺域は東西百三十メートル、南北百七十メートル以上とみられ る。  願興寺は、奈良・東大寺の記録などによると、慶雲四年(七〇七)、小野毛野が文武 天皇の病気平癒を願って創建した。  堀池春峯・東大寺史研究所長の話「小野氏ほどの高級官僚ならば寺院建立に国家の援 助があったはず。中国や朝鮮半島の事情にも通じていたわけで、願興寺にも海外の文化 や技術が生かされたのではないか。今後の調査が楽しみだ」   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:王仁と和珥 [zainichi:9808] Date: Tue, 25 May 1999 23:42:04 +0900   さて、おたずねの王仁と和珥氏との関係ですが、話は古墳時代のこととあ って、はっきりした定説はありません。松本清張は「和珥氏は王仁を和風にし たのだろう」といってますが(注1)、しょせんはその程度の話です。といっ ても、松本清張の推理にはもちろんそれなりの背景があります。   まず日本書紀から説明します。応神天皇のときに百済王が阿直岐(あちき) を派遣して良馬2匹を献上しましたが、この阿直岐はよく学問(経典)によく 通じていました。そこで天皇が阿直岐に、汝に勝る博士がいるかと質問したと ころ、阿直岐は王仁という者がいると答えました。この話を聞いて、天皇は王 仁を招き、太子の師としました。   次に古事記ですが、こちらの表記は和邇吉師(わにきし)になっています。 吉師は百済の官職名です。よく知られているように古事記では、和邇は論語1 0巻、千字文1巻を持ってきたとされています。しかし、この話は時代考証か ら疑問視するむきもあるようで、半分物語と考えられています。   このように記・紀でワニの表記が違ううえ、物語も違うので、同一人物の 確認はできませんが、それでも両書ともワニを「ふみのおびと」(文首、書首) の祖先としていますので、これから両者はほとんど同一人物と考えられていま す。   一方、小野妹子の祖先である豪族の和珥氏は和爾、丸珥などと表記されま すが、和珥氏の根拠地のひとつである和爾について仲川明氏は王仁と結びつけ、 こう書いています(注1)。  「奈良県天理市に和爾というところがあり、今は和爾町というが、これは古 い村なのである。この和爾という所は、王仁(和邇吉師)の子孫の居た所では なかろうかという疑問は誰でも持つのであり、現にこれを結びつけている学者 もあるようである」   記・紀では、応神天皇のころの記述はほとんど物語の世界であり、きちん とした検証はとうてい無理ですが、そうした世界で松本清張のように、王仁、 和爾、和珥、和邇、丸珥を同一氏族と考えてもまったく支障はありません。   そもそも応神天皇からして、学者によっては騎馬民族系の征服王朝だとい う説がとなえられ、学会で50年間も延々と議論が続いているくらいですから、 この時代は、確かな定説は何一つないといっても過言ではないと思います。 (注1)金達寿『日本の中の朝鮮文化8』講談社文庫   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/05/30 - 06078/06078 PFG00017 半月城 新日鉄裁判の和解 ( 8) 99/05/30 22:46 05992へのコメント   最近、ここでしばしば新日鉄訴訟が話題になっていますので、今回はこれ を取りあげたいと思います。   これについて、私は「裁判で和解になったケースもあります」と紹介しま したが、正確にいうと和解したのは原告と新日鉄との間のみで、もう一方の被 告である国とは和解は成立せず、裁判は継続中であることを先におことわりし たいと思います。   まず、裁判のきっかけですが、これはひょんなことから始まりました。駒 沢大学が古本屋から買い入れた日本製鐵株式会社(日鉄)関係の資料176冊 のなかに、日鉄総務部の『朝鮮人労務者関係』という資料がまぎれこんでいた のがことの発端でした。   同大学の古庄教授は86年、これをもとに戦時中に日本で働かされた朝鮮 人労務者の給与未払金問題に関する研究論文(注3)を書きましたが、その後、 戦後補償問題が活性化した90年以降、同氏は、その資料の中には給与の未払 金だけでなく、死亡者の情報なども相当含まれている重要な事実を思い起こし ました。   このような事実を知ったとき研究者はどうするのか、そこで研究者の対応 が分かれるところですが、同教授は32名の遺族あてに資料のコピーを添え手 紙を送りました。そのうち10通ほどお礼などの返事がありました。   その遺族からの手紙ですが、それによると会社や日本政府からは死亡通知 すらまともに届けられていないなど、唖然とするような事実がわかりました。 そのため、家族の死を信じたくない遺族の中には一縷の望みを持ち、半世紀た っても死亡届すらまだ出していない人もいたくらいでした。   日鉄の死亡者ですが、ほとんどは日鉄釜石製鉄所での死亡者でした。岩手 県釜石市は天然の良港をもち、製鉄と魚の町として知られていますが、終戦直 前、同市の中心的存在である釜石製鉄所が米軍のはげしい艦砲射撃を受け壊滅 的なダメージを受けました。   日本への艦砲射撃は沖縄以外では珍しいことですが、このように米軍の標 的にされたのは、釜石製鉄所が「鉄は国家なり」を背負って立つ国営企業で、 戦争遂行に必要な砲弾鋼などを生産していたためです。このため製鉄所は、空 爆より効果がはるかに大きい艦砲射撃を二度も浴びたのでした。   その結果、市民を含め891人(米軍調査)の犠牲者がでました。その中 に強制連行された朝鮮人25名が含まれていました。   一方、日鉄の資料『労務者関係』は意外なルートで韓国にもたらされまし た。90年当時、韓国の盧泰愚大統領が訪日し、当時問題になっていた朝鮮人 強制連行の資料提出を日本に求めました。   この求めに日本政府は応じ、それまで日韓会談などで無いとしていた未払 金を含む強制連行の公的資料を探しだし、韓国に提出しました。この資料はG HQの命令により46年、厚生省が朝鮮人を戦時中に雇用していた企業につく らせたもので、厚生省の倉庫に眠っていました。   この資料のコピー『朝鮮人労働者に関する調査結果』が、韓国から在日本 大韓民国民団にもたらされましたが、その中に日鉄の資料も含まれていました。 そのいきさつは、NHK・TV「強制連行、6万7千人の名簿から」(93.8.1) で紹介されましたので、ご存じの方も多いことと思います。   NHKはこの資料をもとに関係者を訪ねまわりましたが、その中に、後に 日鉄裁判を推進するひとりになった在日韓国人の宋ビョン郁さんがおられまし た。   宋さんはその資料をみて驚愕しました。ディレクターが示した日鉄の未払 金供託報告書に宋さんの創氏改名による日本名があり、本人も知らない未払金 が79円35銭と記入されていました。   宋さんは16歳で家族から引き離され、釜石製鉄所に連行され3Kの重労 働を強いられました。そんなとき、いつも頭に浮かぶのは家族のことや故郷の ことばかりで、ふたたびふるさとに帰れる日だけを夢見て艱難辛苦をしのぎま した。   日本の終戦は故郷へ帰る絶好の機会だったのですが、宋さんはお金がない ため帰るに帰れませんでした。そのとき、もし会社から未払い給与の79円を 貰っていたら、夢のふるさとへ矢のように飛んで帰ったのでしょうが、その願 いはむなしいものに終わり、日本に残ることを余儀なくされました。   宋さんにお金がないのは、それなりのわけがありました。釜石製鉄所では まともに賃金をもらえなかったそうでした。これは当時、ほとんどの企業が強 制連行した朝鮮人の逃亡を防ぐため、給与を天引きし社内貯金にまわしていた ためでした。   そうまでしても各企業では朝鮮人の逃亡が頻発したようで、宋さんもそん な一人でした。これが銀山で名高い兵庫県の三菱鉱業生野鉱山の場合、きびし い監視と半殺しの制裁にもかかわらず、NHKの調査では名簿上58%、57 4人も逃亡しました。証言によれば、それだけ労働や待遇が苛酷をきわめたよ うでした。   さて、日鉄の資料をみて、宋さんは愕然としました。苦しいときに励まし てくれた同僚や先輩達が、てっきり故郷に帰っているとばかり思っていたのに、 なんと艦砲射撃で亡くなっていたのでした。   これをみて宋さんは決心しました。それまではひたすら日本社会で嫌われ ないよう心がけて生きてきましたが、歴史的な真実を明らかにするために、N HKに協力しテレビで証言しました。   宋さんはそれにとどまらず、無念のうちに亡くなった同僚・先輩の霊にこ たえるため、韓国へ行き遺族探しを始めました。その過程で、宋さんの気持ち は次第に「同僚の無念を晴らしたい」と思うようになり、古庄教授と共に運動 を起こす意志を固めました。こうして新日鉄訴訟が始まりました(注1)。 <訴訟の概要>   弁護団の大口氏によれば、訴訟の概略は次のとおりです(注2)        -------------------- 1.事案の概要 (1)旧日本製鐵(株)は、戦前戦中、日本帝国における最大最重要の軍需会 社であった(以下、「日鐵」という)。   戦後、財閥解体の対象とされ、富士製鐵・八幡製鐵他に分割された後、再 度新日本製鐵(株)に合併し、世界最大の鉄鋼メーカーとして現在に至ってい る(以下、「新日鐵」という) (2)戦中、日鐵には約8500人を越える朝鮮人労働者が強制連行され、苛 酷な労働を強制されていた。当時、一応の賃金を支払う、国元へ送金されると 説明されていた。しかし実際には支払われず、送金もされていなかった。   戦後、解放された朝鮮人労働者による未払い賃金支払い要求の声が、日本 全国で各企業に対して強く湧き起こった。当然のことである。   しかるに日本政府は、1946年夏、不当にもこれを殊更に治安問題と構 成し、日鐵をも含めた各企業に指示して、供託要件不存在にもかかわらず、違 法に未払金を供託せしめた。これをもって未払金はもはや存在しないと強弁し たのである。   しかし、当然なされるべき供託通知は、帰国者についても本籍地・居住地 が明白であるにもかかわらず、一切なされなかった。   そしてそのまま放置され、政府によれば、その後供託金還付請求権は時効 消滅したと、一方的になされた。このような金額は朝日新聞の報道によっても、 5000万円(当時の金額)に上るという。 (3)日鐵釜石製鐵所の場合、記録上判明しているだけで、約1700人が連 行配備されていたとされているが、このうち690人分について、計12万5 831円71銭の未払金の存在が明らかになっている。(・・・) (4)ところで重要なことは、釜石製鐵所における未払金は、賃金に限られて いないということである。これら未払金の中には戦死者に対する弔慰金も含ま れていたのである。   即ち、第2次世界大戦中、連合軍により重要な戦略攻撃目標とされた同製 鐵所は、敗戦間際に二度に亘って大規模な艦砲射撃を受けたのであるが、その 際25人の犠牲者が、連行されていた朝鮮人徴用工に出たとされる(これも判 明した名簿による分のみである)。   日鐵は、これら異国で悲惨な犠牲を遂げた、徴用工の遺族に支払われるべ き弔慰金すら、支払っていなかったのである。   しかもそれどころか、戦災死の事実を国元へ通知することさえ、日鐵は行 っていなかったのであった。  (このため、勿論墓を作るなどせず、何年も帰国を待ち続けた遺族も少なく なかった。韓国における祖先崇拝の念・習俗の篤さは良く知られるところであ るが、生存している筈の当主がいないということで、そもそもの肉親の不在自 体による悲嘆苦痛は当然として、その上更にこの面からの遺族の苦痛も並大抵 のことではなかった。   また、一家の大黒柱の不帰還・賃金の未払いが、遺族を深刻な生活難に陥 れたこともいうまでもなく、動乱の戦後韓国社会を、遺族はまさに血を吐く想 いで、生き抜いてきたのであった。) (5)これら供託に関する資料は、偶然のきっかけから発見されるに至り、駒 沢大学の古庄正教授(経済学)によって、戦時戦後日本経済史の極めて重要な 一面を明らかにする学問的成果として活用された(注3)。   そして教授はそれにとどまらず、日本人としての責任感から、供託名簿に 記載されている犠牲者の本籍地に宛て、記録のコピーを添えて私信を出される ことをなされた。1991年、11月のことであった。これらは50年後でも、 遺族の許に届いた。   実に半世紀近く経って初めて、肉親の戦災による犠牲の事実・賃金等未払 いの存在を、遺族は知るに至ったのであった。 2.訴訟の概要 (1)裁判前     (省略) (2)訴訟提起   無責任不誠実にも長年月放置されてきた、未払い賃金の支払いすら拒絶さ れるなど、このような事態は、遺族としては全く意想外であり、到底理解不可 能であったが、(海野福寿教授、朴慶植氏・姜徳相教授他、多数の人士の呼び 掛けによって、1995年7月に結成されたところの)「日本製鐵元徴用工裁 判を支援する会」(注4)とも協議を重ね、問題の全面解決を求めて、日本 国・新日鐵を共同被告として、1996年9月、東京地裁に提訴がなされた。   我々の提起した裁判における「請求の趣旨」は、遺骨返還請求・謝罪要 求・慰謝料請求・違法供託にかかる相当金額の返還請求等々を内容とするもの であった。   そして訴状の内容に於いては、とりわけて「遺骨問題」に大きなウエート を置き、これを詳細に論じた。ただし、この問題が、法律的にも最も重要であ り、かつ何よりも遺族にとって最も切実な要求であったからである。 (以下省略)        --------------------   裁判は96年5月から始まりました。予想どおり、被告の対応は誠意のな いものでした。日本国の主張は、他の戦後補償裁判と同様「請求の法的根拠な し」として、事実認否すら拒否する態度を示しました。   一方、新日鉄の主張は、日鉄とは別法人であり日鉄関係の債務については 関係ないと主張しました。これは、日鉄の負債は未払金を含めてすべて清算会 社に移し、儲かる部分だけで新会社を設立したことにその根拠をおいていまし た(この手法は国鉄の分割民営化のやり方と酷似しています)。   しかし、新日鐵もそうした論理で責任逃れをできるとはかならずしも考え ていなかったようで、最重要課題の遺骨問題について「人道的見地から、誠意 をもって調査する」意向を示しました。   新日鐵は紆余曲折はあるにせよ、調査のために韓国の忠清南道に出向きま したが、これが意外にも好感をもって迎えられ、当初の訪韓すると糾弾される のではないかという懸念は杞憂に終わりました。それどころか、かえって両者 間に信頼感が強まり、早期解決の気運が高まりました。   しかし、問題の遺骨は関係者の懸命な努力にもかかわらず探しだせず、遺 族を落胆させました。ここに至って遺族も遺骨調査に見切りをつけ、遺骨なし で鎮魂の祭祀(チェサ)を行う方向に傾きました。   こうした背景のもとに、原告と新日鉄は下記のように和解にこぎつけまし た。        -------------------- ◇新日鉄が強制連行韓国人遺族に慰霊金二千万円支払い◇               朝日新聞ニュース速報、1997.9.22  太平洋戦争中に強制連行され、旧・日本製鉄(現・新日鉄)の釜 石製鉄所(岩手県釜石市)で爆撃などで死亡した十一人の韓国人遺 族が、新日鉄と国に遺骨の返還や慰謝料など総額約二億五千万円の 損害賠償を求めた訴訟で、原告と新日鉄の間で裁判外の和解が二十 一日までに成立した。会社側が一遺族あたり二百万円の慰霊金(一 人については五万円)などを支払い、原告は会社に対する訴えを取 り下げた。  一連の戦後補償をめぐる裁判で、和解が成立したのは初めて。一 方で、国を相手にした訴訟は、東京地裁で継続する方針という。  原告側によると、新日鉄が慰霊金のほかに、(1)死亡した韓国 人を釜石製鉄所内の鎮魂社に合祀(ごうし)する(2)韓国での慰 霊費用として約百四十万円を支払う、ことを条件に、原告が訴えを 取り下げることで合意が成立した。  新日鉄は今月十七日に、釜石製鉄所で合祀祭を行い、来日した原 告に慰霊金などを支払ったという。これを受けて、原告は十八日、 訴えを取り下げた。  原告は遺骨の返還に加え、会社と国に対して連帯して一人当たり 二千万円の慰謝料の支払いと謝罪広告の掲載などを求めていた。        --------------------   今まで、三菱重工にしろ不二越にしろ、日本の各企業は「別法人論」や 「時効・除斥期間経過」「日韓条約」などをもちだし、裁判で原告の言い分が とおることはむずかしかっただけに、新日鉄がたとえ「人道的措置」であれ 「慰霊金」であれ、実質的な補償を行ったのは画期的なことでした。   和解したことにより、新日鉄は誠意をもって現状において可能な最大限の ことを行っているということが、原告遺族にも率直に伝わり、感謝の念が表明 されました(注2)。   この和解が間接的に影響を及ぼしたのか、今年、日本鋼管の裁判でも和解 が成立しました。今後こうした波が広がり、すくなくとも不二越の場合のよう に「働いた賃金がもらえない」という理不尽な事態だけは解決されるよう期待 したいものです。   こうした未払金の総額ですが、アメリカ公文書館に残っている資料では、 2億3700万円もの巨額に達していました。これは、かってGHQが未払金 を韓国政府に渡すべく、日本にその準備をさせたときの資料とみられます。し かし、このお金を渡す直前に朝鮮戦争が起き、実行は不可能になりました。   この恨みのこもったお金だけは、法務省によれば時効消滅の扱いにしなか ったそうで、今でも日銀の倉庫に眠っているのかもしれません。NHKはそう 推理していました。   また、GHQの命令により作成した供託金の詳細資料は法務省のどこかに 眠っているものと思われます。そうした資料は、第1段階としてその存在くら いは公表してほしいものです。 (注1)山本直好「朝鮮人強制連行と戦後処理の犯罪性を暴く日鉄訴訟」  山田昭次・田中宏編『隣国からの告発』創史社、1996 (注2)大口昭彦「日本製鐵元徴用工問題と新日本製鐵(株)との和解につい  て」『戦争責任研究』第20号、1998 (注3)古庄正「在日朝鮮人労働者の賠償要求と政府および資本家団体の対   応」早稲田大学社会科学研究所『社会科学研究』第90号 (注4)会長・古庄正。事務局長・山本直好・・・平和と生活を結ぶ会。事務  局次長・宋ビョン郁  (本記事はML[aml],[zainichi] および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 06211/06221 PFG00017 半月城 竹島(独島)は日本の固有領土か? ( 8) 99/06/05 19:50 06157へのコメント コメント数:1 (一部訂正、99.7.31)   ここの会議室でも時折、竹島(独島)の領有権が話題になっているような ので、久しぶりにこの話題について書きたいと思います。   以前、私はこの問題に関する故・梶村秀樹の研究を紹介しました(注1)。 そのときは、梶村の「竹島=独島の問題では韓国側に相当の理がある」という 学説に対し、日本の偏狭な「誇り」や「国益」をやたら重視する人が多いこの 会議室で、意外にも反論らしい反論がほとんどありませんでした。   それほどに梶村氏の論文は説得力があったようですが、しかしながら、そ の論文は書かれたのが1978年と古く、その論証にはおのずと限界がありま した。具体的には、明治時代の文献や鳥取藩関係の資料などが論証に十分取り 入れられていませんでした。   この手薄な面において、最近、島根大学の内藤教授が郷土史料を縦横に駆 使し、注目すべき研究をまとめられました(注2)。   同教授は北東アジアという広い視点から、韓国教科書の安龍福を英雄視す る歴史観を、日本側史料とくに鳥取の郷土史料研究を欠いた一国主義史観であ ると批判しました。   その一方、地域史を含めた研究の結論として『竹島を「日本固有の領土」 などとは強弁できなくなるのではなかろうか』と、梶村説に近い主張をされて おります。   内藤教授の研究を、そのダイジェスト版で紹介します(注3)。        -------------------- 「地域に根ざす歴史認識」        島根大学名誉教授・鳥取女子短期大学教授(注7)、内藤正中 1.自治体主導の環日本海交流・・・・(省略) 2.環日本海交流と歴史認識・・・・・(省略) 3.北東アジアの中での地域史の見直し(省略) 4.竹島は日本の固有領土か   一国主義の歴史観ということでは、韓国・北朝鮮も同じである。その典型 を独島の領土権を確認したとされる安龍福の英雄視に見ることができるのであ る。   韓国・北朝鮮での安龍福研究は、帰国後に備辺司(注6)で供述した内容 を記録した『朝鮮王朝実録』などによっており、相手側の鳥取藩の史料につい ては全く考慮しないという欠陥をもっている。   安龍福が1698(元禄9)年6月に、隠岐を経由して伯耆に着岸し、2 か月にわたって滞在した後、帰国したのは事実である。しかし、彼が鬱陵島と 子山島(独島)が朝鮮領であることを鳥取藩主に確認させたというのは、事実 ではない。   それにもかかわらず、安龍福が独島(竹島)を朝鮮の領土であると日本側 に認めさせた国民的英雄として、韓国の中学・高校国史教科書に記しているの は、如何にも一国主義史観の典型を見る思いである。   これに対して、鳥取県の側では、安龍福の抗議来藩について、1907 (明治40)年に県が発行した「因伯記要」では、「未だ我が鬱陵島放棄の事 実を知らずして、事を我藩庁に訴へんとせるに基けるものの如し」と記したほ か、朝鮮側の外交ルール違反の事件として取り扱ってきたが(注4)、197 6(昭和56)年の鳥取県史では、無視して取上げないでいる。県史が記して いないのであるから県民が知っているはずもない。   韓国江原道と鳥取県が交流している現在、両方にかかわる歴史上の重要人 物についてのミスマッチであるといわなければならない。   しかし、このテーマは、現在の竹島(独島)問題にもかかわってくる。日 本政府が「竹島は日本固有の領土」を主張するたびに韓国のマスコミに登場す るのが安龍福である。それだけに安龍福問題では、徹底した事実の解明が求め られるのである。   いま一つの問題は、1877(明治10)年4月9日付太政官達で「竹島 外一島」については、「本邦関係無之(これなし)」と島根県に回答してこと についてである。これは前年に島根県が地籍編纂にあたって、竹島外一島をど のように取扱うかの伺いを政府に提出したことへの回答である。   島根県も鳥取藩時代の「竹島一件」にかかる記録を調べ、政府でも北沢正 誡による『竹島考證』がまとめられ、1880(明治13)年には軍艦天城を 派遣して測量調査を行った。その結果「松島は鬱陵島にして、其他竹島なる者 は一個の岩石たるに過ぎざるを知り、・・・古来我版図外の地たるや知るべ し」との結論に達したことが『竹島考證』に記してある(注5)。  「竹島」(松島、鬱陵島)が朝鮮領であることはいうまでもない。「竹島外 一島」の外一島が現在の竹島(リャンコ島、子山島、于山島、独島)であるこ とも明らかである。   1877年の太政官達は「本邦関係無之」といい、1880年の軍艦天城 の調査結果は「古来我版図外の地」と記すのであった。   こうして竹島はもとより、属領であるリャンコ島(現竹島、独島)も朝鮮 領であることが確認されたため、1905(明治38)年に東京の博文館が発 行した田渕友彦著『韓国新地理』のなかでは、「ヤンコ島」として江原道鬱陵 島の項で記しているのであった。   1904(明治37)年9月、リャンコ島でのアシカ猟独占を企画した隠 岐の中井養三郎は、リャンコ島が朝鮮領であると信じ、朝鮮政府に貸下請願し ようと思って上京する。時あたかも日本海でのロシア艦隊との海戦を想定して いた日本政府は、これを好機に領土編入して竹島と命名したのである。   地理学者の田渕でさえ韓国領の鬱陵島の属島にして記しているのであるか ら、隠岐の中井が韓国領であると思っていたとしても不思議ではない。こうし た事実の上に立つと、竹島を「日本固有の領土」などとは強弁できなくなるの ではなかろうか。   安龍福の問題にしても竹島の領土編入をめぐる問題も二つの国にまたがる 以上、両国の関係資料を出し合い、共通する土俵の上で議論をしてゆくことが 必要である。地域史を北東アジアのなかで見直してゆくことは、これからの大 きな課題になる。        --------------------   日本で犬公方さまの「生類憐れみの令」が盛んなりしころ、安龍福が何か を訴えるために鳥取へやってきたのですが、その内容は日本側史料ではまだ十 分解明されていないようです。   これを機に、幕府は対馬藩を通じて日本人の鬱陵島への渡海禁止を正式に 朝鮮へ伝えましたので、同島に対する朝鮮の支配は確固たるものになりました。   一方、1877年に明治政府が、鬱陵島および竹島(独島)は日本に関係 ないと公式に結論づけた事実は重要です。   こう記しても、ここの会議室ではそれをにわかには信じられない人がおら れると思いますので、このくわしい経緯を内藤教授に語っていただくことにし ます(注2)。        --------------------   竹島をめぐる領有権を明確化するきっかけになったのは、内務省地理寮が 島根県に照会したことからでした。   1876年(明治9)10月、内務省係官が島根県に行ったとき、旧藩時 代に竹島へ渡海していた情報を知り、島根県地籍編纂係に詳細について照会し ました。   この当時は因伯両国も島根県に属しており、島根県では関係記事を調査し て「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方向」を内務省に提出します。   これを受けて内務省でも、元禄年間の朝鮮国との交渉記録を点検した結果、 翌77年3月に「竹島所轄之儀に付 島根県より別紙伺出 取調候処 該島之 儀は・・・本邦関係無之 相聞候」の結論を出しました。   しかし領土にかかる重大案件であるとして太政官に伺いを立てることにし て、右大臣ら参議もまた3月29日に内務省案の通りでよろしいと決裁します。 そして4月9日付で島根県に対して、鬱陵島の竹島と外一島(現竹島)は日本 国と関係ないことを通達しました。   ほぼ同じ時期に、明治新政府は松島開拓や竹島渡海の申請に直面します (ここでの松島・竹島はいずれも鬱陵島のことです、原著者注)。1877年 (明治10)1月27日、3月13日、4月の三度にわたる島根県士族戸田敬 義による「竹島渡海之願」をはじめ、76年7月にはウラジオストク在留武藤 平学の「松島開島之建白」、児玉貞易、貿易事務官瀬脇寿人、その他からのも ので、これらについては北沢正誡による『竹島考證』に収録してあります。   旧鳥取藩士の戸田敬義は、かって読んだ『竹島渡海記』を思い出し、伯耆 の漁師から地図を入手、隠岐の故老に話を聞いて竹島渡海を計画します。戸田 によれば、竹島は日本領であるが、渡海禁止になっており、禁止令を出した幕 府がなくなった現在、新政府に申請し渡航して国益を図るつもりと述べていま す。   これに対して武藤や瀬脇の場合は、長崎とウラジオ間を航海する途中に松 島を眺望して、島から材木を運ぶ経済的利益とともに、日本海航路での風待ち や薪水補給に松島を役立てることをあげています。   こうした開拓願いに対して、外務省内でさまざまな意見があったことは、 『竹島考證』にみられる通りです。そこで1876年(明治8)の日朝修好条 規で日本は朝鮮の海岸測量が認められていたことから、外務省は80年9月に 軍艦天城を派遣することにします。   調査の結果、武藤らのいう松島は鬱陵島のことであり、竹島は岩石にすぎ ないことを確認しました。  『竹島考證』には「明治13年天城艦の松島に廻航するに及び その地に至 り測量し 始て松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過 ぎざるを知り 事始て了然たり 然るときは 今日の松島は即ち元禄12年称 する所の竹島にして 古来我版図外の地たるや知るべし」と記してあります。   こうして日本政府は、1877年(明治10)に関係記録を調査したうえ で「竹島(鬱陵島)外一島・・・本邦関係無之」と決定し、80年にも実地調 査をしたうえで「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石」とし、 「古来我版図外の地」であることを確認したのでした。        --------------------   この文章からすると、明治政府はきちんとした手続きをふんで、竹島(独 島)は日本の領土外との結論を慎重に出したようでした。   こうした経過からすると、内藤教授の主張のように、竹島(独島)は「日 本固有の領土」という解釈はとうてい無理なように思われます。 (注1)梶村秀樹「竹島=独島問題とは何か」 (『朝鮮研究』182号 1978.9.)、あるいは   梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992   この要約は『半月城通信』<竹島(独島)>に収録済み (注2)内藤正中「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」   『韓国江原道と鳥取県』富士書店(鳥取)、1999 (注3)内藤正中「地域に根ざす歴史認識」『アリラン通信』第20号、1999   発行所:文化センター・アリラン(TEL 048-259-2381) (注4)1932年の『鳥取県郷土史』では、「国益を害するものとして、非  公式ながら使船を派遣して訴訟せしめたものであらう」と、記述されました。 (注5)北沢正誡『竹島考證』エムテイ出版、1996 (注6)本来は国境地帯の防備策定機関であったが、豊臣秀吉の侵攻以降、国 家の最高政策決定機関になった。 (注7)原文肩書きの誤記を訂正しました。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/06/13 - 06348/06348 PFG00017 半月城 故・朴大統領記念館 ( 8) 99/06/13 22:33 05847へのコメント   まだ、むじなさんはここへ出てこられないようですが、このへんでそろそ ろむじなさんへの反論を書いておきたいと思います。   RE:5847、むじなさん >あなたが、ベトナム戦争などでの韓国人の罪から目を背けること、日本からの >被害の視点だけで、アジアに対する現実の加害者としての立場を無視すること >は、決して韓国にとっても良くないことと思います。また、あなたの日本帝国 >主義批判の説得力をなくしてしまいますよ。   毎回、私の書き込みは片言隻句にいたるまで注目されているようですが、 それが高じて、最近は私がまだ書いていないことにまで、なぜ書かないのかと 注文をつける人が出始めたようです。そのうえ、なかには私のことをそうした 問題から意識的に目をそむけているショービニストと酷評する人もおられるよ うです。   こうした見当違いは放置しておいてもよかったのですが、タイミング的に、 私のかねての主張を紹介するいい機会なので、この際、会議室違いかもしれま せんが、私の考えの一端を書くことにします。   では、本論に入るべく時計の針を3,40年前にもどすことにします。   最近、韓国では金大中大統領が故・朴大統領記念事業関係者と和解し、同 氏の記念館建設に協力する方針が伝えられ、賛否両論がまき起こっています。   かって金大中氏は、朴正煕政権によって日本から拉致され、あやうく海に 放り込まれサメの餌食になるところを奇跡的に生還しました。   その後、金大中氏は自宅軟禁にされましたが、こうした迫害はまだ序の口 で、彼を不倶戴天の政敵と考える朴政権により、金氏は死刑判決を宣告される など、またもや抹殺されそうになりました。   そんないきさつにもかかわらず、金大統領がかっての迫害者の関係者と和 解する「包容政策」をとるのはよくよくのことで、その真意をめぐって憶測が いろいろ飛びかっています。   金大統領自身は、和解したた理由のひとつに「故朴大統領は近代化をなし とげ、朝鮮戦争いらい国民が失意に陥った中で『なせばなる』という自信を与 えたのは至大な功績だ。歴代大統領の中で国民から最も肯定的な評価を受けて いる」と語り、故・朴正煕氏の業績を高く評価しました(統一日報、99.5.25)。   たしかに、今日の韓国経済発展の基礎を築いたのは、故・朴大統領の功績 であることは誰しも認めるところです。   しかし、そうした輝かしい業績の陰で多くの犠牲があったことを忘れるこ とはできません。1961年、朴正煕少将は4・19学生革命(1960)で開花し ようとしていた民主憲政をクーデターで跡形もなく踏みつぶしました。   それ以後、18年もの長期にわたり政権をにぎり、維新政治の名のもとに 人権弾圧や拷問、貧富格差の拡大、政経癒着など国民にはかりしれない苦難と フラストレーションをもたらしました。   対外的にも経済建設の資金ほしさに、日帝植民地支配の精算をあいまいに し、さらに韓国青年をアメリカ軍の傭兵に仕立て上げ、世界的に孤立していた アメリカのベトナム戦争に加担しました。   しかもこれらの措置は、反対の声をことごとく軍事力で圧殺し、言論を徹 底的に封殺して行われました。そのため韓国民はベトナム戦争の場合、喧伝さ れた戦果の陰で非道なことが行われている実態をほとんど知ることができませ んでした。   韓国のベトナム戦介入は、64年、医療支援団などの後方支援を突破口に、 多くの反対にもかかわらず、翌年から本格的な米軍の支援を開始しました。   以来、73年まで約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という 美名のもとにベトナム戦線に投入しました。 この介入で韓国軍も5千名が戦 死し、十余万名が負傷しました。   このとき派遣されたのは、韓国有数の精鋭部隊とあってベトコンにとって はたいへんな脅威でした。なにしろ韓国軍は、朝鮮戦争で思想のために同族を、 ときには自分の親族までも無慈悲に裏切り殺しあうなど、かってない狂気の戦 争を強行しただけに、ベトナム戦争においても韓国軍のやり方は容赦ないもの でした。   韓国軍はアメリカの単なる傭兵にとどまらず、滅共の大義を振りかざし、 ベトコンやその協力者とおぼしき人を片っ端から殺害していきました。その数 は、公式統計でも4万名にのぼりました。   その過程で、韓国版ソンミ事件などの大量虐殺を引き起こしたことでしょ うし、婦女子への暴行などもざらにあったことでしょう。さらに、兵士の中に はベトナムに現地妻をつくり、帰国時には彼女や彼女との間に生まれた子ども すら現地に置き去りにしました。   こうした非道ぶりは、最近、韓国が民主化されてからすこしずつ明るみに 出されるようになりましたが、全容はまだまだヤブの中です。今後も引き続き 韓国がベトナムで何をしたのか、その真実を官民あげて解明していかなければ なりません。それとともに被害者に対し、韓国は国をあげて償っていかなけれ ばならないのは当然です。   このようにベトナムでも数々の汚点を残した故・朴正煕大統領ですが、も し関係者が彼の記念館を建てるなら、そこではそのような罪科を功績とともに 明確にさせるべきだと思います。   なお、当時の朴政権に対し韓国では学生たちを中心に、命がけの糾弾があ ったことはいうまでもありません(注1)。そうした声に私たちは耳を傾け、 ときにはそれに同調し、軍事独裁政権に反対してきました。   このような在日韓国人の動きにKCIA(韓国中央情報部)もかなり神経 をとがらせていましたが、そうした穏健なやり方に満足できない在日韓国人の なかには、朴正煕大統領の暗殺を図った人もいました。この結末はよく知られ ているように失敗に終わり、大統領夫人を巻き添えで犠牲にするという悲劇を 招きました。   このようなテロは、民主化にとってマイナスにこそなれ、けっしてプラス にはなりえないものです。かりに、暗殺をたくらんだ文世光のテロが成功した としても、結果は次の新たな軍事政権が誕生するだけだろうし、軍政の本流に はほとんど影響をおよぼさなかっただろうと思います。   後年、朴正煕大統領がその側近により射殺された結果がそのとおりになり ました。暗殺の結果は、次のあらたな軍事政権である全斗煥大統領を誕生させ ただけにおわりました。   おわりに、話はふたたびベトナムにもどりますが、当時、私たちがつくっ た同人誌もどき『鳳仙花文芸』(1970)に下記の詩を掲載しましたので、その一 節を紹介します。        --------------------   ヴェトナムの少女へ                    李 幸子  そしてあなたの  黒い瞳は輝く  ふとみつけた  美しい一枚の葉に  しかし  その笑みをうばうものは  誰だ!  小さな肩に銃をくいこませ  まだ軽やかな筈の  あなたの心を重くし  そのあどけない心を  怒りで一杯にしたのは  誰だ  美しい夢でみたされるべき  あなたの秋の日はどこに?  あなたのたどたどしい物語と  それに答える  やさしいお母様の笑い顔は?  黄金の稲の穂と  うちつづく祭りの歌は?  あなたは  解放を俟っている 空に瞳を向けて        -------------------- (注1)4・19学生革命9周年を記念して、ソウル大学でつぎのような宣言 文が読み上げられました。この宣言文に、軍事政権下で抑圧された学生たちの 鬱憤や、李承晩政権を打倒した学生たちの伝統的な不屈の闘争精神をみること ができます(引用は、韓青出版社『若人』第10号、1970)。 「4・19」第9宣言文  独裁と独占の亡霊が再臨した民主受難の回帰点で、沈痛な鬱憤を抑えて歴史 の招命を受けようと、われわれは4月の民族のノロシのもとに集まった。  巨大な恐怖と黄色いエロ文化の作為的状況下に、これ以上生存権の抑圧を強 要されることあたわず、すべての自由の絞首をがまんできず、反転する歴史の 流れを座視することならず、われわれは今日の確固とした決意を宣明し、明日 のさんらんたる地平を開くべく、再びここに立った。  まことにわれわれの近代史は、闘争と忍従によって綴られた凄絶な民族抗争 史であったし、大衆と支配層の葛藤歴史であったから、外勢の不当な侵入に抗 争した東学農民運動であり、巳未独立宣言であり、綿々と流れてきた学生運動 史であったが、解放の感激と4月の栄光まで他律の干渉を排除することができ なかったのだ。  見よ! 彼等の凶計と背理の深淵を!  民族的民主主義の美名の下に、独裁支配体制を画策して大衆と知識人と学生 を離間させ、沈黙と無力と自暴の暗黒の世界に押し込めようとする。  暗黒の中で唯一ゲシュタポの軍楽が街を震動する。良心の槍にさされた老い たる独裁者とその一党の仮面をかぶる。  4月の旗幟を折る。  血を汚す。  侍女となった国会、テロされた司法権、ふみにじられた地方自治、首をおさ えられた言論・批判・良心の自由、特恵・独占・金融資本の横暴、外国経済の 鎖、所得分配の不均衡と農業経済の破綻、エロ文化の猖獗、粉々に砕かれた民 衆文化、デモンストレーションのみの社会政策、今日われわれが彼等に期待で きるものとは何であるというのか?  口があっても語ることのできない時代!  耳があっても聞くことのできない時代!  目があっても見ることのできない時代!  批判と良心の権利までも浸食された廃墟の上にわれわれは何を建てねばなら ないのか。単子と単子間の壁の中に沈潜してわれわれの必然性を黙殺してしま うべきか。まん延した消費文化の反民族的渦の中で、一緒になって繰り人形の おどりを舞うべきか。  ちがう!  われわれは民族史を未来への地平に導く求心体であり、原動力である。  4月の約束と期待の代行者である。  およそ、すべての真の近代化は、民族全体の要求と輿望の下に基盤をおいて きたことを歴史は証明する。  自我喪失と他律のメカニズムの中で真正な近代化は培養、鼓吹されない故に、 大衆を基盤とする汎民族的共同体意識が先行されるのが当然であり、近代化の 実質的基盤はまさにそこにある。  彼等をみよ!  隷属化を触発させる彼等の反民族的近代化は独裁と外勢依存の亡霊を呼び寄 せている。  情報政治とエロ文化の強い援けを受けている彼等の反民族的非民族的行為を 鋭く鷹徴することを宣言する。  4月の栄光と民族史の期待の前に、沈黙しないことを宣言する。  しかり。  われわれは、確固とした歴史意識の下に、われわれの共同体を形成するであ ろうし、時代に逆行するすべての気配を粉砕するであろう。  沈黙と自暴の暗黒から奮然と起って、大衆と知識人と学生を結合した民族共 同体を形成するであろう。  そのようにして、われわれの運動は、政治道義の実現であり、社会正義の具 現であり、経済秩序の矯正であると同時に民族文化の守護であることを自負す る。  見よ!  未来の地平はさん然と輝くであろう。4月の勇気と真理はそれを約束しよう。  すべての民族的自由と良心の人々よ!  いまや隊伍を整備しよう。  4月の旗の下に集まろう。 1969年4月19日                      ソウル大学文理科大学学生会        --------------------   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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