- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/03/23 -
04715/04715 PFG00017 半月城 各界の反応、関東大震災(13)
( 8) 99/03/23 21:44
前回は、朝鮮人虐殺に走った自警団を弁護し、彼らをたきつける結果にな
った官憲を非難した右翼の巨頭・内山良平を紹介しましたが、この点だけにつ
いていえば、内山の主張は世間の支持をえているようでした。
たとえば、内山とはとうてい主張の相容れない、石橋湛山すらもこの一点
に関しては、暗に内山を支持して「或団体が、自警団の為め冤をそそがんと立
てるはもっともである」と評価しました(注1)。
自由主義者としてしられる石橋はさらに筆鋒鋭く「そもそも彼等をして、
斯く思ひ込ましめし者は誰れか。それこそ実に真の犯罪人である」と書き、官
憲の犯罪をほのめかしました。
彼はその帰結として、責任者の厳罰を主張しました。その理由を「此問題
は唯だ十二分に日本の何人かが罪を負ひて、而(しか)して辛じてゆるさるべ
きものである」と書き、ジャーナリストらしい正義感をみせました。
しかし現実は石橋の意に反し、自警団をそそのかした官憲の責任者はもち
ろん誰一人として処分されませんでした。それどころか、水野錬太郎・内務大
臣や、赤池濃・警視総監など治安関係者は数カ月後に再任されるありさまで、
表だって反省の兆候は微塵もみられませんでした。
その後、石橋は1956年に首相になりましたが、たった2カ月と短命に
おわってしまい、この問題も依然として手つかずのまま残され、今日に至りま
した。この間、日本政府による朝鮮人被害者への謝罪や補償など一切なかった
ことはいうまでもありません。
一方、軍により虐殺された王希天など中国人犠牲者に対しては、日本は中
国政府の求めに応じ、20万円を支払いました。これにより日本政府は中国人
虐殺を公式に認めたことになります。
朝鮮人犠牲者がほとんどかえりみられなかったのは、朝鮮人の命が犬コロ
同然に軽んじられていた当時の民族的偏見に満ちた世情にあっては、なかば当
然の成り行きでした。そうしたことに誰もほとんど危機感を持たなかったなか
で、さすが慧眼の持ち主の石橋湛山はこの問題の重要性を見てとり、こう慨嘆
しました(東洋経済新報,1923.10.27、注1)。
「盛んに鮮人騒ぎの伝えられた頃、我日本の運命も之にて定りたりと慨嘆せ
るは、独り小評論子のみではなかったよしだが、今回の官憲の発表を見て、其
慨嘆の果して杞憂ならざりしことを愈(いよい)よ小評論子は嘆くものである。
今更、心配は過ぎ去ったから安心して来いなどと鮮人や、支那人を招くは、
片腹痛い。日本人さへ心ある者は日本ほど恐ろしい国はないと思っているのに、
何で新附の民及外国人が来やうものか。
若し之を招かんと欲するならば、日本は万斗の血と涙とを以て、過般の罪
をつぐなはなければならぬ」
石橋湛山は、帝国主義外交の廃止,とくに植民地の放棄を主張し,大正デ
モクラシーの思想的頂点に立った人物だけに、他民族蔑視・虐殺の行きつく先
を憂慮して論陣を張っていたようでした。
同じように「鮮人暴行」の流言が残虐な結果を招いたことに危機感をもっ
た人に、東大教授・吉野作造がいました。
「手当たり次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺(おうさつ)するに至っ
ては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と考える吉野は、この問題の
根源をこう説きました(注1)。
----------------------------------------
我々は自らの態度を深く反省して見るの必要を感ずる。我々は平素朝鮮人
を弟分だといふ。お互いに相助けて東洋の文化開発の為めに尽さうではないか
といふ。
然るに一朝の流言に惑ふて無害の弟分に浴せるに暴虐なる民族的憎悪を以
てするは、言語道断の一大恥辱ではないか、しかしながら顧ればこれ皆在来の
教育の罪だ。
・・・
仮令(たとえ)下級官憲の裏書があったとは云へ、何故にかく国民が流言
を盲信し且つ昂奮したかと云ふ点である。
・・・
鮮人暴行の流言が伝って、国民が直にこれを信じたに就いては、朝鮮統治
の失敗、之に伴ふ鮮人の不満と云ふようなことが一種の潜在的確信となって、
国民心裡の何所かに地歩を占めて居ったのではなかろうか。
果して然らば、今度の事件に刺戟されて、我々はまた朝鮮統治といふ根本
問題に就いても考へさせられる事になる。
----------------------------------------
吉野作造はこのように問題を掘り下げ、朝鮮統治という根本問題にまでさ
かのぼって批判を展開しました。吉野の他にも、自由法曹団の布施辰治などが
「鮮人」殺害の真相調査および責任追及を行ったことは、このシリーズ(8)
に記したとおりです。
このように官憲が火をつけた「不逞鮮人」のデマに惑わされず、信念を持
って対処した人びとも少数ながらいました。
その一方で、同じく犠牲になった社会主義者の朝鮮人虐殺に関する対応は
やや複雑なものがあり、研究者の間でもその評価が分かれるようです。これは
興味あるところなので、次にそれについてふれたいと思います。
社会主義者に関する流言は、はやくも地震当日(1923.9.1)の午後三時ころ
には発生したようで、警視庁は「社会主義者及び鮮人の放火多し」と公式に記
録しました。しかし、社会主義者に関するデマだけは民衆に受け入れられなか
ったのか、それはすぐに消えたようでした。
そのかわり警察は、このシリーズにたびたび書いたように、もっぱら「不
逞鮮人」暴動のうわさにのみ火をつけてまわりました。その結果、9月2日、
3日を中心に自警団による凄惨な大虐殺が始まりました。
このとき、社会主義者はいったい何をしていたのでしょうか。それについ
て、姜徳相教授はこう述べました(注2)。
--------------------------------------
彼らは、自警団に加わっています。この社会主義者の検挙が始まるのは、
9月4日早朝以降です。亀戸で虐殺が始まるのもこの時ですし、あちこちにい
る社会主義者が検挙されるのも4日以降です。
一方、朝鮮人は1日から3日の夜まで、朝鮮人であるがゆえに、街頭であ
の世送りになったのです。これについては、法政大学の二村一夫氏などが、社
会主義者の行動の詳しい資料をまとめています。
平沢計七を初めとする亀戸事件の9人の犠牲者たちは、進んで自警団に入
っています。夜警にも出ています。そして「鮮人」騒ぎがおこったので、みん
なで棒をもって夜警に参加しています。何のために棒をもったのでしょうか。
9月3日の夜までは、彼らは「殺す」側にいたのです。大杉栄も9月9日
以降に自警団に入っています。わたしも大杉栄が自ら進んで入ったとは思いま
せん。自分の身を守るために参加したのだろうと思います。
自警団がどういうものであるかをあまりきちんと考えずに、町を守るとい
うことで加わっていたのかも知れません。
この頃の日本の社会主義者は、まだ民族問題、あるいは階級問題が未分明
な段階ではなかったかと思います。この頃の社会主義者、あるいは共産主義者
の文献である『前衛』『赤旗』などを見ると、彼らの朝鮮に対する見方は、
「鮮人の解放」、「鮮人同志との連帯」といったもので、「鮮地」支配民族と
しての優越感が見えます。
当時の朝鮮の民族運動の指導者キムヤクス(金若水)は「日本の同志は、
指導者意識をもって常に我々に接している。これははなはだ不愉快だ。彼らと
一緒に我々は闘うことはできない」と言っています。
だから彼らは、自警団がどういう団体であるのかということについてあま
り詳しく考えずに、無自覚に参加したのだと思います。
むろん自警団に参加した社会主義者が、朝鮮人を殺したという証拠はあり
ません。しかし「殺す側」「殺される側」という民族的な違いというものは、
少なくとも3日夜までは明確にあったと思います。
しかも、一般民衆が自警団に入ってきた社会主義者を敵視したということ
はありません。仲良く町を守っています。
------------------------------------------
姜氏は上記のように、社会主義者の民族問題認識に疑問を投げかけました
が、この見解に対し、かって彼の共同研究者であった琴氏は異議をはさみまし
た。同氏は、具体的に亀戸事件で虐殺された川合(資料によっては河合)の思
想を検討し、こう反論しました(注1)。
------------------------------------------
自警団は朝鮮人暴動に備えた警察肝いりの暴力装置であるのが本質である。
だから、これに参加し、夜警に出た者がいたという理由で、社会主義者は殺す
側にいた、とする断定を私は採らない。
亀戸事件の犠牲者10人のほとんどは自警団に参加していたし、大杉栄も
自警団に参加していた。故に彼等が朝鮮人を殺す側に立っていたとするには、
少なくとも二つのことが検討されなければならないように思う。
一つはその人の思想の検討であり、二つ目は、行動の検討であろう。この
問題をこの解説で詳説するゆとりはないが、例として川合義虎の場合をみてみ
たい。
川合は自警団に参加していたが、亀戸署に逮捕され、9月3日、亀戸署で
軍・警察により虐殺された。その川合は、殺される数カ月前、雑誌『赤旗』編
集部の朝鮮問題に関する質問に次のように答えている。
「1.(略)。2.日本の労働階級は、朝鮮植民地の絶対解放を叫び、経済
的にも政治的にも民族差別撤廃を主張し、具体的に朝鮮より軍隊の撤去、日鮮
労働者の賃金平等を要求し、運動上の完全なる握手と、同一戦線に立つことを、
最大急務として努めなければなりません」。
川合の思想、彼の朝鮮問題についての考え方は明白である。
当時にあっては、朝鮮の民族独立運動と、労働者の階級闘争との関係は未
分化の部分が濃厚にあったとは云え、引用部分の川合の論は立派である。それ
に川合は民青の初代委員長として、進歩的青年組織の指導者として行動してい
た。
こういう人物を自警団に参加していたという一事で朝鮮人を殺す側にあっ
たと云い切れるものだろうか。
大杉栄も途中からではあるが、自警団に参加している。彼も殺す側に立っ
ていたのであろうか。
私はこの時の社会主義者の自警団参加は、いい意味で自己防御本能が働い
たものと思っている。この時の社会主義者の言動に私見がない訳ではないが、
少なくとも、今日までの所、社会主義者の参加した自警団の朝鮮人殺しの例は
報告されていない。
それに何より大事なことは、朝鮮人を殺した同じ軍・警にこの人達は殺さ
れたのだと云うことである。為政者・治安当局者にすれば朝鮮人も日本人社会
主義者も共に抹殺すべき不逞の輩だったのである。
----------------------------------------
たしかに琴氏のいうように、朝鮮人も社会主義者もともに「不逞の輩」と
して虐殺された歴史のうねりのなかでは、社会主義者が殺す側にたったのかど
うかはささいな問題かもしれません。それはそれとして、その後の社会主義者
の行動もやや気になります。それについて、姜氏はこう明らかにしています。
----------------------------------------
亀戸事件に抗議した社会主義者・労働者も、自分たちの同志、社会主義者
の虐殺に対して抗議していますが、朝鮮人事件については一言も触れません。
その証拠として、亀戸事件労働者大会というのがあります。
「我等が同志川合義虎、山岸実司、平沢計七は震災後の混乱に乗じ、警察と
軍隊との協力に依って9月3日、殺戮せられた。
決議
吾人は官憲当局の発表は己を蔽わんが為の卑劣なる遁辞にして、人道上断じ
て許すべからざる行為なることを認む。
吾人は速に司法当局が司法権を発動し以て責任者を厳罰に処せん事を要求す。
右、決議する」。
この中に、朝鮮人事件については一言も触れていません。日本の歴史家が
三大虐殺事件として並立していっているにもかかわらずです。社会主義者は朝
鮮人事件に目をつぶったのです。
朝鮮人事件合理化のために「鮮人の背後に社会主義者がいる、ロシアがい
る」という官憲による第二の流言が出て来るということを知らずに、そういう
ことを提起せずに、抗議文なんかは意味がないと思います。
このときの社会主義者は、朝鮮人問題には目をつぶり、そっぽを向き、連
帯のひとかけらもありません。そればかりか、このときの労働運動のボス鈴木
文治は朝鮮総督に手紙を送って、「朝鮮人の思想善導のために、一役買いまし
ょう」という提案をしています。つまり朝鮮人を使って、震災後の廃墟を整理
する方向に彼らの能力を生かしたい、そのためには朝鮮人を善導し、思想教育
をしたいと言う訳です。
これは朝鮮人の中の、日本に協力して金儲けをしようとした相愛会の朴春
琴、李起東らと全く同じ行為だった訳です。
同じくテロを受けた者たちが真相究明に対して一言も言わないということ
では、真相の究明などあり得ない訳です。
----------------------------------------
朝鮮人虐殺や労働運動指導者の虐殺事件は、労働総同盟の一部指導者を震
えあがらせたようで、その後、日本労働総同盟は急速に右傾化したとされます。
そのいい例が鈴木文治の手紙といえます。
それでも総同盟は震災の翌年、公式に朝鮮人虐殺事件の抗議をしました。
しかしそれも後の祭りで、日朝労働者の提携気運は急速にしぼんでしまったよ
うでした。こうしてみると、関東大震災は日本の労働運動にとっても大きな転
機だったようでした。
(注1)琴ビョン洞編『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応』緑蔭書房,1996
(注2)姜徳相「関東大震災と朝鮮人大虐殺」『関東大震災と埼玉における朝
鮮人』文化センターアリラン,1994
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/03/28 -
04806/04806 PFG00017 半月城 韓国・朝鮮人BC級戦犯の処遇
( 8) 99/03/28 23:24 04679へのコメント
不如省事さん、こんばんは。
RE:4679
> 「日本政府が学校と認めなければ受験資格すらもらえない」
> 「日本政府が日本人と認めなければ戦後補償を受けられない」etc
>
>…と視野を広げれば自然とアンフェアな事は数限りなく見えてくるものです。
こうしたアンフェアは、日本国内だけではなく国連でも問題になっている
のをご存じでしょうか?
とくに戦争中、日本帝国軍人として従事し、負傷したり、あるいは戦犯と
して処刑された韓国・朝鮮、台湾出身者が、日本人でないという理由で傷害年
金などを受けられない問題は、5年も前から国際人権(自由権)規約委員会か
ら指摘されていました。
すなわち1993年、委員会は日本政府の第3回報告書を審査し「旧日本
軍において軍務についたが、もはや日本国籍を有していない韓国・朝鮮や台湾
の出身者は、その恩給に関して差別されている」(コメント9項)と指摘して
いました。
この指摘を日本政府は聞き流すだけで、改善措置を考慮することはなかっ
たようでした。それをとがめて規約委員会は、昨年の第4回日本政府定期報告
書に対する「主要な懸念事項及び勧告」として「委員会は、第3回定期報告書
の後に委員会が出した勧告が大部分実施されていないことを残念に思う」と日
本政府を批判しました。
この勧告に補償問題が含まれていることはいうまでもありません。審査の
席上コルビル委員は、なぜ政府は規約第26条(注1)を適用して、差別的な
法律を変えないのか、立法措置をとらないのかと日本政府に詰め寄りました
(注2)。
これはもっともなことです。日本の裁判所すら戦後補償裁判でことあるご
とに、補償問題で立法措置をとるようたびたび提言してきたくらいでした。た
とえば、つい4日前に判決のあった「韓国人BC級戦犯公式謝罪・国家補償請
求訴訟」で東京地裁は「国がどういう措置をとるかは立法政策に属する問題」
として請求そのものはしりぞけましたが、被害者の訴えに理解を示し、判決文
にこうつけ加えました(朝日新聞ニュース速報、'99.3.24)。
「我が国の国民として戦争の犠牲になったり損害を受けながら、
自らの意思にかかわりなく国籍を失った者や遺族に対し、我が国が
、(現在の)国民に対してするような援護措置を講じることが望ま
しいことはいうまでもない」
また同じように、昨年の東京高裁における別のBC級戦犯訴訟でも補償立
法をうながす次のような趣旨の判決がありました(注6)。
---------------------------------
東京高裁は今年(1998)七月、BC級戦犯とされた韓国・朝鮮人の元軍属
や遺族が国に補償と謝罪を求めた訴訟の控訴審で「違法な国家権力
の行使によって犠牲や被害をこうむった者に対しては、国家の責任
で一定の補償をすることが世界の主要国の共通認識として次第に高
まりつつある」と言及した。これまでの判決よりも踏み込んだ見解
で、補償立法の重要性を説いたものだ。
判決はさらに「問題の早期解決を図るため、国政関与者には適切
な立法措置を講じることが期待される」と国会に注文をつけた。原
告弁護団長の今村嗣夫弁護士は「この判決をてこにしながら、市民
の側から補償立法政策を提案し、議員立法の制定への理解を求めて
いきたい」と話す(朝日新聞、1998.8.9)。
---------------------------------
まったく同感です。日本人軍人や軍属として働いた結果、死刑になったり
重度の障害者になったのに、ある日、本人に何の通知もなく一方的に日本人で
ないとされ、そのうえ今度は日本人でないという理由で一切の補償を拒否され
るなんて、日本のやり方はあまりにもあこぎです。
そうした仕打ちに加えて、戦時中、捕虜監視員をつとめBC級戦犯の韓
国・朝鮮人にはさらに過酷な運命が待っていました。日本が1952年、サン
フランシスコ条約発効により独立するや、A級戦犯のほとんどは釈放されまし
たが、彼らBC級戦犯は釈放されず、引き続き刑に服することになりました。
A級戦犯よりきびしい服役生活をおくることになってしまいました。
これは、捕虜虐待を行った戦犯などは連合国により許しがたいものであっ
たので、同条約で戦犯となった「日本国民」は引き続き刑に服すると定められ、
これがそのまま、もはや日本人でないとされた韓国人・朝鮮人にも適用された
ためでした。
連合国にとってとくに捕虜虐待は憎むべきもので、ポツダム宣言の際にも
「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を
加へられるべし」と予告したほどでした。
それは数字に如実にあらわされました。朝鮮人戦犯148人のうち、12
9人までが連合国俘虜の監視員、コリアン・ガードでした。そのうち、じつに
23人に死刑が宣告されました。
23人のうち、一部の人は減刑され巣鴨刑務所に収監されましたが、これ
は、韓国・朝鮮人BC級戦犯たちには納得しがたいもので、巣鴨刑務所に入っ
たまま、釈放を求めて裁判を起こしました。しかし、最高裁の判決は冷酷なも
のでした。
「刑を科せられた時点ではあくまでも日本人であったのだから、国籍がたと
え変わっても刑の執行は続けられる」
このように最高裁は、コリアン・ガードにあくまでも日本人としての責務
を要求しました。こうして李鶴来さんたちは日本人としての罪を負ったまま戦
後10年近く釈放されませんでした。
その一方で、彼らは日本人としての補償は受けられないという条理に反す
る取り扱いを受けてきました。
本来、日本人軍属としての罪とは、無謀な侵略戦争に走った軍部指導者が
当然かぶるべき性質の罪でずが、彼らはいわばその肩代わりをさせられました。
それを明らかにするために、彼らの罪とはどんなものであったのか具体的
にみておきたいと思います。
戦犯・李鶴来さんたちの捕虜虐待は、映画「戦場にかける橋」やそのテー
マソング・クワイ河マーチで一躍有名になった泰緬(タイメン)鉄道工事にか
かわるものでした。
李さんたちは、イギリスやオーストラリア人などの捕虜にろくな食事を与
えず、しかも病気の捕虜を治療するどころか、半病人の捕虜を鉄道建設にかり
出し、反抗する捕虜には日本軍特有のビンタを食らわすなど、捕虜を著しく虐
待したとして告発されました。
捕虜監視員は、当時の東条英機首相の「捕虜の処理にあたりては、一日と
いえども無為徒食せしめることなく、その労力を大東亜戦争遂行に資せん」と
いう命令のもと、日本軍鉄道隊の脅迫的な作業員調達要求に員数あわせのため、
半病人まで強制労働させざるを得なかったのでした。
泰緬鉄道の建設は、ジャングル奥地でマラリアやコレラなど、いわば悪疫
の巣でなされたにもかかわらず医療機関はゼロで、そのうえ「糧を敵に求め
る」方針のもと、食糧や軍需物資を補給する兵站組織がないという最悪の条件
下で捕虜を殴打しながらなされました。
元来、捕虜はジュネーブ条約にそって人道的にあつかわれるべきものです。
その条約に日本は批准しなかったとはいえ、調印まで行い、かつ連合国にはそ
れを準用すると約束していたのですが、これはまったくのまやかしでした。
「捕虜は戦力なり」と考える軍首脳は、兵士や軍属にジュネーブ条約にそっ
た捕虜の扱いを指導する代わりに、捕虜を酷使する道をえらび、監視員には捕
虜を動物のように扱うよう教えました。これは、体の大きい欧米人に優位を示
し服従させるには、暴力しかないと考えてのことだったようでした(注3)。
このように捕虜を虐待しながら、インパール作戦を急ぐ日本軍は、建設速
度が1日に890mという、今の東海道新幹線より早い建設スピードで鉄道を
完成させました。そのかげで、枕木1本に人一人といわれるくらい多くの人命
が失われ、それに反比例して捕虜たちを憎しみのかたまりに追いやりました。
そのようすを、李さんの裁判を支援している内海教授はこう記しました
(注4)。
------------------------------------
責任をとらされた最末端の朝鮮人軍属
準備不足と現実を無視した短縮命令が、1万3000人もの俘虜を死に追
いやった。戦争裁判では俘虜虐待の実行責任も問われた。しかし、「命令に背
く、そんなことは日本の軍隊では考えられない」と、元軍属たちは異口同音に
言う。
「陸軍刑法」第4章57条には、「上官の命令に反抗し又は之に服従せざる
者は左の区別に従て処断す。1.敵前なるときは死刑又は無期若は十年以上の
禁錮に処す」とある。
ちょっと不服そうな顔をしただけでも殴られた。上官の機嫌が悪いだけで
も殴られることもある。大量の俘虜の死に最も心を痛めたのは、生活をともに
し、日常的に俘虜と接していた彼らコリアン・ガードであっただろう。
その彼らは、軍属傭人といって、日本の軍隊のなかでは最下位の人たちで
あり、なんの権限もなかった。しかし俘虜の恨みは、天皇や東条英機にではな
く、目の前の命令実行者にむけられた。殴打、リンチは日本軍のなかでは日常
的に起こっていた。朝鮮人軍属たちも殴られて教育をされてきたのである。
また、日本軍の習慣には、俘虜が規則違反をしたときも、いちいち、上官
や憲兵隊に報告しないで、「一発か二発ビンタをとってすます」、それが温情
であるとの考えがある。
殴るという行為に対する考え方が、アメリカやイギリスなどと基本的に違
っている。東京裁判に提出された訊問調書で東条英機は、ビンタの慣習に対し
て次のように述べている。
・・・
(ニ)今度は横っ面を殴る事(ビンタの事-原引用者)をどう感じるか一寸申
し上げたいと思ひます。教育水準が低い日本の家庭に於ては、平手打ちといふ
ことは一つの躾(しつけ)の仕方として行われてゐるのであります。
日本の陸海軍に於いてこれは禁止されていますが、国民の習慣に影響され
て、事実上は依然行はれてゐるのです。これは勿論禁止されねばならない習慣
であります。それは止めなければなりません。
しかし私はそれが犯罪であるとは考へません。それは習慣上から起こる処
のものであります。(『極東国際軍事裁判速記録』第147号)
泰緬鉄道建設に関係して、戦犯として起訴されたのは120人、うち11
1人が有罪判決を受けている。死刑は32人だった。このなかに朝鮮人軍属の
起訴35人--うち33人が有罪、そのなかの9人が死刑--がいる。
9人の朝鮮人死刑囚は、すべてタイ俘虜収容所に所属する軍属である。残
る24人の終身、有罪判決を受けた者の中には、文さんや洪さんのように、当
初は死刑判決を受けた人もいる。
泰緬鉄道関係の裁判といっても、起訴された120人のうち、タイ俘虜収
容所の関係者が66人と、半数以上を占めている。患者輸送班19班が14人、
鉄道第9連隊5人、同第5連隊2人、マレー俘虜収容所5人と続いている。戦
争責任の追及が俘虜収容所に偏っていたことがよくわかる。
また、起訴されたタイ俘虜収容所関係者66名のうち、35名が朝鮮人軍
属で占められている。最末端の朝鮮人軍属たちが、最も厳しくその責任を問わ
れたことになる。
本書に収録した2人の証言から、泰緬鉄道の建設現場での苦しい生活と、
俘虜たちの惨状が伝わってくる。そのなかで戦犯になった朝鮮人、軍隊の機構
の最末端で理不尽なしうちに耐えてきた彼らが、敗戦後はまた、その責任を連
合国から最も厳しく追及される立場にたたされている。そして、日本の援護体
制からは「外国人」として排除される。ふんだりけったりである。どこまでも
朝鮮人軍属たちの処遇は理不尽の連続だった。
その悪循環を自ら断ちきろうとしたのが、今回の提訴だったのではないだ
ろうか。
----------------------------------------
多くの理不尽、不条理のなかで、死刑判決を受けた戦犯がどうしても納得
できなかったのは「一体、誰のために、何のために死んでいくのか」という疑
問でした。
シンガポールの軍事法廷で死刑判決を受け、後に減刑された文泰福さんも
死刑宣告後の心境をこう語りました(注5)。
「最初の1カ月は、どういうように表現したらいいんでしょうか、なめくじ
に塩をぶっかけたような感じでのたうちまわっていました。要するに、死ぬ目
的がはっきりしないんですね。誰のために、何のために死ななきゃいけないの
かと、この若さで、当時、23歳でしたから、それで1カ月過ぎますと、少し、
もう誰のためでも、とにかく殺すと言うんだから死ぬ以外方法はないと、ただ、
死ぬときにみっともない死に方はしたくない。元気よく万歳を叫んで死のうと、
こういうように覚悟を決めました」
「誰のために、何のために死ぬのか」という問いに、日本人なら家族のた
め、祖国のため、あるいは天皇のため?と、あまりためらわず答えを出したで
しょうが、この問いに朝鮮人であるチョウ・ムンサンは死の二分前まで遺書を
書きながら反問し、ついに答えを見つけられませんでした。
そして仲間が歌う「蛍の光」に送られ、絞首台の露と消えていきました。
(注1)市民的政治的権利に関する国際規約(B規約、自由権規約)第26条
すべての者は、法律の前に平等であり、いかなる差別もなしに法律による平
等の保護を受ける権利を有する。
このため、法律は、あらゆる差別を禁止し及び人種、皮膚の色、性、言語、
宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又
は他の地位等のいかなる理由による差別に対しても平等のかつ効果的な保護
をすべての者に保障する。
(注2)岡本雅享「規約人権委の日本政府報告書審議」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~krg/newpage211.htm
(注3)NHK,TV「チョウ・ムンサンの遺書、シンガポールBC級戦犯裁判」
1991.8.15
(注4)内海愛子他「死刑台から見えた二つの国」梨の木舎、1992
(注5)日本の戦争責任を肩代わりさせられた韓国・朝鮮人BC級戦犯を支え
る会『ビンタン・ブサール(大きな星)』第26号、1998
(注6)東京高裁判決文(1998.7.13)の付言は下記のとおりです。
なお、付言するに、朝鮮半島出身者である元日本軍人軍属及びその遺族は、
サン・フランシスコ平和条約発効と同時に日本国籍を喪失したため、いわゆ
る国籍条項により援護法及び恩給法の適用から除外され、また、同条約によ
り、これらの者の日本国に対する請求権の処理は、日本国と朝鮮半島の地域
について施政を行っている当局との外交交渉によって解決されることとされ
たところ、その後の日韓請求権協定及び日韓両国政府の取り扱いにより、戦
犯者控訴人らについては、日韓両国のいずれからも補償等を受けることがで
きないこととなった。
このことは、国際的、政治的その他の諸事情によるやむを得ない面があっ
たとはいえ戦犯者控訴人らについてみれば、ほぼ同等の境遇にあった日本人、
更には台湾住民と比較しても著しい不利益を受けていることは、否定できな
い。
このような状況の下で、戦犯者控訴人らが不平等な取り扱いを受けている
と感じることは、理由のないことではないし、その心情も理解し得ないもの
ではない。
この問題について何らの立法措置が講じられていないことが立法府の裁量
の範囲を逸脱しているとまではいえないとしても、適切な立法措置がとられ
るのが望ましいことが明らかである。
第二次世界大戦が終わり、戦犯者控訴人らが戦犯者とされ、戦争裁判を受
けてから既に五〇年余の歳月が経過し戦犯控訴人らはいずれも高齢となり、
当審係属中にも、そのうちの2人が死亡している。
国政関与者においてこの問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じ
ることが期待される。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:罪の自覚、RE:韓国・朝鮮人BC級戦犯
メーリングリスト[aml 11815]
Date: Tue, 13 Apr 1999 23:50:30 +0900
Utsumi先生、こんばんは。半月城です。
BC級戦犯の問題はたしかに奥が深いだけに、いろいろ考えさせられます。
通信では割愛したのですが、先生が監修されたTV番組「チョウ・ムンサンの
遺書」で裁判の場面はとくに印象に残っています。
虐待の罪を認めなかったチョウも、検事の「キリスト教徒としての良心に
反した行いではないのか」という誘導尋問のまま罪を認めたシーンなど、戦犯
裁判の枠を越え宗教裁判のおもむきがあり、やるせない思いです。
別な見方をすれば、チョウは神に対する罪でも、ともかく罪を認めて死ん
だだけまだ救われたのかもしれません。『私は貝になりたい』の主人公は、罪
の意識がほとんどなく、死ぬ理由がわからないまま死んでいったのですから、
あるいは往生できなかったかも知れません。
いずれにせよ、こうした人が重罪を負うのはあまりにも過酷なのですが、
韓国・朝鮮人BC級戦犯は、そのうえさらに民族問題に翻弄され、泣きっ面に
蜂、韓国式にいうと雪上加霜の人生を送らざるを得なかったのはあまりにも理
不尽です。
こうした不条理に、解決の光がさしますように!
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/04/04 -
04979/04979 PFG00017 半月城 忘れられた皇軍、戦後補償(2)
( 8) 99/04/04 19:36 04844へのコメント
SKさん、こんばんは。RE:4844,
> 韓国人の元日本軍人・軍属の恩給請求が日本政府
>に対してできないことは当然です。それを認めてしまうと、なんのための日
>韓条約だったのか訳が分からなくなります。
日韓条約では、1947年以降、日本に住んだことがある元日本帝国軍人
や軍属の韓国人が除外されているのはご存じでしょうか?
条約上、この人たちに対する補償は未解決の問題として残され(注1)、
そのため、折にふれ裁判で争われていますのは周知のとおりです。
その一例ですが、1944年5月、マーシャル群島で米軍機の機銃掃射を
受けて右腕を切断した元海軍軍属の石成基(ソクソンギ)さん(76)と、4
5年4月、船員として乗船中に米軍機の爆撃を受け左足を切断した故・陳石一
さんの遺族たちは援護法の適用を求めて裁判を起こしました。
石さんや陳さんら傷痍軍人は引揚げ後、片手や片足がない状態で人並みに
働けないのに加えて、日本国籍を剥奪され、しかも日本国籍がないという理由
で戦傷病者特別援護法も受けられず、その生活は困難をきわめました。
一時は、東京・上野公園などで白衣に身を包み、片手片足がない痛ましい
姿を人前にさらし、哀愁を帯びた軍歌などを奏でながら、街頭募金で道行く人
の情けにすがって生きながらえる日々を過ごしたこともありました。
そうした姿はテレビで「忘れられた皇軍」(1963.8.15)として放映され、
一躍注目を浴びましたが、いっこうに問題は解決されませんでした。一時は、
政権が交代すれば何とかなるだろうという淡い期待もあったのですが、社会党
連立政権になっても事情は同じでした。その不満を石成基氏はこうぶつけまし
た(注2)。
「戦争中は、日本国民だ、天皇の赤子(せきし)だといって、戦場にかりだ
しておいて、戦後は韓国人だ、朝鮮人だという理由で補償をしない。これが通
用しますか。
私は濡(ぬれ)雑巾のようなものです。必要なときは日本国民だとおだて
られ、必要がなくなれば、ボロボロにされ捨てられる」
戦争で傷つき「用済み」になるや、日本政府は援護を避ける口実、国籍条
項とやらをひねりだし、日本のために働いた「臣民」を切り捨てるなんて、あ
まりにも冷酷で非人道的です。こうしたやり方は、国際的な基準にほど遠いの
はもちろんのこと、極論をいえば「やくざ」の仁義にすらもとる狡猾な仕打ち
です。
国際的にはこうした場合、軍人を雇った国が当然補償すべきとされていま
す。たとえば、石さんと似たケースにセネガル兵の補償問題がありますが、こ
れについて、田中宏教授はこう記しています(注3)。
-------------------------------------
セネガル人フランス兵の国連・規約人権委員会への申し立てと同委の判定
も興味ある事例である。フランスが75年から年金額を据え置いたことについ
て、同委は89年4月、フランスの措置は国際人権規約(B規約)26条「平
等事項」に違反している、との結論を出した。
いわく、「国籍の変更はそれ自体別異の取り扱いを正当化する根拠とはな
りえない。何故ならば、年金支給の根拠は軍務を提供したことにあるのであり、
セネガル人もフランス人も提供した軍務は同じであるから」と。
きわめて明解である。セネガル人の場合は途中から据え置かれたことが問
題とされたが、日本ではまったく除外されているのである。
日本も同規約の加入国であり、定期的に国連に「報告」を行っている。9
3年10月、その第3次報告が審査に付されたが、その「最終コメント」は、
「朝鮮半島や台湾出身者で、旧日本軍に従事し、現在は日本国籍を持たない者
は、その恩給などにおいて差別されている」と指摘し、「日本にいまなお残る
差別的な法律や慣習は、規約26条に合致するように廃止されるべきである」
と勧告したことが注目される。
-------------------------------------
この勧告を日本政府は聞き流したままだったので、昨年の規約委員会報告
書でさらに厳しい指摘を受けたことは前回記したとおりです。
このような行政・立法の不作為を見かねて、東京高裁も注文をつけました。
昨年9月、石さんたちが、援護法の国籍条項を理由に障害年金を受けられない
のは憲法の法の下の平等に反するとして年金支給を求めた訴訟の控訴審判決に
おいて、筧裁判長は請求そのものは認めませんでしたが、次のように援護法適
用の道を開くよう強くうながしました(朝日新聞、1998.9.29)。
----------------------------------------
今次の戦争において、戦争犠牲または戦争損害を受けた軍人・軍属または
その遺族のうち、日本国籍を有する者は戦傷病者戦没者遺族等援護法により、
在日韓国人以外の韓国人は、韓国の国内法により、いずれもその補償を受けて
いる。
それに対し、原告ら在日韓国人は、日韓両国のいずれからも何らの補償を
受けられないまま、いわば放置された状態になっている。
このような事態に至っていることについて、サンフランシスコ平和条約の
発効に伴い国籍選択の道を与えられないまま、いわば一方的に日本国籍を喪失
させられた在日韓国人側において何らの落ち度も責任もない上、在日韓国人の
側からは補償を受けるために採るべきすべは何も与えられていないことを考え
ると、原告が焦燥の思いで本訴を提訴するに至った心情については十分に理解
でき、同情を禁じえない。
人道的な見地からしても、また、国連の規約人権委員会からの関心課題
(懸念事項)として指摘されていることに照らしても、速やかに適切な対応を
図ることが我が国に課せられた政治的、行政的責務でもあるというべきである。
在日韓国人は、日本国籍を有し、日本の軍人・軍属として戦争に従事した
もので、援護法の適用開始時においては日本国籍を有していたと解されるから、
その立場は日本国籍を有する者に近いものであったというべきである。
在日韓国人の右のような立場及び現に日本において居住していること等を
考慮すると、日韓両国の外交交渉を通じて、日韓請求権協定の解釈の相違を解
消し、適切な対応を図る努力をするとともに、援護法の国籍条項及び本件付則
を改廃して、在日韓国人にも同法適用の道を開くなどの立法をすること、また
は在日韓国人の戦傷病者についてこれに相応する行政上の特別措置を採ること
が、強く望まれる。
---------------------------------------
この高裁の指摘は、日本政府にとって文句のつけようがないものとみえて、
規約人権委員会に対し「同判決で、この問題に対し速やかな対応をはかること
が強く望まれるというコメントがなされたことは承知しており、この点につい
ては現在政府部内で判決内容を詳細に検討している」と回答したくらいでした
(注4)。
この発言は、それほどまやかしでもなかったようで、その後のフォローと
して、今年3月9日、野中広務官房長官は衆院内閣委員会で、旧日本軍の軍人、
軍属として働きながら恩給を支給されていない在日韓国人にふれ「今世紀末に、
どういう処置がお互いの気持ちをやわらげるのか、われわれの責任を果たせる
か、検討していく」と述べ、政府として何らかの補償措置を検討する考えを示
しました(朝日新聞、1999.3.10)。
官房長官は、そのあとの記者会見でも「韓国にいる旧日本軍人や軍属の
方々には韓国政府によって補償が行われたが、在日の方々には補償が行われな
いまま今日に至っている。これからのアジアを考えると、韓国政府等と十分に
話し合いながら解決に向かって努力をするのが、内閣の大きな責務であると考
える」と強調し、韓国政府とも協議しながら問題解決を目指すという考えを明
らかにしました。
また、台湾や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の在住者で旧日本軍人や軍
属だった人々についても、それぞれの経緯で難しい問題があるとしながらも、
「検討をしていかなくてはならない」と述べました。ここに来て日本政府もや
っと重い腰をすこしはあげたようです。
一方、同じように裁判所から求められている立法措置のほうですが、立法
府の反応が希薄なのは気がかりなところです。これについて、田中宏教授はこ
う指摘しました(朝日新聞、98.8.9)。
--------------------------------------
日本の裁判所は立法府の裁量を大幅に認める「司法消極主義」を取り、戦
争損害に関する訴訟で請求を認めた例はほとんどない。
日本人が起こした訴訟の場合も、被爆者や在外財産の喪失者、シベリア抑
留者らがいずれも敗訴したが、判決によって問題点が指摘されるなどし、空襲
被害者を除いては立法解決が図られた。
このところ相次いだ戦後補償裁判の判決は「立法不作為の状況」「違憲の
疑い」などと指摘しており、関釜裁判では立法不作為の違法性が認められた。
なぜ立法府が反応しないのか疑問だ。
補償を求める人には様々な類型があり、相互に十分協議を重ねて立法を目
指すべき時を迎えている。
---------------------------------------
裁判所や国連など、内外の真摯な声に行政や立法が遅ればせながらどう答
えるのか、それが今あらためて注目を集めています。この機会を逃すようであ
れば、日本政府への不信感は国際的にますます増大するのみではないかと思い
ます。
(注1)大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済
協力に関する協定(1965年6月22日調印)
第2条
1.・・・
2.この条文の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれ締約国
が執った特別の措置の対象となったものを除く)に影響を及ぼすものではない。
(a) 一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日(1965.6.
22)までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益。
(注2)戦後補償問題研究会編「在日韓国・朝鮮人戦傷者の訴え」『在日韓
国・朝鮮人の戦後補償』明石書店、1991
(注3)粟谷憲太郎他『戦争責任・戦後責任』朝日選書、1994
(注4)岡本雅享「規約人権委の日本政府報告書審議」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~krg/newpage211.htm
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。