半月城通信
No. 58

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 関東大震災と朝鮮人(9)、自警団の暴走
  2. 関東大震災と朝鮮人(10)、軍施設での虐殺
  3. 関東大震災と朝鮮人(11)、「鮮人」の払い下げ
  4. 関東大震災と朝鮮人(12)、マッチポンプの背景
  5. 旧日本軍と自衛隊


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/14 - 04214/04214 PFG00017 半月城 自警団の暴走、関東大震災と朝鮮人(9) ( 8) 99/02/14 23:09   仮面忍者とびかげ氏、RE:4105 > 証拠もへったくれもなく、ひたすら片言隻句をチューインガムのように伸 >ばして官憲の責任を作り出そうとする卑劣漢に較べれば。   議論相手に「卑劣漢」とか「嘘吐き」とか、人格を疑わせるような言葉を あびせるやり方はこの会議室でもよく行われますが、そうした手法は幹部自衛 官にマッチしているようです。そうした人が自衛隊では「真っ当な常識人」な のでしょうか。   それとも仮面忍者とびかげ氏は、自衛隊のなかでは異質な幹部、いわば反 面教師的存在なのでしょうか?   かって旧軍人の BIG FALCON さんは、そんな仮面忍者とびかげ氏の言動に 懸念をもたれたようですが、そんな幹部に教育される自衛隊員はおのずとその 質がわかろうというものです。   ともあれ、私もそんな仮面忍者とびかげ氏にうんざりしています。これま で機会あるごとにそれをほのめかしてきましたが、一向に改まる気配がないよ うで、これではまともに議論する気になれません。   一般に、感情がむき出しの書き込みは、たいてい自説の展開が行きづまっ たときになされることが多いのですが、私はそれらをパスするのをならいとし ています。   そこで今回は仮面忍者とびかげ氏に対する反論は見送り、前回書き足りな かった警察と自警団の愛憎について補足したいと思います。   関東大震災時に、荒れ狂う自警団の残虐行為から朝鮮人を敢然として守っ た例として、横浜・鶴見の大川署長の美談は、藤岡信勝・自由主義研究会の 『教科書が教えない歴史』で取り上げられ一躍有名になりました。   しかし、これが美談になるということ自体、当時の自警団がいかに流言に 荒れ狂って暴走していたかを雄弁に物語るものです。   そんな極端な例として、はなはだしくは自警団が警察署さえも襲って、朝 鮮人をなぶり殺しにした埼玉県の例を紹介したいと思います。   このシリーズ(7)で記したように、埼玉県では内務部長が「その筋」の 来牒にしたがい通牒を出し、各町村当局は在郷軍人や消防隊・青年団等と一致 協力して「不逞鮮人の盲動や毒手」に警戒し、一朝有事のときには速かに適当 の方策を講じるよう指導しました。   この通牒は、内容があまりにも過激であったため、本庄ではそれに危険を 感じ一度は握りつぶそうとしたくらいです。しかし「極秘急」の印があるので 逆らうこともできず、渋々ながら各区長に伝えました。   この県の通牒や県南から伝わってくる流言に惑わされ、各町村では自警団 が結成されましたが、この自警団は埼玉県でもたいへんな暴走をし、県北の熊 谷・神保原・本庄では大量虐殺事件を引き起こしました。   その事件の概要ですが、県南から保護検束され群馬県方面へ送られた朝鮮 人を血気にはやる自警団が、熊谷や神保原、はなはだしくは本庄警察署内で襲 い集団虐殺を行いました。   これらのいまわしい事件は、報道管制が解かれた直後に初めて報道されま した。東京日々新聞(1923.10.21)はこう伝えています。         -------------------------------------------------------- 一、埼玉県で殺害した鮮人166名     「流言に狂へる一団中山道に待ち伏せ42名を殺害す」        加害者収監114名   埼玉県熊谷地方では九月三日来、県警察部で保護してゐる鮮人団が長野県 若しくは新潟県へ送致される事となり中山道筋を漸次西下するといふ噂が誰い ふともなくつたはり、在郷軍人団消防組織等は全力を挙げて警戒中であったが、 ・・・同夜九時頃までに同町熊谷寺(ゆうこくじ)境内、本町三丁目松坂屋旅 館前、警察署前筑波町地区等数カ所で合計43人が惨殺された。  ・・・ 三、本庄警察署構内は     忽ち(たちまち)修羅場と化す       86名の鮮人を刺殺   四日朝に至ると、川口・蕨両町や戸田・南平・柳村方面で自警団に捕へら れた鮮人労働者約二百名を県外安全地域に護送すべく、一旦浦和に集め、貨物 自動車四台で群馬県下へ出発させたが、その内二台が先発したころから町内自 警団の秩序は漸くみだれ、手に手に日本刀、棍棒、手槍その他の凶器をもって 殺気だち自動車を取りまき、十余名の警官や消防役員、在郷軍人会役員等が声 をからして制止につとめたが、同町宮本割烹店前にさしかかった際、遂に喊声 をあげ、さかんに瓦礫を投じ兇器をふるって肉薄して来たのでやむなく署に引 き返し、鮮人を演武場に収容しようとすると、殺到した数百名の一団は逃げま どふ鮮人を滅茶々々に虐殺し、署構内は大修羅場と化し、ただ一人の鮮人が辛 らうじて逃走した外は86人ことごとく虐殺された。         ------------------------------------   同新聞によると、本庄署内の朝鮮人を襲った自警団は9月4日、神保原 (じんぼはら)でも虐殺を行いました。東京日々新聞はさらに次のように伝え ています。         ------------------------------------ (前半省略)   本庄署では第二次護送の貨物自動車を仕立て、残る21名の鮮人(中に は・・・東北人二名あり)を同署坂本警部補以下巡査7名同乗、賀美村河原に 到着した。   これを見た村民は憤激の極、兇器を擬し騒擾化してきたので、やむなく二 台の自動車を神保原村巡査部長派出所前まで引きかへした所へ、村磯本庄署長 は児玉・寄居・松山各署より応援巡査等と共に自動車を駆って来たり合し、藤 岡署に電話で鮮人引渡しの交渉をしたるを村民に説諭をしていた矢先、本庄署 構内で79名を血祭にあげてますます殺気走った本庄町自警団の一隊約三百名 は大喊声をあげつつ、一里余の国道を神保原めがけて襲撃したので、村民の昂 奮極度に達し、村内の警鐘を乱打して一挙に二台の自動車を包囲し、鮮人を引 摺り落し突く刺すなぐる阿鼻叫喚約三十分程の間に、僅かに一名がのがれたの みで他の35名は殺されてしまった。   荒れくるふ自警団員はさらに「鮮人に味方する署長を殺せ」と打ちかかっ たので、部下巡査二名と共に田圃(たんぼ)つたひに危機をのがれたが、この 際、警官二名竹槍で突かれ重軽傷をうけた。         ------------------------------------   警察署が襲われたのは、横浜や本庄だけではありませんでした。寄居町(埼 玉県)や、遠く群馬県の藤岡警察署なども襲われました。   9月5日、藤岡署で自警団は猟銃まで持ち出し、朝鮮人14名を射殺ある いは日本刀で斬るなど虐殺をはたらいた末「血に酔った団員等は喊声をあげて 引きあげ」ました。   この狂気に「官憲は手の下しやうもなかった」ようですが、自警団の暴走 はそれにとどまりませんでした。翌日の夜「自警団側は電燈線を切断し、警察 署を真暗にし、瓦礫を投じて署内の窓ガラスを破壊して闖入し、公文書の一部 を焼棄する等のあらゆる暴虐を逞うした」ありさまでした。   この暴虐は軍隊が出動してやっとおさまりましたが、これほどまでに自警 団を狂気に走らせた要因は何だったのでしょうか。   それを立教大学の山田氏はこう分析しています(注1)。         ------------------------------------   関東大震災時の朝鮮人虐殺と現代                           山田昭次  ・・・   埼玉県の場合、朝鮮人虐殺を行ったのは、主として民衆であって、軍隊や 警察ではなかった。   9月4日の神保原の虐殺事件の場合は本庄署の村磯署長やその他の警察官 が虐殺を制止したが、群衆に石や薪(まき)を投げつけられて負傷する者もあ り、逃亡する始末であった。   そのあとは群衆は本庄警察署を襲撃し、神保原から戻ってきた朝鮮人やこ こに収容されていた朝鮮人を襲撃して虐殺した。   その翌日、本庄警察官・新井賢次郎に対し「不断剣をつって子供なんかば かりおどかしやがって、このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃない か、俺達は平素(肥)ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」 と、言った人物がいた。   そして六日には群衆が「朝鮮人をかばった村磯の首を切れ」と、再び本庄 署を襲撃し、放火しようとしたところを軍隊に制止された(注2)。   群馬県藤岡署にも9月5日、藤岡の自警団がおしかけて署内に留置中の朝 鮮人16名を惨殺し、6日には警察署と署長官舎に乱入して器物を破壊した。   断っておくが、私は荒川の四ツ木橋や小松川で習志野騎兵連隊が機関銃で 朝鮮人虐殺をしたことや、9月1日から2日頃、政府、県、郡、町村当局、警 察などが朝鮮人暴動のデマを流し、自警団結成を促したことを無視して上記の ような民衆の行動を非難しようとしているのではない。   デマを流し自警団結成を促した治安当局も3日から「鮮人の大部分は順良 にして、何等凶行を演ずる者無之に付、濫りに之を迫害し、暴行を加ふる等無 之様、注意せられたく。又不穏の点ありと認むる場合は、速かに軍隊、警察官 に通告せられ度し」(9月3日警視庁公告)と、民衆が国家権力の統制からは み出して「良鮮人」と「不逞鮮人」の区別なく殺害するのを抑制する処置を取 り始めていた。   国家権力にしてみれば、無差別虐殺が引き起こすであろう朝鮮民族の反撃 の増大や国際世論の非難を恐れたのであろう。   しかし、民衆はそうした思惑を働かせる地位にはなく、国家によって植え 付けられた国家理念を純粋に表現して行動する。それだから、民衆には国家権 力の思惑からくる朝鮮人対策の転換は変節に見え、彼らを怒らせた。   9月6日の本庄署襲撃事件も、この日に署長が一般大衆は朝鮮人に手を出 すな、と言ったことに原因があるらしく、群衆は「今までたのむたのむといっ ておきながら、何事だ」と怒って襲撃に及んだという(注2)。   9月6日の第二次藤岡事件の原因も、「吾々が苦心して捜査同行し来たれ る鮮人を漫然釈放する如き警察に鮮人を任せ置く能わず」という警察に対する 民衆の不信と怒りから起こったのである(『上毛新聞』1923.10.28)。   「暴君治下の臣民は暴君より暴である」(魯迅)。 (以下省略)         -------------------------------------   埼玉県で警察や内務省が「不逞鮮人暴動」の流言を積極的に広め、自警団 結成をうながした結果がみずからにはね返り、警察署襲撃を招いたのは何とも 皮肉な結末です。くだんの通牒を出した内務部長も虐殺の激しさに驚き、9月 6日になると県民の自重を望むという通牒を郡長を通じて出しました。マッチ ポンプの典型といえる結末ではないかと思います。 (注1)神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会 『関東大震災下の朝鮮人虐殺』 (注2)関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会  『かくされていた歴史、関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』増補保存版   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)



- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/21 - 04302/04302 PFG00017 半月城 軍施設での虐殺、関東大震災と朝鮮人(10) ( 8) 99/02/21 23:05   千葉県の習志野市は、船橋と千葉市にはさまれ目立たない所ですが、ここ も最近はすっかり東京のベッドタウンになってしまいました。しかし、ここは 自衛隊基地がある街として、知る人ぞ知る異色の地です。   現在、ここに陸上自衛隊駐屯地や第一空挺団などがおかれていますが、こ れらはもちろん旧陸軍を引き継いだものです。戦前、ここには俘虜収容所もお かれ、日露戦争や第一次世界大戦当時、ロシア人やドイツ人捕虜が収容されま した。   その収容所は関東大震災のとき、朝鮮人を「保護」する収容所として活用 されました(注1)。その一方でここは、亀戸や四ツ木橋などで朝鮮人を数百 人虐殺し、群衆から拍手喝采をあびた習志野騎兵旅団の根拠地でもありました。   そのことから容易に想像されるように、朝鮮人「保護」は騎兵隊流のやり 方でおこなわれ、ときには周辺住民を虐殺の共犯者に、いや主犯にしたてるな ど、その行状は尋常でないものがありました。   その騎兵隊流のやり方ですが、習志野収容所で何がおこなわれていたのか、 その事実は軍事施設内のためベールにつつまれ、20年前までは専門家の間で もあまり知られていないようでした。   たとえば、虐殺問題研究の草分けである姜徳相教授も当初は誤解していた ようで、次のように反省しています(注2)。       ------------------------------------------   習志野収容所は、「朝鮮人暴動」が事実無根であることを確認した日本政 府が各地の朝鮮人に加えられる迫害を是正、防止して彼らを自警団の暴力から 「隔離」「保護」するための施設だったと理解されてきた。   戒厳司令部が9月6日に「善か悪か問わず、絶対に朝鮮人に害を加えては ならない」と訓示したのは、収容所開設にともなう軌道修正だと説明されてき た。   私も以前には、朝鮮人に生命の保障のようなものが得られたのは習志野収 容所に送られた後であると話したことがある。しかし当時でもいくつかの疑問 点がなかったわけではない。         --------------------------------------   このように語る姜教授がもっていた疑問点は次の二点です。 1.朝鮮人を一様に収容したのではなく、要視察鮮人や要注意鮮人を選別し収  容しており、何かあったのかもしれない。 2.収容人員は9月14日に 3,200名、15日に 3,169名だったが、その後釈  放された人と残留者の合計が2,925名(または2,915名)で300人近く不明  になっている。その減少割合は1割にも達する。これは傷病による病死にし  ては多すぎる。   こうした疑問は、その後の市民団体の調査研究で次第に明らかにされまし た。それを紹介する前に、まず軍の資料に目をとおしておきたいと思います。   旧陸軍海軍関係震災文書では、「・・・朝鮮人三千人中、約三百人の打撲 傷患者を有し、傷重く命を失ふもの少なからず」と病死を強調しています。   しかし、これはいかにも不自然です。すぐ近くに同じ陸軍の衛戌病院 (現・習志野国立病院)があり治療設備は万全なので、打撲傷がもとでこうも 多くの人が死亡するとは考えにくいところです。そもそもそのような重傷の人 は、収容所へ移送すること自体が困難と思われます。   他に軍関係資料として、大角海軍省軍務局長の「鮮人労務使役に関する 件」がありますが、これに朝鮮人の取り扱いに遺憾な点があったと明記されて いるのが注目されます。  「目下、習志野に於て収容中の鮮人約数千名は陸軍官憲の保護を受けつつあ るも、之が取り扱いに関し多少遺憾の点も有之(ありし)今日に及び居候処、 其の善後策として相当監視の下に労務に従事せしむるを良策と被存候・・・」   公文書、それも軍の資料に「遺憾」と記されるのはよほどのことです。こ れはやはり何かあったとみるべきです。この何かを市民団体が調査しました。 その事情を、代表者の平形氏はつぎのように記しています(注3)。         -------------------------------------   最近まで、この何かは、わからないままきていた。わずかに越中谷利一の 「営庭で」という証言があったにすぎない。追悼調査実行委員会を組織して調 査をすすめていくうちに、この「何か」は少しずつとけていった。筆者(平 形)は保護収容ではなく、保護収容という名の軍隊による選別と虐殺であった にちがいない、と考えるようになった。   収容された人たちの一割におよぶ収容者減少の理由として筆者は、  1.収容所の中で、みせしめに発砲し殺した。  2.収容者の行動に目をつけて、おかしいとマークした者を営倉に入れ取り   調べをした。間諜(スパイ)を入れ「良鮮人」と「不逞鮮人」の選別をし   た。  3.選別し、「不逞鮮人」としたものを、軍隊が引っぱりだして殺害した。  4.高津廠舎の周辺の村にも配って村人に殺させた。(これは軍隊がやった   ことをカモフラージュし、追求されたときの責任を民衆、自警団に転嫁す   るためにおこなわれたのではないだろうか。)  と考えた。単なる保護収容ではなく、保護収容という名で集めて、守ってや るふりをして、実際には、権力にとって都合の悪い、思想的に危険だと思われ る朝鮮人や中国人の選別をおこない虐殺をする、まさに保護収容という名の虐 殺ではないだろうかと考えたのである。   あえて「保護収容という名の虐殺」と考えた根拠を、私たちが手に入れた 証言を中心につづってみたいと思う。  ・・・   騎兵第14連隊に勤務していた会沢泰さんの証言によれば、14連隊で1 6人を営倉に入れ、切ってしまったのを目撃している。切った場所は、現在の 大久保の公民館裏にあった墓地だという。   そして、騎兵第14連隊だけではなく、他の連隊でもという。軍隊の内部 では公然の秘密だったのだろう。 会沢泰さんの証言   関東大震災のとき、ちょうど、私は連隊本部の書記をしていました。   ・・・   (朝鮮人を)救護する目的で(習志野収容所に)つれて来たんですけれど  も、朝鮮人が暴動を起こしそうだちゅうんで、朝鮮人を引っぱり出せという  事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。  それが四個連隊あるんですから。   おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんで  す。ねえ、軍隊の中で・・・そしておかしい様なのを・・・ホラ、よくいう  でしょう。・・・切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居  たわけですよね。   切った所は、大久保の公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていって  そこで切ったんです。・・・私は切りません・・・30人ぐらいいたでしょ  うね。ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。   いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだ  か、どこに居たんだかを。   ちょうど、たまたまそのころに、小松川(江戸川区)というあそこの橋で  朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんですねえ。それでこっちの  収容所へ入れてあるのもみんな、調査をはじめたわけです。調査をして、お  かしいのを引っぱりだした。   ・・・   われわれ、軍隊におりながら、そんなのが営倉から引っぱりだされると、  切られるんだなあと、かわいそうになりましたよ。私は、二回か・・・切ら  れるところまで行ってみましたけどね。   後はもういやになったから行かなかった。一晩に三人ぐらいおこなったん  じゃないですか。   営倉の中にいる人たちは、呼ばれたきり、帰って来ない、変だなくらいに  思っていたんじゃないですか。   すでに公表されてて知られている資料だが、越中谷利一の記録は、営庭で 殺して埋めてしまったというものである。   この習志野収容所から消えていった300人という人間の数は、朝鮮人や 中国人の多くは、こうして保護収容という名であつめた軍隊の手によって殺さ れていったのではないだろうか。   そして軍隊の中では、出動先の虐殺も、軍隊や収容所での虐殺も、権力を かさにきてかくしとおすための工作がおこなわれた。・・・        ----------------------------------------   これらの証言以外にも、取り調べを実際に受けた申鴻湜さんの証言なども あり、収容所での虐殺はほぼ事実のようです。申さんは取り調べのため、教導 連隊に連れ出されましたが、取り調べにあたった特務曹長とは徳島で中学の先 輩・後輩になることがわかり、そうしたよしみから運よく助かったそうでした。   しかし、面会も禁止、釈放も行われなかった時期に「親戚が迎えにきたか ら」といって、連れ出され消えていった自治組織の仲間がいたことも証言で明 らかにされています。   一方、騎兵連隊が朝鮮人を附近の住民に払い下げ、それを自警団が虐殺し た事実もとうてい見過ごすことができません。これについては次回記したいと 思います。   これら一連の事件は地震直後の狂乱状況で起きたのではなく、むしろ混乱 が一段落して、官民すべてが事後処理をめぐって活発に動き始めたときのでき ごとであることは注目にあたいします。   これは関東大震災による戒厳令発布を好機ととらえ、軍にとって思想的に 好ましくない朝鮮人や中国人、社会主義者を一掃する白色テロの一環だったの ではないかと思います。   ちなみに当時の弾圧状況を列記すると次のようになります。  5日 平沢計七、河合義虎ら8名が亀戸警察署にて殺害  6日 本沢兼次、神道久三検束  7日 浅沼稲次郎、稲村順三、平野学、北原竜雄検束  8日 麻生久夫ら一斉検束  9日 平林たい子検束 11日 南巌、伊比津栄検束 12日 王希天殺害 16日 大杉栄、伊藤野枝殺害 18日 藤沼栄四郎検束   いかに軍部・警察のテロがすさまじかったかをうかがい知ることができま す。こうした世相を今井・斉藤氏はこう記しています(注4)。         ------------------------------------   軍部を先頭として官憲は、関東大震災という非常事態のなかで、戒厳令下 の兵力を背景に、植民地・従属国の民衆を抑圧しようと、朝鮮人、中国人の虐 殺・迫害と自国の人民の抑圧としての亀戸事件、大杉事件などを強行した。   そして戒厳令を武器に「切り捨てご免」で法的責任を免れようとした。そ の画策は一部ではまかりとおったが、一部では破綻した。そこには言論機関の 活動があり、民衆の抵抗があった。   上述のように大杉事件ではともかくも軍法会議が開かれたのに、亀戸事件 は事件が公表されただけで殺害が適法とされ、朝鮮人虐殺事件は形式的に自警 団員が処罰されただけで、中国人事件と王希天事件は事件そのものがまったく 闇に葬られたのである。   こうした押しつ押されつの関係のなかに、いわば弱点をつかれた大正デモ クラシーの実態があり、それぞれの事件に対する対応の仕方のちがいに、大正 デモクラシーの構造が反映していた。         ------------------------------------   どうやら軍部の白色テロで大正デモクラシーも終わりを告げたようでした。 (注1)習志野収容所   朝鮮人収容所が習志野に設置されたのは9月4日午前10時、第1師団司 令部が騎兵第2旅団に出した下記命令による。騎兵第2旅団は、騎兵13,1 4,15,16連隊で構成され、戒厳軍の実戦部隊として、江東地区をはじめ として東京を制圧した旅団である。 1.東京付近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。 2.各隊はその警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営(市川市、半月   城注)に逓送す。 3.貴官は習志野衛戌地域残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を護   送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。 4.鮮人の給養主食日糧米麦二合以内、賄糧日額十五銭以内とし、軍人に準じ   て取り扱うべし。 (注2)姜徳相「1923年関東大震災大虐殺の真相」(韓国語)    『歴史批評』1998年冬号 (注3)千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編   『いわれなく殺された人びと』青木書店、1983 (注4)関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査委員会編   『歴史の真実ー関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会、1975   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/28 - 04347/04347 PFG00017 半月城 「鮮人」の払い下げ、関東大震災(11) ( 8) 99/02/28 22:47   昨年、来日した韓国の金大中大統領は「過去の不幸な歴史を乗り越え、未 来志向的な関係を発展させていこう」と語りましたが、この言葉は習志野収容 所周辺の関東大震災関係者にも影響を与えたようでした。   おりしも昨年は大震災75周年という節目でもあり、地区住民のあいだに、 朝鮮人虐殺問題に区切りをつけ、子や孫の代にまで問題を残したくないという 気運が高まりました。   そこで八千代市高津地区住民は全員一致で、何と数百万円の地区積立金を 使い、犠牲になった朝鮮人の遺骨を掘り起こし、手厚く供養をしました。   このように加害者側の住民が全員一致で過去の行為を清算するのは前代未 聞で、歴史上、画期的なことと思われます。   このおごそかな供養により、地区住民は今までわだかまっていた「きちん と供養すべきだ」という胸のつかえがおりたようで、前向きに志向することが 可能になったようです。その注目すべき記事を紹介します。        ---------------------------------------- 地域の過ち繰り返せぬ   関東大震災直後の朝鮮人虐殺     遺骨掘り起こし、慰霊へ       千葉・八千代市住民ら「親も加担」抵抗感を克服                 (朝日新聞・千葉版、99.1.12)   関東大震災直後に朝鮮人虐殺があった千葉県八千代市高津地区の住民達が、 震災から75年を経て、犠牲となった朝鮮人の遺骨とみられる6体を掘り起こ した。   虐殺に加わったのは地域の人々だったため、掘り起こしには抵抗があった が、「過ちを二度と繰り返さない」という気持ちでまとまった。住民らは、慰 霊碑の建立も計画している。   遺骨は昨年9月、住宅街の一角で掘り起こされた。パワーショベルを使っ て8時間かかった。約2m掘った土中にあった骨は、大たい骨や歯を除いて、 ほとんどの部分が粉々に砕けていた。  「八千代市の歴史」(市史編さん委員会編)や、調査を続ける市民団体など によると、震災直後の1923年9月上旬、地域の朝鮮人らは現在の習志野市 にあった陸軍施設に収容された。その後、「取りに来い」という収容所からの 連絡で18人を引き取った。「殺せということだと思った」という住民らは、 うち6人を刀で切るなどして殺したとされる。   古老の記憶などから、殺害され、遺体が埋められた場所を特定した。人数 と調査が一致することや、警察の検視で遺骨が死後、数十年たっていたことか ら、虐殺された朝鮮人に間違いないと判断した。   遺骨の掘り起こしは、78年の市民団体の調査がきっかけになり、持ち上 がったが、この活動に不快感を示す人が多かった。   同年から現場で慰霊祭を始めたが、住民は5人ほど参加するだけだった。 江野沢隆之市議(51)は「親が虐殺に加わった人もいる。事件を口にしづらい雰 囲気があった」という。   しかし、昨年の地区の総会では「子や孫の代までこの問題を残してはなら ない」との考えに傾いた。数百万円の費用は、地区で積み立てているお金をあ てることを全員一致で決めた。在日韓国・朝鮮人の団体や市民団体から強い要 請があったことに加え、「75年」という区切りの年だったことも背景にあっ た。  「心の中では、きちんと供養すべきだ、とみんな思っていた。時代が流れ、 先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった、当時の異常さが問題だった、と 考え方が変わってきた」。虐殺当時の記憶が残る男性(82)は話した。   遺骨は10月、在日韓国・朝鮮人の団体も列席し、火葬された。遺灰は現 在、高津地区の観音寺に安置されている。   観音寺住職で、当初から「早く掘り起こそう」と訴えてきた関光禅さん (69)は語る。「来日した韓国の金大中大統領が『過去の不幸な歴史を乗り越え、 未来志向的な関係を発展させていこう』と語った時期に、私たちも犠牲者を弔 った。過ちを二度と繰り返さないように、次の世代に語り継いでいきたい」        --------------------------------------   未来志向という言葉は、言うはやすしですが、本当にそれを実行するとな ると、過去の過ちも直視せざるをえず、たいへん勇気がいることです。それを 高津地区住民は身をもって示したようでした。   しかし、そうした清算が事件後75年をへてはじめて可能になったとは、 気の遠くなるような話です。同時に、過去を直視し清算することがいかに困難 なことか、改めてしらされる思いがします。   それほどまで時間がかかったのはどうしてなのか、また、その決断にいた った関係者の胸の痛みはどうようなものであったのか、そのあたりの事情を、 新聞記事に登場した市民団体、追悼・調査実行委員会が、16年前にこう記し ました(注1)。        --------------------------------------  語れずにきた民衆の苦しみ      59年目の供養  「せめて石の一つも建ててやらなければ、かわいそうだ」と私たちに地域の 老人は語った。   1923年(大正12)年から、すでに60年の年月がたとうとしている 今、もう一度ふりかえってみると、当時虐殺に何らかのかかわりをもった人の 心の中には、重く当時のことが残っているようだ。   針金でしばって警察に送った人、手をくだして殺してしまった人も、そば でみていた多くの村の人たちも、本当に一人一人が重苦しい思い出と心の痛み を持ちつづけてきた。   今もなお、「何かに書くのか」と警戒し、「古いことだから、すっかり忘 れちゃったよ」と忘れられない苦しい表情を見せ、「他の人のほうがよく知っ ているから」と、口をにごす人が多い。   かかわり方が深ければ深いほど語れないという面もある。単なる目撃者の ほうが語りやすいというのが、調査をしてあらためて感じさせられたことであ る。遠い昔になってしまっても、心のすみに残った心の痛みは消えることがな かったのであろう。   そして、その心の痛みを、供養というかたちに表してきた人びとがいる。   高津の軍隊から(朝鮮人を)渡されて、殺してしまった現場にひそかに大 施餓鬼会(注3)の供養の塔婆をたてつづけてきた二人の人がいる。  「33年たてば、死んだ人は、神になるというので、線香の一つもたてずに おくのはかわいそうだと思って」供養塔をたててきたのだという。その人は、 事件当時6歳の小さな目撃者であった。  「日本刀でばっさりやっちゃったらしい。観音寺に集めて、共有地でね。私 は、学校で小さかったから、手を後ろにまわしてゆわかれるところまで知って いるけど、首を落とされるところまでは見なかった」   ナギノ原は戦後、分譲され、今では住宅地となっている。戦後の分譲のと きに山番の墓のあるこの一角だけ残された。地域の人びとにとっては、語りつ がれた場所だったのだろう。   高津にいくようになって、はじめは、現場は共同墓地の一本松、お地蔵様 の立っている近くだと思っていた。この地域では長いあいだこの問題について 語ることはタブーであった。あまりくわしい話をきくことはできず、現場を教 えてくれる人はいなかった。        ----------------------------------------   事件から60年たっても、多くの人は胸の痛みをそのままにしまいこんで、 あえて語ろうとはしなかったようです。ごく身近な人がかかわった事件だけに、 無理からぬ面があります。   それほど痛みをともなった事件とは、一体どのようなものであったのか、 その調査のスタートを地元の中学生が切りました。習志野四中の郷土史サーク ルの地道な調査が注目をあび新聞報道されるや、次第に多くの証言や協力が得 られるようになりました。   その成果をもとに、冒頭の市民団体、追悼・調査実行委員会が発足し、精 力的な活動を行いました。その過程で衝撃的な記録が発掘されました。その資 料は、ある個人が震災当時書いた日記ですが、軍から朝鮮人を「貰った」事実 や、首をはねた光景を生々しく次のように書いていました(注1,2)。        ---------------------------------------- 9月7日 ・・・皆労(つか)れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、 バラック(兵舎、半月城注)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有っ たとて急に集合させ、主望者(志望者の間違い?)に受け取りに行って貰ふ事 にした。・・・   夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し、高津は新木戸と共同して三人引受、 お寺の庭に置き番をして居る。 8日 ・・・又鮮人を貰ひに行く。九時頃に至り二人貰って来る。都合五人。 ナギノ原山の墓地に穴を掘り、座せて首を切る事に決定。   最初に邦光が見事に首を切った。二番目に啓次が切ったが、今度は半分し か切れなかった。三番目に高治。首の皮膚が少し残った。四番目に光雄は邦光 が使用した刀でスパっとはねた。五番目の吉之助は力が足りず、半分しか切れ なかった。洋刀で切った。   穴の中に入れて埋め仕舞ふ。皆疲れたらしく皆其処此処に寝て居る。夜に なると又各持場の警戒線に付く。         --------------------------------------   この日記をみると、住民たちに人としての感情はみられず、まるで鶏の首 を切り落とすような感覚で、生身の人間の首をはねていたようでした。   いったん朝鮮人を敵と思いこんでしまうと、何のためらいもなく残虐な行 為を平気で行なってしまうものとみえます。オウムのマインドコントロールを 彷彿させます。   さて、この「払い下げ」事件を冷静にみるとき、いくつの疑問がわきます。 まず、軍隊が朝鮮人を「くれてやった」のはなぜなのか、疑問です。次に時期 的にみると、千葉県下の朝鮮人虐殺は四日を頂点にして、以後は下火になって いたにもかかわらず、事件が七日、八日に起きているのはふに落ちません。   船橋では六日、関東戒厳司令官の注意「一、朝鮮人に対し、其の性質の善 悪に拘らず、無法の待遇をなすことは絶対に慎め。等しく我が同胞なることを 忘れるな。一、・・・」という内容の宣伝ビラが飛行機から広くまかれました。   これを習志野の陸軍関係機関がしらないはずはありません。それにもかか わらず、朝鮮人を自警団に引き渡したのはなぜなのか疑問が残ります。   自警団のなかには船橋丸山の自警団のように、数人が命がけで他の自警団 (馬込沢)から朝鮮人を守りとおした例がありましたが、これはレアケースで、 当時、朝鮮人を自警団に引き渡すのは、血に餓えた狼の群に赤ずきんちゃんを 放すようなものでした。   たとえ、軍があからさまに「殺せ」と指示しなくても、魚心に水心で自警 団に朝鮮人が虐殺されることは目に見えていました。それを熟知しながら、か つ司令官のご都合主義的な布告「我が同胞」に反し、自警団に虐殺をし向けた のはそれなりのシナリオがあってのことと思われます。   前回書いたように、軍は9月中旬過ぎになっても、習志野収容所内で朝鮮 人を思想選別し虐殺を行っているので、その一環として「あばれて困る」朝鮮 人を選別し自警団に引き渡して、一連の選別・虐殺の共犯者を作り出したとみ るのが妥当かもしれません。   自警団による虐殺は、収容所内の虐殺と違ってすぐ公知の事実になりやす いので、うがった見方をすれば、軍収容所内部の虐殺をカモフラージュするの に適しています。これが朝鮮人を「くれてやった」理由でしょうか。   この見方が正しいとすれば、住民は完全に軍のシナリオにはまり、虐殺の 主人公になってしまったといえます。民衆がこうもやすやすと軽挙妄動に走っ た歴史的背景を追悼・調査実行委員会はこう書いています(注1)。  「明治初年以来、アジアの他民族に対する劣等視、差別意識は丹念に積み重 ねられてきた。ことに、朝鮮人、中国人に対するそれは、たびかさなる侵略戦 争の戦意の高揚と植民地政策の理念として、日本人に培われてきた。   われわれ民衆は、今もそういう政策にすっぽりはまる知的な弱さと、心情 的なもろさと、社会的遅れを持っているものである。まして大正期の農村では ことさら根強い風潮であった」   アジアなどの他民族に対する劣等視、差別意識の解消、これこそが虐殺さ れた朝鮮人に対する最大の供養ではないかと思います。これが改善されないう ちは、在日外国人は地震に不安をいだきかねません。今は亡き芥川賞受賞作家 の李良枝さんはこう書いています(注4)。  「また関東大震災のような大きな地震が起こったら、朝鮮人は虐殺されるか しら。一円五十銭、十円五十銭と言わされて竹槍で突つかれるかしら。でも今 度はそんなこと起こらないと思うの、あの頃とは世の中の事情が違っているも の。それにほとんどが日本人と全く同じように発音できるもの」   彼女の予測どおり、95年の阪神・淡路大地震では在日外国人が竹槍でつ つかれることはもちろんありませんでした。しかし、日本人と全く同じように 発音できない外国人に対して「イラン人強盗団」とか「中国人窃盗団」などと 悪質なデマが案の定飛びかいました。   すべての外国人が枕を高くして眠れる日、そんな日がいつかおとずれるこ とを私は夢見ています。 (注1)千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編   『いわれなく殺された人びと』青木書店、1983 (注2))姜徳相「1923年関東大震災大虐殺の真相」(韓国語)    『歴史批評』1998年冬号 (注3)せ‐がき【施餓鬼】 (広辞苑より引用)  〔仏〕飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会。   今日では盂蘭盆会と混同。水陸会。施餓鬼会 (注4)李良枝『かずきめ』講談社、1983   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/03/14 - 04554/04554 PFG00017 半月城 マッチポンプの背景、関東大震災(12) ( 8) 99/03/14 22:46 04378へのコメント   ウサギさん、はじめまして。この会議室で関東大震災の議論に第三者のコ メントがついたのは、これが初めてでしょうか。関心を持って読まれる人もお られるようです。   RE:4378、ウサギさん >関東大震災時の朝鮮人虐殺については、私は黒竜会が出した調査報告に対する >とびかげさまの見解が訊いてみたいと思っています。 >もし、見落としていたらポインタなどお示しいただけると有り難いです。 >黒竜会は震災時に炊き出しもしてるし、朝鮮人狩りもしてる。 >内田良平は事後、政府・軍・警察が朝鮮人狩りの事実を隠蔽し自警団に責を >転嫁させたことを怒っとったみたい。   ウサギさんの新たな視点に刺激され、私も右翼の巨頭である内山良平の調 査報告書に興味をもち、すこし調べてみました。それに関し、ウサギさんへの コメントというより、私なりの考えを記したいと思います。   内山良平が、世田谷に農場を持つ弟に糧食の購入方をまかせ、罹災民に炊 き出しをほどこしたのは、安政大地震の経験を持つ内田の父の遺訓であるとさ れているようです。   内田は炊き出しと同時に「朝鮮人狩り」を積極的にしただけに、政府が、 朝鮮人虐殺の罪を自警団にのみ押しつけるのは我慢がならなかったようで、こ れに反発していたのはウサギさんのコメントのとおりです。   そこで内山は、黒竜会の総力をあげて「震災前後の経綸に就て」と題する 報告書を作成し、政府を批判しました。ウサギさんはその資料にあたりたいと のことでしたので、まずはその一部をご参考に(注1)に掲げます。   それを読むと、ウサギさんが指摘されたように、内山は自警団を弁護し 「鮮人暴行の風声鶴唳に驚き、殆ど其の常軌を逸した行動に出でたものは、我 が国民にあらずして寧(むし)ろ警察官である」として、警察の処置を非難し ました。   さらに内山は「警察官の如きは公安保護の能力を欠き、大道に疾駆して 『鮮人の暴行に対しては之を殴殺するを亦(ま)た已(や)むを得ぬ』と声言 し廻り、或は之を告示に迄出した」と周知の事実を強調しました。   内山は、警察の朝鮮人虐殺を扇動するかのような活動や、あるいは軍や警 察自体が朝鮮人を虐殺した事実は、十人が十人とも認めるところであると主張 しており、これらはこれまでの私の書き込みに近いものです。   しかし、内山は「鮮人暴動」や社会主義者の「妄動」を一途に信じていた ようで、この点は私をはじめ多くの歴史家と見解をもちろん異にします。ひと まず彼の事実認識を整理すると下記のとおりです(注2)。  「不逞鮮人の暴行は事実である。一部支那人が鮮人の指嗾(しそう)に応じ 放火暴行を敢てしたのも事実である。我が国民が自衛の為に不逞鮮人及び兇行 支那人を殴殺したのも事実である。警察官及び軍隊が不逞鮮人を殴殺したのも 事実である。   此の事実は十指の指す所、十目の視る所、啻(ただ)に我が国民の認める 所なるのみならず、一部の外国人も業に此の事実を認めて居る」   内山良平は右翼の立場から、大正デモクラシーで活躍する社会主義者を目 のかたきにし、彼らの打倒を目指していました。その一環として「不逞鮮人」 の流言飛語を利用し、「鮮人暴動」を指図する社会主義者の暗躍というストー リーで、社会主義者を打倒したかったに違いありません。   このため、警視庁や当局者が「不逞鮮人」を対内的にデマと断定した後も、 ひたすら「鮮人暴動」を喧伝し、そのフレームアップに黒竜会を総動員したも のと思われます。   こうした不純な目的を別にすれば、官憲の一連の対応に対する批判は当を えたものです。官憲が「不逞鮮人」のうわさに火をつけ(注3)、後にそれを 消した、いわゆるマッチポンプに対する批判は(注1)にあるように痛烈なも のがあります。   なかでも「不逞鮮人も無く、国内の秩序を乱す暴徒もないのに拘(かか) はらず戒厳令を布いたものとすれば、政府は国民を敵視するの挙に出たもの」 という指摘は特に重要です。   暴徒がいるのかいないのか不明の段階で戒厳令を布き、しかも暴徒がいな いとはっきりした後も戒厳令を解くどころか、その地域を拡大したことなど誰 しも不可解です。   そもそも戒厳令布告からして、手続き上かなり強引になされたようでした。 その違法性を河北新報はこう指摘しました(1923.10.13、注2)。  「現在布かれてゐる戒厳令は空前の震災に際し、臨機の処置として執られた 手段で、世間は一般に已むを得ざるものと認めているが、発令当時の事情明ら かとなるに従ひ違法違令の非難を免れぬこととなった。   元来この戒厳令は去月一日震災と同時に閣議を開き、既に一応戒厳の必要 を内定したが同日中に異論が現れたらしく、・・・内田臨時首相から戒厳令の 方は止めたが、取敢えず日ならず出兵することにしたといって、枢府側の了解 を求めたのに徴しても分る。   然(しか)るに赤池・前警視総監の主張に従って廟議は再び変更され、現 在の如き所謂(いわゆる)戒厳令を布くこととなった模様であるが、・・・」   戒厳令は、赤池警視総監の執念が大きな原動力になり実現したようでした。 赤池自身「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、後藤警保局長に切言して(水 野)内務大臣に戒厳令の発布を建言した」と記していますが、これが地震発生 わずか二時間後になされたことは注目にあたいします。もちろんこの時刻には 「鮮人暴動」の流言飛語はまったくありませんでした。   以前、私が書いたように、赤池たち治安トリオはやはり米騒動や朝鮮での 3.1独立闘争など民衆暴動の恐ろしさを念頭におき、戒厳令を要請したので しょうか。とくに、赤池は「一部不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行ふだろう が・・」と予断を持ち、閣議にまで出席して戒厳令の必要性を説きました。   治安当局者がこうも戒厳令にこだわったのは、その背景に相当な事情があ りそうです。そうした背景をつまびらかにしたいと思います。   まず、当時の政治社会情勢ですが、その世相を今井清一氏はこう記してい ます。  「第1次世界大戦で急激に発展した日本では,普選運動,労農運動など民主 化を求める民衆運動が広がり,社会主義運動も台頭してきた。前年のワシント ン会議を機に軍縮論も高まり,シベリアや中国山東省からの撤兵がおこなわれ, 日ソ復交も日程にのぼった。しかし,中国の国権回復運動が広がり,中国,朝 鮮の民族解放運動に対するコミンテルンの影響が強まると,軍部や国家主義者 は巻返しに出た。   政府は前年(1922)に過激社会運動取締法案の制定を企て審議未了となった が,その年7月に結成された日本共産党に対しては,この年5月の早稲田軍教事 件をきっかけに第1次検挙をおこなった。民衆運動の台頭に適応して民主化の 方向で政治体制の再編成をすすめるか,それとも治安立法を強化して民衆運動 にくさびを打ちこむかという二つの方向が競り合っていた」 (世界大百科事典「関東大震災」日立デジタル平凡社,1998)   どうやらこの時期は民主化か、治安強化か、どちらに進むか微妙な時期に あったようです。そうしたなかで大震災が起きたのですが、それを機にさまざ まな動きが交差しました。それを今井氏はこう続けています。          --------------------------------   震災の当日は加藤友三郎首相の死による政変の最中で,水野錬太郎内相ら の閣僚が職務をとっていた。彼らは,米騒動や朝鮮三・一独立運動の経験から 民衆暴動を恐れていた。陸軍では地震直後に非常警備を開始し,まもなく政府 も出兵を請求した。   2日になると朝鮮人来襲の流言が急激に広がり,東京市と周囲の5郡に戒厳 令の一部が施行された。警察,軍隊は各地に自警団をつくらせ,朝鮮人を狩り 立て,大規模な虐殺事件(朝鮮人虐殺事件)を引き起こした。戒厳令施行の直後 には第2次山本権兵衛内閣が成立した。   3日には戒厳区域が東京府,神奈川県に拡大され,地方師団が続々と到着 した。不安におびえる民衆に安心感を与えることで,軍部は勢力盛返しをはか ったのである。   社会主義者に対する攻撃が強化され,亀戸(かめいど)事件が起こった。朝 鮮人暴動がデマと判明したのちには,虐殺事件を正当化するために朝鮮人の暴 行事実を極力調査して赤化分子が背後で扇動したと宣伝する方針がとられ,社 会主義者が続々と検束された。   7日には緊急勅令で〈治安維持の為にする罰則に関する件〉が公布され, 言論をきびしく弾圧した。これは過激社会運動取締法案にかわる治安立法とし ての意味をもち,つぎの臨時議会で事後承認され,治安維持法の露払いとなっ た。   9月中旬には軍隊による直接警備を逐次解除して警察に移す方針がとられ たが,そのなかで軍部は中国人の知識青年で社会運動家の王希天殺害事件と無 政府主義者大杉栄夫妻らを殺害した甘粕事件とを起こした。これらの事件は報 道を禁止され,新聞記者等の活動で逐次これを解除したが,真相は隠された。   甘粕事件は曲りなりにも軍法会議にかかったが,亀戸事件は戒厳令下の当 然の措置とされ,王希天は行方不明とされ,朝鮮人虐殺事件はごく一部の自警 団が裁判にかけられただけで,それらの刑も軽かった。軍隊,警察としての責 任は問われることもなく,また世論や民衆の側からの批判や抗議も弱かった。 他方で虐殺事件を正当化しようとする宣伝や工作がすすめられ,言論統制も強 化された。   震災後の保守化した風潮のなかで支配層は〈天譴(てんけん)論〉を唱えた。 震災は大戦後のぜいたくや自由放縦に対する天罰であり戒めだとしたのである。 これをうけて11月10日には国民精神作興詔書が出されて国民の思想統制がすす められた。11月16日には戒厳令が解除されたが,東京警備司令部がおかれ憲兵 隊が大増強された。   社会主義運動に対する弾圧もつづき,群馬県や長野県の社会主義青年グ ループが秘密結社を組織しているなどの理由でつぎつぎに検挙された。震災下 の血なまぐさいテロに加えて、民衆に白眼視されたことは社会主義運動に衝撃 を与えた。翌年2月には日本共産党は解党し,日本労働総同盟も方向転換を宣 言する。        --------------------------------------   このように、戒厳令を布いた結果、治安当局や軍部のもくろみは図に当た り、大正デモクラシーを一気に押しつぶしてしまったようです。彼らが戒厳令 にこだわったのは、民衆暴動を未然に防ぐとともに、民主化に対する巻き返し という目的がその底辺にあったのではないかと思います。   そのための切り札として、「鮮人暴動」の流言飛語を積極活用したのでは ないかと思います。そして戒厳令布告に成功するや、今度は自警団の暴走はも はや有害無益なので、それを抑えにかかったのではないかと思います。これが マッチポンプのシナリオしょうか。 (注1)震災善後の経綸に就て       社会主義者不逞鮮人兇行の一班                      黒竜会主幹 内田良平  ・・・   次に吾人(ごじん)が更に苦言を呈出して政府の考慮を乞はんとするもの は他にあらず、彼の社会主義者及び不逞鮮人の徒が震災の機会に乗じて或は爆 弾を投じ、或は毒薬を飲料水に入れ、或は放火を敢てし、或は暴行を無辜の邦 人に加へ、或は掠奪を縦にした事は掩う可からざる事実である。   政府当局者が之を掩蔽しつつあるは果して何事である。彼の湯浅警視総監 が『この未曾有の惨状に対し罹災民の狼狽することは然ることながら、事実の 拠る所なき鮮人暴行の風声鶴唳に驚き、殆ど常軌を逸した行動に出ずるものの あったことは、遺憾千万である』と云って鮮人の暴行を否認し、一歩を進めて 『浮説に惑はされて暴行を鮮人に加へたることは我が朝鮮統治上憂ふべきこと は申すまでも無い』と云ひ、又た山本首相が『多数罹災民は概ね危急を冒し艱 苦に耐へ沈着の態度を失はざりしも、此の間、多少の常軌を逸したるものある を免れず』と云っておるのは、是れ我が国民が不逞鮮人の暴行に対して自警団 を組織し、自衛的手段に出で、時に或は鮮人を殴殺したことある事実を指摘し たものの如くなれども、吾人は此言に対し草草看過する能はざるものである。   抑(そもそ)も我が国民が自警団を組織した所以(ゆえん)のものは、不 逞鮮人が震災の機会に乗じて爆弾を投じ、放火を事とし、その他種々の暴行を 我が罹災民に加へ残虐なる行動を逞うしたのを目撃し、之を放任し去ることが 出来ぬからである。   しかも警察官の如きは公安保護の能力を欠き大道に疾駆して『鮮人の暴行 に対しては之を殴殺するを亦た已むを得ぬ』と声言し廻り、或は之を告示に迄 出したことは全市に公然たる事実である。   若し警察官にして鮮人の暴行を制し、公安保護の任務を竭(つく)すこと が出来たならば、国民は何を苦んでか自警団を組織し警察官に代って鮮人防御 の挙に出でんや、畢竟(ひっきょう)我が国民が自ら進んで組織するに至った 所以のものは、警察の無能力より生じた結果に外ならないのである。   故に今回の如き危急の場合に際し、警視総監の所謂る鮮人暴挙の風声鶴唳 に驚き、殆ど其の常軌を逸した行動に出でたものは我が国民にあらずして寧ろ 警察官である。   然るに戒厳令が実施せられ、輦轂(れんこく)の下の軍隊に由りて漸次秩 序と安寧とが回復せらるるや、当局者が恰(あたか)も掌を反すが如く社会主 義者や鮮人の暴行事実を掩蔽し我が国民を評するに、常軌を逸したものの如く 声明するに至ったのは吾人其の理由を知るに苦しまざるを得ぬのである。   試に思へ、政府は何が為に戒厳令を布いたのである乎(か)、抑も戒厳令 なるものは尋常一様の場合に之を布くものでは無い。火災や洪水の如き災難を 生じた場合に、警察官不足の為め軍隊の力を借りるとは従来より屡(しばし) ばその例があるけれども、戒厳令を布くべきものではない。   戒厳令を布くと云ふことは外敵襲撃の恐れがある乎、否らざれば国内の秩 序を乱す暴徒があるかの場合の外、之を布くべきもので無いでは無い乎。而 (し)かも既に戒厳令を布きながら不逞の鮮人も無かったと声明する以上、何 の為に戒厳令を布いたのである。   然るに既に不逞鮮人も無く国内の秩序を乱す暴徒もないのに拘(かか)は らず戒厳令を布いたものとすれば、政府は国民を敵視するの挙に出たものと看 做(みな)さるるも何の辞があるか、苟(いやしく)も政府にして此の理由を 明白にしない以上は、吾人は吾が国民が政府を敵視せざるを得ないに至るのを 恐るるのである。   是れ吾人が震災と同時に会員を罹災地方に派遣し、実跡に就て震災の現状 視察と同時に鮮人暴行の実情調査に従事し、茲(ここ)に調査書を添へて敢て 政府が所見如何を問はんとす欲する所以である。   彼の不逞鮮人を指嗾し、之と策応して兇行至らざるなく震後の災禍をして 未曾有の惨毒を呈せしめたものは、実に此の社会主義者なることは公然の事実 ではないか、然らば当局は今回戒厳令の施行に当り先ず第一に此の社会主義者 及び不逞鮮人の撲滅を期せねばならないではないか、然るに我が官憲は果して 此の社会主義者に対し適当の用意を以って之に当って居るかと云ふに、吾人は 当局が全然無主義無方針を以て極めて曖昧な態度を以って之に臨んで居るなき やを疑はざるを得ない。  ・・・(注2よりより引用) (注2)姜徳相『現代史資料6,関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963 (注3)「うわさに火をつけた」という私の表現を、「うわさを捏造した」と 解釈している人もいるようですが、これは曲解です。たとえていうと「油に火 をつけた」という場合、油がどこかにあるのが前提になっていることはいうま でもありません。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:旧日本軍と自衛隊 [aml 11123] Date: Mon, 15 Feb 1999 20:15:05 +0900   三崎さん、はじめまして。半月城です。ひいきにしていただいてありがと うございます。   RE:11108, >旧日本軍の無責任と現実無視、希望的観測の伝統は自衛隊にしっかりと受け継 >がれていたのですね。   旧日本軍の多くの中堅幹部が自衛隊を動かしてきたので、当然、旧日本軍 の伝統もしっかり受け継がれてきたのだと思います。そんな落とし子が仮面忍 者とびかげ氏でしょうか。「大日本帝国万歳」をさけぶ一方、「軍人勅諭」を 賛美し、たしかそれを隊員の教育に用いたとも書いていました。   このように旧日本軍から自衛隊へは、多くの面で連続しているといっても 過言ではないと思います。人脈で言えば、航空自衛隊幕僚長だった源田実など その典型例です。   ご存じかもしれませんが、戦時中、彼はゼロ戦の改良に猛反対したことで よく知られています。第二次世界大戦初期、ゼロ戦は戦闘性や航続距離、操縦 性などが米軍機より優れていて相当な戦果をあげましたが、末期になると、防 御に弱い欠点が露わになり、米軍機にぞくぞく撃ち落とされるようになりまし た。   この欠点に、源田実は「大和魂」を説き精神論で敵機に勝つことを強調し、 エンジニアの提案を一蹴しました。   その結果、人命軽視のゼロ戦は米軍機にかっこうの餌食になり、あたら若 い多くの命が失われました。これなど現実無視、希望的観測、無責任の極みで はないかと思います。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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