- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/14 -
04214/04214 PFG00017 半月城 自警団の暴走、関東大震災と朝鮮人(9)
( 8) 99/02/14 23:09
仮面忍者とびかげ氏、RE:4105
> 証拠もへったくれもなく、ひたすら片言隻句をチューインガムのように伸
>ばして官憲の責任を作り出そうとする卑劣漢に較べれば。
議論相手に「卑劣漢」とか「嘘吐き」とか、人格を疑わせるような言葉を
あびせるやり方はこの会議室でもよく行われますが、そうした手法は幹部自衛
官にマッチしているようです。そうした人が自衛隊では「真っ当な常識人」な
のでしょうか。
それとも仮面忍者とびかげ氏は、自衛隊のなかでは異質な幹部、いわば反
面教師的存在なのでしょうか?
かって旧軍人の BIG FALCON さんは、そんな仮面忍者とびかげ氏の言動に
懸念をもたれたようですが、そんな幹部に教育される自衛隊員はおのずとその
質がわかろうというものです。
ともあれ、私もそんな仮面忍者とびかげ氏にうんざりしています。これま
で機会あるごとにそれをほのめかしてきましたが、一向に改まる気配がないよ
うで、これではまともに議論する気になれません。
一般に、感情がむき出しの書き込みは、たいてい自説の展開が行きづまっ
たときになされることが多いのですが、私はそれらをパスするのをならいとし
ています。
そこで今回は仮面忍者とびかげ氏に対する反論は見送り、前回書き足りな
かった警察と自警団の愛憎について補足したいと思います。
関東大震災時に、荒れ狂う自警団の残虐行為から朝鮮人を敢然として守っ
た例として、横浜・鶴見の大川署長の美談は、藤岡信勝・自由主義研究会の
『教科書が教えない歴史』で取り上げられ一躍有名になりました。
しかし、これが美談になるということ自体、当時の自警団がいかに流言に
荒れ狂って暴走していたかを雄弁に物語るものです。
そんな極端な例として、はなはだしくは自警団が警察署さえも襲って、朝
鮮人をなぶり殺しにした埼玉県の例を紹介したいと思います。
このシリーズ(7)で記したように、埼玉県では内務部長が「その筋」の
来牒にしたがい通牒を出し、各町村当局は在郷軍人や消防隊・青年団等と一致
協力して「不逞鮮人の盲動や毒手」に警戒し、一朝有事のときには速かに適当
の方策を講じるよう指導しました。
この通牒は、内容があまりにも過激であったため、本庄ではそれに危険を
感じ一度は握りつぶそうとしたくらいです。しかし「極秘急」の印があるので
逆らうこともできず、渋々ながら各区長に伝えました。
この県の通牒や県南から伝わってくる流言に惑わされ、各町村では自警団
が結成されましたが、この自警団は埼玉県でもたいへんな暴走をし、県北の熊
谷・神保原・本庄では大量虐殺事件を引き起こしました。
その事件の概要ですが、県南から保護検束され群馬県方面へ送られた朝鮮
人を血気にはやる自警団が、熊谷や神保原、はなはだしくは本庄警察署内で襲
い集団虐殺を行いました。
これらのいまわしい事件は、報道管制が解かれた直後に初めて報道されま
した。東京日々新聞(1923.10.21)はこう伝えています。
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一、埼玉県で殺害した鮮人166名
「流言に狂へる一団中山道に待ち伏せ42名を殺害す」
加害者収監114名
埼玉県熊谷地方では九月三日来、県警察部で保護してゐる鮮人団が長野県
若しくは新潟県へ送致される事となり中山道筋を漸次西下するといふ噂が誰い
ふともなくつたはり、在郷軍人団消防組織等は全力を挙げて警戒中であったが、
・・・同夜九時頃までに同町熊谷寺(ゆうこくじ)境内、本町三丁目松坂屋旅
館前、警察署前筑波町地区等数カ所で合計43人が惨殺された。
・・・
三、本庄警察署構内は
忽ち(たちまち)修羅場と化す
86名の鮮人を刺殺
四日朝に至ると、川口・蕨両町や戸田・南平・柳村方面で自警団に捕へら
れた鮮人労働者約二百名を県外安全地域に護送すべく、一旦浦和に集め、貨物
自動車四台で群馬県下へ出発させたが、その内二台が先発したころから町内自
警団の秩序は漸くみだれ、手に手に日本刀、棍棒、手槍その他の凶器をもって
殺気だち自動車を取りまき、十余名の警官や消防役員、在郷軍人会役員等が声
をからして制止につとめたが、同町宮本割烹店前にさしかかった際、遂に喊声
をあげ、さかんに瓦礫を投じ兇器をふるって肉薄して来たのでやむなく署に引
き返し、鮮人を演武場に収容しようとすると、殺到した数百名の一団は逃げま
どふ鮮人を滅茶々々に虐殺し、署構内は大修羅場と化し、ただ一人の鮮人が辛
らうじて逃走した外は86人ことごとく虐殺された。
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同新聞によると、本庄署内の朝鮮人を襲った自警団は9月4日、神保原
(じんぼはら)でも虐殺を行いました。東京日々新聞はさらに次のように伝え
ています。
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(前半省略)
本庄署では第二次護送の貨物自動車を仕立て、残る21名の鮮人(中に
は・・・東北人二名あり)を同署坂本警部補以下巡査7名同乗、賀美村河原に
到着した。
これを見た村民は憤激の極、兇器を擬し騒擾化してきたので、やむなく二
台の自動車を神保原村巡査部長派出所前まで引きかへした所へ、村磯本庄署長
は児玉・寄居・松山各署より応援巡査等と共に自動車を駆って来たり合し、藤
岡署に電話で鮮人引渡しの交渉をしたるを村民に説諭をしていた矢先、本庄署
構内で79名を血祭にあげてますます殺気走った本庄町自警団の一隊約三百名
は大喊声をあげつつ、一里余の国道を神保原めがけて襲撃したので、村民の昂
奮極度に達し、村内の警鐘を乱打して一挙に二台の自動車を包囲し、鮮人を引
摺り落し突く刺すなぐる阿鼻叫喚約三十分程の間に、僅かに一名がのがれたの
みで他の35名は殺されてしまった。
荒れくるふ自警団員はさらに「鮮人に味方する署長を殺せ」と打ちかかっ
たので、部下巡査二名と共に田圃(たんぼ)つたひに危機をのがれたが、この
際、警官二名竹槍で突かれ重軽傷をうけた。
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警察署が襲われたのは、横浜や本庄だけではありませんでした。寄居町(埼
玉県)や、遠く群馬県の藤岡警察署なども襲われました。
9月5日、藤岡署で自警団は猟銃まで持ち出し、朝鮮人14名を射殺ある
いは日本刀で斬るなど虐殺をはたらいた末「血に酔った団員等は喊声をあげて
引きあげ」ました。
この狂気に「官憲は手の下しやうもなかった」ようですが、自警団の暴走
はそれにとどまりませんでした。翌日の夜「自警団側は電燈線を切断し、警察
署を真暗にし、瓦礫を投じて署内の窓ガラスを破壊して闖入し、公文書の一部
を焼棄する等のあらゆる暴虐を逞うした」ありさまでした。
この暴虐は軍隊が出動してやっとおさまりましたが、これほどまでに自警
団を狂気に走らせた要因は何だったのでしょうか。
それを立教大学の山田氏はこう分析しています(注1)。
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関東大震災時の朝鮮人虐殺と現代
山田昭次
・・・
埼玉県の場合、朝鮮人虐殺を行ったのは、主として民衆であって、軍隊や
警察ではなかった。
9月4日の神保原の虐殺事件の場合は本庄署の村磯署長やその他の警察官
が虐殺を制止したが、群衆に石や薪(まき)を投げつけられて負傷する者もあ
り、逃亡する始末であった。
そのあとは群衆は本庄警察署を襲撃し、神保原から戻ってきた朝鮮人やこ
こに収容されていた朝鮮人を襲撃して虐殺した。
その翌日、本庄警察官・新井賢次郎に対し「不断剣をつって子供なんかば
かりおどかしやがって、このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃない
か、俺達は平素(肥)ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」
と、言った人物がいた。
そして六日には群衆が「朝鮮人をかばった村磯の首を切れ」と、再び本庄
署を襲撃し、放火しようとしたところを軍隊に制止された(注2)。
群馬県藤岡署にも9月5日、藤岡の自警団がおしかけて署内に留置中の朝
鮮人16名を惨殺し、6日には警察署と署長官舎に乱入して器物を破壊した。
断っておくが、私は荒川の四ツ木橋や小松川で習志野騎兵連隊が機関銃で
朝鮮人虐殺をしたことや、9月1日から2日頃、政府、県、郡、町村当局、警
察などが朝鮮人暴動のデマを流し、自警団結成を促したことを無視して上記の
ような民衆の行動を非難しようとしているのではない。
デマを流し自警団結成を促した治安当局も3日から「鮮人の大部分は順良
にして、何等凶行を演ずる者無之に付、濫りに之を迫害し、暴行を加ふる等無
之様、注意せられたく。又不穏の点ありと認むる場合は、速かに軍隊、警察官
に通告せられ度し」(9月3日警視庁公告)と、民衆が国家権力の統制からは
み出して「良鮮人」と「不逞鮮人」の区別なく殺害するのを抑制する処置を取
り始めていた。
国家権力にしてみれば、無差別虐殺が引き起こすであろう朝鮮民族の反撃
の増大や国際世論の非難を恐れたのであろう。
しかし、民衆はそうした思惑を働かせる地位にはなく、国家によって植え
付けられた国家理念を純粋に表現して行動する。それだから、民衆には国家権
力の思惑からくる朝鮮人対策の転換は変節に見え、彼らを怒らせた。
9月6日の本庄署襲撃事件も、この日に署長が一般大衆は朝鮮人に手を出
すな、と言ったことに原因があるらしく、群衆は「今までたのむたのむといっ
ておきながら、何事だ」と怒って襲撃に及んだという(注2)。
9月6日の第二次藤岡事件の原因も、「吾々が苦心して捜査同行し来たれ
る鮮人を漫然釈放する如き警察に鮮人を任せ置く能わず」という警察に対する
民衆の不信と怒りから起こったのである(『上毛新聞』1923.10.28)。
「暴君治下の臣民は暴君より暴である」(魯迅)。
(以下省略)
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埼玉県で警察や内務省が「不逞鮮人暴動」の流言を積極的に広め、自警団
結成をうながした結果がみずからにはね返り、警察署襲撃を招いたのは何とも
皮肉な結末です。くだんの通牒を出した内務部長も虐殺の激しさに驚き、9月
6日になると県民の自重を望むという通牒を郡長を通じて出しました。マッチ
ポンプの典型といえる結末ではないかと思います。
(注1)神奈川県関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立推進委員会
『関東大震災下の朝鮮人虐殺』
(注2)関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会
『かくされていた歴史、関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』増補保存版
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/21 -
04302/04302 PFG00017 半月城 軍施設での虐殺、関東大震災と朝鮮人(10)
( 8) 99/02/21 23:05
千葉県の習志野市は、船橋と千葉市にはさまれ目立たない所ですが、ここ
も最近はすっかり東京のベッドタウンになってしまいました。しかし、ここは
自衛隊基地がある街として、知る人ぞ知る異色の地です。
現在、ここに陸上自衛隊駐屯地や第一空挺団などがおかれていますが、こ
れらはもちろん旧陸軍を引き継いだものです。戦前、ここには俘虜収容所もお
かれ、日露戦争や第一次世界大戦当時、ロシア人やドイツ人捕虜が収容されま
した。
その収容所は関東大震災のとき、朝鮮人を「保護」する収容所として活用
されました(注1)。その一方でここは、亀戸や四ツ木橋などで朝鮮人を数百
人虐殺し、群衆から拍手喝采をあびた習志野騎兵旅団の根拠地でもありました。
そのことから容易に想像されるように、朝鮮人「保護」は騎兵隊流のやり
方でおこなわれ、ときには周辺住民を虐殺の共犯者に、いや主犯にしたてるな
ど、その行状は尋常でないものがありました。
その騎兵隊流のやり方ですが、習志野収容所で何がおこなわれていたのか、
その事実は軍事施設内のためベールにつつまれ、20年前までは専門家の間で
もあまり知られていないようでした。
たとえば、虐殺問題研究の草分けである姜徳相教授も当初は誤解していた
ようで、次のように反省しています(注2)。
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習志野収容所は、「朝鮮人暴動」が事実無根であることを確認した日本政
府が各地の朝鮮人に加えられる迫害を是正、防止して彼らを自警団の暴力から
「隔離」「保護」するための施設だったと理解されてきた。
戒厳司令部が9月6日に「善か悪か問わず、絶対に朝鮮人に害を加えては
ならない」と訓示したのは、収容所開設にともなう軌道修正だと説明されてき
た。
私も以前には、朝鮮人に生命の保障のようなものが得られたのは習志野収
容所に送られた後であると話したことがある。しかし当時でもいくつかの疑問
点がなかったわけではない。
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このように語る姜教授がもっていた疑問点は次の二点です。
1.朝鮮人を一様に収容したのではなく、要視察鮮人や要注意鮮人を選別し収
容しており、何かあったのかもしれない。
2.収容人員は9月14日に 3,200名、15日に 3,169名だったが、その後釈
放された人と残留者の合計が2,925名(または2,915名)で300人近く不明
になっている。その減少割合は1割にも達する。これは傷病による病死にし
ては多すぎる。
こうした疑問は、その後の市民団体の調査研究で次第に明らかにされまし
た。それを紹介する前に、まず軍の資料に目をとおしておきたいと思います。
旧陸軍海軍関係震災文書では、「・・・朝鮮人三千人中、約三百人の打撲
傷患者を有し、傷重く命を失ふもの少なからず」と病死を強調しています。
しかし、これはいかにも不自然です。すぐ近くに同じ陸軍の衛戌病院
(現・習志野国立病院)があり治療設備は万全なので、打撲傷がもとでこうも
多くの人が死亡するとは考えにくいところです。そもそもそのような重傷の人
は、収容所へ移送すること自体が困難と思われます。
他に軍関係資料として、大角海軍省軍務局長の「鮮人労務使役に関する
件」がありますが、これに朝鮮人の取り扱いに遺憾な点があったと明記されて
いるのが注目されます。
「目下、習志野に於て収容中の鮮人約数千名は陸軍官憲の保護を受けつつあ
るも、之が取り扱いに関し多少遺憾の点も有之(ありし)今日に及び居候処、
其の善後策として相当監視の下に労務に従事せしむるを良策と被存候・・・」
公文書、それも軍の資料に「遺憾」と記されるのはよほどのことです。こ
れはやはり何かあったとみるべきです。この何かを市民団体が調査しました。
その事情を、代表者の平形氏はつぎのように記しています(注3)。
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最近まで、この何かは、わからないままきていた。わずかに越中谷利一の
「営庭で」という証言があったにすぎない。追悼調査実行委員会を組織して調
査をすすめていくうちに、この「何か」は少しずつとけていった。筆者(平
形)は保護収容ではなく、保護収容という名の軍隊による選別と虐殺であった
にちがいない、と考えるようになった。
収容された人たちの一割におよぶ収容者減少の理由として筆者は、
1.収容所の中で、みせしめに発砲し殺した。
2.収容者の行動に目をつけて、おかしいとマークした者を営倉に入れ取り
調べをした。間諜(スパイ)を入れ「良鮮人」と「不逞鮮人」の選別をし
た。
3.選別し、「不逞鮮人」としたものを、軍隊が引っぱりだして殺害した。
4.高津廠舎の周辺の村にも配って村人に殺させた。(これは軍隊がやった
ことをカモフラージュし、追求されたときの責任を民衆、自警団に転嫁す
るためにおこなわれたのではないだろうか。)
と考えた。単なる保護収容ではなく、保護収容という名で集めて、守ってや
るふりをして、実際には、権力にとって都合の悪い、思想的に危険だと思われ
る朝鮮人や中国人の選別をおこない虐殺をする、まさに保護収容という名の虐
殺ではないだろうかと考えたのである。
あえて「保護収容という名の虐殺」と考えた根拠を、私たちが手に入れた
証言を中心につづってみたいと思う。
・・・
騎兵第14連隊に勤務していた会沢泰さんの証言によれば、14連隊で1
6人を営倉に入れ、切ってしまったのを目撃している。切った場所は、現在の
大久保の公民館裏にあった墓地だという。
そして、騎兵第14連隊だけではなく、他の連隊でもという。軍隊の内部
では公然の秘密だったのだろう。
会沢泰さんの証言
関東大震災のとき、ちょうど、私は連隊本部の書記をしていました。
・・・
(朝鮮人を)救護する目的で(習志野収容所に)つれて来たんですけれど
も、朝鮮人が暴動を起こしそうだちゅうんで、朝鮮人を引っぱり出せという
事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。
それが四個連隊あるんですから。
おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんで
す。ねえ、軍隊の中で・・・そしておかしい様なのを・・・ホラ、よくいう
でしょう。・・・切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居
たわけですよね。
切った所は、大久保の公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていって
そこで切ったんです。・・・私は切りません・・・30人ぐらいいたでしょ
うね。ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。
いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだ
か、どこに居たんだかを。
ちょうど、たまたまそのころに、小松川(江戸川区)というあそこの橋で
朝鮮人が暴動を起こしたっていう連絡があったんですねえ。それでこっちの
収容所へ入れてあるのもみんな、調査をはじめたわけです。調査をして、お
かしいのを引っぱりだした。
・・・
われわれ、軍隊におりながら、そんなのが営倉から引っぱりだされると、
切られるんだなあと、かわいそうになりましたよ。私は、二回か・・・切ら
れるところまで行ってみましたけどね。
後はもういやになったから行かなかった。一晩に三人ぐらいおこなったん
じゃないですか。
営倉の中にいる人たちは、呼ばれたきり、帰って来ない、変だなくらいに
思っていたんじゃないですか。
すでに公表されてて知られている資料だが、越中谷利一の記録は、営庭で
殺して埋めてしまったというものである。
この習志野収容所から消えていった300人という人間の数は、朝鮮人や
中国人の多くは、こうして保護収容という名であつめた軍隊の手によって殺さ
れていったのではないだろうか。
そして軍隊の中では、出動先の虐殺も、軍隊や収容所での虐殺も、権力を
かさにきてかくしとおすための工作がおこなわれた。・・・
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これらの証言以外にも、取り調べを実際に受けた申鴻湜さんの証言なども
あり、収容所での虐殺はほぼ事実のようです。申さんは取り調べのため、教導
連隊に連れ出されましたが、取り調べにあたった特務曹長とは徳島で中学の先
輩・後輩になることがわかり、そうしたよしみから運よく助かったそうでした。
しかし、面会も禁止、釈放も行われなかった時期に「親戚が迎えにきたか
ら」といって、連れ出され消えていった自治組織の仲間がいたことも証言で明
らかにされています。
一方、騎兵連隊が朝鮮人を附近の住民に払い下げ、それを自警団が虐殺し
た事実もとうてい見過ごすことができません。これについては次回記したいと
思います。
これら一連の事件は地震直後の狂乱状況で起きたのではなく、むしろ混乱
が一段落して、官民すべてが事後処理をめぐって活発に動き始めたときのでき
ごとであることは注目にあたいします。
これは関東大震災による戒厳令発布を好機ととらえ、軍にとって思想的に
好ましくない朝鮮人や中国人、社会主義者を一掃する白色テロの一環だったの
ではないかと思います。
ちなみに当時の弾圧状況を列記すると次のようになります。
5日 平沢計七、河合義虎ら8名が亀戸警察署にて殺害
6日 本沢兼次、神道久三検束
7日 浅沼稲次郎、稲村順三、平野学、北原竜雄検束
8日 麻生久夫ら一斉検束
9日 平林たい子検束
11日 南巌、伊比津栄検束
12日 王希天殺害
16日 大杉栄、伊藤野枝殺害
18日 藤沼栄四郎検束
いかに軍部・警察のテロがすさまじかったかをうかがい知ることができま
す。こうした世相を今井・斉藤氏はこう記しています(注4)。
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軍部を先頭として官憲は、関東大震災という非常事態のなかで、戒厳令下
の兵力を背景に、植民地・従属国の民衆を抑圧しようと、朝鮮人、中国人の虐
殺・迫害と自国の人民の抑圧としての亀戸事件、大杉事件などを強行した。
そして戒厳令を武器に「切り捨てご免」で法的責任を免れようとした。そ
の画策は一部ではまかりとおったが、一部では破綻した。そこには言論機関の
活動があり、民衆の抵抗があった。
上述のように大杉事件ではともかくも軍法会議が開かれたのに、亀戸事件
は事件が公表されただけで殺害が適法とされ、朝鮮人虐殺事件は形式的に自警
団員が処罰されただけで、中国人事件と王希天事件は事件そのものがまったく
闇に葬られたのである。
こうした押しつ押されつの関係のなかに、いわば弱点をつかれた大正デモ
クラシーの実態があり、それぞれの事件に対する対応の仕方のちがいに、大正
デモクラシーの構造が反映していた。
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どうやら軍部の白色テロで大正デモクラシーも終わりを告げたようでした。
(注1)習志野収容所
朝鮮人収容所が習志野に設置されたのは9月4日午前10時、第1師団司
令部が騎兵第2旅団に出した下記命令による。騎兵第2旅団は、騎兵13,1
4,15,16連隊で構成され、戒厳軍の実戦部隊として、江東地区をはじめ
として東京を制圧した旅団である。
1.東京付近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。
2.各隊はその警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営(市川市、半月
城注)に逓送す。
3.貴官は習志野衛戌地域残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を護
送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。
4.鮮人の給養主食日糧米麦二合以内、賄糧日額十五銭以内とし、軍人に準じ
て取り扱うべし。
(注2)姜徳相「1923年関東大震災大虐殺の真相」(韓国語)
『歴史批評』1998年冬号
(注3)千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編
『いわれなく殺された人びと』青木書店、1983
(注4)関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査委員会編
『歴史の真実ー関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会、1975
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/02/28 -
04347/04347 PFG00017 半月城 「鮮人」の払い下げ、関東大震災(11)
( 8) 99/02/28 22:47
昨年、来日した韓国の金大中大統領は「過去の不幸な歴史を乗り越え、未
来志向的な関係を発展させていこう」と語りましたが、この言葉は習志野収容
所周辺の関東大震災関係者にも影響を与えたようでした。
おりしも昨年は大震災75周年という節目でもあり、地区住民のあいだに、
朝鮮人虐殺問題に区切りをつけ、子や孫の代にまで問題を残したくないという
気運が高まりました。
そこで八千代市高津地区住民は全員一致で、何と数百万円の地区積立金を
使い、犠牲になった朝鮮人の遺骨を掘り起こし、手厚く供養をしました。
このように加害者側の住民が全員一致で過去の行為を清算するのは前代未
聞で、歴史上、画期的なことと思われます。
このおごそかな供養により、地区住民は今までわだかまっていた「きちん
と供養すべきだ」という胸のつかえがおりたようで、前向きに志向することが
可能になったようです。その注目すべき記事を紹介します。
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地域の過ち繰り返せぬ
関東大震災直後の朝鮮人虐殺
遺骨掘り起こし、慰霊へ
千葉・八千代市住民ら「親も加担」抵抗感を克服
(朝日新聞・千葉版、99.1.12)
関東大震災直後に朝鮮人虐殺があった千葉県八千代市高津地区の住民達が、
震災から75年を経て、犠牲となった朝鮮人の遺骨とみられる6体を掘り起こ
した。
虐殺に加わったのは地域の人々だったため、掘り起こしには抵抗があった
が、「過ちを二度と繰り返さない」という気持ちでまとまった。住民らは、慰
霊碑の建立も計画している。
遺骨は昨年9月、住宅街の一角で掘り起こされた。パワーショベルを使っ
て8時間かかった。約2m掘った土中にあった骨は、大たい骨や歯を除いて、
ほとんどの部分が粉々に砕けていた。
「八千代市の歴史」(市史編さん委員会編)や、調査を続ける市民団体など
によると、震災直後の1923年9月上旬、地域の朝鮮人らは現在の習志野市
にあった陸軍施設に収容された。その後、「取りに来い」という収容所からの
連絡で18人を引き取った。「殺せということだと思った」という住民らは、
うち6人を刀で切るなどして殺したとされる。
古老の記憶などから、殺害され、遺体が埋められた場所を特定した。人数
と調査が一致することや、警察の検視で遺骨が死後、数十年たっていたことか
ら、虐殺された朝鮮人に間違いないと判断した。
遺骨の掘り起こしは、78年の市民団体の調査がきっかけになり、持ち上
がったが、この活動に不快感を示す人が多かった。
同年から現場で慰霊祭を始めたが、住民は5人ほど参加するだけだった。
江野沢隆之市議(51)は「親が虐殺に加わった人もいる。事件を口にしづらい雰
囲気があった」という。
しかし、昨年の地区の総会では「子や孫の代までこの問題を残してはなら
ない」との考えに傾いた。数百万円の費用は、地区で積み立てているお金をあ
てることを全員一致で決めた。在日韓国・朝鮮人の団体や市民団体から強い要
請があったことに加え、「75年」という区切りの年だったことも背景にあっ
た。
「心の中では、きちんと供養すべきだ、とみんな思っていた。時代が流れ、
先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった、当時の異常さが問題だった、と
考え方が変わってきた」。虐殺当時の記憶が残る男性(82)は話した。
遺骨は10月、在日韓国・朝鮮人の団体も列席し、火葬された。遺灰は現
在、高津地区の観音寺に安置されている。
観音寺住職で、当初から「早く掘り起こそう」と訴えてきた関光禅さん
(69)は語る。「来日した韓国の金大中大統領が『過去の不幸な歴史を乗り越え、
未来志向的な関係を発展させていこう』と語った時期に、私たちも犠牲者を弔
った。過ちを二度と繰り返さないように、次の世代に語り継いでいきたい」
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未来志向という言葉は、言うはやすしですが、本当にそれを実行するとな
ると、過去の過ちも直視せざるをえず、たいへん勇気がいることです。それを
高津地区住民は身をもって示したようでした。
しかし、そうした清算が事件後75年をへてはじめて可能になったとは、
気の遠くなるような話です。同時に、過去を直視し清算することがいかに困難
なことか、改めてしらされる思いがします。
それほどまで時間がかかったのはどうしてなのか、また、その決断にいた
った関係者の胸の痛みはどうようなものであったのか、そのあたりの事情を、
新聞記事に登場した市民団体、追悼・調査実行委員会が、16年前にこう記し
ました(注1)。
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語れずにきた民衆の苦しみ
59年目の供養
「せめて石の一つも建ててやらなければ、かわいそうだ」と私たちに地域の
老人は語った。
1923年(大正12)年から、すでに60年の年月がたとうとしている
今、もう一度ふりかえってみると、当時虐殺に何らかのかかわりをもった人の
心の中には、重く当時のことが残っているようだ。
針金でしばって警察に送った人、手をくだして殺してしまった人も、そば
でみていた多くの村の人たちも、本当に一人一人が重苦しい思い出と心の痛み
を持ちつづけてきた。
今もなお、「何かに書くのか」と警戒し、「古いことだから、すっかり忘
れちゃったよ」と忘れられない苦しい表情を見せ、「他の人のほうがよく知っ
ているから」と、口をにごす人が多い。
かかわり方が深ければ深いほど語れないという面もある。単なる目撃者の
ほうが語りやすいというのが、調査をしてあらためて感じさせられたことであ
る。遠い昔になってしまっても、心のすみに残った心の痛みは消えることがな
かったのであろう。
そして、その心の痛みを、供養というかたちに表してきた人びとがいる。
高津の軍隊から(朝鮮人を)渡されて、殺してしまった現場にひそかに大
施餓鬼会(注3)の供養の塔婆をたてつづけてきた二人の人がいる。
「33年たてば、死んだ人は、神になるというので、線香の一つもたてずに
おくのはかわいそうだと思って」供養塔をたててきたのだという。その人は、
事件当時6歳の小さな目撃者であった。
「日本刀でばっさりやっちゃったらしい。観音寺に集めて、共有地でね。私
は、学校で小さかったから、手を後ろにまわしてゆわかれるところまで知って
いるけど、首を落とされるところまでは見なかった」
ナギノ原は戦後、分譲され、今では住宅地となっている。戦後の分譲のと
きに山番の墓のあるこの一角だけ残された。地域の人びとにとっては、語りつ
がれた場所だったのだろう。
高津にいくようになって、はじめは、現場は共同墓地の一本松、お地蔵様
の立っている近くだと思っていた。この地域では長いあいだこの問題について
語ることはタブーであった。あまりくわしい話をきくことはできず、現場を教
えてくれる人はいなかった。
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事件から60年たっても、多くの人は胸の痛みをそのままにしまいこんで、
あえて語ろうとはしなかったようです。ごく身近な人がかかわった事件だけに、
無理からぬ面があります。
それほど痛みをともなった事件とは、一体どのようなものであったのか、
その調査のスタートを地元の中学生が切りました。習志野四中の郷土史サーク
ルの地道な調査が注目をあび新聞報道されるや、次第に多くの証言や協力が得
られるようになりました。
その成果をもとに、冒頭の市民団体、追悼・調査実行委員会が発足し、精
力的な活動を行いました。その過程で衝撃的な記録が発掘されました。その資
料は、ある個人が震災当時書いた日記ですが、軍から朝鮮人を「貰った」事実
や、首をはねた光景を生々しく次のように書いていました(注1,2)。
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9月7日 ・・・皆労(つか)れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、
バラック(兵舎、半月城注)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有っ
たとて急に集合させ、主望者(志望者の間違い?)に受け取りに行って貰ふ事
にした。・・・
夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し、高津は新木戸と共同して三人引受、
お寺の庭に置き番をして居る。
8日 ・・・又鮮人を貰ひに行く。九時頃に至り二人貰って来る。都合五人。
ナギノ原山の墓地に穴を掘り、座せて首を切る事に決定。
最初に邦光が見事に首を切った。二番目に啓次が切ったが、今度は半分し
か切れなかった。三番目に高治。首の皮膚が少し残った。四番目に光雄は邦光
が使用した刀でスパっとはねた。五番目の吉之助は力が足りず、半分しか切れ
なかった。洋刀で切った。
穴の中に入れて埋め仕舞ふ。皆疲れたらしく皆其処此処に寝て居る。夜に
なると又各持場の警戒線に付く。
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この日記をみると、住民たちに人としての感情はみられず、まるで鶏の首
を切り落とすような感覚で、生身の人間の首をはねていたようでした。
いったん朝鮮人を敵と思いこんでしまうと、何のためらいもなく残虐な行
為を平気で行なってしまうものとみえます。オウムのマインドコントロールを
彷彿させます。
さて、この「払い下げ」事件を冷静にみるとき、いくつの疑問がわきます。
まず、軍隊が朝鮮人を「くれてやった」のはなぜなのか、疑問です。次に時期
的にみると、千葉県下の朝鮮人虐殺は四日を頂点にして、以後は下火になって
いたにもかかわらず、事件が七日、八日に起きているのはふに落ちません。
船橋では六日、関東戒厳司令官の注意「一、朝鮮人に対し、其の性質の善
悪に拘らず、無法の待遇をなすことは絶対に慎め。等しく我が同胞なることを
忘れるな。一、・・・」という内容の宣伝ビラが飛行機から広くまかれました。
これを習志野の陸軍関係機関がしらないはずはありません。それにもかか
わらず、朝鮮人を自警団に引き渡したのはなぜなのか疑問が残ります。
自警団のなかには船橋丸山の自警団のように、数人が命がけで他の自警団
(馬込沢)から朝鮮人を守りとおした例がありましたが、これはレアケースで、
当時、朝鮮人を自警団に引き渡すのは、血に餓えた狼の群に赤ずきんちゃんを
放すようなものでした。
たとえ、軍があからさまに「殺せ」と指示しなくても、魚心に水心で自警
団に朝鮮人が虐殺されることは目に見えていました。それを熟知しながら、か
つ司令官のご都合主義的な布告「我が同胞」に反し、自警団に虐殺をし向けた
のはそれなりのシナリオがあってのことと思われます。
前回書いたように、軍は9月中旬過ぎになっても、習志野収容所内で朝鮮
人を思想選別し虐殺を行っているので、その一環として「あばれて困る」朝鮮
人を選別し自警団に引き渡して、一連の選別・虐殺の共犯者を作り出したとみ
るのが妥当かもしれません。
自警団による虐殺は、収容所内の虐殺と違ってすぐ公知の事実になりやす
いので、うがった見方をすれば、軍収容所内部の虐殺をカモフラージュするの
に適しています。これが朝鮮人を「くれてやった」理由でしょうか。
この見方が正しいとすれば、住民は完全に軍のシナリオにはまり、虐殺の
主人公になってしまったといえます。民衆がこうもやすやすと軽挙妄動に走っ
た歴史的背景を追悼・調査実行委員会はこう書いています(注1)。
「明治初年以来、アジアの他民族に対する劣等視、差別意識は丹念に積み重
ねられてきた。ことに、朝鮮人、中国人に対するそれは、たびかさなる侵略戦
争の戦意の高揚と植民地政策の理念として、日本人に培われてきた。
われわれ民衆は、今もそういう政策にすっぽりはまる知的な弱さと、心情
的なもろさと、社会的遅れを持っているものである。まして大正期の農村では
ことさら根強い風潮であった」
アジアなどの他民族に対する劣等視、差別意識の解消、これこそが虐殺さ
れた朝鮮人に対する最大の供養ではないかと思います。これが改善されないう
ちは、在日外国人は地震に不安をいだきかねません。今は亡き芥川賞受賞作家
の李良枝さんはこう書いています(注4)。
「また関東大震災のような大きな地震が起こったら、朝鮮人は虐殺されるか
しら。一円五十銭、十円五十銭と言わされて竹槍で突つかれるかしら。でも今
度はそんなこと起こらないと思うの、あの頃とは世の中の事情が違っているも
の。それにほとんどが日本人と全く同じように発音できるもの」
彼女の予測どおり、95年の阪神・淡路大地震では在日外国人が竹槍でつ
つかれることはもちろんありませんでした。しかし、日本人と全く同じように
発音できない外国人に対して「イラン人強盗団」とか「中国人窃盗団」などと
悪質なデマが案の定飛びかいました。
すべての外国人が枕を高くして眠れる日、そんな日がいつかおとずれるこ
とを私は夢見ています。
(注1)千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編
『いわれなく殺された人びと』青木書店、1983
(注2))姜徳相「1923年関東大震災大虐殺の真相」(韓国語)
『歴史批評』1998年冬号
(注3)せ‐がき【施餓鬼】 (広辞苑より引用)
〔仏〕飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会。
今日では盂蘭盆会と混同。水陸会。施餓鬼会
(注4)李良枝『かずきめ』講談社、1983
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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