半月城通信
No. 56

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 韓国保護条約(12)、法学者の姿勢
  2. 韓国保護条約(13)、国際慣習法
  3. 半月城の由来
  4. 現代史資料『関東大震災と朝鮮人』
  5. 「国民」と人権
  6. 世界人権宣言と日本国憲法
  7. 外国人と地方自治選挙権


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/12/06 - 03340/03340 PFG00017 半月城 法学者の姿勢、韓国保護条約(12) ( 8) 98/12/06 22:28 03249へのコメント   かんさんは条約の批准に関して、本格的に図書館で資料をあたられたよう ですが、かんさんのコメントはどうもポイントがずれているようです。   問題の焦点は、国家の存亡にかかわる重大な条約の場合は批准が必要であ るという、当時の日本人法学者の見解が国際慣習であったかどうかです。   しかるに、かんさんは一般論や抽象論に重点をおき、問題にしている重大 な条約については、わずかにこう記すのみです。 > 重大条約云々について切り捨てるのは、前にも引用した、Michael Akehurst, A >modern Introduction to International Law, 1970、です。 > >One might have imagined that politically important treaties would >always require ratification, but even here there are exception.(pp.124)   これを引用した、かんさんの意図はこういうことでしょうか。 「重大条約には批准がともなうのが通例であるが、しかし例外もある。たった  一つでもそうした例外があれば、慣習法が成立していたとはいえない」   韓国保護条約以前における例外として、前回、私は日英同盟をあげました が、かんさん、それ以外にどんな具体例があったのでしょうか? またそれら は、慣習法を妨げるような内容だったのでしょうか?   同時にそれから帰納して、韓国保護条約は違法でないという主張にどうつ ながるのでしょうか? ここが議論の重要なポイントになるので、ぜひ国際的 な具体例を示していただきたいと思います。   こうした考察なしに韓国保護条約が形式的に違法でないと結論をだすのは、 論理の飛躍でないかと思います。   ここで話は変わりますが、かんさんの学問を、むじなさんは「学問潔癖主 義」と評したようですが、私はあるエピソードを連想しました。名前は忘れま したが、ヨーロッパのある絶対君主は理不尽な侵略戦争を始めるとき、国際法 を心配した側近にむかってこのようなことをいったそうです。  「余の行為を、国際法学者が正当化してくれるだろう」   国際法といっても、条約の有効性に関するかぎり、その実体は20世紀半 ばまで規定法はなく、単なる「国際慣習」に過ぎないわけですが、その慣習も いってみれば帝国主義国家間の暗黙の申し合わせであり、「狼たちの談合」で あったわけです(注1)。   そのような狼たちの慣習なので、たとえ「ひとかけらの正当性もない不当 な」保護条約であっても、それを正当化しようと思えば、国際法学者が専門知 識をふりかざして「違法とはいえない」と強弁するのは簡単かもしれません。 絶対君主の時代、国際法学者の役割としてそうした一面もあったことでしょう。   しかし、そのような強弁を現代の学者が行うのであれば、その人の学問の 意義は厳しく問われることでしょう。韓国の姜萬吉教授は「百年前の条約の有 効性を主張する理論をつくる学問に、いったいどのような意味があるのか。人 間はそもそも何のために学問をするのか」と根本的な疑問を提起しました(注 1)。不条理・不正義なことをただし、よりよい社会を築くことこそ学問の使 命であるという意見です。   この批判は一部の学者に向けられたものであり、世界的にみれば、国際法 学者は姜教授の期待にそうような方向で活動してきたことはいうまでもありま せん。   具体的には、帝国主義時代の不条理な条約のあり方を是正すべく、ハー バード大学によるハーバード大学草案(1935)の作成がなされ、さらに国際法委 員会による「条約法に関するウィーン条約」の制定(1969) がありました。   その制定過程のたびに韓国保護条約の不条理が問題になり、強制による条 約の例として特筆されたのは、私がこのシリーズに記したとおりです。こうし た時代の流れを日本の多くの法学者はもっと真剣に受け止めるべきではないで しょうか。 (注1)伊藤成彦「日韓基本条約を見直す好機」『論座』98年11月号   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/12/13 - 03429/03429 PFG00017 半月城 国際慣習法、韓国保護条約(13) ( 8) 98/12/13 19:48 03343へのコメント  かんさん、こんばんは。   今回は本格的に書いていただいたせいか、かんさんが考えている足場のア ウトラインがやっとつかめるようになりました。これにからんで、むじなさん の次の解説も理解に一役買っています。   RE:3367 >それから、半月城さんは多分、あんたの立場を「侵略を弁護しようとしている」 >と、誤解しているんだと思いますよ。 >でも、それはあんたの書き方が悪い。 >あんたは多分、冷静に、客観的に見ているつもりだろうけども、どうも文章自体 >の雰囲気は冷静でも客観的でもない。 >どう見ても、そのように誤解される論理展開なんです。   学者は往々にして、相手の主張にNOT とだけ言って、BUT と継がないこと が多いものです。これがしばしば誤解を招きます。   かんさんに欲をいえば、韓国保護条約は批准書がなかったからといって国 際法上違法とはいえないが、しかし、合法であるというわけでもない・・・と いうような具合に言葉を継いでほしかったところです。   そうすれば、かんさんの立つ足場の全体像がわかり、まっすぐおちついて 行けたのではないかと思います。   RE:3343,かんさん、 >当時において、慣習法が明確に存在しない以上、当該条約の合法・違法は判断でき >ません。言い換えるなら、違法であるとは確定できないでしょう   この「合法・違法は判断できません」という主張は、海野教授の「合法不 当論」とは違う第三の目新しい主張のようです。つまり、違法であるとはいえ ないという点では海野教授と同じですが、その後の結論の出し方が違います。   海野教授は「違法とはいえない」ことからすぐさま「韓国併合は形式的適 法性を有していた、つまり国際法上合法」と結論づけました。すなわち、「違 法とはいえない」イコール「合法」という考え方のようです。ここで韓国併合 が合法であれば、その前提となる保護条約ももちろん合法になることはいうま でもありません。   しかし、海野教授の結論はいかにも唐突です。それを記した著書の本論で は合法であると断定せず、「あとがき」に雑感のような形で記すという異例な スタイルをとりました(注1)。これは論証とはいいがたい性質のものです。   ここでかりに保護条約が違法でないとしても、かんさんの主張のように、 合法性は「判断できない」という選択肢もあるだけに、海野教授の主張は論理 の飛躍のようにみえます。この点、かんさんはどうお考えでしょうか?   次に国際慣習法ですが、かんさんは「慣習法が存在しない(19cに入っ て崩れた)」と書かれていますが、その立場からすると、さらにハーバード草 案の「脅迫により強制された条約は無効」という指摘も慣習法としては成立し ていなかったというお考えでしょうか?   同草案から3年後のミュンヘン協定ですが、西独とチェコとの関係正常化 条約(1973)において、同協定は武力の脅威の下で締結された条約として無効と 宣言されましたが、この背景にはそのような国際慣習法が協定当時に成立して いたと認識されていたのではないでしょうか。   これも孫引きですが、同条約は前文の第四段で「1938年9月29日の ミュンヘン協定は、国家社会主義政権により武力の脅威の下で、チェコスロバ キア共和国に課せられたものであることを承認し」ました。   その上で、その第1条で「本条約により、ドイツ連邦共和国とチェコスロ バキア社会主義共和国は、両国の相互関係に関して、1938年9月29日の ミュンヘン協定を無効とみなす」と規定しました(注2)。   歴史に「もし」は禁物ですが、「日韓基本条約」(1965)において「韓国保 護条約などの日韓間の条約は、日本帝国主義政権により武力の脅威の下で大韓 帝国に課せられたものであることを承認」という史実を前文に付け加えるべき ではなかったかと悔やまれます。   この確認作業をきちんとしていれば、日韓関係をたびたびこじらせた政治 家の妄言もなど未然に防げたであろうし、また戦後50年以上たった今年、金 大中大統領が「過去に対する明確な清算」をあらためて持ち出すこともなかっ ただろうと思います。   さらに基本条約から30年後、村山総理(当時)が併合条約について「当 時の状況についてはわが国としては深く反省すべきものがあり、条約締結にあ たって、双方の立場が平等であったとは考えていない」などと、奥歯にものが はさまったような苦しい物言いをしなくてもすんだのにと愚考します。   そんな現状を、伊藤教授は次のように分析しています(注3)。  「日本政府と日本人は今、過去の清算を怠ってきたこの道をこのまま進むの か、それとも最も近い隣人である韓国・朝鮮民族との関係から、過去の克服を 行って新しい関係を創り出すのか、という岐路に立っているのではないだろう か」   私からみれば「岐路」は今に限ったことではなく、30年前から一貫して 続いているように思えます。   次に批准書の問題ですが、署名のみで効力を発揮することを明確に示して いる重要条約の紹介ありがとうございました。   RE:3358 > 署名のみで効力を発揮することを明確に示している、'Important Political >Agreements'の例です。 >日本に関するもの > 1902 Anglo-Japanese Alliance > 1876 Japan-Korea > 1866 Japan, The United States, Great Britain, France, Holland (Traiff >Treaty) > 1911 important revision of Anglo-Japanese agreement of 1905 > 1854 Japan-US, 'Perry's Treaty' >その他 > 1895, 1904, 1911 China-Great Britain > ???? Siam-Great Britain   この中で、"1876 Japan-Korea"とあり、一見すると修好条規とまぎらわし いのですが、これは修好条規付録及び通商章程ですね。その本体である修好条 規自体は批准書を交換しています。   そのほかのリストをみても、国家の存亡に関係した重要条約はやはり日英 同盟くらいしかないようです。もっとも、重要条約と一般条約との違いは国際 法上ないというのがかんさんの意見のようですが。   問題の韓国保護条約の場合は、文末に「右證拠として下名は各本国政府よ り相当の委任を受け本協約に調印するものなり」とのみ書かれ、署名のみで効 力を発揮するとはいいがたいようです。   また「政府より相当の委任」といっても、韓国側では条約締結権を持つ皇 帝や、首相格である韓圭ソル・参政などは徹頭徹尾協約に反対しており、なか んずく韓・参政はそのため日本軍に監禁されていた可能性もあり、実状は政府 の委任とはほど遠いものです。   こうしてみると、横田喜三郎があげた批准書を必要としないと考えられる ケース、すなわち (イ)元首によって締結される条約 (ロ)急速な実施を必要とする条約 (ハ)重要でない条約 に明確に反するのは、やはり韓国保護条約のみという感をますます深くしまし た。これに関しては、慣習法が成立していなかったという、かんさんの主張は ご意見としてうけたまっておきます。 おまけへのRES   資料の引用ですが、私は学者でも研究者でもないので一次資料や原典を直 接参照するのは、本業を犠牲にしないかぎりとてもかないそうにありません。 (注1)海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995 (注2)坂元茂樹「日韓保護条約の効力」『関西大学法学論集』第44巻   4・5合併号、1995 (注3)伊藤成彦「日韓基本条約を見直す好機」『論座』98年11月号   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:半月城の由来 [zainichi:07842] Date: Mon, 7 Dec 98 20:27:37 +0900 キム・ググンさん、歴史家としてのエールをありがとうございます。 専門家として今後も助言をお願いします。 >一つ初歩的な質問ですが、半月城というニックネーム >は、開城(ケソン)近くにあった地名から由来するもの >でしょうか?(わたしの記憶違いでなければ確かケソン >近くに半月城?という地名があったと思いましたが、こ >のへん記憶が曖昧です)。   開城にも半月城があったんですね。また一つ勉強になりました。日立デジ タル平凡社の百科事典(体験版)で半月城を検索したら、建築の項目でこんな 表示がでてきました。  「開城、満月台には高麗末期の恭譲王が築造した半月城と呼ばれる内城の遺 趾が残存する」   一方、半月城でつとに有名なのは、慶州です。これもネット上で教えても らったのですが、ワールドトラベルブック「韓国の旅」にこう紹介されている そうです。  半月城(パンウオルソン) 『西暦57年より878年間、新羅歴代王が居住した王宮のあと。城門や楼閣 など色々な名称が残っているものの、王宮の規模や正確な位置などはわかって いない。正式には月城であるが、王宮を月形に取り囲んでいるその形から、半 月城あるいは神城と呼ばれている。』   ここで西暦57年とあるのは、紀元前57年の誤りです。とはいっても、 本当にそのころから歴代王が居住したかどうかははなはだ疑問です。   10年くらい前の春、私はこの広々とした原っぱを訪れ、チョゴリを着た 老婦人の一団が野遊会で民族舞踊を踊っていたのを目の当たりにしました。そ れが強く印象に残ったのと、月城が私の本貫であることから、半月城をハンド ルネームにしました。   なお野遊会については、ご承知かもしれませんが、司馬遼太郎がこう描写 していますので参考までに記します(『街道をゆく2,韓のくに紀行』歌垣の 項)。  「この慶州仏国寺の松林は、まるで虹が立ってくるくるとまわっているよう に美しい。いくつもの輪になっておどる婦人たちの袴(チマ)と上衣(チョゴ リ)の色が、水色もあればピンクもある。さらには目のさめるほどにつよい黄 があるかと思えば、濃い緑もある。それらが、松林のなかの複雑な光線--梢 でさえぎられたり、枝から木洩れたりする光--のためいっそうに美しい」   この絵のような情景は、今でも鮮烈にまぶたに焼き付いています。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/12/06 - 01599/01599 PFG00017 半月城 現代史資料『関東大震災と朝鮮人』 ( 9) 98/12/06 22:29 01591へのコメント   太陽の牙さんこと、仮面忍者とびかげさんは本当に幹部自衛官なのでしょ うか? あなたの書かれた次の文章を読んで、ふとそんな疑問がわきました。 > 他人のUPを勝手に引用した問答集をAMLに掲載して、自分が勝った >気になっているオメデタイ男版辛叔玉。AMLの読者はアホ・バカ・マヌ >ケぞろいで全体的に程度が低いから文句も来ないだろうが、あんなところ >で満足しておったら、進歩がないぞ。   私は幹部自衛官をまったく知りませんが、このような書き込みをする人が 幹部自衛官の典型なのかどうか興味のあるところです。もし自衛隊が旧日本軍 特有の「気合い」、すなわち問答無用の鉄拳教育精神を受け継いでいるのであ れば、罵倒くらい日常茶飯事なのかもしれません。   それにしても太陽の牙さんはかなり独善的な御仁のようです。よほど「姜 資料」すなわち姜・琴共著の資料集『関東大震災と朝鮮人』を敵視しているよ うで、以前「ご丁寧に、姜による、赤池の手記の改竄」とデマゴーグまがいの 発言までしました。   それを私は、太陽の牙さんの読解力不足による誤解であると#1525で 指摘しましたが、それに対する反論も反省もないようで、それどころか今度は たけだけしく「恣意的な史料操作」と決めつけているようです。   その内容をナナメ読みすると、すくなくとも「姜資料」に書かれている記 述が間違っているという指摘はないようです。資料としての信憑性をやっと認 めたのでしょうか。   その「姜資料」ですが、毎日新聞にこの現代史資料シリーズの編集者にイ ンタビューした記事があります(注1)。それによると、この「姜資料」は予 想外に好評だったようです。やはり記述が客観的なだけに資料価値は高いよう で、この道のバイブル的存在になっているようです。   今回は、この一点のみ強調したいと思います。十分な時間があれば、上記 のような太陽の牙さんであっても、これに反論を加えてもいいのですが、前回 書いたように私は「関東大震災」問題に区切りをつけ、今は「韓国保護条約」 に取り組んでいますので、そちらに重点をおきたいと思います。 (注1)[本と人]現代史資料 正・続 編者=小尾俊人さん/加藤敬事さん 96.09.02 毎日新聞、東京本紙朝刊 9頁  ◇いつも「日本がなぜ戦争へ」の疑問   (前半省略)  いまは退職して文筆活動をしている小尾さんはこう語る。「当時はマルクス主義的 な歴史観、観念論や図式主義で歴史が議論されることが多く、まず結論ありき、だっ たのです。しかし、それではいけないと思った。基礎資料をもとに実態に即した分析、 解釈をすべきなのです」。頭から離れなかったのは「日本がなぜ戦争という奈落(な らく)の底に落ちたのか」という疑問だった。  採算ラインは2000部。大部数を目指さなかったが、生資料の面白さが思いがけ ない読者も獲得した。『ゾルゲ事件』を情報収集の方法の参考に購入した経営者もい たという。『関東大震災と朝鮮人』は1万部以上売れ、シリーズ最多を記録した。松 本清張氏はじめ多くの作家が、現代史ものが安心して書けるようになったと喜んだら しい。  小尾さん=写真(左)=は22年生まれ。加藤さん=写真(右)=は40年生まれ。 編集部員はいまも膨大な資料と本棚にはさまれた机で作業している。(紀)(『現代 史資料』『続・現代史資料』はみすず書房、別巻を含む全58巻セットで61万98 54円、分売も受け付けている)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/12/02 - 03264/03264 PFG00017 半月城 「国民」と人権 ( 8) 98/12/02 23:12 03234へのコメント   むじなさん、BIG FALCONさん、こんばんは。幹部自衛官・仮面忍者とびか げさんの言動をめぐって懲戒とか、何やらおだやかでないようです。   RE:3234,BIG FALCONさん > 規律違反の該当項目は、第46条第2項の「隊員たるに相応しくない行為の >あった場合」でしょうか? > > その事実は、思想、信条の自由は憲法で保障されていますが、その表現、主 >張については、節度、限界があると思うからです。幹部自衛官としては、その >節度、限界を弁えるべきではないか?と思うのですが、如何でしょうか? >MAILのヤリトリで意見を交換する位が限度ではないか?と思うのですが、 >オープンの場で、罵倒?するって云うのは?と思うのですが、懲戒補佐官会議 >における結論と懲戒権者の判決が、どの様になるか?関心があります。   仮面忍者とびかげさんにだけいらいらしても、せんないのではないでしょ うか。たとえ仮面忍者とびかげさんが幹部自衛官にふさわしくないにしても、 彼のような人物まで懲戒していたら、汚職まみれの防衛庁にどれだけの人物が 残るでしょうか。   旧日本軍の体質を受け継いだ自衛隊にあって、一幹部自衛官の罵倒発言な ど旧日本軍のピンタなどの悪弊に比べたらものの数ではありません。ここの会 議室レベルにおける匿名の言動くらい大目に見てもいいのではないでしょうか。 むしろ仮面忍者とびかげさんのおかげで、幹部自衛官の一面が明らかになり、 私としてはおおいに参考になります。   それよりむしろ、自衛隊の旧日本軍的体質のほうが問題ではないでしょう か。「大日本帝国万歳」を公然とさけび、教育勅語を自衛官教育用に使うアナ クロニズムの持ち主が自衛隊の幹部にいるという事実からすると、中国が懸念 する「軍国主義の復活」という指摘がすこしは真実味を帯びてくるものです。 自衛隊で体質改善が必要なのはモラルだけではないようです。   さて前置きはこれくらいにして、本題に入ります。こんなことを書くと揚 げ足取りと思われかねないのですが、こんな発言がありました。   RE:3234、 >自衛隊法施行規則第68条 > 何人も、隊員に規律違反の疑があると認めるときは、その隊員の官職、氏名 >及び規律違反の事実を記載した申立書に証拠を添えて懲戒権者に申し立てをす >ることが出来る。 > > この主語の「何人も」とは、施行規則が国の法令ですから、隊員に限らず、 >一般国民、勿論、むじなさんも含まれる筈です。   RE:3155、 > 「何を言っているんだか。 >あんたら防衛庁は、国民の税金で運営されていることを忘れている」   こうした発言は「一般国民」にとっては何ら問題にならないところですが、 ひるがえって国民でない者にとっては重大な関心事になります。というのも、 法規の条文に「国民」と書かれているかどうかが、ときには死活問題になりか ねないからです。   ひところは納税者であっても、「国民」でないことを理由に国民健康保険 に入れなかったり、公営住宅に入れなかったこともありました。その理由は、 たとえば公営住宅法では「国民生活の安定と福祉の増進・・・」と、「国民」 が明記されていたためでした。   最近では日本の国際化が進んだせいか、こうしたやり方を当然と思う人が 少なくなると同時に法令もだいぶ改正されました。それでも「外国人登録証」 の常時携帯が義務づけられているなど、今でも制度上の外国人差別が国連人権 規約委員会などでやり玉にあげられています(注1)。   そうした問題点は、5年も10年も前から規約委員会から指摘されていま したが、一向に改まらないのは「国民」の意識がそれに伴わないためとされて います。どこの国でも人権問題はむずかしいようです。 (注1)国連規約人権委員会が日本政府に勧告◇ 朝日新聞ニュース速報(98.11.6)  日本で人権が尊重されているかどうかを審査していた国連規約人 権委員会は五日、「公共の福祉というあいまいな概念に基づく人権 規制に懸念を表明する。国内法(憲法一二、一三条を指す)を国際 人権規約に整合させるよう(日本政府に)勧告する」などとする最 終見解を採択した。  勧告されたのは、裁判官の人権研修▽警官や入管職員の暴力や公 権力による人権侵害の訴えを扱う政府から独立した人権救済機関の 設立▽被差別部落住民への差別の解消▽永住外国人の滞在許可証携 帯義務の廃止▽入管収容施設諸規則の再検討▽死刑廃止と暫定措置 としての死刑対象の罪の減少▽裁判前の拘置システムの改善▽自白 強要を避けるため警察などでの取り調べの録音など。  また、在日韓国・朝鮮人差別、結婚年齢や離婚後再婚できるまで の期間の男女差別、刑務所内の厳しすぎる規則、子どもの売春、家 庭内での女性への暴力なども人権侵害として取り上げられた。  最終見解で示された懸念や勧告は、日本の非政府組織(NGO) が出した問題点をほとんど網羅した内容となっている。一方、改善 があったと評価されたのは、雇用における男女平等の推進などわず かにとどまり、最終見解は「前回の勧告がほとんど実行されていな いのを遺憾に思う」と日本政府を非難している。  規約人権委員会は、国際人権B規約(市民的及び政治的権利に関 する国際規約)の締約国を五年に一度審査する。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/12/12 - 03417/03417 PFG00017 半月城 世界人権宣言と日本国憲法 ( 8) 98/12/12 20:08 03272へのコメント   BIG FALCONさん、こんばんは。RE:3272、 >>  どこの国でも人権問題はむずかしいようです。 > 国連が世界政府になれば変わるでしょうね。 >国連と各国の関係は、国と地方自治体の関係とは違いますね。国があって(出 >来て)それが国連に加盟するのであって、まず国ありきです。 > 国連が世界政府になり、国が地方自治体の様になれば、変わるでしょう。 >しかし、人権問題は一番難しいでしょう。地域や民族がそれぞれの習俗を持っ >ているからです。   国連は、総会や安保理などではまず国があって、その加盟国が国連を動か す傾向が強いのですが、人権に関するかぎり国連が加盟国を動かしてきたとい えるのではないでしょうか。元来、人権は国家などにとらわれない普遍的なも のであるべきなので、当然の成り行きではないかと思います。   その典型的な例をドイツの憲法に見ることができるのではないかと思います。 世界人権宣言が採択されて今月でちょうど50年になりますが、その宣言の思想 は翌年のドイツ憲法に明確に受け継がれました。  「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利に ついて平等である・・・」(第1条)に始まる世界人権宣言の精神はドイツ憲 法にみごとに反映されました。   こう書くと、日本の憲法にも似たような条文があるではないかと思われる かもしれません。ところが日本の場合は「すべて国民は、法の下に平等であっ て、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会 的関係において、差別されない」(第14条)となっており、国民のみ平等と されています。   この違いは、日本の憲法が世界人権宣言の前年に作られたこともあって普 遍的な人権を意識せず、一国人権主義を貫いたためではないかと思います。   日本憲法をくわしく見てみると、その第1章が「天皇は」に始まり論外で すが、第2章は「日本国民は」に始まります。第3章も「日本国民たる要件 は」などとやたら「国民」のみが強調され、「すべての者」や「何人」などが 軽視された表現になっています。ここがドイツ憲法との大きな違いです。   それでも中には「何人も」で始まる条文ももちろんあります。具体的にい うと、思想及び良心の自由とか、居住・移転・職業選択の自由とか裁判を受け る権利などです。   その一方で、基本的人権(第11条)すら、その対象は国民に限定されて います。こう書くと「国民」あるいは「何人」という単語は、単なる表現の違 いではないのかと思われるむきがあるかもしれません。   つまり、国民といっても国民でない者も含むのではないかと思われるかも しれません。それを裏付けるかのように憲法の英訳は、第10条を除き「国 民」の訳語を"Japanese Nationals"でなく、すべて"people"としているので、 英語を読む人はそのように解釈しても不思議はありません。   実際にそうした一面もあります。たとえば第30条の「国民は法律の定め るところにより、納税の義務を負ふ」という規定などは決して外国人を除外し るわけではありません。   このような義務に関するかぎり、憲法の「国民」は外国人を含みますが、 どっこい権利に関しては、国民とそうでない者とは厳格に峻別されます。   そのいい例が国民の生存権で、第25条「すべて国民は、健康で文化的な 最低限度の生活を営む権利を有する」との理念のもとに、国民健康保険法や公 営住宅法、国民年金法など、生活に密着した法律が作られましたが、これらは 一部の例外を除き、数十年間にわたり外国人をことごとく排除してきました。   こうした憲法の理念が、日本で潜在的な人種差別主義を生んできたといえ ます。日本人の人権意識をイギリスの代表的新聞「ガーディアン」が次のよう に批判しました。  「日本人は『純粋な』もしくは無意識の人種差別主義者であり、彼らがこの 国にも人種問題が存在すること、ないしは他民族に対する彼らの態度に何かが 欠けていることを認めない限り事態の改善は望めない」(1979.8.13 読売)   この批判もむべなるかなです。このことは、そもそも人権を擁護し人権意 識を高める立場にある法務省の態度をみれば一目瞭然です。ある法務官僚は、 外国人の処遇は日本政府の自由裁量に属し「煮て食おうが焼いて食おうが自 由」と言い放ちました(注1)。   かっての法務省には「外国人の人権」という感覚はまったく存在しなかっ たようです。かって入国管理事務所における外国人への暴行がそれを雄弁に物 語っています。   RE:3272 >それぞれの習俗や考え方をそれなりに認め合い勉強して、お互いに「受け手 >イニシアティブで」取り入れ合っていくうちに、習俗や考え方の開きが狭まる >事を期待したいと思っています。その様な事を通じて「人権」に対する考え方 >も収斂して来るのではないでしょうか?   受け手イニシアティブでは、百年河清を待つようなもので、なかなか改ま らないのではないでしょうか。日本で外国人の人権が少しは認められるように なったのは、「インドシナ難民受け入れ」という外圧のおかげでした。   日本は1982年、国際化の波に押され「難民条約」に加入し、このとき 出入国管理法を中心に関係法規の改正がやっと行われました。この難民条約は、 外国人の社会保障を内国民待遇とするよう求めていたので、それに反する法律 の改正が必要だったのです。   このころを境に、極端な外国人の人権侵害は和らぎました。たとえば日本 滞在中に大病にかかり医療保護を受けた留学生が強制送還されるような事態は なくなりました。   このように書いてくると、この会議室ではかならずといっていいくらい 「日本人と同じような社会保障上の権利や生存権を望むなら、日本人に帰化す ればいいのではないか」という意見が現れるのではないかと思います。   この考え方こそ、私にいわせれば人種差別主義の見本ではないかと思いま す。世界人権宣言を引くまでもなく、人は生まれながらにして法の前に平等で、 親の出身や門地、国籍などで差別されるべきではないと思います。   この考え方からすると、日本や韓国、ドイツのように血統主義をとり、諸 権利で内外人差別をしている国々は世界人権宣言の精神に明らかに反すると思 います。血統主義は一刻も早く出生地主義に改められるべきです。   人種や民族差別の度合いは、そのままその国の開放度のバロメーターにな っているのではないかと思います。また同時に、解放度のバロメータにもなっ ているのではないかと思います。開放された社会は、差別する側の人たちにと っても住みやすい社会になるものです。   そのいい例がアメリカで、黒人を差別していた社会は決して白人にとって も住みやすかったわけではなく、公民権運動で黒人差別が薄らぎ、わだかまり のより少ない社会になり、その結果、白人にとっても住みやすい社会になった のではないかと思います。   民族や人種などのモザイク模様を認めあう社会こそ、民族紛争を解決する 抜本策になるのですが、世界的にその逆の方向に進むケースが多いのは残念な ことです。 (注1)池上努『法的地位200の質問』京文社、1965   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/12/20 - 03509/03509 PFG00017 半月城 外国人と地方自治選挙権 ( 8) 98/12/20 19:55 03434へのコメント   BIG FALCONさん、こんばんは。 まず最初に、人権の普遍性についてコメントしたいと思います。   RE:3434 > 何をもって普遍的とするか? >具体的に云って、米国に於ける人権、と中国に於ける人権の考え方の間には、 >かなり、大きな開きがある様に思えます。また、同じ国でも時代による違い >があるのではないでしょうか?   おっしゃるとおり、人権は同じ国であっても時代によって考え方に大きな 開きがあります。よく知られたフランス革命をとりあげれば、合い言葉の「自 由・平等・博愛」にいう平等とは、特権階級に対して一定の財産をもった白人 男性、すなわちブルジョワジーの平等を意味したものでした。   またアメリカの独立宣言における平等なども似たようなもので、けっして 文字どおりにすべての人の平等を意味しませんでした。   しかし、その後200年の間に多くの人の努力により、すこしずつ人種や 性別、社会的出身、財産の有無などによる差別を乗り越え、すべて人は平等で あるという考えに近づき現在に至りました。   このように人権とは確定した絶対的なものではなく、普遍的なものを追求 して時代とともに進歩してきました。もちろんその進歩の度合いは各国で一様 でなく、現在でも国により大きな違いがあるのは事実です。   そうした違いの中で、最大公約数的に各国が受け入れやすい内容を盛り込 んで宣言したのが「世界人権宣言」であるといえます。これはちょうど50年 前に国連総会で採択されました。人権の理念はほぼこれに集約されるのではな いかと思います。   ただ世界人権宣言は、その名の示すとおり原則を宣言したものでした。こ の宣言を具体的に各国が実行するときの形式として条約が用意されましたが、 それを作成する過程では国による違いを調整する努力が必要でした。   この作業はたいへんだったようで、宣言が出されて16年後にやっと条約 文が完成しました。それが国際人権規約で、1966年に国連で採択されまし た。さらにこれが発効するためには一定数以上の国の批准が必要で、それには さらに10年の歳月が必要でした。   このように国際人権規約は、各国の習俗や宗教に基づく人権思想の違いの 中からいかに普遍的なものを見いだすかという努力のたまものであったわけで す。逆にいうと、国による考え方の違いを乗り越えたものとして人権規約があ ります。   こうした努力は今日も継続して行われ、普遍的なものを求めて次々と新し い人権条約が作られています。つまり人権思想は日々に進化しているといえま す。   このように人権は進化の途中なので、BIG FALCONさんの「何をもって普遍 的とするか?」という問いには、「国際人権規約などをもって、現時点での基 準とする」と答えたいと思います。   つぎに、国民の人権に関するコンセンサスについてコメントします。   RE:3434, >       全体主義国家の場合には、政府指導者の決定によって、「普 >遍的」とするものを定め、一気にそこへ持っていく事も考えられますが、民主 >主義国家では、国民のコンセンサスを得るにも、かなりの期間を必要とするで >しょう。単一民族、単一宗教の国では、コンセンサスを得る事は比較的容易か >と思いますが、複数の人種、複数の宗教の国では、そう簡単ではないでしょう。   全体主義国家はいざしらず、人権に関する限り、コンセンサスは複数の人 種をかかえる国ほどかえって早く得られた事例が多いのではないかと思います。   具体的にいうと、民族が多様なヨーロッパでは人種が早くから意識され、 ユダヤ人ホロコーストなどの悲劇を経て人権が切実な問題として提起されまし た。その真剣な取り組みの中から世界人権宣言が生まれたといえます。   それにひきかえ、中曽根元首相も「単一民族」と誤信した日本は、そうし た取り組みが遅れ、国際化の波という外圧を受けてもなかなか人権規約締結の コンセンサスが得られなかった経緯があります。   実際に日本が人権規約に加入したのは、79年で世界で60番目くらいと かなり遅いほうでした(注1)。それ以後も、人権規約委員会から人権に関す る勧告が出されても、5年、10年たつにもかかわらず改善できずにいるのは 前に記したとおりです。   また、差別撤廃条約にいたっては、国連で採択後30年以上もたって、世 界で150番目くらいに条件付きでやっと加入しました。これからすると「単 一民族」であるからといって、コンセンサスが得やすいものでもないと思いま す。それどころか、逆に「単一民族」信仰が差別問題の解決を遅らせているの ではないかと思います。   RE:3434、 > 人種差別はあってはならないと思いますが、国籍差別が気に食わないなら、 >帰化するか?それがイヤなら母国に帰るしかないと思っています。   BIG FALCONさんの意見は、国際的に人権のスタンダードになっている現行 の人権規約などを認めたくないというお考えでしょうか? ちなみに現在では 110カ国以上も加入している社会権規約にはこう書かれています。 社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約) 第2条2項  「この規約の締約国は、この規約に規定する権利が人種、皮膚の色、性、言 語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的(民族的)若しくは社会的出身、 財産、出生又は他の地位によるいかなる差別もなしに行使されることを保障す ることを約束する」   たぶん外国人の人権を否定的にとらえる人のなかには、上の条文は国籍に よる差別の禁止をうたっていないと思いたがるかもしれません。しかし、そう でないことは、その直後の例外規定をみるとはっきりします。 第2条3項  「開発途上国にある国は、人権及び自国の経済の双方に十分な考慮を払い、 この規約において認められる経済的権利をどの程度まで外国人に保障するかを 決定することができる」   日本を開発途上国と考えるのなら話は別ですが、社会権などで外国人差別 をするのは明らかに人権規約に反し、人種差別にあたるのではないでしょうか。 イギリスのガーディアン紙が指摘した「日本人は『純粋な』もしくは無意識の 人種差別主義者」とはこのようなことを指すのではないでしょうか。   RE:3443、シェヴァイクさん > 大体、20世紀後半に於いて、他人を「人種主義」者呼ばわりするというの >は、最大限の罵倒ですよ。あんたこそ、他人の名誉その他「人権」にまるで無 >頓着なんじゃないの?   ここの会議室#3463で、粕谷 真人さんが「在日には、同化か追放を 選択してもらおう!」と、あたかも3,40年前の日本政府の主張とそっくり なことを書いていますが、現時点でこのような人たちを「レイシスト」呼ばわ りしたとしても、名誉毀損や人権侵害にはあたらならないのではないでしょう か?   このような方には、世界人権宣言の精神や世界人権規約などはまったく通 用しないのではないかと危惧します。   RE:3443、シェバイクさん >    法的な外国人に、その国の国民と同じ参政権を認めるというのは、国 >民が国のあり方を決めるという「主権」に関わるもので、決して生存権や自由 >権と同列に論じられるものではないと思いますよ。   RE:3435,SKさん >ある国が自国民に対して与えている権利と全く同じ権利を与えている国家は存 >在するのでしょうか。   SKさんへの回答は(注2)にゆずることにし、ここでは参政権に関し、 誤解のないよう私の考えを明らかにしておきたいと思います。   私も現時点では「主権にかかわる」参政権について、シェヴァイクさんと 同じように外国人には認める必要がないと考えています。   基本的に私は、人権を国際人権規約などを基軸に考えていますので、参政 権については自由権規約の解釈にしたがいたいと思います。その規約にはこう 書かれています。 自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約) 第25条(政治に参与する権利)   すべての市民は、第2条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な 制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する。 (a)直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与すること。 (b)普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ、選挙人の意思の自  由な表明を保障する真正な定期的選挙において、投票し及び選挙されること。   この条文における市民は外国人を除外するとされているようです。私はこ の観点から、外国人は国家主権にかかわる参政権を主張すべきではないと考え ています。かわりに国政参政権は自国の政治に求めるべきであると考えます。   その一方、地方参政権は定住外国人の場合、原理的に自国に求められない ので、これは居住国に求めるのが妥当ではないかと思います。   ただ日本の場合、地方政治は存在しないも同然なので、地方参政権とよぶ のはかならずしも妥当ではなく、「地方自治選挙権」とよぶのがふさわしいの ではないかと思います。   これがアメリカのように、各州が独自の法律を制定できるような国では地 方政治は名実共に機能するので、地方参政権という語はふさわしいと思います。   これと対照的に、日本に存在するのは「地方自治」のみで、しかもそれは 「3割自治」と称されるような、およそ国家の主権とはかけ離れたものではな いかと思います。   もちろん3割自治といえども国政とはまったく無関係ではありません。地 方自治活動にしろ経済活動にしろ、それらは国の政治とすこしは関連しており、 たとえ希薄であっても、時には国家主権と何らかのつながりがありうることは 否定できません。   しかし、そうしたかすかな関連にこだわるよりは、大局的な観点から外国 人の人権や役割をもっと重視すべきではないかと思います。   かって外国人は、納税義務を課せられても国民健康保険や国民年金など生 活に密着した社会権はおおむね否定されてきましたが、これは地方自治が許す 範囲でいくらでも矯正が可能でした。現にそうした地方自治体も存在しました。   もし過去に外国人がそうした身近な問題で地方自治に関与していたら、そ のような外国人にたいする内外人差別は当然防げたであろうし、日本人の人権 意識も「無意識の人種差別主義者」と酷評されるようなことはなかっただろう と思います。   一方、外国人が地方自治に参加することは、外国人には日本人には見えな いものが見えるだけに、地域社会のみならず国際化社会にも貢献することにな るのではないかと思います。   逆にマイノリティーを排除したままでは差別問題の根が深く潜在し、かえ って大きな摩擦を引き起こす可能性があります。   #3461,****さん >   摩擦を減らす最も確実な方法は、物理的に引き離して接触する機会を減 >らすことです。この方法の勝れた点は、実現性が頼りない「人々の心がけ」に >依存しないで済むことです。現実にアメリカでも、居住地の住み分けは、公民 >権法の成立以後にも進んで居ます。その目で見ればワシントンDCは黒人地区 で、黒人市長が居るのは当然の帰結です。   ****さんは、アパルヘイトのような人種隔離政策が「摩擦」を減らす のに有効であると本当に信じているのでしょうか? 公民権運動以前のアメリ カではバスなどの乗り物も人種隔離の方針にそって、黒人席と白人席を分けま したが、****さんはそのようなバスに乗りたいのでしょうか?   そうしたやり方は何ら問題の解決に役立たないどころか、火に油を注ぐよ うなものであると思います。そんなやり方ではなく、マイノリティーと共生す る道を真剣に模索すべきではないでしょうか。   おわりに、外国人の地方自治体選挙権に関する最近の動向を簡単に紹介し ます。最高裁は95年に「地方自治体の選挙に関して、外国人のうち永住者な どに選挙権を与えることは現行憲法のもとでも禁じられていない」と明確な憲 法判断を示しました(注2)。   つまり外国人の地方自治選挙権問題は、もっぱら立法上の問題であるとの 見解を示しました。この判決を機に、最大の在日外国人団体である在日本大韓 民国民団は、積極的に「地方参政権」獲得運動を進めているのは、みなさんも よくご存じのことと思います。 (注1)友永健三『人権とは?』解放出版社、1989 (注2)読売新聞解説、95.3.1 「国民」と「住民」明確に区別   今回の最高裁判決は「外国人の選挙権」という、新たな立法課題を示すと ともに、「国民」と「住民」を明確にした。   国政は、たとえば他国と対立するような場面では、国家としての意思決定 が求められる。そうした国の政治的な意思決定の主体は、「国民主権」のもと では、「国民」であり、そこに外国人は含まれない、というのが憲法学者の通 説だ。   これに対し、地方政治は地域住民の福祉を図ることが直接の目的であり、 自治体を支える「住民」の意思は、国家レベルの意思とは性質が異なる。   こうしたことから、他国でも国政に関する選挙権を外国人に認めたケース はほとんどないが、地方レベルの選挙については、スウェーデンやノルウェー などで一定期間以上滞在した外国人に選挙権を与えている。日本でも近年、住 民生活に密着した地方選挙に限っては、一定の外国人に選挙権を認めてもいい とする学説が徐々に増えつつある。   今後の対応を国会にゆだねた形の最高裁判決は、日本に定住する外国人の 権利について真剣に考える契機を与えたといえるだろう。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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