半月城通信
No. 55

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 関東大震災と朝鮮人(5)、軍の虐殺
  2. 韓国保護条約、かんさんへ
  3. 韓国保護条約(8)、形式的合法性
  4. 韓国保護条約(9)、日韓歴史認識の溝
  5. 韓国保護条約(10)、印鑑・署名の偽造
  6. 韓国保護条約(11)、法学者の見解


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/11/01 - 01567/01567 PFG00017 半月城 軍の虐殺、関東大震災と朝鮮人(5) ( 9) 98/11/01 21:05 01563へのコメント   南十字星さん、こんばんは。   南十字星さんは、若い人たちは「歴史の能力が甚だしく劣ります」とのご 高見をお持ちのようですが、そうおっしゃるあなた自身の「歴史の能力」はい かなるものでしょうか?   南十字星さんの歴史認識について、私は#1433で次のような質問をし ましたが、いまだにご回答がないようですね。 > 南十字星さんは、太陽の牙氏を否定、すなわち軍・警察による虐殺はなかっ >たという「虐殺マボロシ説」なのでしょうか? それとも同氏のように、軍や >警察による虐殺は全虐殺のうちのたかだか1割程度にすぎないので「大規模に >虐殺」したうちに入らないという「虐殺少数説」なのでしょうか?   これまでの書き込みから想像すると、南十字星さんはあなたの身近な人が 虐殺を見聞していないことのみから推して、四つ木橋の虐殺はおろか、軍の虐 殺はすべて「マボロシ」であると結論されているようにみえます。   また資料でも、ご自身が「左翼文献」と思いこんだ文献はおよそ信じない 主義のように見受けられます。そんなスタイルの御仁には資料や証言にもとづ く論証をいくら展開しても、しょせん無意味なのかもしれません。   今回、南十字星さんの書き込みをきっかけに、私自身、旧四つ木橋の虐殺 について興味をそそられましたので、それを中心に書きたいと思います。   旧四つ木橋での虐殺について、私は#1555で、大川さん(仮名)の証 言をこう紹介しました。  「22,3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四つ木橋の下流の土手下だ。 西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろ から撃った。一梃か二梃の機関銃であっというまに殺した。それからひどくな った。四つ木橋で殺されたのはみんな見ていた」   軍隊が機関銃で虐殺したとあれば、これはおおごとです。大川さんの証言 は資料で裏付けられるのかどうか調べてみたら、やはり当時の証言にもありま した。   その資料は、亀戸警察署内で軍・警察に虐殺された帝国輪業従業員・吉村 光治の実兄の手記で、こう記録されています(注1、P199)。            -----------------------------------               骨                  (吉村光治君の実兄と古森亀戸所長)   9月15日頃光治が殺されたらしい風説を聞いた。10月10日いよいよ それが事実となって新聞に発表されたので私は亀戸警察にでかけて署長にその 実否をたづねた。  『事実です。遺族の方がわからないので今まで通知しなかったのです。』   そんな馬鹿なことはない、と私は言った。巡査が光治の家や私の家を知っ ている筈だ。それに拘引された後も若い者だと物騒だと言ふので父が三度まで 来てゐる。そして一度目と三度目には(帰した。途中でうろうろしているだら う)鼻先であしらわれ、二度目の時は怒鳴りつけられて帰って来てゐる。-- 私はこのことを話して処置の不当を署長に向かってなじった。  『殺したのは私の責任です。巡査にそふ言はせたのも私の命令です。』署長 は泣かんばかりに詫びた。  『骨を何ふ(どう)してくれる。』と私は言った。  『骨は荒川放水路の四つ木橋の少し下流で焼いたから自由にひろって下さ い。』  『あそこには機関銃が据え付けてあって朝鮮人が数百人殺されたことは周知 のことだから誰の骨かわかるものですか。』  明日(11日)午前9時まで署に来てくれ、その場所へ案内するからと言ふ ので、その日は別れた。                   (種蒔き社編「種蒔き雑記」1924)            ----------------------------------   この資料からすると、軍が旧四つ木橋に機関銃を据え付け、朝鮮人を虐殺 した事実は当時からひろく知られていたようでした。その記憶は半世紀以上も しっかりと残されてきました。そのとき殺された朝鮮人遺骨の発掘が1982 年に試みられ、追悼式が行われましたが、その際に多くの人が証言しました。 先に紹介した大川さん以外に、数名が下記のように証言しました(注2)。            ----------------------------------   やはり、軍の虐殺を見ていた田中さん(仮名)の証言がある。田中さんは 21歳で青年団の役員をしていたので、朝鮮人の遺体を焼くとき、憲兵といっ しょに立ち会ったという。  「一個小隊くらい、つまり2,30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵 が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。そ の虐殺は2,3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知し ていない。   朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち会いのもとに石 油と薪で焼いてしまったんだよ。それは何回にもおよんでやった。だから四つ 木橋のところを掘っても骨はでないですよ。自分は防護隊に所属していたため、 憲兵隊といっしょに何回も立ち会っているから知っている。  ・・・」   旧四つ木橋周辺の河原は、朝鮮人の遺体の集積所にもなったようだ。殺さ れた朝鮮人をトラックで運んできたと証言してくれたのは、前出の浅岡重蔵さ んである。  「四つ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばっ て並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッ コの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして、橋の下手のところ に3カ所くらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。   2,3年たったころ、そこはくぼみができていた。草が生えていたけどへ っこんでいた。きっとくさったためだろう。ひどいことをしたもんです。いま でも骨が出るんじゃないかな。   兵隊がトラックに積んで、たくさんの朝鮮人を殺したのを持ってきました。 そう、河原で殺したのもいます。ふつうのなんでもない朝鮮人です。手をしば って殺したのも日本人じゃなく朝鮮人だと思ったね。むこうを向かせておいて 背中から撃ったね。軍隊が機関銃で撃ち殺し、まだ死なない人は、あとでピス トルで撃っていました。   水道鉄管橋の北側で昔の四つ木橋寄りに大きな穴を掘って埋めましたね。 死体は何百だったでしょう。9月はじめだから、町中にたおれている死体もく さって、においはひどかった。本当にひどいことをしたもんです」   この機関銃の音は旧四つ木橋周辺にひびいた。そして死体を焼くにおいも あたりをただよった。旧四つ木橋の少し下流にすんでいた大滝トラさんは、当 時23歳、追悼式にも何回か足を運んでくれた人である。当時は家から土手が 見えたという。  「9月2,3日ころだったと思いますが、荒川の土手の方からポンポンとい う音が聞こえました。そして土手の方から、火葬場で死人を焼くのと同じにお いがただよってきたのです。  『死んだ人を若い者が見るものじゃない』と言われたので、見に行ったわけ じゃないけれど、旧四つ木橋の水道鉄管のあたりだったと思う。人の話では線 路のレールを渡して、その上に人を置き、燃えやすくして焼いたといいます」   軍は虐殺した死体を焼いて、河川敷に穴を掘って埋めた。この穴を掘らさ れたのが、前出の温泉地での虐殺を証言してくれた井伊さんである。試掘のと きは、この証言をもとに掘る場所を決定した。   井伊さん(仮名)の家は農家で、軍の駐屯所になった。上官は農家に泊ま り、一般兵士は荒川駅(現在の京成八広駅、半月城注)の南の原っぱにテント を張って野営したという。  「荒川駅の南の土手に、連れてきた朝鮮人を川のほうに向かせて並べ、兵隊 が機関銃で撃ちました。撃たれると土手を外野(そとや、川側)のほうへ転が り落ちるんですね。でも転がり落ちない人もいました。何人殺したでしょう。 ずいぶん殺したですよ」            --------------------------------   このほかに、篠塚行吉さんも軍の機関銃による虐殺を目撃したことを証言 していますが、ここでは省きます。これらの証言は細部では不明な点もありま すが、軍の銃撃による虐殺という点で証言はことごとく一致しており、動かし がたい事実ではないかと思いいます。   当時、四つ木橋あたりは南葛飾郡とよばれていましたが、ここから現在の 江東区にかけて震災の被害が特に甚大で、死者が多く出ました。それと同時に、 軍の虐殺もまた苛烈をきわめたようです。そうした虐殺の際、軍には何ら殺人 の意識がなく、むしろ朝鮮人虐殺を手柄話のように語り継いだようでした。   もちろん軍の指揮官の中には、異常事態に冷静に対処した軍人もいました。 市川・国府台(こうのだい)の野重砲第一連隊の遠藤・第三中隊長はそんな一 人でした。遠藤さんの証言によると、当時の軍はいかに狂気状態であったかが くっきりと浮き彫りにされます。遠藤さんはそのようすをこう証言しました (注2)。           -------------------------------------   三日の朝、連隊に行ったら大騒ぎ。みな(デマを)本当だと思っている。 私が(中隊に)帰る前に、私の中隊の岩波少尉がね、部下20数名をつれて連 隊から派遣されているんです。ところが私が留守だから、中隊長の許可も受け ずにだいぶ殺しているんです。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、 支那人を殺せば手柄になると思って。200名殺したか、何名か知りませんが ね。  ・・・   だいたい連隊は大騒ぎ、『朝鮮人が暴動やっているから征伐せにゃなら ん』って、連隊長が血眼になって出動させようとしている。私の部下は武装さ せませんでした。   そうしたら連隊長にえらい叱られてね。『そんな状態じゃない。みんな武 装して出ていっている。朝鮮人をやっつけなきゃならん』。金子旅団長もみん な、キチガイになっているんだな。恐ろしいもんだな。   俺が指揮刀をさげたら連隊長が、『戦にいくのに指揮刀で行く奴があるか、 軍刀で行け』って言う。連隊長もおったけど、わざわざ兵隊の前で『この軍刀 は朝鮮人や支那人を殺すんじゃない、俺の命令を聞かずに悪いことをする部下 を切ってやるんだ』って言ってね。  (私の部下も)刀で切ってみたいんでね、そんなに血を見たいんなら野犬狩 りをせいって、野犬退治させましたよ。だけど犬はずいぶん速いな、人間を切 るのはわけないけど。野犬狩りやらしたところが、奴ら一生懸命。命令を聞か なければ俺の刀で殺すっていったもんだから、あんまり(朝鮮人、中国人を) 殺さずにすんだもんだけど。           -------------------------------------   この証言に登場する岩波少尉の「武勇」ですが、これは遠藤中隊長の証言 にあるように、「手柄話」として吹聴されたものらしいのですが、内容があま りにも目にあまるようで、その「非常識」は一兵士の手記にも登場したくらい でした。野重砲第一連隊の一等卒・久保野茂次さんは、その悪評を日記にこう 綴りました(注3)。           ------------------------------------- 9月29日 晴   午后常用倉庫の使役にゆく。望月上等兵と岩波少尉は震災地に警備の任を もってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指 揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引っ張りまたを引き裂き、あるいは針金を首に 縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りの虐殺したことについて、あまり 非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い。 {欄外に、「九月二日、岩波少尉兵ヲ指揮シ鮮人二百名殺ス(特進少尉)と記 入} --------------------------------------   軍がいくらキチガイ状態といっても、将校ともあろう者が婦人のまたを引 き裂くなど、こうも残虐なことを平気でできるものでしょうか? この少尉は よほど異常性格の持ち主か、さもなければ朝鮮人や中国人を虫けら同然に考え ていたレイシストに違いありません。   将校をここまで駆り立てた軍自体は、朝鮮人・社会主義者のほう起の可能 性に疑心暗鬼になり、彼らを敵とみなし、亀戸警察署など各所で虐殺をおこな ったのは前回記したとおりです。その補足として、軍によるキャンペーンの一 端を新聞記事にみることにします(注3)。           ---------------------------------------                   第14師団参謀長 井染大佐 談   今度の不逞鮮人の不逞行為については、当初から背後に何等かの勢力があ って、これが糸を繰って居るのだろうと考察して居たが、果たして日を逐うに 従って、若干の事実が発見されてきた。   すなわち今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には、社会主義者やロシアの過激 派が大なる関係を有するようである。社会主義者の計画は、支那人並びに鮮人 を扇動して、不逞の挙動並びに不徳なる行為をなさしめ、治安をみだし、官憲 が大災厄に遭遇して、奔命しているを幸いとして、官憲の無力を宣伝し、盛に 不穏当なる流言蜚語を放ち、各種の奇怪極まる浮説を宣伝せしめ、官憲の不信 を流説し、官憲と人民との間に対抗的勢力をつくらんことを策する一方、鮮人 を扇動して、不逞行為をなさしめ、内乱暴動を全国に波及せしめ、もって一挙 に彼らの希望する極端なる民主政治を実現せんとたくらんだのである。   而して右の計画については、ある時期においてこれを実行するの考えがあ ったのであるが、それが今度の大災厄を幸として、急速にされた模様である。   又鮮人の計画は秩序あり、統一あり、組織的なもので、その準備もやや完 全に近きものがあったようである。これについては、これを証明すべき幾多の 事実がすでに発見され、某重要方面において、確信を得たものである。彼等の 財源はいうまでもなく、上海にその根源を有する。  ・・・   東京付近では、一般民衆の社会主義者に対する激昂の情が高まり、同時に 主義者に近き者、もしくは軽妄なる新思想家に対する民衆の反感が漸次昂まり つつある模様である。                   (大正12年9月7日『下野新聞』)           --------------------------------------   このように軍中枢は、朝鮮人・社会主義者の暴動計画などという、ありも しない流言飛語を積極的に流し、各所で虐殺を行う一方で、自警団をそそのか し虐殺をあおりましたが、不幸にもこの作戦は効果てきめんだったようです。 官憲によるキャンペーンの効果について、作家の芥川龍之介は注目すべき文章 を書いていますので、それを紹介します(注4)。           ---------------------------------------               大震災雑記                             芥川龍之介   再び僕の所見によれば善良なる市民と云ふものはボルシェヴィツキと○○ ○○(不逞鮮人、半月城注)との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信 じられぬ場合は、少なくとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬもので ある。   けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは 完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。   善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜し まざるを得ない。尤(もっと)も善良なる市民になることは、--兎に角苦心 を要するものである。   その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○(不逞鮮人達の放火?)さう だと云った。すると菊池は肩を挙げながら「嘘だよ、君」と一喝した。                   (中央公論 1923年10月号)           -------------------------------------   ファシズムが到来しつつあるとき、芥川のように自警団に加わり、時には 「勇敢に」朝鮮人を殺すのが「善良な市民」の基準になってしまったようです。 その「善良な市民」や狂気の軍により犬コロのように殺されていった数千の人 たちの人生にはどのような意味があったのでしょうか。   その人たちには、愛する親兄弟あるいは妻や子どももいたことでしょう。 異国の地、日本で公然と殺され、その遺骨すら葬られず、痛ましくこの世から 露と消え去った同胞の霊に、私は「安らかに眠れ」という以外、いうべき言葉 をしりません。   せめてもの慰めに、両国駅に近い陸軍被服廠跡地に「関東大震災朝鮮人犠 牲者追悼碑」がたてられました。その碑はこう語りかけています。   この歴史永遠に忘れず   在日朝鮮人と固く手を握り   日朝親善アジア平和を打ちたてん (注1)姜徳相他『現代史資料6,関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963 (注2)関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘する会編『風よ鳳仙花   の歌をはこべ』教育資料出版会,1992 (注3)関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会『歴史の真実-   関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会,1975 (注4)琴ビョン洞編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料3,朝鮮人虐殺に   関する知識人の反応』緑蔭書房,1996   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/11/03 - 02853/02853 PFG00017 半月城 韓国保護条約 ( 8) 98/11/03 10:55 02782へのコメント   かんさん、こちらの会議室では初めてお目にかかります。    RE:2782 > それから、保護条約を巡る議論(因みにやはり保護条約締結時の伊藤のやり方には >かなり凄まじいものを私は感じるけどね(^^;))、等の「国際法的」な議論の立て方 >は、寧ろ、韓国ナショナリズムの特徴を象徴しています。つまり、彼らは、「保護条 >約が国際法的に無効であった」と主張しているのでは(つきつめて言えば)ありませ >ん。彼等が言っているのは、「国際法的に無効でなければならない」ということです。 >何故なら、それは彼等の考える「正義」に反するからです。   この考えは、どなたの主張を念頭におかれているのでしょうか? 韓国で、 保護条約の無効性について精力的に取り組んでいるのは、ソウル大学の李泰鎮 教授ですが、上記は李氏の論理についての批判でしょうか?   ご存じのことと思いますが、この問題について李氏は雑誌『世界』7、8 月号に「韓国併合は成立していない」と題して論文を書いていますが、これを 読むかぎり、かんさんの主張には疑問を感じます。   かって私は、李教授の主張の一端をここの会議室に書いたことがあります ので、ご参考にその部分を転載します(正確には、大阪産業大学の藤永壯氏が 書かれた解説文です)。           ------------------------------   李泰鎮氏は「第1次日韓協約」および「第2次日韓協約」=「保護条約」の原本 に直接あたって、普通、条約文の冒頭に記載されるはずの、条約の名称が脱落して いる点に、早くから注目していました。その理由を明らかにしたのが、第1論文 (注3、半月城注)です。(この問題には、海野氏も注目しています。)   1904年8月22日に調印された「第1次日韓協約」は、日本人財政顧問の傭聘、日 本政府の推薦する外国人外交顧問の傭聘、大韓帝国政府の外交関係に関する問題は 日本政府と事前協議すべきこと、の3項目からなっていました。ところが、この「協 約」の原本には、他の条約には存在する、冒頭の条約名称が記載されていないので す。李泰鎮氏によれば、「第1次日韓協約」なるものは、もともと二国間の覚書 (Memorandum)として作成されたものだったのですが、日本政府はこれをイギリス、 アメリカなどに通告する際、条約文の冒頭に、勝手にAgreement――日本政府は 「協約」と訳したが、本来は1ランク下の「協定」と訳すべきもの――の名称を付 けたというのです。列強から「協約」に対する異論が出ないことを確認した後、日 本は逆に大韓帝国政府に対し、これを「日韓協約」として官報に掲載するよう要求 します。(実際には「協定書」として掲載されました。)李泰鎮氏は、「覚書」の 場合は当事国間だけで効力をもつのに対し、「協約」は国際的な効力をもつという、 大きな違いがあったため、日本政府が「覚書」から「協約」への格上げをねらった のだ、と推測しておられます。このような日本政府の行為は「不法」と言うより 「犯罪的」と表現したほうが、より正確でしょう。   そして問題の保護条約です。日本政府はこの外交協定の重要性から見て、当初 は「韓国外交委託条約」として、正規の手続きを踏まえて締結し、批准も行う意向 でした。しかし韓国側の強硬な反対が予想されたため、「略式条約」というオプシ ョンをも念頭に置いて、冒頭の条約の名称を記す行は空白にしたまま、交渉に臨む ことになりました。結局、大韓帝国の皇帝、政府の抵抗により、条約名称は空白の まま、外部大臣に署名・捺印を強要せざるを得ず、批准も受けられませんでした。 「正式な条約」としての形式を整えることができなかったわけです。日本政府はこ れを国際社会に公表する際に、Agreementでも名称としては弱いと考え、いっそう 高い合意事項を意味するConvention(本来はこれが「協約」と訳される)という 名称をつけたのでした。第1次、第2次日韓「協約」という名称自体が、実は日本側 の捏造に過ぎなかったというわけです。   李泰鎮氏は第1論文の最後で、次のように結論づけています。 > ConventionはAgreementより、1段階高い印象を与えうるものだが、条約法 > またはその慣例上、決して一国の外交権移譲のような重大事項を盛り込む > 形式になりうるものではない。[外交協定の]格式として適当かどうかを > 云々する以前に、一つの協定文の内容を伝達する過程で、このように任意的 > に名称を操作すること自体が、国際社会から指弾されねばならない欺瞞行 > 為である。この協定は事案の重大性に照らして、明らかに協定代表の委任、 > 協定文、批准など三つをすべて備えてこそ、成立できるものであった。し > かし実際になされたのは、ただ協定文一つだけ、それも名称が脱落してい > るものであった。(pp.111-112) (注3)「条約の名称をつけられなかった“乙巳保護条約”」李泰鎮編著『日   本の大韓帝国強占』図書出版カチ(韓国語)、1995年            --------------------------   この前後の文章はここの会議室ではもう読むことができませんので、イン ターネットに接続できるのであれば下記をご参考にしてください。URLは文 末に記します。   半月城通信<日韓関係>「韓国保護条約(7)、日韓協約の形式」   なお、これについて私は下記のようにコメントを書きましたので、あわせ て紹介します。  「この理解によれば、第1次、第2次日韓「協約」という名称自体が、実は 日本側の捏造にすぎず、保護条約も「協約」としては成立していなかったとい うことになります。   結局、成立していたのは有賀長雄教授の主張する「其の平日の職権を以て 調印したる、いわゆる同文通牒」にすぎないということになります。それも韓 国外部大臣の署名および捺印が有効な場合ですが、外相職印は「日本公使館員 が奪うようにして持ってきた」状態なので、捺印時の状況についてもさらに検 討が必要で、その詳細によってはそれすら無効かもしれません。   このように、保護条約は形式的にも問題が多く、簡単に「形式的には」適 法性を有していたなどといえるものではなさそうです。この結論については研 究者の一層の議論を待ちたいと思います」   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/11/04 - 02889/02889 PFG00017 半月城 韓国保護条約の形式的合法性 ( 8) 98/11/04 23:43 02857へのコメント   かんさんからいただいたコメントを読んで、思わず我が目と「かんさんの ID記号」を疑ってしまいました。   かんさん、RE:2857 > 「協定文(或いは覚書)一つだけ」だからといって条約が不成立だということには >ならない、と思います。条約は飽くまで条約ですので、その名称が覚書であろうと、 >協定であろうと、条約であろうと、条約の効力には差異がないはずです。この辺は、 >どこにでも転がっている、国際法のテキストをご覧ください。これらの間に明確な区 >分がないこと、そして勿論、その効力に差異がないこと、は国際法の常識です。「覚 >書」だから守らなくても良い、なんて言ったら笑われますよ(^^;)   国際法の教科書を持ち出すまでもなく、それなりに権限を有する代表者に より結ばれた国家間の取り決めであれば、協約であろうと、覚書であろうと守 る義務があることは当たり前です。   しかし韓国保護条約の場合、この前提条件である「それなりに権限を有す る代表者」によって結ばれたかどうかを、李泰鎮教授は問題にしているわけで す。   極端な例をあげれば、仮に在日アメリカ大使と日本外務省の一局長が「日 本保護条約」を結んだとしても、誰もこの一片の紙切れがすぐ有効だとは思わ ないことでしょう。もしいたら、それこそ笑われるでしょう。   それと似たような状況が韓国保護条約の場合になかったかどうかを、李教 授は問題にしているわけです。そもそも、保護条約のような国家の命運を分け るような重大な取り決めは、有賀長雄によれば「大抵正式条約の体裁を取れ る」のが通例で、条約の調印後に、条約締結権者が認める批准書を交換するの がふつうです。   これに対し韓国保護条約、すなわち第二次日韓協約は、ご存じのように 「韓国外務大臣と日本公使とが、其の平日の職権を以て調印したる、いわゆる 同文通牒の形式を取るもの」で「正式条約に非ざる協定」でした(注1)。も ちろん批准書などありませんでした。   そうした協約が有効かどうか、李教授ならずとも誰しも疑って当然です。 しかし、批准書がかならず必要かどうかは学問上すこし微妙なようです。この あたりが学会の争点になっているようなので、それを紹介します。   まず形式的有効論ですが、海野教授はこう主張しています(注2)。          ---------------------------------   批准書もまた、すべての国際協定にあるとはかぎらず、無効論の根拠には ならない。戦前日本では、国際協定の手続きに三種あった。  第1種 批准を要する条約(「日朝修好条規」「日露講和条約」など)。  第2種 批准を要せず、天皇裁可だけの協定(「日英同盟協約」「日露協     約」など)。  第3種 裁可を要せず、政府限りで締結する国際約束 もしも「第二次日韓協約」など特定の日韓間協定については批准書がないこと を主張するためには、それ以外の協定にはかならず批准書があることを立証し なければならない。   しかし、「韓国併合条約」までに日朝(日韓)間に結ばれた53件の協定 のうち、批准書が交換された、いわゆる批准条約は「日朝修好条規」とその続 約だけである。  「第二次日韓協約」は、韓国皇帝の承認をうるのが難しいと予想して、批准 書なしでも有効な第二種形式をえらんだとみられる。したがって、批准書がな いことをもって無効とする主張は再検討されなければならない。          ---------------------------------   これにたいする形式的無効論を李教授が主張していますが、その概要につ いて一年前、藤永壯氏はメーリングリスト[aml 6974]で次のように紹介してい ます。          ---------------------------------   さて今回発表された第2論文(注3)では、第1論文(注4)の内容の要約 とともに、1876年の開国から1894年の日清戦争に至るまでの、日本と朝鮮の間 に締結された、以下の6つの条約の形式を検討しています。   (A)1876.2.27 修好条規   (B)1876.8.24 修好条規付録及び通商章程   (C)1882.8.30 済物浦条約   (D)1882.8.30 修好条規続約   (E)1883.7.25 日本人民貿易規則及び海関税目   (F)1885.1. 9 漢城条約   このうち(A)(B)(D)(E)は一連の条約で、一括して考えることができます。(A) は先の海野氏の叙述にもあったように、全権大使に対する委任状と、批准書が発布 されており、批准条約として完全な形式をもつものでした。(B)(D)は(A)を前提に 、委任状だけを確認したり、批准手続きはすでに完了したものとして取り扱われる ことになりました。   また(C)(F)は、それぞれ壬午軍乱、甲申政変において、日本人の受けた被害の 賠償を、日本が朝鮮に強要する性格のものであったため、若干、変則的でした。委 任状あるいはそれに代わる命令書はいずれの場合も発給されましたが、これを批准 することは朝鮮側の屈辱感を加重させる、あるいは批准自体が条約の内容にそぐわ ない、などの理由で、日本側の同意のもとに、朝鮮側の批准手続は省略されたり、 批准書に代わる国書が発給されるなどの措置がとられました。(日本側は批准して います。)   要するに李泰鎮氏の主張によれば、日清戦争前の日朝間の条約は、外交協定の 要件を充分満たした形式で、締結されたということになります。これは先の海野氏 の、(2)に反対する根拠(b)=「日朝間の他の条約・協定に、必ずしも批准書が存在 しているわけではない」への反論と言えますが、この問題については、李泰鎮氏は より本格的な別稿を用意されているようなので、それが発表されれば、いっそう詳 しい事実経過が明らかになると思われます。   なお付言すれば、正式な形式を備えるべき条約が、略式で「締結」された最初 の例は、日清戦争中の1894年8月26日に、日本が朝鮮に戦争への協力を強要した 「大日本大朝鮮両国(攻守)盟約」とのことです。この条約の「締結」にあたって 、代表者への委任状は発給されず、批准書ははなから考慮されなかったということ です。   以上の李泰鎮氏の主張は、私には非常に説得力のある議論のように感じられま す。とくに私たちが条約の正式名称として疑わなかった、第1次・第2次「日韓協約 」という呼称自体が、日本側の捏造によるものであるという見解は衝撃的なもので あり、この点についてはいっそう実証的に深められることを期待したいと思います 。ともあれ「保護条約」の合法性・不法性をめぐっては、当面、論争が続きそうな 気配です。今後も研究の動向を、注視しておきたいと思います。 ------------------------------   このように保護条約の形式的合法性については、まだ学者の論争が続きそ うです。この李教授の学問的姿勢こそ、かんさんの下記の主張にそうものでは ないでしょうか。          -------------------------------        「違法」であることを証明するには、その当時の法的枠組み の中で(法の遡及は通常認められませんので)、合法的であるには(慣習法的な部分 も含めて)どういう用件が必要であったか、そして、その法的枠組みと当該ケースは どこが食い違っているのか(どこが用件を満たしていないのか)、等が丹念に探求さ れねばなりません。          --------------------------------   かんさん、RE:2857 > 甞ての第二次協約における韓国側代表の「自由意志」を巡る議論の方が、遥かに有 >効だったと思いますよ(^^;)。今回のは法的にはナンセンスですよ(^^;)。この辺は、 >日韓とも歴史学者の法的思考の欠如に由来している部分が多いと思います。藤永氏も >文学部出身だからなぁ(^^;)(^^;)   韓国保護条約無効論のもうひとつの柱である「条約が脅迫によって強制さ れたこと」については、かんさんのおっしゃるとおり、かなり有効なようです ね。海野教授は別にして、藤永氏によれば、「日本でも、少なくとも朝鮮近代 史を専門とする研究者の間では、長く「通説」として理解されてきた見解」 (前掲メーリングリスト)だそうですが、かんさんも同じ意見でしょうか? (注1)海野福寿編『日韓協約と韓国併合』明石書店,1995 (注2)海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995 (注3)李泰鎮「真の韓・日関係正常化の道」『東アジアの中の韓・日関係』    釜山大学校韓国民族文化研究所国際学術大会発表論文集、1997年 (注4)李泰鎮「条約の名称をつけられなかった“乙巳保護条約”」『日本の    大韓帝国強占』図書出版カチ、1995年   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/11/15 - 03068/03068 PFG00017 半月城 日韓歴史認識の溝、韓国保護条約(9) ( 8) 98/11/15 22:02 02910へのコメント かんさん、こんばんは。   正確にいうと、韓国保護条約(第二次日韓協約)の形式的合法性について ソウル大学の李泰鎮教授が問題にしているのは、強制性を別にして次の三点で す(注1)。 (1)国家元首が代表(全権委員)を任命する委任状 (2)両国代表が署名した条約文 (3)条約文に対する国家元首の批准書   李教授は、重要な条約に不可欠なこれら3点セットが、韓国保護条約の場 合、いずれも不完全か、あるいはまったくないので、当時の国際法にてらして 無効であると主張しています。   このうち(2)条約の体裁については前回ふれましたので、今回は委任状 と批准書の問題を取り上げたいと思います。   かんさん、#2910 > また同じく(戦後の)ウィーン条約で条約締結権については、委任状がな >くとも以下の人間に条約の署名権(?)を与えています。 >(a) he produces appropriate full powers; or, >(b)・・・ >とあります。(a)については、元首のみならず、首相・外相等も入ると、 >介(解)されるようです。   委任状が欠如している問題について、保護条約の合法・不当論を主張して いる海野氏はこうみています(注2)。           ----------------------------   いかなる場合に全権委任状が交付され、いかなる場合に省略されるのか、 明確な慣習的基準を知らないが、諸実例から機能的に推理すると、委任状の交 付を受けた全権委員が条約締結交渉を行うのは、開国・開港にあたっての修好 通商条約とか戦争終結時の講和条約締結交渉など、相手国と国交がなく大・公 使を派遣していないときとか、多国間条約を決定する国際会議出席の場合であ る。   これに対して、大・公使駐在国を対象とする場合は、たとえば「日英同盟 協約」「日韓協約」など、締結すべき条約内容の重要性いかんにかかわらず、 駐在大・公使に対する全権委任状交付は行われなかったようである。   着任に際して派遣国元首の信任状を接受国元首あてに提出している大・公 使は、本国政府から訓令を受けつつ交渉に臨み、その承認をうけたのち国を代 表する職務権限にもとづいて条約書に記名調印するものと判断される。   一方、韓国皇帝の朴斉純外部大臣に対する全権委任状も交付されなかった であろう。それは国家元首、首相、外相は条約締結にあたって自国を代表する ものと認められているので、全権委任状が省略されるからである。   いずれにせよ、特定の条約に批准書や全権委任状がないことを主張するた めには、それ以外の条約一般には、それらがかならずあることが前提にされな ければならない。           ---------------------------   このように海野教授は、条約締結時に全権委任状がなくても差し支えない と主張していますが、歴史的事実からいうと、保護条約交渉時、日本は韓国皇 帝に委任状を発行するよう求めていました。当時、伊藤博文は高宗皇帝に謁見 し、韓国側全権委員を詔勅によって任命するよう要請しました(注1)。   これは、日本は事案の重大性にかんがみて、保護条約をできることなら正 式な条約として締結する意図をもっていたためです。その名称も「韓国外交委 託条約」にするつもりでいたのですが、皇帝をはじめ、大臣の反対があまりに も頑強であったため、正式な条約形式をあきらめ、委任状や批准書が必要ない 協約形式に格下げし、交渉にあたったようでした。   しかし結果は、タイトルが空白という前代未聞の外交文書を強制しました。 これは韓国側の反対が強硬なため協約書の名称すらつけられなかったのか、あ るいは協約という名称は事案の重大性にてらして不適当だったので意識的に空 白にしたか、どちらかであろうと李教授は推測しています。   いずれにせよ当時の日本は、保護条約はその性格上から正式条約として委 任状などが必要であるとの認識を持っていたことをうかがわせます。これは当 時、国際法上の慣行だったようです。   かんさん、#2910 >           非常に率直に言えば、当時の国際社会の中で、 >列強がある地域を植民地化する際に、列強が現地政治勢力と調印した >条約(もちろん、それさえない場合が多いと思います)がどういう体 >裁を取っていたか、ということが考慮されねばらないと思います。   条約のない軍事占領(合法!)は別にして、保護条約はたいてい正式条約 の体裁をとり、批准するのが普通だったようです。日韓協約に似た例として、 フランスがチュニジアを保護国としたバルド条約がありますが、この場合も条 約で批准が必要であることを明記しました。   これについて駿河台大学の荒井信一教授が次のように解説しています(注 2)。          ------------------------------   バルド条約によりチュニジアはフランスの保護国となったが、日韓協約と の比較で重要なことは、一つは、この条約がフランスが結んだ他の保護条約に くらべて著しく簡略なことである。   有賀長雄はこの点について「仏蘭西(フランス)が此の条約を勉めて簡便 にしたのは、其の外国なかんずく伊太利の猜疑を避くる意に出たるものにして、 その事由はあたかも日本が韓国保護において列国に憚り、協約の条文を簡略に したるとその様相同じものなりき」(注3)と述べている。   また条文が簡略化されただけでなく、「外国の間に於ける同種の保護条約 は大抵正式条約の体裁をとれる」のにたいし「右(日韓)協約は韓国外務大臣 と日本公使が其の平日の職務を以て調印したる所謂(いわゆる)同文通牒の形 式を取るものなり」とまで言っている。   いったい「国家存亡興廃」「国家の休戚」を左右するような取り決めを外 交使臣の「平日の職権」で決めることができるのであろうか。もし当時の国際 法がそれを許容したとすれば、法=形式の問題はあって無きがものとしかいい ようはない。   ここで批准の問題に戻れば、日韓協約と違いバルド条約はその第十条で批 准が必要であることを明記している。   フランスは軍隊を宮中に配置しただけではなく、もしベイが調印に応じな ければその代わりにベイの「位」につけるための現地の土候を、あらかじめ探 し出して将軍の馬車の中に待機させていたというから、チュニジアの国家代表 者であるベイに脅迫・強制を加えた形跡は濃厚である。   むしろ有賀の断定によればバルド条約は「之を日本全権が韓廷の上に加え たりと称するものに比すれば十倍の強制力をもって調印せしめたるもの」であ った。   それにもかかわらずバルド条約が、あえて批准を要するとしたのは、保護 条約の内容に応じた当時の国際法上の慣行と手続きに従ったということになる。   現にフランスがタヒチ(1874年のパペーテ条約)、カンボジア(1863年、 1884年のプノンペン条約)、安南(1874年、1883 年のユエ条約)、マダガス カル(1885年)とむすんだ保護条約にはいずれも批准の必要が明記されている。   その点では内容的には同じ保護条約であり、さまざまな点での類似の様相 を示しながら、日韓協約だけが、明示的な批准についての条項を欠く事を始め 「正式条約の体裁」を取らない条約として締結されたのはきわめて奇異に思え る。   この形式と内容とのおおきな落差や、他条約との比較に於ける変則性は、 当時の国際法に照らしても重大な手落ちを指摘することができるのではないか。          --------------------------------   フランスの例のように、保護条約など重要な条約に批准が必要なのは当時 の国際法の慣行であり、批准手続きがされないのは条約の欠陥とされるようで すが、これについて海野教授はこう記しています。 --------------------------------   批准書を交換するのは、いわゆる批准条約だけであって、その他の条約締 結では批准書交換は省略されるのが通例である。   1910年「韓国併合条約」に至るまで日本と朝鮮・韓国との間に結ばれ た条約は53件あるとされるが、このうち明らかに批准条約と認められるもの は1876年の「日朝修好条規」と82年のその「続約」の2件だけで、他は 批准書を省略した形式の条約であった。「第二次日韓協約」の場合もそうであ ったから、外交文書としての批准書がないからと言って、協約の無効を言い立 てることは無意味であろう。          --------------------------------   これに対する李教授の反論は、前回記したように「日清戦争前の日朝間の 条約は、外交協定の要件を充分満たした形式で締結された」とするものです。 これに対する海野氏の再反論はまだ発表されていないようです。   他方、国際法における批准書の必要性ですが、それを横田喜三郎は193 6年に刊行した『法律学辞典』で明らかにしています。横田はどのような場合 に批准を必要としないかについて、「国際法上では確定しないが、比較的に確 定した場合」として次の三つをあげています(注2)。 (イ)元首によって締結される条約 (ロ)急速な実施を必要とする条約 (ハ)重要でない条約   このうち(ロ)は比較的なじみにくいのですが、この例として、政府間の 取り決めとして強行された日英同盟などが相当するとの解釈があります(注2)。   問題の「日韓協約」はもちろん上記のどれにも該当しませんので、手続き 上、批准書は必要なようです。こうした状況や、前回紹介した李教授の反論な どを考慮すると、保護条約の「形式的適法性」はかなり疑問です。すくなくと も「法的に有効に締結」されたとはとうてい言いがたいようです。   かんさん、#2910 >細かい国際法そのものの議論は、私は歴史学者よりも国際法学者に任せたい >と思います。そして残念ながら、日本の国際法学者の中で、一連の「保護条 >約」が無効であると、という立場を取っているものは少数のはずです。   国際法学者のほとんどは「保護条約」の合法性を学問的に本格的に研究し ていないのが現状ではないでしょうか。このテーマで本格的に論文を書いてい るのは唯一、関西大学の坂本教授くらいではないでしょうか。   その坂本氏は、保護条約が合法かどうか結論を出せず、意外にもこう書い ています(注4)。  「日韓保護条約がはたして強制によるものであったかどうかは、韓国の同意 がどのような状況下で行われたかの評価に関わる問題である。大韓帝国に国家 の存亡に関わる圧力が日本からもたらされたことは誰の目にも明らかであるが、 問題は、国家代表者に国際法が禁ずるような形で強制が行われたかどうかとい う点であろう。歴史学者ではない筆者には、その事実認定は能力を超えるとこ ろがある」   この発言からすると、歴史を熟知していない国際法学者が合法・非合法の 結論を出すのは不可能ではないでしょうか? やはりこれは日韓の歴史認識問 題と関連して、主に朝鮮近・現代史専門家の役割ではないでしょうか? 歴史 学者の姿勢を海野氏はこう批判しています(注5)。  「日本の歴史研究者の姿勢にも問題があった。研究対象にするにはあまりに 政治的だという理由から、あるいは韓国併合条約の有効・無効性を論じてもど れほどの意味があるかという理由から、積極的取り組みを避けるアカデミズム の傍観者的傾向が(日韓歴史共同研究)推進の逆潮となった」   歴史学者の傍観者的アカデミズムが影響してか、日韓に横たわるパンドラ の箱、最も重要で、かつ緊急を要する歴史認識問題はなかなか解決の道が見い だせないようです。   このように日韓関係の土台ともいうべき歴史認識は、いっこうに埒があか ないので、その上に築かれた友好は事あるごとに揺らぎ、両国の心からの和解 の道はまだ遠いようです。   その深い歴史認識の溝を埋めるべく、日韓両国は努力すべきであると、歴 史学者の海野教授はこう記しました(注5)。         -------------------------------------   日韓両国は、政府間合意である歴史共同研究の組織化に早急に着手すべき であろう。それは歴史研究者だけでなく、ほかの専門分野の研究者を交えたも のであるとともに、両国民に開かれたものでなければ、共有しうる歴史認識を 生み出せないことはいうまでもない。   と同時に、日本政府は過去の過ちに対する謝罪に見合う補償をすべきであ る。先に私は、政治家は歴史認識を決められないと書いたが、政治家だけがで き、またしなければならないのは、被害者に対する国家補償をすることを決意 し、実行することである。それは韓国人の「恨」(ハン)を解き、日本人の歴 史認識を裏付けることにもなるはずである。         -------------------------------------   海野教授が国家補償にこだわるのは、韓国併合条約などは国際法上合法で あっても「日本の韓国植民地化はひとかけらの正当性もない不当なものであ る」という考えに立つためです。 (注1)李泰鎮「韓国併合は成立していない」『世界』98年7月号 (注2)季刊『戦争責任研究』第12号(1996)日本の戦争責任資料センター (注3)有賀長雄『保護国論』早稲田大学出版部,1906 (注4)坂本茂樹「日韓保護条約の効力」『関西大学法学論集』第44巻   4,5合併号,1995 (注5)海野福寿「残る歴史認識の深い溝」朝日新聞,1998.10.19   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


印鑑・署名の偽造、韓国保護条約(10) 文書名:[zainichi:07583] KANKOKU HOGO JOUYAKU (10) Date: Sat, 21 Nov 98 20:41:46 +0900   RE:[zainichi:7543], >    保護条約の違法点とは、「条約」を締結したとする文書の韓国 >側の印鑑が日本側によって捏造されていたという点です。韓国の学者で >日本側による印鑑の捏造を主張している人がおりますよね。   もう何年も前に見たテレビ番組で、保護条約の際の印鑑が問題になったテ レビ番組がありました。記憶によれば、その日の朝、ある政府高官は、日本人 がかならず自分の印鑑を奪いに来るだろうからといって、印鑑を池の中に投げ 入れてしまうシーンがありました。   この話は史実なのかどうかよくわかりませんが、それとは別に、保護条約 の際に使われた印鑑はかなり問題があるようで、現在、歴史学者のホットな研 究テーマになっているくらいです。しかし、そうした歴史書をざっと見たかぎ りでは、どうやら日本が印鑑を偽造して使った形跡はないようです。また、偽 造を主張している学者を私は知りません。   1905年の保護条約(第二次日韓協約)関連で使われた韓国側の印鑑は ただ一つ、外部(外務)大臣・朴斉純の印鑑だけで、他には主権者である皇帝 の印鑑はおろか、総理に相当する参政大臣の印鑑すら使用されませんでした。   この外部大臣の印鑑についてはかなり研究されていますが、それによると 現在では印鑑の強奪説が主流になっているようです。たとえば、琴ビョン洞氏 は次のように記しています(注1)。           ------------------------------ 外相官印は奪われて捺されたもの  (日本側全権公使)林権助は自著『わが七十年を語る』の中で、保護条約に 押印された朝鮮の外相印について、「もう一つのことは国璽です。国の印形 (いんぎょう)といふものは非常に大切にしてあるものと見えて、宮内大臣と いえども自ら持ってゐません。別に国璽を預かってゐる責任の司がおります。   それで、わたしは外務省に早朝から人をやって、その国璽保持官を見張っ てゐねばなりません。(中略)朝鮮の朴外相に向かってわたしは言った。『貴 官は人を遣って外相の国璽保管官に、印を持参するやうに言付けて下さい』、 やがてその国璽が届いた」と述べているが、この話には虚実が同居している。   また、『日本外交文書』の「新協約調印始末記」によると「朴外相は其官 印を外部主責任者に持来るべき旨、電話を以って命じ」たとある。外相朴斉純 はその印を条約文に押したのであろうか、これも事実に反する。  『日本外交文書』第三十八巻第一冊の明治38年11月24日付で、在上海 の永滝総領事より桂外務大臣に宛てた報告電報がある。  「本日23日夕発刊『チャイナガゼット』に京城電報として左の意味の長文 電報を掲載せり。   本日17日、日本公使等は保護条約に調印せしむる為め宮中に伺候せるも、 皇帝始め内閣員は極力之に反抗し調印を拒むより、午後8時伊藤(博文)侯爵 は林公使の請により長谷川大将と共に日本兵及び巡査の一隊を率い宮中に赴き たるも、尚ほ成功の望なく、遂に憲兵隊を外務大臣官邸に派し、翌18日午後 1時、外交官補沼野は其官印を奪ひ宮中に帰り紛擾の末、同1時半日本全権等 は擅に之を取極書に押捺し、其調印済となりたることを内閣員に宣言せり(以 下略)」   林権助のいう、早朝から人を外務省にやって、国璽保持官を見張らせた人 物こそ外交官補沼野だったのであろうが、日本側としては、この永滝報告の内 容と関連して取りあえず二つのことをなすことが求められたはずである。 (1)は「チャイナガゼット」のニュースソースの問題、(2)は、この内容 は歪曲として「チャイナガゼット」に訂正を求めるなり、釈明を求めること。   この当時、日本政府は、日本に不利な報道があると、躍起になって取り消 しを求めたり、釈明したりしたものである。  ・・・   林公使の先の報告「第478号」では、保護条約押捺の件について「外部 大臣は条約各項を議了したる後、其署名をなすに先立ち印章を持ち来る様、外 部(外務省)に数回電話を掛けたるも、印章の保管者たる秘書課長不在のため、 印章は二時間余遅れて初めて保管者により宮中に持ち来られたり」と説明して いる。   注視すべきことは、これが当事者林権助の条約調印10日後の、外相印に 関する公的報告である。   この報告では印章保持者たる秘書課長が何のために不在だったのか、また 二時間あまり印章が遅れた事情と、官印の持参者については一切具体的な説明 がない。   しかも在上海永滝報告によれば、『チャイナガゼット』はちゃんと「外交 官補沼野」と人物を特定している。林権助は永滝報告で人物が特定されている ことを知りながら、その報告中に沼野のことに言及していないのである。   この林報告「第478号」には、その末尾に本省の「註」があって、「本 電報は大体その儘11月29日、大臣発在独井上公使宛(第220号)外、5 公使宛電報せられたり」とある。   だが、当の「チャイナガゼット」には何らかの措置が取られたとの記事は ない。はっきりしているのは、林権助も、日本外務省も、名指しされた沼野の 件について否定しなかったのである。   後日、自慢たらたら「わたしは外務省に早朝から人をやって、その国璽保 持官を見張」らせたと、手際のよさを誇った林権助も、「調印」10日後の記 憶も生々しいときの報告で、見張りをさせ、官印を持ってきた人物、外交官沼 野について、その氏名と任務を明らかにするわけにはいかない事情があったと 思う。  ・・・   外交官補沼野の行為、韓国外部大臣官邸という外国の官庁に対して、外国 人官吏を見張ったり、官邸に入り込んだり、憲兵隊と共に官印を奪ったりした 行為は、国際法的見地からはもちろん、一般道徳上からも許されないばかりで なく、国内法の規定にも明白に違反する行為だったのである。故に林権助はあ の時点で沼野の名を挙げて明白な反論ができなかったのである。          -------------------------------   印鑑の強奪については、イギリスの新聞ロンドン・デイリー・メールの韓 国駐在員であったマッケンジー氏もこう伝えています(注4)。  「払暁になって国璽を外部大臣室から持ってきて調印を行うように、との命 令が出された。ところが、ここでまた一つの難事が生じた。というのは、国璽 保管者は、事前に、たとえ長官の命令があっても、国璽はいかなる目的のため にも引き渡してはならない、との命令を受けていたのである。電話でこの命令 が保管係官に伝えられた時、その係官は、国璽を持ってくることを拒否した。   そこで、特別の使いを出して、力づくでその係官から国璽を取り上げて来 なければならなかった」   こうした研究にもとづいて、海野教授は「協約案は若干の修正ののち、午 後11時半、林公使と朴斉純外相とが記名し、外部(外務省)から日本公使館 員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した」との結論をだしました (注2)。   このような研究からすると、保護条約の際に印鑑を偽造した事実はないよ うです。またその後も「併合条約」にいたるまで、印鑑の偽造はなかったよう です。それというのも高宗が強制的に退位させられたころから、皇帝の御璽や 国璽は日本の意のままになっていたからでした。高宗皇帝の言葉によれば「敵 の手中」にあったからでした。   高宗はその事実をドイツ皇帝に送った親書のなかで、次のように記しまし た(注1)。  「私は並はずれて悪質で狡猾な強大国である隣国日本が、扇動的なわが国の 反逆者らの助けを借りて、軍隊を率いてきて私を威嚇し、このような束縛状態 におき、放棄するしかない運命にいたるようにしました。   私の地位と階級を奪い、君主である私の玉璽を奪い、私の王妃を刺殺し、 (中略)以前に私が使用する義務のあった国璽はいまや敵の手中にあります。 だから私は、この書信の証明のために、私がもっぱら日常的に使っている印章 を押しています」   他方、偽造といえば、高宗が強制退位させられたのち、毒茶事件で精神障 害の残る純宗皇帝の署名のほうを、日本は一時的に偽造した可能性があります。 ソウル大学の李泰鎮教授はこう主張しています(注3)。  「この協定(第三次日韓協約,1907)の強制後、統監伊藤博文は韓国皇帝に 対して摂政同様の存在となり、韓国の内政を総て担当するかのように振る舞い ながら、次のような犯罪的行為を犯した。   (1907年)7月31日韓国軍隊を解散させる韓国皇帝の詔勅を彼自身 が代わりに草案を作り、これを韓国語に翻訳して発表させるという詔勅偽造行 為を犯し、10月18日から翌年1月18日までは韓国政府組織改編と財政権 を強奪する60にものぼる重要法令を新たに制定し、これに対する皇帝の御名 裁可署名を統監府文書課職員らが偽造するよう、放置あるいは操縦した」   李教授によれば署名の偽造は一時的なもので、その後の詔勅は純宗自身が 署名したとのことです。しかし、その署名もなぜか1910年の「韓国併合」 を公布する詔勅だけにはありませんでした。   この詔勅は「保護条約」の批准書に代わる重要な文書で、これに欠陥があ ると「併合条約」の形式的有効性も問題になりかねません。そのかんじんな署 名がないのは、何か相当逼迫した事情があったに違いありません。その理由を 李教授は次のように考えています(注3)。           -----------------------------   韓国皇帝の御璽は、実際は1907年7月24日「丁未条約」(第三次日 韓協約)以後、韓国内政に対する統監の事前監督を理由に統監府が奪い取って いるため、これの捺印のみでは決して皇帝の裁可がなされたとは見なし得ない。   詔勅文の文案作成完了から公布予定日の間は二日(8月27日ー29日) しか余裕がなかった。「併合」公布日はアメリカ・イギリス政府にも事前に通 報されていた。   両国皇帝詔勅のうち、韓国皇帝の詔勅のみ皇帝の御名の署名が抜けている のは、結局韓国皇帝がその二日間署名をせずに持ちこたえ、これにあわてた日 本側は国際的に約束された日を繰り越すことができずに、準備された詔勅文に 統監府が所持していた御璽のみ押して送り出したとしか解釈のしようがない。   これは結局韓国皇帝が「併合」に同意しなかったという証拠であり、この 解釈に問題がないとすれば、日本の韓国併合の法的成立は認定されない。 ---------------------------------  「併合条約」に皇帝が署名しなかった理由として、他にどんな事情が考えら れるでしょうか。あるとすれば皇帝が突然重体に陥った場合くらいでしょうか。 そうした事実も知られていないので、やはりこれは李教授の推測が妥当なのか もしれません。   こうした議論とは別に、たとえ「併合条約」の形式が国際法上有効であっ たとしても、そのプロセスの前提になっている「保護条約」が無効であれば、 「併合条約」は砂上の楼閣のように容易に崩れることはいうまでもありません。 (注1)海野福寿編『日韓協約と韓国併合』明石書店,1995 (注2)海野福寿『韓国併合』岩波新書,1995 (注3)李泰鎮「韓国併合は成立していない」『世界』98年8月号 (注4)マッケンジー著「朝鮮の悲劇」渡部学訳、平凡社・東洋文庫,1972   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/11/23 - 03120/03120 PFG00017 半月城 韓国保護条約(11)、法学者の見解 ( 8) 98/11/23 15:31 03076へのコメント   かんさん、こんばんは。議論から撤退したいとのご意向ですが、その前に 私の反論を書いておきたいと思います。   かんさん、RE:3076、 >1)「併合等を巡る重大な国際条約を巡る慣行」が他の国際条約を巡る慣行と区別さ >れる形で存在したとは思えない。   かんさんは、国際法の方は専門でないのでよくご存じないかもしれません が、併合(保護)条約や同盟条約など、国家の存亡にかかわる重要な条約は、 他の条約と明らかに区別されるべき性質をもち、これらは慣行上かならず批准 を必要としたようです。これについて、荒井信一教授は次のように解説してい ます(注1)。          ----------------------------------   1905年10月16日、即ち第二次日韓協約が成立する一月前の日付で 刊行された『国際法外交雑誌』(第二巻第二号)の巻頭に、寺尾亨が「条約批 准問答」という短い文章を書いている。   寺尾は日本の国際法学者の開拓者であり、日露戦争に際し開戦論の急先鋒 となったいわゆる「七博士」の一人であったが、この文章のなかで条約が調印 により成立した後さらに、「批准を要する理由如何」について論じて、次のよ うに述べている。  「国家存亡興廃の場合は勿論国民の休戚に関するが如き苟(いやしく)も重 大なる理由ある場合に当たりては、之が拒否をなすも敢えて防ぐる所無し」。   休戚というのは幸、不幸のことである。寺尾がここで言っているのは、調 印された条約を実施すると国が滅びるとか国民が不幸になるとかの重大な理由 のある時には批准を拒否してよいということで、逆にいえばそのような重大な 内容の条約の場合にはいわば歯止め措置として批准が必要だということである。   寺尾はさらに批准を必要とする条約の種類を三つあげているが、そのうち に同盟条約、担保条約とならんで保護条約があげられている。   一国が他国の保護国となるということはまさに「国家存亡興廃の場合」で あり「国民の休戚」に係わる重大な場合であるから、それは当然のことといえ る。   寺尾とともに「七博士」の一人であった法学者中村進午も、同じような趣 旨を解説して、「(条約に調印した)代表者は一時国家を代表するものたるに 過ぎざれば、其行為を以て直ちに国家を拘束せしむるは国家の安危攻防を以て 悉(ことごと)く代表者の左右する所に任(まか)するの危険あるべし」とし て批准の必要な理由を説明している(中村進午『国際公法論』清水書店,1917)          ---------------------------------   寺尾の文章は、時局に合わせ韓国保護条約(第二次日韓協約)などでは国 際法の慣行上、批准が必要であるという法学者の見解を示したものといえます。   実証的にも、世界的に当時の保護条約は、前回紹介したように条約に批准 書が明記されていたか、あるいはアフリカ植民地のように主権者が調印してい るので批准書が不要な場合のどちらかであったようです(注1)。   さらに戦前の国際法学者の見解をみると、松原一雄ははっきり元首が批准 を拒否した場合は条約は成立しないと『国際法談義』(有斐閣,1941)でこう説 いています(注2)。  「全権委員の身体に対する暴行若しくは脅迫により、或いは詐欺(錯誤)に より、意志の自由若しくは真正が失われた場合、その調印になる条約は無効で あると学者は説く。   しかし右の如きは仮に実際あり得たとしても、条約は後に述べる如く批准 によって成立する。調印によって成立するものでないから、右の如き場合、元 首は批准を拒絶すればよい」   このように当時の国際法学者が、重要条約は調印の時点で成立するのでは なく、批准により成立すると断言しているところをみると、こうした慣行は慣 習法であると考えられるのではないでしょうか。   これを韓国保護条約にあてはめた場合、主権者である高宗皇帝はよく知ら れているように批准などもちろん拒否していましたので、戦前における国際法 学者の見解からすれば、韓国保護条約は国際法上無効であるという結論になり そうです。     RE:3076 >2)この[慣行」が、それをやぶることにより、当該条約が「無効」となるような強 >い用件を構成するか、という問題が有ります。つまり、「慣行」が「慣習法」化して >いたか、という問題です。少なくとも、「批准(或いは全権委任状等)がない重大条 >約(?)は無効である」ということが慣習法化していた、という為には、実際にこれ >らの用件を満たさないことにより、「無効」とされた条約が相当数存在しないといけ >ないのではないか、と思います。それがないと単に「当時の慣行に反した変則的な条 >約」ということに留まるのではないか、と思います。   前回書いたように、重要条約には批准書が必要であるという慣行を破った ように見える例として第一次「日英同盟」(1902)があげられますが、これは法 学者の横田喜三郎がいう「急速な実施を必要とする場合」に相当し、批准書を 必要としないようです。   実際に当時の情勢からすると、日英両国は「条約を急速締結するを要する ある種の事情」(小村外相)、つまり元老・伊藤博文の推進する日露接近策を 避けるため急いで締結する必要があり、批准を要しない協定として同盟が調印 されました(注1)。   いかにこの同盟が急がれていたかは、当初、林全権公使の資格を問題にし ていたイギリスが途中からその主張を取り下げたことからもある程度うかがう ことができます。   このように、日英同盟はその緊急性からすれば、国際法の慣行からはずれ るものでもなさそうですが、これを先例に第二次日英同盟(1905)も批准書なし に調印されました。こちらの方は改定なので、第一次ほどの重要性はなく、先 例もあり批准は問題にならなかったようでした。   ついでに記すと韓国保護条約以降は、同じように日仏協商(1907)、日露協 商(1907,1910,1916)が日英同盟を先例に批准書なしで締結され、国際法の形式 が帝国主義国家においてますます軽視されるようになりました。   これらの協商は韓国保護条約以後のことなので、保護条約の有効性の議論 には直接関係ありませんが、これらこそ、かんさんのいう「当時の慣行に反し た変則的な条約」ということになるかと思います。   しかし、これらは相互の政府間で納得し円満に結ばれたものであるので、 たとえ変則的であっても、あえて国際法上問題にする人はいないようです。そ こが韓国保護条約と根本的に異なる点で、後者の場合は脅迫・強制されて調印 されただけに、被害国からことさら違法の申し立てがなされ、合法性が問題に なるわけです。 > 最後に、国際法学者は保護条約の有効・無効について、議論していないのではない >か、ということですが、彼等の名誉の為に言うと、彼等はこの議論が韓国で存在する >ことを、殆ど全員が知っています。しかし、その殆どは、以上、私が述べたのと同じ >理由により、その主張が殆ど問題にならない、と考えているのだと、私は認識してい >ます(と少なくとも相当数の西日本の国際法学者から聞いています)。   かんさんの上記(1)(2)だけで、保護条約の無効性が問題にならない と多くの国際法学者が考えているとしたら、ほとんど研究されていないに等し いのではないでしょうか。   このような認識を歴史学者も持っているようで、海野教授は「現在では歴 史学が蓄積した豊富な情報を共有している。その資料を利用して国際法学者が あらためて「第二次日韓協約」締結の違法性の有無を検討されることを期待し たい」と記しています(注1)。   この指摘以後、法学者の論文といえば、先に紹介した荒井教授の論文くら いでしょうか。その荒井教授は論文のなかで、保護条約の「形式的適法性」の 主張には無理があると、次のように違法性を示唆しています(注1)。          --------------------------------   1905年の日韓協約の条約の形式に関してはこれまで (1)条約正本に名称が記載されていないこと、 (2)韓国側の記名調印が外部(外務)大臣だけで皇帝の署名と捺印がなく、   さらに批准書が存在しないこと、 (3)日本側の記名者の林権助の肩書きは特命全権公使であるが、当時の全権   委任状がみつからないこと が指摘されている。   これらの点はこの保護条約の「形式的適法性」を疑わせ、条約の無効とす る主張の根拠の一つとなっている。そしてこれらの特徴はこれまで見てきたよ うに、「政府間取り決め」の形式をとった第一次日英同盟協約にも共通してお り、このように簡略化した形式をとることは、この段階の条約締結のパターン となったとさえ思われる。   それにもかかわらず条約は条約だとしてその「形式的適法性」を主張する 考え方があるが、しかしたびたび指摘したようにその形式と内容の間に重大な 乖離または落差があることも事実である。   私は当時の国際法学者の条約形式に関する一般的な考え方に照らせば、こ の「形式的適法性」の主張には無理があると考えるが(個々の事象についての 彼らの具体的な判断は別として)、重大なのはむしろ偽善的とさえ思われる形 式と内容の乖離を許した国際政治のありかたを厳しく批判してゆくことであろ う。          --------------------------------   これに対する反論は今のところまだないようで、現状はこれが多数意見な のか少数意見なのかはっきりしませんが、日本の朝鮮史研究会などではこれが ほぼそのまま受け入れられているのでないかと思います。   それに反し、たとえ日本の法学者の多数意見が、かんさんがおっしゃるよ うに「韓国併合条約」は合法であるとしても、国際的には逆に少数意見になり ます(注3)。日本以外で韓国保護条約が合法であったとする主張がほとんど ないのは、かんさんも先刻ご承知のことと思います。そうした国際的な認識の ギャップを埋めるためにも、日本の法学者には本格的な研究を望みたいもので す。 (注1)季刊『戦争責任研究』第12号(1996)日本の戦争責任資料センター (注2)海野福寿編『日韓協約と韓国併合』明石書店,1995 (注3)半月城通信<韓国保護条約(5)、国際的な認識>参照   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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