- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/10/18 -
01525/01525 PFG00017 半月城 朝鮮人と労働運動、関東大震災と朝鮮人(3)
( 9) 98/10/18 16:50 01450へのコメント
太陽の牙さんこと、仮面忍者とびかげさん、こんばんは。
これまでの議論をつうじて、お互い一致できる点とそうでない点が次第に
明らかになってきたようです。その最大の争点はいうまでもなく、軍・警察が
主体的に朝鮮人虐殺を行ったかどうかという点にあります。
私が「政治・経済の中心である東京では、(殺人の)約半数が軍・警察に
より虐殺された」と書いたのにたいし、太陽の牙さんは「数字の遊びにすぎな
い」と正面からの反論を避けたようです。これは暗に数字の上では、その事実
を認めているのでしょうか。
太陽の牙さんは、そうした虐殺は軍が根拠のないデマに振り回され「誤想
防衛」に走った結果であるとみているようです。しかし軍がデマに振り回され
虐殺に走ったかどうかは疑問です。
はたして9月5日以前の軍・警察は、デマの真偽を確かめもせず、それを
いとも単純に信じて、安易に人殺しを積極的に行うような「烏合の衆」だった
のでしょうか?
私は、東京で軍・警察が率先して朝鮮人虐殺を半分も行った事実は、軍・
警察がデマを伝搬させていた事実とあわせ、どう見ても主体的に判断し行動し
た結果ではないかと思います。
一方、デマと軍・警察の関係ですが、私は#1446で9月5日以前は
「軍や警察は流言飛語を積極的に伝播させていました」と書いたのに対し、太
陽の牙さんは#1450でこう書かれました。
> どこが「流言飛語を積極的に伝播」させたのか。さっぱり解らない。状況不明
>のまま、確かめる術もないままデマを伝達させたのであるから、「積極的」など
>とは程遠い。
太陽の牙さんの見方は、軍・警察は積極的にデマを流したのではなく、状
況不明のままデマを確かめもせず伝達させていたとのことですが、私は、軍・
警察は単にデマの伝達にとどまらず、民衆を扇動していたのではないかと思っ
ています。
この点で私の文、#1446は舌足らずであったようなので、ここでさら
に補足したいと思います。当時、警察官憲が民衆を扇動した責任を追及する弾
劾文を、ある法学博士は新聞にこう書きました(注3)。
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警察官の明答を求む
法学博士 上杉慎吉
私は数百万市民の疑惑を代表して、簡単に左記の五箇条を挙げて、警察官
憲の責任に関し明答を得たいと思ふ。
1.9月2日から3日に亘り、震災地一帯に○○(鮮人)襲来放火暴行の訛伝
謡言が伝搬し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の情況を呈する
に至ったのは、主として警察官憲の自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟
なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実で
ある。
然(しか)るに其の後、右は全然事実に非ずして虚報であったと云ふこと
は、官憲の極力言明して打消して居る所である。然らば、警察官憲が無限の流
言蜚語を流布して民心を騒がせ、震災民の惨禍を一層大ならしめたるに対して
責任を負はなければなるまい。
2.当時、警察官憲は人民に向て○○○○(不逞鮮人)の検挙に積極的に助力
すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を認容したのであった。
而(しか)して手に余らば殺しても差支(さしつかえ)なきものと、一般
をして何となく信ぜしめたのである。而して之を信じて殴打撃殺を行った者は
到る処に少なからぬのである。
此れ等の自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰すべきこと当然であるが、
さて之に対する官憲の責任は如何。
・・・ (国民新聞 大正12.10.14)
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この他にも官憲の責任を問う声は、そのデマに乗せられ、実際に竹やりな
どで人を無惨にも殺し、後に殺人罪に問われた自警団から猛然となされました。
そうした人たちの多くは、軍・警察がデマで民衆をあおったことを法廷で証言
しました。
こうした証言から、軍・警察がうわさに火をつけたことは動かしがたい事
実ではないでしょうか。その煽動の効果があまりにもてきめんに効きすぎてし
まったので、9月5ころからは湯浅・新警視総監のもと、逆にそれを消しにか
かったようでした。
それを要約して、私は前回「軍や警察は内務省通達に見られるように、う
わさに火をつけ、それが燃え広がると次にポンプで消すという、いわばマッチ
ポンプの役割を演じた」と書きました。
これに対して、太陽の牙さんからは次のような指摘がありました。
> そのような高等戦術を取る理由がない。マッチポンプを行う暇があったら、一
>人でも多くの行方不明者を探し、1俵でも多くの米を運ぶであろう。デマは、そ
>のような本来の救援業務から見れば、邪魔でしかない。警察にも軍にも、マッチ
>ポンプを行う動機はないのだ。動機がないのに、どうして積極的に取組む理由が
>あるのか。
たしかに、軍・警察に朝鮮人を虐殺する動機があったのかどうかはキーポ
イントになりそうです。
同様に、軍・警察は震災の混乱に乗じて朝鮮人以外に、つぎのような虐殺
を行いましたが、これらの解明も重要です。それらは偶発的な蛮行だったのか、
それとも確固とした動機があったのか、また朝鮮人虐殺と関連があったのかど
うかなどもキーポイントになりそうです。
こうした動機について、今回と次回、2回に分けて書きたいと思います。
○亀戸事件
軍は、江東区亀戸警察署で、労働運動の指導者・河合義虎ら14名を虐殺し
た。
○甘粕事件
憲兵大尉・甘粕正彦は、著名な無政府主義者の大杉栄を妻の伊藤野枝や甥の
少年とともに虐殺した。
○王希天殺害事件
軍は、亀戸警察で在日中国人留学生のリーダー的存在であった王希天を虐殺
した。
これらの事件からすると、軍・警察はよほど労働運動活動家や社会主義者
などを敵視していたことがうかがえます。これは軍・警察が朝鮮人を敵視して
いたこととあわせて注目されます。
軍隊が朝鮮人を敵視していたことは、前回書いたように、代議士・津野田
少将の証言や、近衛師団、第1師団などの行動記録からも明らかにされていま
す。
このように、軍・警察が朝鮮人や労働運動家などを敵視していた背景は何
だったのか、その背景にふれたいと思います。
関東大震災直前の数年間は、大正デモクラシーの全盛期で、労働運動や社
会主義運動が盛んで、労働争議などが頻発したのは周知のとおりです。とくに
注目されるのは、そうした指導者たちが植民地・朝鮮とのかかわりで積極的に
発言を始めたことです。
亀戸事件で軍に殺された南葛労働会の河合義虎は、朝鮮人労働者も日本人
労働者と同一戦線に立つべきであると、次のように主張しました(注2)。
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1.朝鮮の労働階級の解放は、朝鮮労働階級が、民族運動から更に一歩を進め
て、プロレタリア解放運動に転じ、民族自決によるインタナショナルに結ぶ運
動に加はることが唯一の途であると思います。
2.日本の労働階級は、朝鮮植民地の絶対解放を叫び、経済的にも政治的にも
民族差別撤廃を主張し、具体的に朝鮮より軍隊の撤去、日鮮労働者の賃金平等
を要求し、運動上の完全なる握手と、同一戦線に立つことを、最大急務として
努めなければなりません。
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この文章は、1923年、日本共産党の機関誌『赤旗』のアンケートに答
えたものでした。当時、日本共産党も朝鮮問題を重視し、アンケートでこう設
問しました。
「日韓併合されて茲(ここ)に13年、朝鮮民衆に対する日本の帝国主義的
資本の搾取と圧迫とは愈々(いよいよ)増加し、之に対する朝鮮民衆の反抗と
闘争とは益々白熱化しつつあります。
実に朝鮮問題は、東洋に於ける一つの民族問題として、吾々(われわれ)
に当面の解決を迫って居ります。日鮮の無産階級は、この問題を如何に解決す
べきであるか。ご高見の一端を御漏らし下さいますならば、甚だ光栄です」
ここにいう朝鮮民衆の反抗と闘争とは、1919年、朝鮮全土を興奮のる
つぼと化した3.1独立運動以来の抗日民族解放闘争をさしますが、3.1運
動はロシア革命や5.4運動とならんで日本に相当な衝撃を与えました。
それに加えて日本の労働界では震災前年(1922)、信濃川で朝鮮人労働者の
死体が「地獄谷」から突然流れてきた事件(注4)をきっかけに、朝鮮人労働
者同盟会が結成され、日鮮労働運動の提携が芽生えていました。
たとえば『前衛』は次のように訴えていました(注2)。
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日鮮労働者の団結
『地獄谷』に於ける鮮人工夫の虐殺は単に監獄部屋制度の一例として見れば
必ずしも珍しい事ではない。けれども之を鮮人労働者虐待の一例として見る時
に、別に重大な意義がある。
日本内地にある鮮人労働者の数はあきらかではないが、急速に増加して居
ることは事実である。そして今後は益々、増加するに相違ない。そこで若し日
本の労働階級が、是等の鮮人労働者と提携し、彼等をその陣列のうちに加へる
ことが出来たら、日本の労働階級には新しい勢力の泉源が加はり、鮮人労働者
は日本の労働者の戦友として、日本の労働運動の重要な一要素となることが出
来る。
・・・
官僚軍閥と資本的帝国主義者から見れば、日本人は征服者であって鮮人は
被征服者であるかも知れぬ。けれども被征服者たることよりも、帝国主義的征
服者たることを恥辱とする無産階級の眼には、鮮人労働者は吾々の同僚であり、
吾々の兄弟であり、吾々の戦友である。
彼等と吾々との間には、闘う可き共同の敵がある。けれども共同の戦線に
立つことを妨げる何等の偏見もない。鮮人労働者の一人に加へられた差別的の
待遇と不法な迫害とは、吾々の全階級に加へられた侮辱と迫害とを意味して居
る。
地獄谷虐殺事件の如きは、其最も著しい実例である。吾々は単に之を、一
般的の人道問題と見ることを以て足れりとせぬ。吾々は之を、徹底した無産階
級の立場から見なければならぬ。そして国境も人種もない、無産階級の立場か
ら、之に対して抗議しなければならない。
・・・
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軍・警察は、このように社会主義者と朝鮮人が連帯を強めていった動きを
もちろん熟知し、相当な警戒をしていました。今井氏は、軍のようすをこう記
しています(注1)。
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軍は、当初から朝鮮人と社会主義者の連絡・通牒の事実を疑っていた。2
日午後6時半頃には高輪署管内白金今里町で、近衛歩兵第4連隊が朝鮮人およ
び社会主義者6人を格闘の末、逮捕し、3日夕刻には淀橋署戸塚分署の放還し
た朝鮮人にたいしても「陸軍当局に於ては鮮人と社会主義者との連絡通牒の事
に対して疑を懐き、是日(3日)近衛歩兵第3連隊に命じて下戸塚署なる長白
寮の止宿朝鮮人全部並に諏訪鉄道工事場にある鮮人大工20余名を引致」した。
(注5、P1272)
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いっぽう警視庁のほうですが、太陽の牙さんの評によれば「先入観や予断
に騙されないだけの冷静な判断力を持った人物」とされる赤池警視総監は、
「余は其瞬間に一部の不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行ふだらうが、大部
分の鮮人が団結連絡して組織ある暴動をなすが如きは断じて無いと思ふた」
と、「不逞鮮人」の不穏計画という先入観をもって事にあたりました(注6)。
警視庁はこのような予断をもち「不逞鮮人放火」などのデマを積極的に伝
播させる大罪を犯しました。その経過ですが、警視庁は震災数時間後の午後3
時には「社会主義者及び鮮人の放火多し」というデマを記録していましたが
(注5)、同日午後4時半ころまでに臨時警戒本部を編成、午後5時から謄写
版印刷の情報を発行、2日払暁までに22報にまで達したとのことでした。
この情報は、外事課・特高課・内鮮高等係等の裏面偵察の報告にもとづく
とされ、「当時警視庁はいやしくも有益なりと信ずる資料は直にこれを謄写し
てオートバイ、自動車を飛ばしこれを諸処に掲示し、大声又はメガホンを以て
伝えしめた」のでした(注1)。
情報の内容は公式に明らかにされていませんが、この中には上記の上杉博
士など多くの人が証言するように「震災地一帯に○○(鮮人)襲来放火暴行」
などが当然あったと思われます。
これらのデマは自然発生的なものか、それとも官憲が最初から意図的に流
したものか、興味のつきないところです。
おわりに、朝鮮人虐殺に怒りをみなぎらせた詩人、萩原朔太郎が詠んだ
「近日所感」を紹介します(注9)。
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ
(注1)関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会・調査委員会『歴史
の真実-関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会,1975
(注2)山辺健太郎「震災と日本の労働運動」『現代史資料月報』みすず書房,
1965.10
(注3)姜徳相他『現代史資料6,関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963
(注4)信濃川水力発電所工事場虐殺事件(注8より引用)
1922年、信濃川支流中津川第2水力発電所の通水隧道工事をやってい
た大倉組のタコ部屋における虐殺、虐待事件である。
この事件は信濃川下流に同胞の屍体が流れてきたことから発見されたもの
で、警察や暴力団の妨害とたたかいながら当時の東亜日報記者が調査を行ない、
8月1日から十数回にわたり新聞に報道されてやっとその真相の一部が明るみ
に出た。
それによると、同胞労働者が監督のいうことをきかないとか、逃亡を企て
たという理由で、素裸にされ、とびぐちでからだのあちこちをぶちこまれて血
だらけにされたのち天井に吊るし、さらに塩水をぶちかけたりして気絶、ある
いは窒息させた。
また鉄板の上に坐らせ、その上に砂利とセメントをかけ、水をぶっかけて
固まらせ、からだが身動きできないようにするが如き蛮行を行なった。
また動けないくらい殴ったのち、雪と氷の中に坐らせ、重い鉄板をもたせ
る罰を加えるなど数限りない虐待を加えた。そのためこの年の5月ごろから8
月まででも数十名の同胞が殺されたが、大倉組はその屍体を信濃川に投じて証
拠をいんめつしようとした。
この事件が知れると、東京では同胞たちにより真相報告会がもよおされた
が、ただちに警察に解散させられた。
(注5)警視庁編『大正大震火災誌』
(注6)太陽の牙さんは#1450で、姜徳相教授は資料の改ざんを行ったと、
次のように主張しました。
> ご丁寧に、姜によ
>る、赤池の手記の改竄までそのままである。赤池は、実は次のように書いたのだ。
>『余は其瞬間に一部の不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行うだろうか、大部分の
>鮮人が団結して組織ある暴動をなす如きは断じて無いと思ふた』(姜資料、P9)
> この部分を、姜は、次のように短縮というわかりにくい方法で改竄した。
>(『関東大震災』P59)
>『余は其瞬間に一部の不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行うだろう』
赤池警視総監の手記を前後の文脈から判断すれば、姜教授が改ざんをして
いないことはあきらかです。太陽の牙さんはそれを正しく理解できなかったよ
うです。そのため姜資料(注3)の誤植を見抜けず、誤った論理展開をしてし
まったようです。正しい手記は、本文にも書きましたが下記のとおりです。
「余は其瞬間に一部の不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行ふだらうが、・・」
なお、これが誤植であることは、原文を写真復刻した資料集(注7)でも
確認できます。資料探索能力を豪語する仮面忍者とびかげさんなら、即座に確
認できることと思います。
(注7)琴ビョン洞編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料3,朝鮮人虐殺に
関する知識人の反応1』緑蔭書房,1996
(注8)朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社,1965
(注9)『現代』1924年2月号、引用は(注7)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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01555/01555 PFG00017 半月城 うわさと戒厳令、関東大震災と朝鮮人(4)
太陽の牙さん、お元気でしょうか。「天皇と戦争責任」問題ではかなりお
疲れのことと思います。さらに、こちらの方もお疲れでしょうか?
私の方はまったく変わりありません。前回にひきつづき、太陽の牙さんが
書かれた下記の指摘について書きたいと思います。
> 警察にも軍にも、マッチ
>ポンプを行う動機はないのだ。動機がないのに、どうして積極的に取組む理
>由があるのか。
関東大震災のマグニチュードは7.9で、1968年の十勝沖地震と同程
度にすぎないのですが、被害は比べものにならないくらい甚大なものがありま
した。地震発生が昼食時と重なり、いたるところで大火災が発生し、紅蓮の炎
が帝都を焼きつくし、死者は10万人以上になりました。
このとき、焼け出された人たちは日比谷公園や宮城前などに50万人、上
野公園・芝公園・靖国神社などに10万人と集まり、水や食べ物を求めるやら、
肉親を必死にさがすやら、そのありさまはたいへんな混乱ぶりだったようです。
そうした極度の混乱を目の当たりにして、治安関係者は何を考え、どう行
動したのでしょうか。
当時の治安トリオ、すなわち内務大臣、内務省警保局長、警視総監の3人
は地震がおこるや、自己の職務そっちのけで「忠君」精神を発揮し、いの一番
に宮中にかけつけ、皇太子(昭和天皇)のご機嫌伺いをしました。そのときの
ようすを赤池警視総監はこう述懐しています(注1)。
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参内から戒厳令の発布まで
第1震で官舎の日本館は半ば潰(つぶ)れた。余は陛下の玉体は如何にと
憂慮して居る処により強い第2震が来た。早速自動車の準備を命じ、舟の様に
揺れて居る室内で制服を着け、直に宮中に参内して摂政殿下(昭和天皇)のご
機嫌を奉伺した。
・・・
宮城内に於て内務大臣に会せる故、余は後藤警保局長と共に引き返したが、
当時火は既に四方に発し、帝室林野局を始めとして警視庁附近の家屋、松本楼
如き盛んに燃えつつありて・・・、神田、下谷、浅草日本橋方面よりは震災火
災の注進櫛(くし)の歯を引くが如き故、余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥ら
ん事を恐れ、此際は警察のみならず国家の全力を挙て治安を維持し応急の処理
を為さざるべからざるを思ひ、一面衛戌総督に出兵を要求すると同時に後藤警
保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言した。
それは多分午後2時頃であったと思ふ。
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赤池は、地震発生のわずか2時間後に「戒厳令」が必要であると後藤・警
保局長に驚くべき進言をしたことは注目されます。後藤の述懐もそれを裏づけ
ています(注1)。
「戒厳令を布くの非常手段を執らざる可からざるとの決意は地震の直後当局
者の間に生じたのであった」
治安関係者がすぐに戒厳令を思いついても、戒厳令はそう簡単に布告でき
るものではありません。これは第1条に「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵
備を以て・・・」とあるように、戦時か、あるいは内乱などが起こらないかぎ
り、戒厳令を布くことはできません。どうみても、火事や社会混乱が理由では
とうてい無理です。
そこで智恵をしぼって考えだされたのが「朝鮮人暴動」の口実でした。こ
のことを、治安の最高責任者である水野錬太郎・内務大臣みずから証言してい
ます(注1)。
「当時内務省も焼け落ちたので、官舎でなにかと始末をつけ夕方(9月1日、
編者)から赤池警視総監をしたがえて災害状況視察に出かけた。しかるに神田
辺(あたり)から自動車ではどうすることもできないので車は乗りすてて上野
辺まで巡視して、意外な惨状に驚いたことであった・・・
翌朝(2日、編者)になると、人心恟々たる裡に、どこからともなくあら
ぬ朝鮮人騒ぎ迄起った。大木鉄相如きも、朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川
辺で噂して騒いでゐるという報告を齋(もた)らした。
早速警視総監を喚んで聞いてみるとそういふ流言蜚語がどこからともなし
に行はれてゐるとの事であった。そんな風ではどう処置すべきか、場合が場合
故種々考えて見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいといふ事に決し
た」
赤池警視総監は「流言蜚語がどこからともなしに行われている」と述べて
いますが、そうしたうわさを警視庁自身があらゆる手段を使って積極的に伝播
し、火をつけたことは前回書いたとおりです。
こうした事実をもとに、朝鮮人虐殺問題研究の第一人者である、琴ビョン
洞氏はこう結論づけました(注2)。
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赤池警視総監が戒厳令の発布を建言したのは、9月1日の「午後2時頃」
である。とすれば地震が起こって2時間ほどしか経っていないので、朝鮮人騒
ぎは露ほどにも起こっていない時に赤池や後藤は戒厳令発布を要請した。罹災
し、混乱した百万近い大群衆による「不祥の事変」を押さえるには戒厳令しか
ないと考えたからである。
ところが実際には、戒厳令を布いた理由を朝鮮人暴動に対処するためだっ
たと水野内相は確言している。ここまで明らかになればもう疑問の余地はない。
つまり、水野、後藤、赤池ら治安3人組は、戒厳令発布要請の理由づけに
苦しんだ挙句、朝鮮人暴動を造りあげて戒厳令発布の法的裏付けを整えたので
ある。この3人の証言、殊に水野のそれは担当大臣だけに決定的と云える重み
がある。
このことと同時に、「朝鮮人暴動」流言の狙いは今一つある。それは日本
人民の不満と怒りを朝鮮人に転嫁させるためであった。この目論見は見事に当
たったということである。
日本人の不満、持ってゆき場のない憤懣を朝鮮人にぶっつけさせる政府内
務当局のやり方は、戒厳令要請の法的裏付けとなり、併せて支配層に向けられ
る人民の不満をかわしたという点で一石二鳥の措置だったが、水野にしろ赤池
にしろ3.1独立運動時の朝鮮人民への血の弾圧者だったことを考えると、朝
鮮人への恐怖とその復讐心の発露ということで一石三鳥の意味があったようだ。
彼らの脳裡には、5年前の米騒動の際、凄まじいばかりの爆発力をみせた
日本人民の反権力闘争と、4年前の3.1運動の折りにみせた朝鮮人民の燃え
たぎる愛国的情熱が、恐怖をこめて想い出されたに違いない。
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内務大臣の水野は2日の政権交代で辞職し、かわりに後藤新平が内務大臣
を引き継ぎました。この二人は、山辺健太郎氏によれば「なかなかのくせ者」
であったようです(注3)。
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震災当時の内務大臣は二人いたが、この二人ともなかなかの曲者である。
一人は9月2日までに内務大臣をやっていた水野錬太郎で、水野は米騒動のこ
ろは内務大臣で食糧難からくる暴動のおそろしさを十分に知っていた。
それだけでなく、植民地統治者として朝鮮の有名な3.1暴動(1919)のあ
とに政務総監になった男だが、彼が斉藤総督といっしょに京城につくと、さっ
そく朝鮮人から爆弾をなげられた話も有名である。
水野が京城にきてからのち、朝鮮の統治状態は悪化するばかりであった。
そして関東大震災のころは、いわゆる朝鮮通として有名であった細井肇という
ようなジャーナリストは、朝鮮が革命前夜にあるかのようにえがいている。
9月2日に内閣がかわり、水野のつぎに後藤新平が内務大臣になった。こ
の後藤は開明的政治家として有名であるが、後藤も台湾の民政長官をやってい
たときは台湾の人を何千人も殺している。
その殺し方は、関東大震災のときの朝鮮人虐殺よりもひどい。彼自身のい
うところによると、土匪帰順法というのをつくり、帰順した土匪(台湾の日本
領有にとかく反抗した人たちを当時こういった)に仮帰順証をあたえ、「其後、
本帰順証交付の為警察署弁務署支署等へ呼び出し訓令を加え、之に抵抗したる
ものは之を殺戮することに予定し同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであり
ます。」という。
その殺戮数も、判決によるのが537名、討伐隊の手によるものが106
名であるのに、後藤のやったのが、「捕縛若(もしく)は護送の際抵抗せし
為」という統計数字上の名目で、これがおどろくなかれ4033人である。
おかしなことにこの後藤新平も米騒動当時の内務大臣で、騒動のすこし前
に水野とかわって外務大臣になった。民衆運動のおそろしさを知っている点と、
植民地統治をやった経験も両者共通であった。こんな恐ろしい連中が震災当時
の内務大臣であったから、朝鮮人もたまったものではない。
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植民地支配の目的達成のためには、台湾の先住民を平気で虐殺するような、
恐ろしい人物が内務大臣に就任したものです。彼らのもとで、警保局長は海軍
船橋送信所から「朝鮮人放火」のデマを各地方長官宛にたれ流したのは、この
シリーズに書いたとおりです(注4)。
その電文は「朝鮮人の放火」に関連づけて戒厳令をしいたという内容にな
っており、水野内務大臣の述懐と一致します。
以上のような資料からすると、内務省は戒厳令を布くために、その理由付
けとして、ありもしない「不逞鮮人の放火」などのうわさに火をつけたとする
琴氏のシナリオは十分考えられと思います。
さて、戒厳令に前後して出動した軍隊ですが、これにより朝鮮人虐殺が加
速されたことは多くの人が証言しています。最近、そうした証言を「朝鮮人の
遺骨を発掘し追悼する会」が積極的に集めていますので紹介します(注5)。
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軍の出動によって、殺された朝鮮人の数は急激に増えた。機関銃を河川敷
にすえての殺害である。朝鮮人が襲ってくると信じていた民衆は、軍隊の到着
を大歓迎で迎えた。
(荒川放水路の)葛飾側での虐殺を証言してくれた横田さんは、「軍隊が来
たときは、みんな守りにきてくれたと思って『万歳! 万歳!』と大歓迎でし
た」と言っている。
また前出の高田さんも、軍隊が朝鮮人虐殺を始めたときの民衆のようすを
語っている。
「憲兵はあくる日、国府台(こうのだい、市川)から来ました。あくる日あ
たりではなかったでしょうか。軍隊が来たのは早かったですよ。四つ木橋は習
志野の騎兵でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮
人がデマを飛ばしたそうで・・・。
それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万
歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」
・・・
機関銃での大量虐殺を見ていたというのは大川さん(仮名)、当時24歳
だった。(遺骨)試掘の時、河川敷に来て、話してくれた一人である。
「22,3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四つ木橋の下流の土手下だ。
西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろ
から撃った。一梃か二梃の機関銃であっというまに殺した。それからひどくな
った。四つ木橋で殺されたのはみんな見ていた」
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こうして無惨に殺された朝鮮人を弔って、江戸東京博物館近くの横網町公
園に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が建てられました。
(注1)姜徳相他『現代史資料6,関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963
(注2)琴ビョン洞編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料3,朝鮮人虐殺に
関する知識人の反応1』緑蔭書房,1996
(注3)山辺健太郎「震災と日本の労働運動」『現代史資料月報』みすず書房,
1965.10
(注4)船橋送信所が発信した電文(引用は注1)
呉鎮副官宛打電 9月3日午前8時15分了解
各地方長官宛 内務省警保局長 出
東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんと
し、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に
東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を
加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。
(注5)関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘する会編『風よ鳳仙花
の歌をはこべ』教育資料出版会,1992
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)