半月城通信
No. 53

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 犯人居直って善行者
  2. 仮面忍者とびかげさんの姿勢
  3. 天皇と戦争責任(7),論壇の動向
  4. 天皇の人事介入、天皇と戦争責任(8)
  5. 関東大震災と朝鮮人(1),虐殺
  6. 関東大震災と朝鮮人(2),軍・警察はマッチポンプ
  7. 「従軍慰安婦」98,「慰安婦」の証言


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/09/22 - 01430/01430 PFG00017 半月城 犯人居直って善行者 ( 9) 98/09/22 21:46 01425へのコメント   ぺくすこんだるさん、こんばんは。こちらの会議室では初めてお目にかか ります。FNETD の方では、ぺくすこんだるさんの「国益居士」を叱る歯切れの いい口調にしばしば溜飲を下げています。   RE:1425、 > こういうのを賊反荷杖と言います。この手の人間は、どこの国にも少なか >らずいるものです。余り気にしないで下さいね、半月城さん。   私としても、バイアスのかかった開き直りにはときどき我慢がなりません。 たとえば「大東亜戦争はアジアの独立に寄与した」などという主張は、韓国に おける植民地支配の悪行を棚に上げた、いわば強盗の居直りを連想させるもの があります。   そのうえ、さらに「善行者」を装うにいたっては、とても見過ごすわけに はいきません。それらに対し、ぺくすこんだるさんのような迫力はありません が、私なりに奮闘するつもりです。 > 素人の折伏は、この ぺくす に任せて、半月城さんはどうぞ学問の道を >邁進して下さい。牙君も   頼もしい言葉です。また、お心遣いありがとうございます。しかし私は学 問をとうにあきらめた、単なる素人です。今後も素人なりにホームページを ツールに、のんびりと日韓の複眼で発言を続けていきたいと思います。 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/09/27 - 02007/02007 PFG00017 半月城 仮面忍者とびかげさんの姿勢 ( 8) 98/09/27 12:52 01888へのコメント   罵詈雑言の多い当会議室にあって、私は仮面忍者とびかげさんとは少しは 資料にもとづいた客観的な議論ができるかもしれないと期待していました。し かし、それはどうやら私の買いかぶりであったようです。   仮面忍者とびかげさん、RE:1888 >                   もし、半月城氏が姜徳相一橋大 >学教授と知合いなら、伝えてもらいたい。『関東大震災と朝鮮人』と『関 >東大震災』(中公新書)は速やかに絶版とし、古本屋から買い集めた方が >いいと。   仮面忍者とびかげさんは、文献を、それも学者が数年かかって集めた貴重 な「資料集」を否定するような御仁だったようです。これは秦の始皇帝の焚書 坑儒的発想でしょうか。一体、資料や事実によらず、何を土台に議論をしよう というのでしょうか。   こうした姿勢では本格的な議論は望むべくもありません。それを裏書きす るかのように、仮面忍者とびかげさん#1625で「半月城氏は、実は天皇主 権論者であり、軍部の思想上の後継者であるのだ」などと、見当はずれのレッ テル貼りをしました。   一般にレッテル貼りは、反論不能に陥った時、それをごまかすため開き直 ってなされることが多いものです。そうした見方が当たっているのかどうか、 仮面忍者とびかげさんは、私の書き込み「天皇と戦争責任(7),論壇の動向」に 対しては、二週間たってもいまだに反論がないようです。   なお、仮面忍者とびかげさんの関東大震災に関する書き込み、#1831 に対する反論は下記に記しました。 |- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/09/27 - |01446/01446 PFG00017 半月城 軍・警察はマッチポンプ、関東大震災(2) |( 9) 98/09/27 12:12 01424へのコメント http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/09/13 - 01661/01661 PFG00017 半月城 天皇と戦争責任(7),論壇の動向 ( 8) 98/09/13 12:26 01625へのコメント   仮面忍者とびかげさんは官僚らしく、官僚的体質がにじみ出ているようです。 天皇の任免権について書かれた#1625などがその典型です。   #1569で、私が張作霖爆殺事件(1928.6)に関連して書いた文章 》天皇の若気の至りの結果、(田中)内閣が総辞職する羽目になるとは、さすが天皇 》の大権である文武官の任免権は絶大なものです。 にたいして、仮面忍者とびかげ氏は#1625で次のように書かれました。 > 上記の部分は私も従来から知っていたし、改めて「昭和天皇独白録」も引っ張 >り出して確認した。しかるに、上記の田中義一に対する天皇の言動のどこが「人 >事権」「任免権」なのだ?理解できない。そもそも、辞表とは出す側が「辞めま >す」と書くものであり、「出させる物」ではない。天皇が田中首相を免じたとす >るなら、田中が辞表を書く必要は全く無い。天皇が国璽を押した辞令を田中に渡 >すだけで済むのだ。   仮面忍者とびかげ氏は、どうやら辞令とか宣告書を渡さないかぎり、任免 権を行使したことにならないとお考えのようです。議論で問題にしている戦時 中の首相や参謀総長などは、任免権者である天皇の信頼を失ったとき、辞表を 出したのが通例ではないでしょうか。国璽が押された辞令を渡された後にしぶ しぶやめていくような首相などは、もしいたとしたらお笑いぐさです。   RE:1625、 > 私は前回、天皇に人事権がなかったという現実を、軍部大臣現役武官制を論拠 >として立証した。天皇に人事権があったなら、何故自分の言う事を聞く大臣をす >える事によって陸軍の政治介入を阻止しなかったのだ   これまで何回も書いているように、天皇が「自分の言うことを聞く大臣」 を選んだ実例として、私は東条首相をあげました。   一方、陸軍の政治介入ですが、政務および統帥を統括する天皇の立場から すれば、軍事と政治の垣根などないも同然で、陸軍の政治介入という問題意識 すらもっていたかどうか疑問です。   仮面忍者とびかげ氏の発言は、この論以外にも慣習法など疑問発言が目立 ちます。戦前、「慣習が成文法の解釈に影響を及ぼし、裁判所が解釈して判例 を作る」例は具体的にあったのでしょうか?   一方、仮面忍者とびかげさんの発言には注目される部分もあります。それ は、軍部などによる天皇機関説排撃の動きを重大な間違いであると認めたこと や、「最後には、首相を陸軍が出すようになって、政治そのものが軍に乗っ取 られた」として、最後の軍人首相・東条にたいして点が辛いことなどです。   また「先輩軍人」たちの愚行を認めるような、次の発言も目を引きます。 >  軍部は、議会やマスコミ、終局的には国民が自分らの行 >動を理解してくれるだろうと踏んだから突っ走ったのであって、一方的に駆り >立てたわけではない。   どうやら仮面忍者とびかげさんは、並 隆史さんのように単純に「大日本 帝国万歳」を叫ぶような御仁ではなさそうです。失礼ながら、私はてっきり同 類かと思っていました。   余談はともかく意外だったのは、仮面忍者とびかげ氏も天皇が具体的な作 戦などにかなり関与していたことを認めている事実です。これは天皇が軍部か ら上奏された作戦、「サイパン放棄」作戦などを必ずしもそのまま裁可してい たわけではないということを認めたものでしょうか?   RE:1625、 > また、天皇が望んだ作戦を、軍部が止めたした例もちゃんとある。 > サイパン奪回である。絶対国防権の正面玄関に当るこの島が、太平洋の戦いの >帰趨を決めるのは明らかであったから、陥落後も何とか奪回を日本大本営は考え >たが、結局手段が無くて諦めざるを得なかった。天皇は再三にわたって軍部に奪 >回の意を表したが、実現しなかった。   これは、私の書いた「天皇の意に反した施策や軍事行動はありえません」 という主張への反論として書かれたようですが、この場合も天皇は戦況の悪化 につれ、1944年6月、サイパン放棄を完全に納得しました。それどころか 撤退を迅速にやるようにと督促までしています。   そのいきさつを山田氏は次のように記しています(注1)。 --------------------------   天皇はサイパンの奪回を主張した。ちょうど海戦が行われている頃(19 日あるいは20日と推定)、天皇はサイパン奪回を嶋田総長に命じた。   サイパンでは地上戦が続いている最中であるから、この場合の「奪回」と は、サイパンに増援部隊を送り、米上陸軍を撃滅する、ということである。   嶋田総長は、すぐにサイパン奪回を計画するよう」軍令部作戦部長・中澤 佑少将に指示した。軍令部作戦課では、直ちにサイパン逆上陸・奪回の具体案 の検討を始め、21日には一応の計画を作り上げたという。   しかし、マリアナ沖海戦での損害は致命的で、奪回作戦ができあがった時 には、すでにサイパン逆上陸は不可能な状態になっていた。   6月24日、東條・嶋田両総長は、サイパン奪回作戦を断念したい、と上 奏した。翌25日、伏見宮博恭・梨本宮守正・永野修身・杉山元の4元帥と東 條・嶋田両総長が列席(もう一人の元帥・閑院宮戴仁は病気のため欠席)して 元帥会議が開かれた。   もっとも、この会議でサイパン奪回の妙案が出るはずもなく、各元帥たち は一様に統帥部案(サイパン奪回断念)を支持した。   しかし、天皇はあくまでもそれに不満だったようで、みずから「更に申し 述べることなきや」と各元帥の発言をうながしたが、杉山が統帥部案支持を再 度表明しただけに終わった。これで天皇もサイパン奪回を諦めたようで、後刻、 両総長に   昨日の上奏のことは差支なし   実行に方(あた)りて迅速にやる様に   陸海軍の航空兵力の協同を一層緊密に行ふ様に    (戦史叢書45『大本営海軍部・聯合艦隊(6)』37頁)  と、正式にサイパン奪回断念を認めている。サイパン島をめぐる「決戦」に 期待をしただけに、天皇のショックも大きかった。意気消沈した天皇は、夜ご と吹上御苑で蛍をながめて気分転換をはかっていたという(入江為年監修『入 江相政日記』第1巻、383頁)。          ------------------------------   このように、サイパン奪回という天皇の希望はもろくも消え去りましたが、 それは軍部の反対のためではなく、戦局の悪化がそうさせたもので天皇自身納 得したものです。ここでは天皇と軍部との対立という図式は成り立ちません。   過去、天皇に無断で現地の軍人が暴走することは時々ありましたが、そも そも現人神・天皇の意思に反したことを、その「臣下」ができるとはとうてい 考えられません。   話は飛びますが、1947年大みそかの東京裁判で、東条に対しローガン 弁護人が、「天皇の意思に反した行動を木戸幸一内大臣がとったことがあるの か」と質問したところ、東条は率直にこう答えました。  「日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない。いわんや日本の高 官においてをや」   天皇の戦争責任に結びつくこの発言に、天皇を裁かない方針のウェッブ裁 判長は回答のもつ重要性を指摘し、同じ方針のキーナン主席検察官と田中隆吉、 松平康昌などが工作して、東条に発言の撤回をさせました(注2)。   しかし、この取り消された東条の発言は、戦時の実状そのものであったと 思います。もし軍人など天皇の意に反した行動などとったら、それこそ逆賊扱 いになりかねません。   東京裁判ではよく知られているように、天皇の訴追はついに行われません でした。それによって、それ以後は「天皇は元来戦犯として処罰されるべきも のであったが、米国の政策的考慮から訴追をまぬがれた」という「天皇戦犯 論」は有力な見解として唱え続けられることになりました(注3)。   東京裁判については、いずれ機会を見てとりあげるつもりですが、その準 備として、天皇の戦争責任についてどのような見方があるのかみたいと思いま す。   おりしも日本大学の長尾龍一教授が『This is 読売』(注3)にそれを要 領よくまとめていますので、以下ではそれを紹介します。   天皇の戦争責任にたいする見方は、つぎの四説に大別されると長尾氏は整 理しました。 1.天皇平和主義者説      天皇は心ならずも内閣や軍部の決定を裁可し続けたという説で、たとえば グルーの著書『滞日10年』では、天皇は親米的で日独伊三国同盟に終始消極 的であったとされています。   また天皇が平和主義者であったことは、38年の歌会始で次のような歌を 詠んだことなどからもうかがいしれるとしています。 「静かなる 神のみそのの 朝ぼらけ 世のありさまも かかれとぞおもふ」 2.統治権名目説   天皇は実際上、常に内閣の補弼に従って行動したというもので、憲法上も 国務各大臣が天皇を補弼し「その責に任ず」(55条)とし、「天皇は神聖に して侵すべからず」(3条)として、天皇の免責を規定しているのはそれが法 的建前であることを示しているという説です。 3.形式的責任説(形式説)   天皇は憲法上の統治権者であり、宣戦布告も、動員令も、召集令状も天皇 の名で発せられたのだから責任をとるのは当然だと、法的地位を問題にする説 です。 4.実質的責任説(実質説)   天皇が実際に開戦や戦争行動の決定に果たした役割を問題にする説です。   長尾氏はこう分類した上で、最近の論壇、とくに実質説の研究成果に注目 しています。これは今までの天皇観にかなりの影響を与えるものであり、同時 に、仮面忍者とびかげ氏への反論にもなるので、長くなりますが下記に引用し ます。          -------------------------------   資料に即して歴史を見直してみると、「統治権名目説」も「平和主義者」 説も相当の修正を余儀なくされる。   天皇が実際に開戦や戦争行動の決定に果たした役割を問題とする「実質 説」の見地を、実証的に証明しようとする試みの代表的なものは、藤原彰の一 連の業績である(『天皇制と軍隊』、五十嵐武士・北岡伸一編『東京裁判とは 何だったのか』など)。   藤原は、憲法上天皇が「絶対君主制」的な権力を持ち、そして現実に天皇 への補弼機関が多元的であり、特に内閣が容喙(ようかい)しえない統帥事項 が拡大するにつれて、軍事問題への天皇の関与の範囲も拡大していった、とい う。   天皇に政策の裁可を求める手続きは「上奏」と呼ばれたが、それには内閣 の上奏と軍部の上奏があり、後者はさらに陸軍と海軍に分かれている。   日清・日露戦争においては、当時の政治指導者たちが、この三者の政策を 統合して上奏したから、天皇はそのまま裁可すればよかったが、昭和期には、 軍部はしばしば統帥権独立や機密保持等を理由として、その決定を他の機関に 諮(はか)らず、直接天皇に上奏した。   天皇が戦争指導に具体的に立ち入ることになったのは、「統帥権」独立と いう超憲法的原則の呪縛の下で、議会も内閣も軍部の行動に対する発言能力を 失い、天皇以外に軍部の決定を抑制する者がいなくなったことに大きな理由が ある。   そこで天皇は否応なしに、作戦内容に立ち入って軍事に関与せざるを得な くなったのである。   例えばアッツ島玉砕(1943.5)の際に、天皇が杉山参謀総長に語った言葉:   霧があって行けぬようなら艦や飛行機を持って行くのは間違いではないの  か油を沢山使ふばかりで・・・斯んな戦いをしては「ガダルカナル」同様敵  の士気を昂け中立、第三国は動揺して支那は調子に乗り大東亜共栄圏内の諸  国に及ぼす影響は甚大である何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけるこ  とは出来ぬか(『杉山メモ』下、19頁)   藤原は特に、蘆溝橋事件(1937.7.7)が一応現地解決した後に、華北、更に 上海地区に大軍を派遣する決定過程で、天皇が積極的な役割を果たしたことを、 例えば、次のような資料(終戦直後の天皇の回想)を引用しながら示す。   その中(うち)に事件は上海に飛火した。近衛(首相)は不拡大方針を主  張していたが、私は上海に飛火した以上、拡大防止は困難と思っていた。   当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ連を怖れて兵力を上海に割  くことを嫌っていたのだ。   湯浅(倉平)内大臣から聞いた所に依ると、石原(莞爾、参謀本部第一部  長)は当初陸軍が上海に二ヶ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云っ  た相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ヶ師の兵力では上海は悲惨  な目に遭ふと思ったので、私は盛んに兵力の増加を督促したが、石原はやは  りソ連を怖れて満足な兵を送らぬ、   私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を常に云っていたが、参謀本  部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であろう。妥協の機会  をここでも取り逃がした。(寺崎英成『昭和天皇独白録』三七頁)   しかし、結局、上海にも派兵した。この回想録が信頼できるものであると すれば、天皇は軍事的威嚇によって中国の譲歩を獲得するという戦略の持ち主 で、中国の抗戦意識を甘く見て、泥沼の戦争の引き金を引いたグループの一員 であった。          ---------------------------------   天皇や15年戦争についての研究が進めば進むほど、天皇の戦争責任が次 第に明らかになっていくようです。とくに上記の藤原氏たちの研究により、天 皇平和主義者説や統治権名目説は、最近の論壇でだんだん不利になっていって いくように思えます。 (注1)山田朗『大元帥、昭和天皇』新日本出版社,1994 (注2)藤原彰他『徹底検証、昭和天皇「独白録」』大月書店,1991 (注3)長尾龍一「昭和天皇と戦争責任」『This is 読売』98年10月号 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/10/04 - 02175/02175 PFG00017 半月城 天皇の人事介入、天皇と戦争責任(8) ( 8) 98/10/04 23:13 02029へのコメント   仮面忍者とびかげさん、RE:2029 >> 仮面忍者とびかげ氏は、どうやら辞令とか宣告書を渡さないかぎり、任免 >>権を行使したことにならないとお考えのようです。 > > その通り。それ以外に、任免権の行使方法があったというなら、教えてもら >いたいものである。公務員の任免権を含む行政権とは、終局的には文書に現れ >ない限り、実体化しないのである。   仮面忍者とびかげさんは、天皇に任免権がなかったとする理由として、天 皇は辞令とか宣告書を出さなかったと理解されているようです。   辞令についていうなら、戦前の国務大臣にかぎらず、現在の首相などの辞 令も天皇が出しているのではないでしょうか? 官僚主義の仮面忍者とびかげ さん流にいえば、それだけで天皇は任免権を行使したことになります。主張が どうやら基本的に矛盾しているようです。   そこへ持ってきて、仮面忍者とびかげさんの書き込みは議論の核心からは ずれています。私が問題にしているのは、戦前における昭和天皇の、形式的お よび実質的な任免権なのに、そこへ仮面忍者とびかげさんは日清戦争当時の 「駐清公使、小室寿太郎」(ママ)を持ち出されました。これはどういうつも りでしょうか?   うがった見方をすれば、反論の材料に事欠いて明治天皇を引っぱり出した のでしょうか? しかも「ぺくすこんだる」さんからご指摘があったように、 「小室寿太郎」と書くあたり、かなりせっぱ詰まっておられるようです。   こうした混乱状態の仮面忍者とびかげさんには反論するまでもないのです が、この機会に昭和天皇は首相などの人事にどのように介入したのか、その具 体例をみたいと思います。 ○昭和天皇の人事介入   昭和天皇が即位したとき、俗称、元老と呼ばれる実力者が一人いました。 西園寺公望で、昭和天皇即位四日目に天皇を補佐せよとの勅書を受け、天皇の 顧問として活躍しました。   昭和天皇は、政権交代時この西園寺に次の首相として誰を任命すべきか下 問し、それに対する西園寺の推薦にそって首相を任命していました。   その西園寺も年老いて役目を果たせなくなった37年ころからは、西園寺 に代わり、天皇によって選ばれた内大臣が首相を推薦するようになりました。 内大臣の推薦であっても、天皇は西園寺が40年に91歳で亡くなるまで形式 的であれ、西園寺の意見も聞いていたようでした。   戦時中は首相推薦という重要な役割をになった内大臣ですが、これは内大 臣府の長官のことで、天皇の側近にあって軍事以外の一般国務について常時天 皇を補佐しました。   内大臣は大臣の名称がついても政府からは独立しており、また宮廷におか れても宮内大臣からも独立し、天皇にのみ直属していました。その仕事は本来 は国家の印章(国璽)と天皇の印章(御璽)を管理し、詔書をはじめ、国璽・ 御璽を捺印する文書関係が中心でした。   それが36年の2.26クーデター以後、天皇が政治・軍事での発言を強 めるとともに内大臣がクローズアップされ、ついには「主席政治顧問」の役割 をになうようになったのは、このシリーズ(6)に書いたとおりです。   その結果、内大臣はつねに天皇の政治の大方針や意向を的確に理解し、そ れを実現する能力が求められるようになりました。またそのような人物が天皇 により任命されました。したがって、内大臣が選定した首相は、実質的には天 皇が選定したといってもさしつかえないと思います。そんな例を、戦犯の筆頭 である東条にみることができます。   仮面忍者とびかげさん、#2029 > 戸川猪佐武の『東条英機と軍部独裁』(講談社文庫)では、 >「近衛文麿が総辞職した後、これまでは重臣たちが協議して、後継を取り決め >るしきたりであったのを、この場合、木戸幸一内府がほとんど一存で、東条英 >機陸相を推した」(P164) > と、天皇ではなく、重臣が選んだ事実が述べられている。   東条首相選任の場合も、木戸内大臣が天皇の意思にそって忠実に任務を遂 行した結果、東条を推薦したとみるべきです。この経緯は天皇の開戦責任を考 えるうえで重要なので、すこしくわしく見ることにします。   当時のいきさつですが、このシリーズ(6)に書いたとおり、天皇は東条 陸相の推薦する東久邇宮を「皇室の為から考へて」好ましくないとして退けま した。   これは「皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採る事とな るので良くないと思った」ことがその一因でした。   さらに天皇は首相選定についてあれこれ注文をつけました。それについて 藤原氏はこう記しています(注1)。          ------------------------------   近衛の辞表には、辞職の原因が、(日米)交渉に「今尚妥協の望みあり」 とする首相と、「開戦に同意すべきことを主張して已(や)ま」ない陸相との 意見不一致であることが(『昭和天皇独白録』)に明記されていた。   その辞表を受理した天皇が、東条を次期首相に任命したことは、どうみて も天皇が東条を支持し、開戦論を支持したことにならざるをえない。   ところが『独白録』では、近衛の辞職を「確固たる信念と勇気を欠いた近 衛は一面9月6日の御前会議決定に縛られてこの間の処理に非常に苦しみ、遂 に辞表を提出して総辞職となった」と非難している。   そして東条に組閣を命じたことについては、後継首相は「9月6日の御前 会議の内容を知った者でなければならぬ」とし、「会議の内容は極秘となって ゐるから、内容を知った者と云えば、会議に出席した者の中から選ばなければ ならぬ」という理由で、東条、及川(海相)、豊田の候補の中から、海軍は首 相を出すことに反対なので東条が選ばれることになったと言い訳をしている。   そして東条についての人物評価をして、「大命に反して北部仏印進駐をし た責任者を免職して英断を振るった」とか、「克(よ)く陸軍部内の人心を把 握した」とか賞賛している。これは、開戦論の東条を後継首相に任命したとい う逃れようのない事実にたいする弁明に他ならないといえよう。   東条への大命降下は、天皇が開戦論にいくらかでも傾いていたのでなけれ ばありえないことである。このときすでに、天皇は陸海軍の大元帥として、対 米作戦計画を裁可し、陸海軍に対する開戦準備のための大命につぎつぎに允裁 をあたえていた。          ---------------------------------   以上のような事実から、天皇の意思を体現して木戸内大臣は東条首相を推 薦しました。その東条は「お上」にきわめて忠実であったことは先に書いたと おりです。   東条以外に天皇が首相を選んだ例として、39年の阿部首相が知られてい ます。これも形の上では、湯浅内大臣が推薦したことになっていますが、そこ でも天皇の意思が強く働いていたようでした。それを井上氏は次のように記し ています(注2)。          ---------------------------------   原田メモによれば、湯浅内大臣が阿部を首相に推したのは、「聖慮のある ところ」であった。すなわち、天皇は「阿部を総理として適当な陸軍大臣を出 して、陸軍の粛正をしなければ、内政も外交もだめだ」と深く感じており、 「『阿部ならば協力してやるだろうし、陸軍のこともわかっているから、一つ やらせてみよう』というお考えであった。外にはいえないけれども、内大臣も この点を主にして考えておったらしく、大体御賛成申し上げた」。   この文章は多少不明なてんがあるが、「御賛成申し上げた」のは、内大臣 が天皇に賛成したということである。このように天皇の意向が先に示されてい たということは、首相選任手つづきとして異例なことだから「外には言えな い」のである。          ---------------------------------   井上氏によれば、この当時、天皇は首相指名どころか陸軍大臣の人事にま で具体的に介入したようでした(注2)。またときには、官僚の人事にまで関 心を示したようでした。          ---------------------------------   国務大臣については、首相が組閣に当たり、閣員名簿をさしだす前に、あ らかじめ、天皇自身の発意で、条件をつけることがある。そのもっともきわだ った例は、1939年8月27日、平沼騏一郎内閣が総辞職し、その後に、内 大臣の推薦により天皇が陸軍大臣(予備役)阿部信行に組閣を命じたばあいで ある。   そのとき天皇は、阿部に「(1)陸軍大臣は梅津(美治郎、中将)、畑 (俊六、大将)のなかより選ぶべし。(2)外交の方針は英米と強調するの方 針をとること。(3)治安の保持はもっとも重要なれば、内務大臣、司法大臣 の人選は慎重にすべし」との三カ条を指示した。  ・・・   天皇が組閣者に、大臣たるべき人物を指名するとは前例のないことである が、陸軍三長官が合意のうえで推す人物であっても、天皇の気に入らぬものな ら、けっして承認しないとあらかじめ申し渡すのは、天皇が、自分は国家元首 であり、陸海軍の大元帥であることを強く自覚し、その機能を自身で直接発揮 して、政府および陸軍を一新しようとしたことを示している。  ・・・   天皇はその意向を侍従武官長をして陸軍三長官にも伝えさせた。三長官は びっくり仰天し、はなはだ不満であったが、明らかな天皇の意志にそむくこと はできないので、天皇の指名した二人のうち畑を陸相として推薦した。   さらに天皇は、阿部が閣員名簿を提出したとき、他の大臣についても、い ろいろ、懸念することをただして、阿部からの答になっとくしてから、その任 命を承認している。  ・・・   天皇裕仁は、大臣の人事についてのみでなく、行政各省の局長の人事にま で関心をもった。たとえば第一次近衛内閣のとき1937年12月24日、内 務省の次官が代り、同時に警保局保安課長富田健治が警保局長に内定した。   すると天皇は内務大臣を招き「一体今度の人事はどういうのか。富田とい う男はファッショだときくが、どうか?」と問うた。内相末次信正(予備役海 軍大将)は返事もできず困ったという。   末次は有名なファッショ軍人であり、彼が内相に就任すると同時にこの人 事が行われ、内務省随一のファッショ官僚として知られた富田が抜擢された。 天皇のこの問は、末次にたいするあてこすりをふくむかもしれない。   もっとも天皇は、富田はファッショだから、警保局長は不適任だとまでは いわなかったので、翌日この人事異動は正式に発令された。          ------------------------------   天皇の任免権をもとにした人事介入は国務大臣にかぎらず、ときには天皇 の統帥権補翼の任にある陸軍参謀総長や海軍軍令部総長などにも及びました。   といっても、世が平穏なときは陸軍大臣や海軍大臣が立案したものを天皇 はそのまま裁可しましたが、重要な局面では介入したことが知られています。   それは日独伊三国軍事同盟を前にしたときですが、井上氏はこう述べてい ます(注2)。          ------------------------------   天皇はまた1940年9月、日独伊三国軍事同盟の締結を前にして、閑院 宮の陸軍参謀総長、伏見宮の海軍軍令部長をやめさせるよう、天皇のほうから 積極的に発議した。木戸内大臣の日記9月17日の条にいわく。  「10時出勤、武官長(侍従武官長)来室。陛下より両総長御勇退、元帥府 確立につき思召を拝したる由にて、相談あり」。   9月19日、「10時10分、思召により拝謁、総長宮更迭につき、聖慮 を承る。11時すぎ退出す」。   どうして天皇はこのように発議したのか。これについて木戸は、19日の 日記に次のように書いている。  「かねて愈々(いよいよ)重大なる決意をなすときとなりたるを以て、此際、 両総長宮の更迭を願いて、元帥府を確立するとともに、臣下より両総長を命ず ることとしたしとの思召(天皇の意向)あり、武官長に御下命あり、余にも相 談すべき旨御沙汰あり」。   天皇は“重大なる決意”すなわち独・伊と軍事同盟を結んで米英に対抗す る決意--それは米英との戦争にいたることをかくごせねばならない--をか ためるとともに、万一戦争になったとき、皇族が陸海軍統帥機関の長であるこ とを望まず、臣下に代えたかったのである。   戦時(あるいは戦争準備期)の参謀総長、軍令部総長の責任は至重至大で ある。天皇は第一にその責任を皇族に負わせたくなかっただろうし、第二には、 場合によっては皇族-->皇室-->天皇へと責任がおよぶことを警戒したの であろう。   陸軍は閑院宮の参謀総長をやめることにただちに同調し、10月3日、閑 院宮は辞職し、後には杉山元が総長になった。海軍はいますぐ伏見宮がやめる のは絶対に困るとのことで、翌1941年4月、伏見宮は辞職し、永野修身大 将が後をついだ。   以上のとおり、日本が日中戦争に行きづまり、新たな大戦争への道を歩み 始めるという転換期には、陸海軍最高首脳の人事について、それまでの慣例ど おり、陸海軍内部の発議を天皇が承認するというのではなく、天皇が積極的に イニシアチブを発揮した。          ------------------------------   以上のような実例からすると、天皇は人事権に関しても黙々と捺印機のよ うに内閣や軍部の決定を裁可し続けたわけではなく、ときには絶対的な任免権 を行使したのでした。   これからしても、天皇は立憲君主の枠内にとどまっていたわけではないこ とがわかります。といっても、天皇は逆にその絶大な権力をことごとく行使し て、絶対君主のように振る舞ったわけでもありませんでした。   そうした姿勢に、天皇の弟である秩父宮(陸軍将校)は31年ころ、不満 を持っていたようでした。秩父宮は兄の天皇に会い、しきりに陛下の「御親 政」の必要を説かれたようでした(注2)。彼は、このころ急速に台頭しつつ あったファッショ的な青年将校の影響を受けていたようでした。   そうした言を退けた昭和天皇は、独自の君主像をもっていたようで、その あたりはいかにも日本的な要素の濃いものといえます。とくに敗戦の可能性を 考慮して、皇室や三種の神器の安泰を守る発想などがその典型といえます。 (注1)藤原彰『昭和天皇の15年戦争』青木書店,1991 (注2)井上清『天皇の戦争責任』現代評論社,1975 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/09/20 - 01830/01830 PFG00017 半月城 関東大震災と朝鮮人(1),虐殺(一部訂正) ( 8) 98/09/20 10:49 01708へのコメント   仮面忍者とびかげさんが書かれた、関東大震災時の朝鮮人に関する下記の 文に反論を記します。 > また、在日コリアンが大川常吉を大いに顕彰し、記念碑まで建てている > にも関わらず、肝心の陸海軍や神奈川県警察部による組織的保護には全く > 沈黙している点にも注意が必要である。朝鮮人は常に、日帝から迫害され > ていたというコリアン・フィクションを成立させるためには、陸海軍や警 > 察が組織として朝鮮人を保護してくれたという事実は、邪魔以外ではない。   どうやら、仮面忍者とびかげさんはニュースの価値というものをおわかり でないようで、しかもその上に偏見に満ちた結論を出されておられるようです。   よく言われるように、犬が人をかんでもニュースになりませんが、人が犬 をかんだらニュースになります。   つまりこの場合、警察や陸海軍は、狂った自警団により「犬死に」させら れる朝鮮人を保護するのは当たり前のことで、これはニュースになりませんが、 その逆、つまり軍や警察が朝鮮人を虐殺したら、これは重大なニュースになり ます。   ところが仮面忍者とびかげさんは、通常なら当たり前のできごとを特筆大 書されているわけです。これは裏を返せば、仮面忍者とびかげさんは、異常な 虐殺が当時は日常的に行われていたことを暗に認めるものにほかならないと思 います。   仮面忍者とびかげさんは、亀戸周辺での軍・警察による「朝鮮人虐待」の 事実をお認めのようですが、これは虐待などという手ぬるいものではありませ ん。まずは、そのありさまを資料から紹介します。   資料は一次資料を編纂した、この道のバイブルともいうべき書物『関東大 震災と朝鮮人』(注1)ですが、その巻頭の資料解説にこう書かれています。 (以下の文章は、前掲の「関東大震災と朝鮮人関係資料」と重複します)           ------------------------------ 資料解説  ・・・   7.近衛・第一師団の行動   8.近衛・第一師団勲功具状   震災時において近衛、第一師団の行動を知ることは極めて重要である。な ぜなら虐殺の主体は軍隊であり、しかもおもに虐殺の行われた9月2日、3日 に戒厳配置についたのはこの師団だからである。   軍隊の虐殺をそのまま提示する資料は本書資料項目19に記載された如き もの以外は恐らくありえないと考える。したがって軍隊による虐殺の追求は彼 等の行動記録と他の資料を操作する以外にない。   資料は東京震災録所収近衛、第一両団の行動一覧表から朝鮮人関係のみを 抜粋したものであるが、文中「鮮人掃討」、「鮮人鎮圧」なる用語が不用意に 洩されていることに注意されたい。元来掃討、鎮圧などが軍隊用語として使用 される場合の表現範囲、内容はかなり限定されるものであり、敵対行為の結果 とみてさしつかえない筈である。   次に当時の見習士官であった越中利一氏の回顧録を掲げてみよう。  「関東大震災のときに、東京を中心に出動した軍隊の総数がどのくらいだっ たかははっきりしていない。しかしいま記憶にある連隊の名だけでも、麻布1 連隊、同3連隊、騎兵1連隊、世田谷輜重兵連隊、佐倉歩兵57連隊、津田沼 鉄道連隊、その他地方から一、二の連隊、工兵、憲兵隊をかぞえることができ る。   とにかく市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺はたいてい戒厳令勤務に 服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで実弾と銃剣をふる って侵入したのであるからなかなかすさまじかったわけである。   ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し 前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて 営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。   二日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅 から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるからさながら戦争気分! そして 何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵 をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。   亀戸に到着したのが午後の二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水の ようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。 将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。 どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりた かっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そし て直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のよ うに湧きおこる万才歓呼の声、国賊! 朝鮮人は皆殺しにしろ! ぼくたちの 連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝 鮮人狩りをやりだした。」(日本と朝鮮、1963年9月1日号) (途中省略)   一つの挿話がある。当時兵隊は飯ばかり喰って、おかずの魚は喰おうとし なかった。なぜならば、東京湾に流し捨てられた朝鮮人の死体をくっているか らイヤだ、というのである。   清水幾太郎氏は同じようなことを目撃している。市川の兵営の洗面所のよ うなところで、  「兵隊たちが銃剣の血を洗っているところです。誰を殺したのかと聞いてみ ると、得意げに朝鮮人さと言います」(「私の心の遍歴」)           --------------------------   文中にある資料19は「政府による事件調査」ですが、ここにわずかなが ら朝鮮人虐殺の事実は記されています。しかし、公文書に虐殺の事実を記すの はよくよくのことなので、これは氷山の一角にすぎないと思います。   その一方、証言など状況証拠は軍隊による大がかりな虐殺を示しているの で、研究者たちはこの問題を長い間追い続けてきました。最近、その証拠にな る貴重な資料が見つかりました。以下にその報道および文献(注2)を紹介し ます。           --------------------------- <関東大震災>朝鮮人ら虐殺で新資料見つかる--東京都公文書館               毎日新聞ニュース速報、97年1月19日  1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後、6000人以上の朝鮮人らが虐 殺された事件に関連し、当時の陸軍省関東戒厳司令部が極秘にまとめた兵器使用の調査 表が東京都公文書館に保管されていることが19日までに分かった。朝鮮人を中心に約 280人の虐殺について実行部隊、兵器使用者、殺害方法などを詳細に記録しており、 専門家は「これまで朝鮮人虐殺には不明な点が多かったが、軍の行為を明確に裏付けた 貴重な資料」と評価している。  調査表は「震災後警備ノ為(ため)兵器ヲ使用セル事件調査表」と題され、漢字と片 仮名で武器を使用した20件を記録している。  このうち12件は朝鮮人が犠牲者のもの。陸軍の騎兵連隊などが震災直後から6日午 前7時半ごろにかけて東京・両国橋西詰付近や千葉県浦安町役場などで朝鮮人計252 人を銃剣で射殺したり、こん棒で撲殺したことを記している。  事件概況と備考の欄では朝鮮人らが爆弾らしいものを投げようとしたり、群衆や警官 と争いになったため「自衛上止(や)ムヲ得ズ射殺」などと記載している。また20件 の中には東京都江東区の亀戸署内で社会主義者の平沢計七ら10人が虐殺された亀戸事 件も含まれており、この事件も「中尉ハ事情已(や)ムヲ得サルモノト認メ警備中ノ下 士卒ニ命ジ全部之(これ)ヲ刺殺セシメタリ」と説明している。  松尾章一法政大教授(日本近現代史)の話 この調査表の内容は、軍が自分たちの行 為は、朝鮮人が暴動を起こしているため不可抗力であるなどと正当化するものだが、そ れが皮肉にもこれまで不明な点が多かった軍の関与を明確に示す記録となっている。軍 の虐殺行為を裏付ける貴重な資料だと考える。           -----------------------------   このように身の毛のよだつような虐殺を歓迎する民衆の存在、これもまた 衝撃的です。文中に書かれた「嵐のように湧きおこる万才歓呼の声」、こんな 種類の歓呼の声が日本史にかってあったでしょうか?   こうした民衆がいる一方で、大川さんの孫のような人の存在も忘れること ができません。仮面忍者とびかげさんや東大の藤岡信勝氏は黙して語らないで しょうが、孫の大川豊さんについて、先日、再起をはたした朴慶南さんは次の ように伝えています           ------------------------------- 朴慶南の眼(『週刊金曜日』97.9.5)    (前半省略)   デマに踊らされた人々の狂気が吹き荒れる中、朝鮮人を保護し、敢然と守 り抜いた警察署長がいた。その人、大川常吉さんを拙著で紹介した。   まず、何よりも実際にあった虐殺の事実をきちんと知ってほしい、その上 に立って、大川さんの行動から、未来へ繋がる教訓を読者に汲み取ってほしい という思いを込めて書いた。   反響はありがたいものであったが、スタンスが違うと、私の意図からかけ 離れたものになることも思い知らされた。大川さんの美談だけが本文中からそ っくり抜かれ、『教科書が教えない歴史』に載せられた。  「こんな人がいた」記述だけでは甚だしくバランスを欠く。個人の存在が歴 史の免罪符には決してならない。被害を受けた側から見れば、そういう「奢 り」は耐えがたいものだ。   ここで披露したい逸話が一つある。拙著を読んだ韓国はソウルの病院長か ら講演の依頼を受けた。ぜひ、大川さんの親族も一緒に招待したいとのことだ った。韓国人の一人として大川さんの子孫に恩返しをしたいという申し出に、 大川さんの孫にあたる男性を伴った。   病院の大勢の職員を前にして、その大川豊さんが挨拶する機会があった。 「私の祖父のしたことで、こんなに歓待していただきお礼の言葉もございませ ん。でも祖父がやったことは、実はごく当たり前のことだと思います。   そんな当たり前のことをここまで感謝されるということは、裏返して言え ば、いかに日本人が当時の韓国人(朝鮮人)にひどいことをしていたかという ことです。   日本人の一人として私がみなさんに申し上げたいことは、この言葉しかあ りません。ミアナムニダ(ごめんなさい)」   深々と一礼した豊さんに、拍手が続いた。この視点(姿勢)と感受性こそ、 今いち番必要とされるものではなかろうか。            --------------------------   ときに仮面忍者とびかげさんこと、太陽の牙さんはこの大川豊さんにも 「自虐史観」だとして牙をむくのでしょうか? (注1)姜徳相他『現代史資料6、関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963 (注2)松尾章一他『関東大震災、政府陸海軍関係史料』全三巻    日本経済評論社、1997 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 朝鮮半島全般の話題 98/09/27 - 01446/01446 PFG00017 半月城 軍・警察はマッチポンプ、関東大震災(2) ( 9) 98/09/27 12:12 01424へのコメント   仮面忍者とびかげさんは、関東大震災の分厚い資料を整理したわりにはだ いぶ見落としが多いようです。しかもその不十分な整理に立ち、疑問の多い結 論を導いておられるようです。   RE:1424, > 逆に、荒川流域以外の場所では、姜資料のどこの頁を見ても、軍による朝鮮人、 >中国人への虐待を挙げている資料は載っていない。それどころか、現在の東京2 >3区内や京浜地方、三浦半島においては軍がひたすら救援活動に没頭しており、 >そして朝鮮人に関するデマが流れるごとに偵察してはそれを打ち消していた事実 >が書かれている。   軍による虐殺は亀戸など荒川流域以外に、仮面忍者とびかげさんが点検整 理したはずの姜資料(注1)の随所に記載されています。まずもって、仮面忍 者とびかげさんは日本政府による事件調査書すら見落としているようです。   これは姜資料のP371に、不十分ながらも軍による虐殺が記録されてい ます。すなわち「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書(秘)」 がそれですが、その第十章「第四 千葉県下に於ける殺害事件」に軍人の殺人 がすこしは記録されています。   その記述は、多くは兵卒が朝鮮人を銃殺したものですが、そんな中で船橋 無線電信所長・大森大尉の「鮮人殺害教唆嫌疑」が異色で目を引きます。   これは現在の中山競馬場近くにある法典村の虐殺事件にかかわったもので、 自警団が大森大尉から鮮人は殺してもよいと聞かされ、朝鮮人を虐殺した事件 でした。   当時おこなわれた裁判について、東京日々新聞(1923.11.13)の見出しはこ う書いています。  鮮人は殺してもよいと   船橋無電から通知    殺す考へはなかったが斬った・・・     裁判官も被告も笑ひながらに      中山、法典事件公判   この事件は軍が直接手を下さず、自警団をそそのかし朝鮮人を虐殺したも のですが、その時の警察の態度も注目されます。虐殺現場で「警察は見てゐた が別に止めもせずに只(ただ)見ている丈であった」との証言が裁判でなされ ました。   その裁判は殺人事件を扱っているのに、法廷全体がときには笑いにつつま れていたようで、人を殺したことに対する罪の意識など、かけらもなかったよ うです。当時、軍や自警団は犬殺しでもするような感覚で、6千人もの大量虐 殺を行ったのでしょうか。   ところで船橋無電といえば、法典事件を別にしてもその存在は一躍有名に なりました。船橋無電、すなわち海軍船橋送信所は、震災時に首都圏の情報や 官公庁の公文を一手に全国へ発信したからです。その中に内務省警保局長が流 した電文、朝鮮人が各地で放火をしているというものがあり注目されます(注 2)。   当時は日本にまだラジオがなかった時代で、しかも首都では新聞も壊滅的 な状態だったので、船橋送信所が発信する情報は貴重でした。その送信所が 「不逞鮮人」のデマをたれ流した影響ははかりしれないものがあります。   その電文は震災翌日(2日)の午後、内務省で書かれたとされますが、こ の時点で早くも内務省が意図的に「不逞鮮人」のデマを流したことは注目され ます。このデマは当然、東京府下の警察各署にも伝令によって伝えられたもの と思われます。   デマのたれ流しは警察だけではなく、軍も一役かっていたようでした。し かも記録上、軍は警察より早かったようで、2日午前10ごろ、士官学校前の 塀に、「午後1時強震あり、不逞鮮人来襲すべし」の張り紙がしてあるのを、 四谷署、牛込神楽坂署が記録しています(注6)。   軍はこのようなデマを流す一方、戒厳令で朝鮮人を当初から敵視していた ことが姜資料からうかがえます。たとえば、P212に東京・幡ヶ谷でのエピ ソードがこう書かれています。          --------------------------------    敵は朝鮮人だと上官が命令した     「議会で問題になろう」と       代議士津野田少将語る  (前半省略)  「私は思ふ今度の色々な事件に対しては何う考へても陸軍戒厳部が越権沙汰 ではなかったかといふことです・・・  戒厳部当局は当時あたかも敵国が国内にでも乱入した場合のやうなやりかた をしたのではなかったらうか。私の宅の付近でもあまり騒々しいので私は門の 外に出て見たら武装した軍隊がゐた。   そして隊長らしいのが「敵は今幡ヶ谷方めんに見はれた」(ママ)云々と 号令しているので私はその将校を捉へて『敵とは何か』と質問したら『朝鮮人 だ』と答へたので私は更に『朝セン人が何故敵か』と問ふたら『上官の命令だ から知らぬ』と答へた。   勿論当時はいろいろ事情もあり虐殺された鮮人中にも不穏の行動に出たも のがあったであらうが、国民としてはこれ等のことに対して十分調査の必要が ある。自分としても目下精査してゐるが伝へ聞くところによると某大官なども 関係して種々の風説をうんでゐる。何れは議会の一問題となることはまぬがれ まい」(読売新聞,1923.10.22)          -------------------------------   軍の朝鮮人敵視はときには度が過ぎたものがあり、千葉県では「幕張の如 き騎兵聯隊から警備用として自警団一区に対し銃三丁弾丸15発づつ貸し下げ たとさへいはれ」ています(注3)。   こうした軍や警察の行動が自警団をあおる結果になり、大量虐殺をはびこ らせたといえます。   自警団による虐殺は朝鮮人はもちろんのこと、中国人や朝鮮人にまちがえ られた日本人も多く殺されました。あやうく殺されそうになった日本人に、演 劇俳優の千田是也さんがいました。千田さんは、千駄ヶ谷(?)における地獄 さながらの体験から、芸名を千田是也(コレヤ)と名付けたそうです。コレヤ はいうまでもなく朝鮮を意味します。   朝鮮人虐殺をマクロ的に見れば、こうした自警団による殺害が大半で、軍 や警察が直接手を下して虐殺したのは、仮面忍者とびかげさんがいうように、 あるいは1割程度であったかもしれません。   軍や警察はそうした直接責任に加え、自警団をそそのかしたり錯覚させた りした責任は、それに劣らず重大であると思っています。   ここで仮に、軍・警察による虐殺がたとえ全体の1割であったとしても、 私は南十字星さんのように「軍なり政府なりが組織的に、或は大規模に虐殺し たと申すは事實無根」という考えには賛成できません。   仮面忍者とびかげさんは、軍による虐殺は荒川流域を中心に「700人を 超えない」とされていますが、この数字の持つ意味は重大です。ミクロ的にみ れば、虐殺された朝鮮人は東京府で1,347名と推定されていますので(注 4)、政治・経済の中心である東京では約半数が軍・警察により虐殺されたこ とになります。   これは千葉県の被虐者324名(注4)をたとえ計算に入れても、大勢に ほとんど影響はありません。   このように震災初期、首都では軍が中心になって虐殺をしたという事実は、 内務省発「不逞鮮人」のデマとならんできわめて重大です。軍・警察による意 図的な治安対策を連想させます。   実際、震災に便乗して軍や警察は社会主義者を虐殺しているだけに、軍や 警察は何を考え、どのように動いたかは重要です。それを資料から引用します (注5)。          -----------------------------   関東大震災がおこるや軍官警の中枢部が最も恐れたのは、混乱に乗じて、 社会主義者や、彼等のいう不逞鮮人が民衆を扇動して反乱を組織することだっ た。   赤池警視総監がのちに語ったところによれば、朝鮮人暴動の報を聞いた 「その瞬間に一部不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行うだろう」と考えたとい う。   なぜ、彼らがまず不逞鮮人が、この機に乗じて、不穏計画や暴挙をおこな うだろうと脳裏に画いたのか。軍官警が、震災直後から体制の確立を急いだの は、罹災者の救援以上に、警備対策、それも朝鮮人に対するものだった。   警視庁は9月1日の口頭伝達につづいて翌2日、「朝鮮人の暴行」の流言 が伝えられると、同日午後3時、朝鮮人の全員“保護”検束を決定した。神奈 川県の決定も、ほぼ同時刻であったらしい。   そして、警視庁は、同日午後5時、朝鮮人放火・暴動の流言にもとづいて、 不逞者取締りの命令を出し、午後6時すぎには、不穏の徒あらば「撃滅」すべ きことを命令している(警視庁『大正大震災誌』)。   さらに、翌三日午前8時15分、政府は、内務省警保局長名で各地方長官 宛に次の電文を、海軍船橋送信所(大森良三)を通じ打電している。・・・ (電文は注2参照)。この電文はすでに二日の午後作成、伝騎により、船橋に 送られたらしい。   先の『関東大震災と朝鮮人虐殺』第1部、朝鮮人虐殺の真因の究明での、 朝鮮人暴動の流言の発生状況の分析によれば、2日午後3時(警視庁、朝鮮人 全員検束を指示)以前には、東京では府下全63署のうち17署と本庁、神奈 川県では、27署のうち8署の管内で発生が報告されているにすぎないが、以 後急激に伝搬していく。   その流言の内容も、東京では、午後3時以前には単に「朝鮮人暴動」と伝 えられているのが、以後は、朝鮮人「集団の来襲」を伝える流言が主要内容と なってくるという。被災地各地に自警団が組織されていくのも2日の夜からで ある。   こうみてくると、2日午後の「朝鮮人全員検束の指示」、「不逞者取締に 関する件」の命令、戒厳令の施行が「朝鮮人暴動」の流言蜚語に生命を与え、 真実性を帯びさせる働きをしたことは否定できなくなってくる。   さらに、船橋送信所を通じての各地方長官宛の通達は、その流言の真実性 を全国的に拡大波及させる役割を果たした。          ------------------------------   仮面忍者とびかげさんはさかんに官憲によるデマの打ち消しなどを強調さ れていますが、これらは9月5,6日以降のことです。それ以前は、うえに見 たように、軍や警察は流言飛語を積極的に伝播させていました。   つまり軍や警察はうわさに火をつけ、それが燃え広がると、次にポンプで 消すという、いわばマッチポンプの役割を演じたといえます。こうしてみると 軍や警察は、やはり朝鮮人虐殺に主導的役割をはたしたといえるのではないで しょうか。 (注1)姜徳相他「現代史資料6,関東大震災と朝鮮人」みすず書房,1963 (注2)船橋送信所が発信した電文   呉鎮副官宛打電 9月3日午前8時15分了解     各地方長官宛       内務省警保局長 出  東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんと し、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に 東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を 加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。 (注3)東京日々新聞(1923.10.21)、引用は(注1)P208 (注4)高柳俊男監修「東京のなかの朝鮮」明石書店,1996 (注5)千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人び     と』青木書店,1983 (注6)今井清一他編『関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会,1975 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/10/11 - 02373/02373 PFG00017 半月城 「慰安婦」の証言、「従軍慰安婦」98 ( 8) 98/10/11 21:22 02002へのコメント   ゆーみんさん、こんばんは。 ゆーみんさんは、クマラスワミ報告書のあら探しをしているとも思えないので すが、その中にあるチョン・オクスンさんの証言について何が言いたいのでし ょうか?   ゆーみんさん、RE:2002 >この報告書はあちこち史実と異なる記述がある上に,間違いだらけではないですか。 >例えば,次の部分を読んでおかしいとは思われませんか。 >いかがでしょうか。   ゆーみんさんの指摘は、元「慰安婦」チョン・オクスンさんの証言を全面 的に否定するものでしょうか? それとも証言の一部を疑問視するものでしょ うか? 後者の場合、チョン・オクスンさんが日本軍により「慰安婦」を強い られたとする本質的な申し立てはお認めになるのでしょうか?   チョンさんの証言にかぎらず、「慰安婦」たちの証言は半世紀も前の古い 体験なので、そもそも正確な証言をすること自体とうてい無理な話です。した がって、たとえチョンさんの証言があやふやで一部に誤りがあったとしても、 それはなかば当然ではないかと思います。   その上、言葉ではとうてい言い表せないような苦難、それも自分の母親に すら打ち明けられないような苦難であれば、二度と思い出したくないでしょう し、その記憶を必死に消し去ろうと努めてきたのではないかと想像されます。   しかし、そうした記憶はいくら消そうとしても、決して消し去ることがで きるものではありません。その地獄のような思い出は、容赦なく彼女たちを苦 しめ、しばしば悪夢として彼女たちにつきまといました。   ある「慰安婦」などは、しばしば夜中に突然飛び起き「ミオサキ」と叫び、 となりに寝ている息子の襟先を両手でつかみ、首を絞めあげるように揺さぶっ ていたとのことでした。ところが、朝になると彼女はそうしたことなどまるで 記憶になく、息子にいわれて初めて自分のしたことのおぞましさに驚くような ありさまでした(注1)。   このようにひとり苦しみ、決して語ろうとしなかった過去ですが、こうし た闇に眠る史実こそ「従軍慰安婦」の全体像を明らかにするうえでどうしても 必要不可欠です。たとえ多少不正確な記憶であっても、その体験を語る生き証 人の存在自体が歴史的に重要な意味を持ちます。   この問題の推移を見ても、1991年、日本政府への怒りから、当時の女 性の価値観では恥とされた「汚れた」過去をあえてさらけだし、敢然と名乗り 出た「慰安婦」金学順さんの証言が大きな転機になったといっても決して過言 ではありません。   かように「慰安婦」の証言は歴史的な意義をもつものです。そうした証言 の意義を把握せずに、証言のささいなあら探しをするような方々が時々おられ るものです。これはある一派、たとえば仮面忍者とびかげさんのように「歴史 教育であれば自国の汚点など、決して教えるべきではない」(#2327)と考える 人にとって、自然な成り行きかもしれません。   ゆーみんさんはどうかわかりませんが、彼等にとってそうした日本の汚点 になるような過去の事実はとことん隠蔽したいでしょうから。   しかし、そうしたやり方はもちろん国際的に通用する道理がありません。 国際的に厳しい非難をあびて当然です。その回答の一例が国連人権委員会の論 議に示されたわけです。   その委員会で任命されたクマラスワミ氏は、「慰安婦」たちの証言をどの ようにとらえたのか、それを報告書にみることにします(注2)。          --------------------------------    その人生のうちでもっとも屈辱的で苦痛に満ちた日々を再び蘇らせる意 味をもつに違いないにもかかわらず、勇気をもって話し、証言を与えてくれた 全ての女性被害者にたいして、特別報告者ははじめに心からの感謝をささげた い。特別報告者は、非常な感情的緊張のもとにありながら自分の経験を話して くれた女性たちに会ったことで、深く心を動かされた。 --------------------------------   「慰安婦」の証言をめぐって、クマラスワミさんのようにそれに心を動か されるのか、それとも証言のあら探しを始めるのか、そこにその人の人間性が ストレートににじみでるのではないかと思います。   他方、「慰安婦」の重い証言は、いったん沈黙を破って語りだしたら、今 度は逆に止まらない可能性があります。その際、悲惨な体験をすればするほど、 そのつらい過去の恨みつらみが自然に誇張されることは十分考えられます。   また、今までに懸命に忘れようとしてきた体験だけに、それを正確に思い 出すことはかなり困難なことと思われます。また「慰安婦」自身、どうしても 語りたくない部分や修飾したい部分もあるでしょうし、そのため歴史家の目か らみればつじつまの合わない点があっても不思議はありません。   しかし、そうしたささやかなデフォルメがあるにせよ、性奴隷であること を強要された「従軍慰安婦」の存在、ひいては「従軍慰安婦」の歴史的意義に なんら影響するものではないと思います。   これについて、クマラスワミ報告書を翻訳した荒井信一氏は下記のような 見方をしていますのでご参考に引用します(注2)。この引用は以前にもこの 会議室にしたことがありますが、今ではもう読むことはできないようです。   そのかわり、#2169で紫雅蜜柑さんが紹介された私のホームページ 「半月城通信」で読むことができます。そのURLを文末に記します。   そこには「従軍慰安婦」に関する書き込みが約100本あります。私は 「ゆーみんさん、お勉強しませう」などと申しません。気が向いたら目を通し てください。   話はかわりますが、MAKOMさんは「従軍慰安婦」と国際法との関連を お調べのようですが、「半月城通信」の冒頭で「国際法」をキーワードに全文 検索されると役に立つかもしれません。蛇足ながらつけ加えます。   本題にもどり、「慰安婦」の証言について続けます。          ------------------------------ 『R.クマラスワミ国連報告書』解説  ・・・ 証言が50年以上の時間的距離を経た人間の記憶を通じての過去の再現 であること、しかも思い出したくない過去に起因する心の傷が現在でも証言者 の心を強く動かしていることなどを考えると、証言が過去そのままの再現とな ることは考えにくい。    それはすでに当初から心に受けた印象の強弱に従い、はっきりと焼き付 けられた部分もあれば、脱落したり曖昧になった部分もあったはずである。ま た長い記憶の歴史の中で混乱や混同を経験し変形されてもいよう。この変形、 一種のデフォルメは事実そのものを表していないが、しかしそれは現在に至る まで持続的に被害を受け続けてきた被害者たちの生(せい)の真実を、むしろ リアルに表現するものである。被害者たちの心に映じかつ残っているイメージ により、我々は、被害者をかって苦しめ現在までも苦しめている軍事的性奴隷 の真実に初めて接近できるのである。    問題が被害者たちの被害回復であるとすれば、やはり被害者たちの認識 を決定し、要求の基礎となっている彼女たちの心の真実から出発する以外にな いのである。    クマラスワミ氏が「当時一般的であった状況のイメージを作り上げるこ とが可能になった」と述べているのは、おそらくこのような意味であって、被 害者からの視点を重く見る姿勢がここにも示されているように思う。          ------------------------------   1995年、クマラスワミ氏は「慰安婦」の全体像をつかむために「慰安 婦」から聞き取り調査をし、当時の状況のイメージをつかみました。しかし、 このときの「慰安婦」の証言は、藤岡氏などに言わせれば、たとえウソを申し 立てても偽証罪に問われるようなシビアな場での証言でなかったことも確かで す。   こうした底意地の悪い見方をする人への反論として、それでは偽証罪に問 われる可能性がある場所、すなわち裁判所で「慰安婦」はどのような証言をし たのか、またそれを裁判官や、被告の法務省がどのように判断したのかを紹介 したいと思います。   裁判における「慰安婦」の証言ですが、韓国「ナヌムの家」の住人・朴頭 理さんは、つい先ごろ山口地裁で判決があった関釜裁判で次のように申し立て をしました(注3)。この朴頭理さんは、映画「ナヌムの家」のビョン監督に よれば、韓国で高校生のファンクラブができるくらい親しまれているハルモニ (おばあさん)です。          ------------------------------- 原告・朴頭里の陳述と供述 (1)原告朴頭理は、陰暦1942年(大正13年)9月2日、現韓国慶尚南 道三浪津郡で生まれた。同女は、7人兄弟の一番上に生まれ、弟三人と妹三人 がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いて金を稼いで家 に入れなければならないと思っていた。   同女が数えで17歳のころ、三人の男が娘たちを集めるために、同女らの 家族が住んでいた村にやってきた。   同女の家にも、50歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてき て、同女に対し、「日本の工場で金になる仕事がある」と話しかけてきた。同 女は、日本の工場に行って働き、金儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと 考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことに決めた。   同女は、父母に対し、「日本で稼いで家族に仕送りがしたい」と申し出た ところ、父母はこれを疑うことなく反対もしなかった。その後、同女を勧誘し た男が、同女と10人くらいの村の娘らを一緒に釜山に連れて行った。同女は、 釜山から大きな船に乗せられて台湾に連れて行かれた。 (2)船酔いがひどかった同女は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれ た。同女を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同女に対し「客をと れ」と述べ、同女は「それは話が違う」と逃げようと考えたが、言葉も道も分 からず、頼れる人も知っている人もいないため逃げることもできなかった。   同女は、男と接したのはその時が始めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人 たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所にお いて朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジ コ」であった。 (3)同女は、一日に10人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要された。 休みは一カ月に一日だけであり、自由な外出もできなかった。慰安所での食事 は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近く のバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも、慰安所の 主人からもひどく叩かれたことがある。   同女は、台湾にいた5年間、慰安所の主人から金をもらったことはなく、 位の高い軍人の客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための 化粧品を買える程度のものだった。   国民学校に通っていた弟が「文房具を買ってほしい」と同女宛に書いた手 紙が届いた際、同女は金が一銭もなく、泣いていたため、他の慰安婦の娘たち が同情して募金をしてくれ、その金で文房具を買って弟に送ってやったことも あった。   同女は、慰安婦として長年性交渉を強いられたことにより、右の太股の下 がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術跡が現在でも遺っている。 (4)同女は、敗戦後、慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で 故郷に帰った。同女は、父母に対し「台湾にある日本の工場で働いていたが給 与はもらえなかった」と虚偽の事実を述べた。   その後、同女は結婚し子供も生まれたが、台湾の慰安所での生活のことは 隠し通してきた。同女は、本件訴訟提起により慰安婦であったことを実名にて 初めて公表した。           ---------------------------   この申し立てからすると、朴頭理さんもやはり「慰安婦」としての過去を、 親にはうそを言ってまで隠していたようですが、今までどれほど悩み苦しんで きたことでしょうか。   また「慰安婦」生活を強いられたあいだ、主人からお金はまったくもらえ ず、弟の文房具を買うのに事欠いたというのは、どんなに切なかったことでし ょうか・・・   お金がもらえなかったのは、朴さんが連れてこられるまでの旅費など、い わゆる前借金や衣装代、利子などにしばられていたためでしょうか。秦郁彦教 授の語る「慰安婦」は高給取りであったという皮相的な見方とはおよそかけ離 れているようです。   裁判では、朴さんの他に李順徳さんも証言しましたが、ここでは割愛しま す。証言の一部は「半月城通信」の「従軍慰安婦」93に書いたとおりです。   さて、裁判ではこうした申し立てに対し、被告である法務大臣は一言半句 も反論をしませんでした。そのため裁判長は、彼女たちの言い分の「信用性は 高い」と認め、判決でこう述べました(注3)。           ---------------------------- 慰安婦原告らの陳述や供述の信用性   前記(1)ないし(3)のとおり、慰安婦原告らが慰安婦とされた経緯は、 必ずしも判然としておらず、慰安所の主人等についても人物を特定するに足り る材料に乏しい。   また、慰安所の所在地も上海近辺、台湾という以上に出ないし、慰安所の 設置、管理のあり方も、肝心の旧軍隊の関わりようが明瞭でなく、部隊名すら わからない。   しかしながら、慰安婦原告らがいずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分で なかったことに加えて、現在、同原告らがいずれも高齢に達していることを考 慮すると、その陳述や供述内容が断片的であり、視野の狭い、極く身近な事柄 に限られてくるのもいたしかたないというべきであって、その具体性の乏しさ のゆえに、同原告らの陳述や供述の信用性が傷つくものではない。   かえって、前記(1)ないし(3)のとおり、慰安婦原告らは、自らが慰 安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴に至って初めてこれを明らかに した事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むし ろ、同原告らの打ち消しがたい原体験に属するものとして、その信用性は高い と評価され、先のとおりに反証のまったくない本件においては、これをすべて 採用することができるというべきである。   そうであれば、慰安婦原告らは、いずれも慰安婦とされることを知らない まま、だまされて慰安所に連れてこられ、暴力的に犯されて慰安婦とされたこ と、右慰安所は、いずれも旧日本軍と深くかかわっており、昭和20年(19 45年)8月の戦争終結まで、ほぼ連日、主として旧日本軍人との性交を強要 され続けてきたこと、そして、帰国後本訴提起に至るまで、近親者にさえ慰安 婦としての過去を隠し続けてきたこと、これらに関連する諸事実関係について は、ほぼ間違いのない事実として認められる」           ----------------------------   この判断を私は至極妥当なものと考えますが、ゆーみんさんはどうお考え でしょうか? また「慰安婦」の証言に対するゆーみんさんの感性はどのよう なものでしょうか? (注1)川田文子『戦争と性』明石書店,1995 (注2)戸塚悦朗他訳『R.クマラスワミ国連報告書』日本の戦争責任資料セ    ンター,1996 (注3)松岡澄子他『関釜裁判判決全文』戦争責任を問う・関釜裁判を支援す    る会,1998 http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:私の原点と望み、 My Wish [zainichi:04698] Date: Thu Jan 15 22:31:14 1998 (前半は、「従軍慰安婦」85をご覧ください)   半月城です。 [zainichi:04666],Tsukamoto さんの好奇心に答えたいと思います。 >あなたの理想は、どのような世界ですか? >具体的に。将来どのような日本社会を望むのですか?   私は、戦争のない世界、差別の少ない社会をとくに望んでいます。差別に ついていえば、私は時代の制約もあって骨身にしみる経験をしてきただけに、 差別解消、中でも「出生地主義」は私の悲願です。   人は生まれながらにして平等で、親の門地や貧富、国籍などで差別される べきではないと思っています。世界人権宣言にも「すべて人間は、生まれなが ら自由で、尊厳と権利について平等である・・・」(第1条)とうたわれてい るのはよく知られているとおりです。   血統主義は日本や韓国、ドイツなどで採用されておりますが、世界人権宣 言の精神からすると、親の国籍で子どもの権利が制限される血統主義は早急に 改められるべきであると思います。   もちろん、出生地主義で問題がすべて解決されるわけではありません。こ の制度を採用しているアメリカで差別が厳然としてあるのは周知のとおりです。 そのアメリカは公民権運動により差別がかなり薄まりましたが、その結果得ら れた社会は、差別する側であった白人にも住みやすいものになったのではない かと思います。   差別はどこの国でも存在するのでしょうが、その深刻さの度合いがその国 の成熟度を示すバロメータになっているのではないかと思います。そうした意 味で、私が住んでいるこの日本がより成熟した社会になり、部落差別やアジア 人に対する差別がなくなるよう期待しています。   最後のご質問の、若い世代の戦争責任ですが、これについては、ゆうき@ 北京さんが適切なコメントをされていますので割愛したいと思います。   一方、ときのETRANGERさんの南京虐殺に関する質問には別な機会 に答えたいと思います。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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