- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/08/14 -
01341/01341 PFG00017 半月城 天皇と戦争責任(4),遅すぎた「聖断」
( 8) 98/08/14 23:27
日本国民を塗炭の苦しみに引きずり込み、アジア諸国の多くの命を奪った
日本の侵略戦争が終わり53年になりました。
今回は、終戦に際して昭和天皇はどのような役割を果たしたのか、またそ
れは妥当であったのかどうか見てみたいと思います。
その当時、天皇の役割はとくに重大でした。現人神である天皇が終戦を決
意しないかぎり戦争は終わらないからです。天皇の終戦の決意は「英断」とか
「聖断」とかよばれますが、昭和天皇が亡くなられた日(1989.1.7)、当時の竹
下総理は閣議決定の謹話を発表し、「英断」をこう称賛しました。
「・・・お心ならずも勃発した先の大戦において、戦禍に苦しむ国民の姿を
見るに忍びずとの御決意から、御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下
されたのでありますが、・・・」
開戦が「お心ならずも」ではなかった、つまり天皇の意にそうものであっ
たことは、このシリーズの最初にみたとおりですが、こうした通説がかなりま
かり通っているようです。
また、戦争終結は天皇の「聖断」によるもので、その後の日本の発展は天
皇のおかげであるという論がかなりあるようでが、そこには、天皇の「英断」
には称賛されこそすれ、何の問題もなかったというニュアンスが込められてい
るようです。
こうした見方が本当に正しいのかどうか、当時の状況にてらして調べてみ
たいと思います。
42年6月のミッドウェー海戦敗北以来、アメリカとの戦闘で日本は日に
日に敗色が濃いものになりました。なかでも、日米決戦の天王山と目されたマ
リアナ沖海戦(44年6月)で負けるや、日本の敗戦はもはや時間の問題とな
りました。
この戦いで、人命軽視の戦闘機・ゼロ戦がアメリカの新鋭戦闘機や新型砲
弾により次々に撃ち落とされ、かつ日本の戦艦も大半が沈められ、日本は史上
まれに見る惨敗を喫しました。
そのうえ、この海域にあるサイパン島は補給を断たれて孤立し、日本軍・
住民5万人以上が、時にはバンザイ岬から飛びこみ自決をするなど、ことごと
く玉砕して果てました。
この敗北により、東条首相兼参謀総長は辞任しました。東条は、天皇が
「彼程、朕の意見を直ちに実行に移した者はいない」と称賛するほど、天皇の
戦争指導を忠実に実行した男ですが、しかし能力の方は疑問だったようです。
司馬遼太郎から「軍事専門家としても宰相としても低能に近かった」(『春灯
雑記』)と酷評されているほどです。
また人物的にも「なまの東條のつまらなさには、やりきれない思いがす
る」(同上)とされ、人間的な魅力にも欠けた人物だったようです。東条を讃
美した映画「プライド」でも、カリスマ性はほとんど見られず、また確かに面
白みに欠ける人物でした。
余談はさておき、マリアナ敗北の影響は深刻でした。数カ月後にサイパン
を拠点に「空飛ぶ超要塞」B29による日本空襲が始まり、日本は四六時中、
空襲警報におびやかされる生活を余儀なくされました。
その一方で、軍事的には統帥部が定めた「絶対国防圏」なるものが崩壊し、
日本は西太平洋の制海権・制空権を失い、相当な深手を負いました。この敗北
について、当時、航空参謀としてマリアナ沖海戦に参加した奥宮正武少佐(当
時)はこう回想しました。
<「あ号作戦」に完敗するに及んで、遂に組織ある作戦遂行能力を失うに至
った。したがって、その後のレイテ沖海戦を含むフィリッピン方面の戦闘、沖
縄戦、本土攻防戦などは、端的にいって、米軍の残敵掃討作戦に等しかった」
(注1)。
しかしこのような認識は大本営、とくに陸軍にはまるでなかったようで、
終戦工作は話題にもならなかったようでした。それに関し、山田氏はこう述べ
ています(注2)。
「とりわけ陸軍は、補給をたたれた不慣れな孤島での戦いではなく、大兵力
を縦横に動かす本格的な陸戦になれば、必ずやアメリカ軍に大打撃を与えられ
ると信じていた。
一戦をまじえて、アメリカ軍の侵攻を一時的にも頓挫させたうえでないと、
外交交渉には入るべきではない、というのが統帥部の腹づもりであり、天皇も
基本的にその路線を支持していたのである。
統帥部のこうした一戦への執着が、以後およそ一年間、日本軍将兵と一般
国民に多大な出血を強いることになる」
この海戦を機に、天皇は戦争指導の気力をすっかりなくしてしまったよう
でした。それほど敗戦の衝撃は大きかったようです。
これ以降、統帥部はアメリカに一撃を与えるべく、台湾沖、レイテ沖、フ
ィリッピンなどでアメリカ軍と戦闘を行いましたが、ことごとく敗北しました。
その結果、日本は全海域で制海権や制空権を失い、輸送船は各所で「もぐ
らたたき」のようにことごとく沈められました。ある時は日本沿岸の長崎・軍
艦島に接岸した輸送船すら沈められました。そのため、軍需物資はおろか生活
物資まで極度に不足するようになりました。
こうなると誰の目にも戦争の続行は、いたずらに無益な犠牲を増すばかり
であることが明らかでした。しかし、アメリカに一撃を与えたい一心の統帥部
は前代未聞の「神風特攻隊」まで考えだし、あたら若い青年の命をいけにえに
するという、人命軽視のむごい作戦まで始めました。
こうした情勢にたまりかねて、元首相の近衛文麿は天皇に次のような上奏
文(45.2.14) を提示しました。
「最悪なる事態(敗戦)は遺憾ながら最早必至なりと存候。・・・勝利の見
込みなき戦争を之(これ)以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存
候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずる
べきものなりと確信仕候」
近衛は共産党までレトリックに使い終戦を勧告しましたが、天皇は「もう
一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」と事実上拒否しました。
戦果にこだわるあまり戦争終結は簡単に見送られ、その結果、かの悲惨な
沖縄戦が引き起こされました。
この沖縄戦に天皇は一縷の望みをつないでいたようで、「此戦が不利なれ
ば陸海軍は国民の信頼を失ひ、今後の戦局憂ふべきものあり」と真剣に受けと
めていました。
沖縄戦で劣勢な日本は特攻機による攻撃を日常的に行い、あげくのはては
戦艦「大和」まで無謀にも突撃に参加させました。しかしこうした戦法もアメ
リカの敵ではありませんでした。
沖縄戦をとりまく情勢および終戦への動きを山田氏はこう記しています
(注2)。
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沖縄本島では、5月4日、第32軍が全力を挙げて反攻作戦に踏み切った
が、攻勢は1日で頓挫した。また、ヒットラーの自殺とムッソリーニ処刑の報
が5月1日には大本営にもたらされていた。盟邦指導者は共に倒れ、沖縄の戦
況もにわかに暗転した。
ちょうどこの頃、すなわち5月はじめ、天皇はようやく「終戦」を決意し
たようである。近衛文麿は木戸内大臣に聞いたこととして、海軍内で終戦工作
に従事していた高木惣吉少将に次のように話している。
<なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、
全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦
うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近(5
月5日の2,3日前)御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持
になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えに
さえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると
思う、との木戸の話である(高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』>
いかに天皇が責任者の処罰と全面的武装解除に強く反対していたかがわか
る。つまり、天皇が台湾あるいは沖縄での「決戦」で米軍に打撃を与え、その
うえで外交交渉をと考えていたのは、そうした戦果があがらないとこれらの問
題でも譲歩せざるをえないと判断していたからである。だが、天皇は武装解除
には最後までこだわったようである。
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こうしたこだわりから、日本はトルーマン米大統領の対日降伏勧告(45.5.
8)をもちろん無視しました。日本にもはや勝算は全くなく、戦争が一日でも長
引けばそれだけ日本国民の犠牲も増大するのに、そうした犠牲に目をつぶり、
あえて戦争を継続する道を選びました。それについて、藤原氏はこう記してい
ます(注3)。
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沖縄の戦闘が終局に近づいていた6月8日に開かれた御前会議でも、「飽
くまで戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」と
いう「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定した。
翌6月9日から13日まで開かれた臨時議会では、戦時緊急措置法という
内閣に独裁的権限を付与する包括的な委任立法と、15歳以上60歳以下の男
子と17歳以上40歳以下の女子すべてを兵役に服させるという国民義勇軍兵
役法が成立した。
「一億総玉砕」という合言葉で、国民総自殺ともいうべき狂気の世界へつき
すすんでいたのである。
このとき御前会議に報告された「国力の現状」も「世界情勢判断」も、ま
ったく悲観的なものであった。それなのにあくまで戦争を完遂するという決定
は、軍部強硬派を宥めるためとはいえ、あまりにも現実離れのした強硬論であ
ったといえる。
・・・
7月26日、連合国のポツダム宣言が発表されて、外務省も陸軍もただち
にこれを翻訳した。しかし27日の最高戦争指導会議構成員会議も、同日の閣
議も、しばらくはこれにたいする意思表示をしないということでまとめられた。
しかし外部にたいしては、首相の談話として、これを「黙殺する」と発表した。
これが原爆投下やソ連参戦の口実となったのである。
8月6日8時15分、広島に原爆が投下された・・・
投下後16時間目に、トルーマン米大統領は声明を発表し、その内容はラジオ
放送されたが、声明はこれが人類初の大型爆弾であること、日本が無条件降伏
をしない限り、日本の地上の都市や工場を「抹殺する用意がある」というもの
であった。
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あくまで「一撃」にこだわっていた天皇も、原爆投下による惨禍を前に、
やっと終戦を決意したようです。『終戦史録』によれば、広島の被害状況の大
きさが判明した8日、東郷外相は参内して、もはやポツダム宣言を受諾する他
ないと内奏し、天皇は速やかに終戦措置を講ずるようにせよ、との旨を首相に
伝えよと命じました。
しかし、これは即時停戦を意味するものではありませんでした。9日の最
高戦争指導会議は降伏の留保条件として、天皇の地位の保証という1条件だけ
をつけるか、武装解除、戦犯処刑、本土占領の3条件への要望を加え4条件と
するかで対立していました。
これは天皇の「御聖断」により、天皇の地位についての1条件とすること
に決定しました。戦争の最終段階になっても、天皇の関心はこのような皇室の
安泰と「三種の神器」の保全にあったことはよく知られています。
46年に作成された『昭和天皇独白録』で、天皇はポツダム宣言受諾を決
意した理由を次のように述べています。
「当時私の決心は第一に、このままでは日本民族は滅びて終ふ、私は赤子
(せきし)を保護する事ができない。
第二には国体護持の事で木戸も同意であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれ
ば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、そ
の確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一
身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」
これと同様の趣旨は、皇太子にあてた手紙の中でも「戦争をつづければ、
三種の神器を守ることが出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので、
涙をのんで、国民の種をのこすべくつとめたのである」(『新潮』86年5月
号)と記しました。
国体の護持が、三種の神器を守ることであり、そしてその神器を守るため
に終戦を決意したとは、現人神の考えることは並の人間には理解できそうにも
ありません。
ちなみに三種の神器とは、八咫鏡(ヤタノカガミ)・天叢雲剣(アメノム
ラクモノツルギ)・八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を指します。これらは
壇ノ浦で平家滅亡の時、たしか安徳天皇と共に海に沈んだのではないかと、記
憶しています。
(注1)奥宮正武他『機動部隊』朝日ソノラマ文庫,1982
(注2)山田朗『大元帥、昭和天皇』新日本出版社,1994
(注3)藤原彰『昭和天皇の15年戦争』青木書店,1991
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/08/30 -
01503/01503 PFG00017 半月城 天皇の統帥大権、天皇と戦争責任(5)
( 8) 98/08/30 13:52 01394へのコメント
しばらく留守にしていた間に、遅すぎた「聖断」をめぐって議論がだいぶ
進展したようです。遅ればせながら、それに多少なりともコメントしたいと思
います。
RE:1469、吉川さん
>「天皇が・・・・」という言い方しかしないのなら、天皇制強化を主張しなけれ
>ばおかしいのでは?
>見当違いにもNOVOさんへのRESに書いてしまいましたが、萩野谷さんや半月城
>さんまでが「天皇の判断」に期待を寄せることが理解できません。
天皇の「聖断」以外にどのようなシナリオが可能だったでしょうか。法的
にいって、宣戦や戦争の終結はもっぱら天皇の大権に属し、首相といえども補
弼外で、開戦のときは閣議決定を御前会議の結論まかせにしたくらいです。同
じように終戦も天皇がイエスと言わないかぎり戦争は終わらず、その間に日本
の被害がますます増大するのは目に見えています。
こうした状況を頭に入れ「聖断」以外のシナリオを私なりに考えてみました。
RE:1389
>昭和天皇は将来の革命におびえて先に降伏したわけです。(それが主とは言えま
>せんが)
革命の可能性はあったでしょうか? 特高の弾圧下、革命の指導者は刑務
所のなかに閉じ込められ手も足も出ないので、このシナリオは成り立ちそうに
ありません。
しかし破滅的な戦争継続により官憲の力が相対的に弱まり、暴動が発生し
た場合、刑務所の解放もありえますので、革命による政権奪取もあるいは可能
だったかもしれません。
次はクーデターです。軍部のとなえる本土決戦が実現し、日増しに日本の
犠牲が甚大になれば、これに耐えかねて日本の軍部にもロンメル将軍のような
体制内反逆者が出現する可能性があったかもしれません。ロンメル将軍は失敗
しましたが、日本でクーデターが成功する可能性はゼロではなかったと思いま
す。
残るもう一つの可能性は大日本帝国の自然消滅です。皇居ならびに大本営
が爆撃により壊滅、天皇を含めた戦争指導者が死亡し、白旗を掲げられる人が
いなくなり、かわりに占領軍が統治を行う場合です。この道はアメリカが避け
ましたので、ほとんど可能性はなかったようです。
いずれの可能性にせよ、それらのシナリオが成り立つ前に、日本はそうと
うな壊滅状態になっている可能性が大です。そうした破局を避けるとしたら、
好むと好まざるとにかかわらず、戦争遂行責任者・天皇によるポツダム宣言受
諾しかなかったと思います。
特に天皇は「現人神」としての権威を持っていたし、憲法上も独断で開戦
や終戦を宣告できる権限をもっていたので、早い時期に「聖断」をすべきだっ
たと思います。
ところで、天皇の権限、とくに統帥権に関して、一部にすこし誤解がある
ようです。
RE:1394,仮面忍者とびかげさん
> 嘘だと思うなら、直ちに六法を開いてみよ。立法行政司法及び統帥の各大
>権を行使(輔弼・補翼)するのは全て臣下の職務。天皇は議会の決議に否を唱
>える事は許されない。また、閣僚の副署なくしていかなる命令も出せない。い
>かな不敬罪容疑者であろうと、裁判所が無罪判決を出せば、それに介入できな
>い(現に、津田左右吉、尾崎行雄らは、無罪あるいは起訴猶予になった)。ま
>た、自らは1兵たりとて動かす事ができない。どんなまずい作戦であっても、
>軍部から計画が上がってくれば裁可されないわけにはいかない。
この発言の中で行政に関する限り、大臣の補弼や大臣の副署はたしかに憲
法上そのように規定されています。しかし実際問題として、大臣が自分の人事
権を握っている天皇に逆らってまで副署を拒否するなんてまず不可能です。
したがって、大臣は拒否権を持っているとみるより、天皇に忠節をつくす
イエスマンになることが求められていると見るほうが適切ではないでしょうか。
つぎにかんじんな統帥権ですが、仮面忍者とびかげさんは曖昧に書かれ、
かつ、あやふやな結論を出しているようですが、これはすこし違うようです。
それに関し、中村克郎氏の文を引用します(注1)。
--------------------------
戦前の日本の軍隊を統率する最高の指揮権は明治憲法第11条に天皇の大
権と定めてあり、一般の国務から完全に独立していました。統帥大権は、外交
大権、文武官任命大権、戒厳大権などとともに天皇の大権事項といわれたもの
です。
他の天皇の大権事項は、旧憲法の第55条によって国務大臣の補弼による
ものでしたが、この軍隊の統帥大権に限っては、一般政務のような内閣総理大
臣や重臣たちの意見や閣議の決定による補弼を排し、天皇だけが自分みずから
統帥権を行使できたのでした。
陸海軍が戦争を始める、すすめていく、終えるという決定は、総理大臣の
意見も閣議の決定も及ばない、天皇だけが裁断できる権限内にあったのです。
---------------------------
念のために、大日本帝国憲法を調べてみると、天皇と戦争や軍隊との関係
はこう定められています。
[第11条]天皇は陸海軍を統帥す
[第12条]天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
[第13条]天皇は戦を宣し和を講じ及諸般の条約を締結す
[第14条]天皇は戒厳を宣告す
軍事に関する規定はこれだけで、補弼や補翼などの規定はまったくありま
せん。こと統帥権に関する限り、陸軍大臣や海軍大臣すら補弼の権利・義務な
どは憲法上一切ありません。また、陸軍の参謀総長や海軍の軍令部長などは職
名すら憲法に登場しません。
このように日本帝国憲法からすると、基本的に日本帝国軍隊は天皇親率、
すなわち天皇が動かすものです。これをさらに明確したのが、かの悪名高き
「軍人勅諭」で、天皇の軍隊「皇軍」の性格をよくあらわしています。
軍人勅諭は前文で「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」と、
過去の武家政権の史実を曲げることから始まり、「夫(それ)兵馬の大権は朕
が統(す)ぶる所なれば、其司々(つかさ)をこそ臣下に任すなれ」「朕は汝
等軍人の大元帥なるぞ」とうたい、軍隊は天皇が統率することを明確にしまし
た。
つぎに本文では軍人の心得として、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5項
目をあげ、こまかい規定を設けました。
その中には「下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義
なりと心得よ」と、天皇、上官への絶対服従が強調されました。ここから金科
玉条「上官の命令は天皇陛下の命令」という超法規が一人歩きし、理不尽なリ
ンチが横行するとともに、人間性がとことん踏みにじられていったのはよく知
られているとおりです。
それはさておき、天皇は皇軍の統率者として君臨し、行動しており、軍事
に関しても、人事や情報などを終始一貫して集中させていたといえます。
#1353,
>宮殿の奥にいれば、手元の情報も軍部が操作したものしか得られなかった
>でしょうしね。
天皇は人事権という軍人の生殺与奪を握っていたので、あえて天皇に意識
的に操作した情報を伝えた軍人はいなかったのではないかと思います。
その点、天皇を讃美している立場の児島襄はこう語っています(注2)。
「太平洋戦争をふりかえる時、日本でもっとも戦況を知悉していたのは天皇
であった。天皇は陸海軍を統率する大元帥である。陸海軍は相互の間では秘密
にする作戦の推移や特殊事項も、天皇にだけは率直かつ迅速に報告していたか
らである。
天皇はそれら情報を適宜に選別して、職務に必要と判断されるものを内大
臣、首相その他に伝えていた」
意図的にウソの情報を天皇に伝えた場合、もしそれがウソと判明したら、
その軍人は叱責され命取りになるでしょうから、そうした愚かなことをする人
はまずいなかったようです。
天皇への報告がいかに率直になされたかは、資料からも明らかになってい
ます。陸軍関係は不明ですが、海軍は軍令部が作成した『奏上書綴』が部分的
に残っており、それによると天皇へ戦況の上奏が毎日のように詳細になされた
ことが山田氏の研究で明らかになっています(注3)。
----------------------------
海軍の毎日の戦況上奏では、各方面で進行中の作戦の進捗状況、戦果と損
害、輸送船の損害状況、各戦略要点に対する連合軍の空襲状況などが報告され
る。
具体的には後述するが・・・、戦果報告は一般に過大評価されたものが多
いが、損害についてはほぼ正確な報告がなされている。
とくに輸送船の損害状況は、商戦名・トン数・積載物と沈没日時・場所・
原因(潜水艦の雷撃など)が一隻ずつ記され、また空襲状況は、戦略拠点ごと
に来襲敵機の機種・機数、被害状況、遊撃状況・戦果が一覧表にして示されて
おり詳細をきわめている。
報告を見るかぎり、少なくとも天皇は日本の損害については熟知していた
はずである。軍令部作戦課長をつとめた山本親雄も次のように回想している。
(以下省略)
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情報なら過大な戦果、「大本営発表」すら、天皇にそのまま伝えられてい
たようです。これはどうも意図的なものではなく、大本営に情報判断能力がな
かったのが原因のようです。
そのお粗末さにはあきれるばかりです。たとえば台湾沖海戦(1944.10.10)
を見ると、大本営はアメリカの空母10隻などを轟撃沈したと発表しましたが、
米軍資料では沈没なしとなっています。この違いを調べた山田氏はこう書いて
います(注3)。
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なぜ、大本営による戦果発表と実際の戦果の間に、これほどの大きな開き
が生じるのか。天皇に上奏された大戦果は、天皇をあざむくための海軍統帥部
による意図的な創作なのか、それとも錯誤なのか。
結論的に言えば、台湾沖航空戦の幻の大戦果は、戦闘に参加した現地航空
部隊からの報告自体が錯誤に基づく膨大かつ曖昧なものであり、それが大本営
においても厳密な戦果判定審査を経ないままに戦果として報告され、天皇に上
奏されたのである。
・・・
現地部隊からの聯合艦隊司令部への戦果報告電報は、大本営でも直接傍受
しているので、中間で何者かが戦果を「創作」したわけではない。あくまでも、
錯誤・虚報の根本原因は、現地部隊の報告そのものにあるのである。
すでに当時、現地(南九州)に出張した大本営陸軍部参謀・堀栄三少佐は、
第一線の海軍航空部隊からの報告があいまい、誇大なものであることを隊員か
らの聞き取り調査では確信し、中央にその旨報告していたが、すでに大戦果の
上奏、大本営発表のあとで、全体の情勢判断に生かされなかった(堀栄三『大
本営参謀の情報戦記』)。
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天皇はこうした誤った情報をもとに、賞賛の勅語を南方軍司令官などに与
えましたが、これがリップサービスで終わっているうちはまだたわいないとい
えます。しかし天皇や大本営は、この誤った戦果でアメリカに勝ったという信
じこみ次の作戦に進んでいったので、その影響は日本の国策を誤らせるものが
ありました。
次のフィリッピン沖海戦(44年10月下旬)でも日本は大損害を出しま
したが、ここでも誇大な戦果報告がなされたので、日本が完敗した事実はさほ
ど意識されなかったようです。このように、正確な状況把握を行おうとしない
姿勢が大局を誤らせ、つぎの沖縄戦や神風特攻隊などの悲劇などを生みました。
#1353,萩野谷さん
> 戦争末期で神風戦法を編み出し、実施するに到った経過、指導
>者の精神構造、その戦術的効果、なかで生きたひとの記録を詳細に調べたいと
>思っています。これからもご存知の書籍など、おりにふれてアップして頂けた
>ら助かります。
神風特攻隊に関連して、下記の興味ある記事が朝日新聞(98.8.15)に掲載
されていましたが、ご存じでしょうか。
「軍国日本で権力を振るったのは、学校秀才の軍事エリートたちだ。その多
くが無責任だった。東条英機のもとで陸軍次官も努めた富永恭次はその典型だ、
と筒井清忠氏は書く(『昭和期日本の構造』)。
彼はフィリッピン方面の第4航空軍司令官だったとき、特攻機が出撃する
と、軍刀を抜いて見送り、「君たちだけを死なせはしない」などといっていた。
ところが、米軍の本格的な攻撃が迫ると、突然首に包帯を巻き、病気と称して
台湾へ逃げる。
辛酸をなめたのは兵士として送り出された人たちだけではない。国民の大
半が忍従を強いられ、飢え、生死の境をさまよい、現に多くの人が死んでいっ
た」
自分の命の尊さにひきかえ、若者の命をいけにえにする。ましてや他民族
の命は虫けら同然に考える、こうした人非人の司令官たちに指揮されたアジア
太平洋戦争の狂気は、#1471,萩野谷さんの次の言葉に集約されるようで
す。
>はっきり言いますけど、日本が経験した内外数々の戦争のうちでも、あれは最
>低の部類に入っています。最低の指導者と最低の軍隊によってなされた最低の
>戦争だと考えています。大東亜戦争ないし太平洋戦争は、原因も経過も帰結も
>狂気中の狂気以外の何物でもない。あんなものを標準に戦争を語るなどしたく
>ないほどです。
まったく同感です。しかしながらこのような大日本帝国でも、並 隆史さ
んが#1349で、「大日本帝国万歳!」と書いているのは驚きです。これを
簡単にアナクロニズムとして看過していいのでしょうか?
それとも、昭和天皇が終戦後に大元帥として最後(?)に発した、「陸海
軍の軍人は団結を固めて、臥薪嘗胆せよ」という詔書(1945.8.17)がいまだに
軍国主義者のなかに生きていると見るべきでしょうか(注1)。
おわりに、萩野谷さんにお伺いしたいのですが、「最低の指導者」とは具
体的に誰を指すのでしょうか? 東条英機でしょうか?
(注1)木下順二他『時効なき戦争責任』緑風出版,1990
(注2)児島襄『天皇』文芸春秋社、引用は(注3)による
(注3)山田朗『大元帥、昭和天皇』新日本出版社,1994
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/09/06 -
01569/01569 PFG00017 半月城 天皇機関説、天皇と戦争責任(6)
( 8) 98/09/06 22:47 01504へのコメント
仮面忍者とびかげさん、
> 珍しく半月城氏が反論を出して来たのであるので、乏しい親切心を発揮
>するか。
戦前、主として天皇を含めた軍人たちが、日本をアジアへの侵略戦争に駆
り立てただけに、自称、現役「軍人」の親切心だけはご免こうむります。
「日本の朝鮮・台湾・満州に対する統治実績が素晴らしかった」と考える
人たちにとって、何が親切であるのか、はかりしれないものがあります。
幕末(1862年)、長州の高杉晋作は上海に渡り、中国人が欧米人にこ
き使われる姿や、植民地化される中国の実状を目の当たりにして危機感をつの
らせましたが、こうした軍人には高杉晋作の感性は理解できないことでしょう。
また、彼らは植民地にされた人びとの苦難や、日本が犯した強制連行や皇
民化政策の愚などを直視することはおそらくないことでしょう。
前置きはこのくらいにして、本題の天皇の統帥大権について述べたいと思
います。
1.天皇の人事権
RE:1504、仮面忍者とびかげさん
>1 天皇に大臣等の人事権はなかった。
> これは、組閣の実情を見てみれば、明らかである。
> 戦前は内閣首班(総理)は、元老の諮詢を経て指名され(これを、「大命
>の降下」と呼んだ)、各大臣も総理の個々の選択によって内閣が作られた。天
>皇は内閣の性格について大勢に鑑み、「ファッショは不可」等のご注文を付け
>られる事は在ったが、人事権と言えるようなものは行使したことがない。
どうも論旨が一貫していないようです。天皇に大臣の人事権はなかったと
いいながら、天皇は「ご注文」をつけたことはあったとかあやふやです。
それはともかく、上の仮面忍者とびかげ氏の見方は成り立たないと思いま
す。まず明治憲法からして、第10条に「天皇は行政各部の官制及文武官の俸
給を定め及文武官を任免す・・・」と書かれており、NOVOさんもご指摘の
ように、少なくとも形の上で天皇は大臣や軍人の人事権を持っていました。
問題は、それを天皇がどの程度活用したかです。天皇は、平穏なときは首
相に誰がなっても大勢に影響がないのか、あまりくちばしを入れなかったよう
です。
しかしながら重大な局面になると、天皇は首相人事にしばしば介入しまし
た。その典型例は、NOVOさんご指摘の「張作霖」爆殺事件(1928.6.4)のと
きで、天皇独白録にこう記されています。
「私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどう
かと強い語気で云った。
こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、と
にかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職
をした」
天皇の若気の至りの結果、内閣が総辞職する羽目になるとは、さすが天皇
の大権である文武官の任免権は絶大なものです。
またほかにも人事に介入した例として、「最低の指導者」東条首相の場合
をあげることができます。これも天皇独白録に「陸軍の要求は之を退けて東条
に組閣させた次第である」と書かれており、天皇も首相人事に介入したことを
認めています。
そのいきさつですが、当時陸軍大臣であった東条に「大命」が下る前、東
条は近衛の後継首相に東久邇宮を推していました。
東条の考えは、もし海軍が戦争を欲しないならば、41年9月6日の御前
会議決定は誤りなのだからそれはご破算にし、責任者はすべて辞職すべきであ
る、そして国策をもう一度練り直す以外にない、そのさい、陸海軍を抑えて練
り直しができるのは皇族以外にない、として東久邇宮内閣説を主張しました。
これにたいする天皇の対応が『天皇独白録』に下記のように記されていま
す。
「近衛の手記に、東久邇宮を総理大臣に奉戴云々の記事があるが、之は陸軍
が推戴したもので、私は皇族が政治の責任者になる事は良くないと思った。
尤も軍が絶対的に平和保持の方針で進むと云ふなら、必ずしも拒否すべき
ではないと考へ木戸をして軍に相談させた処、東条の話に依れば、絶対に平和
になるとは限らぬと云ふ事であった。
それで若(も)し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採
る事となるので良くないと思ったし、又東久邇宮も之を欲して居なかったので、
陸軍の要求は之を退けて東条に組閣させた次第である」
天皇は、#942「開戦決意」でくわしく述べたように、陸・海軍の説得でほ
ぼ開戦を決意していたので、次期首相として開戦論者の東条に「組閣させた」
のでした。
もちろん理由はこれだけでなく、他にも東条は「彼程、朕の意見を直ちに
実行に移したものはない」というくらい天皇に忠義者であったことも買われた
のでしょう。
一方、天皇が東久邇宮を選ばなかった理由ですが、その論理には驚かされ
ます。その理由は『木戸日記』などでも確かめられますが、皇族内閣で戦争に
なって、その結果が思わしくないときは、皇室の安泰にかかわるのでそれを避
けたというものです。
天皇にとって日本国民の運命よりも皇室の安泰のほうがより重要だったの
でしょうか。これは、天皇は三種の神器を守るためにも終戦を決意したという
論理とともに注目される発言です。
2.統帥大権
RE:1504,
> 戦前における憲法学の泰斗、美濃部達吉東大教授の「憲法撮要」(初版大正
>12年)では、
>『統帥大権に関し天皇を輔弼する機関は陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、海軍
>軍令部長及侍従武官長とす』(P307)と述べて、大正時代既にそのような
>慣習的制度が確立されていた事が明らかにされている(原文カタカナ文字、引
>用は昭和5年の第4版から)。
統帥権に関して「慣習的制度が確立されていた」というのは、仮面忍者と
びかげさんの希望的観測ではないでしょうか?
仮面忍者とびかげさんが根拠とする美濃部達吉の「憲法提要」は、193
5年に内務省により発売禁止処分になりました。これは単に学説が否定された
だけでなく、軍や政界から徹底的に排撃され、その余波はファッショ化の要因
にもなったくらいでした。
これは昭和天皇が立憲君主であったかどうかを考えるうえで重要なできご
となので、これについて少し記したいと思います。
美濃部説排撃の中心は陸軍で、林銑十郎陸軍大臣は政府にこう告げました
(注1)。
「陸軍としては、天皇機関説には絶対に反対であるから、この際、政府とし
ても速やかに明確な措置を講じて、国体の明徴を害するが如き言説を一掃せね
ばならぬ」
ついで、陸軍三長官の一人である真崎甚三郎教育総監も全軍に国体明徴の
訓示を垂れるなど、軍部を中心に美濃部説の排撃が急速に広がり、その波に乗
り、やがて政界やマスコミも天皇機関説排撃を容認するようになりました。
その結果、岡田首相も第二次国体明徴声明(1935.8.3)を出し、次のように
天皇機関説、平たくいえば立憲君主説(注2)を完全否定しました。
「大日本帝国統治の大権は儼(げん)として天皇に存すること明なり。若し
夫(そ)れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為す
が如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり・
・・・」
この声明により「天皇主権説」が不動のものとなり、完全否定された天皇
機関説は再び日の目をみることはありませんでした。それと同時に、軍部・右
翼によるファッショ化が一層進行し、憲政の神様といわれた尾崎行雄によれば
「この時において、独り完全に言論の自由を行使するものは、本来政治に関与
すべからざる軍人と、その追随者だけ」(注1)という状況になり、日本は軍
国主義の道をまっしぐらに進んでいきました。
ところで、美濃部の憲法提要を援用された仮面忍者とびかげさんは、こう
した天皇機関説排撃の動きを重大な誤りであったとお考えでしょうか?
RE:1504,
> 若手憲法学者の八木秀次氏(
>高崎経済大学講師)は、次のように説明している。
>『憲法上の規定はないが、軍の統帥にも陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の補翼
>が必要であることが慣習法として確立していた』
> 11条の天皇親率とは、軍隊が時の政府の恣意によって動かされることを禁
>じる趣旨であって、天皇が勝手に軍隊を動かせるという意味ではない(慣習法
>も、立派な法源である)。
八木秀次氏は、統帥の補翼に関する法的根拠をさがしあぐねて「慣習法」
を持ち出しましたか。根拠が弱いようです。日本は実定法主義で慣習法にはな
じみがなく、東京裁判のときなどは、慣習法「人道に対する罪」に面食らった
ものです。結局、裁判では人道に対する罪で誰も追及、審判されなかったとい
っても過言ではないくらいです(注3)。
次ぎに、仮面忍者とびかげさんは「11条の天皇親率」と書いていますが、
正しくは「天皇は軍隊を統帥す」というのが第11条の全文です。趣旨を完全
に取り違えておられるようです。
この条文から軍隊の統帥権者である天皇は、ときには軍隊を直接動かそう
としたことがありました。
その例が、36年の2.26クーデターのときで、軍首脳が決起部隊への
対処を決めかねているとき、天皇は彼らを反乱軍と断じたうえで、「朕が最も
信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき
行為なり。・・・朕自ら近衛師団を率い、此が鎮定に当らん」『本庄日記』と、
今にも兵を動かす気配でした。
実際には、この天皇の強い意向をうけて、陸軍もようやく鎮圧方針に踏み
切り事態は収拾しましたので、天皇が近衛兵を動かす場面はありませんでした。
しかし、この事件は天皇の補弼制度や政治とのかかわりを考えるうえで重
要なものを示唆しています。それについて、藤原彰氏はこう述べています(注
4)。
-----------------------------
この事件は、天皇とのかかわりで言えば、次のことを示している。第1に、
このような政治的重要局面においては、天皇の意思が事態の推移を基本的に方
向づけていることである。
第2に、斉藤実内大臣が殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負うなど、
天皇の主要な側近が壊滅し、さらに、軍事面での側近である本庄侍従武官長が
反乱軍に好意的という状況の下でも、天皇自身が、すぐれて主体的・積極的に
行動していることである。
そのことは、天皇が、側近や補弼責任者の単なるロボットなどではなく、
高度の政治的主体性を備えた人間であることを物語っている。この点について
は、木戸幸一も事件の直後に、原田熊雄に、「陛下の側近には内大臣はをらず、
侍従長はをらず、真に陛下お一人のご裁断によってすべて事が運ぶ」と語って
いる。
ところで、2.26事件後の事態で注目に値するのは、天皇の政治的権限
が実質的に強められ、その政治関与が増大していったことである。
天皇の「主席政治顧問」たる内大臣の政治的比重が増大していく事実は、
こうした状況を反映したものであろう。2.26事件以前の内大臣は週に1回、
時には月に1,2回程度しか宮中に出勤せず、内大臣不在の場合には、侍従長
が内大臣の仕事の一部まで代行することが少なくなかった。
しかし、2.26事件後は、内大臣は、毎日、出勤して常時、天皇の補弼
にあたり、侍従長が政治問題にかかわることもなくなった(岸田英夫『侍従長
の昭和史』)。
天皇の政治関与が強められていったからこそ、その「主席政治顧問」であ
る内大臣の比重が増大せざるをえなかったのだと言えよう。その意味では、侵
略戦争とファッシズムの軌道は、そのまま、天皇の政治的権限が実質的に強化
されてゆく過程でもあった。
----------------------------------
天皇はとくに2.26以後、政治・軍事での発言を強めていったようで、
天皇は政府や軍部の計画を天皇は裁可せざるを得なかったという理解は成り立
ちません。
RE:1394,仮面忍者とびかげさん
>(天皇)自らは1兵たりとて動かす事ができない。どんなまずい作戦であっても、
>軍部から計画が上がってくれば裁可されないわけにはいかない。
これが誤りであることは、1938年の張鼓峰事件をみれば明らかです。
ソ連、朝鮮の国境地帯で張鼓峰の領有権をめぐって起きた武力衝突で、陸軍は
対ソ武力行使の裁可を天皇に求めましたが、陸軍のやり方に不満を持っていた
天皇は「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」と語気強く述
べたとのことでした(『西園寺公と政局』)。
このとき、天皇は陸軍参謀本部の上奏文を裁可しなかったのです。そのこ
とは「大陸命第155号」の結末に明確に表れました。同案は
1.朝鮮軍司令官は張鼓峰付近に於ける「ソ」軍の不法越境に対し実力行使す
ることを得
2.細項に関しては参謀総長をして支持せしむ
とありましたが、これには赤鉛筆で斜線がひかれており、「命令」の下に「せ
ず」とかかれています。つまり、天皇の反対で上奏文は裁可されなかったので
す(注1)。
これからすると、憲法上も実際上も統帥権は天皇にあることは明白といえ
ます。もちろん天皇は現人神とあがめられても、神業を駆使できるはずもなく、
統帥に関してこまかい事項は参謀総長など補翼にまかせざるをえません。
しかし、補翼はあくまで補佐にしか過ぎず、天皇は重要局面で上記のよう
に時にはそれらを拒否したという事実は銘記する必要があります。したがって、
天皇の意に反した施策や軍事行動はありえません。
ちなみに張鼓峰事件のその後の経過ですが、第19師団はソ連軍の猛攻に
さらされて1個連隊が壊滅の大損害をこうむり、モスクワでの外交交渉によっ
て停戦になったことをつけ加えます。
(注1)NHK取材班『天皇と憲法』角川書店,1990
(注3)粟屋憲太郎他『戦争責任・戦後責任』朝日新聞社,1994
(注4)藤原彰他『天皇の昭和史』新日本新書,1984
(注2)憲法学者で東大教授であった宮沢俊義氏は、天皇機関説を次のように
説明していますが、これは大日本帝国憲法からできうる限り多くの立憲主
義的運用の可能性を引き出そうとしたものといえます(引用は注1)。
国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上
ひとつの法人だと見る。
国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機
関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上は
ひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だと
いうことになる。
これが、いわゆる「天皇機関説」または単に「機関説」である。
天皇機関説は、主権または統治権、すなわち、国土・国民を支配する権利
は法人たる国家に帰属する、または国家がその権利の主体である、と説くから、
「国家主権説」、または「国家主体説」とも呼ばれることがある。
それに対しては、天皇機関説に反対する説は、主権または統治権は、法人
たる国家でなくて天皇に帰属する、または、天皇がその権利の主体である、と
説くから、「天皇主権説」、または「天皇主体説」とも呼ばれる(『天皇機関
説事件』)。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
#6101/6102 日本史ボード
★タイトル (SPM07550) 98/ 8/12 20:51 (103)
古代史】倭と新羅の関係 半月城
★内容
がんもさん、こんばんは。#6080にコメントします。
>道成寺の話は去年の夏頃烏龍さんが取り上げていたので参照されると良いかと
>思います。(#4717、#4735、#4741、#4753、#4762)
烏龍さんの書き込み#4753を読むと、道成寺・安珍清姫の話はやはり新
羅の義湘大師と唐の善妙との法愛がその祖型になっているようです。
#4753、烏龍さん
> 「道成寺絵巻」の系譜を遡っていくと、そこに朝鮮仏教のつよい影響をみることが
>できる。華厳教を中国から新羅にもたらした祖師、義湘の行状を描いた「華厳宗祖師
>絵伝」の、そのなかに登場する義湘と竜女のくだりなど、「道成寺絵巻」そのものの
>祖型といっていい。この「義湘絵伝」を更に遡ると中国の仏教芸術の貴重な遺跡、敦
>煌の千仏洞で発見された一枚の絵にたどりつく。(『紀州史散策』)
華厳経はいうまでもなくインドで生まれ中国に引き継がれた仏教ですが、
その日本への受容に新羅の仏教や渡来人が大きな役割を果たしたようです。こ
れまで仏教というと、百済の影響が強調されているきらいがありますが、新羅
の影響も無視できないものがあります。
早い話が、京都の広隆寺にある国宝第1号の弥勒菩薩などは新羅からもた
らされたようです。また白鳳時代以降の仏教は、特に新羅の影響が顕著だった
ようです。
田村圓澄氏の「半跏思惟像と聖徳太子信仰」によれば、白鳳時代の仏教に
ついてこう書かれています(注1)。
-----------------------
白鳳時代の日本の仏教界は、新羅の仏教界の動向に敏感であり、そして早
い反応を示した。新羅経典の受容、とりわけ「大般若経」や「金光明最勝王
経」(華厳経)の重用の傾向は、新羅から受け継いだものであった。
法相(ほっそう)宗も新羅から伝えられたが、その他寺院建築や仏教彫刻
の様式も、新羅から移されたものが少なくなかったと思われる。
いわゆる白鳳美術の源流を、初唐に求めるこれまでの見解にたいし、私は
むしろ新羅との関係を重視すべきであると考える。たとえば白鳳時代の日本と
唐との外交関係をみると、702年(大宝2年)に一度だけ遣唐使が派遣され
ているにすぎない。
大和朝廷は、新羅との修好に積極的であった反面、唐にたいしては消極的
であった。そしてこの事実は、唐よりもむしろ新羅が、白鳳文化の形成に深く
かかわっていたことを推定させる根拠となるであろう。
------------------------
倭は白村江の戦闘で唐・新羅に敗北した後、敵国のうち新羅とは外交関係
を劇的に転換しました。『日本書紀』によれば、倭は天智天皇7年(668)9月、
新羅からの調(つき)を受け、その見返りか新羅の英雄・金ユ信将軍には船を、
新羅王には調を運ぶ船一艘を贈ったとされています。さらに11月にも新羅王
に絹50匹、綿500斤、韋(おしかわ、なめし皮の意)100枚を贈ったと
されています。
このような情勢のなかで、壬申の乱を勝ちぬいて登場した天武天皇は、新
羅との関係をさらに緊密なものにしました。そのため、天武天皇は実は天智天
皇の弟ではなく新羅人あるいは高句麗人であるとの珍説もあるようですが、こ
う推測されるくらい新羅とは親密な関係になりました。
そのころ新羅と使節の往来も頻繁で、670年から から701年までの
30年間、日本からの遣新羅使は11回、新羅からの遣日使は実に25回に達
しました。毎年のように使節の往来があったことになります。一方、この間、
遣唐使の派遣は一度も行われませんでした。
その新羅との蜜月時代もこの30年で終わりをつげ、持統天皇の代から新
羅とはしばしば衝突していきました。しかし、この30年間の影響はそれなり
に相当なものがありました。たとえば、律令国家の出発点とされる大宝律令
(701) などは直接には新羅の統治制度にならったものではないかと思います。
大宝律令以後も、文化や宗教面で新羅の影響は相当なものがありました。
仏教についていえば、飛鳥時代の仏教は氏寺的な性格だったのが、白鳳時代以
後は国家鎮護の宗教へと変貌し、その総仕上げとして東大寺の完成をみました。
東大寺は別名、金光明四天王護国之寺と呼ばれ、今でも華厳宗の総本山に
なっています。その初代別当の良弁(ろうべん)は華厳宗を新羅僧の審祥に学
びました(広辞苑)。良弁の生い立ちはよくわからないところがありますが、
井上光貞氏の『王仁の後継氏族と其の仏教』によると、やはり渡来人の子孫で
あったようです(注1)。
一方、東大寺にある正倉院には、新羅からの文物も多く見られます。新羅
琴や毛氈、墨、佐波理(さはり)と呼ばれる一群の椀や皿、サジやはてはロウ
ソクの芯を切るハサミなどが現在でも残っています。
また、新羅の特産品にかぎらず、シリアやカザフスタン地方などのローマ
ングラスまで時には新羅経由で入手していました。ローマングラスは高句麗や
百済、中国の中央部には残っていないようですが、入手経路はどうやら現在の
シベリア鉄道沿いだったようです。
こうした交易は、冷却した政治関係の一方で盛んに行われたようでした。
当時、日本が新羅ものを買うには購入申請書が必要だったようで、そうした文
書「買新羅物解(もののげ)」が約30通残っています。
これらは5位以上の貴族が上級官庁(大蔵省か内蔵寮)に出したもので、
こうした事実から、交易は新羅の使節に随行した商人が行ったというより、両
国の政府機関により管理されていたようです(注2)。
670年以降、新羅とどれくらい使節を交換していたのか表にすると、下
記のようになります。表には唐と渤海をあわせて載せます。
年 唐 新羅 渤海
派遣/受入 派遣/受入 派遣/受入
670 - 701 0 / 0 11 / 25 0 / 0
702 - 794 6 /(2) 15 / 20 9 / 11
795 - 919 2 / 0 6 / 1 4 / 22
700年以降の遣唐使は、新羅との関係悪化のためほとんど新羅近海を通
らず、危険な東シナ海を横断したため遭難者が続出しました。こうした事情や
派遣回数などを考えると、遣新羅使や遣渤海使の果たした役割はあまりにも過
小評価されています。
これは『日本書紀』が新羅などを蕃国視したことに始まるのでしょうか。
『日本書紀』より8年早く、712年に成立した『古事記』の方は、まだ蕃国
視は少ないようで、新羅を黄金の国とか、筑紫は韓の国に向かっていることも
あって「よき国」とか、韓国を好意的に見ています。
この違いは時代的なものか、編者の好みなのか興味のあるところです。
(注1)引用は、金達寿『日本古代史と朝鮮』講談社学術文庫,1985
(注2)李成市『東アジアの王権と交易』青木書店,1997
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
#6102/6102 日本史ボード
★タイトル (SPM07550) 98/ 8/12 20:51 ( 23)
古代史】ヤマトの池 半月城
★内容
ひきつづき、がんもさんの#6080にコメントします。
>これは半月城さんに質問を差し上げた後で思い出したのですが、『日本書紀』
>「推古天皇紀」に、大和国高市郡に池を築いた話が載っておりこの話を指した
>可能性もあるように思います。ただ、この池を築いたのが新羅系渡来人と明記
>されていたかどうかは記憶曖昧です(^^;)
たしかに推古15年冬、倭(やまと)の国に高市池、藤原池、肩岡池、菅
原池を、河内の国に戸苅池、依網(よさみ)池を作ったとあります。同じく2
1年冬、掖上(わきのかみ)池、畝傍(うねび)池、和珥(わに)池を造った
とあります。
池を造った人や氏族の名前はありませんでしたが、ヤマトの池はあるいは
百済系の渡来人が築造に関係していたかもしれません。和珥といえばあきらか
に百済系ですので。
また、高松塚のある高市(たけち)郡は別名、今来(いまき)郡とも呼ば
れましたが、『日本書紀』によればここの檜前(ひのくま)村は、百済系の阿
知使主(あちのおみ)一族が住み檜前忌寸(いみき)を名乗ったとされるとこ
ろです。したがって、その一族が池を造った可能性は高いと思います。
それにしても、池を造ったことが『日本書紀』に特筆されるところをみる
と、池造りがこの時代の典型的な潅漑治水事業であり、それが政治であったよ
うですね。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。