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00763/00764 PFG00017 半月城 歴史の見直し;「慰安婦」とホロコースト
( 8) 98/06/28 22:24 00714へのコメント 「従軍慰安婦」95
わたしが#704で、歴史の見直しについて
「歴史学は、今日の観点で過去の出来事を再構築するものであるので、最近
の概念や用語で過去を見直すことは当たり前のことではないかと思っています」
と書いたのに対し、むじなさんは#714でこう書かれました。
>これは笑える。
>無知というのは、おそろしいね。
>現在の歴史学は、「創られた伝統」としての「近代」の思い込みも客観化しようと
>いう方向にあることをご存じないらしい。
>それに、「今日の観点で見る」ことと「今日の観念で昔も動いていたと思い込む」
>こととでは、まったく違うことも、あなたには分かってないんだろうね。
・・・
>しかも、これを認めるということは、ナチスのアーリア史観、日本の右翼史観を
>否定する根拠はまったくなくなりますな。
私は「日本の右翼史観」なるものを否定しても、そのように異議を申し立
てる行為まで否定するつもりはありません。歴史の記述は不変なものではなく、
右からであれ左からであれ、たえず再審にさらされ、その積み重ねの上に構築
されてきたのだと思っています。
それについて、むじなさんとは意見の相違があるようなので、私の考えを、
東京大学の上野千鶴子教授の言葉を借りて明らかにしたいと思います(注1)。
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歴史とは、「現在における過去の絶えざる再構築」である。歴史が過去に
あった事実をありのままに語り伝えることだというナイーブな歴史観は、もは
や不可能になった。もし、歴史にただひつつの「真実」しかないとしたら、決
定版の歴史は--「フランス革命史」であれ、「明治維新史」であれ--一度
だけ書かれたら、それ以上書かれる必要がなくなる。
だが、現実には、過去は現在の問題関心にしたがって絶えず「再審
revision」にさらされている。だからこそ、フランス革命や明治維新について、
たった一度「正史」や「定説」が書かれたら終わりということにはならず、時
代や見方が変わるにつれ、いくども書き換えられる。
わたしは基本的には歴史は書き換えられると思っている。したがって栗原
幸夫にならって、わたしもまた「リヴィジオニスト(歴史再審論者)である」
と言ってもいい(注2)。だがここでもつねに問題なのは、「誰にとっての歴
史か」という問いである。
「言語論的転回 linguistic turn」以降の社会科学はどれも、「客観的事
実」とは何だろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も
例外ではない。歴史に「事実 fact」も「真実 truth」もない。
ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実 reality」だけが
ある、という見方は、社会科学のなかではひとつの「共有の知」とされてきた。
社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)
social constructionism とも呼ばれるこの見方は、歴史学についてもあては
まる。
したがって、他の社会科学の分野同様、歴史学もまたカテゴリーの政治性
をめぐる言説の闘争の場である。わたしの目的はこの言説の権力闘争に参入す
ることであって、ただひとつの「真実」を定位することではない。
わたしがここで用いる「政治」は、階級闘争のような大文字の「政治」で
はなく、フーコーのいう言説の政治、カテゴリーと記述のなかに潜む小文字の
政治を意味する。
その限りで、社会構築主義は、たとえば「ナチ・ガス室はなかった」とす
る歴史修正主義者 revisionist との「歴史と表象」をめぐる闘いを避けて通
ることはできない。むしろ歴史とは、無限に再解釈を許す言説の闘争の場であ
ることが確認されたといってよい。
たとえば、戦時下の歴史記述について、「歴史の偽造を許すな」「歴史の
真実を歪めるな」というかけ声がある。この見方は、歴史に「ただひとつの真
実」がそこに発見されるべく存在している、という歴史実証主義 historical
positivism の立場を暗黙のうちに前提しているかのように聞こえる。だが、
「事実」はそのまま誰が見ても変わらない「事実」であろうか?
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上野氏はこのように反問し、歴史についてはいくつもの「事実」や見方が
あり、そうした表象をめぐる攻防を経て、歴史が書かれると主張しています。
むじなさんへの回答の要旨は以上ですが、この抽象論だけでは誤解を招き
そうなので、具体例として「従軍慰安婦」とホロコーストが再審の過程で、い
かにパラダイムの転換をなしとげ歴史として定着したのか、そのプロセスを長
くなりますが、上野教授の言葉を借りて記します(注1)。
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「従軍慰安婦」という歴史的な「事実」は知られていた。しかも多くの兵士
たちがその経験を少しの恥の意識もなく、記録に書き残していた。だが、ほん
の最近になるまで、それを「犯罪」として問題化する人々はいなかった。事実
はそこにあった、が、目に見えなかったのである。つまり、歴史にとって「存
在しなかったのも同然である。
・・・
「従軍慰安婦」問題が日本軍の犯した性犯罪であるというパラダイムの転換
の背後には、80年代以降の韓国内における女性運動の影響を忘れることはで
きない。・・・
「恥ずべきは元「慰安婦」ではない」というパラダイム転換は、挺対協代表
の尹貞玉らのそれに先立つ十年以上にわたる元「慰安婦」の女性の聞き書きな
どの努力によって、すでに準備されていたのである。
元「慰安婦」の「証言」が衝撃的であったのは、そのような「事実」があ
ったことだけではなく、物語の語られ方が戦後50年経って変わったからであ
る。
ほんの少し前まで多くの元「慰安婦」の女性たちは、自分の経験を「わが
身の恥」と捉え、記憶の淵に沈めてきた。彼女たちは過去に蓋をし、もっとも
身近な家族にさえ、それを明かさずにきた。その過去を、彼女たちは「被害」
として公然と再定義した。そこには歴史認識の巨大な変化、パラダイムの転換
があった。
・・・
ホロコーストの歴史についても、興味深い対応が見られる。被害者が誰か
ら見ても「客観的」に被害者として、そこに存在していたわけではない。ホロ
コーストの歴史が今のような形をとるには、戦後の紆余曲折があった。
一番大きな変化は1961年、イスラエルでアイヒマン裁判が行われたと
きに、証言台に呼び出された生存者たちが重い口を開いて初めて筆舌に尽くし
難い彼らの経験を語ったことである。
それまではイスラエル国内でさえホロコーストの犠牲者たち、あるいは生
存者たちは、なされるままに唯々諾々とガス室に送り込まれ、反抗や蜂起のひ
とつもできなかった意気地なしたちと見なされていた。
ヨーロッパのなかで惰眠をむさぼり、羊のように殺された無気力なユダヤ
人たち、という見方が暗黙のうちにイスラエル国民のなかに共有されていた。
アイヒマン裁判の証言台に立った人々の語った言葉によって、語られるこ
とさえできなかった過去、言葉に表現できなかった記憶が、初めて大きな衝撃
として浮かび上がってきた。
思い起こすことさえ苦痛を伴うような被害の記憶は、語られ方と、それを
聞く耳の存在によって初めて「現実」として浮かび上がるものであって、そこ
に誰が見ても否定しようのない「事実」としてあるがままに存在しているわけ
ではないということは、ホロコーストの場合でも確かめることができる。
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上記のとおり、「従軍慰安婦」の場合、かって歴史に記録されたのは、日
本軍にとっての「慰安婦」制度の事実のみでした。皇軍兵士は、戦場という極
限状態のなかで刹那的快楽を「慰安婦」に求め、時にはそこに心の安らぎを見
いだしたという現実のみが語り継がれました。
その際、「慰安婦」の存在は、たとえ多少それに心をくだいても、単に哀
れとか女体がどうとかの類のもので、彼女たちが日本軍の戦争犯罪による犠牲
者であるという事実は、ついぞ最近まで認識されなかったのはよく知られてい
る「現実」です。
そうした歴史認識に見直しを迫ったのが金学順さんなど「従軍慰安婦」の
カミングアウトで、彼女たちの証言をとおして、被害者女性の性奴隷であった
「現実」が赤裸々になり衝撃を呼び起こしました。
このように同じひとつの「事実」をとりあげても、そこには日本軍本位の
「慰安婦」制度という「現実」と、被害女性たちに対する「強姦」という「現
実」--ふたつの異なる「現実」が存在したわけです。
そのように相異なるふたつの現実がどのような位置関係にあるのかについ
て、上野氏は次のように続けています。
「今もなお「慰安婦」との交流をなつかしげに語る元日本兵たちと、「慰安
婦」との「現実」との落差がこれほど大きいとき、元日本兵たちは共有してい
ると思いこんでいた経験の、想像だにしなかった異相を目前につきつけられて、
うろたえるほかないのだ。
ふたつの「現実」の間の落差がどれほど大きくても、どちらか一方が正し
く、他方がまちがっている、というわけではない。ただし権力関係が非対称な
ところでは、強者の「現実」が支配的な現実となって、少数派に「状況の定
義」を強制する。
それに逆らって支配的な現実を覆すような「もうひとつの現実」を生み出
すのは、弱者にとってそれ自体が闘いであり、支配的な現実によって否認され
た自己をとり戻す実践である」
弱者の現実は一時、沈黙の闇に隠れてしまいましたが、フェミニストのた
ゆまぬ努力の結果、パラダイムの転換がなされ、慰安婦制度は戦争犯罪であっ
たという認識が歴史に残るようになり、今では日本政府もその贖罪に心を砕い
ているのはよく知られているとおりです。
ただし上野氏は、日本人「慰安婦」がほとんど名乗り出られない現実は、
フェミニズム運動の弱さを示すものであると、その限界を指摘しています。
(注1)上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998
(注2)栗原幸夫「歴史の再審に向けて--わたしもまたレヴィジオニストで
ある」『インパクション』102,1997
なお、本人のホームページは、http://www.shonan.ne.jp/~kuri
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:慰安婦への補償
[zainichi:06586] IANHU 96
Date: Fri, 7 Aug 98 21:54:22 +0900
半月城です。遅ればせながら、kailさんの下記 [zainichi:06556] に
コメントしたいと思います。
>僕が調べた範囲でお答えすると、戦時中、挺身隊の名目で「慰安婦」
>の徴募というか連行が行われていたという話が朝鮮では伝わって
>いて、64年の韓国日報にも、74年の映画の新聞広告にも、「慰安婦」の
>問題が政治問題化した80年代後半にも、同じように挺身隊名目で女性が
>連行されたという記述があるということは、挺身隊(「慰安婦」)に対する認識
>が韓国社会にはずっと続いてあったからだと考えるのが妥当だと思いますし、
韓国において戦時中から挺身隊という名である程度「慰安婦」の存在が知
られていたのは、kailさんのおっしゃるとおりだと思います。これは日本
も同じような状況ではないかと思います。
日本でも戦時中からある程度「慰安婦」の認識は継続してありました。帰
還兵の手記や映画、三文小説などに時々登場していました。しかし、そのどれ
もが男性本位の見方で、内容は何人の女性を抱いたとか、どこそこの女はよか
ったとかの類です。たまに女性の身の上を気づかったものでも、彼女たちを哀
れな女性と同情するのが関の山だったようです。
それらはいずれも「慰安婦」問題が重大な人権侵害であるという視点を欠
いたものばかりでした。これは韓国でも同様で、挺身隊と混同された「慰安
婦」の存在は知られていても、それは日帝時代の数ある被害の一例に過ぎない
もので、特に世間の耳目をひくような存在ではありませんでした。
つまり日韓両国において、「慰安婦」の存在はぼんやりみえていても、そ
の実体や問題の重大さにほとんどの人が無知な状態でした。それは、1970
年代に千田夏光氏や金一勉氏らが「従軍慰安婦」の実態を告発しても、依然と
して世間一般には「見えない」存在でした。かくいう私も恥ずかしながら90
年代になるまで「慰安婦」の存在を知りませんでした。
他方、被害者女性も、自分は「汚れきった女」として深く恥じ入り、自分
の地獄のような過去を誰にも、はなはだしくは最愛の夫や家族にさえ打ち明け
られず、自分ひとり胸の奥深くに秘めたまま、じっと心身の痛みにたえる日々
を送らざるを得ませんでした。
このような世相では「慰安婦」の存在自体は知られていても、「慰安婦」
問題は存在しないも同然で、そのため1960年ころの日韓会談で議論の対象
にすらならなかったのは当然の成り行きでした。
それがつい最近、日韓両国フェミニズム運動の成果として、恥ずべきは決
して「慰安婦」自身ではなく、日本軍の戦争犯罪であるという劇的なパラダイ
ムの転換がなされ、はじめて彼女たちは重大な人権侵害の被害者であるとの認
識が一般的になりました。このことは "IANHU 95",「歴史の見直し;「慰安
婦」とホロコースト」に書いたとおりです。
こうしたいきさつからすると、「慰安婦」への補償問題は日韓会談や二国
間条約などで決して解決されたとすることはできないと思います。これらの条
約では、国家間の賠償金は個々の被害の積み重ねにより決定されたというより、
日韓協定に端的に見られるように、政治的なつかみ金として妥協がなされまし
た。
具体的に日韓協定の場合をみると、そのつかみ金は実際にはお金ではなく、
無償3億ドル相当の役務提供などでしたが、それに対する日本政府の説明では
賠償や補償という表現はまったくなく、かわりに「独立のお祝い金」とか「経
済協力金」という解釈のみがなされました。
これはもっともな話で、そもそも役務提供、すなわち鉄鋼材や人力の提供
が人権被害者への補償になるはずがありません。実際の協定文でも「経済協
力」が前面にうたわれ、補償・賠償とは無縁でした。その一方で何の脈絡もな
く、協定文のなかに「請求権」は日韓間で完全に解決されたという条文が挿入
されました。
この請求権・経済協力協定により、日韓両国政府は「国家間」の請求権は
完全に解決されたとしています。そのため、韓国政府が日本政府に「慰安婦」
に対する補償を「直接」請求することはありえないと思います。韓国政府が言
えるのは、日本政府が誠意をもって道義的責任を果たすよう要求することくら
いです。
他方、この協定で補償や賠償を放棄した韓国政府は、韓国民に対してその
肩代わりをするのは当然の義務になりました。そこで韓国政府は、戦死者など
重大な被害に対してのみ申し訳程度にそれなりの補償を実施しました。これは
協定締結前に猛然と非難された屈辱外交の罪ほろぼしといえます。
しかしながらこの措置の中に、当時見えていなかった「従軍慰安婦」への
補償はもちろん考慮されませんでした。
こうした現状を要約すると、日本側はつかみ金を「お祝い金」や「経済協
力金」としてとらえ、個人補償をしたという認識はまったくありません。他方
の韓国政府はその役務供与を、韓国が要求していた8項目にわたる補償・賠償
請求の一部として認識しました。そうした手前味噌の解釈が両国政府でなされ、
基本的に現在まで継続しています。
なお、韓国政府が当初要求した8項目の中には、「慰安婦」への補償が含
まれていないことはいうまでもありません。
こうして見ると奇妙なもので、お金に相当するものを、払った側の日本は
補償金ではないというし、受け取った側の韓国は補償・賠償金であるという、
一見あべこべのねじれ現象を示しています。
ところでその後の日本政府の考えですが、日韓条約などにより国家間の賠
償は解決されても、個人の補償請求権まで否定されたのではないとの見解をも
っています(注1)。しかし、これは方便で日本政府のダブルスタンダードで
あると酷評しているむきもあるので、どこまでその解釈に耳を傾けていいやら
はなはだ疑問です。
日本政府は裁判所から再三にわたり、重大な人権侵害を放置するのは立法
不作為で違法である(注2)と指摘されても、一向に動く気配がないことから
してその姿勢は明らかではないかと思います。
日本の現状で、行政は不作為が明白であるし、司法は除斥期間など法律論
に縛られ限界があるし、そうなると日本国内で最後のよりどころは議員立法と
いうことになりそうです。
kailさん、[zainichi:06571],
> 具体化されていませんが、
>外国人戦後補償法のように当然の条理に基づき被害者に補償する
>という方式については支持します。
こうした声がさらに大きくならないと、いずれにしても条理にかなった解
決はむずかしいようです。
(注1)1991.8.27 衆議院予算委員会会議録第3号10ページ
「・・・いわゆる日韓請求権協定におきまして、両国間の請求権の問題
は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございま
すが、日韓両国間に存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決
したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持ってお
ります外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、
いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものでは
ございません。日韓両国で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げ
ることはできない、こういう意味でございます」
(注2)半月城通信<「従軍慰安婦」92.関釜訴訟の判決、半分の良心>
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/12 -
00845/00845 PFG00017 半月城 天皇と戦争責任(1)、御前会議
( 8) 98/07/12 23:23 00838へのコメント(一部訂正)
この会議室で、いみじくも東京裁判再審請求の提案がなされましたが、こ
れには私も賛成です。とくに、東京裁判で天皇問題がほとんど扱われなかった
のが適切であったのかどうか、いま一度ふり返ってみたいと思います。
というのも、天皇の戦争責任問題はこの会議室のみならず、社会的にも
時々深刻な話題になるからです。そこでこのシリーズでは、天皇に戦争責任は
あったのか、なかったのかに迫ってみたいと思います。
#838,吉川さん
>天皇に戦争責任があると発言して撃たれた市長はいましたが、
>天皇に戦争責任はないと発言して暴力を受けた人はききません。
ここの会議室では、当時の本島・長崎市長は間違ったことを、しかも畏れ
多いことを口走ったから報いを受けたと思っている方もおられるのではないか
と思います。
しかし、賛成であれ反対であれ、天皇の戦争責任を心情にかられて安易に
語ることは慎むべきで、客観的な資料にもとづいて慎重に発言しなければなら
ないと思います。といっても、これは本島市長を批判するものではありません。
本島市長は冷静に「歴史家の記述をみましても、私が体験した軍隊の教育
の面などをみましても、天皇は戦争責任はあると思います」(1989)と、それな
りの知識にもとづいて発言しています。逆に、そのように信念をもっていたか
らこそ撃たれて重傷を負ったのかもしれません。
さて先日、天皇の戦争責任問題に関連して、外交文書が公開されました。
まずはそれから紹介したいと思います。その資料において、天皇の責任問題は
次のように少しひっかかるものがあります(注1)。
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敗戦直後の1945年9月11日に外務省条約局第二課がまとめた「戦争
犯罪人の処罰問題に関する研究」では、「天皇の戦争責任については一応問題
とならざるものと考え大過なかるべし」という楽観的な見通しを示していた。
しかし、ほぼ同時期の文書で、作成部署が「条約二課」と手書きされてい
る「戦争責任者の処罰問題」という文書では、天皇の戦争責任について、連合
国内の報道から「忖度(そんたく)」して、開戦の責任と、開戦通告が遅れた
真珠湾攻撃の責任についてわけて考察している。
開戦責任については「法律的に天皇の御責任を云々(うんぬん)せらるる
場合、之(これ)を否定することは不可能なり、然(しか)れども、補弼(ほ
ひつ)の責任を有する政府政界及軍部より等しく上奏し来れる所を裁可あらせ
られざるは困難なり」などとしている。
これは大日本帝国憲法で「戦を宣」することは天皇の大権と定めているこ
とから形式的にはその責任は否定できないが、実態として天皇は政府や軍部の
決定に従っただけであり実質的な責任はなかったとすることで、訴追の対象に
ならないという考えを示したものだ。
さらに開戦の責任は政府や軍部などにあると指摘。開戦の原因は「当時の
国内情勢に基づく『勢』の然らしめたる所と認むるより外なかるべし」とし、
国内外情勢から避けられなかったものと位置づけている。
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この資料からも、天皇の戦争責任はすくなくとも形式的には否定できない
ようです。一方、実質的な責任はどうであったのか、この文書だけからは判断
は困難です。そのキーポイントは、天皇は政府や軍部の決定にしたがうだけの
存在であったのかどうかという点にありそうです。
そこで当時、国策の決定がどのようなプロセスでなされたのか、先に見て
おきたいと思います。
日中戦争が本格化した37年、宮中にかの悪名高き「大本営」が設置され、
当時の重要な国策の決定は大本営政府連絡会議で行われてきました。この会議
の名前はその後、連絡懇談会、連絡会議、最高戦争指導者会議などと変わりま
したが、ここではまとめて連絡会議とします。
連絡会議の決定事項は「閣議決定以上の効力を有し、戦争指導上帝国の国
策として強力に施策」されるべきものとされました。構成メンバーはほぼ首相、
外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長(陸軍)、軍令部長(海軍)で必要
に応じて関係者が加わりました。
この大本営政府連絡会議を、天皇の前で開くのが「(国策決定)御前会
議」であり、全部で15回開かれ、開戦など最重要な国策が決定されました。
この御前会議では天皇は最終回を除きほとんど発言しなかったようでした。
なお、御前会議は他に「大本営御前会議」と呼ばれる会議もありました。
こちらは作戦方針決定や戦況報告などが中心で、メンバーは陸海軍の大臣や総
長、次長、作戦部長、侍従武官長などが出席しました。
こちらの大本営御前会議では、天皇はみずからの軍隊「皇軍」の大元帥と
して積極的に発言し、時には厳しい「御下問」を多岐にわたり、こと細かくし
たようでした。そのため総長レベルで十分に対応できないこともしばしばあっ
たようでした。
このようなプロセスからすると天皇の戦争責任は、御前会議やその開催に
いたる過程で天皇がどのような役割を果たしたのかが問題になります。その具
体例を、期限(10月上旬)付き開戦を定めた9月6日の(国策決定)御前会
議の場合に見たいと思います。その前後のあわただしい動きについて、藤原彰
氏はこう記しています(注2)。
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連絡会議の重要事項や、御前会議の前には、必ず首相、両総長などの責任
者が、決定されるべき事項の内容に関して内奏を行い、天皇との間に「御下
問」「奉答」をくりかえし、正式の允裁を受ける前に、必ず天皇の納得をうる
ことになっていた。
また、開戦にいたる陸海軍の作戦計画、開戦準備のための陸海軍の行動の
すべては、天皇の允裁を受けた大命によっていた。そのさいも、内容について
詳しく「御下問」「奉答」がくりかえされていたのであって、決して天皇の意
に反する大命が出されていたわけではない。
なお太平洋戦争期の(大本営)統帥部による天皇への上奏と、これにたい
する天皇の「御下問」と「奉答」については、山田朗『昭和天皇の戦争指導』
が詳細に検討している。
同書は防衛研究所図書館に保存されている参謀本部第二課「上奏関係書類
綴り」全九巻11冊などを基礎にして、太平洋戦争期の昭和天皇の戦争指導の
具体的内容を明らかにしたものである。
・・・
「御下問」と「奉答」が意味のある例をあげると、期限つき戦争決意を決め
た9月6日の御前会議決定の「帝国国策遂行要領」は、9月3日の連絡会議で
若干の修文のうえで決定したものである。
そしてその内容について近衛首相が9月5日に内奏すると、天皇は統帥部
の問題について懸念を示したので、近衛はそれでは今直ちに両総長をお召しに
なってはと奏上すると、天皇は、「それでは直ぐ両総長を呼べ、尚総理大臣も
陪席せよ」と命じ、杉山(陸軍)、永野修身(海軍)が、近衛立会いのもとで、
御前会議前日夕の「御下問」「奉答」をすることになった。『杉山メモ』や近
衛の日記はその問答を記している。
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この日、御前会議に上程される予定の国策案について、納得がいかない天
皇は即刻首相など関係者を集め、納得いくまで「御下問」をしていたのでした。
そのようすは、下記のように近衛首相の手記に詳細に書かれています。
それまで日中戦争の例から、陸軍に対しやや不信感をもっていた天皇は、
米英との戦争に突入した場合、日本が勝てるかどうかに相当の懸念をもち慎重
な姿勢であったことがうかがえます(注3)。
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陛下は杉山参謀総長に対し、「日米事起らば、陸軍としては幾許(いくば
く)の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南洋方面だけは三ヶ
月[五ヶ月]位にて片付けるつもりであります」と奉答した。
陛下は更に総長に向はせられ、
「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として、『事変は一ヶ月位に
て片付く』と申せしことを記憶す。しかるに四ヶ年の長きにわたり未だ片付か
んではないか」
と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざ
りし事情をくどくどと弁明申し上げた処、陛下は励声一番、総長に対せられ
「支那の奥地が広いといふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信
あって三月と申すか」
と仰せられ、総長は唯頭を垂れて答ふるを得ず・・・(近衛文麿『平和への
努力』86-87頁)
・・・
さらにこのあとの天皇と永野総長のやりとりは興味深い。
御上 絶対に勝てるか(大声にて)
総長 絶対とは申し兼ねます 而し勝てる算のあることだけは申し上げられます
尚日本としては半年や一年の平和を得ても続いて国難が来るのではいけな
いのであります 20年50年の平和を求むべきであると考えます
御上 アゝ分かった(大声にて)
総長 決して私共は好んで戦争をする気ではありません 平和的に力を尽くし
愈々(いよいよ)の時は戦争をやる考であります
永野軍令部総長は大阪冬の陣のこと其他のことを申し上げたる所 御上は
興味深く御聴取遊ばされたるが如し 最後に総理左記を奉答す
総理 両総長が申しましたる通り最後まで平和的外交手段を尽くし已むに已ま
れぬ時に戦争となることは両総長と私共とは気持は全く一であります
(『杉山メモ』上、310-311頁)
・・・
昭和天皇が対英米戦突入に疑念をもったのは、統帥部が早期開戦を唱えつ
つも精神論ばかりで、戦争勝利のための確たる手だてを具体的に示さないから
であった。
・・・
昭和天皇の憂慮の念は軍部にもよく伝わっており、陸軍省の軍政関係者は
それを比較的率直に受け取っていた。9月6日御前会議が終了すると、陸軍省
軍務局長・武藤章少将は部下をあつめて開口一番「戦争なんて飛んでもないこ
とだ」と切り出した。そして、
「これは何が何でも外交を妥結せよという御意だ。オレは結局戦争になるも
のと達観しておるが、天子様に押しつけてはいけない。外交に万全の努力を傾
け、天子様がお諦めになって御みずから戦争を御決意なさるまで精出さねばな
らぬ。オレはこのことを大臣(東條英機陸相)にも言っておく(上法快男『軍
務局長・武藤章回想録』262頁)」
と述べたという。武藤軍務局長は主戦論者の一人ではあるが、外交交渉がど
うにもならなくなり、天皇が「諦め」て戦争を決意するところまでいくしかな
いと、それなりに天皇の意思を尊重しようとしたのである。
だが、さらに強硬な主戦論者である参謀本部の作戦関係者は、積極的には
たらきかけて昭和天皇の考えを変えさせようとした。統帥部にとって天皇を説
得すること、すなわち天皇が納得するレトリックを編み出すことが今や最大の
課題となっていた。
9月6日御前会議の直後、武藤の部下である軍務課高級課員・石井秋穂中
佐は、参謀本部作戦課長・服部卓四郎大佐を訪ね(石井と服部は陸軍士官学校
の同級生)、御前会議における天皇の姿勢からしても戦争はあり得ないから、
むしろ重慶攻略作戦の準備をしたほうがよいのではないかと忠告すると、服部
作戦課長は
「今のうちに戦争をやっておかぬと動けなくなる。いくらでもその理由を具
体的に説明してやろうか。陸軍大臣として目下努むべきことは、毎日毎夜でも
参内して天皇陛下に開戦の必要を上奏することだ」(戦史叢書76『大本営陸
軍部・大東亜戦争開戦経緯(5)』49頁。原資料は防衛研究所部所蔵「石井
秋穂大佐回想録」)
と激しく石井に言い返したという。また、同じく石井によれば、10月10
日頃のこととして次のように回想している。
「この頃参謀本部はあせり且急いだ。種村[佐孝・戦争指導班長]中佐の如
きは私等軍務局の下僚の許に来て「目下陸相として為すべき唯一最大の途は、
毎日毎夜でも参内し即刻開戦の必要を上奏するに在る。此の旨大臣へ具申せ
よ」とかって服部大佐の言った通りに詰め寄った。私は久しぶりに怒った(同
前、117頁)。
また、海軍でも10月初め(10月9日と推定)には海軍省軍務第二課
長・石川信吾大佐ら佐官級の強硬派が深夜、及川古志郎海相宅を訪れ、就寝中
の海相を起こしてまで早期開戦をせまるという事態となっていたが、及川が
「お上の御意向もあってそうも行かない」(同前、116ー117頁)と答え
たことから、統帥部の主戦論者は天皇説得の重要性を改めて認識する結果とな
ったのである。
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やはり現人神である天皇の言葉は絶対視されたようで、これには独断専行
の軍隊といえども軽んずるわけにはいかず、流れはいかにしたら天皇の納得を
得られるのかという方向に進んでいくのでした。
この例からわかるように、国策決定御前会議以前に天皇の意向が十分に配
慮され、それに抵触するような意見は最終回を除き会議では出されれなかった
ようです。このように天皇の威光はゆるぎのないものであったので、天皇は、
国策決定御前会議であえて発言する必要がなかったものと思われます。
(注1)朝日新聞、98.6.14
(注2)藤原彰『昭和天皇の15年戦争』青木書店、1991
(注3)山田朗『大元帥 昭和天皇』新日本出版社、1994
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