半月城通信
No. 50

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 高句麗語は朝鮮語?
  2. 韓国の日本古代史に対する見方
  3. 新羅の破戒僧、元暁
  4. 新羅の技術(新羅系渡来人)
  5. 戦時中の神道(1)、靖国神社と朝鮮神宮
  6. 戦時中の神道(2)、皇民化政策


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/20 - 00962/00962 PFG00017 半月城 高句麗語は朝鮮語? ( 8) 98/07/20 23:25 00850へのコメント (一部訂正)   山名さん、こんばんは。RE:850、 >日本語と朝鮮語の数詞は一致しないことで有名ですが、李氏は上記の研究の中 >で次のような高句麗語と古代日本語との類似を見いだしています。   高句麗語と日本語の数詞の比較研究は、最初、1907年に京都帝国大学 (当時)・内藤湖南教授によりなされました。そのことを、言語学者で『広辞 苑』の編者として知られる新村出・京都帝国大学教授(当時)はこう記してい ます(注1)。  「日本語の数詞が、朝鮮語の数詞と一致しないことは、本稿のはじめにすこ し述べたとおりであるが、古代朝鮮語の一方言に、日本語の数詞と類似するも のがあることは、両言語の比較研究上きわめて興味のある新問題を起こさなけ ればならない。   この類似は、いまなお専門学者によって看過されているようであるが、明 治40年(1907)の夏、内藤(湖南)博士の注意によって、私に知られて 今日にいたった。   それは『三国史記』の高句麗の地名のなかに、高句麗方言の数詞を含むも のがあって、その数詞が、日本語の数詞に類似していることがらをいうのであ る。  『三国史記』(巻37)高句麗地理誌の地名表を見ると、つぎの4郡県に、 おのおの別名が付載してあるのに注目されるのである。  三[山見]郡 一云 密波兮 ([ ]内は一字)  五谷郡    一云 于次呑忽  七重県    一云 難隠別  十谷県    一云 徳頓忽・・・」   高句麗語の数詞はわずか4語しか知られていないのに、そのうちの3語 (三、七、十)まで語頭音が一致するとはたしかに偶然以上のものがありそう です。また、数詞の五も見方によっては語形が変化したともとれるので、両者 の類似は一層強いものになります。   ちなみに、世界中で日本語の数詞に語頭音が3語以上類似している言語は 次の表のとおりです(注2、注3)。ただし、ヒマラヤ語群の Limbu やビル マ語群の Maru,Maingaθa は省略しました。また特殊記号も省略しました。 (○は日本語数詞と語頭音が一致)。   日本語  高句麗語  ヒマラヤ語群  ビルマ語群 中世朝鮮語 (Dimal) (Lisi) 1  hito - ai-lon ta ○hana 2  huta - nai ok tur 3  mi ○mit sum sam sei 4  yo - dia mik net 5  itu ucha na nu tasat 6 mu - tu chuk yosat 7  nana ○nanun ○nhu ○net ○nirkop 8  ya - ○yai-lon  set ○yotarp 9  kokono - ○ku-ha ○kok ahop 10 to ○tok ○tai ○tase yor   さらに高句麗語と日本語との類似は数詞だけに限らないようです。   RE:850 >「李基文氏の研究によれば、「三国史記」の地名表記の中から、今は亡失した >高句麗語がや約80語復元された。しかもそのうち30語が日本語と類似した >形を持っている。   李基文氏の立場ですが、同氏は高句麗語は朝鮮語ではなく、ツングース語 系であると主張している学者です。すなわち、三国時代の言語で高句麗語と百 済の支配層の言語はツングース語系で、百済の大衆語や新羅語とは異なる言語 と見ています。   しかし、高句麗語とツングース語とのくわしい比較研究はなく、この説に は多くの学者が反対しています。たとえば、金 思ヨプ氏はかなりの根拠をあ げて、高句麗語は朝鮮語系であると論じています(注3)。   それはともかく、復元した高句麗語の地名を、産能大学の安本美典教授が 調べ、ほとんどが中部朝鮮に分布していることを明らかにしました(注2)。 それを同氏は「倭人語対応地域」と名付けましたが、なぜこの飛び地のような 地域がぽっかりと朝鮮中部に残ったのか疑問は深まるばかりです。   これを歴史的事実と関連づけると、実にさまざまな可能性が考えられます。 安本氏は、この地域から倭人がやってきた可能性や、逆に倭人が侵入による植 民地の可能性などいろいろ想像しています。   一方、北海道大学の吉田知行教授は、次のようなシナリオもあるのではな いかと想像しています(注3)。             -----------------------   今から二千数百年前、ビルマ系江南語の渡来する以前に、原倭人は朝鮮半 島南部に分布していた。また原高句麗人は、原倭人の分布域の北側の朝鮮半島 西部に分布していた。   ビルマ系江南語は朝鮮半島南部・西部それに九州に渡来し、稲作を始めと する江南の文化をこの地方にもたらした。   原高句麗語と原日本語にビルマ系江南語の数詞がもたらされたのはこの時 である。新しい稲作文化のおかげで、朝鮮半島の人口は増え、数百年のうちに 原高句麗人は北方にまで勢力範囲を広げた(あるいは稲作文化を受け入れた原 倭人が人口を増やし、原高句麗人を北に追いやった)。   漢の武帝の時代に、漢が朝鮮半島の北西部を占領し(前108年漢の四郡 の設置)、また朝鮮半島東部にいた韓民族の祖先が勢力を伸ばして、原倭人と 原高句麗人は分断された(あるいは原高句麗人のうち、南方にいた人々は滅ぼ され、北にいた人々が残った)。   いずれにしても勢力圏の中心をはるか北方に移した原高句麗人は、気候的 な問題から稲作文化を捨てざるを得なかった。一方南にいた原倭人は、韓民族 などの圧力で次第に南に追いやられて、原高句麗人とは遠く距離を隔てること になった。             ------------------------   この想像はシナリオとしてはおもしろいのですが、どこまで実証できるの かはなはだ心もとないものがあります。どうも倭人と高句麗をむりやり結びつ けたという印象が強く残ります。   さらに、このシナリオで吉田教授はビルマ系江南語が朝鮮南部や九州に 「渡来」したと想像していますが、それなら数詞以外にビルマ語と日本語の基 本的な語彙、たとえば身体語とか、日常語などがどのように類似しているかな どの考察が必要ですが、それにはほとんど言及がありせん。   わずかにビルマ語と現代朝鮮語で、「父」と「母」の発音が似通っている ことを示しているのみです。これではビルマ語系と高句麗・日本語との関連は うがちすぎではないかと思われます。   一方、安本教授もビルマ語との関連について“「ビルマ語群」のなかには 「目」「歯」「手」「毛」などの単語のセットにおいても、語頭の音が、偶然 以上に、日本語と一致する言語がある”と記していますが、はたしてこれも 「偶然以上」かどうかやや疑問です。   ともかく日本語とビルマ語との関連はよくわからないにしても、日本語と 高句麗語との関連は無視できないものがありそうです。 (注1)『新村出全集第1巻』筑摩書房,1971 (注2)安本美典「高句麗語の探求」『邪馬台国』59号,1996 (注3)吉田知行「高句麗語の数詞は中国江南地方から来た」同上 (注3)金思ヨプ「高句麗・百済・新羅の言語」『古代日本語と朝鮮語』毎日   新聞社,1975   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


韓国の日本古代史に対する見方 |#5978/5978 日本史ボード |★タイトル (SPM07550) 98/ 7/16 21:36 ( 75) |古代史】韓国の日本古代史に対する見方  半月城 |★内容   #5915,がんもさん >残念ながら、日本では韓国の方の古代日本史論文を紹介されることが少ない >のですが、それでも小林恵子氏、李寧煕氏などの本を読むと、たまに紹介さ >れることがあります。まあその内容たるや「と学」になるような物もあって >驚きました。(みなさんがみんなそうではないのでしょうが)   古代史はいろいろな解釈が可能なので、日本でも韓国でも珍説・俗説が花 盛りですね。たとえば蘇我氏は天皇であったとか、藤原鎌足は百済人であった とか。   鎌足の話は、3-4年前に韓国のTV大河ドラマ「三国記」に登場しまし たので、それを信じている韓国人は意外に多いかもしれません。しかしまとも な歴史書で、鎌足は百済人であったなどと書いてある本はまずないと思います。   日本では、李寧煕氏がもてはやされたり、あるいはけなされたり忙しいこ とですが、私はこの人の本にはうさんくささを感じ、まったく読んでいません。 こうした人の一方で、まともな韓国の歴史学者がほとんど知られていないのは 残念なことです。   そうした人を何人かあげてみます。 李元龍氏、この人は高齢なのでほとんど最近は見かけないようです。つぎに、 前韓国国立博物館長・韓炳三氏、この人はNHK教育TVで「韓国の古代文 化」15回シリーズを講義しましたので、ご記憶の方も多いと思います。   若手では、慶星大学の申敬チョル氏などが知られています。申氏は、西谷 正氏と『伽耶と古代東アジア』を出版していますが、その中に韓国人の執筆者として  東国大学講師・安在晧「土師器系軟質土器考」  釜山市立博物館研究官・宋桂鉉「伽耶出土の甲冑」  国立晋州博物館学芸研究士・金斗チョル「伽耶の馬具」 などの方々が登場します(注1)。   そもそもまともな歴史書に日本の古代はあまり登場しません。これは三国 史記に日本の記述が少ないことからわかるように、古代の日本は、中国に比べ 韓国にとってそれほど重要ではなかったからです。   逆に古代から現代へと時代が進むにつれ、歴史書では日本の記述が増えて いきます。これは日本と逆になります。ここに日韓の歴史書に落差があります。   ちなみに韓国の高校教科書で、古代日本は次のように扱われています(注 2)。             ---------------------- ○古代文化の日本伝播 三国文化の日本伝播   新しい文物を携えて日本に渡ったわが国の人びとは土着の日本人を教化し た。   百済の阿直記(アジッキ)と王仁(ワンイン)は日本に学問を伝えたが、 この時に漢学を通して日本人は文学の必要性を認識し、儒教の忠孝精神も広く 受け入れた。また、百済は仏教、経典、仏像と五経博士、医学士、暦博士、そ して画家と工芸技術者などを送った。その影響で五重塔も建てられ、百済伽藍 という建築様式も生まれるようになった。   高句麗(コグリョ)も日本文化に多くの影響を与えた。高句麗の僧侶恵慈 (ヘジャ)は聖徳太子の師となり、曇徴(タムジン)は儒教の五経と絵画を教 え、紙と墨の製造技法を伝えた。日本が誇る法隆寺の金堂壁画も曇徴の作と伝 えられている。とくに現在日本の各地に残る古代の仏像のなかには、形態美や 特徴からみて、三国の影響を受けたものが多い。   新羅は築堤術と造船術を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で、「韓人 の蓮池」と呼ばれるようになった。そのほかに三国の音楽も伝わり、高句麗楽、 百済楽、新羅楽などの名称まで生まれ、日本音楽の潮流をなした。   このように三国時代のわが国の流移民は日本列島に渡り、先進技術や文化 を伝え、大和政権の誕生と古代飛鳥文化の基礎を築いた。 統一新羅文化の日本伝播   三国文化に続き統一新羅文化も日本に伝わった。日本に伝えられた新羅の 政治制度は大化改新以後の強力な専制王権の確立に寄与した。   また統一新羅文化の日本伝播は、日本が遣新羅使を新羅に派遣したことで 実現した。この時期に日本に伝えられた元暁(ウォニョ)、強首(カンス)、 薛聡(ソルチョン)などの仏教、儒教文化は白鳳文化に貢献した。             -----------------------   韓国の歴史教科書は国定教科書なので、上記の見方は韓国史学会の日本観 であるといってもいいと思います。そこには、日本で素人受けする李寧煕氏の 珍説などはとても入り込む余地がありません。 (注1)小田富士雄他編『伽耶と古代東アジア』新人物往来社,1993 (注2)宋連玉他訳『韓国の歴史』明石書店,1997   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


#6024/6024 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 98/ 7/26 19:52 (133) 古代史】新羅の破戒僧・元暁       半月城 ★内容   がんもさん、私も書き込みは遅いほうなので、お互いのんびりやりましょう。   RE:6001, >    でももしかしたら、日本で李寧煕氏が知られているように、 >韓国でもいい加減な日本古代史研究家の名の方が知れ渡っていたりして(^^;)   いい加減な古代史研究家とそうでない研究家を見分けるのは、かなりむず かしいことと思います。最近亡くなられた金達寿氏もそんな一人でしょうか。 まともなことを書くかと思えば、マユツバものもあるようです。   その中で比較的信頼できる著述などを引用し、数回に分け、がんもさんの 質問に答えたいと思います。今回は主に坊さんの話です。 >>(中略)この時期に日本に伝えられた元暁(ウォニョ)、強首(カンス)、 >>ソルチョンなどの仏教、儒教文化は白鳳文化に貢献した。 >「元暁」、「強首」、「ソルチョン」…(・。・) >す、すいません。これらについても機会があればどういう物なのか説明してい >ただけたら幸いです。<(_ _)>   これらは物ではなく、韓国ではよく知られた人物です。なかでも元暁大師は ソウル市内の街路「元暁路」に、その名を残しています。彼らの業績を簡単に記 します(注1)。   強首(Kang-su)は新羅史上初の本格的儒学者で文章にすぐれ、三国時代に複雑 な国際関係のなかで巧みに外交文書をあやつり、新羅の三国統一に貢献しました。   強首にやや遅れ活躍した儒学者が、元暁の子・薛聡(ソルチョン、Sol- chong)で、新羅語を漢字で表す方法(後世の吏読、りとう)を集成し、漢文 を新羅語で読み解く方法・吐(と)を考案して経典を講釈するなど、中国学芸 の摂取と儒学の発展に寄与しました。   ただ儒教といっても、このころの古代儒教はもっぱら詩文の才を政治・外 交面で発揮した文詞・文学儒教で、朱子学のように思想的に確立されたもので はありませんでした。 日本との関係   さて日本との関係ですが、元暁は日本でもよく知られており、東京の国立 博物館には元暁絵巻が保存されているようです。田村圓澄氏によれば、元暁は 型破りな坊さんのようで、こう記されています(注2)。            -----------------------   この元暁という坊さんは、われわれにとって、とても興味深い人だ。元暁 は、もと僧侶だったが、女性関係などもあって還俗し、在家の仏教者つまり居 士になった。彼は非常に多くの本を書いた。   一方、今で言うところのバーとか酒場にも出入りしている。かと思えば、 座禅を組んだり、かつまた琴を弾いて歌ったりもしている。一つの型にはまる ことのできない存在だ。   彼は民衆のなかに入って、民衆仏教を説いた。民衆のなかに入っていくと いうのは、元暁の前にも後にも例がない。日本の行基が彼によく似ている。   元暁が亡くなって半世紀もたたぬうちに、元暁の本50冊が奈良時代の日 本に来ている。これは正倉院文書に記されていることだ。元暁が活躍している 時代に、新羅の学問僧が唐入りしていることを考えると、元暁の書物が直接日 本に入ったのではなく、一旦唐に入ってそこから日本に持ち帰られた可能性も 考えられる。そうであれば、元暁の影響は唐まで及んでいたことになる。   鎌倉時代に下って、京都・高山寺の明恵(みょうえ)上人(しょうにん) は、元暁、義湘を尊敬し、絵巻を残した。現在、義湘絵は京都の、元暁絵は東 京の国立博物館に保存されている。            ------------------------   京都の高山寺で紅葉の季節に、私も人後に落ちず、紺碧の空と紅葉に染ま った谷に向けて力いっぱい「かわらけ」投げをしたことがありますが、かって はそこにあった寺宝の華厳縁起に元暁のことが書かれていました。この縁起物 語は娘道成寺に似たところがあり、なかなか興味深いので長くなりますがそれ を紹介します(注3)。            ------------------------   (新羅の)義湘と元暁は二人一緒に唐に行き、仏教を学ぼうとする。たま たま旅の途中で雨に会い、そこにあった洞穴に雨宿りをする。   ところが翌日になってみると、ただの穴だと思っていたところは墓場で、 骸骨などが散らばっているので、二人はぞっとする。しかし、その日も雨で出 発できずにそこに宿ることにした。   すると夢に恐ろしい鬼が出てきて、二人を襲おうとする。これは二人が同 時に恐ろしい夢を見たことになるわけだが、目覚めた途端、元暁の方は悟ると ころがあった。   前日、何も知らないで安心して寝ていた場所も、墓と知ったときは鬼に襲 われた。つまり、一切のことは皆自分の心から生じるので、心のほかに師を訪 ねてみても意味がないと悟り、元暁は志をひるがえして、新羅に留まることを 決意する。   義湘はこれまでの志を変えなかったので、旅が始まってすぐ二人は別れ、 義湘一人が唐に渡ることになる。元暁の翻意を知ったとき、義湘はそれに同意 をするのでもなく、また反対をするのでもなく、二人は別々にあっさりと異な る道を選ぶところが、なかなか印象的である。   義湘は船で唐に着き、里へ出て物乞いをはじめる。そのうち善妙という美 しい娘と出会うが、容姿端麗な義湘を見て、善妙は一目ぼれをしてしまう。  ・・・   その後、義湘は長安に行き、至相大師のもとで仏法の奥義を極め、帰国す ることになる。義湘の帰国を知った善妙は贈り物を整え港に駆けつけるが、船 は出た後であった。   彼女は嘆き悲しむが、贈り物のはいった箱を、義湘のところに届けと祈っ て海中に投げ入れる。すると、その箱は奇跡的にも義湘の船に届いたのである。 善妙はそれに勇気づけられて、義湘を守ろうとする大願を起こし、波のなかに 飛びこんでゆく。このとき善妙は龍に変身し、義湘の乗った船を背中に乗せ、 無事に新羅まで到達する。  ・・・   義湘は新羅に帰り、自分の教えを広める場所を求め、一つの山寺を適当な ところと考える。しかし、そこには「小乗雑学」の僧が500人も居るので困 ってしまう。   そのとき、善妙は「方一里(400m)の大盤石」に変身して、寺の上で上がっ たり下がったりしたので、僧たちは恐がって逃げてしまう。そこで、義湘はそ の寺(浮石寺)で華厳宗を興隆することになり、浮石大師と呼ばれるようにな った。            -----------------------   日本の道成寺では娘は坊さんへの愛を昇華しきれず、蛇になり坊さんが避 難した鐘に巻きついたようですが、この話の原型は善妙から来たのでしょうか。   一方、新羅に留まった元暁ですが、僧として破天荒な生き方をするのです が、徳も破天荒に高かったようで「大会の中にして講讃するに、聴衆皆涙を流 す」くらい説教も抜群に説得力が高かったようです。   そうした力量を遺憾なく発揮したのが、元暁絵にあるように国王の后が病 気になったときです。そのストーリーは次のようなものです(注2)。  「その頃、国王の最愛の后が重病となり、祈祷や医術をつくすが効果がない。 そこで救いを求めて勅使を唐に派遣する。ところが勅使の一行は船で海を渡ろ うとするとき、海上で不思議な老人に会い、老人の案内で海底の龍宮に導かれ る。   そこで龍王から一巻の経を授けられ、新羅に帰ってまず大安聖者という人 にその経の整理をさせ、元暁に注釈を頼めば、后の病は直ちに治るであろうと 言われる。   勅使は帰国して以上のことを国王につげ、国王は早速に大安聖者を召して、 経の整理にあたらせる。続いて、元暁に対して、経のための注釈をつくり講義 をすることが求められる。元暁は早速その仕事にかからせるが、それを嫉む人 に注釈を盗まれ、三日の日延べをして貰って完成する。・・・   元暁は無事に講義を終え、后の病も快癒する。元暁のその経に対する注釈 は、金剛三昧論と名づけられ、世間に広く流布するところとなった。以上が 「元暁絵」の話の大略である」   新羅の二大聖賢・元暁と義湘の考えや生き方は実に対照的ですが、この二 人により新羅仏教が盤石なものになりました。その仏教・華厳宗は日本の東大 寺などに伝わりましたが、同時に正倉院にも残る新羅文化などが日本の白鳳時 代に多大な影響を与えました。   それらについては次回に書きたいと思います。 (注1)『朝鮮を知る事典』平凡社 (注2)引用は、金達寿『日本古代史と朝鮮』講談社学術文庫 (注3)河合隼雄『明恵、夢を生きる』京都松柏社(第1回新潮学芸賞受賞)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


#6076/6076 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 98/ 8/ 3 22:33 (142) 古代史】新羅の技術           半月城 ★内容   がんもさんの残りの質問#6001に答えたいと思います。 >>新羅は築堤術と造船術を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で、「韓人 >>の蓮池」と呼ばれるようになった。 >これは初耳です。どの史書、発掘を元にこのような論を展開されたのか >気になるところです。   私もこれは初耳です。そこですこし調べてみましたが、どうもピッタリ該 当するような資料をまだ探せずにいます。   まず造船術ですが、ある時期に造船術と表裏一体の航海術は新羅から伝わ ったようです。特に大阪・難波の津を基点にした航海や外交は、新羅に深く関 係していることがわかりました。これについては、直木孝次郎氏が要領よくま とめていますので、それを引用したいと思います(注1)。            ------------------------   難波津に関係した渡来人は、主として東成・西成両郡の地に住んだらしい。 うち三宅忌寸(いみき)・三宅連(むらじ)が新羅系であることは前述した。 吉士系の氏族の母国は明らかでないが、新羅の官位に吉士の名のあること、 『書記』によって難波吉士が海外に渡航した先をみると、新羅がもっとも多い こと(注2)などから新羅系の可能性が強いように思われる。  ・・・   これら吉士をカバネとする氏族が6-7世紀代に航海や外交に活動したこ とは、三浦圭一氏の研究が出て以来、一般に承認されている。とくに史上に顕 著なのは難波吉士であるが、日下部(草壁)吉士も例外ではない。   したがって、もと吉士をカバネとする氏族であったと思われる難波忌寸・ 日下部忌寸・吉士の各氏は、難波津の経営に何らかの形で参加し、郡領の地位 にあるのもそれと無関係ではないであろう。  ・・・   この三宅忌寸に関連する氏族に三宅連がある。『姓氏録』摂津国諸蕃条に、 「三宅連。新羅国王子天日鉾(あめのひぼこ)命之後也」とみえるのがそれだ が、『書記』『古事記』はともに、天日槍(天之日矛、あめのひぼこ)の後裔 の田道間守(多遅摩毛理、たじまもり)を三宅連の祖としている。   三宅忌寸と三宅連の関係についてはかってのべたことがあるので、ここで は詳細は省くが、天武朝の八色の姓の制度の際、忌寸の姓を賜った連姓が少な くないことを参照すると、三宅忌寸と三宅連は、ともに新羅の天日槍を祖とす る伝承をもつ同族と考えてよいと思われる。   そして難波屯倉(みやけ)が他の一般の屯倉とちがい、難波津の運営や管 理に関係していたらしいことからすると、この新羅系渡来人と考えられる三宅 忌寸・三宅連は難波津と関係をもつ氏族と推定してよかろう。このことは、三 宅連の直接の祖である田道間守が遠く常世国(とこよのくに)に使いして、非 時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて持ち帰ったという伝承からも支持 されよう。   以上により難波津の地域には、住吉津の地域とちがって、航海の技能や屯 倉の管理により港津と関係の深い有力な渡来系氏族が居住していたことが知ら れる。            -------------------------   三宅連の先祖とされる天日槍について、日本書紀などの記述をどこまで信 頼していいのか疑問ですが、新羅からの渡来人が難波の津を基点にして航海を していたのは確かなようです。   当時、畿内最大の港町である難波津に造船技術が発達したことは容易に想 像されます。その技術は、難波津と関係の深い新羅系氏族により発展していっ たのではないかと思います。   つぎに築堤術ですが、これは新羅系と考えられている秦氏族により各所で おこなわれたようです。この氏族は、京都・太秦の地に見られるように、養 蚕・機織り・銅鉄鋳造などの技術に通じ、殖産興業にかかわったことでよく知 られていますが、なかんずく大規模な治水工事や築堤術は得意だったようです。 す。   そうした足跡をたどってみると、京都の葛野川(保津川・大井川)に堰堤 (せきてい)を造って水利の便をはかったことが『政事要略』の「秦氏本系 帳」などに記されています。   また、この秦氏族は難波の地も開拓したとされています。その開拓にはも ちろん治水や築堤も含まれています。再び、直木氏の著書を引用します(注1)。          ----------------------------   大阪平野の開拓についても、『古事記』の仁徳段には、秦人が茨田堤と茨 田三宅(屯倉)の造営に従事したことが伝えられている。   この秦氏による茨田堤と茨田三宅造営の伝承に対応するのが『倭名抄』に みえる茨田郡幡多郷の存在である。幡多郷の地はいま寝屋川市に属するが、近 世には秦村・太秦村を含み古代に秦氏が住んで淀川の治水に関与したと考えて もよかろう。   また摂津国豊嶋郡にも秦上郷・下郷のあることが『倭名抄』にみえ、この 地域にも秦氏の居住が知られる。その郷域は現在の池田市の中部に当たるもと の秦野村とその周辺にも比定される。治水に関する伝承は存在しないが、猪名 川の治水に従事したことは十分考えられる。   このようにみてくると、『続日本紀』によって西成郡に居住したことが知 られる秦・秦人の氏族は、やや大胆な憶測ではあるが、難波堀江の開堀に関係 した秦氏の後裔ではないかと思われる。  ・・・   私は秦氏の加わった堀江開堀の工事は、6世紀にいたってほぼ完成し、難 波津についた船は、そのまま堀江をさかのぼって大和川・淀川に入ることがで き、難波津の港としての価値は以前にくらべてはるかに大きくなったと考える。  ・・・   秦氏の母国も明確ではないが、新羅よりの渡来人とする説が有力である。 その説をとるならば、難波津にもっとも関係のある西成・東成両郡の地域には、 秦・三宅・吉士など新羅系の渡来人が多く、その東南の百済郡の地には主とし て百済系の氏族が住み、さらにその南の住吉郡には渡来人が少ないという地域 差を指摘することができる。            -----------------------------   うえに見たように、秦氏族と築堤術の関係は明らかになったのですが、し かし「韓人の蓮池」というのはどこにあるのかよくわかりませんでした。これ は秦氏と直接関係ないのかもしれません。   あるいは、大僧正・行基がたくさん築いた潅漑用の池のひとつを指すのか も知れません。   行基 (668-749)は、その像が近鉄奈良駅前に立っていますが、単なる高僧 にとどまらず、民衆の中にとけ込んでかなりの数の土木工事まで手がけたよう です。そうしたスタイルは新羅の僧・元暁の影響を受けたのでしょうか。   ただ行基自身は新羅系ではなく、百済系渡来人の子孫であったようです。 京都大学国史研究会の『古代史辞典』では「帰化人系統の豪家に生る」と簡単 に記されていますが、田村圓澄氏の「行基と新羅仏教」によると、「行基の父 の高志才智は王仁の子孫と称し、母の蜂田氏も百済系渡来氏族であった」とさ れています(注3)。   さて、行基の築いた池は、下記のように藤本篤氏の『大阪府の歴史』にく わしいようです(注3)。 ---------------------------   彼(行基)は、当時の官寺に安住する官僧が、民衆の救済よりも国家へ奉 仕するのにあきたらず、すすんで民間にでて、救済事業や教化にあたった。そ のため、民衆はおおいに彼を敬い、その行くところ、あとをしたうものは千を もって数え、争って礼拝したという。またその門徒は街区にあふれるようにな った。   彼の教化事業はこうした民衆の力を利用して、勧業事業につながっている。 『続日本紀』によると、行基は「みずから弟子をひきいて、要害のところに橋 をつくり、堤を築いた。それを聞いた人びとは、みなやってきて協力した」と あるが、そのため、大規模な土木工事に着手しても、たちまち完成したと伝え られている。   久米田池(岸和田市)は、行基がきずいた泉州最大の池であるが、その他 にも、河内第一の池である狭山池をはじめ、彼の指導によって掘られた池や築 かれた堤・樋(ひ)など、きわめて多い。   いま「行基年譜」によってこれを見ると、 [河内]狭山池・・・韓室(からむろ)堤樋・・・(6カ所) [和泉]・・・久米田池・・・        (10カ所) [摂津]・・・吹田堀川・・・         (9カ所) などとなっている。このようにして行基は、摂河泉三国の農業の発達、産業の 振興、交通の利便につくしたのである。            ---------------------------   ここで行基が土木工事を指導したといっても、僧の彼に技術的な指導はお そらく無理だったと思われます。やはり、土木技術はそれなりの技術者が協力 したと思われます。そうした技術者として、先ほどのように難波に住む秦氏族 など、新羅系渡来人が協力したのではないかと思います。   行基は百済系の渡来氏族であっても、新羅の僧・元暁の『大乗起信論宗 要』を説くなど新羅仏教の信仰者でした。したがって当時、行基と新羅系渡来 人の交流は緊密なものがあったのではないかと思います。 (注1)直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫,1988 (注2)雄略8年紀以降、斉明2年までのあいだ、新羅へ6回、任那へ4回、     百済へ2回(原注) (注3)引用は、金達寿『日本古代史と朝鮮』講談社学術文庫   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:戦時中の神道(1) [zainichi:06149] SINTOU Date: Sat, 20 Jun 98 23:25:15 +0900   半月城です。メーリングリスト[zainichi:06112]に関連して、国家神道の 話題、靖国神社と朝鮮神宮について書きたいと思います。 1.靖国神社   RE:6112、 >戦前日本で宗教に対してもなにか拘束事項はあったのでしょうかね? >元々、宗教に関してはそれが政治的勢力になる可能性がなければかなり >無頓着な国ですよね、日本って。   どうも発言の趣旨がよくわかりませんが、戦前の日本で神道が国教とされ ていたことはお認めになりますか? 人によっては、戦前の神道は宗教でなく 「国民道徳」であったと考えているようですが。   神道の中心は神社ですが、戦前に皇室を尊崇し国の支援を受けていた官幣 社は格付けされ、大社、中社、小社に区分されていました。これら官幣社のラ ンクからはずれていたのが、無格の伊勢神宮と別格の靖国神社でした。   戦前、これらの神社がいかに国家神道や軍国主義と結びついていたのか、 その例として靖国神社を取り上げたいと思います。靖国神社は明治2年(1869)、 明治天皇の意志で創建された招魂社に始まりますが、『国史大辞典14』(吉 川弘文館)にこう記されています。            ----------------------   (戦前、靖国神社の)所管は陸海軍省で、臨時大祭の委員長は天皇によっ て現役の将官が任命された。同社は、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・第1次 世界大戦・日中戦争・太平洋戦争とつづく、天皇の名による戦争のたびに、多 数の戦没者を新祭神に加えた。   社号の「靖国」は天皇の国家を安んずる意味で、戊辰戦争の内戦でも、幕 府側の戦没者は「賊軍」であるとして合祀されなかった。戦没者は、天皇のた めに忠死したという唯一点で、国によって神として祀られ、現人神(あらひと がみ)天皇の礼拝を受けるという、無上の「栄誉」を与えられた。   この構造は、日本人の生活でながい伝統を持つ霊魂観と祖先崇拝を、たく みに天皇崇拝と軍国主義に結びつけており同神社の存在は、国民の間に天皇崇 拝と軍国主義を普及徹底させるうえで、絶大な威力を発揮した。            ----------------------   このように靖国神社や護国神社などの神道は、天皇崇拝と軍国主義を徹底 させるため国家により強力におし進められました。そのため終戦直後、軍国主 義の根絶を目指した占領軍GHQは、『神道指令』で「国家と日本古来の宗教 である神道の厳格な分離を定め、神道および神社に対する公的な財政援助を禁 止」しました。   その精神は憲法の政教分離原則に引き継がれたのはいうまでもありません。 その後の歴史を、先の国史大辞典(1993)はこのように書いています。            ----------------------  (神道指令)以後、再軍備の進行とともに、政府と神社界は同神社の国営化 に動き出した。昭和31年(1956)、日本遺族会は「国家護持に関する小委員 会」を設置し、昭和39年(1964)自由民主党はそのための特別委員会を設けた。   自民党は、昭和44年(1969)国営化をめざす靖国神社法案を国会に提出し た。同法案は毎年、国会に提出されたが、4回にわたり廃案となった。昭和4 8年(1973)同法案は継続審議となったが、翌年反対運動の高まりに直面して、 衆議院通過後に廃案となった。   これを機に、自民党と推進勢力は、方針を転換し、首相の公式参拝による 同神社の公的復権を当面の目標とした。昭和60年(1985)政府は、「閣僚の靖 国神社参拝に関する懇談会」の結論を受けて、違憲の疑いがあるとする従来の 政府統一見解を改めて、公式参拝実施を表明した。   同年8月15日、中曽根首相は、閣僚を従えて公式参拝を行った。しかし 中国をはじめアジア諸国の反発と批判を受け、以後は一部閣僚のみの公式参拝 となった。            ---------------------   靖国神社を日本の首相が公式参拝するのは、中国などアジア諸国が「軍国 主義復活」と懸念し抗議していますが、それは戦前、靖国神社が軍国主義の精 神的支柱であり、また現在でも話題の東条英機などA級戦犯をまつっているた め無理からぬことです。   中国の抗議を考慮し、中曽根首相は「日中関係を犠牲にしてまで参拝する つもりはない」と言って、その後の参拝を取りやめました。また、中曽根首相 のあとの7人の首相も、日本遺族会の強い要請を受けても公式参拝はしません でした。   しかし、日本遺族会会長を務めたことのある橋本首相は1996年夏、首 相として11年ぶりに公式参拝を強行しました。案の定、中国の猛反発を招き、 それ以後は参拝を中止しました。   ちなみに天皇は、1975年の参拝を最後に靖国神社には行ってません。 これはもちろん政治的な理由からと思われます。   今年もそろそろ終戦記念日に近づいており、いずれ靖国神社参拝問題が話 題になりそうです。それを考える際にこの書き込みが参考になれば幸いです。 2.朝鮮神宮   さる艦長さん、 >植民地化の朝鮮半島で半月城さんがおっしゃるような政策を日本が取らなかった >(取れなかった)のは民族主義もしくは朝鮮ナショナリズムとくっつくことを考 >えてのことと考えていいのでしょうか? >国魂神もやはりそういうものに結びつくと当時の政府は考えていたのかな?   私もだいたいそのように考えていますが、その経過をもう少しくわしく見 ることにします。   ソウルの南山に建てられる官幣大社・朝鮮神宮に明治天皇とともに、朝鮮 の始祖たる檀君を祀ろうという声が、日本の神道家・今泉定助などから出され ていました。   もちろん、これは植民地・朝鮮の民族性を涵養するためではなく、植民地 支配を「国譲り神話」で合理化しようとする論理です。すなわち、出雲の国つ 神・オオクニヌシノミコト(大国主命)が天孫降臨の神・ニニギノミコトに国 を譲った神話を檀君と明治天皇になぞらえて、つじつまを合わせようとするも のでした。   このように、神社神道の教義の枠内であっても、朝鮮の土着の神を祭神と して祀ろうとする主張は、崔南善など一部の朝鮮人の間にも同調者をよび、総 督府を巻き込んだ議論になりました。   しかし、朝鮮神宮鎮座祭(1925)の直前に「一部学生の不逞計画に関する件 の情報」が入り、朝鮮総督府は檀君奉斎反対を決定しました。その理由は「鮮 人(せんじん)に神および神社の観念」がないので、「徐々に神祇(じんぎ) の道を教へ」ることが先だという意見でした。   しかし、これは表向きの理由で、朝鮮人のナショナリズムをなんとか抹殺 したい総督府は、檀君をまつることをかなり危険視していたのではないかと思 います。   檀君を下手に祀ったら、朝鮮人のナショナリズムを呼びさますかも知れず、 総督府にとってやぶ蛇になりかねません。とくに明治天皇と檀君を一緒に並べ たら、朝鮮人参拝者は檀君を崇拝する一方で、心の中では明治天皇にアカン ベーをするかも知れません。   実際、崔南善が檀君奉斎を支持したのは、民族の心を保つために神道教義 を逆手に取ってのことでした(注1)。こうした事情から檀君など、土地の神 (国魂神)はほとんど神社では祀られませんでした。   ただ、国弊小社(8社列格)の中には国魂神が祀られていましたが、いず れも抽象的な神で、たとえば龍頭山神社(釜山)の国魂神は「天照大神国魂大 神」、京城神社(ソウル)の国魂神は「朝鮮国魂神」で、土着の神とは縁が遠 い存在でした。   このように朝鮮民衆から縁の遠い神社は、現地に根付くわけがありません。 1945年、朝鮮解放後に朝鮮神宮などは早速取り壊されました。神社参拝強 制などの皇国臣民化政策が朝鮮人の心に深い傷跡を残し、怨嗟の的になったた めでした。 (注1)青野正明「朝鮮総督府の神社政策」『朝鮮学報』第160集、天理大学   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:戦時中の神道(2) [zainichi:06218] SINTOU (2) Date: Fri, 26 Jun 98 23:15:27 +0900 戦時中の神道(2)   忘暮楼さん、資料調査ではるばる東京往復とはご苦労さんです。学習院大 学の東洋文化研究所は、藤永さんがくわしいのでしょうが、朝鮮総督府OBと 宮田節子氏(前朝鮮史研究会会長)が呉越同舟で資料を熱心に集めただけに、 植民地時代の資料がわんさとあるようですね。そんな話が、天理大学の朝鮮学 報(第160集)にのっていました。   RE:6152,さる艦長さん >   植民地での政策で土着宗教を禁止して、神教を押し付けたというのが >ある意味で不思議な部分もありました。(よく読んでみると、禁止はしてな >いようですが…) >無論、同化政策の一つとしてみる事も出来るでしょうが、純宗教的にみた場 >合、韓国の宗教は放置されてもよさそうなものなのにと思ったわけです。   事実関係ですが、朝鮮総督府は同化政策の極限として皇民化政策、すなわ ち朝鮮人を天皇の赤子(せきし)に仕立てあげることを主眼にしました。その 目的を遂行する上において、諸宗教はそれほど障害にならなかったと見えて、 総督府は諸宗教を禁止しませんでした。   逆に総督府はキリスト教の組織などを利用し、神道の普及をはかりました。 それが神社参拝強制です。しかし、これはキリスト教徒にとって、信仰上深刻 な問題になりました。それについて、早稲田大学の宮田節子氏はこう書いてい ます(『朝鮮を知る事典』平凡社)。 神社参拝拒否運動   神道により朝鮮人の皇民化を図るため、朝鮮総督府は神社参拝を奨励した が、朝鮮人はこれを拒否することによって抵抗した。   1925年竣工の朝鮮神宮につづき、1930年代半ばから総督府は一面 (村)一神社の計画を推進し、さらに各家庭にも _棚を作らせ、(天照大神) のお札を買わせ、毎朝礼拝するように奨励し、37年の日中戦争以後は神社参 拝を強要した。   特に日米関係が悪化していく中で、約50万のキリスト教徒に対する弾圧 と懐柔策が強化され、教徒は集団で神社参拝を強要されるようになり、一部教 徒の中には<内鮮キリスト教一体化運動>を推進する者も出てきた。   そしてついに38年9月には、長老派教会は警察官立ち会いの下で神社参 拝を決議した。これに反対した約2,000名の牧師、教徒は検挙投獄され、 200余の教会は閉鎖され、50余名が獄死して抵抗した事件が有名である。   自分の信念のためには命をかける、--凡人にはまねのできない精神です。 このとき日本のキリスト教徒はどうしていたのでしょうか? 最近、たしか明 治学院大学だったか、キリスト教徒として戦時中の行為を反省する声明を出し たようですが・・・。   しかし、こうした深刻な話は信徒に限られるのかも知れません。さる艦長 さんのいう「宗教に無頓着」な多くの日本人にとって、神道は国教どころか、 宗教とすら認識されず、何も問題がなかったのかも知れません。そうした人び とが、きっと現人神である昭和天皇を中心とする八紘一宇や大東亜共栄圏構想 を支えたのでしょう。   RE:6155,忘暮楼さん >「1戸1体」を目指した、家庭の神棚用の大麻(おふだ)頒布でも、 >昭和13年、神職会取り扱いから行政系統取り扱いに変更して協力 >に進め成果をあげたようですが、それでもけれでも昭和16年になっ >ても全戸数の4分の1強といったところだ、と嘆いています。   総督府あげての強力な皇民化政策にもかかわらず、朝鮮で神社の大麻(注 1)が3割くらいしか普及していなかったとは驚きました。朝鮮人にとって、 しょせん絵空事のおふだを買わせること自体、有害無益な政策だったといえま す。このお札がたとえタダであったとしても、進んでもらう人はほとんどいな かったのではないでしょうか。   RE:6155、 >今回の勉強で、神社・神祠の問題が >(1)神祠設置によって氏神と氏子の関係の移入をはかる >(2)創氏改名によって導入された「イエ」制度を「氏神--氏子」によって > 横に結合する >(3)韓国郷土の山川地神を撒き餌にして韓国人を神祠に取りこみ神道 > の一元化を図る. > などの側面を持っていることを知りました。   (注・・・引用文の丸数字は機種依存文字なので、( )に変えました)   総督府はこの目的で村落祭祀を神社・神祠に取り入れることを検討しまし たが、調査の末にそれは無理であるとわかり中止したようです。   その結果は数字になって表れているといえます。忘暮楼さんが書かれたよ うに、土着の国魂神をまつる神社・神祠はわずか16社または17社(1941) にすぎず、全体の数(602社)からすると、ほんの一握りです。   村落祭祀、総督府の言葉では「部落祭」を神祠などに取り入れるのを中止 した主な理由は、総督府報告書『朝鮮の郷土神祠・部落祭』によると「祭神が 未だ自然神の域を脱しないものが多く、従ってこの祭神と部落民との間に人格 的な関係が少ないと云ふこと」とされています。   日本人向けの神祠に、朝鮮始祖の檀君を合祀するならともかく、土着の神 として抽象的な「国魂神」など合祀しても、朝鮮人はソッポを向いて当然です。   この報告書以後の政策転換について、聖和大学の青野正明氏はこう記して います(注2)。           -------------------------   その後において「部落祭」の政策的利用の問題はベールの中に隠されて、 表面上は<神社参拝強要>のスタイルで、特に日中戦争開始以降は増設される 神社・神祠に民衆は参拝させられていった。   つまり、1935年当時から突然と流行病のように総督府や神社関係者の 間に広まった「部落祭」熱が急激に冷め、戦時体制突入という状況も手伝って 参拝強要という形式面に重点が移ったわけである。   ある意味では、この事実自体が神祇体制の失敗、すなわち朝鮮を「皇国」 として支配し得なかったことを物語っている。           -------------------------   形式的な参拝を強制したのは、皇民化政策の失敗を示しているという見方 は本質をよくとらえていると思います。 (注1)大麻(たいま):伊勢神宮および諸社から授与するお札 (注2)青野正明「朝鮮総督府の神社政策」『朝鮮学報』第160集、天理大学   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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