半月城通信
No. 49

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 日本人のルーツ(3)、騎馬民族/a>
  2. 日本人のルーツ(4)、大和民族の形成
  3. 民族の定義
  4. 「民族」論議の打ち切り
  5. 一連の「民族論」について
  6. 日本語の系統


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/06/21 - 00705/00705 PFG00017 半月城 騎馬民族、日本人のルーツ(3) ( 8) 98/06/21 22:52 00535へのコメント   RE:535, >最近は、江上氏の騎馬民族説はどうも、アヤシイようですぞ。σ(o^_^o)   江上波夫氏の「天皇騎馬民族説」は発表以来、今年でちょうど50年を迎 えますが、いまだに黒白がつかず論争が続いているようです(注2)。それだ けでもなかなか興味あるテーマですが、それに加えてここの会議室では天皇が 繰り返し話題になっているので、それに関連して天皇の成り立ちがどのような ものであるのか、その実像に多少なりとも迫りたいと思います。   まず天皇騎馬民族説の概略ですが、この説は発表以来すこしづつ補強され てきましたが、そのあらすじは次のようなものです(注1)。            ---------------------   江上説は、日本国家の起源が、東北アジアの騎馬民族による日本征服にあ るというもので、記・紀の第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)と任那(加 羅)出身の辰王を同一人物とし、大和朝廷の創始者とする。   建国の過程は二段階に分かれ、まず300年ころ朝鮮から辰王=崇神(す じん)が騎馬集団を率いて渡来し、九州を征服したのを第1次建国とし、神話 伝承を歴史の投影とみなす立場から、天孫降臨に第1次の建国の歴史が反映さ れているとする。   さらに九州に建国された騎馬民族系王朝は、その後、約100年たった4 世紀末から5世紀初めに東遷し、畿内の諸勢力を征服し第2次の建国をおこな った。この建国者が河内の巨大古墳に葬られた第15代応神天皇であり、その 事蹟が神武東征伝承に反映されているとする。            ----------------------   江上説に対し、さまざまな賛否両論が出されましたが、核心に迫る批判を、 騎馬民族説派の奧野正男氏は次のように紹介しています(注1)。  「江上説に対しては、文献学者から、記・紀などの神話伝承を歴史現実の投 影として、史料批判ぬきにそこから史実を導く方法は、客観性を欠き、恣意的 であるという批判がある。   また、考古学者からは、騎馬民族が渡来したという4世紀代に馬具などの 出土資料が皆無であることも指摘されてきた」   この批判は適切です。征服王朝の根拠を、古事記・日本書紀で崇神天皇が 初めて国を治めたことを意味するハツクニシラス天皇と呼ばれていることや、 別名のミマキイリヒコが任那から渡来したことを反映して名付けられたとする のは根拠薄弱で、記・紀の神話にたよりすぎているきらいがあります。   記・紀でも崇神天皇は影が薄く、その存在自体かなり疑問視されており、 前半の崇神王朝=征服王朝説は、お話としてはおもしろいのですが疑問です。   しかし後半の、馬具が出土していないから騎馬民族の渡来は疑わしいとい う批判は、その時期を4世紀後半ないし5世紀初めにずらすと、その弱点は取 り除かれます。それどころか、逆にこの時期に馬具などが急増することから、 騎馬民族渡来説は説得力を増します。それを古代史が専門の東京大学・井上光 貞教授はこう評しています。  「また、崇神ではなくて応神を征服者とみたてれば、この時から多くの帰化 人が、続々と日本に渡ってきた、という記・紀の所伝ともよく符合するのでは あるまいか。   そればかりではない。江上説にあっては、高句麗の南下、百済・新羅の立 国など、いずれも北方騎馬民族の征服過程の一環とされるのであるが、高句麗 が楽浪郡を滅ぼしたのは313年、百済の統一は肖古王の時代、新羅のそれも 同じころである。日本の征服もまた、4世紀のはじめとするよりは、少しおろ してその中葉以後にみたてた方がよいであろう。この点からも、崇神ではなく て応神をその初代とする方が合理的なのである」   応神天皇を征服王朝と見る江上説のバリエーションとして、ネオ騎馬民族 説ともいうべき「三王朝交替説」が、江上説の4年後に早稲田大学の水野祐教 授により発表されました。その中で水野氏は、応神・仁徳征服王朝説を次のよ うに主張しました。   弥生時代に渡来したツングース騎馬民族集団は南九州に熊襲(クマソ)の 国・狗奴国をたて、北の邪馬台国と攻防戦を繰り返した末に九州統一王朝をた てた。その子孫の応神は古王朝である崇神系の仲哀天皇を九州で倒し、応神の 子の仁徳天皇が東遷して河内に入り中王朝をたてた。しかし、この中王朝もや がて6世紀に新王朝である越前の継体天皇により滅ぼされた。   水野氏は、自説の中で邪馬台国九州説をとっていますが、こちらの方も一 大テーマになっているのは周知のとおりです。そうした論点などを別にすれば 水野説も説得力があり、井上氏も「応神は征服者であったのではないか、応神 は九州におこった豪族ではなかったか」という点にしぼって賛成しています (注4)。   応神征服王朝を疑問視する人も、応神朝に一大変革があったことだけは認 めています。   応神王朝の拠点となった河内平野は、巨大な応神天皇陵や仁徳天皇陵など があることでよく知られていますが、ここは5-6世紀ころ、馬の文化の中心 地でした。それを同志社大学の森浩一教授はこう語っています(注5)。           -------------------------   日本に乗馬の風習が入ってきた初期の牧は、少なくとも近畿地方では河内 に集中していたようです。河内から摂津、広く言いますと河内の湖(当時)の 周辺および河内の湖に流れ込む川沿いの土地、水田にはならないような荒れ地 が初期の馬の飼育地であります。   ですから最近の河内平野の発掘では、馬の骨あるいは馬の歯、そういうも のも、しばしば発掘されているようであります・・・   あのへん(長原の方墳群)は奈良時代の文献では、馬の飼育集団、河内の 馬飼いの、一つの根拠地である。           -------------------------   河内は馬だけではなく、陶邑(すえむら)があったことからもわかるよう に、陶器文化の中心地でもありました。この時期に大量の渡来人がやって来て 馬具や陶質土器(初期須恵器)を日本列島にもたらしたことは、天皇騎馬民族 説を疑問視している佐原真氏ですら認めています(注2)。  「古墳時代にも、とうぜん向こう(朝鮮)から人が渡ってきた。ただ、馬具 や数々の宝物だけ来ているのだと言うなら、ごく少数の人と共に馬に乗る風習 も渡ってきたと言えるかもしれませんが、土器も一緒に来ていますから、むし ろ私はかなりの人が来たと思います。   ただ、その人びとが天皇にまでなる人だったかどうかについては疑問です ね」   文献のうえからも、応神朝に相当数の人びとが朝鮮から来たことは記・紀 に書かれていますが、それによれば次のような人が来たとされています。   まず、百済からの渡来人として有名な王仁は、倭に文字や学問をもたらし ましたが、その後裔一族の文首(ふみのおびと)や蔵首(くらのおびと)、馬 首(うまのおびと)などは河内の古市郡に住み後代まで栄えました。   なお、その子孫のひとりに初代遣唐使の小野妹子がいました(注6)。   王仁は少人数で来たのに対し、秦氏の祖先である弓月君(ゆづきのきみ) は120県もの人を連れて百済(実際は新羅・伽耶か)からきたとされます。 120県は誇張でしょうが、秦氏は山城・近江を中心に大分や若狭などほとん ど全国的に分布していたので、集団であるいは長期にわたり大量に渡来したこ とは確かなようです。   弓月君に次いで大量渡来が記録されているのは、倭漢直(やまとのあやの あたい)の祖とされる阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのお み)で17県を率いて渡来したとされています。   この一団は、安羅(あら)、安耶(あや)などといわれる百済・伽耶系の 渡来氏族で漢人(あやひと)と呼ばれました。居住地は高松塚やキトラ古墳周 辺の飛鳥檜前(ひのくま)一帯でしたが、ここは渡来人に満ちていたようです。  『続日本紀』は「凡そ高市郡内は、檜前忌寸(いみき)及び17の県の人夫 地に満ちて居す。他姓の者は十にして一、二なり」と記したほどでした。なお、 この氏族の子孫には後に蝦夷を攻めた坂上田村麻呂がいます。   また日本書紀には、阿知使主と同一人物と思われている渡来人・阿直岐 (あちき)が、良馬二匹を応神天皇に献上したと記録しています。この馬は品 種改良用の種馬であったろうと考えられています。   他に話題になる人物として、木満致(もくまんち)が百済から来たとされ ます。木満致は、京都府立大学名誉教授の門脇禎二氏や鈴木靖民氏らによれば 蘇我満智と同一人物とされています。満智の直系は韓子(からこ)、高麗(こ ま)、稲目(いなめ)と続き、その名前はいかにも渡来人を連想させます。   これ以外にも、韓鍛(からかぬち)の卓素や呉服(くれはとり)の西素 (さいそ)など技術者が渡来したことが記されています。ただ卓素は大和には 来なかったようで、北九州にとどまり製鉄技術を残したようです(注1)。   こうしてみると、応神朝に相当多数の人たちが渡来したようですが、その 数を計算した人がいます。自然人類学者の埴原和郎氏は、弥生時代より古墳時 代までの1,000年間、人口増加と頭骨の時代的変化に基づいてシミュレー ションを行い、その規模を約100万人とはじき出しました(注3)。   弥生時代の人口は小山修三氏によれば約59万人なので、埴原説が正しい とすると古墳時代以降も少なくとも50万人以上の渡来人があったことになり ます。   一口に100万人といっても、これを年平均にするとわずか1,000人 にすぎません。しかし、このように少ない数でも渡来人の影響は圧倒的で、埴 原氏によれば、近畿地方や中国地方の古墳時代の人びとの混血率は渡来系8- 9割、縄文系1-2割の混血率、関東地方の混血率は渡来系7割,縄文系3割 になるとのことです。   この大胆な数字を出した埴原氏自身、自分の計算結果に驚いたそうです。 ただし、埴原氏の推定にはいくつかの前提条件があり、それがすこし違うと1 00万人という数字はかなり変化します。それを考慮した上で同氏は、その正 しさをこう強調しています。  「渡来人の数が従来の想像よりも格段に多かったことは、このシミュレーシ ョンばかりでなく他のさまざまなデータからも、もはや否定できないだろう。 したがって、在来系集団に与えた渡来人の影響はきわめて大きかったと考えざ るをえないのである」   このように大量の人が渡来した背景ですが、5世紀の場合、朝鮮半島の動 乱が大きく影響しているようです。奧野氏は当時をこのように見ています(注 1)。  「そのころ好太王碑文にうかがえるように、高句麗軍の南進にともなう大規 模な戦乱がつづき、加羅など洛東江流域の諸小国は、高句麗・新羅連合軍から 攻撃を受けていた。   『三国史記』によれば同じころ、新羅ではイナゴの大発生や干ばつ(397, 406)、百済でも兵役を苦にして流忘するものがふえ民戸が減少(399)、干ばつ (402)などの記録が目立っている。   弓月君と120県の集団が大挙、海を渡ったのは、うちつづく戦乱と兵役 のうえに、凶作がかさなり、倭国に新天地を求めたものであろう」   戦乱や凶作が民族移動をひき起こし、新しい地に新たな文化を築いた例は 世界史にいくらでもありそうです。 (注1)奧野正男『騎馬民族と日本古代の謎』大和書房,1987 (注2)江上波夫・佐原真『騎馬民族は来た!?来ない!?』小学館、1996 (注3)埴原和郎『日本人の成り立ち』人文書院、1995 (注4)井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、1960 (注5)森浩一『甦る古代への道』徳間書店、1984 (注6)読売新聞、97.4.10   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


|- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/04 - |00796/00796 PFG00017 半月城 大和民族の形成、日本人のルーツ(4) |( 8) 98/07/04 15:14 00769へのコメント(一部訂正) 文書名:[aml 9063] YAMATO MINZOKU   #769,むじなさん >「世間一般」とは何ですか? >片方で、人類学者というアカデミズムの学説を紹介しておきながら、片方では >「世間一般」という庶民感情、民間語源を持ち出すあなたのやり方は、まさに >ずるさを感じざるをえませんね。   むじなさんは、世間一般を月並みに「庶民感情」などと解釈しているよう ですが、私のように素人の庶民が「民族」を定義するのはかなりむずかしい話 です。先の書き込みで、私のいう世間一般とは文脈上、学者など専門家をさす ことはいうまでもありません。   その意味で、広辞苑に書かれた「民族」の解釈は世間一般のうちに入りま す。しかし、近代以前に民族は存在しなかったとするむじなさんは、それに必 ずしも満足されていないようなので、民族をもうすこし学問的に追求すること にし、まず文化人類学者の大林太良・東京女子大学教授の定義をここに示しま す(平凡社大百科事典)。             ---------------------- 【民族】   ギリシャ語のエトノス ethnos,それから派生した英語の ethnic group あ るいは ethnic unit に対応する学術用語であるが、日常用語としても用いら れる。多くの民族学者(文化人類学者)の考えでは、民族とは次のような性格 をそなえた集団である。   第1に、伝統的な生活様式を共有する集団である。つまり語族や語群が言 語の系統分類にもとづき、人種が身体形質を基準とした分類であるのに対して、 民族は文化にもとづいて他と区別される集団なのである。   第2は人種や語族が、形質や言語系統という客観的な基準にのみよってい るのに対し、民族は、伝統的文化の共有という客観的基準のほかに、<われわ れ意識>という主観的基準が加わっていることが特徴になっている。   つまり<われわれは日本人(日本民族)であって中国人(漢民族)ではな い>という<われわれ意識>である。   第3は民族とは決して固定したものではなく、歴史的に形成され、変化を とげていくものである。   このような民族の歴史的性格の探求のなかで民族形成(起源論)が、こと にその民族に属する学者や一般人の関心をひくのは、自民族のアイデンティテ ィを明らかにしようとする欲求に支えられているからである。            ------------------------   ここでも民族は広辞苑と同様、歴史的に形成されたとあるので、むじなさ んはこれも近代以降の話と誤解されるかもしれません。しかし大林教授は次の ように、日本民族の場合「奈良時代初めごろが民族形成にとって重要な時期」 であったと記し、明治時代ではなく、古代から日本民族が形成されてきたとし ています(前掲書)。            ------------------------   日本民族に関しては、第1に弥生時代以来の水稲耕作複合文化、第2にお そらく古墳時代のうちに朝鮮半島経由で入ってきたと思われる支配者文化複合、 第3に5世紀ごろから、7世紀にかけての朝鮮や中国からの多数の渡来人、な どのおもな構成要素がそろった時期、つまり奈良時代初めころが、民族形成に とって重要な時期と考えられる。   民族とは、上にも述べたように、たんに文化的伝統を共有するばかりでな く、<われわれ意識>をもつ集団である。したがって、民族の形成には、おも な構成要素がそろって、文化的共同体ができるだけでなく、意識共同体として も成立することが必要な要件である。   日本民族の場合、この観点からしても、奈良時代の初めころが重要だと考 えられる。   その理由は二つあり、第1は、古墳時代以来の政治的統合の進行に伴って、 日本列島の大部分の住民が単一の国家に属するようになったことである。   第2は、異民族との対決である。<われわれ何人(なにじん)、何民族> という意識は、われわれ以外の他民族と接触することによって生じ、成長する。 とくにその接触が摩擦、ことに武力による対決を含んでいるような場合に共属 意識は尖鋭となり高揚する。   663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れ、日本列島にとじこもるよ うになったこと、また奈良時代には日本列島の北には蝦夷(えぞ)、南には隼 人(はやと)というように、当時の中央の人々から異族として意識された人々 が住み、ことに蝦夷とは武力衝突を繰り返していたこと、などの状況は、われ われ日本人という意識が、少なくとも中央の上層部に発達するのに適した状況 であった。日本民族というべきものの形成にとって、奈良時代の初めころは、 決定的な時期であったといえよう。           ------------------------   飛鳥時代に唐や新羅と戦った倭は、敵に対しては強烈な<われわれ意識> を持ったのでしょうが、同盟国である百済に対してはどうだったのでしょうか。 大和朝廷の起源、とくに天皇の出自を考えるとき、すこし興味あるところです。   また敗戦後(663)、大量に亡命してきた百済の人々に対してはどうだったの でしょうか。亡命者のなかには鬼室集斯(きしつしゅうし)のように、文部大 臣ともいうべき学識頭(ふみのつかさのかみ)など要職についた人も少なから ずいましたが、大和朝廷は<われわれ意識>をもって遇したのでしょうか。   アメリカではイギリスから渡来したアングロサクソン人が、移住後もイギ リス人と同一民族であると考えていますが、古墳時代や飛鳥時代あたりはそれ と似たような考え方を持っていたかもしれません。   そうした意識は、文武天皇時代(697-707)、新羅との関係が悪化し始めた ころから微妙に変化し始め、その結果が『日本書紀』(720)の対外関係記述に 示されているのではないかと思います。   日本書紀より8年前に完成した『古事記』ではおおぜい新羅から来たこと をさして客観的に「渡来」と表現しましたが、『日本書紀』ではそれを「帰 化」とか「来帰」とか記しました。これらの語は、王化を慕っての渡来をさす ようで、それだけ『日本書紀』は小中華意識をちらつかせていたともとれます。   この『日本書紀』の蕃国視について、京都大学の上田正昭教授や作家の司 馬遼太郎さんはこう語っています(注1)。            ----------------------- 上田正昭  『古事記』と『日本書紀』をくらべた場合、『古事記』の方はどちらかとい うと蕃国視は少ないですよね。だから素戔嗚尊(スサノオノミコト)の話にし ても、天孫降臨の話にしても、黄金の国であるとか、朝日のたださす国が韓 (から)の国であるとか、素直に書いています。  『日本書紀』の方は、素戔嗚尊は新羅の地におりたくないとか、素戔嗚尊の 子どものイタケルが樹種を新羅にうえたんで、持ち帰るというような話にも蕃 国意識が反映されています。   8世紀のはじめころには、今いわれた古代貴族の蕃国意識みたいなものが でてくる。それでいて、さっき司馬さんがおっしゃったように、たとえば、長 屋王の詩宴の詩や万葉人の朝鮮人に対するあこがれみたいなものは一方にある わけです。   それが平安(時代)のなかへ残ってきます。公式のものへの一種のプロテ ストの現れであるかもしれない。だから平安貴族の世界に、唐のみでなく朝鮮 に対するあこがれがあるとするならば、大変興味のある大事な問題になってく ると思います。  ・・・ 司馬遼太郎   蕃国の問題ですがね。ぼくは蕃というのは、そんなに重要な問題じゃない と思うんですよ。蕃とは衛星国。中国を中心とした衛星国。ですから、日本も 朝鮮も同じ衛星国だということであって、上田先生がおっしゃったように、 『日本書紀』になると、からごころ(注2)がでてきますから、中国中心でも のごとを考えてしまうから、朝鮮は今まで尊敬していたけれども、あれは蕃だ そうだということになってくるんで、その程度の、つまり日朝お互いに中国か らみればおいらは垣根だぜ、という程度のもんじゃないかと思うんですがね。 上田正昭   そうですね。            -------------------------   ここで語られた蕃国視は新羅に対してであって、旧百済に対してはまた別 な意識を持っていたのではないかと思います。たとえば奈良時代末期、百済王 族の血をひく桓武天皇(781-806) は「百済王らは朕の外戚なり」と詔し、旧百 済系の臣下や後宮の女性たちを重用・寵愛しました。これからすると、すくな くとも桓武天皇は百済の遺民に対して<われわれ意識>を持っていたのではな いかと推測されます。   このように奈良時代以降の倭人の対外意識を振り返ると、大林教授の説の ように、大和民族はこの奈良時代に民族としての萌芽をみることができるとい う説は妥当ではないかと思います。   この考えに対し、もし、むじなさんが反論されるのであれば、焦点を絞り、 かつ日本語の民族について明確な定義を示されるよう期待します。英語やドイ ツ語に、日本語の民族にぴったり適合する語がないことは、民族問題の専門家 を自称するむじなさんはよくご存じのことと思います。   したがって日本語の民族を論議する際には、むじなさんがすすめるホブス ボウムの著書などは、参考書として限界があることはいうまでもありません。 (注1)司馬遼太郎他編『日本の朝鮮文化』中公文庫、1982 (注2)から‐ごころ【漢心・漢意】(広辞苑より)   漢籍を学んで中国の国風に心酔、感化された心。近世の国学者が用いた語。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/06/28 - 00765/00765 PFG00017 半月城 民族の定義 ( 8) 98/06/28 22:35 00714へのコメント   #714,むじなさん >私は民族という概念を否定しない。19世紀以降、そして現在も基本的に民族主義 >で世界が動いているのは事実だから。共同幻想に過ぎない民族といっても、それが >何らかの実体、実在性を帯びているのは事実だから。 >しかし、12世紀の出来事まで、「民族」という言葉で説明しようというのは、間 >違いだと言っているのです。民族問題に素人である、あなたや多くの人類学者の >基本的な誤りは、「民族」というものが「昔から実体だった」と思っているところ >にあります。   むじなさんのいう「民族」の定義がどのようなものであるのか、正確には 存じませんが、それは世間一般の定義と大きくずれているのではないかと思い ます。代表的な日本語による「民族」の定義は、たとえば広辞苑ではこう書か れています。 みん‐ぞく【民族】 (nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識を もつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗 教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位 であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。 また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。   こう定義したとき、現行の文部省検定教科書でゲルマン民族の移動とか、 騎馬民族の盛衰などと、古代・中世の歴史を民族という概念で記述しているの は別に不当ではないと思います。   同時に、多くの人類学者が基本的誤りをおかしているという非難はあたら ないと思います。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/11 - 00835/00835 PFG00017 半月城 「民族」論議の打ち切り ( 8) 98/07/11 15:24 00815へのコメント   むじなさんには失望しました。「民族」のように多様な解釈ができる語に ついて議論するのに、その定義をはっきりさせないで、焦点の定まらないこと を弁じても、お互い議論はすれ違いになるだけです。   それを憂慮して、私は#796で「もし、むじなさんがこの書き込みに反 論されるのであれば、焦点を絞り、かつ日本語の民族について明確な定義を示 されるよう期待します」と書きました。   それに対しむじなさんは、専門家であれば民族を定義することぐらいたや すいことと思われるのに、なぜか議論の核心にせまる民族の定義を避け、隔靴 掻痒なことばかり書いているようです。   それだけならまだしも、さらには私が紹介した文化人類学者・大林教授の 「民族」に関する定義を、陳腐とか何とか非難するだけで、自身の定義にもと づいての専門家らしい批判が見られないのは残念です。   これでは議論を続けても、私には得るところが少ないといわざるを得ませ ん。いやそれどころか、萩野谷 敏明さんがご指摘したように、むじなさんの 書かれる「罵倒」はひんしゅくものです。そのため、ここで「民族」に関する むじなさんとの議論を打ち切ります。   なお、私はむじなさんの冗舌にもかかわらず、近代以前に民族は存在した との心証を強くしています。そのさい、民族という語は近代以前になかったと いう事実は一向に問題になりません。ちょうど、弥生時代という言葉は当時な くても弥生時代が存在したのと同様に。   なお、私がその意を強くしたのは、政治学者の主張はともかく、最近の文 化人類学者のアイヌに対する考えなどもその一因です。そのひとり、一橋大 学・内堀基光教授はアイヌ民族を次のようにみています(注1)。            -----------------------   民族学のヨーロッパ語における言語(ethnology,・・・)の語幹は古代ギ リシャ語のエトノス(ethnos)に由来する。この語によっていったい何が意味 されているのかということはあとにゆずるが、これを先人が「民族」と訳した とき、現在のわれわれを悩ますひとつの意味論的な混乱の種がまかれた。   ごく単純化していえば、これは、民族学ないし文化人類学のトピックとし て現れる民族は、歴史学あるいは政治学の現場で語られるときの民族、あるい は現実の世界で起こりつつある民族にまつわるさまざまな出来事とは、しばし ばかなりのずれがある--ようにみえる--ことに発する混乱である。   同じ民族という語を用いても、その概念は明らかに単一ではないのだ。こ のことは、本巻を構成する諸論文からおのずと明らかになる。だがさらに面倒 なことには、そこに見られるように、人類学者のあいだにおいてさえ、かなら ずしも一致した用法で用いられるとはかぎらないのである。   こうした概念上の相違を端的に示す例は、比較的身近なところからとりあ げることができる。日本国内における「アイヌ民族」をめぐる言説のなかに見 られるずれである。   多くの文化人類学者(民族学者)にとっては、アイヌの人びとが民族と呼 ばれることは、ほとんど自明のことがらに属している。   それにたいして、現実の政治過程のなかでは、これらの人びとを民族とよ ぶかよばないかは、行政の場での承認や否認の議論の対象となる問題であり、 また当の人びとによっては主張すべき要求事項となる。   こうしたずれを、いわば「あるものとしての民族」と「なるものとしての 民族」のあいだのずれとして調停することは可能である。だが、これらの二つ の民族概念、あるいはその二つの位相の間に横たわる距離が、こうしたあいま いな言い方で正確に計れるわけでもない。   ましてや文化人類学がつねに「あるものとしての」、つまり静態的な民族 を相手にしているわけでもなく、逆に、現実的課題としての民族問題を語るさ いに当事者たちが民族の名によって言い表そうとするものは、しばしば現実か ら遠く離れて静態的に「あるものとしての民族」に近いのである。   民族にまつわる言説の数々は、このように、それぞれに固有のねじれを含 みもっている。            --------------------------   このように、「多くの文化人類学者(民族学者)にとっては、アイヌの人 びとが民族と呼ばれることは、ほとんど自明のことがらに属している」と、文 化人類学者の観点を明らかにしました。   この考えが生まれる背景を、同教授は次のように書いています。  「人類学者にとってアイヌがひとつの民族をなす(なしていた)ということ が自明だというのは、すくなくとも最近にいたるまで、アイヌがエトノスとし ての存在態様を保持していたという認識を人類学者がもっているからにほかな らない。   この人類学者の認識は客観的認識である。すなわち、ほぼ共通の言語と生 活習慣をもち、こうした共通性を根拠に「他者(彼ら)」から「われわれ」を 分かつ主観的意識をもっている(と推定される)人間集団である(あった)こ とが、手にしうる文物と言説の記録から客観的にきわめて高い蓋然性をもって 認定されるということである」   独自の言語や文化をもつアイヌはエトノスとしての存在態様を保持し、近 代以前にコシャマインの戦い(1457)やシャクシャインの戦い(1669)など、一連 の倭人との抗争を通して<われわれ意識>を尖鋭にしていったことは想像にか たくありません。   こうした歴史的背景から、アイヌ民族は近代以前に存在したとする見方は 正しいと思います。同様に、古代、ゲルマン民族は大移動をしたという検定教 科書の記述もなんら書き直す必要はないとあらためて確信します。私は検定教 科書でも「自由主義史観」でも、万一それが正しい記述ならそのまま認めるこ とに少しもやぶさかではありません。   むじなさん、#815 >だったら、次の日本語の本を読んだらどうだね。 >綾部恒雄、梶田孝道、羽場久シ尾子、関根政美。   これらの本をどういうつもりで推薦したのでしょうか? 近代以前に「民 族は存在しない」というむじな説を補強するためですか? それとも、むじな 説が通用しないことを悟らせるためですか?   ご推薦のひとり、筑波大学・綾部恒雄教授は、日本民族が形成された時期 を下記のように「奈良時代の初期」とみているので、明らかにむじな説の否定 になります(注2)。            ----------------------   日本人(日本民族)と外社会との関係を歴史的に考えるうえで大切なこと は、まず日本民族の成立期を確認し、人びとの日本意識と外社会からの日本観 とのクロスするところに、当該期における日本の国際化状況をみてとることで あろう。   日本民族はいつ形成されたのかという問題は、当然、某年某月というよう な年月の特定を意味する性質のものではない。民族は一般に長期のプロセスを へて形成されるものであろう。   日本民族の場合、弥生時代に稲作が入り、稲作にもとづいた生活様式がし だいに確立されていくという客観的基準と、朝鮮半島や中国大陸との交渉のな かで、“われわれ日本人”という民族意識が形成されるという主観的規準とが 相補的に熟してきた時期を考えなくてはならない。   おそらくそれは奈良時代の初期であり、『古事記』や『日本書紀』が編纂 された8世紀初めごろと思われるのである。   民族のアイデンティティは、異文化との接触によって誘発されるものであ ることは疑いを入れない。それはいわば、日本人のウチからする外社会への認 識の反映でもある。そしてそうした認識は、日本が外社会からどのように観ら れていたかという、いわばソトからの視点と交錯することによって、国際社会 における日本人の位相を決定していくことになる。   歴史時代以降にみられる異人の日本来航と日本人の海外進出が、日本の国 際化をさらに促進したことはいうまでもない。 (以下の論証は省略)            -----------------------   この説は、#796に紹介した大林太良教授の「日本民族というべきもの の形成にとって、奈良時代の初めころは、決定的な時期であったといえよう」 という説とほとんど変わりありません。文化人類学者の最大公約数的意見でし ょうか。   私はこうした意見を素直に受け入れることにします。その反面、これまで の書き込みを通して、私は自称「民族問題の専門家」むじな氏の姿がみえた気 がします。 (注1)内堀基光他編『文化人類学第5集、民族の生成と論理』岩波書店,1997 (注2)綾部恒雄「日本観の構造」『民族の世界史2,日本民族と日本文化』   山川出版社、1989   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/19 - 00942/00942 PFG00017 半月城 RE:一連の「民族論」について ( 8) 98/07/19 21:09 00862へのコメント   南さん、#862 >   民族論については急ぐ理由が分かりません。様々な学者と学説がある >のは、むじなさんの発言を見れば分かります。それらの学者さんが、生涯をかけ >て研究なさった事でしょうし、むじなさんも相応の時間を割いて勉強なさったの >でしょう。歴史上の論争が長期に渡る例としては、例えば邪馬台国があります。 >半月城さんの民族論も、少なくともそれと同じぐらいの時間をかけないと(いや、 >もっと時間がかかるかな)決着はつかないのではないように思えます。   まず初めにお断りしたいのですが、私はどなたとの議論においても、決着 をつけようとか、相手をうち負かしたいとか思わないことにしています。   ましてや、むじなさんのような専門家にはそれなりの学識がおありでしょ うから、そうしたものを少しでも学べればそれで満足です。私はそうした姿勢 で議論するように心がけています。   それにもかかわらず、むじなさんとの民族論議を打ち切ったのは以前書い たような理由があったためです。   議論はいうまでもなく相手があってできるものです。したがって相手と議 論を長く続けようと思えば、それなりに相手と「あうんの呼吸」が必要です。 しかし惜しいことに、むじなさんは、特に民族問題に関しては「罵倒」混じり で議論することが習性となってしまったようです。   むじなさんの弁によれば、どこぞやの会議室では紳士であるとのことでし たので、この会議室の特性がむじなさんをそうさせたのかもしれません。もっ とも、どちらの姿がむじなさんの本性に近いのかはわかりませんが。   民族問題に関して、むじなさんのそうしたの書き込みスタイルが、私とは ちょっと位相が合いません。元来、私は民族問題には関心が強いので、今後、 TPOがうまくマッチすれば、その時は書き込みを再開したいと思っています。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/07/11 - 00836/00838 PFG00017 半月城 日本語の系統 ( 8) 98/07/11 15:36 00816へのコメント   むじなさん、#816 >とくに、日本語の場合「どうもアルタイ諸語と大きな関係はないらしい」というの >が定説で、むしろ一番土台の部分はオーストロネシア語族で、そのうえに、 >アルタイやシナ・チベット諸語が覆い被さってできたクレオール言語ではないか >という説が有力です。   これは学者により考え方が違うのでしょうが、アルタイ比較言語学などが 専門の都立大学・村山七郎講師は、日本語はアルタイ・ツングース系と大いに 関係があるとして、こう記しています(注)。            --------------------   日本語の系統についてわが国の言語学者の間には不明という説が強いが、 藤岡勝二の『日本語の位置』という講演(1908年、主として類型論の立場 からの考察)以来、ウラル・アルタイ説またはアルタイ説が根強く残っている。 アメリカのR・A・ミラーのごときは日本語をアルタイ系言語と断定している。 ただし形態論細部にまで比較作業を十分進めていない。   私は語彙の面でも文法の形態論細部の点でも、日本語とツングース・満州 語族との系統関係は明らかになってきたと思う。ただし、日本語には南島語系 の古い要素(語彙および接頭辞)が多く含まれていることは否定できない。   語彙の面からみれば日本語は南島語とツングース語との混合言語といえる が、名詞の格変化、動詞の活用形の細部において、日本語はツングース・満州 語と共通性をもっている。そこで日本語は南島語要素を下層としツングース語 要素を上層とする重層言語と規定することができる。            ---------------------   村山氏は、アルタイ要素の中心をなすツングース語系として、オルチャ 語・オロッコ語・ナーナイ語・エヴェンキ語・ラムート語・ネギダル語・ウ デヘ語などや満州語・朝鮮語を比較検討しています。   一方、南島語としては、オセアニア諸語(メラネシア・ポリネシア語)、 台湾原住民言語、インドネシア語派などを取り上げていますが、その論考は、 発音記号にあふれ、素人には難解です。   結論として、日本語の語彙は南島語とツングース語との混合、文法はツン グース・満州語と共通ということでしょうか。   一方、朝鮮語ですが、その語彙に南島語がどれくらい混合しているのか知 りませんが、基本的にはツングース・満州語と共通するのではないかと思いま す。   一般に、日本語は難解な言語といわれますが、よく知られているように、 韓国人にしてみれば、これほどやさしい外国語は他にありません。一人称・二 人称の多様さ、敬語用法の複雑さ、助詞の使い方などかなり似ており、逐語的 な通訳が容易なのは、むじなさんはよくご存じのことと思います。 (注)村山七郎「日本語の系統」『民族の世界史、日本民族と日本文化』   山川出版社,1989   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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