- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/17 -
00360/00360 PFG00017 半月城 「慰安婦」と性奴隷、関釜訴訟の判決(2)
( 8) 98/05/17 12:35 00331へのコメント
樽人さん、こんばんは。#331,
>一方、「従軍慰安婦」の場合はどうでしょう。当時「従軍慰安婦」という言葉がも
>し正式に使用されていたとしたら、なぜそれをことさら「性奴隷」などと呼んで辱
>めを与える必要があるのでしょうか。韓国政府はもとより、その「横田洋三代理委
>員」の心理が理解できないのは、そういう点です。
「従軍慰安婦」という用語は今では広辞苑にものるくらい一般的になりま
したが、この言葉は藤岡教授が執拗に主張しているように、当時はありません
でした。これは千田夏光氏が1973年に本の題名につけたのが始まりである
ようです。
ここですこし藤岡氏の主張を聞いて見ることにします。
「そもそも『従軍慰安婦』なる言葉は、戦前には存在しなかったのだ。従軍
看護婦、従軍記者、従軍僧侶などは存在した。『従軍』という言葉は、軍属と
いう正式な身分を示す言葉であり、軍から給与を支給されていた」(注1)
ここの会議室では、藤岡氏や同氏が主宰する「自由主義史観」はどうやら
評判が悪いようで、ここで藤岡氏をまた持ち出すとクレームがつきそうですが、
藤岡氏と同じような誤解がここの会議室の発言#13などにも見られるような
ので、そうした誤りを、千田氏のことばを借りて指摘したいと思います(注2)。
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藤岡氏は「基本的なこと」を間違えている。軍属が軍から給与を支給され
ていたというのはそのとおりだが、従軍看護婦の主力をなした日本赤十字社の
戦地派遣看護婦は正式には「日本赤十字社救護看護婦」で、給与は日本赤十字
社から出ていた。さらに戦後、軍人恩給が復活したとき、ごく一部の婦長をの
ぞいて日赤戦地派遣看護婦は軍属でなかったとして、恩給の対象外とされた。
また従軍記者は各新聞社から戦地へ派遣された記者の俗称であり、各本社
から給与は支給され、旅費その他は出張旅費扱いであった。戦地で軍から移動
の便宜などはうけたが給与は受けていない。・・・
従軍僧侶は各宗派教団が戦地に送った僧侶で、これも軍から給与はうけて
いない。各宗派教団が旅費その他を支給していた。ここでも軍属ではなかった。
つまり「従軍という言葉は従軍看護婦、従軍記者、従軍僧侶のように軍から給
与を支給されていたもの」とするのは間違いということである。
従軍とは軍隊に従って戦地に行くことであり、それ以上の意味もそれ以下
の意味もないのである。
一方「慰安婦」という言葉は、私が「従軍慰安婦」を出す以前から「広辞
苑」(岩波書店)に載っていた。「戦地の部隊に随行して将兵を慰安した女」
とある(注3)。
内地における売春婦など一般の娼婦と区別し、過去の存在としていること
がわかるが、それはおそらく戦場帰りの兵隊たちが定着させた言葉だったかも
しれない。
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この「慰安婦」あるいは「従軍慰安婦」という言葉を、当の元「慰安婦」
はどのように考えているのでしょうか。元「慰安婦」の李容洙さんはこう述べ
ています(注4)。
『(日本は)泥棒に入って、そのうえ女の子たちを泥棒して、強制連行して、
「慰安婦」にさせたんです。それなのに、私達が自ら進んで軍隊について戦地
に行って、日本軍を喜ばせながら協力して戦争をするようにした、軍隊を慰安
するためにセックスを行った女たちと呼ぶとは、それはあまりにひどい話じゃ
ないか。それは私達を冒涜することじゃないか。私達を二度殺すのかと思って、
私その時とても怒りました。・・・
ほんとにここは「強制」をつけないといけないのです。「強制従軍慰安
婦」というふうに。私がこうして証言するのは、強制連行された被害者だから
です。私たちは好んで軍についていったわけではなくて、強制的に連れて行か
れたんだ。
そのことを明らかにしないで、そのような「従軍慰安婦」という言葉をつ
けるのは、人間泥棒、少女泥棒という事実を隠すためでしょう。日本は国を奪
っていくと同時に、性を奪っていった。そんな泥棒であると思います』
こうした主張はもっともなので、私はいつも「慰安婦」とカッコ付きで書
くようにしています。一方、「性奴隷」という用語ですが、これは誰も「慰安
婦」を辱めるために「性奴隷」といっているのではないと思います。私は「慰
安婦」の実態を知れば知るほど、その名がふさわしいのではないかと思います。
実際に元「慰安婦」自身、自分たちの立場を「性奴隷」に近いとらえ方を
しています。たとえば、先日判決のあった「関釜裁判」の被告、李順徳さんは
こう語りました(注5)。
「8年間、女として人間以下の犬のような扱いをされた。30万円とは冗談
じゃない。言葉では語れない、ひどい目にあった。今では目が見えなくなり、
一人では生活できない。ちゃんと謝罪と賠償をしてほしい」
裁判の判決文には、彼女の供述や陳述が下記のように書かれていますが、
これを読むと、彼女の「犬のような扱い」という申し立てもうなずけます。
----------------------
上海に着いた後、同女らは、幌のないトラックの荷台に乗せられ、右軍人
のうち一人は運転席の横に座り、残りの二人は荷台に乗った。右トラックの運
転手も旧日本軍の軍人であった。同女らは、約 3時間くらいトラックに乗せ
られ、旧日本軍の駐屯地に連れて行かれた。
同女らは陸軍駐屯地の大きな軍用テントの近くに転々と置かれた小屋に一
人ずつ入れられた。その小屋は、むしろの壁に萩の木で編んで作った傾斜のな
い屋根が葺かれ、2,3畳の広さの床は枯れ葉を敷いた上にござを敷き、その
上に国防色の毛布を敷いた粗末な作りであった。そのため、雨が降ると雨水が
たくさん漏れてきた。
同女は、軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の二日間に血液検
査と「606号」という注射を打たれた。その「606号」という注射は、そ
の後も2週間に1回の割合で打たれた。
陸軍駐屯地に入れられて4日目に、星が3個ついた軍服を着たミヤザキと
いう年輩の将校が小屋に入ってきて、同女に執拗に性交を迫り、これに抵抗で
きなくなった同女を3日間にわたり毎晩犯した。
その後、多くの軍人が小屋の前に行列をつくり、次から次へと同女を強姦
し、昭和20年(1945年)8月の解放のときまで約8年間、毎日朝9時か
ら、平日は8,9人、日曜日は17,8人の軍人が、小屋の中で同女を犯し続
けた。
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この申し立てに対し裁判長は、慰安所の主人の名前や所在地、部隊名など
が明確でないが、これは彼女の境遇や年齢を考慮するとやむをえないもので、
そのために「陳述や供述の信用性が傷つくものではない」と述べ、次のように
判断しました。
「原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴に至っ
て初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告
らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消しがたい原体験に属するものと
して、その信用性は高いと評価され、先のとおりに反証のまったくない本件に
おいては、これをすべて採用することができるというべきである。
そうであれば、慰安婦原告らは、いずれも慰安婦とされることを知らない
まま、だまされて慰安所に連れてこられ、暴力的に犯されて慰安婦とされたこ
と、右慰安所は、いずれも旧日本軍と深くかかわっており、昭和20年(19
45年)8月の戦争終結まで、ほぼ連日、主として旧日本軍人との性交を強要
され続けてきたこと、そして、帰国後本訴提起に至るまで、近親者にさえ慰安
婦としての過去を隠し続けてきたこと、これらに関連する諸事実関係について
は、ほぼ間違いのない事実として認められる」
李順徳さんの証言に対し、日本政府は何の反証もしなかったので、裁判長
は彼女の証言をほぼ事実と認めました。河野談話を前提にしている日本政府に
してみれば、彼女の証言をごく自然に受け入れることができたものと思われま
す。
#331,
> 「日本政府推薦の
>横田洋三代理委員」という方は、きちんと日本政府の了承を得てそういう
>ことを行っているのでしょうか。にわかには信じがたい話です。
国連人権委員会で「慰安婦」が「性奴隷」であったと断定した横田洋三教
授は、国民基金運営審議会委員長の要職にある方ですので、いわば日本政府と
の共同事業推進者です。したがって、横田氏が実際に日本政府の了承を得たか
どうかは別にして、日本政府の意向をある程度反映していることは確かです。
しかしながら国民基金関係者には、意外と政府に批判的な人がいることも
確かです。このあたりは宇佐美さんがくわしいのでしょうが、前回紹介した元
国民基金理事の三木睦子さんなどもその一人です。他に「国民基金呼びかけ
人」の大沼保昭・東大教授などもその一人です。同教授は次のように政府を批
判しています(注6)。
「政府による個人補償があった方がいいというのは、当然すぎるほど当然の
ことです。でも2,3年以内にそうした決断をできる政府や国会を私達がもて
ると思いますか?
私自身、戦争責任や在日韓国・朝鮮人問題の解決を25年間求めてきた人
間です。政府に言いたいことは山ほどある。でも自分たちの運動の力量を見据
えた上での具体的な代案がない以上、「アジア女性基金」を拒否することは、
「慰安婦」への償い自体を拒否することになってしまうのです」
このように、国民基金(アジア女性基金)の考え方としては、国家補償そ
のものは必ずしも否定していないのではないかと思います。
一方、日本政府の考えはどうでしょうか。ここの会議室では「従軍慰安
婦」の強制性を認めた河野官房長官談話を、韓国などの外圧に屈した恥ずべき
発言と考える人が多いようですが、現在の日本政府は同談話を積極的に活用し、
これをクマラスワミ氏などに資料として提供しています。
また最近では、先日の関釜裁判において日本政府(法務省)は下記のよう
に、河野官房長官談話(93.8.4)の主要部分を改めて認めました(注7)。
-------------------
昭和7年(1932年)ころから終戦まで、長期に、かつ、広範な地域に
わたって慰安所が設置されたこと、慰安所は、当時の軍当局の要請により設置
されたものであること、敗走という混乱した状況下で、慰安婦等の婦女子が現
地に置き去りにされる事例があったこと、
戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本を除けば、朝鮮半島出身者
が多かったこと、昭和7年(1932年)にいわゆる上海事変が勃発し同地の
駐屯部隊のために慰安所が設置されたことが窺われ、そのころから終戦まで各
地に慰安所が設置されたこと、
慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、あっ
せん業者らがこれに当たることが多かったが、その場合でも、業者らが甘言を
弄し、あるいは、畏怖させるなどの方法で、本人たちの意思に反して募集する
場合が多く、また、官憲等が直接これに加担するなどの場合も見られたこと、
業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際して、旧日本軍が慰安婦を
特別に軍属に準じた扱いにするなどして渡航申請に許可を与え、帝国日本政府
が身分証明書の発給を行い、あるいは、慰安婦等の婦女子を軍の船舶や車両に
よって戦地に運んだ場合もあったこと、
慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧
日本軍が直接慰安所を経営していた事例が存在したこと、民間業者の経営にか
かる場合においても、旧日本軍において、その開設に許可を与え、あるいは、
慰安所規定を設けてその利用時間・利用料金や利用に際しての注意事項を定め
るほか、利用者に避妊用具を義務づけ、あるいは、軍医が定期的に慰安婦の性
病等の病気の検査を行うなどの措置を採り、さらには、慰安婦に対して外出の
時間や場所を限定するなどしていたところもあったこと、利用者の階級等によ
って異なる利用時間を定めたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の検査をして
いた慰安所があったこと
以上の事実は当事者間において争いがない。
--------------------
このように訴訟の当事者である日本政府は、裁判において河野談話を追認
しています。この立場に立つ日本政府は、国連人権委員会において次のように
演説(英語)し、自責の念を示しました(98.4.6)。
「日本政府は戦争中の「従軍慰安婦」問題では、何度も心からの謝罪をし、
自責の念を示しました。また道徳見地から、「従軍慰安婦」問題およびそのそ
の女性たちの名誉と尊厳を回復するために「アジア女性基金」の設立を援助し
ました。・・・
日本政府はアジア女性基金とともに活動を続け、日本政府と国民の誠意を
もって、関係諸国の理解を求める努力をしていきたいと思います」
これをみると、日本政府は河野談話を前提にして「心からの謝罪」を何度
もしていることになっています。ただし、当事者の「慰安婦」は、国民基金を
もらった人以外は謝罪を受けたという認識がまったくありません(注8)。
一方、ここの会議室には、『国家による「謝罪」には必ず「補償」という
ものが伴います』<MES(7),#6423>と主張されている方がおられますが、その
信念をもっと声高に日本政府に向かって発言してほしいものです。
(注1)藤岡信勝「汚辱の近現代史」徳間書店、1996
(注2)千田夏光「『従軍慰安婦』の真実」『Ronza』97年8月号
(注3)広辞苑第1版。ただし第4版では「慰安婦」「従軍慰安婦」の説明と
して、「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍将兵の性的慰安のために従軍さ
せられた女性」と改訂しています。
(注4)戦争犠牲者を心に刻む会「私は“慰安婦”ではない」東方出版、1997
(注5)松岡澄子「4.27判決ドキュメント」『関釜裁判ニュース』第24号
(注6)朝日新聞、95.8.22
(注7)『関釜裁判判決文全文』戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会
(注8)朝日新聞速報、98.4.27
原告の朴頭理さんと同じ「ナヌムの家」(京畿道広州郡)に住む
元慰安婦の金順徳(キムスンドク)さん(七六)は農作業中に(関釜)判決
を伝え聞いた。「別にうれしくも何ともない。その後、控訴された
ら、判決がどうなるか分からないじゃないか。三十万円なんて、い
まどき子供にアイスクリーム代でもあげると思っているのか。金は
いらない。重要なのは日本政府の謝罪だ。私も(原告の)朴頭理さ
んも死ぬまで闘うよ」と興奮しながらしゃべった。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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00310/00310 PFG00017 半月城 RE:性奴隷
( 8) 98/05/10 20:53 00305へのコメント
樽人さん、ざ・ふぁろすさん、こんばんは。樽人さんの#305に横レス
したいと思います。
>「sex slave」-直訳すると「性の奴隷」である。なんとオゾましい。団鬼六じゃ
>あるまいし。(二、三度話したことがある。いいオジさん)
> 日本という国家も朝鮮・韓国という国家も、また当事者の女性た
>ちにとっても、かような呼称が妥当とも適切であるとも考えられないだろう。
>・・・
>ざ・ふぁろすさん、お仲間には韓国の事情に詳しい方がおいでなのでしょう?
>ならば今度ひとつ、この語彙を彼らが公式に採用しているものか、聞いてみといて
>いただけませんか。
韓国政府はたしかに「性奴隷」という用語を公式に用いています。98年
4月6日、国連の人権委員会で韓国政府代表は次のように演説しました。
「過去7年にわたってわが国は、軍事性奴隷制の犠牲となった「従軍慰安婦」
問題について言及してまいりました。第二次世界大戦中に日本帝国軍によって、
何万人もの罪のない女性たちが、非人間的な扱いを受けました。
これらの女性たちは、日に何度も行われる強姦と肉体への虐待を耐えまし
た。彼女たちの耐えがたい苦しみは、今年の(クマラスワミ)特別報告に述べ
られています。遺憾ながら、彼女たちの肉体も精神もひどい暴力の痛手から立
ち直っておりません。それどころか、彼女たちの多くは貧しく、年老いて、絶
望的な気持ちでおります。彼女たちに慰めはありません。
(途中省略)
韓国政府は、被害者たちに経済的な援助をするために必要な措置をとって
います。しかし、被害者たちが一番欲しているものは、国際社会の責任ある一
員としての日本政府の心からの謝罪と、責任を認めた上で問題解決のための誠
実な努力です」
性奴隷という言葉を使っているのは韓国だけでなく、96年のクマラスワ
ミ国連報告書に明言されて以来、国連用語としてすっかり定着しました。国連
人権小委員会において、日本政府推薦の横田洋三代理委員ですら、「慰安婦」
が「奴隷」であり、日本軍の行為が「犯罪」であったことを認めたくらいです
(注1)。
奴隷というと鎖につながれ、むち打たれ、自由もなく酷使されている姿を
思い浮かべがちですが、これに対し、「そうした奴隷もいたであろうが、これ
は奴隷のすべてではない。むしろ近代奴隷制は、奴隷に一定の自由を認めてい
たのである」と、東京造形大学の前田朗助教授は述べています。この主張は一
年前に紹介したことがありますが、ざ・ふぁろすさんはご存じないだろうと思
いますので、このあたりの議論をあらためて紹介します(注2)。
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池本幸三らの『近代世界と奴隷制ー太平洋システムの中で』(人文書院)
によると、大西洋奴隷貿易によって形成されたアメリカの黒人奴隷の場合、男
性は戦争捕虜として奴隷にされ、女性は主として誘拐によって奴隷にされた。
奴隷船に文字通りスシ詰めにされ「人類史上もっとも凄惨をきわめた航
海」でアメリカに送られ、プランテーションの重労働に投入された。人身売買、
拷問、虐待、焼印、粗末な衣食住。数知れぬ悲惨な物語が19世紀まで続いた。
それは新大陸アメリカが近代プランテーション革命によって資本主義を形成、
発展させた歴史そのものである。
ところで黒人奴隷たちは、まったく自由を認められていなかったのだろう
か。そうではない。彼らは、「掘っ建て小屋」とはいえ独立の建物に居住し、
家族を持つ者も多数いた。黒人奴隷には教育や学校は与えられなかったが、一
部の州では黒人学校が設立された。黒人教化運動も推進され黒人教会が登場し
た。温情主義に立つ奴隷主もいて、奴隷改善や家族の維持が図られた。自由身
分の買い取りもあった(つまり、そのための蓄財=私有財産も認められてい
た)。
奴隷にも「自由」はあった。それでは「自由」であれば、「自由」が多け
れば、彼らは奴隷ではないのだろうか。そうではない。奴隷は商品として売買
され、人格を全否定されていたが、同時に奴隷は貴重な労働力であり、その労
働力を十分に引き出すためには、奴隷にも「自由」が付与されていたのである。
奴隷の家族維持は、奴隷の再生産である。
「自由」な黒人奴隷は、まぎれもなく真の奴隷であり、人格を否定され、
目的としてではなく手段として扱われた。日本軍慰安婦も、性奴隷として人格
を否定され、日本軍人の性の手段、道具として扱われた。時として散歩や外出
が許されたり、日本軍人と「恋愛関係」になった例があるとしても、彼女たち
が奴隷であったことに変わりない。
黒人奴隷と日本軍慰安婦を直接の比較対象とするには、もっと慎重な手続
きが必要ではある。時間と空間の隔たりがあまりにも大きいし、世界史におけ
る位置の違いも決定的だ。しかし、奴隷制という本質は同一である。
しかも性奴隷とされた日本軍慰安婦には自由身分の買い取りなど考えられ
なかった。アメリカの黒人奴隷以下の奴隷である。
国際社会は19世紀後半から奴隷制廃止に向けて大きく前進した。20世
紀前半には奴隷条約・醜業条約・強制労働条約などの条約が採択された。歴史
の流れに抗して、まったく新しい性奴隷を発明したのが日本軍である。それは
現代奴隷制に連結する。この視点から歴史の中の人権がくっきり見えてくる。
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前田助教授の主張のように、奴隷という言葉は今日、何も古典的な黒人奴
隷だけを意味するのではなさそうです。国連では、婦女子の人身売買や戦時に
おける組織的強姦、さらには強制売春や強制労働など奴隷制度の本質につなが
る問題がとくに重視され、人権委員会下部組織の人権小委員会に専門部会とし
て「現代奴隷制作業部会」(委員5名)を設置し、今でも奴隷の根絶をめざし
て活動を続けています。
こうした理由から、クマラスワミ女史が「戦時の軍事的性奴隷制問題に関
する報告書」として、特に日本軍による「性奴隷」に力点をおいていたのは自
然な成り行きでした。
一方、日本でも「慰安婦」が「性奴隷」であるという認識が最近になって
高まってきました。性奴隷である理由を、中央大学の吉見教授は次のように記
しています。
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軍用性奴隷であったといえる理由
「慰安婦」制度が軍用性奴隷である理由、女性たちが自由もない状況に置
かれていたことを示す資料を見てみよう。
問題となるのは
(1)慰安所で強制があったこと、
(2)徴募時に強制があったこと、
(3)未成年者が連行・使役されたことである。
まず(1)だが、慰安所制度では、内地の公娼に認められていた「拒否す
る自由」「外出の自由」「廃業の自由」すらなかったことが挙げられている。
軍は、「娼妓取締規則」(1900年)に該当するような軍法を作ること
もなく、慰安所を作っていった。当然、「廃業の自由」はなかった。
「外出の自由」を認める軍法がなかったことは、「慰安婦」の外出を厳し
く制限する慰安所規則が現地の部隊によって種々作られていることから確認で
きる。「特に許したる場所以外に外出するを禁ず」とした独立攻城重砲兵第二
大隊の規定、業者に「慰安婦外出を厳重取締」するように命じた比島軍政監部
ビサヤ支部イロイロ出張所の規定、「慰安婦の外出に関しては連隊長の許可を
受くるべし」とした独立山砲兵第三連隊の規定などである。
もちろん、許可制なので、外出できる場合もあった。しかし、許可制であ
れば外出の自由があったとはいえない。逃亡の恐れのない遠隔地に連行された
場合、規則がゆるくなる場合もあった。
また、兵站司令部が介入して「慰安婦」の待遇を改善したという漢口の慰
安所の事例でも、前借金を「売春」で返済しなければならないという、民法第
90条に明確に違反する契約を軍は当然視している。
山田清吉漢口兵站司令部慰安係長も「妓は自分の身体で稼いで前借りを返
さねばならぬという拘束がある。何とも不合理な話なのだが、私にも特別の配
慮のしようがない」と記している。
「拒否する自由」も当然なかった。あったのは泥酔した兵士の相手を拒む
ことができることぐらいで、この程度では拒否する自由があったとはいえない。
(2)の徴募時の強制については、官憲が「奴隷狩り」のように暴力で拉
致する強制がなければ強制ではない、というような議論があるが、以下のケー
スは「強制」と考えるのが当然ではないだろうか。
朝鮮・台湾では、軍に選定された業者が
(a)前借金でしばって連れていくケース、
(b)だまして連れていくケース、
(c)誘拐・拉致するケース
は、韓国や台湾でのヒヤリング記録に見られる。とくに(b)は多かった。
(a)(b)については、アメリカ戦時情報局の資料でも確認できる。
軍の要請により総督府が上から割り当てていったと思われるケースは、次
のようなものがある。まず、1938年11月、第21軍の要請で徴募した時
「台湾総督府の手を通じ同地より約300名渡航の手配済み」という記録があ
る。台湾でのヒヤリングでは、48名の元「慰安婦」のうち役所から割り当て
られたという者は6名いる。
1941年7月の関特演(関東軍特別演習)では、関東軍は2万人の「慰
安婦」を集めようとし、朝鮮総督府に依頼して約1万人を集め、ソ「満」国境
に配置したという。これが事実だとすれば、上から割り当てるしかなく、そこ
で事実上の強制があったと思われる。
末端での官憲の直接関与を示す資料は、現在までのところ出てきていない。
これは非公開の政府資料が調査できるようになれば、あったかなかったかはっ
きりするだろう。
占領地ではどうか。中国・フィリッピンの被害者の証言は、ほとんど軍に
よる暴力的な連行である。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。
被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。
ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースや、スマランからフ
ローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島
ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が連行し
たとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したとする証言、アンボン島
で地元女性を連行したとする証言などがある。
(3)朝鮮・台湾からの未成年者の連行・使役については、半数以上が2
1歳未満の未成年者であったことが、ほぼ確認できる(注3)。
-------------------------
こうした解説から、「慰安婦」が性奴隷であったという主張はほぼ納得で
きるのではないかと思います。
(注1)戸塚悦郎「『国連・専門委員会への協力を求める』対日勧告」『法学
セミナー』96年11月号
(注2)前田朗「『慰安婦』が奴隷であることの意味」、『統一評論』97年
3月号
(注3)吉見義明「何が事実で証拠なのか」『法学セミナー』97年8月号、
ただし引用資料は省略、またカタカナはひらがなに変換)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:[aml 8660] SHIBA SHIKAN
Date: Mon, 25 May 1998
|- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/23 -
|00410/00410 PFG00017 半月城 藤岡「教授」と司馬史観
|( 8) 98/05/23 23:57 00369へのコメント (一部修正)
不思議なことに Net157 さんは#361で、私が藤岡氏の著書の『引用を
「適当」にして』いると誤解して、ひとりほくそ笑んでいるようですが、私の
引用には一字一句の誤りがなかったことを断言します(注1)。
#361で NET157 さんが藤岡氏を取り上げてくれたおかげで、私はこの
会議室でこれからも心おきなく藤岡批判をできそうです。
ざ・ふぁろすさん、こんばんは。#369にコメントします。
>奴隷や強制という定義に関しても、同じですね。
>藤岡さんの論は、従軍と言う定義についての事実誤認があるだけではなく、
>単なる言葉遊びではないですか? 現実の重さは跳ね返せません。
藤岡さんはディベート教育の推進者なので、言葉遊びに類したことのプロ
です。ディベートは「あるテーマについて、無作為に肯定側と否定側とに分れ、
同じ持ち時間で立論・尋問・反駁を行い、ジャッジが勝ち負けを宣する討論」
(広辞苑)とされるので、この手法に慣れた藤岡氏は、実際の議論でも勝ち負
けにこだわり、真実や現実の重さを置き去りにしがちではないかと思います。
そのため、もしかすると「従軍」という用語の事実誤認なども彼の「手の
内」かもしれません。そうでなければ、評論家の谷沢永一氏がいうように、
「調べもせず知りもせぬ歴史事情に、思い切った判定を下す虚喝(はったり)
が、この人の傍迷惑な身上」なのかもしれません(注3)。
最近、その両者はどうやら本格的なディベートを始めたようです。谷沢氏
は同氏を「意識的な手法としての誤魔化し語法の、悪知恵に長けた活用の典
型」と非難しましたが、これに対し藤岡氏は谷沢氏を「売文業者」とののしり、
「路地を歩いていたら二階からいきなり汚物をふりかけられたというに等しい
状況」と応酬しました(注3)。
谷沢氏ですが、この人も教科書の「従軍慰安婦」記述には同じように反対
している立場なので、両者はいわばコップのなかの争いでしょうか。それにし
てもディベートとあらば、汚物までたとえに出すとは「東大教授」藤岡氏の手
法もすさまじいものです。
このように人格的に問題のある泥仕合はさておいて、ここでは両者の論点
のひとつである「司馬史観」を取り上げたいと思います。ただし、ここでは両
者の主張の攻防を紹介するのではなく、私が日頃疑問に思っていることを書き
たいと思います。
ご存じのように、藤岡氏は司馬遼太郎の歴史認識を「司馬史観」と高く評
価していますが、これがそもそも私には疑問です。司馬の歴史認識を、皇国史
観などのように「史観」と名付けること自体無理があるのですが、それはさて
おき、司馬の歴史認識は、藤岡氏のいう「自虐史観」に該当しないのかと、私
は首をひねるばかりです。
司馬は、昭和時代の軍部や戦争指導者について口を極め激烈に批判してい
ますが、藤岡教授はそれを承知した上で、司馬の歴史観を「自虐的」と非難す
るどころか、逆に「健康なナショナリズム」とほめたたえています。
ここで具体的に藤岡氏は、司馬をどのように理解しているのか、藤岡氏自
身が書いた文を紹介します(注2)。
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司馬が(陸軍で)もぐり込むことになったのは、ノモンハン事件以後の日
本の主力戦車で、略称で「チハ車」と呼ばれていた。ところが、この戦車は同
時期のどの国の戦車と戦争をしても必ず負けるようにできていた。鋼板がとび
きり薄く、防御力がない。
攻撃の方の大砲は、砲身が短いため、初速が遅く、敵の戦車を破壊する貫
徹力に乏しい。防御力と攻撃力がない戦車を戦車とはいえない。戦争が始まれ
ば必ず負けるようにつくられていた。
・・・
兵器の採用決定権をもつ参謀本部は、軍事技術者の設計原案をはねのけて、
わざわざ薄い鋼板を採用したというのだ。その理由は、「戦車であればいいじ
ゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」というものであった。
この、現実無視の精神主義と非合理性は、一体どこから出てくるのか。そ
の心理的機制を解明する司馬の次のことばは、怒りにふるえ、峻烈を極めてい
る。
「政治好きで気違いそのままの政治的空気をもった陸軍軍人は、参謀本部に
あつまっていた。日本は超一流の軍事国家だと思っているこの連中が、この戦
車を決めたのである。どういう心理的事情によるのか、かれらの特徴は、兵器
を開発するときに世界の水準よりもやや弱力なものをえらぶということだった。
(中略)
むろんそれでもわるくはなかった。戦前の日本が専守防衛の非侵略国家で
ゆくという建前ならばである。
ところが手のつけようのない侵略妄想のこの権力集団が、いざ兵器となる
と、技術本部をおどしあげてまで自己の卑小をまもりつづけたのは、財政の窮
屈さという束縛があったからだというものではなく、もともとこの権力集団が
いかに気が小さく、貧乏くさく、『国際的水準』というまぶしい白日の下の比
較市場に自己を曝しだすことがおそろしく、むしろ極東の僻隅で卑小な兵器を
こそこそとつくってそれをおもおもしく『軍事機密』にして世界に知られない
ようにするという才覚のほうへ逃げこんだと見るほうが、当時の日本国家の指
導者心理を見る上であたっているようにおもえる」
・・・
「常識ではとても理解できないような精神のもちぬしが、国中が冷静を欠い
た状態にあるときには出てくるものである。また権力の実際的な中枢にいる者
(具体的には陸軍の参謀本部の少壮参謀)の頭も変になり、変にならねばその
要職につくことができない。
また要職につけばいっそう変にならねば部内の人気が得られないというこ
とで、あらゆる権力の分子たちの幻想が歴史の過渡期の熱板の上で相乗に相乗
をかさねてゆくため、それが過ぎ去って歴史のお伽噺になってしまった今日か
らみれば、あの当時の変な加減というのは狐狸妖怪が自分で自分をだましつつ
踊りまわっているようで、冷静な後世の常識ではとうてい信じがたいことが多
いのである」
昭和前期に対する司馬のこのような評価は、明治期に対する高い評価と鋭
いコントラストをなしている。「はたしてこれが同一の国だろうか」というつ
ぶやきを、司馬は折にふれて発している。
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ここの会議室には旧軍人や現役の自称「軍人」、皇国史観論者などがおら
れ、おおむね軍人・東条英機を賛美した映画「プライド」を高く評価している
ようですが、司馬は旧軍を「気違いそのままの政治的空気をもった陸軍軍人」
と揶揄し、はては戦争指導者を「侵略妄想の権力集団」とこっぴどく叩いてい
ます。
この司馬の小気味よい批判が、反「暗黒=自虐史観」を提唱する藤岡氏を
鋭利にえぐるのかと思いのほか、同氏は逆に「健康なナショナリズム」と司馬
を賛美するので、まったく驚きです。藤岡氏には横暴な「狐狸妖怪」に支配さ
れた昭和時代が暗黒時代ではなかったのでしょうか?
ちなみに藤岡氏は「自虐史観」の定義として、「明治の初めから日本は一
路大陸侵略に乗りだし、近隣諸国を踏み荒らした末に、戦争で国民は悲惨な目
にあったとして、日本国家を専ら悪逆非道に描きだす『自虐史観』」と説明し
ています(注2)。
司馬の歴史認識は、侵略の開始時期を別にすれば、上の「自虐史観」の定
義にピッタリ当てはまりそうです。このあたり藤岡シンパのご意見を伺いたい
ものです。もっともここの会議室で藤岡シンパと名乗るには、かなり勇気がい
るのでむずかしいかも知れません。
以上に述べたことから、私には藤岡氏の「自虐史観」基準はダブル・スタ
ンダードとしか思えません。そうした藤岡氏を谷沢氏はこう批判しました(注
3)。
「ちかごろ、司馬史観、という安直な名称を、御神輿(おみこし)のように
騒々しく担ぎまわってる滑稽な人物」
「藤岡氏の言い立ては、自己撞着の錯乱におちいる」
谷沢氏の文章は品がありませんが、当たらずといえども遠からずではない
かと思います。
さて、藤岡批判はこれくらいにして、司馬の歴史観にすこしふれたいと思
います。先ほどの侵略開始時期ですが、司馬によれば、日本は日露戦争後の明
治時代末に変質し、帝国主義の仲間入りをしたと見ているようです。
「日露戦争はロシアの側では弁解の余地もない侵略戦争であったが、日本の
開戦前後の国民感情からすれば濃厚にあきらかに祖国防衛戦争であった。が、
戦勝後、日本は当時の世界史的常態ともいうべき帝国主義の仲間に入り、日本
はアジアの近隣の国々にとっておそるべき暴力装置になった」(注4)
「明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を
相続したのである。がらにもなく、“植民地”をもつことによって、それに見
合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。“領土”と分不相応の大柄な軍
隊をもったために、政治までが変質していった。その総決算の一つが、“満州
”の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久にわすれるべきではない」
(注5)
司馬は日露戦争を単純に日本の祖国防衛戦争としていますが、これは疑問
です。何よりも日露戦争は朝鮮・満州を舞台に戦われたのであって、日本本土
で戦われたわけではありません。一時、対馬沖で海戦が行われたにせよ、侵入
する敵を迎え撃つ防衛戦とは性格がほど遠いものでした。
日露戦争は朝鮮や満州の権益をめぐって日露が激突した帝国主義間の戦争
でしたが、この時、日本の利益は朝鮮の属国化と密接にかかわっていました。
また、これは司馬さんも当然ご存じでしょうが、台湾の植民地化は日露戦
争より約十年も前で、日清戦争直後の台湾征服戦争によるものでした。このこ
ろから変質著しい日本は、帝国主義の野望を世界的にもオープンにしたのでは
ないかと思います。
このあたりの司馬史観について、一橋大学・中村政則教授はこう記してい
ます(注6)。
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日露戦争が朝鮮支配と重合して進んだことに注意しなければならない。
中国の孫文も、インドのネルーもビルマのバー・モウも、よく知られるように
日本が日露戦争で勝ったことはアジア人に大きな希望と勇気をあたえたと高く
評価している。
しかし、「教科書見直し派」は、ここから先黙して語らないのだが、日露
戦争は朝鮮の完全植民地化と不可分であった。すなわち、1905年11月の
第2次日韓協約で日本政府は韓国の外交権を取り上げて「保護国」化し、19
07年の第3次日韓協約では韓国の軍隊を解散させた。つまり、軍事権を取り
上げたのである。
・・・
日本が日露戦争の結果、朝鮮の完全植民地を推し進めたことはアジアの指
導者に失望をあたえた。インドのネルーは、『父が子に語る世界史』という戦
後日本でもベストセラーになった本のなかでこう語っている。
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの全ての国々に大きな影響力を
与えた。ところが日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義のグ
ループにもう一国を加えたというに過ぎなかった。その苦い結果をまず最初に
なめたのは朝鮮であった」
中国の孫文もこう書いている。「日本が朝鮮併合の挙に出て、アジア全域
の人心を失ってしまった」と。
さらに重要なのは、台湾・朝鮮という植民地を持つことによって、軍部の
自己肥大化が進行したことである。軍部という言葉が成立したのは日露戦争後
のことであって、これ以後軍部は国政を左右する一大勢力となった。
・・・
司馬の『坂の上の雲』や日露戦争についての文章を読んで不満なのは、こ
の戦争と朝鮮問題の不可分の関係を深刻に考えていないことにある。
それと同時に『坂の上の雲』というタイトルが暗示しているように、日露
戦争勝利で坂の上を登り詰めた日本は、以後、坂を転がり落ちるように転落し
ていくという時代イメージがある。
それ故に司馬には、大正期についてふれた文章はほとんどない。さきの二
項対立的な歴史観に束縛されて、調べる気もしなくなったのであろう。「大正
史の欠落」、これが司馬史観のもう一つの特徴であった。
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さらに司馬は「昭和という時代は精神衛生に悪い時代。発狂状態になって
しまう。内臓がズタズタになって死んでしまう」と述べ、昭和時代もついに小
説の題材に取り上げることはしませんでした。
わけても彼は16,7年間にわたって、日本が大敗北を喫したノモンハン
事件(1939)の取材を重ねましたが、ついにこれを書くことができませんでした。
その理由を中村教授はこう推定しています(注6)。
「私のみるところ、もし「15年戦争」の時代に取り組めば否応なしに、昭
和天皇と天皇制の問題にぶつかってしまう。このことを司馬ほどの作家が自覚
しなかったはずはない。彼の太平洋戦争におけるきびしい評価を考えれば、天
皇問題を曖昧にしておくことはできなかったろう。ところが、こと天皇問題に
なると司馬の筆はにぶりがちになるか、極端な単純化が目につくようになる」
さらに中村教授は、司馬の昭和天皇観をこう批判しています(注6)。
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司馬は、日本国天皇は英国国王のように「君臨すれども統治せず」に似て、
「この7年間(日中戦争勃発から敗戦まで)の局面においてさえ、天皇は空に
徹しぬかれました。くりかえしますが、それが天皇の明治憲法における立場だ
ったのです」(『この国のかたち』文芸春秋)と書くのであった。
果たして、そうだったのだろうか。1960年代以降、『木戸幸一日記』
『本庄日記』『杉山メモ』『牧野伸顕日記』『東京裁判資料、木戸幸一尋問調
書』などの重要資料が相次いで刊行され、満州事変以降における昭和天皇の言
動は、かなりの程度明らかになった。その結果、判明したのは昭和天皇は軍事
知識もあり、また高度の軍事情報を手中におさめており、ときには直接戦争指
導にあたったり、軍部の人事にも介入しているということであった。
天皇は決して内閣や統帥部の言いなりになるロボットではなかったのであ
る。「満州事変から太平洋戦争に至る15年戦争の時期だけに限っても、国政
の中枢的位置を占め続けたのはただ一人の人間であった。内閣総理大臣さえ、
この間、13人もの人間がその地位につき、その平均在職期間は、約13カ月
にすぎない。そのことは、全ての情報を独占的に掌握しているのは天皇だけで
あり、それがまた、天皇の実際の政治力を支えていたことを意味」していた
(藤原彰他『天皇の昭和史』新日本新書)。
・・・
まさに昭和天皇は主体的に行動する大元帥であって、決してロボットでも
なければ、「空に徹していた」などとも言えない。したがって司馬が「もっと
も、ただ一度だけ、この空の場から出られたことがあります。鈴木貫太郎首相
以下に示された終戦のご聖断でした。天皇としては、違憲行為でした」と述べ
るのも事実に反する。
事実、さきの「(天皇)独白録」には、張作霖爆殺事件の真犯人をめぐっ
てうそをついた田中義一首相に対し、「私は・・・それでは前と話が違ふでは
ないか、辞表をだしてはどうかと強い口調で云った」とある。
・・・
2.26事件のときにも、天皇が断固たる態度をもって反乱軍将校の鎮圧
を本庄侍従武官長に命じたことは『本庄日記』にしるされているとおりである。
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司馬は昭和天皇について事実誤認が多いようです。作家はしょせん歴史家
と違うので、現代史の的確な分析や史料批判は無理なのかも知れません。
(注1)引用書
私が#360で引用した本は、藤岡信勝「汚辱の近現代史」徳間書店(初
版第1刷、1996年)のP36で、引用文は下記のとおりです。
「そもそも『従軍慰安婦』なる言葉は、戦前には存在しなかったのだ。従軍
看護婦、従軍記者、従軍僧侶などは存在した。『従軍』という言葉は、軍属と
いう正式な身分を示す言葉であり、軍から給与を支給されていた」
(注2)同上書
(注3)藤岡信勝「売文業者・谷沢永一氏の正体」『正論』98年4月号
(注4)司馬遼太郎『世界の中の日本』中公文庫
(注5)司馬遼太郎『ロシアについて、北方の原型』文春文庫
(注6)中村政則『近現代史をどう見るか ---司馬史観を問う』岩波書店
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/10 -
00287/00301 PFG00017 半月城 台湾の抵抗
( 8) 98/05/09 18:43 00037へのコメント
むじなさん、はじめまして。台湾をめぐる一連の議論にざっと目を通しま
した。RE:#37,
>だが、植民地になった人達は、植民地という運命から逃れられない。
>たしかに、フランスにとっては植民地獲得は単なるゲームだったかもしれな
>いけど、それを受けた人間にとっては、遊びではなかったのだ。
植民地にされた台湾の抵抗闘争に興味をもち、むじなさんに質問したいと
思います。
台湾では、「ボーっとしている」朝鮮にくらべ、日帝に対する相当な抵抗
闘争が30年も続いたというのが、むじなさんのご趣旨だったと思うのですが、
その抵抗闘争の詳細を教えていただけないでしょうか?
抵抗闘争の一例として、霧社公学校の運動会で、ある山地先住民が日本人
百数十人を虐殺した「霧社」事件(1930)などはかなりよく知られていますが、
それ以外に入門書を見た限りでは、余清芳のゲリラ闘争(1915)、羅福星事件
(1913)くらいしか見当たりません。
特に私が興味があるのは、日帝の土地調査事業(1898)や林野調査事業
(1910)、五カ年計画討蕃事業(1910)などで土地を失った人たちがどのような抵
抗を繰りひろげたのかという点です。
こうした政策は、のちに朝鮮支配のモデル事業になっただけに、そのてん
まつを知りたく思います。ちなみに朝鮮では、土地調査事業(1910)に対する回
答が、1919年の「3.1独立運動」であり、それに限界を感じた人たちが
抗日武力闘争に進み、満州・間島におけるゲリラ闘争や、上海などにおけるテ
ロなどを起こしたのではないかと思います。
最後に話は変わりますが、台湾における植民政策は、北海道開拓という名
のアイヌモシリへの侵略がその基礎になっていたのではないかと思いますが、
むじなさんはどうお考えでしょうか?
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/30 -
00509/00509 PFG00017 半月城 宮内省の守護神
( 8) 98/05/30 18:18 00479へのコメント
ぺくすこんだるさん、はじめまして。
#479、ぺくすこんだるさん
> 話しのついでに思い出したんだけんどよ、もとの上司が宮内庁に出向し
>ていて、東宮大夫(だいぶ)という肩書きなんだとさ。ただこれは対外的
>名称で、宮中では「てーぶ」と呼ぶらしい。これ韓国語の発音と全くおん
>なじ。ともかく、あそこは電話の受け答えからして浮き世離れしてるんだ
>よなぁ。
#482,ざ・ふぁろすさん
>韓国語は詳しくないのですが、宮中言葉には韓国語に良く似たものがたくさ
>んあるとのことです。(実際日本語とは思えません)
>まあ、当たり前と言えば当たり前なのでしょうか。
時代をさかのぼればさかのぼるほど、皇室と韓国との関係は深くなるので
すが、今でも韓国語らしき言葉が宮内庁で使われているとは意外でした。
ところで、ぺくすこんだるさんは、宮内省と韓国に関連して、広辞苑に
「韓神祭」という項目が下記のように載っているのをご存じでしょうか。
---------------------
からのかみ‐の‐まつり【韓神祭】
宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは陰暦二月の春日祭の後の丑の日と一
一月の新嘗祭の前の丑の日に、園神祭と共に行われたが、中世以後衰え廃絶し
た。からかみのまつり。
から‐の‐かみ【韓神】
(朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に祀られていた神。大己貴
(オオナムチ、注1)・少彦名(スクナビコナ、注2)二神をさすという。
→園神(ソノノカミ)。
---------------------
周平さんが、「かの法隆寺に匹敵する文化遺産」(#433)と誇らしげに語る
皇室は、中世に至るまでこのように朝鮮から渡来した神を守護神として祀って
いました。
こう書いても、民族主義的・国粋主義的傾向の強い人にはにわかに信じら
れないだろうと思いますので、からのかみ(韓神)を史料にもとづいて紹介し
たいと思います。
文献において宮内省祭神のことは、文部省や神宮司庁が35年かけて作成
した一千巻の百科史料事典「古事類苑」に詳細に記述されています。とてもそ
れらをすべて紹介できないので、そのダイジェストを有職故実大辞典(吉川弘
文館)から引用します。
--------------------
園韓神祭(そのからかみのまつり)
平安京宮内省内に鎮座していた園神・韓神の例祭。『儀式』によれば、式
日は2月春日祭の後の丑の日と、11月新嘗祭(にいなめさい)の前の丑の日
とであった。
園韓神社は『延喜式』神名帳に「宮内省坐神三座(並名神大、月次新嘗)」
とみえ、『拾芥抄』宮城指図などの古図にもみえる。
祭神について、『大倭神社註進状』は園神を大物主神(注3)に、韓神二
座を大己貴命・少彦名命にあて、『古事記伝』は『古事記』にみえる「曾富理
(そほり、注4)神を園神もしくは韓神のうちの一座にあてる説を掲げるが定
かではない。
同社は平安遷都以前よりその地に鎮座する古社で、所伝では、養老年中
(717-24)、藤原氏の創建にかかり、平安遷都の折に他所へ遷そうとしたところ、
「猶(なお)此の地に坐して、帝王を護り奉らむ」との託宣があったため、宮
内省に鎮座することになったといい(『古事談』など)、『新抄格勅符抄』に
も、讃岐国の園神20戸・韓神10戸の神封が天平神護元年(765) に充てられ
たことがみえる。
さて、祭儀の次第は『儀式』などにくわしいが、当日早朝より神祇官人に
よって神院の準備が行われ、春は戌一刻、冬は酉三刻に至って内侍が着座して
開始される。
神部二人が庭中に賢木を立て庭火をたき、大臣は召使いをして歌人・神
馬・鬘木綿などを召す。次に御巫が微声で祝詞(のりと)を述べ、笛琴を奏し、
歌舞を行う。次に御神子が庭火をめぐって、湯立舞を行い、神部8人もともに
舞った。
この儀が南の園神、北の韓神の順に行われ、再び南で倭舞を行い、饗饌あ
って大臣以下退出の後、神祇官によって、両神殿前で神楽(かぐら)が行われ
る、というのがその概略であった。
平安時代以降、同祭は次第に衰微し、応永26年(1419)2月5日には大風
で同社は転倒(『康富記』同月14日条)、やがて応仁・文明の乱を経て退転
したと思われる。
-------------------------
園韓神祭で行われる神楽は、広辞苑によれば「われ韓神の韓招(カラオ
ギ)せむや」とうたわれます(「からかみ」の項)。この意味は日本古代史が
専門の京都大学・上田正昭名誉教授によれば、通説の「韓神をお招きしよう」
というよりは、「韓風(からぶり)のお招きをしよう」と解釈するのがよいと
のことです(注5)。
この神楽は、おそらく今でも宮廷神楽としてうたい継がれているのではな
いかと思います。一方、園韓神社ですが、この所在は平安京から遷都の際に東
京へ移ったようです。したがって、現在、宮内庁のどこかにあるだろうと思わ
れます。
他方、京都での跡地を上田氏が熱心にさがされたようですが、どうしても
場所を確認できなかったようです。おおよそ現在のNHK付近とのことです
(注6)。
次に園韓神の出身地ですが、上田氏は、園神は新羅から、韓神は百済から
渡来したとみています(注4)。しかし、私は韓神二座のうち一座のオオナム
チ(大国主命)は新羅系と見たほうがいいのではないかと思います。
神話によると、スサノオノミコトは天上の高天原(たかまがはら)を追放
されて新羅のソシモリに降り立ち、その後、日本の出雲に来たことになってい
ます。したがって、その子孫の大国主命(オオクニヌシノミコト)は新羅系と
するのがいいのではないかと思います。
ところで、皇室が韓神を祭った背景ですが、ひとつの可能性として天皇家
が百済あるいは加羅など朝鮮南部から渡来したためと考えられます。
#295,むじなさん
>それに、もし、「自国の歴史」が「自国民によって決める」ことを、あなたが否
>定し、勝手に客観的根拠を持ち出して、「それは違う」と言うことができると
>するなら、韓国が日本に対して「天皇の祖先はもともと朝鮮南部が出身の朝鮮
>人である」という客観的な事実を持ち出して、天皇が実は朝鮮人でしかないと
>書くように言ってきた場合、あなたは認めますか?
むじなさんは、「天皇の祖先はもともと朝鮮南部が出身の朝鮮人であると
いう客観的な事実」と書かれていますが、こう言い切る根拠は何でしょうか?
私にはまだ客観的事実と断定できるほど、学説が固まっているとも思えな
いのですが、いかがでしょうか。
(注1)大己貴命(オオナムチノミコト)
大国主命(オオクニヌシノミコト)の別名(広辞苑)
日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子とも六世の孫
ともいう。少彦名神(注2)と協力して天下を経営し、禁厭(マジナイ)・医
薬などの道を教え、国土を天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築
(キズキ)の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸
透。大己貴神(オオナムチノカミ)・国魂神・八千矛神などの別名が伝えられ
るが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合。
(注2)少彦名神(スクナビコナノカミ)
日本神話で、高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)(古事記では神産巣日神)
の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当
り、医薬・禁厭(マジナイ)などの法を創めたという。
(注3)大物主神(オオモノヌシノカミ)
奈良県大神(オオミワ)神社の祭神。蛇体で人間の女に通じ、また祟り神
としても現れる。一説に大穴持神(大国主命)と同神。
(注4)曾富理(そほり)神について、上田正昭氏は下記のように記していま
す(『神楽の命脈』)。
「曾富理神については、園神説と宮内省に坐す韓神二座のうち他の一神とす
る説などがある。だがこの(古事記)神統譜における曾富理神は韓神とは明ら
かに区別されているので、韓神二座のなかの一座が曾富理神であったとする説
には賛成しがたい。
やはり園神は曾富理神にゆかりの深い神であったとするのがよいだろう。
ソホリとは『紀』(日本書紀)の神話で、ヤマタノオロチ退治の詞章(第4の
1書)にみえる曾尸茂梨(そしもり)と関係のある語と思われる。なぜなら
『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』(述義)には、元慶講書
のおりに「今の蘇之保留(そしほる)の処か」と解釈しているからである。
つまりソシモリ・ソシホル・ソホリはいずれも新羅に密接な地名であった。
『紀』の神話に描く曾尸茂梨が新羅に求められていることも注意されよう。
とすれば韓神とは百済系の神、園神とは新羅系の神ということになる。と
もにわが国に渡来してきた、いわゆる今来(いまき)の神であった」
(注5)上田正昭「韓神のまつり」同上書
宮廷の神楽歌には、「三島木綿(ゆう) 肩にかけ われ韓神の 韓招ぎ
せむや 韓招ぎせむや」があり、さらに「八葉盤(やひろで)を手にとりもち
て われ韓神の 韓招ぎせむや」がある。・・・
この「韓招ぎ」は通説によると、「韓神をおまねきしよう」という意味だ
とされている。けれども歌詞のいう「韓招ぎ」とは「韓風(からぶり)のお招
きをしよう」と解釈するのがよいと思う。
(注6)金達寿『日本の中の朝鮮文化、第2巻』講談社文庫
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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