半月城通信
No. 47

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 自由主義史観研究会の方向性
  2. 日の丸と君が代
  3. 「従軍慰安婦」88,暴力的な強制連行
  4. 「従軍慰安婦」89,だまされた強制連行
  5. 「従軍慰安婦」90,強制連行の証拠をめぐって
  6. 「従軍慰安婦」91,警察、総督府の関与
  7. 「従軍慰安婦」92,関釜訴訟の判決、半分の良心


文書名:[aml 8105] Fujioka KENKYU KAI |- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/03/29 - |06148/06148 PFG00017 半月城 自由主義史観研究会の方向性 |( 7) 98/03/29 23:45  (一部修正) 「自由主義史観」批判(3)   ここの会議室では、マコーマック教授の評論から「左派」の認識をめぐる 激烈な議論に進展しましたが、本論の「自由主義史観」に関する議論が見られ ないのはすこし残念です。   私は、「自由主義史観」は無批判に排斥あるいは受容すべきではなく、そ のイデオロギーを検証・批判することにより、お互い歴史認識を発展させてい くべきであると思います。特に「自由主義史観」は、一時は関連の本が店頭に 山と積まれ世間をにぎわしただけに、人を引きつける何かがあります。そうし た点は右であれ、左であれ注目すべきではないかと思います。   こうした見方から、私は藤岡氏の主張の中で東京裁判の批判には特に注目 しています。これについては別な機会に書くことにし、今回はその下準備とし て#6081、皇国史観に関するコメントから書き始めたいと思います。 >      「自由主義史観研究会には、『皇国史観』に立つ諸氏も参 >加している」と言えるのか、あるいは単なる誹謗中傷と言ってよいのか、 >ご意見を伺えないでしょうか。   自由主義史観研究会の会員は97年1月現在500名だそうですが、そこ にどんな考えの人が参加しているのか、金沢大学の村井淳志助教授が聞き取り 調査をしました。同氏は、自由主義史観研究会の発足呼びかけ人、および『近 現代史の授業改革』(1-6)、『教科書が教えない歴史』1,2の執筆者の うち、小中高の現場教師(校長を除く)48名中、46名から個別に取材をし ました。村井氏は調査結果、彼らを次の4タイプに分類しました(注1)。 1.左翼体験をくぐって転身した教師    このタイプの教師たちが、研究会の運営実務面でも、論争における戦闘  性という面でも、その中核を担っている。 2.孤立していた教師たちを組織化    自分の考え方や疑問を教員仲間と共有できず、一人で孤立してきた者が  少なくない。 3.天皇への態度の明確化を期待    もともと保守的な教員団体・研究団体に所属していて、すでに長い間、  独自に教育研究を積み重ねてきた。 4.二項対立への収斂を危惧するグループ    会員にならなかったり脱会した教師たち。「自由な歴史観の交流」とい  う趣旨に共鳴して入会したり執筆したが、昨年9月に出された「『従軍慰安  婦』を中学教科書から削除せよ」という研究会声明を機に、脱会したり、明  確に距離を置くようになった。   この中で三番目のグループはかなり皇国史観に近いだろうと思われます。 彼らは村井助教授に下記のように語りました(注1)。           ------------------------- A教諭(43歳・中学校)   会の趣旨にはもちろん賛成なんですが、藤岡さんが天皇や日本の国柄につ いてどうお考えなのか、まだよくわからない。自由主義的な立場で歴史を見直 すというのは大事ですが、伝統を大切にするという立場をもっとはっきりさせ てほしいですね。   教科書記述の事実でないことや東京裁判史観を是正するのは、特に自由主 義といわなくてもできるんですよ。では正した後、トータルにこの国の国柄を どう考えるのか、何か一貫したものがあるのか、国家というものをどう考える のか、そのあたりがまだよくわからない。   私個人としては、天皇を元首として憲法で明確に規定すべきだと考えてい ますし、九条の改廃についてももっと自由に論議すべきだと思っているのです が、教育界ではそういう議論ができにくいですね。藤岡さんが今おっしゃって いることは、私から見れば当たり前のことなんですが、逆に言えば、なぜ左翼 時代にはわからなかったんでしょうか。やっぱり、がらっと変わった人はちょ っと信用できないですね。 B教諭(38歳) (省略) C教諭(33歳・高校)   私は学生時代から保守的立場で、日本教師会という団体に属しております。 教師会には、昔の皇国史観というか、平泉(澄)史学の流れを汲むような、皇 學館大学系の人が多いんですが、そのせいかどうも広がりに欠けていたんです。 前々からもっと多くの人にアピールしなければと思っていましたが、今回の自 由主義史観は非常によいと思います。うまいやり方だなと思いました。   ただ藤岡さんは天皇の問題にまったく触れていない。それもひとつの手か なと思います。教師会は最終的には天皇の問題に行くんですよ。でもそれを持 ち出すと、歴史学の守備範囲の他の問題に抵触して、議論が複雑になるという 判断なのかもしれないんですね。   天皇に触れさえしなければ、反東京裁判史観ということで、皆さんにもっ と知っていただけるし、教育や研究で多くの人の支持を集められると思います。 いずれは天皇の問題に触れざるを得ないとは思いますが・・・・。   私から見ると、あちら側(批判派)の方がこちら側(保守派)にいらして、 色々発言されるというのはインパクトがあります。やはり東大の先生というの が大きいですね。過去にいらっしゃらないでしょう。   ただ藤岡さんの目標は、ディベートなのか、東京裁判史観の克服なのかよ くわからなくて、どっちが優先するのか疑問だということが仲間内で問題にな ったことがあります。でも最近は、後者が全面に出てきたのでとてもよいと思 います。そういう意味で今から考えると、ディベートというのは、反東京裁判 史観的な考え方に市民権を与えるための手段だったのかなと思います。 D教諭(49歳・小学校) (省略)            ----------------------   天皇に特別な関心を持っている会員にも、藤岡氏が天皇についてどのよう な考えを持っているのかよくわからないようですが、藤岡氏自身は天皇につい て簡単にこう述べています(注2)。  「明治憲法では統帥権(軍隊の最高指揮権)は天皇に属していたのです。と いっても、天皇が直接軍隊の指揮を執るわけではありません。実際には陸軍の 参謀総長、あるいは海軍の軍令部長が権限を行使しました」。天皇の統帥権は、 形式的なもので「立憲君主制の普通のしくみです」   一方、自由主義史観研究会が執筆している産経新聞連載の「教科書が教え ない歴史」では、天皇に関し次のように記しています(注2)。  ○天皇主権から国民主権に変わった、といわれると、大きな変化があったよ うに思われます。しかし、その違いは形式的には大きくとも、実際の上ではそ れほどではなく、いわば程度の違いとみることができます」。明治憲法と日本 国憲法の違いは、形式の上では大きいといえますが、君主制や立憲主義の採用 という点では著しい差異はなく、ただ行政権の優越を中心とした程度の違いと 見ることができます」(高乗正臣・平成国際大学教授)  ○天皇は「神聖不可侵」という規定も「天皇は政治責任を負わない」ための もので、「当時の先進国はどこでもこのような制度を採用していました」。 「天皇は立憲君主ですから、憲法に従って行動し、常に内閣の補弼(助言)に 従わなければなりません」。「立法権を実際に行使したのは議会であり、天皇 がそれを拒否したことは一度もありません」。司法権も独立していて、「実際 には裁判所は独立して裁判を行い、天皇といえども裁判に介入することはでき ませんでした」(百地章・日本大学教授)   自由主義史観研究会は、皇国史観時代の天皇と現在の天皇に関する規定は 形式的な違いしかないと、驚くべき主張をしているようです。たしかに、現憲 法の主権在民が不徹底なのでそうした議論の余地があるのでしょうが、しかし 天皇主権と主権在民との間には雲泥の差があるのではないかと思います。   それについて、出版労連の俵氏はこう批判しています(注2)。           --------------------------   天皇主権と主権在民との間には天と地ほどの大きな差がある。それは本質 的な違いである。明治憲法の下では、天皇は神であり、国民は天皇の臣民であ り、その天皇の命によって侵略戦争がたたかわれ、幾多の内外の民衆が犠牲に なったのである。   また天皇の統帥権を形式的なものといい、政治にも関与しなかったので政 治責任はないと主張するのは、天皇の戦争責任を免罪するための恣意的な主張 である。   山田朗・明治大学助教授は『大元帥・昭和天皇』の中で、昭和天皇が国家 元首としていかに政治に関わり、陸・海軍の最高統帥者であった大元帥として、 いかに侵略戦争に深く関与し、作戦に関わり、アジア太平洋戦争の開戦を決意 し、玉砕を求める決戦を要求したかを具体的史実にもとづいて明らかにしてい る。   さらに、「天皇が戦争を終わらせた、だから昭和天皇は平和主義者だ」と いう主張も、今日では逆の見方ができる資料が明らかになっている。1945 年2月、側近の近衛文磨は国体護持を基本に早期講和を天皇に上奏したが、天 皇は「もういちど戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思 う」と述べて、近衛上奏文を却下した。   もし、この時に、天皇が降伏を決意していれば、東京大空襲も沖縄戦も原 爆投下も避けられたのである。この天皇の戦争責任については、すでに高校日 本史の教科書の一部で記述されている。           ----------------------------   藤岡教授たちが、戦前の天皇の役割を小さく評価しようとするのは、やは り天皇の戦争責任を免責したいためでしょうか。しかし、戦前に皇国史観の根 本とされる天皇の権力は絶大なものがありました。   たとえば、張作霖爆殺事件の際、二転三転する田中義一首相の上奏に、昭 和天皇は「田中には会いたくない」と不快感を示したため、内閣総辞職に発展 したくらいでした(注7)。まさに天皇の一言は「神の言葉」に等しく、2. 26クーデターなども天皇の「鶴の一声」で腰砕けになったのは有名な話です。   なお、広辞苑では皇国史観についてこう定義しています。 「国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神(あらひとがみ)である天 皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観。十五年戦争期に 正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じ た」   この皇国史観のもとに、日本人のみならず植民地の台湾・朝鮮人まで「天 皇の赤子」とされ、皇民化政策が実施されました。その一環として、1937 年10月に「皇国臣民の誓い」が制定されました。 1.私共は、大日本帝国の臣民であります 2.私共は、心を合せて天皇陛下に忠義を尽します 3.私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民になります   これは小学生用ですが、中高校生や一般向けも内容は大同小異です。この 誓詞は、学校はいうにおよばず、役所、会社、銀行、工場、商店、映画館など、 およそ人の集まるところでは、あらゆる機会をとらえて、くりかえし朗唱させ、 られ、新聞・雑誌にもたえず掲載させられました。   こうした皇民化政策の総仕上げに、朝鮮では一面(村)一神社設置が推進 され、民族感情を圧殺した神社参拝や神道が強要されました。これらの政策は すべて台湾・朝鮮人を侵略戦争に動員するための助走路であったのは周知のと おりです。   さて、日本では過去の侵略戦争への反省から、現在では国家神道を露骨に 唱道する人はさすがに少なくなりましたが、そんな中で、国家神道復活をもく ろむ主張が自由主義史観研究会の「教科書が教えない歴史」でこうなされたの は注目されます(注2)。  ●連合国軍総司令部(GHQ)は、「国家と日本古来の宗教である神道の厳 格な分離を定め、神道および神社に対する公的な財政援助を禁止」する『神道 指令』を出した。   アメリカは「『国家神道』を軍国主義的、超国家主義的思想そのものと考 えてい」たが、この考えは「GHQの誤解の産物でした」。「『国家神道』批 判の自由は当時も認められていた」が、満州事変以降、「思想統制や宗教弾圧 が顕著になった」のは、「『国家神道』によるものではなく「治安維持を目的 とした法律に基づくもの」である。  「『神道指令』は、昭和27年、日本が独立を回復した時点で効力を失」っ たのに、いまでも憲法解釈に影を落としている。憲法第20条3項の「規定を 『神道指令』に則って国家と神道の厳格な分離を定めたものと解釈すると、神 道とのかかわりは厳しく禁止され」、「靖国神社に内閣総理大臣が公式参拝す ることは、憲法違反ではないかと議論され」る。  「神道は仏教とともに、わが国の伝統に根ざした宗教です。にもかかわらず、 いつまでも『神道指令』に呪縛され、神道のみをことさらに国家から分離する ことは、国民生活を混乱におとしいれることにな」る(高橋史朗・明星大学教 授)   この主張に対し、俵氏は前掲書で次のように反論しています。            -------------------------   これは、国家神道が国民支配と侵略戦争遂行に果たした役割を無視する議 論であり、今時では、よほど皇国史観の持ち主でなければ展開しない議論であ る。国家神道は、「わが国の伝統に根ざした宗教」ではない。神道が国家の精 神支柱にされたのは、明治になってから天皇制の支配体制を確立するためであ る。そして、「戦前は『神道非宗教』論によって神道を国民道徳とし」(注 3)、「国家神道の頂点を構成する伊勢神宮・橿原神宮・靖国神社」とともに、 明治憲法下の天皇制による国民支配と侵略戦争の精神的支柱をなしたのである。   だからこそ、GHQが「神道指令」を出し、日本国憲法20条が「信教の 自由」「政教分離」を明記したのである。97年4月、最高裁が「愛媛玉串料 訴訟」上告審で公費支出を違憲と判断したのは当然のことである。   国家神道・靖国神社問題は、侵略戦争と加害問題に深く関わるものであり、 その「復権」を主張するのは、侵略戦争や加害の事実を否定する主張と同根で ある。しかも、神道を国家から分離することが国民生活を混乱させる、という 主張はなんとも奇妙なものである。            ------------------------   高橋氏のような皇国史観の主張が自由主義史観研究会で主張されるように なったのは、藤岡氏の活発な言論活動と密接な関係があります。ご存じのよう に、藤岡氏は高橋史朗氏や西尾幹二氏と「新しい歴史教科書をつくる会」を発 足させました。このころから、同研究会は少しずつ変っていったようです。   そうした変化を、ある会員の小学校教諭(32歳)は次のように述べてい ます(注1)。  「最初は、東京裁判史観、大東亜戦争肯定史観に対して三角形の関係にある のが自由主義史観で、これはイデオロギーではなく史実に基づいた方法論だと 思っていました。   ただ、西尾幹二先生とタッグを組まれてからの言論活動は、ちょっと発会 趣旨とは異なっているのではないかと思います。ごく自然に、祖国を誇れるよ うな授業を、という主張は分かります。   しかし、それだけが正義であるかのように、子どもに押しつけるべきもの ではありません。自国の歴史に誇りをもつということは、もて、もてと言うこ とではないですね。誇りというザルで史実を篩(ふるい)にかけるような教育 になってしまうんじゃないか、そういう誤解を受けるのではないか心配です。   かっての教科書問題の時と同じ人が出てきてこれまでの構図とどこが違う のか、『新編日本史』の時と同じじゃないかと思います。この点は今後も研究 会の内部で批判者でいようと思っています」   最近、同研究会はさらに右傾化を強めているようで、俵氏によると下記の ように、藤岡氏は当初否定的であった大東亜戦争肯定論に限りなく近づいてい るとのことです(注2)。           -----------------------   また、「自由主義史観」の内容もあいまいであり、藤岡氏たちの言動は、 今日では「大東亜戦争肯定史観」との境界をなくしている。藤岡氏は、戦前の 治安維持法についても「天皇を頂点にいただく国民的統一で」近代化に成功し た「日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段であった」と容認している (注5)。   最近では、「戦争は人殺しではない」、「戦争=人殺し=悪」という戦争 認識による教育はダメだと主張し(注6)、「太平洋戦争」という用語は「大 東亜戦争」にすべき、泰麺鉄道での捕虜や占領地住民の虐待は「でたらめ」と する主張を展開している。   日本の侵略戦争や加害の事実を否定する論理の構造上からも「大東亜戦争 肯定史観」との境目はない。何よりも、彼は「大東亜戦争史観」を批判する具 体的な主張をしていないし、むしろこの史観の論者たちの書いたものを読んで 「目からウロコが落ちた」と語っている。藤岡氏によると、渡部昇一氏でさえ、 日本の侵略戦争を認めれば「自由主義史観」とみなすとしている。   今日では、藤岡氏とその研究会はかぎりなく右にウィングを伸ばしてきて、 自民党などの超保守派・復古派や「大東亜戦争肯定論」、「南京大虐殺まぼろ し論」、「『従軍慰安婦』虚構論」など、日本の侵略・加害を否定する「論 者」をはじめ、軍拡をめざす自衛隊支持勢力、さらには右翼勢力からも「広く 支持される」ようになっている。           ------------------------   藤岡氏がこうした支持を獲得する一方で、藤岡氏から離れていく人もいま す。かって藤岡氏と「従軍慰安婦」問題で共同歩調をとり、「新しい歴史教科 書をつくる会」の賛同人にもなった秦郁彦教授もその一人です。秦教授は同研 究会の変身をこう書きました。  「本来は中道で行くはずだった自由主義史観研究会が、「ラーベの本だけで すでに(南京)30万大虐殺説は崩壊している」程度では満足せず、右へ右へ と牽引され、被害者ゼロの線に近づいていくように変わったのは、やはり運動 体の論理に屈したのであろうか」(注4)   右の方へどんどん牽引されている藤岡氏は、今後はさらに「皇国史観」に 近づいていくのでしょうか。その先に侵略戦争の支柱であった国家神道や靖国 神社がありますが、こればかりは近隣諸国、とくに韓国や中国には受け入れが たいものです。   自由主義史観研究会は、今後、皇国史観という禁断の踏み絵をみずから進 んで踏み、排外主義を強め近隣諸国との関係を無視するのかどうか、その方向 性が注目されます。   なお、靖国神社に対する私の考えは、半月城通信<4.現代、1「英霊」 か「犬死に」か>に記したとおりです。靖国神社を考える一助になれば幸いで す。 (注1)村井淳志「自由主義史観研究会の教師たち」『世界』97年4月号 (注2)俵義文「教科書攻撃の深層」学習の友社、1997 (注3)山口和孝「憲法制定50年目の靖国問題」、『歴史地理教育』97年    6月号 (注4)秦郁彦「南京虐殺”証拠写真”を鑑定する」『諸君』95年4月号 (注5)『諸君』96年4月号「自由主義史観とは何か」 (注6)『楽しい学級経営』別冊「道徳教育を楽しく」VOL16,    96年9月、明治図書) (注7)『This is 読売』97年11月号   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:「日の丸」と「君が代」 [aml 8168] KOKKI & KOKKA Date: Wed Apr 8 22:38:36 1998   半月城です。新学期を迎えて時節柄、日の丸と君が代の話題がつきない ようです。これに関連して、私がよく書き込みをしているニフティの会議室、 FNETD に参考になる書き込みがありましたので、ご紹介したいと思います。   日本では実質的に「国旗は日の丸」「国歌は君が代」とされていますが、 厳密にいうとどうやら違うようです。この区別を厳密にしているのがNHKだ そうで、アナウンサーは国歌斉唱とか、国旗掲揚などとはいわないそうです。   といっても、NHKは決して日の丸や君が代を否定的にとらえているわけ ではなく、よく知られているようにTV番組終了時には日の丸を映し、君が代 を流しています。   日の丸や君が代が正式な国旗や国歌でないことは、広辞苑でも下記のよう に確認されます。 きみ‐が‐よ【君が代】 (1)人を敬い親しんでいう「君」、或いは君主の、寿命ないし栄える時。古今 神遊歌「―は限りもあらじ長浜の真砂(マサゴ)の数はよみつくすとも」 (2)天皇の治世を祝った歌。歌詞は「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌と なりて苔のむすまで」で、江戸時代の隆達節の巻頭第一にあるものと同じく、 さかのぼれば古今集には初句を「我が君は」とした歌がある。作曲は一八八○ 年(明治一三)、宮内省。九三年、小学校における祝祭日の儀式用唱歌として公 布。以後、事実上の国歌として歌われる。 ひのまる‐の‐はた【日の丸の旗】 白地の布に赤色の日の丸を描いた旗。日の丸。 →日章旗。 にっしょう‐き【日章旗】‥シヤウ‥ わが国の国旗とされている日の丸の旗。布地は白色の長方形で、縦横の比率は 横を一○○とすれば縦は七○。日章は赤で、その直径は縦の五分の三。日章の 上下のあきを等しくし、日章の中心は旗面の中心より横の一○○分の一だけ旗 竿の側に近寄る。一八七○年(明治三)の太政官布告で商船規則を制定し、旗の 規格を定めているが、これを「国旗」とする明文はない。   君が代が儀式用「唱歌」であるとは意外でした。一方、FNETD の書き込み によれば法務省は、日の丸は法的に船舶の所属国を示す認識旗という位置づけ をしているようです。   そこで、その書き手は法務省の役人に「日本の権威及び支配力(つまり国 を示す正式な旗)を示す旗は何なのか?」と尋ねたところ、役人は「日本の支 配地域を示す旗は官報にちゃんと記載されている」「そしてそれは破棄されて いないから、日本を示す旗」とのことでした(GO FNETD 3-7,#3697)。   この回答に沿って、その方は国会図書館で官報に載っている旗を確認した ら、何とそれは旭日旗(日本軍の軍旗)とのことでした。この旗は今でも一部 で使われているそうです。   この話のように、日の丸は単なる船舶認識旗にすぎず、日本の支配を示す、 いわゆる国旗は旭日旗であるとしたら、教育の現場に与える影響は大きいもの がありそうです。どなたかこの話の信憑性を確かめていただけないでしょうか。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/04/05 - 06203/06203 PFG00017 半月城 暴力的な強制連行、「従軍慰安婦」88 ( 7) 98/04/05 21:59 06083へのコメント 「自由主義史観」批判(4)   黄 子満さん、#6083 > 半月城さんはご自分で慰安婦強制連行の証拠はない、と言っておきながら、 >今回の発言をなさる意図は何でしょうか?   「自由主義史観」に立つ人たちは、奴隷狩りのような強制連行を証明する 公文書がないことを理由に、官憲による狭義の「強制連行」はなかったと飛躍 した主張をしているようです。   彼らは、証拠を目の前に突きつけられないかぎり、そうした事実があった だろうとは考えない、あるいは考えたくないというのが、その心情ではないか と思います。   そのため暴力的に強制連行されたとして元「慰安婦」がフィリッピンやイ ンドネシア、中国、韓国などで多数の女性が名乗りでると、彼らは強制連行を 否定したいばっかりに、その証言の隅をつつき、ささいな曖昧点を針小棒大に 拡大し、彼女たちを「うそつき」呼ばわりしたり、あるいは藤岡教授のように 「慰安婦」であることは「宝くじに当たったようなもの」などと放言し、彼女 たちをを冒涜するありさまです。   こうした手法を見ると、彼らは強制連行の存在を信じたくないばっかりに、 意図的に公文書が存在しないことを口実に使っているとしか思えません。   公文書の存在について、「慰安婦」徴集の強制性を認める談話を発表した 元河野洋平官房長官は、「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を狩 り出した』と書かれた文書があったかといえば、そういうことを示す文書はな かった」と明確に否定しました(注1)。   しかし、このような公文書は容易に出てこないのが当たり前ではないかと 思います。河野氏は「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命 令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」と語っていました が、もっともな話です。   違法行為をするのに、それを公文書に残すような愚かなことをする人はま ずいないだろうと思います。   こうして公文書の存在が当てにできないとき、狭義の強制連行があったか どうかの判断材料は元「慰安婦」の証言が中心になります。河野氏は彼女たち の聞き取り調査をもとに「本人の意志に反して集められたことを強制性と定義 すれば、強制性のケースが数多くあったのは明らかだった」と判断しましたが、 そのように考えるに達した背景をつぎのように語りました(注1)。  「政府が聞き取り調査をした元慰安婦の中には明らかに本人の意思に反して という人がいるわけです。つまり甘言により集められた、あるいは強制によっ て集められた、あるいは心理的に断れない状況下で集められた、といったもの があったわけです。   当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日 とは違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は 強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろ うか」  「連れていった側は、ごくごく当たり前にやったつもりでも、連れていかれ た側からすれば、精神的にも物理的にも抵抗できず、自分の意思に反してのこ とに違いない。それは文章に残らないが、連れていかれた側からすれば、強制 だ」   この判断はごく常識的なもので、問題の核心をよく見抜いていると思いま す。事実その後、フィリッピンやインドネシアなどで暴力的に強制連行された と証言する「慰安婦」が大勢名乗りでて、河野談話の正しさを補強することに なりました。   さらにオランダの公文書では、スマラン慰安所で日本軍による暴力的な強 制連行があったことが裏づけられ、暴力的な強制連行は否定しがたいものとな りました。このようなケースでも日本側の公文書に強制連行を裏づける資料は まだ発見されておりません。   さて、河野元官房長官はこうした判断のもとに、「慰安婦」の強制徴収を 認め、次のような談話を出しました(93.8.4)。  「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たっ たが、その場合も、甘言、強圧による等、本人の意思に反して集められた事例 が数多くあり、さらに官憲等が直接これに荷担したこともあったことが明らか になった」   この談話はその性質上すこし抽象的ですが、現実にどのように強圧による 徴集が行われたかについて、「従軍慰安婦」という用語を作り出した作家の千 田夏光氏はこう語りました(注2)。  「朝鮮半島で慰安婦要員の若い女性をかき集めたのは、「軍御用商人」の鑑 札(木製、焼き印)をもった手合いだった。関特演を前に京城(現ソウル、半 月城注)に飛んだ慰安婦集めの参謀の実務担当者が、その一部始終を見ている。   併合後、一大惨事となった3・1独立運動以来、軍・警察はきわめて激し い弾圧を展開し、朝鮮総督府は背後に軍の力をチラつかせながら創氏改名、朝 鮮語の抑圧にはじまる有形無形の弾圧を展開した。   弾圧におののく朝鮮人にとって、「軍」の名を冠した「御用商人」の鑑札 は弾圧、強制ととらえられていたのである。その鑑札を見せつけながら若い女 性を徴募するのは、強制に等しいことだった。   当時の有形無形の圧力のすさまじさは、43年、日本人学生の学徒動員に あわせ、朝鮮人学生を志願させようとしたときに、当時の朝鮮軍司令部と在朝 鮮の警察のとった行動を詳述した姜徳相滋賀県立大学教授の『朝鮮人学徒出 陣』(岩波書店)が大いに参考になるだろう」   千田さんはさすがに当時の社会状況をよくご存じのようです。戦前、植民 地時代の朝鮮において有形無形の圧力や強制がいかにすさまじいものであった か、その補足として朝鮮人労働者強制連行を取り上げてみたいと思います。   これも「慰安婦」の徴集と同じように、被害者の証言ではやはり暴力的な 強制連行が多く語られていましたが、その一方で日本政府の公文書には強制連 行を命じるものなどもちろんありませんでした。   公文書に書かれていた文字は「募集」「斡旋」「徴用」などと、暴力的な 強制連行とは縁の遠い用語ばかりでした。しかし、そうした政策が実行段階に なるや、「夜襲や拉致」が多発する暴力的なものに変貌しました。   その事実は、今までそれを裏づける公文書がなかったため、この会議室で も奴隷狩りのような強制連行を疑問視する声がかなりありました。ところが最 近になって、そうした強制連行を裏づける旧内務省の資料がやっと発見されま した。   この文書は、京都大学の水野直樹助教授により外務省外交史料館から発見 されました。それを朝日新聞はこう報道しています(注3)。           ------------------  問題の文書は、内務省嘱託職員が朝鮮半島内の食料や労務の供出 状況について調査を命じられ、一九四四年七月三十一日付で内務省 管理局長に報告した「復命書」。  その中で、動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんた ん)目に余るものがあるといっても過言ではない」と述べ、動員の 方法に関しては、事前に知らせることによる逃亡を防ぐため、「夜 襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉 致の事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし、家 計収入がなくなる家が続出した、などの実情を訴えている。  また、留守家族の様子について、突然の死因不明の死亡電報など が来て「家庭に対して言う言葉を知らないほど気の毒な状態」と記 している。  水野助教授によると、戦前の内務省文書の大半は、自治省の倉庫 にあると言われ、植民地に関する文書も含まれているとみられるが 、いまだに公表されていないという。「植民地の実態を明らかにす るためにも内務省文書の公開を急ぐべきではないか」と指摘する。 ------------------   朝鮮総督府の徴募方法が、ときには夜襲、略奪、拉致であったとは盗賊も 顔負けです。同じような手法がときには「慰安婦」の徴募の際にも用いられた ことは想像にかたくありません。実際に、元「従軍慰安婦」のひとり、金允心 (キム・ユンシム)さんは強制連行の体験を日本ではじめて涙ながらに下記の ように語りました。           ------------------------- 「祖国でさえ話せなかった私の体験」(注4)        (金允心さんの証言) ●ゴム跳びをしていて車で連れ去られ   私は韓国から来た金允心です。私は日帝時代(日本による植民地時代)、 14歳の時、国民学校を卒業して二か月ほどして、日本の軍人たちに捕まえら れて行きました。どうだったかというと、友達と三人で外でゴム跳びをして遊 んでいたら、自動車が一台来たんです。うちは全羅南道海南という所で、田舎 でした。そこでは生まれてから死ぬまで汽車を一度も見ずに死んだ人が多いで す。今現在もそんな田舎です。   だから自動車が一台来た時、私たちはほんとうに嬉しくて、ゴム跳びを止 めて、自動車の横に立って触ってみました。すると、軍人二人が後ろに座って いて、「自動車がそんなにいいか。上がってこい。乗せてやる」と言いました。   それで三人で乗りました、嬉しくて。ちょっとだけ回ってから連れて帰っ てくれると思ったのに、「降ろしてください」と言うと、「もう少し行けば、 汽車にも乗せてやるし船にも乗せてやる。黙って座っていろ」というので、こ わくてじっとしていました。   遊んでいたゴム跳びのゴムを握ってどんなに泣いたことか、降ろしてくだ さいと頼んでも降ろしてくれず、夜どおし車で走りました。そして連れて行か れた所は、後で知ったことですが、全羅南道光州市というところでした。   どこかの家に着いて中に入ると、旅館なのか、そこには女の人がたくさん 来ていました。そして私たち三人も彼女たちと一緒に置かれました。その日の 夕方、寝て目が覚めると、一緒にいた友達は何処かに送られて居なくなってい て、私だけその女の人たちと残されていました。   それから私は見知らぬ女の人と一緒に汽車に乗せられました。夜どおし汽 車に乗って翌朝降りて、そこから今度は船に乗りました。泣いて泣いて泣き疲 れて、「降ろして」「家に帰して」とすがりつくと、船の人たちは、ゲートル という紐があったのですが、それで私の手も足も縛って水に漬けるんです。 「泣くな」といって。それでもどうしていいのか分からなくて泣いてばかりい ました。するとまた水に漬けられて・・。そうやって二日ほど乗っていたでし ょうか。暗くなると船の中で寝ました。   さいなまれ、もうあきらめて、その人たちの行く所について行くしかあり ませんでした。船から降ろされてみると、何もない野原。「そこで暮らすの だ」と言い、およそ30人にもなる女の人たちを降ろしました。私たちが暮ら すと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に 入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました。 ●「朝鮮人はみんな殺してもかまわない」   三日ほど過ごしたでしょうか。気がつくと、夕方になると軍人たちが列を 作ってやって来て、娘たちと寝て、すぐに出て行くのです。私は変に思いまし た。軍人たちは最初は私に乾パンを食べろと言ってくれたりしました。   でも三日後、私のところにも、夕方になると軍人たちが列を作って立って いて、中に入ってきました。服を脱げと言われ、パンツも全部脱がされて、着 ることも出来ないようにされました。その時初めて、あの女の人たちもそうだ ったのだなあとわかり、ほんとうに驚きました。   私は隅っこに毛布をかぶって隠れました。何日経ったか、とても身体が痛 くてもう死にそうで・・。隠れていたら、軍人たちが来て毛布をめくりました。 すると私がいるので、何歳かと尋ね、服を脱げと命令し、「おまえたちのよう なものは十人殺したって屁でもない。朝鮮人はみんな死んだってかまわない」 と。そうののしられ、足で蹴られ、四つんばいにされて殴られました。そんな 風に暮らしました。   耐えがたい生活を繰り返しながら、ずっとそこで暮らさざるをえませんで した。時に、女たちが体の具合が悪くなって伏せっていると、顔が黄色くなっ てきて、そうなるとご飯もくれません。人数分を計算して持って来たご飯、小 さな握り飯一個なのに、伏せっている女たちにはやらないのです。それから一 日経つと、その女たちは担架に乗せられて何処かに運んで行かれ、二度と戻り ませんでした。(途中省略) ●なぜあんな酷い目に、と叫びたい   本当に私はひどい惨めな生活を送ってきました。今考えると言葉も出ない ほどです。ここに来るまで、日本の奴らは人間ではないと思っていました、ほ んとうに。韓国では私たちに3,4年前から政府もよくしてくれ、アパートに も住め、毎月の生活費の援助もあり、いろいろ協力してくれて今はほんとうに 良い暮らしをしています。とても良いです。   けれども、あの頃のことを思い出すと、言葉にならないほど悔しいです。 いったい、軍人たちはどんな人間なのか、どうして私たちにあれほど酷いこと が出来たのか。私は韓国ではこんなことは一言も言えませんでした。それが、 横にいらっしゃる金先生が日本に行くというのでついて来ましたが、初めてこ こ日本に来て、日本の風に当たって、私のことを誰も知らない日本で、いった い何故私たち朝鮮の女性をあんな酷い目に遭わせたのかと、自分の想いのすべ てを声を上げて叫びたくなったのです。   けれども、いざ来てみると、そうすることも出来ず、それでも私がこの程 度でも話が出来たので、私の心は重い石がひとつおりたみたいに、少しだけ軽 くなりました。こんなふうに、今日まで挺身隊問題対策協議会の会長さんたち や政府でよくしてくれるので、今はほんとうに楽に暮らしています。   私が過去を話したいといっても、とても全部話しきれるものではありませ ん。今日はもう止めます。             -------------------   金さんは14歳のときに連行されたといっていますが、韓国の日常生活で は今でも数え年を使っているので、金さんはその時、満13歳だったと思われ ます。いずれにしても、性についてまったく無知で、まだあどけない少女を人 さらいのように突然連れ去り、軍人の性欲のえじきにしてしまうなんて信じが たい話です。こうした蛮行は、相手が植民地や占領地の少女だったからこそ可 能だったのでしょう。   他民族の少女を帝国軍人の「公衆便所」にしてまで遂行された「聖戦」や 「大東亜共栄圏」は、この「従軍慰安婦」問題ひとつを取り上げてみても、道 徳的に破綻していたといえます。   したがって、マコーマック教授の言葉はそれなりの重みを持って「大東亜 戦争」肯定論者にせまるのではないかと思います。   「1990年初めから、女性が50年間の沈黙の末に立ち上がり、日本に 向かってとてつもなく深刻な道徳的、政治的、文化的な質問を浴びせはじめた のである」   これを受けて立つ藤岡教授たちの反応は衝撃的なものがあるようです。 「(検定教科書に)この度、「従軍慰安婦」が入ることで、また新しい日本へ の汚辱のレッテルが付け加わることになる・・・。  こんな教科書を子どもに与えていれば、やがて日本は腐食し、挫滅し、溶解 し、解体するだろう。自国の近現代史教育のあり方こそは、一国民を国民とし て形成する最重要の条件である。誇るべき歴史を共有しない限り、国民の自己 形成はできない。事態は極めて深刻な段階にあると言わなければならない」 (注5)   「自由主義史観」論者は、「誇るべき歴史」を共有して国民の自己形成を はかろうとする目的から「従軍慰安婦」など、汚辱の近現代史を抹殺しようと しているようです。万一、それに成功したとして、そこから一面的に「自己形 成」される日本国民は、戦前の皇国史観で画一的に教育され他民族を虐殺・強 姦した臣民とどこが違うのでしょうか。   そうした歪んだ史観こそ腐食し、挫滅し、溶解し、解体すべきであると思 います。 (注1)『従軍慰安婦 消せない事実 政府や軍の深い関与、明白』      朝日新聞、97.3.31 (注2)千田夏光『「従軍慰安婦」の真実』Ronza、97年8月号 (注3)『大戦末期の朝鮮人動員、「夜襲や拉致」が多発』      朝日新聞、98.2.28 (注4)戦争犠牲者を心に刻む会編『私は「慰安婦」ではない』東方出版 (注5)藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/04/12 - 06240/06240 PFG00017 半月城 だまされた強制連行、「従軍慰安婦」89 ( 7) 98/04/12 22:45   前回書いた「慰安婦」の暴力的な強制連行について補足します。このよう な強制連行は俗に「誘拐」とよばれていますが、法律用語では「略取」とされ、 誘拐とは区別されています。   法律で「誘拐」とは、だましたり甘言で誘惑したりして、人を本来の生活 環境から引き離し、自己または第三者の支配下におくことをいうのだそうです (注1)。戦時中、朝鮮で多くの少女が、いい働き口があるとだまされ、おぞ ましい「慰安婦」にさせられましたが、この場合が刑法にいう誘拐に相当しま す。   これまでこの会議室では、「政府や軍による(直接の)強制連行があった かどうかが問題である」「軍や政府が直接強制連行したケースでなければ、軍 や政府は何ら問題にはならない」という指摘が多くなされてきました。   しかし、奴隷狩りのような強制連行のみならず、詐欺による強制連行(誘 拐)も国際法上問題になるばかりではなく、日本国内法上でもときには犯罪と されます。すなわちこうした女性を国外に連れだしたときは「国外移送目的略 取・誘拐罪」に相当します。   この罪で実際に「慰安所」業者などが裁かれていたことが最近の研究によ り明らかになりました。その裁判・長崎事件は最高裁の前身、大審院にまで持 ち込まれましたが、最終的に有罪の判決が出されていることが確認されました。   その判決で注目されるのは、「慰安婦」をだまし国外移送を謀議した者は、 みずから強制連行や国外移送を実際に行わなくても、それらの実行犯とともに 「共同正犯」とされ、有罪になったという点です。このとき、謀議した者と実 行犯はお互いに面識があるかどうかなどは関係ありません。   この判決をくわしく報じた毎日新聞の記事を紹介します。             ---------------------- <特報・従軍慰安婦>大陪審昭和12年判決 連行の経営者有罪               毎日新聞ニュース速報(97.8.6)  戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女 性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑 法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で193 7(昭和12)年、大審院(現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。   在日コリアンや日本人の学者、弁護士らでつくる「朝鮮人強制連行真相調査団」 (東京)が大阪府立図書館の「大審院刑事判例集」で確認した。同調査団は「強制連行 は国内法で裁くことはできないというのが定説で、十分に調査されていなかったことと 、 日本政府もこの判例を前提に動いてこなかったため、これまで確認できなかった」と説 明している。  「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、上海で軍人 相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に 伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を 秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議」し、知人の妻らに 手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。下級審は「婦女を誘拐して国 外に移送した」と有罪判決を言い渡した。  被告人は計10人にのぼり、このうち、経営者ら6人は「謀議には加わったが、女性 を上海へ送る実行行為には関与していない」などとして、大審院に上告。37年3月、 大審院第4刑事部は「共同正犯」として上告を棄却した。訴訟の経緯や量刑は記載がな く不明。  さらに、日本が植民地統治時代の朝鮮で1921年、朝鮮高等法院(最高裁にあたる )が、妻をだまして中国へ移送した朝鮮人男性に国外移送罪を適用した判例も見つかっ た。当時の朝鮮や台湾では、日本の刑法がそのまま適用されていた。朝鮮半島では、工 員などとだまされて慰安所に連行された女性が多いとされ、これらのケースも法令上は 国外移送罪にあたる可能性が強い。  従軍慰安婦の教科書記載をめぐる論争では、「官憲の暴力」のみを強制連行とする主 張があるが、大審院の判決は、本人の意思に反する連行は犯罪と認め、強制連行を広く とらえる資料となる。  同調査団は「慰安婦の強制連行が、国内法でも犯罪だったことが明白になった意味は 極めて大きい。同種の事例で処罰していないケースについて、日本政府は責任を免れな い。政府の補償責任が問われるのは必至」と評価している。 (以下省略)             -------------------------   この長崎事件で問題になった国外移送目的略取・誘拐罪ですが、その条文 (カタカナ)は下記のとおりです。この規定は一部の字句が修正され、現在で もそのまま生きています。 旧刑法・226条   帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者は二年以上の有期 懲役に処す。帝国外に移送する目的を以て人を売買し又は非拐取者もしくは被 売者を帝国外に移送したる者また同じ。   この法律は、「からゆきさん」と呼ばれた女性たちが日本国外に移送され 売春を強制されたことの反省から、国外移送目的の略取・誘拐には通常の場合 よりも重い罪を定めたものでした。   この条文の中に、「被拐取者もしくは被売者を帝国外に移送したる者」は 有期懲役とありますが、戦時中の日本軍は明らかにこれに該当します。日本軍 が軍艦などで「慰安婦」の移送を計画的、組織的に行ったことは多くの文書資 料から明らかにされています。その軍艦で多くの朝鮮人少女(法律上は日本 人)がだまされたりして連行されているので、そうした少女たちを国外移送し た日本軍や日本政府の法的責任は免れ得ないと思われます。   この日本政府の法的責任について、東京造形大学の前田助教授は次のよう に記しています(注1)。           --------------------- (前半省略) 日本政府の責任を考える   長崎事件・大審院判決を<読む>ことで明らかになったことを確認してい こう。   第一に、「強制連行」の判断基準である。歴史修正主義者は「強制連行= 奴隷狩り」という主張を勝手に大前提にしてしまう。しかし強制連行は奴隷狩 りに限られない。略取・誘拐罪に当たるような犯罪行為は、当然、違法な強制 連行である。   もちろん、強制連行だけが問題ではなく、強制連行のない場合でも違法な 監禁や強制労働についても国家責任が問われることも、急いでつけ加えておか なければならない。   第二に、これは(さしあたり)当時の価値基準に従っている。歴史修正主 義者は「戦前の問題について今日の価値基準で批判すべきではない」などと主 張するが、まったく無意味な主張である。略取・誘拐罪の規定は1908年に 改正された刑法の規定である。強制労働禁止は1932年の強制労働条約の規 定である。当時の国内法から見ても、国際法から見ても、完全に違法であるこ とが確認できる。   第三に、判断基準は少しも変わっていない。歴史修正主義者は「強制連行 概念の拡張」を批判するが、「拡張」の必要性もなく、現に拡張は行われてい ない。1908年以来、同じ規定内容である。   かりに90年代冒頭には奴隷狩りのような強制連行を問題にした主張がな されたことがあったとしても、そのことで奴隷狩り以外の強制連行が免責され るはずもない。初期の認識に制約があり、後に認識が深まって、正しく認識さ れるようになったというだけのことである。   第四に、共同正犯の問題である。(途中省略) 日本軍は、「慰安所」政策を企画・立案し、「慰安所」設置を許可し、設置方 法を教授し、「慰安所規則」を制定し、業者に免許を与え、施設を貸与し、施 設内で営業させ、兵隊に「慰安所」行きを許可し、そのための金員又は利用券 を配布し、避妊具も配布し「慰安婦」移送を許可した。   「慰安所」経営に必要な事項のほとんどを軍が行い、軍の存在ぬきに「慰 安所」は存在し得なかった。つまり、軍は単に共謀したどころではなく、「慰 安所」に関する実行行為を自ら行っている。   一連の行為の中で、業者による強制連行・強制労働があれば、それは完全 に軍の行為の一部である。軍が正犯である。業者は軍の許可の下に、軍のため に、軍の庇護の下に営業したにすぎない。共謀共同正犯論を採用するまでもな く、軍の地位は明確である。 (途中省略)   最後に、歴史修正主義者は「強制連行を命令した公式文書」にこだわって いるが、共謀共同正犯論によれば、文書の存在はまったく不要であることが明 らかである。共謀は口頭でも足りるし、黙示でも足りる。まして日本軍は単な る共謀者ではなく、実行者である。文書の存在の有無は、実行の有無とは無関 係である。   以上の通り、長崎事件・大審院判決は、全体としての日本軍による「慰安 所」政策の法的評価に大きな意味を持つ。            ----------------------   長崎事件の最終判決は1937年に出されましたが、これが身売りや詐欺 による「慰安婦」国外移送の歯止めにならなかったのは残念なことです。それ どころか、同年に起きた「南京レイプ」の反省から、「慰安婦」の重要性が安 直に認識され、日本軍直営や監督下の「慰安所」がぞくぞくと設置されました (注3)。   それにともなって「慰安婦」の大増員が急務となり、身売りや甘言による 強制連行はますます激しくなり、ときには行き過ぎから軍の命を受けた募集業 者が誘拐の疑いで警察に検挙されるありさまでした(注2)。   これに衝撃を受けた日本軍中央は、徴募の際に警察や憲兵などの協力を得 るようにとの通達を流したくらいでした。そうした軍を前にして、警察は国外 移送罪で犯罪者を取り締まることはもはや不可能になりました。   もし、その犯罪者を国外移送罪で検挙すれば、その業者に「慰安婦」徴集 を依頼した軍人も必然的に検挙せざるを得ませんが、そんなことをしたら警察 の命取りになったことでしょう。   それどころか、内務省・警察はときには「慰安婦」集めに直接荷担してい ました。それについて俵氏は、「96年12月19日に警察庁がはじめて国会 に提出した1938年11月の内務省作成の文書には、南支那派遣軍と陸軍省 徴募課長が、「慰安婦」400人の派遣を要求し、内務省警保局長が各府県と 台湾総督府に割り当て、警察・業者を使って女性を集めたことが記されている」 と記しています(注4)。   こんな場合、日本軍・警察・各府県など官憲は一体となって犯罪をおかし ていたといえます。 (注1)前田朗「国外移送目的誘拐罪の共同正犯」『戦争責任研究』第19号、     1998春号 (注2)陸軍省副官通牒、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」                       1938年4月   支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集する に当り、ことさらに軍部了解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ、且つ 一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、或は従軍記者、慰問者等を介して 不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの、或は募集に任ずる者の人選適 切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる者ある等、 注意を要する者少なからざるに就ては 、将来是等の募集に当たりては、関係 地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、以て軍の威信保持上、並に社会問題 上、遺漏なき様配慮相成度、依命通牒す。 (注3)吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995   上海派遣軍の兵站病院に勤務していた麻生徹男軍医の回想でも、38年初  め頃、上海楊家宅にできた慰安所は軍直営であった(麻生『上海より上海   へ』)。彼はこのとき、約100名の慰安婦の性病検査をしているが、その  8割は朝鮮人、2割は日本人だった。この頃から、内地や朝鮮で集められた  慰安婦が続々と到着しはじめたのである。 (注4)俵義文『教科書攻撃の深層』学習の友社、1997   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/04/19 - 06294/06294 PFG00017 半月城 強制連行の証拠をめぐって ( 7) 98/04/19 12:46 06243へのコメント  「従軍慰安婦」90   #6243,平川 明彦さん >私の認識を整理すると、 >(1)(「だまし」によるものも含めて)慰安婦の強制連行はあった。 >(2)日本軍が慰安所の設営・運営に関与した。 >この2点については、おおむね事実だと認識しています。 >その上で、問題は >(3)日本軍による強制連行があった >かどうかなのだと、思います。これこそが問題の一番の焦点なのですが、これを裏 >付ける証拠が今まで出ていないので、慰安婦補償要求派の旗色がよくないのです。  ・・・ >今後慰安婦問題について発言なさるときは、ぜひ(3)の決定的証拠を見つけてき >ていただきたいと思います。   日本軍による暴力的な強制連行を示す公文書は、#6203に書いたよう にオランダなどには残りましたが、日本ではその証拠はまだ見つかっていませ ん。しかし常識的に考えて日本では残るはずがない「暴力的な強制連行の証拠」 を出せという主張は、無いものねだりに等しいのではないかと思います。そん なことを考えながら、ふと、こんな内容の句がたしかあったかなと連想してい ます。     「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」   朝鮮半島での奴隷狩りを月にたとえれば、月を直接見られない現在、月が あるかないかの証拠は「感覚的」に池の中の月を見るようなもののではないか なと想像しています。池の中の月は、曇った時(時代)には見えないでしょう し、見る人の位置(立場)が悪くても見えません。さらに目の悪い人や、見よ うとしない人にはもちろん見えません。また、池の中の月が見えないように一 部区域(資料)を非公開にしても当然見えません。   今のところ、その見えにくい池の月をめぐって、専門家の間でおもしろい 議論がなされているので紹介します。   まず奴隷狩り否定派ですが、韓国・朝鮮人慰安婦の場合は証拠がないので 奴隷狩りはなかったとする否定論者の中にも、硬直した主張を見直そうとする 意見があるようです。評論家の西部邁氏はこう記しました。  「実質的に強制連行としか言いようがないという具体例が資料発掘の結果上 がってしまった時に、あったか、なかったかという議論に終始していると、こ れはどこかしっぺ返しを食らう恐れが残っている」(注1)   藤岡教授のようにディベートに重点を置くのでなければ、このような意見 はごく当たり前のように思えます。「従軍慰安婦」の学問的研究はたかだか6、 7年なので、これまでがそうであったように資料の発掘次第では思いがけない 重大事実が明らかになる可能性があります。とくに、自治省などでは朝鮮総督 府などの膨大な資料が未公開になっていますので、そのあたりから何が飛び出 してくるかわかりません。   また、文末に記すように、アジア各国では実質的に強制連行としか言いよ うがない具体例がかなり見つかりました。   先日も「慰安婦」強制連行に関する意外な資料が中国からもたらされまし た。中国に戦犯として抑留されていた日本軍将兵の、自分たちの罪を記した供 述書が雑誌に公表されましたが、その中に「慰安婦」の誘拐を証言する内容が 含まれていました。   陸軍第117師団長・鈴木啓久(ひらく)中将は、「私は巣県に於て慰安 所を設置することを副官堀尾少佐に命令してこれを設置せしめ、中国人民及朝 鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました」「日本侵略軍の蟠居す る所には私は各所(豊潤、砂河鎮、其他2,3)に慰安所を設置することを命 令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は 約60名であります」と記しました(注4)。   この証言をどうとらえるかは人さまざまです。証言のなかに、人民とか蟠 踞(広大な土地を領し勢力を振うこと)とか、中国でよく使われる用語を使っ ているので、鈴木中将は「洗脳」されたと考える人もいることでしょう。   その代表格として日本大学の秦郁彦教授は「117師団長ら大物の供述が 詳細に分かったのは初めてではないか。日中戦争研究の立場からは極めて貴 重」としつつ、「戦犯たちがどう巧妙に洗脳されたのか、ナゾも残る」と語り ました(朝日新聞、98.4.5)。   一方、抑留者の一人で、若い初年兵の訓練を担当していた元少尉は洗脳に ついて、「軍国主義に洗脳された人間が、普通の日本人に戻ることができた。 釈放される時、管理所長から『平和な人になれ』と言われたことが忘れられな い」と語りました。   この人のように逆に軍国主義に洗脳されたのでなければ、捕虜や抗日運動 家を殺人訓練の「教育材料」として刺殺するようなむごたらしいことは、一人 の人間として決してできなかっただろうし、また鈴木中将のように師団長とし てそのような残酷な命令を出せなかったのではないかと思います。   鈴木中将は供述書を完成させたとき、涙を流しながら「人類が再びこのよ うな歴史を繰り返さないように、わたしは歴史の真理を書いたのです」と語っ たそうでした。私はここに人間性を取り戻した将軍の姿を見る思いがします。   帰国した戦犯たちは、57年「中国帰還者連絡会(中帰連)」を結成し、 わずかな人を除いてほとんどが管理所での供述を翻すことなく、40年以上に もわたる反戦・日中友好政策を続けています(注4)。   閑話休題、話を元にもどします。朝鮮半島での暴力的な強制連行を考える 際、「関東軍特種大演習」は避けて通れない問題です。この演習は略して関特 演とよばれますが、吉見教授は、その重要性をこう指摘しています。  「1941年の関特演では、関東軍は2万人の慰安婦を集めようとし、朝鮮 総督府に依頼して約1万人を集め、ソ「満」国境に配置したという。これが事 実だとすれば、上から割り当てるしかなく、そこで事実上の強制があったと思 われる」(注2)。   この話は、千田氏の著書『従軍慰安婦』(三一新書)などが元になってい ますが、当の千田氏はこれについて最近、次のように書いており注目されます。            -----------------------  (著書の『従軍慰安婦』に対し)読者からの手紙はそれなりにいただいた。 戦地における実体験を綴られたものが大半だったけれど、私の書いたことの間 違いを指摘したものが一通あった。   陸軍省は1941年夏に「対ソ開戦」の決意のもと「関東軍特種大演習 (関特演)」の名で”満州”に70余万の大軍を集結させたが、このとき関東 軍司令部後方担当、原善四郎参謀は必要な慰安婦を2万人と算出し、急遽、軍 司令部所在の新京(長春)から朝鮮の京城(ソウル)へ飛び、朝鮮半島を統治 する朝鮮総督府を訪れ、その2万人急募を求めた。総督府はただちに急募作業 をはじめたが、「8千人しか集め得なかった」とした部分についての指摘だっ た。   このことは島田俊彦武蔵大教授(当時)が65年に出された『関東軍』 (中公新書)で書かれていたことだが、同書では集めた慰安婦要員数を約1万 人としていた。そこで確認のため大阪の堺市にお住まいだった原元参謀を訪ね たところ、「1万人ではない、8千人」と教示された。そこで「8千人」を採 用したのだったが、それも違い、「じつは3千人しか集められなかった」とい うのである。   手紙の主は関特演のときに関東軍司令部に勤務し、原参謀が京城に飛んだ 際は実務補助者として同行、実務のいっさいに従事していた方だった。そのと きの関係文書は関東軍司令部をはなれるとき同司令部のロッカーへ置いてきた ともあったが、文章の精緻さからこの手紙の主のほうが正確だろうと思ったも のだった(注3)。            -------------------   実際に集めた「慰安婦」の数はともかく、関東軍と朝鮮総督府が一致協力 して「慰安婦」を集めようと奔走したことは確かなようです。この実務担当者 によると、「軍御用商人」の鑑札(木製、焼き印)をもった手合いがそれを見 せつけながら若い女を実質上強制的に徴募したとのことでした(注3)。   軍の命を受けた御用商人の跳梁ぶりには、当の軍も手を焼いていたようで、 日本国内においてすら誘拐に類する悪事を行っていました(注7)。多くの場 合、彼らこそ軍が徴集を指示した「慰安婦」を数万人以上、時には警察や朝鮮、 台湾総督府などと連携して連行したのでしょう。   彼らの役割について、一橋大学の安丸良夫教授はこう見ています。  「彼ら(女衒、業者)は、甘言、誘拐、暴力、人身売買などさまざまな手口 を駆使するプロで、現地での女性たちの管理も、もとより軍の関与もあるけれ ども、現場ではこうした人たちの役割が大きかったのであろう。   より一般的にいって、売春、博奕、種々の興行、荷役・建築などの下層労 働者の調達、密輸などにたずさわる、なかば非合法の手段を駆使する暴力的な 人びとは、近代化してゆく日本社会をその基底部で支えたといえるほどに重要 な存在だったはずで、彼らは、植民地とか戦地とかという状況のもとではいっ そう悪どい活動を展開していたのであろう。   こうした人びとの活動の主要な内容は史料には残されないし、彼らはもと よりカムアウトして告発型の「証言」をするわけではない。吉見氏の著書など を見ても、「従軍慰安婦」問題の中で果たすこうした人びとの役割の重要性が 垣間見えるのであるが、これまでのところでは主題化されていない」   非合法な「慰安婦」の徴集をやりやすい朝鮮では、関特演などの際にノル マ達成のため、軍の指示ないしは黙示にもとづく強制連行が横行しただろうと 私は想像していますが、官憲の関与について吉見教授はこう実証的に述べてい ます(注2)。  「末端での官憲の直接関与を示す資料は、現在のところ出てきていない。こ れは、非公開の政府資料が調査できるようになれば、あったかなかったかはっ きりするだろう」   吉見教授の発言はなかなか慎重ですが、一方ではこうした文書資料にもと づく発言の限界を指摘する声が最近なされるようになりました。その急先鋒は 東京大学の上野千鶴子教授ですが、女性の視点を強調し、こう語っています。            --------------------   世界的な視野で考えますと、70年代から80年代にかけてのパラダイム 転換後、女性史は「ジェンダーとヒストリー」と呼ばれるようになっています。 ジェンダー(性別)という変数を一つの手掛かりとして歴史そのものをもうい っぺん見直し、読み直す作業です。方法論として三つの挑戦がありました。   第一は文書資料中心への挑戦です。女の歴史を語ろうとしたら、女は歴史 にどんな文書も残してこなかったという事実があった。文字を残さない人々の 歴史をいかに書くのかというところから、女性史は始まったのです。   女について書かれたものは巷(ちまた)にあふれていますが、どれもが男 が女について書いた歴史にすぎません。となると私達は、そのような男仕立て の資料から知ることができるのは、それを書いた「女とはどのようなものか、 や、どうあるべきか」という男性の女性に対する思い込みや規範について、よ り多く知るだけだということです。今から考えれば当たり前のようなことが、 女性史の方法論的転換の中で常識になってきたのです。   吉見さんが「朝までテレビ」という番組に出演し、小林よしのり一派に追 求を受け精一杯の誠実さでお答えになったのは、吉見さんが発掘した「従軍慰 安婦」についての公文書は、日本軍関与の「傍証」にはなっても「証明」その ものにはならないという、実証史家としてのお答えでした。けれど吉見さんは 「イエス」と答えた後、「バット」と言葉を継ぐべきではなかったのか。   公文書は、「官」が現実をどうコントロールしたかということについての 記録に他ならず、それは被害者の現実について何一つ語っていません。このよ うに公文書がなければ証明は不確かであるという論理は、「強者の論理」もし くは「治者の論理」です。(以下省略、注5)            ------------------------   私が思うに、吉見氏があの場で「バット」といわなかったのはディベート に慣れていなかったためではないかと思います。その後、吉見氏は資料や証言 をもとに、先ほどの主張に続いて次のように述べ、日本軍はアジア各地で暴力 的な強制連行を行っていたと明確に主張しています。  「占領地ではどうか。中国・フィリッピンの被害者の証言は、ほとんど軍に よる暴力的な連行である。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。   被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。 ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースやスマランからフ ローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島 ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が強制連 行したとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したっとする証言、アン ボン島で地元女性を連行したとする証言などがある」(注2)   この見解に対してはほとんど反論がないようで、秦郁彦教授でさえフィリ ッピン「慰安婦」の証言について「多くは事実を反映している」と述べている ほどです(注6)。アジアにおける「慰安婦」の暴力的な強制連行はほぼ動か ない事実のようです。 (注1)特別鼎談「歴史教科書を考える」『発言者』1997年6月号 (注2)吉見義明「何が事実で証拠なのか」『法学セミナー』97年8月号 (注3)千田夏光「『従軍慰安婦』の真実」『Ronza』97年8月号 (注4)特集「侵略の証言」『世界』98年5月号 (注5)杉本由美子「シンポジウム参加記、ナショナリズムと「従軍慰安婦」   問題」『戦争責任研究』第18号、1997年冬号 (注6)秦郁彦「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」『諸君』96年12月号 (注7)RE:6242、下落合95さん   >  それから、これが誤読で無ければ悪質な問題のすり替えですが、   > (そんなことはいまに始まったことではないが(笑))陸軍省副   > 官通牒は違法行為を行わないようにという命令であって、     ・・・   吉見氏によれば、陸軍省副官通達(#6240参照)を誤解する人が多い とのことですので、同氏の主張を引用します。 ●吉見義明「歴史資料をどう読むか」『世界』97年、3月号   ある資料をめぐって、否定論者たちは大変奇妙な議論をはじめている。そ れは1938年、3月4日に出された陸軍省副官通牒だが、これは植民地もふ くめ違法な徴募をしないように注意した通牒だというものだ。小林よしのり氏 などは中国で違法な徴募をしないように通牒したものだという、日本語能力を 疑うような解釈までいい出している。   この通牒がいっているのは、誘拐犯にまちがえられて警察に逮捕されるよ うなひどい徴募を、派遣軍が選んだ業者が日本「内地」で行っているので、今 後はそういうことがおこらないように派遣軍が業者の選定をもっとしっかり行 い、徴募にあたっては地元の憲兵・警察と連携して集めよ、ということである。 陸軍省が気にしているのは、日本内地のことだけである。   この点がさらにはっきりするのは、同じ年の2月23日に出された内務省 警保局長の通牒である。ここでは、日本内地から売春目的で中国に渡航しよう とする女性に渡航許可を出すにあたっては、国際法の制約があるので、21歳 未満の女性は一切認めてはならず、21歳以上の女性の場合も本人が同意して いるという条件を満たすために、現に売春婦以外は認めてはならないといって いる。内地からの送出は厳しく制限されていたのだ。   しかし、最大の問題は、この通牒と同様の指示が朝鮮や台湾では出されな かったことである。日本国家は明らかに、朝鮮・台湾では差別的な扱いをした ことになる。軍や警察が、違法な徴募を制限しようとしたとしても、それは日 本内地だけであったということになる。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/04/25 - 06468/06468 PFG00017 半月城 警察・総督府の関与 ( 7) 98/04/25 22:23 06359へのコメント  「従軍慰安婦」91   平川さん、こんばんは。   うろ覚えの俳句についてご指摘ありがとうございました。これもうろ覚え なのですが、どうやら「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」の頭と、「名月 を 取ってくれろと 泣く子かな」の尻を合わせて、字余りの句をひねり出し てしまったようです。原文の句は訂正します。 >  またかねてから半月城さんのことを >「ほとんどコメントなしで資料の引用だけを行なう人」と思い込んでいまし >たが、今回のレスでは、そんなことなかったと思います。   最近はご指摘の傾向がなきにしもあらずですが、平川さんは当会議室の特 徴や過去ログをよくご存じないようですね。一年前、私はコメントなしどころ か「従軍慰安婦」について河原さんたちと半年以上にわたり延々と議論を深め、 そのやりとりは大げさに言えば、ここの会議室の名物になったほどでした。   また、最近では半年前に、さる方と「韓国保護条約」について、少なくと も二か月以上にわたって議論を続けたりしました。   それが現在のような姿になったのは、もちろんそれなりの理由があります。 議論にはいうまでもなく相手が必要です。その相手と議論がかみ合えば議論は どんどん深まりますが、売り言葉に買い言葉方式のやりとりでは議論は線香花 火のように短命に終わり、あとにはとげとげしい感情のみが残ります。私は後 者のような舌戦は好みませんので、それらには「コメントなし」にしています。   ところで、議論が長続きするかどうかについていえば、この場合、相手と 思想や信条がある程度合うかどうかはあまり関係しません。むしろ、考え方が 違うからこそ議論が続くし、書き込みに意欲が湧きます。   一方、せっかくの議論も途中で「反日的」とか「かわいそうな人」といっ たレッテル発言が出されると、もうおしまいです。そうした発言は、だいたい 自説の展開が行きづまった時や、反論不能に陥ったときになされることが多い ようで、それは議論打ち切り宣言に等しいものです。   そのため、私は「自虐派」とか「反日日本人」などと教条的な用語を多用 する人の書き込みはほとんどスキップすることにしてします。それらは近視眼 的な「愛国者」にとってはいざ知らず、私にはほとんど読む価値がありません。 時間の浪費です。   #6359, >とりあえず今ここでは朝鮮半島の従軍慰安婦を問題にしているのであって、中国そ >の他のアジア各国のことは、問題がすりかわる可能性があるので、おいておくべき >だと思います。(この問題が重要ではないというのではありませんが)   発言の趣旨がよくわかりません。平川さんは、アジア各国で日本軍による 暴力的な強制連行が頻発したことを理解し、かつ国際的な「慰安婦」問題の重 要性を認識したうえで、この会議室の当面するディベートのテーマが「朝鮮半 島の強制連行」についてであるので、それに絞ってディベートをしたいという ご意見でしょうか?   私はここの議論に引きずられて、近ごろはついつい暴力的な強制連行に比 重をおいてしまいがちですが、本来私の目指すところは、日本軍により少女時 代を無惨に引き裂かれ、性奴隷におとしめられ、地獄の苦しみを味わったアジ アの女性たちに、どのようにしたら心安らかな道が可能であるのか考えるとこ ろにあります。   しかも、その女性たちはまかり間違えば私の母親であったかもしれないと 思うと、彼女たちの「私は従軍慰安婦ではない」という胸の奥底の叫びは私の 脳裏に鋭く響き、それがために「新しい歴史教科書をつくる会」などの「慰安 婦は公娼」などという発言を黙って見すごすことはできません。さらにはディ ベート目的で「自虐」とか、偏狭な「国家の誇り」を言い出す人たちには怒り すら覚えます。こうしたスタンスが、私のネット上における発言の原動力にな っています。   話がわき道にだいぶそれましたが、ひきつづき平川さんの書き込みにコメ ントしたいと思います。   #6359, >> 多くの場合、彼らこそ軍が徴集を指示した「慰安婦」を数万人以上、時 >>には警察や朝鮮、台湾総督府などと連携して連行したのでしょう。 > >という記述には、半月城さんの想像がかなり入っていませんか?特に「数万人」と >いう数字なんか...。(問題は数字ではなく警察や朝鮮総督府が連携したかどうか >ですが)   数字については引き続きコメントすることにして、ここでは警察や朝鮮総 督府の関与について書きたいと思います。   現在、このテーマは学者のホットな研究課題になっていますが、そうした 最新の研究成果を中央大学の吉見教授は次のように伝えています(注1)。             ---------------------   朝鮮・台湾でどのような方法で徴募が行われたかは、まだよく分かってい ない。とくに、総督府がどうかかわったかが明らかでない。これは政府資料が 公開されていないことと関係がある。   徴募の実態の解明という点で参考になるのは、昨年12月に公表された警 察大学校の資料である。それは内務省警保局員が作成した「支那渡航婦女に関 する件伺」(1938年11月4日)という資料だが、第21軍の要求で同軍 参謀と陸軍省徴募課長が内務省に対して「慰安婦」400名徴募の斡旋を求め たので、大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県に割り当て、各府県が引率者 (抱主)を選定し、女性を連れて台湾まで行かせ、台湾から華南に「御用船」 で送るというものである。   なお、台湾では台湾総督府が別に300名の女性の渡航を手配済みとある。 また、この担当者は「慰安婦」の「契約内容及現地における婦女の保護」は軍 の責任とし、警察はそれに立ち入らないという案を作っている。これは、海外 での慰安所設置が国際法違反になるおそれを懸念したからであろう。   これは日本国内での徴募のケースであり、業者は内地の売春婦を連れてい くことになったが、すでにみたように朝鮮・台湾では売春婦以外の女性が多数 連行されている。台湾総督府が手配した300名の女性も、同様に割り当てで 集められたのではないだろうか。   また、1941年7月、対ソ戦のための大量動員である関特演では、関東 軍が朝鮮総督府に2万人の朝鮮人「慰安婦」を集めるよう要請し、8千人ない し1万人がソ「満」国境に送られたといわれるが、このように大量な徴募は、 総督府による割り当てなしには不可能だろう。   植民地における徴募の実態は、総督府を管轄していた旧拓務省・旧内務省 の資料や、渡航許可を出し、徴募の割り当てを行っていた警察資料が今後出て くれば、より明白になるだろう。   また、戦争末期にどのような徴募が行われたかという重要な問題も解明さ れるだろう。政府所管資料の全面公開が待たれる所以である。           -------------------------   その後、関特演で集めた「慰安婦」の数は前回#6294で紹介したよう に千田夏光氏によれば、総督府や軍御用業者の暗躍によっても3千人しか集め られなかったとのことでした。   このように、資料面からみても警察や総督府の関与は明白ですが、「慰安 婦」自身の証言からもそれはうかがえます。台湾でのヒヤリングでは、48名 の元「慰安婦」のうち、役所から割り当てられた女性は6名もいます(注2)。 この女性たちは、台湾総督府により集められたのではないかと思います。もち ろん、その総督府を動かしたのは、吉見教授のいうように軍であると思われま す。   当時、「聖戦」遂行に「慰安婦」は必要不可欠とみた日本軍は、すすんで 将校以下の慰安施設を400カ所以上作った時代でした(注3)。そんなとき、 オールマイティの軍にしてみれば警察や総督府を動かすくらいは朝飯前であっ たことでしょう。   当時、靖国神社の大鳥居ですら軍需物資として調達したほどの権限を持っ た軍ですから、短絡的な発想で「慰安婦」が軍需物資であるという女性蔑視に 立ち、その調達に全力をあげるのは一本道でたやすいことです。そうであるか らこそ、女人禁制?の軍船に「慰安婦」を乗せ、国際法や国内法を無視して少 女たちを海外移送することに何のためらいもなかったのでしょう。性奴隷を運 んだ日本の軍船は、さしずめ日本版奴隷船になりましょうか。 (注1)吉見義明「歴史資料をどう読むか」『世界』97年3月号 (注2)台北市婦女救援社会福祉事業基金会「台湾地区慰安婦訪問調査個別分     析報告書」93年 (注3)金原節三「陸軍省業務日誌摘録」防衛庁防衛研究所図書館所蔵   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/05 - 00210/00210 PFG00017 半月城 関釜訴訟の判決、半分の良心 ( 8) 98/05/05 09:47 00015へのコメント   紫雅蜜柑さん、こんばんは。ご質問(#15)に答えたいと思います。 > 「関釜訴訟」で、山口地裁下関支部が元慰安婦3人に命じた慰謝料は1人当 >たり30万円、計90万円。(共同) >という報道がありました。 >金額はちょっと少ないようですがこれで半月城さんは満足でしょうか?   裁判所の前で元「慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちが判決に怒り叫 ぶ映像を私は台湾で目にしましたが、被害者の激しい憤りをかうような判決に は私は満足できません。   元「慰安婦」の李順徳さんは「17歳から25歳まで言葉では言い表せな いようなことをされて・・・。30万円なんて冗談じゃないよ」と吐き捨てる ようにいったそうですが、8年間にわたる性奴隷としての補償が認められず、 立法不作為の慰謝料という名目でわずか30万円では怒るのも無理はないと思 います。   しかし、李さんは30万円でも認められただけましかも知れません。主張 がまったく認められなかった元挺身隊の梁錦徳さんは、裁判長が退廷すると 「こんな国がどこにある!」と日本語で叫び、判決文を投げ捨て、大声で泣い たそうですが、彼女の無念さがひしひしと伝わってきます。   彼女は「仕事をした分、給料くださいと言っただけです」「それがだめっ てどういうことですか」「働いた金をくれない国がどこにあるのか」と激しく 抗議しましたが、この正当な要求が通らないようでは法律以前に、日本という 国の道義や良心が問われるのではないかと思います。   その一方で、判決には積極的に評価できる点もあります。たとえば、だま されて強制連行されたハルモニたちの供述をほぼ全面的に認め、「性奴隷の姿 が如実にうかがわれる」と指摘するとともに、韓国人慰安婦の「使用単価」が 日本人慰安婦より低かったことに触れて「露骨な民族差別」と指摘するなど、 その実態を浮きぼりにしている点など注目されます。   さらに「慰安婦」問題を「女性の人格の尊厳を根底から侵し、民族の誇り を踏みにじるものであって、しかも決して過去の問題ではなく、現在において も克服すべき根源的人権問題であることは明らか」として、傾聴すべき分析を しました。   そのうえで「慰安婦」のような制度は「ナチスの蛮行にも準ずべき重大な 人権侵害」ときっぱり言い切り、これによる「損害は、これを放置することも 重大な人権侵害を引き起こす」との考えから、「憲法秩序の根幹的な価値にか かわる基本的人権の侵害がある場合は、立法不作為が例外的に違法になる」と 画期的な判断を示しました。これには全面的に拍手を送りたいと思います。   かっての最高裁判例「いつ、いかなる立法をするかは国会の裁量の範囲 内」というのも、これをナチスの蛮行に匹敵するような重大な人権侵害にまで 適用したのでは、憲法の根幹にかかわるという判断はまさに正鵠ではないかと 思います。   しかし、それにしても30万円は少なすぎます。このお金は立法の不作為 に対する慰謝料なので限界があるのかもしれませんが、彼女たちへの重大な人 権侵害を認定した以上、そこにとどまらず、明確に補償金として認定すべきで はなかったかと惜しまれます。   判決でも述べているように、外国では第二次世界大戦中の国家の行為で犠 牲を被った外国人に対する謝罪と救済のための立法はドイツはもちろん、アメ リカ、カナダなどではすでになされております。日本も、憲法前文にある「国 際社会で名誉ある地位」を名実ともに占め、周辺諸国から信頼されるためには、 戦争犯罪による外国人被害者に正当な補償をし、過去の清算をきちんとすべき ではないかと思います。   そうした清算や歴史認識が今でもあいまいなので、閣僚のなかには永野元 法相や奧野元法相のように「慰安婦は当時の公娼」などと発言する閣僚も現れ る始末です。   この永野発言について今回の裁判では「永野元法務大臣の発言は、従軍慰 安婦についての歴史的、制度的認識と評価であって、それが誤っているとして も、慰安婦原告らを指してなされた発言ではないから、同原告らの名誉を侵害 するものではない」とあっさり免責してしまったようです。   しかし、こうした発言の類は韓国のみならずフィリッピン、中国などから もきびしく追求されており、国際的に日本政府の公式謝罪に冷や水を浴びせて いるのは、むじなさんのご指摘のとおりです。   話はかわりますが、今回の判決は世界的にかなり注目されたようです。判 決の報道は韓国はもちろん、アメリカのニューヨーク・タイムスやドイツのフ ランクフルター・ルンドシャウ紙などでなされました。なかでも韓国の東亜日 報は「半分の良心」という題名で、日本が正しい歴史認識を持つよう社説まで 掲げました(注3)。   一方、台湾では元従軍慰安婦の支援団体「婦人女性救援基金会」が今回の 判決に熱いまなざしを送っているようです。何碧珍会長は「勇気づけられる内 容で、慰安婦問題の抜本的解決に向けた第一歩になってほしい」と抱負を語り ました(注1)。   何会長によると、台湾の元「慰安婦」も韓国やフィリピンに続き、日本政 府への賠償請求訴訟を準備中で、今回の判決が「わたしたちの訴訟にもプラス の影響を及ぼすよう希望している」と、その期待をふくらませました。   ときに台湾では韓国に先立ち、97年12月、日本が賠償金を支払うまで の一時金として、台湾の元従軍慰安婦42人に対し、一人当たり50万台湾元 (約二百万円)を支払うことを決めています。こうした相次ぐ措置で、フィリ ッピン以外では「女性のためのアジア平和国民基金」による解決はほぼ絶望的 になったのではないかと思います。   元国民基金理事の三木睦子さん(故三木武夫元首相夫人)は「日本政府に は何を言っても無駄かとあきらめかけていた。これ(判決)で政府は『二国間 条約で解決済み』という旗振りをやめ、考え直さなければならない」と語りま したが(注2)、この発言には実践者としての重みがあり、一考にあたいしま す。   「慰安婦」問題の抜本的解決は、判決が求めるように立法による方法がや はりベストではないかと思います。この方向を民主党などが模索していますが、 早く実を結んでほしいものです。民主党以外にも社民党や平和・改革、共産党 などが今回の判決重視を主張しているので、そうした気運が根本的な解決に結 びついてほしいものです。 (注1)共同通信、98.4.27 (注2)毎日新聞、98.4.27 (注3)韓国『東亜日報』社説、98.4.29 「慰安婦問題に『半分の良心』」   日本の山口地裁下関支部が、日本政府を相手に訴訟を起こした韓国人従軍 慰安婦被害者3人に対する国家賠償を命じた判決は、日本の裁判所の「半分の 良心」として評価できる。   判決は、慰安婦制度が「女性差別、民族差別」だったとし「人権侵害」と 規定した。「軍の介入」を認めた1993年の官房長官談話で、補償の立法義 務が明確になったのに怠ったとし、この「立法不作為」に対して国家賠償を命 じた。   これまで日本の裁判所は、賠償するかどうかの判断を立法府に押しつけ、 国会は外国人被害者を賠償対象から除外したまま放置してきた。この意味で今 回の判決は異例と言える。   しかし判決は、韓日請求権協議で解決済みという日本政府の立場には触れ なかった。原告側が提示した三つの根拠の中で、最も軽い「立法不作為」だけ を受け入れ、これをもとに一人あたりたった30万円ずつの賠償を命じたのだ。   国家謝罪は「必要が認められない」としたうえで、勤労挺身隊への賠償は 慰安婦に比べ「重大な人権侵害をもたらしているとまでは認められない」と棄 却した。理解しがたい判断である。   日本は外国人被害者たちに正式に謝罪し、賠償すべきである。これが周辺 国との未来志向の関係を強固にし、日本が国際舞台で指導力を発揮するうえで 助けになるだろう。   にもかかわらず、日本政府は立場を変えずにいる。各政党と市民たちの意 見もまちまちのようだ。この問題を解決するカギは、今回の判決が求めたとお りに国会が立法措置をとることにある。(途中省略)   今回の判決を契機に慰安婦問題の真相が究明され、日本が正しい歴史認識 をするよう期待する。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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