半月城通信
No. 46

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 関東大震災と朝鮮人虐殺
  2. 在日同胞歴史資料館
  3. 南京虐殺60周年(8)、虐殺の背景
  4. 張作霖爆殺事件
  5. 「従軍慰安婦」86,「自由主義史観」批判(1)
  6. 「従軍慰安婦」87,「自由主義史観」批判(2)


関東大震災と朝鮮人虐殺、RE:[zainichi:05158] 文書名:[zainichi:05195] RE:KANTOU DAI SHINSAI Date: Sun Mar 8 21:27:51 1998   恵子さんへの回答からすこしはずれるかもしれませんが、関東大震災時に あったエピソードを、くだんの藤岡信勝教授が取り上げ、美談仕立てにしてふ れまわっているようなので、そのてんまつを紹介します。   発端は、作家の朴慶南さんが紹介した、ある警察署長の話でした。彼女の 祖父は虐殺当時、かろうじて逃げのび危うく難を逃れました。そうした経緯か ら、朴さんは虐殺の話になると胸が締め付けられるそうですが、それくらい虐 殺には特別な関心を持ち資料を調べ、ある警察署長のエピソードを文章にした ためました。   それが意外にも藤岡氏により、著者の意図とはほど遠い形で『教科書が教 えない歴史』に引用されたそうで、朴さんは憤慨しています。まずはその弁か ら紹介します。           --------------------------- 朴慶南の眼(『週刊金曜日』97.9.5)    (前半省略)   デマに踊らされた人々の狂気が吹き荒れる中、朝鮮人を保護し、敢然と守 り抜いた警察署長がいた。その人、大川常吉さんを拙著で紹介した。   まず、何よりも実際にあった虐殺の事実をきちんと知ってほしい、その上 に立って、大川さんの行動から、未来へ繋がる教訓を読者に汲み取ってほしい という思いを込めて書いた。   反響はありがたいものであったが、スタンスが違うと、私の意図からかけ 離れたものになることも思い知らされた。大川さんの美談だけが本文中からそ っくり抜かれ、『教科書が教えない歴史』に載せられた。  「こんな人がいた」記述だけでは甚だしくバランスを欠く。個人の存在が歴 史の免罪符には決してならない。被害を受けた側から見れば、そういう「奢 り」は耐えがたいものだ。   ここで披露したい逸話が一つある。拙著を読んだ韓国はソウルの病院長か ら講演の依頼を受けた。ぜひ、大川さんの親族も一緒に招待したいとのことだ った。韓国人の一人として大川さんの子孫に恩返しをしたいという申し出に、 大川さんの孫にあたる男性を伴った。   病院の大勢の職員を前にして、その大川豊さんが挨拶する機会があった。 「私の祖父のしたことで、こんなに歓待していただきお礼の言葉もございませ ん。でも祖父がやったことは、実はごく当たり前のことだと思います。   そんな当たり前のことをここまで感謝されるということは、裏返して言え ば、いかに日本人が当時の韓国人(朝鮮人)にひどいことをしていたかという ことです。   日本人の一人として私がみなさんに申し上げたいことは、この言葉しかあ りません。ミアナムニダ(ごめんなさい)」   深々と一礼した豊さんに、拍手が続いた。この視点(姿勢)と感受性こそ、 今いち番必要とされるものではなかろうか。            --------------------------   藤岡氏はさすがにディベートの専門家だけあって、素材を都合のいいよう に加工するのが上手なようです。しかし、そこから生まれるものは所詮、薄っ ぺらなものでしかないようです。こうした批判を、一橋大学の中村教授はこう 書いています。            -------------------------- ○関東大震災の朝鮮人虐殺から何を学ぶか    (中村政則『近現代史をどう見るか』岩波ブックレット427)   藤岡信勝・自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』1,2には、た しかに大正期を扱った文章が載っているがエピソード主義で歴史の体系的把握 にはほど遠いものばかりである。こういう文章をいくら積み上げても、歴史の 書き換えにはほとんど寄与するところはない。   一つだけ例を挙げれば、『教科書が教えない歴史』1では、関東大震災の ときに横浜・鶴見の警察署長が朝鮮人を救うという美談が書かれている。なる ほど心温まる美談ではあるが、これではたんなる一過性の「感動」しか残らな い。   彼らは「歴史教育の目的は自国の歴史に誇りをもたせることにある」と考 えているから、なるべく「明るい話」を羅列しようとするのだが、ここではこ れまでの膨大な研究成果がまったく無視されている(たとえば、・・・<文献 リストを(注)に移動>・・など)。   その結果、どのような歴史認識が育つというのであろうか。むしろ、これ では当時の日本人の自己認識(朝鮮・中国人に対する蔑視意識の精神構造)を 曖昧にさせるだでである。   最近、松尾章一らは四年の歳月を費やして膨大な資料集『関東大震災、政 府陸海軍関係史料』全三巻を公刊し、これまで不明であった軍による朝鮮人虐 殺の事実を突きとめた。「震災後警備の為、兵器を使用せる事件調査票」(第 2巻)と題する資料がそれで、この調査票には殺害20件、犠牲者281人 (在日朝鮮人254人、日本人27人)の殺害方法や実行部隊、場所・時刻な どが詳細に記されている。   また、第1巻所収の『政府・戒厳令関係史料』は「戒厳令に関する研究」 などの新資料を含んでいて、これにより戒厳令がいつ誰によって準備され、天 皇の裁可をえたかが判明した(ちなみに、明治以来、戒厳令が出されたのは日 清・日露戦争のさいの戒厳宣告のほかは、日比谷焼き討ち事件、関東大震災、 2.26事件の3回のみ)。   戒厳令とは「戦時・事変に際し、立法・行政・司法の事務の全部または一 部を軍の機関に委ねること(『広辞苑』)をさすが、戦時でも内乱でもない関 東大震災のときに、なぜ政府は枢密院の諮詢をへることもなく慌てて戒厳令を だしたのか。   松尾章一は戒厳令布告の直接の責任者のうち、赤池濃(あつし)警視総監 と内務大臣水野錬太郎の両名は、1919年の3.1抗日独立闘争の際、朝鮮 総督府の内務の最高官僚であった事実を指摘したうえで、死者7000名を超 えるといわれた3.1虐殺事件の仕返しを恐れて、急遽、戒厳令を出したので はないかとしている。   さらに「朝鮮人が暴動をおこしている」「朝鮮人が井戸に毒をいれた」な どのデマ、流言飛語が軍・警察や自警団による朝鮮人虐殺(6000人以上の 犠牲者が出た)を引き起こすもとになったのだが、このデマの出所についても、 松尾は赤池・後藤(文夫、当時、内務省警保局長)・水野ら内務官僚トリオで はなかったかとした(同史料集解説および『図書新聞』1997年2月15日 号)。   関東大震災時における朝鮮人虐殺の教訓から学ぶためには、このように多 面的な角度から事実を探求しなければならないのであって、たった一つの「美 談」で歴史の真実(虐殺の事実)を帳消しにすることはできない。   二年前の阪神・淡路大震災の翌日、私はゼミの学生たちに「また暴動など が起こらなければいいが」と話したが、事実はまったく逆で被災者たちは整然 と事態に対処した。それを見た韓国の新聞は「まるで別の民族のようだ」と書 いた。在日韓国人は銀行から金を借りて被災者の救援にあたったとも聞く。   72年前とは雲泥の差である。在日韓国・朝鮮人と日本人との交流は72 年前とは較べられないほどに「成熟」してきたのである。日本の新聞も「さわ やかだ」と書いた。   関東大震災のときの事実を知っていればこそ、関西の被災者たちは無意識 のうちにも、二度とあのような悲惨な事件を起こしてはならないと思ったこと であろう。   要するに、歴史の真実をきちんと知っていればこそ、あらたな感動が生ま れるのだ。「美談」も結構だが、そのようなエピソードをいくら並べ立てても 薄っぺらな歴史認識しか育たない。歴史の真実を覆い隠すような「歴史教科 書」は、かえって日本国民の歴史認識をくもらせるだけなのである。            -------------------------   軍による朝鮮人虐殺については、かって私もニフティ(FACTIVE,3-7,217) に書いたことがあります。もしご希望があればこちらに転載します。また、こ れは「半月城通信」でも読むことができます(<4.現代、23.関東大震災 と朝鮮人関係資料>)。 (注) 姜徳相・琴秉洞編『関東大震災と朝鮮人』 朴慶植等『関東大震災における朝鮮人虐殺の深層と実態』 松尾尊兌『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件』上下 関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査会『関東大震災と   朝鮮人虐殺』   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:在日同胞歴史資料館 [zainichi:05021] Date: Sat Feb 14 22:02:28 1998   ここのメーリングリストに紹介されたように、朴慶植氏が交通事故で不慮 の死をとげました。同氏はロングセラー「朝鮮人強制連行」で、日帝時代の強 制連行の実態を初めて実証的に明らかにしただけでなく、慰霊碑の建設などに も精力的にかかわってこられた方で、ご存じの方も多いと思います。   その朴氏がやり残した仕事のひとつに、歴史資料館の建設があります。こ こに資料として、その設立呼びかけ趣意書を一部転載します。           ------------------------ 在日同胞歴史資料館設立の呼びかけ 1.在日同胞資料館設立の趣旨  解放後50年の歳月も過ぎました。在日同胞が歩いてきた解放前、解放後9 0年の歴史を振り返り、その歴史認識を深めなければならないことを痛感しま す。正しい在日同胞に関する歴史認識を深め、それを今後在日同胞が生きてい く心の糧とし、希望のもてる将来を展望していきたいと思います。  しかし現在、私達在日社会には、同胞の正しい歴史認識を啓発してくれる総 合的な施設がないばかりか、その歴史資料さえも十分に収集されていません。 そのため何より先ず、在日同胞に関する資料の収集事業が必要であると考えて 居ります。  日本への渡航事情、在日の生活状況、労働運動、民族運動、文化芸術運動な ど全般にわたる資料を、8.15解放以前、以後にわたって収集し、体系的に 整理していかなければならないでしょう。  次にその収集した資料を保存する在日同胞歴史資料館の設立、そして在日同 胞史の編纂事業を行っていかなければならないと思います。  こうして私達は在日の若い世代に在日同胞歴史資料館、在日同胞史の編纂を 遺産として残していきたいと願っています。  幸いなことに、これまで在日同胞に関する資料を精力的に収集し、在日同胞 史の研究をやってこられた朴慶植氏のコレクションがあります。氏に要請して その収集資料を提供していただき、それを中心とし、さらに有志方々の協力を 得て諸処に散在している資料、また現在進められている在日の諸運動に関する 資料をも収集することが出来るならば、より内容の充実した資料館が完成する ものと確信します。  在日同胞資料館の設立ならびに、在日同胞史の編纂に興味を持たれる有志諸 賢の資料館設立会員並びに協賛金への応募に積極的な参加を切実に要望する次 第であります。  1.資料館設立場所  東京都または神奈川県内  1.設 立 基 金  設立会員による協賛金                         1996年4月   (以下はタイトルのみ)  2.在日同胞資料館の必要性  3.資料館設立のための事業内容   (1)設立会員および設立基金の募集   (2)事業内容  4.資料館の施設内容  5.資料館の運営および運営  6.設立準備委員会  7.『統一日報』紙の記事紹介   在日同胞歴史資料館設立準備委員会   182 東京都調布市布田3-55-20   電話・FAX;0424-81-9989   委員長 金キ澤   事務局 金弘茂   委員  朴載日、崔碩義、権重達、申正九       安景植、朴哲民、金時文、朴慶植          ---------------------------   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/02/21 - 05835/05835 PFG00017 半月城 虐殺の背景、南京虐殺60周年(8) ( 7) 98/02/21 22:56   これまでのシリーズでは、南京でどのようなことが行われたのかを重点的 にみてきましたが、今回はこの事件がなぜ起きたのか、その原因や背景に迫り たいと思います。   このことは南京虐殺を単に過去の不幸な一事件であったという史実だけに 終わらせず、何が問題であったのか浮きぼりにすることにより、今後とるべき 方策を考えるべきであると思います。   前回書いたように、南京以前の「満州事変」などでは強姦略奪など、目に あまるような日本軍の乱行はなかったようなので、南京虐殺の原因をさぐるに は「満州事変」後の日本軍が、南京虐殺に至る5年間にどのように変質したの かに焦点をあてる必要があると思います。 ○現地軍の暴走   日本軍変貌の第一は「満州事変」を契機に、軍内に中央の統制にさからう 「下剋上」の雰囲気が生まれたことです。32年、関東軍の石原莞爾らは軍中 央の方針にそむき、中国東北地方で戦火を勝手に拡大しました。しかも、この 下剋上は罰せられるどころか、この暴走が成果をおさめるや逆に殊勲賞が与え られ、彼らは中央の要職に栄転しました。   それとうらはらに、彼らを抑えて中央による統制維持に努めた人たちは逆 に中央の要職を追われるしまつでした。このような組織の秩序を無視した論功 行賞がその後の日本軍の気風を左右しました。すなわち、軍人は戦果を挙げ結 果さえ良ければ暴走はすべて許されるという統制軽視の風潮が軍にはびこりま した。   その弊害について、「満州事変」当時、参謀本部作戦課長で関東軍の独走 に手を焼いた経験をもつ今村均は、その回顧録で次のように述べています(注 1)。             -----------------------   満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想 に不良な感作を及ぼし、爾後(じご)大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたこ とは争えない事実である。これとても、現地の人々がそうしたというよりは、 時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている。   板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものでは ある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。   にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は満州事変は、成功裏に 収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは 不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄 転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人 のこらず中央から出してしまった。   これを眼の前に見た中央三官衙や各軍の幕僚たちは「上の者の統制などに 服することは、第二義のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにあ る。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、 それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってか わって統制者になり得るものだ」というような気分を感ぜしめられた。   又、上級責任者たる将官の中にも、幾らかは「若い者の据えたお膳はだま って箸をつけるべきだ。下手に参謀の手綱をひかえようとすれば、たいていは 評判をわるくし、己の位置を失うことになる」と思うような人を生じさせ、軍 統率の本質上悪影響を及ぼした。 (今村均『私記・一軍人60年の哀歓』扶養書房、1971)            ------------------------   このように下剋上が助長される軍隊であってみれば、出先の軍隊は功名心 から時には中央の意図に逆らい、きっかけさえあれば戦火をどんどん広げがち です。こうように統制がきかず、軍紀の弛緩した軍隊はとかく暴走しがちで、 侵略戦争は止めどなく拡大してしまうものです。南京攻略もそのいい例でした。 それについて、現代史研究会の大杉一雄代表はこう記しています(注2)。            ------------------------- 南京への道   この間、上海攻略後の日本軍は中国軍退却のあとを追って、南京に向かっ た戦線を拡大していったが、このとき軍中央は南京占領という明確な計画をも っていたわけではなかった。むしろ作戦の実質的責任者多田駿参謀次長は石原 (莞爾)系の不拡大論者で、最後まで占領には反対であったのである。しかし 中支那方面軍最高司令官として赴任する松井石根大将は、見送りに来た杉山陸 相に対し、南京攻撃を訴えていたという(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞 社)。   ここでも現地軍が独走し、中央がそれを黙過し最終的には追認するという、 満州事変以来繰り返されてきた陸軍の典型的パターンの再現を防ぐことはでき なかった。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の 企画、出先の意見によるものであったという。(回想応答録『現代史資料』)。   あの南京事件という大不祥事も、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛 緩というなかで起きたものといえよう。   なぜ日本軍はこのように統制のとれない集団になってしまったのであろう か。柳川平助中将の指揮する第十軍が、11月5日、杭州湾に上陸したとき、 上海戦線の大勢はすでに決しており、中国軍は南京方面に敗走しつつあった。   したがって第十軍は目標をそちらに定め、それを追撃したいという心理に なったのである。ここにやはり満州事変以来の「石原現象」を認めざるを得な い。すなわち下剋上が是認されるような風潮のもとでは、第一線に出征した軍 人としては、中央の方針に従うよりは、とにかく行動して勲功を立てたいとい う誘惑には勝てないのである。参謀本部もついに南京攻略を認めざるを得なく なった。   また当時の雰囲気としては、政府は敵国首府の占領により戦意を喪失させ、 有利な条件で講和ができると考え、国民も単純な勝利感に酔うようになってい たのである。   敵国の首府を攻撃するに際しては、単に軍事的な観点のみならず、政治的 な配慮も必要であり、いわゆる政戦略の一致が要求される。まして中国は面子 を重んじる国である。しかも第三国に調停を依頼しているときである。南京占 領と和平問題との連携は考えられて当然であった。しかしこのころ軍部は勝手 に戦線を拡大し、その報告を受けない近衛や文民閣僚はジリジリ、イライラし ているだけであった。まさに国務・統帥の乖離という戦前の日本のもつ致命的 な欠陥に直面していたといえる。            -------------------------   近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったというの はなさけない話です。政治体制に致命的な構造的欠陥があったのは確かなよう です。一方、現地軍隊は中央のあまい統制を軽視し、中央が指示した制令線な どを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していきました。   そのような暴走に対し、これに懲罰を与えるどころか逆に追認した軍中央 は、その戦線を支えるために必然的に兵の大量動員を必要としました。そのた め常備兵だけでは不足をきたし、予備兵や後備兵、さらには補充兵などを大量 にかり出すようになりました。   彼ら、特に後備兵はだいたい30歳代で、妻子を持ち一家の大黒柱である 場合が多いのですが、それが予期しないときに突然赤紙で召集されるものです から、とても戦争に没頭できるものではありません。規律や戦闘意欲が十分で はなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもありません でした。   この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえありまし た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう 所見を書いています(注4)。  「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士 官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が 誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、 掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から 第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」 (田中新一『田中新一』/ 支那事変記録、其の三)   高年次召集兵もさることながら、問題は小隊長や中隊長などの現役初級幹 部にもありました。このような陸軍現役将校の補充は基本的に陸軍士官学校卒 業生からなされましたが、軍縮や諸般の事情で士官学校学生を減員した影響が このころになって出始め、これら将校が極端に不足しました。   そこでやむなく知識や経験の浅い予備役将校が急きょ当てられましたが、 統率力に欠けており、軍紀のたるみに拍車をかけたようでした。   しかし、たとえこのように高年兵と予備役将校とのコンビでも、戦争目的 が祖国防衛などといった誰もが納得するような大義名分なら、気を引き締めて 戦うのでしょうが、そのころの対中国戦は宣戦布告はおろか「戦争」の名前す らつけられず、出先軍に引きずられた行き当たりばったりの泥沼戦でした。   そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻 (ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする ものでした。「悪者の支那」をこらしめるため戦うという、たとえてみれば、 おとぎ話に出てくる「桃太郎の鬼退治」もどきの大義名分でした。   このような「支那鷹徴」論の背景には、軍拡大派を中心とする打算的な意 見や、それに引きずられた政府の存在を見落とすことはできません。  「近衛は結局、軍部拡大派の『戦いそのものは好まぬところだが、とにかく 国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易 について来ん、それだから戦いでも始まって--現実に戦いでもあれば国民もし かたなくついて来る、それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか』とい う思惑に沿って(注3)、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割 を演じたのである」(注4)  「国民も仕方なしについてくる」、そのために戦争を始める、このように理 念のひとかけらもない侵略戦争を仕掛けられたのでは、相手国はたまったもの ではありません。こうした中国に対する傍若無人ぶりのうらには、軍事大国・ 日本が「支那に一撃」を加えれば中国は簡単に折れるだろうという読みがあっ たことはいうまでもありません。ここに日本の誤算がありました。中国人の抗 日意識や抗日戦線の強い抵抗をみくびっていました。   誤算はさらに続きました。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わ るだろうとみていたようでした。そのあまい考えも手伝って、上海派遣軍と第 十軍は先陣争いをしながら南京に進撃しました。その際、兵站補給問題は二の 次で食糧の補給を軽視したため、必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に 繰り返し、それをきっかけに次第に道徳的に堕ちていきました。   しかし、政府や軍だけを責めるのは酷かもしれません。侵略戦争に積極的 に荷担した当時のマスコミなども検証が必要ではないかと思います。 ○マスコミの対応   当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎えまし た。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていました。  はやる歓喜! 大祝賀の催促!   神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて    早くも銀座に戦勝飾      (読売新聞、37.12.8)  踊出した提燈(ちょうちん)行列    昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)  ”陥落公表”を待ち祝賀の大行進    畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ      (朝日新聞、37.12.11)  百万人の旗行列   (東京)府市が公電着次第催し種々      (読売新聞、37.12.12)   これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦 争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらないようです。それどころか報道は 過熱し、なかには「人殺し競争」をあおる新聞まで登場しました。毎日新聞の 前身で三大紙のひとつである東京日日新聞は、ある殺人ゲームをこう伝えまし た。  百人斬り競争! (37.11.30)    両少尉早くも80人  ”百人斬り”大接戦 (37.12.6)    勇壮!向井、野田両少尉  「勇壮な」向井、野田両少尉は、軍刀を前にして写真入りで大きく紹介され ました。しかし、この記事はそれほどには注目されなかったのかもしれません。 その印象を作家の安岡章太郎氏は次のように記しています。(注5)            ---------------------   昭和12年12月13日から、翌13年1月末まで、6週間のうちに日本 兵は中国人を15万5千人以上を殺し、5千人以上の女性に暴行をはたらいた うえに、市民の財貨を掠奪し、街を焼き払ったということは、戦後になるまで、 日本人のほとんどが知らなかったことだ。   しかし、いまになって思うのだが、もしこれをあの当時、日本の新聞やラ ジオでこのとおりに報道されていたとしても、果たして僕らはそれを信じる気 になったかどうか、僕には自身がない。   たしかに僕らは、南京虐殺事件というものについては知らされていなかっ たし、細かい数字や何かは無論、全然知らなかった。しかし、15万5千人と いうような数字を聞かされても、それだけでは何も驚かなかったのではないか。   すくなくとも、それだけの数の死体が街に転がっているということがどう いうことなのか、自分の眼でそれを見てみるまで、何のことだか見当もつかな かったに違いない。--要するに、チャンコロが死んでいる。ただそう思っただ けだったかもしれないのだ。   だいいち僕自身は、その頃、日本人の将校が二人で中国人の「百人斬り競 争」をやったという新聞記事が出ていたことを、全然憶えていないのである。   百人斬り、”超記録”   向井、百六 -- 野田、百五   両少尉さらに延長戦   こういう記事が、昭和12年12月13日づけの東京日日新聞にでていた というのだが、僕はそんなものをまったく見過ごしてしまっていた。僕の家で は、新聞は朝日と日日とをとっていたが、日本の将校がシナ人の首をいくつ切 ろうが、そんなことには少しも興味が持てなかったからであろう。   この僕の無関心は当時の新聞に軍部の検閲が加えられていたということと は直接関係のないことだ。            ----------------------------   興味本位で殺人ゲームを礼賛した新聞記事が安岡氏の目を引かなかったの は、当時、それくらい「チャンコロ」を殺すことに日本人は不感症になってし まったためでしょうか。犬コロを殺す感覚で「チャンコロ」を殺し、それを新 聞や庶民がゲームのように楽しんでいたなんて、考えただけでも身の毛がよだ ちます。   大昔、ローマの闘技場で奴隷同士に殺し合いをさせ、それを市民が観戦し て楽しんだそうですが、そんな情景が連想されます。道徳的に堕ちていったの は何も中国前線の兵士だけでなかったのかもしれません。   このような世相であってみれば、南京虐殺が起きたのは決して異常ではな かったと思います。殺人や略奪強姦は起こるべくして起きたといえます。 ○百人斬りのその後   ここで主題からすこしはずれますが、百人斬りの記事が出たついでに、こ のゲームの真相にまつわるエピソードを紹介したいと思います。   百人斬りについて、「南京大虐殺のまぼろし」をとなえる鈴木明氏は「百 人斬り競争虚報説」を主張しましたが、そもそも百人斬りというのは戦闘中に 勇敢に敵を斬ったというより、ほとんど無抵抗の中国人を斬殺したもののよう でした。   そのことは後日、当事者の野田少尉が帰国して、故郷の小学校で内幕を気 軽に語ったことからうかがい知ることができます。それを直接聞いた志々目彰 は月刊誌『中国』(71年12月号)で少尉の言葉をつぎのように紹介してい ます。  「郷土出身の勇士とか、百人斬りの競争の勇士とか新聞に書いているのは私 のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかい ない・・・   占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はば かだから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱし から斬る・・・   百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆ど だ・・・   二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何と もない」(注6)   ほとんど無抵抗の人を百人以上も斬り殺して、「何ともない」というのは 強がりでしょうか。それとも本当に何ともないのでしょうか。もしそうだとし たら、鉄面皮の人間に違いありません。 (注1)藤原彰「南京の日本軍」大月書店,1997 (注2)大杉一雄『日中15年戦争』中公新書,1996 (注3)「河辺虎四郎少将回想応答録」、『現代史資料12,日中戦争4』み     すず書房,1965 (注4)笠原十九司『南京事件』岩波新書,1997 (注5)安岡章太郎『僕の昭和史1』講談社、1984 (注6)本田勝一『本田勝一集、第23巻、南京大虐殺』朝日新聞社,1997


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/03/08 - 05976/05976 PFG00017 半月城 張作霖爆殺事件 ( 7) 98/03/08 21:20 05866へのコメント   コメント、#5866ありがとうございます。 >この軍紀弛緩の遠因となった「上官の命令を聞かなくなった」現象は、貴方の >指摘された満州事変より古く、1928 年 6 月に起こった河本大作大佐による張 >作霖爆殺事件と、その後の処理に現れて居ます。   張作霖爆殺事件を、高級参謀である河本大佐など関東軍の一部軍人による 暴走と見るか、あるいは関東軍全体の謀略であったと見るのか意見の分かれる ところではないかと思います。   当時、事件の真相は軍の強い反対で公表されず、そのうえ河本大佐も予備 役になった後も固く口を閉ざしてしまったので、真相は長い間極秘のまま封印 されてしまいました。事件後、河本大佐の秘密を守る努力はたいへんなもので、 うわ言で真相を漏らすのを恐れ、盲腸の手術で麻酔すら拒んだほどでした。   そのため真相は不明ですが、これほどの大事件を大佐あたりが独断でやっ たというのは前代未聞で、ちょっと考えにくいところです。このような受けと め方は事件当時から強く、元老の西園寺などは事件の報をうけとると「どうも 怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元凶ぢやあるまいか」 と疑いをもっていました(注1)。   これをある程度裏づけるような証言を、河本大佐本人がしていたことが読 売新聞社により明らかにされました。最近、同社は河本大佐が中国に捕らえら れたときの供述書(注2)を公表しましたが、NOVOさんはそれをお読みで しょうか?   それによると、河本高級参謀は「(事件は)関東軍が全責任を負うべきで あり、私には主たる責任がある」「だれを首謀者に仕立てるかで関東軍司令官 がひどく悩んでいたので、私が責任をかぶると自分から申し出た」と、爆殺は 関東軍の総意であることを中国当局者に供述しました。   もっとも河本大佐の証言は、自分の罪を軽くするために責任転嫁をしてい る可能性もあり、本当にどこまで信用できるのかわかりません。また、大佐の 三女で日本国際政治学会会員の河本清子シスターもこの供述調書について、 「父が言っていることも、大体これまでに直接、間接的に聞いてきたことや断 片的に残されたものと違っていないように思われます」と語っておりますが (注2)、これも割り引いて聞く必要があるかもしれません。しかし、私は関 東軍主導説は信憑性が高いのではないかと思います。   当時の状況をふりかえると、田中首相は張作霖を利用し満州での利権を拡 大しようとしたのに対し、関東軍は日本の意のままにならない張作霖を排除し、 満州を日本の強力な影響下におこうとして対立していました。   そのため関東軍は、蒋介石の北伐に追われた張作霖が奉天に入ることに強 く反対し、侵入阻止のための出動命令を首を長くして待っていました。しかし その命令は出されなかったので、関東軍は政府方針に逆らって凶行に及んだの ではないかと思います。   そうした関東軍の動向は、参謀長の斉藤が記した日記からある程度明らか になっています(注2)。            -----------------------   斉藤の日記は、閣議決定を受けた5月20日と思われる村岡軍司令官の訓 示「満蒙の治安維持に害あると認めるものは直ちに武装解除し、若しこれに応 ぜざるものは断固その侵入を阻止し、殊に南軍は絶対に其侵入を阻止する」で 書き始まり、張作霖軍をも阻止して満州を中国本土から切り離し、日本の強い 影響下に置こうとする考えを示している。   斉藤等関東軍は、「あれ(張作霖、半月城注)を生かして置けば仕事がで きると云う考へがある様だ」と田中首相の考えを批判し、「要するに司令官の 考えは可なるも、首相が不決断なることが結局虻蜂(あぶはち)取らずとなる ならん 噫(ああ)!」と憤っている。結局武装解除を実行する「奉勅命令」 は出されず、張の奉天到着の日を迎えている。            ----------------------   こうしてみると、張作霖の奉天到着阻止が不可能になった時点で、関東軍 は邪魔者は殺すという短絡的な方針を決定したのではないかと思います。こう した単純な発想は、事件が引き起こす国際的影響などを無視しがちで、結果は 思わぬ方向に走りがちです。その誤算について横浜市立大学の遠山茂樹名誉教 授はこう記しました(注1)。  「張作霖の下野ないしは抹殺をめざした軍部の動きには、大きな誤算があっ た。張が日本の要求をなかなか容れなかったのは、張の意志によるよりも、む しろその背後にある民族運動につきあげられたものであったからである。   しかも張の爆殺の背景には日本軍閥があるのではないかという疑惑は、中 国をはじめ世界にただちにひろまった。満州における対日感情はさらに悪化し ていった。ただ日本国民だけが報道を統制されてつんぼさじきにおかれてい た」   やはりこの事件は対日感情をさらに悪化させ、小川平吉鉄相のいうように 「有害無益の結果」に終わったようでした。同じ帝国主義侵略者でもイギリス の場合は、中国の民族運動が燃えさかると漢口、九江租界を返還するなど譲歩 の姿勢をとり排英運動を鎮めようとしましたが、日本は抑圧一辺倒だったよう です。こうした民心を無視した硬直した政策が後日、南京大虐殺などの一因に なったのではないかと思います。   一方、事件の処理では田中義一内閣は断固たる処罰をとれず自滅してしま いましたが、このように軍人をしっかり抑えきれなかった政治が軍部を増長、 暴走させ「満州事変」など不幸な日中15年戦争を招く一因になったのではな いかと思います。 (注1)遠山茂樹他『昭和史』岩波新書 (注2)「張作霖爆殺」の全容、『This is 読売』97年11月号   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


"IANHU" (86) |- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/03/15 - |06033/06033 PFG00017 半月城 「自由主義史観」批判(1),「従軍慰安婦」86 |( 7) 98/03/15 21:34 05893へのコメント   ゴマさん、南京事件に関するコメント、#5893ありがとうございます。 > しかし、そのような方法によっても4万人前後の「不法殺害」が認め >られるというのに、なお「マボロシ」派が存在し得るというのは、理性 >的には了解不能という他ありません。 > また、「マボロシ」派の多くは「従軍慰安婦」否定論者とも一致して >いるように思われますが、「従軍慰安婦」否定論者が秦の研究を立論の >ベースとしているのも不思議なものです・・・   たしかに「マボロシ」派は、理性的に理解不可能ですが、その「マボロ シ」派の中に、市民の虐殺を47人と主張している東大の藤岡教授も入るので しょうか。   その藤岡氏と、軍・民の犠牲者10万人弱という説を展開する秦教授が 「従軍慰安婦」問題や「新しい歴史教科書」などで共同歩調をとれるなんて、 私にはまったく信じがたいことです。学者の生命である基本的な学説の相異よ りも、彼らがいうところの「自虐派」をたたく共同行動の方がもっと重要なの でしょうか。 > 秦の「歴史観」について、今度時間が空いたときにでも詳論していた >だければ幸いです。   私も秦教授の言動には興味があり、すこし当たってみました。そうしたと ころ、オーストラリア国立大学のマコーマック教授が秦教授や「自由主義史 観」論者について評論を書いているのを見つけました。「従軍慰安婦」などと 直接かかわりのないオーストラリアで、かくも秦教授たちの言動を研究してい るとは驚きました。   マコーマック教授の評論(英文)は翻訳され、韓国で雑誌「創作と批評」 に20ページにわたり投稿されました。ここではその一部を抜粋し紹介します。 論文では引用文献が47もありますが、これはすべて省略します。   なお、雑誌『創作と批評』の性格ですが、この本はソウルの金浦空港でも 販売されているほどポピュラーですが、内容はクォリティーの高い季刊誌です。            ------------------------ 日本「自由主義史観」の正体    『創作と批評』(韓国語)、97年冬号              オーストラリア国立大学太平洋学研究学部              ギャバン・マコーマック(Gavan McCormack)  (前文省略) 1.「自由主義的歴史記述」と「正しい歴史」   半世紀前に終わった戦争に対する責任問題が、その戦争の記憶が消えつつ ある現在、逆に日本では次第に切迫した問題になりつつある。この問題から生 じた社会的・政治的亀裂は深まりつつあり、その国際的な波及が益々深刻にな っているためである。   1990年代初め、日本の植民地主義・侵略による犠牲者の側から、日本 の謝罪と補償を要求する訴訟が東京の裁判所に数十件なされている。訴えた人 は、従軍「慰安婦」、南京などの大虐殺の犠牲者たち、戦時徴用から生きて帰 った人たち、そして日本が中国で使用した生物学的・化学的攻撃の犠牲者およ びその家族たちである。中でも一番むずかしいのは「慰安婦」問題であろう。   ジュネーブに本部をおく国際法律家委員会は1994年、「慰安婦」報告 書にて、幼い少女たちを含む多数の女性たちが戦時中、日本の軍事施設に監禁 されたのみならず、殴打や拷問を受け、繰り返し強姦されたと指摘した。   1996年2月、国連の人権委員会は「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、 この女性たちに日本がおかした行為を「反人道的犯罪」と断定した。この委員 会は、日本が犠牲者に補償すること、公訴時効に関係なく責任者を処罰するこ と、さらに日本は教育課程にこの歴史的事実を含めることなどを勧告(クマラ スワミ勧告、半月城注)した。   ソウルやマニラ、ジャカルタなど、過去「大東亜共栄圏」に属した多くの 都市で、憤慨した犠牲者がぞくぞくと立ち上がり、50年前に彼女たちが体験 したことを語り始めた。韓国(南北)やフィリッピン、中国、タイ、インドネ シアなど各地で女性が名乗り出、自分たちが体験したことを活字や口頭で証言 し始めた。その人数は1997年初め、すでに23,000名に達した。   戦争の反省も、焦点はこちらの方へと変化してきた。これまで議論してき たのは、いつも男性の政治家や軍人、学者だったが、1990年初めから女性 が50年間の沈黙の末に立ち上がり、日本に向かってとてつもなく深刻な道徳 的、政治的、文化的な質問を浴びせはじめたのである。   1996年12月、アメリカ司法省の犯罪局は、戦犯と認められる日本人 の入国「不適格者名簿」を準備したと発表した。その名簿に入っている(名前 が明らかにされていない)12名中、3名は慰安婦組織に関係している一方、 残り9名は中国で細菌戦を行い、囚人たちを相手に数知れない残酷な罪を犯し たハルビンの「731部隊」関係者とされている。   事件後50年たった現在、ワシントンは日本人をナチ戦犯と同じように扱 うことに決めたが、これは彼らの犯罪が格別嫌悪すべきものであり、これに荷 担した嫌疑がある者は公訴時効の保護を受けてはならないと宣言したことにな る。(途中省略) 2.「慰安婦」の挑戦、「大変な性犯罪の国」日本   現在、「自由主義者」がもっとも強硬に否認するのは従軍「慰安婦」であ る。彼らは、彼女たちの存在自体も、日本帝国主義軍隊下で奴隷さながらの境 遇も、彼女たちの蒙った苦痛も、さらには彼女たちが日本から謝罪と補償を当 然受けるべきことなども全て否定する。   彼らにとって、「慰安婦」の話は「わが国の歴史に対する誇り」を増進す るわけではないので無用なものであり、そのような話をする人たちは皆「悪い 側」である。基本的に「自由主義者」が否定する根拠は経験的と言うよりも先 験的である。   彼らはそもそも日本という国家が大規模に「従軍慰安婦」の連行のような 犯罪をおかす道理がないと考えるので、そうした主張は憎むべき捏造であると 固く信じているのである。   したがって、教科書がこのような内容を扱うのは「反日」行為であり、 「自虐的」な行為であり、日本を腐らせ、挫折させ、溶解させ、解体させるに 等しいというのである。   さらに「慰安婦」という間違った歴史を教える学校は、巨大な上九一色村 (オウム真理教本部)、すなわち全国民を反日的イデオロギーに汚染させるマ インドコントロールセンターになってしまうというものである。   藤岡にとって「慰安婦」問題は、「日本を侮辱する政治目的で1990年 代に作り出された根拠のないスキャンダル」である。それは「外国勢力と結託 し日本を破壊する巨大な陰謀」である。このようなウソが教科書に載せられれ ば、日本はたとえようのないほど淫乱で愚かで狂的な民族にみえてしまう」と いうのである。   従軍「慰安婦」という複雑な問題を語るとき、「自由主義史観」学派は戦 争史研究でよく知られている歴史学者、秦郁彦の作業に大部分依存する。秦と 藤岡は「慰安婦」は本来公娼であり、日本帝国軍隊の将軍より収入が多く、客 である一般兵士の100倍に達する収入を稼いだと捏造した。   秦によれば、「慰安婦」の仕事は「危険負担が多いかわり、対価がよかっ た」というのである。さらに補償請求訴訟を起こした女性たちは、この機会を 「宝くじ当選」の機会のようにとらえ、お金ほしさに訴訟を起こしたというの である。   秦と藤岡は、強制連行や公的な責任の所在を立証する文書がないと主張し ている。さらに彼らはこの女性たちの証言は宣誓したうえでなされたものでな いと一蹴し、はなはだしくは偽証法に抵触するとまで言っている。   彼らは、私的な契約書により運営された「慰安所」と日本帝国軍隊の関係 をこんな比喩を持ち出して説いた。「慰安所」は文部省内の食堂にたとえられ る。建物を使用しているから賃貸料・衛生管理などは建物に定められた規則に 従わなければならないが、その運用や職員管理は根本的に独立したものだとい うのである。   このような場合、文部省はその建物の食堂で起きる労働関係やサービスに 何等の責任がないのと同様、日本軍隊は買売春が合法的で現在とは価値基準が 違っていた時代の、過去のセックス産業に対し責任をとる理由がないというの である。   また秦は財政的に配慮した論拠も展開する。もし慰安婦補償責任を公式に 認定し彼女たちの要求をいれたら、日本の国家財政が困難になるというのであ る。たとえば、強姦行為一件あたり300万円の補償金とすると、数年間に起 きた強姦行為の件数を全部考慮に入れ、女性一人あたり700億円も支払うこ とになる。すると、全体補償額は日本の国債に匹敵することになると彼は見積 もった。   彼の主張の根拠がこのように原則や真実から離れ、財政的考慮と実利の問 題に変わっていくのはまったくおかしなことであるが、このような言葉のすり 替えは、道徳の基盤が薄弱な談論によく見られることである。   慰安婦女性たちに対し、彼らが提起する抗議の底流には、日本という国家 をどのように規定するかという問題が控えている。藤岡と彼の同僚、西尾幹二 は次のような主張を繰り広げている。   日本を、似たような犯罪や乱行をおかした他の近代国家と比較し得るかも しれないが、日本はナチドイツとは根本的に違うというのである。西尾の冗長 な抗弁によれば、日本の神権政治国家体制下で天皇は大司祭として「若干、高 圧的な愛国戦争」を遂行したかもしれないが、ナチドイツのような「歴史的に 例がないテロ国家」の範疇に入るような反人道的犯罪はおかさなかったという のである。あわせて藤岡は、日本はテロリスト国家でも「大変な性犯罪国家」 でもないとつけ加えた。   たしかに人種虐殺計画自体はナチドイツにだけあったが、問題はアジア戦 争の死傷者数と破壊範囲は、ヨーロッパ戦線での被害に匹敵するか、あるいは それ以上であったという点にある。   犯罪行為もまた大変なものであった。慰安婦の場合が特にひどかったが、 他にも(731部隊の記録が衝撃的に明らかにしているように)日本の医療お よび科学エリート層がおかした犯罪や人種イデオロギーと、「優生学」におけ るナチとの類似性において、そしてもっと広くは戦時の「強制労働」(徴用) など恐るべきものがあったのである。(途中省略) 3.人と運動   ところで藤岡とは一体、どんな人物なのか? そして彼がくり広げた運動 と、その運動の系譜はどのような脈絡を持っているのか? 1943年に生ま れた藤岡は、戦争が敗北にさしかかるちょうどそのころ「勝利確信」という意 味で「信勝」と名付けられた。   彼の述懐するところによると、若いころ彼は左翼集団の主張「一国平和主 義」を信奉し北海道大学で研究していた。そこで教育方法論を専攻する学者と してある程度の評判をえた。   1980年代初期、彼は東京大学に移ったが、のちにラットガース大学 (Rutgers University、米国ニュージャージー所在、原訳者注)で一年間、文 化人類学を研究して帰ってくるまではほとんど無名の人物であった。   その一年間、彼は「転向」と呼びうるような一種の危機を経験した。湾岸 戦に対する日本の対応に羞恥心を感じていた彼は、マイケル・ワルザーの『正 当な戦争と不当な戦争』とか、リチャード・マイニアの『勝者の正義』のよう な本を読んで深い感銘を受けた。特にマイニアを読んで「眼からウロコが落ち た」と彼は述懐している。   彼の目には、日本は「国家としての安寧を保持しようとする意志」が不足 しているとうつる。また彼は「大東亜戦争」を「正当な戦争」に見るようにな った。戦後日本の平和憲法を、日本を束縛するくびきであると同時に、日本固 有の民族主義的感覚の出現を妨げる障害物と見るようになった。   彼の叙述は知的なものもあるが、かなり情緒的(または宗教的)なもので あり、論理的な一貫性がまったくない。折衷主義がその特色である。   彼に影響を与えた日本人の中で、彼が最も重点をおく人物は、石橋湛山 (1884-1973,新聞編集人・政治家で、第1・2大戦間に有名な自由主義者であ った)、司馬遼太郎(1923-1995,有名な戦後小説家で主に歴史的主題を扱う) である。   しかし、藤岡は次のような事実をわかっていない。石橋は文字どおり「自 由主義」に立脚して、1920年代に日本を辛辣に批判し、日本が植民侵奪を 中止し、「小日本主義」を維持することを強力に主張した人物である。   また、明治時代をいきいきと劇画化した司馬を藤岡は熱烈に称賛するが、 司馬は作品『丘の上の雲』において、露日戦争の英雄で偉大な民族主義者の乃 木将軍を冷徹かつ辛辣に描いたのみならず、帝国主義国家・日本に同調する考 えをまったく持っていないのである。それどころか、1930年代の中日戦争 を「不当で意味のない戦争」「侵略戦争」または石油と資源を獲得しようとし た植民戦争と呼んでいる。   藤岡がいう、左・右翼を超えるという詭策は、歴史上しばしばみかける手 法である。彼も自分の変貌の理由は、左右対立の歴史的膠着状態を超えること にあったとしている。   実際のところ彼は、第二次大戦以前に日本がしかけた戦争を無批判に肯定 している。そこで彼のいう「自由主義」というレッテルを取ってしまえば、彼 の史観を伝統的な右翼史観と区別するのはほとんど不可能である。   理論的に一貫性が見られない彼の見解は、新しい自由主義歴史観ではなく 古い皇国史観である。のみならず転向者の例にもれず、藤岡は右翼に再び生ま れ変わったのちも、「左翼」時代の構造中心的思考と「宣伝煽動」(アジプ ロ)スタイルを固守している。   一時、構造を優先視するあまり日本共産党の公式路線に依存したが、その ような彼の性向は改宗以後も依然として残っているだけでなく、同じように独 断的で独善的な「正当性」を構成する新しい原動力になっている。   新しい「自由主義」の「知的」基盤がこのように藤岡と西尾などにより構 築される間に、これに歩調を合わせるかのように各地のキャンペーンも進行し ている。この運動の特徴は、戦前戦後の右翼集団および国粋主義集団がよく用 いた威嚇と暴力にある。   その中には「自由主義的」な要素などまったく存在しない。教科書出版業 者に対し、いろいろ脅迫的な要求を浴びせた。右翼前衛隊を乗せたトラックが 軍歌を鳴らしながら威嚇的なスローガンを叫び、彼らの気に入らない出版社を 取り巻いた。   「反日本的」教科書の著者と出版社の名前が「自由主義史観」の本とパン フレットに特筆大書され、教科書の執筆者が住む住宅の拡大写真が散布される などの威嚇がなされた。   1960年、社会党党首浅沼稲次郎を暗殺した極右過激分子を愛国志士と して称賛する冊子などが出版社に配達される一方、1987年に朝日新聞社を 襲撃した赤報隊(この事件で数名死亡)のようなファシスト暴力組織が藤岡を 支持した。一連の威嚇事件で、これといって目新しいことは何一つない。   藤岡と彼の同僚がマスコミに向かって警告と抗議を浴びせたり、文部省に 直接政治的圧力をかけたが、彼らのキャンペーンは明らかに失敗した。地方自 治体を巻き込み、東京(霞ヶ関)に教科書改訂要求を出そうと全力をつくした が、たった一県(岡山)と小さい地方公共団体11カ所が決議文を東京に提出 したのみで、残りは決議文を簡単に保留した。   そのうえ、岡山県でのやり方は県の住民たち、とくに女性にとって驚きで あり衝撃であったため、すぐ他の地方でこのキャンペーンを阻止する全国的運 動がすぐ展開された。(途中省略、つづく)             --------------------   「従軍慰安婦」など、教科書記述の削除や変更などを求める地方議会の動 きですが、マコーマック教授が書かれた文章はすこし古いので、その後のデー ターを下に補足します(注)。   下表を見てわかるとおり、「従軍慰安婦」などの記述削除はどっこい藤岡 教授たちの思惑どおりに進んでいないようです。これはいうまでもなく、市民 運動などの反対が強硬なためですが、そのため請願方法も微妙に変化しつつあ ります。その動きを、下記の資料をまとめた出版労連の俵氏はこう伝えていま す。  「最近の地方議会における右派勢力の動向の特徴は、「従軍慰安婦」などの 記述削除を求める請願(陳情)が簡単には採択されない状況を考え、削除要求 請願(陳情)をいったん取り下げた上で、自民党が意見書(案)を提出するや り方である。   その際、記述削除を引っ込め、検定を適正にせよ、など教科書検定の強化 を求める内容にしている。長崎県・新潟県議会の例がその典型であるが、これ には、社民党までが賛成する事態になっている」(注) ○地方議会の動き 1.都道府県議会(27)、下記以外に新提出が7都道府県   削除に否定的な結果(11) ○取り下げ・・・・・・・(6)青森、栃木、神奈川、石川、大阪、熊本 ○議場配布のみ・・・・・(1)福井 ○廃案・保留・・・・・・(2)東京、京都 ○審査せず・・・・・・・(2)愛媛、福岡   削除に肯定的な結果(7) X趣旨採択・・・・・・・(2)岡山、鹿児島 X意見書採択・・・・・・(5)茨城、千葉、新潟、香川、長崎   継続審査(9) 秋田、山形、福島、山梨、兵庫、鳥取、徳島、大分、沖縄 2.市区町村議会(330)、下記以外に新提出が23市区町村   削除に否定的な結果(230) ○取り下げ、撤回、不提出・・・・・・・・・・・・(10) ○否決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2) ○不採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(55) ○却下、不了承・・・・・・・・・・・・・・・・・・(4) ○審議未了、審議打ち切り・・・・・・・・・・・・(19) ○議場配布のみ、議長預かり、審査せず、  取り上げず、取り下げ、受理せず、廃案・・・・(140)   削除に肯定的な結果(38) X意見書採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・(29) X陳情の採択(意見書は提出せず)・・・・・・・・・(4) X趣旨採択・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)   その他(62) 継続審査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(57) 委員会付託・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(3) 扱い決まらず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2) (注)俵義文「日本軍”慰安婦”と教科書」   『第3回「日本の法は」セミナー報告レジュメ』97.11.15   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


"IANHU"(87) |- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/03/22 - |06071/06071 PFG00017 半月城 「自由主義史観」批判(2),「従軍慰安婦」87 |( 7) 98/03/22 18:10   オーストラリアでも「自由主義史観」に対する批判が存在するという事実 は、この会議室のメンバーに相当な衝撃を与えたようです。「自由主義史観」 シンパの多いここの会議室の性格からすると、それは当然かもしれません。   その反響の大きさから察するに、マコーマック教授の評論はかなりの影響 力がありそうです。別な方面からもさまざまな反応が私の所へ寄せられました。 感謝のメールや、評論をさるミニコミ・ニュースに載せたいという申し出や、 あるいは知日派の同教授に関するコメントなどが寄せられました。   オーストラリアといえば、最近、脱欧入亜をめざし日本などアジアへ視点 が向き始めたという報道がなされてきました。そうした一方、日本の戦後処理 問題について前回紹介したような主張が同国の学問の中心であるオーストラリ ア国立大学から出されたという事実は意表をつくもので、「自由主義史観」シ ンパならずとも驚くのは無理からぬことではないかと思います。   これを別な観点からすると、日本国内の「従軍慰安婦」問題をめぐる客観 情勢は、オーストラリアのような日本の友好国でも、時にはうさんくさい目で 見られているということを示しているのではないかと思います。   さて、前置きはこれくらいにして、前回の続きを紹介したいと思います。 なお、前回分に対し相当数のコメントが寄せられましたが、批判は体系的にお 願いします。「批判」について、今回の評論に紹介された中村教授は文末に記 したように解説していますが、その趣旨に添うような批判をお待ちします(注 2)。             ------------------------ "The Japanese Movement to 'Correct' History" Gavan McMormack (承前) 4.理解と解釈をめざして   過去数年間、藤岡が主導し起こした運動は戦後日本の民族主義構造に深く 根ざしている。その上、脱冷戦期の変化した状況に合わせ、かつ日本があらゆ る面で超大国になるという野心をベースに世界的経済超大国に浮上した状況に 合わせて修正され改定された運動であるといえる。   湾岸戦が進行する間、アメリカで藤岡が個人的に悟ったことや、国際社会 で日本が自国のイメージと国力をありのまま発揮できないと考えて彼がやるせ ない羞恥を感じたことなどは、かの世代がみな共通に経験することである。   その世代は歴史に無知であり関心もない。彼らにしてみれば、日本国の犯 罪やその暗い歴史がどんどん追求される一方、(「せっせと稼いだ」日本円を 背恩忘徳の世界各国に分け与えながら)政府代弁人がここ数年、こっけいにも 「謝罪外交」を推進する日本の状況が屈辱的に感じられる世代である。   また彼らは、日本がアメリカの勢力圏に(そして傘の下に)入り、ずっと 低姿勢を維持するほかないありさまに、また同時にアメリカがことさら面倒を 見るふりしながら日本を攻撃するような同国の措置に怒りをおぼえる、そんな 世代である。   誇らしく汚辱のない栄光の歴史を創造しようとする彼らの叫びは、強烈な 情緒的反響を呼び起こすようである。彼らの願望は、彼らのある種の「被害者 意識」に見ることができる。藤岡の運動は、このような被害者意識をうまく活 用したため、本当の犠牲者が実際に名乗り出ると、彼らは一層憤慨するように なった。   戦前に日本が占領したあらゆる地域で、老女たちが立ち上がり日本政府を 告発したことが、彼らにはもっとも我慢がならないのである。そうした女性た ちの主張が一般にかなり真剣に受けとめられたのに加えて、彼女たちが日本政 府を過度に侮辱するものと彼らの目には映ったため、彼女たちの話だけでも日 本の生存自体がおびやかされると考え(先に指摘したように)「日本を破壊し ようとする巨大な陰謀」を感じたのである。   このような居直り強盗の開き直りにしたがえば、犠牲者である女性は逆に 加害者になり、日本の名誉と徳を暴力的かつ威嚇的に害する仕掛け人になって しまう。   彼らとヨーロッパ修正主義者との類似点は明らかである。「慰安婦」や南 京大虐殺を神話にしてしまうことは、ユダヤ人集団虐殺を否定することに等し く、双方とも犠牲者が加害者に様変わりしてしまうのである。   一例として、1980年にフランスの文学者ロベール・フォリソンが述べ た言葉をとりあげよう。「ヒットラーがガス室を使用しユダヤ人を虐殺したと 主張するのは、明らかに歴史的偽りである。この偽りで得をするのは主にイス ラエルと世界中のシオニストであり、その犠牲者はドイツ国民である」   この発言の文脈で仮にヨーロッパを東アジアに変えると、犠牲者の入れ替 えなどがそのまま通用するのである。   繁栄を謳歌する金持ちの国・日本の一隅に根をおろした難問は、このよう に強烈な恨みの感情、「被害者意識」、汚辱の払拭と純粋および癒しへの渇望、 そして誰もが「誇りをもてる歴史」を、<それがあたかも歴史の役割>である かのように構成しようとする意志や動きである。   こうした一連の議論では汚辱が執拗なテーマになる。彼らには真実の否定 よりも自国の恥部をさらすほうが、歴史が一層汚染されるかのように認識され る。そのためこの集団は、一世代にわたる歴史家たちの研究結果などをいとも 簡単に無視する。   そうした研究結果を読みもせず、時には(テレビ番組で)歴史学者・吉見 義明のように慰安婦に関し集中的に研究をすることを、倒錯症患者ではないか とあからさまに決めつけたのである(西尾幹二教授を指す、半月城注)。   日本の批評家や知識人は、こうした風潮が提起する問題にかなり深刻に向 き合っている。歴史学者の中村政則は藤岡現象をナショナリズムとインターナ ショナリズム、国粋主義と西欧化のサイクルで揺れ動いた近代史という脈絡で とらえている。   中村は戦後50年の今日、日本に対する新しく肯定的な欲求が若い層、こ とに戦争の歴史を知らずテレビやマンガにつかり、独自の考えを持たず成長し た若い世代で頂点に達していると見ているのである。   佐藤学(藤岡と同じく東京大学教育学教授)がみるところ、藤岡と彼の仲 間は「ポスト・バブル、ポスト・オウム真理教」の現象、「逸脱した自己中心 的民族主義」を代表しているが、これは(すくなくとも今までは)すぐさま外 に表れず、内部に突入するという点で奇妙に歪曲された民族主義であるとして いる(注1)。   政治学者・石田雄はこの現象を、日本の知識人とくに(自身が定年退職す るまで身を置いた)東京大学の知識人たちが一般的に当面した危機をかいまみ せてくれた証拠であると感じている。   彼は「自由主義」史観という発想を一方では擁護する。しかし石田のいう 自由主義史観とは、実践的には日本の戦後世界観が単に米日関係というレンズ を通してのみ解釈されるのを克服する運動であり、多様なアジア的主体と「在 日」主体をもとに、特に社会的弱者や犠牲者など、退廃的な公式講壇では無視 してきた人たちの立場にたち、見て考えて感じる法を習うことである。   石田の自由主義は、「正しい」歴史観を発掘し注入しようという藤岡の主 張に正面からぶつかることになる。石田が行った批判は、在日朝鮮人批評家で ある徐京植も提起する。徐は、藤岡の大義が受容されるのに比例して、自身が 属する在日同胞社会のような日本の少数民族のための空間が狭くなると指摘す る。   藤岡現象を見て、多くの知識人が感じる懸念と驚きを國弘正男はこう表現 する。いま自分自身「日本的ファシズムの到来」を目撃しているという実感を 振りはらうことはできない。 5.結論   藤岡は、「東京戦犯裁判史観」はアメリカが日本を占領したとき日本に強 要したものであり、また日本が度重なる侮辱をうけるようになった根源である としたが、それはきわめてあやふやな評価である。   東京裁判について日本の左翼もこれまで右翼に劣らず批判してきた。左翼 は、裁判は歪曲されていると主張してきた。まず、罪が敗者にだけあるかのよ うに規定することからしてそうであるが、--これは日本以外ではすでに久し く受け入れられてきた批判であるが--それ以外にも政治的理由でいくつかの 核心的な問題、たとえば天皇であるとか、731部隊などを調査対象から削除 した決定が裁判を歪曲したというのである。   半世紀を過ぎた現時点で東京戦犯裁判問題に光を当てれば、この問題は一 層明白になろう。その場合、この論理は文字通り真正な「自由主義者」には歓 迎されるだろうが、藤岡と彼の仲間にはどうにも手に負えない方向に進むこと になろう。   究極的に戦犯裁判の問題は、責任がどこにあるかという点にとどまらず、 過去の米日合意という陰謀の際に、誰が責任を隠蔽し回避したかということも 対象になる。   さて、次第にボーダレスになりつつある世の中で、世界的に国家意識がな くなったとか、国家内の勢力バランスを今までのやり方では統制することがで きなくなったと嘆く傾向があるが、藤岡たちの異色ぶりはこの問題に対するけ た外れの情熱にある。   日本は国連安全保障理事会の常任理事国になるべきであるとみずから声高 に主張するほどの世界的経済大国になり、20世紀成功神話の主役になった現 在、藤岡らがみずからを脆弱であると懸念するのは理解しがたい。そもそも彼 らが懸念するのは一体何であるのか?   あえて例えてみれば、それは自分たちのありようを、世界的にパワーの被 害者になりつつあると捉える産業社会の都市大衆が持っている「ルサンチマン (怨恨)の政治学」に近いものであるが、日本の場合、経済的要因の役割は非 常に小さいようにみえる。それよりも藤岡を動かすものは、国家権威が縮小の 方向に向かい、その権威と象徴が凋落して解体するかもしれないという懸念で ある。   ここで次のような解釈も可能である。藤岡がとりわけ熱心に日本の民族主 義を叫ぶのは、自民党の核心派閥のような政治勢力がすでに立場を変えてしま った状況で、自分たちは萎縮し孤独な少数に転落したと考える人たちの絶望感 のためであるともいえる。   われわれがここで深刻に考えなければならないのは、むしろその立場の変 化のほうであり、変化が引き起こした熱狂的な反対ではない。もちろん、この 熱狂的な反対も、時には知的一貫性の欠如と情緒的な力が融合して相当な効果 を生みだすので見過ごしにはできない。   藤岡と彼の仲間は、長い歴史や記憶に基因する日本と隣国との距離は狭め ることはできないと主張する。中国や韓国などの反日感情はあまりにも深いの で「私たちがアジアの隣国とお互い理解しうる歴史観を確立しようとすれば、 結局、私たちがひざまづくことになる」というのである。   藤岡のことばを直接聞いてみよう。彼は「私たちは日本人であるから、何 よりも日本および日本の国益の観点で考えるのは当然である」と述べている。 ここで否定できないのは、日本の歴史を肯定的に見ようという藤岡の計画と、 彼が日本政府に求める政策が万一採択されたりしたら、日本とアジア国家間の 親善関係はとうてい話にならないほど後戻りしてしまうという事実である。   日本がアジア諸国に対し、偏狭な国家の自尊心や自国の正当性なるものを 全面におしだして発言すれば、またあたかも戦前の教科書のように歴史教育の かわりに、伝統的な徳目や民族主義を高揚させるためひねり出した教訓的なお 話を選び注入するような教科書を採択すれば、日本は隣国と衝突し、その国の 歴史は(日本の帝国主義的侵略と戦争の記憶を記述するかぎり)間違いである と非難するしか道はないのである。   しかし、日本の民族主義感情の20世紀末式発露は、日本民族主義の核心 的な二つの要素を見落としている。一つは天皇であり、もう一つはアメリカで ある。この二つは民族問題の表裏の関係にある。   日本ではこの二点について虚心坦懐に討論することがタブー視されてきた。 民族的な誇り、栄誉、汚辱の払拭が独特に織りなされた日本特有の現象は根本 的に日本の総体を日本的自我の精髄--汚染されない崇厳な帝国的本質--を 基盤に構築されてきた歴史的な自己表現方式に基因する。   日本が侵略国であるとか「強姦の国」などと表現され、この本質が汚され るというのは彼らにとってまさに許されざることである。   肯定的で純粋な日本を築こうとする彼らの新しい試みが、これから天皇問 題をどのように扱うのか興味深いところである。   日本の民族主義者たちが抱えるもう一つの問題は、彼らもおいそれと言い 出せず、抑えるかあるいは精々のところ茶化して表現するのが関の山であるが、 それは日本が軍事的にであれ戦略的にであれ、アメリカに引き続き依存してい るという事実に対する怨望である。   彼らはこれまでのところ、歴史論議を新局面に引き込んで、そこで日本を 究極的に善と見るようながむしゃらな見解を披露し、それに新しく威厳まで付 加したが、今後この波及効果は予測できない形で表れそうである。  現在のところ、藤岡の歪曲された偏狭な民族主義的スローガンに支持を与え ている民族主義諸団体は、遅かれ早かれこの核心問題に内在するアンバランス に出くわすことになろう。そうした時、われわれは日本の右翼民族主義者をこ の最新の衣で覆っているその薄っぺらなうわべの下に、何が隠されているのか 知ることになる。   結局のところ心配なのは「自由主義的歴史記述」集団が標榜する自由主義 にあるのではなく、彼らの実際的な反自由主義にある。元来、自由主義は明ら かに独断主義や伝統主義、とくに国家の名において乱舞するあらゆる伝統や立 場より優れており問題ではない。   冷戦体制以後の日本が、自国民からは衷情を、世界各国からは尊敬を受け られるような核心的要素を中心に、過去、現在、未来を有意義に統合しうる日 本を構築する強烈な熱望を、こんなやり方で表現するとしても、それは必ずし も心配するに及ばない。そうした願望自体、普遍的なものであるからである。   真に不安なのは、自由主義とか合理主義とかの用語が、反自由主義的かつ 反合理主義的な思考方式を仮装するために乱用されているという点である。さ らに、不安にも1930年代の暴力と不寛容を浮上させた政治手法、つまり自 分たちが反対するものは何であれ「反国家的」とか「自虐的」とレッテルを貼 り、半世紀前に軍国主義の凄惨な犠牲者であった女性たちを再び犠牲者にして しまおうとする政治手法が、20世紀後半の日本でかくも広範囲に支持を得ら れるという事実である。(完)           ----------------------- (注1)佐藤学氏のオリジナルな発言は下記のとおりです。   僕は、この(「自由主義史観」などの)現象を解くキーワードは「ポスト バブル」と「ポスト・オウム」だと思っています。「ポスト・バブル」を覆っ ているのは、日本人を煽り立てていた経済的な威信が崩れた危機感です。「ポ スト・オウム」というのは、『脳内革命』もそうですが、頭の中を組み換えて しまえばすべてがくつがえるという気分の蔓延です。  「自由主義史観」がやっている操作は、歴史の書き換えよりも史観の転換で、 頭の中の史観さえ転換すれば侵略の事実もぶっ飛んでしまう。そこには内部が あって外部がない。内部に突入することによってエキセントリックでエゴセン トリックスなナショナリズムが露呈しています。 (以下省略、佐藤学他「対話の回路を閉ざした歴史観をどう克服するか?」    『世界』97年5月号) (注2)中村教授の「批判」提言 (前半省略)   ふつう批判にはイデオロギー批判、内在的批判、体系には体系を対置する 方法の三通りがあるが、一番レベルの低い批判は「自虐史観」だの「謝罪史 観」などというレッテル貼りのイデオロギー批判である。いうまでもなく、最 高の批判の形態は「体系には体系を」である。   その意味で、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が一日も早く完成 することを願っている。私自身も昨年12月、ある近現代史フォーラムで「自 由主義史観研究会」の人々が信奉している司馬遼太郎史観の再検討を始めた。 その内容はいずれ公刊したいと考えている。   もう、扇動的で低次元の批判の時期はとっくに過ぎている。われわれ歴史 学者も教育学者も現場の教師たちも「昭和史」論争やドイツ歴史家論争のよう な、「体系には体系を」のレベルの高次の論争を繰り広げるべきである。  (中村政則『「日本回帰」四度目の波』毎日新聞 97.2.4)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信) 追伸 1.翻訳に関して一言つけ加えます。韓国語の論文では、中村教授などの発言 は日本語から英語、英語から韓国語へと重訳になるせいか、すこし意味が通じ にくくなっています。そのため論文中の日本語による発言に関しては、発言者 本人のオリジナルな日本文を尊重し翻訳を行いました。そのため、私の訳文は 韓国文とは微妙に異なるところがありますのでご了承ください。   ただし石田雄氏の原文は入手できませんでしたので、私の訳文は同氏の主 張と多少ニュアンスが違っているかもしれません。同氏の主張は、『月刊オル タ』97年3月、P15ー19(異質な他者の視点を踏まえて歴史を見る)か ら引用されたようです。この文を入手された方がおられましたら、コメントを お願いします。 2.SO@LASさんから、韓国誌「創作と批評」に関する私の紹介文につい て疑問がだされました。その疑問は当を得たものですので、該当する部分を下 記のように変更し、ホームページ「半月城通信」に収録します。  <雑誌『創作と批評』の性格ですが、この本はソウルの金浦空港でも販売さ  れているくらいポピュラーですが、内容はクォリティーの高い季刊誌です>                              以上


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