関東大震災と朝鮮人虐殺、RE:[zainichi:05158]
文書名:[zainichi:05195] RE:KANTOU DAI SHINSAI
Date: Sun Mar 8 21:27:51 1998
恵子さんへの回答からすこしはずれるかもしれませんが、関東大震災時に
あったエピソードを、くだんの藤岡信勝教授が取り上げ、美談仕立てにしてふ
れまわっているようなので、そのてんまつを紹介します。
発端は、作家の朴慶南さんが紹介した、ある警察署長の話でした。彼女の
祖父は虐殺当時、かろうじて逃げのび危うく難を逃れました。そうした経緯か
ら、朴さんは虐殺の話になると胸が締め付けられるそうですが、それくらい虐
殺には特別な関心を持ち資料を調べ、ある警察署長のエピソードを文章にした
ためました。
それが意外にも藤岡氏により、著者の意図とはほど遠い形で『教科書が教
えない歴史』に引用されたそうで、朴さんは憤慨しています。まずはその弁か
ら紹介します。
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朴慶南の眼(『週刊金曜日』97.9.5)
(前半省略)
デマに踊らされた人々の狂気が吹き荒れる中、朝鮮人を保護し、敢然と守
り抜いた警察署長がいた。その人、大川常吉さんを拙著で紹介した。
まず、何よりも実際にあった虐殺の事実をきちんと知ってほしい、その上
に立って、大川さんの行動から、未来へ繋がる教訓を読者に汲み取ってほしい
という思いを込めて書いた。
反響はありがたいものであったが、スタンスが違うと、私の意図からかけ
離れたものになることも思い知らされた。大川さんの美談だけが本文中からそ
っくり抜かれ、『教科書が教えない歴史』に載せられた。
「こんな人がいた」記述だけでは甚だしくバランスを欠く。個人の存在が歴
史の免罪符には決してならない。被害を受けた側から見れば、そういう「奢
り」は耐えがたいものだ。
ここで披露したい逸話が一つある。拙著を読んだ韓国はソウルの病院長か
ら講演の依頼を受けた。ぜひ、大川さんの親族も一緒に招待したいとのことだ
った。韓国人の一人として大川さんの子孫に恩返しをしたいという申し出に、
大川さんの孫にあたる男性を伴った。
病院の大勢の職員を前にして、その大川豊さんが挨拶する機会があった。
「私の祖父のしたことで、こんなに歓待していただきお礼の言葉もございませ
ん。でも祖父がやったことは、実はごく当たり前のことだと思います。
そんな当たり前のことをここまで感謝されるということは、裏返して言え
ば、いかに日本人が当時の韓国人(朝鮮人)にひどいことをしていたかという
ことです。
日本人の一人として私がみなさんに申し上げたいことは、この言葉しかあ
りません。ミアナムニダ(ごめんなさい)」
深々と一礼した豊さんに、拍手が続いた。この視点(姿勢)と感受性こそ、
今いち番必要とされるものではなかろうか。
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藤岡氏はさすがにディベートの専門家だけあって、素材を都合のいいよう
に加工するのが上手なようです。しかし、そこから生まれるものは所詮、薄っ
ぺらなものでしかないようです。こうした批判を、一橋大学の中村教授はこう
書いています。
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○関東大震災の朝鮮人虐殺から何を学ぶか
(中村政則『近現代史をどう見るか』岩波ブックレット427)
藤岡信勝・自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』1,2には、た
しかに大正期を扱った文章が載っているがエピソード主義で歴史の体系的把握
にはほど遠いものばかりである。こういう文章をいくら積み上げても、歴史の
書き換えにはほとんど寄与するところはない。
一つだけ例を挙げれば、『教科書が教えない歴史』1では、関東大震災の
ときに横浜・鶴見の警察署長が朝鮮人を救うという美談が書かれている。なる
ほど心温まる美談ではあるが、これではたんなる一過性の「感動」しか残らな
い。
彼らは「歴史教育の目的は自国の歴史に誇りをもたせることにある」と考
えているから、なるべく「明るい話」を羅列しようとするのだが、ここではこ
れまでの膨大な研究成果がまったく無視されている(たとえば、・・・<文献
リストを(注)に移動>・・など)。
その結果、どのような歴史認識が育つというのであろうか。むしろ、これ
では当時の日本人の自己認識(朝鮮・中国人に対する蔑視意識の精神構造)を
曖昧にさせるだでである。
最近、松尾章一らは四年の歳月を費やして膨大な資料集『関東大震災、政
府陸海軍関係史料』全三巻を公刊し、これまで不明であった軍による朝鮮人虐
殺の事実を突きとめた。「震災後警備の為、兵器を使用せる事件調査票」(第
2巻)と題する資料がそれで、この調査票には殺害20件、犠牲者281人
(在日朝鮮人254人、日本人27人)の殺害方法や実行部隊、場所・時刻な
どが詳細に記されている。
また、第1巻所収の『政府・戒厳令関係史料』は「戒厳令に関する研究」
などの新資料を含んでいて、これにより戒厳令がいつ誰によって準備され、天
皇の裁可をえたかが判明した(ちなみに、明治以来、戒厳令が出されたのは日
清・日露戦争のさいの戒厳宣告のほかは、日比谷焼き討ち事件、関東大震災、
2.26事件の3回のみ)。
戒厳令とは「戦時・事変に際し、立法・行政・司法の事務の全部または一
部を軍の機関に委ねること(『広辞苑』)をさすが、戦時でも内乱でもない関
東大震災のときに、なぜ政府は枢密院の諮詢をへることもなく慌てて戒厳令を
だしたのか。
松尾章一は戒厳令布告の直接の責任者のうち、赤池濃(あつし)警視総監
と内務大臣水野錬太郎の両名は、1919年の3.1抗日独立闘争の際、朝鮮
総督府の内務の最高官僚であった事実を指摘したうえで、死者7000名を超
えるといわれた3.1虐殺事件の仕返しを恐れて、急遽、戒厳令を出したので
はないかとしている。
さらに「朝鮮人が暴動をおこしている」「朝鮮人が井戸に毒をいれた」な
どのデマ、流言飛語が軍・警察や自警団による朝鮮人虐殺(6000人以上の
犠牲者が出た)を引き起こすもとになったのだが、このデマの出所についても、
松尾は赤池・後藤(文夫、当時、内務省警保局長)・水野ら内務官僚トリオで
はなかったかとした(同史料集解説および『図書新聞』1997年2月15日
号)。
関東大震災時における朝鮮人虐殺の教訓から学ぶためには、このように多
面的な角度から事実を探求しなければならないのであって、たった一つの「美
談」で歴史の真実(虐殺の事実)を帳消しにすることはできない。
二年前の阪神・淡路大震災の翌日、私はゼミの学生たちに「また暴動など
が起こらなければいいが」と話したが、事実はまったく逆で被災者たちは整然
と事態に対処した。それを見た韓国の新聞は「まるで別の民族のようだ」と書
いた。在日韓国人は銀行から金を借りて被災者の救援にあたったとも聞く。
72年前とは雲泥の差である。在日韓国・朝鮮人と日本人との交流は72
年前とは較べられないほどに「成熟」してきたのである。日本の新聞も「さわ
やかだ」と書いた。
関東大震災のときの事実を知っていればこそ、関西の被災者たちは無意識
のうちにも、二度とあのような悲惨な事件を起こしてはならないと思ったこと
であろう。
要するに、歴史の真実をきちんと知っていればこそ、あらたな感動が生ま
れるのだ。「美談」も結構だが、そのようなエピソードをいくら並べ立てても
薄っぺらな歴史認識しか育たない。歴史の真実を覆い隠すような「歴史教科
書」は、かえって日本国民の歴史認識をくもらせるだけなのである。
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軍による朝鮮人虐殺については、かって私もニフティ(FACTIVE,3-7,217)
に書いたことがあります。もしご希望があればこちらに転載します。また、こ
れは「半月城通信」でも読むことができます(<4.現代、23.関東大震災
と朝鮮人関係資料>)。
(注)
姜徳相・琴秉洞編『関東大震災と朝鮮人』
朴慶植等『関東大震災における朝鮮人虐殺の深層と実態』
松尾尊兌『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件』上下
関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査会『関東大震災と
朝鮮人虐殺』
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:在日同胞歴史資料館
[zainichi:05021]
Date: Sat Feb 14 22:02:28 1998
ここのメーリングリストに紹介されたように、朴慶植氏が交通事故で不慮
の死をとげました。同氏はロングセラー「朝鮮人強制連行」で、日帝時代の強
制連行の実態を初めて実証的に明らかにしただけでなく、慰霊碑の建設などに
も精力的にかかわってこられた方で、ご存じの方も多いと思います。
その朴氏がやり残した仕事のひとつに、歴史資料館の建設があります。こ
こに資料として、その設立呼びかけ趣意書を一部転載します。
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在日同胞歴史資料館設立の呼びかけ
1.在日同胞資料館設立の趣旨
解放後50年の歳月も過ぎました。在日同胞が歩いてきた解放前、解放後9
0年の歴史を振り返り、その歴史認識を深めなければならないことを痛感しま
す。正しい在日同胞に関する歴史認識を深め、それを今後在日同胞が生きてい
く心の糧とし、希望のもてる将来を展望していきたいと思います。
しかし現在、私達在日社会には、同胞の正しい歴史認識を啓発してくれる総
合的な施設がないばかりか、その歴史資料さえも十分に収集されていません。
そのため何より先ず、在日同胞に関する資料の収集事業が必要であると考えて
居ります。
日本への渡航事情、在日の生活状況、労働運動、民族運動、文化芸術運動な
ど全般にわたる資料を、8.15解放以前、以後にわたって収集し、体系的に
整理していかなければならないでしょう。
次にその収集した資料を保存する在日同胞歴史資料館の設立、そして在日同
胞史の編纂事業を行っていかなければならないと思います。
こうして私達は在日の若い世代に在日同胞歴史資料館、在日同胞史の編纂を
遺産として残していきたいと願っています。
幸いなことに、これまで在日同胞に関する資料を精力的に収集し、在日同胞
史の研究をやってこられた朴慶植氏のコレクションがあります。氏に要請して
その収集資料を提供していただき、それを中心とし、さらに有志方々の協力を
得て諸処に散在している資料、また現在進められている在日の諸運動に関する
資料をも収集することが出来るならば、より内容の充実した資料館が完成する
ものと確信します。
在日同胞資料館の設立ならびに、在日同胞史の編纂に興味を持たれる有志諸
賢の資料館設立会員並びに協賛金への応募に積極的な参加を切実に要望する次
第であります。
1.資料館設立場所 東京都または神奈川県内
1.設 立 基 金 設立会員による協賛金
1996年4月
(以下はタイトルのみ)
2.在日同胞資料館の必要性
3.資料館設立のための事業内容
(1)設立会員および設立基金の募集
(2)事業内容
4.資料館の施設内容
5.資料館の運営および運営
6.設立準備委員会
7.『統一日報』紙の記事紹介
在日同胞歴史資料館設立準備委員会
182 東京都調布市布田3-55-20
電話・FAX;0424-81-9989
委員長 金キ澤
事務局 金弘茂
委員 朴載日、崔碩義、権重達、申正九
安景植、朴哲民、金時文、朴慶植
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http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/02/21 -
05835/05835 PFG00017 半月城 虐殺の背景、南京虐殺60周年(8)
( 7) 98/02/21 22:56
これまでのシリーズでは、南京でどのようなことが行われたのかを重点的
にみてきましたが、今回はこの事件がなぜ起きたのか、その原因や背景に迫り
たいと思います。
このことは南京虐殺を単に過去の不幸な一事件であったという史実だけに
終わらせず、何が問題であったのか浮きぼりにすることにより、今後とるべき
方策を考えるべきであると思います。
前回書いたように、南京以前の「満州事変」などでは強姦略奪など、目に
あまるような日本軍の乱行はなかったようなので、南京虐殺の原因をさぐるに
は「満州事変」後の日本軍が、南京虐殺に至る5年間にどのように変質したの
かに焦点をあてる必要があると思います。
○現地軍の暴走
日本軍変貌の第一は「満州事変」を契機に、軍内に中央の統制にさからう
「下剋上」の雰囲気が生まれたことです。32年、関東軍の石原莞爾らは軍中
央の方針にそむき、中国東北地方で戦火を勝手に拡大しました。しかも、この
下剋上は罰せられるどころか、この暴走が成果をおさめるや逆に殊勲賞が与え
られ、彼らは中央の要職に栄転しました。
それとうらはらに、彼らを抑えて中央による統制維持に努めた人たちは逆
に中央の要職を追われるしまつでした。このような組織の秩序を無視した論功
行賞がその後の日本軍の気風を左右しました。すなわち、軍人は戦果を挙げ結
果さえ良ければ暴走はすべて許されるという統制軽視の風潮が軍にはびこりま
した。
その弊害について、「満州事変」当時、参謀本部作戦課長で関東軍の独走
に手を焼いた経験をもつ今村均は、その回顧録で次のように述べています(注
1)。
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満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想
に不良な感作を及ぼし、爾後(じご)大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたこ
とは争えない事実である。これとても、現地の人々がそうしたというよりは、
時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている。
板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものでは
ある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。
にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は満州事変は、成功裏に
収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは
不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄
転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人
のこらず中央から出してしまった。
これを眼の前に見た中央三官衙や各軍の幕僚たちは「上の者の統制などに
服することは、第二義のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにあ
る。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、
それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってか
わって統制者になり得るものだ」というような気分を感ぜしめられた。
又、上級責任者たる将官の中にも、幾らかは「若い者の据えたお膳はだま
って箸をつけるべきだ。下手に参謀の手綱をひかえようとすれば、たいていは
評判をわるくし、己の位置を失うことになる」と思うような人を生じさせ、軍
統率の本質上悪影響を及ぼした。
(今村均『私記・一軍人60年の哀歓』扶養書房、1971)
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このように下剋上が助長される軍隊であってみれば、出先の軍隊は功名心
から時には中央の意図に逆らい、きっかけさえあれば戦火をどんどん広げがち
です。こうように統制がきかず、軍紀の弛緩した軍隊はとかく暴走しがちで、
侵略戦争は止めどなく拡大してしまうものです。南京攻略もそのいい例でした。
それについて、現代史研究会の大杉一雄代表はこう記しています(注2)。
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南京への道
この間、上海攻略後の日本軍は中国軍退却のあとを追って、南京に向かっ
た戦線を拡大していったが、このとき軍中央は南京占領という明確な計画をも
っていたわけではなかった。むしろ作戦の実質的責任者多田駿参謀次長は石原
(莞爾)系の不拡大論者で、最後まで占領には反対であったのである。しかし
中支那方面軍最高司令官として赴任する松井石根大将は、見送りに来た杉山陸
相に対し、南京攻撃を訴えていたという(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞
社)。
ここでも現地軍が独走し、中央がそれを黙過し最終的には追認するという、
満州事変以来繰り返されてきた陸軍の典型的パターンの再現を防ぐことはでき
なかった。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の
企画、出先の意見によるものであったという。(回想応答録『現代史資料』)。
あの南京事件という大不祥事も、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛
緩というなかで起きたものといえよう。
なぜ日本軍はこのように統制のとれない集団になってしまったのであろう
か。柳川平助中将の指揮する第十軍が、11月5日、杭州湾に上陸したとき、
上海戦線の大勢はすでに決しており、中国軍は南京方面に敗走しつつあった。
したがって第十軍は目標をそちらに定め、それを追撃したいという心理に
なったのである。ここにやはり満州事変以来の「石原現象」を認めざるを得な
い。すなわち下剋上が是認されるような風潮のもとでは、第一線に出征した軍
人としては、中央の方針に従うよりは、とにかく行動して勲功を立てたいとい
う誘惑には勝てないのである。参謀本部もついに南京攻略を認めざるを得なく
なった。
また当時の雰囲気としては、政府は敵国首府の占領により戦意を喪失させ、
有利な条件で講和ができると考え、国民も単純な勝利感に酔うようになってい
たのである。
敵国の首府を攻撃するに際しては、単に軍事的な観点のみならず、政治的
な配慮も必要であり、いわゆる政戦略の一致が要求される。まして中国は面子
を重んじる国である。しかも第三国に調停を依頼しているときである。南京占
領と和平問題との連携は考えられて当然であった。しかしこのころ軍部は勝手
に戦線を拡大し、その報告を受けない近衛や文民閣僚はジリジリ、イライラし
ているだけであった。まさに国務・統帥の乖離という戦前の日本のもつ致命的
な欠陥に直面していたといえる。
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近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったというの
はなさけない話です。政治体制に致命的な構造的欠陥があったのは確かなよう
です。一方、現地軍隊は中央のあまい統制を軽視し、中央が指示した制令線な
どを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していきました。
そのような暴走に対し、これに懲罰を与えるどころか逆に追認した軍中央
は、その戦線を支えるために必然的に兵の大量動員を必要としました。そのた
め常備兵だけでは不足をきたし、予備兵や後備兵、さらには補充兵などを大量
にかり出すようになりました。
彼ら、特に後備兵はだいたい30歳代で、妻子を持ち一家の大黒柱である
場合が多いのですが、それが予期しないときに突然赤紙で召集されるものです
から、とても戦争に没頭できるものではありません。規律や戦闘意欲が十分で
はなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもありません
でした。
この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえありまし
た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう
所見を書いています(注4)。
「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士
官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が
誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、
掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から
第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」
(田中新一『田中新一』/ 支那事変記録、其の三)
高年次召集兵もさることながら、問題は小隊長や中隊長などの現役初級幹
部にもありました。このような陸軍現役将校の補充は基本的に陸軍士官学校卒
業生からなされましたが、軍縮や諸般の事情で士官学校学生を減員した影響が
このころになって出始め、これら将校が極端に不足しました。
そこでやむなく知識や経験の浅い予備役将校が急きょ当てられましたが、
統率力に欠けており、軍紀のたるみに拍車をかけたようでした。
しかし、たとえこのように高年兵と予備役将校とのコンビでも、戦争目的
が祖国防衛などといった誰もが納得するような大義名分なら、気を引き締めて
戦うのでしょうが、そのころの対中国戦は宣戦布告はおろか「戦争」の名前す
らつけられず、出先軍に引きずられた行き当たりばったりの泥沼戦でした。
そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻
(ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする
ものでした。「悪者の支那」をこらしめるため戦うという、たとえてみれば、
おとぎ話に出てくる「桃太郎の鬼退治」もどきの大義名分でした。
このような「支那鷹徴」論の背景には、軍拡大派を中心とする打算的な意
見や、それに引きずられた政府の存在を見落とすことはできません。
「近衛は結局、軍部拡大派の『戦いそのものは好まぬところだが、とにかく
国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易
について来ん、それだから戦いでも始まって--現実に戦いでもあれば国民もし
かたなくついて来る、それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか』とい
う思惑に沿って(注3)、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割
を演じたのである」(注4)
「国民も仕方なしについてくる」、そのために戦争を始める、このように理
念のひとかけらもない侵略戦争を仕掛けられたのでは、相手国はたまったもの
ではありません。こうした中国に対する傍若無人ぶりのうらには、軍事大国・
日本が「支那に一撃」を加えれば中国は簡単に折れるだろうという読みがあっ
たことはいうまでもありません。ここに日本の誤算がありました。中国人の抗
日意識や抗日戦線の強い抵抗をみくびっていました。
誤算はさらに続きました。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わ
るだろうとみていたようでした。そのあまい考えも手伝って、上海派遣軍と第
十軍は先陣争いをしながら南京に進撃しました。その際、兵站補給問題は二の
次で食糧の補給を軽視したため、必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に
繰り返し、それをきっかけに次第に道徳的に堕ちていきました。
しかし、政府や軍だけを責めるのは酷かもしれません。侵略戦争に積極的
に荷担した当時のマスコミなども検証が必要ではないかと思います。
○マスコミの対応
当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎えまし
た。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていました。
はやる歓喜! 大祝賀の催促!
神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて
早くも銀座に戦勝飾
(読売新聞、37.12.8)
踊出した提燈(ちょうちん)行列
昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)
”陥落公表”を待ち祝賀の大行進
畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ
(朝日新聞、37.12.11)
百万人の旗行列
(東京)府市が公電着次第催し種々
(読売新聞、37.12.12)
これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦
争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらないようです。それどころか報道は
過熱し、なかには「人殺し競争」をあおる新聞まで登場しました。毎日新聞の
前身で三大紙のひとつである東京日日新聞は、ある殺人ゲームをこう伝えまし
た。
百人斬り競争! (37.11.30)
両少尉早くも80人
”百人斬り”大接戦 (37.12.6)
勇壮!向井、野田両少尉
「勇壮な」向井、野田両少尉は、軍刀を前にして写真入りで大きく紹介され
ました。しかし、この記事はそれほどには注目されなかったのかもしれません。
その印象を作家の安岡章太郎氏は次のように記しています。(注5)
---------------------
昭和12年12月13日から、翌13年1月末まで、6週間のうちに日本
兵は中国人を15万5千人以上を殺し、5千人以上の女性に暴行をはたらいた
うえに、市民の財貨を掠奪し、街を焼き払ったということは、戦後になるまで、
日本人のほとんどが知らなかったことだ。
しかし、いまになって思うのだが、もしこれをあの当時、日本の新聞やラ
ジオでこのとおりに報道されていたとしても、果たして僕らはそれを信じる気
になったかどうか、僕には自身がない。
たしかに僕らは、南京虐殺事件というものについては知らされていなかっ
たし、細かい数字や何かは無論、全然知らなかった。しかし、15万5千人と
いうような数字を聞かされても、それだけでは何も驚かなかったのではないか。
すくなくとも、それだけの数の死体が街に転がっているということがどう
いうことなのか、自分の眼でそれを見てみるまで、何のことだか見当もつかな
かったに違いない。--要するに、チャンコロが死んでいる。ただそう思っただ
けだったかもしれないのだ。
だいいち僕自身は、その頃、日本人の将校が二人で中国人の「百人斬り競
争」をやったという新聞記事が出ていたことを、全然憶えていないのである。
百人斬り、”超記録”
向井、百六 -- 野田、百五
両少尉さらに延長戦
こういう記事が、昭和12年12月13日づけの東京日日新聞にでていた
というのだが、僕はそんなものをまったく見過ごしてしまっていた。僕の家で
は、新聞は朝日と日日とをとっていたが、日本の将校がシナ人の首をいくつ切
ろうが、そんなことには少しも興味が持てなかったからであろう。
この僕の無関心は当時の新聞に軍部の検閲が加えられていたということと
は直接関係のないことだ。
----------------------------
興味本位で殺人ゲームを礼賛した新聞記事が安岡氏の目を引かなかったの
は、当時、それくらい「チャンコロ」を殺すことに日本人は不感症になってし
まったためでしょうか。犬コロを殺す感覚で「チャンコロ」を殺し、それを新
聞や庶民がゲームのように楽しんでいたなんて、考えただけでも身の毛がよだ
ちます。
大昔、ローマの闘技場で奴隷同士に殺し合いをさせ、それを市民が観戦し
て楽しんだそうですが、そんな情景が連想されます。道徳的に堕ちていったの
は何も中国前線の兵士だけでなかったのかもしれません。
このような世相であってみれば、南京虐殺が起きたのは決して異常ではな
かったと思います。殺人や略奪強姦は起こるべくして起きたといえます。
○百人斬りのその後
ここで主題からすこしはずれますが、百人斬りの記事が出たついでに、こ
のゲームの真相にまつわるエピソードを紹介したいと思います。
百人斬りについて、「南京大虐殺のまぼろし」をとなえる鈴木明氏は「百
人斬り競争虚報説」を主張しましたが、そもそも百人斬りというのは戦闘中に
勇敢に敵を斬ったというより、ほとんど無抵抗の中国人を斬殺したもののよう
でした。
そのことは後日、当事者の野田少尉が帰国して、故郷の小学校で内幕を気
軽に語ったことからうかがい知ることができます。それを直接聞いた志々目彰
は月刊誌『中国』(71年12月号)で少尉の言葉をつぎのように紹介してい
ます。
「郷土出身の勇士とか、百人斬りの競争の勇士とか新聞に書いているのは私
のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかい
ない・・・
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はば
かだから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱし
から斬る・・・
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆ど
だ・・・
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何と
もない」(注6)
ほとんど無抵抗の人を百人以上も斬り殺して、「何ともない」というのは
強がりでしょうか。それとも本当に何ともないのでしょうか。もしそうだとし
たら、鉄面皮の人間に違いありません。
(注1)藤原彰「南京の日本軍」大月書店,1997
(注2)大杉一雄『日中15年戦争』中公新書,1996
(注3)「河辺虎四郎少将回想応答録」、『現代史資料12,日中戦争4』み
すず書房,1965
(注4)笠原十九司『南京事件』岩波新書,1997
(注5)安岡章太郎『僕の昭和史1』講談社、1984
(注6)本田勝一『本田勝一集、第23巻、南京大虐殺』朝日新聞社,1997
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/03/08 -
05976/05976 PFG00017 半月城 張作霖爆殺事件
( 7) 98/03/08 21:20 05866へのコメント
コメント、#5866ありがとうございます。
>この軍紀弛緩の遠因となった「上官の命令を聞かなくなった」現象は、貴方の
>指摘された満州事変より古く、1928 年 6 月に起こった河本大作大佐による張
>作霖爆殺事件と、その後の処理に現れて居ます。
張作霖爆殺事件を、高級参謀である河本大佐など関東軍の一部軍人による
暴走と見るか、あるいは関東軍全体の謀略であったと見るのか意見の分かれる
ところではないかと思います。
当時、事件の真相は軍の強い反対で公表されず、そのうえ河本大佐も予備
役になった後も固く口を閉ざしてしまったので、真相は長い間極秘のまま封印
されてしまいました。事件後、河本大佐の秘密を守る努力はたいへんなもので、
うわ言で真相を漏らすのを恐れ、盲腸の手術で麻酔すら拒んだほどでした。
そのため真相は不明ですが、これほどの大事件を大佐あたりが独断でやっ
たというのは前代未聞で、ちょっと考えにくいところです。このような受けと
め方は事件当時から強く、元老の西園寺などは事件の報をうけとると「どうも
怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元凶ぢやあるまいか」
と疑いをもっていました(注1)。
これをある程度裏づけるような証言を、河本大佐本人がしていたことが読
売新聞社により明らかにされました。最近、同社は河本大佐が中国に捕らえら
れたときの供述書(注2)を公表しましたが、NOVOさんはそれをお読みで
しょうか?
それによると、河本高級参謀は「(事件は)関東軍が全責任を負うべきで
あり、私には主たる責任がある」「だれを首謀者に仕立てるかで関東軍司令官
がひどく悩んでいたので、私が責任をかぶると自分から申し出た」と、爆殺は
関東軍の総意であることを中国当局者に供述しました。
もっとも河本大佐の証言は、自分の罪を軽くするために責任転嫁をしてい
る可能性もあり、本当にどこまで信用できるのかわかりません。また、大佐の
三女で日本国際政治学会会員の河本清子シスターもこの供述調書について、
「父が言っていることも、大体これまでに直接、間接的に聞いてきたことや断
片的に残されたものと違っていないように思われます」と語っておりますが
(注2)、これも割り引いて聞く必要があるかもしれません。しかし、私は関
東軍主導説は信憑性が高いのではないかと思います。
当時の状況をふりかえると、田中首相は張作霖を利用し満州での利権を拡
大しようとしたのに対し、関東軍は日本の意のままにならない張作霖を排除し、
満州を日本の強力な影響下におこうとして対立していました。
そのため関東軍は、蒋介石の北伐に追われた張作霖が奉天に入ることに強
く反対し、侵入阻止のための出動命令を首を長くして待っていました。しかし
その命令は出されなかったので、関東軍は政府方針に逆らって凶行に及んだの
ではないかと思います。
そうした関東軍の動向は、参謀長の斉藤が記した日記からある程度明らか
になっています(注2)。
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斉藤の日記は、閣議決定を受けた5月20日と思われる村岡軍司令官の訓
示「満蒙の治安維持に害あると認めるものは直ちに武装解除し、若しこれに応
ぜざるものは断固その侵入を阻止し、殊に南軍は絶対に其侵入を阻止する」で
書き始まり、張作霖軍をも阻止して満州を中国本土から切り離し、日本の強い
影響下に置こうとする考えを示している。
斉藤等関東軍は、「あれ(張作霖、半月城注)を生かして置けば仕事がで
きると云う考へがある様だ」と田中首相の考えを批判し、「要するに司令官の
考えは可なるも、首相が不決断なることが結局虻蜂(あぶはち)取らずとなる
ならん 噫(ああ)!」と憤っている。結局武装解除を実行する「奉勅命令」
は出されず、張の奉天到着の日を迎えている。
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こうしてみると、張作霖の奉天到着阻止が不可能になった時点で、関東軍
は邪魔者は殺すという短絡的な方針を決定したのではないかと思います。こう
した単純な発想は、事件が引き起こす国際的影響などを無視しがちで、結果は
思わぬ方向に走りがちです。その誤算について横浜市立大学の遠山茂樹名誉教
授はこう記しました(注1)。
「張作霖の下野ないしは抹殺をめざした軍部の動きには、大きな誤算があっ
た。張が日本の要求をなかなか容れなかったのは、張の意志によるよりも、む
しろその背後にある民族運動につきあげられたものであったからである。
しかも張の爆殺の背景には日本軍閥があるのではないかという疑惑は、中
国をはじめ世界にただちにひろまった。満州における対日感情はさらに悪化し
ていった。ただ日本国民だけが報道を統制されてつんぼさじきにおかれてい
た」
やはりこの事件は対日感情をさらに悪化させ、小川平吉鉄相のいうように
「有害無益の結果」に終わったようでした。同じ帝国主義侵略者でもイギリス
の場合は、中国の民族運動が燃えさかると漢口、九江租界を返還するなど譲歩
の姿勢をとり排英運動を鎮めようとしましたが、日本は抑圧一辺倒だったよう
です。こうした民心を無視した硬直した政策が後日、南京大虐殺などの一因に
なったのではないかと思います。
一方、事件の処理では田中義一内閣は断固たる処罰をとれず自滅してしま
いましたが、このように軍人をしっかり抑えきれなかった政治が軍部を増長、
暴走させ「満州事変」など不幸な日中15年戦争を招く一因になったのではな
いかと思います。
(注1)遠山茂樹他『昭和史』岩波新書
(注2)「張作霖爆殺」の全容、『This is 読売』97年11月号
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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