- FREKIJ MES( 2):【古代】古代の謎を解く/先史~飛鳥・奈良 98/01/07 -
751/751 PFG00017 半月城 伊勢神宮と東アジア
( 2) 98/01/07 20:23
私のホームページが、「新古代学の扉」にリンクされたのを記念して、こ
ちらの会議室に初めて書き込みをします。
リンクは「歴史への視線」の中で、次のように紹介されていました。
> HAN: 半月城通信(総目次)(http://www.han.org/a/half-moon/)
>
>私は、中華思想(中国)、事大思想(北朝鮮・韓国)、天皇思想(日本)は
>「好まざる三匹の仲間」だと、思っています。つまり自分たちの内側だけで
>いい気になっている思想です。それを克服する芽がここにあると思います。
私のホームページは、とても「芽」になるようなたいそうなものではない
んですが・・・。近代史はともかく、古代史のほうは、私は初学者です。前々
から古代史を落ち着いて勉強したいと思っているのですが、FNETD 海外政策で
近代の歴史認識論争に忙しく、思うようになりません。そんなわけで、こちら
にはあまり書き込みはできそうにありません。
前置きが長くなりましたが、本論に入ります。お正月にちなんで、手始め
に神社について書きたいと思います。
一昨日のニュースで、新年の恒例行事として橋本首相以下11閣僚がそろ
って伊勢神宮に参拝したことが報道されていました。このニュースに刺激され
て、私は伊勢神宮についてすこし調べてみましたので、それについて記します。
伊勢神宮はいうまでもなく、天皇の祖先神である天照大神をまつっている
ので、政府閣僚たちの集団参拝は、何やら過去の国家神道の影がちらつきます。
過去、神道や天皇は「皇国史観」により歪曲され、偏狭な民族意識の培養土に
なり、不幸な侵略戦争を支えてきただけに、これらの起源を歴史学的にきちん
と再評価することは重要であると思います。
そうした折、伊勢神宮の成立にいたる歴史的背景などについて、傾聴すべ
き専門家の意見がありましたので、それを紹介したいと思います。
まず、日本固有のものと思われている神道などが、歴史的にいかに東アジ
アと関係してきたかについて、古代史が専門の京都大学名誉教授の上田正昭氏
が、さる座談会で次のように述べていましたので引用します。
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かっては仏教渡来以前が日本の固有文化だという考え方が支配的でして、
仏教渡来以前が原神道とかプロト神道の世界とかよばれましたが、これにも中
国的なものや朝鮮的なものが混入されていて仏教渡来以前の文化が固有文化な
どとは言えないのですね。
たとえば、固有の文化であると言われている原神道の世界においても中国
や朝鮮あるいは南方諸地域の影響があるし、朝鮮の道教なども渡来人の手によ
ってもたらされています。「神道」の語自体が古く中国にあって、「易」の観
卦の象伝に早くもみえ、宗教的な意味では漢の武帝の頃から用例がある。そし
て二世紀のなかば、後漢の順帝の頃には仙道の意味で使われている。
また、神道の禊(みそぎ)とか祓(はらい)とか言われるものもそうです
が、これなども中国や朝鮮に先例がある。「周礼」に「祓除」のことがみえ、
春禊、秋禊は民間行事としてもあり、魏晋の頃になると、春禊は3月3日に固
定してくる。
有名な「三国史記」の「加羅国記」に亀旨(くし)峰に首露が降臨すると
いう話がありますが、それは3月の禊浴の日です。禊の日に降臨するという伝
えなどもあります。それらの例をみてもわかると思います。
(民族)単一が尊いという世間の空気。これは後期水戸学や幕末以後の国粋
思想などによってたかめられているためで、それらを十分に克服できなかった。
大正年間には、日本民族や日本文化は決して単一なものではないと言った先学
もあります。
先学の例をあげると内藤湖南博士は、大正9年頃、日本文化の中心は中国
文化だと主張されて、中国文化は日本文化の苦汁(にがり)の役を果たしてい
ると言われましたし、喜田貞吉博士は、大正5年頃には、天皇家の祖先は扶
余・百済系であるとはっきり言われております。
そういう主張があるにもかかわらず、大勢は日本中心の悪しきナショナリ
ズムに陥っていった。貴重な問題提起はあったのですが、大勢を打ち破ること
はできずにきたわけです。
そうした意味で(雑誌)「日本の朝鮮文化」の果たした役割のひとつは、
事実に即してそうした問題を見極めてきたというところにあるでしょう。豊葦
原瑞穂国、瑞穂(みずほ)がどこから来たか、江南・華中・朝鮮半島南部から
来たことは明らかです。
弥生文化の特徴は稲作と金属器、青銅器と鉄器であることはいまは常識と
なっていますが、「日本の中の朝鮮文化」という雑誌はそうした事実や常識を
定着させることに多少寄与したところがあったと思います(注1)。
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上田氏の主張によると、純粋に日本的と思われている神道の「みそぎ」や
「おはらい」なども、中国や朝鮮などにその起源があるようです。この発言を
うけて、中国の影響を、先日なくなられた司馬遼太郎さんが具体的に伊勢神宮
の例をあげて、こう述べていました。
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ぼくは伊勢の御遷宮をたまたま昭和20年代と数年前の二回行きましたが、
境内でドナルト・キーンさんにもたまたま会いました。もとの権宮司さんが側
に来てくれましたが、真夜中に御霊が、皇女が祭宮になって行列を作って通っ
ていくのです。
ぼくがその権宮司さんに「あれは中国の行列ではないか」と言うと、その
人はぐっとつまって、「あれは奈良時代の女帝の最高の行幸行列なんです」と
いうことを三べんも四べんも言うのです。単一性の強調です。「いや、それが
中国なんだって」とくり返し言いました。
ぼくは出かける前に『古事類苑』を見ていきました。偉いもので、平安時
代からの式次第から行列の絵までちゃんとかいてあるんです。これは中国だと
あらかじめ気持ちを決めて行ったから、現実で見ても古代中国の匂いがありま
すね。
なぜ古代中国の行列をやっているということで喜ばないのか、その行列に
ひじょうに広い地域の匂いと姿を見ることができるんで、もう一皮むいて、次
の遷宮式年には中国の行列がいまだに残っておると宣伝するかもわかりません
ね(注1)。
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この話に出てくる宮司さんと司馬遼太郎氏はあまりにも対照的です。どん
なに専門的な知識が豊富でも、国際的な視野を欠くと「井の中の蛙」になりか
ねません。こうした注意は伊勢神宮の場合にかぎらず、日本の伝統文化や民族
などについて語るとき、とくに必要ではないかと思います。民族主義も偏狭に
走ると、ややもすると全体像が見えなくなってしまいそうです。
さて、伊勢神宮の祭神である天照大神についてですが、前掲書で上田正昭
氏はこう紹介しています。
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神別というのは・・・奈良時代のはじめ頃は天津神(あまつかみ)グルー
プと、地祇、つまり国津神(くにつかみ)グループの二つの類別です。そして、
この国津神グループというのはもともと吉野の国樔みたいな土着の神々です。
天津神グループというのは高天原(たかまがはら)の神々ですわね。これらの
神々のなかには朝鮮と大変関係のある神が含まれていると思うのですが、天照
大神、これは後に皇室の祖先神になるわけです。
それなら天照大神の前の神は何やったかということが問題になる。これは
高皇産霊(たかみむすび)なんですよ。高皇産霊というのはいったい何かとい
うことを調べてみますと、タカミムスビ神社というのが延喜式でみると四つあ
るんです。
天御中主はないんです。これはきのう岩波新書のために書いたところやか
ら記憶は新しい(笑い)。大和に2社、山城国に1社。もう一つは対馬です。
大和の二つのうち一つは、十市群目原にます高御魂神社っていうんですよ。
これはどこから来たかというと、はっきりしているんです。対馬から来たんで
す。
その次に山城の高御日産神社は、これはよくわからんのだけれども、これ
とちなんで月読神社ってのがありますね。この神さんはどこから来たかといい
ますと、壱岐から来たんです。
もう一つはなかなかわかりませんで宇奈太理にますタカミムスビの社って
いうんです。宇奈太理というのはどこかと調べたらこれは法華寺のところなん
です。法華寺のところにあった神社なんです。いま楊梅神社というのがそれら
しいです。
ところが『日本書紀』に菟名足社つまりタカミムスビの社というのが出て
くるんです。持統6年、これはおもしろいですね。新羅の使節が来たときには
じめて新羅の貢物を献じた社が5社あるんです。持統6年に。5社のうち4社
は、伊勢などの有名な大社ですよ。他の一つの菟名足社なんて資料に全然でて
こない神社です。それが新羅の貢物献上のおりに、わざわざこの社を祭るので
すよ。これは新羅に関係ある神と考えられませんか。
そうすると全部対馬とか壱岐とか、新羅とかに関係してくるでしょう。
(注2)
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上田氏の主張によれば、伊勢神宮もその起源をたどっていくと、新羅や中
国と関係があるようです。そもそも神宮という名前からして朝鮮などから来た
ことは、明治時代の皇国史観論者の金沢庄三郎などの研究により明らかにされ
てきました(注3)。これについて、先ほどの上田氏は次のように確認してい
ます(注1)
「その(外からの)インパクトの問題が重要なんですね。たとえば神社とい
う文字でも、『墨子』にある。神宮は2世紀後半の『詩経』の鄭玄註の中に出
てきます。朝鮮では『三国史記』に、5世紀後半から6世紀に神宮という用語
が出てきます。
日本の場合は石上(いそのかみ)神宮がもっとも文献的には古いのですが、
のちには神宮といえば伊勢が代表になってしまうけれど、もとは『日本書紀』
は伊勢大神の祠、五十鈴の宮とかいうように書いていて、6世紀になって神宮
ということばがたしかな用例として出てくるんですね。神宮や神社という用語
にしても、まさに東アジアの他の国につながっている」
伊勢神宮では天照大神のほかに、のちに丹波からきたとされる豊受大神も
祀るようになりました。こちらの起源も、東アジアのスケールで考えるとおも
しろそうですが、次の機会に調べたいと思います。
(注1)司馬遼太郎、他編「朝鮮と古代日本文化」中公文庫
(注2)司馬遼太郎、他編「日本の朝鮮文化」中公新書
(注3)金沢庄三郎「日鮮同祖論」成甲書房
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
#5422/5422 日本史ボード
★タイトル (SPM07550) 98/ 1/15 23:34 ( 96)
伊福部氏と天日鉾 半月城
★内容
コンコンさん、がんもさん、こんばんは。がんもさんの#5386に思い
当たるところがありますので、久しぶりに書き込みをします。
#5386,
>さて、表題の「伊福部」ですが、こういう苗字の人いましたよね?
>ウルトラマンのテーマ曲を作った方が「伊福部昭」さんでしたっけ?
>この苗字というのは古代にまでさかのぼるのでしょうか?
>そして、やはり銅や鉄の精錬と関係してたんでしょうかねえ…?
これは図星です。映画「神々の履歴書」(前田憲二監督)のなかに、当の
伊福部昭氏が登場して先祖の系図について語っていました。その映画の台本に
はこう書かれています。
(この映画はビデオ化されており、そのビデオを日韓文化交流基金図書セン
ター(TEL,03-5472-6667)で借りることができます)
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白うさぎで有名な因幡には、因幡一宮・宇倍神社がある。
宇倍神社は、代々、伊福部氏が斎(いつ)き祀った神社で、産銅、産鉄の神
として信仰が深い。
歴代の宮司であった伊福部氏の墓が、神社近くにあるが、明治になると、そ
の伊福部氏は神職を離れて行く。
この世田谷に伊福部家がある。
伊福部氏は高名な作曲家で、系図は伊福部家の直系で、昭氏の甥にあたる達
(とおる)氏が保管のため、わざわざ北海道からおいでいただいた。
前田「あの伊福部先生、この古い系図は、いつの時代に書かれたものですか」
伊福部昭氏「そうですね。西暦で言いますと、784年でしょうね。伊福部富
成という人が書いたということがここに書いてございますが」
前田「じゃあ大変古いものなんですね。それで系図では初代というのはどうい
う人物になるわけですか?」
昭氏「名前が七つ八つあるもんですから・・・。これは大国主命というのが、
まあ一番通りがいいかと思いますが」・・・
前田「オオクニヌシがつまり、伊福部家の祖になると、まずはですね。それか
ら二代、三代とつながってまいりますね。そうしますと、第四代、これはど
なたになるわけですか?」
昭氏「そのイセニホの命ということになりますが・・・」
前田「これが天日鉾(あめのひぼこ)ですね」・・・
昭氏「日鉾というのは、いわゆる朝鮮南部のですね。多羅の国から来たとされ
ている。大変文化の高いですね。鉄器文化、あるいは稲作文化をもった一族
といいますか、あるいは個人と考えましょうか。そういう人だと思うんです
けども、ということは伊福部家のそれが祖先になると、いうことですね」
・・・
前田「そうしますと、先生、第四代が天日槍ですよね。第5代、第6代という
のは、どういう人物なんですか」
昭氏「そうですね。読み方がいろいろあるんですけれども、まあここで、アメ
タニナノホコノミコトと読んでおきましょうか。六代もアミミヨノホコノミ
コトと、こうなっていますが・・・」
前田「と、言うことはですね、四代、五代、六代と鉾という字が入ってきます
ね。鉾は何を意味するのでしょうか」
昭氏「ええまあ、学者ではないからわかりませんけれども、大体、金属の精錬
ですが、鉄器であるとか、青銅であるとか、そういうものを作って、まあ最
近の研究ですと銅鐸の出る、発掘される場所に、この伊福とか、そういう地
名とか人物、人名が残っておって、そういうものと関係があるのではないか
というふうに、私としては考えておりますが・・・」
前田「ということは、先生、18代、19代、この20代ですね。これはどう
いう人物ですか」
昭氏「これは、あの風媛(かざひめ)を母親にもった子供で、ワカクコノオミ
と言われたり、いろいろな読み方があるらしいんですけれども、この時に、
いわゆる伊福部臣という名前を賜ったということに、ここでは書いています
が」
前田「で、伊福部というのは、吹くという、やはり鉄族からきた言葉でしょう
ね。この中には祈祷をもって、息をつむじ風に変化す、ということが書かれ
ていますよね。で、それは鉄を吹くという、その伊福・・・」
昭氏「ええ、まあ、蹈鞴(たたら)とかそういうようなことを含んでおるだろ
うと、私は思っておりますけれども・・・」
---------------------
伊福部氏がオオクニヌシの子孫という話はともかく、天日鉾一族の子孫と
いうのはありそうな話で注目されます。
#5386,
>滋賀県の伊吹も案外「天の日矛」を通して銅や鉄の精錬と関係しているかも
>知れませんねえ。
これもご想像のとおりと思われます。国学院大学栃木短期大学の細矢藤策
氏はそれについて、こう記しています。
伊吹山東麓の鉄
伊吹山南東麓、大海人皇子が行宮(かりのみや)を置かれた野上のすぐ隣
の伊吹にも式内社「伊富岐神社」がある。美濃国の二宮で、近江側と同様、鍛
冶神多多美比古命を主神とし、御子神を配している。尾張氏がこの近隣に私弟
(邸?)を構えたのは、伊吹山の神を祀る伊福部氏による鉄器生産を管理する
ためであろう。『和名類聚鈔』の美濃国池田郡伊福郷を、『大日本地名辞書』
では伊吹山の東の春日村に比定している。
南西麓の「天野川」は「海人(あま)の川」であろうと、先師高崎正秀よ
り直接御教示いただいた。「天語連」は「海語連(あまがたりのむらじ)」で
あり、海部は渡来人にも深く拘わっており(後述)、自らも鍛冶に関係してい
たのであるから、伊吹山西麓の鉄の生産には息長氏と海語連朝妻氏があたり、
東麓の鉄の生産には海部尾張氏と伊福部氏があたっていたと考えられる。
(森浩一、門脇禎二編『渡来人』大巧社、1997)
新羅からきたとされる天日鉾の末裔である伊福部は、どうやら因幡や伊吹
などで神社を祀り、銅や鉄などの生産に従事していた一族であったようです。
ハイテクと神様との組み合わせとはおもしろいものです。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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765/765 PFG00017 半月城 事大思想
( 2) 98/01/10 11:41 756へのコメント
KANAKさんの疑問、#756に答えたいと思います。
>半月城さんに、お願いします。
>
>>>私は、中華思想(中国)、事大思想(北朝鮮・韓国)、天皇思想(日本)は
>>>「好まざる三匹の仲間」だと、思っています。つまり自分たちの内側だけで
>>>いい気になっている思想です。それを克服する芽がここにあると思います。
>
>上記の発言は、何方のものか判別できませんが、半月城さんご自身も、是認さ
>れたものと仮定して、確認させていただきたいのですが、
>>>事大思想(北朝鮮・韓国)<<とは何を意味しているのでしょうか?
上記の発言はホームページ、新古代学の扉(http://www.threeweb.ad.jp/
~sinkodai/)に掲載されていますが、そのページの終わりには「制作 古田史
学の会 横田幸男」と書かれていました。
事大思想は事大主義と同義ですが、これは平凡社の「朝鮮を知る事典」に
次のように書かれています。
事大主義
小国が礼をもって大国に事(つか)えること、また転じて勢力の強いもの
につき従う行動様式をさす。<孟子>梁恵王章句下に、斉の宣王が隣国と交わ
る道を問うたのに対し、孟子は<大を以て小に事うる(以大事小)者は天下を
保(やす)んじ、小を以て大に事うる(以小事大)者はその国を保んず>と答
えた故事に由来している。
朝鮮史では李朝の対中国外交政策を事大主義と称する。1392年、高麗
王朝に代わって李成桂が創建した李朝は、その前期には明、後期には清に対す
る<以小事大>の礼をもって、国号と王位の承認を得て国内の統治権を強化し、
定例的な朝貢使(燕行使)の派遣にともなう官貿易によって経済的利益を得、
1592-1598年に豊臣秀吉の侵略を受けたときは明軍の支援を得た。つ
まり中国との事大=宗属関係によって国土を安んじえた。
朝鮮の日本および女真族との関係は、こう礼(対等の礼)による交隣関係
であったが、女真族の清王朝が中国を支配すると事大=宗属関係に代わった。
事大党と対立した開化派(独立党)は、1884年12月の甲申政変で清との
事大関係からの独立をその政綱にかかげた。
KANAKさん、これで「事大」は「自大」の変換ミスでないことがおわ
かりでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
文書名:小鹿島での断種手術
[zainichi:4616],Date: Sun Jan 11 22:50:25 1998
尾上さん、愛媛新聞、出版文化賞の受賞おめでとうございます。受賞作の
「住友別子銅山で<朴順童>が死んだ」を、私は一気に読みました。さすが賞
に値する迫力でした。
さてハンセン病患者の隔離ですが、昨年末、たまたま私が目にしたテレビ
番組のことを紹介します。
RE:[zainichi:4583]、北野さん
> 日本国内ですすめた
>ハンセン病隔離政策は、朝鮮半島でも台湾でも同様に
>推進されたのであり、特に小鹿島の療養所では、日本
>同様の断種手術がおこなわれていたという記録がみつ
>かったという記事も最近報道されています。
韓国の小鹿島療養所をテレビ番組「筑紫哲也ニュース23」(97.12.22)で
とりあげていました。元広島県立図書館の副館長をされていた滝尾英二さんが
全羅南道の小鹿島を訪れ、「断種台」が今でも残っているのを確認されました。
木製のその台は異様な姿をしており、患者を固定するための頑丈な木の留め具
はいかにも断種台にふさわしい趣でした。
断種手術について、慶北大のある教授は「あの時代は一つの政策で、今の
考えでは犯罪でも当時はやむを得なかった」と語っていました。番組は、「カ
ラスの子はカラス」などといってはばからない職員の偏見など紹介していまし
たが、「民族浄化」につながるような内容はありませんでした。
しかし番組では、断種手術は医学的偏見からだけでなく、懲罰としても行
われていたことを告発していました。たとえば、脱走や盗み、反日的態度、反
抗などに対する罰として断種が行われていたと証言していました。
療養所の懲罰はすさまじかったようで、鉄の床の監禁室に30日間閉じ込
め、食事も半分に減らしたので、そこから出るときは死体になっていたケース
もかなりあったとのことでした。
アメリカで南京虐殺事件を書いたチャン女史は、「残虐行為は極少数者の
手に絶対権力が集中したとき起きます」と述べていましたが、療養所という隔
離された社会でそのとおりのことが起きたようでした。非人道的行為は断種手
術以外にも建屋拡張の強制労働や、朝3時に起床して所長の銅像を強制礼拝さ
せるなど、さながら囚人のような扱いでした。
この番組を見て、私は今でもあの断種台の映像を忘れることはできません。
もしあれに自分が寝かされ、断種手術をされたらどんな想いだろうか・・・。
考えるだけでも身の毛がよだちそうです。そうした体験を、ある犠牲者は次の
ように詠んでいました。
その昔思春期に夢見た愛の夢は敗れ去り、
今この25の若さを破滅させゆく手術台の上で
わが青春を慟哭しつつ横たわる
将来、孫が見たいと言った母の姿・・・
手術台の上につらつく
精管を断つ冷たいメスがわが局部にふれるとき
砂粒のごと地に満ちてよとの
神の摂理に逆行するメスを見て
地下のヒポクラテスはきょうも慟哭する
この作者をはじめ、納骨堂に眠る一万体の霊に黙祷を捧げます。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。