半月城通信
No. 43

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 韓国保護条約(7)、日韓協約の形式
  2. しめ縄と倭人の渡来
  3. 南京事件60周年(1)、犠牲者数
  4. 南京虐殺60周年(2)、ラーベの日記(1)
  5. 南京虐殺60周年(3)、ラーベの日記(2)
  6. 南京虐殺60周年(4)、米国の論調


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/12/07 - 05045/05045 PFG00017 半月城 韓国保護条約(7)、日韓協約の形式 ( 7) 97/12/07 18:06 04976へのコメント    #4976,  >それに自虐派マスコミを持ち出してももう誰もまともに権  >威として信じないでしょう。   「自虐派マスコミ」とは、この場合、毎日新聞を指すのですね。毎日新聞 の多くの読者とは感性が大分違うようです。   それに#4976では、国連国際法委員会の最終コメンタリーを、意外に も日本の裁判所判決とのアナロジーでとらえていますが、こうしたスタイルで は議論はちょっとかみ合いそうにありません。   そこで今回は#4976に対するコメントは差し控えることにして、以前、 私は機会があれば書くと約束した、保護条約の形式的な問題について記したい と思います。   現在、この問題は日朝国交正常化交渉をひかえて、とみに外交的に注目を 浴びていると同時に、学問的にも韓国近代史のホットな研究テーマになってお り、関係者の論争が続行中です。そうした研究の最前線も紹介したいと思いま す。   これまで私は、このシリーズのタイトルを「保護条約」としてきましたが、 これは俗称であり、厳密には正しくありません。正式に公示された日本名は (第二次)「日韓協約」、韓国名は「韓日協商条約」となっています。日韓の あいだで名称にかなりの違いが見られます。   韓国名では条約となっていますが、条約といえば国家間の取り決めでもっ とも重みのあるもので、通常、条約締結権者の承認を意味する批准書が必要で す。しかし保護条約では批准書は交換されなかったので、条約という名称は明 らかに不適当です。   日本名では協約とありますが、これは条約の次に重みがあります。こちら の方は批准書交換を伴わず、天皇や皇帝の裁可(黙示の批准)だけで発効する とされています。また正式な英文名も協約を意味する"Convention" になって います。   しかし、これらの名称はいずれもあとから作為的につけられたようで、韓 国に保管されている日本文の正本にはタイトルがありませんでした。こうした 条約の形式について海野教授はこう述べています(注1)。            ------------------------   韓国を保護国化する条約を、手続きの簡単な第二種の協約形式で処理する ことに問題がなかったわけではない。国際法学者有賀長雄が指摘するように 「外国の間に於ける同種の保護条約は大抵正式条約の体裁を取れる」のが通例 だったからである。   これに対し、日韓「協約は韓国外務大臣と日本公使とが、其の平日の職権 を以て調印したる、いわゆる同文通牒の形式を取るもの」で「正式条約に非」 ざる協定であった。   日本政府もこのことは熟知していたに違いない。姑息な手段を弄して協約 の格上げを図った形跡がある。李泰鎮教授は、「第二次日韓協約」正本と「第 三次日韓協約」正本とを対比して、前者には「日韓協約」のタイトルが欠落し ていることを指摘する。   李泰鎮教授はこれを、修正された協約文をあわてて浄書する過程で生じた 単純なミスとみているが、調印時点では未確定だったのではないか。可能なら ば保護条約設定を明記した、条約に準ずる名称を付したかったに違いない。   英訳文が、第一・第三「日韓協約」がいずれも Agreementであるのに対し、 「第二次日韓協約」だけが Convention であるのも不自然である。もちろん Conventionは Agreementよりも意味が重く、Treatyに準ずる。            -----------------------   このようにタイトルのない国書なんて前代未聞です。これはミスなどとい う単純なものではなさそうです。国家の命運を左右する協約を清書する際に、 よりによってタイトルを書き忘れるなどというのは、いかに状況が切迫してい たとしても考えにくいところです。しかもそれを目にした関係者全員がそれに 気がつかないなんて、私はあり得ないと思います。やはり、これは海野教授の 指摘のように、調印時点ではタイトルを決めなかったか、あるいは決められな かったと見るべきではないかと思います。   類似の協約で、タイトルがどのようにつけられたか調べてみました。日韓 協約は第一次から第三次までありますが、韓国名、英文名がまちまちです。そ れらを表にすると次のようになります。         日本名    韓国名      英文名   締結年  第一次   日韓協約   協定書      AGREEMENT   1904  第二次   日韓協約   韓日協商条約   CONVENTION  1905  第三次   日韓協約   韓日協約     AGREEMENT 1907   英文名は下記のように翻訳されるのがふつうなので、日韓協約の名称がい かに異例であるか、きわだっています。 1.条約  Treaty   (正式条約) 2.協約  Convention (略式条約) 3.協定  Agreement  (当事国間で効力) 4.その他   取決め(Engagement)、規約(Covenant)、憲章(Charter)、交換公文(Exchange   of Notes)、合意議事録(Agreed Minute)、共同宣言(Joint Declaration)   このチグハグはもちろん外交官の無知によるものではなく、その時々の政 治的な策謀により決定されたものと思われます。日本が正式名称を決定するの にいかに苦労したか、その跡がしのばれます。  なかでも第二次日韓協約の韓国名が不自然なのが目につきます。これは第 一次日韓協約のときの策謀や当時の恫喝状況からすると、日本が強制して「条 約」に格上げし、韓国の官報に掲載させたのかもしれません。もちろん、この 「条約」は条約締結権者である皇帝の裁可がなく、韓国では無効です。   その一方で、日本名の「協約」のほうは成り行き上、条約名をつけるのが 無理だったのでこの名称に落ち着いたのかもしれません。かって伊藤博文は、 保護条約文の修正を日本政府の承認と天皇の裁可をとらず、みずから筆をとっ て添削修正しました。これを心配した林公使がそのことを正すと、伊藤は「俺 が命じたと言ったらそれですむ」と一蹴しました。   この不法行為も協約なれば辛うじて可能だったのでしょう。これが条約と なると、実力者の伊藤博文といえども条文の勝手な修正は困難であっただろう と思われます。   他方、協約名の問題を韓国ではどのようにみているのか、以下に記します。 最近はこの問題の権威、ソウル大学・李泰鎮教授の研究もだいぶ進んでいるよ うです。近年、同氏はタイトル問題では「欺瞞行為」説を主張するようになり ました。そうした最新の研究成果を、大阪産業大学の藤永壯氏は次のように伝 えています(注2)。            -----------------------   李泰鎮氏は「第1次日韓協約」および「第2次日韓協約」=「保護条約」の原本 に直接あたって、普通、条約文の冒頭に記載されるはずの、条約の名称が脱落して いる点に、早くから注目していました。その理由を明らかにしたのが、第1論文 (注3、半月城注)です。(この問題には、海野氏も注目しています。)   1904年8月22日に調印された「第1次日韓協約」は、日本人財政顧問の傭聘、日 本政府の推薦する外国人外交顧問の傭聘、大韓帝国政府の外交関係に関する問題は 日本政府と事前協議すべきこと、の3項目からなっていました。ところが、この「協 約」の原本には、他の条約には存在する、冒頭の条約名称が記載されていないので す。李泰鎮氏によれば、「第1次日韓協約」なるものは、もともと二国間の覚書 (Memorandum)として作成されたものだったのですが、日本政府はこれをイギリス、 アメリカなどに通告する際、条約文の冒頭に、勝手にAgreement――日本政府は 「協約」と訳したが、本来は1ランク下の「協定」と訳すべきもの――の名称を付 けたというのです。列強から「協約」に対する異論が出ないことを確認した後、日 本は逆に大韓帝国政府に対し、これを「日韓協約」として官報に掲載するよう要求 します。(実際には「協定書」として掲載されました。)李泰鎮氏は、「覚書」の 場合は当事国間だけで効力をもつのに対し、「協約」は国際的な効力をもつという、 大きな違いがあったため、日本政府が「覚書」から「協約」への格上げをねらった のだ、と推測しておられます。このような日本政府の行為は「不法」と言うより 「犯罪的」と表現したほうが、より正確でしょう。   そして問題の保護条約です。日本政府はこの外交協定の重要性から見て、当初 は「韓国外交委託条約」として、正規の手続きを踏まえて締結し、批准も行う意向 でした。しかし韓国側の強硬な反対が予想されたため、「略式条約」というオプシ ョンをも念頭に置いて、冒頭の条約の名称を記す行は空白にしたまま、交渉に臨む ことになりました。結局、大韓帝国の皇帝、政府の抵抗により、条約名称は空白の まま、外部大臣に署名・捺印を強要せざるを得ず、批准も受けられませんでした。 「正式な条約」としての形式を整えることができなかったわけです。日本政府はこ れを国際社会に公表する際に、Agreementでも名称としては弱いと考え、いっそう 高い合意事項を意味するConvention(本来はこれが「協約」と訳される)という 名称をつけたのでした。第1次、第2次日韓「協約」という名称自体が、実は日本側 の捏造に過ぎなかったというわけです。   李泰鎮氏は第1論文の最後で、次のように結論づけています。 > ConventionはAgreementより、1段階高い印象を与えうるものだが、条約法 > またはその慣例上、決して一国の外交権移譲のような重大事項を盛り込む > 形式になりうるものではない。[外交協定の]格式として適当かどうかを > 云々する以前に、一つの協定文の内容を伝達する過程で、このように任意的 > に名称を操作すること自体が、国際社会から指弾されねばならない欺瞞行 > 為である。この協定は事案の重大性に照らして、明らかに協定代表の委任、 > 協定文、批准など三つをすべて備えてこそ、成立できるものであった。し > かし実際になされたのは、ただ協定文一つだけ、それも名称が脱落してい > るものであった。(pp.111-112)            --------------------------   この理解によれば、第1次、第2次日韓「協約」という名称自体が、実は 日本側の捏造にすぎず、保護条約も「協約」としては成立していなかったとい うことになります。   結局、成立していたのは有賀長雄教授の主張する「其の平日の職権を以て 調印したる、いわゆる同文通牒」にすぎないということになります。それも韓 国外部大臣の署名および捺印が有効な場合ですが、外相職印は「日本公使館員 が奪うようにして持ってきた」状態なので、捺印時の状況についてもさらに検 討が必要で、その詳細によってはそれすら無効かもしれません。   このように、保護条約は形式的にも問題が多く、簡単に「形式的には」適 法性を有していたなどといえるものではなさそうです。この結論については研 究者の一層の議論を待ちたいと思います。 (注1)海野福寿編「日韓協約と韓国併合」明石書店 (注2)メーリングリスト[aml:6974] (注3)「条約の名称をつけられなかった“乙巳保護条約”」李泰鎮編著『日   本の大韓帝国強占』図書出版カチ(韓国語)、1995年     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:しめ縄と倭人の渡来 [zainichi:4532] Date: Tue Dec 30 22:21:29 1997   半月城です。李在一さん、こんばんは。   同じ三重県でも松阪市以南では、しめ縄を一年中飾るとか。おもしろい風 習ですが、これは伊勢神宮と何か関係がありそうですね。   [zainichi:4516],  >  私は神道にまつわる天皇制を理由  >に「しめなわ」とは決別したことを口にするが、誰かが購入してきてセ  >ンスのない「しめなわ」が、やはり玄関にかざられる。   天皇制とからめて神社やしめ縄を毛嫌いする人も多いようですが、これら の歴史は私にとって興味深いものがあります。近代において、神社は天皇制に 利用されてきましたが、歴史的には天皇より先に神社があり、その神社より先 にしめ縄がありました。   これらは渡来文化として考えることもできるので、私はむしろ神社などを 肯定的に受け入れています。といっても、靖国神社や護国神社などは別ですが。 私が古い神社を渡来文化と考えるのはそれなりの理由がありますが、これにつ いてはおいおい書くことにし、今回はしめ縄についてすこし調べてみました。   しめ縄は、法岳さんがすこしふれていましたが、その起源は農耕民が邪気 よけに村の門に張ったのが始まりとされるようで、韓国にももちろんあります。 それについて、平凡社の「韓国を知る事典」にはこう書かれています。 しめなわ(注連縄)   神域などの神聖な場所を限って不浄悪穢の侵入を防ぐ縄。朝鮮ではクムジ ュル(禁縄)、ウェンセキ(左縄)などとよばれ、主として中部以南地方にみ られる習俗で、稲作文化の文化要素として日本の例と共通する点が多い。通常 の縄とは逆に左よりになわれ、紙や帛(はく)、枝葉などがつるされる。   家庭では子どもの出産後、3週目までのサムシン・ハルモニ(産神婆)を まつる期間に家の大門や戸口に張りめぐらされ、男児の場合には唐辛子や木炭、 女児の場合には紙、松葉、木炭などをつるして、喪礼中の不浄なものの侵入を 防ぎ、火と食物の持ち込み、持ち出しを禁じる。   牛馬や豚などの家畜の出産に際しても同様の儀式を行う地方もある。この ほか、家庭や村での巫儀や告祀(コサ)など重要な儀礼を行う際にも張りめぐ らせ、同じく呪的効果をもつ黄土をまくこともある。村の祭りの祭場となる神 木や祠(ほこら)の周辺、祭官の役目を行う人の家などでもしめ縄は張りめぐ らされ、やはり黄土がまかれる。   しめ縄は日本や韓国以外に、タイなど東南アジアでも見られるようです。 この専門家である学習院大学の諏訪春雄教授はしめ縄を鳥居と関連づけて、次 のように述べています。           ---------------------------   わが国でも屋根の上に鳥の形象物を飾る習俗が、特に奈良・滋賀・三重の 各県に見られますが(図18)、木曽路や丹波でも見つけました。今では平和 を祈念して鳩の形象物になっています。   その鳥と関連することですが、わが国の鳥居の原型が中国・東南アジアの 倭族の間で一般的にみられることです。   タイ国のアカ族の例で示しますと、播種に先立つ4月下旬、村の出入り口 に木造の門を建てます(図19)。その門の笠木の上には数羽の鳥の形象物が 飾られていますが、神が鳥に乗って降りてきて、邪霊の侵入を防いでくれるの だといいます。   その村の門には注連縄(しめなわ)が張られ、笠木や柱には竹を編んだ鬼 の目を貼りつけ(図20)、また地面には木製の刀や矢が突き立てられます。 注連縄は村に侵入する邪霊を縛るため、鬼の目は大目玉の怪物がいることを示 し、ともに呪具です。また刀や矢は神が用いてくれるものです。鬼の目の習俗 はわが国でも同様にみられます。   実はアカ族の村の門におく鳥とまったく同じ大きさと形の木彫りの鳥が、 大阪府和泉市の池上遺跡から出土しました(図21)。弥生中期初頭のものが 3点、後期のものが2点で、朱が塗られています。その後も各地から出土し、 今では30点もありましょうか。              (諏訪春雄編「倭族と古代日本」雄山閣)           --------------------------   ちなみに、韓国で鳥居に相当するのは、「ソッテ」と「チャンスン」の組 み合わせでしょうか。チャンスンは村の入り口に建てる神像で「天下大将軍」 「地下女将軍」などと書かれています。この模型はおみやげ屋でよく売られて いるので、みなさんにはなじみ深いことと思います。   ソッテは長い竿の先に鳥のついた神杆ですが、こうした朝鮮の習俗は「朝 鮮を知る事典」によれば、モンゴルなどの北方文化と、東南アジアなど南方文 化の中間型になるそうです。   これに比べ、日本の鳥居は純粋に南方型のまま残ったようです。日本と東 南アジアとのつながりですが、文化のみならず種族まで渡来したという見解が あります。具体的にいうと、学習院大学の諏訪教授は日本の「倭族」は渡来人 であったと、こう主張しています。  『端的に申しますと、「倭族」とは稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、 つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した 用語です。   その倭族の文化的特質は、水稲栽培とそれに必然的に付随した高床式の住 居と穀倉を有していることにあります。そうした文化的特質を伴って日本列島 に渡来したのが「倭人」であり、わが国の古代文化、つまり弥生文化の基層を 形成したと考えています』   同教授は倭人の軌跡を東アジアのスケールで大略こう考えています。   紀元前千年頃に倭人は揚子江流域以南に広く住んでいた。それが秦の始皇 帝や漢に圧迫され、次第に中国西南部や東南アジアの山岳地帯に追いやられた。 その子孫が現在でも少数民族として山岳部に暮らしている。   一方、漢族や苗族に押され、揚子江を東に向かった倭人もいた。稲作遺跡 で名高い河姆渡人である。その子孫の越人は呉に統合されたが、その呉もさら に南の越に滅ぼされた。その呉の遺民が山東半島あたりを通り、朝鮮中南部に 移住し、さらに北九州にたどり着き弥生人になった。   たしか、雪子さんでしたか、インド中央部のモンゴロイドについてちょっ ぴりふれていましたが、インドにおける民族移動との関連はよくわからないに しても、中国から日本へ民族移動説はかなり説得力があります。   もちろん諏訪教授の説はさらに検証が必要ですが、この説にそって考える とつじつまの合う事実が多くあります。たとえば、今でも雲南省の少数民族と 日本人はよく似ていることなどです。   一方、歴史書もそのつもりで読むと、いままで謎とされてきた記述も容易 に理解できるものがあります。一例をあげれば「晋書」で、日本の倭人が「自 ら太伯の後(すえ)なり」と出自を明らかにしていますが、これは倭人を「太 伯の呉」の子孫とすればうまく説明ができます。   また、中国や朝鮮の歴史書で倭人の居住地は、井上秀雄教授が指摘するよ うに日本列島に限定されず、たいへん混乱していますが、そうした謎も解けま す。たとえば、かの魏志倭人伝の冒頭にある「その(倭の)北岸、狗邪韓国に 至る」という超難解な一節なども、朝鮮南部に倭人が実際に住んでいたと考え ればすんなり理解できます。   この倭人の渡来ルートは稲作の伝来ルートと重なり、多くの学者が関心を 示していますが、学習院大学東洋文化研究所ではアジア文化プロジェクトとし て取り上げ、5年前から「倭族と古代日本」というテーマでフォーラムなどを 開いています。その報告書として前掲書が出版されました。   以上、しめ縄について簡単に書くつもりがだいぶ長くなってしまいました。 どうも私は書き出すと止まらないくせがあります。つづきの神社については正 月にでも書きたいと思います。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/12/14 - 05212/05212 PFG00017 半月城 南京事件60周年(1)、犠牲者数 ( 7) 97/12/14 21:22 05117へのコメント   シェヴァイクさん、こんばんは。 > 入手しやすく、記述が客観的な本としては秦郁彦『南京事件』(中公新書) >が挙げられます。あと、小生がUPした発言#4302も参照して下さい。   秦教授の著書は初版が10年以上も前で、すこし古いのが難点です。その 後、南京事件の研究も進み、新しい事実も次第に解明されました。その研究成 果を取り入れた最新の解説書として、私は先月末に発刊された、笠原十九司著 『南京事件』(岩波新書,1997)をおすすめします。   この本が発刊されるようになったいきさつや著者のかかわりは、下記のあ とがきに知ることができます。  「家永教科書裁判を支援する目的で1984年に発足した南京事件調査委員 会に参加して、南京事件の研究に取り組むようになってから13年になる。   日本ではこれまで南京事件の事実を否定ないし過小に見ようとする主張が、 政治的意図をもって展開されたため、南京大虐殺論争がセンセーショナルな様 相を呈した結果、歴史学の分野では、このテーマを研究することを敬遠する傾 向にあった。そのため、南京事件を歴史研究のテーマにして、歴史学的に論ず る作業が十分なされてこなかった。   近年になって、わたしが証言に立った家永教科書裁判第3次控訴審では、 南京事件記述にたいする文部省検定を違法とする判決が出され(93年10 月)、文部省が最高裁に抗告しなかったため、さきの最高裁判決で国側の敗訴 が確定した。現在では、高校の日本史教科書と中学校教科書のほとんどに南京 事件が記述されるようになっている」   歴史論争の決着が裁判所によりはかられるというのは、考えてみれば妙な ものです。それはともかく、裁判の決着後、文部省のお墨付きをもらった教科 書に、南京事件がどのように記述されているかみたいと思います。 1.日本書籍「新版、高校日本史」中村政則他,1997   12月、日本軍は国民政府の首都南京を占領し、南京城外で10万人をこ す中国人の捕虜や民間人に対して虐殺・暴行などの残虐行為をおこなった(南 京虐殺事件)。   この事件における中国人の軍・民の犠牲者の数については、中国政府発表 の30数万人説があり(この数字は、戦闘行為による戦死者も含む)、日本で は15万人から20万人前後という説がある。英米のジャーナリストは、この 事件を南京残虐(アトロシティー)事件として報道した。 2.実教出版「日本史B」直木孝次郎,1997   一撃を加えれば中国は屈服するであろうという日本の予想に反し、抗日民 族戦線を結成した中国の抵抗は強大であった。日本はつぎつぎと大軍を投入し、 12月、国民政府の首都南京を占領した。   南京占領のさい、日本軍は投降兵・捕虜をはじめ中国人多数を殺害し、略 奪・放火・暴行をおこない、南京大虐殺として国際的な非難をあびた。死者の 数は、戦闘員を含めて、占領前後の数週間で10数万人に達した。 3.自由書房「高等学校、新日本史B」江坂輝弥他,1997   日本軍は1937年12月、国民政府の南京を占領したが、このとき略 奪・放火・暴行をおこない、一般住民と捕虜を大量に虐殺する事件(南京大虐 殺事件)をおこしたため、国際的な非難をあび、中国国民の抗戦意識はさらに 高まった。 (欄外注)   陥落から1か月余りのあいだに南京市内で婦女子をふくむ一般住民のほか 捕虜もあわせると、およそ20万人といわれる大量の人々を虐殺した。なお、 中国側では、戦闘による犠牲者もふくめ、その数30万人以上としている。   さて、上記の教科書を総合すると、中国人軍・民の犠牲者は南京占領後の 1か月で10数万ないし20万人といったところでしょうか。この数字のベー スは前記の南京事件調査委員会による研究がもとになっているようです。   その研究のあらましは前掲書にまとめられています。同書から、この会議 室でも話題になっている南京事件の犠牲者数を紹介したいと思います。これに ついて笠原教授はこう述べています。  「犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要で あって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は「まぼろ し」であるということにはならない。犠牲者の問題は、今後さらに資料が発掘 されていけば、より実数に迫っていけることも事実である。   ここでは、本書で引用してきた資料を整理・総合して推定できる概数を述 べてみたい。それは概数であっても、相当程度南京事件の全貌をイメージでき ると思うからである」 ○中国軍の犠牲者   中国軍の犠牲者は戦闘行為を含めると次のとおりです。ただし出典は省略 します。くわしくは同書をご覧ください。  師団   部隊    日付   犠牲者数     方法  16 歩兵38連隊  12.13 5,000-6,000  長江渡江中殺戮  16 歩兵33連隊  12.13 約2,000     同上  16 佐々木支隊   12.13 1万数千   敗残兵殺戮  16  同上     12.13  数千     投降捕虜殺戮  16   1中隊   12.13  1,300       同上  16 重砲兵第2大隊 12.13  7,000-8,000 投降捕虜処刑  16 佐々木支隊   12.14 (約2万)  捕虜(殺戮の可能性大)  16 歩兵20連隊  12.14  800      武装解除して殺害  16  同上     12.14 310      武装解除して銃殺  16  同上     12.14 (約1800)  捕虜を連行  16  同上     12.14 150-160    捕虜を銃殺  16  同上     12.14 600      敗残兵を連行処刑  16 佐々木支隊  12.24-1.5 数千     敗残兵狩りで処刑  13 山田支隊    12.14  約1,000    敗残兵掃討  13  同上     12.16,17 約2万    捕虜殺害   9 歩兵7連隊  12.13-24  6,670     難民区の敗残兵刺殺 114 歩兵66連隊  12.13 1,500余    捕虜を背信行為で処刑   6 (南京攻撃中) (5,500)    捕虜捕獲   6   同上    12.10-13 (11,000)   上河鎮下関遺棄死体   6   同上    12.12,13 (1,700)    城壁遺棄死体(含掃討)   5 国崎支隊    12.13 (約5,000)  捕虜の措置軍に委任   5 歩兵41連隊  12.14 (2,350) 捕虜を後刻処刑する 第2碇泊場司令部    12.16  (約2,000)   下関で敗残兵処刑   同上        12.17 (約2,000)      同上 海軍第11戦隊     12.13 (約1万)   長江渡航中殺戮    軍艦熱海   12.14 (約700) 敗残兵武装解除    第2号掃海艇 12.15 (約500) 敗残兵殲滅 軍艦栂 12.15 (約700) 敗残兵殲滅             12.16頃 数千     八卦洲の敗残兵殺戮                 -------------       合計         8万人以上  カッコなしの数字     (著者による)     10万人以上  カッコ含めた数字   この数字について笠原教授は、「わたしは、総数15万人の防衛軍のうち、 約4万人が南京を脱出して再集結し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤 退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状 態で虐殺されたと推定する(『南京防衛軍と中国軍』)。表1からも、その数 字は納得できるのではないかと思う」と評しています。まずは妥当であると考 えられます。 ○民間人の犠牲者   民間人の場合、犠牲者数の資料は残りにくく、しかも「死人に口なし」な ので犠牲者数の推定はきわめて困難です。わずかに総数を推定する資料として、 笠原教授は下記のように、当時の三つの資料をあげています。            --------------------- (1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同     じ)  「中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことです が、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万 人から6万人とみています」(ラーベ『南京の真実』)。   38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京域 内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域でおこなわれた集団虐殺 の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総 合して推測した数として参考になろう。 (2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第3編「遺体埋葬記録」    に収録)   南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8674体になる。 これは戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作 業のダブりの問題もある。   しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻 略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。 (3)スマイスの「南京地区における戦争被害、      1937年12月ー1938年3月、都市および農村調査」   同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて 殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念 な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区 では四県半の県域をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出 している。   この調査は、38年3月段階で自分の家にもどった家族を50軒に1軒の 割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離 散家族は抜けている。それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査で あり、犠牲者はまちがいなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲者は 城区より近郊農村の方が多かったという判断材料になる。   以上の犠牲者数についての資料状況と、本書で叙述してきた南京事件の全 体状況とを総合すれば、南京事件において十数万以上、それも20万人近いか あるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。   日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の 犠牲者の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが 可能となろう。            -------------------------   以上のような、丹念な調査が「家永裁判」に持ちこまれたのか、文部省は 控訴を断念し、この問題では敗訴しました。その後、文部省は教科書検定の際、 犠牲者数にクレームをつけなかったようですが、その理由も上記の資料から納 得できる気がします。   他方、日本軍側の資料ですが、その公開状況について笠原教授は前掲書で 次のように記しています。  「藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊のなかで、これまで戦闘 詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ三分の一に すぎない。   多くは敗戦前後に連合軍の追求を恐れて証拠隠滅のため焼却されている。 また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録し た陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加え られることも日本側の資料が少ない原因になっている」   この会議室で、苔虫爺さんが「従軍慰安婦」関係の資料を公開できないの は、プライバシー保護のほかに、こういう事情もあるのでしょうか? これで はいつまでたっても過去の清算はできそうにありません。日本の戦争世代の関 係者がまだ健在なうちに、資料の公開が早急になされてほしいものです。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/12/22 - 05302/05309 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(2),ラーベの日記(1) ( 7) 97/12/21 13:18 05090へのコメント   みきさん、はじめまして。南京レイプを書いた「ニューズウィーク」誌 (12月1日号)の紹介ありがとうございます。残念ながら私が本屋に行った ときは売り切れでした。   #5090、 >「この記事を読んだからといって、日本人が残虐だとは思っていない」とのこと。 > >そうは言っても、やはりあれだけの虐殺を行った、と書かれてしまうと、 >こちらとしては抗弁もしたくなります。   みきさんは率直な学生さんですね。みきさんは当てはまらないかもしれま せんが、日本のあまり誇れない歴史について、やみくもに抗弁したくなるとい うのは、とくにここの会議室で多くのメンバーに共通した反応ではないかと思 います。   もっとも、その抗弁が事実や史料にもとづくものであれば大いに歓迎すべ きです。しかし理性を欠いた近視眼的な「愛国心」にもとづく感情的な反発だ けはいただけません。   さて、南京虐殺事件は日中間では巨大な焼けぼっくいみたいな存在で、ご 存じのように、60年たった現在でもことあるごとにそれに火がつき問題にな ります。   その背景ですが、日本では「南京虐殺」の事実すら知らない若者が多いの にひきかえ、中国で「南京大屠殺」は「前事不忘、後事之師」として代々語り 継がれていることがあげられます。   この虐殺事件を中国でどうとらえているのかを示す興味深いデーターがあ ります。ちょうど一年前、日中国交正常化25周年を記念しておこなわれた 「中国青年報」のアンケートです(注7)。それによると、中国人青年のじつ に84%は「日本と聞いて思い浮かべるもの」に「南京大虐殺」をあげました。 これからすると、南京事件は日本に対するイメージを最悪なものにしているよ うです。   それも無理からぬ側面があります。日本の教科書で南京事件は長い間、タ ブーでした。そのうえ、現在でもこの事件を「まぼろし」とか「でっちあげ」 であると公言する人がいます。しかもそれが永野法務大臣(当時)のような閣 僚であってみればなおさらです(注8)。   ちなみに、ここの会議室でもその例にもれず「結局南京事件は中国が政治 宣伝で作った嘘です」(#5014)という発言などがありました。   かくも認識の差が激しい南京事件については、とくに冷静に歴史の事実を 見る目が必要ですが、これにうってつけの歴史資料があります。ラーベの日記 です。前回の書き込みで紹介した笠原教授の言葉をかりれば、この日記により 当時南京で何が起こったかを「リアルタイム」で知ることができます。それく らいこの日記は資料価値の高いものです。   そのためか、この本は飛ぶように売れ、今年10月に日中独3か国で同時 発売されて以来、2か月間に中国で7万冊、日本で4万冊も売れました。ドイ ツでも相当売れているようです。そのうち世界中で翻訳されることでしょう。   #5000, >この記事は、今度新しく出版される"The Rape of Nanking:The Forgotten >Holocaust of World War 2" という本の、著者(Iris Chang氏、チャイニー >ズアメリカンです)による紹介となっています。   ラーベの日記は、このアイリス・チャン女史により発見されました。彼女 は中国系二世の作家ですが、両親をとおして祖父母の南京での体験を聞き、そ れが耳にこびりついて離れなかったそうで、そこから南京事件を調査するよう になりました。その過程で大発見がなされました(注1)。   この日記の意義について、明治学院大学の横山宏章教授はこう述べていま す(注2)。           --------------------------   このような(まぼろし説など)政治的悪臭がぷんぷんと漂う南京の惨事を 冷静に検討するには、第三者の目を導入することが肝要である。加害者の日本 人でもない、被害者の中国人でもない、独自の目を持った人々の視点である。   その好材料が南京の惨事の真っ只中で活動した南京安全区国際委員会のメ ンバーが残した記録である。それはまさしく日本人でもなく、中国人でもない、 欧米人が間近にみた「南京の真実」である。   これまでも多くの欧米人の記録が日本語で出版された。代表的なものだけ を挙げると次のような記録が存在する。  ティンパレー編「戦争とはなにか、中国における日本軍の暴虐」(注3)  T・ダーディン記者報道『ニューヨーク・タイムズ』(注3)  南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集』(1)アメリカ関係資料編、 青木書店,1992  笠原十九司『南京難民区の百日、虐殺を見た外国人』岩波書店,1995  滝谷二郎『目撃者の南京事件、発見されたマギー牧師の日記』三交社,1992  だが、このラーベ日記は、そうした南京国際委員会のメンバーの記録の中 でも超一級品である。なぜなら、日記のなかに込められている記録の豊富さは いうまでもなく、ラーベが南京安全区国際委員会の代表であり、まさしく誠心 誠意、その任務を全うし、多くの外国人や中国人に感銘を与えた人物であるか らだ。   ラーベ自身の説明では、南京安全区国際委員会の代表を依頼された理由は 「私はドイツ人なので、日本当局との交渉の際に有利だという見通しがあっ た」からである。もちろん、日本がドイツと防共協定を結んだ同盟関係にあっ たからである。   だがそれだけではなかった。この日記を読めば感じられるように、非常に 誠実な人物であったようである。前出のダーディン記者は次のように報道して いる。  「安全区委員会の委員長であるジョン・ラーベ氏は、南京で彼を知るだれか らも尊敬される白髪のドイツ人であった」 (途中省略)   1938年5月の中国雑誌「半月文摘」に載った「地獄の南京」という記 事は、次のように述べている。  「国際難民区の救済委員会はまさに称賛に値する。難民区はたった二里四方 にすぎないが、居留民は25万人以上にものぼった。・・・   そのうち10万人以上は、ほとんど一銭もなく、完全に救済委員会の援助 で生活していた。だからその管理は並大抵ではなかった。働いていたのは、最 初は3人のドイツ人、1人のデンマーク人、3人のイギリス人、9人のアメリ カ人であった。だれもかれもみんな熱心で、われわれは深く感謝しなければな らない」   その中心がラーベであった。多くの中国人を日本軍の大量虐殺から救おう と奮闘したラーベは、多くのユダヤ人をナチスのホロコーストから救った人物 として有名なシンドラーに匹敵するとして、「中国のシンドラー」と呼ばれる。   とはいえ、ラーベがナチ党の党員であったという点に興味を引かれる。中 国滞在が長いラーベが、ナチス・ドイツで展開されていた反ユダヤ主義、のち に発生するホロコーストの前兆をどれだけ予知していたか、それは十分に判断 できないが、南京ではあの呪われたハーケンクロイツが多くの人命を救ったと いう現実をみることができる。   ナチスに批判的な国際委員会のメンバーも、ハーケンクロイツの威力を認 めざるをえなかった。            -------------------------   さて、日記の内容ですが、すでに#5243に書かれたように、その一部 がTBS・TVで放送されました(12月15日、TBS「筑紫哲也NEWS 23」)。その番組で印象に残った38年2月3日の日記を、TVで放送され なかった「人殺し部隊」の一節も含め引用します。            -------------------------   収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの 庭でも、70人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き 叫んでいる。なんという哀れな姿だろう・・・胸がふさがる。みな、ここから 出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されはしないかとおびえて いる。しごくもっともな話だ。私はくりかえしくりかえし訴えられた。  「あなたは、私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってください ました。お願いです、どうか見捨てないで! 最後まで守ってください。辱め られ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」   胸がつぶれるようだ。その気持ちはいたいほどわかる。だから私はここに 残ってもいいといった。けっきょく年寄りが何人か出て行っただけだった。   日高氏の言葉は本当だろうか。日本軍は暴力を用いることはないといって いたが。だがいままでさんざん煮え湯を飲まされてきたので、少々のことでは おどろかないだけの覚悟はある。明日、委員会のメンバーはそれぞれ警戒を怠 らないだろう。我々はいい加減腹に据えかねている。日本当局はやつらを「な らずもの」とか呼んでいるそうだが、聞いて呆れる。こっちじゃ「人殺し部 隊」といってるんだ。そういう輩が今度は正々堂々と収容所へ入ってくるとな れば、ただじゃすまないだろう。   今しがた張から聞いたのだが、私たちがかって住んでいた家の近く、通り を入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。17人の家族のうち、 6人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたから だ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去られて強姦された。結局女の 子がひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。   局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気 がして息苦しくなる。70を越えた人さえなんども暴行されているのだ。   日高氏に手紙を書いて、難民を力ずくで追い出すことはないという先日の 約束を文書にしてくれるよう、また、その件について軍当局とぜひもう一度話 し合ってくれるよう頼んだ。   江南セメント工場のシンバーグさんが、ギュンターさんの報告を届けてく れた。これをみると、南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことが わかる。強姦、殺人、撲殺。同じような報告が、四方八方から入ってくる。日 本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢揃いしたのかといいたくなる。 (以下省略)            -----------------------   女性の無惨な死体をそこらじゅうで見かけたとするラーベの日記は、あま りにリアルすぎて、読んでいる私まで息苦しくなりそうです。さらにラーベの とった写真にいたっては、この世の地獄を見る思いがします。散乱する死体を 前に立ちすくむ老婆の姿など目をそむけたくなります。   こうした残虐行為が、数万の市民に対しなされたことは、当時、日本軍上 層部も知っていたようでした。それについて、元一橋大学教授・藤原彰氏は次 のように紹介しています(注4)。 ------------------------   南京攻略にさいし、一般市民への残虐行為が多発したという認識は、軍上 層部に存在していた。翌38年8月に、武漢攻略のために第11軍司令官とし て赴任した岡村寧二郎中将は、その回想録に次のように書いている(『岡村寧 二郎大将資料(上)』原書房、1970,P291)。   上海に上陸して、1,2日の間、先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長  原田少将、杭州特務機関長萩原少佐から聴取したところを総合すれば、次の  とおりであった。  1.南京攻略時、数万の市民に対する略奪強姦等の大暴行があったのは事実   である。  1.第一線部隊は給養を名として俘虜を殺してしまう幣がある。   数万の市民への大暴行があったことを、軍の最高幹部も認めざるを得なか ったのである。             ------------------------   ラーベの日記に書かれた略奪・強姦等の暴行は、日本軍資料からも間接的 に裏付けられ、その信頼性は揺るぎのないものになっています。さらに最近、 ラーベが記録した資料に登場する被害者女性が名乗り出たのが注目されます。 それについて、駿河台大学の荒井信一教授はこう記しています(注5)。  「ラーベの目撃者として直接見聞した事柄についての記述は正確であるよう に思われる。この翻訳では割愛したが、原文には22点の写真が添付され、 ラーベ自身による説明が書かれている。   そのうちに19歳の身重の体を日本兵の銃剣で重傷をおわされた李秀英さ んの写真と説明がある。李秀英さんはさる二月来日し、損害賠償裁判で被害に ついて証言したが、被害状況についての証言はラーベの記述と一致した。・・   ラーベの報告書は、目撃者の直接記録という資料的価値以外に、南京事件 に関する被害証言をうらづける公文書としても重要な価値を持っている。報告 書の批判的検討を通じて南京事件の研究が一層進むことを期待したい」   やはりラーベの日記は資料として超一級であるようです。この資料を「新 しい歴史教科書をつくる会」のメンバーはどのように読むのでしょうか。かっ て副会長の藤岡信勝教授は南京事件についてこう記しました。  「一般市民に対する非行は確かにありました。安全区国際委員会は47人の 市民の虐殺について抗議しています。この中には真偽の疑わしいものも含まれ ているはずですが、全部正しいとしても47人です。これは軍隊が外国の首都 を戦闘の上占領した場合に起こる一般的なケースに比べて特に多いとはいえな い」(注6)   ラーベは、前回紹介したように、日本軍による市民の殺害は5万ないし6 万人とみていますが、これに対し藤岡氏は市民の虐殺をたった47人とみてお り、相当な開きがあります。これは虐殺を矮小化する政治的発言でしょうか。   これでは日中間で歴史認識のギャップはとうてい埋まらないばかりか、中 国の日本に対する不信と不満を増大させるのみです。それが「中国青年報」の アンケートに結果としてあらわれているようです。   ラーベ氏の孫に当たり、ラーベの日記の所有者であるラインハルトさんは テレビのインタビューでこう述べていたのが印象的でした。  「ラーベはいつもいっていました。許し、そして忘れなさいと。でも人は加 害者が罪を認めてはじめて許しあえるんです。南京虐殺がでっちあげだなんて 公言する人がいたら、それは再び中国人を侮辱し、恨みを呼びおこすことにな ります」   このことばをクリスマス・プレゼントとして、藤岡・西尾両教授に贈りた いと思います。 (注1)楊大慶「米国から見る南京大虐殺」『週刊金曜日』12月5日号     ヤン・ダーチン氏はジョージワシントン大学助教授在職。 (注2)ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、1997 (注3、原著注)  洞富雄編『日中戦争、南京大虐殺事件資料集』第二巻・英文資料編、青木書店。  南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集』(1)アメリカ関係資料編、青木書店 (注4)藤原彰「南京の日本軍」大月書店 (注5)荒井信一「南京事件・ラーベ報告書」解説、『戦争責任研究』第16号 (注6)西尾幹二・藤岡信勝「国民の油断、教科書が危ない」PHP研究所 (注7)読売新聞、97.2.15 『日本のイメージ、濃い「戦争の影」 中国の若者10万人調査』  【北京15日=高井潔司】日本と聞いてすぐ思い浮かべるのは、サクラや富士山よ りも、南京大虐殺、抗日戦争――。中国の若者の日本に対するイメージが、依然、過 去の不幸な歴史に彩られていることが、このほど「中国青年報」が行った調査で明ら かになった。  調査は、今年の国交正常化二十五周年を記念、昨年十二月、紙上で三十八項目の質 問を発表し、賞品付きで回答を公募するというアンケート方式で行われた。最近の中 国のナショナリズムの高まりや冷え込んだ日中関係への不満を反映、回答者は十万人 を超えた。  十五日付で掲載された結果によると、日本に対する全体的な印象は、「大変良い」 二・〇%、「良い」一二・五%に対し、「良くない」二七・一%、「大変良くない」 一四・四%と、悪い印象が高い数字を示した。  今世紀の日本を代表する人物としては、東条英機が二八・七%で断然トップ。橋本 首相が一二・八%でこれに続き、現職の強みを見せたものの、三位は山本五十六の一 二・一%。国交正常化の立役者、田中角栄元首相も一一・二%にとどまった。  多数の選択肢から「日本と聞いて思い浮かべるもの」を選べとの問い(複数回答) には、「南京大虐殺」八三・九%、「侵略者と抗日戦争」八一・三%が上位を占め、 「武士道」五八・一%、「サクラ」五一・二%、「電気製品」四八・九%を大きく引 き離した。  憲法第九条改正の動きへの懸念が八四・六%、軍事大国化に「大変心配」が四二・ 九%、「心配」が四六・六%。国連での日本の常任理事国入りに「反対」が九四・九 %など、日本に対するマイナスイメージが極めて強い結果となった。 (以下省略) (注8)人民日報、94.5.5 『日本の法務大臣、南京虐殺は「捏造」と史実を無視』 (東京発5月5日)   日本の『毎日新聞』の本日の報道によれば、日本の法務大臣・永野茂門は 3日、『毎日新聞』との会見の際、あろうことか歴史の事実を無視し、世界を 震撼させた日本軍による南京大虐殺は「捏造されたものである」と発言した。   話が第二次世界大戦中の日本の行為に及んだとき、永野は「あの戦争を侵 略戦争と言いくるめる見方は誤ったものだ」と言い、日本の行為の「目的は侵 略ではなく、植民地を解放し、(大東亜)共栄圏を建設することであった」と の認識を示した。  『毎日新聞』は、現職の閣僚による南京大虐殺を否認する見解の公表は中国 政府の反発を招き、同時に日本国内でも論争を引きおこすであろうと断定して いる。  (引用は、中村ふじえ他訳『アジアの新聞が報じた自衛隊の「海外派兵」と   永野発言・桜井発言』、梨の木舎)     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/12/28 - 05382/05382 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(3),ラーベの日記(2) ( 7) 97/12/28 17:52   ここの会議室では、南京事件を「中国のでっちあげ」と主張する人や、藤 岡教授の自由主義史観に共鳴する方など多彩なので、私の書き込み「南京虐 殺」に対し、さぞかし相当な反論があるものと覚悟してましたが、あにはから んや、正面切っての反論がなく拍子抜けしています。   そのわけは、千葉大学、秦郁彦教授の言葉を借りれば「ラーベ効果」のた めでしょうか。南京虐殺のようすを赤裸々につづったラーベの日記は、前回紹 介したように、各方面に強いインパクトとかなりの効果を与えたようです。と くに「マボロシ派」には衝撃が大きかったようで、それについて秦氏はこう書 いています(注1)。             ---------------------  「マボロシ派」の当惑   次に、いわゆる「マボロシ派」が受けた「ラーベ効果」の痕跡を検分して みる。マボロシ派として分類されているのは田中正明、阿羅健一、渡部昇一、 中村粲などの諸氏だが、彼らは20万、30万という虐殺はありえぬと声高に 叫ぶが、ゼロといっているわけでもなく、いくら問いつめても数については口 をつぐむ。   現在の感覚だと、300人や3000人でも「立派な大虐殺じゃないか」 と言い返されるのを知っているからだろう。 (途中省略、半月城注)   当のマボロシ派がラーベの(虐殺犠牲者数、半月城注)5-6万にどう反 応したか、ここでは渡部、中村両氏の例を紹介しよう。   渡部昇一氏は、97年9月9日の東幼会総会における講演で次のように述 べている。   廬溝橋事件は、八路軍の下っぱが起こしたことは今や明々白々、南京の虐  殺もインチキと証明されている。   ラーベ日記が発表されたとき、CNNニュースは大虐殺の証拠が出たと報  じたが、難民区に一発も砲弾が落ちなかったので、ラーベは日本軍へ感謝状  を出している。これほど気を使った日本軍が何十万と殺すはずがない。   先日、ある編集者がラーベの日記のレジメを持って感想を聞きに来た。読  んでいるひまがないので、二点だけたしかめた。「何人殺したと言っている  のか」と聞くと3万人ぐらい、すべて兵士だとのことだった。戦争で兵士を  殺すのは虐殺とは言わぬ。   ラーベ日記の現物を見れば大虐殺はなかったことが証明できる(中略)。  右翼的と言われる学者でもきわめて危険な人がいる。たとえば林健太郎先   生・・・   森羅万象何でもナデ切りにする渡部氏のことだから、少々のことでは私も おどろかないが、この放言ぶりには恐れいった。ラーベを読まずに伝聞か思い こみで切り捨てているわけだが、ラーベの上申書が「12日夜から13日にか けては、安全区はふたたび砲撃されました」と書いているように、砲弾や爆弾 は安全区にも落下している。   日本軍や大使館に兵士の暴行をやめさせてくれと何度も請願したが、「感 謝状」と呼べるものは難民一同がラーベに渡したもの(217ページ)しか見 当たらない。   中村氏のほうは、それに比べると誠実に読み込んでいるが、氏の「南京事 件60年目の真実ー『ラーベ日記』の信憑性を問う」(『正論』98年1月 号)をみると、困惑の風情をかくせない。  「一級資料であるとは云ひ得るにしても、そこに記載されてゐることが全て 事実であることにはならない」「この日記にも何がしかの意図がなかったとは 言ひ切れないであらう」と書くが、説得力のある具体的反証は乏しい。   たとえば「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百 人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦に次ぐ強姦。夫や兄弟 が助けようとすればその場で射殺」(37年12月17日のラーベ日記)のく だりを引用しつつ、中村氏の「『千人も暴行されたという』は明らかに伝聞で ある。これが伝聞であるとすれば次の『・・・百人以上の少女が被害にあっ た』も伝聞に属すると見てよいであろう。百人以上の暴行場面を目撃した筈は ないし、またラーベも目撃体験として書いている訳ではない」とするが、いか にも苦しい。   この論法でいけば、今朝の新聞を賑わしている犯罪記事も、記者が「伝聞 で書いているのだから信用できないことになる。警視庁からの「伝聞」である から信頼できるというのなら、難民区委員長として事実上の南京市長を果たし ていたラーベも同格にみなせないか、という話になろう。 (途中省略、半月城注)   ともあれ、「一刀両断」を本領としてきた中村氏が「歴史に書き残すべき は優れて『常識的な事実』でなければならない」との心境に達したのは、ラー ベ効果の一端なのではあるまいか。            ----------------------   「マボロシ派」の中村氏でさえ、ラーベの日記は「一級資料」と折り紙を つけているのが注目されます。これほどの資料について、秦氏自身は同論文で 感想をこう述べています。  「シンドラーとは比較にならぬほどの義人ーそれが私の率直な感想だが、そ の当否は別として行間から伝わってくる存在感と迫力に圧倒される思いを抱い た人は少なくないはずだ」   この文からすると、秦氏もラーベの日記を相当高く評価しているようです。 このように誰もがラーベの日記を高く評価しているようで、ここまでくると ラーベの日記は、秦氏のことばによれば「『百家争鳴』の観を呈している南京 事件論争に、方向性を与えるだけのインパクトと説得力を持っている」ように 思われます。   そのためか、ラーベの日記をベースにした私の書き込みについて、珍しく どなたからも正面から反論が出されなかったのかなと想像しています。   ときに秦教授は十年前、南京で死んだ人の数を「スマイス調査(修正)に よる一般人の死者2.3万、捕らわれてから殺害された兵士3.0万を基数と したい」としていましたが(注2)、前掲論文で「『遭難者』を軍民すべての 犠牲者(戦闘をふくむ)と解釈して、最大限でも10万を越えることはあるま い」とやや修正し、具体的に「10万以下」という数字を公表しているのが注 目されます。   これは藤岡信勝教授の「市民の虐殺47人」説(注3)とは雲泥の差です。 ここですこし気になるのですが、秦氏はこの藤岡氏を「マボロシ派」に分類し ないのでしょうか? それとも藤岡氏は歴史学者でないので、考察の対象外な のでしょうか? 藤岡教授は無視できない存在であるだけに、秦教授がどのよ うに見ているのか興味あるところです。 (注1)秦郁彦『南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する』「諸君」98年2月号 (注2)秦郁彦「南京事件」中公新書、1986 (注3)西尾幹二・藤岡信勝「国民の油断、教科書が危ない」PHP研究所     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/01/04 - 05429/05429 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(4),米国の論調 ( 7) 98/01/04 18:49 05382へのコメント   NET157さん、こんばんは。   千葉大学、秦郁彦教授の書く文章は玉石混淆のようです。「従軍慰安婦」 問題でも、日本軍と慰安所の関係は、文部省とその地下食堂みたいなものだと 主張して、ひんしゅくを買ったことがありました。   今回、ラーベの日記と「大虐殺派」のかかわりについても、秦氏の見方は 見当はずれではないかと思います。   #5382, >その同じ資料に、秦氏は、「まぼろし派」と同じような衝撃を受けた派に関して、 >”「大虐殺派」の当惑”と題して、次のような文章ものせてますね。(*^_^*)   秦教授いうところの「大虐殺派」は、ラーベの日記によって当惑するどこ ろか、ますます勢いづいているのではないかと思います。秦教授も一時参加さ れた「大虐殺派」の集会、「南京大虐殺60周年東京国際シンポジウム」など は大盛況で、初日に遅れて行った私は満員のため会場に入れないほどでした。   シンポジウムでは、ラーベの孫のラインハルトさんを招待したり、山のよ うな「ラーベの日記」を売りさばくなど、おおげさにいうとラーベ一色の感が ありました。   そもそもラーベの日記に光を当てたのは、アメリカの「大虐殺派」である チャン女史で、この日記は中国でも出版以来そうとうな売れ行きです。今や、 ラーベの日記は「大虐殺派」の推薦図書になった感があります。   その「ラーベの日記」を発見した立て役者、チャン女史をニューヨーク・ タイムスなどが記事に取り上げていました。その中からワシントン・ポストの 南京虐殺60周年記念特集記事をここに紹介します。            ------------------------ 「忘れられたホロコースト」、Ken Ringle   1937年、南京で起きたことはほとんど知られていないが、    ある女性の心に深く刻まれた。          ワシントン・ポスト,1997.12.11   アイリス・チャンは物理学者かつ微生物学者の娘として、イリノイ州、 アーバナ Champaignで育った。でも、夕食のとき耳にする家族の物語は、違う 場所の別な時代であった。   曾祖父は中国の将軍で、1920年代、数人の妾に囲まれ謎の死を遂げた。 祖母は1949年、中国が共産党統治下になったとき香港へ逃げた。祖父は 当時、伝説的な女性により捕らわれの身になり、助けを待つ身であった。   チャンにとって家族や中国で起きたことは、少女時代には漠然とした存在 であったが、それが今では彼女の執念になった。その核となるのは「南京レイ プ」として世に知られている、第二次大戦中なされた蛮行の嵐であった。   祖父母たちが辛うじて免れたその国難の意味を、チャン(29)は世界に 向け告発しようとしている。   それはなまじっかの執念ではない。彼女は二年間にわたる聞き取り調査を ふまえ、事件を物語風に英語で書いた最初の歴史書<南京レイプ、忘れられた 第二次世界大戦のホロコースト>をちょうど出版しおえた。その途中、彼女は 銃剣で突かれた赤ん坊や頭のない体、内蔵をえぐられた女性の写真などを目の あたりにして、髪の毛が抜け落ちるほど打ちのめされた。  「とにかく眠れませんでした。食事ものどを通りませんでした。編集者も二 番煎じとはいえ、この問題を扱うストレスのため、5キロも痩せました」と彼 女はいった。   いかに血の海が凄惨をきわめたか、ナチスの外交官すらたまらずヒット ラーに直接とりなしを嘆願したくらいであった。しかし、それはムダであった。  「人は、何が悪であり、悪とはどのようなものであるか知っているというか も知れません。しかし、私が発見したものに比肩できるのは何ひとつないでし ょう。ユダヤ人大虐殺の映像やストーリーすらもそれにかないません。」   ユダヤ人大虐殺と違い、南京レイプは第二次世界大戦の歴史で語られるこ とはほとんどなく、ほとんどの教科書からすっぽり抜け落ちている。実際、学 者や専門家以外、中国人でなければ真珠湾の4年前、すなわち今から60年前 の12月を思い起こす人はほとんどいない。   この月、日本帝国軍は当時の首都であった南京、現在のナンジンで暴虐に 走り、8週間で26万から35万人もの人をメッタ切りにした。この数はヒロ シマ、ナガサキの犠牲者の合計よりもっと多いのである。しかし、世界はその ことをはしなくも忘れているのである。   その8週間で、およそ8万人の中国人がレイプされた。なかには少女も含 まれていた。その多くは猟奇的に傷つけられ殺害された。   市民に対する虐殺でもナチスの場合、なるべく一般の視野に入らないよう に隠したり糊塗したが、日本の場合、恐怖にかられている外国人の面前で、む しろそれを誇示するかのようにカメラにおさまったり、あるときはフィルムに 撮られたのである。   現在、ドイツは「第三帝国」の苦い教訓を社会全体がしっかりかみしめて いるが、それにひきかえ今日の日本は当時の戦争犯罪人を神社に祀っている。   そのうえ、日本は第二次大戦中における多くの虐殺を認めもしなければ謝 罪もしないため、アジア諸国との関係を損なっている。わずかに一握りの日本 人が南京レイプの事例などでそれを試みている。  「日本政府は南京レイプを歴史から抹殺するため、あらゆることをしてきま した。官僚はかって起きたことを否定し、私の報告などを誇張であると主張し ました」   こう語る彼女は、自身が病むほどすさまじく迫力のある記録類を見いだし たのである。  「日本人は自分たちの行為、とくに女性に対しなしたことを記念して写真に 残しました。多くの女性は犯される前後、わいせつなポーズを強いられたうえ、 傷つけられ殺されました。しかし、私はそれらの写真を本から削除せざるをえ ませんでした。それらは重点をおいている学校の図書館で問題になり、置いて もらえない可能性があるからです」   そうした問題の写真は別の近刊書に掲載された。若いハンサムな日本兵が、 中国人死体のころがる場所にリラックスして幸せそうにほほえんで立っている 写真である。彼の右手にはサムライの刀、左手には切り取ったばかりの首が耳 元近くにかかげられていた。 (途中省略)   チャンは南京で流ちょうな中国語を駆使し、生き残った人のなかで10人 ほどに確認した。一人は当時、十代で妊娠中の身であった。彼女は犯されよう としたとき、必死に日本兵らに抵抗した。日本兵は銃剣で彼女を37回も刺した。彼女 は病院に運ばれ、かろうじて命を取りとめた。もちろん、赤ん坊は死 んだ。そのときの写真が残っている。彼女(李秀英さん、半月城注)は今や8 0歳近いが、文句なく非常に強い女性である。 (途中省略)   チャンは引き続き語った。  「この写真以上のものはありません。ポスターサイズに引き伸ばしましたが、 これは切り刻まれた体や切り取られた乳房、内蔵をえぐり取られた写真ではあ りません。それは犠牲者、とくに女性が死の瞬間にかいま見せる、極度の恐怖 でひきつった顔の表情です。それを知った以上、そのことを本に書かねばなり ません」   チャンは、他の証拠は得がたいのではないかと考えていたが、意外にもそ れを中国で大量に発見した。同時に彼女は、中国政府が南京レイプのような歴 史問題についてあいまいな態度をとっていることを知った。政府は、これがき っかけになって人権問題が注目されたり、日本との通商において友好関係が損 なわれたりすることを懸念している。   驚くべき宝の山がエール神学校の文書保管所にあった。同校は第二次世界 大戦前後、中国のアメリカ伝道師をフォローしていた。その後、彼女はドイツ で最大の発見をした。「中国のオスカー・シンドラー」と名付けた予想外の ヒーロー、ラーベの日記と論文を突きとめたのである。   ドイツ海軍提督の孫であるラーベは1908年以来、中国に居住し電話機 や電気機器を販売していた。はげ頭で眼鏡をかけたラーベは、ドイツ人コミュ ニティーの大黒柱であった。同時に彼は熱烈なナチ党員でもあった。遺稿から すると、彼は倫理的浄化より社会主義に興味があるようだ。   1937年暮、蒋介石の国民党軍が南京を撤退したとき、ラーベは「南京 安全区」を取り決めた国際委員会の委員長であった。市内にある安全区は、外 国人や中国人市民が、押し寄せる日本の虐殺を免れることができる中立地帯で あった。   彼はナチス党員として、枢軸同盟であるドイツの威光を背負っていた。し かし、ひとたび虐殺が始まると、彼の抗議は日本によって簡単にあしらわれた。 日本軍は中国各地で占領に抵抗されないよう、みせしめに国民党の旧首都を恐 怖に陥れようとしたのである。   ラーベは数千人の中国人を安全区に収容し救った。しかし、そこは不可侵 の領域ではなかった。「昨日、数人の女性が老若男女、子どもであふれる神学 校の大きな部屋の真ん中でレイプされた」と彼は日本大使館に文書で抗議した。   同時に、彼は切断された女性の遺体を発見したことや、そうしたことは日 本の宣伝ポスターに似つかわしくないと書いている。そのポスターには、「わ れわれ日本人を信じなさい。あなた方を守り、食べ物を与えます」と書かれて いた。   一方、ラーベは南京での略奪をやめさせるために、無駄ではあったがヒッ トラーに手紙を書いている。   その一方、ある外国人は彼の人道的行為に感銘を受け、ナチズムを拒絶す る人ですら彼に敬意を表して、自分たちは「ほとんどナチのバッジをつけてい るも同然」と書いている。   しかし、彼は1938年2月にドイツに呼び戻された後、日本の残虐行為 を出版しようとしたところ、秘密警察・ゲシュタポに逮捕された。その後、 ラーベは戦争を生き残り、1950年に永眠した。   ベルリンで戦後の彼は食うや食わずの生活であった。それを知った南京の 人たちは彼を救うために、数千ドルを集めた。南京市長も食料を集め、ラーベ に渡すためにスイスへ飛んだ。   チャンはラーベの物語を知って奮い立った。南京レイプは唯一の戦時脱線 行為でなく、東京に直結した計画的な占領恐怖政治の一環であり、ヒロヒト天 皇の叔父(朝香宮鳩彦王中将、半月城注)は南京占領に責任があるということ を知って、少なからず勇んだ。彼女はさらに続けた。  「当時の南京を証言する外国人がいたおかげで、私たちは南京を知ることが できました。ある人(マギー牧師、半月城注)は虐殺を写した映画フィルムを オーバーコートの裏に隠し、中国から持ち出しました。   しかし、もっと恐ろしいことが後に中国北部で起きました。北部は人口の 大半がいなかの農夫ですが、日本のため数千の村があっさり消えました」   学術的に見て、日本軍の乱行による死者の数は、1900万人ないし35 00万人になると見積もられている。  「そのことを日本政府は決して認めようとしませんでした。しかし、それは 純粋で単純な絶滅策でした。そして南京は来るべきものの最初の兆候でした」   チャンは、世界がそのような虐殺、中でも半世紀前のことに最近では感覚 が麻痺していると理解している。  「ヒットラーは600万人のユダヤ人を殺害しました。また、スターリンは 4千万人以上のロシア人を殺害しました。しかし、それらは数年かけて行われ ました。それに対し、南京レイプはわずか数週間で行われました」   現在、正確に何万くらいの人間が殺害されたかが論争になっている。日本 政府はそれを最小にみている。そのようななかで、チャンは国立公文書館でか なり信頼できる推定資料をみつけた。1938年1月17日、広田弘毅外務大 臣がワシントンとコンタクトした電文で、暗号はアメリカに傍受され解読され た(注)。   数日前、私は上海に戻って以来、南京や各地で日本軍によりなされた虐殺 の報告を調査した。多くの人の証言や手紙などの口述は文句なく信頼できるも のであり、それらは日本軍がアッチラやフン賊軍を連想させるやり方でふるま っていたことを確信させるものであった。30万人をくだらない中国人市民が、 ほとんど血も涙もない方法で虐殺された。   第二次大戦中、一か月間に一都市でかくも市民が死んだ例は、イギリス、 フランス、ベルギー、オランダでもかってない。   チャンは多くの日本人元兵士に会った。彼らは赤ん坊をお湯の中に投げた りしたことや、女性を集団レイプした後、首をはねたり焼き殺したりしたこと を率直に語った。現在、東京で医師をしている元兵士は、南京レイプで200 遺体以上を慰霊する祠を、良心の呵責から待合室に設けた。   日本はドイツと違って、「戦時中のアジアに対する残忍な行為を決して認 めてきませんでした」とチャンは主張する。その一方、ドイツはホロコースト で果たしたその役割を甘受し、犠牲者に対し巨額の補償金を支払った。  「日本でも一部の勇気ある歴史家は、日本はその過去を甘受し、南京レイプ の生存者に補償金を支払わなければならないと信じています。生存者の多くは 相当な窮地にあるうえ、過去の犠牲をひきずって健康を損ねています。   しかし日本では、勇気ある歴史家たちは、殺すなどと脅されています。ま た日本の教科書は「南京事件」を一、二節の簡単な説明で片づけています。さ らに、日本人は戦時中、侵略者であったことを認めようとはしません。あたか もアジアを襲った台風か何かのように考え、アジアの犠牲者と同じようにそれ を蒙ったつもりでおり、責任を持とうとしません」   そうしたやり方はだんだん通用しなくなるであろう。12月13日は南京 レイプ60周年にあたるが、アメリカではジョーンズ・ホプキンス大学、プリ ンストン大学、ハーバード大学や西海岸において、南京レイプが会議の主題と して取り上げられた。   メディアでは、ニューズウィーク誌が彼女の本を引用したし、テレビ番組 やインタビューなども計画されている。インターネットでは数十のホームペー ジが南京レイプを取り上げている。   アメリカの議会では、南京レイプなど大戦中の日本軍残虐行為を非難し、 犠牲者に補償を要求する法案が提出された。   それらは<ジャパン・バッシング(日本叩き)>のように聞こえるかも知 れない。しかし、そうした発想にチャンは真っ向から逆毛を立てている。「誰 一人、ドイツのホロコーストを書いた本をバッシングとはいいません。もし、 日本人をドイツ人や他の人たちと違った基準で計ったりしたら、とてつもない 人種差別主義者になってしまうでしょう」   チャンは、南京を想起する努力は、自分一人ではないと指摘する。昨年、 ジェームズ・イン(尹集均)とシ・ヨン(史詠)は<南京レイプ、否定できな い歴史写真集>で、何が起きたかを示す、身の毛もよだつような証拠写真を出 した。   またニューヨークの映像メーカー、ナンシー・トンはテレビドキュメンタ リー<天皇の名のもとに>を製作した。これは多くの国やアメリカの大学で上 映された。   チャンによると、サンフランシスコは第二次大戦中のアジアについて公立 学校で教えることにしたという。  「授業は権力集中についてふれるものです。ユダヤ人虐殺や南京レイプのよ うな残虐行為は極少数者の手に絶対権力が集中したとき起きます。わかってほ しいのは、人類はそのような残虐行為をなし得るものなのです。私たちは、そ れがいかにして起こるか理解しなければ、再び起こらないとは限らないので す」            ------------------------ (注)ホームページ「南京国際救済委員会」より引用 「明らかにされた外務大臣、広田弘毅の驚くべき電報」 (http://www.justnet.or.jp/home/ymasaki/SEIFU.HTM) 本当にショッキングな事実が明らかにされた。それは一九三八年1月、日本 軍が南京を占領してほんの1ヶ月しかたっていない時に、日本政府は南京での 犠牲者の数が30万を超えることを既に認めていたのである。 南イリノイ州大学の呉天威教授は「中国における日本の侵略」という季刊誌 の編集に携わっているが、アメリカ政府の書類の中から重要な証拠をはじめて 出版した人である。これは一九三八年1月17日、外務大臣広田弘毅によって ワシントンの日本大使館あてに出された暗号電文である。内容は以下に記す。 From: 東京(広田) To: ワシントン 1938年1月17日 No.227 上海から第176号文書として受理 数日前に上海に帰ってきて、報道された南京市内外での日本軍による虐殺を 調査したが、信頼できる筋からの証言や手紙から判断して、日本軍の行動はア ッチラとフン族軍を想起させるほどの傍若無人な行動が今も続いている。30万 に上る中国市民が虐殺されている。それも多くの場合、血も涙も無い方法で。 すでに数週間前に戦闘は終わっているはずの地域からも略奪、強姦(子供も含 めた)そして市民に対する非情極まりない殺戮の数々が報告され続けている。 上海のあちこちから日本軍が暴れている報告がなされているが、同じ日本人と して恥ずかしい思いでいっぱいだ。今日の新聞「字林西報」には不快極まりな い記事が載っていた。以下に記す。 「酒に酔った日本兵は、要求した酒と女を強奪できなかった腹いせに60歳を こえた中国人のおばあさんを3人射殺、他の市民にも負傷を負わせた。」 南京大虐殺によって引き起こされた国際的怒りの広がりにより、一九三八年 の1月から2月にかけて大虐殺のことは日本の外交官たちの大きな話題になっ ていたのである。この新しい秘密文書の公開は日本政府が南京で展開された恐 怖のことを知っていたことを表す最新の動かぬ証拠である。 (The Rape of Nanking より)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信) 解説(04.9.25)   上記の電文は、マンチェスターガーディアン紙の特派員であるティンパ レーが上海から送ろうとした電文を日本側が検閲により発見したものであり、 それを東京の広田外務大臣がワシントンの日本大使館へ転送したものです。し たがって、上記の文の原著者は広田外務大臣でなく、ティンパレーです。   広田外務大臣がそれをわざわざワシントンへ送ったのは、それだけ内容が 重要で深刻だったといえます。また、広田外務大臣が送った電文は日本語でし たが、それをアメリカが解読して英文に翻訳し、のちに公文書館に保管しまし た。上の文はそれを日本語に翻訳したものです。


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