- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策
04657/04657 PFG00017 半月城 韓国保護条約(3)、国際法
( 7) 97/10/19 22:42 04591へのコメント
韓国保護条約(第二次日韓協約)の合法性について、この会議室で相当な
関心が集まっているようなので、前々回の続きを書きたいと思います。
条約が合法であるかどうかは国際法が基準になるわけですが、現代の国際
法では、脅迫や武力による威嚇、あるいは武力行使により締結された条約は無
効であるとされています。
具体的には「条約法に関するウィーン条約」(1969年)により、威嚇
や脅迫により結ばれた条約は、それらが国に対してであれ(52条)、国の代
表者に対してであれ(51条)無効とされています(注1)。
ところが保護条約が結ばれた1905年当時は、このように明確な成文法
はありませんでした。しかし当時においても第51条の「個人に対する脅迫」
により結ばれた条約のほうは、慣習法として成立していたという見方が一般的
です。
日本政府も参議院予算委員会において、林条約局長が公式に「国際法上、
無効とされるのは、交渉当事者、締結者個人の身体に対する威嚇、脅迫があっ
た場合」(95.10.13)としており、脅迫のあり方は別にして、この慣習法の有
効性に関してはほとんど異論がないようです。
一方、52条の「国に対する威嚇」により結ばれた条約の方ですが、帝国
主義時代の平和条約がかなりこれに該当し、これを無効にすると、世界的に収
拾がつかなくなってしまいます。そのため、こちらの方は帝国主義国家間の利
害秩序を規定した当時の国際法上では無効とされていません。そのため、たと
えそれが不当であっても合法とされています。
さて、問題は脅迫対象の区別ですが、どのような場合が国家に対する威嚇
で、どのような場合が国の代表者に対する脅迫になるのか、その判断基準は慣
習国際法でかならずしも明確ではありません。しかし、中にはこれが明確に区
別できる事例もあります。
たとえば、1938年にドイツとチェコスロバキアの間で結ばれたミュン
ヘン協定がそのいい例です。この協定は、ドイツのヒットラーがチェコスロバ
キアの大統領と外相をベルリンに呼びつけ、ボヘミアとモラビアをドイツの保
護領にする協定に署名するようピストルを突きつけて要求し、拒否すればプラ
ハを爆撃すると脅して、強引に調印しました。
この場合、ピストルを突きつけたのが個人に対する脅迫、プラハ爆撃の予
告が国家に対する脅迫に相当します。この条約について、国連国際法委員会は
条約締結当時の慣習法を考慮し、無効と認定しました。
これを受け、1973年、西ドイツとチェコスロバキアは両国の関係正常
化条約を結び、前文で「ミュンヘン協定は、国家社会主義政権により武力の脅
威の下で、チェコスロバキア共和国に課せられたものであることを承認し」た
うえで、第1条で「ミュンヘン協定を無効とみなす」と規定しました。
これまでに、戦後処理方法をめぐって、しばしば日本と対比されるドイツ
ですが、ミュンヘン条約署名後、西ドイツ外相は「本条約は強制に基づく過去
の政策を、はっきりと拒否したものだ」と宣言し、過去の誤りを明快に認めま
した。
ナチスドイツの場合は、国家と個人に対する脅迫の区別が明快でしたが、
これに対し韓国保護条約はどうでしょうか。まず、国家に対する脅迫は、伊藤
博文が高宗皇帝に対し、保護条約を認めるよう脅迫した事例(1905.11.15)が
これに相当します。
このてんまつは、伊藤博文が天皇に報告した『伊藤博文韓国奉使記事摘
要』に次のように書かれています。
「本案(保護条約、半月城注)は帝国政府が種々考慮を重ね、もはや寸ごう
も変通の余地なき確定案にして・・・断じて動かすあたわざる帝国政府の確定
議なれば、今日の要はただ陛下の御決心いかに存す。
これを御承諾あるとも、又或いは御拒みあるとも御勝手たりといえども、
もし御拒み相ならんか、帝国政府はすでに決心ある所あり。其の結果は果たし
て那辺に達すべきか。けだし貴国の地位はこの条約を締結するより以上の困難
なる境遇に座し、一層不利益なる結果を覚悟せられざるべからず」(山辺健太
郎「日韓併合小史」岩波新書、現代かなづかいに変換)。
このとき伊藤は、皇帝がもし保護条約を認めなければ、大韓帝国はもっと
困難な境遇に陥るとあからさまに恫喝しました。これに対し、皇帝は「政府臣
僚に諮詢(しじゅん)し、また一般人民の意向をも察するの要あり」と述べ、
伊藤の舌鋒をかわそうとしました。
しかし、伊藤もさるもの、主権者である皇帝が人民の意向を徴するとは
「定めて是れ人民を煽動し、日本の提案に反抗を試みんとのおぼしめしと推せ
らる」と、皇帝を責めました。
これに動揺した皇帝はやむなく譲歩し「外部大臣は公使と交渉を重ね、そ
の結果を政府に提議し、政府はその意見を決定したる上、朕の裁可を求むるに
至るべし」と、日本との交渉開始を認めました。
こうして林公使は各大臣と交渉を始めました。このときの大臣たちは、参
政(首相)の韓圭ソルをはじめとして、林公使の強い「勧告」により就任した
人たちで、親日的人物と目される人たちでした。
それにもかかわらず、多くの大臣もまた保護条約締結に反対でした。その
ため伊藤と林は、韓国側が反対のまま内閣総辞職を招き、交渉不能となること
をおそれ、いっきょに調印を強行することを決意しました。
11月17日、林公使は「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開
催を要求しました。そのうえ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で
憲兵付きで諸大臣と林が参内しました(海野福寿「韓国併合」岩波新書)。
同時に伊藤と林公使は、#4453に記したように、軍隊を大々的に動員
し、威嚇のための軍事演習を行いました。この軍事演習は明らかに為政者や民
衆に対する脅迫ですが、これは条約締結をになう皇帝や大臣個人に対する脅迫
というより、国家に対する威嚇の側面が強かったといえそうです。
それに対し、『大韓季年史』が記すように、「銃刀森列すること鉄桶の如
く」慶雲宮内に満ちていた日本兵は「其の恐喝の気勢、以てことばにあらわし
難し」という状態で、窓に映る銃剣の影は閣議中の大臣たちを戦慄させるのに
十分で、これは過去の事例から個人に対する脅迫行為であったと思われます。
さて御前会議の結果、保護条約拒絶が全体の雰囲気であることを知った伊
藤は、長谷川軍司令官や多数の騎馬、憲兵を従えて王宮に出向き、御前会議の
再開を求めました。このとき、皇帝は病気を理由に出席を拒否したので、閣議
形式の会議が開かれました。
当時のロンドンタイムスによれば、伊藤は「自ら会議の席に臨み、更に5
時間の猶予時間を与えたると、大臣の一人が、責任のその身に及ばんことを恐
れ、中途にて退出したるに、日本全権はこれを引き止め、条約調印を承諾する
まで自由を与えざりし」という挙にでました。
この会議に、外国の使臣である伊藤や林が武官とともに出席すること自体
不法きわまりないことですが、そのうえさらに、伊藤は大臣たちを監禁状態に
して交渉を進めました。
ロンドンタイムスの記事に出てくる、会議途中で退室した大臣とは、もっ
とも強硬に反対した参政の韓圭ソルでした。この時のようすは#4453にも
書きましたが、彼が皇帝に面会するために、涕泣しながら退室しようとしたと
き、伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁い
た」とされています(西四辻公堯『韓国外交秘話』)。
その後、韓参政はなかなか会議室にもどって来ませんでした。それについ
て、伊藤の随員であった上記の西四辻大佐は次のようなエピソードを伝えてい
ます。
「参政大臣は依然として姿を見せない。そこで誰かがこれを訝ると、伊藤侯
は呟く様に『殺っただろう』と澄ましている。列席の閣僚中には日本語を解す
る者が二、三人居て、これを聞くとたちまち其隣へ其隣へとささやき伝えて、
調印は難なくバタバタと終ってしまった」(坂元茂樹「日韓保護条約の効力」
『関西大学法学論集』第44巻4・5合併号、1995)。
この話が真実であれば、これも明らかに条約調印者個人に対する脅迫にな
るのではないかと思います。大臣たちの脳裏には、10年前の日本公使・三浦
梧楼主導による王妃斬殺事件が恐怖としてよみがえり、我が身の危険をひしひ
しと感じたのではないかと思います。
関西大学の坂元茂樹教授の研究よれば、国家代表者に対しての強制は、日
本政府の見解より広く「肉体的強制に限定する論者は少なく、強制は肉体的強
制のみならず精神的強制を含むと考えられていた」とされています(同上書)。
条約調印時、日本軍が会議場を取り囲み、大臣たちの自由を拘束したうえ、
「殺ってしまえ」とか「殺っただろう」とか脅迫した状況はどうみても、国家
代表者個人に対する脅迫といえるのではないかと思います。
しかしながら明治大学の海野教授は、前出の坂元論文を「日本側が韓国側
に加えた強制を個人に対する強制と断定する国際法上の基準は不明確であると
して、無効説に疑問を投げかけている」と解釈し、こう述べました(注2)。
「旧条約無効論は、法律的にも歴史学的にも無効を立証するには、なお不十
分と言わざるをえない。無効論は日本の歴史学界にはなじんでいない」
「現在では歴史学が蓄積した豊富な情報を共有している。その資料を利用し
て国際法学者があらためて「第二次日韓協約」締結の適法性の有無を検討され
ることを期待したい」
(海野福寿「『韓国併合条約』無効論をめぐって」、『戦争責任研究』第12
号、1996)
この認識の上に、海野氏は保護条約は不当ではあっても、形式的適法性を
有していたと結論づけました。主張の中で、無効論は立証不十分なので、適法
性について法学者の再検討を期待すると自信のないことを言いつつ、形式的に
適法であったと断定するのは、どうも結論を急ぎすぎているように見えます。
一方、海野氏がよりどころにしている坂元論文ですが、その中で国際法学
者の坂元氏は適法性の判断を逆に歴史学者にゆだねると、こう書いています。
「日韓保護条約がはたして強制によるものであったかどうかは、韓国の同意
がどのような状況下で行われたかの評価に関わる問題である。大韓帝国に国家
の存亡に関わる圧力が日本からもたらされたことは誰の目にも明らかであるが、
問題は、国家代表者に国際法が禁ずるような形で強制が行われたかどうかとい
う点であろう。歴史学者ではない筆者には、その事実認定は能力を超えるとこ
ろがある」
このように、歴史学者は法学者の再検討を望む一方、法学者は歴史学者で
ないから判断できないという「ゆずりあい」の構図は、それだけこの問題の重
要さを示しているといえます。そうした事情をふまえて、坂元教授は次のよう
にその論文を締めくくりました(前掲書)。
----------------------------
ひるがえって考えてみると、わが国は、国際法の実践者として、他に例を
みない特異な地位を占めてきた。「強者の法」たる伝統的国際法によって、そ
の開国に際して、ペリーの砲艦外交に屈し鎖国政策の放棄を余儀なくされた経
験をもつ一方で、その経験に倣ってか、隣国朝鮮に対しては、1875年、江
華島事件を引き起こし、日韓修好条規を締結し開国を強要した経験をもつ。
伝統的国際法がもつ負の部分に異議を申し立てるかわりに、逆にきわめて
優秀な実践者としてふるまうことになった。それらを通じて、あまり誇るべき
事柄でないことを隣国に行ってきたことは否定できない事実であろう。
但し、公平を期するために指摘しておかねばならないのは、わが国政府も
決して、日韓保護条約を手放しで擁護していない事実である。第6回日朝交渉
において、日韓保護条約について、北朝鮮側に「条約を正当だったとする根拠
は何か」と質問されて、日本政府は、「国際法上有効とは言ったが、正当とは
言っていない」と回答したと伝えられている。「正当とはいっていない」とい
う日本側の回答に苦渋の色を見るのは筆者だけだろうか。
いずれにしても、この日韓保護条約の効力問題は、先に述べたように、国
交正常化にあたって過去の清算をどのように行うかという問題と深く関わって
いるために、日本政府にとっては軽々に結論を出せない問題である。
本条約を無効であると結論することは、その後の日韓併合条約も無効であ
り、日本は違法な植民地支配に対して賠償せよとの議論に連なるからである。
そうなると、先に締結した日韓基本条約との関連をどうするかという問題もで
てくる。
まさしく、パンドラの箱を開けることになりかねないのである。慎重な姿
勢はその意味で理解できる。しかし、日本と朝鮮半島の間に確固たる平和的関
係を築くために、この問題を避けて通ることはむずかしいように思われる。何
らかの形で解決の道を探る必要があろう。
そのためには、お互いに自己弁護や他者の告発に終始することなく、理性
と現実主義の精神をもって、双方が満足のゆく解決を模索する努力を行う必要
がある。それは、おそらく条約法の領域を超える事柄であろう。
日本の国連常任理事国入り問題が語られている今日、過去の清算の努力を
せずに政治大国化することは、侵略戦争を犯した過去との「断絶」を否定する
ことになりかねない。
過去の歴史からわれわれが何を学びとるかが、今、試されている。
---------------------------
(注1)条約法に関するウィーン条約
第51条で、「国の同意の表明は、当該国の代表者に対する行為または脅迫に
よる強制の結果行われたものである場合には、いかなる法的効果も有しえ
ない」
第52条で、「武力による威嚇または武力の行使の結果、締結された条約は無
効である」とされています。
(注2)坂元氏の原文は次のとおりです。
「国際法は、確かに、国家それ自体への強制として国家元首や大臣という職
務上の機関に加える強制の法的効果と、個人としての彼らに対する強制のそれ
とを区別していたが、日韓保護条約のような事例への具体的適用を考えた場合
に、十分な区別の基準を提供していたかどうかいささか疑問が残る。
(つづく)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。