半月城通信
No. 40

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 韓国保護条約(3)、国際法
  2. 韓国保護条約(4)、帝国主義時代の条約
  3. 韓国保護条約(5)、国際的な認識


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 04657/04657 PFG00017 半月城 韓国保護条約(3)、国際法 ( 7) 97/10/19 22:42 04591へのコメント   韓国保護条約(第二次日韓協約)の合法性について、この会議室で相当な 関心が集まっているようなので、前々回の続きを書きたいと思います。   条約が合法であるかどうかは国際法が基準になるわけですが、現代の国際 法では、脅迫や武力による威嚇、あるいは武力行使により締結された条約は無 効であるとされています。   具体的には「条約法に関するウィーン条約」(1969年)により、威嚇 や脅迫により結ばれた条約は、それらが国に対してであれ(52条)、国の代 表者に対してであれ(51条)無効とされています(注1)。   ところが保護条約が結ばれた1905年当時は、このように明確な成文法 はありませんでした。しかし当時においても第51条の「個人に対する脅迫」 により結ばれた条約のほうは、慣習法として成立していたという見方が一般的 です。   日本政府も参議院予算委員会において、林条約局長が公式に「国際法上、 無効とされるのは、交渉当事者、締結者個人の身体に対する威嚇、脅迫があっ た場合」(95.10.13)としており、脅迫のあり方は別にして、この慣習法の有 効性に関してはほとんど異論がないようです。   一方、52条の「国に対する威嚇」により結ばれた条約の方ですが、帝国 主義時代の平和条約がかなりこれに該当し、これを無効にすると、世界的に収 拾がつかなくなってしまいます。そのため、こちらの方は帝国主義国家間の利 害秩序を規定した当時の国際法上では無効とされていません。そのため、たと えそれが不当であっても合法とされています。   さて、問題は脅迫対象の区別ですが、どのような場合が国家に対する威嚇 で、どのような場合が国の代表者に対する脅迫になるのか、その判断基準は慣 習国際法でかならずしも明確ではありません。しかし、中にはこれが明確に区 別できる事例もあります。   たとえば、1938年にドイツとチェコスロバキアの間で結ばれたミュン ヘン協定がそのいい例です。この協定は、ドイツのヒットラーがチェコスロバ キアの大統領と外相をベルリンに呼びつけ、ボヘミアとモラビアをドイツの保 護領にする協定に署名するようピストルを突きつけて要求し、拒否すればプラ ハを爆撃すると脅して、強引に調印しました。   この場合、ピストルを突きつけたのが個人に対する脅迫、プラハ爆撃の予 告が国家に対する脅迫に相当します。この条約について、国連国際法委員会は 条約締結当時の慣習法を考慮し、無効と認定しました。   これを受け、1973年、西ドイツとチェコスロバキアは両国の関係正常 化条約を結び、前文で「ミュンヘン協定は、国家社会主義政権により武力の脅 威の下で、チェコスロバキア共和国に課せられたものであることを承認し」た うえで、第1条で「ミュンヘン協定を無効とみなす」と規定しました。   これまでに、戦後処理方法をめぐって、しばしば日本と対比されるドイツ ですが、ミュンヘン条約署名後、西ドイツ外相は「本条約は強制に基づく過去 の政策を、はっきりと拒否したものだ」と宣言し、過去の誤りを明快に認めま した。   ナチスドイツの場合は、国家と個人に対する脅迫の区別が明快でしたが、 これに対し韓国保護条約はどうでしょうか。まず、国家に対する脅迫は、伊藤 博文が高宗皇帝に対し、保護条約を認めるよう脅迫した事例(1905.11.15)が これに相当します。   このてんまつは、伊藤博文が天皇に報告した『伊藤博文韓国奉使記事摘 要』に次のように書かれています。  「本案(保護条約、半月城注)は帝国政府が種々考慮を重ね、もはや寸ごう も変通の余地なき確定案にして・・・断じて動かすあたわざる帝国政府の確定 議なれば、今日の要はただ陛下の御決心いかに存す。   これを御承諾あるとも、又或いは御拒みあるとも御勝手たりといえども、 もし御拒み相ならんか、帝国政府はすでに決心ある所あり。其の結果は果たし て那辺に達すべきか。けだし貴国の地位はこの条約を締結するより以上の困難 なる境遇に座し、一層不利益なる結果を覚悟せられざるべからず」(山辺健太 郎「日韓併合小史」岩波新書、現代かなづかいに変換)。   このとき伊藤は、皇帝がもし保護条約を認めなければ、大韓帝国はもっと 困難な境遇に陥るとあからさまに恫喝しました。これに対し、皇帝は「政府臣 僚に諮詢(しじゅん)し、また一般人民の意向をも察するの要あり」と述べ、 伊藤の舌鋒をかわそうとしました。   しかし、伊藤もさるもの、主権者である皇帝が人民の意向を徴するとは 「定めて是れ人民を煽動し、日本の提案に反抗を試みんとのおぼしめしと推せ らる」と、皇帝を責めました。   これに動揺した皇帝はやむなく譲歩し「外部大臣は公使と交渉を重ね、そ の結果を政府に提議し、政府はその意見を決定したる上、朕の裁可を求むるに 至るべし」と、日本との交渉開始を認めました。   こうして林公使は各大臣と交渉を始めました。このときの大臣たちは、参 政(首相)の韓圭ソルをはじめとして、林公使の強い「勧告」により就任した 人たちで、親日的人物と目される人たちでした。   それにもかかわらず、多くの大臣もまた保護条約締結に反対でした。その ため伊藤と林は、韓国側が反対のまま内閣総辞職を招き、交渉不能となること をおそれ、いっきょに調印を強行することを決意しました。   11月17日、林公使は「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開 催を要求しました。そのうえ、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で 憲兵付きで諸大臣と林が参内しました(海野福寿「韓国併合」岩波新書)。   同時に伊藤と林公使は、#4453に記したように、軍隊を大々的に動員 し、威嚇のための軍事演習を行いました。この軍事演習は明らかに為政者や民 衆に対する脅迫ですが、これは条約締結をになう皇帝や大臣個人に対する脅迫 というより、国家に対する威嚇の側面が強かったといえそうです。   それに対し、『大韓季年史』が記すように、「銃刀森列すること鉄桶の如 く」慶雲宮内に満ちていた日本兵は「其の恐喝の気勢、以てことばにあらわし 難し」という状態で、窓に映る銃剣の影は閣議中の大臣たちを戦慄させるのに 十分で、これは過去の事例から個人に対する脅迫行為であったと思われます。   さて御前会議の結果、保護条約拒絶が全体の雰囲気であることを知った伊 藤は、長谷川軍司令官や多数の騎馬、憲兵を従えて王宮に出向き、御前会議の 再開を求めました。このとき、皇帝は病気を理由に出席を拒否したので、閣議 形式の会議が開かれました。   当時のロンドンタイムスによれば、伊藤は「自ら会議の席に臨み、更に5 時間の猶予時間を与えたると、大臣の一人が、責任のその身に及ばんことを恐 れ、中途にて退出したるに、日本全権はこれを引き止め、条約調印を承諾する まで自由を与えざりし」という挙にでました。   この会議に、外国の使臣である伊藤や林が武官とともに出席すること自体 不法きわまりないことですが、そのうえさらに、伊藤は大臣たちを監禁状態に して交渉を進めました。   ロンドンタイムスの記事に出てくる、会議途中で退室した大臣とは、もっ とも強硬に反対した参政の韓圭ソルでした。この時のようすは#4453にも 書きましたが、彼が皇帝に面会するために、涕泣しながら退室しようとしたと き、伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁い た」とされています(西四辻公堯『韓国外交秘話』)。   その後、韓参政はなかなか会議室にもどって来ませんでした。それについ て、伊藤の随員であった上記の西四辻大佐は次のようなエピソードを伝えてい ます。  「参政大臣は依然として姿を見せない。そこで誰かがこれを訝ると、伊藤侯 は呟く様に『殺っただろう』と澄ましている。列席の閣僚中には日本語を解す る者が二、三人居て、これを聞くとたちまち其隣へ其隣へとささやき伝えて、 調印は難なくバタバタと終ってしまった」(坂元茂樹「日韓保護条約の効力」 『関西大学法学論集』第44巻4・5合併号、1995)。   この話が真実であれば、これも明らかに条約調印者個人に対する脅迫にな るのではないかと思います。大臣たちの脳裏には、10年前の日本公使・三浦 梧楼主導による王妃斬殺事件が恐怖としてよみがえり、我が身の危険をひしひ しと感じたのではないかと思います。   関西大学の坂元茂樹教授の研究よれば、国家代表者に対しての強制は、日 本政府の見解より広く「肉体的強制に限定する論者は少なく、強制は肉体的強 制のみならず精神的強制を含むと考えられていた」とされています(同上書)。   条約調印時、日本軍が会議場を取り囲み、大臣たちの自由を拘束したうえ、 「殺ってしまえ」とか「殺っただろう」とか脅迫した状況はどうみても、国家 代表者個人に対する脅迫といえるのではないかと思います。   しかしながら明治大学の海野教授は、前出の坂元論文を「日本側が韓国側 に加えた強制を個人に対する強制と断定する国際法上の基準は不明確であると して、無効説に疑問を投げかけている」と解釈し、こう述べました(注2)。  「旧条約無効論は、法律的にも歴史学的にも無効を立証するには、なお不十 分と言わざるをえない。無効論は日本の歴史学界にはなじんでいない」  「現在では歴史学が蓄積した豊富な情報を共有している。その資料を利用し て国際法学者があらためて「第二次日韓協約」締結の適法性の有無を検討され ることを期待したい」 (海野福寿「『韓国併合条約』無効論をめぐって」、『戦争責任研究』第12 号、1996)   この認識の上に、海野氏は保護条約は不当ではあっても、形式的適法性を 有していたと結論づけました。主張の中で、無効論は立証不十分なので、適法 性について法学者の再検討を期待すると自信のないことを言いつつ、形式的に 適法であったと断定するのは、どうも結論を急ぎすぎているように見えます。   一方、海野氏がよりどころにしている坂元論文ですが、その中で国際法学 者の坂元氏は適法性の判断を逆に歴史学者にゆだねると、こう書いています。  「日韓保護条約がはたして強制によるものであったかどうかは、韓国の同意 がどのような状況下で行われたかの評価に関わる問題である。大韓帝国に国家 の存亡に関わる圧力が日本からもたらされたことは誰の目にも明らかであるが、 問題は、国家代表者に国際法が禁ずるような形で強制が行われたかどうかとい う点であろう。歴史学者ではない筆者には、その事実認定は能力を超えるとこ ろがある」   このように、歴史学者は法学者の再検討を望む一方、法学者は歴史学者で ないから判断できないという「ゆずりあい」の構図は、それだけこの問題の重 要さを示しているといえます。そうした事情をふまえて、坂元教授は次のよう にその論文を締めくくりました(前掲書)。           ----------------------------   ひるがえって考えてみると、わが国は、国際法の実践者として、他に例を みない特異な地位を占めてきた。「強者の法」たる伝統的国際法によって、そ の開国に際して、ペリーの砲艦外交に屈し鎖国政策の放棄を余儀なくされた経 験をもつ一方で、その経験に倣ってか、隣国朝鮮に対しては、1875年、江 華島事件を引き起こし、日韓修好条規を締結し開国を強要した経験をもつ。   伝統的国際法がもつ負の部分に異議を申し立てるかわりに、逆にきわめて 優秀な実践者としてふるまうことになった。それらを通じて、あまり誇るべき 事柄でないことを隣国に行ってきたことは否定できない事実であろう。   但し、公平を期するために指摘しておかねばならないのは、わが国政府も 決して、日韓保護条約を手放しで擁護していない事実である。第6回日朝交渉 において、日韓保護条約について、北朝鮮側に「条約を正当だったとする根拠 は何か」と質問されて、日本政府は、「国際法上有効とは言ったが、正当とは 言っていない」と回答したと伝えられている。「正当とはいっていない」とい う日本側の回答に苦渋の色を見るのは筆者だけだろうか。   いずれにしても、この日韓保護条約の効力問題は、先に述べたように、国 交正常化にあたって過去の清算をどのように行うかという問題と深く関わって いるために、日本政府にとっては軽々に結論を出せない問題である。   本条約を無効であると結論することは、その後の日韓併合条約も無効であ り、日本は違法な植民地支配に対して賠償せよとの議論に連なるからである。 そうなると、先に締結した日韓基本条約との関連をどうするかという問題もで てくる。   まさしく、パンドラの箱を開けることになりかねないのである。慎重な姿 勢はその意味で理解できる。しかし、日本と朝鮮半島の間に確固たる平和的関 係を築くために、この問題を避けて通ることはむずかしいように思われる。何 らかの形で解決の道を探る必要があろう。   そのためには、お互いに自己弁護や他者の告発に終始することなく、理性 と現実主義の精神をもって、双方が満足のゆく解決を模索する努力を行う必要 がある。それは、おそらく条約法の領域を超える事柄であろう。   日本の国連常任理事国入り問題が語られている今日、過去の清算の努力を せずに政治大国化することは、侵略戦争を犯した過去との「断絶」を否定する ことになりかねない。   過去の歴史からわれわれが何を学びとるかが、今、試されている。           --------------------------- (注1)条約法に関するウィーン条約 第51条で、「国の同意の表明は、当該国の代表者に対する行為または脅迫に   よる強制の結果行われたものである場合には、いかなる法的効果も有しえ   ない」 第52条で、「武力による威嚇または武力の行使の結果、締結された条約は無   効である」とされています。 (注2)坂元氏の原文は次のとおりです。  「国際法は、確かに、国家それ自体への強制として国家元首や大臣という職 務上の機関に加える強制の法的効果と、個人としての彼らに対する強制のそれ とを区別していたが、日韓保護条約のような事例への具体的適用を考えた場合 に、十分な区別の基準を提供していたかどうかいささか疑問が残る。 (つづく)     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/10/26 - 04699/04699 PFG00017 半月城 韓国保護条約(4)、帝国主義時代の条約 ( 7) 97/10/26 23:21 04613へのコメント   前回紹介したように西四辻大佐によれば、閣議の席上、中座した参政大臣 (首相)がなかなか会議に戻ってこないことについて、伊藤博文が『殺っただ ろう』といったところ、この脅しがきいて保護条約(第二次日韓協約)の調印 はバタバタと終わってしまったとのことでした。   直前の御前会議まで保護条約に反対していた大臣たちも、武力を背景に不 当にも大韓帝国の閣議にまで乗り込み、そのうえそれを強引に仕切った伊藤博 文の辣腕の前に、とうてい抗しきれないことを悟ったようでした。そこで、乙 巳五賊の大臣たちは条件闘争に転じ、条約文の修正を試みました。  #4613,  >具体的にはどのような箇所が修正されたのでしょうか。   修正の過程で見落とすことができないのは、学相・李完用の「内政に干渉 せず」とする字句の挿入要求をめぐるやりとりです。この修正要求に対し、伊 藤は内政干渉という表現を避け、かわりに条約でおかれることになった統監の 権限について「統監はもっぱら外交に関する事項を処理するため京城(ソウル) に駐在し」という条文で妥協をはかりました。   これは保護条約が、単に韓国の外交権を奪ったのではなく、内政権にまで 踏み込む意図があったことを如実に示しています。実際、日本は条約にうたわ れた統監府に総務部、農商工部、警務部をおくと同時に、その後「韓国施政に 関する協議会」を韓国併合まで97回も開き、事あるごとに韓国内政にこまか い指示を与えました。   そのうえ必要とあれば、統監は韓国守備軍まで動かすことができたので、 その権限はのちの植民地時代の総督に匹敵するものでした(注1)。こうして みると、実質的に保護条約は併合条約にかなり近いものでした。   さて修正過程でもう一点重要なのは、皇帝との関連です。日本側の資料 「日韓新協約調印始末」によれば、皇帝の要求により、条約前文に有効期限の 代わりとして「韓国の富強の実を認むる時に至る迄」という文言が挿入された ようでした。皇帝は、徹頭徹尾条約反対を主張してきましたが、伊藤の恫喝の 前に、この時ばかりは一時的に心が動揺して、せめてもの文言修正を要求した のでしょうか。   この一時的な言動があだになり、後々までこの言質を伊藤に口封じの材料 として使われたようでした。しかし、皇帝は終始一貫、保護条約に反対で、こ れ以後も条約無効を訴え、精一杯の努力を続けました。   だが補佐役の忠臣を排除され、日本軍の虜囚同然の身の上にあった皇帝に 残された唯一の道は、密使を通じて条約の不承認と無効を諸外国に訴えること だけでした。外国の干渉を呼びこむことによって、自国につかみかかろうとす る侵略者の手をふりはらおうとしたのでした(注2)。   皇帝はわらをもつかむ心境で「朝米修好通商条約」をたよりに、アメリカ へ再三密使を派遣しました。しかし、桂・タフト条約を結び、日本帝国の権益 をすでに承認していたアメリカはこれを相手にしませんでした。   皇帝はさらにイギリスなどに、世界の大国が5年間韓国外交を共同保護す ることを求めた国書を送りましたが、いずれも不首尾に終わりました。   そうした秘密外交の中で、とくによく知られているのが、1907年、 ハーグへの密使派遣です。ロシアのニコライ二世の提唱により、オランダの ハーグで開かれた第二回万国平和会議に、皇帝は二人の密使を派遣しましたが、 この平和会議はしょせん帝国主義国家間の会議で、密使の参加は認められませ んでした。わずかにオランダのジャーナリストであるステッドが主宰する国際 協会で演説する機会を得て、アピール文を配布したにとどまりました。   しかし、この行為に激怒した伊藤の圧力により、皇帝は強制的に退位させ られてしまいました。ここで注目されるのは、この伊藤の行動は当時の日本の マスコミなどに強く支持されていた点でした。この背景には日本の民衆の根強 い支持があったようでした(注3)。   ところで、皇帝が保護条約をさかんに無効であるとした主張は、その権限 からして正当でした。当時、大韓帝国の主権は皇帝にあり、1899年の大韓 帝国国制第9条により皇帝は条約締結権をもっていました。したがって皇帝が 認めない条約は韓国では無効になります。   しかるに韓国保護条約は、法学者の有賀長雄氏によれば「韓国外務大臣と 日本公使がその平日の職権をもって調印したる、いわゆる同文通牒の形式をと るもの」で「正式条約に非」ざるものでした(注4)。   このような事情からすると、韓国の国定教科書が「(保護)条約締結に失 敗した日帝は、一方的に条約成立を公表」とした記述は妥当であるといえます。   これについて、駿河大学の荒井信一教授は「いったい『国家存亡興廃』 『国民の休戚』を左右するような取り決めを外交使臣の『平日の職権』で決め ることができるのであろうか。もし当時の国際法がそれを許容していたとすれ ば、法=形式の問題はあって無きがものとしかいいようはない」と正鵠を射た 指摘をしています(注5)。   先ほどの有賀氏によれば、「同種の保護条約はたいてい正式条約の体裁を 取れる」の通例でした。たとえば、フランスがチュニジアを保護国としたバル ド条約は、その内容が韓国保護条約にそっくりなことでよくしられていますが、 これをはじめとしてプノンペン条約、ユエ条約などことごとく批准の必要が明 記されていました。   このように、当時の世界的な法秩序や慣習からすると、保護条約に批准書 は本来必要なようです。しかし弱肉強食の帝国主義時代、列強は自国の利益を 優先させるあまり、ややもすると国際的な法秩序をないがしろにする傾向にあ りました。   その一例として、韓国保護条約強制を容易にした日英同盟など、日本の諸 条約をあげることができます。1904年に結ばれた日韓議定書では第三条で 韓国の独立を保証し、さらに第五条で日韓両国が第三国と協定するばあいには、 相互の承認を要する、としていました。   それにもかかわらず、日本政府は韓国政府に承認はおろか、通告すらせず に、韓国の独立を否定する保護条約締結を含意する「第二回日英同盟協約」を 1905年8月に調印しました(注2)。その協約において、日本の立場は第 三条で次のように示されました。  「日本国は韓国において政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有するを 以て、大ブリテンは、日本国が該利益を擁護増進せむが為、正当かつ必要と認 むる指導、監理及保護の措置を韓国において執るの権利を承認す・・・」   これに対し、韓国の朴斉純外相は日英新協約をもちろん非難し、駐韓イギ リス公使と日本公使に抗議しました。萩原代理公使とジョーダン公使はただち に協議し、結論としてなんらの措置をとらず『イグノア』、すなわち無視する ことを決め込みました。ここに強国の身勝手な条約運用をみることができます。   また、この三条とそっくりの条文が「日露講和条約」においても使われま した。その第二条で日本の韓国支配が下記のように明記されました。  「ロシア帝国政府は、日本国が韓国において政事上、軍事上及経済上の卓絶 なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国において必要と認むる指 導、保護及監理の措置を執るにあたり、これを阻礙し、又はこれに干渉せざる ことを約す」   さらに日本はアメリカとの「桂・タフト協定」を1905年7月にむすび ました。これは周知のように、アメリカのフィリッピン統治と日本の韓国に対 する保護権設定を相互に認めあう内容ですが、これも当然日韓議定書に反しま す。   こうした国際的な協定や条約で日本は列強と利害調整をはかり、韓国保護 条約をものにしました。20世紀初頭までの国際法秩序がいかに強国本位であ ったかがわかります。そこにいたる国際法の展開について、荒井教授は次のよ うに説いています(注5)。           ------------------------------   主権国家相互の関係を規律する国際法は、分離対立する主権国家と統合統 一に向かう国際社会とのせめぎあいを通じて発展してきたものであるが、エリ アスはとくにアフリカ分割のはじまる1880年代から国家が強調され前面に 出てくることを指摘している。   植民地分割と軍備拡張競争が激化し、強国間の対立が深刻化したこの時代 にはハーグ条約等の戦争手段方法を制限しようとする試みをのぞき、平和的国 際秩序形成の企図は強国の利害の主張によって挫折した。   日英同盟にしても、一種の世界戦争であった日露戦争へ向かう深刻な国際 対立の所産であり、強国の露骨な利害によって実現したものであった。   当時、日英同盟のほかに日露協商やドイツを加えた三国同盟も具体的に検 討されており、そのなかで一つの可能性であった日英同盟の締結が政府間の取 り決めとして強行された。そのことも条約の形式という外皮がいよいよ薄くな る理由として考えられなければならない。   1905年の日韓協約が締結された国際環境がこのようなものであったと すれば、条約の形式について合法と不法との境はいよいよ紙一重にすぎない。 まして今日の視点からすれば有効に締結されたなどとは到底いえるものではな い。            --------------------------- (注1)山辺健太郎「日韓併合小史」岩波新書 (注2)海野福寿「韓国併合」岩波新書 (注4)有賀長雄「保護国論」早稲田大学出版部 (注5)荒井信一「第二次日韓協約の形式について、批准の問題を中心に」     『戦争責任研究』第12号) (注3)ハーグ密使事件を回顧した新聞記事 [新聞と戦争]/28 軍国の形成 韓国併合 韓国では発売禁止                 毎日新聞(95.04.16)  「韓人の運動」と題するオランダ・ハーグからの特派員電が大阪毎日(大毎)に載 ったのは一九〇七年七月三日のことだった。  第二回万国平和会議がハーグで開かれ、日本の新聞では大毎だけが特派員を送って いた。そこへ韓国人三人が現れ「日本が韓帝の承諾なく外交権を奪える非を鳴らし、 かつ日本悪政を挙げて各国委員に訴えた」のだ。しかも三人は「韓国帝王の信任状を 帯びて」来たという。  当時の韓国は日本の保護下にあった。日本は一九〇五年十一月に日韓協約を結び、 韓国から外交権を奪った。協約締結がいかに強引だったかは十人もの韓国政府要人が 抗議の自殺を図り、直ちに米国に使者を送って助けを求めたことからも分かる。ニュ ーヨーク・タイムズ紙はこの使者から取材して「朝鮮は事実上、隷属状態にある」 (十二月十四日)と報じた。が、米政府はこれを拒絶した。日本の中国侵出に不満を 持っていたものの、米国もフィリピンの独立運動に悩んでおり、帝国主義国としては 日本と同根だった。そこで韓国はハーグの国際会議に訴える挙に出たのである。  ■韓国からの密使  しかし第一報を送った大毎の記者も当初は半信半疑で「こっけい事として何人も取 り合うものなし」と原稿を結んでいる。ところが三人は本物の密使だった。彼らは会 議出席の列強から相手にされなかったので、欧州の平和団体に働きかけてマスコミの 同情を求めた。  大毎はこれを逐一報道、同九日には一面に大社説をはった。「列国の面前において われを侮辱し、かつ自ら極東混乱の主導者をもって任ずるがごとき行動」だと攻撃、 韓国の皇帝の譲位を求めよと主張した。他の新聞も追随し、東京朝日は十一日、大阪 朝日も十三日の社説で伊藤博文統監の責任を追及して断固たる処置を政府に要求した。  政府は好機とばかりに皇帝を退位させ、さらに韓国軍の解散、司法権の日本移管を ゴリ押しした。このため韓国は内乱状態となり、日本政府は二万の軍隊を投入して鎮 圧した。  一九〇九年十月、伊藤が報復暗殺されると、日本は翌年八月、韓国を世界地図から 抹殺してしまった。日本の韓国支配は以降、太平洋戦争の終わるまで続くのである。  日本の新聞はこの韓国併合を当然視した。大阪朝日は社説で「日韓合併は自然なり」 と論じ、東京朝日は「(韓国)民衆の福利を増進せしめたまわんがため」併合したと 述べ、大毎は「彼らは真に幸福」であると弁じた。「日本民族の同化力と日本文明の 包容力」が試されていると書いた東京日日が少し毛色の変わっている程度で、それと て吸収される韓国民の痛みに思いをはせようとはしなかった。  忘れてならないのは、当時の韓国民にはほとんど何も知らされていなかったことで ある。統監府はハーグ密使事件の後、徹底した言論封圧に乗り出し、韓国の新聞はも ちろん日本を含む外国からの新聞持ち込みも規制した。取り締まりは年々厳しさを増 し、一〇年三月には合併のうわさを書いただけで「大韓毎日」は発売禁止となった。  日韓併合が近くなると新聞・雑誌は次々と廃刊、あるいは発行停止に追い込まれ、 日本の新聞も韓国では発売禁止となった。「二十五日夜到着の二十四日大阪新聞、二 十三日の東京新聞は全く押収さる。その他の地方新聞もまた同様にて、韓国全道は真 の暗黒なり」(大阪朝日八月二十六日)という有り様だった。  併合条約締結が八月二十二日。内容の新聞発表は一週間後。「京城日報」が二十七 日に条約発表の前触れ報道するまで、韓国内で新聞はそれに触れることすらできなか った。 (以下省略)     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/11/09 - 04748/04748 PFG00017 半月城 韓国保護条約(5)、国際的な認識 ( 7) 97/11/09 17:51 04723へのコメント   周平さん、こんばんは。#4723, >「韓国保護条約が現在国際的に違法であると認定されているのか」   1905年の第二次日韓協約、通称、保護条約の合法性は国際的にどのよ うに考えられているのか、日韓当事国以外の反応から見てみたいと思います。   アメリカの朝鮮半島史研究者、コロンビア大学のゲアリ・レドヤード教授 は週刊誌「ニューズウィーク」(95.6.21)の取材にこう答えました。 (問)韓国を保護国としたことは合法だったのか。 (答)合法性に疑念をもつ専門家は多い。当時の皇帝は、条約への御璽の押印   を拒んだからだ。だが結局、日本は韓国側の協力者を使って外務省から印   を持ち出した。    皇帝は条約の調印を強要されたと国際社会に訴えたが、1907年には   日本により退位させられてしまった。   レドヤード教授のように、保護条約の合法性に疑問をもつ学者は多いよう ですが、アメリカではこの問題について、すでに1935年にある程度の検討 がなされました。   ハーヴァード大学法学部はアメリカの国際法学会から委託を受け、条約法 制定に関する草案をまとめました。これは「ハーヴァード草案」として世界の 注目を集めましたが、これは坂元茂樹教授によれば「権威ある文献」とされて います(注1)。   この草案は条約の無効原因として、国家代表者に対する「精神的または肉 体的」強制をあげていますが、その具体例として日韓保護条約をこう指摘しま した。  「時折引用される近年の例として、日本全権が兵士の助力を得て韓国の皇帝 とその大臣に対して、同国に対する日本の保護権確立のための1905年11 月17日の条約の同意を獲得するために用いたと主張される強制がある」   草案は韓国保護条約を非合法であるとの断定こそ避けましたが、国家代表 者に対する強制の典型例としました。その際、文献として1906年にパリ大 学フランシス・レイ講師によって書かれた論文「韓国の国際法上の地位」が引 用されていました。そこには強制に関する認識が次のように書かれていました (注1)。  「この条約が署名された特殊な状況に鑑みれば、私は本条約が無効であると 肯定せざるをえない」  「『日韓保護条約』は、日本という文明国にはふさわしくない精神的、肉体 的暴力によって韓国政府に押しつけたものである、という極東からの急報に接 した。   条約の署名は、日本の全権代表である伊藤博文侯爵と林権助公使を護衛し た日本兵の圧力の下で、韓国皇帝及びその大臣たちから得られたに過ぎない。   二日間抵抗した後、閣議により大臣たちはあきらめて条約に署名したが、 皇帝は直ちに列強に代表を派遣した。とりわけワシントン駐在公使は、皇帝に 加えられた暴力を強く抗議した」  「同意を完全に拒否してしまうにはきわめて不十分な力しかない弱小国に加 えられた強大国による強制とは異なり、全権を有する個人に加えられた暴力は、 条約を無効とする同意の瑕疵を構成する」   ここに述べられた極東の急報とは、条約締結交渉がはかばかしくないのを みて伊藤博文が、多数の憲兵、警官を引きつれて王宮に出向き、「自ら会議の 席にのぞみ、さらに5時間の猶予時間を与えたると、大臣の一人が責任のその 身に及ばんことを恐れ中途にて退出せんとしたるに、日本全権はこれを引き止 め、条約を承諾するまで自由を与えざりし」という挙にでたとするロンドン・ タイムスの記事などがもとになったようでした。   ちなみに、この記事は当時の反対論者・有賀長雄教授も、このような事実 を争う必要はないとしてほぼ認めています。当時の様子は、私の書き込み「韓 国保護条約(1)」に紹介したように、マッケンジー記者など特派員の活躍に より、大臣たちに対する脅迫の実態などが外国にかなり伝わっていたようでし た。   ほかに外国における報道としては、ベルリンの「ロカール・アンツアイゲ ル」、上海の「チャイナ・ガゼット」などが日本の不法きわまりない行為を報 道しました。これらは日本政府の目にも止まるところとなり、日本に不利な報 道をしたとして、その名が日本の公文書に記されているくらいです(注2)。   さて以上のような認識のもとに、1963年の国連国際法委員会(IL C)の定期報告書(ウォルドック第二報告書)に、第二次日韓協約が国の代表 者に対する脅迫により結ばれた無効条約の例としてあげられました。こうして 正式に国連文書として発刊されるにいたり、韓国保護条約が無効であるという 国際的な認識が決定的なものになったのではないかと思います。   その後、ILCでは韓国保護条約について議論された形跡はなく、最終草 案のコメンタリーでは無視された形になりました。すなわち、肯定も否定もさ れませんでした。   国際法委員会は司法裁判所と違って、過去の条約の合否を判定する機関で はありません。そのため、本来の目的である「条約法に関するウィーン条約」 制定の論争点からはずれていれば、審議されなくて当然です。   この事実のみをとらえ、日本政府は「国際社会がコンセンサスとして、こ の1905年の条約を無効であると考えているんだという認識を私たちは持っ ておらない」と答弁しました(93.3.23、参議院予算委員会)。   これについて坂元教授は「この慎重な言い回しの国会答弁が、コメンタ リーに例示されなかったという事実のみを根拠に、当該条約は国家代表者に対 する強制による条約ではなかったとの結論を導こうとするのであれば、いささ か疑問が残る」と批判しました(注1)。   つぎに、上記のような国際的な認識に対する日本人学者の反論を紹介しま す。1906年のレイ論文に対し、早稲田大学の有賀長雄教授は「11月17 日の事、もとより事情の強迫に会いたるは事実なるべきも、何人も韓国大臣に 迫りて、これに調印せざる者は拘禁し、殺戮せんと脅したるを聞かざるなり」 と反論しました。   すなわち事情の強制はあったが、国家代表者に対する肉体の強制はなかっ たとして、本条約は国家代表者に対する強制の事例ではないとして、その有効 性を主張しました。   これに対し坂元教授は、「注目されるのは、有賀が、条約調印までは退室 を禁じた行為を『行動の自由』を奪う拘禁とはみなしていないこと、さらに強 制というときには、肉体的強制のみを問題にし、レイのように精神的強制を問 題にしていないことである」と指摘し、慎重ながらも拘禁は肉体的強制であり、 国際法違反であることを暗示しました。   さらに坂元教授は十分な検討の末、「そこでいう強制を肉体的強制に限定 する論者は少なく、強制は肉体的強制のみならず精神的強制を含むと考えられ ていた」と記し、保護条約の国際法違反を補強する示唆をしました。   これにつけ加えるなら、後日の資料になりますが、伊藤博文が「殺ってい まえ」と脅したことが、日本側の資料、それも伊藤の随員であった西四辻大佐 の「韓国外交秘話」のなかに記されています。この点からも、有賀教授の論拠 は今日の観点からすると簡単に崩れそうです。   このような歴史的事実を整理し、明治大学の海野教授は次のように「協約 の無効を証拠づける武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為を列挙」しました(注 2)。   この内容は長くなりますが、現在焦点になっている脅迫の内容を体系的に 整理するために必要なので、あえてそのまま引用します。ただし、カナはかな に変換しました。             --------------------- <武力的脅迫> 1.ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18日両日は王城前、鐘路  付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。 2.17日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長を  帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。   『大韓季年史』によれば「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵・騎兵・  憲兵与巡査及顧問官・輔佐員、連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫  尺重重囲立、重刀森列如鉄桶、内政府及宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難  以形言」という。   要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その  中で最後の交渉が行われたのである。 3.17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に召集して予備会商を開  いた後、「君臣間最後の議を一決する」ため御前会議の開催を要求し、午後  三時ごろ閣僚に同道して参内した。   その際、護衛と称して逃亡を防止するため憲兵に「途中逃げださぬように  監視」させた。事実上の拉致、連行である。 <脅迫的言辞> 4.15日、午後三時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国は如  何にして今日に生存することを得たるや、将又韓国の独立は何人の賜ものな  るや」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国に於ける対外関係  いわゆる外交を貴国政府の委任を受け、我政府自ら代って之をおこなう」こ  とを申し入れた。   これに対し回答を留保する皇帝に向かい、伊藤は「本案は・・・断じて動  かすあたわざる帝国政府の確定議なれば、今日の要は唯だ陛下の御決心如何  に存す。之を御承諾あるとも、又或は御拒みあるとも御勝手たりといえども、  もし御拒み相成らんか、帝国政府はすでに決心する所あり。其結果は果して  那辺に達すべきか、けだし貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難な  る境遇に座し、一層不利なる結果を覚悟せられざるべからず」と暴言を吐き、  威嚇した。 5.同席上、逡巡する皇帝が「一般人民の意向を察するの要あり」と述べたの  をとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主である韓国の皇帝  が「人民意向云々とあるも、定めて是れ人民を煽動し、日本の提案に反抗を  試みんとの御思召と推せらる。是れ容易ならざる責任を陛下自ら執らせらる  るに至らん」と威嚇した。 6.17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其衝に当  り妥協を遂ぐることは敢てせざる」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻  をとらえた伊藤は、巧妙に誘導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定し  た。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対であることを  認めなかった。 7.同席を終始主導した伊藤は、韓圭ソル参政、閔泳綺度相の二人の反対のほ  かは、六人の大臣が賛成と判断し、「採決の常規として多数決」による閣議  決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可をうるよう促し、拒否するならば  「余は我天皇陛下の使命を奉じて此任にあたる。諸君に愚弄せられて黙する  ものにあらず」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退を決  し、謹で大罪を待つの外なかるべし」と涕泣しながら辞意を漏らし、やがて  退室した。   韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、  と大きな声でささやいた」という。肉体的・精神的拘束を加えた上での威嚇  である。 <不法行為> 8.17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って参内した  伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から「協  約案に至ては朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめん」との勅諚を引き出  し、閣僚との交渉を開始した。   これは韓国閣議の形式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが  出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表でない伊藤  の外交交渉への直接参加も違法である。 9.協約への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、調印は「外部大臣之章」と  刻まれている邸璽(職印)であるが、その邸璽は公使館員らによりもたらさ  れた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、『遂に憲兵隊を外部大  臣官邸に派し、翌18日午前1時、外交官補 沼野は其官印を奪い宮中に帰  り、紛擾の末、同1時半日本全権等は檀に之を取極書に押捺し」た、との  ソウル発電報を掲載している。            -----------------------   一方、海野教授は「前述のような強制行為が国際法上、国家の代表者個人 に対する脅迫なのか、いずれに該当するかの判断基準は必ずしも明確ではない、 とする坂元茂樹の指摘があることも付言」すると述べています。   こうした条件をつけ、同教授は結論として「1905年『第二次日韓協 約』の強制調印は、国際法に違反する不当なものである、とみなす点で本書執 筆者は一致している」と記しました。   しかし同教授は同時に、保護条約の体裁に限っては条件付きながらも「形 式的適法性を一応備えていた」と分析しました(注2)。条約文書の形式は合 法でも、国際法的には違法であるということでしょうか。この形式的な問題に ついてはまた別の機会に整理したいと思います。   他方、同教授は前掲書から一年後に著した論文で、ご自身がこの違法性を 断定したことについては忘れたかのように、「『韓国併合条約』等無効論は、 論理的にも実証的にも不十分であるにもかかわらず、なぜ「合法」としての植 民地規定を否定しようとするのだろうか」と一見矛盾するような主張をしてい ます(注3)。この食い違いは私にはどうも謎です。   なお、同教授は上の文言に続けて、次のように植民地支配をめぐる日韓、 日朝関係の現状分析および海外政策の提言を行いました。             --------------------   原因は日本側にあるように思われる。日本政府は日韓会談以来、最近の 「戦後補償裁判に至るまで、一貫して国家無答責の原則にしがみついてきた。 国家無答責とは、国または公共団体の公権力の行使により国民に損害を与えた としても、国家はその賠償責任を負わない、という戦前の考え方である。   あるいは被害は日本国民の受忍範囲内である、として、かって「帝国臣 民」だった植民地朝鮮の人々の補償・賠償請求をしりぞけてきた。   それに「植民地時代に日本が韓国によいこともした」(江藤隆美総務庁長 官発言)式の無識、無反省が加わって、朝鮮植民地支配に対する無責任態勢を とりつづけてきたのである。   客観的に言えば、このような無答責に対する異議申し立てとして「韓国併 合条約」等無効論が登場したのである。韓国併合が無効であれば朝鮮植民地は なかったのであり、朝鮮・韓国人は一度たりとも日本「帝国臣民」であったこ とはなく、したがって国家無答責の論理は当てはまらないはずである。   現に北朝鮮が日本に要求しているものは、一般的な過去の植民地支配に対 する補償ではなく、交戦国間の戦争賠償か、あるいは不法な占領地施政の結果 こうむった損害に対する賠償である。   おそらく1965年の「日韓基本条約」締結にあたって、日本政府が朝鮮 植民地支配における侵略と被侵略、加害者と被加害者の関係を明示し、韓国側 の納得がえられる賠償責任を果たしていたならば、そして同じ姿勢で北朝鮮と の国交正常化交渉を行っていたならば、旧条約無効論は少なくともこういう形 では起こらなかっただろうと、思われる。(途中省略)   日本政府はこのようなこの認識に立って「日韓基本条約」に植民地支配の 誤りを明記した付属文書の追加を提案すべきであろう。その場合、韓国側が要 求している「韓国併合条約」等の無効確認を不可欠の前提としなければならな い理由はない、と私は思う。   むしろ旧条約にもとづく植民地支配が実効的に機能した歴史事実を認めた うえで、日本が行った不当な政策・行為が朝鮮半島の人々に与えた損害に対し て謝罪し賠償しなければならないのである。   それと併せて日朝国交正常化交渉を早期に再開し、国交回復を図るのが今 日的急務である。           ---------------------------- (注1)坂元茂樹「日韓保護条約の効力」『関西大学法学論集』      第44巻4・5合併号、1995年 (注2)海野福寿編「日韓協約と韓国併合」明石書店、1995年 (注3)海野福寿「『韓国併合条約』無効論をめぐって」『戦争責任研究』      第12号、1996年     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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