半月城通信
No. 39

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 関東大震災と朝鮮人関係資料
  2. 「慰安婦」と性奴隷
  3. 米国の論調、「日本の戦争世代」
  4. 日韓併合条約
  5. 韓国保護条約(1)
  6. 韓国保護条約(2)


- FACTIVE MES( 7):●分科会 人権 教育 女性      02 97/09/30 - 217/217 PFG00017 半月城 関東大震災と朝鮮人関係資料(一部訂正) ( 7) 97/09/30 20:38 210へのコメント   平和勢力さん、はじめまして。#210, > 軍・官憲が虐殺に加担したという事例には興味がありますので、 >もしよろしければ参考となる文献をご紹介いただければ幸いです。   関東大震災時における朝鮮人虐殺についての資料は、 『姜徳相、琴ビョン洞共著「関東大震災と朝鮮人」みすず書房(1963)』 が原典になっています。田所さんが紹介された、リバティ大阪のパンフレット もかなりこれに基づいていると思われます。   この資料集は軍隊の関与について、次のように資料を解説しています。           ----------------------   7.近衛・第一師団の行動   8.近衛・第一師団勲功具状   震災時において近衛、第一師団の行動を知ることは極めて重要である。な ぜなら虐殺の主体は軍隊であり、しかもおもに虐殺の行われた9月2日、3日 に戒厳配置についたのはこの師団だからである。   軍隊の虐殺をそのまま提示する資料は本書資料項目19に記載された如き もの以外は恐らくありえないと考える。したがって軍隊による虐殺の追求は彼 等の行動記録と他の資料を操作する以外にない。   資料は東京震災録所収近衛、第一両団の行動一覧表から朝鮮人関係のみを 抜粋したものであるが、文中「鮮人掃討」、「鮮人鎮圧」なる用語が不用意に 洩されていることに注意されたい。元来掃討、鎮圧などが軍隊用語として使用 される場合の表現範囲、内容はかなり限定されるものであり、敵対行為の結果 とみてさしつかえない筈である。   次に当時の見習士官であった越中利一氏の回顧録を掲げてみよう。  「関東大震災のときに、東京を中心に出動した軍隊の総数がどのくらいだっ たかははっきりしていない。しかしいま記憶にある連隊の名だけでも、麻布1 連隊、同3連隊、騎兵1連隊、世田谷輜重兵連隊、佐倉歩兵57連隊、津田沼 鉄道連隊、その他地方から一、二の連隊、工兵、憲兵隊をかぞえることができ る。   とにかく市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺はたいてい戒厳令勤務に 服したのであった。そして「敵は帝都にあり」というわけで実弾と銃剣をふる って侵入したのであるからなかなかすさまじかったわけである。   ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し 前頃であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて 営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。   二日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅 から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるからさながら戦争気分! そして 何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵 をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。   亀戸に到着したのが午後の二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水の ようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。 将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。 どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりた かっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そし て直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のよ うに湧きおこる万才歓呼の声、国賊! 朝鮮人は皆殺しにしろ! ぼくたちの 連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝 鮮人狩りをやりだした。」(日本と朝鮮、1963年9月1日号) (途中省略)   一つの挿話がある。当時兵隊は飯ばかり喰って、おかずの魚は喰おうとし なかった。なぜならば、東京湾に流し捨てられた朝鮮人の死体をくっているか らイヤだ、というのである。   清水幾太郎氏は同じようなことを目撃している。市川の兵営の洗面所のよ うなところで、  「兵隊たちが銃剣の血を洗っているところです。誰を殺したのかと聞いてみ ると、得意げに朝鮮人さと言います」(「私の心の遍歴」)           --------------------------   文中にある資料19は「政府による事件調査」ですが、ここにわずかなが ら朝鮮人虐殺の事実は記されています。しかし、公文書に虐殺の事実を記すの はよくよくのことなので、これは氷山の一角にすぎないと思います。   その一方、証言など状況証拠は軍隊による大がかりな虐殺を示しているの で、研究者たちはこの問題を長い間追い続けてきました。最近、その証拠にな る貴重な資料が見つかりました。以下にその報道および文献(注2)を紹介し ます。           --------------------------- <関東大震災>朝鮮人ら虐殺で新資料見つかる--東京都公文書館               毎日新聞ニュース速報、97年1月19日  1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後、6000人以上の朝鮮人らが虐 殺された事件に関連し、当時の陸軍省関東戒厳司令部が極秘にまとめた兵器使用の調査 表が東京都公文書館に保管されていることが19日までに分かった。朝鮮人を中心に約 280人の虐殺について実行部隊、兵器使用者、殺害方法などを詳細に記録しており、 専門家は「これまで朝鮮人虐殺には不明な点が多かったが、軍の行為を明確に裏付けた 貴重な資料」と評価している。  調査表は「震災後警備ノ為(ため)兵器ヲ使用セル事件調査表」と題され、漢字と片 仮名で武器を使用した20件を記録している。  このうち12件は朝鮮人が犠牲者のもの。陸軍の騎兵連隊などが震災直後から6日午 前7時半ごろにかけて東京・両国橋西詰付近や千葉県浦安町役場などで朝鮮人計252 人を銃剣で射殺したり、こん棒で撲殺したことを記している。  事件概況と備考の欄では朝鮮人らが爆弾らしいものを投げようとしたり、群衆や警官 と争いになったため「自衛上止(や)ムヲ得ズ射殺」などと記載している。また20件 の中には東京都江東区の亀戸署内で社会主義者の平沢計七ら10人が虐殺された亀戸事 件も含まれており、この事件も「中尉ハ事情已(や)ムヲ得サルモノト認メ警備中ノ下 士卒ニ命ジ全部之(これ)ヲ刺殺セシメタリ」と説明している。  松尾章一法政大教授(日本近現代史)の話 この調査表の内容は、軍が自分たちの行 為は、朝鮮人が暴動を起こしているため不可抗力であるなどと正当化するものだが、そ れが皮肉にもこれまで不明な点が多かった軍の関与を明確に示す記録となっている。軍 の虐殺行為を裏付ける貴重な資料だと考える。           -----------------------------   軍隊は「掃討」という名目で、市民であろうと誰かれかまわず虐殺してし まう。私はここに「南京虐殺事件」や「ソンミ事件」と一面共通するものを感 じます。一方、虐殺を歓迎する民衆の「嵐のように湧きおこる万才歓呼の声」、 これが事実なら、こうした声こそ自警団による虐殺を支えたのではないかと思 います。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FACTIVE MES( 8):●分科会 戦争 平和 基地問題    02 97/10/10 - 284/284 PFG00017 半月城 「慰安婦」と性奴隷 ( 8) 97/10/10 14:49 277へのコメント   こちらの会議室で「半月城通信」が引き合いに出されているようなので、 著者として一言コメントしたいと思います。 平田 一郎さん、はじめまして。#277 >慰安婦の問題と、軍人の婦女暴行問題は全く違います。貴方がお聞きになっ >たフィリッピンの例は後者の問題でして、それでもって慰安婦云々というの >は議論を混乱させるだけだと思います。   平田さんとニュアンスは違うかもしれませんが、フィリッピン「慰安婦」 裁判を支えておられる横田雄一弁護士も、フィリッピンの性暴力被害者が「慰 安婦」と称されることについて、次のように耐えがたい違和感をいだいておら れるようです。             ----------------------------   リラ・ピリピーナに参加している女性が戦時中受けた性暴力の被害は、も ちろん「娼婦」としてのものでもなければ、軍直轄のいわゆる軍「慰安所」あ るいは軍の管理下で民間業者が経営していた「慰安所」のおける女性の被害と も様相を異にする。また「慰安婦」という言葉には、対価を得て行われる「職 業」であるかのようなニュアンスがつきまとっている。   しかし、リラ・ピリピーナの被害女性らは、文字通り一方的に銃剣によっ て暴力的に拉致・監禁され、強姦をくり返されたのであって、まさしく性的奴 隷以外の何ものでもなかった。フィリッピンの性暴力の被害者らが「慰安婦」 と称されることには耐えがたい違和感がある。   もともと「慰安所」とか「慰安婦」とかいう言葉は、「慰安所」制度を必 要とし、創設し、利用した側の用語であり、被害者側に立っている者がこれら の用語を無自覚に使用することは許されないはずである。まして原告はほとん ど全員が、直接軍により連行、監禁されており、民間業者の介在する「余地」 などない、より直接的な軍の組織的暴力にさらされていた。この裁判の名称に カッコづきとはいえ「従軍慰安婦」が入っていることには忸怩(じくじ)たる 思いがある。   リラ・ピリピーナの被害女性は、トマサ・サリノグさんの言うごとく「豚 小屋に入れられたも同然のように扱われた」のであり、人間以下の扱いを受け、 継続的な暴力的強制の下で性的奴隷の状態におとしめられた。   しかしながら、フィリッピンには軍管理の「正規」の「慰安所」がなかっ たわけではない・・・。 (フィリッピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編『フィリッピンの日本軍 「慰安婦」』明石書店)             ----------------------------   この横田氏の指摘は的を射ていると思います。一口に「従軍慰安婦」とい ってもその内容は、多くの朝鮮人「慰安婦」のようにだまされて強制的に「従 軍慰安婦」にさせられた人から、サリノグさんのように父を殺され奴隷狩りの ように強制連行された人まで、いろいろなタイプが混在しています。   しかし、私はそうした彼女たちをあえて区別する必要はあまりないのでは ないかと考えます。彼女たちは、クマラスワミ報告書に指摘されているように、 日本軍によりむりやり「性奴隷」にさせられ、青春を踏みにじられました。そ のうえ戦後はそうした事実をおくびにも口に出せず、ひたすら孤独に心や体の 傷に耐え、その後の人生もいばらの道をひとしく強いられました。   今では「従軍慰安婦」ということばが一人歩きしてしまいましたが、本来 なら彼女たちを「従軍慰安婦」と呼ばずにすべて日本軍「性奴隷」と呼ぶのが ふさわしいといえます。   そうした事実を知ってか知らずか、元法相の奧野氏は記者会見(96.6.4) で、「慰安婦と称する女性たちは商行為に従事していた。強制的に徴用したな どという事実はない」と発言し、多くの人の憤りを買いました。   なかでも、#258で紹介されたフィリッピンのガートルード・バリサリ サさんはたいへんな怒りようで、奧野氏と政府に対し、公の場で謝罪と賠償を 求めて、日本弁護士連合会に人権救済の申し立てを行ったくらいでした。   ところで、フィリッピンやインドネシアで多発した、暴力的な強制連行や 監禁についてですが、平田さんは彼女たちに対する補償問題をどのようにお考 えでしょうか。   もっと具体的に、#258に転載された富永さんのFAX文にある、ガー トルード・バリサリサさんについてですが、あるいは、これは日本軍将校個人 による強姦の被害者であり、日本の国策による被害者ではないので、日本国に よる補償は必要ないとお考えでしょうか?     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/10/12 - 04624/04624 PFG00017 半月城 米国の論調、「日本の戦争世代」 ( 7) 97/10/12 22:40 04018へのコメント   以前、ここの会議室に伊与部倫夫さんが、人肉食をめぐるニューヨーク・ タイムズの記事にコメントされていましたが、私はそれに興味をそそられ、原 文を入手してみました。   この記事の一部は、文芸春秋社の雑誌「諸君」(9月号)に『日本軍「人 肉食」報道』と題して取り上げられました。この論文は、産経新聞・高山正之 編集委員により書かれましたが、そこではニューヨーク・タイムズの記事のタ イトルが「残虐行為に取り憑かれた日本軍兵士」と翻訳されています。   新聞記事の原題は、"The Wounds of War:A Japanese Generation Haunted by Its Past"であり、私はこれを「戦争の傷跡、過去にさいなまれる日本の戦 争世代」と訳しました。   翻訳のとき原題を変えるのは、映画などで宣伝効果をねらってよくやるこ とですが、雑誌の論文において、引用した記事の原題を勝手に変えるなんて、 私には初耳です。これは「諸君」がその程度のレベルの雑誌であるということ でしょうか。これからして、論文の内容は推して知るべしです。   またこれは些細なことですが、高山氏の論文では、中国東北部を満州に、 第二次世界大戦を太平洋戦争などと訳すなど、随所に原文と違っているところ があります。この会議室の特色を考慮し、私の書き込みの片言に妙な疑問を持 たれないよう、あらかじめ指摘しておきたいと思います。   オリジナルの新聞記事は、高山氏によると「ニューヨーク・タイムズの一 面を飾り、ヘラルド・トリビューンに転載され、ピュリッツァー賞受賞記者の 日本ルポとして、世界中に流された」そうです。今回はかくも影響力のある記 事を紹介します。そのため、日韓併合条約は一休みします。          ------------------------------- 「戦争の傷跡、過去にさいなまれる日本の戦争世代」          ニューヨーク・タイムス  1997年1月22日                    ニコラス・クリストフ 【日本、大宮】   ほとんど60年の月日が過ぎ去った。しかし、ホリエ・シンザブロウは赤 ん坊を見るたびに内心畏縮し、中国で若いときに中国人の幼児を銃剣で突き刺 した軍隊時代の忘れられない思い出がよみがえるのである。   彼は、故意に殺したのではなかったという。それでもその思い出はいつも 彼につきまとう。しかし、このことに関しては自分の奥さんにさえ話す勇気が 湧かないのである。そればかりではなく、偶然に16歳の少年の肉を食べたこ とも奥さんには話せなかった。   「人肉を食べたという事実を忘れることはできません」。戦争の記憶をた どるとき、すでに79歳になる老人のやせこけた手はふるえた。「たった一度 のことだし、量もわずかでした。しかし、60年たっても忘れられるものでは ありません」   今なお、日本の多くの老人たちが、ホリエ氏と同じように、戦争中に犯し た行為の記憶に悩まされている。心の葛藤や悪夢は終りになることはないので ある。   また第二次世界大戦は、それをめぐる論争が東アジアにおいて大きな摩擦 の原因になっており、埋もれさることはないのである。たとえば、中国や韓国、 北朝鮮は日本に対し、侵略への明確な謝罪と、戦時中に残忍なことをされた個 人への支払いをするよう求めている。   つい先日も、日本政府が韓国で戦時中に日本帝国軍の性奴隷にされた人々 への公的補償を拒否したことから、両国間で新たなやりとりの応酬が始まった のである。   今世紀、日本にとってこの戦争ほど大きな変革をもたらしたものはなかっ た。それにもかかわらず、戦争の議論は多くの家庭で実質的にタブーにされて いる。   もちろん、どこの国でも退役軍人は自分の最悪の思い出については語りた がらないものだが、日本では多くの若者は彼らの祖父が戦地に行ったことさえ 知らないのである。ここ大宮もしかりで、老人たちは戦争の秘密を自分の墓の 中にもって行こうとしているのである。大宮は東京の南西200マイル、三重 県の小高い丘の近くにある、人口5,700人の小さな農村である。   戦時を耐えてきた男性や、少なからぬ女性は、若者たちが当時のゆがんだ 時代についてほとんど知らないことを、折にふれ気にかけている。また、そこ に居合わせなかった人々に自分たちの心を開くことはできないと感じているの である。   ホリエ氏は戦争中の自分の役割について「自慢できるような話なんて何も ありません」と動揺しながら語った。「そのため、私が話すべきこともないの です」 (途中省略)   日本は1931年に中国東北部を、37年には全土を侵略したが、第二次 世界大戦を通じて、日本軍は行く先々で市民を虐殺し、捕虜を拷問にかけ、若 い女性をレイプしたのである。   そして今、こめかみに白髪をたくわえ、しわになった手を耳にあてがって 話をしている、目の前の礼儀正しく物腰のやわらかい正直な人こそ、まさにそ の日本軍兵士なのである。   町の人々は彼らを尊敬しており、彼らがだれかを欺くとか、怒りをあらわ にするような人物ではないことも知っている。しかし、彼らは集団で二千万人 ないし三千万人の人々を殺害したのである。   逆説的に、彼らは自分の犯したことについて語るときも品性を保っている。 すくなくとも、大宮で耳にするトーンは決して攻撃的ではなく、深く悔いてい るのである。   多くの日本人は、国家として海外の戦争犠牲者に謝罪したり、補償したり する必要はないと主張する一方、多くの元軍人は、政府は戦争について道義的 責任を示し、若い人たちに日本軍が犯した虐殺行為について教えるべきである と述べている。   ホリエ氏はためらわず「私たちは絶対に中国や朝鮮に謝罪しなくてはなら ない、絶対に」といった。   彼は記憶をひもとき始めたとき、だんだん緊張しだした。その手はまるで 風の中の枯れ葉のように揺れていた。二時間後、ホリエは息を深く吸い込み、 人肉を食べた経緯を自ら語りだした。   仲間の兵士たちといっしょにその肉を食べたのは1939年のことだった。 それは当時としては珍しく新鮮な生肉で、ある日突然、中国北東部の地方マー ケットに出回った。   それから、ケンペイタイ・日本の秘密警察が来て、マーケットでその肉を 誰か買ったかどうか聞いてまわった。   「数人の飢えた日本軍兵士が中国人の少年を殺害し、その肉を食べたとい うのです。彼らはあまった肉を中国人商人に売り、私たちがその商人から肉を 買ったというわけです」   少年を殺害した兵士たちはその後、殺人と人肉を食べた罪で罰せられたと 聞いている、とホリエ氏はつけ加えた。   赤ん坊を殺したのはまったく偶然であったとホリエ氏は主張した。 それはある村で、抗日ゲリラを探しているときであった。彼は、干しわらの中 から銃を握った手が突きだしているのを見つけた。  「私は銃に帯剣し、干しわらを胸の高さで突き刺しました。悲鳴が聞こえま した。ライフル銃を引き抜いたとき、生後6ヶ月くらいの赤ん坊が、帯と一緒 につかまで串刺しになっていました。   赤ん坊の母親はゲリラでした。干しわらに隠れるとき、赤ん坊を抱いてい たので、銃剣は母子もろとも串刺しにしました。もちろん二人とも死にまし た」   ホリエ氏は一息ついた。わき上がる記憶に打ちのめされたのである。 ○将校の残虐さ 古参兵を恐れる新兵   1930年代、ここ大宮でも例にもれず軍国主義がはびこり、小学校では 木の銃を使い、軍事教練をしていた。大宮の若者たちは「最大の名誉は命を捧 げることである」と教えられた。   大宮では志願兵はほとんどなく、大部分が徴兵であった。その理由は、戦 争目的に対する疑問からではなかった。若者たちは敵ではなく、単純に上官を 恐れていたのである。   中国戦線で4年間を過ごしたオノ・セツオはこういった。  「軍隊はとても厳しいので、子どもたちは兵士になりたがりませんでした。 下級兵士は将校の下着を洗ったり、靴を磨かなければなりませんでした。もし、 そうしたすべてのことをきちんとやらないと、ひどく殴られました」   将校はたびたび新兵を並べ、顔にピンタしたり、げんこつを加えたり、ベ ルトで打ったりした。ときには顔から血が流れ出たりした。このような残虐な 行為は、多くの軍隊において、市民に対する虐殺よりひんぱんで、日常茶飯事 であった。それゆえに帝国軍隊の名は永く記憶されている。   大宮では、退役軍人の多くは虐殺があったことを否定していない。しかし、 普通の兵士は毎日市民を殺したりレイプしたりしなかったと語っている。   無精ひげを生やした、男やもめのニシ・ワゾウ(80)は、かっては衛生 兵であった。顔には深いしわがあり、腰も曲がっている。彼自身は誰も殺さな かったが、生涯忘れられない野蛮な事件を目撃したと語った。   それは1942年、フィリッピンでのできごとであった。日本軍の軍医は 数人の衛生兵に盲腸を取り除く方法を見せることにした。そこで現場にシート を敷き、健康そうなフィリッピン人市民を連れてきた。鼻にマスクをして麻酔 をかけた。   軍医は彼を切り裂き、盲腸を取りだし縫い合わせた。レッスンが終了する や、軍医は銃を抜き患者を撃ち殺したのである。 ○毎日の虐殺 中国における犯罪は日常的であった   大宮では他の退役軍人と違って、ウキタ・テルイチさん(71)は謎の多 い人である。彼は白髪のクルー(乗組員)カットをした陽気な人である。しか し、悔い深い人である。ウキタさんは中国でケンペイタイ、すなわち恐るべき 軍事警察に勤めていた。戦時中、彼は多くの中国人を殺したことを認めている。 彼はクールに次のように語った。   「私は多くの拷問のシーンを見ました。しかし、そのことについては話し たくもないし、思い出したくもありません。ふつう、ケンペイタイというと泣 く子も黙るといわれているくらい、誰もが私たちをこわがっています。当時、 正門から入った囚人は、裏門から死体となって出て行くといわれています」   彼は、拷問を実行する人は単に自分の仕事をこなしている規則正しい人た ちであるが、彼らにもいろいろいて、冷酷な人、温情味のある人などさまざま であることを認め、こういった。   「拷問にかけるとき、相手の目を見ればすべてがわかります。情報を聞き 出す際、相手が『知らない、知らない』といった場合、その人の目を見ると本 当に知らないのかどうかわかります。ここで温情味ある拷問者ならやめます。 しかし、冷酷な人はそのまま続けます」   ウキタさんによると、犠牲者の多くは男性であったが、ときには女性もい たという。しかし、これにまつわる記憶は彼にとってひどく居心地が悪いのか、 彼がしたことや見たことについての質問を、くり返しはぐらかしたのである。 「それについては話したくありません」といった。   つぎに「慰安婦」、すなわち軍慰安所における性奴隷について質問した。 ウキタさんはそこへしばしば通ったと認めた。目下、ある日本人によるとその 女性たちは自由意思の娼婦であるといっているが、ウキタさんは自身の経験か らすると、女性たちは慰安所で強制的に働かされているということを知ってい るという。   ウキタさんの話は次第に熱っぽくなった。「戦時中、自分は20代の独身 で物事がよくわからなかったが、ふたりの娘を持つようになって、はじめて自 分のしてきたことの意味を悟るようになった」。彼は声を詰まらせて語り、目 には涙をため、しばたいた。   しかし、ウキタさんはケンペイタイにおいて自分の役割がどのようなもの であったのか、正確に話そうとはしなかった。しかし、震える声で、女性たち を傷つけたことについて日本は補償すべきであると語った。   西欧諸国は、日本人は自らを侵略者としてではなく、あべこべに戦争の被 害者として考えていることで、しばしば憤慨している。日本がこのような認識 を持つようになった背景のひとつに、戦争末期、ウキタさんのような無数の市 民が、日本軍のせいで厳しい試練にさらされたことが挙げられる。   ウキタさんは敗戦の混乱時に、川を渡ろうとする日本人避難民のことを忘 れることはできない。とくに、ある若い婦人のことが鮮明に記憶に残っている。 その女性は身の回り品などが入ったバッグを持ち、子どもと祖母を連れていた。 彼女は途中で川が深くなったとき、バッグを手放さなければならなかった。  「川がもっと深くなったとき、その女性は祖母を手放してしまった。そして 川がもっと深くなったとき、ついには子どもまで手放してしまった。女性はほ うほうのていで、向こう岸にたどりつき生き残りました。しかし、あわれ彼女 は打ちのめされ、まるで夢遊病者のようでした」   ウキタさんは終戦時にロシア人に捕えられ、シベリアに送られた。そのと き、仲間の日本人が殺され、遅まきながら人間の命の普遍的な大切さを悟った のである。  「中国人が殺されるのを見ても何の感情もありませんでした。それはゲーム のようなものでした。しかし、シベリアで物を盗んで処刑された日本人を見た とき、私は感情を露わにし怒りました」 ○昔の歴史 戦争は子どもにとって漠然としたもの   13才の少年、オリタ・ナルキは大宮中学校では優等生としてとおってい る。ある日、彼はリビングルームの電気ごたつで暖まりながら宿題を広げてい た。   少年は代数はよくできるが、ティーン・エージャの例にもれず、自分が生 まれる前の出来事についてはほとんど知らず、彼にとって、それは昔の歴史み たいなものである。  「どこの国が原爆を落としましたか?」  「えーっと、よくわかりません」  「戦争で日本はどこの国とたたかいましたか?」  「わかりません。知ってたのですが忘れました」   ナルキは、祖父が戦争で死んだことは知っているが、どこで死んだかは知 らないといった。さらにこういった。  「戦争について話し合ったことはありません。誰も興味を持ちません」 (途中省略)   以前、床屋をしていたヨシダ・テイサクは朝鮮で従軍したが、彼は「戦争 中の体験は家族に話したことはありません。息子や妻、孫に話したことは一度 もありません。孫は、私が戦争に行ったことすら知らないと思います」と語っ た。   今回、大宮で話し合った老人の多くは、戦争体験をこんなにくわしく話し たのは初めてであるといった。彼らの話には疼きと安堵とが入り混じっていた。 人生のたそがれにさしかかっている彼らにあって、ある人は今でも心の中で足 かせのようにがらがら音を立てている亡霊について語る姿は、かえって幸せそ うに見えた。しかし、すべてを吐露したわけではなかった。   中国で従軍し、ベトナムの収容所ではアメリカ人の捕虜を監視していたム ラタ・ジュンジは「私は口が裂けてもいえないような、恐ろしいことをしまし た。しかし、私自身もとてつもなく恐ろしい体験に耐えてきました」と語った。   大宮では誰に聞いても、戦争体験は人を大きく変えたという。傲慢だった 若者も戦争に行って謙遜さを取り戻し丸くなった。その上どんな形であれ、戦 争自体に対し嫌悪感をたいてい持つようになった。元憲兵で、中国人に対する 拷問を見てきたウキタさんはこう語った。  「戦争は人を恐ろしいものにしてしまいます。人間は愚かなものです。恐ろ しいことをしては、のちに後悔します。最初のうち人間は利口に見えますが、 ほんとうは愚かなのです」     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/09/21 - 04307/04307 PFG00017 半月城 日韓併合条約 ( 7) 97/09/21 18:07   私の一連の書き込みに対し、何々派とか何とか教とか、はては皇道派など と奇想天外なコメントまで多く寄せられましたが、こうした発想は自由主義史 観シンパの多い、この会議室ならではのことでしょうか。   これに限らず、私の書き込みは片言隻句に至るまで注目されているような ので、筆者としても書き甲斐があろうというものです。   さて、焦点の日韓基本条約ですが、最大の論点は何といっても過去の日韓 併合条約をどのように評価するかという点にあります。これは、遠い過去の話 として簡単に片づけるわけにはいかない問題を内包しています。現にこれが日 韓間で事あるごとに争点になる一方、今後の日朝交渉で再燃するのは必定です。 そうした背景から、とくに今回はこれを取り上げてみたいと思います。   日韓併合条約の合法性ですが、ここの会議室ではこれに微塵の疑いも持た ない方が多いことと推察します。そこであえてこの条約にどのような争点があ るのか紹介したいと思います。   最初に日韓併合条約が結ばれた当時、韓国はどのような情勢にあったのか をみるために、日韓両国の高校生用教科書を開くことにします。           ----------------------------- 1.「高等学校国史」大韓民国教育部刊、国史編纂委員会編、1996年            引用は、チョ昌淳・宋連玉訳「韓国の歴史」明石書店   露日(日露)戦争が起きた時、大韓帝国は両国の戦争にまきこまれないよ う局外中立を宣言した。しかし戦略的橋頭堡を先に占領しようとする日帝の強 要によって韓日議定書が締結され、ソウルをはじめとする軍事的要所と施設が 占領された。続いて第一次日韓協約が強制的に締結された(1904)。これ によって日本人によるいわゆる顧問政治が始まった。   日帝は露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を推進した。すな わち、日帝は露日戦争に前後してイギリス、アメリカなどの列強より韓国の独 占的支配が黙認されるようになると、乙巳条約の締結を迫ってきた。   高宗(コジョン)皇帝の拒否で条約締結に失敗した日帝は、一方的に条約 成立を公表しながら、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置して内政権を も掌握した。これに対し高宗皇帝は国内外に条約の無効を宣言し、オランダの ハーグへ特使を派遣したが、日帝により強制的に退位させられてしまった。   その後大韓帝国は軍隊まで解散させられ防衛力も失った。さらに言論、集 会出版の自由も蹂躙され、司法権と警察権を奪われた後、ついには国権まで強 奪された(1910)。 2.「詳説日本史」1996年                石井進他、山川出版社   日露戦争後の日本は、戦勝で得た大陸進出の拠点の確保につとめた。まず、 1905(明治38)年アメリカとのあいだに非公式の協定(桂タフト協定) を結び、ついでイギリスとは日英同盟を改定(第二次)して、両国に日本の韓 国保護国化を承認させた。これらを背景として、同年中に第二次日韓協約を結 んで韓国の外交権をうばい、漢城(現、ソウル)に統監府をおいて伊藤博文が 初代の統監となった。   これに対し韓国は、1907(明治40)年にハーグで開かれた第二回万 国平和会議に皇帝の密使をおくって抗議したがいれられなかった(ハーグ密使 事件)。日本はこの事件をきっかけに第三次日韓協約を結び、韓国の内政権を その手におさめ、ついで韓国の軍隊を解散した。それまで散発的におこってい た義兵運動は、解散された軍隊の参加を得て本格化した。  日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧し たが、そのさなかに伊藤博文がハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に暗殺 される事件がおこると、憲兵隊を常駐させて韓国の警察権も奪った。こうした 準備の上に立って、日本政府は翌1910(明治43)年に韓国の併合を行っ て植民地とし、朝鮮総督をおいた。             ------------------------   一般に、韓国の教科書は反日的であると盲信している人が多いようですが、 日韓併合の記述は上のようにあっさりしたものです。韓国の教科書は近代につ いていえば、かなり前から日本を糾弾するより、開化への努力や独立運動など、 自主的発展や歴史的使命再認識に比重をおいて記述する方針を採用しています (半月城通信<4.現代、3.日韓歴史教科書比較>)。   さて本論の併合条約ですが、日韓両国の教科書が教えるように、当時の日 本帝国は韓国軍や警察を解散させ、そのうえ韓国の外交権や内政権までも手中 にしていたので、日韓併合条約を結ぶのは自作自演のようなものでたやすいこ とでした。   もちろん、反対運動はこれを厳しく弾圧しました。はなはだしくは「韓日 合邦」を主張した親日派団体、一進会の演説・集会すら禁止しました。これは 一進会の主張が連邦組織を意図し、日本が考えていた韓国併呑とは異なってい たためであるのと、こうした議論自体がもはや日本にとってジャマなだけであ ったためでした。   かって、このような事情をよく知らず、日韓併合条約について、当時の村 山首相は「日韓併合条約は法的に有効に締結された」と発言(95.10.5)し、 韓国や北朝鮮から猛反発を受けました。   これに驚いた首相は、その後の参議院予算委員会で自身の認識不足を認め、 さらに「当時の状況から判断してみて、対等、平等の立場で締結されたもので はないというふうに私は考えております」と補足説明をしました。村山首相は 韓国が日本の保護国下に置かれ、対等でない立場で併合条約が押しつけられた 状況を、すこしは勉強されたようです。しかし、条約は有効に締結されたという考えは 変えませんでした。   このように、押しつけであった日韓併合条約の合法性は、それ以前に結ば れた条約、なかでも別名、保護条約と呼ばれる第二次日韓協約(乙巳条約)の 合法性が鍵を握っています。もし、この条約が非合法であれば、日韓併合条約 も当然非合法になります。   これについて、韓国の教科書は「(乙巳)条約締結に失敗した日帝は、一 方的に条約成立を公表」と記述し、保護条約は無効であったと断定しています。 現在、この問題は日韓を問わず、学者たちのホットな研究テーマになっており、 議論は興味深いものがあります。その詳細については次の機会に書きたいと思 います。   ただし、こうした学者の合法・非合法に関する論議は、当時の帝国主義国 家間の秩序を守るために定められた国際法上の形式論議であることはいうまで もありません。したがって、たとえそれが合法であっても、正当でないことは いうまでもありません。   すなわち、合法性と正当性は別物です。その一例を示しましょう。征服に よる領域取得や、紛争解決手段としての戦争は当時にあっては合法とされてい ますが、これは帝国主義者の観点であり、被征服国や永世中立国からするとけ っして正当とはいえません。   他方、ソウル大学の白忠鉉教授は、たとえ保護条約などが非合法であって も、日本の植民地支配が軍隊や警察などの強権力により、35年間も維持され てきた「実効支配」を無視することはできず、植民地支配をさかのぼって無効 化するわけにはいかないという主張をしています。これには韓国論壇で異論が あるようですが、現実的な視点として注目されています。   さて、条約が調印された8月22日、日本の祝賀ムードのなかで、詩人・ 石川啄木はさめた目で日韓併合条約をこう詠みました。   「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」   啄木のように、日本の覇権主義に違和感を感じる人がきわめて少数だった のは、明治時代の教育の影響でしょうか。この底流が一本調子で昭和まで続き、 あの無謀な戦争を支えたともいえます。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/09/28 - 04453/04453 PFG00017 半月城 韓国保護条約(1) ( 7) 97/09/28 21:54 04318へのコメント   私は前回、#4307で、押しつけであった日韓併合条約の合法性は、そ れ以前に結ばれた条約、なかでも別名、保護条約と呼ばれる第二次日韓協約 (乙巳条約)の合法性が鍵を握っていると記しました。今回はその保護条約の 合法性について書きたいと思います。   #4318 > ところで貴方のお書きになっていることは、こういった合法性の根拠を崩す >ことができないために、話を「正当性」という価値観の関る、それゆえ客観的 >に決定できない事柄に話をすりかえておられると思えて仕方がありません。  私は日韓併合条約など、帝国主義時代の国際条約では「合法性と正当性は 別物」であると、わざわざ断っているのにもかかわらず、上のように話をすり かえていると思われる方がいるとは意外でした。私としてはごく当たり前のこ とを書いたつもりだったのですが、会議室の一部の方々にはそのように見えな かったのでしょうか。そのリアクションとして三択問題ですか・・・。議論は ちょっとかみ合いそうにありません。   さて1905年の乙巳保護条約ですが、この条約は韓国にとって日韓併合 条約に劣らず、亡国的なものでした。その直後、韓国民の悲しみがいかに深か ったか、当時の「皇城新聞」は「この日たるや放声大哭す」と題し、怒りをこ めてこう嘆きました。   「ああ痛ましいかな! ああ憤ろしいかな! わが二千万同胞。生か死か。 檀君・箕子いらい四千年の国民精神は、一夜の間に滅亡してしまった! 痛ま しいかな! 痛ましいかな! 同胞よ! 同胞よ!」   このように痛哭の哀悼文を書いた皇城新聞は、たちまち発禁処分になって しました。   この嘆きにたがわず、韓国は保護条約により確実に亡国の道を余儀なくさ れました。条約により、大韓帝国は外交権を完全に剥奪され、日本の保護国に され、日本の統監府が置かれ、事実上日本に支配されました。   外交権は、国家が国際法上の権利能力や法的人格を有することを示す最大 の主権ですから、外交権を失えば、もはや国家は国際法上の主体ではなくなり ます。その結果、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえなくな ります。   このように重大な意味を持つ保護条約が、どのような状況で結ばれたのか、 最新の研究を紹介します。日本近代史や近代日朝関係史が専門の、明治大学・ 海野福寿教授は当日の状況を次のように記述しています(「韓国併合」岩波新 書)。           --------------------------- 銃剣で威嚇しつつ調印   11月17ー18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き 通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡 回し市民をおびやかした。   17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使 館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前 会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の 名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。   御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいた らなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得 策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時こ ろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開 を求めた。   しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひら かれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、 不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。   慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄 桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばに あらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたこと だろう。   伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政(閣議責任者、 半月城注)と閔泳綺・度支相(蔵相、同)は明確に反対を表明した。朴斉純外 相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘 導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人 の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。   こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛 成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁 可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此 任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。   しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退 室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまえ、と大きな声で囁 いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声 でいった、という意味だろうか。   協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記 名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印 を捺印した。18日午前1時半ころである。           ----------------------------   このように、韓国の大臣たちが恫喝されて、第二次日韓協約が強要された のであれば、これは国際法上「承認の欠如」を意味します。このように同意の ない条約は無効とされています。   この見解は、国連によりはっきり確認されました。1963年の国連国際 法委員会の定期報告書には、第二次日韓協約が国の代表者個人に対する脅迫に より結ばれた無効条約の例として報告されました。   ただし、海野福寿教授によれば、この報告書では脅迫の状況がかならずし も十分解明されていないと指摘しています(「韓国併合条約無効論をめぐっ て」、日本の戦争責任資料センター刊『戦争責任研究』第12号)。   さて、韓国の代表個人に脅迫が加えられ、保護条約が強制調印されたこと は、外国の新聞報道でも当時からかなりよくしられていました。そうしたルポ 記事を書いた記者として、イギリスの新聞ロンドン・デイリー・メールの韓国 駐在員であったマッケンジー氏の名を欠かすわけにはいきません。   同氏は日露戦争取材のため、日本の第一軍と行動をともにし、その戦闘状 況をつぶさに取材し報告しました。現地でえたなまなましい直接の体験をもと に、数年後、ここに紹介する著書「朝鮮の悲劇」を出版しました。   マッケンジー記者はすぐれた新聞人であると同時に、歴史に対しても卓越 した眼力を持っていた学者でした。1919年、韓国で3.1独立運動が起こ ったのを見て、彼は「日本の膨張を牽制しなければ、30年以内に極東地方に 大戦争が起こるのであり、反面、西洋諸国のうちでその戦争にもっとも大きな 負担を背負う国はアメリカである」と瞠目すべき警告をしました。   このマッケンジー記者が伝えた条約締結のもようは、脅迫がどのようなも のであったのか具体的にしるのに好適なので、長くなりますが引用します。大 筋は海野教授の記述と大同小異です。            ------------------------   【1905年】11月の17日午後2時、再度の【日韓併合に関する】会 議が日本領事館で始められたが、同じようになんらの結果も出ずじまいであっ た。そこで【日本の公使】林氏は、【韓国の】大臣に向かって、王宮に帰って、 皇帝の御前で閣議を開くよう助言した。御前会議は開かれた。そして日本人が それに参加したのである。   その間、日本軍は、王宮のまわりで武力の一大示威を行っていた。この地 区の全日本軍部隊が、この数日間、皇居前の街路や空き地で行進を行ったので ある。野砲まで引き出され、兵士は完全武装していた。   彼らは前進し、背進し、攻撃演習を行って、城門を占拠し、大砲を配置し て、実際の暴行こそなけれ、ありとあらゆることを行った。そして、日本は自 分たちの要求を強行することができるということを、韓国人に示威しようとし たのである。   閣僚や皇帝にとってこういう示威のすべてが、不吉な恐ろしい意味を持っ た。1895年のあの夜、日本軍兵士が別の王宮(乙未政変の時の王宮景福宮 を指す・・・)のまわりを示威行進し、注意深く選び出された日本人壮士たち が宮殿内に侵入し、そして王妃【閔妃】を殺害したが、その時のことを、大臣 や皇帝は決して忘れることはできなかったのである。   日本は、以前にそういうことをした。日本がふたたびそういうことをしな いとどうして考えられようか。大日本の意志に対して今げんに抗らっている者 誰一人として、その眼前に剣を突きつけられたわけではないが、しかも彼らは、 想像の中で、終日、数百回にわたって、日本軍の雨あられのような弾丸の音を 聞いたのである。   その日の夕刻、日本軍兵士は、剣つき鉄砲を持って王宮の中庭に入り込み、 皇帝のおられる宮殿の近くに立った。伊藤【博文】公が、駐箚朝鮮軍司令官長 谷川(好道)将軍(1850-1924)を帯同して王宮に来、内閣閣僚たち に対する新しい攻め落としをかけ始めた。   公は皇帝の出席を要請した。皇帝は、のどをいためて痛みが激しいと仰せ られて、それを許可にならなかった。そこで公は、皇帝のおられる所にまで直 接伺候して、個人的にご出席を要請した。皇帝はやはり拒絶された。「どうか お帰り下さい。その案件については閣僚と討議してください」と仰せられたの である。   そこでただちに、伊藤公は、閣僚のいる所に出て行き、「あなた方の皇帝 は、あなた方に、私と協議してこの案件を解決するよう命じられた」と宣言し た。   新たな会議が開かれた。日本軍兵士の充満、外部での銃剣のきらめき、宮 殿の窓を通して聞こえてくる荒々しい号令の声、それらは決して無効ではなか った。閣僚たちは数日にわたって、しかも孤立無援のなかで、戦ってきた。   外国政府代表の誰一人として、彼らに援助と相談をもちかけた者とてなか った。閣僚たちは、自分たちの前途に降伏と破滅とをみた。「われわれの抵抗 は無益ではないか?」と一人が言った。「日本政府はいつも最後には自分たち のやり方をとる」。   譲歩のきざしがあらわれ始めた。首相(参政)の韓圭ソル(?-193 0)が飛び上がるようにして椅子から立ち上がり、自分は、皇帝のところへ行 って、反逆者たちの話をおしらせるつもりだと言った。   韓圭ソルはその部屋を離れることを許されたが、それからすぐに、領事館 の日本人秘書にぎゅっとつかまれて、わきの部屋に放り出され、殺すと脅され た。伊藤公も彼のところへ出て行って解きふせにかかった。「譲歩するつもり はないのか、あなた方の皇帝があなたに命令されてもか?」と伊藤公は言った。 韓圭ソルは「しません。たとえそうでもしません」と言った。   これで十分であった。公はすぐさま皇帝のもとに行き、「韓圭ソルは反逆 者ですぞ。彼は陛下の命に従わないと公言しています」と言ったのである。   その間、残っていたほかの閣僚たちは、閣議室で待っていた。全員に、死 を賭して抵抗しようと激励したこの人物は、指導者としていったいどこに行っ たのであろうか? 一分刻みに時は過ぎていった。   だが、彼は帰ってこなかった。日本人が彼を殺してしまったのだ、という ささやきが閣僚の間で交わされた。日本人側のあらあらしい声は、層一層とか ん高くなっていった。礼儀や自制はかなぐり捨てられた。「われわれに同意し て富貴を得るか。さもなければ反対して死ぬか」。   外部大臣の朴斉純(号は平斉、1858-1916)、この人は韓国人政 治家の中でももっともすぐれた有能な政治家の一人であったが、彼は譲歩した 最後の人であった。しかし、その彼さえも、ついには屈服したのであった。   払暁になって国璽を外部大臣室から持ってきて調印を行うように、との命 令が出された。ところが、ここでまた一つの難事が生じた。というのは、国璽 保管者は、事前に、たとえ長官の命令があっても、国璽はいかなる目的のため にも引き渡してはならない、との命令を受けていたのである。電話でこの命令 が保管係官に伝えられた時、その係官は、国璽を持ってくることを拒否した。   そこで、特別の使いを出して、力づくでその係官から国璽を取り上げて来 なければならなかった。皇帝御自身は、今日まで、自分は同意しなかったと主 張しておられる。   条約(この条約は第二次日韓協約、韓国保護条約、乙巳保護条約などと呼 ばれる)調印のニュースを人々は、恐怖と憤激のうちに聞いた。韓圭ソルは監 禁を脱するや否や、狂気した人のようになって同僚たちにくってかかり、彼ら を激しく非難した。「なぜ約束を破ったのだ」と彼は叫んだ。「なぜ約束を破 ったのだ」。閣僚たちは、自分たちが、もっとも憎まれ、もっともさげすまれ る人間になってしまったことを知った。 《マッケンジー著「朝鮮の悲劇」渡部学訳、平凡社・東洋文庫、( )内は訳 者注、【 】内は半月城注》           -------------------------   この日、王宮の中庭にまで入りこんだ日本軍は、さぞかし大臣たちを恐怖 に陥れたことでしょう。大臣たちは、ちょうど10年前の景福宮の悪夢をまざ まざと連想したことでしょう。その脳裏には、日本は何をするかわからない、 目的のためとあらば一国の王妃すら無惨に弑逆する国である、ましてや大臣の 一人や二人の命など彼らにとってものの数ではない、という想いにおびえてい たことでしょう。   このような小心者(?)の大臣たちの売国的行為により、韓国は条約強要 を許してしまいました。乙巳五賊の名前は永遠に語り継がれることでしょう。   一方、海野教授の言葉を借りれば「不法きわまりない」策動により、保護 条約を強要した伊藤博文は、そのまま初代統監に就任し、韓国の完全植民地化 へ向けて采配をふるいました。その一部始終が韓国人の怨嗟の的になり、伊藤 は1909年、独立運動家の安重根によりハルビン駅で射殺されました。   伊藤は生前、畳の上では死ねないことを予想していたようで、日本の家族 宛の書簡に、自己の生命を賭する覚悟を書いていたようでした(梶村秀樹「朝 鮮史」講談社・現代新書)。   他方の安重根は、韓国では義士としてあがめられ、永く韓国の独立運動を 鼓舞しました。その足跡をたたえ、ソウル南山公園に記念館が建てられました。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/10/05 - 04569/04569 PFG00017 半月城 韓国保護条約(2) ( 7) 97/10/05 13:44 04464へのコメント   前回、#4453でくわしく紹介したように、1905年、日本は韓国を 銃剣で威嚇しつつ、韓国保護条約(第二次日韓協約)の締結を強行しました。 この強制の事実は否認すべくもなく、1963年の国連国際法委員会において、 ナチスドイツによるものと並んで、この条約は国の代表者個人に対する脅迫に より強要されたので無効とされています。 (戸塚悦朗「1905年『韓国保護条約』の無効と従軍慰安婦・強制連行問題 のゆくえ」、『法学セミナー』1993年10月号)   #4464 > そこでともかく、先ず合法であるかどうかについて再びお伺いしたいと思 >います。別に難しい話ではないと思いますが。   上記のように、保護条約は国際的に無効であると認識されていますので、 私もそれに従いたいと思います。そうなると、それから5年後の日韓併合条約 などはどうなるのでしょうか。常識的にその有効性に強い疑問が持たれるわけ ですが、まずは専門家の意見に耳を傾けることにします。ロンドン大学客員研 究員(執筆当時)の戸塚悦朗弁護士は次のように主張しています(同上書)。         -------------------------------   第一に、効力を発していない(保護)条約を前提に「確立」された、19 10年の「日韓併合条約」などの主要条約も砂上の楼閣だったことになろう。 日本側がそれらの効力を立証することは極めて困難ではなかろうか。   「併合条約」締結に際して署名した日本代表は、法的には効力を発してい ないはずの「統監」がつとめ、韓国代表は、統監の指示で行動する傀儡「大韓 帝国李内閣総理大臣」がつとめた。   前者は、効力を発生していない存在であるから、法的資格がないことにな ろう。日本側は、国際法的には存在しない者が代表していることになる。しか も後者は、事実上、前者すなわち日本からの「統監」の意思を代表する者にほ かならない。   1905年の王権喪失が効力を発していないとすると、もともとの完全な 主権は、少なくとも法的には残存していたはずだ。その主権を代表する国家の 意思は、「保護条約」締結時である1905年11月17日当時の大韓帝国皇 帝(高宗)とその内閣(韓参政大臣が主宰)が行使すべきだったはずだ。   ところが、1910年「併合条約」は、日本の傀儡「大韓帝国」政権李完 用内閣総理大臣が締結した。このとき皇帝(高宗)は、既に退位を強制され、 1907年以降は新傀儡皇帝(純宗)の時代となっていた。   これらの人々は皆大韓帝国を正当に代表する権限がなかったと思われる。 ましてや、韓国側は、日本側の「統監」の指示にもとづいて条約を締結したの である。だから、韓国の正当な代表は併合条約に拘束される旨の「合意」をし ていなかったことになろう。   1905年以後の条約は、「日本の意思」によって締結されたのであって、 「独立国であるはずの大韓帝国の国家の自由な意思」によって締結されたとは 到底言いがたい。そうだとすると、1905年以後の条約は、すべて「成立し ていない」ことになろう。   このように、日本の朝鮮支配の国際法的根拠が崩壊すると、法的に効力を 発していない支配体制の下に創られた大日本帝国朝鮮支配関係諸立法は、すべ て合法性を失ってしまうだろう。   したがって、合法性のない朝鮮関係日本国内法上の理由をいくら述べても、 「砂上の楼閣」にもとづく議論であって、全く意味のないことになろう。日本 政府は、大日本帝国による人権侵害を、日本国内法を理由に「適法だ」と主 張・正当化することはできなくなる。          ---------------------------   これは妥当な見解のように思えます。しかし、これに対し国際法が専門の 神奈川大学・阿部浩己教授はすこし違った見方をしています。その見方は専門 家の間でも注目されているようなので、それを次に紹介します。          ---------------------------   戸塚論文が述べるように、併合条約の前提ともいうべき1905年の保護 条約が実は効力を生じておらず、したがって引き続き結ばれた併合条約も当初 からその有効性を認められないということになれば、一体どういうことになる のか。   日本の朝鮮支配は当初から国際法的根拠を欠き、結果的に、朝鮮半島は日 本によって違法に軍事占領されていたとみなさざるをえないことになるのだろ うか。   確かにそうした理解も可能かもしれない。しかし、条約が効力を生じなか ったため「併合」が実現しなかったとしても、日本による朝鮮支配は、併合以 外の別の論理によって合法化されていたと解する余地はないのか。   たとえば、そこに「征服」(阿部氏注)という法理が作用したとは考えら れまいか。武力行使が禁止されている現代とは異なり、征服による領域取得は、 当時国際法上は合法であった。   実態に即して見ても、日本の朝鮮支配が武力を背景に達成されたことは疑 いない。だとすれば、日本の朝鮮支配はこの征服の論理によって国際法上合法 に行われたと解する余地もあるのではないか。   併合条約を当初から無効と判断するにしても、日本の朝鮮支配を違法と結 論づける前に、こうした別の法理の適用可能性などについても考察を加えてお くことが必要だと思われる(むろん朝鮮支配が「合法」だったにしても、それ が「正当」だったということにはならない・・原文のまま)。   日本による朝鮮支配それ自体に関する法的評価は、これまで決して十分に は行われてこなかった。今後、この問題に対する国際法学からの本格的なアプ ローチが強く求められていこう。 (阿部氏注)   征服とは国家が実力を用いて他国の領域全部を奪うことをいう。領域を併 合する意思を示すことと、実力による支配が実効的で確定的であることが必要。 武力行使が違法となった現在では認められない。   なお、国家間の合意(条約)にもとづいて一国の領域全部を他国に移転す る「併合」を任意的併合と呼び、征服を強制的併合と呼ぶこともある。 (阿部浩己「軍隊『慰安婦』問題の法的責任」、『法学セミナー』1993年 10月号)          -----------------------------   このように阿部氏もやはり、条約は効力を生じていなかったため、併合が 実現しなかったという見方を強く示唆しました。この点、私には妥当な考えの ようにみえます。   阿部氏の征服の論理は、前々回#4307「日韓併合条約」において紹介 したソウル大学の白忠鉉教授の説と一脈通じるものがありそうです。   すなわち、「日本の朝鮮支配が武力を背景に達成されたことは疑いない」 ので、植民地支配をさかのぼって無効化するわけにはいかないという主張につ ながりそうです。   しかし、ここでいう「征服」が実際にあったのかどうかについては十分な 検討が必要です。阿部氏は、反日義兵闘争に対する弾圧を植民地戦争になぞら え、その殲滅をもって征服とみなし、「韓国併合条約」はその意味で合法・有 効だとしています。   実際、抗日義兵闘争は1907年8月から拡大し、日本の資料である朝鮮 駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によっても、1910年の韓国併合にいた るまで、交戦回数は実に2819回にものぼり、14万人の義兵がこれに参加 しました。   その生々しいルポ記事は、前回紹介した記者・マッケンジーによりつぶさ に記録されました(「朝鮮の悲劇」平凡社・東洋文庫)。   1907年に義兵闘争が盛んになったのは、6月、オランダのハーグで開 かれた万国平和会議に、保護条約無効を訴えた高宗皇帝の密使が現れ、活動を 開始した事件に日本は驚愕し、一挙に反撃に出て韓国の隷属化を強めたためで した。   具体的には、日本の意のままにならない高宗皇帝を強制退位させ、新しい 皇帝に、十年前の「毒茶事件」で知的障害をきたし判断能力を欠いていた純宗 をすえ、傀儡としました。さらに、日本は軍隊増派を決め、第三次日韓協定を 強要し、立法・行政などの内政権を統監が直接掌握するようにしました。   そのうえ、非公表の覚え書きまで結び、韓国軍を解散させました。もうこ うなっては、この国に残された主権は形ばかりのものになってしまいました。 こうした植民地化の措置に憤激した人々が武器を持って、各地で立ち上がった のでした。   とくに1907年12月には全国の義兵部隊がソウル侵攻をめざし連合組 織を形成しました。李麟栄が指揮する一万人以上の義兵連合部隊は、京畿道揚 州に集結し、ソウル近郊まで進撃するまでになりました。   同時に、この軍はソウル駐在の各国領事館に義兵を国際法上の交戦団体と して承認するよう要請する文書を発送し、みずからが独立軍であることを位置 づけました。これに対し、列強は日本にすでに朝鮮支配の承認を与えていたの で、独立軍として承認しませんでした。   ところで、阿部氏の征服説について、明治大学・海野福寿教授はこう異議 を唱えています。          -----------------------------  阿部浩己氏らによって提起されている「強制的併合」説にふれておこう。 「強制的併合」とは、併合する国が戦争により被併合国を征服(永続的戦時占 領)し、併合を宣言し領土権を取得する、というもので、無差別戦争観の時代 の国際法は、それを認めていた。   阿部氏は、反日義兵闘争に対する弾圧を植民地戦争になぞらえ、その殲滅 をもって征服とみ、「韓国併合条約」はその意味で合法・有効だとするのであ る。   私は、この「強制的併合」説に賛成することはできない。その理由の一つ は、「第二次日韓協約」により韓国を保護、防衛する義務を持つことになった 日本が、被保護国である韓国を武力的に征服し、「強制的併合」を通じて滅亡 させることは論理的にできなかったこと。もう一つの理由は、日本と韓国の戦 争はもちろん、義兵弾圧を国際的に承認された交戦団体との戦闘あるいは内乱 とみなされることを絶対に避けなければならなかったからである。 (海野福寿「『韓国併合条約』無効論をめぐって」、『戦争責任研究』第12 号、1996)          ---------------------------   この戦いを日本の「征服」とみるのかどうか、いずれ阿部氏の反論が出さ れることと思われますので、ここではこれ以上ふれないことにします。   ちなみに、海野氏は、上の文章からわかるように、保護条約などは有効で あったという立場をとっています。その論拠は保護条約締結の際、個人に対す る脅迫の事実がまだ必ずしも明らかでないなど、無効論の根拠が十分でないと いうものです。しかし、同氏は阿部氏と同じように、たとえ合法であっても、 正当ではなかったと主張しています。   私は、#4307「日韓併合条約」において、合法性と正当性は別物であ ると主張したところ、この考えが、この会議室ではなかなか理解されないよう なので、それを補強するため、海野氏の下記の主張を借りることにします(同 上書)。          ---------------------------   私は先の適法性の指摘につづけて(岩波新書の「韓国併合」において)次 のように書いておいた。  「合法であることは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であることをいさ さかも意味しない。当時、帝国主義国は、紛争解決手段としての戦争や他民族 支配としての植民地支配を正当視していた。彼らの申し合わせの表現である国 際法・国際慣習に照らして、適法であるというにすぎない」   合法とはこのような意味であり、私の主張は言うなれば「合法・不当」論 である。   法治国家の市民生活に浸って暮らしている私たちにとって、合法は正当と 思いがちであることは否定できない。しかし昨秋のアメリカ兵による沖縄少女 暴行事件は、わが国の主権を侵害し、国内法の適用を受けない在日米軍が日米 安保条約と地位協定によって、まったく「合法」的に存在していることを、あ らためて知らせてくれた。   「合法的非合法」とは、国際法に禁止規定がないことを理由に核兵器の違 法性を主張しない日本政府を批判した宇都宮徳馬氏の用語(『軍縮問題資料』 1996年1月号)だが、「合法」の名の下に堂々と「非合法」の植民地侵略 を行ったのが帝国主義の時代だった。したがって、どんなに合法を強調しよう とも、韓国併合を正当化したり、植民地主義を美化することはできない。           ---------------------------   以上みてきたように、日本では保護条約の合法性は学者間で意見が分かれ るところですが、これにさらに新たな論議が浮上しました。それは条約の批准 書欠如をめぐる形式的な問題で、1992年、韓国ソウル大学の李泰鎮教授に より提起されました。このテーマはなかなか微妙で、関係国の学者により国際 論争にまで発展しました。そのあらましを紹介します。   保護条約は、形の上では日本の林公使と、韓国の朴斉純外部大臣との間で 調印されました。これに対し、主権者であった大韓帝国の高宗皇帝は徹頭徹尾 反対しました。そのためか、この保護条約には皇帝や天皇の裁可に直結する 「批准書」がありませんでした。   通常、国家の存亡にかかわる重大な条約には批准書は必要と考えられてい ますが、それがない条約は有効か無効か、形式上微妙な問題を生じます。この 批准書がないことを日朝交渉で北朝鮮も主張しており、この問題は現在の外交 上も重要と思われます。   しかし、この論争はすこし専門的になるので、ここでは割愛したいと思い ます。関心のある方のために、参考論文のみ記します(荒井信一「第二次日韓 協約の形式について、批准の問題を中心に」『戦争責任研究』第12号)。   おわりに、第二次日韓協約の条文を記します。この協約で特徴的なのは、 前年、日韓議定書にうたわれた第三条の「大日本帝国政府は大韓帝国の独立及 領土保全を確実に保証すること」という文言が、わずか一年で反古にされたこ とです。これは日本の帝国主義のありようを如実に示しているのではないでし ょうか。 第二次日韓協約   日本国政府及韓国政府は、両帝国を結合する利害共通の主義を鞏固ならし めんことを欲し、韓国の富強の実を認むる時に至る迄、此の目的を以て左の条 款約定せり。 第一条 日本国政府は、在東京外務省に由り今後韓国の外国に対する関係及事  務を監理指揮すべく、日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民  及利益を保護すべし。 第二条 日本国政府は韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うするの任  に当り、韓国政府は今後、日本国政府の仲介に由らずして国際的性質を有す  る何等の条約若くは約束をなさざることを約す。 第三条 日本国政府は、其の代表者として韓国皇帝陛下の闕下に一名の統監   (レジデント・ゼネラル)を置く。統監は専ら外交に関する事項を管理する  為め、京城に駐在し、親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す。日本国  政府は又、韓国の各開港場及其の他日本国政府の必要と認むる地に理事官   (レジデント)を置くの権利を有す。理事官は統監の指揮の下に、従来、在  韓国日本領事に属したる一切の職権を代行し、並に本協約の条款を完全に実  行する為め必要とすべき一切の事務を掌理すべし。 第四条 日本国と韓国との間に現存する条約及約束は、本協約の条款に抵触せ  ざる限り、総て其の効力を継続するものとす。 第五条 日本国政府は、韓国皇帝の安寧と尊厳を維持することを保証す。  右証拠として下名は各本国政府より相当の委任を受け本協約に記名調印する ものなり。             明治38年11月17日                特命全権公使  林 権助             光武9年11月17日                外部大臣    朴 斉純     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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