- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/09/10 -
04226/04226 PFG00017 半月城 RE:RE^2:人々の心を癒すためには(一部訂正)
( 7) 97/09/10 20:41 04206へのコメント
#4226の意見ですが、ここの会議室には珍しく思いやりのある意見
なので、驚くやら共感するやら・・・。これにコメントせずにはいられないの
で、横から失礼します。
>韓国人徴用工の人々や元従軍慰安婦の人々が悲惨な体験をされたのはきっと
>事実でしょう。戦場で明日は命がないかもしれない男性を相手に売春婦とし
>て働けば、どんな目に遭ったかは平和な現代でも想像するとぞっとします。
>戦争が終わり故郷に帰っても、同胞に蔑視されることもあったと思います。
こうした悲惨な体験に対する補償問題ですが、今まで私はここの会議室で
かなり書いてきましたが、日々に忘れられてしまったようなので、改めて私の
見方を書きたいと思います。
#4226、
>私は、韓国人徴用工や従軍慰安婦の要望に応えて、韓国政府が日本政府との
>政府間交渉を始めないのかが疑問でした。どうして韓国人個人と日本国政府
>の交渉という構図しか見えてこないのか・・・・・・。韓国の国民の間に、
>本当に日本政府に戦後補償を求めようという世論が沸き上がっているのであ
>れば、当然、韓国政府が韓国国民を代表して交渉開始要求を日本政府に申し
>出るべきだと思います。
賠償・補償問題は日韓協定により、お互いの政府間では決着済みなので、
韓国でどんなに世論が沸き上がろうが、韓国政府は国民を代弁して、補償を日
本政府に申し入れることはできません。これに関連して、私はつい先日、会議
室 FKYOIKUC (9) でも書きましたが、日本政府は国会で次のようにわかりやす
く説明しています。
「・・・いわゆる日韓請求権協定におきまして、両国間の請求権の問題
は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございま
すが、日韓両国間に存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決
したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持ってお
ります外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、
いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものでは
ございません。日韓両国で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げ
ることはできない、こういう意味でございます」
(1991.8.27 衆議院予算委員会会議録第3号10ページ)
このような事情から、戦後補償を求めようとする韓国人は、自国の政府を
たよらず、直接日本の裁判所に提訴するしかありません。それを受けて立つ司
法当局の見解ですが、韓国人の個人補償請求権は日韓協定にもかかわらず、協
定以後も存在していると見ていることが、96年7月の「不二越訴訟」判決に
より明らかにされました。
さて、問題の日韓協定ですが、日本は韓国に対し賠償や補償をしていない
という日本政府の公式見解は特筆に値します。
1965年の協定後、日本は韓国に3億ドル相当の生産物・役務の無償分
割供与を行いましたが、これは当時の説明では、「韓国独立のお祝い金」(大
平首相、当時)とか「経済協力金」であり、賠償ではないと説明していました。
しかし協定では、こうした説明とは何らの脈絡もなしに、日韓双方の請求
権問題は完全に解決したとされました。政治決着を象徴するものといえます。
こうした政治決着は、適当な機会があれば見直されるべきであると思います。
滋晴さんは、意味合いは違っても「基本にもどって、国家間の条約を締結
し直すしかない」としていますが、これはかなり実現がむずかしいのではない
かと予想されます。
>韓国人徴用工の人々や、元従軍慰安婦の人々の心を癒すためには、韓国の人
>々によって直接暖かく接してもらい、援助してもらうしかないと思います。
>日本人からの募金では「心は癒されない」のですから、韓国政府から渡して
>もらうしかありません。
韓国の被害者は金銭的補償より、精神的な償いをより強く求めているので
はないかと思います。それは国民基金を状況をみるとはっきりするのではない
かと思います。
国民基金は名目はどうあれ、実質的には官民あげての償い金で、しかも総
理のおわびの手紙まで添えられているので、国民基金の体裁は本来申し分ない
はずです。しかし、ご存じのように、ただ一点「日本国の償い金」という説明
がなされないために、多くの人の反発を招いています。この説明さえされれば、
多くの「従軍慰安婦」は国民基金を受け取り、その心はかなり癒されるだろう
と思います。
在日韓国人の「従軍慰安婦」宋神道さんもその一人ではないかと、私は想
像しています。体のあちこちに刃物による傷あとのある宋さんは、「謝っても
らいたい。金めあてじゃないってことをわかってもらいたい」といって、裁判
を提訴しました。そのとき、お金は一円も請求しませんでした。ただし、今は
訴訟を維持するために、弁護士の説得により1億2千万円を請求しています。
宋さんは、「なんで(日本)政府は個人補償しないのか。なんでよその国
の女たちを『従軍慰安婦』にさせといてからに、謝罪も補償もしないのか。国
がきちんとしなければ・・・。民間基金じゃダメだ。意味のないカネほしさに、
こんなに騒いでいるわけじゃないんだよ。オレを慰安婦に連れていったときみ
たいに、若いときにもどしてくれ。それができないなら、きちんと謝って、責
任とってもらいたい」と訴えていました。
ちなみに、宋さんなど在日韓国人の補償問題は日韓協定において対象外に
されたので、未だに未解決の問題として残っています。
先日、テレビ番組「筑紫哲也ニュース23」で、国民基金の受け取りを希
望している韓国の元「従軍慰安婦」を紹介していましたが、年老いて余命の短
い「従軍慰安婦」のなかには、いつになるかわからない完全解決を待つより、
死ぬ前に少しでもお金をもらって花を咲かせたい人もいることでしょう。
その一方で、韓国では宋さんのように歯を食いしばってでも「精神的な償
い」を最優先させる「従軍慰安婦」も多く、そうした矜持が共感を呼び、韓国
世論は国民基金反対に回ったのではないかと思います。もちろん市民運動は彼
女たちを利用しているのではなく、多くの場合、献身的に支えているものと私
は確信しています。
そのような世論にひきずられ、韓国政府も日本の国民基金に反対し、国家
賠償を求めたクマラスワミ勧告を重視する意向を明らかにしました。その意志
表示として、国民基金の懸け橋的な役割を果たしてきた市民活動家「日本の戦
争責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子代表を入国禁止処分にしました(注1)。
元「従軍慰安婦」が真に求めているもの、それがもし藤岡信勝教授のいう
ように「宝くじのような大金」なら、今ごろ国民基金がパンクするくらい「従
軍慰安婦」が押しかけ、この問題はまるくおさまっていることでしょう。
ところが、現実に国民基金をもらった人はフィリッピンで約15人、韓国
で7人にしか過ぎません。この問題においてお金は万能ではないようです。
多くの「従軍慰安婦」が真に求めているもの、それは自分たちの青春が、
日本軍の軍靴で無惨に蹂躙されたことに対する精神的償いがキーポイントでは
ないでしょうか。しかるに現実は精神的に報われるどころか、フィリッピンの
バルサリサさんなどは、元閣僚・奧野氏の「慰安婦と称する女性たちは商行為
に従事していた。強制的に徴用したなどという事実はない」とする発言に深く
傷ついているようです。
戦後も後遺症やトラウマ、貧困、社会的蔑視などに苦しみ、いばらの道を
歩んでこられた元「慰安婦」には、何とか心安らかな余生を送られるよう、心
の底から願わずにはいられません。
(注1)共同通信ニュース速報[1997-07-23]
韓国政府が入国禁止措置 慰安婦問題で女性運動家
【ソウル23日共同】韓国政府筋は二十三日、日本の「女性のた
めのアジア平和国民基金」(原文兵衛理事長)が今年一月に韓国の
元従軍慰安婦に一時金などを支給した際に協力した日本の女性市民
運動家に対して、韓国政府が十四日付で入国禁止措置を取ったこと
を明らかにした。
韓国政府が同基金に関連した活動で入国禁止措置まで取るのは異
例のことで、今後、日本側の元従軍慰安婦への償い事業に影響を与
えるとみられる。
入国禁止措置の対象となったのは「日本の戦後責任をハッキリさ
せる会」の臼杵敬子代表(49)。臼杵代表は基金の一時金を受け
取りたいという元慰安婦の要望を同基金に伝えるなどし、基金活動
の懸け橋的な役割を果たしてきた。
基金の一時金支給に反対している「韓国挺身隊問題対策協議会」
(挺対協)などが四月、臼杵代表の韓国入国を認めないよう韓国法
務省に要求、韓国政府がこれを受け入れる形となった。
関係筋によると、韓国政府は十九日に臼杵代表に対する措置を在
韓日本大使館に通告してきたという。日本大使館側は「バランスを
欠いた措置であり再考を願う」と韓国政府に要請したが、決定変更
は困難との回答だったという。
同基金は今年一月に七人の元慰安婦の女性に一時金などを支給、
韓国政府や挺対協などの市民運動は強く反発した。しかし、最近は
元慰安婦の一部から日本の一時金を受け取りたいという希望が出始
めている。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/08/31 -
04137/04137 PFG00017 半月城 731と細菌戦(3)
( 7) 97/08/31 13:37 04127へのコメント
つらいひとりっ子さん、こんにちは。
私も「家永教科書裁判」の最高裁判決には注目していました。意味合いが
違うかもしれませんが、NET157さんのことばを借りれば、めでたさも中
くらいでしょうか。
それでも731部隊については、予想どおり家永名誉教授の勝利に終わり、
胸をなでおろしています。
読売新聞(97.8.30)によると、731部隊の生体実験について次のよう
な要旨の逆転判決が出されました。
----------------------
「731部隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋
は、当時定説化していた」と指摘。全文削除を求めたことには見過ごし難い誤
りがあり、文相の裁量権を逸脱している」と述べ、二審の適法判断を覆した。
----------------------
731部隊について違法な検定が行われた1983年、731部隊の生体
実験について作家・森村誠一さんは学者の定説をもとに「新版、悪魔の飽食」
を発行しました。新版では、旧版で誤用問題騒ぎになった写真を削除し、記述
の信頼性を高めました。当時、私もその本を読み、石井部隊が犯した犯罪には
慄然としたものでした。私に限らず、その当時、この本は相当な衝撃を世間に
与えたようでした。
さて前回、紹介した細菌戦に関するニューヨーク・タイムスの記事ですが、
そのとき予告したように、崇山村のペスト流行を中心にコメントを加えたいと
思います。
同社の記事は、崇山村のペスト感染源を日本軍による空中からの直接投下
によるものと誤解しているように見受けられます。
しかしながら、731細菌戦裁判(注1)を支援している「日本軍による
細菌戦の歴史事実を明らかにする会」発行のパンフレット「731部隊の細菌
戦」によれば、ペスト菌の空中投下は次のように行われたとされ、その中には
崇山村の名は入っていません。
〇ペスト菌の空中投下
1.衢州(くしゅう、チュヂョウ、Quzhou)、逝江省
1940年10月、逝江省の交通の要衝、衢州市(当時、衢県)に史上は
じめてペストノミの投下攻撃がおこなわれた。
この年の死者は公に確認されているだけで24名。しかし、翌年から二次
感染、三次感染によって市内だけでなく周辺地域に伝播し、死者の数は増え続
けた。衢州周辺では、1948年までペスト流行が続いた。
2.寧波(ニンボー、Ningbo)、逝江省
1940年10月、731部隊と1644部隊は逝江省最大の貿易都市・
寧波にペスト菌による細菌攻撃を行った。日本軍機が寧波市中心部の開明街の
上空に飛来し、ノミを混ぜた小麦や小麦粉などを投下した。
これによって住民が次々と発病し、100人以上の人が死亡した。開明街
一帯は、政府によって封鎖され、焼却されたが、1960年代まで人が住むこ
とがなく、「ペスト街」と呼ばれた。
3.常徳(じょうとく、チャンドゥー、Chande)、湖南省
1941年11月、日本軍機は常徳中心部に粟、麦、綿などと共にペスト
のみを投下。ただちに防疫対策がとられた。約一週間後に11歳の少女が死亡。
遺体の解剖の結果、ペストと判明。早期の防疫対策のため、数人の死者を出し
ただけでペストは沈静化する。
しかし、翌年春、ペストに感染したネズミから再発。第二次感染により死
者があいついだ。
常徳のペストは、翌年(1942年)約20キロ離れた桃源県莫林郷、石
公橋にも伝播する。桃源県莫林郷では、5月に常徳市内に猪を売りに行った
(細菌戦の)証人がペストに感染し、家族や見舞いに訪れた人々16人が死亡。
石公橋では、10月に常徳市内からペストが伝播し、一カ月の間に31名が死
亡。
常徳市への細菌戦は、二次・三次感染者も含めて、公式に記録になっただ
けでも死者は100名にのぼる。
なお、常徳へのペスト攻撃は日本軍の資料でも確認されました。中央大学
の吉見義明教授は、当時の参謀本部作戦課員・井本熊男大佐の業務日誌を発見
し、そこにペスト攻撃が記録されていることを確認しました(注2)。この日
誌は防衛庁防衛研究所図書館に所蔵され、現在は非公開になってしまったそう
です。これは資料隠しでしょうか。
資料といえば、アメリカはかって731石井部隊長から得た、人体実験の
資料を日本へ返還しました。この資料は国会図書館を経て防衛庁へ渡されたと
されますが、現在、行方不明です。研究者はその資料を懸命に探していますが、
その所在すら不明です。
一方、この資料は元731部隊員などにより、英訳されました。英文資料
はアメリカ・ユタ州、陸軍ダグウェイ実験場にあることがNHKにより確認さ
れました(番組、プライムテン「731細菌戦部隊」)。この基地は生物・化
学戦のための防御基地とされています。
○義烏(ぎう、イウー、Yiwu)、崇山(すうざん、チォンシャン、Congshan)
村への伝播
40年、衢州に空中投下されたペスト菌は、翌年秋、近くの義烏市に二次
感染を引き起こしました。義烏市街地(旧県城地区)で約200名の人々が感
染し死亡しました。ここを中心に周辺の村々でペストが流行し、1944年ま
で続きました。
特に1942年9月、義烏市江湾鎮崇山村でペストが大発生し、村人12
00人の1/3近い392人が死亡しました。10月中旬には、南京1644
部隊が村に進入し、村民に注射をしたり、人体実験をしたようでした。また、
ニューヨーク・タイムスの記事にあるように、日本軍は村に火を放ち村民の財
産もろとも焼却しました。
これについて、義烏に駐屯した日本軍86連隊のH軍医は、南京1644
部隊とともに崇山村へ入ったときのようすを、次のように記しています(前記
パンフレット)。
「南京防疫本部(註・1644部隊)から将校以下の調査隊が来隊。護衛
の兵隊までペスト防疫衣という白装束、眼だけ出し、ゴム長を履いて部落へ乗
り込んだ。(病人は)皆鼠蹊部のリンパ腺が手のひら大に腫れている。調査隊
は新しい墓地から死体を掘り出し、顕微鏡下にペスト菌を見たときは何ともい
われない恐怖感に襲われた。部落は焼却し、調査隊は意気揚々と南京へ引き揚
げた」
○ヂョーガン(せっかん)作戦、江西省・逝江省
細菌戦の被害地域は、中国側の指摘によれば数十カ所にもなります。その
方法も飛行機からだけでなく、食べ物への混入や井戸への投下など、さまざま
な方法でなされました。その代表例としてヂョーガン(せっかん)作戦を紹介
します(引用は前記パンフレット)。
1942年4月、アメリカの航空母艦から飛び立った爆撃機は東京などを
爆撃した後、中国逝江省の国民党軍飛行場で補給を受け帰還していました。
これにショックを受けた日本軍大本営は、江西省・逝江省にある国民党軍
飛行場の壊滅作戦を展開しました。この作戦に、731部隊と1644部隊が
秘密裡に同行し、大規模な細菌戦をおこないました。
江西省の広豊(グァンフォン)の細菌戦について、祝秀菊さんは「194
2年8月、日本軍は撤退するときにペスト菌をまいた。町の中心街の東街田里
では数十人がペストで死んだ。私の夫もわきの下のリンパ腺が大きく腫れ、高
熱で苦しんだ末に死んだ」と証言しました。
同じく江西省の玉山(ユイシャン)の細菌戦について、祝サイジュェさん
は「日本軍は玉山から撤退するとき、井戸に細菌の入った灯油缶2個を投げ込
んだ。この井戸を使っていた村人の大半が嘔吐、下痢、身体中に潰瘍ができて
死んだ。同じとき、日本軍機はノミも大量に落とした。私の家族は13人のう
ち10人が死んだ」と述べました。
同じように、日本軍は江山市(ジャンシャン、逝江省)を撤退するときに、
周辺の部落にコレラ菌入りの餅などを配りました。野良仕事に出て不在の家に
は、道ばたにカゴに入れて置きました。これを食べた村民は激しい嘔吐と下痢
に苦しみ、老人や子どもを中心に100名近い人がなくなったようでした。
こうしたやり方について、戦後、731部隊の犯罪を裁いたハバロフスク
公開裁判で、古都良雄・元部隊員は次のように証言しました。
-----------------------
私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、それは、貯水池、河川、
井戸、建物をチブス菌及びパラチブス菌によって汚染する方法による細菌攻撃
でありました。
第731部隊は、同部隊第四部で大量製造した前述細菌を、この派遣隊の
為に送りました。細菌はペプトン用のビンに詰められていました。これらビン
は、「給水」と表書きした箱に詰められていました。そして、これらの箱は、
飛行機で南京に送られました。
私は、細菌を充填した水筒を井戸、湿地、平和的住民の住居に投げ込むこ
とに成功しました。
当時、そこには、総数約3000人からなる中国軍の捕虜の収容所が二つ
ありましたが、3000個の特製の饅頭が製造されました。饅頭の製造には、
派遣隊員が参加し、暫くしてこれらの饅頭には、注射器で細菌が注入されまし
た。・・・
・・・(石井の命令で製造したビスケット)卵形のものと細長い形の二種
のビスケットでありました。それは、小麦粉で作られ、饅頭同様、細菌で汚染
されました。その後、このビスケットは、これがどんなビスケットであるかを
あらかじめ警告された日本軍兵士に引き渡され、日本軍兵士は、垣根の下、木
の下、休憩地等に、彼らが置き忘れたかのように、このビスケットを撒きまし
た。その数は300個ないし400個であります。
--------------------
ところで、古都良雄隊員が所属していた第4部ですが、同じ部の柄沢十三
夫課長もソ連軍の捕虜になり、後日、ハバロフスク裁判にかけられました。こ
の柄沢課長は731部隊員としてはじめて人体実験の事実を告白し、事実解明
に決定的な役割を果たした人でした。
柄沢課長の調書には、「自分は人間を治療しなければならない医師の立場
にありながら、戦争中に重大な犯罪を犯した。これは医師の良心として、自分
が代表してその事実を明らかにする」と記されているようです。医者としての
良心に目覚めた数少ない一人でした。
なお、柄沢課長は服役中、釈放が決まり日本への帰国を目前にしたある日、
突然自殺しこの世を去りました。遺書など何もなく、自殺の原因は明らかでは
ありません。その理由を、奥さんの豊子さんはこう見ています。
「内地に帰っておめおめ生きていかれるような性分の人ではなかったと思い
ます。戦友の方々に申し訳ないからというのではなく、日本に帰ったら、自分
のやったことを日本人は許してくれないだろう、と考えたのではないでしょう
か。戦時中の勤めを果たしていたのだから、お国のためだからといっても申し
開きのできることではない、と・・・」
これに比べ、731関係者の相当数は、その後も教育者として大学などに
残り、はなはだしくは学長まで務めました。その生きざまの何と見苦しいこと
か。これについても機会があったら書きたいと思います。
(注1)中国人遺族ら108人提訴 国に10億円賠償求める
共同通信ニュース速報、1997.8.11
日中戦争中、旧日本軍の七三一部隊などによる細菌戦でペストに
かかったり、家族を失うなどの被害を受けたとして、中国人の生存
者と死亡した被害者の遺族ら計百八人が十一日、日本政府に一人当
たり一千万円、総額十億八千万円の損害賠償を求める訴訟を東京地
裁に起こした。細菌戦をめぐる提訴は初めて。
南京虐殺、従軍慰安婦、強制連行、毒ガス弾遺棄などに続き、日
本の戦争責任を問う新たな裁判となる。
訴状によると、七三一部隊などは一九四○年十月、浙江省衢州(
くしゅう)、寧波両市で、四一年十一月には湖南省常徳市で、それ
ぞれペストに感染させたノミを穀物に入れて空中投下し、各市の住
民多数をペストに感染させ、殺害した。
衢州市で発生したペストは四一年から四二年にかけて、浙江省義
烏(ぎう)市の市街地や崇山村にも伝播(でんぱ)し、被害は拡大
。衢州、寧波、常徳、義烏各市で二千人以上が死亡した。
また、旧日本軍は四二年八月に浙江省江山市から撤退した際、市
内でコレラ菌を混入した食べ物を配り、住民約八十人をコレラに感
染させ、殺害した。いずれの被害地でも伝染を防ぐために家を焼く
などし、原告らは戦後苦しい生活を強いられた。
旧日本軍は当時も細菌戦がジュネーブ条約(二五年)などで禁止
されていることを十分知りながら、大本営陸軍部作戦命令などによ
って実行し、敗戦に際しては七三一部隊の施設を破壊するなどして
証拠隠滅を図ったという。
損害賠償請求権については、「毒や毒を施した兵器」「不必要に
苦痛を与える兵器」を使用した際の賠償責任を定めたハーグ条約(
一九○七年、日本は一一年批准)などに基づくとしている。
原告は寧波、常徳両市でペストにかかったが、回復した銭貴法さ
ん(69)ら男性三人のほか、各地区の遺族ら百五人。遺族の相続
者として、兵庫県姫路市在住の王選さん(45)らも原告に加わっ
た。遺族のうち四人が来日し、全国の集会で「家族を亡くした悲し
みと苦しみを伝え、日本軍国主義の罪を明らかにしたい」と語って
いた。
(注2)井本大佐の業務日誌
(引用は前記、「731部隊の細菌戦」による。ただし誤植は訂正)
11/4朝目的方向の天候良好の報に接し97軽一キ出発(以下四字分抹消)
〇五三〇出発 〇六五〇到着
霧深し Hを落して捜索、H800付近に層雲ありし為1000m以下にて
実施す(増田少佐操縦、片方の開函不十分 洞庭湖上に函を落す
アワ(註)36kg、其後島村参謀捜索しあり
11/6 常徳付近に中毒流行(日本軍は飛行機一キにして常徳付近に散布せ
り、之に触れたる者は猛毒なる中毒を起す)
11/20頃猛烈なる「ペスト」流行各戦区より衛生材料を集収(ママ)しあり
判決
「命中すれば発病は確実」
(註)アワとはペストノミのこと
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。