- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/07/21 -
03793/03794 PFG00017 半月城 性奴隷と奴隷条約
( 7) 97/07/21 15:49 03716へのコメント 「従軍慰安婦」73
永吉 晋さん、こんばんは。まず#3749にコメントします。
> 半月城さんは戦場売春婦は性奴隷であると頭から信じ切ってませんか。勿論
>暴力的な業者もいたかも知れません。それは待遇のいい悪いがあるのは今の売
>春窟でも同じことで、軍・行政によるものではありません。それを一括して全
>ての戦場売春婦イコール性奴隷であるとするには疑問があります。
「慰安婦」が性奴隷であることは、#3673「国連と現代の奴隷」でふ
れたように、国連の人権小委員会で日本の横田洋三委員も認めており、国際的
には議論の余地のない共通認識になっているのではないかと思います。
一方、戦地における「慰安婦」のみか、国内の公娼制度の下の「娼婦」も
性奴隷であったとする考えも多く見受けられます。たとえば女性史研究家の鈴
木裕子さんは次のように述べています。
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公娼制度とは国家公認の売買春制度で、1956年、売春防止法で廃止さ
れるまで続いた人身売買・強制売春のシステムでした。公娼制度の下では、指
定された地域で、「売春」業者の営業を認め、貧困ゆえに娼妓に売られた女性
たちが前借金にしばられて遊郭に閉じ込められて売春を強要されました。金で
性を買いに来る遊郭の男性たちにとっては、都合のよい遊び場でありましたが、
性奴隷にされた女性たちにとっては「苦界」でした。
国家はこうした男女の歪んだ性関係を公娼制度として認め、保護しました。
そのひきかえに業者や娼妓自身からも国家は税金をとっていたのです。このこ
とは、「売春」業者たちには「納税業者」としての胸をはらせ、男性遊客に対
しては、心に何らのやましさも感じさせることなく「買春」行為を行わせたの
です。ちなみにその税金がたとえば、自由民権運動の弾圧費にまわされたこと
もありました。
このように公娼制度は、女性の性奴隷ですが、国家による民衆の性統制シ
ステムであります」
(アジア女性資料センター編「『慰安婦』問題Q&A」P32)
-----------------------
ここで娼妓の奴隷としての歴史をすこし振り返ってみたいと思います。
1872年、ペルーの奴隷貿易船から一人の清国人が横浜港で脱走したことに
端を発するマリア・ルース号事件をきっかけに、日本でも遊郭などの買売春施
設などで人身売買が行われていることが国際的に批判されました。このため、
明治政府はは娼妓を解放するために、「牛馬切りほどき令」と称される布告を
出しました。
この布告は、「娼妓・芸妓は、人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず、
人より牛馬に物を返済を求むるの理なし・・・」と定め、娼妓をあたかも牛や
馬と同等にみなし、牛や馬などからは返済を求めるのは無理であるとして娼妓
の前借金を帳消しにしました。これはまさしく娼妓を奴隷と認めたものに他な
りません。
その後、1900年10月、日本は内務省令をもって娼妓の自由廃業をも
りこんだ「娼妓取締規則」を公布しましたが、これはほとんど形だけに終わり
ました。大審院判決によって、前借金による娼妓の人身拘束が保証されたこと
もあり、娼妓は依然として実質的に人身売買されました。実際、その後も農家
では飢饉になると「娘の身売り」が広く行われたのは周知のとおりです。
このような社会のあり方を考慮すると、「公娼制度は女性の性奴隷」とい
う鈴木さんの主張もうなづけます。
一方、「慰安婦」についていえば、中央大学の吉見教授はそれが性奴隷で
あるということを、諸資料を引用して下記のように記しました。
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軍用性奴隷であったといえる理由
「慰安婦」制度が軍用性奴隷である理由、女性たちが自由もない状況に置
かれていたことを示す資料を見てみよう。
問題となるのは
(1)慰安所で強制があったこと、
(2)徴募時に強制があったこと、
(3)未成年者が連行・使役されたことである。
まず(1)だが、慰安所制度では、内地の公娼に認められていた「拒否す
る自由」「外出の自由」「廃業の自由」すらなかったことが挙げられている。
軍は、「娼妓取締規則」(1900年)に該当するような軍法を作ること
もなく、慰安所を作っていった。当然、「廃業の自由」はなかった。
「外出の自由」を認める軍法がなかったことは、「慰安婦」の外出を厳し
く制限する慰安所規則が現地の部隊によって種々作られていることから確認で
きる。「特に許したる場所以外に外出するを禁ず」とした独立攻城重砲兵第二
大隊の規定、業者に「慰安婦外出を厳重取締」するように命じた比島軍政監部
ビサヤ支部イロイロ出張所の規定、「慰安婦の外出に関しては連隊長の許可を
受くるべし」とした独立山砲兵第三連隊の規定などである。
もちろん、許可制なので、外出できる場合もあった。しかし、許可制であ
れば外出の自由があったとはいえない。逃亡の恐れのない遠隔地に連行された
場合、規則がゆるくなる場合もあった。
また、兵站司令部が介入して「慰安婦」の待遇を改善したという漢口の慰
安所の事例でも、前借金を「売春」で返済しなければならないという、民法第
90条に明確に違反する契約を軍は当然視している。
山田清吉漢口兵站司令部慰安係長も「妓は自分の身体で稼いで前借りを返
さねばならぬという拘束がある。何とも不合理な話なのだが、私にも特別の配
慮のしようがない」と記している。
「拒否する自由」も当然なかった。あったのは泥酔した兵士の相手を拒む
ことができることぐらいで、この程度では拒否する自由があったとはいえない。
(2)の徴募時の強制については、官憲が「奴隷狩り」のように暴力で拉
致する強制がなければ強制ではない、というような議論があるが、以下のケー
スは「強制」と考えるのが当然ではないだろうか。
朝鮮・台湾では、軍に選定された業者が
(a)前借金でしばって連れていくケース、
(b)だまして連れていくケース、
(c)誘拐・拉致するケース
は、韓国や台湾でのヒヤリング記録に見られる。とくに(b)は多かった。
(a)(b)については、アメリカ戦時情報局の資料でも確認できる。
軍の要請により総督府が上から割り当てていったと思われるケースは、次
のようなものがある。まず、1938年11月、第21軍の要請で徴募した時
「台湾総督府の手を通じ同地より約300名渡航の手配済み」という記録があ
る。台湾でのヒヤリングでは、48名の元「慰安婦」のうち役所から割り当て
られたという者は6名いる。
1941年7月の関特演(関東軍特別演習)では、関東軍は2万人の「慰
安婦」を集めようとし、朝鮮総督府に依頼して約1万人を集め、ソ「満」国境
に配置したという。これが事実だとすれば、上から割り当てるしかなく、そこ
で事実上の強制があったと思われる。
末端での官憲の直接関与を示す資料は、現在までのところ出てきていない。
これは非公開の政府資料が調査できるようになれば、あったかなかったかはっ
きりするだろう。
占領地ではどうか。中国・フィリッピンの被害者の証言は、ほとんど軍に
よる暴力的な連行である。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。
被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。
ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースや、スマランからフ
ローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島
ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が連行し
たとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したとする証言、アンボン島
で地元女性を連行したとする証言などがある。
(3)朝鮮・台湾からの未成年者の連行・使役については、半数以上が2
1歳未満の未成年者であったことが、ほぼ確認できる。
(吉見義明「何が事実で証拠なのか」法学セミナー、97年8月号、ただし引
用資料は省略、またカタカナはひらがなに変換)
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次に順番が入れ替わりましたが、¥顧問さんの発言、#3716に答えた
いと思います。
> そういえば、奴隷条約で批准していないのがありませんでしたか?
>1910年のホワイト・スレイブ条約(まさか慰安婦と関係するからと
>も思えませんが。)。>半月城さん。
そもそも、1926年の奴隷条約(注)を日本は批准しませんでした。し
かし当時、奴隷条約は慣習法としてすでに成立しており、日本は条約上の義務
は負わないものの慣習国際法には拘束されるという見解が一般的です。
国際法律家委員会(ICJ)によれば、20世紀初頭には、国際慣習法が
奴隷慣行を禁止していたこと、およびすべての国が奴隷取引を禁止する義務を
負っていたことは一般的に受け入れられていたとされています。
日本でも、明治政府は先のマリア・ルース号事件の際、明らかに奴隷制度
を悪であると認識しており、このことは国際慣習法との関連で特記すべきこと
です。
実際に、奴隷取引の禁止が条約として実を結ぶまでには国際連盟の活躍が
ありました。1920年に成立した国際連盟規約22条は、各国に奴隷の積極
的解放を行い、奴隷取引を禁圧するよう義務づけていましたが、これを具体化
するために、1924年、国際連盟理事会により臨時奴隷委員会が設置されま
した。この委員会の努力により奴隷禁止が1926年に条約化されました。
このような歴史からすると、この条約は1926年の制定時にはすでに慣
習国際法として成立していたとする見方が一般的です。なかんずく日本は国際
連盟の有力な一員であったので奴隷条項の遵守は当然だったはずです。それに
もかかわらず、現在の日本政府は「奴隷条約が慣習国際法であったとする証拠
は十分でない」と、かなり苦しい主張をしています。
一方、¥顧問さんご指摘のホワイト・スレーブ条約ですが、日本は192
5年、婦女売買禁止条約に加入しました。この条約は三つありますが、その公
式名称は外務省公定訳で
「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際協定」(1904年)
「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」(1910年)
「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」 (1921年)
とされています。当時の日本政府は公定訳で売春を「醜業」と表現するなど、
時代的な価値観の限界を如実に示しています。ちなみに対応する条約の英文名
をみると、International Convention for the Suppression of the White
Slave Traffic となっています。直訳すると、白人奴隷売買禁止国際条約にな
りましょうか。このような名称も同じように当時の西欧諸国の時代的な限界を
示しているといえます。
そうした限界に加えて、1904年および1910年の条約の存在は第一
次世界大戦のためにかすんでしまいました。大戦後、この課題は国際連盟に引
き継がれましたが、その状況を女性史研究家の加納実紀代さんが次のように書
いています。
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1921年、大戦終了後設立された国際連盟で改めて婦女売買禁止条約が
締結されることになった。その第1条で、連盟加盟国のうち1904年の国際
協定、1910年の国際条約に未加入国は速やかに加入すべきことがうたわれ、
2,3,4条で違反者への処罰等必要な国内法体制を整備することを決めてい
る。「民族自決」を掲げる連盟だけに、はじめて「白人奴隷」だけでなく有色
女性も対象になったのだ。
当然日本も加盟を要請された。そこで問題になったのが国内法との矛盾で
ある。婦女禁売条約への加盟は1904年の国際協定、10年の国際条約加盟
を意味したが、国際条約第1条、第2条には次のように書かれていた。
「第1条 何人たるを問わず、他人の情欲を満足せしむる為、醜行を目的
として詐欺により又は暴行、権力乱用その他一切の強制手段を以て成年の婦女
を勧誘し又は拐去したる者は・・・罰せられるべし。
第2条 何人たるを問わず、他人の情欲を満足せしむる為、醜行を目的と
して詐欺により、又は暴行、脅迫、権力乱用その他一切の強制手段を以て成年
の婦女を勧誘し又は拐去したる者は・・・罰せられるべし」
つまり、売春目的で女性を売買することは、未成年の場合は本人の承諾が
あっても不可、成年の場合も詐欺・暴行・脅迫などの強制によるものは不可と
いうわけだ。その場合の成年は10年の条約では20歳だったが、21年の禁
売条約で21歳に引き上げられた。
しかし日本の公娼の制限年齢は、娼妓取締規則第1条で18歳となってい
た。このギャップをめぐって外務省と内務省の姿勢は大きく違った。大ざっぱ
にいえば国際的潮流にさらされる外務省は国際法優先、それに対して内務省は
国内法優先、場合によっては調印拒否もあり得るとした。公娼の大半が18歳
から21歳に集中していて、業者に与える影響が大きかったからだ。
結局、日本は内務省の線に沿い、調印にあたって成年年齢を18歳に
引き下げ、さらに植民地である朝鮮・台湾・関東州・樺太・南洋委任統治地域
には適用しないとの留保条件を付けた。年齢に条件付き調印は日本のほかはシ
ャム(タイ)・インドだけである。
これに対しては内外から非難の声があがった。とくに1923年9月の関
東大震災で吉原遊郭の娼妓が多数焼死したことから公娼制に対する国際的非難
が高まったが、政府は、娼妓は人身売買ではなく自由業である、芸妓は芸術家
であるなどと主張して失笑を買った。
そして25年6月、留保条件をつけたまま婦人禁売条約の批准をはかった。
婦人矯風会、廓清会など廃娼団体は一斉に反対の声を上げ、枢密院に無条件批
准を働きかけた。
東京朝日新聞も「ゲイシャガールを富士山と共に名物とし、吉原を日光と
併べて名所とすることは、我が国の誇りではあるまい」と批判した。
(途中省略)
こうした運動が一定の功を奏し、10月22日の批准に当たっては「適当
なる時期」に留保条件を見直すことが約束された。そして27年2月、約束ど
おり年齢制限についての留保は撤廃。しかしそれにともなう娼妓取締規則など
国内法の改正はなされなかった。
また、もう一つの留保条件、植民地への適用除外は撤廃されなかった。に
もかかわらずこれに対する抗議の声は上がっていない。
(加納「『婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約』と『慰安婦』問題」法
学セミナー97年8月号)
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芸妓が芸術家であるとは政府も知恵をしぼったものです。しかし、知恵は
知恵でも猿知恵でしょうか。失笑を買うのも無理ありません。
一方、政府部内で年齢条件をめぐる内務省と外務省のやりとりについては、
#1902「梶山発言と公娼制度」に書いたとおりです。ところで、植民地条
項に対しては廃娼運動のなかでも何ら異議が出されなかったのは、民族差別が
当たり前といった当時の世相を反映したためでしょうか。この風土が「従軍慰
安婦」問題の温床になったことはいうまでもないと思います。
婦女売買禁止条約は上記の他に、「成年婦女子の売買の禁止に関する国際
条約」が1933年に制定されました。この年、日本は「満州」侵略への国際
的非難に反発して国際連盟を脱退しましたので、国際条約などには目もくれま
せんでした。その結果、日本はこの条約を批准せずに現在に至っています。
これらの条約や奴隷条約の批准は、「従軍慰安婦」問題が解決しないかぎ
りむずかしいのではないかと思います。日本政府は、へたに条約問題を言い出
そうものなら、やぶをつついて蛇を出しかねません。一方、この条約の批准推
進を主張する人も寡聞にしてみかけないのは残念なことです。
日本は人権関係の条約批准は遅れがちで、現在でも批准していないものは
まだかなりあります。上記以外に現在でも批准していないと思われる条約を列
記してみます(かっこ内は採択年、なお、アパルトヘイト関係は除外)
1.市民的および政治的権利に関する国際条約の選択議定書(1966)
2.市民的および政治的権利に関する国際条約の第2選択議定書(死刑廃止)
(1966)
3.集団殺害の防止および処罰に関する条約(1948)
4.戦争犯罪および人道への罪に対する時効不適用に関する条約(1968)
5.無国籍者の地位に関する条約(1954,1961)
6.既婚婦人の国籍に関する条約(1957)
7.婚姻の同意、最低年齢および登録に関する条約(1926)
8.拷問およびその他の残酷な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑
罰の禁止に関する条約(1984)
9.全ての移住労働者及びその家族の権利保護に関する条約(1990)
これら条約の批准状況は、その国の人権意識を示す尺度になるのではない
かと思います。
(注)
奴隷条約とは次の諸条約を指します(日本はすべて未加入)。
1.奴隷改正条約
1926年の奴隷条約 1926年採択
1926年の奴隷条約を改正する議定書 1953年採択
1926年の奴隷条約の改正条約 1953年採択
2.奴隷制度、奴隷取引ならびに奴隷制度に類似する制度
および慣行の廃止に関する補足条約 1956年採択
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/08/02 -
03868/03868 PFG00017 半月城 インドネシア「慰安婦」(1)
( 7) 97/08/02 21:51 03801へのコメント 「従軍慰安婦」74
ここのところ、私はホームページ「半月城通信」韓国語版の校正に忙しく、
こちらの会議室は小休止していました。
この会議室では、「半月城通信」の影響力を懸念する人もいるようですが、
ホームページの多様性は、ここの会議室FNETDの趣旨である「ネットワー
クデモクラシー」の本分にも沿うもので、それが反社会的でないかぎり歓迎す
べきことではないかと思っています。
さて、本題に入ります。#3801、SKさん
>しかし、わたしが問題としているのは、そうした個々の兵隊の「軍規違反」で
>はなく、「 軍 が 政 策 と し て 女 子 を 強 制 連 行 、
>強 制 売 春 を 行 わ せ た 事 実 が あ る か ど う
>か 」ということです。
> つまり、「個人の犯罪なのか、全体の方針だったのか」ということです。
SKさんは、軍による強制連行が個人によるものか、全体の方針によるも
のかにこだわっておられるようですが、その真意は何でしょうか? 軍人個人
の戦争犯罪であれば、国家には責任がないと主張したいのでしょうか?
この責任問題に対する回答は、ハーグ条約に見いだすことができるのでは
ないかと思います。これに対する日本弁護士連合会の見解を紹介します。
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1907年のハーグ条約第3条は、「前記規則の条項に違反した交戦当事
者は、損害ある時はこれが賠償の責任を負うべきものとす。交戦当事者は、そ
の軍隊を組成する人員の一切の行為に責任を負う」と定め、交戦当事国の損害
賠償責任の規定をおいている。
ハーグ条約第3条の被害者に対する加害国の賠償、補償責任はジュネーブ
四条約、ジュネーブ条約の追加議定書でもくり返し定められている。したがっ
て、当時ハーグ条約を批准していた日本は、同条約第3条により、同条約およ
び付属規則違反について賠償責任を負っている。
また、前記日本が批准していた醜業禁止条約、強制労働条約ならびに国際
慣習法違反の日本が犯した国際不法行為に対しては、日本は国家責任を負って
おり、これを果たさねばならない。
(日本弁護士連合会編「問われる女性の人権」こうち書房)。
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このように、軍人の戦争犯罪は、たとえそれが個人的なものであったとし
ても、国際法上国家には損害賠償責任があるようです。
次に、軍による政策的な強制連行は、実際にあったかどうかについて述べ
たいと思います。私はインドネシアの場合、暴力的な強制連行・強制売春の方
針は現地部隊止まりであったと考えています。陸軍省など軍首脳は暴力的な強
制連行を国策上指示するはずはなかったと思います。
一方、現地司令部の方針は、後に示すように、建前は女性の自由意志尊重、
本音は強制連行もやむを得ないという姿勢であったようでした。これに反し、
「慰安婦」集めに苦労していた現地部隊は暴走しがちで、時には暴力的な強制
連行に走ったようでした。そのような暴走行為が判明しても、往々にして処罰
はないがしろにされたようです。
さて、問題の軍による暴力的な強制連行ですが、それを示す公文書の存在
を、ノンフィックション作家の川田文子さんが紹介していますので引用します。
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国立国会図書館所蔵の極東軍事裁判の関係文書の中に、日本軍人の戦争犯
罪を立証する尋問調書が見つかった。指揮官だった陸軍中尉が(インドネシ
ア)モア島で現地の女性をむりやり「慰安婦」にしたことが供述されている。
問「ある証人はあなたが婦女たちを強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行か
れ、日本人たちの用に供せられたと言いましたが、それはほんとうですか」
答「私は兵隊たちのために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました」
問「婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか」
答「ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした」
問「幾人女がそこにおりましたか」
答「六人です」
問「その女たちのうち、幾人が娼家に入るように強いられましたか」
答「五人です」
問「どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか」
答「彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘たちでありました」
問「ではその婦女たちは父親のしたことの罰として娼家に入るよう強いられた
のですね」
答「左様です」
住民が憲兵隊を攻撃したという行為に当時の日本軍政に対する強い抵抗の
意志を見ることができる。この尋問調書で興味深いのは兵営を慰安所にしたと
いう陸軍中尉の証言が、ウイダニィンシさんらの証言と重なることだ。
ウイダニィンシさんは、軍が接収して使用していた、もとはオランダ人の
民家に監禁され、性奴隷状態におかれた。彼女を拉致した軍人数人が強姦し、
その後、「慰安婦」にしたということまで、モア島で慰安所をつくった陸軍中
尉のやりくちと同じだった。
強制連行を示すもうひとつの公文書、1948年2月14日に下されたバ
タビア臨時軍法会議判決を『季刊、戦争責任追及』No3所収「オランダ女性
慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」でみてみよう。これは、
オランダ人抑留所から女性が慰安所へ連行され、性奴隷とされた事件を戦争犯
罪として裁いたものである。
被告は12人であった。
被告1. 45歳、1902年広島県生まれ 陸軍大佐
1945年3月から4月にかけて、スマランの兵站将校の職務にあった被
告は戦争犯罪が犯されていると、あるいは戦争犯罪が犯されるであろうと察知
していたか、当然、疑ってみるべきだったにもかかわらず、自分の指揮下にあ
った民間人ならびに軍人が35人程の女性に売春を強制し、強姦するのを黙認
した。
この女性たちは日本軍占領当局によって、スマラン市内のスマラン東、ヘ
ダンガン、ハルマヘラの3カ所の婦人収容所、また、アンバラワ第4、第5と
いう2カ所の婦人収容所から連行され、将校クラブ、スマラン・クラブ、日の
丸、二葉荘などのスマラン市内の数軒の慰安所に収容されていた女性たちであ
る。
被告2 ・・略・・
被告3. 38歳、1910年広島県生まれ 陸軍少佐
(a)被告は1944年2月26日頃か、同年同月のある日、スマラン市内カ
ナリラーンにある建物において35人ほどの女性たちを、慰安所として設備さ
れた4カ所の建物に輸送することを命じた。・・略・・
また被告は、兵站将校代理の職務にあって、前記の女性たちのうち、自由
意志で売春を行う女性は皆無か、いたとしてもごく少数であり、売春をさせる
ために実力行使が行われるであろうことを承知しながら、あるいは、当然、そ
の疑いを持つべき立場にありながら、女性たちに売春婦として働くことを命じ
た。
(b)・・略・・将校クラブと呼ばれる建物において・・略・・不特定多数の
日本兵との自発的な性交を拒否し続けるならば、彼女たちは殺されるか、ある
いは彼女たちの親族が報復を受けるであろうと脅迫して売春を強制した。
・・・
被告9. 41歳、1907年10月9日東京生まれ 陸軍曹長
・・・当時、スマラン・クラブと呼ばれた慰安所の支配人をしていた頃、
被告は日本軍占領当局の強制収容所から連行された少女や女性の7人ほどに対
し、売春を強制し、女性たちが日本兵との婚外性交を拒むと殴るなどの暴力を
行使した。
・・・
被告12. 39歳、1909年1月24日山梨県生まれ 陸軍曹長
・・・将校クラブとよばれる慰安所の支配人であったとき、・・・婚外性
交を拒否すれば、もっと悪い状況下にある兵士用慰安所に移すと脅かし、強姦、
強制連行、強制売春またその他の一般的虐待で女性たちすべて、あるいは多く
の少女たちに深刻な肉体的、精神的苦痛を与えた。
(川田文子「インドネシアの『慰安婦』」明石書店)
------------------------
SKさん、
> 半月城さんがおっしゃるまでもなく、占領地域においては、軍が強制売春を行
>わせた事実はあります。しかし、それが、強制売春をさせたものと分かるや、そ
>の慰安所は閉鎖され、それに関与した者には軍事裁判で死刑が宣告された例があ
>ります。
SKさんが指摘した、閉鎖された慰安所とは上記の、スマラン慰安所のこ
とではないかと思います。この、俗に言う「白馬事件」の場合、上記の実行者
に対し、日本軍からは死刑どころか、何のとがめもありませんでした(注)。
これに対し、死刑を宣告したのはオランダの軍法会議でした。先ほどの川
田さんの著書は次のように伝えています。
-----------------------
被告1に対しての判決は、軍法会議議長が精神病棟での観察を命じたこと
を考慮して留保された。・・・刑の重い被告9は「売春強要」で禁固20年、
被告3は、「強制売春のための婦女子誘拐」「売春強要」「婦女強姦」で死刑
の判決となった。
被告3は、大佐某が1943年1月末ないし2月初め、日本に帰国した後、
兵站業務--すなわち、兵士の娯楽と福祉に関するすべて--を引き継いだ兵站将
校である。「被告3についての陳述」によれば、
「南方軍司令部の許可が、女性が収容所を自由意志で去り、慰安所で自発的
に働くという条件を満たしたときにのみ、有効であることを十分承知していた。
この自発性という条件には、同意書の署名に立ち会った将校がこれらの女
性が本当に同意書の中身を知らされていたのか、彼女らの自発性が疑問の余地
のないものであるかを確認すべき義務を持つことが含まれている。・・・
被告3はこの点を点検すべきであったが、それを怠った。さらに被告自身
のことばによれば、すべては民間人担当者の手にゆだねられ、被告は同意書の
中身が女性たちに正しく説明されたかどうかは知らないと申し立てた。
尋問されたすべての証人によって描かれた情景はまったく違った様相を呈
している。すなわち、彼女たちは強制されて署名をした。同意書の中身は説明
されなかったし、日本語で書かれてあったため、読むこともできなかった。さ
らに、それについての質問は、荒々しくさえぎらえたというものである。
・・・
本法廷は拒絶の深刻な事例、例えば脱走、自殺未遂、発狂を装ったり、仮
病を使った事例が被告に報告されなかったというのは、考えがたいことだと考
える」
ここでは同意書の中身が知らされたかどうかが厳しく問われている。
バタビア軍事法廷を舞台にして明らかにされた「慰安婦」集めと慰安所の
様相は、「慰安婦」にされたインドネシアの女性の証言と重なる部分が多々あ
ることがわかる。
そして、被告10や被告12の証言をみると、オランダ女性は「婚外性
交」、つまり軍人への性的「慰安」を拒否すれば、もっと環境の悪い兵士用慰
安所へと移すと脅されている。その兵士用慰安所に入れられていたのが、イン
ドネシアの少女たちであり、朝鮮や台湾、植民地の少女たちであった。
---------------------
インドネシア人「慰安婦」が具体的にどのように強制連行されたかについ
ては、次回に書きたいと思います。
(注)半月城通信、<「従軍慰安婦」5、白馬事件>、<「従軍慰安婦」32、
白馬事件(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/08/10 -
03919/03919 PFG00017 半月城 インドネシア「慰安婦」(2)
( 7) 97/08/10 22:38 「従軍慰安婦」75
ここの会議室は、軍による暴力的な強制連行にこだわる人が多いようなの
で、引き続きインドネシアのケースを明らかにしたいと思います。
最初に、インドネシアにおける日本軍の統治が、全般的にどのようなもの
であったのか見ておきたいと思います。これについて、一橋大学の中村政則教
授は教科書風に、次のようにわかりやすく書いています。
「インドネシアでは占領当初、日本軍は解放者として歓迎されたが、やが
て希望は失望へとかわった。日本軍はインドネシアの民族旗と民族歌を禁止し、
かわりに日の丸をかかげ、君が代を歌わせ、学校では日本語を使うことを強制
した。また、十数万人というロームシャ(労務者)をかりだし、マラヤ(マ
レーシア)・ビルマ・タイなどで重労働につかせた。
今でもインドネシア人のあいだでは、『ロームシャ』は太平洋戦争期の過
酷な強制労働を象徴する言葉として記憶されている。こうした状況のなかで、
東南アジア諸国では、ひそかに抗日組織がつくられ、日本の敗戦とともに、こ
れらは民族独立運動の主体へと成長していった」
(「近現代史をどう見るか、-司馬史観を問う」岩波ブックレット)
日本軍により『ロームシャ』にされた人たちは、戦後、インドネシア兵補
協会を結成し補償を求めていますが、その一環として元「慰安婦」の補償問題
でも重要な役割を果たしているのは、よく知られていることと思います。
日本人の調査では、ノンフィックション作家の川田文子さんたちがインド
ネシアを何回も訪れ、「慰安婦」の聞き取り調査を精力的に行いました。それ
に基づき、川田さんはインドネシアの軍事的性奴隷を、六つのタイプに分類し
ました(「インドネシアの『慰安婦』」、明石書店)。
1.人口の稠密なジャワ島の女性が他の島に連行された慰安所
2.日本軍駐屯地近くに住む女性たちが軍人に拉致されるなどして造られた慰
安所
3.営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に連れ込み、専用の性奴隷にした例
4.当時、日本の植民地であった朝鮮、台湾の女性が連行された慰安所
5.オランダ人抑留所から若い女性が連行され、造られた慰安所
6.インドネシアの女性がフィリッピン、ビルマ、シンガポールなど他の国の
慰安所に連行された例
この分類を見ると、インドネシアでは実にさまざまな方法で多くの女性が
日本軍の性奴隷にされたようです。そうした被害者二千人を対象に、インドネ
シア兵補協会が被害の実態を調査し、760名から回答者を得ました。
アンケートで、「何が原因で『従軍慰安婦』になったのですか?」という
問いに対し、回答は次のとおりでした。
45% 逆らうと家族を殺すと日本兵に脅迫されて強制された。
45% 看護婦にしてやる、学校へ行かしてやる、職を紹介するなどと言われ
てだまされた。
9% 帰宅途中、あるいは路上で拉致・誘拐されて。
1% その他。
これをみると、脅迫・拉致・誘拐による強制連行が半数以上になります。
その代表的な例として、13歳の時、学校から帰る途中に拉致された元「慰安
婦」マリアムさんの証言を紹介します(同上書より引用)。
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両親はバティック(ジャワ更紗)の商人だったが、1932年に亡くなり、
マリアムさんは、カラテンガ村(現スカブミ市)の村長の秘書をしていた叔父
に育てられ、スラバトゥにあった学校に通っていた。その学校は家から歩いて
3キロぐらい、オランダ時代にはオランダ語で授業を行っていたが、日本の軍
政が敷かれると、日本語の授業になった。
日本語で授業を受けるようになってまだ間もない1942年10月のこと
である。学校の帰りに、突然四人くらいの剣を持った日本兵に囲まれた。剣を
突きつけられたので、殺されるかと思ったが、日本兵は「歩け」と、身振りで
指示した。その中の一人がツムラであった。
同じ村の顔見知りの女性も何人か捕らえられていた。連れていかれたのは
キリスト教会のすぐ側の建物だった。まだ13歳、何のためにその建物に入れ
られたのか、まったく分からなかった。そこに入れられた直後、軍医から性病
検査を受けた。その検査も何のための検査であるのか、理解できなかった。
三日目、叔父が会いに来た。叔父は、マリアムさんが学校へ行ったまま帰
ってこなかったため、学校へ問い合わせるなどして、ようやく探し当ててきた
のである。
「なぜ家に帰って来ないんだ」
叔父は、マリアムさんが自分の意志でキプロス(ホテルやレストラン、オ
ランダ語)に来たと思いこんでいた。日本兵に捕らわれたのだと話したが、充
分説明しきれないうちに、叔父は部屋から出ていくようにと日本兵から警告さ
れた。その警告に逆らうことなどできなかった。
キプロスを管理していたのはふたりの日本人男性である。まず最初に、そ
の建物から外に出ることは厳禁された。用便以外には部屋から出ることさえ自
由にはできなかった。食事は他の女性が運ぶと説明されたが、食事を部屋に運
んできたのは同じ村の六歳年上の女性だった。その女性は食事を運んだり、掃
除をしたりなどの雑用をしていた。
軍人は切符を持って、キプロスに来た。受付で軍人から切符を受け取って
いたのは、ふたりの日本人だが、もうひとり17,8歳のインドネシアの女性
も受付にいた。彼女は軍人の相手もしたが、ふたりの日本人とともに、部屋に
いる少女たちが逃げ出さないように、常に見張っていた。
キプロスに入れられていた少女たちの全体の数は分からない。マリアムさ
んがキプロスにいた期間、ずっと一緒だったのは7名である。だまされてキプ
ロスに連れてこられた人が多かった。
キプロスを利用しに来たのは軍服を着た軍人だけである。兵隊は朝から夕
方までの間に、階級が上の軍人は夜に来た。
ツムラは度々やって来た。軍服の襟に星三つをつけていた。太っていて、
年齢は40代だっただろうか。13歳のマリアムさんにはとても年をとってい
るように見えた。横暴な軍人で、しばしば、ここから逃げ出したら殺す、と脅
された。マリアムさんの両親はすでに他界していたのに、お前がここから出て
いけば両親の命はないものと思え、といった。
キプロスに入って間もない頃は、軍人の要求をなかなか受け入れられなか
った。すると、しばしば剣を突きつけられた。
用便のため、部屋から出て、廊下で顔を合わせた他の部屋の少女と話をし
ていたら、逃亡を図っているとでも勘違いされたのだろうか。部屋に引き戻さ
れて殴られたこともある。軍人のいうことに従わないと、罰として食事を減ら
された。だが、日本語を理解できなかったから、何が原因で罰せられているの
か、理解できないことの方が多かった。
つらかったのは、マリアムさんには、キプロスに連れてこられた時に着て
いた服、たった一着しかなかったことだ。他の少女たちは、2,3枚着替えを
持っていた。
高原地帯であるスカブミは雨期には気温が20度以下になることもある。
そんな日には軍人の上着を部屋においてもらって、寒さをしのいだ。洗濯をす
る時にはツムラの服を借りるか、裸になって、乾くまで待つ他なかった。
「外に出ることはないし、軍人に犯されるために部屋に閉じ込められてい
たのだから、衣服は必要ないと思われていたのでしょう」
と、マリアムさんはいった。
性病検査は週に二回、民間の病院から中国人医師が定期的に来ていた。性
病にかかると、ただちに病院に送られた。食事の量が少なく、体力が衰弱して
いたためであろうか、下痢など、性病以外の病気にかかる人も多かった。
倉本部隊がスカブミから去り、キプロスから解放された時、マリアムさん
は17歳になっていた。その時、金は一銭も受け取っていない。カラテンガ村
の叔父のもとに帰ったが、受け入れられなかった。その直前までキプロスにい
たことを、叔父は嫌ったのだ。
近隣の人々も学校などを通じ、マリアムさんが日本軍に捕らえられていた
ことを知っており、蔑まれ、辱められた。叔父が受け入れてくれたとしても、
カラテンガ村では暮らせなかったのだ。
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これを読むと胸がつまります。13歳の幼い少女を監禁し強姦するとは、
何とも浅ましいものです。大東亜共栄圏建設という国策の下、現地では食料を
奪い、市民に暴力をふるい、女性を強奪する--これが占領地軍政実態の一面で
あったのではないでしょうか。
ところで大東亜共栄圏といえば、ここの会議室でたびたび話題になります
が、先日、大東亜共栄圏建設の裏に隠された本音を、NHKのテレビが紹介し
ていました。ご覧になられた方も多いと思います。その番組「太平洋戦争」
('97.8.8)によれば、大東亜共栄圏の本音を、開戦直前に大本営政府連絡会議
で決定された南方占領地行政実施要領(41年11月)に見ることができると
していました。それは次の三本柱からなります。
1.資源の獲得
戦争遂行に必要な資源を占領地から入手すること。
2.軍の自活
占領地の軍隊は内地からの補給に頼らず、食料など必要な物資を現地で調達
すること。
3.治安の回復
日本軍への抵抗運動は抑えこむこと。そのためには、地元住民への重圧は忍
ばせること。
実際の軍政もこの要領書のとおり行われ、現地で軍需物資や食料はもちろ
ん、女性までも奪うなど圧制を行い、それに対する抵抗を力で抑え込もうとし
たようでした。
そんな過去に、日本はどう向き合うのかが今まで問われ続けてきたのでは
ないかと思います。それに対する回答のひとつのあり方を、私は中曽根氏の発
言に見ることができそうです。中曽根氏は首相在任当時、「国家国民は汚辱を
捨て、栄光を求めて進む」と発言し、大見得を切りました(第5回自民党軽井
沢セミナーでの特別講演)。
この発言は、インドネシアでかっての部下である「イモ兵士」たちのため
に特別な「慰安所」を作ったと豪語する中曽根氏にふさわしいといえましょう
か(注1)。このように、国家の帝国主義的な栄光しか眼中になく、恥知らず
な汚辱の過去を切り捨てるという思考方式は、「新しい歴史教科書をつくる
会」が唱える「誇りの持てる歴史教育」をほうふつとさせます。
さて、イモ兵士の総指揮官であった中曽根氏ですが、同氏は、その当時
「慰安婦」をどのように集めたかについては何も語りませんでした。あるいは
台湾総督府に依頼して「慰安婦」を軍需物資として送ってもらったのかもしれ
ません。そうした実例は日本軍の公文書として残されています(注2)。
あるいは、手っ取り早く現地女性を「調達」したのかもしれません。中曽
根元首相と似たような境遇にあった、海軍(四南遣艦隊)司令部副官である東
大出身の大島主計大尉が、インドネシアでの「慰安婦」集めについておよそこ
う述べたことが伝えられています(禾晴道「海軍特別警察隊」太平出版社)。
・・・・・
「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集める
こと、そのためには宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海
軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女
には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その
間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。
そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書を
とって、自由意志で集まったようにすることにしています」
「特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくから(女集めを)どうか」
これに対し、特警隊の禾(のぎ)晴道中尉は「治安維持を任務としている
特警隊の信頼はまったくなくなる」ことを理由に、
「特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察隊
とか、住民のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があり
ます」
と述べて、この任務を逃れました。結局、「慰安婦」集めは民政関係の現地人
警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力
し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することにな
りました。
そうやって政務隊が「女集め」をしましたが、その後のエピソードを、担
当の司政官が禾中尉に戦後、次のように語りました。
「あの慰安婦集めには、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、
リストに報告されていた娘を強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れら
れないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞくと港に集まって船に近
づいてきて、娘を返せ! 娘を返せ! と叫んだ声が耳に残っていますよ。
こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピスト
ルに手をかけましたよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなことをされ
たんでは、だれでも怒るでしょうよ」
このような強制連行でも、司令部副官のいうように「慰安婦として働いて
もよいという承諾書」はとられたのかもしれません。この承諾書は前回、スマ
ラン慰安所の例からすると、おそらく日本語で書かれ、うむをいわせずに承諾
させられたのではないかと思われます。
ここに書いたインドネシアの例はほんの一部にしかすぎません。ここ数年
来、インドネシア「慰安婦」に関する研究も進展しだしましたので、今後、新
たな事実が徐々に明るみに出されるのではないかと期待されます。
(注1)
<半月城通信、「従軍慰安婦」33,「イモ」の総指揮官>
元首相の中曽根氏は「慰安所」をつくったと堂々と公言しています。元
首相は回想記「二十三歳で三千人の総指揮官」で次のように記しています。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけ
るものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくって
やったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであっ
た」(松浦敬紀編「終わりなき海軍」文化放送開発センター)
(注2)秘 電報訳
台電 第935号、(1942年)6月13日
(陸軍大臣)副官宛 発信者、台湾軍参謀長
本年3月、台電第602号申請、陸亜密電第188号認可に依る「ボルネオ」
に派遣せる特種(ママ)慰安婦50名に関する現地著後の実況人員不足し、稼
業に堪えざる者等を生ずる為、尚20名増加の要ありとし、左記引率岡部隊発
給の呼寄認可証を携行帰台せり。事実止むを得ざるものと認めらるるに付、慰
安婦20名増派諒承相成度(あいなりたし)。
尚、将来此の種少数の補充交代増員等必要を生ずる場合には、右の如く適宜処
理し度、予め諒承あり度、予め諒承あり度。
左記
基隆市日新町2の6***
終
(引用は、吉見義明「従軍慰安婦資料集」大月書店。ただし、カナはかなに変
換、句読点追加、かっこ内は半月城注)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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