半月城通信
No. 31

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. RE:『航跡』第18集発刊
  2. 「従軍慰安婦」65,吉田証言(2)
  3. 「従軍慰安婦」66,強制連行(2)
  4. 世界の論調(5)、アメリカ
  5. 世界の論調(6)、イギリス
  6. 世界の論調(7)、台湾、マレーシア


- FACTIVE MES( 5) ●分科会 人権 教育 女性 767/767 PFG00017 半月城 RE:『航跡』第18集発刊です! ( 5) 97/04/20 21:59 760へのコメント  渾沌さん、こんばんは。私の拙文「帰化と差別」を『航跡』に載せていただ きありがとうございました。この『航跡』は編集方針がしっかりしており、内 容が本格的なので読みごたえがあります。   今回、『航跡』に紹介された崇仁地区の歴史などは、とりわけ興味深く読 みました。隣接の東9条は、韓国人オモニ(母)識字学級やフェスティバル・ 東9条マダンなどの活動などで知られ、在日韓国人である私にとって関心のあ る街です。   そのうえ、私のつれあいが伝統ある京都・崇仁小学校OBであることから、 この地区には特別に愛着を持っています。先日も久しぶりにこの地区をぶらぶ ら歩いて、街の変貌ぶりに驚かされたものでした。   ところで『航跡』に「従軍慰安婦」問題が掲載されていましたが、私はこ れにも注目しています。私は目下、会議室FNETD・海外政策でこの問題に 真剣に取り組んでいます。渾沌さんはご存じかもしれませんが、「従軍慰安 婦」をめぐって自由主義史観シンパやもろもろの方と1年近く激論を交わし続 けてています。   その記録を「半月城通信」に収録していますが、孤立無援に近い状態です。 渾沌さんに限らず、どなたか論客の到来をお待ちします。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/04/06 - 02690/02691 PFG00017 半月城 吉田証言 ( 7) 97/04/06 22:28 02627へのコメント  「従軍慰安婦」65   大内さんも私の回答を待望しておられるようなので、予定を早めて吉田証 言やクマラスワミ報告書について、「半月城通信」をレビュー・補強し、何回 かに分けてコメントしたいと思います。   また、黄 子満さんからは「片言隻句をもとにした私への中傷」の可能性 とその排除について配慮していただき、ありがとうございます。しかし、私は それがたとえ重箱の隅をつつくような揚げ足取りであっても、私の発言に基づ く限り、まるごと受けとめるつもりでいます。私の場合こうした発言は、書か ないということで非難されるより、まだましかもしれません。   いずれの場合でも、発言者は私にダメージを与えるつもりで書くのでしょ うが、結果は書き手の品性が疑われ、長い目で見ると発言者自身がマイナスに なるので、私は軽く受け流しています。   前置きが長くなりましたが、今回は吉田証言をとりあげます。吉田証言自 体については、いまさら説明の必要もないと思いますが、念のために私の引用 の仕方を紹介します。           ーーーーーーーーーーー 一方、慰安婦を韓国で実際に強制連行したという当事者も名乗り出まし た。当時、山口県の労務報国会で動員部長をしていた吉田清治さんです。    吉田さんは1942年から終戦までの3年間に、陸軍西部軍司令部など の指示に従い女性千人を含む朝鮮人6千人を強制連行したそうです。    その中でも特にひどかったのは従軍慰安婦にされた女性たちの連行方法 で「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので 警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのも のだった」と吉田さんは語っています(北海道新聞、92.2.25)。          (半月城通信、「従軍慰安婦」1,日本政府の対応)    吉田清治さんはこの頃から急にマスコミの脚光を浴びました。しかし、 実は吉田さんはその10年も前から懺悔の手記(?)を出版していました。そ の書名は「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」で三一書房から1983年に出さ れました。その当時この本はほとんど注目されませんでした。    ここで吉田さんの所属した労務報国会について簡単に説明します。この 組織は1943年、国民総動員令により植民地や日本国内に残った人たちを国 のために狩り出すためにつくられました。会長や役員は、貴族院議員や各省庁 の大臣がなり、各県の会長には県知事が就任しました。その中で動員部長は要 職で相当な権限を持ち「動員」にあたりました。    その動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で 強制連行をしたそうです。          (半月城通信、「従軍慰安婦」12,吉田証言)           ーーーーーーーーーーーーー   吉田さんのいう「奴隷狩り」が済州島であったかどうかについてですが、 私は当時の時代背景を考えて、「強制連行はあったのかもしれない」というテ レビ朝日の示唆をそのまま受け止めています。   当時、植民地朝鮮では日本での労働力を補うため、「募集」段階ではとも かく、「官斡旋」「徴用」の時期には強制連行が公然と行われていたいた時代 でした。そのもようを引用します。 ーーーーーーーーーーーーーー   しかし年がたつにつれ、朝鮮では連行後の苛酷な労働の実態が少しずつ知 られるようになり、人集めは次第に困難になっていきました。そのため「官斡 旋」の始まった42年頃からは、NHK・TVでとりあげたチョウ氏のように、 夜、突然連行されるなど強引な手段の人狩りや、露骨な「暴力的連行」が頻発 し始めました(山田昭次・朴慶植監修「朝鮮人強制連行論文集成」明石書店)。   そうしたやり方は企業の募集担当者の回想からもある程度裏付けられます。 たとえば、北炭幌内炭坑労務課員・北山外次郎の「朝鮮出張募集報告」(45.3. 24)では 、徴用令を適用した労務動員に対する朝鮮人の反応を報告してますが、 そのなかで、「一般農民、日雇い等は従来より送出の対象となり居り、官斡旋 に於ても事実上強制的に送出せられ居りたれば、今更衝撃を受くることもな し」と述べ、官斡旋は徴用なみに事実上強制的なものであったと回想しました。 (小沢有作「近代民衆の記録10,在日朝鮮人」新人物往来社)。   こうした事実は総督府関係者の証言でも確認されています。かって宇垣総 督時代にその秘書役をしていた鎌田沢一郎氏は、強制連行のやり方を著書「朝 鮮新話」のなかで次のように記しました。   「納得の上で応募させていたのでは、その予定数になかなか達しない。そ こで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突然男手のある家の寝込みをおそい、 或いは田畑で働いている最中に、トラックを廻して何気なくそれに乗せ、かく てそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭坑へ送りこみその責を果たすと いう乱暴なことをした」 半月城通信、植民地時代17<サハリンへの強制連行>         ーーーーーーーーーーーーーーー   このような乱暴なことが行われていた時代ですから、女性の暴力的な強制 連行があっても不思議ではないと思います。そうした暴力的な強制連行は、そ の性質上公文書には記録されることは考えにくいところです。したがって証拠 の公文書がないからといって、暴力的な強制連行がなかったとは言い切れませ ん。なかんずく、強制連行されたという証言者がいる以上、私の心証としては 韓国の場合クロに近いものがあります。   こうした暴力的な強制連行はフィリッピンの場合、もっと確信に近いもの になります。フィリッピンでも強制連行を示す公文書は残っていないものの、 韓国よりいっそう多くの「従軍慰安婦」が暴力的な強制連行を証言しており、 もはや疑いの余地がないのではないかと思います(半月城通信「従軍慰安婦」 60(予定)、フィリッピン「従軍慰安婦」の強制連行)。   さて、話をテレビ朝日の番組にもどしますが、同局は92年、吉田証言を 追跡するために韓国で取材を行い、番組「ザ・スクープ、従軍慰安婦Part 2、戦争47年目の真実」として放送しました。取材先は吉田証言に登場する 済州島の貝殻ボタン工場跡や全羅道などですが、その内容を簡単に紹介します。           ーーーーーーーーーーーーーー    番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしま した。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用さ れた慰安婦がいるか?」に答えて、洪さんは   「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来 た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人 間じゃないよ」 と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはない が、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定 とも否定ともとれる返答をしました。    もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこ う語っていました。   「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにして いる問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自 尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいな のです」 この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」は あったかも知れないという印象でした。           (半月城通信、「従軍慰安婦」12,吉田証言)           ーーーーーーーーーーーーーーー   テレビ朝日以外にも、89年に地元の済州新聞の許栄善記者や92年に秦 郁彦・現千葉大教授などが現地調査を行いましたが、いずれも吉田証言を裏付 けることはできませんでした。そのうえで秦教授は「もちろん済州島の事件が 無根だとしても、吉田式の慰安婦狩りがなかった証明にはならない」と慎重な 姿勢を示しました(秦郁彦「昭和史の謎を追う」文芸春秋社)。   それについて「日本の戦争責任資料センター」の上杉事務局長は次のよう に書いています。            ーーーーーーーーーーー   (秦郁彦)氏は、吉田氏が強制連行したという済州島まで赴き、証言の真 偽を確かめ、その結果を「昭和史の謎を追うー第37回・従軍慰安婦たちの春 秋」と題して「正論」(1992年6月号)に発表しました。そして、同島か ら「慰安婦」の徴集を示す証言は得られなかったというのです。   ところが秦氏自身は、6-9万人の韓国・朝鮮人「慰安婦」の存在を認め ている人です。どうして日本に極めて近い済州島だけ、一人の「慰安婦」も徴 集されなかったのでしょうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかし いといえます。   現に、ユン貞玉・元梨花女子大学の教授が1993年に同島で調査を行っ たとき、周囲の島民の強い妨害がありながらも、一人の被害者と推定される証 言者が名乗り出ました。   しかし、周囲からの本人への激しい説得と制止によって、それ以上証言を とり続けることを拒否された事実があります(日本の戦争責任資料センターと 韓国挺身隊問題対策協議会による第2回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。   性暴力の被害者すべてに言えることですが、被害を訴え出ること自体に、 「身内の恥をさらす者」と非難される大きな困難が伴います。ましてや儒教が 強く残っている韓国社会では、さらに大きな精神的プレッシャーがあります。   現在元「慰安婦」を名乗り出ている女性のほとんどは、そうした身辺の制 約から比較的自由な、身寄りのない単身女性です。もし済州島という小さな島 で被害を名乗り出るならば、すぐさま近隣・親戚に波及する大事件となります。 しかも同島自体が、韓国の中でも地理的条件によって差別的に見られているこ とに留意すべきです。もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田 氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせら れる危険性を危惧しない人はいないでしょう。それを畏れ、島内に箝口令が敷 かれてきた可能性を否定できません。   要は証言を含め、資料批判が必要だということなのです。秦氏の論拠だけ で吉田氏の証言を嘘と断定することはできません。ただ、吉田氏はこれらの批 判に反論をしていないのも事実です。   私は、吉見義明・中央大学教授と共に直接お会いして、反論を勧めたこと がありますが、態度は変わりませんでした。その場で、私たちが様々な質問を したところ、証言に決定的な矛盾は見当たりませんでした。ただし、時と場所 が異なる事件を、出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれまし た。   したがって、吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」 という、歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、証言として は採用できないというのが私の結論ですし、吉見教授も同意見と思われます。   国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、その報告書 の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためでし た。          (「慰安婦」は商行為か? 第2版、同所発行)               ーーーーーーーーーーーーーー   吉田さんを秦郁彦教授は「職業的詐話師」と酷評していますが、吉田さん は韓国天安市独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に、自 らの罪を悔いて自費で「謝罪の碑」を建てました。吉田さんの告白は証言とし ては不適格ですが、私には吉田さんが「職業的詐話師」であるなどとはとうて い思えません。   現在、済州島では「従軍慰安婦」が名乗り出ようとするのを、周囲が妨害 している原因ですが、その理由の一つとして、上杉さんは「身内の恥」を指摘 されていますが、これに私はさらに「ムラの恥」を付け加えたいと思います。   韓国の中で、済州島は歴史的背景からとくに同郷意識の強いところです。 三麗・三多・三無の島として知られるこの島では、門扉・泥棒・乞食が無いと され、ムラはすべて身内同然で、身内の恥はそのままムラの恥になります。そ うした意識が妨害行為に回ったことはあり得るのではないかと思います。   一方、上杉さんの主張された儒教思想ですが、これについて、私はメーリ ングリスト[zainichi:1709] に次のように書きましたので、ついでに紹介しま す。 ーーーーーーーーーーーーー   #1704、  >「従軍慰安婦」に対する韓国の世論として、 > 「悪魔の手先である日本軍に、どうして『慰安』を与え続けたのか、 > 自殺すべきだったのではないか。」  >という意見が 「強く」 存在する。   これは「従軍慰安婦」に対し、あまりにもむごい意見です。日本軍の残虐 な行為を憎む感情と、女性の純潔を何よりも尊いものとする儒教道徳の相乗作 用が、心身ともに傷だらけになりながらも生きて帰ったハルモニたちを暖かく 迎えるどころか逆にむち打ち、50年以上の長い間、彼女たちを金縛りにして 沈黙の世界に追いやりました。   このように冷たさを通り越して、はなはだしくは「死」を要求する韓国の 風土にあって、ハルモニたちは肉親にも自分のつらい過去を打ち明けられず、 ひとりハン(恨)の世界に閉じこもらざるを得なかったのではないでしょうか。 「純潔」や「正義」といった美しい言葉も度が過ぎると、殺人的にすらなりか ねない危険性をはらんでいます。   韓国の純潔教育ですが、梨花女子大の韓明淑研究員は、雑誌「世界」4月 号、<「従軍慰安婦」と50年の闇(対談)>にこう述べています。   「16世紀壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)のときには、倭軍の侵略を受け逃 げようとする避難民が舟に乗り、川岸を出発するとき遅れてきた女の人がいま した。彼女を助けようと男性が舟から手をさしのべたが、その女性は手を握ら れるのが恥ずかしく、水の中に消えていきました。「飢餓は極小事、貞操は極 大事」という教えがあり、命を失っても貞操を守ろうと、自ら命を絶ったので す。   私も中学から高校のときに、家庭科の先生からこのような、男性には教え ない「純潔意識」の性教育を徹底的に受けました。戦後の私の時代ですらこん な教育を受けたのですから、戦前の女性たちの意識はもっと強い「純潔」意識 があったのではないでしょうか。ですから戦後、挺身隊から帰ってきた女性た ちは自ら「汚れた女性」として沈黙してしまったのです。   当時は性を口にすることはタブーでしたし、彼女たちの壮絶な痛みや苦し みを代弁してくれる人もいませんでした。国に帰ってきた慰安婦たちは、家族 に会わす顔もなく、その事実を隠したまま、ひっそりと胸の痛みに耐えながら 重い「恨」を宿して生きてきた。慰安婦にさせられた女性こそ「恨」の人生と 言えるでしょう」            ーーーーーーーーーーーー   「従軍慰安婦」は6-20万人いたと推定され(#1349)、多くは韓 国・朝鮮人であったとされていますが、現在、韓国で認定されている「従軍慰 安婦」はわずかに150人くらいしかいません。しかも済州島にはひとりもい ないという異常ぶりはこの問題の根の深さを露呈しているのではないかと思い ます。   済州島に「従軍慰安婦」はいたのかいなかったのか、この基本的な事実す らまだ未解明なようです。現地での調査に多くを期待できない現状では、旧内 務省の資料などの解明が待たれます。最近わかったことですが、自治省には調 査の及んでいない旧内務省の資料が、積み上げると二万メートルにもなるそう です(上杉、同上書)。   そのなかで「従軍慰安婦」に関係するかもしれない資料は、上杉氏による と約6千メートルに達するそうですが、この宝の山からどんな真実が飛び出す やら期待がふくらみます。一刻も早い資料の整理・解明が待たれます。また、 公開を渋っている防衛庁の資料や、取材をめぐってNHKとトラブルを起こし た法務省の資料なども早く公開してほしいものです。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/04/20 - 02759/02761 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」の強制連行(2) ( 7) 97/04/20 22:02 02742へのコメント 「従軍慰安婦」66   黄 子満さんは強制連行について吉見教授の見方を  > ちなみに吉見先生は「今のところ朝鮮半島での暴力的強制連行の事実は  >ない」とおっしゃっていると思います。 とされていますが、私は吉見教授の考えを別な風に理解しています。   吉見教授の見解を知るために、テレビ朝日の番組「朝まで生テレビ、従軍 慰安婦と歴史教育」における同教授の発言を引用します。  「官憲による奴隷狩りのような連行ということもなかったとはいえないわけ ですね。これは植民地と占領地とでは別ですけれども、植民地では確認できて おりませんが、占領地ではあったという例はでてきております」   吉見氏は番組の中でさらに西岡氏の質問にも答え、朝鮮半島では確認でき ていないと明言しましたが、私はこれはあくまで公文書などによる確認ができ ていないという意味で、「官憲による奴隷狩りのような連行」はなかったとは 理解していません。   それどころか「確認できていない」という吉見氏のニュアンスは、今後そ うした資料が見つかるかもしれないという考えのように見受けられます。   番組の中で吉見教授は、「挺身隊から慰安婦にされた女性も確認されてい ない」とした発言に続けて、戦争末期、最後の段階の資料は今は見つかってい ないが、そうした資料、特に内務省関係の資料は自治省の地下倉庫から見つか るかもしれないと、その可能性を指摘されていました。   この地下倉庫には、「従軍慰安婦」に関係するかもしれない資料は積み上 げると6千メートルにもなると同教授は指摘していました。   なお、強制連行について吉見氏の意見は「1.官憲による奴隷狩りのよう な連行」だけが問題なのではなく、徴募時の強制として、  2.前借金による拘束(身売り)  3.就業詐欺  4.拉致・誘拐  5.権力乱用(半強制) なども問題であると指摘しています。   この中で、4.拉致・誘拐は斡旋業者によるものですが、その業者とは時 には純粋な業者でなく、軍によって選定され軍の身分証明書を持った者である と吉見教授は強調されました。   また、5.権力乱用(半強制)とは植民地・朝鮮の場合、警察や面長(村 長)などが介在した場合を指します。一方、占領地・中国などでは村の有力者 を通じての脅迫などをいいます。   さて、前置きはこれくらいにして、黄 子満さんの質問に移りたいと思い ます。 <質問1>「従軍慰安婦」の強制連行  >「朝鮮半島のどこかしらで強制連行があっても、一向に不思議はない」  >ということであって、”済州島そのものとは直接関係ない”と考えて良い  >でしょうか?    済州島は、問題の吉田氏を除いて「従軍慰安婦」の関係者がひとりも名乗 り出ていないので、強制連行のあり方が韓国本土とどう違うのかは今のところ よくわかりません。   韓国本土と状況の違いで目立つのは、この島は日帝時代、警察・軍管理の 島であったということでしょうか。この島は地方自治制度上「島制」が敷かれ、 行政の最高責任者の「島司」(日本人)は警察署長を兼任しました。   その警察も戦争中は戦略上の理由から軍管理下におかれ、軍事色に塗りつ ぶされたようでした。そのようすを高野史男氏は著書「韓国済州島」(中公新 書)に次のように記しています。           ーーーーーーーーーーーーー   第2次世界大戦中、済州島南西部と北部に日本海軍航空隊の基地が設けら れ、中国大陸への航空作戦(南京渡洋爆撃など)の拠点とされたことがある。   また、済州島が東シナ海の要をなしているという戦略的位置の重要性から、 大戦末期にはアメリカ軍の済州島への上陸作戦が予想されたため、日本軍大部 隊(約7万人といわれる)が駐屯し、全島要塞化の工事がなされた。   海岸の崖には特攻隊の人間魚雷用の洞窟が掘られ、漢拏山北西部の御乗生 岳(1169m)には司令部用のトンネル式トーチカが築かれた。これらの労 働には島民が強制的に使役された。           ーーーーーーーーーーーーー   このように、戦争中は事実上の軍政下におかれた済州島は、軍本意の徴用 がかなり随意であったと思われます。また、済州島の主要地は大阪・下関と貨 客定期便2艘で結ばれていたので日本からは交通がわりあい便利でした。こう した状況が「従軍慰安婦」徴募に何らかの影響をおよぼしていた可能性はある かもしれません。 <質問2>強制連行された「従軍慰安婦」の証言  > 済州島以外で暴力的に強制連行されたと慰安婦が証言、とのことですが、  >具体的にはどなたでしょうか?   1992年7月、韓国政府は「日帝下 軍隊慰安婦 実態調査中間報告 書」を出しましたが、その中に強制連行されたとする「従軍慰安婦」の証言が 記載されています。ただし、プライバシー保護のためか証言者の名前は伏せら れています。その概要を毎日新聞(92.8.1)から引用します。   なお、この報告書は中間報告書なので暫定的なものと考えられます。ただ し最終報告書はまだ出されていないようです。           ーーーーーーーーーーーーー (1)1938年8月、日本式の名前に強制的に変えさせる「創氏改名」に反 対したことを理由に家族が警察に連行された。「愛国奉仕隊」に志願すれば父 が釈放されると聞き志願した。しかし、すぐに慰安婦にされジャカルタに連れ て行かれた。途中で不妊手術を受けた。46年、船で帰国した。 (2)43年1月、一人で家で留守番をしていると、見知らぬ男が入ってきて 「用事がある」といって連れ出され、そのまま満州(当時、現在中国東北部) に移動させられた。2坪の部屋で1日平均20人の軍人の相手をさせられた。 拒んだり、韓国語を使うと殴られた。1週間に一度性病の検査があり、感染者 は治療を受けたが、完治すると再び、元の生活に戻った。 (3)43年9月ごろ、釜山鎮駅前で日本の警察に連行された。警察署で待機 したあと、船で大阪に連れて行かれた。慰安婦生活に苦しみ脱出をはかったが、 捕まり殴られ負傷した。治療も受けさせてもらえず、慰安婦生活を強要された。 (4)37年4月、日本人から砂糖工場で働かないかといわれ、現地に行った ら日本軍の慰安所だった。南洋諸島でいろいろな島に連れて行かれた。 (5)41年2月ごろ、日本人女子一人と韓国人男子一人がやってきて、釜山 の工場への就職を勧誘した。約50人が移送された。日本で強制挑発され、 日本軍部隊で1日12人ー15人の相手をさせられた。部隊の移動により、シ ンガポールに移送され、そのあと、中国各地を転々とし、慰安婦生活を強要さ れた。現地では、年齢が高い人の半分以上が死んだようだ。 (6)38年12月、家に軍人20人がやって来て銃剣を突きつけた。強制的 に軍用トラックに乗せられ、倉庫に押し込められた。15人の女性とともに列 車に乗せられた。途中の駅でほかの15人の女性と合流、中国の天津の「日の 丸部隊」に到着した。 (7)44年9月、紡績工場で夜間操業中、武装した日本の軍人が15人入っ てきた。かれらは「日本で看護婦で働くことになった」と話した。おかしいと 気がつき逃げたが、49人が捕まった。横浜と広島で慰安婦として働いた。軍 人と同じ生活を強いられ、自由はなかった。49人のうち生き残ったのは自分 だけで、自殺したり、病死した。         ーーーーーーーーーーーーーー   これらの証言は生の声そのままで、裏付け調査はされていないようです。 そのため、これをそのまま真実として受け入れるわけにはいきません。こうし た証言の受け止め方について、私は吉見教授の下記意見を参考にしています。         ーーーーーーーーーーーーーー   被害者の証言は、時に揺れ動き、しばしば変わるところもある。その理由 は、証言者が意図的にウソをついているという場合を除外すれば、何十年も前 の証言を聞くときにしばしばおこることである。   また、元「慰安婦」のような深刻な性暴力の被害者であって、50年間も その被害を無視されてきた人の場合は、証言が誇張される傾向がないともいえ ない。なぜなら、前借金でしばられたとか、騙されたとかいっても、それは本 人や親族の責任ではないかと一蹴する言説が、これまで一般的であったからで ある。さらに、このような性的被害の場合、信頼関係のできていない人にあら いざらい語るよう期待すること自体、無理なことである。   それでは、元「慰安婦」の証言はすべて信用できないものであろうか。ま ず、1カ所でもおかしいところがあれば、その証言は一切採用できないとすれ ば、オーラル・ヒストリーは成立しないことになる。自己のライフ・ヒスト リーを語る場合、思い違いは誰にでも少なからずあるのである。そうすると、 文字で書かれた記録をもたない弱者や少数者の歴史は書けないことになる。   問題は証言の信用できる部分とそうでない部分を区別する、いわゆる史料 批判を徹底して行うことと、間違ったり、誇張された部分があるとすれば、な ぜそのような証言となるのかを検討することであろう。また、このような被害 者のヒヤリングでは、信頼関係を築くことと繰り返し聞くことが不可欠であ る。・・・   もちろん、完全無欠の記録というものはありえないことであり、これらの 記録も史料批判を行いながら、信頼性の高い部分を選り出し、再構成して実像 に迫ることが必要であり、現にそうした努力がなされているのである。   被害者の証言に一部不正確な部分があるからといってそのすべてを否定し、 逆に日本国家の責任を否定する軍人や総督府職員の証言だけは事実として取り あげるやり方は、非科学的というほかない。            (吉見義明「歴史資料をどう読むか」世界、3月号)        ーーーーーーーーーーーーーーーーー   こうした観点から、#2386にある河原さんの質問 3.クマラスワミ報告書のパラグラフ54チョン・オクスン「証言」は事実と、   A.思わない B.思う C.どちらとも言えない に対する回答は当然「C.どちらとも言えない」になります。   なお、あらかじめお断りしますが、チョン・オクスンさんの証言の中で、 どの部分を真実とし、どの部分を疑わしいとするかについては、私は十分史料 批判をできるほどの専門家でないので、コメントは差し控えます。   安易なコメントは、時には筆舌に尽くしがたい艱難辛苦をを負った「従軍 慰安婦」を暖かく迎えるどころか、場合によっては逆にムチ打つことになりま すので、パソコン通信の議論が目的のコメントは道義上遠慮します。 <質問3>挺身隊と「従軍慰安婦」  > さらに先回は  >>挺身隊=「慰安婦」という混同が朝鮮半島では根深く信じられていた  > 例を挙げておられます。  > 私はこの例がどうして、慰安婦の官憲による強制連行の可能性を示唆す  > るのか読んでもよく解りませんでした。   挺身隊や徴用など同じことばでも、当時、その受け取り方は日本と朝鮮と では雲泥の差がありました。日本では挺身隊はお国のためにご奉公するという 意識が強くても、朝鮮では強制連行に近いものがあるという時代状況を示す意 図で紹介しました。   それに、挺身隊と「従軍慰安婦」はまったく無関係なのかどうか、このあ たりの解明はまだ十分なされたとはいえません。吉見教授の言う「最後の段 階」の史料発掘次第では意外な事実が出てくるかもしれないということを示唆 するつもりで紹介しました。     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 02691/02691 PFG00017 半月城 世界の論調(5)、アメリカ ( 7) 97/04/06 22:30   最近、アメリカでも日本の戦争犯罪に対する関心が高まり、遅ればせなが ら戦争犯罪人に対する措置がとられました。   すなわち、司法省は昨年12月に引き続き、今年3月20日、かの731 部隊関係者17人を入国禁止リストに載せたと発表しました。   アメリカ司法省は、79年制定の戦犯入国禁止法(ホルツマン修正条項) に基づき、ナチス関係者6万人以上を入国禁止や国外追放にしてきましたが、 昨年、はじめて日本人をこれに加えました。しかし、今回も昨年の16人同様、 具体的な氏名の公表はありませでした。これは名前を公表しないことで、リス トから洩れた戦争犯罪者が米国に入ることを防ぐためという「抑止効果」を期 待しているためとされています。   これに関連して、はじめにワシントン・ポストの論調を紹介します。           ーーーーーーーーーーーー 「戦争犯罪遺産の一瞥   ところで、日本の戦争犯罪は放置されたまま」             ワシントン・ポスト、97年3月23日   (アメリカで)ナチスのホロコーストなどの戦争犯罪が痛烈な検証を受け ている一方で、これとはきわめて対照的なのが日本の戦争犯罪である。アメリ カ政府はこれに対し小さな一歩を踏み出した。   ・・・   米国法務省特別調査部(OSI)は1979年の発足いらい、ナチ戦犯に 焦点を絞って調査してきたが、昨年12月、この不均衡を正す第一歩を踏み出し、 これまでアメリカ入国を禁止したナチ戦犯およびナチのシンパ約7万人のリス トに、初めて16人の日本人の名前を加えた。   16人中12人は悪名高い731 部隊の旧兵士である。731部隊は グ ロテスクな人体実験を捕虜に対し行ったが、その捕虜の中にはアメリカ人兵士 もいたかもしれないといわれている。残りの4人は、慰安婦関係者だと信じら れれている。慰安婦とは日本軍によって捕えられ売春を強いられた中国人、朝 鮮人、オランダ人、マレーシア人、フィリッピン人女性を指す日本語表現であ る。   ・・・   これは戦後、正義から逃れていた日本人戦犯に、なんらかの行動をとろう とするアメリカ政府の最初の公式な試みであり、議論の余地なく正しい第一歩 である。問題はこの行動が、ここ半世紀にドイツの残虐行為に対して当てたの と同じくらいの光を、日本軍の残虐行為や、諸団体が必死になって長年追求し てきた日本軍による犠牲者の権利に当てられるかどうかという点にある。   答えは「NO」である。近いとさえ言えない。OSI所長のローゼンバー ム氏よると、OSIはここ10年間、日本の戦争犯罪についての情報を蓄積し ようとしてきたが、日本側の記録の少なさや、犠牲者が証言したがらないこと、 学者、人権擁護 グループやその他の人々の間で一般的に関心が薄いことなど が理由で、調査はなかなか進展しなかったとのことである。彼は、『第2次大 戦に関する限り、世界の焦点はドイツに絞られてきたが、これは我々が矯正し なければならない歴史的な不公正である』と述べている。 彼はまた、最近、奴隷労働や日本軍捕虜収容所における驚くべき死亡率な どについて、公的な記録になった資料やインタビューなどで突破口ができたこ とや、国際的に学者やメデイア、人権擁護グループの間でも日本の戦争犯罪に 対する関心が高まってきていることにも言及した。   しかし 最も大きな障害は日本人自身である。日本人は戦時中、残虐行為 を演じたことを認めることを拒否する。 ヨーロッパ人のように問題に対決す るよりは、日本人は意図的に教科書でも触れないようにしてきた。     (途中省略)  戦争犯罪を検証することは、罪あるものを罰する以上の意味がある。それ は歴史の記録を正し、我々がすべての人々の役割を理解し、戦争犯罪が二度と 起らないようにすることなのだ。罪のない日本の若者の大部分が自国の残虐行 為に無知でいると、結果として戦争犯罪人や彼らの犯罪を世界から見えないよ う手助けすることになり、許されることではない。さらにアメリカ政府までが それを手助けする必要はもちろんない。 (ウィリアム・トリプレット)          ーーーーーーーーーーーーーーー   この記事に登場した、特別調査部長のローゼンバーム氏は朝日新聞のイン タビューに応じ、今回の措置について次のように語っていました(96.12.23)。 Q.16人の行為はナチスと同等の戦争犯罪と考えているのですか? A.別々の犯罪を比べたくない。しかし、法律的には同等に扱っている。モラ  ルの見地か らも、ナチスが強制収容所でやったことと731部隊が生体解  剖で人を殺したこととは 重大性において、違いはないと思う。 Q.慰安婦が強制連行されたという証拠はあるのですか? A.ある。彼女たちは自宅や街から連れ去られた。 Q.それを示す文書はあるのですか? A.ない。証言に基づく証拠だ。証言の大半は犠牲者による。個々の例では、  自発的に応募した慰安婦もいたかもしれない。しかし、いったん応募してし  まえば慰安所を去ることはできず、捕らわれ人になった。   (強制的に働かされた慰安婦がいなかったというのは)大きな誤りだ。   (ナチスの)ホロコーストがなかったという人がいるように、明白なことを  否定する人は、残念ながら、どこの国にもいる。 Q.戦争直後、日本を占領した米軍は、731部隊から情報を得るのと引き換  えに関係者を免罪にしているではないか。なぜ、今ごろ、部隊関係者を入国  禁止対象にするのですか? A.悪いことをしなかったとして免罪にしたわけではないが、(戦争犯罪人と  して)起訴されなかったのは事実だ。   (起訴しなかった)決定を取り消すことはできない。しかし、米国に入国  しないようにすることはできる。 Q.戦後50年もたって、このような調査を続ける意味はあるのですか? A.法律上、続けなければならない。また、時が経過したからといって(ナチ  スや旧日本軍関係者の)犯罪の重みが軽くなるわけではない。犠牲者は現在  も生存しており、体の傷以上に心の傷はいえていない。   何もしないことは、民族浄化やその他の人道に対する犯罪が現在も起きて  いる世界で、虐待行為を行う可能性のある人物に、誤ったメッセージを送る  ことになると思う。   一方、このアメリカの措置について、週刊誌「ニューズウィーク」は次のように書 いています。           ーーーーーーーーーーーーー 「日本人戦犯、アメリカ『50年目』の怒り」           ニューズウィーク、96年12月18日号     (前半省略)   「日本の戦犯には、ナチの最も悪質な戦犯と同程度にひどい連中もいる。 そんな連中に、われわれの子供と一緒にディズニーワールドで楽しむことを許 していいのか」   731部隊は、戦後の日本が引きずる最大の闇の一つだ。慰安婦問題では 謝罪を繰り返してきた政府も、731部隊については単に存在したことを認め ただけで、何の見解も示していない。   だが、真相は明らかになりつつある。神奈川大学の常石敬一教授は、19 32年から45年にかけて満州の731部隊基地では推定5000人が働いて いたという。   そのうち約1500人は今も健在で、常石は彼らに名乗り出るよう呼びか けている。これまで名乗り出たのはほんの数人だが、石井が生体実験の実態を いかに隠蔽したかを詳しく証言している。   「われわれは初めから、『見るな、聞くな、言うな』という命令を受けて きた」と、元731部隊隊員の篠塚良雄(73)は語る。篠塚は、自分たちが 培養していたチフス菌などが、ワクチン用でなく人体実験に使われることに気 づいていたという。「戦後、なぜこれだけの戦争犯罪が闇から闇に葬られたの かと考えた」   人体実験の詳細な記録と引き換えに石井に自由を与えた取引について、ア メリカ政府は公式には何の説明も行っていない。常石によれば、アメリカは今 も600ページに及ぶ731部隊の書類を保管し、人体組織の標本まで残して あるという。   だが、マサチューセッツ工科大学の歴史学者、ジョン・ダワーによれば、 こうした取引にからむ「道義的問題」の話など、アメリカ人は聞きたくもない らしい。   彼らが聞きたいのは、「悪い日本人」の話だけ。そして、自分の国からそ うした連中を締め出しておきたいだけなのだ。      トニー・エマソン、ジェフリー・パーソレット、富山秀子(東京)          ーーーーーーーーーーーー   ニューズウィーク誌はこれより先に、日本の戦争責任、特に朝鮮を植民地 支配したことについてふれ、朝鮮半島史研究者のコロンビア大学・ゲアリー・ レドヤード教授との一問一答を下記のように載せました。 「ミッチー発言、道徳観念が麻痺」    「I Want to Enphasize the Hurt」 ニューズウィーク、95.6.21 (前半は、「日韓併合条約は円満に結ばれた」とする渡辺元外相を批判して   いるが、ここでは省略。「半月城通信」、現代4.<村山発言>参照) (問)戦後50年になるが、日本の戦争責任については、依然議論が続いてい   る。朝鮮の場合は何が、一番問題だと思うか。 (答)第二次大戦で半島が戦場になったわけではないし、中国のような大虐殺   を経験したわけでもない。しかし、日本への強制連行・強制労働や従軍慰   安婦など、韓国が多大な被害を受けたのは事実だ、だが韓国の言い分の中   心は、戦争とは関係ない。日本によって民族が辱めを受けたという事実が   問題なのだ。 (問)具体的には? (答)微罪でも路上でむち打ち刑を執行したり、氏名を奪ったりした。それど   ころか、日本はあらゆる屈辱をあたかも自発的な行為に見せかけた。創氏   改名は、法律によって定められたものではない。全員が自発的に氏名を捨   てるように脅されたのだ。 朝鮮の人にしてみれば、そうするよりほかに道はなかった。銀行に口座   を開くにも、事業を始めるにも、結婚をするにも、子供を学校にやるにも、   日本名がなければ何もできなかったのだ。  民族としても、個々の人間としても、これほどの屈辱を味わされて、忘   れることなどできない。彼らはこの点について謝罪を求めているのだ。そ   のことを日本人は理解しなくてはならない。 (問)先日衆議院で採択された「戦後50年決議」によって韓国人の気持ちは   和らぐだろうか。 (答)いつもどおりのあいまいな”反省”の図式の繰り返しで、なんら新味が   ない。むしろ、この問題を直視せず、真の謝罪を先送りし、ごまかそうと   する日本の姿を改めて浮き彫りにしただけだ (問)どうして、これほど謝罪にこだわるのか。 (答)東アジア以外では、謝罪という国際慣習は存在しない。欧米の国々は、   戦争をして殺し合い、そのうえで講話を結んで一件落着。すべて法の問題   として処理される。人々は許し、忘れ、そして生きていく。    だが、東アジアでは、人と人との関係において謝罪という行為がきわめ   て重く考えられる。私はこの問題に対しては、無条件に韓国人の側に立つ。   ときとして、韓国人は実際に傷ついているというより、ただ怒りっぽくす   ねているだけという印象を与えることがある。    だが、彼らは傷ついたのだ。そのことを私は強調したい。みずからを傷 つけるような事態を彼らが黙認したと言わんばかりの(渡辺元首相の)発   言は、いかに想像力をたくましくしても許されるべきものではない     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 02741/02741 PFG00017 半月城 世界の論調(6)、イギリス ( 7) 97/04/14 00:07   このシリーズは、日本の戦争責任を世界がどのように見ているのかという ことに重点をおいて紹介しています。そのため、これらの論調に対し私のコメ ントはあまり加えないようにしています。   このシリーズを続けて実感として感じるのは、日本の戦争責任について世 界の論調は、自由主義主観論者がいうところの「反日的」な主張が友好国にお いてすらいまだに根強く、機会あるごとにそれが語られるという事実です。そ れもドイツとの比較で日本が非難されることが多いのが特徴です。   前置きはこのくらいにして、今回は総選挙が間近にせまったイギリスの論 調を紹介します。          ーーーーーーーーーーーーーーー 「今も尽きぬ戦争の教訓、責任回避で孤立する日本」      イギリス「エコノミスト」1995年5月6日号 (引用は「週刊ダイヤモンド」95年5月27日号)   「(過去の)戦争の主だった出来事の解釈については、歴史家も一定のコ ンセンサスに達することができただろう、と一般には思われているかもしれな い。・・・   だが、現実にはそうした合意は存在しない」とデービス氏は確認する。   その一つの理由は、終戦50年に際して後悔の念より、祝賀ムードのほう が明らかに強いのは英米2カ国だけだからである。しかも、英米ですら後ろめ たさがまったくないわけではない。英国は全体としてみれば、後ろめたさのな い戦いを巧妙かつ勇敢に戦った。実際、一時は英国だけがヒットラー相手に孤 軍奮闘している状況だった。   しかし、ドレスデンやハンブルグに対する夜間空襲は、連合軍による他の 空襲と合わせ、50万に上るドイツ民間人の生命を奪ったともみられ、道義的 には広島への原爆投下と同じくらい問題があった。 (途中省略) 「戦争責任のあいまいな(日本の)認識」   日本もドイツと同じように率直に過去に向き合ってくれたらと願わずには いられない。1931年の満州事変から14年後の降伏までの間に、何百万も の人々が戦場や捕虜収容所で、さらには空襲や飢えによって亡くなった。   日本の残虐行為は悪名高い。37年、日本軍は南京占領に際し、少なくと も10万人の中国人を虐殺した。大部分は民間人だった。日本は控えめにみて も10万人の女性を「慰安婦」として、無理やり兵隊の相手をさせた。また、 医療部門は、中国の民間人や連合国の捕虜を使って生体解剖など何千もの実験 を行った。   マニラでの略奪、シンガポールでの虐殺、捕虜の虐待(約1/3が収容所 でなくなった)、フィリッピンにおける「バターン死の行進」(参加した7万 8千人の連合国捕虜のうち3万3千人が死んだ)。   これらはすべて、日本の残虐な軍国主義が引き起こした罪状だ。これらの 事件の恐ろしさや太平洋戦争を引き起こした日本の責任は、十分認識されてい ない。つい89年にも、当時の首相が、戦争の責任については「後世の歴史家 の判断に委ねるべき」と発言している。   このように国全体として戦争責任に対する認識があいまいなのは、米国が、 戦後も裕仁天皇をその地位に留めておこうと決断したことも一因だ。戦犯を裁 く東京裁判は、ほとんどの日本人にとって「勝者の正義」にすぎないように思 われた。その名のもとに戦争が行われた当の本人が免責される一方、天皇のた めに働いた多くの人々が処刑されたのである。ドイツと違って日本は、過去と きっぱり決別できなかった。日本には、戻るべき自由な多元主義の伝統という ものがなかった。 「免罪符を見いだす日本人」   さらにドイツと対照的なのは、ドイツでは自国の法曹関係者が新憲法を起 草したが、日本では米国人が起草したことである。51年、米国は日本国内の 軍事基地に対して主権に近い権利を獲得した。日本では武力行使の放棄によっ て、外交面での対米依存姿勢が植え付けられてきた。   戦後の政治的なコンセンサスも、オープンな議論を阻んできた。個人の罪、 忠誠心や自己犠牲、「人種的に劣等な」敵に対する戦争遂行といった問題は、 今も欧米人のような観点から考察されることはない。   しかも、原爆投下によって、多くの日本人はこれで道徳的にはおあいこだ という安心感を抱くようになり、平和主義こそ第2次世界大戦に対する答だと、 金科玉条のように思いこむようになった。   日本の論調によれば、どちらの側も犠牲者だった。正しい戦争という概念 は誤りで、戦争はそれ自体不正なものである。だれが戦争を始めたかは問題で はない。「われわれはすべて同罪」となる。   二年前に、自民党による実質的な一党支配体制が崩れてから、過去のこと にはなるべく触れないでおこうという合意や、道徳的には同罪といった誤った 認識も揺らぎ始めたようだ。目立たないかたちながら日本人も、他国の人々と 同様、過去についてもっと率直になろうと模索している。   残虐行為や捕虜の虐待についてはほとんど教えられていないが、学校の教 科書も以前よりは正直になってきた。92年には(新しい)天皇が中国を訪問 した際に遺憾の意を表明した。同じような悲しみの表明は、韓国国民に対して もなされた。   何人かの首相は、回りくどい場合もあるにせよ、より踏み込んだ謝罪を行 ってきた。なかでも現在の村山富市首相は一番率直だ。また、日本政府は現在、 戦争について謝罪する、より包括的な決議に取り組んでいる。社会党のほとん どは積極的だが、自民党内には反対が多い。   増大しつつある中国などに対する日本の援助が、かたちを変えた賠償金で あるにしても、日本は国全体として深く反省し、自分を見つめ直すというドイ ツの域にはとても達していない。日本はまだ、近隣諸国から信頼を得てそろそ ろ平和憲法を卒業して、ドイツのように信頼される地域のリーダーとして一歩 踏み出すべき、と見てもらえるような段階には達していない。   中国が武力をちらつかせ、米国が再び孤立主義の誘惑に駆られつつある現 在、これとバランスをとる意味でも、民主的で慈善の心に富んだ日本がこれま で以上に求められるだろう。   しかし、それはあくまで日本がもっと真正面から歴史と向き合うようにな ってからの話だ。そうなれば、それこそは本当の意味で、太平洋における勝利 と呼べるだろう     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 02760/02761 PFG00017 半月城 世界の論調(7)、台湾、マレーシア ( 7) 97/04/20 22:04   今回は台湾の論調と、これに関連してマレーシア・マハティール首相の発 言を紹介します。           ーーーーーーーーーーーーーー 「日本は戦争責任について永久に頭をさげないのか」   中国時報、1995年6月15日号  (引用は、和田春樹編「日本は植民地支配をどう考えてきたか」梨の木舎)   (前半省略)   太平洋戦争とは突き詰めたところ、「聖戦」であったのか、それとも「侵 略」であったのか? この命題は一見疑うまでもないようでいて、一人ひとり の心中にはそれぞれの答がある。国民の多くがある答を選べば、大体それに従 ったその国家の方向性が決まる。   この公の難事が一日も早く解決しないなら、日本は永久にアジア諸国の印 象から悪いイメージを拭い去ることはできず、国連の安保理常任理事国だとか、 あるいはアジアのリーダーだとかになると大言壮語することもむずかしいだろ う。   この至極明らかな理(ことわり)を、日本の国民は何故このように悟れな いのか? 特にドイツと比較していつも感じるのは、同じ敗戦国でありながら、 日本人はドイツ人の成熟に遠く及ばないことだ。   しかし、日本・ドイツ両国の戦争責任観の比較は、もっと掘り下げて考え る必要がある。なぜなら、掘り下げた比較を通じて、われわれは日本が、なぜ 今までひたすら頑迷な心理を持ち続けたのか、およびその背景について、さら に正確な認識を得ることができるからだ。   昨年、11月号の『世界』誌では、佐藤健生という教授が、13点にわた って日本とドイツの「過去の認識」上における違いをまとめている。その中に は何点か、こじつけやひどい間違いをしているというきらいがあるにせよ、そ れはひとまず棚上げしよう。以下の何点かはまさに争うところのない事実なの で、参考にすべきである。 (1)日本には「絶対悪」の存在が欠けている。   ドイツでは、ヒットラーとナチスの罪行は、すでにはるかに国境を越えて いるため、人類共同の敵とされている。責任の帰趨は極めて明確である。   反対に日本はマッカーサーが天皇制の「保持に努めた」ために、戦争の責 任はただ軍人に及んだだけで、日本の最高元首たる昭和天皇には及ばなかった。 それに冷戦体制の下、アメリカの「ただ反共あるのみ、その他は相談する」政 権は、岸信介らの戦犯をそれぞれ生き返らせ、再び政権を執らせたので、因果 関係において「絶対悪」は成立すべくもない。   ましてや、戦争がひきおこした悲劇は、日本人には「広島の経験」や「長 崎の経験」があり、みずから加害者と被害者の二重の役柄を兼ねているが、ナ チスにはただ「アウシュビッツ」の経験(ユダヤ人大虐殺)があるだけであっ て、非難に直面しても全く反駁の余地がない。 (2)占領の形態。   もともとドイツの歴史と地理は、島国の日本に比べて複雑である。周囲に 十余の国が隣接しているだけでなく、その中の大部分は文化・政治・経済にお いて成熟度の似通った一流の国家である。戦後はさらに、英米仏ソ四国の共同 管理の下で生きながらえ、再びヨーロッパ世界に復帰しても疑いを持たれない ように、徹底的に反省謝罪するしかなく、ためらう余地はなかった。   反対に、日本はアメリカの一元的支配の下で、恥を忍んで「米帝」の恩恵 を蒙ったが、その他の「戦勝国」であるアジア各国は動揺して安定せず、政治 は腐敗していた。日本の経済力が強大になってからは、再び「アジアの優等 生」になったが、その優越感は戦前から一貫して受け継いだもので、謝罪した ところでそれは結局、心から望んですることではない。 (3)憲法第一条の比較 戦後、日独両国は国家を再建したが、その基本的な態度は各々の憲法第1 条の条文に、極めて明確に表されている。当時の西ドイツ基本法(統一前、一 時的に施行された憲法)第1条は、「人類の尊厳を侵犯することは許されない。 人類の尊厳を尊重し保護することはすべての国家権力の義務である」となって いる。   対照的に、日本の新憲法ははっきり前文の中で、いっそう偉大で人を感動 させる目標を掲げており、また第9条の中でも戦争手段を放棄すると公言して いるが、しかし第1条では「天皇はすなわち日本国と日本国民統合の象徴であ り、その地位は主権を具えた日本国民の総意に基づいて成立している」として いるのだ。   このあと第8条まで、述べているのはすべて空位{実権の伴わない地位} の天皇の問題である。この二つの態度は、同時にまた、両国が歴史から学びと った教訓に存在する違いにまで繋がっている。   ドイツは、不徹底なワイマール共和制がナチス興隆の温床になったことを 十分理解したために、一層民主化を徹底させる決心を固め、教育においてはは っきりモノを言える良識者の育成を重視し、かつ、およそナチスの悪行に対し て無知な者には社会的にほとんど身の置き場をなくした。   日本においては、進学を至上とする科挙{清代まで続いた官吏登用試験。 ここでは立身出世コースにのること}の気風が、戦争体験を受け継ぐことをも とより大きく阻害している。まして、延々38年にわたる「55年体制」が繰 り広げたものは、官僚制管理型の民主主義にすぎない。このため日本の民主制 は「アジアをはるかに越える」とはいえ、ちびっこの中ののっぽにすぎず、大 江健三郎がこのためにふさぎこんでいるのはもっともである。   上述したいくつかの原因以外にも、日本人が率直に謝罪したがらないわだ かまりがある。それはつまりこうだ。植民地と帝国主義は西洋列強から学んだ ものである。どうして日本だけが謝罪を求められるのだろう? まして、以前 のインドネシアのスカルノや、現在のマレーシアのマハティールでさえ、皆承 認しているではないか、日本人が彼らのためにオランダ人とフランス人を追い 出さなければ、今日の独立はなかったということを! 韓国人は何かというと すぐ癇癪を起こして、感情で事を進めるし、中国政府は被害の経験をひたすら たてにとって、南京大虐殺を日本円をゆすりとる外交のコマにするつもりであ る・・・。(原文のママ)   状況をみると、最も心なごやかに、日本の頭を一撃して目覚めさせる資格 があるのは、まさに台湾人民をおいてほかにないが、残念ながら日本の左右保 革双方とも、台湾人に対し謝罪すべきことをあまり覚えていないようである。                             (呉 豪人)            ーーーーーーーーーーーーー   上の論調にマハティール首相が登場するので、これに関連して同首相の発 言を紹介します。日本では、同首相が日本の戦争責任を免罪していると誤解し ている人が多いようですが、これはすこしニュアンスが違うようです。   同首相の発言を報道記事から拾ってみます。かって、マハティール首相は 村山元首相に下記のように語りました(読売新聞、95.5.9)。  「50年前のことに(日本が)謝り続けることは理解できない。過去は教訓 とすべきだが、将来に向かって歩むべきだ。50年前のことを言えば、100 年前、200年前のことも問題になり、結局は植民地宗主国に対する補償問題 になりかねない」(94年8月)   このように、同首相は「過去は教訓として、将来に向かって歩むべきだ」 というところに力点を置いて発言しました。ここから日本の政治家に対する注 文を述べています。そのことを、河野洋平元官房長官は思いで話として次のよ うに記しました。  「戦争から半世紀近くたち、冷戦も終わり、日本のアジア外交はこれまで以 上に重要な段階に入っていた。日本の国際的地位は非常に高くなったが、一方 でドイツのシュミット前首相やマレーシアのマハティール首相からは、もっと アジアの国々から理解されるように努力すべきだとの指摘があった」(朝日新 聞、97.3.31)   マハティール首相のこうした発言をつなげると次のようになるのではない でしょうか。   「日本は過去の戦争について、単なる謝罪の繰り返しに終始せず、これを 教訓にアジアの国々からもっと理解されるよう努力し、将来に向かって歩むべ きである」   さて、マハティール首相は「日本は謝罪し続けている」と感じている一方 で、台湾の論調は「日本は永久に頭をさげないのか」と、あたかも日本は謝罪 していないかのような論陣を張っていて、両者には相当なギャップがあるよう に見えます。   しかし、私はこの両者に共通するものが底流としてあるのではないかと思 っています。それは「謝罪したところでそれは結局、心から望んですることで はない」ということを両者共に感じとっていることではないかと想像していま す。蛇足ながら私見をつけ加えました。     half-moon@muj.biglobe.ne.jp  (新ID、4月変更)     http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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