半月城通信
No. 29

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 「従軍慰安婦」60, フィリッピン「従軍慰安婦」の強制連行
  2. 「従軍慰安婦」61, 女性と「従軍慰安婦」
  3. 「従軍慰安婦」62, 挺身隊と韓国の風土
  4. 「従軍慰安婦」63, アジアにおける買売春
  5. 「従軍慰安婦」64, 「従軍慰安婦」の「恨」


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/23 -02152/02152 PFG00017 半月城 フィリッピン「従軍慰安婦」の強制連行 ( 7) 97/02/23 23:30 02001へのコメント   前回に続き、河原巧さんの質問に答えたいと思います。河原さんの書き込 み、#2001のタイトルが「強制性の主張は放棄されますか?」となってい ますので、この点からふれたいと思います。   「従軍慰安婦」の強制徴集については#1318に書いたとおりで、この 私の考えは今も変わりありません。そのなかで私は韓国人「従軍慰安婦」の強 制連行の割合について、珍しく河原さんの意見に次のように賛成しました。  >  話がそれましたが、フィリッピンやインドネシアでは暴力的連行がか  >なりみられたようですが、台湾や韓国では暴力的連行はそれほど多くなか  >ったようでした。  >  クマラスワミ報告書や韓国政府の報告書では、韓国での暴力的連行の  >印象が強く残りますが、これはもっとも悲惨な経験をした「従軍慰安婦」  >が積年のハン(恨)を吐露した結果であろうと私は思っています。  >  河原さんは#627で、韓国挺身隊問題対策協議会の資料から中国に  >残留した朝鮮人「従軍慰安婦」10人を紹介し、その中で暴力的連行が認  >められるのは鄭学銖さんひとりであったと書かれましたが、韓国の場合、  >割合からいうと河原さんが直感で出した一割程度が案外当たっているのか  >も知れません。  >  吉見氏の調査でも暴力的連行は19名中、前に紹介した文玉珠さん一  >人だけでした。   このように、韓国人「従軍慰安婦」の暴力的な強制連行について、私と河 原さんとの間でそれほど大きな見解の差はないと思われます。したがって、韓 国の場合はあまり争点になりそうもないので、ここでは他の国・フィリッピン について論じたいと思います。   日本政府により「従軍慰安婦」第1号に認定されたフィリッピンのヘンソ ンさんのことを、私は同じ#1318でこう書きました。  > この彼女こそクマラスワミ報告書にいう「性奴隷」の典型ではないでし  >ょうか? また、そうした「性奴隷」をを強制連行したやり方を「奴隷狩  >り」と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか?   フィリッピンの例として彼女をとりあげましたが、ヘンソンさんは決して それほど特殊なケースではありませんでした。ヘンソンさんをはじめ、日本軍 のなぶりものにされた女性被害者のうち46名は、日本政府に謝罪と補償を求 め、93年に裁判を起こしました。その訴状によると、彼女たちはほとんど日 本軍により暴力的に強制連行されたと訴えています。そのひとつのケースとし て、後述の資料との関連からバレンシアさんの証言を紹介します。       ーーーーーーー 証言 ーーーーーーーー   私は、1920年2月9日、ネグロス島の西ネグロス州バコロド市に生ま れました。父母と9人きょうだいの11人家族で、父は大工をしていました。 生活が苦しかったため、小学校は4年までしか通いませんでした。   1939年に異母きょうだいといっしょにサーカスのグループについてマ ニラに出てきて、そのまま市内に住んでいました。初めて日本兵を見たのは、 義理の弟がガチョウを盗んだことで日本軍の駐屯所(現在のアキノ国際空港の あたり)に連れていかれたときのことです。   1943年の10月ころ、マニラのパコ市の市場で魚を売っていたとき、 3人の日本軍兵士に手を引っぱられて抱きかかえられるようなかっこうで、近 くの空き家に連行されました。そこは、ニッパヤシで造ったような建物で、1 2平方メートルくらいの広さの家でした。   一人の兵士が何か言った後、他の兵士は外に出ていきました。そこで、一 人の兵士に強かんされました。そのとき、市場で働いていて別の兵士グループ に連行された女性もいました。   その後、うしろに堅い座席のあるトラックで、マニラ市内のダコタ地区に ある大きな家に連れていかれました。その家は二階建てで、一階は大きな応接 間で30平方メートルくらいあり、二階は、ベッドを一つおけば余裕もないく らいの部屋が四つありました。   そこには、テルミという名前の日本人女性がおり、四人の若いフィリッピ ン女性もいました。テルミは28歳くらいで、私より少し背が高く155cmく らいで、その家の一階に住み、食事の世話や医者を連れてくるなど、その家を 管理していました。また、日中は、民間の日本人男性が二人ほどいて、私たち を監視していました。家には鍵がかかっていましたが、部屋にはかかっていま せんでした。   その家があった場所は、現在のマニラ動物園構内の入り口付近です。そこ では、毎日のように、一日6人から多いときは15人くらい、兵士の性行為の 相手をさせられました。食事のときだけ下の部屋に行き、あとは、大体二階に いました。他の四人のフィリッピン女性も同様でした。   性行為に対してお金や物をもらったことはありませんが、医師による性病 検査が毎週土曜日にありました。兵士たちはほとんどコンドームをつけていな かったのです。あるとき、兵士が外に連れ出そうとしたので抵抗したところ、 銃剣で右足のすねの部分を刺されました。今でもそのあとが残っています。   1944年11月ころ、私たちは解放されました。米軍がマニラに進駐す る前に爆撃があり、皆いなくなったのです。テルミは、私に対し、自分をかく すために山に連れていってくれるかと言っていましたが、結局どこにいったか わからなくなりました。それで、監禁される前に住んでいた家にもどりました が、家主がいただけで、異母きょうだいなどはいませんでした・・・                      (重村達郎弁護士聴取)         ーーーーーーーーーーーーー    さて「従軍慰安婦」の証言ですが、これは50年以上も昔の話ですから、 これに100%完璧な証言を求めるのはどだい無理な話です。50年も歳月を 経れば、当然記憶違いや勘違いも起きるでしょうし、さらに悲惨な経験をした 人であれば、そのつらい過去の恨みつらみが自然と誇張されることは十分考え られます。そのため、「従軍慰安婦」の証言の信憑性については他の資料との 照合が必要であることはいうまでもありません。   しかしながら、日本の暗い歴史を正視したがらない人たちのなかには、 「従軍慰安婦」の証言に少しでもあいまいな部分や矛盾点があると、その証言 全体を「ウソ」と決めつける方がおられますが、こうしたやり方で「従軍慰安 婦」の証言をことごとく退けては「従軍慰安婦」の全体像を見失うおそれがあ ります。    「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、一本一本の木につ いてその灰色の度合いを問題にしていたのでは、その森の本質「全体は黒」で あるという点を見失ってしまうのではないでしょうか。   ちなみに、フィリッピンのローラ(おばあさん)たちの申し立てについて、 千葉大学の秦郁彦教授は下記のように「多くは事実を反映している」とみてい ます(「諸君」96年12月号)。   「44年秋から約一年、フィリッピン全土は戦火の嵐に席巻された。送り 込まれた日本軍60万のうち50万人が戦死し、100万人前後の現地住民が 死んだとされる惨烈な戦場で、何が起きたとしても否定のしようがない。   彼女たちの申し立ての多くは事実を反映していると想像するが、逆に傍証 のために死者たちを呼び戻す法もない」   私は秦教授を強制連行「なし派」であると何となく想像していただけに、 上の論文は意外でした。それはさておき、同教授はその論文にある「何が起き たとしても」という一節の中味を次のように記しています。   「ヘンソンを含む21人の元慰安婦の証言(『フィリッピンの日本軍「慰 安婦」』明石書店)を見ると、彼女たちの身の上話は、ヘンソンと大同小異で、 横田雄一弁護士の解説では他地域に比べて『被害者と軍との間には民間業者な どが介在する余地はまったくなかった。軍の移動中における偶然の遭遇、計画 的と思われる女性の自宅への襲撃、作戦行動中の強制連行など、軍の末端組織 が・・・有無をいわせず暴力的に女性を(駐屯地へ)拉致』しているのが特徴 とされる。   21人のなかには、フク団だけでなく米軍とつながる抗日ゲリラとの関連 を示唆する女性が6人いる。対日協力派を巻き込んでのゲリラ討伐や内偵に 「便乗」する形での虐待やレイプが多かったらしいと推察できるが、それだけ ではなさそうだ。   南方の占領地域では、フィリッピンの第14軍は軍紀が乱れているとの定 評があった。42年5月2日の陸軍省会議で、大山法務局長が「南方軍の犯罪 件数237件、支那事変に比し少なし。第14軍には強姦多し。女が日本人向 きなるを以てなり・・・厳重な取締で激減せり」と報告しているが、8月12 日の会議では、『南方の犯罪610件、強姦罪多し』(金原日誌)とあり、効 果があがっていないことを自認している」   フィリッピンの性暴力被害者はリラ・ピリピーナという団体を組織しまし たが、横田弁護士によると、彼女たちは「文字通り、一方的に銃剣によって暴 力的に拉致・監禁され、強姦を繰り返されたのであって、まさしく性的奴隷以 外の何物でもなかった」とのことでした。そのため同氏は、彼女たちをたとえ カッコ付きであっても「慰安婦」と称するのは耐え難い違和感があるとしてい ます。   こうした「慰安所」類似施設以外にも、#1304に書いたように陸軍省 中央がみずから設置した「慰安所」 もあったようでした。これらとの関連に ついて、横田氏は次のように語っています。   「日本軍占領中、マニラには下士官・兵士用の「慰安所」17カ所(「慰 安婦」1064名)、将校用クラブ4カ所(「慰安婦」119名以上)があっ たとの資料が存する。軍の「慰安所規則」のもとに管理されており、中国大陸 からはじまった「慰安所」制度が持ち込まれている。朝鮮、台湾出身の女性の みならず、フィリッピン女性も「慰安婦」とされているものと推定される(バ レンシアさんのケース)。   パナイ島のイロイロ市には二つの「慰安所」があり、一つには朝鮮、台湾 出身の女性、他の一つにはフィリッピンの女性が「慰安婦」とされ、性病の検 査を含めて組織的に管理されていた。この種の組織は、残存している軍資料か らだけでもミンダナオ島ブツアン、同島カガヤンデ・オロ、レイテ島タクロバ ン、マスバテ島マスバテ、ルソン島ラグナ州サンタクルスなどに設けられてい たことがわかる。   この種のいわば公的な「慰安所」のほかにおよそ日本軍の駐屯している各 地で女性が暴力的に拉致され、監禁され、性的奴隷とされている。そもそも 「慰安所」制度設立の理由の一つは治安の維持・住民感情離反の防止にあった。 右の制度の趣旨に反する行為が激発した理由について具体例に則して以下述べ てみたい。   日本軍は開戦初期のパナイ島攻略の際、イロイロのほかロハス市およびア ンティケ州サンホセにもほとんど同時に上陸している。ところが、「正規」の 「慰安所」はイロイロ市にか設けられず、ロハス、アンティケ、イロイロ州郡 部などに展開する諸部隊はそれぞれの駐屯地に自前の「慰安所」を設けた。   こうしたことを必然としたのは以下の理由によるものと思われる。すなわ ち日本軍が設置した「慰安所」制度は女性に対する軍事・経済を含めた体制的 強制による継続的強姦の公然化であり、性差別・民族差別イデオロギーの公認 にほかならなかった。   当時の軍隊にとっては、「慰安所」が各地で部隊独自に女性を拉致・監禁 する口実になった。たとえば、イロイロ市に「慰安所」が公設されて、「慰 安」が公認されている以上、それ以外の駐屯地でそれぞれの「才覚」による 「慰安所」類似施設を設けてはいけない理由はないのではないか、というわけ である」   横田氏の主張は、辻参謀など日本軍の一部(?)にみられる方針、「糧を 敵に求める」という思想を考えあわせるとよく納得できそうです。小林よしの り氏の主張によれば「従軍慰安婦」は軍隊には必要不可欠なものですが、こう した「従軍慰安婦」という軍需物資も「糧」のうちに入るのであれば、それを 敵に求める行為は、その方針からすると自然な成り行きです。そのためか、ゲ リラという敵が強力であればあるほど、そこから「糧」を強奪するという考え も強くなるのかも知れません。そのことを反映してか、原告たちはゲリラ地域 出身者に多いと、同弁護士は次のように続けています。   「その結果、抗日ゲリラとの対峙がもっとも厳しく、住民虐殺の島と言わ れたパナイ島のイロイロ州、ロハス、アンティケなどの各地から被害女性が名 乗りをあげ、裁判の原告となって、日本政府に対し、正義の回復を要求するに 至っている」   さらに横田氏は具体的に、裁判原告46名の拉致証言を類型別に次のよう に分けました。 1.通行中その他において日本軍部隊と遭遇するやいなや暴力的に拉致された  ケース                     ・・・ 10名 2.抵抗不能の状態で拉致されたケース       ・・・  3名 3.自宅を襲撃され、あるいは自宅から強要され、拉致されたケース                          ・・・ 20名 4.日本軍の作戦行動中に被害にあったケース    ・・・ 13名   このように強制連行について多くの証言がなされても、小林よしのり氏な どは「証拠」がないと暴力的な強制連行の存在を認めないのでしょうか? ま た、これが反「自虐史観」論者のやり方なのでしょうか? このような人たち からすれば吉見教授や、同列には並べられませんが不肖、私などは「反日的」 な存在にみえるのかも知れません。   もし、ここの会議室に反「自虐史観」論者がいらっしゃいましたら、その 方には秦教授が引用された本、『フィリッピンの日本軍「慰安婦」』明石書店 (1995)をおすすめします。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/03/01 - 02211/02211 PFG00017 半月城 女性と「従軍慰安婦」 ( 7) 97/03/01 21:32 02074へのコメント   やまもとさん、初めまして。遅くなりましたが、やまもとさんの書き込み にコメントしたいと思います。  >元従軍慰安婦のお話を聞く度、その過去の悲惨な時間を償ってあまりある  >幸福な時間を送っていただくべきだと思わないではいられません。   先日、インターネットで「半月城通信」を読んでくださったアメリカ在住 の日本人女性からメールをいただきましたが、そのなかで『「従軍慰安婦」の 証言は、同じ女性として涙なしでは聞けません』とありました。私も「従軍慰 安婦」の証言はとてもまともには聞けません。   半月城通信「従軍慰安婦」25、<「従軍慰安婦」に対する感性>に書き ましたが、私は彼女たちの証言を『まかり間違って、私の母も運が悪かったら おぞましい「従軍慰安婦」にさせられていたかも知れない』という思いでいつ も身につまされて聞いています。   そのため、日本軍の性欲の犠牲にされた女性たちについて、その地獄のよ うな悲惨な青春を思いやりながら文章をつづるだけで、時には涙が出そうにな ります。彼女たちの一代記は私にはとても他人事とは思われません。   ともあれ、日本軍の「性奴隷」として筆舌に尽くしがたい虐げられた青春 を過ごされた方には、残された人生を少しでも幸せに暮らしていただきたい気 持ちでいっぱいです。   こうした視点が、時には女性に理解してもらえるのか、私のホームページ 「半月城通信」は女性の読者も多く、つい最近、「女性が開けたいホームペー ジ286」などにも選んでいただきました(注)。また、さきほどの女性が加 わっておられるメーリングリスト「Nuts」などでも話題になっているとの ことです。   日本ではパソコン通信で「従軍慰安婦」について語るのはほとんど男性ば かりで、そのためか「慰安所」は日本軍にとって必要であったとか、男性本位 の考え方が自然に多くなってしまいます。この際、やまもとさんにも継続して どしどし反論を書いていただきたいと思います。。   #2093、やまもとさん  >従軍慰安婦が現代でも問題になるとしたら、当時の日本のモラルや  >それに基づいておこなわれた行動が<共通の戦争をするにあたって  >とりきめられた国際的な標準モラル>から逸脱していたかどうかが、  >非常に重要なことになると思います。   当時の日本人男性のモラルに関連して、現在ビルマで民主化運動の渦中に あるアウンサンスーチーさんが証言していることがわかりました(鈴木裕子 「セカンドレイプにほかならない」雑誌「世界」97年3月号)。          ーーーーーーーーーーーーー   日本軍の首脳や幹部たちには、女性への人権感覚はまったくマヒしていた のである。女性の性をモノ扱いし、金で買うことはまるで朝飯前の入浴感覚で あったらしい。   興味深い話がある。1941年11月、ビルマ建国の父・アウンサン将軍 (ビルマ民主化運動の指導者アウンサン・スーチーさんはその娘)の訪日の折 りの話である。   「皇居訪問などの挨拶まわりなどが終わると、日本軍の南方謀略工作を所 管していた陸軍参謀本部第8課の鈴木大佐は、ビルマ独立の軍事作戦を協議す る前に、遊郭へ行き女を世話しようという。その日まで女性と性的な関係を持 ったことのないアウンサンは直ちに断るが、大佐は『何も恥ずかしがることは ない、入浴するようなものだ』と言って執拗に勧めた」 というのである(中村尚司「アウンサン・スーチーさんの語る日本人男性観」 『アジアに生きる女たちの21世紀』1996年冬季号)。   ことほどさような人権感覚であったから、軍が「慰安所制度」をまたたく まにつくりあげ、植民地や占領地の朝鮮や台湾、中国など多くのアジア人女性 を「慰安婦」とし、性的蹂躙をかくもすみやかに大々的に行えたのである。          ーーーーーーーーーーーーー   このように、外国の要人にまで執拗に買春をすすめる鈴木大佐の感覚は、 日本軍の女性観を示す代表例であったのかも知れません。ここでは内地の遊女 は、公衆便所ならぬ「公衆浴場」にされてしまいましたが、こうした女性に対 する麻痺した人権感覚が、42年、「将校以下の慰安所を400カ所」以上作 ったと豪語する陸軍の政策につながっていったのではないかと思います。   遊女を公衆浴場とする感覚は、もちろん当時のモラルに反していることは いうまでもありません。ここで当時を振り返って、その当時、日本内地のモラ ルがどんなものであったのか少し述べたいと思います。   日本は1925年、「婦女売買禁止条約」加盟にあたって、内務省と外務 省との間で年齢問題の論議が交わされたことは、#1902<梶山発言と公娼 制度>に述べたとおりです。その当時、内務省は意外にも基本的に「公娼制度 の存在は道義上および国家の体面上、きわめて望ましくない」という認識を持 っていました。さらに内務省は1926年、松村警保局長が警察部長会議に、 なんと公娼制度の改廃に関する諮問案を提出しました。これをきっかけに廃娼 論議が一段と盛んになりました。   それまで、帝国議会に廃娼の法律案や建議案を提出してきた日本キリスト 教婦人矯風会や郭清会は、廃娼運動の方向を地方議会に向けて請願運動を進め ました。この請願運動は、6万人の請願署名が1年間で集まった長野県をはじ めとして多くの県で行われ、1930年前後から廃娼決議をおこなう県、廃娼 を実施する県が下記のように続出しました。   廃娼決議県(21県) 28年、埼玉、福井、福島、秋田    29年、新潟 30年、神奈川、長野、沖縄      31年、茨城、山梨 32年、宮崎、岩手          35年、高知 36年、愛媛、三重 37年、宮城、鹿児島、広島、富山、滋賀 38年、宮崎(再決議)        40年、岡山   廃娼実施県(14県) 1893年!群馬             30年、埼玉 1932年、秋田             34年、長崎、青森 1937年、北海道(部分的に実施) 1938年、富山             39年、三重、宮崎、茨城 1940年、香川、愛媛、徳島、鳥取    41年、石川   最後の石川県の場合、公娼制度廃止の事由書にはこのような理由をあげら れていました。 1.公娼制は人身を売買し拘束する事実上の奴隷制である 2.男女の性道徳を破壊し、淫蕩的気風を誘発し、家庭を傷つける 3.花柳病伝播の原因になる 4.私娼の発生をうながす   ただ廃止と言っても完全廃止でなく、石川県の場合、貸座敷業者は芸妓茶 屋営業に転業させ、芸妓の事実上の行為は黙認し、従来同様の営業を継続させ ました。これは当時、過渡期の処置としてやむをえないとされました。   最初にいち早く廃娼を実施した群馬県の場合は、のちに料理店芸妓取締規 則を制定して乙種芸者を設定し、これに売春を認可しました。このように形を 変えて公娼は存在しましたが、この時期、戦争の泥沼化と同時に公娼制は公然 とは存在しにくくなったことだけは確かです。   戦争下とあって、38年に灯火管制規則、39年に警視庁管内で零時以降 の営業禁止、さらに40年に奢侈品等製造販売制限取締規則が公布され、遊興 街・遊郭営業への規制が厳しくなり、貸座敷業者、娼妓の転廃業が増加しまし た。この傾向は戦局の悪化とともに強まり、43年以降は軍需工場や工場宿舎 に転換する遊郭が続出し、接客業は急減しました。これは朝鮮や中国でも同様 な流れにありました(吉見義明編「日本軍慰安婦」大月書店)。   こうした時代の流れやモラルに反して、大量に作られていったのがいうま でもなく戦地の「慰安所」でした。こうした「慰安所」はあくまで軍本意であ り、その論理の前には日本内地のモラルや公娼制度のある種の規制などまるで 問題になりませんでした。   問題は、いかに質のよい「従軍慰安婦」を「軍需物資」として必要数だけ 確保するかという軍国主義の論理だけでした。さらに、その論理の前には国際 的なモラルの歯止めである取り決め「婦女売買禁止条約」など、それを考慮し た形跡は日本内地以外では皆無であったようで、やまもとさんの主張「当時の 日本の女性観は国際的な人権的観点から言って非常に不十分なものだった」と いう主張を裏付けているといえます。ひとえに軍国主義の特殊性といえましょ うか。  >日本の男が性的にだらしないことや、女性に対して人権意識の薄いこと  >これらに関しては、国内でなんとかして行かなくてはなりませんでしょう  >が、どうぞ、日本の女性にそれはおまかせください。   この発言をとても頼もしく思います。やまもとさんは何かフェミニズムに 関係した活動をされておられるのでしょうか? そうであれば、男性の意識改 革にどのような展望を持っておられるのかお聞かせ願えれば幸いです。 (注)   クリスタルの会(93年度名古屋市女性海外派遣団員の会)発行の小冊子 「やってみよう!インターネット!! 女性が開けたいホームページ286」 に、次のように紹介されています(URLは http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/ JOSHIBU/crys.html)。 (クリスタルの会は、朝日新聞に紹介記事が掲載されました。97.3.27) ●半月城通信   「従軍慰安婦」問題など情報量が多い HAN WORLD の1サイト。韓国人の 立場から差別問題、市民権、民族教育など、韓国と日本の関係を考えさせられ る半月城さんの発言集。   http://www.han.org/a/half-moon/(半月城通信)    半月城


文書名:挺身隊と韓国の風土、RE:[zainichi:1654] [zainichi:1682] Date: Sat Mar 8 17:45:08 1997 IANHU & TEISHINTAI   半月城です。秋月さんが書かれた疑問、  > たとえば、「挺身隊」という言葉が「慰安婦」を意味して使われた資料  >は、韓国でどのくらい前のものを求めることができるのでしょうか。その  >へんのこと、どなたか教えていただけませんか。 について答えたいと思います。   韓国における挺身隊と「従軍慰安婦」との混同は、私は植民地時代の遺産 ではないかと思います。   韓国で、挺身隊=「慰安婦」という見方は、1944年8月に「女子挺身 勤労令」が出された当時から根強くありました。この勤労令は植民地・韓国で は、農産物やカナモノ供出をモジって別名「処女供出」と呼ばれました。処女 とは韓国語で未婚の女性を指します。   この「処女供出」は女性たちをパニックに陥れました。未婚女性は「慰安 婦」にされるのではないかという噂が広がったためです。これは朝鮮総督府で も「流言」として確認されました。その事実は総督府を管轄していた内務省の 資料に次のように記載されています(吉見著「従軍慰安婦」岩波新書、P10 1)。   勤労報国隊の出動をも斉(ひと)しく徴用なりとし、一般労務募集に対し ても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の 徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に 伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと 予想せらる(内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」19 44年6月27日)。   この「処女供出」をのがれるため、韓国ではいろいろな方法が考え出され ました。裕福な家庭では、娘を女学校から退学させ田舎に隠したり、急いで娘 を嫁がせる方法などがとられました。しかし、結婚といっても当時は戦時中と あって若い男性は少なく、それは容易ではありませんでした。親たちは八方手 を尽くし、徴用や徴兵から免れた未婚の男性を探し、むりやり結婚話をまとめ ました。   そうした結婚は、事情が事情だけにひどいものがありました。相手の男性 が病弱者であれ、たとえどのような問題があろうとも供出よりはましであると して本人も泣く泣く結婚しました。   この不幸な結婚は解放後、数多くの離婚をもたらしました。「嫁しては夫 に従う」という儒教道徳の強い韓国で離婚するというのはよくよくのことです が、離婚という悲劇は解放直後、8千とも1万2千件あったとも言われていま す。   こうした悲劇の数の多さは、それだけ挺身隊=「慰安婦」という混同が根 深く信じられていたことを物語っているのではないかと思います。   この認識は解放後もそのまま引き継がれました。それを示す例として、ソ ウル新聞の1969年8月14日号には次のように書かれているとのことです (千田夏光「従軍慰安婦」正編、三一新書)。        ーーーーーーーーーーーーーーー   ・・・12歳以上40歳未満の未婚女性を対象にした、この挺身隊は事実 上、少女隊員という名の慰安婦として残忍な状態に落ちていった・・・。大部 分は南方や北満州などの最前線まで送られた。獣のような生活を強要された。   当時、学徒兵として参戦した韓雲史氏(47・作家)は、「第1線部隊に 女子たちがひっぱられていった。1個小隊に2,3名ずつ配置され『天皇の下 賜品』として飢えた兵士たちのオモチャとなり、朝になればまた違う部隊に追 われていって、同じ屈辱を経験させられねばならなかった」と回想している。   そうした少女の中には恥辱的な生活に我慢しきれず自ら命を絶つ女性が続 出していた・・・。フィリッピンやサイパンなど南方に送られた女子たちの大 部分は悲しい死をとげた。   学徒兵として最前線に出て捕虜となり、インドまで連れて行かれた車柱環 氏(48・ソウル大学教授)は、解放(敗戦)になってからシンガポールのチ ュールトンで敵国の舟に乗ったときに港で会った二百余名の挺身隊たちの様子 を、「まるで地獄を通って出て来た人のようだった。生きて解放されたという 喜びより、若さを失くしたという悲しみで号泣していた」と語っていた。        ーーーーーーーーーーーーーーー   韓国のほかの代表的な新聞、韓国日報も愛国挺身隊=「慰安婦」と注釈を つけて、ベトナムで亡くなった女性の遺産問題に関する記事を1964年に載 せました。この記事はたまたま私の目についたのですが、韓国では挺身隊に関 する記事はそれほど多くないようです。それについて、千田氏は前掲書で次の ように述べています。   「今日(1973年)の韓国人は過去の日本人と日本人のして来たことを 口に出して言わない。とくに新聞人や知識人はそうである。相手が日本人とな ると尚更である。それがまた日本人として胸に突き刺さるのだが、この韓国の 代表的新聞がこれだけ書いたということは、傷跡の深さと今に残る苦しみを物 語っているのではないだろうか。   ソウル新聞のバックナンバーをめくっていっても慰安婦、いや挺身隊に関 する記事はこれだけであった。彼らはあえて書いていないのである」   この千田氏の見方にあえてコメントを加えます。まず、韓国では「慰安 婦」に関する資料は乏しく、新聞の記事になりにくかったのではないかと思い ます。韓雲史氏のように戦地を体験した皇軍兵士は日本に比べ極端に少なく証 言が少ないことや、慰安婦自身が「純潔は何が何でも守るべきもの」という強 い儒教思想のカナ縛りにあって故郷にすら帰れなかったし、また帰れても性奴 隷としての体験は、当時は口が裂けても語れなかった時代でしたので、韓国で は日本よりはるかに「慰安婦」に関する情報に乏しかったのではないかと思い ます。   さらに、韓国の風土として「慰安婦」が身内や一族、同郷から出たとあっ てはたいへんな恥であるという意識が強く働いていたのではないかと思われま す。これについては、「半月城通信」、<「従軍慰安婦」12,吉田証言>に くわしく書きましたが、韓国、済州島の女流作家・韓林花さんはそうした風土 を次のように語っていました。   「(処女供出は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにして いる問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自 尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいな のです」   こうした感情は、吉田証言で問題になった済州島でとくに強いようです。 それについて、「日本の戦争責任資料センター」の上杉事務局長は次のように 書いています(「慰安婦」は商行為か? 第2版、同所発行)。          ーーーーーーーーーーーーー   どうして日本に極めて近い済州島だけ、一人の「慰安婦」も徴集されなか ったのでしょうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしいといえま す。現に、ユン貞玉・元梨花女子大学の教授が1993年に同島で調査を行っ たとき、周囲の島民の強い妨害がありながらも、一人の被害者と推定される証 言者が名乗り出ました。   しかし、周囲からの本人への激しい説得と制止によって、それ以上証言を とり続けることを拒否された事実があります(日本の戦争責任資料センターと 韓国挺身隊問題対策協議会による第2回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。   性暴力の被害者すべてに言えることですが、被害を訴え出ること自体に、 「身内の恥をさらす者」と非難される大きな困難が伴います。ましてや儒教が 強く残っている韓国社会では、さらに大きな精神的プレッシャーがあります。   現在元「慰安婦」を名乗り出ている女性のほとんどは、そうした身辺の制 約から比較的自由な、身寄りのない単身女性です。もし済州島という小さな島 で被害を名乗り出るならば、すぐさま近隣・親戚に波及する大事件となります。 しかも同島自体が、韓国の中でも地理的条件によって差別的に見られているこ とに留意すべきです。もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田 氏への著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせ られる危険性を危惧しない人はいないでしょう。それを畏れ、島内に箝口令が 敷かれてきた可能性を否定できません。   要は証言を含め、資料批判が必要だということなのです。秦氏の論拠だけ で吉田氏の証言を嘘と断定することはできません。ただ、吉田氏はこれらの批 判に反論をしていないのも事実です。   私は、吉見義明・中央大学教授と共に直接お会いして、反論を勧めたこと がありますが、態度は変わりませんでした。その場で、私たちが様々な質問を したところ、証言に決定的な矛盾は見当たりませんでした。ただし、時と場所 が異なる事件を、出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれまし た。   したがって、吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」 という、歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、証言として は採用できないというのが私の結論ですし、吉見教授も同意見と思われます。   国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、その報告書 の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためでし た。         ーーーーーーーーーーーーーーーー   済州島に「従軍慰安婦」はいたのかいなかったのか、この基本的な事実す らまだまだ未解明なようです。現地での調査が期待できない現状では、旧内務 省の資料などからの解明が待たれます。自治省には調査の及んでいない旧内務 省の資料が積み上げると二万メートルにもなるそうです(上杉、同上書)。ま た、公開を渋っている法務省や防衛庁の資料なども早く公開してほしいもので す。   http://www.han.org/a/half-moon/(半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/03/09 - 02311/02311 PFG00017 半月城 アジアでの買売春 ( 7) 97/03/09 22:33 02234へのコメント   やまもとさんはこの会議室を退散するとかおっしゃってましたが、河原さ んにはだいぶ失望されたようですね。私も河原さんには時々失望させられます。 先日、やまもとさんの反論に対しコメントを書いただけで河原さんから  >どうやら、河原(男)は手ごわいと見てターゲットを女性に変えられまし  >たね。 なんて書かれました。信じがたい発言です。パソコン通信ではいろいろな人に 出会うので、私は相手によりそれなりの応対をするようにしています。とくに 目に余るような書き込みはほとんど無視するようにしています。   やまもとさん、#2234  >半月城さんは「スカートの風」をお読みになりましたか?   私はこの本に多少興味はあったのですが、何やら女子大生とホステスが 云々というクレーム話を耳にして、うさん臭さを感じ結局は読みませんでした。 同じ呉善花さんの著書でも、最近の「攘夷の韓国、開国の日本」などは少しは 物事を掘り下げて分析しているのでそれなりに読んでいます。   さて本題の日韓ビジネスにおける「女」、すなわちキーセンについてです が、私は十数年前から勤務先で身近に営業マンたちから生々しい体験談を聞い て苦々しく思っていました。そして、こうした救いようのないセックスアニマ ルどもはエイズにかかって苦しむがいいとさえ思ったくらいでした。   ところで買春に関連して、河原巧さんの書き込みにこんな一文(#66 7)がありました。  >いや、恐れ入りました。昔も今も日本人男性の半数は、いわゆるプロの女  >性を対象に、おのれの性欲を満たしていると言われます。すなわち日本人  >男性の半数は半月城さんの前では顔を上げられないようです。   この話の信憑性はどんなものでしょうか。とくにプロと交渉をもっている 男性が日本で「半数」という割合は多いような気もします。この数字の妥当性 はともかく、これは日本人男性一般の性モラルの現状をある程度物語っている のではないかと思います。   こうしたモラルが1980年ころの、「日韓ビジネスに女は不可欠」とい う呉善花さんが主張する「常識」を生む素地になったのではないかと思います。 こうまで猖獗を極めたキーセン観光について、かって「従軍慰安婦」という新 語をつくった千田夏光氏はその著書に次のように記しました。   「(著書の)『従軍慰安婦』を書くとき、かって従軍慰安婦の草刈り場に していた朝鮮へ取材に行き、眼をおおうキーセン観光にソウルの街でたちすく んだ。キーセン観光に狂う日本人に、往事の軍刀をならしまくる軍人の姿が重 なってきて仕方がなかった」   この「眼をおおうキーセン観光」について、ひとまずその推移を引用した いと思います(金富子他「朝鮮人女性がみた『慰安婦問題』」三一新書)。          ーーーーーーーーーーーーー   韓日条約が締結された1965年には3万人程度だった観光客は、70年 代に入り、朴政権の外貨獲得のための観光振興政策によって急増し、73年に は68万に達した。そのうち47万人、70%が日本人観光客であり、さらに そのほとんどがキーセンめあての男性の団体客であった。   こうして「国策」としての観光振興政策の結果、73年の観光収入は2億 7千万ドルに達した。これはベトナム戦争派兵の見返りで得た特需1億5千万 ドル(68年)に比べても、はるかに上回っている。 当時、朴政権は貿易収支の赤字をベトナム派兵=若者の命で補い、今度は キーセン観光=若い女性の肉体でうめているとさえいわれた。同年6月文教部 長官は売春を愛国的行為として奨励する発言さえはばからなかったのである。     ・・・   1974年秋にキーセン観光は下火になった。それは74年8月の朴大統 領夫人狙撃事件とその後の反日デモに対して、日本の運輸省が観光旅行を自粛 させたためであった。運輸省は75年春には自粛通達を解除したため、76年 にははやくも73年のピークにもどった。反対運動を意識した観光業界も表向 きは目立たない形をとるなかでキーセン観光は定着していった。          ーーーーーーーーーーーーー   ところでキーセンという職業ですが、日韓国交正常化前は必ずしも売春一 辺倒ではなかったようでした。なかには歌が好きでキーセンになり、のちに忠 清道の知事から表彰されたという異色の韓国残留日本人がいますので紹介しま す。  ◇川浪米子さん 64歳/北海道出身/二重国籍/忠清南道温陽郡在住  朝鮮戦争で釜山に逃げたとき、夫と子供にはぐれてしまいました。日本に帰 るお金をつくるため酒場で働いていたときに、釜(かま)のふたをしゃもじで たたいてチャンゴ(太鼓)を教わったんです。歌が好きだったのでキーセン (芸者)になりました。再婚した夫が病気で亡くなるまでの二十年間よく世話 をしたと、知事から表彰されたこともあります(毎日新聞・大阪、92.01.24)。   川浪さんのようなつつましい芸者も、すさまじいキーセン観光の波にのま れて大きく変質してしまったのではないかと思います。さらにその波は呉善花 さんが書いているように、日韓ビジネスのあり方までゆがめてしまいました。 もっと極端な例になると78年、キーセン観光に狂って遊興費目当ての残忍な 少女誘拐殺人事件まで起こす人が茨城に現れました。   さらに売春は、タイ、フィリッピン、カンボジアなどアジア諸国に広がる 一方、買春する側も日本人のみならず韓国人やその他アジアの裕福な国々の人 にまで広がっていきました。   ここで誤解のないように一言述べておきますが、買売春は古くから世界各 地に存在し、人間の業に深くかかわる問題であるだけに、この根絶は法律や道 徳・倫理などでは困難であろうと私は考えています。といっても、もちろん私 は買売春を肯定するものではありません。とくに行きすぎた買売春、たとえば アジアでの国際的な買売春などは根絶すべきであると思っています。   アジアにみられる国際的な買売春の構図は、おもに貧しさのために身を売 るアジアの女性の性を外国の金持ちがもてあそぶというものですが、その金持 ちの脳裏には、こと身内に関する限り自分の妻や娘などにはとことん純潔を要 求するという、身勝手な男性本位の性のダブルスタンダードが潜んでいるので はないかと思います。   そのダブルスタンダードが近頃では「援助交際」という買売春の温床にな ってしまいました。援助交際は、売春する中高生が一見ごく普通でまともにみ え、そのくせ罪の意識を感じないだけに問題は深刻です。これは日本だけの一 時的な現象でしょうか。   この問題の解決の糸口はなかなかつかめないようですが、やはり基本的な 解決には男性本位のダブルスタンダードの追求が重要なことはいうまでもあり ません。それと並んで学校での性道徳教育ももちろん欠かせません。その性道 徳教育に「従軍慰安婦」は格好な教材ではないでしょうか。   「従軍慰安婦」制度という反面教師から、生徒は確実に女性の人格や性に ついて考え、そこからそうしたものの尊さを学び取るのではないでしょうか。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:「従軍慰安婦」の「恨」、RE:[zainichi:1709] [zainichi:1742] Date: Fri Mar 14 07:31:25 1997 IANHU NO HAN   半月城です。鵜飼さんの知人が語った、韓国人の次の見方は根強いものが あると思います。   #1704,  >「従軍慰安婦」に対する韓国の世論として、 > 「悪魔の手先である日本軍に、どうして『慰安』を与え続けたのか、 > 自殺すべきだったのではないか。」  >という意見が 「強く」 存在する。   これは「従軍慰安婦」に対し、あまりにもむごい意見です。日本軍の残虐 な行為を憎む感情と、女性の純潔を何よりも尊いものとする儒教道徳の相乗作 用が、心身ともに傷だらけになりながらも生きて帰ったハルモニたちを暖かく 迎えるどころか逆にむち打ち、50年以上の長い間、彼女たちを金縛りにして 沈黙の世界に追いやりました。   このように冷たさを通り越して、はなはだしくは「死」を要求する韓国の 風土にあって、ハルモニたちは肉親にも自分のつらい過去を打ち明けられず、 ひとりハン(恨)の世界に閉じこもらざるを得なかったのではないでしょうか。 「純潔」や「正義」といった美しい言葉も度が過ぎると、殺人的にすらなりか ねない危険性をはらんでいます。   韓国の純潔教育ですが、梨花女子大の韓明淑研究員は、雑誌「世界」4月 号、<「従軍慰安婦」と50年の闇(対談)>にこう述べています。   「16世紀壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)のときには、倭軍の侵略を受け逃 げようとする避難民が舟に乗り、川岸を出発するとき遅れてきた女の人がいま した。彼女を助けようと男性が舟から手をさしのべたが、その女性は手を握ら れるのが恥ずかしく、水の中に消えていきました。「飢餓は極小事、貞操は極 大事」という教えがあり、命を失っても貞操を守ろうと、自ら命を絶ったので す。   私も中学から高校のときに、家庭科の先生からこのような、男性には教え ない「純潔意識」の性教育を徹底的に受けました。戦後の私の時代ですらこん な教育を受けたのですから、戦前の女性たちの意識はもっと強い「純潔」意識 があったのではないでしょうか。ですから戦後、挺身隊から帰ってきた女性た ちは自ら「汚れた女性」として沈黙してしまったのです。   当時は性を口にすることはタブーでしたし、彼女たちの壮絶な痛みや苦し みを代弁してくれる人もいませんでした。国に帰ってきた慰安婦たちは、家族 に会わす顔もなく、その事実を隠したまま、ひっそりと胸の痛みに耐えながら 重い「恨」を宿して生きてきた。慰安婦にさせられた女性こそ「恨」の人生と 言えるでしょう」   「恨」とは一般に抑圧や迫害に根ざす、辛く苦しく悲しい苦痛の感情であ るとしていますが(注)、韓女史によると、それは決して消極的な諦めではな く、むしろ楽天的でねばり強い場合が多いと説明しています。   毎週水曜日に、「従軍慰安婦」にされた「ナヌム」の家のハルモニたちが、 日本大使館前で繰り広げるデモを見ると、たしかに「ねばり強い」告発を感じ させます。そうしたハルモニたちの「恨」は、韓さんをはじめ多くの人の心の 中に痛みとして宿り、韓国のむごい風土とはうらはらに民衆運動に発展しまし た。その陰には日本の世論の盛り上がりが大きく寄与したことは言うまでもあ りません。 (注)ハン(恨)のひとつの解釈として、平凡社の「朝鮮を知る事典」の解説 を紹介します。   朝鮮語で発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨 恨、痛恨、悔恨などの意味も含まれるが、日常的な言葉としては悲哀とも重な る。挫折した感受性、社会的抑圧により閉ざされた沈殿した情緒の状態が続く 限り、恨は持続する。   長い受難の歴史を通じて常に貧しく、抑圧されて生きてきた民衆の胸の底 にこもる恨は、おのずから彼らの行動を左右する要因としてはたらき、抵抗意 識を生み出すようになる。   韓国では植民地時代から解放後の<外勢>と<独裁>のもとで、恨は<民 族の恨>として強く意識されてきた。詩人・金芝河は、恨を個人的・集団的に 過去の歴史のなかで蓄積された<悲哀>であると定義したうえ、広く第3世界 の抑圧された民衆の抵抗の根源的活力としてとらえている。   http://www.han.org/a/half-moon/(半月城)


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