半月城通信
No. 26

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 新羅神社
  2. 留学生と国際化
  3. GHQ・日本政府の在日朝鮮人政策(2)


- FASIAE MES( 9):【安寧文化堂】 Deep韓国へようこそ 97/01/12 - 00751/00751 PFG00017 半月城 RE:新羅神社 ( 9) 97/01/12 22:48 00720へのコメント    RE:720,菊竹さん  >新羅神社の由来について教えてください。  >福岡県の実家のそばにあるのですが縁起などはよくわかりません。  >また神社に奉納された絵馬にある猿田彦との関係は?   福岡県には今でも「新羅神社」という名前で残っているのでしょうか? その場所はどこでしょうか? 私が知るかぎりでは、ほとんど「白木神社」に なっているようです。   筑紫地方と新羅との関連について、「筑紫古代文化研究会」の奧野正男氏 は論文「御笠川流域の朝鮮文化遺跡について」に次のように書いています。   「(博多駅近くを流れる)御笠川流域のうち、水城(みずき)大堤から下 流、板付(福岡)空港あたりまでの地名には、古代朝鮮文化の名残を連想させ るものが多い。その代表的なものが「白木原(しらきばる)」である。白木と いう地名や神社名は、糸島郡(注)を中心に南は八女郡、北は北九州市にまで かなりにわたって分布している。   この名の由来は、わが国の弥生時代中期、朝鮮に建国された「新羅」に求 めることができる。しかし、地名については、その変遷をよく確かめる必要が あるのはいうまでもない。・・・   白木原の「原」はバルであって、このバルのつく地名も、糸島から九州北 部一帯、さらに山口県の一部に分布している。前原、春日原、仲原、唐原、盗 原など、周りの地名をすこし注意すると、五つ、六つはすぐにあげられる。   このバルの語源は朝鮮古語の集落という意味であるブル・フルであるよう だ。玄界灘をこえて渡来した人々の中継地、壱岐島の小字にあたる地名には、 ほとんどといっていいほど「触(ふれ)」という字がつく。   壱岐のフレが朝鮮語に関係があるという見方は、柳田国男が『地名の研 究』でも指摘しているが、江戸時代、筑前では大庄屋の支配下にある村を、大 別して「触(ふれ)」といっている。筑前のフレもその流れで、もとは朝鮮語 のブル・フルが訛ってバル・フルとなったとみられる。   この考えでいくと、白木原は新羅人の村ということになるが、参考までに あげると、唐津から鹿家にはいるところに白木という大字があり、八女郡には 白木村が戦後の合併まであった。いずれも古代朝鮮と関わりの深い地である。 白木神社は、糸島郡に4社、朝倉郡秋月町、嘉穂郡大隅町に1社づつある。み な渡来人にゆかりの地である」 (注)糸島郡は現在、魏志倭人伝の伊都国とされる前原市、志摩町など。   フルといえば、日本の開国神話に「クシフル」がでてきます。ご存じかも しれませんが、菊竹さんが書かれた猿田彦を先導役にしたニニギノミコトの天 孫降臨降の地がクシフルです。そのあたりの記述を、三笠宮崇仁編「日本のあ けぼの」から引用します。   「天孫ニニギノミコトが、イツトモノオ(五伴緒神・五部神)を従え、三 種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホリの峰に降下した という日本の開国神話は、天神がその子に、三種の宝器をもち、三神を伴って、 山上の檀という木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を開いたという壇君神話や、 六加耶の祖がキシ(亀旨)という峰に天下ったという古代朝鮮の建国神話とま ったく同系統のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語の都を意味 するソフまたはソホリと同一の語である」   さて、ニニギノミコトが天降った場所ですが、宮崎県の高千穂説と福岡県 の日向説の両方があり、いまだに決着していないようです。   まず、古事記では「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシ触峰」、日本書 紀では「筑紫の日向の高千穂のクシ触峰」と「日向の襲の高千穂の峰」の両方 ありますが、北九州説の方が有力なようです。   その理由ですが、古事記に描く日向の地は「韓国(からくに)に向かい」 とあること、またニニギノミコトが葬られた地が日本書紀で、筑紫の日向の可 愛山稜とあることなど北九州との関連が濃厚です。さらに、中国の「新唐書」 で初主(ニニギノミコト)から神武天皇に至るまで「筑紫城に居る」と書かれ、 北九州を示唆しています(金達寿、「日本の中の朝鮮文化10」,講談社文 庫)。   こうしてみると、伝説上の天皇の祖先は渡来人と深い関係があったようで す。江上波夫氏は、こうした建国神話の類似点を「天皇騎馬民族説」の論証の ひとつに使っているくらいです。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/01/19 - 01834/01834 PFG00017 半月城 留学生と国際化 ( 7) 97/01/19 14:42 01670へのコメント   すこし遅れましたが、#1670,じょん君さんの書き込みにコメントしたい と思います。  >そこで、私は考えたのですが、各国政府の要人、支配層グループの子弟を交換  >留学生として大量に日本に受け入れるというのはどうでしょうか?昔の戦国時  >代には、大名同士で人質を交換するというやり方が行われ、またローマ帝国で  >も、人質をローマに集めて、自分の子供同様に歓待し、ローマのシンパにした  >という事実があります。戦後のフルブライト留学生なども同じような発想です  >ね。これは、強力な戦争抑止力(特に、核兵器などを使うと家族も道ずれにな  >るので使いにくい)になると同時に、相互の文化、歴史を理解し、平和共存へ  >の道を模索するための良い契機になると考えます。こうしたことに金を惜しむ  >べきではないと思います。   留学生を受け入れ、日本のシンパを増やし、戦争抑止力にすると同時に平和共 存の道を模索するアイディアはいいことだと思います。   過去、日本で留学生誘致に熱心だったのは中曽根首相でした。その動機は首相 自身の痛い体験に根ざしたものでした。   同首相は、83年5月、東南アジアを訪問したとき、日本にかって留学したO Bたちと面談しました。その際、「皆さんもそろそろ、子どもさんが留学の年を迎 えますが、日本に留学させますか」とたずねたところ、「色よい」返事が返ってこ なかったことにショックをうけ、帰国後留学生政策の見直しを発意し、留学生10 万人計画を立てたといわれています(田中宏「在日外国人」、岩波新書)。   中曽根首相と面談したOBたちの世代がどのような気持ちで帰国したかについ ては、次のような証言があります。 「アジア学生文化協会初代理事長として長年にわたりアジアからの留学生の世話に 当たった故穂積五一氏の遺稿集にこんな発言が載っている。  『何年か彼ら(留学生)と付き合って、最後に心を許すようになると例外なく日 本人というのは付き合えば付き合うほどいやになるという。ちょうど浅い井戸みた いに軽快に水が出てくるが、たちまち尽きてしまう。雄弁で精力的に行動している ように見えるが、根源的に人間という感じがしない。すぐれた学生はみんな帰ると きそんな風にいう』(毎日新聞社説 1997.1.1)」   また、これはちょっと極端な例かも知れませんが、こんな帰国のしかたもあり ました。シンガポールからの留学生・チェン君は滞日中、運悪く病気になってしま い高額の治療費が払えませんでした。そこで関係者の奔走により、医療保護を受け たところ、出入国管理法の「公共負担者」に相当するとして国外退去になった事例 がありました。   チェン君は1966年、羽田を発つとき次のような手紙を法務大臣あてに残し ました。  「私は日本に留学してずいぶん大勢の方々にお世話になりました。とくに病気に なってからは、本当にいろいろ助けてもらいました。そして、最後は日本政府から も援助を受けました。しかし、政府から援助を受けたことだけで、罪人扱いされ日 本から追放されたことは、生涯忘れることができません。必要な場合は、この事実 を公表する権利を留保します」   この当時、国民健康保険は特殊なケースを除いて外国人には適用されない時代 でした。そのため、お金持ちでないかぎり留学生は重病になったら最後、チェン君 と同じ運命になりかねませんでした。チェン君は東京出入国管理事務所(入管)で 十指の指紋をとられ、写真を正面と左右からとられ、さらに、口をあけて歯の特徴 を書きとられたそうでした。   この直後、チェン君に面会したアジア文化会館の田中宏氏(現一橋大教授)は チェン君に、「一両日、帰国をのばさないですか。いくら何でもひどいので、何ら かの対策を立てたいと思うので」といったところ、チェン君は「田中さんの好意は ありがたいのですが、私は一時間も早く、この国を離れたい。予定通り明日帰国し ます」と答えたそうでした。   この当時、入管職員の対応は、とくにアジアからの入国者に対してはまるで犯 罪者をみるような目つきでした。最近はだいぶ改善されたようですが、それでも入 管内で職員により中国人女性に対する暴行事件が起きたりするなど驚くばかりです (朝日 1994.11.5)。   つい先日も、「無責任で不快、入管での対応」という日本人女性の投書が新聞 に載っていました(朝日 1997.1.13)。どうも入管の悪弊はなかなか直らないよう です。   さて、先ほどの毎日新聞の社説にもどりますが、同紙は続けてこう記しました。 「元日の社説の冒頭に引用するのはいささか気が引ける言葉だが、23年前、穂積 氏が雑誌の対談で、どんなつらい思いで語ったのかと思うと胸が痛む。そして残念 ながら事態はそれほど改善していない。なぜ日本人は尊敬されないのだろうか。 どうすればもっとアジアの人たちと心が通じ合えるのだろうか。  もともと外交と国際政治は、隣国との関係が原点。そこで良好な関係が築けない 国は尊敬されない。日米同盟の維持は日本の死活にかかわる重要な絆(きずな)だ が、一方、アジアとの緊密な協調を抜きに21世紀は語れない。ところが中国、韓 国との隣国関係は重要なのに、両国間で信頼し合えるような人脈やパイプは決して 太いものではない。いってみれば、木は茂っているが、根を張っていないようなも のだ」   最近でも留学生に関して、事態はそれほど改善していないという指摘は、その 信憑性を含めてすこし気になるところです。ともあれ、留学生が反日になるのか親 日になるのかはかなり微妙なようです。   留学生が反日になりそうな要因のひとつに、日本での住宅問題があります。公 共の宿舎に入れる留学生は別にして、民間のアパートや下宿を確保するのはかなり 困難です。これには私も過去そうとう苦労しましたが、そうした苦労を元韓国放送 公社(KBS)特派員・田麗玉さんは、韓国のベストセラー「日本はない」で次の ように書きました。   「渡日して間もない頃、部屋を探していた時のことである。行く先々の不動産 屋で『貸す部屋がない』と断られた。直接訪れ、断られた不動産屋に「NHK内に 事務所を持つ、国際的な放送局の特派員が部屋をさがしている」と英語で電話して みた。すると、不動産屋の態度は掌をかえしたように変わり、部屋は難なく見つか った。部屋がないのではなく、『韓国人に貸す部屋がない』のであった」   このような例を枚挙するときりがないのですが、四国ではこんな例がありまし た。 「四国のある大学では、外国人留学生寮の建設に地元住民が反発。テニスコートを 民家との”緩衝地帯”として設け、建物を当初の計画より数十メートル離して着工 にこぎつけた」(読売、1996.7.26)   日本人が外国人を敬遠する姿勢を、留学生たちはもちろん肌で感じ取っていま す。そんな現実を、九州大学留学生センターの白玉助教授は次のように嘆いていま した。  「様々な日常的な問題でも、彼らは悩み、揺れ続ける。中には『もう日本人はい いです。付き合いません』と泣いてしまう子もいる。将来日本を応援してくれる可 能性を持っているのに、その芽を摘んでしまっている」(読売、同)。  おそらく白玉教授も特殊な例を紹介しているのかも知れません。しかしながら この発言から外国人に対する日本人の姿勢が何となく察せられます。もっと卑近な 例をあげれば、ここの会議室で次のような発言がありました。  >「いやならどうぞ、お帰りください」  >「ここはあなたの国ではありません」   このような日本の土壌では、アジアからの留学生が「日本のシンパ」になる ケースはどれだけあるのか疑問です。さらに、このように外国人に対し決して暖か いとはいえない日本の土壌が日系ペルー人をつらい目にあわせました。ペルーでの 日本大使館人質事件の余波を受けて、群馬県伊勢崎市の日系ペルー人が「いじめ」 にあいました。  「20日夕方、市内のペルー雑貨店に、スーツ姿の男性が入ってきた。ドアーを 開けるなり『お前たち、ペルー人か。悪いやつらだ。国へ帰れ』と怒鳴って出てい った。   午後8時すぎには、ドンという鈍い音がして、こぶし大のコンクリートの塊が 投げ込まれた」(朝日、96.12.23)   この事件は、朝鮮学校女生徒に対する暴行事件と軌をいつにするものでしょう か。北朝鮮でなにか事あるごとに、女生徒の民族服が心ない人により切られたりす るそうです。このような事件の背景には一部の日本人でしょうが、発展途上国の外 国人に対する蔑視感情がその根底にありそうです。   こうした風土を考慮すると、日本の「国際化」はまだまだ問題が多いようです。 先ほどの読売新聞は日本の国際化を次のように分析しました。  「ほとんどの日本人は問われれば、『国際化は大切』と答える。しかし、外国に 行けば日本人だけで集まって日本人社会を作る一方で、日本に来た外国人とは交わ りを持とうとせず、遠巻きにながめているという現実。『国際化』とは言っても、 まだその根本はか細い」   一方、毎日新聞の社説は、今後、日本はアジアとの関係を考えると「アジアを 見下す思考からの脱却」が重要であると下記のように主張しました。 「よく言われるように、アジアを見下す思考からの脱却も進んでいない。日本は貧 富の差の少ない均質的な円盤型の社会だが、アジアの多くは貧富や教養で差の大き な縦に長い円筒型の社会である。日本人がとてもかなわない大金持ちや知識レベル の高い人がたくさんいる。日本人が一般的に付き合うのは上層部だが、国民は貧し く教育水準も低いという平均値のイメージで相手を判断する大間違いを犯しがちと いう。上層家庭からの留学生が、日本で出稼ぎや風俗産業で働く人の目付きで見ら れ、いやな思いや屈辱感を与えるケースがまだ多いのだ。  アジアでは中産階層が拡大、タイ、マレーシアでは人口の3分の1は日本人と変 わらない生活水準。インドでは教育水準が高い層が人口の2割、2億人近くもいる。  日本は交流のターゲットを中産階層まで拡大、目線をもっと低くして、対等なパ ートナーに意識を切り替えることが、アジアで信頼を得る第一歩だろう。  一方、アジアのリーダーたちは経済発展で自信をつけ、もはや日本を「モデル」 と見ていない。外交や国際政治を活発化、欧米と国際会議で堂々と渡り合う光景が 増えた。日本企業が工場をアジアに移転、貿易面でも日本の輸出先はアジアの方が 米国を大きく上回って、アジア傾斜が強まっているのに、日本の存在感は薄い。日 本の方から歩み寄っていかなければ、アジア、そして世界で孤立する恐れがある。 日本はなくても21世紀のアジアは生きていける、とアジアのリーダーたちが思い 始めたふしがある。  事実、日本はモノ造りでは優秀だが、情報通信などのソフト面では米国に大きく 水をあけられ、シンガポールにも後れを取ってしまった。日本の大銀行は不良資産 を抱えて信用の格付けが落ち、マネーパワーが大きく後退した。日本の官僚が優秀 で清廉だとか、経営が優れているといった「神話」はことごとく崩壊してしまった。  そして、アジア太平洋経済協力会議(APEC)など、首脳、閣僚が英語で自由 かっ達に議論しているのに、通訳・翻訳文化の日本代表はすっかり取り残された。 出版を含めた情報、文化の交流で『日本の姿』が見えにくいのも、世界の共通語に 成長した英語を使いこなせず、日本語にはみんな関心がないためだ」   この毎日新聞の分析に対して、ここの会議室では異議のある人も多いことと思 います。とくにアジアで日本の存在感が薄いという意見には反発する方もおられる のではないかと思います。それはともかく、同社説は具体的な提言として次のよう に締めくくりました。 「どうすればよいのだろうか。認識のギャップを埋めるために、若い人がまず現地 に行ってみることが重要。企業は若い幹部社員を早い機会にアジアの現地工場に派 遣するのも手だろう。  アジアへの理解を深めるため、大学に関係の講座を大幅に増やす必要もある。米 名門のスタンフォード大学では卒業までに必ずアジアについての科目を最低一つ取 ることが義務づけられている。  日本の政府開発援助(ODA)は、支援機関の縦割りと日本主導のやり方のため、 予算を消化するだけの独り善がりの援助になっている。もっとバラマキ型を改め、 人的なネットワークを重視するソフトなものに切り替える時期だ。  お隣の韓国では、NHKの衛星放送の受像台数は100万台にのぼり、衛星テレ ビの拡大で、1年後には500万台以上に伸びる。こうした空からの文化交流を、 活用する道もあるはずだ。  アジアと無心で一体感をもち、学び取りたいという人が増えれば、日本は普遍性 のあるシステム転換への道が開けるだろう」   日本のシンパを増やすには、ただ単に留学生の数を増やすだけではだめなよう で、その前提として日本は外国人とどうつきあうのか、さらに日本はアジアのなか でどのような位置づけになるのか、また日本の国際社会における役割は何かという 基本的な問題をよく考える必要があると思います。こうした分析は、日本が国連安 保理議長国になった今年、とくに重要ではないでしょうか。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/01/17 - 01827/01827 PFG00017 半月城 GHQ・日本政府の在日朝鮮人政策(2) ( 7) 97/01/17 23:32 01689へのコメント   前回書いたように、占領軍GHQの在日朝鮮人解放政策は、1.政治犯の 釈放、2.奴隷的労働者の解放、3.引揚げ希望者の帰還に重点がおかれまし た。こうした施策は一部の問題、たとえば引揚げ時の財産持ち出し制限などを 除けば、おおむね妥当でした。しかし、問題は日本に残留した朝鮮人の処遇に ありました。   解放後、日本から約150万人の朝鮮人が帰国しましたが、母国朝鮮では 悲しいことに、東西冷戦による南北分断や米ソ軍政下での政治的・社会的混乱、 コレラの大発生、さらには同族相殺の朝鮮戦争まで勃発したため、帰国を見合 わせる人が続出し、日本には約60万人の朝鮮人が残留しました。   このように帰国を見合わせた在日朝鮮人に対するGHQの政策ですが、そ の基本姿勢は次のGHQ発表文にうかがい知ることができます。  「順番がきたときに引揚げを拒絶する朝鮮人は、正当に設立された朝鮮政府 が朝鮮国民として承認するまで、その日本国籍を保持する」(46.11.5)。  「日本官憲は、朝鮮人がどのようにも差別待遇されないように厳重な訓令を 受け又、占領官憲はこれらの指令が完全に実施されるのを確かめるためたえず 努力を払っている」(46.11.20)。   この発表文をみると、当初、GHQは残留朝鮮人に日本人と同等の待遇を 与え、差別しないことを主眼にしていたようでした。このことはGHQによる 日本国憲法草案をみるともっとはっきりします。その第16条で「外国人は法 の平等な保護を受ける」とはっきり外国人の法的平等をうたいました。   また、その後の日本政府との交渉過程で示された妥協案でも、「すべての 自然人は、その日本国民であると否とを問わず、法律の下に平等にして、人権、 信条、性別、社会上の身分もしくは門閥または国籍により、政治上、経済上、 または社会上の関係において、差別せらるることなし」と提案されました(古 川純「外国人の人権(1)『東京経済大学会誌』146号、1986)。   しかし、このGHQの内外人平等の理念は、日本政府との交渉過程できれ いさっぱり消えてしまい、現行のように「日本国民は・・・」式の、外国人抜 きの条文になり、外国人の人権という概念がほとんど消えてしまいました。   こうした交渉過程から、おぼろげながら日本政府の純血主義が浮かび上が ってきますが、次にそれを具体的にみていきたいと思います。   下落合95さんは、#1689で   > 当時の日本政府は、朝鮮人の日本国籍については有する   >ものとみなしていたことは事実ですが、このみなすという   >意味は、朝鮮人の法的地位については未定だが、確定する   >までは日本国籍をもっているものみなすということであり、   >無条件かつ同等に日本国籍者として扱っていたわけではあ   >りません。 と書かれましたが、日本政府は在日朝鮮人を、時には外国人として扱うかと思 えば、時には日本人として扱うなど一貫性のない混乱した政策を行いました。   そうした政策をひとつづつ検証していきます。 1.参政権   終戦まで、在日朝鮮人は国政・地方参政権ともに被選挙権を含めて日本人 と同等の権利を有していました。こうした経緯から、終戦後も引きつづき参政 権を認められそうな流れにありました。事実、45年10月23日の臨時閣議 で決定された衆議院選挙法改正案にはこう書かれていました。  「内地在住の朝鮮人、台湾人も選挙権、被選挙権を有するものとする」 (朝日、45.10.21)。   また、関係当局もこれに先立ち、その趣旨を次のように説明していました。  「内地在住の朝鮮人、台湾人の選挙権は、これらの人々は国籍をこちらに有 しており、帰国するにしてもそう早急には完了せず、また内地に永住の希望を もっている者も多数あるので、その選挙権は従来通り認めて差し支えない」 (同、45.10.14)   ところが、ほぼ1カ 月後の11月22日発表された「選挙法改正案」では、 一転して閣議決定に反し、参政権を一方的に剥奪する補則(注)を暫定的に付 け加えました。   その補則の提案理由を当時の堀切内務大臣は次のように説明しました。  「ポツダム宣言の受諾によって、朝鮮人、台湾人は原則として日本の国籍を 喪失することになるので、選挙に参与することは適当でない。もっとも講和条 約の締結まではなお日本の国籍を保有しているので、ただちにそれを禁止する ものではなく、当分の間これを停止する取扱にした」 (「議会制度70年史資料編」大蔵省印刷局、1960年)   この突然の措置に対し、在日朝鮮人は朝連(在日本朝鮮人連盟)を中心に 抗議活動を行い、その一環として横浜では納税反対運動をくりひろげました (「日本占領・外交関係資料集」第6巻、柏書房、1991)。その反対理由 は、参政権の剥奪が朝鮮人差別の激化を必然化するというもので、今日の観点 からしてもこの認識は的を射たものでした。   一方、この問題に対するGHQの反応ですが、GHQ内部にもこの暫定措 置を問題視する動きがありました。占領軍関係者(GS代表)が記者会見を行 いこう述べました。  「朝鮮人が政府に対し、責任をもち、納税を怠らず、法律を守る限り選挙権 が与えられるべき」(全掲書、P40)。   この発言は物議をかもしだし、最終的には「非公式見解」として事実上撤 回されてしまいました(李英和「在日韓国・朝鮮人と参政権」明石書店)。こ のことは、GHQとしては日本政府の方針を暗に支持したことになります。   上記の経過のように、参政権剥奪は日本政府やGHQのなかでは賛否両論 があり、現在よくいわれるように決して「当然の法理」などではありませんで した。   さて日本政府の突然の政策変更ですが、これは改正案自体がよほど杜撰で あったのか、それとも閣議以降なんらかの情勢変化があってなされたのか今ま で謎とされ、学者の研究テーマになっていました。ところがつい最近このいき さつが明るみに出されました。    95年11月7日の共同通信ニュース速報によれば、京大人文科学研究 所の水野直樹助教授(朝鮮近代史)が国会図書館でこの経緯の関係資料を発掘 しました。    それによると、当時選挙制度の専門家とされた故清瀬一郎衆院議員名で 「(日本国籍を持つ旧植民地出身者に)参政権を与えれば天皇制廃絶を叫ぶ議 員が選出される恐れがある」と強い危機感を示す意見書がまとめられていたそ うでした。 この意見書は「参政権を認めれば最少十人ぐらいの当選者を得るのは容 易」とした上で「わが国は従来、民族の分裂はなく民族単位の選挙を行ったこ とはない。思想問題と結合すれば、天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らく国籍を朝鮮 に有し、内地に住所を有する候補者であろう」と、天皇制が批判されるのを危 惧しました。   ここで「天皇制」問題が在日朝鮮人政策に深い影をおとしました。在日朝 鮮人による天皇制批判、これは当時にあっては決して杞憂ではありませんでし た。   昨今、話題の町村合併ならぬ、日韓併合が天皇の名の下になされたことか らして、日帝時代、天皇は抗日運動家の憎しみの標的になっていました。実際、 1932年には独立運動家・李奉昌義士が桜田門外で天皇の馬車に手榴弾を投 げつけたくらいでした(桜田門事件)。   さらに皇民化政策で、朝鮮・台湾人は「天皇の赤子(せきし)」とされ 「皇国臣民の誓い」を強要されたり、日本語や日本人式の姓名を強制されるな ど民族文化を抹殺する度の過ぎた朝鮮での政策は、一部の親日派を除き怨嗟の 的でした。 こうした旧植民地出身者が抱く天皇に対する特別な感情を憂慮し、先の 清瀬議員の報告書が作成されたようでした。 (注)衆議院選挙法補則  「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権及被選挙権は当分の内之を停止す。前 項の者は選挙人名簿に登録せらるることを得ず」   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


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