01641/01641 PFG00017 半月城 サハリンへの強制連行
( 7) 96/12/08 23:32 01126へのコメント
下落合さん、#1617
> 相変わらず、認識不足による事実誤認が多い様ですが、
>とりあえず事実関係の指摘を行いたいと思います。
> ・官あっせんとは何か
> もともと、官あっせんとは、朝鮮半島南部の農民を北部
>の工事現場や炭鉱に送り込む『労働者移動紹介事業』であ
>り、施行されたのは1937年です。
下落合さんは「認識不足による事実誤認」というより、何か勘違いをされ
ておりませんか? 下落合さん自身#1126で「官あっせんの実施は194
2年2月のこと」と書かれていますが、そちらが正しいのではないでしょう
か?
官あっせんとは、42年、朝鮮総督府が日本政府の閣議決定をうけて発布
した「鮮人内地移入斡旋要項」を指します。これが俗に「官斡旋」と呼ばれま
した。このころ、日本は米英への戦線拡大に伴う内地の労働力不足を補うため、
朝鮮人労働力の内地移入を国家事業として、42年から大規模に実施しました。
具体的には官斡旋要項第二、六で
「職業紹介所及び府邑面は、常に管内の労働事情の推移に留意精通し、供
出可能労務の所在及び供出時期の緩急を考慮し、警察官憲・朝鮮労務協会・国
民総力団体其の他関係機関と密接なる連絡を持し、労務補導員と協力の上割当
労務者の選定を了するものとす」
とされ、連行を関係機関や、警察など治安機構まで総動員して実施しました。
39年の「募集」に始まり「官斡旋」、最終的には「徴用」に至る労働力
移入政策により、どれくらいの朝鮮人が組織的に連行されたか表にすると次の
ようになります。
朝鮮人労務動員数
会計年度 樺太 日本国内 南洋群島 合計
1939 3,301 49,819 - 53,120
1940 2,605 55,979 814 59,398
1941 1,451 63,866 1,781 67,098
1942 5,945 111,823 2,083 119,851
1943 2,811 124,286 1,253 128,354
1944 - 286,432 - 286,432
1945 - 10,622 - 10,622
合計 16,103 702,827 5,931 724,787
(資料出所、39-43年は朝鮮総督府財務局「第86回帝国議会説明資料」
44-45年は大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史的調査)
ここで注意したいのは、この表のすべての人が強制連行されたとは限りま
せん。初期の39年頃は、豊かな国・日本に対するあこがれやエトランゼに対
する興味から進んで「募集」に応じた人も多かったようです。
しかし年がたつにつれ、朝鮮では連行後の苛酷な労働の実態が少しずつ知
られるようになり、人集めは次第に困難になっていきました。そのため「官斡
旋」の始まった42年頃からは、NHK・TVでとりあげたチョウ氏のように、
夜、突然連行されるなど強引な手段の人狩りや、露骨な「暴力的連行」が頻発
し始めました(山田昭次・朴慶植監修「朝鮮人強制連行論文集成」明石書店)。
そうしたやり方は企業の募集担当者の回想からもある程度裏付けられます。
たとえば、北炭幌内炭坑労務課員・北山外次郎の「朝鮮出張募集報告」(45.3.
24)では 、徴用令を適用した労務動員に対する朝鮮人の反応を報告してますが、
そのなかで、「一般農民、日雇い等は従来より送出の対象となり居り、官斡旋
に於ても事実上強制的に送出せられ居りたれば、今更衝撃を受くることもな
し」と述べ、官斡旋は徴用なみに事実上強制的なものであったと回想しました。
(小沢有作「近代民衆の記録10,在日朝鮮人」新人物往来社)。
こうした事実は総督府関係者の証言でも確認されます。かって宇垣総督時
代にその秘書役をしていた鎌田沢一郎は、強制連行のやり方を著書「朝鮮新
話」のなかで次のように記しました。
「納得の上で応募させていたのでは、その予定数になかなか達しない。そ
こで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突然男手のある家の寝込みをおそい、
或いは田畑で働いている最中に、トラックを廻して何気なくそれに乗せ、かく
てそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭坑へ送りこみその責を果たすと
いう乱暴なことをした」
このように官斡旋は結果的に強制連行の制度化につながりました。朝鮮で
の強制連行がこの官斡旋のころ始まったとすると、その総数は上の表から54
万5千人になります。ただし、上の表で45年の数字は戦争末期のため、あま
りはっきりしないようで、どうやら少な目に書かれているようです。
この人たちや、「募集」で連行された朝鮮人は2年程度の契約期間が終わ
っても、今度は徴用令により法的強制力をもって徴用され、ほとんど終戦まで
残留しました。また、契約期間中に逃亡した人も厳しい警戒態勢のもとでは故
郷に帰れず、ほとんど終戦まで日本にそのまま残りました。
終戦時に、在日朝鮮人の数はだいたい210万人とされています。したが
って55万人は割合からいうと、ほぼ4人に1人が強制連行された計算になり
ます。さらに、青年男子に限っていえば、強制連行された人は半数近くになる
ものと思われます。
なお、これらの割合はもちろん現在いる在日韓国・朝鮮人の強制連行の比
率を表すものではありません。
さて、話をサハリンに移しますが、上の表からサハリンへの強制連行も4
2年以降とすると、その数は約8,800人になります。
44年以降、サハリンや南洋群島では労務動員は行われなかったようでし
た。それはこの時期、敗色濃い日本は輸送船不足であったのと、制海権を失い
つつあったためでした。このころ、アメリカの潜水艦が日本海にまで出没する
ようになりました。
このあおりを受けて、サハリンの炭坑はかなり閉鎖になりました。閉鎖に
なった炭坑の坑夫約2万人は第二の徴用として、九州などの炭坑や千島列島の
飛行場建設に送り込まれました。こうした坑夫は転換坑夫と呼ばれましたが、
そのほとんどが家族と離れ々々になり終戦を迎えました。この転換坑夫のうち
朝鮮人がどのくらいいたのかはあまりはっきりしませんが、半数近いのではな
いかと思われます。
下落合さん、#1126
> また、徴用では逆にサハリンから内地に送られたとい
>う人もいます。 元樺太師団鈴木参謀長の「樺太防衛の
>思い出」によると、1944年9月から11月にかけて、朝鮮人
>炭鉱労働者約2万人が北九州に送られ、敗戦時には7800名
>であったとのことです。
日本の敗戦時にサハリンにいた朝鮮人の数については諸説あります。日本
政府はGHQからの問い合わせに対し、47年10月の段階では推定で25,
000名、11月の段階では千島を含んで25,435名、現時点(時期不
明)では15,000名と回答しました。
しかし、今日では日本政府を含めてほとんどの者が43,000名という
数字を採用しています。これは、ソ連占領下で組織された朝鮮人居留民会が終
戦直後に行った調査に基づくものです。戦後のソ連側の文献も終戦時の朝鮮人
人口を約4万人としています。
ちなみに、現在のサハリン在住朝鮮人の数は36,000名とされていま
す。このように人口が減ったのは、韓国へのごく少数の渡航は別にして、ソ連
本土へかなり人口流出があったためです。もともとサハリンは昔から出稼ぎの
島として知られていました。一方、逆に北朝鮮から大量の労働者の移入などが
戦後ありました(大沼保昭「サハリン棄民」中公新書)。
下落合さん、#1617
> 全国炭鉱調査によると、平均賃金は76円だが、坑内、坑
>外の別による差もある。 伊藤孝司著『樺太棄民』ほるぷ
>出版によると、月収250円にもなったケースもある。
サハリンの朝鮮人労働者についていえば、賃金についての不満はかなりあ
りました。そうした不満は、氷山の一角として特高の記録に残りました。
一例として、強制連行された者の賃金が低く抑えられていたために騒動が
持ち上がりました。43年4月、恵須取(ウグレゴルスク)の木原組に対し、
連行された朝鮮人労務者28名が、「自由労務者に比し賃金低廉なりとし、賃
金増額其他待遇改善の要求を目的として一同にて事業主を恐喝して小使銭の前
借りをなしたり」(内務省警保局「特高月報」43年9月分)との事件が報告
されました。
一方、ストライキ(罷業)などもかなりあったようでした。44年1月、
気屯(スミルヌイ)・古屯(ポベジノ)間鉄道敷設の惣坊組に対して、朝鮮人
労務者30名が組頭ならびに小頭による支払い賃金の天引き搾取に不満を持っ
ていたところ、小頭の煽動により「一同之に雷同全員罷業するに至りたり」
(同、44年2月分)と記録されました。
賃金の天引きの他にも、強制預金は逃亡を防ぐためにもほとんど行われて
いたようでした。そのため、本人にわたる賃金は月10円以内としていたとこ
ろがかなりあったようです(高木健一「サハリンと日本の戦後責任」凱風社)。
ストは敷香(ポロナイスク)にある三井鉱山(株)内川炭坑でも起きまし
た。特高記録によると、「内川炭坑に稼働中の遠藤組所属、移入朝鮮人労務者
37名は、・・・事業主の処遇に対する不満を醸成しつつありたり。斯る際同
組に於ては12月分賃銀を炭坑側より1月15日受領せしにも拘わらず2月上
旬に入るも之が支払なき為、朝鮮人労務者の平素の不満一時に爆発し2月3日
賃銀精算を要求し一斉罷業したり。茲に於て初めて同組に於ては即日12月分
賃銀の支払いをなし、且飯場料衣料に関しては追て善処すべき旨を説示し一応
解決したり」(同、44年3月分)。
この例も「移入朝鮮人労務者」が、下請けの遠藤組に搾取され続けていた
ものと思われます。
戦争中にストライキがあったなんて話は、私は寡聞にしてサハリン以外で
は知りません。あの総動員体制のなかでストを起こすことは決して容易なこと
ではありません。それにもかかわらずストを決行したのは、よほど搾取や酷使
がひどかったのでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/12/15 -
01687/01687 PFG00017 半月城 サハリンからの引揚げ
( 7) 96/12/15 23:20 01088へのコメント
前回まで、朝鮮人がサハリンに連行された背景や、現地での強制労働の実
態を朝鮮総督府や特高の資料など、主に日本の官公庁の資料をもとに検証して
きましたが、それに引き続いて今回は戦後の帰国問題、特に「なぜ朝鮮人はサ
ハリンに置きざりにされたのか」についてふれたいと思います。
これに関連し、#1088で河原さんの書き込みがあり気になっていまし
たが、そのなかの「コメント不要」という文言に甘えそのままにしていました。
今やっとそれに対するコメントを書くタイミングになりました。
最初に、サハリン在住日本人の引き揚げがどのように行われたのか簡単に
みておこうと思います。
45年8月9日、ソ連が対日戦に参加しサハリンでも戦闘が始まりました
が、その当時「邦人」の数は厚生省や北海道庁の推定で39万人とされていま
す。ただし、この数のなかには「皇国臣民」である朝鮮人は入っていません。
朝鮮人の数は「日本人」全体の約10%、4万5千人と推定されています。
ソ連の侵攻が始まった直後、8月13日から老人婦女子の緊急疎開が始ま
りました。この疎開は22日、ソ連軍による運行停止命令が出るまで続けられ、
約7万6千人が宗谷海峡を渡り北海道へ疎開しました。このなかで朝鮮人は約
2%、1500人と推定されています。
このように朝鮮人の疎開者が少ないのは、もともと朝鮮人の老人婦女子が
少ないこともあるでしょうが、他にも「朝鮮人はみんな宗谷海峡で海に投げ込
まれる」などという噂があったことも影響したようでした。
これが単なる噂なら信じる人も少ないでしょうが、上敷香虐殺事件(#1
143)や瑞穂虐殺事件など、実際にあった事件を同胞から身近かに聞いて、
帰国を断念した朝鮮人も多かったようでした(林えいだい「証言・樺太朝鮮人
虐殺事件」風媒社)。
ソ連軍の運行停止命令以降、密航船で約2万人が46年3月頃までに帰国
しました。これ以降はソ連当局の監視が厳しく、密航はほとんど不可能になり、
結局、サハリンには約29万人の日本人と4万3千人の朝鮮人が残留しました。
このうち、「邦人」の引揚げは、46年12月の「ソ連地区引揚げに関す
る米ソ協定」により行われました。この「米ソ協定」ですが、引揚げ対象者が
第1条で次のように定められました。
1.左記の者がソ連邦及びソ連支配下の領土よりの引揚げ対象となる
(イ)日本人捕虜
(ロ)一般日本人(一般日本人のソ連邦よりの引揚げは各人の希望による)。
ここにいう「一般日本人」とは、英文で"Japanese Nationals"となってお
り、これは法律の専門家によれば「日本国籍を有する者」という意味です(高
木健一「サハリンと日本の戦後責任」凱風社)。
この協定通りに引揚げが実施されていれば、日本籍の朝鮮人も帰国できた
はずでした。当時はまだ「朝鮮」や「韓国」などの「国家」は存在せず、サハ
リンや日本在住朝鮮人の国籍は「日本」でした。ちなみに、「大韓民国」や
「朝鮮民主主義人民共和国」の独立は1948年のことでした。
#1088,河原さん
>ポツダム宣言には、朝鮮は独立させると明記されているのですから、それを
>受諾した日本政府が、「朝鮮人も日本人だから帰国させろと」と言ったら、
>主権侵害で大変なことになるでしょう。
この主張はよく吟味する必要があります。国家は存在しなくとも、軍政統
治下の南、北朝鮮にそれぞれ「主権」はあったのでしょうが、それと日本やサ
ハリンに在住している朝鮮人の国籍をどう考えるかは別問題であると思います。
過去の事実として、国籍問題に限定すれば日本政府は法律上こうした朝鮮
人を52年までは日本国籍を持つ者として扱いました。さらにいえば52年、
すなわちサンフランシスコ講和条約発効時、こうした人たちから勝手に日本国
籍を剥奪してしまいました(#569)。
こうした経緯からすると、46年の米ソ協定当時、サハリン在住の朝鮮人
は "Japanese Nationals" に相当するのですが、よく知られているように、こ
の時に朝鮮人の引揚げは残念ながらなされませんでした。
これに関連して、ソ連赤十字のベネディクトフ総裁は87年、日赤にあて
た書簡で「当時の日本政府はポツダム宣言の条文をもちだして、朝鮮人をもは
や日本国民とみなさないよう公式に要請した」という衝撃的な証言を行いまし
た。この要請は、労働力が少しでも欲しいソ連政府にとって「渡りに舟」とな
ったようでした。
この証言の裏付け調査を、東京大学の大沼教授が精力的に行いました。そ
れによると、関係資料は外務省・外交資料館や米国公文書館には見当たらない
一方、当事者のソ連や厚生省は史料を明らかにしないため、確認はとれていな
いとのことでした。
同教授によるとそれに似た記述として、厚生省の「引揚げと援護三十年の
歩み」に朝鮮籍と台湾籍の軍人軍属について「日本の敗戦ととに、・・・連合
国によって武装を解除されると同時に、『カイロ宣言』に基づき日本国籍を離
れることになった」と記述されていて、<だから日本には引揚げに関する責任
はなかったのだ、といいたげな書きぶりである>そうです。こうした日本政府
の姿勢を同教授は次のように批判しました。
『たしかに、カイロ宣言は、米英中が「やがて朝鮮を自由独立のものにす
る決意を有する」ことを明らかにし、ポツダム宣言は「カイロ宣言の条項は履
行せらるべく」と規定していたから、朝鮮人が独立国の国民となり、日本国籍
を離れることは日本のポツダム宣言受諾の時点で明らかだった。
しかし、朝鮮人が「いつ」日本国籍を離れるかはまた別の問題である。カ
イロ宣言が「やがて」という表現を用いていたことから明らかなように、それ
を「日本の敗戦とともに」と言い切ることには大きな疑問がある。なによりも、
朝鮮人、台湾人は平和条約発効までは日本国籍を失わないと最も強く言い続け
ていたのは、ほかならぬ日本政府だった。
その平和条約は1951年まで結ばれず、それが発効したのはよく52年
のことだった。一方で朝鮮人、台湾人が日本国民の地位にあることを主張しつ
つ、他方では日本国民としての引揚げの数には入れない。これが当時の日本政
府の姿だったのである』(大沼保昭「サハリン棄民」中央公論社)
一方、「米ソ協定」を結んだGHQの事情はどうでしょうか。GHQは引
揚げにかぎらず、日本政府からの具体的な情報をもとにしてはじめて細かな諸
政策をたてることができるのですが、ことサハリン在住朝鮮人に関して、GH
Qは日本政府の自発的な情報提供を何も受けていませんでした。もし、GHQ
はサハリン残留朝鮮人について十分な知識をもっていれば、それを「米ソ協
定」に反映していたのではないかと思われます。
GHQはかって、朝鮮人転換坑夫18人の請願をとりあげ、46年3月、
対日理事会のソ連代表に対し、サハリン在住炭坑夫の家族を南朝鮮へ直接また
は日本経由で送り返すよう要請したくらいでした。また、47年には、小さな
民間団体「サハリンからの朝鮮人早期帰還連盟」の請願をきっかけに、日本政
府にサハリンにいる朝鮮人の数を問い合わせ、それをもとに消極的ながらもソ
連に申し入れるなど対処していました。
こうした事実を考えると、残留朝鮮人の引揚げについて日本政府から要請
がなされたなら、おそらくそれは協定に少しは反映されていたのではないかと
悔やまれます。これについて大沼教授はGHQの関係者であるスチュアート少
佐から次のような証言を得ました。
『私がほぼ確実に言えることは、日本経由で南朝鮮に引き揚げたいと希望
している朝鮮人がいることは、我々には告げられていなかった、ということで
ある。もし我々がそれを知っていたら、それは交渉の一項目になっていただろ
う。日本を経由する引揚げのための配船、あるいはサハリンから釜山への直接
の配船がなされたであろう』(角田房子「悲しみの島サハリン」新潮社)
これについて、同教授は日本政府の立場を次のように分析しました。
『当時の日本政府に朝鮮人をサハリンに置き去りにしようという積極的な
意図があったわけではないだろう。これまで明らかにされた史料から判断する
限り、そう言える。
しかし、当時の日本政府に、自分たちが日本国民として連れて行った者を
日本国民として帰還させる責任があるという意識がなかったことも、またたし
かである。血統的日本人への強烈な同胞意識と、労苦を共にした非日本人への
徹底した無関心。それが朝鮮人をサハリンに置き去りにしたのである。
この意識構造は、しかし、終戦直後の政府に限られるものではなかった。
それは戦後40年以上も引き続き、サハリン残留朝鮮人の帰郷を妨げ続けるの
である』
故郷を遠く離れ、帰国を一途に思い続けてきた朝鮮人は、日本人だけを乗
せて出航する引揚げ船をどのような思いで眺めたことだろうか。
角田さんによれば、「絶望のあげく自暴自棄に陥り、身を削るような労働
で得た金のすべてを酒にかえて健康を害し、自殺同様の死に方をする者もあっ
た。賭博や麻薬に溺れた人もいた。働く意欲を失って職場を追われた落伍者は、
いつか姿を消していた。その何人かは奥地へ分け入って、再び仲間の前に現れ
ることはなかったという」。悲惨の極致です。
カイロ宣言にいう「奴隷状態」から解放されるはずの人たちが、故郷にも
帰れず、異国の地で絶望的な日々を送ることになるなんて、冷たい国際政治は
どこまで同胞を苦しめるのでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/12/23 -
01742/01742 PFG00017 半月城 RE:サハリンへの強制連行
( 7) 96/12/23 22:25 01663へのコメント
下落合95さんは、アジア人民との連帯の旅に出られるとかで不在かも知
れませんが、一応コメントだけはしておこうと思います。
1.強制連行
#1663、下落合95さん
> 強制連行とは、国家総動員法が実施された期間の三つの
>形態であるという説があり、それを採用しているのでしょ
>ううが、もともと強制連行なる制度は存在せず、一部の人
>が強制連行だといっているだけです。
> これを強制連行とみなすかどうかは、個人の自由ですか
>ら別にかまいませんが、私は採用しません。
この点に関して、サハリン残留韓国人問題の研究者である大沼・東大教授
の見方を紹介したいと思います。大沼教授を選んだのは、河原さんが#170
6で同氏の著書「サハリン棄民」(中公新書)を
>この問題の歴史的経緯にも最もくわしい人と言えますから、同書の
>記述によって得られる知識はほぼ間違いのないものと考えられます。
と高く評価しておられるからです。そこで私もこの本から引用したいと思いま
す。
<渡航の背景について>
『サハリンに流入した労働力人口には早い時期から朝鮮人が含まれていた。
1910年以来日本の植民地化に置かれた朝鮮では、土地調査事業という名の
農村の土地再編成が行われたが、この課程で大量の農民が土地を失った。生計
の手段を奪われた農民は、一部は朝鮮の都市に、一部は日本に糧を求めて移住
した。
第2次大戦中にはこれに加えて日本人男子の労働力不足を補うため、強
制的・半強制的な朝鮮人労働者の募集・連行が行われた。こうした人々を含め
て終戦までに200万以上の朝鮮人が日本本土に渡ってきた』
<朝鮮人労働者の動員>
『1937年に始まる日中戦争の泥沼化と41年に始まる「大東亜戦争」
のため、多くの日本人男子が徴兵にとられ、労働力不足が激化した。これに対
処するため、日本帝国政府は朝鮮人を労働力として確保すべく次々に措置を講
じた』
この措置は39年の「募集」、42年の「官斡旋」、44年の「徴用」と
三期にわたるのですが、それぞれの時期について同教授は次のような見方をし
ています。とりわけ「募集」の時期から「人狩り」があったと書いているのは
注目されます。
「募集」
『「募集」は最初の段階から政府の関与の下に行われた・・・面事務所と
駐在所は企業の募集係とともに、その管轄下の家庭に「応募」人数を割り振り、
嫌がる家庭には事実上の圧力を加えて応募させる。これが当時の「募集」の一
般的な形だった。41年6月には総督府内に朝鮮労務協会がつくられ、以後は
総督府と協会が一体となって事実上の人狩りを行うケースが増えていった』
「官斡旋」
『官斡旋の下でも、形式上就労斡旋に応じるか否かの自由がなかったわけ
ではない。しかし、官斡旋はそれまで行われていた労働者募集への総督府の関
与をさらに体系化したものだった・・・。
「斡旋」は、実際には面事務所、警察、労務協会というお上からのお達し
にほかならなかった。個々の朝鮮人家庭が拒否することはまず不可能だった。
当時の日本政府の資料にも、朝鮮人労働者確保の方法を「徴用斡旋」と「自由
募集」とに大別しているものがみられる。このことは、「徴用」と「斡旋」と
が当時政府内においてすらしばしば同一のものとして扱われていたことを示し
ている』
「徴用」
『朝鮮人労働力動員の最後の手段は国民徴用令による動員である。国家総
動員体制の下で、徴用令は日本の内地ではすでに1939年10月から適用さ
れていたが、朝鮮にたいしては民族的反発や抵抗をおそれて、その適用は形式
上控えられていた。集団募集や官斡旋は、建て前上徴用の形式はとらず、実際
上同一の効果を確保するものであった。
しかし、戦争の末期にいたり、戦死者の増大、徴兵の極限化により成人男
子労働力は底をつき、政府はあらゆる手段によって労働力を確保する必要に迫
られた。こうして、1944年9月には徴用令が朝鮮にも適用され、名実共に
法の強制をもって朝鮮人の連行が行われることとなったのである』
大沼教授は、下落合95さんの基準で「一部の人」になるのかどうかは知
りませんが、三期にわたる朝鮮人労働者の動員は「事実上の強制連行」である
と断言しました。
2.生活・労働・逃亡
#1581、下落合95さん
> 坑内労働者に対する米穀配給量は約五合でした。 労働
>がきついということを考えても、戦時中に一人当り約五合
>の配給があったというのはかなりの優遇であったことは間
>違いありません。
#1603、下落合95さん
> どうも、ご自分で矛盾に気がついていないようですが、
>これが文字通りの奴隷労働のようなものなら、どうして
>こんなに逃亡が多いのですか。 本当の強制労働だった
>ら、逃亡などできるはずがない。
サハリンや日本内地に連行された朝鮮人の生活や労働・逃亡について大沼
教授は次のように書いています。
『朝鮮人労務者の大部分は、坑内の厳しい労働環境の下で一日10時間か
ら12時間の労働を強いられた。ところが、食事は雑穀や大豆の混じった飯に
薄い味噌汁とせいぜいみがきニシン数切れというのが典型だった。過重な労働
と粗食で体をこわす者も多かったが、現場監督は病欠を認めず、そのまま働か
せるため疲弊死するケースもあった。
あまりのつらさに逃亡を試みる者も絶えなかったが、逃げおおせる者はす
くなく、見つかった場合には半殺しになるまでのリンチ、折檻が待っていた。
戦後一貫してサハリン残留朝鮮人の帰還運動に従事した沈桂ソプさんもサハリ
ンで逃亡したが捕まり、折檻を受けて鎖骨を折られるという経験をしている。
サハリンに限らず、「募集」「斡旋」「徴用」された朝鮮人労働者の待遇
がいかに苛酷なもので彼らに忌み嫌われたかは、当時の動員数と「減耗数」、
さらに逃亡者数をみれば歴然としている。内務省資料によれば、1945年3
月末の「徴用斡旋」数は約45万、「自由募集」数は約15万で合計60万だ
が、うち逃亡者数は実に23万、逃走者を含む「減耗数」は32万以上に上り、
現在実数は約28万にすぎなかった。「減耗数」には、逃走者、「満期帰鮮
者」(約5万)のほかに、「不良送還者」が1万6千、「その他」が4万6千
に上る』
大沼教授の認識は下落合95さんと大きく違い、多くの朝鮮人は「暴力的
な雇用関係」のもとで「優遇」どころか「粗食」と「過重な労働」に虐げられ
ていたとみているようです。
3.賃金
#1663、下落合95さん
> 高木弁護士のような賃金10円というというのは実態を反
>映していないと思うが、10円としても当時としてはかなり
>の額で、二等兵ようするに本物の徴兵で行った人は月給6
>円、住み込みの看護婦もやはり約6円です。
> 炭鉱夫の衣食住は会社が管理していただろうから、税金
>やら貯金などすべて天引きで10円も残るというのは大変な
>ことです。
大沼教授によれば、朝鮮人は差別的な低賃金であったとし、しかもかなり
の額を強制的に預金させられていたと下記のように述べています。
『このように、サハリンで朝鮮人を労務者として使用した日本企業は給与
の面でも労務管理の面でも、露骨な差別と苛酷さをもって朝鮮人に臨んだ。ほ
とんどの会社は、日本人労働者よりずっとすくない給与さえ全額は払おうとせ
ず、かなりの額を強制貯蓄させた。これには、貴重な労働の成果を会社が握る
ことで彼らの逃亡を防止するという意味が含まれていた。
たとえば、沈さんとともに戦後一貫して帰還運動にかかわってきた李ヒ八
さんの場合は次のようなものだった。
坑内労働の場合は日給6円50銭、坑外の場合は4円50銭とあったが、
実際に貰えた額は坑内で3円50銭、坑外で2円50銭だった。李さんの場合
は坑外だったので、一月28,9日働いて(休日は月2回)約70円程度の収
入になるはずだったが、実際には飯場食費18円、会社の積立金4円、物品代
8円を差し引かれ、小遣いとして月6円程度渡されるだけだった。残りの
34,5円は報国貯金として強制的に貯蓄させられた』
戦後、強制預金は引き出せなかったのはよく知られているとおりです。こ
の預金や補償問題は現在でも未解決のまま残されています。サハリンの場合、
残留者に「韓国籍」をもつ人がいないので日韓条約は適用対象外です。
次に賃金水準の比較ですが、PCVANの日本史ボード(J REK) にたまた
ま参考になる書き込みがありましたので引用します。マックさんが#3574
で戦争中の給与について次のように書いていました。
>まずは前置きで一節。
>兵隊はいわゆる「公務員」でして、当然、給料はでます。いちがいに断定は
>出来ませんが一等兵で月給5円50銭、そして留守家族への援護金として月
>に9円支給されます。あわせて14円50銭となります。
>そして当時、徴兵適齢の青年労働者の平均月収は50円代でした。事務職・
>技術職はもっと高給でしょう。そして実際に兵隊になると従来の職場・会社
>からは解雇されました、ちょうど昭和大恐慌の不況期で元の職場に戻ること
>はまず不可能。どっちみち一家の大黒柱が兵隊に取られると、その家庭は貧
>乏になります。
すこし脇にそれましたが、以上のように大沼教授は「強制連行」ならびに
「暴力的雇用関係」といった歴史認識に立ち、戦後責任を強調し、その著書
「サハリン棄民」を次のように締めくくりました。
『この問題には、抑圧的なソ連の体制、朝鮮の分断とそれを囲む諸国の複
雑な国際政治情勢が大きく影を落としている。日本だけが悪かったのではない。
しかし、日本にほんのすこしでもかって自国民として働いた朝鮮人へのあたた
かい気持ちがあったら、サハリンからの引き揚げにかかわった日本政府の担当
官が「サハリンには日本国民として連れて行かれた朝鮮人がいる。一緒に引き
揚げさせてほしい」と一言GHQの担当官に告げていたら、この問題はおそら
く起こらなかっただろう。
そして戦後、日本とソ連の関係はいつも悪かったわけではない。日本政府
が韓国からの要請というかたちでなく、自国民として連れていった歴史的責任
として、日本自身の問題としてソ連と交渉していれば、ソ連としても日本との
経済交流の強化など、自己の利益をにらみつつ交渉に応じた可能性は、これま
たなかったわけではない。
日本政府はこうしたことをやろうとしなかった。サハリン残留朝鮮人問題
の「解決」を45年間引き延ばしてきた大きな要因は、こうした日本政府の不
作為の積み重ねだった』
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
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