「従軍慰安婦」52
文書名:[zainichi:973]インドネシアの「従軍慰安婦」
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Date: Sun Nov 17 14:52:07 1996
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- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/11/24 -
01522/01523 PFG00017 半月城 植民地・朝鮮の憲兵警察
( 7) 96/11/24 17:43 01418へのコメント
たまには私も横レスで失礼します。
SKさんは植民地時代の朝鮮の警察と憲兵について、「憲兵とは兵士の犯罪を
取り締まるためのもの」と書かれていましたが、このような日本内地の「常
識」が必ずしも通用しないのが植民地です。
植民地・朝鮮では軍政がしかれ、議会もなければ憲法もありませんでした。
その軍政下で、日本内地では信じがたいことが行われていました。憲兵警察制
度もその一つです。それを紹介します。
1910年、日本は朝鮮を併合し、憲兵と警察とを統合した「憲兵警察制
度」をしきました。具体的には、将官である憲兵隊司令官が警務総長に、佐官
である憲兵隊長が各道警務部長に、憲兵将校が警視に、憲兵下士が警部に任命
されるという特殊な治安機構が明石元二郎によって作られました。
そのいきさつを、渡部学氏は「朝鮮近代史」(剄草書房)で次のように述
べています。
ーーーーーーーーーーーーー
このように巨大な、そして特殊な治安機構は、前章においてみたように、
全朝鮮民族の激しい抵抗運動に対する、日本の支配者の恐怖のなかから生まれ
たものであり、むしろ日本帝国主義の相対的弱さの反映であった。それはこの
憲兵警察制度(1910年6月)の創始者、明石元二郎が、義兵闘争や愛国啓
蒙運動に立ち上がった朝鮮人約2万人の生命を奪いながらその制度を確立して
行ったことからも了解することができる。弾圧者として、明石は朝鮮民族の抵
抗のエネルギーを、誰よりも深く思い知らされていた。
ーーーーーーーーーーーーー
併合に先立つ1906年、日韓協約(保護条約)を強いた伊藤博文が安重
根により暗殺された教訓から、総督府は治安維持には相当神経質になっていま
した。そのため、憲兵には絶大な権限を与え、軍事警察事務や普通警察事務の
ほかに次のような任務まで与えました(小森徳治「明石元二郎」)。
諜報の収集、暴徒の討伐
将校下士(警視・警部)の検事事務代理、犯罪の即決
民事争訟の調停、執達吏の業務、国境税関の業務
山林監視、民籍事務(戸籍吏の事務)
外国旅券、郵便護衛、旅行者の保護
種痘、屠獣の検査、輸出牛の検疫
雨量の観測、水位の測量
海賊及び密漁船密輸入の警戒取締即ち警備船に関する業務
害獣の駆除、墓地の取締
労働者取締、在留禁止者の取締
日本語の普及、植林農事の改修
国庫金及び公金の警護、副業の奨励
法令の普及、納税義務の諭旨
憲兵がいかに朝鮮人の生殺与奪権を握っていたとはいっても、雨量の観測
までやっていたとは信じがたい話です。戦時中は天気予報も軍事機密だったの
で、この類推で理解するしかありません。
さて、上記のように大変な業務をこなす憲兵警察の人員配置は次のような
具合でした。
憲兵警察機関 1624ヶ所
朝鮮人の数
憲兵将校(警視兼務) 96人 ー
下士・準下士官(警部) 323人 ー
憲兵上等兵 2,525人 ー
憲兵補助 4,749人 全員
警視 35人 1人
警部 223人 100人
巡査 2,321人 100人
巡査補 3,019人 全員
憲兵政治の猛威を物語る一例として連帯責任があげられます。ある村で軍
律違反者がでた場合は全村民に責任を負わせ、「加害者拿捕せられざる場合に
は」村長を首座とする村の主だった者を「笞罰又は拘留に処す」、「拘留中の
寝具及食物は本人の自弁とす」という規定でした(山辺健太郎「日帝統治下の
朝鮮」岩波新書)。
違反者の代わりに村長をムチ打つというのも信じがたい話です。こうした
ムチ打ちは朝鮮人の憲兵補助員により行われたのでしょうが、虎の威を借りる
憲兵補助員は民衆の怨念の的でした。
この憲兵補助員は義兵闘争が下火になるにつれ次第に整理されていきまし
た。また、憲兵政治そのものも1919年、3.1独立運動を機に「武断政
治」とともに廃止になりました。武力だけでは植民地を統治できないことがは
っきりしたからでした。この時、官吏や教員の制服帯剣なども廃止されました。
憲兵警察制度から普通警察制度に転換後は、「独立騒擾」再発防止のため
に治安機構の大幅拡充が図られました。その数は
改正前 改正後
憲兵機関数 1,073 2,784
警察機関数 755 1,806
警官1人あたりの人口に換算すると728名(1923年)になります。
日本内地と比較すると、北海道940名、他は1150名なのでいかに警官が
多く配置されているかがわかります。これはそれだけ3.1独立運動が激しか
ったことを物語っています。その後も警察機関は増え続け、1927年には2
736ヶ所に増大しました。
この増大により警務費用も3倍になり、総督府財政の1割を占めるように
なりました。このほか日本内地同様に特高警察や、司法制度改善により思想判
事、思想検事なども設けられました。こうしてみると、力による治安維持はむ
しろ「武断政治期」より「文化政治期」のほうが強化されたくらいでした。
おわりに、河原さんに質問ですが「当時の巡査の半数近くは朝鮮人だった
のですから」とされていますが、この出典を教えていただけないでしょうか?
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策
01523/01523 PFG00017 半月城 産米増殖計画
( 7) 96/11/24 17:44 01493へのコメント
河原さんのコメントにかなり気になるところがありますので、それに対す
る反論を書きたいと思います。
#1493,河原さん
>つまり、日本人に土地を奪われた朝鮮人農民は、その絶対的な窮乏化のため
>に故郷を捨てなければならなかったのだと主張するのです。
>だが、この主張では、36年間の「日帝支配」のあいだに、人口が1300
>万人から2500万人に倍増していることを説明できません。
>人口増加は朝鮮の人たちにとって朝鮮王国時代よりも、「日帝支配」時代の
>方が生活しやすくなったからと考える方が自然でしょう。
人口が倍増したからといって、それだけで生活しやすくなったと考えるの
は少し短絡的ではないでしょうか。私はもう少しきちんとした検討を行いたい
と思います。その手法として、河原さんが#1493のタイトルを「必要なの
は朝鮮と内地の比較」としているので、ひとまずこの趣旨にそって検証するこ
とにします。ここでは、こうした視点は外国人にも必須なのかどうかといった
議論はひとまず脇に置くことにします。
当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と
思われます。米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べ
ることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバ
ロメータになるので、この統計をみることにします。
朝鮮の米穀輸出・消費量
年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た 日本人一人当た
(1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)
1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129
'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*
資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
*印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版
この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加
にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、
植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。
これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定さ
れました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。
日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢
性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。それに加え、タ
イなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。
こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し
「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億85
00万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石
の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。
朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道
や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしん
りき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さら
に栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しまし
た。
こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、か
の江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考え
をある程度私も認めたいところです。
しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消
費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。
そうした歴史を、数年前の米騒動の時、NHKがTV番組「米に揺れた
日韓近代史」と題して放映していました。番組では産米増殖計画の歴史的背景
や実施状況などをつぶさに検討し、あわせてこの政策を直接体験した農家の窮
状を具体的に紹介していました。
それによると、農民が秋に米を70俵収穫しても、水利税や肥料代なども
ろもろ差し引かれ手元には2割の15俵くらいしか残らないそうでした。
しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人
は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうで
した。
これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の
中に埋めたり隠したりするのですが、冷酷な借金取りもさるもの、鉄棒で地面
をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。
このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本
の農家をも苦しめました。安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内
地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の
身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
番組はここで終わりましたが、こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民
は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放
さざるを得ませんでした。その実体を表すのが次の表です。これは米どころの
全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でど
のように変化したかを示すものです。
全羅北道、五水利組合の土地移動
(単位は町歩)
日本人所有 朝鮮人所有 その他 合計
1920年 3,674 4,181 2,694 10,549
1931年 8,999 3,545 7,292 19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)
この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを
含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を
総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。
この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍
増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年に
かけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大し
ました。
灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配
者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていった
のが植民地の現実でした。こうした背景を考えると、宇垣総督が天皇に述べた
朝鮮統治の次の基本方針はなかなか味わい深いものがあります。
「その二は、朝鮮人に適度にパンを与うることであります。朝鮮の富は併合
以来非常に増加していますけれども、朝鮮の富が増加している割合には朝鮮人
の富は増設致しておりません。今日なお生活苦に呻吟しておるものが相当多数
存在致しております」
この「朝鮮人に適度にパンを与える」発想は、江戸時代の「百姓は生かさ
ず殺さず」という考えから来たものでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/11/17 -
01470 PFG00017 半月城 RE:サハリン韓国人は強制連行の被害者?
( 7) 96/11/17 23:29 01126へのコメント
前に予告したように順番をかなりさかのぼり、今まで保留にしてきたサ
ハリン残留韓国人の問題について何回かに分けてコメントしたいと思います。
コメントはなるべく歴史的な時間の流れに沿って詳細に書くことにします。
下落合さん、#1126
> 官あっせんの実施は1942年2月のことですから、それ以
>前の渡航者はすべて自由意志ということになります。
戦前、韓国人の来日の形態は下落合さんが書かれた「官斡旋」「徴用」の
他に、1939年に始まった「募集」と呼ばれた時期があったのはご存じのこ
とと思います。実はこの時期から日本政府はかなり関与していたようです。今
回はそのあたりの事情を書きたいと思います。
日本政府は「募集」以前は朝鮮人を満州や北朝鮮に工業開発のために移住
させたようでした。この方針は1934年「朝鮮人移住対策の件」として閣議
決定されました。これにより朝鮮人の内地への渡航は抑制されていました。
そうした風向きが、1937年、日中戦争の開始に伴い変わり始めました。
内地では炭坑や鉱山、ダムやトンネルなどの土建業界、今でいう3K職場では
人手不足が深刻でした。
とりわけ労働条件の悪い中小炭坑の人手不足は最悪で、山口県の中小炭坑
などは休業になることが憂慮されたくらいでした(日本鉱業新聞、1937.10.1)。
そうした情勢から、筑豊石炭鉱業互助会などは日中戦争開始直後から7回も朝
鮮人導入を陳情したくらいでした(「石炭鉱業互助会報」1939.11)。
こうした強い要請に応えて、1939年、日本政府は時局産業、特に鉱
山・土建業に朝鮮人を移入する「昭和14年度労務動員実施計画」を閣議で決
定しました。これに従い7月、厚生次官・内務次官は依命通牒「朝鮮人労務者
内地移住に関する件」で「朝鮮人労働者内地移住に関する事務取扱手続」およ
び「朝鮮人労働者募集要項」を各地方長官に通達しました。これが俗にいう
「募集」でした。
この通達に連動して、朝鮮総督府は従来の「労働者募集取締規則」(総督
府令第6号)の外に、政務総監が「朝鮮人労働者内地移住に関する件」と題す
る通達を各道(県に相当)に送り朝鮮人の集団連行に協力を命じ、あわせて
「朝鮮人労働者募集並渡航取扱要項」を通知しました。
これを具体的にいうと、まず各企業は職業紹介所および道府県知事経由で
厚生省に朝鮮人労働者雇い入れを申請し、厚生省から許可を得ると、朝鮮総督
府に「募集」を申請して、そこで「募集」する道の指定を受け、さらに道では
郡の、郡では面の指定を受けて企業の代理人が「募集」を行いました(山田昭
次「隣国からの告発」創史社)。
ここで、こうした通達類などの話を長々と書いたのは、「募集」は今日の
企業の求人募集のように自由に行われたのではなく、いかに日本政府がコミッ
トしていたかを示し、あわせて実行段階で国家権力の介在を書きたかったため
です。
その例として、具体的に住友鉱業(株)を取り上げます。同社が39年の
「募集」にあたって作成した「半島人雇用に関する件」と題する文書には、
「募集は募集取締規則に基く各社の募集従事者による募集と言うことになって
居るが、実務は前記事由(労務動員遂行のこと、引用者注)により朝鮮官憲に
よって各道各郡各面に於て強制供出する手筈になって居る。即ち警察に於て割
当数を必ず集める。之を各社の募集従事者が詮衡することになって居る」と記
されています(朴慶植「朝鮮問題資料叢書」第1巻、アジア問題研究所)。
ただし、このように関係者をスムースに動かすためにはそれなりの招待宴、
三菱鉱業労務係の言葉を借りれば「スペシアルサービス」の提供や「おみや
げ」などの接待攻勢は必要なようでした(石堂忠右衛門「朝鮮人労働者募集
誌」)。
次に、注目すべきは行政末端の巡査の存在です。筑豊麻生炭坑の募集係の
野見山はかって朝鮮で巡査をしていましたが、その役割を次のように回想しま
した。
「どの面に行っても面長より巡査が権力をもっており、それは私が勤めた
時も(と)一つも変わっちゃいない。募集する時は、面巡査を利用すれば確実
に集まると、今までの経験でわかりました」(林えいだい「消された朝鮮人強
制連行の記録」明石書店)。
このように巡査が実務面でかなりの力を発揮できたのは、それなりに民衆
に密着していたからでした。当時の日本人警察官は驚いたことに、8割までが
一般の朝鮮人と対話ができました(梶井渉「朝鮮語を考える」龍渓舎)。
このように朝鮮語が通じたのは朝鮮総督府が日本人警察官には朝鮮語の定
期試験を課し、成績優秀者には1円から20円の通訳手当、もしくは5円から
50円の奨励手当が支給するなどの優遇策を講じていたからでした(朝鮮総督
府警務局「朝鮮警察の概要」,1927)。
このような末端の巡査の積極的な活躍があったればこそ、朝鮮語や朝鮮の
事情にうとい内地企業の募集係でも容易に人集めが可能なのでした。巡査は面
事務所員と共に各農家をまわり人集めに奔走しました。
当時の農家は貧困にあえいでいましたので、なかには抵抗なく募集に応じ
た人ももちろんいたと思われます。当時の農民がいかに困窮状態にあったかを
知る資料として、31年、宇垣朝鮮総督が天皇に拝謁し語った下記の朝鮮統治
基本方針が一例としてあげられます。
その一は、内地人と朝鮮人との融合一致、いわゆる内鮮融和に関しさらに
大いに歩を進めるべく努力致したく考えております。
その二は、朝鮮人に適度にパンを与うることであります。朝鮮の富は併合
以来非常に増加していますけれども、朝鮮の富が増加している割合には朝鮮人
の富は増設致しておりません。今日なお生活苦に呻吟しておるものが相当多数
存在致しております。
このように、農民は適度に「パン」を与えられていない困窮状態に加え、
官憲の強要とあればほとんど服従せざるを得なかったものと思われます。
なお、「労働者取締規則」は40年1月に廃止され、代わりに「朝鮮職業
紹介令」が公布され、朝鮮での職業紹介事業は日本政府管掌となり、その基本
的性格が失業対策から朝鮮労働者の軍事的統制・配置目的に切り変えられまし
た。また同時に、朝鮮人連行業務が従来の警務所管から内務所管に移し変えら
れました。これは警察がこの連行に関係しなくなったことを意味するのではな
く、より多くの労働力動員のための処置でした(朴慶植「朝鮮人強制連行の記
録」未来社)。
さらに、京城(ソウル)・釜山など6ヶ所の職業紹介所が国営に移され直
接「募集」業務にあたることになりました。さらに「募集」体制強化のために、
朝鮮総督府は翌41年6月、同府内に「朝鮮労務協会」を設立しました。
以後は、同協会が総督府と一体となって「募集」を行い、隊単位で「応募
者」を事業主に引き渡す業務を行いました。こうした国家体制のもとに「募
集」による集団連行は約15万人に達しました。これは認可数20万人の75
%でした。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。