半月城通信
No. 23


  1. 「従軍慰安婦」52 インドネシアの「従軍慰安婦」
  2. 植民地・朝鮮の憲兵警察
  3. 産米増殖計画
  4. RE:サハリン韓国人は強制連行の被害者?
  5. 面長は旧両班?
  6. 「官あっせん」および「徴用」


「従軍慰安婦」52 文書名:[zainichi:973]インドネシアの「従軍慰安婦」 Message-Id: <9611172252.OAA07371@hopemoon2.lanminds.com> Date: Sun Nov 17 14:52:07 1996 Reply-To: > 【シンガポール15日時事】インドネシアの有力紙コンパスが十五日報じた >ところによると、同国のインタン社会相は、第二次大戦中に旧日本軍の従軍 >慰安婦となったインドネシア人女性に対し、日本政府が社会生活支援金とし >て来年から十年間に総額三億八千万円を支給すると述べた。 SON>・半月城さん、これってどういうことですか? SON> 「補償金」でなく「社会生活支援金」だと出すの...? SON> なんか言葉遊びみたいですね。   私もよくわかりませんが、この社会生活支援金とは、日本が急遽アジア女性基金の 「上乗せ分」として構想した出資金のことではないでしょうか。アジア女性基金は受取 人が5人と少なく、評判が悪かったので、増額の意味あいで政府が出資することにした お金が生活支援金などです。   アジア女性基金の支給対象は今のところ韓国、台湾、フィリッピンに限られており 、インドネシアの「従軍慰安婦」はほとんど無視されてきました。インドネシアでは名 乗り出ている「従軍慰安婦」が2万人と多く、仮にその20分の1の1000人が認定 されたとしても20億円必要でアジア女性基金が集めた数億円ではとても支払いきれま せん。したがってインドネシアの場合、アジア女性基金による解決は不可能といえます 。   そのためかアジア女性基金ではインドネシア「従軍慰安婦」の認定作業を行おうと する気配もみられません。これはアジア女性基金の支給をインドネシアには行わず、日 本政府の「上乗せ金」だけで済まそうとする考えなのでしょうか?   もしそうであるとすると、日本は「従軍慰安婦」を国籍により差別することになり 、新たな批判を招きそうです。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/11/24 - 01522/01523 PFG00017 半月城 植民地・朝鮮の憲兵警察 ( 7) 96/11/24 17:43 01418へのコメント   たまには私も横レスで失礼します。 SKさんは植民地時代の朝鮮の警察と憲兵について、「憲兵とは兵士の犯罪を 取り締まるためのもの」と書かれていましたが、このような日本内地の「常 識」が必ずしも通用しないのが植民地です。   植民地・朝鮮では軍政がしかれ、議会もなければ憲法もありませんでした。 その軍政下で、日本内地では信じがたいことが行われていました。憲兵警察制 度もその一つです。それを紹介します。   1910年、日本は朝鮮を併合し、憲兵と警察とを統合した「憲兵警察制 度」をしきました。具体的には、将官である憲兵隊司令官が警務総長に、佐官 である憲兵隊長が各道警務部長に、憲兵将校が警視に、憲兵下士が警部に任命 されるという特殊な治安機構が明石元二郎によって作られました。   そのいきさつを、渡部学氏は「朝鮮近代史」(剄草書房)で次のように述 べています。         ーーーーーーーーーーーーー   このように巨大な、そして特殊な治安機構は、前章においてみたように、 全朝鮮民族の激しい抵抗運動に対する、日本の支配者の恐怖のなかから生まれ たものであり、むしろ日本帝国主義の相対的弱さの反映であった。それはこの 憲兵警察制度(1910年6月)の創始者、明石元二郎が、義兵闘争や愛国啓 蒙運動に立ち上がった朝鮮人約2万人の生命を奪いながらその制度を確立して 行ったことからも了解することができる。弾圧者として、明石は朝鮮民族の抵 抗のエネルギーを、誰よりも深く思い知らされていた。         ーーーーーーーーーーーーー   併合に先立つ1906年、日韓協約(保護条約)を強いた伊藤博文が安重 根により暗殺された教訓から、総督府は治安維持には相当神経質になっていま した。そのため、憲兵には絶大な権限を与え、軍事警察事務や普通警察事務の ほかに次のような任務まで与えました(小森徳治「明石元二郎」)。  諜報の収集、暴徒の討伐  将校下士(警視・警部)の検事事務代理、犯罪の即決  民事争訟の調停、執達吏の業務、国境税関の業務  山林監視、民籍事務(戸籍吏の事務)  外国旅券、郵便護衛、旅行者の保護  種痘、屠獣の検査、輸出牛の検疫  雨量の観測、水位の測量  海賊及び密漁船密輸入の警戒取締即ち警備船に関する業務  害獣の駆除、墓地の取締  労働者取締、在留禁止者の取締  日本語の普及、植林農事の改修  国庫金及び公金の警護、副業の奨励  法令の普及、納税義務の諭旨   憲兵がいかに朝鮮人の生殺与奪権を握っていたとはいっても、雨量の観測 までやっていたとは信じがたい話です。戦時中は天気予報も軍事機密だったの で、この類推で理解するしかありません。   さて、上記のように大変な業務をこなす憲兵警察の人員配置は次のような 具合でした。   憲兵警察機関       1624ヶ所                         朝鮮人の数  憲兵将校(警視兼務)       96人     ー  下士・準下士官(警部)     323人     ー  憲兵上等兵         2,525人     ー  憲兵補助          4,749人     全員  警視               35人     1人  警部              223人   100人  巡査            2,321人   100人  巡査補           3,019人     全員   憲兵政治の猛威を物語る一例として連帯責任があげられます。ある村で軍 律違反者がでた場合は全村民に責任を負わせ、「加害者拿捕せられざる場合に は」村長を首座とする村の主だった者を「笞罰又は拘留に処す」、「拘留中の 寝具及食物は本人の自弁とす」という規定でした(山辺健太郎「日帝統治下の 朝鮮」岩波新書)。   違反者の代わりに村長をムチ打つというのも信じがたい話です。こうした ムチ打ちは朝鮮人の憲兵補助員により行われたのでしょうが、虎の威を借りる 憲兵補助員は民衆の怨念の的でした。   この憲兵補助員は義兵闘争が下火になるにつれ次第に整理されていきまし た。また、憲兵政治そのものも1919年、3.1独立運動を機に「武断政 治」とともに廃止になりました。武力だけでは植民地を統治できないことがは っきりしたからでした。この時、官吏や教員の制服帯剣なども廃止されました。   憲兵警察制度から普通警察制度に転換後は、「独立騒擾」再発防止のため に治安機構の大幅拡充が図られました。その数は          改正前      改正後  憲兵機関数  1,073    2,784  警察機関数    755    1,806   警官1人あたりの人口に換算すると728名(1923年)になります。 日本内地と比較すると、北海道940名、他は1150名なのでいかに警官が 多く配置されているかがわかります。これはそれだけ3.1独立運動が激しか ったことを物語っています。その後も警察機関は増え続け、1927年には2 736ヶ所に増大しました。   この増大により警務費用も3倍になり、総督府財政の1割を占めるように なりました。このほか日本内地同様に特高警察や、司法制度改善により思想判 事、思想検事なども設けられました。こうしてみると、力による治安維持はむ しろ「武断政治期」より「文化政治期」のほうが強化されたくらいでした。   おわりに、河原さんに質問ですが「当時の巡査の半数近くは朝鮮人だった のですから」とされていますが、この出典を教えていただけないでしょうか?   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01523/01523 PFG00017 半月城 産米増殖計画 ( 7) 96/11/24 17:44 01493へのコメント   河原さんのコメントにかなり気になるところがありますので、それに対す る反論を書きたいと思います。   #1493,河原さん >つまり、日本人に土地を奪われた朝鮮人農民は、その絶対的な窮乏化のため >に故郷を捨てなければならなかったのだと主張するのです。 >だが、この主張では、36年間の「日帝支配」のあいだに、人口が1300 >万人から2500万人に倍増していることを説明できません。 >人口増加は朝鮮の人たちにとって朝鮮王国時代よりも、「日帝支配」時代の >方が生活しやすくなったからと考える方が自然でしょう。   人口が倍増したからといって、それだけで生活しやすくなったと考えるの は少し短絡的ではないでしょうか。私はもう少しきちんとした検討を行いたい と思います。その手法として、河原さんが#1493のタイトルを「必要なの は朝鮮と内地の比較」としているので、ひとまずこの趣旨にそって検証するこ とにします。ここでは、こうした視点は外国人にも必須なのかどうかといった 議論はひとまず脇に置くことにします。   当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と 思われます。米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べ ることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバ ロメータになるので、この統計をみることにします。          朝鮮の米穀輸出・消費量 年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た     (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石) 1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068 1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126 1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118 1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100 1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122 1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131 1928 | 7,405 | 0.5402 1.129 '31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)* 資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし   *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版   この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加 にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、 植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。 これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定さ れました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。   日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢 性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。それに加え、タ イなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。   こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し 「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億85 00万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石 の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。 朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道 や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしん りき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さら に栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しまし た。    こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、か の江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考え をある程度私も認めたいところです。    しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消 費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。    そうした歴史を、数年前の米騒動の時、NHKがTV番組「米に揺れた 日韓近代史」と題して放映していました。番組では産米増殖計画の歴史的背景 や実施状況などをつぶさに検討し、あわせてこの政策を直接体験した農家の窮 状を具体的に紹介していました。   それによると、農民が秋に米を70俵収穫しても、水利税や肥料代なども ろもろ差し引かれ手元には2割の15俵くらいしか残らないそうでした。    しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人 は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうで した。    これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の 中に埋めたり隠したりするのですが、冷酷な借金取りもさるもの、鉄棒で地面 をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。    このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本 の農家をも苦しめました。安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内 地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の 身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。   番組はここで終わりましたが、こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民 は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放 さざるを得ませんでした。その実体を表すのが次の表です。これは米どころの 全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でど のように変化したかを示すものです。           全羅北道、五水利組合の土地移動                        (単位は町歩)       日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計  1920年    3,674    4,181    2,694    10,549  1931年    8,999    3,545    7,292    19,836 (東畑精一「朝鮮米穀経済論」)   この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを 含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を 総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。   この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍 増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年に かけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大し ました。   灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配 者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていった のが植民地の現実でした。こうした背景を考えると、宇垣総督が天皇に述べた 朝鮮統治の次の基本方針はなかなか味わい深いものがあります。  「その二は、朝鮮人に適度にパンを与うることであります。朝鮮の富は併合 以来非常に増加していますけれども、朝鮮の富が増加している割合には朝鮮人 の富は増設致しておりません。今日なお生活苦に呻吟しておるものが相当多数 存在致しております」   この「朝鮮人に適度にパンを与える」発想は、江戸時代の「百姓は生かさ ず殺さず」という考えから来たものでしょうか。    http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/11/17 - 01470 PFG00017 半月城   RE:サハリン韓国人は強制連行の被害者? ( 7) 96/11/17 23:29 01126へのコメント    前に予告したように順番をかなりさかのぼり、今まで保留にしてきたサ ハリン残留韓国人の問題について何回かに分けてコメントしたいと思います。 コメントはなるべく歴史的な時間の流れに沿って詳細に書くことにします。   下落合さん、#1126  > 官あっせんの実施は1942年2月のことですから、それ以  >前の渡航者はすべて自由意志ということになります。   戦前、韓国人の来日の形態は下落合さんが書かれた「官斡旋」「徴用」の 他に、1939年に始まった「募集」と呼ばれた時期があったのはご存じのこ とと思います。実はこの時期から日本政府はかなり関与していたようです。今 回はそのあたりの事情を書きたいと思います。   日本政府は「募集」以前は朝鮮人を満州や北朝鮮に工業開発のために移住 させたようでした。この方針は1934年「朝鮮人移住対策の件」として閣議 決定されました。これにより朝鮮人の内地への渡航は抑制されていました。   そうした風向きが、1937年、日中戦争の開始に伴い変わり始めました。 内地では炭坑や鉱山、ダムやトンネルなどの土建業界、今でいう3K職場では 人手不足が深刻でした。   とりわけ労働条件の悪い中小炭坑の人手不足は最悪で、山口県の中小炭坑 などは休業になることが憂慮されたくらいでした(日本鉱業新聞、1937.10.1)。 そうした情勢から、筑豊石炭鉱業互助会などは日中戦争開始直後から7回も朝 鮮人導入を陳情したくらいでした(「石炭鉱業互助会報」1939.11)。   こうした強い要請に応えて、1939年、日本政府は時局産業、特に鉱 山・土建業に朝鮮人を移入する「昭和14年度労務動員実施計画」を閣議で決 定しました。これに従い7月、厚生次官・内務次官は依命通牒「朝鮮人労務者 内地移住に関する件」で「朝鮮人労働者内地移住に関する事務取扱手続」およ び「朝鮮人労働者募集要項」を各地方長官に通達しました。これが俗にいう 「募集」でした。   この通達に連動して、朝鮮総督府は従来の「労働者募集取締規則」(総督 府令第6号)の外に、政務総監が「朝鮮人労働者内地移住に関する件」と題す る通達を各道(県に相当)に送り朝鮮人の集団連行に協力を命じ、あわせて 「朝鮮人労働者募集並渡航取扱要項」を通知しました。   これを具体的にいうと、まず各企業は職業紹介所および道府県知事経由で 厚生省に朝鮮人労働者雇い入れを申請し、厚生省から許可を得ると、朝鮮総督 府に「募集」を申請して、そこで「募集」する道の指定を受け、さらに道では 郡の、郡では面の指定を受けて企業の代理人が「募集」を行いました(山田昭 次「隣国からの告発」創史社)。   ここで、こうした通達類などの話を長々と書いたのは、「募集」は今日の 企業の求人募集のように自由に行われたのではなく、いかに日本政府がコミッ トしていたかを示し、あわせて実行段階で国家権力の介在を書きたかったため です。   その例として、具体的に住友鉱業(株)を取り上げます。同社が39年の 「募集」にあたって作成した「半島人雇用に関する件」と題する文書には、 「募集は募集取締規則に基く各社の募集従事者による募集と言うことになって 居るが、実務は前記事由(労務動員遂行のこと、引用者注)により朝鮮官憲に よって各道各郡各面に於て強制供出する手筈になって居る。即ち警察に於て割 当数を必ず集める。之を各社の募集従事者が詮衡することになって居る」と記 されています(朴慶植「朝鮮問題資料叢書」第1巻、アジア問題研究所)。   ただし、このように関係者をスムースに動かすためにはそれなりの招待宴、 三菱鉱業労務係の言葉を借りれば「スペシアルサービス」の提供や「おみや げ」などの接待攻勢は必要なようでした(石堂忠右衛門「朝鮮人労働者募集 誌」)。   次に、注目すべきは行政末端の巡査の存在です。筑豊麻生炭坑の募集係の 野見山はかって朝鮮で巡査をしていましたが、その役割を次のように回想しま した。   「どの面に行っても面長より巡査が権力をもっており、それは私が勤めた 時も(と)一つも変わっちゃいない。募集する時は、面巡査を利用すれば確実 に集まると、今までの経験でわかりました」(林えいだい「消された朝鮮人強 制連行の記録」明石書店)。   このように巡査が実務面でかなりの力を発揮できたのは、それなりに民衆 に密着していたからでした。当時の日本人警察官は驚いたことに、8割までが 一般の朝鮮人と対話ができました(梶井渉「朝鮮語を考える」龍渓舎)。   このように朝鮮語が通じたのは朝鮮総督府が日本人警察官には朝鮮語の定 期試験を課し、成績優秀者には1円から20円の通訳手当、もしくは5円から 50円の奨励手当が支給するなどの優遇策を講じていたからでした(朝鮮総督 府警務局「朝鮮警察の概要」,1927)。   このような末端の巡査の積極的な活躍があったればこそ、朝鮮語や朝鮮の 事情にうとい内地企業の募集係でも容易に人集めが可能なのでした。巡査は面 事務所員と共に各農家をまわり人集めに奔走しました。   当時の農家は貧困にあえいでいましたので、なかには抵抗なく募集に応じ た人ももちろんいたと思われます。当時の農民がいかに困窮状態にあったかを 知る資料として、31年、宇垣朝鮮総督が天皇に拝謁し語った下記の朝鮮統治 基本方針が一例としてあげられます。   その一は、内地人と朝鮮人との融合一致、いわゆる内鮮融和に関しさらに 大いに歩を進めるべく努力致したく考えております。   その二は、朝鮮人に適度にパンを与うることであります。朝鮮の富は併合 以来非常に増加していますけれども、朝鮮の富が増加している割合には朝鮮人 の富は増設致しておりません。今日なお生活苦に呻吟しておるものが相当多数 存在致しております。   このように、農民は適度に「パン」を与えられていない困窮状態に加え、 官憲の強要とあればほとんど服従せざるを得なかったものと思われます。   なお、「労働者取締規則」は40年1月に廃止され、代わりに「朝鮮職業 紹介令」が公布され、朝鮮での職業紹介事業は日本政府管掌となり、その基本 的性格が失業対策から朝鮮労働者の軍事的統制・配置目的に切り変えられまし た。また同時に、朝鮮人連行業務が従来の警務所管から内務所管に移し変えら れました。これは警察がこの連行に関係しなくなったことを意味するのではな く、より多くの労働力動員のための処置でした(朴慶植「朝鮮人強制連行の記 録」未来社)。   さらに、京城(ソウル)・釜山など6ヶ所の職業紹介所が国営に移され直 接「募集」業務にあたることになりました。さらに「募集」体制強化のために、 朝鮮総督府は翌41年6月、同府内に「朝鮮労務協会」を設立しました。   以後は、同協会が総督府と一体となって「募集」を行い、隊単位で「応募 者」を事業主に引き渡す業務を行いました。こうした国家体制のもとに「募 集」による集団連行は約15万人に達しました。これは認可数20万人の75 %でした。   http://www.han.org/a/half-moon/     半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01585/01585 PFG00017 半月城 面長は旧両班? ( 7) 96/12/01 09:39 01493へのコメント   河原さん、#1493 >なお、半月城さんは触れておられませんが、当時の朝鮮の面(村)にあって >は面長の権力は絶対でした。なぜなら、面長のほとんどは旧両班だったから >です。奴隷制度のあった朝鮮王国時代には、常民に対してさえ絶対的な存在 >であった彼らは、日本の統治下になってまだ30年にならないこの頃には支 >配力はあまり衰えていなかったと思います。ましてや奴婢(奴隷)であった >人たちは逆らうことができなかったでしょう。   面長はほとんど旧両班(朝鮮人)であったというコメントですが、この出 典を教えていただけないでしょうか。 別な資料では、面長はだいたい日本人であったとされています。たとえば 常磐炭坑の一労務係は次のように「募集」について証言していますが、その中 で、「面長は大概日本人」であったと回想しています。 「朝鮮人労務者は南鮮しかいないんですね。北鮮は工業地帯だからほとん どいない。すると南鮮では各道の道庁に常磐炭坑から何名ほしいからよこせと 行く。と、道庁ではどこの郡に一番遊んでいるのがいるかを知っているので郡 に行く。郡から又村(面ということです)に夫々お前の所から何名というよう に命令する。すると、面長さんは大概日本人なんです。すると面長は責任を以 って(ママ)強制的に何月何日までにその人数をかりたてるんです。その家の 長男であろうが何がかまわない。それでこちらから日本の募集人が募集の書類 を持っていくと絶対です。募集係はそれを引率するだけです。ただ途中汽車か ら飛び降りるのが多くてね。そういうわけだから集まるわけです」 (日本炭坑労働組合運動史編纂委員会「戦前から昭和二四年春までの常磐 地方並びに全国的な炭坑労働運動」(1958年)   http://www.han.org/a/half-moon/     半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/12/01 - 01584/01585 PFG00017 半月城 「官あっせん」および「徴用」 ( 7) 96/12/01 09:39 01126へのコメント  前回、「募集」による集団連行について書いたのに続いて、今回は「官斡 旋」および「徴用」についてふれたいと思います。   1941年、太平洋戦争の開始とともに、日本内地での労働力不足がます ます深刻になりました。その不足分を朝鮮からの労働力で補うわけですが、日 本政府・企画院は1942年度「労務動員計画」で必要な朝鮮人労働者の供出 を13万人とはじきだしました。   これだけの人数を集めるのは容易ではありません。それまでの「募集」方 式では困難が予想されました。「募集」に対する朝鮮人の拒否が年々激しくな っていたからです。そこで朝鮮人労働者の連行をさらに組織的、効率的なもの にするために、日本政府は42年2月、閣議で「半島人労務者活用に関する方 策」を決定しました。   これを受けて、朝鮮総督府は「鮮人内地移入斡旋要項」を定め、集団連行 を制度化しました。これが「官斡旋」と呼ばれるもので、既存の総督府・朝鮮 労務協会が中心になり、地方官庁・警察なども積極的に動き、割り当ての朝鮮 人徴集を行いました。   下落合さん、#1126   > 官あっせんの募集でも、強制があったというこという   >説がありますが、その実態は今でもよくわかっていませ   >ん。 ただ、応募の段階で仮に強制があったとしても、   >雇用主は企業ですから、徴用者のような強制力があった   >わけではなく、また奴隷労働のようなものでもありません。   このような意見がある一方、官斡旋や徴用を暴力的な強制連行・強制労働 ととらえる人など、その評価は人によりさまざまです。  数年前、NHK・TVが官斡旋、徴用の実体調査を具体的に行いました。 その模様は93年8月、「朝鮮人強制連行、6万7千人の名簿から」と題して 報道されました。   6万7千人の「名簿」とは1946年、厚生省勤労局が作成した「朝鮮労 働者に関する雇用調査」を、日本政府が強制連行の資料として韓国政府の求め に応じて提出したもので、その後、在日本大韓民国民団(通称、民団)に渡さ れました。それをNHKと一橋大学・姜徳相教授がコンピューターで分析しま した。   この資料は斡旋・徴用など連行方法の分類を始めとして、名前、本籍、事 業所名、未払い賃金・退職金の額、厚生年金額などが細かく記されている貴重 なものでした。   これに基づいて、NHKは具体的に韓国南部の咸安郡出身者について現地 調査をしました。それによると、この郡からの「官斡旋」および「徴用」によ る連行者は115人で、このうち9人が現地に生存していることが判明しまし た。この9人のうち8人までが、銀山で名高い三菱鉱業・生野鉱山で働いてい ましたが、そのなかの3人の証言を番組で次のように紹介していました。 朴キョンスル氏   村に二人の(官あっせん)割り当てが来た。これに応じると農業がだめに なるので誰も行きたがらなかった。仕方なしに皆でクジを引いた。その結果、 自分がその一人に決まった。 チョウ・チョンギュ氏   新婚一年のある晩、二人の警官に連れて行かれた。(生野)鉱山ではラン プを落としたため、ひどく殴られ耳が聞こえなくなってしまった。   奥さんは「日本人を斬りつけたかった」ほど憎かったとのこと。 宋允鎬氏   23才の時、区長(?)に日本へ行かないかと誘われた。迷っていると 「いま行かないと、次は強制的に連行されひどいことになる」といわれたので 応じた。   咸安郡からは100人が20人ずつの隊になり、労務係に率いられ連れて いかれた。生野鉱山では事故が多く半年でかなりの人が死んだ。その事故の存 在や処理について会社は一切皆に知らせなかったので、うわさで聞くのみであ った。 飯場は監視され外出の自由はなかった。また一日の休みも与えられなかっ た。賃金は一日2円だったが食事代や強制預金など差し引かれ、ほとんどお金 はもらえなかった。そのうえ食事はひどく、いつも空腹に苦しんだ。さらに仕 事が苛酷なので逃亡者が多かった。ただし見つかると皆の前で見せしめにとこ とん殴られた。   さて、宋氏の証言にある逃亡者ですが、厚生省の名簿には「逃亡」の記述 欄があり、それによると生野鉱山では何と労働者の58%、574名が逃亡し ていました。生野鉱山は逃亡がしやすかったのでしょうか。それとも地獄のよ うなところだったのでしょうか。驚くべき数字です。名簿全体では6万7千名 中28.5%という高率で逃亡者が出ていました。   宋さんもその一人でした。しかし逃亡はしてみたものの警察などの追求が 厳しく故郷には帰れず、結局は京都の他の鉱山で働くことになりました。 上記名簿の28.5%という逃亡率はかなり高く、にわかに信じがたいの で他の資料もあたってみました。それをまとめると次の表のようになります。      資料名     逃亡率    逃亡者数     期間 資料1.内務省調査    30%    109,185    ? ー43年6月 資料2.高等外事月報  33.6% 260,452  39年ー43年 資料3.法務省資料  (30.7%) 222,225  39年ー45年3月 資料4.公安調査庁  (31.3%) 226,497  39年ー45年3月   上の表でカッコ内の比率は、連行総数を724,787人として私が割り 出した数字です。逃亡者数は資料により少しばらつきはありますが、逃亡率は 大体30%と高率であることは間違いないようです。   このように高率になった逃亡の原因を意外にも日銀が調査していました (資料5)。それによると、原因はやはり劣悪な食事や労働の厳しさにあるよ うでした。   逃亡すると強制預金はもちろんフイになるばかりか、宋さんが証言したよ うに捕まれば半殺しの運命が待っていました。   逃亡者に対するリンチは警察の資料からも裏付けられます。一例として、 サハリンの事件を内務省警保局「特高月報」(43年8月)が下記のように記 録していました。 「内地人労務係員等五名にて、逃走移入労務者二名を、隊員一同の面前に て私刑を加え、更に梁につり下ぐる等なし、一名を致死せしめ、他の一名に重 傷を加えたり。本件を見聞する同僚隊員は内地人労務係員等に死体の引渡方を 要求したるも、遁辞を弄して渡さざるより翌日一同にて事務所へ殺到、右幹部 等に対し、夫々全治十日乃至四十日の傷害を与えたり。関係者検挙取調中」   このリンチ殺害時件は、サハリンのタコ部屋で起きましたが、これを筑豊 出身のノンフィクション作家・林えいだいさんが現地調査し、次のように関係 者の証言を得ました。少し長くなりますが、強制労働の実態を知る上に貴重な ので引用します(証言・樺太朝鮮人虐殺事件、風媒社)。            ---------------------   (中蘇離散家族会)総会が終わると、朴相奎は私の席に来ると、息も切ら ずに暴動のいきさつを話し始めた。   慶尚南道咸陽郡石ト面出身の彼は、1943年5月、慶尚南道出身の43 0人と一緒に、関釜連絡船の金剛丸で下関に着いた。樺太の久春内(イリイン スク)に着いたのは、雪解けも終わりの春の植物がいっせいに芽を吹く頃だっ た。   珍内の渡辺組本部に数日いて、船で北上すると北小沢(テリノフスキー) に着いた。        (途中略)   一日の食事は粗末なものばかり。米粒はほんのわずかで、フキとか大豆粕 ばかりだった。昼は馬鈴薯の煮付け、夜はニシンの小間切れと海水の汁がある だけ。弁当を渡されると、仕事に行く前に食べてしまい、満足感だけを味わっ た。昼になると、休み時間の数分間を惜しむように寝た。   渡辺組の下請けの金山飯場は、炭坑関係の道路工事が主だった。一班10 人の現場であるが、一人病人が出ると、その分のノルマが命令された。冬の寒 さと雨期の土方工事は健康な者でも生やさしいものではない。ぬかるみの中を モッコを担ぐと足がすべり、体は前には進まないのだ。古参者は肩の肉が盛り 上がり、かちかちに固まっている。朴相奎のようなはじめての経験者は、肩の 皮膚が破れて血が出ると、化膿しないように塩を塗って血止めをした。 12時間労働なので、タコ部屋に帰ると動けなくなり、体を横にして死ん だように眠りこけた。あまりにもきびしい労働と監視の目、自由が拘束される と、肉体はもちろんのこと精神的に参ってしまう。 第一、徴用されてきて、タコ部屋にいれられたことの不満が、全体にみな ぎっていた。 朴相奎の班の二人が、監視の棒頭の目を盗んで、便漕の中を泳いで渡り、 汲取口の蓋を開けて逃走した。うまくタコ部屋から脱走に成功したが、逃げる 途中に山の斜面で転んだ。そのはずみで石が落ちて、山小屋の番小屋を直撃し た。その音で見張り人が目を覚まして、金山飯場に電話連絡した。夜が明ける 頃、銃を持った五人の棒頭が、セパードを連れて山狩りを始めた。   二人は棒頭に捕まえられた。割った薪の二人を正座させ、バンドで交代で 殴りつけた。そのうち二人はコンクリートの床に倒れ、素裸の背中にスコップ が振り降ろされた。 「ひえーっ、ひえーっ!」   殴られる度に悲鳴を上げていたが、そのうちぐったりとして意識を失った。 打たれた瞬間だけ、皮膚がぴくっと痙攣した。 棒頭は二人の足をロープで結ぶと、天井の梁に逆さ吊りした。さらに手と 腕を縛りつけた。頭が下になっているので血が逆流した。スコップで叩いて気 絶すると水をかけるので、体を縛ったロープがしめつけた。   そのうち一人は死んでしまい、もう一人は息絶え絶えに、タコ部屋に放り 込まれた。 「お前たちも、ここから逃げたらこうなるんだぞ。よう見とけ!」 棒頭は叫んだ。 (この虐殺に憤った「移入労務者」たちは、人殺しの棒頭たちを襲い「暴動」  をおこしました。その経過は省略します) 三日後、北小沢署の取り調べが始まった。 「お前はどうして暴動を起こしたのか? 何か不満でもあるのか?」   「はい、あれは暴動というものじゃありません。飯も十分食べさせないで 働かせるばかり、約束した賃金も払いません。毎日のように虐待されてそれが 恐ろしいから逃げたんです。誰だってあんなひどいことをされたら逃げますよ。 ただ仕返しがあるから我慢している。第一、徴用された朝鮮人をタコ部屋にい れることがおかしい。勝手に皇国臣民を殺していいのでしょうか?」 筋道立てていわれると、警官は返す言葉がない。徴用された朝鮮人を、タ コ部屋で使っていることを知りながら、それを黙認した警察の責任問題もあっ た。取り調べが終わると、朴相奎たち13人だけが、首謀者ということで逮捕 された。 数日後、豊原(ユジノサハリンスク)裁判所から判事と検事が来て、出張 裁判が始まり、金山組の幹部が三年から四年の判決を受けた。 裁判が終わると、恵須取(ウグレゴルスク)憲兵分隊長が来て、全員を広 場に集めた。 「お前たちは、この戦争の真っ最中に、こんな騒ぎを起こしやがって、何 ということだ。皇国臣民として、天皇陛下に申し訳ないと思わないのかっ。暴 動の罪で全員を処刑してもいいが、今は内恵道路の工事を急いでおる。 今日からお前たちの身柄は、憲兵隊で預かることにする。いいかっ!」 軍刀を抜くと、力いっぱい土に突き刺した。(以下略)            ---------------------- 朴相奎氏たちは真岡(ホルムスク)警察署に送られましたが、結局は釈放 になりました。警察は強制送還するつもりでいたらしいのですが、強制送還す る船がなく運良く無罪放免になったようでした。   こうした反抗や抵抗は各地でありました。これらの事件はもちろん報道さ れることは決してありませんでした。わずかに「特高月報」に記録が残される のみでした。その一例として、1944年9月、樺太鉱業塔路炭坑では約3千 人の朝鮮人鉱夫がストライキをおこしました。   そして組織的に文書でもって炭坑側の対応を求めました。その要求事項に 「移入労務者」の不満が集約されていますので、それをみることにします。 1.(官斡旋)期間延長は朝鮮総督府に事業者側が提出した、期間約定に違反   しているから、絶対に承服できない。また、私信の往復をみとめよ。 2.期間満了者たちの職場転換、配置換えをしてはならない。 3.期間満了者たちの給与を速やかに精算し、国民貯金通帳を本人に渡し、往   復の旅費を規程に従い支払うこと。 4.飯場設備の改善、作業服の支給、食事の改善、休日の励行と自由行動の許   可、作業時間の短縮、病人に対する医療の改善、以上を契約通り実行する   こと。 最後の項目にある「作業時間の短縮」などは、現在の労働組合の要求など とタイトルは似ていますが中味は雲泥の差です。要求書の中に次のような理由 が添えられていました。   <理由> 入浴時間がたったの3分であるため、作業で汚れた身体を十分に洗うこと が出来ない。そのためシラミが増殖し、疲れを取るのに必要な安眠が出来ない。 休日にも残業をさせられるので、衣服の洗濯が出来ず、服はシラミで真っ 黒という不衛生きわまりない状態である。   よりによって炭坑の風呂が3分とは信じがたい話です。3分で皆をどうや って風呂から強制的にあげるのでしょうか? この文章を書くだけで体がムズ ムズしてきます。   一方、貯金通帳ですが、満期後の労働力確保のため、あるいは逃亡防止策 として通帳はどこでも本人に渡さなかったようです。そのため、ほとんどの人 はそれを受け取れないまま終戦になってしまい、結果的には未払い賃金として 残りました。 下落合さんは、サハリンに渡り成功して故郷に錦を飾った(?)人を強調 しておられますが、それはごく一部の人ではないでしょうか。多くの人は極寒 の地・サハリンで粗末な食べ物しか与えられず、重労働にあえぎ、賃金もろく にもらえず、しかも故郷へ帰る道を閉ざされたのではないでしょうか。この人 たちの悲惨な人生を思いやると、私はつい涙が出そうになります。 資料1.内務省警保局保安課「治安状況について」(1944年) 資料2.「高等外事月報」(1944年51号) 資料3.法務省入国管理局「数字からみた在日朝鮮人」(1953年) 資料4.公安調査庁「在日朝鮮人の概況」(1953年) 資料5.日銀調査局「最近の軍需産業に於ける労務構成について」     (1944年、すべての資料のカタカナは平仮名に変換) 「半島労務者は大体2カ年の契約にて挺身隊の形式を以て集団入鉱したる ものなるも戦局下石炭増産の要請の為、さらに1カ年の契約期間の更新を申渡 せる所、逃亡者続出の有様なり。逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌 避と外部よりの誘惑にして、彼等は食料の豊富なる職場を求め多少収益が減少 するも好んで自由労務者たらんとする傾向あり、最近は主として軍使用の各地 飛行場の土建労務者となり居れるが、斯る逃亡労務者は従前の同輩に対し手紙 にて更に誘惑する状態にて之が為満期後の半島労務者は動揺多し」    http://www.han.org/a/half-moon/    半月城


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