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01304/01304 PFG00017 半月城 日本軍と「従軍慰安婦」 (長文)
( 7) 96/10/23 22:41 01247へのコメント 「従軍慰安婦」46
朝賀さん、こんにちは。たいへんな会議室へようこそ。すぐにでもコメン
トを書きたかったのですが、順番のため遅くなりました。
さて、朝賀さんが確認されようとしたことがらに私なりの意見を書きたい
と思います。そのためには必然的に日本軍の過去をある程度明るみに出さざる
を得ません。そうした過去は、ここ4ー5年「従軍慰安婦」問題研究者の精力
的な調査により明らかになったものですが、そうした事実はここの会議室のア
クティブなメンバーにとってはあまりふれて欲しくないテーマかも知れません。
しかし、過去に何があったのかを正確に知ることは、ここの会議室のみな
らず、国際的に論議の的になっているクマラスワミ報告書をどのように受け止
めるかという点でとても重要です。すなわち今日の「海外政策」のあり方を考
える上で欠かせない作業であることは言うまでもありません。こうした見方か
ら過去の日本軍と「従軍慰安婦」を振り返ってみたいと思います。
#1247、
>・従軍慰安婦は存在した
>・慰安婦は当時の日本軍が直接または間接的に集めた
>・慰安婦の多くは強制的に集められた
>・女衒もしくは慰安婦に対して報酬を与えた
>・報酬は通貨ではなく、軍票によって支払われた
このうち、<慰安婦の多くは強制的に集められた>と、<女衒もしくは慰
安婦に対して報酬を与えた>については必ずしも簡単に断言できません。これ
については次回でも書きたいと思いますが、今回はその準備段階として軍の関
与がどの程度であったのかを中心に述べたいと思います。
この詳細を把握することは、永野元大臣の「慰安婦は当時の公娼であった」
という発言内容の真偽を確かめることにつながると同時に、論争中のクマラス
ワミ報告書を理解する一助になるのではないかと思います。
「従軍慰安婦」にたいする日本軍の関与のしかたは次のように3期に分け
られるのではないかと思います。
第1期 満州事変期 (31.9、柳条湖事件- )
第2期 日中戦争期 (37.7、廬溝橋事件- )
第3期 太平洋戦争期 (41.12真珠湾攻撃- )
現在知られている最初の軍慰安所は海軍により、上海事変(1932.1)直後に
設置されました。この海軍慰安所の存在は、日本の上海総領事館により38年
に公式に報告されました。
第1期では慰安所の数はまだそれほど多くありませんでしたが、それが1
937年の南京虐殺・強姦事件を契機に急増しました。そのあたりの事情を#
620から引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーー
このような(南京)大強姦事件は中国人や諸外国の対日感情を極度に悪
化させました。こうした国際世論を考慮したためと思われますが、同年12月
に中支那方面軍がその指揮下の上海派遣軍に対し、強姦対策を意識して「慰安
施設」を設置するよう指示を出しました。
同派遣軍では、参謀二課(後方担当)が案を作り、参謀の長中佐が「軍
慰安所」の設置にのりだしました。上村参謀副長の日記(28日)によれば「
軍隊の非違いよいよ多きが如し・・・南京慰安所について第二課案を審議す」
とあります。
南京占領が12月13日ですから、この時の日本軍の「非違」対策で南
京の軍慰安所が設置されたのは確かなようです。これ以降は「軍慰安所」は各
地で急増の一途をたどり、遊郭とは異質な存在になっていきました。
さらに「軍慰安所」が本格化するにつれ、慰安婦として日本人は「銃後
の憂い」を考慮して除外されるようになり、慰安婦は次第に朝鮮や台湾から
「調達」されるようになりました。
ーーーーーーーーーーーーーーー
このように方面軍指示により設置された軍慰安所は、当然ながら軍のコン
トロールが強かったのが特徴でした。たとえば38年1月、常州にふたつの軍
直営の慰安所が開設されましたが、そのひとつは「兵站の経営するもの」であ
り、もうひとつは「軍直(轄)部隊の経営するもの」でした(独立攻城重砲兵
第二大隊の万波蔀大隊長の「状況報告」)。
軍直営の慰安所に関する別な証言として、38年初め、上海の楊家宅にで
きた慰安所も軍直営であったと、慰安婦の性病検査を行った麻生徹男軍医は回
想に書いています(麻生、「上海から上海へ」)。
第2期では、中国での戦火の拡大とともに慰安所は急増し、それに伴い慰
安婦集めも本格化しました。この時期、慰安婦集めは次のような方法がとられ
ました(吉見著、「従軍慰安婦」、岩波新書)。
1.日本、植民地(朝鮮・台湾)での徴集
A.戦地に派遣された軍が、自分で選定した担当者または業者を送り込み
慰安婦を集めた。そのさいの業務の統制は、北支那・中支那・南支那各
方面軍の司令部が行うのが一般的であったが、時には、その指揮下にあ
った軍・師団・旅団・連隊などが行う場合もあった。
B.派遣軍からの要請を受けて、日本の内地部隊や台湾軍・朝鮮軍が業者
を選定し、その業者が慰安婦を集めた
2.占領地(中国本土)での徴集
軍が直接指揮をとった。たとえば、台湾第48師団が41年に福州を
占領したとき、師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を指示した。これ
うけて兵站部は福州憲兵隊の兵長に協力を求め、市内の有力者を使い女
性たちを集めさせた。
この時期、慰安婦集めはややもすると度が過ぎたようで、派遣軍が選定し
た業者が時には誘拐まがいの方法で募集を行いました。
このような不祥事が続けば、日本軍に対する日本国民の信頼が崩れること
を恐れた陸軍省副官は重要な通牒を出しました。その通牒で各派遣軍は徴集業
務を統制し、業者の選定をしっかり行うよう命じました。具体的には、徴集の
際、業者と地元の警察・憲兵との連携を密接に行うよう命じました(注1)。
この通牒は兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁しました。同次官
はのちに戦艦ミズーリーで降伏文書に署名した軍部の超エリートです。なお、
この通牒の最後には「依命通牒す」とあり、杉山陸軍大臣の委任を受けて発行
されました。
日本政府の認識を決定的に変えさせたこの資料は、「従軍慰安婦」の必要
性自体を暗示していますが、この当時、陸軍省は「従軍慰安婦」の果たす「役
割」を高く評価していました。その認識にたち、慰安婦の意義を説く教育参考
資料「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」を各部隊に配布しました。
その内容は、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放
火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている
ものです(注2)。
第3期になり、戦線が拡大し「慰安婦」の需要が増すと、陸軍省は従来派
遣軍にまかせていた軍慰安所の設置をみずからも手がけ始めました。1942
年9月3日の陸軍省課長会報で、倉本敬次郎恩賞課長は「将校以下の慰安施設
を次の通り作りたり」としてその結果を報告しました。それによると、設置さ
れた軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、
樺太10、計400ヶ所でした。
軍慰安所設置を「恩賞課」が行ったとは意外ですが、これは42年3月に
陸軍省官制が一部改正され、軍人の「厚生に関する事項」を恩賞課が担当する
ことになったからでした。さらに、陸軍省は軍慰安所の設置のみならず、「従
軍慰安婦」や斡旋業者のの渡航を軍の一元管理下に置きました。
旅券を発給する立場の外務大臣は「此の種渡航者に対し、(旅券を発給す
ることは面白からざるに付)、軍の証明書に依り(軍用船にて)渡航せしめら
れ度し」として完全に手を引きました(「南方方面占領地に対し慰安婦渡航方
の件」、カッコ内は二重線による抹消部分)。
この事実を具体的に裏付ける資料として、台湾軍が南方軍の求めにより
「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書(注
3)なども発見されました。この申請はもちろん許可され実行にうつされまし
た。
陸軍省の関与はこれだけにとどまりませんでした。性病予防に神経を使っ
た陸軍は、経理局建築家と陸軍需品本廠は共同で海外派遣軍に衛生サックを送
りました。林博史氏の研究によれば、1942年中に送られたコンドームはわ
かっただけでも3210万個、兵士一人あたり月2個になるとのことでした。
(林「陸軍の衛生管理の一側面」『戦争責任研究』93.3月号)。
第三期の慰安婦徴集方法として、東南アジア各国占領地での代表的なやり
方は吉見氏によると、次のような例がありました。
1.地元有力者への押しつけ
このやり方は各地にみられる。有力者は、拒否するととんでもない目に会
うのではないかとおびえ、やむなく日本軍に女性を選び差し出す(林「マ
レー半島の日本軍慰安所」『世界』93年3月)。
2.就職を世話するといってだます詐欺的方法
東南アジアでは現地の対日協力者が言葉巧みに女性を集めた。
3.暴力的連行
アジア女性基金受け取り第一号、フィリッピンのヘンソンさんなどがこれ
に該当する。日本軍に対するゲリラ活動が活発であり、日本軍が住民を敵
視していたフィリッピンではこのケースが多かった。
また、インドネシアでも強制連行は少なくなかったと、現地調査した川
田文子さんは報告している(川田「日本軍〈慰安婦〉補償は国際水準で」
『世界』96.4月号)。なお、オランダ人慰安婦については FASIA,#18
74,#2888に書いたとおり。
戦争末期になると兵士の数も増え、それにともない慰安婦集めも激しさを
増したようでした。朝鮮では44年8月に「女子挺身勤労令」が出されました
が、このころ未婚の女性はすべて慰安婦にされるという噂が広がったくらいで
した。このうわさは内務省でも確認されるくらい広く流布されたものでした
(注4)。
一方、海軍では慰安婦のことを「特要員」と呼んでいましたが、海軍省が
東南アジア・太平洋方面への慰安婦の配置と運営方針を決定しました。
42年、軍務局長・長岡少将と兵備局長・保科少将が連名で「第2次特要
員進出に関する件照会」と題する文章を出し、ペナンに50名、スラバヤに3
0名・・・などと具体的な特要員の送り出しを南西方面艦隊参謀長の中村少将
に通達しました。また、中曽根元首相が主計将校(中尉)時代に慰安所を作っ
たのは#666に紹介したとおりです。
(注1)陸軍省副官通牒、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」
支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集する
に当り、故らに軍部了解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ、且つ一般
民の誤解を招く虞あるもの、或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し
社会問題を惹起する虞あるもの、或は募集に任ずる者の人選適切を欠き、為に
募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる者ある等、注意を要する
者少なからざるに就ては 、将来是等の募集に当たりては、関係地方の憲兵及
警察当局との連繋を密にし、以て軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なき
様配慮相成度、依命通牒す。
(注2)「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」
事変勃発以来の実情に徴するに、赫々たる武勲の反面に略奪、強姦、放火、
俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、為に聖戦に対する内
外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とするとこ
ろなり。・・・犯罪非行生起の状況を観察するに、戦闘行動直後に多発するを
認む。・・・事変地においては特に環境を整理し、慰安施設に関し周到なる考
慮を払い、殺伐なる感情及び劣情を緩和抑制することに留意するを要す。・・
特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指
導監督の適否は、志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に影響する
所大ならざるを思わざるべからず。
(注3)台電 第602号
陸密電第63号に関し、「ボルネオ」行き慰安土人50名、為し得る限り
派遣方、南方総軍より要求せるを以て、陸密電第623号に基き、憲兵調査選
定せる左記経営者3名渡航認可あり度、申請す。
(注4)内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」44.6.27
勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃
走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至
にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此
等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
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01318/01318 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」の強制徴集、長文
( 7) 96/10/27 21:09 01247へのコメント
朝賀さんへのコメントとして、前回#1304で「従軍慰安婦」について
> このうち、「慰安婦の多くは強制的に集められた」と、「女衒もしくは慰
> 安婦に対して報酬を与えた」については必ずしも簡単に断言できません。
と書きましたが、これについてもう少しくわしく書きたいと思います。
1、女衒もしくは慰安婦に対して報酬を与えたか?
「従軍慰安婦」にたいする報酬の実態については#666に書きましたの
で、まずはそれを引用します。
ーーーーーー
ほとんどの「軍慰安所」では料金がきちんと決められていたので、「従
軍慰安婦」はお金をもらっていたと考えられがちです。しかし、「従軍慰安婦」
の証言によれば次の表のように、お金を受取った人、お金を受取らなかった人
などさまざまです(吉見著「従軍慰安婦」岩波新書、P146)。
受取った 受取ってない 受取って管理人に渡した
朝鮮人 3 9 7
台湾人 44 4
フィリッピン 1 多数
ーーーーーー
この表の元になった「従軍慰安婦」の証言をそのまま鵜呑みにするわけに
はいきませんが、この表は「従軍慰安婦」の多様性を物語っていることは確か
です。
この表の中で、お金を受け取って管理人に渡したケースは、慰安婦の衣
装代や連行途中の旅費、高利の利子などとして慰安所経営者や軍指定の斡旋業
者、女衒などに収奪されていたものと思われます。また、売られて来た場合に
は当然その返済にあてられました。
ところで「従軍慰安婦」たちが得ていたお金ですが、これは正確にいうと
軍票でした。彼女たちの収入は秦郁彦教授によれば、兵士の110倍という破
格な額とのことでした。しかし一方では、それほど高給ではないという証言も
あるので、秦教授の主張は少し分析が必要です。
中国で軍慰安所を開設した平原大隊長によれば、戦争末期になると軍票の
価値が暴落し、「従軍慰安婦」の生活は楽でなかったようでした(注)。それ
でも軍票がまだいくばくかの価値がある内はまだましでした。無惨にも軍票は
終戦とともにただの紙くずになってしまいました。
慰安婦の中には終戦前に、軍票を元手に成功した人も例外的に何人かはい
たようですが、多くの「従軍慰安婦」にしてみれば、長年にわたり体を蝕んで
稼いだ軍票が一瞬にして何の価値もなくなってしまいました。あまりにも残酷
な結末でした。
数日前、韓国の文玉珠(ムン・オクチュ)さん(72)が払い戻してもら
えない軍事郵便貯金を残したまま亡くなりました。彼女は16歳のとき暴力的
に連行され「楯8400部隊」の慰安婦にさせられた一人でした。
ここで、奥野議員のいう「慰安婦の商行為」についてふれたいと思います。
「従軍慰安婦」で自分から志願して慰安婦になった人は別にして、だまされて
連れられて来た人や、はなはだしくは暴力的に拉致され、強制的に「従軍慰安
婦」にさせられた女性が慰安所規定の料金を貰ったからといって、それを「商
行為」と断定できるでしょうか? 本来の商行為は原則的に自分の意志で始め、
いつでも自分の都合でやめられるべきもので、強制された「従軍慰安婦」の報
酬を「商行為」とするのはいかがなものかと思います。
さて本題に戻りまして、「従軍慰安婦」がお金を受け取っていないケース、
「明るい日本」議連の板垣議員は信じられないといったそうですが、これにつ
いてふれたいと思います。
このケースは二つに分けられます。第一はいわゆる軍慰安所に置かれた
「従軍慰安婦」の場合で、先の場合のように関連業者に食い物にされたケース
です。これは特に朝鮮人「従軍慰安婦」に多かったようです。
第二は、東南アジアなどの軍駐屯地内で断続的に輪姦されたり、あるいは
一定期間監禁された場合で、インドネシア人やフィリッピン人の「従軍慰安婦」
に多かったようです。
2.慰安婦の多くは強制的に集められたか?
「従軍慰安婦」徴集のいろいろなケースを紹介します。資料は主に、吉見
教授の「従軍慰安婦」(岩波新書)から引用します。
A.自発的応募
自発的応募が多少でもあったのは朝鮮・台湾ですが、台湾の「従軍慰安婦」
の証言によれば自発的応募は44名中3名でした。韓国では証言した17名の
中には一人もいませんでした。しかし、韓国では慰安婦募集の新聞広告があっ
たりしたので、応募は少しはいたと思われます。もっとも新聞広告は当時の普
及率から見て一般大衆向けというよりは、業者向けの色彩が強かったようです。
B.人身売買
朝鮮では19名中1名、台湾では44名中1名が徴集のとき身売りされま
した。ただし、台湾では養父や周旋人が看護婦名義で送り出したケースが3件
あり、これももしかすると人身売買に入るのかも知れません。
C.暴力的連行
フィリッピンのヘンソンさんは、日本政府により最初の「従軍慰安婦」に
認定され、アジア女性基金の見舞金を受け取りましたが、彼女は暴力的に連行
されました。ヘンソンさんは戦時中、抗日ゲリラ・フクバラハップの食料・弾
薬をこっそり運ぶ時、彼女だけ検問所で呼び止められ、強制連行され駐屯地に
約10ヶ月間監禁されました。そこで彼女はおぞましい「従軍慰安婦」にさせ
られ、日本軍がいうところの「公衆便所」にされました。
この彼女こそクマラスワミ報告書にいう「性奴隷」の典型ではないでしょ
うか? また、そうした「性奴隷」をを強制連行したやり方を「奴隷狩り」と
呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか?
しかし、このケースはそれを裏付ける資料は何もありません。ヘンソンさ
んにかぎらず、暴力的連行の証拠書類は公文書はもとより関係軍人の当時の記
録など見つかっていません。そうなると、ここの会議室のアクティブなメンバ
ーにとって彼女の証言は「とるに足らないもの」として斥けられ、暴力的連行
の事例にはならないのかも知れません。
こうした思考方式が残るかぎり、暴力的連行はあったとかなかったとかの
議論が延々と続きそうです。そもそも軍が暴力的に連行したとしても、その張
本人は大いばりでその事実を公文書に書くはずがないでしょうから、証拠の公
文書を探しだすのは困難です。もし、そうした記述があるとしたら何かのはず
みで筆をすべらせた資料に限られます。その可能性が高いのが「従軍日誌」で
す。中央大学の吉見教授は
防衛研究所には従軍日誌・業務日誌が数千冊あるが、まだ数百冊しか公
開されていない。日誌はありのままが書かれている場合が多く、きわめて
重要な資料である。
陸上自衛隊の衛生学校の資料も未公開。慰安婦制度は性病防止を理由に
導入された経緯があり、関連資料がある可能性が高い(朝日新聞、95.8.22)。
と主張しています。防衛庁にかぎらず、戦後50年たっても資料を公開しない
姿勢は再検討されるべきであると思います。
話がそれましたが、フィリッピンやインドネシアでは暴力的連行がかなり
みられたようですが、台湾や韓国では暴力的連行はそれほど多くなかったよう
でした。
クマラスワミ報告書や韓国政府の報告書では、韓国での暴力的連行の印象
が強く残りますが、これはもっとも悲惨な経験をした「従軍慰安婦」が積年の
ハン(恨)を吐露した結果であろうと私は思っています。
河原さんは#627で、韓国挺身隊問題対策協議会の資料から中国に残留
した朝鮮人「従軍慰安婦」10人を紹介し、その中で暴力的連行が認められる
のは鄭学銖さんひとりであったと書かれましたが、韓国の場合、割合からいう
と河原さんが直感で出した一割程度が案外当たっているのかも知れません。
吉見氏の調査でも暴力的連行は19名中、前に紹介した文玉珠さん一人だ
けでした。
D.詐欺的徴集
台湾や朝鮮人「従軍慰安婦」の証言で一番多かったのは「だまされた」ケ
ースでした。いい就職口があるとか、軍の食堂で働かないかとか誘われ、あげ
くの果てに慰安婦にされたケースで、台湾では証言者44名中22名が、朝鮮
では17名中12名がこのようにして「従軍慰安婦」にさせられました。
在日韓国人の宋神道さんもその一人でした。彼女は美しい身なりをした朝
鮮人女性に「戦地へ行ってお国のために働かないか」と誘われ、平壌に連れて
いかれました。そこで売られ軍隊専用の慰安所へ送られ、本人の意に反して強
制的に「従軍慰安婦」にさせられました。
なお、宋神道さんは現在補償を求めて日本政府を相手取り訴訟を起こして
います。補償に関していうと、宋さんの場合は日韓条約の適用対象外なので、
北朝鮮の「従軍慰安婦」とともに依然未解決の問題として残されたままになっ
ています。
E.地元有力者への協力要請
日本軍が地元有力者や役場に「協力」を要請して慰安婦を徴集した具体例
をみてみたいと思います。こうしたやり方はマレー半島など占領地で多く見ら
れましたが、植民地の台湾でも証言者44名中5名が役場の割り当てで徴集さ
れました。
この場合、日本軍のほうの認識では「何ら強制的要請はなく、すべて彼ら
の自由意思にまかせた」つもりになっていました。しかし、この要請は軍事力
が背後にある要請なので、地元有力者にとって軍の指示は絶対的で、手段をつ
くしてノルマを果たしたようでした。
たとえば、中国本土のある例では治安維持会長などが日本軍の代わりに強
制徴集を行いました。そうした女性たちの検査に立ち会ったある軍医はその辺
の事情次のように記していました。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、局部の内診になると、ますます恥ずかしがって、なかなかクーツ
(ズボン)をぬがない。通訳と(治安)維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせ
る。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣い
ている。部屋を出てからも泣いていたそうである。
次の姑娘(クーニャン)も同様でこっちも泣きたいくらいである。みんな
こんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだ
から、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村
の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも
知れないが、戦いに敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくて
やっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙し
ているという意識が、念頭から離れない。
(渡辺一人編「独山二 - もう一つの戦争」私家版、引用は前掲書P116)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「日本軍の協力要請」についてこれを文字通り協力とみるのか、ある
いは強制とみるのかは問題になるところです。これは日本軍の立場で考えるの
か、あるいはアジアの一員として考えるのかによって意見が分かれます。ここ
の会議室の主要なメンバーはたぶん日本軍の立場で考えると思われますが、そ
こに私との考え方に基本的な食い違いが生じます。
「従軍慰安婦」を日本軍の立場からみると、麻生軍医の言葉を借りれば彼
女たちは「衛生的な公衆便所」でした。その機能を果たすためには若くて性病
にかかっていない健康的な女性、つまり娼婦でない未婚の女性が求められたわ
けです。しかも日本女性は「銃後の憂い」のため除外されるようになり、いき
おい植民地女性や占領地の女性が「皇軍兵士への贈り物」(麻生軍医)として
大量徴集されたのでした。
現在、こうした日本軍の論理をそのまま引きずる人はまずいないことと思
います。問題はその日本軍の過去の行為に日本はどのように向き合うのかが国
際的に問われています。
これについて河原さんはどのようにお考えでしょうか?
(注)平原一男「山砲の〓江作戦」、私家版(〓は草かんむりに止)
平原さんの当時の所属は独立山砲兵第二連隊、第一大隊長、なお、戦後は自衛
隊陸将補
慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受
け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たない
ということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相
当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。
経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類
であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品
や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、
経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した(引用は前掲書、
P114)。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城