半月城通信
No. 20

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 「従軍慰安婦」 クマラスワミ報告書(5)
  2. 「従軍慰安婦」 クマラスワミ報告書(6)
  3. 「従軍慰安婦」 クマラスワミ報告書(7)
  4. 「従軍慰安婦」43 ゴーマニズム宣言と小林よしのり
  5. 古代史】「百済」について
  6. 古代史】新羅の建国
  7. 古代史】新羅の花郎,RE:3433
  8. 古代史】貴族の教育
  9. 古代の漢字の読み方


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00989/00991 PFG00017 半月城 RE:RE^2:クマラスワミ報告書(5) ( 7) 96/09/17 23:22 00919へのコメント 「従軍慰安婦」40    DONALD さん、今晩は。  >クワラスワミ報告書についてのアジア諸国、シンガポール、インド、タイ等  >のレスポンスをもしご存じでしたら、ご教示ください。 これらの国の直接の反応を私は残念ながらつかんでいません。その代わ りに、クマラスワミ報告書に対する「日本政府の反論書」をめぐる話題を紹介 します。 日本政府は、クマラスワミ報告書に対する反論書を今年3月ころ国連人 権委員会に提出するとともに、それを元にロビー活動をしました。そのあたり の事情を FASIA(#2527) から一部転載します。 ーーーーーー 転載 ーーーーーーーーー 96年3月(?)、日本政府は、人権委員会に「『女性に対する暴力』特別報  告官(クマラスワミ氏)により提出された報告の第一付属文書(従軍慰安婦  関係)についての日本政府の見解」と題した40ページの反論書を提出。   その骨子は 1。クマラスワミ報告には事実誤認があり、信憑性・中立性に欠けるので人権  委員会はこれを拒否すべきである。 2。報告者の国際法の解釈には基本的な誤りがある。伝統的な国際法では過去  に遡って罪を裁くことはできない。 3。日本の法的責任はサンフランシスコ平和条約で解決済みである。 (NHK、ETV「従軍慰安婦」、96.5.20)    この主張に沿った文書を各国政府代表にも配布しました。その内容は、 報告書は「恣意的で根拠のない国際法の“解釈”に基づく政治的発言」あると 決めつけていました。そして、「このような議論を受け入れるならば、国際社 会の法の支配に対する重大な侵害となろう」と報告書を非難しました。    この文書を受け取ったアジアの政府高官の間では「国連が任命した報告 官を中傷するものだ」とか、「脅しともとれ、委員会の構成国に対する圧力だ」 との反発も広がったということでした(朝日新聞、ニュース速報,1996.5.8)。 96年3月末 日本政府は上記の反論書を撤回し新たな見解書を提出。上記の主張を大 幅に変更。新たな主張は、  1。(報告は)十分な根拠がなく、日本政府は重大な留保をする。  2。日本の歴代の首相が謝罪と後悔を表明してきた。  3。女性のためのアジア平和基金で償いをしようとしている。 というのが主な内容で、見解書では具体的な法律論争を撤回しました。  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    このように日本政府の主張はアジア各国ではなかなか理解されなかったようで、 反論書を撤回せざるを得なかったようです。もともとアジア各国は日本政府に対し厳し い目を向けていたふしがあります。たとえば、エイシアン・ ウオールストリート・ジャーナル(香港)は社説で次のように述べています (朝日新聞、95.12.3)。       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー    ・・・単なる謝罪を越える方法はもっとある。そのカギは情報だ。もし 日本政府が、慰安婦たちの苦難にかかわる文書を公開し、断片的な証言以上の、 より詳しい実体を明らかにすれば、信頼の確立への第一歩となろう。補償だけ でなく正しい認識を求めてきた元慰安婦たちの正当性のあかしともなる。そし て何より、日本の一般大衆が、すべての事実に照らして、国民としての良心を みつめることが可能になるのだ。 (前半の部分の資料は紛失してしまいました)       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー    この社説は、読めば読むほど厳しさが伝わってきます。数ヶ月前、NH Kのカメラが法務省との事前約束に反し、取材中に「非公開文書」をこっそり 写したのがバレて大問題になりましたが、日本政府は非公開文書をかかえる限 り、アジアの「信頼の確立への第一歩」をいつまでも踏み出せないのではない でしょうか。     http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01164/01165 PFG00017 半月城 クマラスワミ報告書(6) ( 7) 96/10/01 23:03 00997へのコメント  「従軍慰安婦」41  だいぶコメントが遅くなりました。クマラスワミ報告書に対する河原さん の反論を読んで少し失望しました。クマラスワミ報告書に対する河原さんの反 論はこれだけでしょうか? 書き込みを拝見すると、報告書の解説(訳者・荒井氏の個人的見解)や脚 注などに対する見解がかなりの部分を占めていて、私が期待した核心部分、た とえば「日本政府の立場-法的責任、道義的責任」などについては殆どふれて おられないのは残念です。  河原さんは >「従軍慰安婦問題」は私的な売春ではなく、国家の組織的な強制売春であるか >どうかが肝要なのですから、慰安所システムをどう解釈するかにかかってきま >す。 >(中略)もし、クマラスワミ氏が自分は国連から任命された特別報告者である >ことを本当に自覚していたなら、自分の使命は《真実》の把握であることを忘 >れないはずです と書いておられますが、報告書の目的を誤解されてはおられないでしょう か? クマラスワミ報告書の目的は、第51節に次のように書かれています。   「この報告の目的は、本件解決のために将来の行動方針を促進するため、 本件の関係者、すなわち(略称)北朝鮮・韓国・日本政府の全ての意見を正確 かつ客観的に反映させることにある。しかし、さらに重要であるのは、この報 告の意図が、暴力の被害をうけた女性たちの声に人々が耳を傾けるようにする ことである」   この文からわかるように、報告書の目的は真相解明ではありません。また、 慰安所システムをどう解釈するかも今さら問題ではありません。この解釈とし ては、日本政府すらも次のような認識をもっていて、関係者の間では慰安所シ ステムの解釈にそれほど差はありません。   第125節「・・・特別報告者に日本政府が渡した文書には、いわゆる 『慰安婦』問題について道義的責任を受諾する声明や呼びかけ文が含まれてい る。河野洋平官房長官による1993年8月4日付談話は、慰安所の存在及び 慰安所の設置・運営に旧日本軍が直接・間接に関与したこと、及び募集が私人 によってなされた場合でも、それは軍の要請を受けてなされたことを受諾した。   談話はさらに、多くの場合『慰安婦』は、その意思に反して集められたこ と、及び慰安所における生活は『強制的な状況』の下での痛ましいものであっ たことを承認した」 この日本政府の認識に、河原さんはたぶんご不満でしょうが、クマラスワ ミ報告書はこれが出発点になっているといっても差し支えないと思います。こ こを原点に、日本の海外政策をどのように捉えるべきかが今や問題なのではな いでしょうか? 終わりに、河原さんから催促のあった「吉見教授の共同研究」については 後日ふれたいと思います。


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/10/05 - 01198/01199 PFG00017 半月城 RE:RE^2:クマラスワミ報告書(7) ( 7) 96/10/05 22:04 01185へのコメント 「従軍慰安婦」42   私の書き込み#1164に対して、ビックリするほど多くの方からコメン トをいただきましたが、これを読んで私は狐につままれた思いがしました。た とえば、#1175で >それにしても、[事実であるか否かは問題ではない]とまで言われたのでは、 >もはや議論ではないと考えます。 とありますが、事実云々の語句は、私の語録のどこを探しても見当たりません。 これは想像ですが、この由来は >この文からわかるように、(クマラスワミ)報告書の目的は真相解明ではあり >ません。また、慰安所システムをどう解釈するかも今さら問題ではありません。 という私の発言をもとにしたのでしょうか? そうであるとするとこれはもち ろん誤解です。また、報告書の目的に関し、#1177で >真相を解明する目的を持たない国連に対する報告書とは、一体何のために書か >れたものなのでしょうか。 と疑問が出されました。クマラスワミ報告書の目的として、報告者本人の弁を #1175に紹介しましたが、この部分を読み落とされているように見受けら れます。肝心な所をもう一度読んでいただく手間を省くために、報告書の目的 を要約します。目的は  1.将来の行動指針促進のため関係者(日本・韓国・北朝鮮政府)の意見を   正確かつ客観的に反映させることにある。 2.暴力の被害をうけた女性たちの声に人々が耳を傾けるようにする   ことである との2点に絞っていて、残念ながら具体的な真相解明作業には重点をおいてい ません。また、クマラスワミさんの訪問地域も韓国と日本に限られ、フィリッ ピンやインドネシアなどは除かれるなど制約の多いものでした。    これらの地域の調査や、論争点の真相解明作業、たとえば「吉田証言」 の真偽を確かめるとか、「従軍慰安婦」一人一人の証言を確かめるとか、こう した本格的な作業は、財政難をかかえた現在の国連では無理であると思います。 #907に書いたように、以前、国連人権小委員会で可決された、「旧日本軍 による「従軍慰安婦」や強制連行などの人権侵害を調査する特別報告官」の設 置が財政難を理由に、上部の人権委員会から差し戻されたくらいです。 その上、「従軍慰安婦」システムについての理解は日本政府も含めて関 係各国で大きな違いなく、河野官房長官の談話がほとんど共通認識になってい るといってもいいのではないかと思います。    日本政府においても、この認識はその後もそれほど変わっていないので はないでしょうか。たとえば、河野官房長官談話をクマラスワミさんに提供し た村山内閣の認識は    「この戦争は、日本国民にも諸外国、とくにアジア諸国の人々にも、甚 大な惨禍をもたらしました。なかでも、十代の少女までも含む多くの女性を強 制的に「慰安婦」として軍に従わせたことは、女性の根源的な尊厳を踏みにじ る残酷な行為でした」 (「女性のためのアジア平和国民基金」への呼びかけ ー村山首相) とあり、「従軍慰安婦」強制性を認めています。さらに現内閣の認識は次のよ うなものです。   「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉 と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣とし て改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒 (いや)しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気 持ちを申し上げます。   我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりませ ん。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏 まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき 暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなけれ ばならないと考えております」 (「従軍慰安婦」への「おわび」の手紙、橋本首相)   このように、首相は道義的責任を痛感し、おわびと反省の気持ちを表明し ています。   ここで少し横道にそれますが、どなたでしたか、私の発言を「日本国の愚 弄」であるとか、   > 日本政府のしていることは正しい、という視点で発想が   >できないというのなら、マインドコントロールにかかって   >いる証拠です。   とかおっしゃいましたが、私は日本政府を愚弄するどころか、日本政府の最近 の認識を正しいと、心の底から信じています。こうした認識はここの会議室で はむしろ少数派なのかも知れません。逆に奥野元大臣の「慰安婦は商行為」で あったという認識が主流なのかも知れません。もし、そうであるとしたら私は たいへんな会議室に足を踏み入れたものです。一度皆さんのアンケートをとっ てみたいものです。    余談はともかく、日本の当面の海外政策の課題は上記の政府認識が出発 点になっていることはいうまでもありません。特に、「女性のためのアジア平 和国民基金」の支給希望者が少ない現状をどうするのか、日本政府は解決を迫 られています。この課題への提言をどなたかお持ちでしょうか。     http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


文書名:「従軍慰安婦」ゴーマニズム宣言と小林よしのり [zainichi:1198] Date: Wed Jan 15 04:59:09 1997 Reply-To:   半月城です。秋月さん、テレビ朝日での討論ごくろうさまでした。この番 組「異議あり」は小林よしのり氏の考えを知る上でおおいに参考になりました。 最近、同氏は「新しい歴史教科書をつくる会」の発起人になっているだけに、 彼の本音の部分には注目しています。   一般にマンガでは読者を惹きつけるため、表現を針小棒大にする傾向があ るので、マンガ「ゴーマニズム宣言」を読む限りでは、どこまでが小林氏の本 音なのかよくわからなかったのですが、この番組のおかげでそれがだいぶ見え てきました。   たとえば「言論弾圧」発言です。この発言で小林氏は、秋月さんたち「関 釜裁判を支援する会」を始めとする43団体の、同氏に対する抗議書を「言論 弾圧」であると、パロディでなく本気でとらえていたことがはっきりしました。 これは小林氏が、抗議書をかなりの脅威として感じていたことを示すものです。   「言論弾圧」、いささか時代遅れの感があるこの言葉のニュアンスは、権 力者が反対意見を抑圧したり封殺したりすることをいうのだと思うのですが、 それを市民団体がルールどおりの手順をふんで出した抗議書に対しそのように 過剰に反応するのは、小林氏が受けた衝撃の大きさを示す証拠であると思いま す。マンガ家は人気が命なので、評判は人一倍敏感なためでしょうか。   次にはっきりしたのは、小林氏の原点です。番組の終了間際にあった彼の 発言、「じっちゃんの世代を犯罪者にしたくない」とする発想です。ゴーマニ ズム宣言の最新号をみると、彼の祖父が軍人であったせいか、戦場でお国のた めにつくしたじっちゃんの世代の行為に肯定的な意義を持たせたいとする意識 が彼の原点であるように思われます。   そのため、軍隊という組織がしでかした行為をできるだけ好意的に理解し てあげたいとする意識がありありとみてとれます。たとえば「従軍慰安婦」は、 『当時の公娼の価値観に準じてつくった合理的なものである』とする発言など その最たるものです。これでは身内かわいさのあまり、身内の行った行為には 寛大になり過ぎているようです。   さらに小林氏は、当時の慰安婦制度や軍国体制を支えたものは、結局は国 民全体であるとしたのに対し、秋月さんは番組で何かいいかけて番組が終わっ てしまいましたが、落ち着いたらその続きを聞かせてください。   これは日本の民衆のみならず、「従軍慰安婦」をはじめとしてアジア民衆 に悲惨な犠牲を強いた無謀な戦争の責任ははたして軍首脳と政府だけなのかと いう問題提起にもなっています。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


#3387/3387 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 9/20 6:50 ( 78) 古代史】「百済」について,RE:3369         半月城 ★内容    カーターさん、私のホームページに関心を持っていただき光栄です。ホ ームページをご覧になったのならご存知かも知れませんが、最近は過去の「歴 史認識」問題で忙しく、こちらの会議室はご無沙汰しています。 ところで、私のハンドルネーム「半月城」ですが、 >角川書店の日本史辞典の「扶余」のところを見ていたところ、これについては >下記のように書いてありました。 >1)古代、中国東北部にいたツングース系狩猟農耕民。・・・・ >2)南扶余とも言う。南朝鮮の忠清南道にあった百済の旧都。聖明王の538 >  ー600滅亡まで王都として仏教文化が栄えた。百済の都城半月城があっ >  た。(半月城さんのペンネームはここから来ている。)    これには驚きました。私はハンドルネームを新羅の都城「半月城」から とりました。そこへは10年くらい前に訪れたことがありますが、「半月城」 は新羅の都、慶州にあります。しかし、角川書店に一応敬意を表し資料をあた ってみました。前韓国国立博物館長・韓炳三氏の「韓国古代文化」(NHK) にはP128に地図があり、半月城は確かに慶州駅の南1.5kmのところに ありました。    しかし、百済にも「半月城」がなかったかどうかはわかりません。あっ たことを証明するのは簡単ですが、なかったことを証明するのはかなり困難で す。    さて、本題の百済の起源ですが、建国が紀元前18年とされるくらい古 くまだ十分解明されていません。しかし、百済が騎馬民族の征服王朝であった ことは定説になっています。それを裏付けるような建国神話も残されています。 今回はそれを紹介したいと思います。       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)が卒本扶余にやってきて、松譲王の次 女を妻にめとり、二人の男の子が生まれた。長男を沸流、次男を温祚(後の百 済の始祖)といい、二人は仕合わせな日々を送っていた。そのまま歳月が過ぎ てゆけば二人のうちから王位を継ぐ者が出ることになっていた。ある日、そこ へ朱蒙の嫡子と名乗る瑠璃があらわれ、二人の王子は失意のどん底に落ちて高 句麗を出ることになった。    十臣と民を率いた沸流と温祚の一団は、王都にふさわしい地勢を探して いるうちに、卒本扶余から千数百キロも離れた、今日のソウルの漢江の流域に たどりついていた。 「兄上、この辺りは王都にふさわしきよき処と思いますが・・・」 「広い川に、三角の山か。なるほどよき処である」    二人は十臣とともに北漢山の西端にある負児嶽(現在の三角山)に登り、 王都にふさわしい豊かな地勢を探していた。遥か西の方には漢江が海に注ぐ入 江があった。ミチュホル、現在の仁川であった。 「おお、海原に向いた広々としたよき処ではないか。ミチュホルと申すか、俺 はあそこに王都を定めるとしよう。さあ、皆の衆、俺について来なさい」 と沸流は十臣たちにいい放った。 「沸流王子さま、お待ち下さい。思いますに、ここ江南の地は、東は漢江の水 を帯び、北には北漢山の高岳がそびえ、南には肥沃な沼沢が広がり、西は大海 に阻まれています。このような天然の険阻と地の利は他では見当たらぬ、王都 にふさわしきよき処と心得ます」 と、十臣が口を揃えて諫めた。    弟の温祚はその諫めに応じて江南の地で国を開いた。一方、兄の沸流は 十臣の諫めを聞き入れず、民を率いてミチュホルに向かった。ミチュホルに着 いてみると、大地は湿っぽく負児嶽の頂から遠く眺めたあのよき地勢はみつか らなかった。飲み水も塩辛く、住みにくいところであった。    臣下や民から「温祚王子のところに戻りましょう」という声が日々に募 り、さすがの沸流も聞き流せなくなっていた。沸流は重い足を引きずりながら、 弟のいる北漢山のほうに向かった。負児嶽の見張りがいち早くそれを発見して、 温祚のところに知らせた。沸流の一団を、温祚は快く迎え入れた。 「兄上、ここはよき処です。わたしはここを王都に決め、王宮を慰礼城、国の 号を十済と定めました。兄弟仲良く、いっしょに住みましょう。さあ、兄上、 こちらにどうぞ。    弟の温祚が国造りに成功した様子を目の当たりにした沸流は、自分は浅 見で眼のなかったことを悔やんだ。いくら悔やんでも後の祭り、どうすること もできなかった。弟を深く信頼して、仕合わせに暮らしている臣や民をみて、 沸流は自分についてきた臣や民のことを思った。<かれらを弟に預けよう。温 祚ならきっと引き取ってくれるであろう>。そう思うと、心は安らいだ。沸流 が自殺をとげたという知らせが温祚のところに届いたのは、それからまもなく のことであった。    心根の優しい、兄思いの温祚は、兄の死をいたく悲しみ、その臣下と民 を厚く待遇し、十済はだんだんと大きくなり、国号を十済の十倍も大きいとい う意味の百済に変えた。 (金両基著「物語韓国史」中公新書、一部修正)       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


#3437/3437 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/10/10 17:43 ( 82) 古代史】新羅の建国,RE3429            半月城 ★内容    カーターさん、地名「半月城」の解明ありがとうございました。正式名 称を月城と言うんですね。この「月城」と「半月城」との関係がいままで気に なっていたのですが、これで長年のもやもやが晴れました。 さて、カーターさんが書かれたワールドトラベルブック「韓国の旅」の一 節に少し気になるところがあります。 >半月城(パンウオルソン) >『西暦57年より878年間、新羅歴代王が居住した王宮のあと。城門や楼閣 >など色々な名称が残っているものの、王宮の規模や正確な位置などはわかって >いない。正式には月城であるが、王宮を月形に取り囲んでいるその形から、半 >月城あるいは神城と呼ばれている。』   このなかで、西暦57年は紀元前57年の誤りではないかと思われます。 また、次の878年間は992年間になるのではないかと思われます。三国遺 事によると、新羅初代の王、赫居世が即位したのは前漢宣帝の五鳳元年(BC 57年)とされています。 もっとも即位とはいっても、これは神話の世界です。この新羅の建国神 話もなかなか興味を引くものがあります。カーターさんはあるいはご存知かも 知れませんが、今回は三国遺事に書かれた新羅の建国神話を紹介します。           ーーーーーーーーーーーー    新羅がまだ辰韓と呼ばれていたころは、12の小国からなっていた。そ れらの12の小国のなかから、現在の慶州を拠点としていた斯廬(しろ、サロ) という小国がめきめき力をつけ、やがて辰韓を制覇するほどになった。 斯廬国は六つの村からなるが、これらの村長はいずれも天から降ったのである。 この六人の村長からなる「和白」会議により国は治められていた。    六人の村長はある日、閼川(アルチョン)の堤で重要な会議を開いた。 そこである長老が発言した。 「われわれには民を治めて下さる君主がいらっしゃらない。そのために、 民は自分勝手に振る舞い、秩序が乱れている。なんとか徳のあるお方をお探し して君主にお迎えして、国をおこし王都を定めようではござらぬか」   これに賛同した一同は古くからの習慣にしたがい、閼川の小高い堤の上で 空を仰いで深く礼拝し、「君主をお遣し下さい」と合唱しながら天帝に祈願し た。すると南の方では稲光がするなど不思議なできごと、奇瑞が起こった。 村人たちは奇瑞の起こった南のナジョンへ行ってみると、そこには不思議 な光景があった。天空から電光のような一条の光が大地を射るように照らして いた。その光の先には一頭の白馬が跪いていた。その馬の前には紫色の大きな 卵があった。村人たちが近づくと、白馬は一声いななき天に昇っていった。   人々が卵を割ってみると、なかから端正な男の子が現れた。村長たちがそ の男の子を泉で清めると、その子は体いっぱいに光を放ち始めた。飛ぶ鳥や走 る獣は一緒になって舞い踊り、天地は揺れ動き、日月の光はひときわ清明であ った。そのとき、神童が初めて口を開いた。    「閼智(アルジ)居西干いちど起つ」 (なにやらお釈迦様の誕生物語に似ています)   韓国語では卵のことをアルというから、閼智とは卵からうまれた童児をい うのである。村長はこの子に、光輝くという意味で「赫居世」と名付けた。 やがて赫居世は大きくなり13歳のとき即位し、次のように高らかに宣言した。   「天帝よ、聞きたまえ。民よ聞け。天帝の孫、赫居世は本日ただいまより この国の王となり、この国とこの民を導き治めることを宣言する。余は今から 国の号を徐羅伐(ソラボル、ソウルの語源)と改め、王を居西干と申し、余の 名は赫居世、姓は朴とする」   これ以後、新羅では居西干が王の尊称として用いられるようになった。や がてその後、竜の脇腹から生まれた美しい娘を娶り王妃とした。 (金両基著「物語、韓国史」中公新書)        ーーーーーーーーーーーーーーー   この話では、赫居世は天から降った卵に光が射し、そこから生まれたこと になっていますが、高句麗の建国神話と共通する点がいくつかあります。第一 に天帝が関係した天孫降臨タイプであること、第二に卵から生まれた卵生神話 であること、第三に強い日の光などが射すことです。   高句麗神話との類似性は、新羅の支配者もやはり騎馬民族であることを暗 示しています。また、王を表す居西干のカンはジンギスカンのカンと同じ語源 で、騎馬民族では王者を意味するという学者もいます。   さて、三国遺事では6人の村長が天から降ったことになっていますが、こ れは三国史記にある「(衛氏)朝鮮の遺民たちがここにやってきて山間に分居 し、六つの村を作って暮らしていた」という話を神話的に粉飾したのかも知れ ません。   この時代古朝鮮や高句麗など北方の国々でかなりの動乱があり、そこから 集団的に流民がぞくぞく南へ移住し、三韓諸国を次第に制覇していきました。 馬韓を征服したのが百済であり、辰韓を征服したのが新羅でした。その余波は 当然倭にも及んだことでしょう。その倭とはどこか? カーターさん、井上秀 雄説に対する反論を期待しています。   http://www.han.org/a/half-moon/        半月城


#3445/3446 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/10/12 17:14 ( 54) 古代史】新羅の花郎,RE:3433 半月城 ★内容   A.D.Pさんも新羅に興味をお持ちのようですね。日本史では倭の同盟 国であった百済が優遇されていますが、新羅ももっと取り上げられてしかるべ きであると思います。   我が家にある、でっちあげの大同世譜(家系図)は、新羅の初代王・赫居 世から始まりますので、名目上その後裔である私としては新羅をもっとひいき にしたいところです。そんな事情から、新羅の話題は望むところです。   #3433、  > 花郎など,完全に中華化されてない頃の  >制度風習にも 興味あるんですが   花郎(ファーラン)という優雅な名前とは裏腹に、戦場では先頭に立ち、 新羅統一への大きな力となった青年貴族たちの活躍にはめざましいものがあり、 私も興味を引かれます。これについて、まずは平凡社の「朝鮮を知る事典」を 引いてみました。  ーーーーーーーーーーーーー 花郎(かろう)   新羅の青年貴族集会の指導者。上流貴族の15、16歳の子弟を花郎とし て奉戴し、そのもとに多くの青年が花郎徒として集まって集会を結成していた。 花郎に奉戴された者は、半島統一の英雄・金ユ信を含め新羅滅亡までに200 余人を数え、各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から千人に及んだと伝え られている。   彼らは平時は道義によってみずからを鍛え、歌楽や名山勝地での遊楽を通 じて精神的・肉体的修養に励んだ。そして戦時には戦士団として戦いの先頭に 立ち、活躍した。   その起源について、<三国史記><三国遺事>ともに真興王代の制定によ るものと伝えているが、川前里書石に花郎と思われる人名がみられ、法興王代 (514-540) にはすでに存在していた可能性が強い。   その原型は部族社会の青年集会に求められるが、6世紀初頭における新羅 の国家的発展の過程で、花郎を中心とする青年戦士の集会に変化し、国家的公 認を受けたものと思われる。自己犠牲の精神を養う花郎集会は、国家にとって は人材の養成、登用のための格好の組織であった。 花郎は新羅固有の習俗に根ざすものであったが、同時に儒・仏・道三教と 結びついて独自の発展をとげた。特に弥勒信仰の影響のもとに寺院・僧侶と密 接な関係をもった。また、神仙思想と結合して、やがてその習俗は<風流> <風月道>とされ、花郎も<国仙><仙郎>と称されるようになった(木村誠)。        ーーーーーーーーーーーーーーー このように、戦時には頼もしい武将として、平時には風流をたしなむ花郎 徒たちは国の礎として新羅にはなくてはならない存在でしたが、彼らを自己犠 牲の精神にまで高めたものは何だったのでしょうか。出世? それとも名誉? あるいはそうした世俗的なものではなく、国を支えるという誇りだったのでし ょうか。   一方、花郎集会は当時にあっては、青年たちに対する教育機関の役割を果 たしたのではないかと思います。教育といっても普通の教育でなく、特別なエ リート教育の役割を担ったのではないかと思います。その教育の成果として自 己犠牲の精神が涵養されたのでしょうか。   ところで日本の奈良時代、青年貴族たちの教育はどうなされたのでしょう か。ご存じの方がおられましたらご教示下さい。     http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


#3459/3459 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/10/19 7:44 ( 46) 古代史】貴族の教育、RE:3449        半月城 ★内容   コンコンさん、奈良朝における貴族教育の紹介ありがとうございました。 天智朝の時代に大学ができたというコメントに関連して、司馬遼太郎さんの「 街道をゆく」に収められた「近江の鬼室集斯」を思い出しました。 それによると、日本最初の大学総長兼文部大臣ともいうべき学識頭(ふみ のつかさのかみ)は百済人であったそうです。その人の名を鬼室集斯(きしつ しゅうし)といい、百済滅亡のさいに亡命してきた百済王族のひとりです。コ ンコンさんはご存知かも知れませんが、彼はのちに小錦下(従五位下に相当) の位を授けられました。   ところで、この時代の大学は何を教えていたのでしょうか? また、来日 したばかりの鬼室集斯は何語で講義をしていたのでしょうか? 百済語だった のでしょうか? 小室直樹氏は「当時、日本の指導者層の人びとは朝鮮語を自 由に話せた」と考えています。その説を氏の著書、韓国の悲劇(光文社)から 紹介します。 ーーーーーーーーーーーーーーーー   聖徳太子時代に、日本と三韓とがいかに親密であったかということは、「 日本書紀」をよく読んでみると、容易に看取されうることである。日本の高官 が外国の使臣と会うとき、相手が中国(この時は随、のちに唐)だと通訳をつ ける。それが三韓の使節だと通訳がいらないのである。ということは、日本の 指導者層の人びとは、朝鮮語を自由に話せた、ということである。日本の貴族 にとって朝鮮語とは、ロシア貴族におけるフランス語の位置を占めていたこと がわかる。   とくに、百済と天智天皇の日本とは仲良しであった。百済が日本の親の国 (クンナラ)であったかどうか、それはわからないが、すくなくとも、一種の 「兄弟の国」であったことはたしかである。天智天皇の詔に、「百済はわが兄 弟の国である。なにがなんでも助けなければならない」とある。        ーーーーーーーーーーーーーーーーー   当時、大学の外国語教育に百済語が含まれていたのかも知れません。 なお、鬼室集斯は今では鬼室神社に祭られていますが、彼について近々新刊書 がだされるようです。アコさんの紹介#3455によれば >胡口靖夫著 『近江朝と渡来人 百済鬼室氏を中心として』 雄山閣出版 A5 >376p \9064 ISBN4-639-01403-1 律令国家形成期の渡来人の動向と業績を分析 という本が、11月上旬に出版されるそうです。   ところで、鬼室集斯は天智8年に700余の人を引き連れて、近江・蒲生 に移り住みますが、蒲生は古代出雲系の鴨族のすみかであったのではないかと 司馬遼太郎氏は推定しています。   その根拠として、蒲生の神社は天孫系はなく、出雲系の神社ばかりである としています。出雲系の神社というのはスサノオノミコトなどを祭った神社の ことでしょうか。また、鴨族といえば、先日、大量の銅鐸がみつかった「加茂 鍋倉遺跡」で一躍有名になりましたが、どなたかこれについてのコメントを期 待します。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


#3474/3474 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/10/24 7: 2 ( 52) 古代の漢字の読み方、RE:3467 半月城 ★内容 奈良時代の漢字の読み方は日本と韓国とであまり差がなかったのではない かと思います。この時代の漢字の読み方の名残は今でもかなりあります。たと えば、男女を「なんにょ」、金堂を「こんどう」、お経を「きょう」などと発 音する仏教用語に多くみられます。これらは現代の韓国語の読み方に近いもの です。   これらは現代の韓国では「NAMNYO」、「KUMDANG」、「KY ONG」と発音します。日本では、「・・NG」がすべて「う」に変わりまし た。この変化がいつごろあったのかは知りませんが。   漢字は百済から王仁が伝えたことになっていますが、その時に当然読み方 も伝えたでしょうから読み方が共通して当たり前です。なお、百済には中国の 東晋から伝わったので読み方は呉音に近いとされます。   カーターさんの質問(#3467)、 >  しかし、書紀に記述されている膨大な帰化人は何を物語るのでしょか? >技術や仏教を教えることだけが目的だったのでしょうか?それでは、なぜ危 >険を侵してまで日本に来なければならなかったのでしょうか?日本語を勉強 >してまで、日本に住むことに魅力があったと推測されるのですがいかがでし >ょうか?   渡来人は日本語を勉強してから日本へ来たかどうかは疑問です。しかし、 日本にへ来るからにはそれなりの魅力は当然あったはずです。当時、渡来人た ちは、王族や貴族がかなり優遇されたのをはじめ、技能者まで陶部(すえつく り)、鞍部(くらつくり)などとして尊敬されたのですから日本は相当な魅力 であったと思います。   これら大量の「今来才伎(いまきのてひと)」が来るようになったのは、 優遇策もあったでしょうが、それなりの環境というか渡来の条件が整っていた ともいえます。すなわち、それまでに彼らの先祖が切り開いた渡来コースが知 れ渡っていて、そのために渡来が容易であったものと思われます。   この前の時代、古墳時代末期にあった騎馬文化の流入経路がそれではない かと思います。天皇が騎馬民族征服王朝であったかどうかは別にして、当時、 騎馬文化を持った人たちがかなり日本へ来たと思われますが、彼らが才伎たち の渡来コースの地ならしをしたものと思われます。   こうした騎馬民族が来た背景は朝鮮での動乱が影響していたのではないか と思います。このころは伽耶が急速に勢力を弱めた時期なので、そうした難民 が日本列島へ大挙して来たのではないかと思います。このあたりは空白の4世 紀のナゾとして興味深いところです。このあたり、三国史記など原典をあたり たいところですが、私はなかなか手が出せません。逆にいろいろ教えていただ きたいところです。  マルチレスになりますが、#3461(コンコンさん)、 >しかし現在韓国では韓国が兄、日本が弟ということになっています。この考 >えが今の反日の根拠の理由の1つになっているわけですね。 >これはかなり反論がでるでしょうね・・・ははははは、待ってます。   これに似た意見を小室直樹さんが書いています(「悲劇の韓国」、光文 社)。明治以前、韓国は文化を日本へ一方的に伝えたという潜在意識が、今日、 韓国民の日本に対するやっかみになっていると分析しています。これはかなり 当たっているのではないでしょうか。 http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


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