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00976/00977 PFG00017 半月城 RE:従軍慰安婦問題は強制性がキーポイント
( 7) 96/09/16 23:29 00798へのコメント 「従軍慰安婦」37
河原さんは#798で
>残念ながら、「強制性」についての認識が異なります。私は国家権力に
>よって行われた場合のみを「強制」があったと考えています。
と書いておられますが、この強制性の認識は私も同じです。私は「従軍慰安婦」
問題について、特に国家や政府の犯罪性を問題にしています。
河原さんと私とで決定的に違うのは「従軍慰安婦」の証言のとらえ方で
す。河原さんは「従軍慰安婦」の証言に少しでも不自然な点があると感じると、
その証言全体の信憑性を疑ってしまうのではないでしょうか?
さて「従軍慰安婦」の証言ですが、これは50年以上も昔の話ですから、
これに100%完璧な証言を求めるのはどだい無理な話です。50年も歳月を
経れば、当然記憶違いや勘違いも起きるでしょうし、さらに悲惨な経験をした
人であれば、そのつらい過去の恨みつらみが自然と誇張されることは十分考え
られます。
こうした事情を「R.クマラスワミ国連報告書」を翻訳した荒井信一氏は
その序文でこう述べています。
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証言が50年以上の時間的距離を経た人間の記憶を通じての過去の再現
であること、しかも思い出したくない過去に起因する心の傷が現在でも証言者
の心を強く動かしていることなどを考えると、証言が過去そのままの再現とな
ることは考えにくい。
それはすでに当初から心に受けた印象の強弱に従い、はっきりと焼き付
けられた部分もあれば、脱落したり曖昧になった部分もあったはずである。ま
た長い記憶の歴史の中で混乱や混同を経験し変形されてもいよう。この変形、
一種のデフォルメは事実そのものを表していないが、しかしそれは現在に至る
まで持続的に被害を受け続けてきた被害者たちの生(せい)の真実を、むしろ
リアルに表現するものである。被害者たちの心に映じかつ残っているイメージ
により、我々は、被害者をかって苦しめ現在までも苦しめている軍事的性奴隷
の真実に始めて接近できるのである。
問題が被害者たちの被害回復であるとすれば、やはり被害者たちの認識
を決定し、要求の基礎となっている彼女たちの心の真実から出発する以外にな
いのである。
クマラスワミ氏が「当時一般的であった状況のイメージを作り上げるこ
とが可能になった」と述べているのは、おそらくこのような意味であって、被
害者からの視点を重く見る姿勢がここにも示されているように思う。
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このように「従軍慰安婦」の証言一つ一つには当然あやふやな点があり、
強制連行されたといっても、それは必ずしもはっきり黒とはいえず灰色に見え
る場合もあり得ます。しかし、その曖昧な点にこだわり過ぎていたのでは全体
像を見失ってしまうのではないでしょうか。
「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、一本一本の木につ
いてその灰色の度合いを問題にしていたのでは、その森の本質「全体は黒」で
あるという点を見失ってしまうのではないでしょうか。
強制性は、韓国政府の報告書やクマラスワミ報告書に限らず、その気に
なればいくらでも見つかります。「従軍慰安婦」についての本が数十冊出版さ
れ、研究も進んでいるので強制連行の例には事欠かないと思います。そのうち
の一例として沈美子さんの例を、西野留美子著「従軍慰安婦」(明石書店)か
ら引用します。
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1940年、16歳のときです。日本人の担任の先生に頼まれ、日本の
地図に刺繍をしました。ところが、数日後、勉強していた私は教務室に呼ばれ
ました。そこには日本人の警官がいました。
「おまえは、わが国の国花がなんだか知っているか?」
警官の問に、私は桜の花だと答えました。
「桜の花だと知りながら、なぜ、アサガオの刺繍をしたのだ」
警官は私をなじりました。
「桜よりもアサガオの花がきれいだと思ったから、アサガオの刺繍をしたので
す」
するとその警官は、「おまえの思想はまちがっている」といい、私を警察
に連れていきました。そして、宿直室で私を強姦しようとしました。私は無垢
の乙女で、貞操を守ろうと抵抗して、その警官の耳をかじりました。すると、
その警官は怒って、竹串で、私の爪の中を突き刺し、真っ赤に焼いたコテで、
私の肩を焼きました。ひどい拷問を受けて、私は気を失ってしまいました。
それから何日かたって、私は日本の福岡に連れていかれました。先にきて
いた女の人たちに、何をするところなのか聞きますと、「時間がたてばわかる
よ・・・」と彼女たちは言いました。
しばらくすると、仮小屋のカーテンで仕切った部屋に入れられました。憲
兵や警官の上官がやってきて、顔のきれいな女だけを選んでどこかへ連れてい
き自分たちの妾にしました。
兵隊が一人、二人と入ってきて、私たちはもてあそばれました。それから
というもの、私は、毎日、二十名から三十名、土、日曜日には、四十名から五
十名の兵隊の相手をしなくてはなりませんでした。(以下略)
一方で、西野さんは元皇軍兵士、松原さんの証言として次のような例も
紹介しています。
私の兄は孫呉で戦車師団の経理将校をしていまして、休暇で日本に帰っ
てきたことがありました。一晩話したときに兄から聞いたことです。
終戦間近のことですが、兄は「内地」防衛の命令を受けて日本に帰らなけ
ればならなくなりました。親しくなった一人の朝鮮人慰安婦にそれを話しまし
たら、帰る途中で、京城にいる自分の家族に手紙を渡してほしいと頼まれたと
いうのです。
渡された住所を頼りに探したところ、高級住宅街にある立派な家でした。
家族は大変驚かれ、とうとう上がりこむことになってしまったのです。兄は思
いきって、「娘さんはどうして軍隊にきたのですか?」と尋ねました。
「私こそ知りたいのです。ある日、買い物に出したのですが、それっきり
帰ってきません。翌日になり、日本の憲兵がきて、おたくの娘さんは軍隊で働
くことになったから、ここに判を押せというのです。何を聞いてもそれ以上は
話してもらえませんでした。娘は一体何をしているのですか?」
兄は返答に困ったと話しましたが、こうした無茶な集めかたをしたという
ことを、私はそのとき初めて知ったわけです。おそらく、判を押させられたと
きも、天皇陛下の命令だと言われたのではないでしょうか。
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これらの例は、単に「従軍慰安婦」の強制連行の実体にせまるだけでな
く、日帝下の植民地統治の実状を如実に物語っているのではないでしょうか。
河原さんは「従軍慰安婦」の証言で、「創氏改名に反対したことを理由に家族
が警察に連行された」という話に納得しておられないようですが、これなども
上のような植民地統治のやり方と関連づけて考える必要があるのではないでし
ょうか。といっても、上の証言もその信憑性を疑うようであれば、議論はすれ
違いのままで終わるでしょうが。
ところで、河原さんはフィリッピン「従軍慰安婦」の強制性については
どのような意見をお持ちでしょうか? フィリッピンでは現在「従軍慰安婦」
が百数十名が名乗り出ています。私は、#666に書いたようにフィリッピン
ではかなり強制性が認められるのではないかと思います。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
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01021/01021 PFG00017 半月城 日本国内の軍隊慰安所(1)、九十九里
( 7) 96/09/20 23:10 00983へのコメント 「従軍慰安婦」38
下落合さんは#983で
> そもそも、慰安所というのは占領地に設置されたもので、
>内地にも朝鮮にも存在したはずがありません。 民間の売春
>業者がいくらでも営業しているのですから、必要無かったの
>です。
と書かれていますが、このように考えている方はかなり多いのではないかと思
います。ここ4、5年「従軍慰安婦」についての関心が高まるにつれ、日本国
内にも軍慰安所あったことがわかり始めました。とかく「従軍慰安婦」問題は
関係者の口が重いため、真相は少しずつしか明るみに出されません。したがっ
て、この問題の論議には常に最新の情報が欠かせません。
日本国内の軍隊慰安所ですが、「松代大本営」近くの慰安所は比較的よ
く知られていますが、これについては#615に書いたとおりです。
これ以外にも、千葉県では銚子、成東(なるとう)、茂原(もばら)な
どに軍慰安所あったことが最近明らかになりました。これらについては関係者
の一人、近衛第3師団の谷垣砲兵上等兵の証言があります。谷垣さんは後に憲
兵になり、慰安婦を買収し彼女たちから情報を集めていたと告白しています。
その貴重な証言を引用します。
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(1945年)5月に入ったばかりのある日、私のところに再び憲兵軍曹
がやってきました。
「ここに慰安婦の名簿がある。このなかから口が固い美人の女を8名選び出し
てくれ。彼女たちには国のため、一役かってもらう。選ぶ方法はおまえの裁量
に任そう」
渡された名簿には、銚子、成東、茂原の各慰安所にいる60名ほどの慰安
婦の名前がありました。このなかから8名を、情報を集める「助っ人」にする
というわけです。名簿には、女たちの詳細な情報がぎっしり記されていました
・・・。
そこにいた慰安婦の多くは、東北地方の貧農の娘でした。借金の担保とし
て慰安所に売られてきたんですよ。『従軍看護婦』という体裁のいい広告でか
き集められた朝鮮の娘たちもいましたね・・・。
慰安所の担当将校が慰安所に巡視にきたときは、大変でしたよ。慰安婦た
ちは、ずらりと正座して司令官を迎え、楼主の「敬礼!」という号令で手をつ
いて頭を深々と下げて迎えたものです・・・。
この3カ所の慰安所は、一般の目に触れないように深慮されていまし
た。外目には、普通の民家です。古い民家を接収して改造した慰安所でした。
看板などはもちろん掲げてありません。ここに来る兵隊の行動は、住民感情を
考え、十分慎重を期すようにいわれていました。大部分の部屋は3畳ほどの薄
暗い部屋で、なかに花柄の煎餅布団が1枚敷かれているだけでしたね。
任務を負った慰安婦には、兵隊から情報を得たら、忘れないようにメモに
取るように指示しました。兵士の所属部隊名、陣地構築の進行状況、作業内容
等々から給与問題にいたるまで、部隊内の情報ならなんでもよかったわけです。
壕を掘ったところから水が出ていないか、地雷を敷設しているかどうか、食糧
事情はどうか・・・どんなことも詳細に報告させました。聞き出すために、前
もって慰安婦たちに、軍隊用語や基礎知識を教え込みました・・・。
(西野留美子著「従軍慰安婦」明石書店、1992)
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この慰安所の経営は「民間」の業者ですが、「慰安所担当将校」がいた
とは驚くばかりです。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策
01035/01036 PFG00017 半月城 日本国内の軍隊慰安所(2)、木更津
( 7) 96/09/21 23:38 00983へのコメント 「従軍慰安婦」39
数年内に東京湾横断道路が完成しますが、その千葉県側のジャンクショ
ンに木更津(きさらづ)市があります。その木更津に1936年、首都防衛な
どの目的で海軍航空隊が置かれました。さらに、41年、航空隊の飛行機修理
などのために、その側の敷地に第二海軍航空廠の本工場が設置されました。
1943年、この近くに6軒の軍隊慰安所がおかれ、そのためか6軒町
と呼ばれました。この慰安所については、明石清三さんの著書「木更津基地-
人肉の市」(洋々社,1957)のなかでくわしく紹介されています。著者の明石さ
んは戦争末期に朝日新聞木更津支局長をつとめた方です。この本は現在絶版で
すが、その内容は、西野留美子さんの著書「従軍慰安婦」(明石書店)に簡単
に紹介されています。
ここでは、地元の高校教諭、栗原さんが作られたパンフレット「第二海
軍航行廠と朝鮮人労働者・慰安婦」から軍慰安所について引用します。内容は
西野さんの著書と大同小異です。
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昭和17年3月頃、海軍慰安所設置の方針が、航空廠と航空隊の希望に
よって決まった。場所は、航空隊及び航空廠から直線三キロを隔て、民家を避
ける地域を条件に、選定が進められた。
建物は、二階建てで30坪余りの建物を15軒造り、一部屋3畳を最低
とし、一戸に7人の慰安婦をおく計画が当初立てられた。工期は、第1期6戸、
第2期5戸、第3期4戸の計画であった。
そして、用地買収の段階において、慰安所敷地予定地の小作人10余名
の猛烈な反対運動が起き着工が遅れた。しかし、ある軍人の威圧行動と、慰安
所業者(銚子より来る)の懐柔により反対運動は終息し、昭和17年6月に慰
安所建物の上棟式が行われ、昭和18年2月に6軒の建物が完成した。当初予
定されていた15軒の慰安所構想は結局中断されて、6軒のみとなった。
慰安婦たちは、「海軍慰安所従業婦」として募集されたが、多くは銚子
にあった遊郭から女性が連れてこられた。一戸に7-10人の慰安婦が入れら
れ、当初全部で約50名の慰安婦がいた。一軒に一人の業者が割り当てられ、
全部で6人の業者が入ったが、その中に一人の朝鮮人業者がいた。
朝鮮人の業者の建物の中には、朝鮮と沖縄の女性が十数人集められてい
た。銚子から連れてこられた朝鮮人の慰安婦は1943(昭和18)年に、江
原道から銚子の缶詰工場に働きに連れて行くとだまされて、銚子の遊郭に売ら
れた女性であったという。その内の一人は悲観して、銚子の海に身を投げて死
んだという。残りの10人の朝鮮人女性が、慰安婦として木更津に連れてこら
れた。
慰安所の必要資材は、軍資材として発注された。建設資材以外でも、例
えば慰安婦用の米、紙、脱脂綿、ゴム製品、足袋、石鹸、夜具、衛生具等も、
航空廠の物資部より特別に配給を受け、実質的に軍の管理統制下にあった。さ
らに、慰安婦たちには週一回の定期検診があった。この点は、軍の管理下にあ
った「外地」の慰安所に対するのと同じ指導が、「内地」の慰安所にもあった
と考えられる。
海軍慰安所への出入りには、憲兵ボックスで身分証明書を提示し許可を
受けるシステムになっていた。出入りの資格は、下士官、兵隊、徴用に限られ
ており、朝鮮人徴用工の出入りは拒絶されていた。しかし、隠れて慰安所に通
う朝鮮人徴用工もいた。「20歳ぐらいで突然徴用をされて日本に来て半年、
朝鮮人の飯場のような宿舎で、地下壕を掘り始めていた人々」であった・・・。
戦後(解放後)、慰安所に残っていた三人の朝鮮人女性の身柄を引き取
った李東乙氏は、次のような証言をしてくれた。
「私は、三人の朝鮮人女性を、自宅に連れ帰り、しばらくの間預かること
にしました。二ヶ月ほど一緒に生活しましたが、女性たちは自分のことをあま
り話したがりませんでした。年齢だけは教えてくれました。一人は16歳でし
た。ということは、日本に来た時は、まだ、12、3歳の子供だったわけです。
他の二人は22、3歳でしたが、彼女たちも10代のうちに連行されて、慰安
婦の生活を強制させられたことになります」
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昨年、私は地下トンネルや飯場跡、慰安所跡などをみてきました。民家
から遠く離れて作られたはずの慰安所も、現在ではすっかり民家に囲まれてい
ました。しかし、慰安所跡だけはなぜかポッカリ穴があいたように空き地にな
っていたのが妙に印象的でした。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。