半月城通信
No. 19

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 「従軍慰安婦」37、強制性がキーポイント(2)
  2. 「従軍慰安婦」38、日本国内の軍隊慰安所(1)、九十九里
  3. 「従軍慰安婦」39、日本国内の軍隊慰安所(1)、木更津
  4. 悲しみの島、サハリン(1)
  5. 悲しみの島、サハリン(2)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00976/00977 PFG00017 半月城 RE:従軍慰安婦問題は強制性がキーポイント ( 7) 96/09/16 23:29 00798へのコメント 「従軍慰安婦」37    河原さんは#798で >残念ながら、「強制性」についての認識が異なります。私は国家権力に >よって行われた場合のみを「強制」があったと考えています。 と書いておられますが、この強制性の認識は私も同じです。私は「従軍慰安婦」 問題について、特に国家や政府の犯罪性を問題にしています。    河原さんと私とで決定的に違うのは「従軍慰安婦」の証言のとらえ方で す。河原さんは「従軍慰安婦」の証言に少しでも不自然な点があると感じると、 その証言全体の信憑性を疑ってしまうのではないでしょうか?    さて「従軍慰安婦」の証言ですが、これは50年以上も昔の話ですから、 これに100%完璧な証言を求めるのはどだい無理な話です。50年も歳月を 経れば、当然記憶違いや勘違いも起きるでしょうし、さらに悲惨な経験をした 人であれば、そのつらい過去の恨みつらみが自然と誇張されることは十分考え られます。    こうした事情を「R.クマラスワミ国連報告書」を翻訳した荒井信一氏は その序文でこう述べています。        ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 証言が50年以上の時間的距離を経た人間の記憶を通じての過去の再現 であること、しかも思い出したくない過去に起因する心の傷が現在でも証言者 の心を強く動かしていることなどを考えると、証言が過去そのままの再現とな ることは考えにくい。    それはすでに当初から心に受けた印象の強弱に従い、はっきりと焼き付 けられた部分もあれば、脱落したり曖昧になった部分もあったはずである。ま た長い記憶の歴史の中で混乱や混同を経験し変形されてもいよう。この変形、 一種のデフォルメは事実そのものを表していないが、しかしそれは現在に至る まで持続的に被害を受け続けてきた被害者たちの生(せい)の真実を、むしろ リアルに表現するものである。被害者たちの心に映じかつ残っているイメージ により、我々は、被害者をかって苦しめ現在までも苦しめている軍事的性奴隷 の真実に始めて接近できるのである。    問題が被害者たちの被害回復であるとすれば、やはり被害者たちの認識 を決定し、要求の基礎となっている彼女たちの心の真実から出発する以外にな いのである。    クマラスワミ氏が「当時一般的であった状況のイメージを作り上げるこ とが可能になった」と述べているのは、おそらくこのような意味であって、被 害者からの視点を重く見る姿勢がここにも示されているように思う。     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    このように「従軍慰安婦」の証言一つ一つには当然あやふやな点があり、 強制連行されたといっても、それは必ずしもはっきり黒とはいえず灰色に見え る場合もあり得ます。しかし、その曖昧な点にこだわり過ぎていたのでは全体 像を見失ってしまうのではないでしょうか。    「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、一本一本の木につ いてその灰色の度合いを問題にしていたのでは、その森の本質「全体は黒」で あるという点を見失ってしまうのではないでしょうか。    強制性は、韓国政府の報告書やクマラスワミ報告書に限らず、その気に なればいくらでも見つかります。「従軍慰安婦」についての本が数十冊出版さ れ、研究も進んでいるので強制連行の例には事欠かないと思います。そのうち の一例として沈美子さんの例を、西野留美子著「従軍慰安婦」(明石書店)か ら引用します。      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    1940年、16歳のときです。日本人の担任の先生に頼まれ、日本の 地図に刺繍をしました。ところが、数日後、勉強していた私は教務室に呼ばれ ました。そこには日本人の警官がいました。 「おまえは、わが国の国花がなんだか知っているか?」   警官の問に、私は桜の花だと答えました。 「桜の花だと知りながら、なぜ、アサガオの刺繍をしたのだ」   警官は私をなじりました。 「桜よりもアサガオの花がきれいだと思ったから、アサガオの刺繍をしたので す」   するとその警官は、「おまえの思想はまちがっている」といい、私を警察 に連れていきました。そして、宿直室で私を強姦しようとしました。私は無垢 の乙女で、貞操を守ろうと抵抗して、その警官の耳をかじりました。すると、 その警官は怒って、竹串で、私の爪の中を突き刺し、真っ赤に焼いたコテで、 私の肩を焼きました。ひどい拷問を受けて、私は気を失ってしまいました。   それから何日かたって、私は日本の福岡に連れていかれました。先にきて いた女の人たちに、何をするところなのか聞きますと、「時間がたてばわかる よ・・・」と彼女たちは言いました。   しばらくすると、仮小屋のカーテンで仕切った部屋に入れられました。憲 兵や警官の上官がやってきて、顔のきれいな女だけを選んでどこかへ連れてい き自分たちの妾にしました。   兵隊が一人、二人と入ってきて、私たちはもてあそばれました。それから というもの、私は、毎日、二十名から三十名、土、日曜日には、四十名から五 十名の兵隊の相手をしなくてはなりませんでした。(以下略)    一方で、西野さんは元皇軍兵士、松原さんの証言として次のような例も 紹介しています。 私の兄は孫呉で戦車師団の経理将校をしていまして、休暇で日本に帰っ てきたことがありました。一晩話したときに兄から聞いたことです。   終戦間近のことですが、兄は「内地」防衛の命令を受けて日本に帰らなけ ればならなくなりました。親しくなった一人の朝鮮人慰安婦にそれを話しまし たら、帰る途中で、京城にいる自分の家族に手紙を渡してほしいと頼まれたと いうのです。   渡された住所を頼りに探したところ、高級住宅街にある立派な家でした。 家族は大変驚かれ、とうとう上がりこむことになってしまったのです。兄は思 いきって、「娘さんはどうして軍隊にきたのですか?」と尋ねました。   「私こそ知りたいのです。ある日、買い物に出したのですが、それっきり 帰ってきません。翌日になり、日本の憲兵がきて、おたくの娘さんは軍隊で働 くことになったから、ここに判を押せというのです。何を聞いてもそれ以上は 話してもらえませんでした。娘は一体何をしているのですか?」   兄は返答に困ったと話しましたが、こうした無茶な集めかたをしたという ことを、私はそのとき初めて知ったわけです。おそらく、判を押させられたと きも、天皇陛下の命令だと言われたのではないでしょうか。       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    これらの例は、単に「従軍慰安婦」の強制連行の実体にせまるだけでな く、日帝下の植民地統治の実状を如実に物語っているのではないでしょうか。 河原さんは「従軍慰安婦」の証言で、「創氏改名に反対したことを理由に家族 が警察に連行された」という話に納得しておられないようですが、これなども 上のような植民地統治のやり方と関連づけて考える必要があるのではないでし ょうか。といっても、上の証言もその信憑性を疑うようであれば、議論はすれ 違いのままで終わるでしょうが。    ところで、河原さんはフィリッピン「従軍慰安婦」の強制性については どのような意見をお持ちでしょうか? フィリッピンでは現在「従軍慰安婦」 が百数十名が名乗り出ています。私は、#666に書いたようにフィリッピン ではかなり強制性が認められるのではないかと思います。 http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01021/01021 PFG00017 半月城 日本国内の軍隊慰安所(1)、九十九里 ( 7) 96/09/20 23:10 00983へのコメント  「従軍慰安婦」38    下落合さんは#983で   > そもそも、慰安所というのは占領地に設置されたもので、   >内地にも朝鮮にも存在したはずがありません。 民間の売春   >業者がいくらでも営業しているのですから、必要無かったの   >です。   と書かれていますが、このように考えている方はかなり多いのではないかと思 います。ここ4、5年「従軍慰安婦」についての関心が高まるにつれ、日本国 内にも軍慰安所あったことがわかり始めました。とかく「従軍慰安婦」問題は 関係者の口が重いため、真相は少しずつしか明るみに出されません。したがっ て、この問題の論議には常に最新の情報が欠かせません。    日本国内の軍隊慰安所ですが、「松代大本営」近くの慰安所は比較的よ く知られていますが、これについては#615に書いたとおりです。 これ以外にも、千葉県では銚子、成東(なるとう)、茂原(もばら)な どに軍慰安所あったことが最近明らかになりました。これらについては関係者 の一人、近衛第3師団の谷垣砲兵上等兵の証言があります。谷垣さんは後に憲 兵になり、慰安婦を買収し彼女たちから情報を集めていたと告白しています。 その貴重な証言を引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   (1945年)5月に入ったばかりのある日、私のところに再び憲兵軍曹 がやってきました。 「ここに慰安婦の名簿がある。このなかから口が固い美人の女を8名選び出し てくれ。彼女たちには国のため、一役かってもらう。選ぶ方法はおまえの裁量 に任そう」   渡された名簿には、銚子、成東、茂原の各慰安所にいる60名ほどの慰安 婦の名前がありました。このなかから8名を、情報を集める「助っ人」にする というわけです。名簿には、女たちの詳細な情報がぎっしり記されていました ・・・。   そこにいた慰安婦の多くは、東北地方の貧農の娘でした。借金の担保とし て慰安所に売られてきたんですよ。『従軍看護婦』という体裁のいい広告でか き集められた朝鮮の娘たちもいましたね・・・。   慰安所の担当将校が慰安所に巡視にきたときは、大変でしたよ。慰安婦た ちは、ずらりと正座して司令官を迎え、楼主の「敬礼!」という号令で手をつ いて頭を深々と下げて迎えたものです・・・。     この3カ所の慰安所は、一般の目に触れないように深慮されていまし た。外目には、普通の民家です。古い民家を接収して改造した慰安所でした。 看板などはもちろん掲げてありません。ここに来る兵隊の行動は、住民感情を 考え、十分慎重を期すようにいわれていました。大部分の部屋は3畳ほどの薄 暗い部屋で、なかに花柄の煎餅布団が1枚敷かれているだけでしたね。   任務を負った慰安婦には、兵隊から情報を得たら、忘れないようにメモに 取るように指示しました。兵士の所属部隊名、陣地構築の進行状況、作業内容 等々から給与問題にいたるまで、部隊内の情報ならなんでもよかったわけです。 壕を掘ったところから水が出ていないか、地雷を敷設しているかどうか、食糧 事情はどうか・・・どんなことも詳細に報告させました。聞き出すために、前 もって慰安婦たちに、軍隊用語や基礎知識を教え込みました・・・。 (西野留美子著「従軍慰安婦」明石書店、1992) ーーーーーーーーーーーーーーーーーー この慰安所の経営は「民間」の業者ですが、「慰安所担当将校」がいた とは驚くばかりです。    http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01035/01036 PFG00017 半月城 日本国内の軍隊慰安所(2)、木更津 ( 7) 96/09/21 23:38 00983へのコメント  「従軍慰安婦」39 数年内に東京湾横断道路が完成しますが、その千葉県側のジャンクショ ンに木更津(きさらづ)市があります。その木更津に1936年、首都防衛な どの目的で海軍航空隊が置かれました。さらに、41年、航空隊の飛行機修理 などのために、その側の敷地に第二海軍航空廠の本工場が設置されました。    1943年、この近くに6軒の軍隊慰安所がおかれ、そのためか6軒町 と呼ばれました。この慰安所については、明石清三さんの著書「木更津基地- 人肉の市」(洋々社,1957)のなかでくわしく紹介されています。著者の明石さ んは戦争末期に朝日新聞木更津支局長をつとめた方です。この本は現在絶版で すが、その内容は、西野留美子さんの著書「従軍慰安婦」(明石書店)に簡単 に紹介されています。    ここでは、地元の高校教諭、栗原さんが作られたパンフレット「第二海 軍航行廠と朝鮮人労働者・慰安婦」から軍慰安所について引用します。内容は 西野さんの著書と大同小異です。        ーーーーーーーーーーーーーーーー    昭和17年3月頃、海軍慰安所設置の方針が、航空廠と航空隊の希望に よって決まった。場所は、航空隊及び航空廠から直線三キロを隔て、民家を避 ける地域を条件に、選定が進められた。    建物は、二階建てで30坪余りの建物を15軒造り、一部屋3畳を最低 とし、一戸に7人の慰安婦をおく計画が当初立てられた。工期は、第1期6戸、 第2期5戸、第3期4戸の計画であった。    そして、用地買収の段階において、慰安所敷地予定地の小作人10余名 の猛烈な反対運動が起き着工が遅れた。しかし、ある軍人の威圧行動と、慰安 所業者(銚子より来る)の懐柔により反対運動は終息し、昭和17年6月に慰 安所建物の上棟式が行われ、昭和18年2月に6軒の建物が完成した。当初予 定されていた15軒の慰安所構想は結局中断されて、6軒のみとなった。    慰安婦たちは、「海軍慰安所従業婦」として募集されたが、多くは銚子 にあった遊郭から女性が連れてこられた。一戸に7-10人の慰安婦が入れら れ、当初全部で約50名の慰安婦がいた。一軒に一人の業者が割り当てられ、 全部で6人の業者が入ったが、その中に一人の朝鮮人業者がいた。    朝鮮人の業者の建物の中には、朝鮮と沖縄の女性が十数人集められてい た。銚子から連れてこられた朝鮮人の慰安婦は1943(昭和18)年に、江 原道から銚子の缶詰工場に働きに連れて行くとだまされて、銚子の遊郭に売ら れた女性であったという。その内の一人は悲観して、銚子の海に身を投げて死 んだという。残りの10人の朝鮮人女性が、慰安婦として木更津に連れてこら れた。    慰安所の必要資材は、軍資材として発注された。建設資材以外でも、例 えば慰安婦用の米、紙、脱脂綿、ゴム製品、足袋、石鹸、夜具、衛生具等も、 航空廠の物資部より特別に配給を受け、実質的に軍の管理統制下にあった。さ らに、慰安婦たちには週一回の定期検診があった。この点は、軍の管理下にあ った「外地」の慰安所に対するのと同じ指導が、「内地」の慰安所にもあった と考えられる。    海軍慰安所への出入りには、憲兵ボックスで身分証明書を提示し許可を 受けるシステムになっていた。出入りの資格は、下士官、兵隊、徴用に限られ ており、朝鮮人徴用工の出入りは拒絶されていた。しかし、隠れて慰安所に通 う朝鮮人徴用工もいた。「20歳ぐらいで突然徴用をされて日本に来て半年、 朝鮮人の飯場のような宿舎で、地下壕を掘り始めていた人々」であった・・・。    戦後(解放後)、慰安所に残っていた三人の朝鮮人女性の身柄を引き取 った李東乙氏は、次のような証言をしてくれた。   「私は、三人の朝鮮人女性を、自宅に連れ帰り、しばらくの間預かること にしました。二ヶ月ほど一緒に生活しましたが、女性たちは自分のことをあま り話したがりませんでした。年齢だけは教えてくれました。一人は16歳でし た。ということは、日本に来た時は、まだ、12、3歳の子供だったわけです。 他の二人は22、3歳でしたが、彼女たちも10代のうちに連行されて、慰安 婦の生活を強制させられたことになります」        ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 昨年、私は地下トンネルや飯場跡、慰安所跡などをみてきました。民家 から遠く離れて作られたはずの慰安所も、現在ではすっかり民家に囲まれてい ました。しかし、慰安所跡だけはなぜかポッカリ穴があいたように空き地にな っていたのが妙に印象的でした。  http://www.han.org/a/half-moon/        半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01057/01058 PFG00017 半月城 悲しみの島、サハリン(1) ( 7) 96/09/22 23:21 00983へのコメント    これまでの私のいろいろな書き込みに対し、数人の方からコメントを待 望されておりますが、なかなかそれに応じきれていません。これらについては 一つ一つ順番に答えるようにしたいと思います。  >  たとえば、サハリン韓国人の責任はソ連当局にあり、とい  > う書き込みにも、いまだにお答えがありません。 過去の問  > 題を論じたいのであれば、このような場合、それなら今度は  > ロシアにも抗議しましょうか、というような答えを期待して  > いたのですが、(ポーズだけでもいいんです。)結局、この  > 人は自分の言いたいことしか言わない人なのかなあと思って  > しまいます。    今まで長く放ってあった問題の一つにサハリンの話題がありました。上 記のように#983で下落合さんから催促がありましたが、この問題について 書くことは私のかねてからの希望でもありました。今回ははこれにコメントを 加えたいと思います。    なお、あらかじめお断りしますが、以下の書き込みに対しさらに新たな コメントを待望されるかも知れませんが、それに対する回答は順番待ちになり ますのでご了承下さい。一方、「日本国内の軍隊慰安所」は多忙のため休みま す。 タイトルの「悲しみの島、サハリン」はNTVのテレビ番組(1991.8.7) の表題から借用しました。スクリーンでは「このドラマは歴史的事実に基づい て再構成されたものです」と映し出されていたので、このドラマは日本テレビ 局の「歴史認識」を示すものといっても差し支えないと思います。この番組は ドキュメンタリーフィルム混じりのドラマ仕立てですが、この中に下落合さん に対する回答も含まれていました。それにふれる前に、サハリン問題の事実経 過を再確認するのにこの番組は手頃なのでその内容を先に簡単に紹介します。    番組は女優、松本伊予さんのナレーションから始まりました。 「サハリンはかって南半分が日本領土で樺太と呼ばれていました。そしてここ コルサコフは大泊(おおどまり)と呼ばれ、朝鮮と日本とソ連を結ぶ大事な歴 史の現場でした。それは日本人が決して忘れてはならない、歴史の片隅に閉じ こめてはならない事実の現場でした。    第2次世界大戦の時、日本は労働力を補うため朝鮮半島の人々を強制的 に連行して、国内各地で働かせていたのですが、ここ樺太へも大勢の人が送り 込まれて来ました。その数は3万人とも4万人ともいわれていますが、その実 態すら正確にはよくわかりません。    その多くの人が上陸したのがこの大泊でした。その生き証人ともいうべ き人がこの方です。ご紹介します。韓国からわざわざ来てくれた李ヨンオクさ んです」    斉藤由貴さんが扮する李ヨンオク(架空)は、結婚したばかりの夫の消 息を追ってはるばるサハリンまで来たのでした。夫のチョルスンは韓国で強制 連行され長崎・軍艦島の炭坑で働かされましたが、あまりの重労働や待遇のひ どさに耐えかねそこを脱走しました。しかしすぐに捕えられ、懲罰のために酷 寒のサハリンの炭坑へ送られました。そこで終戦を迎えたのですが、夫のチョ ルスンは反抗分子とみなされスパイの濡れ衣を着せられ虐殺されました。    生き残った彼の仲間は韓国への帰国を希望しましたが、ソ連当局はそれ を認めようとはしませんでした。その理由としてソ連当局は「米ソ引揚協定」 と日本からの「申し入れ」について説明していました。すなわち、   ・日本人は協定により帰国させることになった。 ・日本は、朝鮮人を日本の国民とみなさないようにとソ連赤十字総裁に申    し入れてきた。 ・朝鮮人は日本人でないから帰国させることはできない。 というもので、ここに日本とソ連の短絡的な利害関係が一致しました。ソ連は 戦後復興のため一人でも多くの労働力がほしかったので、日本からの申し入れ をこれ幸いとばかりに利用し、朝鮮人をサハリンに留め置きました。    一方、日本にとっては、戦争遂行のために強制連行してきた朝鮮人は、 敗戦でもはや「用済み」なのでそのままサハリンに放置するのが得策だったの でしょうか。冷たい仕打ちです。それまで朝鮮人を一視同仁の政策のもとに 「皇国臣民」としてきたものを、敗戦で手のひらを返すように「外国人」にし てしまい、その帰国を考えようとはしませんでした。    その後、世界情勢は冷戦時代になり、ソ連は北朝鮮との友好関係から長 いこと韓国とは話し合いの場すら持つことはありませんでした。そうした事情 からいうと、問題解決のために日本政府の果たせる役割は大きかったはずでし た。しかし日本政府はそうした期待に応えようとはしませんでした。そうした 日本政府の態度について、この問題に精力的に取り組んできた高木弁護士は次 のように述べています。   「戦後の日本は残留韓国・朝鮮人に対して冷たかった。置き去りにし、放 置をなした罪はいうまでもなく、消極的・積極的に帰還の妨害さえなした事実 がある」(高木健一「サハリン残留韓国人・朝鮮人補償請求訴訟」法学セミナ ー92年8月、P56)    この高木氏の主張を次に紹介します。ただし、番組との重複をさけるた め終戦直後については省略し、それ以降の経過を書きます。         ーーーーー 引用 ーーーーーーー 1960年代から70年代半ばまでソ連政府の態度は、日本が受け入れ れば出国を認めるというものであった。これに対して日本政府は外国人の単な る通過地として対応するとの方針であった。1972年、田中首相は (1)日本は単に通過するのみで全員韓国に引揚げさせる。 (2)引揚げに関する費用は一切韓国側において負担する との方針を公式に示していた。    その中で1976年6月、ソ連から永住出国許可を得たサハリンの老人 4人(黄仁甲さんほか)が家財など資産を全て処分して友人や近所の人の盛大 な送別会を受けて喜び勇んでナホトカ(ソ連本土)の日本領事館へやってきて、 日本の入国許可を求めた。    しかし日本政府は前記方針に従い、韓国政府の受け入れを確認するため 問い合わせに時間を使い、ソ連出国期限を徒過してしまった。韓国政府の確認 を得て出された日本入国許可はもはや遅く、「ナホトカの4人」は涙ながらサ ハリンに戻ったのであった。このような冷たい行政の下に、「ナホトカ」の4 人も、そしてその他多くの人びとも日本を恨みながら死んでいった。 そして、米ソ及び日ソ関係が悪化した1976年以降は帰りたいと公言 することもできない状況になった。1966年には約7000人もの人が東京 の朴魯学・樺太帰還在日韓国人会会長のもとへ永住帰国の意思を表明したのに、 1976年以後は手紙に一切帰りたいなどという表現がなくなった。    まさしく、サハリン韓国・朝鮮人問題にとって冬の時代となったのであ る。それ以後10年間は、苦しい運動が続いた。「抑留」や「置き去り」を反 ソ的とならないよう「残留」に替え、政治と関係をもたさず、家族再会・再結 合という人道問題であることのみを訴えた。   ーーーーーーーーーーーーーーーーーー    その後、1980年代は局面が大きく転換しました。その主な動きは  1.韓国オリンピックへを契機とするゴルバチョフ大統領の訪韓。  2.中蘇離散家族会(本部は韓国のテグ)の運動。  3.日本の市民運動の高揚や裁判提訴による関心の高まり。さらに、超党派    の日本国会議員による「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」の    活動 などです。こうした努力の結果、89年に一人が韓国に永住帰国を果たしたの をきっかけに被害者たちは「帰還請求裁判」を取り下げました。そして新たに、 1990年、日本政府に補償をもとめて「サハリン残留韓国・朝鮮人補償請求 裁判」を提訴しました。 その訴因に「人道に対する罪」および「帰還義務不履行・妨害の違法」 が挙げられています。その後者を下落合さんに対する回答として引用します。   ーーーーー 引用 ーーーーーーー 帰還業務の不履行・妨害の違法    日本国は、原告らを雇用期間が経過すれば帰還させるという約束の下に 連行し、労働させた。転職・退職を認めず、帰還が満了しても強制的に更新さ せる兵役類似の労働関係であり、また、衣・食・住の苛酷な条件の下での奴隷 労働とでもいうべき状態を強いたのである。    そして日本が敗戦したとき、日本国には原告らを故郷へ帰還させる義務 が生じた。この義務は「ポツダム宣言の受諾」からも導かれる。ポツダム宣言 において「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」とされた。カイロ宣言には 「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」とあ る。まさしく、奴隷状態におかれた朝鮮人の自由・解放すなわち現状回復を日 本に対して義務づけているのである。そして日本国はこれを完全に受諾した。    「奴隷状態」であったという事実の認識とそこからの解放・現状回復義 務の履行を連合国に約束したのである。この約束は法的拘束力をもつものとし なければならない。したがって、サハリンへ連行され労働を強制された原告た ちを帰還させることは日本国の責務であったことは明らかであろう。    にもかかわらず、日本国は戦後日本人の帰還のみを努力し、朝鮮人を放 置・置き去りにしたこと、さらに、サンフランシスコ条約は原告らは日本国籍 を喪失したとして、日本国への入国についても消極的になったこと、特に血統 的日本人の朝鮮人と結婚した女性(同じく日本国籍を喪失したとされていた) には「未帰還日本人証明書」を発行して帰還させ、法律的には同じはずの朝鮮 人にはこれをしなかったのは明らかに民族差別であること、そして時には前期 「ナホトカの4人」のようにソ連からの出国許可を得ている者にさえも日本許 可を直ちに認めない妨害工作などは国家賠償法にいう違法行為といわざるを得 ない。        ーーーーーーーーーーーーーーーーーー    おわりに、こうした韓国に関する戦後補償問題は「日韓条約」などで解 決済みではないかと思われる方がいるかも知れませんのでこれについて一言付 け加えます。戦時中の補償問題に対して二重基準、河原さんのことばを借りれ ば「ダブルスタンダード」の立場の日本政府も、このサハリン残留韓国・朝鮮 人については「日韓条約」は及ばないことを認めています。それというのも残 留者には韓国籍の人は一人もいなかったからです。これは冷戦時代ソ連が「韓 国籍」を認めるはずがなく、ほとんどが朝鮮籍でした。    この裁判の結末は#539に書いたとおり、この種の解決法としては珍 しく和解に終わりました。被害者たちが村山政権や支援者の努力を評価し、お 互いに信頼関係が生まれたたためです。訴訟の壁が崩された数少ない例外でし た。   http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 01143/01144 PFG00017 半月城 悲しみの島、サハリン(2) ( 7) 96/09/29 00:02    前回、日本テレビが放映したドラマ「悲しみの島、サハリン」の一部を 紹介しました。それに続いて今回もドラマの中の他のテーマ、上敷香虐殺事件 を取り上げたいと思います。これも日本テレビ局の歴史認識を示すものといえ ます。    ドラマでは斉藤由貴が扮する主人公の夫のチョルスンは、炭坑脱走の遍 歴のため、警察には前々から反抗分子としてにらまれていました。そんな彼は、 ソ連の参戦を機にスパイの濡れ衣を着せられ、上敷香(かみしすか)警察署に 抑留され、自白強要のため拷問攻めの災難に遭いました。    そのあげく、彼は他の拘留者と共にむごくも警官により撃たれました。 その上、証拠隠滅のため警察署ごと焼かれました。世にいう「上敷香虐殺事件」 です。警官が自ら自分たちの警察署を燃やすというのは通常では考えられない 異常事態です。この異常行動の裏にはソ連侵攻による社会不安という背景があ りました。    1945年4月、ソ連は「日ソ不可侵・中立条約」の不延長を通告し日 本をあわてさせました。これは宣戦布告に準じるものでした。8月9日、ソ連 軍は国境を越えて南樺太へ侵攻し、戦闘は8月15日を過ぎても続きました。 この侵攻で日本軍は敗走し、南樺太全土は混乱に陥りました。こうした中でデ マが乱れ飛び、この忌まわしい虐殺事件が起きました。    そのくわしい事情を、林えいだいさんは著書「証言・樺太朝鮮人虐殺事 件」(風媒社)で次のように述べています。        --------------------------------------    朝鮮人はソ連のスパイだとか、朝鮮人が略奪しているとか、根も葉もな いデマが日本人間に広がった。そのデマのもとといえば、越境して侵攻したソ 連軍の中に、朝鮮人兵士を見たからであった。    憲兵と警察は、敗戦の責任を朝鮮人のせいだといって、責任を転嫁して しまった。日本人は過去36年間、朝鮮を武力で植民地支配した。戦争遂行の ために国家総動員法を制定、その第一歩として国民徴用令をかけ、樺太に約6 万人から7万人を徴用して強制労働を強い、今まで人間扱いをしなかった。日 本の敗戦によって、彼らが反乱を起こすのではないかという一種の恐怖感で、 憲兵たちは逆上していた。そして朝鮮人がスパイをしたので負けたと、簡単に 結びつけてしまった。   一方、ソ連軍の侵攻で、たちまち日本軍は敗走した。樺太全土の日本人社 会がパニック状態になると、朝鮮人というより弱い部分にそのしわ寄せが来た。  朝鮮人を虐殺した加害者の日本人は、それまでよき隣人であり、一緒に仕 事をしてきた仲間であった。ごく平凡な民衆が、いつの間にか加害者になって しまう。そこに戦争の狂気をみるのである。   混乱のどさくさで殺された朝鮮人は数え切れないが、これもうやむやのう ちに闇に葬られてしまった。   朝鮮人の多くは自衛のために石や棍棒で武装したりしたが、力のない個人 は日本人の犠牲になった。   サハリンの朝鮮人虐殺事件の大部分は、解放後に発生していることが特徴 的である。朝鮮から樺太に強制連行されて、極寒の地で強制労働させられ、や っと解放になった喜びもつかの間、日本人から虐殺されたのである。   虐殺されたサハリンの雪原に立つと、私は日本人の犯した深い原罪を思い 知らされる。   1923年9月1日、関東地方を襲った未曾有の大地震の際、約6千人以 上の朝鮮人が、軍隊と民衆から虐殺されたことと重なってきた。サハリンの虐 殺事件は、まさに第二の関東大震災事件である。       -----------------------------------    林さんは、サハリン残留韓国人問題調査のために、よりによって一番寒 い冬に数度サハリンを訪れました。サハリンの冬は、万年筆も凍って割れてし まうような寒さです。その極寒の中で肺炎にかかってまでも調査を続けました。 その執念たるやすさまじいものです。その上、病床での強がりのセリフがふる っています。「貴方たちが強制連行されたのは、暖かい夏だけとは限らなかっ たでしょう。サハリンの冬を経験しないと、あの時の苦しみは分かりません。 それで私は冬に来たのです」    こうまで気合いを入れて、林さんは上敷香虐殺事件などを調査しました。 この虐殺は終戦直後の8月18日に起きましたが、事件はある特異性のため長 い間よく語り継がれました。    この事件は、スパイ容疑などで捕らえられた朝鮮人19人中18人が警 察署の中で射殺されました。生き残った朝鮮人、日本名を中田さんといいます が、彼は何と警察署の便所の汲み取り口から糞まみれになって必死に逃げ出し たとの噂でした。林さんは、噂の真偽はもちろん、中田さんの本名や職業など 事件の全容を事細かに調べました。関係者の証言は人により少しずつ違ってい たのですが、それらを林さん自身が納得いくまでとことん調べました。そのた めに当時の関係者を探し、九州、東京、北海道、サハリン、果ては韓国などを 飛び回りました。 そうした林さんの調査結果が助けになり、日本テレビの歴史認識が生ま れました。さらに林さんの活動は韓国のテレビ局、文化放送でも紹介されまし た。その番組のおかげで、林さんは事件被害者の家族と直接会うことができま した。父と兄を虐殺された金景順さんです。金さんは家族が連行された時の模 様を次のように語りました。        ---------------------------------- 表の道路に馬の蹄の乱れた音がすると、5人の憲兵が騎馬で来て降りまし た。警官二人は騎馬でね。合計7人で家の中に入って来ました。  「おい田中、おまえにちょっと聞きたいことがあるからちょっと来い」  「戦争が終わったというのに、何故行く必要がありますか?」  「お前、軍の命令に反抗するのかっ!お前たちは朝鮮人のスパイだ。息子   も一緒に来るんだ」」 父はいつも警察に引っ張られていましたから、そんな重大なこととは思って もいませんでした。憲兵たちの眼が血走っているし、警官も殺気立っているか ら心配でね。  「じゃあ、私も一緒について行きます」   そういうと、母も心配になったのか、同じようについて行くといい出しま した。   朝鮮は解放されたというのに、何故憲兵が父をスパイだといって連れてい くのか、私は不思議に思いました。   父は振り返って、「お前たちは心配するな、黙っておれ」といいました。   橋を渡って警察署の前の坂道を登るころ、父と兄の手に手錠をはめました。 そして、駅の近くの憲兵隊の建物の中に入りました。父はもう一度、母と私に 家に帰るように手で制しました。それが父と兄を見た最後です。       ------------------------------------- 金さんは、時には涙ながらに事件を語ったそうでした。後日、その時の思いを 林さんに次のように伝えたそうです。   「お陰様で45年のハン(恨)を多少ながら訴えることができ、今死んで も目がつぶれると思います」    金さんは後に、日本政府を相手どり裁判を起こしました(注)。その日 はちょうど父と兄の46回目の命日、8月18日でした。 (注)08/08 00:59 朝: ◇「スパイ容疑で虐殺」と訴訟◇ 朝日新聞ニュース速報  太平洋戦争終戦直後の一九四五年八月、サハリンで父と兄がスパ イ容疑で日本の憲兵らに虐殺された、として韓国に住む遺族三人が 日本政府を相手に計九百万円の慰謝料などを求めた訴訟の控訴審で 、東京高裁は七日、請求を退けた一審判決を支持して原告側の控訴 を棄却する判決を言い渡した。加茂紀久男裁判長は「提訴したのは 事件があったとされる時から二十年以上たっており、損害賠償請求 権はなくなった」と述べ、一審と同様に事実関係には踏み込まなか った。  一連の戦後補償訴訟では、「不法行為があってから二十年で賠償 請求権は消滅する」という民法の除斥期間の規定がひとつの「壁」 になっている。八九年に最高裁の判決で示された解釈で、戦争中の 強制連行・強制労働が問題となった「不二越訴訟」でも、適用され た。   原告は、金景順(キム・キョンスン)さん(66)ら姉妹で、九 一年八月に提訴した。  原告側は、「国際法上の義務に違反する行為があった時は、国家 が被害者に直接、民事上の責任を負う」という国際慣習法に基づい て賠償を請求できる、とも主張していたが、加茂裁判長は「四五年 八月当時、そういう慣習法は成立していなかった」と退けた。  この事件は、関係者の間では「上敷香韓人虐殺事件」と呼ばれて いる。真相は明らかにされていないが、控訴審になって原告側は、 金さんの父らを含めて十八人が連行され十六人が殺害されたことを 示す旧ソ連の刑事裁判記録を入手、法廷に提出して国側に事実関係 の認否を求めたが、国側は「不知」として明確な釈明をしなかった。 (連行者、殺害者の数が林さんの調査と違うようです)    http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


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