半月城通信
No. 18

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 倭人の国はどこ?
  2. 日鮮同祖論
  3. 創氏改名(3)
  4. 創氏改名(4)
  5. 族譜
  6. 日系人の強制収容と国際法
  7. 「従軍慰安婦」35、クマラスワミ報告書(3)
  8. 「従軍慰安婦」36、クマラスワミ報告書(4)


#3407/3407 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 9/29 15:12 (110) 倭人の国はどこ? RE:3393 ★内容 > 半月城さんさっそくのレスを有難うございました。今日は、台風が過ぎた後 >買い物に行き、岩波文庫の「三国史記倭人伝」を買ってきました。その新羅本 >紀倭人伝の冒頭に「倭人が軍隊を連ねて、辺境を侵犯しようとした。」とあり >ましたが、日本人は昔から朝鮮半島を侵略していたようで今もあまり変わらな >いなと感じました。    倭は侵略的との見方は中国では当てはまらないようです。中国では倭と は事を構えたことがなかったせいか、倭はその字義のとおり従順のイメージが 強かったようです。もっとも中国にとって倭は遠い外国であり、その居住地す らはっきりしない存在で、倭に関する文献は乏しく曖昧です。    一方、朝鮮にとって倭は凶暴な侵略者のイメージが強かったようです。 カーターさんが書かれていた新羅への侵略ですが「新羅本紀第二原典(国史) 地名表」では3世紀初頭から6世紀初頭まで、前後6回あったそうです(諏訪 春雄編「倭族と古代日本」、雄山閣)。    しかしこのときの倭はどこなのか、その根拠地は不明です。この史書に 限らず、高句麗の好太王碑文に書かれている倭の根拠地も不明です。朝鮮史史 料で倭の根拠地を知る手がかりは、わずかに伝承類を集めた「三国遺事」に1 3例があるだけです。その本では1世紀から倭が登場しますが、そこに書かれ ている倭の根拠地を古代朝鮮史が専門の井上秀雄氏が分析しています(同上書)。 それによると倭の所在地は 新羅に南接         4例    朝鮮南海岸         4      〃 または北九州   1    北九州か日本全体      1    大和王朝          1    神話・伝説の日本      1    不明          1    こうしてみると、古代朝鮮では倭の主な根拠地は朝鮮半島にあったと理 解しているようです。ご存じかも知れませんが、以下に井上氏の説を紹介しま す。    倭が朝鮮半島にもあったとする解釈は中国の史書にもかなりみられます。 5世紀前半に編纂された「後漢書]では    韓には3種があり、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓の北は楽浪郡と、南  は倭と接している。弁辰は辰韓の南にあって、これまた12国ある。弁辰の  南もまた倭と接している(韓伝)。    後漢の光武帝の建武中元2年(57)に、倭の奴国王が遺使して、貢物  を奉り、朝貢した。奴国は倭の最南端の国である。光武帝は奴国王に印綬を  与えた(倭伝)。    奴国は通常、福岡市と考えられていますが、このあたりを最南端とする 倭人の居住区域は日本列島が中心ではなく、朝鮮半島南部が中心になります。 しかし、同じ倭伝の冒頭には日本列島中心説や中国福建省東方説もあり ます。すなわち、    倭は、韓の東南方の大海の中にあって、人々は山の多い島に居住してお  り、すべてで百余戸になる。(中略)楽浪郡の南の境界は、邪馬台国から一  万二千里も離れており、倭の西北と境界を接している拘邪韓国から七千余里  離れている。倭の地はおおむね会稽郡東冶県(福建省福州付近)の東方であ  って、朱崖郡・・・にも近い。 とあります。このように後漢書が書かれた五世紀になっても、まだ倭の位置は 諸説あってあまりよくわかっていなかったようです。    ところで、後漢書にみえる倭の地理的関係を示す記事は、三世紀後半に 編纂された「三国志」によったものといわれていますので、こちらのほうの記 事もあたってみることにします。 1. 韓は帯方郡の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接して   いる。韓の広さは4千里四方ほどである(韓伝)。 2.弁辰の国々から鉄を産出する。韓族・わい族・倭族が皆鉄をとっている。  どの市場の売買でも、みな鉄をもちいていて、それは中国で銭を用いるのと  同じである。(中略)男女の習俗は、ともに倭に近く、また、男女ともに文  身(いれずみ)をしている(第一弁辰伝)。 3.弁辰の涜廬国は倭と境界を接している(第二弁辰伝)。 4.倭の人々は、帯方郡の東南にあたる大海の中に住んでいて、山や島によっ  て、国や村を作っている。もと百余の国々にわかれていた。漢の時代には、  朝貢してくる国もあった。いま通訳を連れた使者が、朝貢してくるところは  30国である(倭人伝、1)。 5.帯方郡から倭にゆくには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓族  の国をへて、しばらくは南に、しばらくは東に進んで、その北岸の拘邪韓国  に到達する。その間の距離は七千余里である(倭人伝2)。 6.帯方郡より女王国にいたる間の距離は、1万2千余里である。 7.帯方郡からの里程を計算してみると、倭はちょうど会稽郡東冶県(福建省  福州付近)の東方にあることになる(倭人伝4)。 8.女王国の東海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。いずれも倭種  の国である(倭人伝5)。 9.倭の地を尋ねると、倭人たちは、遠くはなれた海中の島々に住んでいて、  あるいは海でへだてられ、あるいは陸地つづきになっていて、島々を巡って  いくと、五千余里になる(倭人伝6)。   このように、「三国志」東夷伝にみられる倭の記事は、多様な情報が錯 綜しています。とくに、倭人の居住地が後漢時代をひきついで、韓族諸国家に 隣接する倭人の居住地と、そこから海を越えて島々に点在する倭人の国があっ たと述べています。    「三国志」の編者陳寿が、東夷伝の序文や跋文に述べているように、外 国の事情は理解できないことが多いのです。魏時代になって、それまでよくわ からなかった東方異民族のことが次第にわかるようになりました。しかし、2 44・245年に高句麗と戦った魏軍が通過した地域でも、「国々の掟や習俗、 国の大小・国名などがわかるようになった」という程度でした。その他の地域 は、通訳を伴った使者がときどきやってくるようになった。そこで、これらの 使者の話にしたがって記述するが、それらが東夷の事情を正確に伝えるとは言 えないといっています。 こうした歴史書の分析をもとに、井上氏は次のように述べています。 「今までは、倭を日本の固有の民族名、地域名と考えられてきましたが、古代 の中国や朝鮮では、このような用法はみられませんでした。また、日本の古典、 とくに記紀でも、このような用法は、特殊な事例しかみられません。このよう に、倭の用法は、平安時代以来、日本の別名のように扱われてきましたが、考 え直す必要があります」    なお、記紀での倭の用法は省きましたが、記紀では、倭は自分自身のこ とであり、地域的には大八州の中心である現在の奈良県だけをさしていたと、 井上教授は主張しています。     http://www.han.org/a/half-moon/      半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00952/00952 PFG00017 半月城 日鮮同祖論 ( 7) 96/09/15 12:56 00901へのコメント    因さん、私の代わりに「日韓交流の歴史」連載の背景を説明していただ きありがとうございました。このシリーズはそのまま日本の海外政策の歴史に 深く関係していることはいうまでもないと思います。    いつの時代でもその時点での政策の決定の際には、過去の歴史が念頭に 置かれます。その悪い例が朝鮮の植民地支配でした。古代において朝鮮半島を 倭が支配していたという誤った戦前の皇国史観が、日本が朝鮮を植民地支配す る精神的支えになり、そこを出発点に日本はアジア侵略の不幸な道を走りまし た。その誤った海外政策のもとになった皇国史観の虚構を私は強調したいので す。    河原さんが、このシリーズを評して「まさか、戦前の『日韓同祖論』の 裏返し、つまり朝鮮が元で日本は末ということを論証したいわけではないでし ょうね?」と発言されているところをみると、私の試みは少しはうまくいって るのかも知れません。といっても、私の目的はそのような偏狭な論証ではあり ません。最新の学問の成果を知るのが目的です。 戦前、皇国史観の代表とみなされた「日鮮同祖論」は金沢庄三郎博士に よって書かれましたが、78年、この新版が成甲書房から出版されました。そ の序文に興味を惹かれる一節がありましたので引用します。    「金沢庄三郎博士は良心的な学者に数えられたし、また博士は朝鮮語、 中国語、蒙古語、満州語、アイヌ語などにも通じて学問的水準がもっとも高か った学者であっただけに、(日鮮同祖論は)博士を信頼していた人々に疑問を 抱かせた部分がありました。この点に関して、博士もたいへん悩んでおられた ようで、甥ごさんに対して、”不本意ながら『日鮮同祖論』とか『日韓両国語 同系論』などで、日本が本元であったと書いたが、ほんとうは逆に思っている ”ともらしたそうです。    このことを今は亡き鈴木武樹明治大学教授が甥ごさんからきいて、金沢 博士の「日鮮同祖論」を再検討して、博士がやむなく皇国史観の通説をとられ たと思われるところに注をつけ、現代語にして読みやすくした形で出版したい と思いたたれ、金沢博士のお孫さんと成甲書房の三者で話がまとまったのです。 しかし、この事業の途上において・・・」 これが真実であるとすれば実に心外な話です。不本意ながら説を曲げて 書いた「日鮮同祖論」が広く流布し、日本の海外政策に影響を与えたとは、ま ったく罪作りな学者です。これを曲学阿世といったら言い過ぎでしょうか。     http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00951/00952 PFG00017 半月城 創氏改名(3) ( 7) 96/09/15 12:56 00863へのコメント    河原さんが#863で書かれた創氏改名に対する事実認識は私との間に 大きな違いはありません。なにしろ珍しくお互いのタネ本の著者の一人が共通 するのですから認識の差はほとんどないと思います。裏を返せば、それだけこ の問題の研究者が少ないということでしょうか。    さて今回は「創氏改名」の推進論者すらが、「朝鮮人の反感を買うに過 ぎない結果となった」と認めるほどの拙劣な海外政策がなぜ計画されたのか、 そのあたりの事情を「皇民化」政策やその背景との関連で少し書きたいと思い ます。    植民地時代の朝鮮総督は、簡単に一口でいうと司法・行政・立法の権限 を手中にした権力者でした。その歴代の総督にはほとんど軍人が就任しました。 「創氏改名」当時の南次郎総督もやはり軍人でした。まずはこの人の経歴を 「朝鮮を知る事典」(平凡社)から紹介します。     南次郎(1874-1955)  1890年 成城学校へ転校、軍人への道を歩む  1904年 日露戦争時、大本営参謀    23年 陸軍士官学校長   29年 朝鮮軍司令官    34年 関東軍司令官    36年 朝鮮総督(8月) 戦後  A級戦犯として巣鴨に拘留される    これからわかるように、彼は朝鮮総督になる前は関東軍司令官でした。 そうした経歴から南総督は朝鮮を軍事的視点から満州の延長線上にとらえ、 「鮮満一如」や「国体明徴」を五大政策の柱にしました。具体的には朝鮮を大 陸進出のための兵站基地と位置づけ、38年、各道の産業部長に次のように訓 示しました。   「第一は帝国の大陸前進兵站基地としての朝鮮の使命を明確にすることで あります。現事変(日中戦争)に於て我が朝鮮は、対支作戦軍に対して食糧、 雑貨等相当量の軍需物資を供出し幾分の効果を呈し得たのであります。    しかしながら此の程度においては猶ほ心細く将来更に大いなる事態に面 した時には、仮にある期間大陸作戦軍に対して内地よりの海上輸送路を遮断さ るる場合ありとするも、朝鮮の能力のみを以て之を補充しうる程度までに、朝 鮮産業分野を多角化し、特に軍需工業の育成に力点を置いて万全を期する必要 があること、之がその内容です」 (山辺健太郎著「日本統治下の朝鮮」岩波新書)    このような政策のもとに朝鮮の兵站基地化を目指し、前任者の農業振興 政策を手直しして「農工並進」政策を掲げ軍需産業の振興に力を入れました。 余談ですが、南総督は対馬海峡が閉鎖される場合を想定するなど、軍人として は先見の明があったようです。    さて、兵站基地化政策は物資面だけにとどまらず、兵員補給の面まで当 然考慮されました。侵略戦争の拡大と共に不足する兵力を補うため、朝鮮人を 活用する方針は容易に考えられることです。南総督の伝記によれば、<朝鮮統 治の最終目標は、朝鮮に陛下の行幸を仰ぐことと、朝鮮に徴兵制を敷くことの ふたつであった>とのことでした。南総督は軍人らしく相当に徴兵制にはこだ わっていました。    一般に、徴兵制を植民地で実施するのは容易ではありません。よほど巧 妙に実施しないと、戦闘訓練を受けた青年は最終的には銃をどちらに向けるの か予断を許しません。支配者に銃を向けたのでは、何のための徴兵制かわかり ません。こうした事態を避けるため南総督は、朝鮮青年が身も心も天皇に捧げ るような方策を考え、その答として朝鮮人を「皇国臣民」たらしめんとする 「内鮮一体化」政策を徹底的に推進しました。皇民化教育の主なものをあげる と 1937年 一面(村)一神社建立 、神社参拝強要       「皇国臣民の誓詞」を職場や学校で斉唱指導 1938年 (志願兵制度公布)       第3次朝鮮教育令実施         内鮮共学・朝鮮語正課の廃止・日本語の常用 国民精神総動員朝鮮連盟が発足 1939年 「創氏改名」公布 1940年 「創氏改名」実施 などです。この中の神社参拝についてスカンクさんは#755で、「もっとも 神道は何でも神にするところがありますので一概には言えませんが強制するよ うなものではありません」と書いておられます。    しかし歴史的事実として、この当時、神社参拝強制をめぐって犠牲者ま で出ました。1938年9月、キリスト教長老派協会は警察官立ち会いのもと に「神社参拝」を泣く泣く決議しましたが、これに反対する2千人の牧師・教 徒が検挙投獄されました。そのあげく200余の教会は閉鎖され、そのうち5 0余名が獄死しました。神社参拝が強制でなければこのような事件は決して起 こらなかったのではないでしょうか? キリスト教徒が強制なしに自ら進んで 神社に参拝するなんて私にはとうてい考えられません。    一方、38年に結成された国民精神総動員朝鮮連盟の活動は注目に価し ます。この下部組織の各道地方連盟は総督府の行政機構と一体となって組織さ れました。また、その基礎組織として10戸を標準とする「愛国班」が作られ、 39年にはほぼ全人口が網羅されました。    この「愛国班」が民衆レベルでの具体的な政策の推進体となり、宮城遥 拝、日の丸掲揚、勤労貯蓄など30項目が指示され、日常生活の細部まで皇民 化が図られました。しかもこの「愛国班」はそれなりの力を持っていました。 この「愛国班」を通して物資の配給が行われたため、民衆は「愛国班」に協力 せざるを得ず、結果的に民衆の生活は連盟の手に握られるようになってしまい ました(宮田節子記「皇民化政策」、朝鮮を知る事典・平凡社より)。    この国民精神総動員朝鮮連盟の活動は学校教育と並んで創氏改名の大き な推進力になったのではないかと思います。学校教育の効果ですが、梶山季之 の小説では主人公の薛鎮永氏が、学校で皇民化教育を受けた孫を通しての圧力 に負けてついに創氏改名を行い、自ら命を絶つという悲劇に終わりましたが、 学校での皇民化教育は相当なインパクトがあったのではないかと思います。    さて「皇民化」政策の最終目標の徴兵制ですが、1942年、総督府は 何の予告もなく、1944年度から徴兵制を実施すると発表して朝鮮全土を驚 かせました。朝鮮人にとってほとんど意義や大義名分のない日本の侵略戦争に は相当な反発があったものと思われます。それを裏付けるように、その時の徴 兵忌避の模様を第85回日本帝国議会説明資料が如実に語っています。   「適齢子弟をして或いは逃亡所在をくらまさしめ、或いは戸籍年齢を訂正 して之を忌避せんとし、或いは適齢者なるの故を以て結婚を破棄せんとするが 如き傾向なしとせざりしを以て之等に対しては強烈なる指導と啓蒙を加え来れ る結果、・・・」(山辺、同上。ただし、カタカナは平がなに変換)    こうした抵抗もあまり効果がなかったようで、結局20万人が徴兵検査 を受け入営し、相当数が戦地へ送られました。中には戦死したり傷病兵になっ たりした人がかなりいましたが、ほとんど何の保護や補償も受けられませんで した。これについては今でも日本で未解決の問題として係争中です。   http://www.han.org/a/half-moon/        半月城


文書名:創氏改名(4) [zainichi:701] SOUSI KAIMEI(4) Message-Id: <9609192050.NAA15377@hopemoon2.lanminds.com> Date: Thu Sep 19 13:50:38 1996 Reply-To:    文字化けを起こしてしまったようなのでもう一度送ります。 創氏改名(4),RE:[ZAINICHI:683]    倭奴さん、ご声援ありがとうございます。ご推察のとおり、私はFNE TDでの論戦に多忙な毎日です。そのため、倭奴さんの書き込みには十分答え ることができずにいます。その埋め合わせというわけではありませんが、創氏 届けが締め切り間際に急増したありさまを数字で示したいと思います。 1940年  2月(11日スタート)    15、746戸  3月             45、833  4月             95、495  5月     343、766  6月            580、724  7月          1、071、829 8月(10日締め切り) 1、067、300     締め切り間際の10日で100万件の創氏届けがなされたのは驚くば かりです。創氏届けが強制的になされたようすを「従軍慰安婦」の証言から紹 介します。        ーーーーーーーーーーーーーーーーー     韓国の場合、どの程度「従軍慰安婦」の強制性があったかを示す資料 としてちょっと古くなりますが、韓国政府が「従軍慰安婦」13人から聞き取 り調査をした中間報告書(92.7.31)があります。そのうちの7人が毎日新聞(92. 8.1)に紹介されていました。これについては以前紹介しましたがそれを再掲し ます。 (1)1938年8月、日本式の名前に強制的に変えさせる「創氏改名」に反 対したことを理由に家族が警察に連行された。「愛国奉仕隊」に志願すれば父 が釈放されると聞き志願した。しかし、すぐに慰安婦にされジャカルタに連れ て行かれた。途中で不妊手術を受けた。46年、船で帰国した。 (2)以下略     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    50年前の証言なので多少あいまいなところはありますが、家族が「創 氏改名」に反対し連行された証言は注目されます。このようなことでもなけれ ば、届出にほとんどメリットのない創氏届けを日に平均10万件も出さないの ではないかと当時を想像しています。     http://www.han.org/a/half-moon/     半月城


文書名:[zainichi:659]族譜、RE:655 Message-Id: <9609092139.OAA27945@hopemoon2.lanminds.com> Date: Mon Sep 9 14:39:35 1996 Reply-To: 創氏改名後の本貫や性については、「創氏改名(2)」に書いたとおり ですのでこれにはふれず、倭奴さんの次の疑問にコメントしたいと思います。  >でも、元々女性は族譜に記載されず、また実際には戦前の朝鮮で既婚女性が >姓で呼ばれることはほとんどなかった、という話を読んだことがあるような >気がするのですが、事実はどうなんでしょうね。    女性の扱いはどうなのかを我が家の「大同世譜」で確かめてみました。 この大同世譜は族譜をもとに製本出版したものです。 大同世譜の中には女性も間違いなく記載されています。記載方法は、女 某々(名)と生年月日が書かれています。男性の場合は、子某々(名)と生年 月日、業績(あれば)が書かれています。男性と女性とで違うのは結婚後の扱 いです。結婚後の女性の書き方は次の二通りです。 1.本人の名が消え、代わりに夫の姓名が書かれている。    その後に子(男子)の姓名が付記されている。  2.本人の名はそのままで、付記で夫や子(男子)の姓名が書かれている。 この違いはどこからくるのかよくわかりません。夫の社会的地位が関係 しているのかも知れません。  半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/09/18 - 01000/01000 PFG00017 半月城 日系人の強制収容と国際法 ( 7) 96/09/18 23:37 00922へのコメント    私は#907で日系人の強制収容について、 >   この流れを、阿部浩己・神奈川大助教授(国際法)は、 >「慣習国際法では、国際法違反の場合、国家責任として金銭的補償や謝罪をす >べき基本原則が確立しているのに、日本はその原則を守っていない。戦争責任 >者の処罰も、旧ユーゴスラビア内戦でみられるように、国際的な大きな流れだ」 >(94.2.5 毎日新聞、大阪)と語っています。(雑談、略) >   こうした潮流の中で、アメリカは戦時中に強制収容した日系人に対し大 >統領が謝罪し、一人あたり2万ドルの謝罪金を支払ったのは記憶に新しいとこ >ろです。これなどもこの基本原則に沿ったものといえます。 と書きました。これに対し河原さんからは >これは「日系人」すなわち日本系アメリカ人に対するもので、アメリカ政府は >自国民に対して「謝罪」と「賠償」をおこなったのです。 とコメントをいただきました。また、DONALDさんからは >これは良く知られた話ですが、アメリカ合衆国がアメリカ合衆国の国民に対し >て、行った人種差別的措置に対する賠償です。戦争犯罪とは別の話ではないで >しょうか。 とコメントをいただきました。私の文章は説明不足のせいで、多くの方には、 私が「戦争犯罪と無関係」な日系人の問題を唐突的に持ち出したという印象を 与えてしまったのではないかと思います。    その文章で私が強調したかったのは、 「慣習国際法では、国際法違反の場合、国家責任として金銭的補償や謝罪をす べき基本原則が確立しているのに、日本はその原則を守っていない」 という主張の中の「基本原則」です。    ここで、日系人の強制収容がなぜ国際法違反なのかと新たに疑問を持た れるかも知れません。日系人の強制収容は国際法でいう「人道に対する罪」に 該当すると私は考えています。この罪は戦後になって欧米諸国が、ナチスの行 為、特にドイツ国民であったユダヤ人を大量虐殺した行為を裁くためにニュル ンベルグ裁判で実定化したものです。この罪について吉見教授は著書「従軍慰 安婦」(岩波新書)のなかで次のように述べています(P173)。 人道に対する罪    人道に対する罪という概念は、第一次世界大戦後のドイツとの講和条約 の締結の中にすでにあらわれている。これが、実定化されるのは第二次世界大 戦後に開かれたニュルンベルグ国際軍事裁判所であった。そして、これは極東 国際軍事裁判所条例でも取り入れられた。    その五条(ハ)は人道に対する罪を「戦前又は戦時中なされたる殺人、 殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為」あるいは「政治的又は人種的 理由に基づく迫害行為」と定義している。それは通例の戦争犯罪に限定されな い非人道的行為をいい、戦中や戦地での犯罪に限らない。    この解説によれば「追放その他の非人道的行為」および「政治的又は人 種的迫害」という点で、日系人強制収容は疑うことなく「人道に対する罪」に 相当します。ただ、この罪の適用は「法の不可遡及」という点で議論があるか も知れませんが、ことアメリカに関してはニュルンベルグ裁判の推進者であっ た事実を考えれば、これをアメリカに適用するのは不適当ではないと思います。    しかし、日系人強制収容を「人道に対する罪」として追求する声はあま り聞かれなかったように思います。もっとも、「人道に対する罪」を持ち出さ なくても他に解決の道があったので、あえて国際法を持ち出すまでもなかった のかも知れません。    ところで、河原さんも DONALD さんも日系人をアメリカ人としています が、彼らの中で一世の国籍は本当にアメリカだったのでしょうか? うろ覚え なのですが、一世はアメリカで土地取得などに制限があったように聞いていま す。そうであるとすると、一世はアメリカ国籍は持っていなかったのではない かと思われますが実情はどうだったのでしょうか? 一方、二世・三世は出生 地主義のアメリカではほとんどアメリカ国籍を持っていたことは疑いないと思 います。    なお、この時のアメリカの補償支払いに対する考え方は注目に値します。 一橋大の田中教授によれば   「そういえば、アメリカとカナダは大戦中の日系人強制収容問題について、 「謝罪と補償」を行ったが、両国は89年に日本にも係官を派遣し、その問い 合わせに応じたり、申請の受付を行った。「当時の収容者であれば、その後ど こに住み、どこの国籍を持つかによって影響は受けないのである」 (田中宏他著「戦争責任・戦後責任」朝日選書P46、1994) としています。こうした考えにアメリカの懐の深さを感じます。といっても、 アメリカは人権問題での努力は評価しますが、実情は決して胸を張れるような 国ではないと思っています。それでもこうしたやり方を日本は少し参考にすべ きではないかと思っています。


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00881/00882 PFG00017 半月城 クマラスワミ報告書(3) ( 7) 96/09/10 22:33 00798へのコメント 「従軍慰安婦」35 >  クマラスワミ報告書が信憑性に欠けるということは再三申しているのに、 >何度も出してこられるので、この際、その理由を再度提示しておきましょう。  河原さんがクマラスワミ報告書の信憑性に疑問を抱いている根拠は週刊 新潮の記事だけでしょうか? そうであるとしたら少し意外です。いつもは資料 を丹念に調べて書き込みをされる河原さんの手法にそぐわないからです。    週刊新潮も重要な情報源のひとつには違いないのですが、その週刊誌の 限界をよくご存知の河原さんにはちょっと似つかわしくない書き込みのように 思われます。失礼ですが、河原さんは「クマラスワミ報告書」はお読みになっ たでしょうか?    このような疑問を私が持つのは、吉田清治氏の取り上げ方などが気にな るからです。クマラスワミ報告書を批判するのに、報告書の中に書かれている 吉田氏の記述については何もコメントせず、吉田氏を職業的詐話師と酷評する 「大学教授」の週刊誌での発言をストレートに受け入れ紹介している姿勢が気 になるのです(注)。    河原さんがもしクマラスワミ報告書をお読みになっていたらご存知でし ょうが、報告書は吉田氏の「奴隷狩りの告白」を紹介する一方で、この著書に 秦教授が反論した事実も併せて紹介し、公正な立場を貫こうとしています。そ うした観点から、報告書は日本政府の主張などもかなり紹介しています。この ように、物事を客観的に記述しようとする姿勢は確かで、その論理展開を私は 高く評価しております。    もちろん、これだけの大問題の報告書ですから、調査不十分なところが あったり、中にはいろいろ間違いもあることと思います。特に、先ほどの週刊 誌によれば秦教授の主張を曲げて紹介したそうですが、全体的な展開からすれ ばもちろんこれは意図的なものではないように思われます。こうした問題があ るにせよこの報告書は、軍の奴隷とされた「従軍慰安婦」の問題の本質をよく とらえた力作であると私は思います。    こうした評価は私だけではなく、今や国際世論として定着した感があり ます。それは国連人権委員会での討議に如実に現れています。委員会での各国 の反応は次のように報告書に対し日本以外は好意的でした。 オランダ「クマラスワミ氏の働きはすばらしく、質が高い」 中国  「報告書は戦時中の日本による『慰安婦』の犯罪行為を暴いた」 フィリッピン「『慰安婦』にされた国民がいる国として報告を注意深く読んだ。   被害者の利益を焦点に対話が続けられるべきである」 北朝鮮 「日本は未だに過去の犯罪を償おうとする意志を示していない。報告   書は日本に対し、自らが犯した罪の国家的法的責任を認めるよう明示して   いる」 韓国  「この報告書は、慰安婦の事例における女性と少女に対する誘拐と組   織的強姦が民間人に対する非人道的行為、また人道に対する罪を構成する   ことを明確にした。報告書はさらにサンフランシスコ平和条約を含む関連   諸条約の意図には、元慰安婦による個別の請求は含まれず、日本による戦   争遂行中の女性の人権侵害には関係ないとした。従って特別報告者の結論   は、サンフランシスコ平和条約および後続の二国間条約にもかかわらず    (日本政府は)法的責任を負ったままであるということである。     韓国政府は確信するものであるが、もし日本政府が前内閣官房長官が   表明したとおり、歴史的事実を避けることなく真剣に見つめ、歴史の教訓   として心にとどめると真に決意しているのなら、過去の侵略行為を法的に   認め、まずなすべきことは率直な形で当然果たすべき責任を取ることであ   る」    このように国際的に高い評価を受けているクマラスワミ報告書ですから、 日本政府はこの精神に沿うような対応を採るべきであると思います。 (注) 私は吉田氏の告白を全面的に鵜呑みにしているわけではありません。 ある種の脚色は当然あり得ると考えています。しかし、吉田氏は韓国最大の集 団墓地「望郷の丘」に、自身の行いを反省する「謝罪の碑」を自費で90年こ ろ建てた人です。私にはどうしても秦教授のように、吉田氏が職業的詐話師で あるとは思えません。    http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 00907/00908 PFG00017 半月城 クマラスワミ報告書(4) ( 7) 96/09/13 00:15 00894へのコメント 「従軍慰安婦」36 DONALDさん、河原さん、こんにちは。DONALDさん曰く(#894) >| このように国際的に高い評価を受けているクマラスワミ報告書ですから、 >|日本政府はこの精神に沿うような対応を採るべきであると思います。 >引用が多くてすいません。この件に関して、当事国でない国の意見を聞きたい >ものです。 >「このように国際的な高い評価」というのは我田引水にも見えます。    DONALDさんのおっしゃるとおり、「従軍慰安婦」当事国だけの発言を取 り上げて国際的な評価としたのでは片手落ちでした。    問題の「従軍慰安婦」当事国以外のクマラスワミ報告書に対する反応で すが、欧州連合(EU)、オランダ、英国など十カ国が「クマラスワミ報告を 歓迎する」などの言い回しで、家庭内暴力問題、慰安婦問題などからなる報告 全体を評価しました(注)。こうした事実をもとに、私はクマラスワミ報告を 「国際的に高い評価」と表現しました。    #897、河原さん >たしかにクマラスワミ報告書は読んでおりません。日本語の訳文が公刊されて >いるとは知らなかったからです。 >そこでお願いですが、報告書にある「秦教授の反論」を紹介していただけない >でしょうか。あわせて「日本政府の主張」の部分もお願いします。    報告書の中で「秦教授の反論」は半ページ近くもあり、吉見・中央大教 授の紹介文より多い行数がさかれています。「日本政府の立場」にいたっては 3ページ余もあり、引用は骨が折れます。申し訳ありませんが原典(日本語、 英語)を直接あたっていただけないでしょうか。「R.クマラスワミ報告書」 は簡単に入手できます。発行は「日本の戦争責任資料センター」(TEL 03-3366 -8261)で定価1000円です。    ところで河原さんは >なお、私がクマラスワミ報告書に不信感を抱いている根本は、もともと彼女は >ユーゴ内戦における女性虐待を調査することを依頼されていたはずです。それ >がたまたま(私のいう「反日人」たちによる)日本からの訴えを抱き合わせに >取り上げたというところにあります。 と書いておられますが、国連の活動の経過からすると私には逆に思えます。過 去、「従軍慰安婦」が国連でどのように扱われて来たかを知っていただくため にために、長くなりますが「国連の活動」をFASIAから転載します。 |- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 |01989/01989 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」8、国連の活動 |(10) 96/06/14 23:39 01945へのコメント このへんで、「従軍慰安婦」問題が世界からどのようにみられている のかに焦点を当てたいと思います。特に、「従軍慰安婦」問題は「国際問題」 であるだけに国際的な視野でとらえる必要があります。この視点から今回は国 連の活動を紹介します。     国連の人権委員会は早くから慰安婦の問題について関心を寄せていま した。日本政府が初めて公式に謝罪した翌月(92年8月)には、差別小委 (差別防止及び少数者保護小委)で特別報告官が「日本政府に資料提出を求め る」など本格的な調査を開始しました(毎日新聞、92.8.22)。 この「特別報告官」とは、元国連人権センター所長を歴任したオラン ダ人の法律家ファン・ボーベン氏で、人権委員会から「人権と基本的自由の重 大な侵害を受けた被害者の現状回復、賠償および更正を求める権利」について の研究を委託されていました。     このボーベン氏は民間団体の招待で、92年12月に日本にも立ち寄 りました。このとき、ボーベン氏は旧日本軍の慰安婦問題について「(日本は) 補償問題を検討し、過去の事実を収集、記録、保管する『国際センター』が必 要だ」と述べ、「これは日本人自らが設置し、アジアの信頼を回復しなければ ならない」と強調しました。 ボーベン氏は国連に対し、90年に予備報告、91年と92年に中間 報告、93年に最終報告をしました。その中で特に、従軍慰安婦などのように 国際的に違法だと認識されている人権侵害は、個人に国家賠償を請求する権利 があり、加害国はこうした行為を行った責任者を処罰し、被害者を救済する義 務があると結論づけました。 差別小委ではこの報告をさらに深めるために、旧日本軍による従軍慰 安婦、強制労働問題などの人権侵害を調査する「特別報告官」の設置を決めま した。この特別報告官には、アメリカ人女性のリンダ・チャベス委員が任命さ れました(93.8.25)。     これにより日本政府は苦境に立たされました。これまで、日本政府は 慰安婦問題が国連の場で扱われないよう画策してきましたが水泡に帰しました。 日本政府の方針は、「国連は、創立以前に起きた国同士の問題を議論する機関 ではない」として、暗に戦中の慰安婦や強制連行を扱わないよう主張してきま したが、この意見は国際社会ではまったく通用しませんでした。のちに紹介す るように国際的な流れに逆行していたからです。 それどころか日本政府にとって、国連の人権委での議論の展開はビッ クリすることばかりでした。国際的な民間平和推進・人権擁護組織であるIF OR(国際友和会)が、なんと慰安婦制度を立案・実行した責任者の処罰を提 案しました。その骨子は次のように日本政府にとって厳しいものでした。  (1)従軍慰安婦問題は、時効による免責規定がない国際条約「強制労働に    関する条約」(日本の批准は1932年)などに明確に違反する。  (2)日本は批准後、条約の精神を具体化する法整備を怠っている。  (3)過去にさかのぼって責任者の処罰をおこなうための立法化を進める義    務がある。       この主張はちょっと突飛にみえます。近代法では「法の不可遡及」、す なわち法律成立以前の行為については責任を問われないというのが原則です。    こうした原則にもかかわらず、責任者処罰は先進諸国では国際的な流れ になっています。過去の戦争犯罪者を裁けるように、ドイツでは79年に、カ ナダでは87年、オーストラリアでは88年、イギリスでは91年に国内法の 整備をし、時効を停止するなどして戦犯を裁いてきました。    この流れを、阿部浩己・神奈川大助教授(国際法)は、 「慣習国際法では、国際法違反の場合、国家責任として金銭的補償や謝罪をす べき基本原則が確立しているのに、日本はその原則を守っていない。戦争責任 者の処罰も、旧ユーゴスラビア内戦でみられるように、国際的な大きな流れだ」 (94.2.5 毎日新聞、大阪)と語っています。どうやら、国際法では「時効」が ないことと相俟って通常の国内法とはだいぶ感覚が違うようです。このあたり、 国際法にくわしい方の解説を求めたいと思います。    こうした潮流の中で、アメリカは戦時中に強制収容した日系人に対し大 統領が謝罪し、一人あたり2万ドルの謝罪金を支払ったのは記憶に新しいとこ ろです。これなどもこの基本原則に沿ったものといえます。    さて、このIFORの提案に応じ、アジア各国のNGO、日本・フィリ ッピン・韓国・北朝鮮なども処罰問題を提起しました。もちろん、韓国・北朝 鮮政府も同調しました。その結果、IFOR提案は多くの賛同を得て正式な 「国連文書」として配布されました (94.2.17 毎日)。    一方、国連での議論は日本政府にとって時には好ましいこともありまし た。先に、差別小委で可決された特別報告官の設置が「財政難」などの理由で、 上部機関の人権委から小委に差し戻されてしまいました。    しかし、これで国連が慰安婦問題の追求を放棄したわけではありません。 この問題はその後「女性に対する暴力問題」特別報告官のクマラスワミさんに 引き継がれました。クマラスワミさんはスリランカの民族学研究国際センター 所長としてアジア地域の女性問題に取り組んできた女性法学者ですが、94年 4月に特別報告官に任命されました。    クマラスワミさんは人権委に提出した予備報告書の中で、慰安婦問題を 「犯罪」と認定する立場を明らかにしました。そのさわりを毎日新聞から引用 します(95.1.10)。        ーーーーーーーーーーーーーーーー    特別報告官は慰安婦問題について、今月(95年1月)三日に公表され た予備報告書の「国家が犯したり、承認した暴力」の章で報告。特に「(慰安 婦に対する)行為は国際人道法のもとで犯罪と認定されねばならない」と主張。 また「不処罰」の項で「(戦時の行為に対する)不処罰性は、国家に対する女 性の無力さの証明」と説明。戦時暴力への処罰を厳しく要求しているだけに、 報告官が慰安婦問題でも犯罪の認定から処罰への方向をたどるのはほぼ間違い ない。 ーーーーーーーーーーーーーーーー クマラスワミさんは「国連調査団」として、この年の7月に日本を訪問 しました。国連調査団が日本を訪れたのは、旧国際連盟が「満州国」問題で派 遣したリットン調査団以来のできごとです。    こうしてアジア各国での調査をもとに、つい最近クマラスワミさんは9 6年3月、最終報告書を人権委に提出しました。これについては次回紹介しま す。 一方、責任者の処罰に対する日本政府の考えは、     (1)人道に対する罪を裁く国内法がない     (2)刑事事件としては時効が成立している などを理由に処罰を回避しています。この方針のもとに東京地検は昨年1月、 韓国の元慰安婦らが旧日本軍責任者の処罰を求めた告訴を受理しませんでした。 こうした口実は国際世論の中でいつまで通用するのか疑問です。日本は国際法 遵守のために国内法の改正が内外から要望されていますが、こうした動きは日 本国内であまり活発でないようです。  (つづく)                   半月城 (注)朝日新聞ニュース速報 04/17 10:44 朝: ◇日本への支持発言はゼロ――慰安婦問題の国連人権委◇  国連人権委員会で、旧日本軍の従軍慰安婦問題を含む「女性に対 する暴力」問題の討議が十六日までに終了した。被害者個人への国 家補償などを日本政府に求めたクマラスワミ人権委特別報告者の報 告書・勧告が慰安婦問題討議の焦点だったが、「サンフランシスコ 講和条約などで解決済み」とした日本政府の立場を支持する発言は 政府、非政府組織(NGO)を通じてなかった。  慰安婦問題に言及した政府は、人権委メンバー五十三カ国のうち 韓国、中国、フィリピンの三カ国だった。朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)はオブザーバー参加国として発言した。いずれもかつて の慰安婦の出身国だが、特に南北朝鮮はそろって日本政府に厳しい 注文をつけた。韓国はクマラスワミ勧告の即時受け入れを日本に要 求、北朝鮮は日本政府が進めている「女性のためのアジア平和国民 基金」(アジア女性基金)を「責任逃れのためにつくられた」と批 判し、「日本の犯罪行為の清算が緊急の課題だ」と述べた。  一方、中国は「報告は日本の犯罪を暴いた」と指摘し、「日本政 府がこの問題で責任ある態度を取ることを求める」と抑えた表現な がら、日本政府の新たな措置を求めた。アジア女性基金には触れな かった。フィリピンは日本政府の取り組みを評価したが、「今後も 話し合いを」として「解決済み」との態度は表明しなかった。  このほか、欧州連合(EU)、オランダ、英国など十カ国が「ク マラスワミ報告を歓迎する」などの言い回しで、家庭内暴力問題、 慰安婦問題などからなる報告全体を評価した。また、ジュネーブの 日本政府代表部の集計によると、中華全国婦女連合会など九つのN GOが勧告を支持する立場から慰安婦問題に触れる発言をした。


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