#3407/3407 日本史ボード
★タイトル (SPM07550) 96/ 9/29 15:12 (110)
倭人の国はどこ? RE:3393
★内容
> 半月城さんさっそくのレスを有難うございました。今日は、台風が過ぎた後
>買い物に行き、岩波文庫の「三国史記倭人伝」を買ってきました。その新羅本
>紀倭人伝の冒頭に「倭人が軍隊を連ねて、辺境を侵犯しようとした。」とあり
>ましたが、日本人は昔から朝鮮半島を侵略していたようで今もあまり変わらな
>いなと感じました。
倭は侵略的との見方は中国では当てはまらないようです。中国では倭と
は事を構えたことがなかったせいか、倭はその字義のとおり従順のイメージが
強かったようです。もっとも中国にとって倭は遠い外国であり、その居住地す
らはっきりしない存在で、倭に関する文献は乏しく曖昧です。
一方、朝鮮にとって倭は凶暴な侵略者のイメージが強かったようです。
カーターさんが書かれていた新羅への侵略ですが「新羅本紀第二原典(国史)
地名表」では3世紀初頭から6世紀初頭まで、前後6回あったそうです(諏訪
春雄編「倭族と古代日本」、雄山閣)。
しかしこのときの倭はどこなのか、その根拠地は不明です。この史書に
限らず、高句麗の好太王碑文に書かれている倭の根拠地も不明です。朝鮮史史
料で倭の根拠地を知る手がかりは、わずかに伝承類を集めた「三国遺事」に1
3例があるだけです。その本では1世紀から倭が登場しますが、そこに書かれ
ている倭の根拠地を古代朝鮮史が専門の井上秀雄氏が分析しています(同上書)。
それによると倭の所在地は
新羅に南接 4例
朝鮮南海岸 4
〃 または北九州 1
北九州か日本全体 1
大和王朝 1
神話・伝説の日本 1
不明 1
こうしてみると、古代朝鮮では倭の主な根拠地は朝鮮半島にあったと理
解しているようです。ご存じかも知れませんが、以下に井上氏の説を紹介しま
す。
倭が朝鮮半島にもあったとする解釈は中国の史書にもかなりみられます。
5世紀前半に編纂された「後漢書]では
韓には3種があり、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓の北は楽浪郡と、南
は倭と接している。弁辰は辰韓の南にあって、これまた12国ある。弁辰の
南もまた倭と接している(韓伝)。
後漢の光武帝の建武中元2年(57)に、倭の奴国王が遺使して、貢物
を奉り、朝貢した。奴国は倭の最南端の国である。光武帝は奴国王に印綬を
与えた(倭伝)。
奴国は通常、福岡市と考えられていますが、このあたりを最南端とする
倭人の居住区域は日本列島が中心ではなく、朝鮮半島南部が中心になります。
しかし、同じ倭伝の冒頭には日本列島中心説や中国福建省東方説もあり
ます。すなわち、
倭は、韓の東南方の大海の中にあって、人々は山の多い島に居住してお
り、すべてで百余戸になる。(中略)楽浪郡の南の境界は、邪馬台国から一
万二千里も離れており、倭の西北と境界を接している拘邪韓国から七千余里
離れている。倭の地はおおむね会稽郡東冶県(福建省福州付近)の東方であ
って、朱崖郡・・・にも近い。
とあります。このように後漢書が書かれた五世紀になっても、まだ倭の位置は
諸説あってあまりよくわかっていなかったようです。
ところで、後漢書にみえる倭の地理的関係を示す記事は、三世紀後半に
編纂された「三国志」によったものといわれていますので、こちらのほうの記
事もあたってみることにします。
1. 韓は帯方郡の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接して
いる。韓の広さは4千里四方ほどである(韓伝)。
2.弁辰の国々から鉄を産出する。韓族・わい族・倭族が皆鉄をとっている。
どの市場の売買でも、みな鉄をもちいていて、それは中国で銭を用いるのと
同じである。(中略)男女の習俗は、ともに倭に近く、また、男女ともに文
身(いれずみ)をしている(第一弁辰伝)。
3.弁辰の涜廬国は倭と境界を接している(第二弁辰伝)。
4.倭の人々は、帯方郡の東南にあたる大海の中に住んでいて、山や島によっ
て、国や村を作っている。もと百余の国々にわかれていた。漢の時代には、
朝貢してくる国もあった。いま通訳を連れた使者が、朝貢してくるところは
30国である(倭人伝、1)。
5.帯方郡から倭にゆくには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓族
の国をへて、しばらくは南に、しばらくは東に進んで、その北岸の拘邪韓国
に到達する。その間の距離は七千余里である(倭人伝2)。
6.帯方郡より女王国にいたる間の距離は、1万2千余里である。
7.帯方郡からの里程を計算してみると、倭はちょうど会稽郡東冶県(福建省
福州付近)の東方にあることになる(倭人伝4)。
8.女王国の東海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。いずれも倭種
の国である(倭人伝5)。
9.倭の地を尋ねると、倭人たちは、遠くはなれた海中の島々に住んでいて、
あるいは海でへだてられ、あるいは陸地つづきになっていて、島々を巡って
いくと、五千余里になる(倭人伝6)。
このように、「三国志」東夷伝にみられる倭の記事は、多様な情報が錯
綜しています。とくに、倭人の居住地が後漢時代をひきついで、韓族諸国家に
隣接する倭人の居住地と、そこから海を越えて島々に点在する倭人の国があっ
たと述べています。
「三国志」の編者陳寿が、東夷伝の序文や跋文に述べているように、外
国の事情は理解できないことが多いのです。魏時代になって、それまでよくわ
からなかった東方異民族のことが次第にわかるようになりました。しかし、2
44・245年に高句麗と戦った魏軍が通過した地域でも、「国々の掟や習俗、
国の大小・国名などがわかるようになった」という程度でした。その他の地域
は、通訳を伴った使者がときどきやってくるようになった。そこで、これらの
使者の話にしたがって記述するが、それらが東夷の事情を正確に伝えるとは言
えないといっています。
こうした歴史書の分析をもとに、井上氏は次のように述べています。
「今までは、倭を日本の固有の民族名、地域名と考えられてきましたが、古代
の中国や朝鮮では、このような用法はみられませんでした。また、日本の古典、
とくに記紀でも、このような用法は、特殊な事例しかみられません。このよう
に、倭の用法は、平安時代以来、日本の別名のように扱われてきましたが、考
え直す必要があります」
なお、記紀での倭の用法は省きましたが、記紀では、倭は自分自身のこ
とであり、地域的には大八州の中心である現在の奈良県だけをさしていたと、
井上教授は主張しています。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策
00952/00952 PFG00017 半月城 日鮮同祖論
( 7) 96/09/15 12:56 00901へのコメント
因さん、私の代わりに「日韓交流の歴史」連載の背景を説明していただ
きありがとうございました。このシリーズはそのまま日本の海外政策の歴史に
深く関係していることはいうまでもないと思います。
いつの時代でもその時点での政策の決定の際には、過去の歴史が念頭に
置かれます。その悪い例が朝鮮の植民地支配でした。古代において朝鮮半島を
倭が支配していたという誤った戦前の皇国史観が、日本が朝鮮を植民地支配す
る精神的支えになり、そこを出発点に日本はアジア侵略の不幸な道を走りまし
た。その誤った海外政策のもとになった皇国史観の虚構を私は強調したいので
す。
河原さんが、このシリーズを評して「まさか、戦前の『日韓同祖論』の
裏返し、つまり朝鮮が元で日本は末ということを論証したいわけではないでし
ょうね?」と発言されているところをみると、私の試みは少しはうまくいって
るのかも知れません。といっても、私の目的はそのような偏狭な論証ではあり
ません。最新の学問の成果を知るのが目的です。
戦前、皇国史観の代表とみなされた「日鮮同祖論」は金沢庄三郎博士に
よって書かれましたが、78年、この新版が成甲書房から出版されました。そ
の序文に興味を惹かれる一節がありましたので引用します。
「金沢庄三郎博士は良心的な学者に数えられたし、また博士は朝鮮語、
中国語、蒙古語、満州語、アイヌ語などにも通じて学問的水準がもっとも高か
った学者であっただけに、(日鮮同祖論は)博士を信頼していた人々に疑問を
抱かせた部分がありました。この点に関して、博士もたいへん悩んでおられた
ようで、甥ごさんに対して、”不本意ながら『日鮮同祖論』とか『日韓両国語
同系論』などで、日本が本元であったと書いたが、ほんとうは逆に思っている
”ともらしたそうです。
このことを今は亡き鈴木武樹明治大学教授が甥ごさんからきいて、金沢
博士の「日鮮同祖論」を再検討して、博士がやむなく皇国史観の通説をとられ
たと思われるところに注をつけ、現代語にして読みやすくした形で出版したい
と思いたたれ、金沢博士のお孫さんと成甲書房の三者で話がまとまったのです。
しかし、この事業の途上において・・・」
これが真実であるとすれば実に心外な話です。不本意ながら説を曲げて
書いた「日鮮同祖論」が広く流布し、日本の海外政策に影響を与えたとは、ま
ったく罪作りな学者です。これを曲学阿世といったら言い過ぎでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策
00951/00952 PFG00017 半月城 創氏改名(3)
( 7) 96/09/15 12:56 00863へのコメント
河原さんが#863で書かれた創氏改名に対する事実認識は私との間に
大きな違いはありません。なにしろ珍しくお互いのタネ本の著者の一人が共通
するのですから認識の差はほとんどないと思います。裏を返せば、それだけこ
の問題の研究者が少ないということでしょうか。
さて今回は「創氏改名」の推進論者すらが、「朝鮮人の反感を買うに過
ぎない結果となった」と認めるほどの拙劣な海外政策がなぜ計画されたのか、
そのあたりの事情を「皇民化」政策やその背景との関連で少し書きたいと思い
ます。
植民地時代の朝鮮総督は、簡単に一口でいうと司法・行政・立法の権限
を手中にした権力者でした。その歴代の総督にはほとんど軍人が就任しました。
「創氏改名」当時の南次郎総督もやはり軍人でした。まずはこの人の経歴を
「朝鮮を知る事典」(平凡社)から紹介します。
南次郎(1874-1955)
1890年 成城学校へ転校、軍人への道を歩む
1904年 日露戦争時、大本営参謀
23年 陸軍士官学校長
29年 朝鮮軍司令官
34年 関東軍司令官
36年 朝鮮総督(8月)
戦後 A級戦犯として巣鴨に拘留される
これからわかるように、彼は朝鮮総督になる前は関東軍司令官でした。
そうした経歴から南総督は朝鮮を軍事的視点から満州の延長線上にとらえ、
「鮮満一如」や「国体明徴」を五大政策の柱にしました。具体的には朝鮮を大
陸進出のための兵站基地と位置づけ、38年、各道の産業部長に次のように訓
示しました。
「第一は帝国の大陸前進兵站基地としての朝鮮の使命を明確にすることで
あります。現事変(日中戦争)に於て我が朝鮮は、対支作戦軍に対して食糧、
雑貨等相当量の軍需物資を供出し幾分の効果を呈し得たのであります。
しかしながら此の程度においては猶ほ心細く将来更に大いなる事態に面
した時には、仮にある期間大陸作戦軍に対して内地よりの海上輸送路を遮断さ
るる場合ありとするも、朝鮮の能力のみを以て之を補充しうる程度までに、朝
鮮産業分野を多角化し、特に軍需工業の育成に力点を置いて万全を期する必要
があること、之がその内容です」
(山辺健太郎著「日本統治下の朝鮮」岩波新書)
このような政策のもとに朝鮮の兵站基地化を目指し、前任者の農業振興
政策を手直しして「農工並進」政策を掲げ軍需産業の振興に力を入れました。
余談ですが、南総督は対馬海峡が閉鎖される場合を想定するなど、軍人として
は先見の明があったようです。
さて、兵站基地化政策は物資面だけにとどまらず、兵員補給の面まで当
然考慮されました。侵略戦争の拡大と共に不足する兵力を補うため、朝鮮人を
活用する方針は容易に考えられることです。南総督の伝記によれば、<朝鮮統
治の最終目標は、朝鮮に陛下の行幸を仰ぐことと、朝鮮に徴兵制を敷くことの
ふたつであった>とのことでした。南総督は軍人らしく相当に徴兵制にはこだ
わっていました。
一般に、徴兵制を植民地で実施するのは容易ではありません。よほど巧
妙に実施しないと、戦闘訓練を受けた青年は最終的には銃をどちらに向けるの
か予断を許しません。支配者に銃を向けたのでは、何のための徴兵制かわかり
ません。こうした事態を避けるため南総督は、朝鮮青年が身も心も天皇に捧げ
るような方策を考え、その答として朝鮮人を「皇国臣民」たらしめんとする
「内鮮一体化」政策を徹底的に推進しました。皇民化教育の主なものをあげる
と
1937年 一面(村)一神社建立 、神社参拝強要
「皇国臣民の誓詞」を職場や学校で斉唱指導
1938年 (志願兵制度公布)
第3次朝鮮教育令実施
内鮮共学・朝鮮語正課の廃止・日本語の常用
国民精神総動員朝鮮連盟が発足
1939年 「創氏改名」公布
1940年 「創氏改名」実施
などです。この中の神社参拝についてスカンクさんは#755で、「もっとも
神道は何でも神にするところがありますので一概には言えませんが強制するよ
うなものではありません」と書いておられます。
しかし歴史的事実として、この当時、神社参拝強制をめぐって犠牲者ま
で出ました。1938年9月、キリスト教長老派協会は警察官立ち会いのもと
に「神社参拝」を泣く泣く決議しましたが、これに反対する2千人の牧師・教
徒が検挙投獄されました。そのあげく200余の教会は閉鎖され、そのうち5
0余名が獄死しました。神社参拝が強制でなければこのような事件は決して起
こらなかったのではないでしょうか? キリスト教徒が強制なしに自ら進んで
神社に参拝するなんて私にはとうてい考えられません。
一方、38年に結成された国民精神総動員朝鮮連盟の活動は注目に価し
ます。この下部組織の各道地方連盟は総督府の行政機構と一体となって組織さ
れました。また、その基礎組織として10戸を標準とする「愛国班」が作られ、
39年にはほぼ全人口が網羅されました。
この「愛国班」が民衆レベルでの具体的な政策の推進体となり、宮城遥
拝、日の丸掲揚、勤労貯蓄など30項目が指示され、日常生活の細部まで皇民
化が図られました。しかもこの「愛国班」はそれなりの力を持っていました。
この「愛国班」を通して物資の配給が行われたため、民衆は「愛国班」に協力
せざるを得ず、結果的に民衆の生活は連盟の手に握られるようになってしまい
ました(宮田節子記「皇民化政策」、朝鮮を知る事典・平凡社より)。
この国民精神総動員朝鮮連盟の活動は学校教育と並んで創氏改名の大き
な推進力になったのではないかと思います。学校教育の効果ですが、梶山季之
の小説では主人公の薛鎮永氏が、学校で皇民化教育を受けた孫を通しての圧力
に負けてついに創氏改名を行い、自ら命を絶つという悲劇に終わりましたが、
学校での皇民化教育は相当なインパクトがあったのではないかと思います。
さて「皇民化」政策の最終目標の徴兵制ですが、1942年、総督府は
何の予告もなく、1944年度から徴兵制を実施すると発表して朝鮮全土を驚
かせました。朝鮮人にとってほとんど意義や大義名分のない日本の侵略戦争に
は相当な反発があったものと思われます。それを裏付けるように、その時の徴
兵忌避の模様を第85回日本帝国議会説明資料が如実に語っています。
「適齢子弟をして或いは逃亡所在をくらまさしめ、或いは戸籍年齢を訂正
して之を忌避せんとし、或いは適齢者なるの故を以て結婚を破棄せんとするが
如き傾向なしとせざりしを以て之等に対しては強烈なる指導と啓蒙を加え来れ
る結果、・・・」(山辺、同上。ただし、カタカナは平がなに変換)
こうした抵抗もあまり効果がなかったようで、結局20万人が徴兵検査
を受け入営し、相当数が戦地へ送られました。中には戦死したり傷病兵になっ
たりした人がかなりいましたが、ほとんど何の保護や補償も受けられませんで
した。これについては今でも日本で未解決の問題として係争中です。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
文書名:創氏改名(4)
[zainichi:701] SOUSI KAIMEI(4)
Message-Id: <9609192050.NAA15377@hopemoon2.lanminds.com>
Date: Thu Sep 19 13:50:38 1996
Reply-To:
文書名:[zainichi:659]族譜、RE:655
Message-Id: <9609092139.OAA27945@hopemoon2.lanminds.com>
Date: Mon Sep 9 14:39:35 1996
Reply-To:
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/09/18 -
01000/01000 PFG00017 半月城 日系人の強制収容と国際法
( 7) 96/09/18 23:37 00922へのコメント
私は#907で日系人の強制収容について、
> この流れを、阿部浩己・神奈川大助教授(国際法)は、
>「慣習国際法では、国際法違反の場合、国家責任として金銭的補償や謝罪をす
>べき基本原則が確立しているのに、日本はその原則を守っていない。戦争責任
>者の処罰も、旧ユーゴスラビア内戦でみられるように、国際的な大きな流れだ」
>(94.2.5 毎日新聞、大阪)と語っています。(雑談、略)
> こうした潮流の中で、アメリカは戦時中に強制収容した日系人に対し大
>統領が謝罪し、一人あたり2万ドルの謝罪金を支払ったのは記憶に新しいとこ
>ろです。これなどもこの基本原則に沿ったものといえます。
と書きました。これに対し河原さんからは
>これは「日系人」すなわち日本系アメリカ人に対するもので、アメリカ政府は
>自国民に対して「謝罪」と「賠償」をおこなったのです。
とコメントをいただきました。また、DONALDさんからは
>これは良く知られた話ですが、アメリカ合衆国がアメリカ合衆国の国民に対し
>て、行った人種差別的措置に対する賠償です。戦争犯罪とは別の話ではないで
>しょうか。
とコメントをいただきました。私の文章は説明不足のせいで、多くの方には、
私が「戦争犯罪と無関係」な日系人の問題を唐突的に持ち出したという印象を
与えてしまったのではないかと思います。
その文章で私が強調したかったのは、
「慣習国際法では、国際法違反の場合、国家責任として金銭的補償や謝罪をす
べき基本原則が確立しているのに、日本はその原則を守っていない」
という主張の中の「基本原則」です。
ここで、日系人の強制収容がなぜ国際法違反なのかと新たに疑問を持た
れるかも知れません。日系人の強制収容は国際法でいう「人道に対する罪」に
該当すると私は考えています。この罪は戦後になって欧米諸国が、ナチスの行
為、特にドイツ国民であったユダヤ人を大量虐殺した行為を裁くためにニュル
ンベルグ裁判で実定化したものです。この罪について吉見教授は著書「従軍慰
安婦」(岩波新書)のなかで次のように述べています(P173)。
人道に対する罪
人道に対する罪という概念は、第一次世界大戦後のドイツとの講和条約
の締結の中にすでにあらわれている。これが、実定化されるのは第二次世界大
戦後に開かれたニュルンベルグ国際軍事裁判所であった。そして、これは極東
国際軍事裁判所条例でも取り入れられた。
その五条(ハ)は人道に対する罪を「戦前又は戦時中なされたる殺人、
殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為」あるいは「政治的又は人種的
理由に基づく迫害行為」と定義している。それは通例の戦争犯罪に限定されな
い非人道的行為をいい、戦中や戦地での犯罪に限らない。
この解説によれば「追放その他の非人道的行為」および「政治的又は人
種的迫害」という点で、日系人強制収容は疑うことなく「人道に対する罪」に
相当します。ただ、この罪の適用は「法の不可遡及」という点で議論があるか
も知れませんが、ことアメリカに関してはニュルンベルグ裁判の推進者であっ
た事実を考えれば、これをアメリカに適用するのは不適当ではないと思います。
しかし、日系人強制収容を「人道に対する罪」として追求する声はあま
り聞かれなかったように思います。もっとも、「人道に対する罪」を持ち出さ
なくても他に解決の道があったので、あえて国際法を持ち出すまでもなかった
のかも知れません。
ところで、河原さんも DONALD さんも日系人をアメリカ人としています
が、彼らの中で一世の国籍は本当にアメリカだったのでしょうか? うろ覚え
なのですが、一世はアメリカで土地取得などに制限があったように聞いていま
す。そうであるとすると、一世はアメリカ国籍は持っていなかったのではない
かと思われますが実情はどうだったのでしょうか? 一方、二世・三世は出生
地主義のアメリカではほとんどアメリカ国籍を持っていたことは疑いないと思
います。
なお、この時のアメリカの補償支払いに対する考え方は注目に値します。
一橋大の田中教授によれば
「そういえば、アメリカとカナダは大戦中の日系人強制収容問題について、
「謝罪と補償」を行ったが、両国は89年に日本にも係官を派遣し、その問い
合わせに応じたり、申請の受付を行った。「当時の収容者であれば、その後ど
こに住み、どこの国籍を持つかによって影響は受けないのである」
(田中宏他著「戦争責任・戦後責任」朝日選書P46、1994)
としています。こうした考えにアメリカの懐の深さを感じます。といっても、
アメリカは人権問題での努力は評価しますが、実情は決して胸を張れるような
国ではないと思っています。それでもこうしたやり方を日本は少し参考にすべ
きではないかと思っています。
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。