- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/08/09 -
00620/00620 PFG00017 半月城 キーセンと遊郭と「軍慰安所」
( 7) 96/08/09 20:53 00602へのコメント 「従軍慰安婦」28
>ところで朝鮮王国や植民地時代の朝鮮には売春婦はいなかったのでしょうか?
>あったとすると、それと現在のキーセンとの関係はどのようなものなのでし
>ょうか?私は植民地時代の朝鮮にも売春婦はいたし、日本の遊郭に似たよう
>なシステムもあったし、その人たちが日本軍の従軍慰安婦や慰安所の経営者
>になったと考えています。
まず、李氏朝鮮(李朝)時代の娼妓ですが、これは妓生(キーセン、キ
ーサン)と呼ばれました。しかし、妓生は単なる遊女ではなく、今でいう「官
官接待」のための要員でした。すなわち、地方官庁を往来する両班(科挙を通
った文官、武官やその家柄)のために歌舞をもって遊宴にはべったり侍寝する
ために置かれました。したがって妓生の身分は地方官庁所属の「官婢」でした。
妓生はこうした身分であるだけに、そのエピソードは多彩です。職業柄、
科挙を合格するような英才を相手にするだけに、中には黄真※のように漢詩や
詩調で不朽の名作を残した「名妓」もいました(※は「伊」からにんべんを取
った字)。
そうかと思うと、論介のように秀吉が起こした「文禄慶長の役」の時、
加藤清正配下の武将を誘い出し、河に共に身を投じて死に至らしめた愛国的
「義妓」もいました。
こうした妓生列伝の中で、妓生の名を一段と高めたのは「春香」でした。
妓生と両班との恋物語を中心に創作された「春香伝」は李朝の庶民文学を代表
する最高傑作です。これについては、訳本が岩波文庫から出版されましたので
ご存知の方も多いのではないかと思います。
以上、妓生について説明しましたが、妓生以外の遊女についてはあまり
知られていません。おそらく酒幕などで細々と生計を立てていた女性もいただ
ろうと思われますが、いずれにせよ韓国では日本の吉原や丸山みたいな遊郭は
なかったと思います。
次に、植民地時代の遊郭ですが、日本人社会の延長として日本人町の中
に多少造られました。当時の名残として、韓国西部の港町・群山では当時の日
本式の遊郭「七福楼」の建物が、現在「群山華僑小学校」として使われている
くらいです。こうした遊郭には公娼が置かれていました。日本人町以外の遊郭
については寡聞にして知りませんが、ほとんどなかったと思われます。
このような遊郭が「従軍慰安婦」や軍の「慰安所」の経営者と何らかの
つながりがあったのではないかという河原さんの見方ですが、初期の頃はこう
した人たちは少しはいたようでした。ビルマで米軍の捕虜になった20名の
「従軍慰安婦」の中に数名の娼妓がいたことが米軍軍曹の報告書に記載されて
いました。
しかし、こうした娼妓は「性病予防」という観点から厳しく選別されま
した。「従軍慰安婦」システムを作り上げた日本軍は当然のことながら衛生面
にはこと気を使いました。それももっともな話です。軍という集団全体が性病
にかかってしまったのでは、いざという時の戦闘に支障が出ること必定です。
そこで考え出されたのが「衛生的な公衆便所」という考えでした。戦争
の確固たる目的意識の希薄な多くの皇軍兵士にとって現実的、刹那的願望は
「女」しかなかったのではないでしょうか。欧米の兵士と違って休暇制度など
皆無で、しかも四六時中いじめの権化である上官の厳しい監視と私的な制裁の
殺伐たる生活の中で、「男」としての充実したわずかな瞬間、それが「慰安婦」
との交わりだったのではないでしょうか(私は映画「二等兵物語」の見過ぎか
もしれません)。
こうした「衛生的な公衆便所」という観点からも、「慰安婦」は職業婦
人より未経験者が好まれました。特に、中国侵略が本格化し「従軍慰安婦」の
需要が急増した「南京虐殺事件」以降の軍慰安所はそれまでの遊郭とは異質な
存在になりました。
1937年の「南京虐殺」は軍慰安所を考えるときのターニングポイン
トではないかと思います。海外では、この「南京虐殺」の用語より「南京強姦」
のほうがよく使われるようです。それほど日本軍の規律もこの時は地に落ち、
強姦も日常茶飯事であったようでした。
当時、南京に留まったアメリカ人宣教師ジェームズ・マカラムは、「私
はこんなひどい蛮行を見たことも聞いたこともない。強姦、強姦、強姦の連続
だ。一晩にどう少なく見積もっても1000件はあるだろうし、日中も数多く
行われている。抵抗したりすれば、・・・銃剣で刺されるか銃でうたれるかだ。
そんなケースが毎日数百とある」と日記に記しました(田中利幸「知られざる
戦争犯罪」大月書店、1993)。
このような大強姦事件は中国人や諸外国の対日感情を極度に悪化させま
した。こうした国際世論を考慮したためと思われますが、同年12月に中支那
方面軍がその指揮下の上海派遣軍に対し、強姦対策を意識して「慰安施設」を
設置するよう指示を出しました。
同派遣軍では、参謀二課(後方担当)が案を作り、参謀の長中佐が「軍
慰安所」の設置にのりだしました。上村参謀副長の日記(28日)によれば、
「軍隊の非違いよいよ多きが如し・・・南京慰安所について第二課案を審議す」
とあります。
南京占領が12月13日ですから、この時の日本軍の「非違」対策で南
京の軍慰安所が設置されたのは確かなようです。これ以降は「軍慰安所」は各
地で急増の一途をたどり、遊郭とは異質な存在になっていきました。
さらに「軍慰安所」が本格化するにつれ、慰安婦として日本人は「銃後
の憂い」を考慮して除外されるようになり、慰安婦は次第に朝鮮や台湾から
「調達」されるようになりました。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/08/15 -
00657/00659 PFG00017 半月城 植民地時代の公娼
( 7) 96/08/15 21:01 00627へのコメント 「従軍慰安婦」29
資料をもとに議論を進めようとされている河原さんにしては意外なこと
に誤解をされているようなので一言ふれておきます。#627で
> 「欧米の兵士」たちは清潔そのもので、「皇軍兵士」だけが「刹那的願望は
>『女』しかなかった」とまで言われるのは、映画の見過ぎとまでは申しません
>が、少し片寄った見方かと思います。
とありますが、私は欧米の兵士が清潔とはいっていません。欧米の兵士は皇軍
兵士と違って休暇制度があったと書いただけです。
それに今回つけ加えるなら、欧米で休暇制度は第一次世界大戦などの教
訓から生まれたようでした。すなわち、戦争や殺人といった極限状態におかれ
る兵士の精神衛生面に対する配慮が、戦争慣れした欧米では早くから考慮され
ていたということを私は言いたかったのです。こうした配慮は今や世界的な常
識になりましたが、当時の日本ではその配慮の対象が「慰安婦」であったたよ
うでした。
次に、河原さんの話がベトナムでの韓国軍についても及んでいるので、
この際ついでにふれたいと思います。他の会議室でもそうですが、どういうわ
けか私が「従軍慰安婦」に焦点をあてて書くと、きまって韓国軍の行状にふれ
ないと気が済まない人が必ずいるものです。
これは本題からはずれますが、あらぬ誤解を未然に防ぐために、これに
ついて一言書いておきます。私は、どこの軍隊であれ、また民間人であれ、国
籍を問わず女性の尊厳をお金や暴力で踏みにじるのは、個人であれ集団であれ
厳しく責められるべきであると思います(注1)。こうした観点から、私は河
原さんが紹介された、映画「ナヌムの家」のビョン監督を高く評価し、彼女を
ある会議室で紹介しました(注2)。一方、1980年代の韓国への「キーセ
ンツアー」やタイへの買春など、「アジアでの買春ツアー」についてもある会
議室で意見をのべました(注1、3)。
こうした例に限らず皆さんにお願いですが、ここの会議室で私がまだ書
いていないことがらについては、けっして早とちりされないようお願いします。
>さて、私は#590で、
>《半月城さんは「彼女たちへの人権侵害」をしたのは日本人だけである、とい
>う前提に立たれているようですが、「彼女たち」を慰安所に連れて行ったり、
>慰安所を経営した者の中には多数の朝鮮人がいたということをお忘れではない
>でしょうか?
>これらの同胞に対しても法的・道義的責任を追求すべきだとお考えでしょうか?
>それとも、彼らも日帝の犠牲者として免責されるおつもりでしょうか?》
私はこのような前提はおいていません。前提としているのは日本軍や政
府の国家犯罪であり、個人の問題は二の次です。植民地時代、日帝時代の協力
者はこうした女衒、慰安所経営者に限らず、巡査や太鼓持ち、犬など利権に群
がる輩はたくさんいたはずです。このように日帝の威光をかさに民衆を苦しめ
た輩は同族として厳しく責められるべきです。
こうした「親日派」は戦後はだいぶ白眼視され、かなり肩身の狭い思い
をしたようです。ところが、国が分断される過程で韓国では「勝共」一辺倒に
なり、やがて同族相殺の悲惨な代理戦争、6.25動乱を経るうちに、彼らに
対する裁きは必ずしも十分になされませんでした。
この結果、親日派は政界にも生き残りました。たとえば、韓国の朴正煕
元大統領はかって日本満州軍の高木中尉であったという噂があるくらいです
(寄田猛著「戦後50年めのいま始まった”親日派狩り”」、『日本人と韓国
人』小学館、1995)
> #602では、
>《私は植民地時代の朝鮮にも売春婦はいたし、日本の遊郭に似たようなシステ
>ムもあったし、その人たちが日本軍の従軍慰安婦や慰安所の経営者になったと
>考えています。》
遊郭の経営者にどれくらいの朝鮮人がいたかという実態調査めいたもの
について河原さんは興味をお持ちのようですね。こうした実態は時期によりか
なり違うのではないかと思います。たとえば南京虐殺事件直後は「軍直営」で
あったし、戦争末期には軍は設立後は直営から手を引いていたのではないかと
思います。また、地域によっても慰安所のあり方は大きく違っていました。同
じように金銭授受についても千差万別でお金を貰った人、貰わない人さまざま
です。こうした実態についてはいずれ私も調べたいと思っています。
ここでは、前回に続いて朝鮮の遊郭について記します。私は公娼がどの
ように朝鮮に持ち込まれたのかに少し興味を持ちましたので、それについて紹
介します。
李朝時代に、公娼制度はなかったことは、#620で書いたとおりです
が、まずそれを少し補強します。
「教養を備え、歌舞音曲に秀でた官妓をはじめとする妓生、雑歌程度をた
しなむ娼女、流浪芸能集団であった女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家で働く酌
婦など売買春にかかわる形態もあったが、特定の集娼地域、つまり遊郭におい
て公の管理下の下に性の売買が行われる公娼制度とは質を異にしていた」
(川田文子著「戦争と性」明石書店、1995)
こうした社会に日本が持ち込んだ公娼制度について、その「発展」を山
下氏は次の四段階に分けています。
第一期、1876年、江華島条約(日米和親条約の模倣?)により開港され
た日本人居留地、釜山、元山に始めて売春業者が進出した。
1894年の日清戦争後、ソウル、仁川、鎮南浦など軍人上陸の要所
に遊郭が形成された。
第二期、1906年、統監府(伊藤博文)が置かれると、他の日本人居留地
でも、居留民団が財政源を確保するため率先して遊郭を設置し、日本
の公娼制度を適用した。また、朝鮮人売春婦の公娼化に着手した。
1908年、警視庁令として妓生取締令と娼妓取締令を発布、許可制
実施。
第三期、1910年、日韓併合条約後、売春取締令を全国的に実施、私娼取
締りを強化した。各道で売春取締規則が発布された。
第四期、1916年、警務総監部令第4号により、各道ごとに異なっていた
取締規則を統一した。あわせて、売買春に関連する宿泊所、料理店、
飲食店、貸座席の区別、芸妓酌婦娼妓の区別を明確にし、公娼制度を
法的に確立させた。(宿泊営業規則、料理店・飲食店営業取締規則、
芸妓酌婦娼妓置屋営業取締規則を発布した)
(山下英愛著「朝鮮における公娼制度の実施」、『朝鮮人女性がみ
た「慰安婦問題」』三一新書所収他)
こうして確立した公娼の人数は、1920年に日本人4330人、朝鮮
人3492人になりました。一方、「利用客」は1929年の統計で、日本人
483、743人、朝鮮人107、482人という記録が残されています。ち
なみにこの時の人口は、日本人50万余、朝鮮人2000万人でした。
日本の「廃娼運動」に逆行して植民地、朝鮮で遊郭はさかんになる一方
でした。また、国際法の年齢制限も「植民地条項」の保留で逃げましたが、こ
うした政策が後日「従軍慰安婦」の供給をかなり支えることになったのではな
いかと思います。
(注1)NIFTY SERVE
|- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮
|00872/00872 PFG00017 半月城 買春と従軍慰安婦
|(10) 96/04/21 22:36 00855へのコメント
(注2)NIFTY SERVE
|- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮
|00227/00227 PFG00017 半月城 RE:訂正、映画「ナヌムの家」
|(10) 96/03/14 21:57 00204へのコメント
(注3) PCVAN,JHEIWA
|#3335/3351 喫茶「ピース・センター」
|★タイトル (SPM07550) 95/ 8/15 20:18 ( 68)
|「英霊」か「犬死に」か 半月城
これらはホームページ「半月城通信」に載せてありますが、もしご希望が
あればこちらに転載します。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮
02847/02847 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」の証言
(10) 96/08/14 23:57 02719へのコメント 「従軍慰安婦」30
しばらくは FNETD 3-7 のほうで忙しかったのでコメントが遅れました。
さて、えーす寝台さんが「従軍慰安婦」の証言をウソととらえる根拠の一つと
して、#2719で
> 元「慰安婦」だったという人の話を聞いたことがあります。最近も3人の方
>が韓国からやってこられて日本各地を回って証言をされていましたが、その中
>の一人(カネタニミツコ)は「ヨシダセイジ」の話を聞いて自分も名乗り出た
>、という人でした。また、「(慰安婦を運ぶ)船は敵に見つかるから夜間航行
>をした」という話もありました。船は動こうが動くまいが海に浮かんでいれば
>見つかるのに。
とありました。この文を読む限り、えーす寝台さんは「船は動こうが動くまい
が海に浮かんでいれば見つかる」という考えから、「従軍慰安婦」の「船は敵
に見つかるから夜間航行をした」という話は信憑性がない、したがって「従軍
慰安婦」の話はウソが多いと考えておられるのでしょうか?
私はこの「従軍慰安婦」の船の話を信じます(注)。これはささいな問
題かも知れませんが、一事が万事、一度「従軍慰安婦」の話をウソだと思いこ
んでしまうと、あとは「従軍慰安婦」の話はほとんどウソに聞こえてしまうの
ではないでしょうか。
かって、「明るい日本」議連の板垣議員が「従軍慰安婦」と対面した時、
さかんに「お金は受け取っていないのか」としつこく質問を繰り返しました。
板垣議員は「従軍慰安婦」は「商行為」と信じている人ですから、中にはお金
をもらっていない「従軍慰安婦」がいると、板垣議員なりの「従軍慰安婦」像
がくずれてしまうのかも知れません。このような人には、画竜点睛さんが冗談
(?)で書かれた証明書つきのビデオのようなものでも見せないかぎり、信じ
ないのかも知れません(画竜点睛さん、不可知論はちょっとむずかしすぎます)。
(注)船はなぜ夜間航行するのか?
第2次世界大戦当時、レーダーは日本では電探と呼ばれ未完成(実用一
歩手前)でした。アメリカではレーダーはB29にすでに搭載されていました。
しかし航空機からレーダーで船舶を捉えるのは当時の技術では無理です。敵の
船舶を発見するには索敵機による目視が一般的でした。この場合、動いている
船は航跡が長く尾を引きますので、昼間は見つけやすいが、夜間にライトを消
している船や昼間でも停止している船、特に目立たない塗装をしている軍用船
を見つけるのはかなり困難です。技術が発達した現在でも、漂流船を見つける
のはむずかしいものです。こうした理由から制空権を失った日本海軍は米軍機
の爆撃を避けて夜間航行をしたと思われます。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮 96/08/16 -
02870/02870 PFG00017 半月城 トラウマ、精神的外傷
(10) 96/08/16 00:27 02801へのコメント 「従軍慰安婦」31
「従軍慰安婦」の話は本当に聞く方もつらいものです。画竜点睛さんが呼
ばれた「従軍慰安婦」の話を若い子が泣きながら聞いていたとありましたが、
彼女たちの話を私もまともには聞けません。特に韓国からの「従軍慰安婦」の
場合ですと、生の声が直接頭の中へ飛び込んでくるだけによけいそのように感
じます。さらに、自分の母親も運が悪かったら同じような目に遭ったんじゃな
いかと思うと複雑な気持ちになります。
「従軍慰安婦」たちは戦後もどれほど苦労されたことか。名乗り出れば出
たで周囲のさまざまな目とたたかわなければならないし、名乗りでなければ自
分の胸の中につらい過去をすべて収めなければならないし、いずれにしても相
当な精神的負担であることは間違いありません。
ある「従軍慰安婦」は川田さんによれば、夜中に突然飛び起きて自分の
息子の襟先を両手でつかまえ、首を絞めあげるようにして揺さぶり、わけの分
からないことばを発していることがたびたびあるという。
「ミオサキ!」
日本人の名前らしい、そんなことばがしばしば出てくる。彼女にはそんな名前
に記憶はないし、息子に対しても自分が何をしたか覚えていない。朝になって、
息子にいわれてはじめて知るのだ。
自分の発する声に驚いて飛び起きることもある。汗と泥にまみれ、その
うえ、酒を飲んで来て悪臭を放つ軍人に、畳に軍刀を突き立て、思い通りにし
なければ殺す、と脅迫されながら犯された日々の汚辱感と恐怖がないまぜしろ
になって生々しく甦ってくる。拭っても拭っても消えない嫌悪感をもてあまし、
再び寝つくことが出来ず、気を紛らわせようとたばこを何本も吹い、夜を明か
してしまうのだ。
(川田文子「戦争と性」明石書店、1995)
この話を聞くと、ベトナム戦争で精神的外傷をおったアメリカ兵を描い
た映画「地獄の黙示録」を連想します。川田さんによれば、強度の精神的ショ
ック(トラウマ)を受けた人が正常に戻るために一番いい方法は、その人の話
をとことん聞いてやることだそうです。
尹承任さんが50年の長い沈黙を破って語りだしたということはとても
すばらしいことです。彼女たちの話を十分聞くのは、お互いにプラスになりま
す。私たちは過去「従軍慰安婦」たちに一体何が起きたのかは、当の「従軍慰
安婦」の話を通してしか知ることができません。二度と女性に対する悲惨な蹂
躙を繰り返さないためにもこの際、徹底的に真相にせまるべきです。
14日、橋本総理が書いた「従軍慰安婦」に対するお詫びの手紙が公表
されました。報道によればその概要は次のとおりです。資料として記します。
手紙はまず、「従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数
の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」として、慰安所の設営や
慰安婦の移送などに軍が関与していたことを確認。そのうえで「私
は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦とし
て数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒(いや)しがたい傷を負
われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上
げます」と記している。
さらに、「わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわび
と反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世
に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関(か
か)わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考
える」とし、歴史教育などに力を入れる姿勢を強調している。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮 96/08/17 -
02888/02888 PFG00017 半月城 白馬事件(2)
(10) 96/08/17 13:13 「従軍慰安婦」32
「従軍慰安婦」の日本人関係者が処罰された数少ない事件のひとつに
「白馬事件」がありました。この事件は以前、ここの会議室#1874で紹介
したとおりです。ただし「従軍慰安婦」にされた当人、オランダ人のオフェル
ネさんは「自分は慰安婦ではない。強姦罪の犠牲者である」と主張しています
ので「従軍慰安婦」という名前は彼女の意に沿わずふさわしくないかも知れま
せん。しかし、「従軍慰安婦」の他に適当な呼び方がないのであえてこの呼称
を使います(#1874は希望があれば転載します)
このオフェルネさんが16日、NHKの海外番組紹介「50年の沈黙を
破って・慰安婦にされたオランダ人少女」に出演していました。これをご覧に
なった方も多いと思いますが、ここに私の感想を綴りたいと思います。
彼女の話から、軍慰安所の生々しい実態が手に取るように伝わってきま
した。少女たちは強姦されようとするとき、相手を蹴ったり、叩いたり、天井
裏部屋に隠れたり、あげくの果ては大事な髪を切って丸坊主になったりして抵
抗しました。そのいたいけな少女たちに、皇軍兵士たちはここでも日本刀を突
きつけ服を引きちぎるなど暴力的に迫り自分たちの欲望を遂げました。こうし
た野蛮な行為はどれほど恐ろしいことか。考えるだけでも身震いします。さら
に、強姦は兵士に限らず、倫理をわきまえているはずの軍医にも犯されたそう
でした。
しかし、彼女たちから肉体や、自尊心や、自由などあらゆるものを奪っ
た皇軍兵士も、彼女の「神への信仰」だけは奪えませんでした。この番組をみ
て、信仰を持った人は強いなあ、と無心論者の私はつくづく感心しました。あ
れだけのトラウマ、精神的外傷を受けながらも戦後、オフェルネさんは神への
信仰や家族の愛に支えられ、幸せな結婚生活を送ることができました。といっ
ても、何回も流産して大手術を受けたり「従軍慰安婦」時代の傷は後々までか
なりの後遺症を彼女に残しました。
これは精神面でも残り、その時の恐怖の思い出が突然に、それも夫に抱
かれているような時などにも容赦なく彼女を襲ったのでした。信仰をもってし
ても、トラウマはそう簡単にいやされるものではなさそうです。
そうした彼女の話の中で、一つ強く印象に残る話がありました。彼女は、
『日本人のしたことを許した。しかし、忘れることはできない』
と語りました。この達観したような言葉は誰にでも簡単にいえるものではあり
ません。これは修道女になりたかった彼女の、信仰に基づく博愛精神からきた
ものでしょうか?
この言葉を「明るい日本」議連の奧野議員や板垣議員はどのように聞く
のでしょうか。「従軍慰安婦」の商行為を信じている彼らは「お金は貰ったの
か?」とワンパターンで質問するのでしょうか。
http://www.han.org/a/half-moon/ 半月城
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。