MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮 96/07/25 -
02653/02653 PFG00017 半月城 RE:在日朝鮮人の国籍に対するGHQの処遇
(10) 96/07/25 07:12 02645へのコメント
#2645(КОЛЯさん)
> 別のフォーラムで、戦後、いわゆる在日朝鮮人の国籍を朝鮮に戻したのはア
>メリカの意向だったという発言を目にしまして、そういう事実を私が知らなか
>ったものですから、私の無知がバレてしまったのですが、ほんとにそうかと思っ
>てちょっと調べてみたのですが、今現在、その証拠を発見できないでいます。
GHQが在日朝鮮人の帰属をどのように考えてきたのかについて、私
は以前PCVANの会議室アリランに書いたことがあります。現在、アリラン
は閉鎖されてしまい読めないので、そこから関係部分を抜粋します。本来ならば
きちんとまとめ直すべきかも知れませんが、今はちょっとその時間的余裕がな
いのでご了承下さい。
1945年8月15日、日本敗戦は朝鮮にとっては解放を意味した。G
HQは45年11月、朝鮮人をできる限り「解放国民」として扱うことを言明
しました。しかし、このGHQの方針は一年後には大きく変わりました。
46年11月には一転して残留朝鮮人(50万人以上)は「日本国籍」
を持つと見解を表明した。そして「日本国籍」を持った「日本人」である以上、
当然日本の法律に従うべきであるとして、GHQは日本政府が朝鮮人取締りの
完全な権限を持つことを認めたのである。
(日本評論社、経済評論別冊、P132、内海愛子恵泉女子大教授著「日本
国家と在日朝鮮人」、1972)
これに対しては、朝鮮人の側からは猛烈な反発があったのは言うまでも
ない。この時からサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)ま
で在日朝鮮人の法的地位はすべて日本人と「平等」とされた。すなわち、食糧
配給、課税、事業活動、学校教育など、すべて「敵国人」である日本人と同じ
となり、解放国民としての権利は少しも認められなかったのである。
祥司Sさん
>「1946.11.12 GHQ見解 在日朝鮮人は「日本国籍を有する」と表明。」
>(このGHQ見解は日本国憲法が公布(施行は翌年5月3日)された9日後の
>日付となっており、新憲法を踏まえた見解だと考えられますね。)
>ということなのですが、これを受けた日本政府の対応はどうなっているので
>しょうか。
GHQ見解は日本国憲法が公布された後に出されたので、在日朝鮮人
は日本人としての権利・義務を共に有するようになった、と考えがちですが、実
際の日本政府はそんな対応はもちろん取りません。それどころか日本政府の対応
は一見GHQの見解と矛盾するような政策をとります。その代表的な例が祥司S
さんもとりあげている、天皇の勅令、「外国人登録令」(1947.5.2)です。その
中で、「朝鮮人は・・・当分の間これを外国人とみなす」とあるのはUPされた
とおりです。
ここで、この勅令はGHQの見解に逆らっているように見えますが、
勅令自体GHQの意志と見るべきであると思います。なぜなら、当時はGHQの
意に反した法令など絶対に日本政府に作れるような時代ではなかったのです。そ
もそも登録令自体、GHQの覚書「日本人以外の国民の入国および登録の件」
(1947.4.2)に基づき制定されたのです。その覚書でGHQは、「日本に入国を
許された外国人を登録し、身分証明書その他など、日本国内居住を合法化するの
に必要な書類を交付する」ように指令したのです。
ここで注目すべきは、覚書の中の「入国を許された外国人」とは誰を指
しているのか、ということです。GHQ関係者はもちろんこれに該当しません。
また、外国政府の関係者や家族も対象外です(登録令2条)。そうすると残るの
は旧植民地の中国・朝鮮出身の「日本人」しかいません。こうした「日本人」の
管理を主目的の一つに外国人登録令を制定したのです。当時は、こうした「日本
人」の再入国が問題になっていた時期でした。その背景を見てみます。
終戦直後、日本には約200万人の朝鮮人がいました。祖国が解放され
喜びに満ちて帰国をしたものの、祖国も混乱状態であり、また帰国時に持ち帰り
財産を制限されたこともあって、祖国で生活基盤を立てられなかった人の出戻り
が相当数いました。尚、当時は朝鮮も日本も共に事実上アメリカの軍政下にあっ
て、両国間の往来は自由でした。しかし、こうした出戻りを防ぐためにGHQは
この往来を禁止してしまいます(1946.3.16)。すると当然密入国者が増えます。
こうした情勢に対処することも柱の一つにGHQは外国人登録令制定の
指令をだしたと思われます。
祥司Sさんの次の疑問に更に答えたいと思います。
>日本国憲法の「周知期間」に11.12GHQ見解が出されたわけで、それ
>に対する(天皇及び)帝国政府の見解はどうかということが祥司Sの疑問で
>あったわけです。
>半月城さんのMSGから推測すると、日本側の公式見解は発表されず、GH
>Qとの水面下の交渉が行われ、その結果が「外国人登録令」であるというこ
>とのようですね。
この時期のGHQと日本政府との交渉については、今では学者のホッ
トな研究課題になっているようですが、これについて触れたいと思います。
まず、問題のGHQ見解の「日本国籍」ですが、これは条件付きで、
「・・・日本における朝鮮人は、正当に樹立された(彼らの)政府が、国民
として彼らを認めるような時期が来るまでは、日本の国籍を有するものとみ
なされる」と、あります。この時点ではまだ韓国も朝鮮もまだ建国されてい
ない時期でした。
さて、この見解の直後は、日本政府の態度にはこれといった変化は見ら
れないようです。この理由は、GHQの見解が、そもそも朝鮮人に日本人と同
等な権利を認めさせるために出されたのではなく、朝鮮人取締の権限を日本
政府に与える口実として出された、という内海教授の見方からすると納得が
いきます。事実、その直後、GHQは朝鮮人取締の権限を日本政府に与えて
いるからです(1946.11.20)。
もし、この時GHQが、朝鮮人の権利を本気で日本人と同等に認めさ
せようと考えていたのなら、それはその3カ月後の参議院選挙法で参政権を
認めるとか、何らかの形でそれは反映されていたはずですが、実際は参政権
は剥奪されたままですし、他にも肯定的なものは何一つありませんでした。
さて、朝鮮人取締の権限を日本に移した背景ですが、これには当時の
社会的背景が考えられます。その頃、朝鮮人は「解放国民」として、警察と
しても一目置く存在であったようです。それにつけこんで中には解放感から
か、あるいは過去の「恨み」をはらすためか、良からぬことをする連中もい
たようです。そのため、朝鮮人取締を日本政府に任せる目的でくだんの見解
を出した、と思われます。
この頃になると、日本政府は「GHQとの水面下の交渉」ではっきり
と朝鮮人抑圧の方針をとっています。これは、マッカーサーの憲法草案の中
の内外人平等の原則がどんどん後退していることからもうかがえます。
最初の草案では「外国人は法の平等な保護を受ける」と独立条項とし
てありましたが、次の案では、独立条項が無くなり、「全ての自然人は、そ
の日本国民であると否とを問わず、法律の下に平等にして、人種、信条、性
別・・・国籍により、政治上、経済上、または社会上の関係において差別せ
らるることなし」となりました。しかし、ここではまだ最初の趣旨は生かさ
れています。
それが、次に「日本国民であると否とを問わず」が消え、さらに「国
籍」が「門地」に変わり、最終的には「全ての自然人は」が「すべて国民は」
に後退し、外国人の平等保護、権利保障という重要のポイントは跡形もなく
消えてしまうのです。(田中 宏著、「在日外国人」、岩波新書、1991)
そして、GHQは日本政府と協調して抑圧の道を歩み、外国人登録令
へと進むのです。1947年4月2日にGHQは覚書をだしますが、そのタ
イトルは、「日本人以外の国民の入国および登録の件」とあり、明らかに日
本人以外の国民、すなわち朝鮮人・台湾人を主な対象にしていると思います。
こうしてみると、日本政府の粘り腰に、GHQの「外国人の権利擁護」
などの理念までも押し切られてしまったように見えます。憲法は「押しつけ」
とよく言われますが、それほど単純ではなさそうです。憲法をあれこれ手直
ししている政治家・官僚の姿が瞼にちらちらします。
半月城
MES(10):【アンニョンクラブ】 韓国・北朝鮮
02679/02679 PFG00017 半月城 RE:RE^2:在日朝鮮人の国籍に対するGHQ
の
(10) 96/07/28 23:07 02672へのコメント
КОЛЯさんに文献を紹介するのを忘れていました。外務省がGHQの
発表や指令を翻訳・編纂して、マル秘文書「日本占領及び管理重要文書集、朝
鮮人、台湾人、琉球人関係」を1950年にまとめました(注)。これがGH
Qの動向を直接知る上で最適ではないかと思います。
次に1980の風# さんの質問、
>> 尚、当時は朝鮮も日本も共に事実上アメリカの軍政下にあって両
>>国間の往来は自由でした。しかし、こうした出戻りを防ぐためにGHQはこ
>>の往来を禁止してしまいます(1946.3.16)。すると当然密入国者が増えます。
>
>ですが、往来は双方向とも禁止されたのですか? 38度線の往来が制限され
>たことと、時期を勘案して、関係があるのでしょうか。
日本から朝鮮への引き揚げは1947年8月まで引き続き行われまし
たので、この時期に往来が双方向とも禁止されたわけではありません。
> 半月城さんは、どうしてGHQが日本政府に朝鮮人取締をさせようと
>したのだとお考えですか。南朝鮮をも事実上の軍政下においていた同じ米軍が
>直接「取締」をしてもよかったと思うんですが、それを敢えて日本国内では日
>本政府にやらせようとしたのは、少しは日本の顔を立てようとしたのか、もっ
>と狡猾な狙いがあったのか、日本政府が要求したからなのか、
>というような疑問です。
これは単に国家体制の違いではないかと私は思います。当時、南朝鮮は
混乱状態でまだ政府が樹立されていないのに対し、日本は敗戦になっても帝国
議会や旧制度の内閣がそのまま継続され政府が一応の機能を果たしていました。
一方、アメリカも日本を民主主義国家にすることが建前なので「朝鮮人
取締」のように日本政府にやらせても問題がないものは日本政府にまかせる方
針だったのではないかと思います。
しかし、1948年4月の阪神教育事件のような重大事件になるとGH
Qが直接乗りだし、非常事態宣言を出し軍事力で弾圧を加え死者まで出しまし
た。また、1949年9月には在日本朝鮮人連盟(朝連)など民族3団体がG
HQにより解散させられました。
> こうしたことを研究している方々のことをほとんど知らないので、どんなと
>ころから勉強をしていったらいいかだけでも教えてくださいませんか。できれ
>ば「ホット」な雰囲気にも触れてみたいと思います。
この時期の公文書が公開されましたのでいろいろな研究成果がでてきま
した。たとえば、旧植民地出身者の選挙権が従来通り認めることが閣議決定さ
れたにもかかわらず、二ヶ月もしないうちにそれが逆転してしまった謎が明ら
かにされました。これについては FACTIVE MES5,#103に書きましたが、そこか
ら一部引用します。
ーーーーーーー 引用 ーーーーーーーー
私も同感です。定住韓国・朝鮮人に対する国籍差別のヤマ場は戦後何回
かあったと思います。 なかでも、私は最初のターニングポイントを1945年
12月の衆議院選挙法に置いています。この法律の付則にある暫定措置はこれ
まで旧植民地出身者の台湾、韓国・朝鮮人が持っていた参政権を停止するとい
うものでした。この暫定措置を皮切りに参議院選挙はもちろん地方自治選挙な
どでも定住韓国・朝鮮人を排除し、後日それが固定化されました。
この衆議院選挙法の2カ月前、10月の政府閣議では旧植民地出身者の参
政権を継続して認めることを正式決定していたのに、それを急に覆したのです
からこの暫定措置は大変な方向転換です。この政策の突然の変更は今まで謎と
され学者の研究テーマになっていました。つい最近、このいきさつが明るみに
出されました。
95年11月7日の共同通信ニュース速報によれば、京大人文科学研究
所の水野直樹助教授(朝鮮近代史)が国会図書館でこの経緯の関係資料を発掘
しました。
それによると、当時選挙制度の専門家とされた故清瀬一郎衆院議員名で
「(日本国籍を持つ旧植民地出身者に)参政権を与えれば天皇制廃絶を叫ぶ議
員が選出される恐れがある」と強い危機感を示す意見書がまとめられていたそ
うです。
この意見書は「参政権を認めれば最少十人ぐらいの当選者を得るのは容
易」とした上で「わが国は従来、民族の分裂はなく民族単位の選挙を行ったこ
とはない。思想問題と結合すれば、天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らく国籍を朝鮮
に有し、内地に住所を有する候補者であろう」と、天皇制が批判されるのを危
惧しています。
ここでも国体への参加資格問題と同様に天皇制が影響しています。天皇
の名の下に侵略戦争を行った日本の50年も昔の過ちが深く陰を落としていま
す。旧植民地出身者にとって天皇は特別な存在でした。天皇の名の下に多くの
人が辛酸をなめさせられたのは画竜点睛さんもよくご存じのことと思います。
昨今話題の日韓併合が天皇の名の下になされたのはいうに及ばず、日帝時
代の韓国・朝鮮人は「天皇の赤子(せきし)」とされ「皇国臣民の誓い」を強
要されたり、日本語や日本人式の姓名を強制されるなど、民族文化を抹殺する
度の過ぎた 「皇民化」政策は怨嗟の的でした。 この政策の根幹を成す天皇は言
うまでもなく日帝の「象徴」であったので抗日運動家の標的になり、その一環
として李奉昌義士が1932年桜田門外で天皇暗殺計画を決行したのでした。
こうした旧植民地出身者が抱く天皇に対する特別な感情に恐れをなし、
先の清瀬議員の報告書が作成されたものと思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他に、最近の研究成果として、1980の風# さんが興味をお持ちの
「国民」の概念に関するものなどありますが、いずれ近いうちに書くことにし
ます。
(注)戦後補償問題資料集(第9集)、解放帰国(引き揚げ)関係資料集
戦後補償問題研究会編(1994)、¥2000
TEL 03-3359-8831,FAX 03-3359-8832
http://www.han.org/a/half-moon/
半月城
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/07/28 -
00595/00595 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」に対する感性
( 7) 96/07/28 23:08 00590へのコメント 「従軍慰安婦」25
>>「定住韓国人」というのは、普通「在日韓国人」といわれているのと同じ
>>意味なのでしょうか?
はい、大体同じ意味です。ただ、定住韓国人の方が意味が狭く法的な
「永住権」や「特別永住権」を取得している人が中心です。これに対し、在日
韓国人はその本来の字義のとおり広く商用などで滞在している韓国人など、旅
行者以外日本にいる韓国人を全部含みます。
私が「定住韓国人」という用語をあえて使う背景には、世界人権宣言第
1条を念頭に置いています。すなわち第1条で「すべて人間は、生まれながら
自由で、尊厳と権利について平等である。・・・」とありますが、定住韓国・
朝鮮人は今ではほとんどが生まれながらにして日本に定住している人たちです。
さらにつけ加えるならば、この世界人権宣言の精神からすると個人の権
利に親の国籍で制限を設ける「血統主義」は問題であるという結論が出てきそ
うです。これは日本だけを責めているわけではなく韓国やドイツなども同様で
す。ただ、ドイツは出生地主義が最近考慮され始めているようですが。
>>半月城さんは韓国人としての“偏見”をおもちでしょうし、私は日本人と
>>しての“偏見”のもとに発言しているからです。
このように「偏見」の一語で片づけてしまっては実もフタもないのでは
ないでしょうか。私は、これは偏見というより「感性の違い」であると思いま
す。その一例として、ある「従軍慰安婦」の話を取り上げたいと思います。
ある韓国の「従軍慰安婦」、名前を金順徳さんといいますが、この人の
話で強く印象に残る話がありました。彼女は自分自身を題材にした絵「あの時
あの場所で」などを描いた人です。彼女は「従軍慰安婦」問題が注目を浴びる
ようになった時に名乗りでようかどうしようかとさんざん悩みました。親戚に
相談したらやめた方がいいと止められました。
しかし、彼女は日本政府の対応などをみて、あまりの悔しさについに決
心して名乗りでました。名乗りでた後は、その事実が自分の息子にいつ知られ
るのかびくびくしながら暮らしていました。しかし、ついにその恐れが現実の
ものになってしまいました。その時の息子との会話の思い出をNHKのTVで
語っていましたが、私にとってこの話はとても印象的で、おそらく生涯忘れる
ことはできないものです。その内容を紹介します。
子「どうして今まで自分に隠していたんですか?」
母「自分の母親にも言えなかったのにおまえに話せるわけがないだろう。」
子「お母さんが自分の意志でやったことではないし、当時の韓国人は日本人に
奴隷のような扱いを受けたことは教育を受けた者なら誰でも知っています。
どうして打ち明けてくれなかったんですか?」
母「打ち明けたところでおまえはそれを許すことができたのかい?」
子「歴史は正す方がいいと私は教わりました。私がこのことを理解できないと
思ったのですか?」
この会話のあと、彼女は嫁から聞いたそうですが、息子は部屋の窓をあ
け、放心状態で外をぼんやり見ていて、嫁が声をかけてもしばらく気がつかな
かったそうです。そこで嫁が「何をしているの。早くご飯を食べて会社にいか
ないと」と強く言ったらやっと息子は我に返ったそうでした。その後もこうし
たことが何回もあったそうでその話を聞いて以来、彼女は心が安まる時がなか
ったそうです。
この番組をみて、私はいつのまにか自分をこの息子さんに置き換えてい
ました。まかり間違って、私の母も運が悪ければ「従軍慰安婦」にさせられて
いたかも知れません。もし、そうであったとしたら自分はこの息子さんのよう
な境地に置かれるわけです。その時、自分はその事実の重みにどう耐えるのだ
ろうか?
私が「従軍慰安婦」を考えるときの原点はここにあります。彼女たちの
筆舌に尽くしがたい虐げられた青春や苦しみは、私にとってはとても他人事と
は思えないのです。ましてや決して遠い昔のできごとなどではないのです。こ
うした感性が河原さんと決定的に違うのではないでしょうか。
河原さんは、#149で数人の「従軍慰安婦」を紹介し、その話の信憑
性に疑問を投げていました。確かに、彼女たちの話は50年も前のことなので
あいまいなところや記憶違いなどもかなりありましょう。しかし、50年前の
できごとに正確な証言を求めること自体どだい無理な話です。そうした細部の
信憑性はともかく、強姦や強制などといったショッキングな事件についての話
は疑う余地のないものと私は捉えています。
そうした証言は一人や二人ではなく数多くの証言、それも韓国・中国・
フィリッピンといった国境を越えた広がりを持っています。個々の証言は少し
難点があっても、足代さんの言葉を借りれば、それぞれが”灰色”であれば全
体は”黒”になってしまうのです(注)。
こうした事情を知った上で、日本政府は韓国で「従軍慰安婦」の聞き取
り調査を行いその総括として、慰安婦の募集や移送・管理などが、甘言・弾圧
によるなど「総じて本人たちの意志に反して行われた」と結論を出しました。
同じ手法はクマラスワミ報告書にも使われていると思います。
さらに、#149について一言コメントをつけ加えたいと思います。
>>まことに無惨な生涯で胸が痛みますが、同時にいくつもの疑問が浮かんで
>>きます。まず、当時内地と呼ばれていた日本本土にも慰安所があったのか
>>という点です。
軍の慰安所は日本にも確かにありました。その代表例は長野県「松代大
本営」のすぐ近くです。警察が強引に民家を慰安所にし、ここに朝鮮人慰安婦
を5、6人置きました。
この慰安所は復元できるような状態ですでに解体されました。現在、市
民団体「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会がこの歴史的建物の復元
をめざして募金活動をしています。すでに、移築用の土地も確保し1998年
完成をめざしています。
最後に、日韓両国政府の「ダブルスタンダード」について述べたいと思
います。日本政府の補償に対する二重基準については今まで書いてきたとおり
公式見解は矛盾しています。しかし、韓国政府については公式見解で見る限り、
矛盾した発言は今のところ見られません。この点だけ強調したいと思います。
(注)足代さんの意見(#588)に共感しましたので、この記事を私の
所属するメーリングリスト [aml]と[zainichi]に転載しました。
http://www.han.org/a/half-moon/
半月城
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。