半月城通信
No. 15

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 在日朝鮮人の国籍に対するGHQの処遇(1)
  2. 在日朝鮮人の国籍に対するGHQの処遇(2)
  3. 「従軍慰安婦」に対する感性
  4. クマラスワミ報告書(2)
  5. 松代大本営


MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/07/25 - 02653/02653 PFG00017 半月城 RE:在日朝鮮人の国籍に対するGHQの処遇 (10) 96/07/25 07:12 02645へのコメント #2645(КОЛЯさん) > 別のフォーラムで、戦後、いわゆる在日朝鮮人の国籍を朝鮮に戻したのはア >メリカの意向だったという発言を目にしまして、そういう事実を私が知らなか >ったものですから、私の無知がバレてしまったのですが、ほんとにそうかと思っ >てちょっと調べてみたのですが、今現在、その証拠を発見できないでいます。     GHQが在日朝鮮人の帰属をどのように考えてきたのかについて、私 は以前PCVANの会議室アリランに書いたことがあります。現在、アリラン は閉鎖されてしまい読めないので、そこから関係部分を抜粋します。本来ならば きちんとまとめ直すべきかも知れませんが、今はちょっとその時間的余裕がな いのでご了承下さい。 1945年8月15日、日本敗戦は朝鮮にとっては解放を意味した。G HQは45年11月、朝鮮人をできる限り「解放国民」として扱うことを言明 しました。しかし、このGHQの方針は一年後には大きく変わりました。    46年11月には一転して残留朝鮮人(50万人以上)は「日本国籍」 を持つと見解を表明した。そして「日本国籍」を持った「日本人」である以上、 当然日本の法律に従うべきであるとして、GHQは日本政府が朝鮮人取締りの 完全な権限を持つことを認めたのである。  (日本評論社、経済評論別冊、P132、内海愛子恵泉女子大教授著「日本 国家と在日朝鮮人」、1972)    これに対しては、朝鮮人の側からは猛烈な反発があったのは言うまでも ない。この時からサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)ま で在日朝鮮人の法的地位はすべて日本人と「平等」とされた。すなわち、食糧 配給、課税、事業活動、学校教育など、すべて「敵国人」である日本人と同じ となり、解放国民としての権利は少しも認められなかったのである。     祥司Sさん >「1946.11.12 GHQ見解 在日朝鮮人は「日本国籍を有する」と表明。」 >(このGHQ見解は日本国憲法が公布(施行は翌年5月3日)された9日後の >日付となっており、新憲法を踏まえた見解だと考えられますね。) >ということなのですが、これを受けた日本政府の対応はどうなっているので >しょうか。 GHQ見解は日本国憲法が公布された後に出されたので、在日朝鮮人 は日本人としての権利・義務を共に有するようになった、と考えがちですが、実 際の日本政府はそんな対応はもちろん取りません。それどころか日本政府の対応 は一見GHQの見解と矛盾するような政策をとります。その代表的な例が祥司S さんもとりあげている、天皇の勅令、「外国人登録令」(1947.5.2)です。その 中で、「朝鮮人は・・・当分の間これを外国人とみなす」とあるのはUPされた とおりです。      ここで、この勅令はGHQの見解に逆らっているように見えますが、 勅令自体GHQの意志と見るべきであると思います。なぜなら、当時はGHQの 意に反した法令など絶対に日本政府に作れるような時代ではなかったのです。そ もそも登録令自体、GHQの覚書「日本人以外の国民の入国および登録の件」 (1947.4.2)に基づき制定されたのです。その覚書でGHQは、「日本に入国を 許された外国人を登録し、身分証明書その他など、日本国内居住を合法化するの に必要な書類を交付する」ように指令したのです。 ここで注目すべきは、覚書の中の「入国を許された外国人」とは誰を指 しているのか、ということです。GHQ関係者はもちろんこれに該当しません。 また、外国政府の関係者や家族も対象外です(登録令2条)。そうすると残るの は旧植民地の中国・朝鮮出身の「日本人」しかいません。こうした「日本人」の 管理を主目的の一つに外国人登録令を制定したのです。当時は、こうした「日本 人」の再入国が問題になっていた時期でした。その背景を見てみます。     終戦直後、日本には約200万人の朝鮮人がいました。祖国が解放され 喜びに満ちて帰国をしたものの、祖国も混乱状態であり、また帰国時に持ち帰り 財産を制限されたこともあって、祖国で生活基盤を立てられなかった人の出戻り が相当数いました。尚、当時は朝鮮も日本も共に事実上アメリカの軍政下にあっ て、両国間の往来は自由でした。しかし、こうした出戻りを防ぐためにGHQは この往来を禁止してしまいます(1946.3.16)。すると当然密入国者が増えます。     こうした情勢に対処することも柱の一つにGHQは外国人登録令制定の 指令をだしたと思われます。    祥司Sさんの次の疑問に更に答えたいと思います。 >日本国憲法の「周知期間」に11.12GHQ見解が出されたわけで、それ >に対する(天皇及び)帝国政府の見解はどうかということが祥司Sの疑問で >あったわけです。 >半月城さんのMSGから推測すると、日本側の公式見解は発表されず、GH >Qとの水面下の交渉が行われ、その結果が「外国人登録令」であるというこ >とのようですね。    この時期のGHQと日本政府との交渉については、今では学者のホッ トな研究課題になっているようですが、これについて触れたいと思います。    まず、問題のGHQ見解の「日本国籍」ですが、これは条件付きで、 「・・・日本における朝鮮人は、正当に樹立された(彼らの)政府が、国民 として彼らを認めるような時期が来るまでは、日本の国籍を有するものとみ なされる」と、あります。この時点ではまだ韓国も朝鮮もまだ建国されてい ない時期でした。    さて、この見解の直後は、日本政府の態度にはこれといった変化は見ら れないようです。この理由は、GHQの見解が、そもそも朝鮮人に日本人と同 等な権利を認めさせるために出されたのではなく、朝鮮人取締の権限を日本 政府に与える口実として出された、という内海教授の見方からすると納得が いきます。事実、その直後、GHQは朝鮮人取締の権限を日本政府に与えて いるからです(1946.11.20)。    もし、この時GHQが、朝鮮人の権利を本気で日本人と同等に認めさ せようと考えていたのなら、それはその3カ月後の参議院選挙法で参政権を 認めるとか、何らかの形でそれは反映されていたはずですが、実際は参政権 は剥奪されたままですし、他にも肯定的なものは何一つありませんでした。 さて、朝鮮人取締の権限を日本に移した背景ですが、これには当時の 社会的背景が考えられます。その頃、朝鮮人は「解放国民」として、警察と しても一目置く存在であったようです。それにつけこんで中には解放感から か、あるいは過去の「恨み」をはらすためか、良からぬことをする連中もい たようです。そのため、朝鮮人取締を日本政府に任せる目的でくだんの見解 を出した、と思われます。    この頃になると、日本政府は「GHQとの水面下の交渉」ではっきり と朝鮮人抑圧の方針をとっています。これは、マッカーサーの憲法草案の中 の内外人平等の原則がどんどん後退していることからもうかがえます。    最初の草案では「外国人は法の平等な保護を受ける」と独立条項とし てありましたが、次の案では、独立条項が無くなり、「全ての自然人は、そ の日本国民であると否とを問わず、法律の下に平等にして、人種、信条、性 別・・・国籍により、政治上、経済上、または社会上の関係において差別せ らるることなし」となりました。しかし、ここではまだ最初の趣旨は生かさ れています。        それが、次に「日本国民であると否とを問わず」が消え、さらに「国 籍」が「門地」に変わり、最終的には「全ての自然人は」が「すべて国民は」 に後退し、外国人の平等保護、権利保障という重要のポイントは跡形もなく 消えてしまうのです。(田中 宏著、「在日外国人」、岩波新書、1991)    そして、GHQは日本政府と協調して抑圧の道を歩み、外国人登録令 へと進むのです。1947年4月2日にGHQは覚書をだしますが、そのタ イトルは、「日本人以外の国民の入国および登録の件」とあり、明らかに日 本人以外の国民、すなわち朝鮮人・台湾人を主な対象にしていると思います。 こうしてみると、日本政府の粘り腰に、GHQの「外国人の権利擁護」 などの理念までも押し切られてしまったように見えます。憲法は「押しつけ」 とよく言われますが、それほど単純ではなさそうです。憲法をあれこれ手直 ししている政治家・官僚の姿が瞼にちらちらします。 半月城


MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 02679/02679 PFG00017 半月城 RE:RE^2:在日朝鮮人の国籍に対するGHQ の (10) 96/07/28 23:07 02672へのコメント     КОЛЯさんに文献を紹介するのを忘れていました。外務省がGHQの 発表や指令を翻訳・編纂して、マル秘文書「日本占領及び管理重要文書集、朝 鮮人、台湾人、琉球人関係」を1950年にまとめました(注)。これがGH Qの動向を直接知る上で最適ではないかと思います。 次に1980の風# さんの質問、 >> 尚、当時は朝鮮も日本も共に事実上アメリカの軍政下にあって両 >>国間の往来は自由でした。しかし、こうした出戻りを防ぐためにGHQはこ >>の往来を禁止してしまいます(1946.3.16)。すると当然密入国者が増えます。 > >ですが、往来は双方向とも禁止されたのですか? 38度線の往来が制限され >たことと、時期を勘案して、関係があるのでしょうか。     日本から朝鮮への引き揚げは1947年8月まで引き続き行われまし たので、この時期に往来が双方向とも禁止されたわけではありません。 >   半月城さんは、どうしてGHQが日本政府に朝鮮人取締をさせようと >したのだとお考えですか。南朝鮮をも事実上の軍政下においていた同じ米軍が >直接「取締」をしてもよかったと思うんですが、それを敢えて日本国内では日 >本政府にやらせようとしたのは、少しは日本の顔を立てようとしたのか、もっ >と狡猾な狙いがあったのか、日本政府が要求したからなのか、 >というような疑問です。   これは単に国家体制の違いではないかと私は思います。当時、南朝鮮は 混乱状態でまだ政府が樹立されていないのに対し、日本は敗戦になっても帝国 議会や旧制度の内閣がそのまま継続され政府が一応の機能を果たしていました。    一方、アメリカも日本を民主主義国家にすることが建前なので「朝鮮人 取締」のように日本政府にやらせても問題がないものは日本政府にまかせる方 針だったのではないかと思います。    しかし、1948年4月の阪神教育事件のような重大事件になるとGH Qが直接乗りだし、非常事態宣言を出し軍事力で弾圧を加え死者まで出しまし た。また、1949年9月には在日本朝鮮人連盟(朝連)など民族3団体がG HQにより解散させられました。 > こうしたことを研究している方々のことをほとんど知らないので、どんなと >ころから勉強をしていったらいいかだけでも教えてくださいませんか。できれ >ば「ホット」な雰囲気にも触れてみたいと思います。    この時期の公文書が公開されましたのでいろいろな研究成果がでてきま した。たとえば、旧植民地出身者の選挙権が従来通り認めることが閣議決定さ れたにもかかわらず、二ヶ月もしないうちにそれが逆転してしまった謎が明ら かにされました。これについては FACTIVE MES5,#103に書きましたが、そこか ら一部引用します。       ーーーーーーー 引用 ーーーーーーーー 私も同感です。定住韓国・朝鮮人に対する国籍差別のヤマ場は戦後何回 かあったと思います。 なかでも、私は最初のターニングポイントを1945年 12月の衆議院選挙法に置いています。この法律の付則にある暫定措置はこれ まで旧植民地出身者の台湾、韓国・朝鮮人が持っていた参政権を停止するとい うものでした。この暫定措置を皮切りに参議院選挙はもちろん地方自治選挙な どでも定住韓国・朝鮮人を排除し、後日それが固定化されました。    この衆議院選挙法の2カ月前、10月の政府閣議では旧植民地出身者の参 政権を継続して認めることを正式決定していたのに、それを急に覆したのです からこの暫定措置は大変な方向転換です。この政策の突然の変更は今まで謎と され学者の研究テーマになっていました。つい最近、このいきさつが明るみに 出されました。    95年11月7日の共同通信ニュース速報によれば、京大人文科学研究 所の水野直樹助教授(朝鮮近代史)が国会図書館でこの経緯の関係資料を発掘 しました。    それによると、当時選挙制度の専門家とされた故清瀬一郎衆院議員名で 「(日本国籍を持つ旧植民地出身者に)参政権を与えれば天皇制廃絶を叫ぶ議 員が選出される恐れがある」と強い危機感を示す意見書がまとめられていたそ うです。 この意見書は「参政権を認めれば最少十人ぐらいの当選者を得るのは容 易」とした上で「わが国は従来、民族の分裂はなく民族単位の選挙を行ったこ とはない。思想問題と結合すれば、天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らく国籍を朝鮮 に有し、内地に住所を有する候補者であろう」と、天皇制が批判されるのを危 惧しています。 ここでも国体への参加資格問題と同様に天皇制が影響しています。天皇 の名の下に侵略戦争を行った日本の50年も昔の過ちが深く陰を落としていま す。旧植民地出身者にとって天皇は特別な存在でした。天皇の名の下に多くの 人が辛酸をなめさせられたのは画竜点睛さんもよくご存じのことと思います。 昨今話題の日韓併合が天皇の名の下になされたのはいうに及ばず、日帝時 代の韓国・朝鮮人は「天皇の赤子(せきし)」とされ「皇国臣民の誓い」を強 要されたり、日本語や日本人式の姓名を強制されるなど、民族文化を抹殺する 度の過ぎた 「皇民化」政策は怨嗟の的でした。 この政策の根幹を成す天皇は言 うまでもなく日帝の「象徴」であったので抗日運動家の標的になり、その一環 として李奉昌義士が1932年桜田門外で天皇暗殺計画を決行したのでした。 こうした旧植民地出身者が抱く天皇に対する特別な感情に恐れをなし、 先の清瀬議員の報告書が作成されたものと思われます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー    他に、最近の研究成果として、1980の風# さんが興味をお持ちの 「国民」の概念に関するものなどありますが、いずれ近いうちに書くことにし ます。  (注)戦後補償問題資料集(第9集)、解放帰国(引き揚げ)関係資料集     戦後補償問題研究会編(1994)、¥2000      TEL 03-3359-8831,FAX 03-3359-8832   http://www.han.org/a/half-moon/         半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/07/28 - 00595/00595 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」に対する感性 ( 7) 96/07/28 23:08 00590へのコメント 「従軍慰安婦」25 >>「定住韓国人」というのは、普通「在日韓国人」といわれているのと同じ >>意味なのでしょうか?  はい、大体同じ意味です。ただ、定住韓国人の方が意味が狭く法的な 「永住権」や「特別永住権」を取得している人が中心です。これに対し、在日 韓国人はその本来の字義のとおり広く商用などで滞在している韓国人など、旅 行者以外日本にいる韓国人を全部含みます。    私が「定住韓国人」という用語をあえて使う背景には、世界人権宣言第 1条を念頭に置いています。すなわち第1条で「すべて人間は、生まれながら 自由で、尊厳と権利について平等である。・・・」とありますが、定住韓国・ 朝鮮人は今ではほとんどが生まれながらにして日本に定住している人たちです。    さらにつけ加えるならば、この世界人権宣言の精神からすると個人の権 利に親の国籍で制限を設ける「血統主義」は問題であるという結論が出てきそ うです。これは日本だけを責めているわけではなく韓国やドイツなども同様で す。ただ、ドイツは出生地主義が最近考慮され始めているようですが。  >>半月城さんは韓国人としての“偏見”をおもちでしょうし、私は日本人と >>しての“偏見”のもとに発言しているからです。   このように「偏見」の一語で片づけてしまっては実もフタもないのでは ないでしょうか。私は、これは偏見というより「感性の違い」であると思いま す。その一例として、ある「従軍慰安婦」の話を取り上げたいと思います。    ある韓国の「従軍慰安婦」、名前を金順徳さんといいますが、この人の 話で強く印象に残る話がありました。彼女は自分自身を題材にした絵「あの時 あの場所で」などを描いた人です。彼女は「従軍慰安婦」問題が注目を浴びる ようになった時に名乗りでようかどうしようかとさんざん悩みました。親戚に 相談したらやめた方がいいと止められました。    しかし、彼女は日本政府の対応などをみて、あまりの悔しさについに決 心して名乗りでました。名乗りでた後は、その事実が自分の息子にいつ知られ るのかびくびくしながら暮らしていました。しかし、ついにその恐れが現実の ものになってしまいました。その時の息子との会話の思い出をNHKのTVで 語っていましたが、私にとってこの話はとても印象的で、おそらく生涯忘れる ことはできないものです。その内容を紹介します。 子「どうして今まで自分に隠していたんですか?」 母「自分の母親にも言えなかったのにおまえに話せるわけがないだろう。」 子「お母さんが自分の意志でやったことではないし、当時の韓国人は日本人に  奴隷のような扱いを受けたことは教育を受けた者なら誰でも知っています。  どうして打ち明けてくれなかったんですか?」 母「打ち明けたところでおまえはそれを許すことができたのかい?」 子「歴史は正す方がいいと私は教わりました。私がこのことを理解できないと  思ったのですか?」    この会話のあと、彼女は嫁から聞いたそうですが、息子は部屋の窓をあ け、放心状態で外をぼんやり見ていて、嫁が声をかけてもしばらく気がつかな かったそうです。そこで嫁が「何をしているの。早くご飯を食べて会社にいか ないと」と強く言ったらやっと息子は我に返ったそうでした。その後もこうし たことが何回もあったそうでその話を聞いて以来、彼女は心が安まる時がなか ったそうです。    この番組をみて、私はいつのまにか自分をこの息子さんに置き換えてい ました。まかり間違って、私の母も運が悪ければ「従軍慰安婦」にさせられて いたかも知れません。もし、そうであったとしたら自分はこの息子さんのよう な境地に置かれるわけです。その時、自分はその事実の重みにどう耐えるのだ ろうか? 私が「従軍慰安婦」を考えるときの原点はここにあります。彼女たちの 筆舌に尽くしがたい虐げられた青春や苦しみは、私にとってはとても他人事と は思えないのです。ましてや決して遠い昔のできごとなどではないのです。こ うした感性が河原さんと決定的に違うのではないでしょうか。    河原さんは、#149で数人の「従軍慰安婦」を紹介し、その話の信憑 性に疑問を投げていました。確かに、彼女たちの話は50年も前のことなので あいまいなところや記憶違いなどもかなりありましょう。しかし、50年前の できごとに正確な証言を求めること自体どだい無理な話です。そうした細部の 信憑性はともかく、強姦や強制などといったショッキングな事件についての話 は疑う余地のないものと私は捉えています。    そうした証言は一人や二人ではなく数多くの証言、それも韓国・中国・ フィリッピンといった国境を越えた広がりを持っています。個々の証言は少し 難点があっても、足代さんの言葉を借りれば、それぞれが”灰色”であれば全 体は”黒”になってしまうのです(注)。 こうした事情を知った上で、日本政府は韓国で「従軍慰安婦」の聞き取 り調査を行いその総括として、慰安婦の募集や移送・管理などが、甘言・弾圧 によるなど「総じて本人たちの意志に反して行われた」と結論を出しました。 同じ手法はクマラスワミ報告書にも使われていると思います。 さらに、#149について一言コメントをつけ加えたいと思います。  >>まことに無惨な生涯で胸が痛みますが、同時にいくつもの疑問が浮かんで  >>きます。まず、当時内地と呼ばれていた日本本土にも慰安所があったのか  >>という点です。    軍の慰安所は日本にも確かにありました。その代表例は長野県「松代大 本営」のすぐ近くです。警察が強引に民家を慰安所にし、ここに朝鮮人慰安婦 を5、6人置きました。 この慰安所は復元できるような状態ですでに解体されました。現在、市 民団体「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会がこの歴史的建物の復元 をめざして募金活動をしています。すでに、移築用の土地も確保し1998年 完成をめざしています。    最後に、日韓両国政府の「ダブルスタンダード」について述べたいと思 います。日本政府の補償に対する二重基準については今まで書いてきたとおり 公式見解は矛盾しています。しかし、韓国政府については公式見解で見る限り、 矛盾した発言は今のところ見られません。この点だけ強調したいと思います。 (注)足代さんの意見(#588)に共感しましたので、この記事を私の   所属するメーリングリスト [aml]と[zainichi]に転載しました。    http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/08/03 - 02709/02709 PFG00017 半月城 クマラスワミ報告書(2) (10) 96/08/03 19:49 02670へのコメント 「従軍慰安婦」26    クマラスワミ報告書に対するえーす寝台さんの意見は次のコメントに集 約されるように見受けられます。 >『日本国』は極悪非道な『犯罪者』なんでしょうけど、想像で造られた調書や >時効になってしまった事件、被害者のウソの証言で処罰されるべきではないで >すね。ですからこんなでたらめの報告から導かれた『勧告』などは到底受け入 >れられるものではありませんし、受け入れろと言っている人たちのほうがどう >かしています。また、別の事件で日本と同様の犯罪を犯した国(たとえば韓国) >の処罰が全くされていなことにも不満があります。    この主張の中でひとつ疑問があります。文中の「時効」とは具体的に何 の法を対象に考えているのでしょうか? 確か、国際法には「時効」はなかっ たと私は記憶しています。    次に、<被害者のウソの証言>とありますが、被害者すなわち「従軍慰 安婦」の証言をどう聞くのか、このあたりは重要なポイントですのでこれにつ いてふれたいと思います。 まず報告書では証言した「従軍慰安婦」に次のように最大限の敬意を表 しています。        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    その人生のうちでもっとも屈辱的で苦痛に満ちた日々を再び蘇らせる意 味をもつに違いないにもかかわらず、勇気をもって話し、証言を与えてくれた 全ての女性被害者にたいして、特別報告者ははじめに心からの感謝をささげた い。特別報告者は、非常な感情的緊張のもとにありながら自分の経験を話して くれた女性たちにあったことで、深く心を動かされた。        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   「従軍慰安婦」が証言をすることはどんなに大変なことかについてクマラ スワミ氏は深い理解を示しました。特に、儒教精神の強い韓国では証言するに は「相当な覚悟」が必要です。その一端を私は NIFTY FNETD (7) #595 に書き ました。    韓国では「従軍慰安婦」は数万人いたと推定されていますが、95年現 在で名乗り出ている人は南北合わせてわずか500人程度です。高齢で亡くな られた方を考慮してもインドネシアの6500人に比べ少ない数字です。数の 比較にどれほどの意味があるのかは別にして、この絶対数の少なさからもその 厳しい現実をうかがい知ることができると思います。    さて「従軍慰安婦」の証言ですが、これは50年以上も昔の話ですから、 これに100%完璧な証言を求めるのはどだい無理な話です。50年も歳月を 経れば、当然記憶違いや勘違いも起きるでしょうし、さらに悲惨な経験をした 人であれば、そのつらい過去の恨みつらみが自然と誇張されることは十分考え られます。    こうした事情を「R.クマラスワミ国連報告書」を翻訳した荒井信一氏は その序文でこう述べています。        ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 証言が50年以上の時間的距離を経た人間の記憶を通じての過去の再現 であること、しかも思い出したくない過去に起因する心の傷が現在でも証言者 の心を強く動かしていることなどを考えると、証言が過去そのままの再現とな ることは考えにくい。    それはすでに当初から心に受けた印象の強弱に従い、はっきりと焼き付 けられた部分もあれば、脱落したり曖昧になった部分もあったはずである。ま た長い記憶の歴史の中で混乱や混同を経験し変形されてもいよう。この変形、 一種のデフォルメは事実そのものを表していないが、しかしそれは現在に至る まで持続的に被害を受け続けてきた被害者たちの生(せい)の真実を、むしろ リアルに表現するものである。被害者たちの心に映じかつ残っているイメージ により、我々は、被害者をかって苦しめ現在までも苦しめている軍事的性奴隷 の真実に初めて接近できるのである。    問題が被害者たちの被害回復であるとすれば、やはり被害者たちの認識 を決定し、要求の基礎となっている彼女たちの心の真実から出発する以外にな いのである。    クマラスワミ氏が「当時一般的であった状況のイメージを作り上げるこ とが可能になった」と述べているのは、おそらくこのような意味であって、被 害者からの視点を重く見る姿勢がここにも示されているように思う。     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    こうした前提で多くの人は「従軍慰安婦」の証言を受け止めています。 日本政府も聞き取り調査で、韓国在住の「従軍慰安婦」の証言を自然体でまる ごと受け入れ、慰安婦の募集や移送・管理などが、甘言・弾圧によるなど「総 じて本人たちの意志に反して行われた」との結論を出しました。    しかし、「従軍慰安婦」の証言はそのままでは過去に起きた歴史的事実 を解明するにはもちろん不十分で、もちろんそれを他の資料と突き合わせて検 証する必要があります。たとえばえーす寝台さんが「従軍慰安婦」の証言で不 信を抱いている軍人と「従軍慰安婦」の割合なども、報告書では「従軍慰安婦」 の証言とは別に信頼すべき情報として第42節で次のようにとりあげています。    「特別報告者も例証として日本陸軍の広東駐屯第21軍の1939年4 月11ー21日の「旬報」に言及しておきたい。そこには軍の統制下で将兵の ための軍慰安所が操業しており、約1000人の「慰安婦」が同地内の10万 と推定される兵士を相手にしていると書かれている」    こうした資料を加味して、報告書では「慰安婦」は1日に10人から3 0人もの男を相手とすることを求められたとしています。一方、日本軍関係資 料でも「従軍慰安婦」は「酷使」されていたという記述などがあり、間接的に 報告書の信頼性を高めています。。    一方、えーす寝台さんが再三問題にしている「吉田氏」の著書ですが、 報告書のなかでは吉田氏の証言とともに千葉大学の秦教授が反論したことまで ていねいに書かれており、反対意見もかなり考慮していることがわかります。    クマラスワミ報告書は、吉見教授やえーす寝台さん(?)たち「完璧主 義者」からみると文中のささいな間違いが気になるのかも知れませんが、私に はそうした枝葉末節は気になりません。    報告書の評価はそうしたことで決まるのではなく、大局的な観点、軍の 性奴隷とされた「従軍慰安婦」の問題の本筋をよく捉えていることにその真価 があると思います。    こうした評価は私だけではなく、今や国際世論として定着した感があり ます。それは国連人権委員会での討議に如実に現れていると思います。委員会 での各国の反応は次のように報告書に対し日本以外は好意的でした。 オランダ「クマラスワミ氏の働きはすばらしく、質が高い」 中国  「報告書は戦時中の日本による『慰安婦』の犯罪行為を暴いた」 フィリッピン「『慰安婦』にされた国民がいる国として報告を注意深く読んだ。   被害者の利益を焦点に対話が続けられるべきである」 北朝鮮 「日本は未だに過去の犯罪を償おうとする意志を示していない。報告   書は日本に対し、自らが犯した罪の国家的法的責任を認めるよう明示して   いる」 韓国  「この報告書は、慰安婦の事例における女性と少女に対する誘拐と組   織的強姦が民間人に対する非人道的行為、また人道に対する罪を構成する   ことを明確にした。報告書はさらにサンフランシスコ平和条約を含む関連   諸条約の意図には、元慰安婦による個別の請求は含まれず、日本による戦   争遂行中の女性の人権侵害には関係ないとした。従って特別報告者の結論   は、サンフランシスコ平和条約および後続の二国間条約にもかかわらず    (日本政府は)法的責任を負ったままであるということである。     韓国政府は確信するものであるが、もし日本政府が前内閣官房長官が   表明したとおり、歴史的事実を避けることなく真剣に見つめ、歴史の教訓   として心にとどめると真に決意しているのなら、過去の侵略行為を法的に   認め、まずなすべきことは率直な形で当然果たすべき責任を取ることであ   る」    このように国際的に高い評価を受けているクマラスワミ報告書ですから、 日本政府はこの精神に沿うような対応を採るべきであると思います。特に、 「償い」に関しては「従軍慰安婦」たちの納得を得られるような解決方法を採 用すべきで、彼女たちの反発を買うような「償い」はかえってしないほうがま しです。    また「従軍慰安婦」にもし謝罪をするなら「心からの謝罪」をすべきで あり、心のこもらない謝罪は双方にしこりを残すので、むしろしない方がまし です。   http://www.han.org/a/half-moon/        半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 96/08/04 - 00615/00615 PFG00017 半月城 松代大本営 ( 7) 96/08/04 20:49 00602へのコメント 「従軍慰安婦」27    #602に対しいろいろコメントをつけたいところですが、時間的制約 もあり答えやすいところから少しずつ書きたいと思います。    私は「従軍慰安婦」については元来、FASIA MES(10) で発言してきまし た。そうした経緯から今でも「従軍慰安婦」の証言や、クマラスワミ報告に対 するコメントをそちらに次のように載せています。これはこちらに転載希望が あり次第転載します。 |- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/08/03 - |02709/02709 PFG00017 半月城 クマラスワミ報告書(2) さて本論に入ります。#602で河原さんは >たしか「松代大本営」というのは、戦争末期に東京が空襲で壊滅状態になっ >たとき、大本営の疎開先として設けられたいわば臨時のものであったと記憶 >しています。 と書かれましたが、今や松代大本営は広辞苑にも載るくらい有名になりました。 今回はとりあえずこれについて書きたいと思います。    まず最初に広辞苑、第4版(電子辞書)を引用します。   【松代大本営】松代にある大地下壕の通称。第二次大戦末期、大本営移転 のため極秘裡に造られたが、敗戦により工事中止。朝鮮人強制労働の一事例。 現在、ここは一部が公開されており、私も一昨年見学してきました。地 下壕は総延長13kmにも達する本格的なものです。信州の偉人「佐久間象山」 の号のもとになった象山(ぞうざん)山の地下をくり抜いて「大本営」を作り、 政府機関・NHKや天皇の御座所を移転し「本土決戦」に備えるつもりで作ら れました。    この地下壕の建設には約7千人の朝鮮人が動員または強制連行され、岩 盤をくり抜いて作られました。ここの岩盤は特に固く、現在では地震観測に最 適なため京都大学が地震研究所として一部使用しているくらいです。こうした 岩盤の堅さはとりも直さず朝鮮人労働者の重労働につながりました。    この工事に際し、陸軍は機密保持のために細心の注意を払いました。情 報管制はもちろん、近くの民家百余戸の立ち退きや、削り出した岩盤のカモフ ラージュなど徹底して行われました。    中でも、機密保持の極致は鎖につながれた朝鮮人の「強制労働」でした。 約2000人の朝鮮人労働者が奴隷さながらに、「天皇の御座所の地下壕に鎖 につないだまま閉じこめられ、終戦まで外に出られなかった」そうで、このう ち約500人以上が工事中に死亡したと推定されています。残りの人たちは終 戦後「暴動が起きてはいけない」との理由ですぐ帰国させたようでした(信濃 毎日新聞 1990.11.15)。    さて、この大本営の近くに「慰安所」が作られたのは前に書いたとおり です。  >日本軍は明治の創設期以来、師団本部のあるところには必ず遊郭をつくって、 >兵士たちの性欲発散の場所としてきました。したがって、慰安所があったと >すれば臨時の駐屯地に限られるのではないでしょうか。   この認識は私もそのとおりであると思います。しかし、松代の場合は 「駐屯所」と呼ばれるほどの軍事施設はなかったように思います。何しろ計画 自身が秘密ですから、軍はあまり表だって大々的に動かなかったようです。    実際に、工事は軍の直接監督でなく、民間の請け負い企業「鹿島組」と 「西松組」の監督下で進められました。一方、問題の慰安所ですが、これは直 接には地元の警察により設けられました。「お客」は工事の現場監督たちや少 数の軍人たちであったとされています。そのため規模も小さく、4ー5人の朝 鮮人慰安婦たちが置かれていたに過ぎませんでした。ここで彼女たちは半ば軟 禁状態におかれ、彼らの相手をさせられていたとのことでした(神戸新聞 199 0.3.20)。    最後に天皇の御座所に関するエピソードを紹介します。 昭和天皇の皇居の御座所は意外にも洋式とのことです。それを知らない陸軍は 松代の御座所を和風に作ってしまいました。日本の天皇が洋式のベッドを使う なんて陸軍でなくても想像はむずかしいですね。この発端は、明治時代の文明 開化あたりにあるのではないかと私は想像しています。 結局、陸軍はこの和室の作り直しをしませんでした。現在、この和室は そのまま地震研究所の宿直室として活用されています。 http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


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