半月城通信
No. 9

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 【古代史】百済村、宮崎県南郷村
  2. 【古代史】海を渡った縄文土器
  3. 【古代史】海を渡った縄文土器、日朝の交流
  4. 【古代史】前方後円墳の本家争い
  5. 【古代史】前方後円墳、高句麗式古墳
  6. 【古代史】天皇騎馬民族説
  7. 【古代史】天皇騎馬民族説と加羅
  8. 【古代史】騎馬民族の定義
  9. 【古代史】白髭神社は高句麗系?



01153/01153 PFG00017  半月城           RE:地方の日韓交流~宮崎県南郷村
(10)   96/05/04 20:37  01098へのコメント        百済村

   MUGIさん、 Morning Calmさん、こんにちは。
> 宮崎県の南郷村では,村に伝わる百済伝説を元にして,韓国の扶余(プヨ)
>と交流を続けてきましたが,この度村に日韓交流資料館「百済の館」と「西
>の正倉院」を開設することになりました。

   宮崎県の南郷村(なんごうそん)はたいへん不便な所だそうですね。そ
れでも謎に満ちたこの「百済の里」には私もぜひ行きたいと思っています。

   この百済の里には数々の謎があります。その謎の主なものは
1。百済の里は、ふつう大阪の枚方や、大津京のあった近江など飛鳥に近いと
ころにあるのが普通なのに、都から遠く離れた九州の僻地にあるのはなぜか?

2。今回「西の正倉院」を建てるきっかけになった、正倉院御物と同じ「唐花
六花鏡」がここにあるのはなぜか?

3。ここの里の精神的支柱である神門(みかど)神社の縁起によれば、祭神と
してあがめられている百済王族の禎嘉(ていか)王は反乱軍の追撃を逃れ安芸
の厳島を通ってここ日向に流れ着いたとされているが、これは史実か? もし
そうであるとしたら過去どんな戦いがあったのか?

    この謎に対し、作家の金達寿さんはNHKのTV番組、歴史発見(最終
回)「九州山地・謎の百済王伝説」で次のように推理していました。

   反乱軍の追撃とは「壬申の乱」の時の大海人(おおあま)皇子軍ではな
いだろうか。そもそも禎嘉王一族は百済が滅亡した時に日本に迎えられ天智天
皇を支えた有力者なので、壬申の乱の時には当然天智天皇遺志の大友皇子軍に
味方し、大海人皇子軍と戦ったと思われる。
      壬申の乱において、大海人皇子は伊勢・美濃を回り、この地方および尾
張の新羅系豪族を結集して強大になり朝廷の軍隊を打ち破り勝利した。その結
果、戦いに敗れた武人の禎嘉王父子は逆賊になり九州へ命からがら逃げた。
      その後、聖武天皇の世になって百済系渡来人は東大寺大仏の建立などの
国家事業に大活躍し相当な功績をあげた。たぶん禎嘉王はこのころ名誉回復を
し、勲章がわりに「唐花六花鏡」を授かった。

      番組のあらすじはこのようなものですが、この推理はなかなか説得力が
ありました。ま、説得力があるからこそNHKの歴史番組に取り上げられたの
でしょう。

   それにしても、大海人皇子は謎の多い人物です。即位して(天武)天皇
になるや、それまでの敵国であった新羅に遣新羅使を数年に一回の割で派遣し
ました。逆に新羅からは遣日使・送使を毎年のように迎え、倭・新羅蜜月時代
を築きました。それに反し、同じく敵であった唐とは国交を断絶しました。
   このようなドラスティックな新羅友好政策はどこから来たのか謎の多い
時期です。これは壬申の乱の時の行動と何か関連がありそうです。さらに謎と
言えば、このころの国名は「倭」なのか「日本」なのか、または両方存在した
のか疑問だらけです。こちらの方は、私はまだ説得力のある推理にお目にかか
っていません。
                                                  半月城


#2532/2532 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 3/ 3 14:51 ( 69) 【古代史】RE:2528 海を渡った縄文土器  半月城 ★内容 (か)さんが指摘されたように >もともと日本列島全域に縄文人という単一民族がいて、 >あとから渡来の弥生人が入ってきて、縄文人を駆逐 >していった。残ったのが蝦夷=アイヌだなぁぁんてね。 >そんなふうに思っている人がいるのではないんですか。 こんな見方を私もしていました。しかし、古代の研究成果が明らかになる につれ私の考え方も変わってきました。縄文人は日本列島に孤立して縄文文化 を築き上げたのではなく、東アジアとかなり交流があった事実が明らかにされ つつあります。その交流を可能にした舟が最近発見されましたので,まずはその あたりから紹介します。 外海用の舟ですが、縄文時代(前期)のものが長崎県大村湾の伊木力 (いきりき)遺跡からでています。見つかったのは残存部の長さが 6.5m の丸 木舟の底部です。この舟の出土により日本と朝鮮との交流がより確実になりま した。    そのあたりの事情を、佐賀県立名護屋城博物館(館長は西谷正元九州大 学教授)が出版したパンフレット「特別企画展、縄文のシンフォニー、交流の 原点探索」(1994年)から引用します。    <この舟の周囲からは外海の漁労具と関連の深い 2kgを越す石の重りが 出土していることから、この船は河川の移動用でなく外海を移動するのに使用 された舟であると考えられた。この舟の調査は、これまで断片的な資料からい われていた日本列島と朝鮮半島との海を越えた交流の存在を、さらに一歩確実 なものにした> ここで断片的な資料とありますが、このパンフレットでは縄文時代の交 流の痕跡を詳細に説明しています。それを紹介します。    まず土器からいうと、韓国の隆起文土器が対馬や佐賀の赤松海岸遺跡か ら、有耳壺型土器が佐賀の小川島貝塚から、また櫛目文土器の影響が佐賀の赤 松海岸遺跡から見つかっています。   一方、日本の轟式土器が慶尚南道の上老大島貝塚、煙台島貝塚から、坂 の下式土器が慶尚北道の新岩里遺跡から、北久根山式土器が釜山の東三洞貝塚 から、また中津式土器が上老大島貝塚から出ています。ただし、轟式土器は起 源は今のところ日本とされていますが、将来の発掘次第では日本でなくなる可 能性もあります。    一般に、縄文時代は弥生時代とは違って、朝鮮や中国の影響なしに独自 の文化をはぐくんできたと思われがちですが、土器にみるように朝鮮南部とは 密接な関係がありました。このことは石器をみるともっと明らかになります。    上老大島貝塚の石器は製作法や石器のセットや刃の付け方に至るまで日 本のものと似ています。また、慶尚南道の突山松島遺跡や煙台島からはなんと 佐賀県伊万里の黒曜石が発見されています。 石のやじりに関しても、長崎県のつぐめのはな遺跡と釜山の凡方貝塚か らそっくりのものが出ています。さらに銛も朝鮮南部と西北九州では驚くほど 似ています。これが骨角器を使った釣り針になると瓜二つのものが双方から出 土しています。さらに装身具や牙玉、貝輪の装着や伸展葬の風習に至るまで正 に同じ文化といっても過言ではないほどです。 こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝 鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを 裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が 発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。 日本と朝鮮との交流は、研究が進めば進むほど古くまでさかのぼってい ます。今のところ、それは6000年前までは確認されています。今後、韓国 で研究が進めばもっとさかのぼれそうです。何しろ韓国の考古学は始まったば かりで、1960年ころから本格化したと言われるくらい歴史が浅い学問です。    そのため、水田など今は見つからなくても将来は何が出てくるかわかり ません。日本にしかないと思われていた巴型銅器や銅鐸なども出てくるし、前 方後円墳にいたっては韓国に起源があるのではないかという説も発言力を増し てきました。今や、日本の古代や先史時代は韓国での研究を抜きには語れない 時代になりました。今後がますます楽しみです。      SPM07550(PCVAN)             半月城


#2550/2550 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 3/ 5 23:16 ( 36) 古代史】RE:海を渡った縄文土器 半月城 ★内容    縄文土器が中米でも見つかったというカーターさんの話は、私も先日の 古田昭和薬大教授(3月で退職?)の講演会で耳にしました。そのとき古田教 授は「私の話は眉につばをつけて聞いて下さい」とおっしゃってましたので、 私はそのとおりにしています。 一般論として、空想の世界ではいろいろな想像が可能性ですが、実際に その裏付けをとるとなると相当な研究が必要です。その良い例が、九州の曽畑 式土器と朝鮮の櫛目文土器との関連です。5000年前の曽畑式土器は、他の 縄文土器とは異質な点が多く特異な存在でした。特に、砲弾型の丸底の形や、 幾何学的な文様など韓国のソウル近くの岩寺洞(アムサドン)遺跡との関連が 指摘されました。    この考えを契機として、先史時代における日本列島と朝鮮半島との文化 交流を探索する歴史が始まりました。そして、両者の類似点はもちろん、相違 点も徹底的に研究されました。その結果、現在では曽畑式土器が朝鮮から伝わ ったとするのは無理があるとされています。    それでは曽畑式土器はどこから来たのか? 九州地方の土器の発展の系 列として、轟式土器 ー プロト曽畑 ー 中間土器群 ー 野口・阿多式土 器 ー 曽畑式土器という変遷が考えられました。しかし、こうした変化は内 部的発展では説明しきれない部分が逆に確認され、改めて朝鮮との関係が注目 されました。 これらの土器の多様な変化は、在地の轟式土器の上に朝鮮半島の土器イ メージを取り混ぜ、画一的な曽畑式土器を完成させたようです。この変化の裏 には、ある程度の人々の移動を伴った接触があったとされています。    しかし、曽畑式土器以降は土器で見る限り、九州と朝鮮との関係は遠の きます。それでも、このころから日本、朝鮮ともに土器に全体的に黒みがかか ってきます。これは土器をある程度密封した状態で焼いたためで、こうした技 法には明らかに類似点がみられます。    こうした技法や、縄文時代中期・後期の釣り針など道具などの共通性か ら、交流は人の人との移動というより、集団対集団との接触によるものとされ ています。こうした交流の中から、粟やヒエなどの穀物栽培が徐々に朝鮮から 伝わったと考えられます。それは、やがて稲作の伝播の序曲となったと、名護屋 城博物館のパンフレットは語っています。 SPM07550(PCVAN),PFG07550(NIFTY)     半月城


#2606/2606 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 3/17 12:22 ( 52) 古代】前方後円墳の本家争い(RE:2541) 半月城 ★内容    カーターさんが、#2541で朝鮮の前方後円墳について次のように書 いていましたのでこれについてコメントを書きたいと思います。 > 前方後円墳については、以前NHKのテレビで北朝鮮にその原型と言える >ような墓が発見されたという番組を見たことがあります。その時には、江上 >波夫氏が現場を見られて、騎馬民族征服説の論拠とされていたように思いま >す。 明治大学の大塚初重教授によれば、日本と韓国の考古学会でいま最大の 関心事は、韓国の前方後円墳問題です。前方後円墳は日本には3千基あり、こ れこそ日本独自の墳形であるというのが今までの日本考古学会の常識でした。  この先入観から、過去たまに朝鮮半島で前方後円墳が見つかっても、そ れは何かの間違いでないかと簡単にかたずけられ、あまり真剣に研究されませ んでした。しかし、今や韓国から前方後円墳がぞくぞく見つかり、その数は2 0基にものぼり、どんどん増えつつあります。    こうなると、もはや韓国の前方後円墳の存在そのものを疑う人はほとん どなく、今や問題の焦点は「前方後円墳の起源は日本か、韓国か」という点に 移りました。 韓国では前方後円墳を、楽器のチャングになぞらえ長鼓墳と呼んでいま すが、この起源が韓国にあるという説を打ち出したのは、韓国・嶺南大学の姜 仁求教授です。姜教授は1983年に発見した慶尚南道の松鶴1号墳を4世紀 のものであるとし、日本の研究者に大きな波紋を投じました。    それ以来、韓国では日本の興味を引く長鼓墳が次々に発見されました。 特に1993年、韓国西南にある光州市の月桂洞1、2号長鼓墳は横穴式石室 を有し、また盾形の周囲の堀から多数の円筒埴輪が出ました。    また、94年に同じ光州市の明花洞長鼓墳からは円筒埴輪の列が発見さ れました。埴輪列は10本が1列になって50cm間隔で出土しました。    これらの長鼓墳の年代はだいたい5世紀頃とされていますが、問題は昨 年発見された、光州市南西にある万家村の古墳群です。ここから3世紀の瓦質 土器が発見されました。もし、この長鼓墳が発見者の林教授の言うように土器 と同じ年代の3世紀であるとすると、前方後円墳では日本最古(?)の箸墓古 墳(290年頃)より古くなります。 林教授(全南大学)は「前方後円墳は3世紀に全羅南道の栄山江流域で 誕生した。その後、古墳を造った集団が日本に移住したため、前方後円墳は日 本で普及、発達したが、再び朝鮮の故郷に戻った子孫が、栄山江流域に新たな 前方後円墳を造ったのではないか」との解釈を公表しました。    これに対し、日本の学者の意見は慎重です。次に現地調査をした学者の 意見を紹介します。    大塚教授、「朝鮮半島に古い前方後円墳があってもおかしくないが、本 当に前方後円形かどうか。墳丘を全面的にきちんと調査してみないと判断でき ない」 「将来、3世紀の前方後円墳が確認されるかも知れないが、その時ま で日韓前方後円墳起源論はともに資料を蒐集する努力を傾けるべきである」    西谷正九州大学教授、「土器は相当古い形式であることは間違いなく、 3世紀代の古墳と見てよいのではないか。ただし墳丘は部分的な発掘なので、 若干の疑問が残る。早急に全面的な調査をする必要がある」 前方後円墳の起源論争はこれからがおもしろくなりそうです。 SPM07550 半月城


#2741/2741 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 4/26 0:17 ( 90) 古代史】前方後円墳、Re:#2630(長文)、高句麗式古墳  半月城 ★内容    カーターさん、忙しさは峠を越しましたか? > 前方後円墳については、以前NHKのテレビで北朝鮮にその原型と言える >ような墓が発見されたという番組を見たことがあります。その時には、江上 >波夫氏が現場を見られて、騎馬民族征服説の論拠とされていたように思いま >す。    江上さんを団長とする「高句麗会」のメンバーおよびNHKが北朝鮮を 調査したのは1992年10月のことです。場所は、中朝国境を流れる鴨緑江 河岸にある慈江道・雲坪里(ウンピョンリ)古墳群ですが、この時の報告がN HK出版から「騎馬民族の道はるか」と題して昨年出版されました。    この本の著者の森浩一氏(同志社大教授)によると、ここは古墳群とい うより郡集墳というべきであるそうですが、古墳の数は200以上にものぼり 積石塚の博物館と呼ぶにふさわしいそうです。時代的には紀元前後から6、7 世紀ころまで約700年間にわたって継続して古墳が築かれたようです。    問題の前方後円墳ですが、韓国の前方後円墳については一時懐疑的であ った森教授も、ここは間違いないと太鼓判を押していました。しかし日本との 関連については、これらが日本の前方後円墳の遠い源流になっているかどうか 即断できないと慎重でした。 調査団は前方後円墳の確認以外に思わぬ発見をしました。四隅突出形に 似た古墳を同地で見つけました。四隅突出形古墳は日本では出雲世界(周辺を 含む)に特有ですが、こうした古墳の意義と今回の発見との関連について森教 授は次のように書いています。    <(日本において)四隅突出形古墳の発見が戦後、重要な意味をもった のは、大和に古墳が造られる以前、つまり弥生時代に、前方後円墳とまったく 違うかたちの古墳が存在していたことがわかったからなのである。つまり、少 なくとも古墳について、大和朝廷の勢力の進展に伴って日本列島の各地に古墳 が造営されるようになったという、それまでの定説的な考え方の図式が、四隅 突出形の出現によって崩れたのである。そして、今回の雲坪里でみたように、 日本海沿海地域に限られていた四隅突出形古墳に類似する古墳が鴨緑江のほと りにもあったことで、より問題がふくらんだのである。しかも雲坪里には、前 方後円形と四隅突出形という、日本の古墳につながる二つの大きな要素が共存 している>    今まで起源が謎とされた四隅突出形古墳もどうやら今回の調査で光が見 えてきたようです。水野氏によれば、出雲はその後も高句麗などの騎馬文化を 取り入れ発展し、国際感覚を身につけた先進地域として古代史に重要な役割を 果たとしています。    たとえば、藤ノ木古墳から出土して脚光を浴びた金銅製の冠なども出雲、 越の国の豪族が最初に身につけたのが始まりで、大和ではそれより7、80年 遅れてみられるようになりました。それも、越の国から出た継体王朝の一天皇、 崇峻の時代であるとしています。この冠ひとつをとっても出雲世界の先進性は 明らかであるようです。    なお、こうした冠は外国の使節が来たときなどに正装としてかぶるもの ですが、これはいうまでもなく朝鮮半島伝来の文化です。    さて、継体王朝は越の大王が天皇として越の国から擁立されるところか ら始まるわけですが、このころの古墳から馬具が飛躍的に増えるのはよく知ら れた事実です。こうした変化について、森氏もやはり騎馬民族の渡来・移住に よるものであるとしています。さらに、同氏はその他の騎馬文化にも注目して います。    たとえば、金・銀の装身具が広がる時期や積石塚や葺石の施された古墳 などの時代的な広がりです。時代的にいうと騎馬民族が日本列島に影響を与え たのはある一時期だけではなく、長期間にわたって強弱の差はあっても騎馬民 の移住が続いたのではないかとしています。    こうした推論をもとに、「天皇騎馬民族説」について次のように語って います。    <(朝鮮半島からの)移住もただの移住でなく、日本の支配者、王朝の 交代を促すような大きな影響力をもったものだとすれば、それは江上氏のいう 東北アジアの広い意味での騎馬民族的な文化をもつ集団が、日本列島にやって 来て王朝交代を実行したという説と結びつく。実際に、日本各地の考古学的発 掘によって、騎馬民族文化の影響がきわめて大きいことが示されているのであ る。    江上氏は、日本に来た騎馬民族的な集団は扶余族であったと考えている。 もちろんそれも有力な候補にはなるが、これまで見てきた積石塚や乗馬の風習 などから考え、扶余族の別種(『魏志』東夷伝)と伝える高句麗も大きな候補 になるのではないか。それと騎馬民族があらわれる以前にも、東北アジアから の集団は何波にもなって日本列島に渡来していたのではないか> 森氏は王朝交代について、さらに推論をすすめ水野祐氏が主張する継体 天皇を新王朝の始祖とする見方に次のように理解を示しています。    <『扶桑略記』には継体天皇時代に司馬達等という渡来人が仏教を始め たとあって、新しい宗教も継体天皇から始まるとされている。わからないこと がまだ多いが、水野祐氏のいう新王朝の始祖と考えられる可能性は十分にある のである。その場合、新王朝の始祖を日本の中での出来事と考えるか、それと も東アジアの動向を強く受けた事件と考えるか。あるいは、むしろ継体天皇の 家柄に渡来系の血が入っているとみるのかなど、今後の大きな研究課題となる であろう。最近では、母方(三尾氏か)は渡来系またはその血が混じっている のではないかと考えている研究者もあらわれてきている> 森教授の考えは明らかに天皇騎馬民族説のバリエーションといえます。 それにしても、江上氏の騎馬民族説はその誕生以来多くの批判を受けてきまし たが、高松塚や藤の木など考古学的な発掘が進むに従い仮説のミッシングリン クが少しずつ埋まりすくすくと今でも育っているという印象を、江上・佐原著 の「騎馬民族は来た?来ない?」から受けました。 半月城


#2773/2773 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 5/ 3 17:58 ( 57) 古代史】天皇騎馬民族説、RE:2751>カーターさん   半月城 ★内容 カーターさんは広く海外とビジネスをされているようですね。すると自 然に視野は広くなるのでしょうね。    さて、「騎馬民族は来た?来ない?」という本ですが、私はこれを読ん で少しがっかりしました。この本を読む前に勝手に想像していたのですが、佐 原さんが江上さんの「天皇騎馬民族説」に噛みついて議論が沸騰するのではな いかと期待していたのでしたが、それがあまりなく残念でした。    議論の方向は、騎馬民族をめぐるよもやま話や、騎馬民族の風習が日本 に根付いたかどうかというような問題に重点がありました。その風習とはカー ターさんも書いていたように、馬の去勢や、血をすするかどうかといった話で す。  >征服民というのは征服した土地の風習になじむのが通常であり、  >いつまでも遊牧民の風習を保つものではありません。 私も、征服王朝が騎馬民族であったかどうかという問題に、このような 風習の議論はそれほど重要ではないと思います。    たとえば、百済がそのいい例です。百済は、ご存じのことと思いますが、 農耕民であった馬韓を騎馬民族である夫余族が統合、建国し征服王朝を開いた という筋書きがほぼ定説になっていますが、この時の論議に「馬の去勢」など の話を私は聞いたことがありません。また新羅にしても事情は似たようなもの です。    征服王朝の議論に、なぜ二人とも騎馬民族の風習にこんなにこだわるの か、ちょっと理解に苦しむところです。 さて、この本でちょっと目をひいたのは、「聖徳太子の祖国は朝鮮」と いう江上さんの発言です。聖徳太子が定めた冠衣12階の服装は、中国と張り 合って自分の祖国の朝鮮服を採用したとしています。さらに、天皇に限っては この朝鮮服をかなり後まで宮廷で着用していたのではないかと、高松塚の壁画 をもとに想像しています。こうした点ももちろん、天皇騎馬民族説を補強する ものです。    ところで意外だったのは、この本の中には征服者の天皇の名が出てこな かったことです。江上さんは今でも日本上陸の征服者を「崇神天皇」、東遷の 征服者を「応神天皇」と考えているのかどうか興味のあるところです。    一方、目新しいところでは国号の「倭と日本」の問題について次のよう にふれていました。その部分を引用します。    <中国では、天皇のことを倭国の天皇とは言わないで、「日本の天皇」、 倭の軍隊のことは「日本のイクサビト」と言ったらしい。「古事記」「日本書 紀」にもそのまま引いてあるわけです・・・(佐原氏、なるほどとうなずく)    日本国という国名は日本ができる前からあって、朝鮮半島と縁を切って 倭国だけの天皇になったときに、今度は倭国から日本天皇として推戴されたわ けで、百済や任那の人から見ると、倭国王ではなくずっと日本国王としてつづ いているととれるわけです> 「日本の天皇」の呼称がどこから出てきたのか出典は明らかにされてい ませんでしたが、こんな文献があったことは初めて知りました。    また江上さんは、聖徳太子が送った遣隋使のリアクションとして倭に来 た裴世清についてふれ、裴世清が行ったとされる「秦王国」は周防などではな く、飛鳥の都であると示唆していました。この秦王国はもちろん百済王系譜に つながる辰王朝が日本を征服した時の王国の名であったと解釈しているようで す。    こちらの方はどうも根拠が薄弱なようです。秦王国についてはここのボ ードに九州王朝説との関連で過去LOGがありそうな気がするのですが、それ に限らずご存じの方がおりましたら教えて下さい。 半月城


#2804/2804 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 5/11 9:59 ( 43) 古代史】天皇騎馬民族説と加羅、RE:2786       半月城 ★内容 カーターさん、そうですか、江上さんは崇神天皇と応神天皇に今ではそ れほど拘っていないのですか。一方、騎馬民族渡来の基点を弁辰にする基本的 な考えは変っていないようですね。当然といえば当然ですが。  >同じ時代に辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこ  >に居座り、任那加羅ー王家の土地の加羅の意ーと言われる新辰王朝を創め  >た。 辰王朝の問題は別にして、この江上さんの考えに似た説を韓国の学者も 唱えています。その一人、加羅の故地・金海市を実際に発掘した韓国、慶星大 学の申教授の見方を要約します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー    三世紀末、金海に突然、北方遊牧・騎馬民族的な文化が出現する。たと えば、騎馬用甲冑・くつわといった馬具類、長身の鉄鉾、陶質土器、人や馬の 殉葬、折り曲げた武器の副葬など、典型的な騎馬文化遺品が大成洞古墳から出 土した。    突然の変化はそれだけに止まらず、それまでの墳墓(木棺墓)を破壊し て新しい様式の木槨墓に変った。こうした変化はこの地域に騎馬民族、おそら く扶余族が押し寄せ、支配者が交代したのではないかと思われる。    その結果、国名が狗邪韓国(弁辰)から金官加耶(または単に加耶)に 変わったのではないだろうか。    ところが、五世紀になり高句麗の圧力が強まると、奇妙なことにこの金 官加耶から支配集団が突然いなくなってしまった。彼らはどこへ行ったのか? 倭へ行ったのか? ーーーーーーーーーーーーーーーーー これに対し申教授は「YES」と考えているふしがあります。もしそう であるとすると、これは「天皇騎馬民族説」と密接に関連してきます。しかし そこは学者、慎重に次のように語っていました。   「その当時日本では馬具とか定型化した甲冑とか、ほかは石器が同時に出 てきますね。今、私が非常に注目しているのは、石器は全部加耶地域と関係が あります。日本の古遺跡に出る初期石器は百済・新羅と関係なく、加耶地域と 関係があります。加耶地域でも地域差があります。でも、加耶の広い広い地域 からの石器が入ってます。それはどういう意味か。私はそれに非常に関心を持 っています。だから、日本との関係なら、これから私、もうちょっと考えまし て、論文の形などにして申し上げたいと思います」 (諏訪春雄編、「倭族と古代日本」雄山閣、1993)。    どうも肝心なところで肩すかしをくらった感じです。それにしても、倭 との関係で、鉄器とか馬具とかではなく、わざわざ石器に注目するというのは かなり独創的です。そこから何が飛び出すのか興味をそそられます。この論文 はもう既にでているのかも知れません。     半月城


#2824/2824 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 5/14 7:22 ( 23) 古代史】騎馬民族の定義、RE:2810,2818       半月城 ★内容    たしかに騎馬民族の定義はむずかしいですね。騎馬民族というとどうし ても遊牧民のイメージがありますが、江上さんに言わせると騎馬民族はそれだ けではなく、狩猟農耕民などいろいろなバリエーションがあるとしています。 たとえば次の例も騎馬民族としています。   「それ(騎馬民族)が南下して来て農耕化して、支配民族(征服王朝・・) になったときにはその土地の者にまかせてしまって、自分たちはポーッとして いばっているだけですから、何代か過ぎれば完全にそこの人間になってしまう。 そういうのが一つです」(騎馬民族は来た?来ない?より)    こうした定義は佐原さんのいうように融通無碍ですが、これにピッタリ なのが百済の王族です。この王族は完全に土着化しそこの人間になっても、最 後まで自分たちは夫余族であることに誇りを持っています。自分たちの姓を 「夫余」、最後の首都名も「夫余」と命名するほど徹底しています。    元来は遊牧民であっても、北夫余 ー 東夫余 ー 高句麗 ー 百済 と南下するにつれ遊牧民の面影はほとんどなくなってしまいます。それでも百 済王族を騎馬民族と呼ぶべきかどうか疑問です。    さらに進んで、仮に加羅や天皇騎馬民族説の倭まで征服王朝であったと して、これら征服者を騎馬民族と呼ぶのは果たして妥当でしょうか。江上さん は命名を間違えたような気がしてなりません。騎馬民族という命名で大きなイ ンパクトを与えた効果は相当なものですが、反面かなり損しているような気が してなりません。          半月城


#2796/2796 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 5/ 8 23:51 ( 59) 古代史】白髭神社は高句麗系? RE:2783      半月城 ★内容 西海さんの蘇民将来や高麗(こま)神社の訪問記を興味深く読みました。 その中で白髭神社についてコメントしたいと思います。この白髭神社は高句麗 系か、それとも新羅系かという問題は意外と奥が深く、専門家の研究テーマに なっていたようです。    埼玉県の高麗神社の祭神は、高句麗の若光王とされていますが、若光王 の前には新羅明神を祭っていた可能性があると、他ならぬ高麗神社自身考えて いるようです。これからすすんで、白髭神社は新羅明神であったとする専門家 の対談がありました。    対談は雑誌「日本の中の朝鮮文化」28号(1975.12)に掲載されています。 出席者は和歌森太郎東京教育大学教授(当時)、上田正昭京都大学教授、大塚 初重明治大学教授、高麗明津氏(高麗神社、第58代宮司)、金達寿氏(作家) ですが、そのさわりを長くなりますが紹介します。 ーーーーーーーーーーーーー  上田  神社側の伝承では、このまえ澄雄さん(高麗神社59代宮司)から お話を伺ったのですが、新羅明神を先に祭っていて、のちに若光を祭ったとい うような伝承もあるのですとおっしゃっておりましたが、そういう伝承もある のですか。  高麗  あるのでございますな。記録にもありますが、ただその記録はあま り古いものではありませんようです。  上田  そうですか。それは注目すべき伝承ではないかと思います。  和歌森  ぼくも若いころにその話を伺った。ぼくは「白髭明神考」なるも のを研究発表したことがあるのだけれども、白髭は新羅明神であると。日本で は白髭の古老に対する崇敬、神様ののりうつりという観念があるものだから、 白髭といって納得させてきたけれども、実体は新羅明神なのですよ。    さきほども言ったように関東一円そうなのだが、武蔵にしても高句麗ば かりではなくて、かなりの(朝鮮)三国の系統のものが分布していた。そうい うなかで新羅系のものが集団として、日本的な神を奉祭していたのが新羅明神 から白髭明神と変わったのだと思っていますがね。  金  実は、ぼくがこれまで悩んでいたのがそれなんです(笑い)。まず高 麗神社について言いますと、これはその分社が東京都と埼玉県で130ほどあ ります。それが、あるところでは白髭神社になり、大宮神社になり、広瀬神社 になりというふうになっているわけです。 ところが、ぼくは全国のあちこちを歩いてみますと、その白髭神社とい うのはいたるところにあります。なかでも有名なものに近江の比良明神の白髭 神社などがありますが、周囲の遺跡やその他の状況からみて、この比良や白髭 はどうしても「新羅」ではなければならないんですよ。    ・・・要するに高麗さんの高麗神社は、新羅系の白髭神社の上に、また 高句麗系のそれが重層した、かぶさったというわけですね。  上田  そういう面も考えられるでしょうね。例の多胡碑の場合でも新羅系 が強いし、実際に新羅人が武蔵国に若光以前以前に先行して存在したというこ とが、『日本書紀』の伝承などにもうかがわれます。持統天皇の元年や4年の 条に「新羅人を武蔵に」とありますが、そこへ若光がそのあとに住まっていく ということがありますから、澄雄さんからのお話を伺って考えうべき伝承では ないかと思いましたね。 若光がただちに祭神になるというよりは、すでにそこにはいわゆる新羅 明神系の祭りが何らかの形で行われていて、そこへ若光が入り、そしてあらた に子孫によって祭神化するというように考える方が自然ですね。 ーーーーーーーーーーーーーー    上の文は、金達寿著「日本の中の朝鮮文化7」講談社文庫から引用しま した。 半月城


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